カテゴリー「恋愛」の15件の記事

2022年9月 6日 (火)

これまでに観た映画より(309) ウォン・カーウァイ4K「花様年華」

2022年9月1日

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「花様年華」を観る。2000年の作品。脚本・監督・製作:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影:クリストファー・ドイル(杜可風)&リー・ピンピン。挿入曲「夢二のテーマ」の作曲は梅林茂(沢田研二主演、鈴木清順監督の映画「夢二」より)。出演:トニー・レオン、マギー・チャン、レベッカ・パン、ライ・チン、声の出演:ポーリン・スン&ロイ・チョン。全編に渡って広東語が用いられている。

1962年から1966年までの香港と、シンガポール、カンボジアのアンコールワットなどを舞台に繰り広げられる抑制の効いた官能的な作品である。私は、ロードショー時には目にしていないが、一昨年にアップリンク京都で上映されたものを観ている。その時に書いた感想、更にはそれ以前にDVDで観た時の感想も残って、新たに付け加えることはないかも知れないが、一応、書いておく。

1962年。新聞記者のチャウ・モーワン(トニー・レオン)は、借りようとしていた部屋を先に借りた人がいることを知る。社長秘書を務める既婚のスエン夫人(マギー・チャン)である。しかし、その隣の部屋も空いたというので、その部屋を確保するチャウ。二人は同じ日に引っ越すことになる。屋台に向かう途中で、二人はすれ違うようになり、惹かれていく。だが二人とも既婚者であり、「一線を越えない」ことを誓っていた。一方で、チャウの妻とスエンの夫が不倫関係になっていたが判明する(チャウの妻とスエンの夫は後ろ向きだったりするなどして顔は見えない)……。

シンガポールに渡ったチャウ。チャウはスエンに、「一緒に行ってくれないか」と、「2046」における木村拓哉のようなセリフを話す。

ちなみにチャウが宿泊して、スエン夫人と共に執筆の仕事をしている香港ホテルの部屋のナンバーは「2046」で、この時にすでに「2046」の構想が練られていたのだと思われる。

共に結婚していたが、チャウはシンガポールに渡る際に奥さんと別れたようであり、またスエン夫人が、シンガポールのチャウの部屋に勝手に上がり込む(ウォン・カーウァイ作品のトレードマークのように頻用される場面である)際に、手がクローズアップされるのだが、薬指に指輪がない。ということでシンガポールに来る前にスエン夫人は旦那と別れた可能性が高く、その際に情事があったのだと思われる(映像には何も映っていないがそう考えるのが適当である)。

こうした、本来なら明示することを隠すことで、匂い立つような色香が全編に渡って漂うことになった。けだし名作である。

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2022年7月21日 (木)

コンサートの記(789) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」 2022.7.17

2022年7月17日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。

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モーツァルトの「魔笛」やビゼーの「カルメン」と共に、音楽雑誌などの好きなオペラランキング1位争いの常連である「ラ・ボエーム」。パリを舞台に、芸術家に憧れる若者とお針子との悲恋を描いた作品である。それまでは芸術というと、例外は案外多いが上流階級が行うものであり、たしなみでもあったのだが、プッチーニの時代になると市民階級が台頭。芸術を楽しんだり、あるいは自分で芸術作品を生み出そうとする市民が現れる。たまたますぐに認められる人もいたが、大半は長い下積みを経験し、芽が出ないまま諦めたり、貧困の内に他界する者も多かった。そんな新しい「種族」であるボヘミアン(フランス語で「ボエーム」)は、人々の目を驚かし、あるいは唾棄され、あるいは憧れられる存在となっていった。

今回、演出・装置・衣装を手掛けるのは、1943年、イタリア・マルチェラータ生まれのダンテ・フェレッティ。多くの映画監督やオペラ演出家と仕事をしてきた巨匠である。フランコ・ゼフィレッリのオペラ映画で美術を手掛け、その後にピエル・パオロ・パゾリーニ作品5本に美術担当として参加。近年はマーティン・スコセッシ監督と多く仕事をこなしている。

フェレッティは、ボヘミアン達の住み処をアパルトマンの屋根裏部屋から、セーヌ川に浮かぶ船に変更。垂直の移動をなくすことで、パリの地上に近づける工夫を施している。個人的にはアパルトマンの屋根裏から見えるパリの光景が、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』で語られる最後のセリフ、「パリよ今度はお前が相手だ」に繋がるようで気に入っているのだが、船上で暮らすボヘミアン達というのはそれはそれで面白いように思う。ただ船上に住むとした場合、隣の部屋に人知れず住んでいるミミという女性のキャラクターは余り生きないように思う。今回のミミは、船のセットの前を歩いて後方に回り、船内の部屋のドアの向こうに立って人を呼ぶという設定になる。元々は火が消えたから分けて欲しいという設定なのだが、船の家までわざわざやって来て、火を分けて欲しいというのは変である。ミミはおそらく舞台上手側にある部屋に住んでいて、船の家まで来たと思われるのだが、その場合は、ロドルフォが男前なので、近づきたいがために無理な設定をでっち上げたということなのだろうか。他に理由があるのかも知れないが、思いつかない。


指揮はいうまでもなく佐渡裕。兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。ゲストコンサートマスターはステファノ・ヴァニヤレッリ(トリノ王立歌劇場管弦楽団コンサートマスター)、第2ヴァイオリントップはペーター・ヴェヒター(元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団首席)、チェロ客演首席はレリヤ・ルキッチ(トリノ王立歌劇場管弦楽団首席)。第2幕のカフェ・モミュスの場に現れる軍楽隊のメンバーの中に、元京都市交響楽団トランペット奏者の早坂宏明の名が見える。
プロデューサーは小栗哲家(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主役を張っている小栗旬の実父)。

ダブルキャストによる上演で、今回はヨーロッパの若手歌手を中心としたA組の出番である。出演は、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)、エヴァ・トラーチュ(ムゼッタ)、リッカルド・デッラ・シュッカ(ロドルフォ)、グスターボ・カスティーリョ(マルチェッロ)、パオロ・イングラショッタ(ショナール)、エウジェニオ・ディ・リエート(コッリーネ)、清原邦仁(パルピニョール)、ロッコ・カヴァッルッツイ(ベノア/アルチンドーロ)、島影聖人(物売り)、時宗努(軍曹)、下林一也(税官吏)。合唱は、ひょうごプロデュースオペラ合唱団、ひょうご「ボエーム」合唱団、ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団。
ひょうごプロデュースオペラ合唱団のメンバーには関西では比較的有名な若手歌手も含まれている。

第2幕のカフェ・モミュスの場では、ステージ上がかなり密になるということで、吉田友昭(医学博士/感染制御医)と浮村聡(医学博士/大阪医科薬科大学大学院感染対策室長)という二人の医学関係者が感染対策の監修を手掛けている。


舞台設定は大きく変えたが、演技面などに関してはいくつかの場面を除いてオーソドックスな手法が目立つ。セットではやはりカフェ・モミュスのテラス席と屋内を一瞬で転換させる技法が鮮やかである。

オーディションを勝ち抜いた若手歌手達の歌と演技も楽しめる水準にあり、特にムゼッタを演じたエヴァ・トラーチュのコケティッシュな演技と歌声が魅力的であった。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏も潤いと艶と勢いがあり、私が座った席の関係か、たまに鳴り過ぎに聞こえる場面があったが、生命力に満ちている。在籍期間が最長3年で、常に楽団員が入れ替わる育成型オーケストラであるため、他のプロオーケストラに比べると独自の個性は発揮出来ないが、一瞬一瞬の価値を大事にしたフレッシュな演奏が可能ともなっている。


第3幕の「ダダン!」という音による始まりと終わりについてであるが、個人的には、アンフェール関門(インフェルノ関門)という場所が舞台になっているため、地獄の扉が開く音として捉えている。第2幕であれほど生き生きしていたボエーム達とミミが、第3幕では、ミミの病気やロドルフォのミミに対するDV、マルチェッロとムゼッタの喧嘩などで、地獄への道へと落ちていくことになる。

立場はそれぞれ違えども、ステージにいる人、客席にいる人の多くが、ボエーム達の生活に憧れたか、実際にそういう暮らしを送った人達であり、己の姿を投影することの可能な作品である。

一方で、この時代は女性にとっては残酷であり、地方からパリに出てきてお針子になる女性が多かったが、パリの家賃や物価は高く、多くは仕事をしているだけでは生活出来ず、売春などで小金を稼ぐ必要があった。ムゼッタのように金持ちに囲われ、歌の教師などの職を得るものもあれば、ミミのように売春をしても暮らしは楽にならず、若くして命を散らすことも決して珍しくなかった。女性でも芸術方面で活躍している人もいるにはいたが、彼女達は基本的に上流階級の出身であり、そうでない多くの女性は芸術家(ボエーム)になることも許されず、地獄のような生活を送る人も少なくはなかった。

ミミというのは俗称で(売春をする女性は、ミミのように同じ音が続く俗称で呼ばれることが多かった。ムゼッタの俗称はルルである)本名はルチア。「Lux」に由来する「光」という名の名前である。この作品でもロドルフォの戯曲を燃やす暖炉の明かり、ミミが借りに来る「火」の灯り、カフェ・モミュスの輝き、第3幕での春の陽の光に抱く恐れや、最後の場面での日光に関するやり取りなど、「光」が重要な鍵となっている。

ロドルフォは最後までミミのことを本名のルチアで呼ばない。結婚相手とは考えられないのだ。本名で呼ぶような関係の夫婦となるのに多くの障壁がある。まず金銭面、身分の問題(ロドルフォは売れない詩人、ミミは売春も行うお針子)、そして価値観の違い。ミミはボエーム達のように芸術に関して深く理解する力はなかっただろう。ロドルフォはミミを愛しい人とは思っても結婚相手とは見ておらず、芸術上の同士とも考えていないため、「ルチア」とは呼ばないのである。すれ違いといえばすれ違いであるが、新しい階級を築きつつある一方で、旧弊から抜け出せない端境期(あるいは今も端境期のままなのかも知れないが)の「自由な」「わかり合えない」若者達の悲しさと愚かしさを描く、痛切な作品でもある。

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2022年7月19日 (火)

観劇感想精選(439) 「M.バタフライ」

2022年7月14日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「M.バタフライ」を観る。1988年にトニー賞を受賞した中国系アメリカ人の劇作家、デイヴィッド・ヘンリー・ファン(黄哲伦)の戯曲の上演である。実話を基にした話であり、ジョン・ローンが主演した映画でも話題になっている。テキスト日本語訳は吉田美枝。

出演は、内野聖陽、岡本圭人、朝海ひかる、占部房子、藤谷理子、三上市朗、みのすけ。
演出は、劇団チョコレートケーキの日澤雄介が手掛ける。

主な舞台は中国の首都・北京であり、一部でフランスの首都・パリが舞台となる。

文化大革命前夜とただ中の中国で、己を模索し続けたフランス人駐在員、ルネ・ガリマール(内野聖陽)と、彼が恋する京劇の女形、ソン・リリン(岡本圭人)の二人を主軸に物語は進んでいく。

まずはルネ・ガリマール役の内野聖陽が、今、パリの獄舎にいること、それには京劇の女優が深く関わっていること、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」が大好きであることなどを述べる。ルネ・ガリマール役はとにかくセリフが多い。いわゆるセリフの他に狂言回しの役を担ったり、解説係を務める場面もある。ソン・リリン役の岡本圭人も状況説明のセリフが多く、更に京劇のアクションもこなす必要があるなど、この二人の役はかなりの難役である。


鍵を握るのは、タイトルやルネ・ガリマールの最初のセリフからも分かるとおり、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」である。日本の長崎を舞台にしたオペラで、日本ではおそらく上演回数が最も多いオペラであり、私自身も最も多く目にしたオペラである。
日本を舞台にしているので馴染みやすいが、内容的には、いい加減な性格のアメリカ海軍将校のピンカートンが赴任先の長崎で現地妻を求め、丸山の蝶々さんに白羽の矢が立つが、ピンカートンはちょっと蝶々さんを愛しただけで「コマドリが巣を作る頃に戻る」などといい加減なことを言って、蝶々さんを捨ててアメリカに帰り、蝶々さんに息子が生まれたことを聞きつけると前からいた本妻と共に長崎を訪れ、自身と蝶々さんの子どもを奪おうとする。捨てられて恥をかかされた上に子どもまで奪われることを知った蝶々さんは生きる意味を失い、抗議の意味も込めて自刃する。
だいたいこんなあらすじであるが、「蝶々夫人」の、せめてあらすじを知らないと、何が起こっているのか把握するのが困難な舞台である。

更にこの時代を知りたいなら、「さらば我が愛、覇王別姫」や「ラスト・コーション」といった中国映画も観ておくとよりよいだろうが、純粋に舞台を楽しむだけなら、そこまでする必要はないかも知れない。


「蝶々夫人」も「M.バタフライ」も時間的隔たりはあるが、東洋人と西洋人――黄色人種と白人と置き換えてもいいが――更に男女間の差別があるのが当たり前の時代を舞台にしており、両者の間に広がる巨大な「断絶」を、「融合」へと変えることを試みた本と見ていいだろう。

1960年代初頭、北京に赴任しているフランス人外交官のルネ・ガリマールは、当地の劇場で、蝶々夫人を歌うソン・リリンと出会う。ソンは京劇の女優(というより女形である。京劇には以前は男性しか出演出来なかったが、今では女性役は女優が演じるのが主流になっている)なのだが、ソン(ガリマールは「バタフライ」という愛称で呼ぶ)に理想の女性像を見いだしたガリマールは、男女の駆け引きを用いてなかなか劇場に出向こうとしない。
ガリマールにはヘルガという名の妻(朝海ひかる)がいるが、ガリマールはソンのアパートへと頻繁に通うようになるのだった。


途中20分間の休憩を含めて上演時間約3時間半という長編であり(第1幕約1時間15分、休憩20分、第2幕約1時間50分)、それまでにちりばめられた細工や伏線のようなものが、ラスト15分ぐらいで一気に纏まるが、上演時間が長すぎる上に比較的淡々とした展開であるため、時間が経つのが遅く感じられる、ラスト15分の怒濤の展開で「観る価値あり」となるが、そこに至るまでの忍耐力が必要となる。だが耐えた先に爽快な視界が広がっている。


ガリマールがソンの正体が男(ついでの毛沢東が放ったスパイでもある)であることに気づいているかどうかが焦点の一つとなり、普通に考えれば気がつかないはずがないのだが、ここでガリマールの性意識の問題や「愛」に関する思想などが開陳される。
説得力があるかどうかで考えれば、「ない」と断じることになるなるだろうが、デヴィッド・ヘンリー・ファンの思い切った踏み込みには感心させられたりもする。歌劇「蝶々夫人」で提起された差別のあり方に対し、解決とまではいかないが、「人種や性別などは大した問題ではない」という一つの答えが出されている。


他の俳優も良かったが、この作品はなんといってもルネ・ガリマール役とソン・リリン役につきる。内野聖陽と岡本圭人の上手さと一種の熱さが際立っていた。

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2022年7月 8日 (金)

2346月日(38) 佛教大学オープンラーニングセンター(O.L.C.) 特別無料講座「七夕×和歌文学 ~31文字に想いを込めて~」

2022年7月7日 佛教大学15号館1階「妙響庵(みょうこうあん)」にて

午後5時から、佛教大学オープンラーニングセンター(O.L.C.)「七夕×和歌文学 ~31文字に想いを込めて~」を受講。無料講座である。担当は佛教大学文学部日本文学科教授の土佐朋子。専門は日本上代文学である。

先月、日本のポピュラー音楽を扱う講座に参加した際に貰ったチラシに今日の講演の宣伝が入っていたので出掛けてみる。個人的には大学の公開講座には大いに興味があるのだが、平日の昼間に行われることが多いので参加してはこなかった。ただ佛教大学のO.L.C.のラインナップは面白く、会場となる佛教大学15号館1階「妙響庵」の雰囲気も良く、行く価値は大いにあるように思われる。

五節句の一つである七夕。元々は中国の習慣で、針仕事をする女性が上達を願う祭(でいいのかな?)であったのだが、後に諸芸上達、特に芸術方面の能力発達を願う乞巧奠という儀式になり、日本へと入ってきた。七夕に和歌を取り上げるのは似つかわしいということになる。京都に唯一残った公家である下冷泉家は、七夕に和歌を詠む習慣がある。

「万葉集」に載せられた和歌が中心になるが、「万葉集」には和歌のみでなく、漢詩や漢文も載せられていて、まずは中国で書かれた七夕に関する漢詩が取り上げられる。ちなみに、中国の代名詞でもある「漢」は元々は「天の川」を意味する言葉であり、織姫=織女は、「河漢の女(天の川の女)」と表現されている。
ちなみに可漢(天の川)というのは、清流だが浅く、幅も狭いそうで、相手のことがよく見えるが手は届かない距離ということなのか、もどかしく思える設定を取っているようである。

実は、中国では織女から牽牛の方へ向かうのだが、日本では牽牛が船を漕いで織女の下へ向かうという設定に変わっている。日本では上代から中古に掛けては通い婚が一般的であり、向かうのは常に男の方だったので、牽牛と織女=彦星と織姫も男の方が会いに出掛けるのが当時の常識と照らし合わせても自然なことであったと思われる。
川幅が狭いのに船を使うのが不自然という指摘もあるようだが、多分、川幅が狭くてはドラマティックにならないので意識的にそうした情報は無視したのであろう。

「万葉集」に載っている七夕を題材にした和歌は約130首。かなり多い。
今回はその中から31首を採り上げて、設定や背景などが述べられている。

私も専門の一つが日本文学なのであるが、主に研究したのが近現代、それも作者が存命の作品に多く取り組んだので、上代の文学についてはいうほど詳しくはない。和歌を詠むこと自体は特技の一つなのであるが。

七夕には酒宴が催され、その席で歌われたと思われる和歌も多い。だが、七夕を詠んだ歌、約130首の内、作者が分かっているのは大伴家持だけで、他の作品は全て詠み人知らずとされている。

大友家持の歌は、彼が二十歳前後とかなり若い頃に詠んだ作品で、織女の船出と月を掛け合わせて詠んでいる。織女の方が出掛けるという唐土の習慣を家持は知っていたようである。
勿論、唐土の習慣を知っていたのは家持だけではなく、織女の方から牽牛の下へと出掛ける様を詠った和歌はいくつも存在している。

子どもの頃に受けたイメージで、男の方から女の方へ出向いたり、男と女が鵲の渡せる橋の真ん中で出会うような情景を思い描いていたが、女の方から男の下へと出向くという発想は、実は抱いたことがなかった。今の日本でも女の方から押し掛けるということは余りないため、イメージの埒外にあったのだと思われる。

ちなみに、織女はかなり豪奢な乗り物に乗り、華やかな衣装で出掛けていることが分かる。

上代にあっては、恋というのは、恋人同士が会ってなすことを指すのではなく、会えない時に相手を求める気持ちのことを表す言葉のようで、郷ひろみの「よろしく哀愁」的な発想がなされていたようである。

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2022年3月25日 (金)

BSプレミアム「アナザーストーリーズ」 村上春樹『ノルウェイの森』“世界のハルキはこうして生まれた”

2022年2月1日

NHKBSプレミアム「アナザーストーリーズ」。今回は村上春樹の代表作の一つである『ノルウェイの森』の誕生秘話が紹介される。
『ノルウェイの森』は、私が2度目に読んだ村上春樹の小説である。初めて読んだ村上春樹の小説は、長編第2作目である『1973年のピンボール』で、私の生まれた前年である1973年というタイトルに惹かれて購入した。中学1年の時である。実のところ、『1973年のピンボール』は、村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』の続編であり、『1973年のピンボール』だけを読んだのでは何のことかよく分からないのである。「不思議な小説」という印象だけ持った。

『ノルウェイの森』を初めて読んだのは、高校2年生の時。かなり辛く追い詰められた青春時代を送っていた私にとって、『ノルウェイの森』は福音のような役割を果たした。「このまま生きていていいんだ」とそれまでの人生を肯定された気になったことを今も忘れることはない。特別な小説である。

その後、明治大学文学部で日本史を専攻するはずだった私は、受験の壁に弾き飛ばされ、やむなく明治大学の夜間の文学部のみに設置されていた文芸学専攻に入学した。敬愛する詩人である田村隆一の直接の後輩になれた訳だが、やはり誰よりも得意だった歴史学を生かせないのは後々痛手になるのではないかと、心が震えるような日々を過ごしていた。3年生になった時、津田洋行教授が、ゼミで村上春樹作品を取り上げることを知る。ゼミに入れるかどうかは早い者勝ちであるため、私は受付当日に事務室の前に3時間前から並び(当然ながら一番乗り)、音楽之友社から発行されていた「世界の指揮者名鑑」を読みながら待ち続けて、参加券を得た。ゼミ自体では上手くいかないこともあったが、ゼミ最後の席でなかなか良い発言が出来たため、そのままの流れで津田先生の担当により村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を卒論に選ぶことになる。自身が書いた論文の文体が気に入らなかったが(論文の文体ではなく、フィクション作品を書く時のような文章であった)、高い評価はいただけた。

そんなこんなで村上春樹は私にとって特別な作家の一人となっている。余談だが、村上春樹を卒論で取り上げなかった場合は、中島敦論を書く予定であった。そのため1年生の頃からちくま文庫の『中島敦全集』を全て読むなど準備を進めてきたのだが、3年の時に方向転換することになる。

『ノルウェイの森』は、読んだことのない人には「お洒落な小説」と映っているようである。1987年に単行本が出た時の装丁が、上巻が赤地に緑の抜き字、下巻が緑に赤の抜き字で、「クリスマスみたい」と言われていたのを記憶している。ただ私にとって『ノルウェイの森』はお洒落でもなんでもない、痛切なサーヴァイブの小説であり、巨大な世界と対峙して敗れていく若者の姿を描いたシリアスな文学だった。東京と京都が舞台となっているというのも気に入った。東京と京都への憧れを持った少年だったから。

自分がどこにいるのか分からなくなるラストは、おそらくは夏目漱石の『それから』へのオマージュであると同時に、多くの若者が体験するであろう乖離のような感覚が叩きつけられるほど鮮烈に描かれていた。『ノルウェイの森』に描かれた風景は確かに私の中にあった。まだ大学にも入っていないのだが、その存在は現実よりもありありと私の眼前にあった。東京23区内の大学に進むことで、それを追体験してみたい気持ちもあった。

そして私は、ヴィルヘルム・バックハウスのピアノ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームスのピアノ協奏曲第2番のCD(ロンドン=DECCA)を買った。京都の花脊峠の向こうにあるという療養所での会話で紹介されている録音である。高校2年生の時の京都・奈良への修学旅行の帰りに、千葉そごう内にあったレコードショップで買って帰って聴いている。まだ演奏の良し悪しがさほど分からない頃だが(ただ感動だけはする)そうやってそれまでの自分とは決別した、新たな自覚を持って歩み始めた人生の後押しをしてくれたのが、『ノルウェイの森』だったような気がする。

トラン・アン・ユンが監督した映画「ノルウェイの森」を観たのは、折しも私が36歳の時。『ノルウェイの森』の冒頭で、語り手であるワタナベトオルが、今「36歳」であることを告げる場面がある。かなりの苦みを伴うシーンなのだが、ワタナベと同じ36歳で「ノルウェイの森」の映画と向き合える巡り合わせを喜んだ。

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2022年2月21日 (月)

観劇感想精選(427) 文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」@びわ湖ホール

2022年2月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」を観る。作:アントン・チェーホフ、台本・演出:松本修(MODE)。

滋賀県が、令和2年3月に作成した「滋賀県障害者文化芸術活動推進計画」に基づいて行われる、「障害のある人やない人、年齢のちがう人、話す言葉がちがう人など、さまざまな人が支えあうことで、だれもが自分らしく活躍できる滋賀県をつくる」ために発足した「文化芸術×共生社会プロジェクト」の一つとして行われる公演である。

出演者は、数人のプロフェッショナルや演技経験者を除き、オーディションで選ばれたキャストによって行われる。オーディションは、演技経験や障害の有無を問わずに行われ、約3ヶ月の稽古を経て本番を迎える。一つの役に複数の俳優(読み手)が扮し、幕ごとに役が交代となる。朗読劇であるが、座ったまま読むだけでなく、立ち上がって動きを付けたり、経験豊富な俳優は一般上演さながらの演技も行う。

出演は、花房勇人、吉田優、保井陽高、山下佐和子(以上、トレープレフ)、木下菜穂子(元俳優座)、齋藤佳津子、住田玲子(以上、アルカージナ)、廣田誠一、江嶋純吉、山口和也(以上、トリゴーリン)、平川美夏、高木帆乃花、服部千笑、西田聖(以上、ニーナ)、大辻凜、西山あずさ、飯田梨夏子、伊東瑛留(以上、マーシャ)、大田新子、梅下節瑠、横田明子、藤野夏子(以上、ポリーナ)、孫高宏(兵庫県立ピッコロ劇団)、小田実(以上、シャムラーエフ)、布浦真(ドールン)、清水亮輔、佐藤海斗(以上、メドヴェージェンコ)、HERO、森川稔(以上、ソーリン)。
ナレーター:孫高宏&清水洋子。ピアノ演奏:松園洋二。松園は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」などのロシア音楽を中心に演奏。第4幕のトレープレフが舞台裏でピアノを弾くという設定の場面では、ショパンの夜想曲第20番(遺作)を奏でた。

聴覚障害者のため、舞台下手側で手話通訳があり、背後のスクリーンにもセリフが字幕で浮かぶ。また視覚障害者のためには、点字によるパンフレットが配布された。

湖のほとりを舞台とした芝居であるチェーホフの「かもめ」。それに相応しい湖畔の劇場であるびわ湖ホール中ホールでの上演である。
また、スクリーンには、滋賀県内各地で撮られた琵琶湖の写真が投影され、雰囲気豊かである。

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新劇の王道作品の一つである「かもめ」であるが、接する機会は思いのほか少なく、論外である地点の公演を除けば、新国立劇場小劇場で観たマキノノゾミ演出の公演(北村有起哉のトレープレフ、田中美里のニーナ)、今はなきシアターBRAVA!で観た蜷川幸雄演出の公演(藤原竜也のトレープレフ、美波のニーナ)の2回だけ。マキノノゾミ演出版はそれなりに良かったが、蜷川幸雄演出版は主役の藤原竜也が文学青年にはどうしても見えないということもあり、あらすじをなぞっただけの公演となっていて、失敗であった。蜷川は文芸ものをかなり苦手としていたが、「かもめ」も省略が多いだけに、表現意欲が大き過ぎると空回りすることになる。

今回の「かもめ」であるが、演技経験を問わずに選ばれたキャストだけに、発声などの弱さはあったが(字幕があったためになんと言ったか分かったことが何度もあった)、きちんとテキストと向き合ったことで、セリフそのものが持つ良さがダイレクトに届きやすいという点はかなり評価されるべきだと思う。テキストそのものに力があるだけに、余計なことをしなければ、「かもめ」は「かもめ」らしい上演になる。第4幕などはかなり感動的である。涙が出たが、人前で泣くのは嫌いなので指で拭って誤魔化した。


「かもめ」は、「余計者」の系譜に入る作品である。主人公のコンスタンチン・トレープレフは、有名舞台女優のアルカージナの息子であり、教養も高く、天分にもそれなりに恵まれた青年であるが、これといってやることがなく、日々を無為に過ごしている。彼が湖畔の仮設舞台で、ニーナを出演者として上演した演劇作品は、生き物が全くいなくなった世界で、それまでの生物の魂が一つになるという、先端的な思想を取り入れたものであり、観念的であるが、注意深く内容を探ってみると、トレープレフ本人が他の多くの人間よりも優れているという自負を持って書いたものであることが分かる。トレープレフが凡人を見下したセリフは実際に第3幕で吐かれる。トレープレフは、恋人であるニーナも当然ながら見下している。大した才能もないのに女優を夢見る世間知らずのお嬢ちゃん。おそらくそう受け止めていただろう。

「かもめ」でよく指摘されるのが、片思いの連鎖である。トレープレフはニーナと恋人関係にあるが、ニーナはトレープレフよりも売れっ子作家であるトリゴーリンへと傾いていく。管理人であるシャムラーエフとポリーナの娘であるマーシャはトレープレフのことが好きだが、トレープレフはマーシャの行為を受け容れないどころか迷惑がっている。そんなマーシャを愛しているのが、目の前の事柄にしか注意が向かない、教師のメドヴェージェンコである。マーシャはトレープレフの芸術気質に惚れているので、当然ながら給料が足りないだの煙草代が必要だのとシミ垂れたことをいうメドヴェージェンコのことは好みではない。

通常は、「片思いの連鎖」という状況の理解だけで終わってしまう人が多いのだが、それが生み出すのは壮絶なまでの孤独である。分かって欲しい人、その人だけ分かってくれれば十分な人から、分かっては貰えないのである。
トレープレフは、女優である母親から自作を理解されず(トレープレフがエディプスコンプレックスの持ち主であることは、直接的には関係のない場面でさりげなく示唆される)、ニーナもトリゴーリンの下へと走る。ニーナはトリゴーリンと共にモスクワに出たはいいが、トリゴーリンは文学には関心があるものの演劇は見下しており、あっけなく捨てられる。マーシャは結局はメドヴェージェンコと結婚するのだが、その後もメドヴェージェンコを完全に受け容れてはおらず、トレープレフに未練がある。

そうした状況の中で、トレープレフは作家としてデビューすることになるのだが、評価は決して高くなく、中島敦の小説の主人公達のように「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」にさいなまれている。作家にはなったが成長出来ていない。相変わらず他人を見下しているが、その根拠がないことに自身でも気付いている。
そこにニーナがふらりと訪ねてくる。同じ町に宿泊していたのだが、会いたくてなんどもトレープレフの家に足を運んでいたのだ(かつて自身がトレープレフの台本で演じた仮説舞台で泣いていたのをメドヴェージェンコに見られていたが、メドヴェージェンコはそれを幽霊か何かだと勘違いしていた)。
一時、追っかけのようなことをしていたため、ニーナの演技力について知っていたトレープレフは、相変わらずの何も分からない女の子だと、ニーナのことを見なしていた。それは一種の、そして真の愛情でもある。少なくとも劇の始まりから終わりに至るまで、彼がニーナを愛していない時間などただの1秒もないのであるが、至らない女性であるニーナは自分の下に戻ってくると高をくくっていたかも知れない。
だが、目の前に現れたニーナは、精神的に追い詰められていたが、自立した女性へと変身していた。トレープレフはいつの間にか追い抜かれていたのである。そして自分より上になったニーナはもう自分のものにはならない。こうなると小説家になったのもなんのためだったのか分からなくなる。

ロシアの「余計者」文学の系譜、例えばプーシキンの『エフゲニー・オネーギン(私が読んだ岩波文庫版のタイトルは『オネーギン』)』などでもそうだが、当初は見下してた女性が、気がついたら手の届かない存在になっており、絶望するというパターンが何度も見られる。余計者であるが故の鬱屈とプライドの高さが生む悲惨な結末が、男女関係という形で現れるからだろうか。他の国の文学には余り見られないパターンであるため不思議に感じる(相手にしなかった男が出世しているという逆のパターンは良くあるのだが)。
ただ言えるのは、それが遠のいた青春の象徴であるということある。あらゆる夢が詰まっていた青春時代。多くの選択肢に溢れていたように「見えた」季節の終わりを、観る者に突きつける。その胸をえぐられるような感覚は、多くの人が感じてきたはずのことである。

庶民を主人公としたために初演が大失敗に終わった「かもめ」。だが、我々現代人は登場人物達の中に自身の姿を発見する。そうした劇であるだけに、「かもめ」は不滅の命を与えられているといえる。

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2021年9月13日 (月)

配信公演 古瀬まきを主演 プーランク オペラ「人間の声(声)」YouTube配信アーカイブ視聴

2021年9月2日

YouTubeで、古瀬まきを主演によるプーランクのオペラ「人間の声(声)」を視聴。8月9日に上演と同時配信とが行われた公演で、終演後1ヶ月はアーカイブとして映像を観ることが出来る。
プーランクのオペラ「人間の声」は、ジャン・コクトーのテキストを用いたモノオペラ(一人で演じるオペラ)である。

コクトーの一人芝居「声」は、青山のスパイラルホールで、鈴木京香の主演、三谷幸喜の演出で観たことがあるのだが、鈴木京香、三谷幸喜共に陽性で健康的な表現を得意とする人であるためか、痛切さはほとんど感じられなかった。鈴木京香が高校時代に陸上部だったということで、そうした要素も入れて笑いに変えていたが、この作品には笑いの要素は夾雑物でしかないように思われる。

オーケストラ伴奏によるプーランクの「声」は、「近江の春びわ湖クラシック音楽祭」2019において、石橋栄実の主演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏、中村敬一の演出によるものを、びわ湖ホール大ホールでハーフステージ形式で聴いており(石橋栄実は体調不良で降板した砂川涼子の代役)、追い込まれた女の孤独が浮かび上がる優れた出来であったのを覚えている。

今回の上演は、コロナ感染拡大に配慮し、入場者20名と数を抑えて行われる公演で、關口康佑によるピアノ伴奏版と、歌い手だけでなく演奏者も一人きりの版での上演である。
字幕は、昨年11月に他界した藤野明子による日本語訳詞が用いられている。

なお、古瀬まきをは、2019年に行ったプーランクのオペラ「人間の声」を中心としたソプラノリサイタルで、第40回音楽クリティック・クラブ賞奨励賞を受賞している。


ジャン・コクトーのテキストによる一人芝居「人間の声(声)」が初演された1930年時点では、一人芝居はそれほどポピュラーなジャンルではなかった。一人語り形式のものは勿論あったが、朗読されることの方が多く、「声」のように語りではなくセリフのみで行われる一人芝居はほとんど例がなかった。「声」は、ある女性(名前不明)がある男(こちらも名前不明)と電話で話している状態を描いた作品である。当時はまだ電話は高級品で、一般にはそれほど普及しておらず、今と違って交換手を通じて望む相手に繋いで貰う必要があり、また混線があるなど、必ずしも便利な道具という訳ではなかった。この作品でも、混線や偶然起こった傍受などは女を焦らせ、苛立たせる。また今のようにワイヤレスではなく、電話機に伸びる電話線も、受話器と電話本体を繋ぐコードも長く、これがラストへと繋がっていく。

電話という当時はまだ新しい装置が、声は近くにあるが体は遠いという、当時としては奇妙なパースペクティブとアンバランスを招いている。また、犬の存在が、間接的かつ絶対的な男女の分け隔てを象徴する。

コクトーの原作では、女が外国語を話すシーンがある(オペラ版ではカットされている)。コクトーは「出演している女優が最も得意とする外国語を話すこと」としているのみで、何語を話すのが適切なのか指示はしていない。いずれにせよ、この女性がフランス語圏以外の外国籍で、出身身分もそれほど高くなく、経済的手段も能力もなんら持ち合わせていないことが分かってくる。当時のフランスは今よりもかなり差別が酷く、外国籍である程度年齢がいった女性が職に就ける可能性はまずない。あったとしても洗濯婦など最底辺の肉体労働で身も心もすり減らしていくだけだ。
そんな女が、5年間囲われていた男に捨てられた。女は睡眠薬自殺を図るのだが、命は取り留める。男からの電話に、女は「睡眠薬は飲んだが1錠だけだ」と嘘をつく……。

電話の向こうの男の声は聞こえないので、観る側が想像する必要がある。そのため、自由度が高いと同時に、内容を把握するのは困難で、100%想像するのはほぼ不可能である。観る者、聴く者に許されるのは、おおよその状況把握のみである。
ただ、オペラ「人間の声(声)」はプーランクが作曲した音楽によって、その場の空気や心理状態はある程度規定される。そういう意味では原作の一人芝居版よりもモノオペラ版の方が入りやすいかも知れない。

女にはマルトという女友達がいて(マルトというのはジャン・コクトーの実姉と同じファーストネームだが、どの程度関係があるのか、あるいは無関係なのかは不明。たまに「モルト=死」(この単語は劇中に登場する)に聞こえてゾッとするが、フランス人は多分間違えないだろう)、男と女が暮らしていた家の執事の名はジョゼフという。女が自殺未遂を図った際には、マルトが駆けつけ、マルトが医師を呼んだために女は助かっている。だが今はマルトは家に帰り、女は一人である。電話の向こうで男は、「マルトの下に身を寄せてはどうか」と提案しているようだが、女はそんな身勝手な真似は出来ないと断る。

男と女の甘い思い出が語られる際には、プーランクの音楽もロマンティックなものへと傾く。「パリのモーツァルト」の異名を取ったプーランク。甘い旋律を書かせると天下一品である。

男が新しい女と旅行に出ようとしているのは確実で、男が家から電話しているというのも交換手によって嘘であることが分かる。そして男は、かつて女と暮らしていた時に女にしてくれたのと同じ事を新しい女としようとしている。思い出が上書きされる。忘れ去られる。

女にとっては、おそらくは生活が出来なくなるということよりも、男が他の女のものになるということの方が耐えられない事実なのだと思われる。電話コードを体に巻き付け、男の声を体で感じながらの死は(ただし、今回の演出では死は明示されない)、単なる自殺というよりも男の声に抱かれた「空想の上での情死」を女が選んだことを仄かに伝えている。

明るすぎても暗すぎても良くないという、高度な演技が要求されるオペラであるが、古瀬まきをは過不足のない演技で、地球の外に放り出されたかのような女の孤独を炙り出していた。

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2021年8月 8日 (日)

コンサートの記(735) 沼尻竜典オペラセレクション ビゼー作曲 歌劇「カルメン」@びわ湖ホール 2021.8.1

2021年8月1日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、ビゼーの歌劇「カルメン」を観る。沼尻竜典オペラセレクションとして、沼尻が芸術監督を務めるびわ湖ホールと、東京・初台の新国立劇場との提携オペラ公演として上演される。今日がびわ湖2日目にして楽日。公演全体としても大千穐楽を迎える。


指揮は沼尻竜典。演奏は日本のオーケストラとしては最もオペラ経験が豊かであると思われる東京フィルハーモニー交響楽団が担う。
ダブルキャストによる公演で、今日の出演は、山下牧子(カルメン。メゾソプラノ)、村上敏明(ドン・ホセ。テノール)、須藤慎吾(エスカミーリョ。バリトン)、石橋栄実(ミカエラ。ソプラノ)、大塚博章(スニガ。バス)、星野淳(モラレス。バリトン。両日とも出演)、成田博之(ダンカイロ。バリトン)、升島唯博(レメンダード。テノール)、平井香織(フラスキータ。ソプラノ)、但馬由香(メルセデス。メゾソプラノ)ほか。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団、大津児童合唱団。
演出は、アレックス・オリエ。舞台美術は、アルフォンス・フローレス。

先に新国立劇場オペラパレスで大野和士の指揮により上演されているが、舞台を現代のキャバレーやライブハウスに置き換えたアレックス・オリエの演出がかなりの不評であり、気にはなっていたが、自分の目で確かめないことには何ともいえない。

無料パンフレントに記載されたオリエの演出ノートを読むと、オリエがカルメンを27クラブ(27歳で他界したミュージシャン達を指す言葉。ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンなどなぜか数が多く、「27」は不吉な数字とされている)の一人であるエイミー・ワインハウスに重ねていることが分かる。エイミーは十代で成功を収めるも、酒とドラッグに溺れ、晩年は酔ったままステージに立って、まともな歌唱が行えないことで酷評を受けたりした(タモリがこの時のことを「笑っていいとも」で語っており、「名前がエイミー・ワインハウス」だからとネタにしていた)。その後に事故か自殺か分からない形でエイミーは他界している。

今日は4階席の中央通路より後ろで、出演者の顔などははっきりとは見えず、字幕の文字も小さめに感じられたが、音響的にはまずまずである。


沼尻はかなり速めのテンポを採用。迫力は増すが、特に合唱、重唱などでは歌手達がテンポに付いていけず、粗めになった場面が多かったことも否めない。

オーケストラピットで演奏する機会が多い東京フィルハーモニー交響楽団。ただ、びわ湖ホールでの演奏経験はそれほど多くなく、勝手が分からないためだと思われるが、第1幕などでは音が散り気味であった。

びわ湖ホール大ホールは、近年ワーグナー作品を立て続けに上演して、「日本のバイロイト」「オペラの殿堂」とも呼ばれるようになっているが、4面舞台を備えたオペラ対応劇場ではあるものの、基本的にはコンサートホール寄りの音響であるため残響も長く、今日も歌声で壁などがビリビリいう場面が何度もあった。兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールやロームシアター京都メインホールは、逆にオペラ寄りの音響であり、オーケストラ演奏よりも声楽に向いている。

アルフォンス・フローレスの美術は、鉄パイプを網の目に張り巡らせたセットを効果的に用いており、同じ風景がライトによって街頭、闘牛場の壁、牢獄などに変容していく。


舞台を現代に置き換えているということで、衣装なども現代風(衣装デザイン:リュック・カステーイス)。カルメンは煙草工場で働きながら密輸盗賊集団の一味として暗躍するというジプシー(ロマ)ではなく、ライブハウスなどで歌う人気歌手(ボヘミアン)で、よくあるように裏でマフィアとのパイプを持つという設定に変わっている。一方のドン・ホセは、捜査4課あるいは組対5課の私服刑事もしくは厚労省の麻薬取締官で、元の設定よりも公務員的印象が増している。
現代に置き換える必要性がどこまであったのかは疑問だが、私服刑事ということでドン・ホセがカルメンに抱く恨みが伝わりやすくなっているように思われる。
一方で、洗練され過ぎたことで、ドン・ホセがたやすくカルメンに籠絡される馬鹿男以外に見えなくなり、なぜそれほど簡単にカルメンに惚れるのかも納得しにくくなる。カルメンがドン・ホセの何が良いと思ったのかも同様に伝わりにくい。元々の歌劇「カルメン」にあった一種の土臭さが、こうした謎を中和していたのだが、舞台を現代に置き換えたことで理屈に合わないように見えてしまう。恋に落ちるのに理屈はいらないが、生涯未婚率が高くなった現代社会にはマッチしていない演出のように思われる。だがその他の本質の部分は変えていないため、全般的には満足のいく上演となっていた。


「面白いがなんか変」な場面はいくつもあり、カルメン登場の場面では、カルメンはステージの上でスタンドマイクに向かって「ハバネラ」を歌い、ビデオカメラで撮影された映像が背後のスクリーンに映る。これによってドン・ホセのカルメンに対する思いは、「歌姫への恋」となるのだが、これがその後の展開と余り結びつかない。

第3幕第2場では鉄パイプのセットが金色に照らされ、闘牛場らしく見えるセットの前に敷き詰められたレッドカーペットの上を出演者達が歩き、フラッシュがたかれる。映画祭の一場面のようになっているが、特になくてもいい演出のようにも思える。

ただ、この第3幕第2場での心理表現は優れている。カルメンのせいで公務員、しかも私服刑事という花形から追われる羽目になったドン・ホセは復讐のために現れてもいいのだが、実際はカルメンに復縁を迫る。カルメンはカルメンで、ホセから貰った指輪をはめたままである。本当に100%エスカミーリョに靡いたなら、ホセから貰った指輪を身につけたり所持していたりはしないはずで、カルメンも実はホセに未練があるのだと思われる。これは愛と葛藤の話なのである。演出によってはこれが上手く伝わってこなかったりするのだが、オリエはカルメンとホセの姿勢によって心情を観る者に悟らせる演出を施していた。奇抜なだけでなくきちんとした演出が出来る人であることもここで分かる。
闘牛場の中から聞こえてくる「闘牛士の歌」の合唱は、ビゼーが仕掛けたホセとカルメンの好対照な心理を暴き出す巧みな装置であるが、今回の演出は、合唱、ホセ、カルメンの演技の三つがはまって愚かしくも切ない人間ドラマが表れていた。かなり感動的である。ここさえしっかり描けていれば、現代に舞台を置き換えたことで発生したマイナスも気にする必要はないように思われる。人間が描けていればそれで良い。


歌手では、びわ湖ホールへの出演回数も多い石橋栄実が、繊細さと迫力を兼ね備えた歌声で魅せる。ミカエラのキャラクターもあるが、彼女はびわ湖ホール大ホールの音響を把握しているためか、迫力は出しても壁をビリビリ鳴らすことはなかった。

タイトルロールを務めた山下牧子も知情意のバランスの取れた歌唱で、カルメンを単なる「自由」に憧れる向こう見ずな女とはせず、「揺れ動く女性」として再現していて説得力がある。

女性陣に比べると、男性陣は歌声が大き過ぎたり、身振りが大仰だったりとマイナスも多いが、沼尻のテンポとの相性が悪かった可能性もある。


観る度に発見のある歌劇「カルメン」。やはり永遠の名作である。

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2020年12月17日 (木)

これまでに観た映画より(235) 蒼井優&高橋一生主演 黒沢清監督作品「スパイの妻〈劇場版〉」

2020年12月13日 出町座にて

出町座で日本映画「スパイの妻〈劇場版〉」を観る。黒沢清監督作品。脚本:濱口竜介、野原位(のはら・ただし)、黒沢清。出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理(ヒュンリ)、東出昌大、笹野高史ほか。第77回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞作である。

1940年から1945年までの神戸を舞台とした戦時スリラーである。なお、黒沢清は神戸出身であり、そもそも故郷である神戸を舞台に何か撮って欲しいとNHKから依頼を受けたのがこの作品が生まれるきっかけになったという。「スパイの妻」は、まずNHKBS8Kで放送され、その後に映画用の編集が施されて公開されている。

福原物産社長の福原優作(高橋一生)と妻の聡子(蒼井優)。日中戦争が泥沼化し、アメリカとの開戦も間近という時期であり、憲兵による締め付けも厳しくなり、優作の友人で、神戸生糸検査所のジョン・フィッツジェラルド・ドラモンドがスパイ容疑で逮捕される。神戸の憲兵隊には優作の友人である津森泰治(東出昌大)が赴任して来ていた。横浜からの転勤である。

神戸が舞台であるため登場人物の多くが関西の言葉を話すが、優作、聡子、優作の甥である竹下文雄(坂東龍汰)、泰治の4人は東京の言葉で通している。優作が聡子に、「泰治君は君に惚れてる。君を追ってきた」と語る場面があるため、優作も聡子も元々は関東の生まれ育ちで、仕事の関係で神戸に移ったらしいことが何となくわかる。おそらく横浜で貿易の仕事を始めたのだが、大陸相手の仕事であるため神戸の方が有利とみて本社を移したのだと思われる。泰治は基本的に体制側の人間であるが、優作と聡子そして文雄もだが、時代に呑み込まれていく周囲の人々から浮いて見えるよう、意図的に東京の言葉で通しているという設定にしたのだと思われる。東京や関東の人間は日本中のどこに行っても東京の言葉で通したがる。私も言葉は99%東京と同じ千葉県北西部出身の人間であるが、京都に住んではいても基本的に東京の言葉しか話さない。関西の言葉も喋ろうと思えば喋れないではないが、自分を偽っているように思えて嫌になる。知り合いにも関東出身者は多いが、東京や関東以外の言葉を話す人はいない。というわけで、関西に住んでいても東京の言葉を話す人は珍しくなく、観ていてもそれほど不自然とは感じない。ただ、やはり技法として用いているのだと思われる。高橋一生は東京都、東出昌大は埼玉県の出身だが、蒼井優は福岡県、坂東龍汰は北海道出身で、東京の言葉の方が演じやすいというわけでもない。

優作は映画好きで(溝口健二の新作映画について聡子に聞く場面がある)フィルムを撮ることを趣味としており、蒼井優演じる聡子の初登場も優作が撮影したフィルムに出てくる怪盗役としてである。

仕事で満州に渡った優作と文雄は、731部隊(石井部隊)の情報を掴む。軍部関係施設で看護婦をしていた草壁弘子(玄理)を通して手に入れた、マルタと呼ばれた人々を対象にした人体実験の記録が記されたノートと満州で撮影されたフィルムを持ち帰った二人。二人に協力した草壁弘子も共に神戸港に帰ってきていた。1940年の暮れ、文雄は福原物産を辞め、有馬温泉の旅館に籠もって小説を書くことを宣言する。だが実は文雄が行おうとしていたのは小説の執筆ではなく、731部隊が行っていた人体実験の記録の英訳であった。
文雄が泊まっていた有馬温泉の旅館「たちばな」で仲居として働いていた女性が水死体となって発見される。草壁弘子だった。

ちなみに草壁弘子演じる玄理のセリフは、ほぼ「あなたは本当に嘘がお上手」だけで、それも夢の中で語られるセリフいう設定なのだが、これが伏線の一つになっている。

若くして貿易商として成功している福原優作の怜悧さが光るドラマであるが、優作と聡子のシーンは長回しが多いのが特徴である。高橋一生も蒼井優もとんでもない実力を持った俳優だということが長回しを観ることでわかる。二人とも舞台の経験も豊富で長時間演じ続けることには慣れているはずだが、技巧面でも感情表出面でも完璧としかいいようのない演技を示しており、それを観るだけでも価値のある映画である。

技法としては、手前に人物がいて奥の別の部屋にもう一人の人物がいるという奥行きのあるアングルや、人物を真正面から捉えるという、最近の映画では余り見かけない構図も用いられている。
兵隊を捉える時のカメラワークも優れており、最初は兵隊達の行進前の訓練に優作が興味を示していないことがカメラの動きでわかるが、まもなく太平洋戦争開戦という頃になると相似形の構図で優作が兵隊と軍靴の足音を避けていることがわかるようになっている。その場面にいる優作以外の人物は兵隊達に向かって万歳を繰り返すなど、完全に時流に乗っている。

「敵を欺くにはまず味方から」という言葉があるが、全ては優作のシナリオ通りとなり、聡子に「お見事です!」と言わせることになる。
一方で、夫婦がずっと愛し合っていることは、優作が別れ際に聡子に語ったセリフと精神病院に入った聡子の様子、そしてラストの字幕でしか仄めかされないのだが、「確実にそう」だとわかるようになっている。語らないことで明らかにするという、黒沢清らしい手法でもある。戦時を描いた作品であるが、最も根底にあるのは愛だ。

個人的に好きなのは、外が見えないためどこを走っているのかわからない市電(ロマンスカー)に人物が乗っている場面である。私が初めて観た黒沢清監督の映画である「CURE」に役所広司とその妻役である中川安奈(2014年に死去)がどこに行くのかわからないバスに乗っているシーンがあるのだが、それを連想する。「CURE」の場合は妻が精神病院に入院することは観ている側もわかっているのだが、そのバス内のシーンだけ現実感がなく、アンバランスである。「スパイの妻」でもやはり先行きが見えない時代の象徴として、非現実感を伴って登場している。

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2020年12月 4日 (金)

これまでに観た映画より(231) 「滑走路」

2020年11月30日 新京極のMOVIX京都にて

MOVIX京都で、日本映画「滑走路」を観る。若手歌人として期待されながら、32歳で自ら命を絶った萩原慎一郎の処女作にして遺作となった同名歌集から着想を得たオリジナルストーリーである。

萩原慎一郎は、1984年、東京生まれ。中学受験をして入った私立の中高一貫有名進学校でいじめに遭い、高校はなんとか卒業するが、いじめの後遺症である精神障害に苦しみ、自宅療養と通院を続ける。17歳から短歌の創作を始め、のめり込むようになっていた。早稲田大学人間科学部の通信教育課程(eスクール)に入学し、精神の不調と闘いながら6年掛けて卒業。正社員として就職が出来るような体調ではなかったが、アルバイトから始め、契約社員(雑用が主であったという)として働くようになる。短歌会「りとむ」に参加し、雑誌などにも短歌の投稿を積極的に行うなど、創作欲は旺盛であり、いくつもの賞を受賞。短歌界の新星としてその名が知られるようになっていく。非正規労働者の哀しみを歌う第一歌集『滑走路』の出版が決まり、表紙の装丁なども自身で案を出したが、精神障害に打ち勝つことは出来ず、2017年6月17日に自死を選んだ。

今回の映画は、萩原慎一郎本人の悲劇的生涯や、歌集『滑走路』に歌われた内容とは違ったものになっている。近いものになることを避けたい人もいたのだろう。いじめ、精神障害、非正規労働、創作といった要素は別々の人物に割り振られることになった。

監督はこれが初監督作となる大庭功睦(おおば・のりちか)。脚本:桑村さや香。出演、水川あさみ、浅香航大、寄川歌太(よりかわ・うた)、木下渓、池田優斗、吉村界人、染谷将太(役名は「明智」である)、池内万作、水橋研二、坂井真紀ほか。影絵:河野里美、絵画制作:すぎやまたくや。

登場人物の今現在(2つの今現在が描かれており、両者は10年ほど離れている)と中学時代とが交互に描かれるのだが、登場人物の名前はなかなか明かされず(今現在では苗字のみが知らされるのに対し、中学時代は下の名前だけだったり、「学級委員長」という肩書きで呼ばれたりする)、中学時代の彼らの誰が今の誰に相当するのか伏せられたまま話は進んでいく。そのうちの一人は中学時代に受けたいじめのストレスが原因で高校受験も大学受験も失敗し、就職も単純作業の非正規社員で、25歳の時に橋から飛び降りて自殺している。彼の名は、厚生労働省の「非正規雇用が原因で自殺したとされる人々のリスト」の中に載っている。働き方改革で、非正規雇用の劣悪な労働環境が問題視される中、厚生労働省の若手官僚も上司からは詰められ、労働ユニオンからは早急な決定を求められるなどストレス満載の過酷な労働が続き、不眠症やPTSDに苦しめられていた。

もう一人の主人公を演じているのが水川あさみである。パート勤務をしながら切り絵作家として活動を続ける翠が彼女の今回の役である。切り絵作家としての実力が次第に認められつつある翠。夫の拓己(水橋研二)との関係も良好だが、今後の生活に不安を抱いてもいた。拓己は高校の美術教師であるが、プロの芸術家として活動を始めた妻に複雑な思いを抱いていたことが後に判明する。

中学時代と現在とがどう絡むのかを予想する面白さもあるのだが、残念ながら着地点は想像を下回ってしまったように思う。それぞれを丁寧に描いた結果、全体が浅くなってしまったということだ。

ただ俳優陣はとても魅力的である。このところ重要な役での映画出演が続く水川あさみが良いのは勿論だが、寄川歌太や木下渓といった十代の俳優達のフレッシュな演技が良く、いじめが絡んだ辛い青春ではあるのだが、砂糖をたっぷり入れたコーヒーのような甘苦さ(千葉県人なので「マックスコーヒーの味わい」と書きたくなるが、おそらく千葉県人と茨城県人にしか伝わらないので止めておく)を観る者に届けてくれる。実は、歌集『滑走路』にも恋する人の存在は歌われており、好きな人がいるという喜びが生きる力となることが歌集でも映画でも描かれている。

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