カテゴリー「文化・芸術」の191件の記事

2021年1月22日 (金)

コンサートの記(686) ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサート

2021年1月17日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサートを聴く。出演者側というよりも入場者側の問題だったのか(午後2時を過ぎてから客席に入ってくるお客さんが結構いた)、開演は15分以上押した。

先週の「雅楽――現代舞踊との出会い」とのセット券(S席のみ)も発売されていたが、先週の同じ時間帯に京都市交響楽団は京都コンサートホールでニューイヤーコンサートを行っていたため、京響のファンはニューイヤーコンサートを優先させる人が多かったはずで、多分、それほど売れなかったと思われる。それでもヘアスタイルからバレエをやっているとわかる女の子達が集団で訪れるなど、バラエティに富んだ聴衆が集っているのが見て取れる。

今日の公演はタイトル通り、京都市交響楽団と演出家・映画監督で京都市立芸術大学美術科教授でもある石橋義正のコラボレーションである。

指揮者は園田隆一郎。オーケストラが舞台の後部に控える配置である上に、照明がそれほど明るくないのでハッキリとは見えなかったが、コンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーは尾﨑平であると思われる。管楽器のソロが重要になる曲目が多いということで、フルート首席の上野博昭、クラリネット首席の小谷口直子も全編出演する。

その曲目は、ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ボレロ」、ラヴェルの歌曲集「シェエラザード」(ソプラノ独唱:森谷真理)、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。
私の世代だと、これらの楽曲はシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のCDで初めて聴いたケースが多いと思われる。私の場合も、「ボレロ」だけはアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団盤が初めて聴いた演奏だが、それ以外はデュトワ指揮モントリオール響のCDで初めて耳にしている。丁度、私の十代から二十代初頭に掛けてデュトワとモントリオール響はこれらの曲を録音して次々にリリースしていた。

パフォーマンスの出演は、「花火」が花園大学男子新体操部。「牧神の午後への前奏曲」と「火の鳥」が、茉莉花(まりか。コントーション)、池ヶ谷奏(いけがや・かな)、薄田真美子(うすだ・まみこ)、斉藤綾子、高瀬瑶子、中津文花(なかつ・あやか)、松岡希美(以上、ダンス)。「ボレロ」がアオイヤマダとチュートリアルの徳井義実。
振付は藤井泉が行う。ビジュアルデザインは江村耕市。衣装は川上須賀代。特殊メイクはJIRO(自由廊)。

石橋の演出は全般的に「生命の輝き」を軸としたものである。

 

張り出し舞台にしての公演。「火の鳥」はオーケストラピットの上に板を置いてコントーション(体の柔らかさなども生かした曲芸的なダンス)の茉莉花が舞台前方で踊る場面が続いたのだが、張り出し舞台の前方で踊るとやはりよく見えない(今日は私は3階席にいた)。

オペラやバレエでタクトを執ることも多い園田隆一郎だが、今日は舞台後方での演奏であり、ダンスを確認しながらの指揮ではない。音楽にパフォーマーが合わせる形になるが、その場合はインテンポでの演奏を行えた方が良い。園田はそうした職人芸も持ち合わせているため、演奏自体もかなり高度なものになる。それにしても京都市交響楽団も随分上手くなった。私が京都に移り住んだ2002年にはまだ不器用なオーケストラというイメージだったが、今や別次元である。音の輝き、響きの力強さ、精度、いずれも日本を代表するレベルで、文化都市・京都の顔にこれほど相応しい団体は他にない。

 

ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」。今年はストラヴィンスキーの没後50年ということで彼の作品が2曲入っているが、ストラヴィンスキーもバレエ音楽を書いて活躍したのはパリ時代であり、ドビュッシーもラヴェルもパリを拠点とした作曲家ということで、京都市の姉妹都市パリにも焦点が当てられた曲目である。

オリンピックでも日本が比較的健闘している新体操であるが、男子の新体操となるとまだ珍しい。花園大学新体操部は1998年に創部。2020年11月に開催された第73回全日本新体操選手権大会では団体競技の部3位に入賞している。
オリンピックでは「フェアリージャパン」と称され、可憐な舞が中心となる新体操だが、男子の新体操は女子とは別のアクロバティックなものである。男子のシンクロナイズドスイミングを描いた矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」という映画は有名だと思われるが、女子と男子とでは別物という点が共通しており、「ウォーターボーイズ」(テレビドラマ版でも良い)を観たことのある人は男子新体操を思い浮かべやすいと思われる。タンブリングを主体としたダイナミックなもので、銀色のボディスーツにカラフルな照明が映えて、花火と肉体の生命力が存分に表される。

ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。出演者達は「花火」の時には指揮台のすぐそばで目立たないように立っていた。
石橋義正のノートによると、「生殖」をイメージしたものであるが、出演者は女性のみであり、将来、人間は有性生殖をしなくなるという仮定の下、細胞分裂による進化を描いたものだという。「牧神の午後への前奏曲」は、マラルメの詩を元にしているが、牧神がニンフ達を追い回すということで、エロティックな振付が行われることもある。今回もそれらしい動きはあるが、女性ダンサー同士なので、それほど性的な意味に固執しない方がいいだろう。ダンサー達は腕と脚をゴムのようなもので繋いで踊る。具体的に何を意味するのかはわからないが、細胞膜、染色体、DNA(螺旋ではないが)といったものと捉えるとわかりやすい。これらは生命体である証であり、ウイルスはこうしたものを持たない。
ラストで紗幕が降り、ピンク色の光が溢れ出る様が投影される。

ラヴェルの「ボレロ」。紗幕に今度は原色系の帯のようなものが投影され、左右に動く。ジャン=リュック・ゴダール監督の映画の冒頭に出てきそうな映像である。
やがて赤いドレスを着た女性の影が浮かぶ。紗幕が上に上がると、その赤いドレスを着た女性(アオイヤマダ)が踊る。やがて女性は舞台中央にしつらえられたチェアに腰掛ける。上手から男性(徳井義実)が登場し、女性の顔に色々と施しをする。どうもメイクアップアーティストのようだ。こういうような設定の場合は、大体、女性がえらい目に遭うのだが、JIROの特殊メイクにより、徳井がドライヤーを掛けると女性の顔が崩れて血が流れ始める。「ボレロ」自体がラストの突然の転調で聴き手を驚かせる内容であり、演出も音楽に沿ったものである。曲とパフォーマンスが終わると同時に、オーケストラが乗った少し高いステージの部分に「intermission」の文字が投影される。
無申告事件の後、テレビにはほとんど出られなくなった徳井義実であるが、昨年のよしもと祇園花月再始動の際にはオープニングを飾るなど、舞台では活動を拡げつつある。なぜ漫才が本業の徳井義実がパフォーマーに選ばれたのかはよくわからないが、京都市出身で花園大学OB(中退ではあるが。ちなみに「花園大学は同志社大学より格上」だと言い張って、相方の福田充徳に突っ込まれまくるというネタを持っている)いうこともあるのかも知れない。舞台慣れしているだけに洗練された身のこなしで、他の出演者達に劣らない存在感を示していた。

 

後半。まずはラヴェルの歌曲「シェエラザード」。
独唱の森谷真理は、人気上昇中のソプラノ歌手。栃木県小山市出身で小山評定ふるさと大使と、とちぎみらい大使でもある。二期会会員。「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」で国歌独唱を務めている。
紅白歌合戦の小林幸子のような巨大衣装で歌う。頭頂部に泉の噴水のようなオブジェが付いており、演出ノートによると「生命の起源をイメージする海洋生物」ということで鯨の祖先を模しているのかも知れないが、むしろ湧き出る泉のような生命力を表しているようにも見える。
森谷真理の歌声はびわ湖ホール大ホールでも聴いたことがあるが、ロームシアター京都メインホールは空間自体がそれほど大きくないということもあり、臨場感抜群の歌唱となった。私が行ったことのあるホールの中では、ここが一番声楽に適した音響を持っているように思われる。響き過ぎないのが良い。
巨大衣装ということで一人では退場出来ないため、歌唱終了後はスタッフが登場して4人がかりで移動。去り際に森谷真理は客席に向かって手を振る。

ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。ストーリー的には「牧神の午後への前奏曲」の続編としているそうだが、火の鳥は「復活の象徴」としてフェニックス=不死鳥になぞらえられている。舞台上方にはハートや蟹にも見えるオブジェが赤く輝いており、ノートには「火の鳥の卵のようなもの」と記されているが、向かい合った不死鳥を表しているようにも見える。
音楽自体が「牧神の午後への前奏曲」とは違ってダイナミックであるため、生命の躍動がダイレクトに伝わってきた。ノートにも「リアルな生の体験」と書かれているが、臨場感や波打つような生命力は劇場でないと十分に味わえないものであり、コロナ禍を乗り越えて不死鳥のように復活するという人類への希望と賛美もまた伝わってきた。

Dsc_0692

| | | コメント (0)

2021年1月19日 (火)

R.I.P. 大城美佐子 「十九の春」(映画『ナビィの恋』より)

| | | コメント (0)

2021年1月18日 (月)

観劇感想精選(379) 蜷川幸雄演出 唐沢寿明主演「コリオレイナス」

2007年2月14日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。シアター・ドラマシティで、「コリオレイナス」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、演出:蜷川幸雄。出演は唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、吉田鋼太郎、香寿たつき、瑳川哲朗ほか。

「コリオレイナス」はシェイクスピア作品の中でもとりわけマイナー部類に入る。シェイクスピア晩年の作品であるが、初演時から不評であり、その後も駄作扱いが続いている。ただ「優性論」という問題を考える上では現代にも通ずるところのあるテキストであると私個人は思っている。

舞台は紀元前5世紀のローマ。勇猛果敢にして高潔なローマ貴族、ケイアス・マーシアス(唐沢寿明)は、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚い。彼はヴァルサイ人の都市であるコリオライを陥落させた栄誉を称えられ、新たにコリオレイナスという名を与えられる。ローマの新執政官に推されたケイアス・マーシアス・コリオレイナスであるが、彼の高潔ゆえに俗悪なものを見下す性質、極度なまでのプライドの高さ、愛想をふりまくことが出来ない性格などが災いし、市民の代表である護民官のシシニアスとブルータスに毛嫌いされており、ローマ市民からも「傲慢でさえなければ、あれほど出来た人はいないのに」と惜しまれはするものの愛されてはいなかった。

執政官になるには選挙でローマ市民から票を集めなくてはいけないのだが、コリオレイナスはどうしても市民に頭を下げることが出来ず、謙虚であることも出来なかった。コリオレイナスの母ヴォラムニア(白石加代子)は、市民の前で演じるだけで良いとコリオレイナスを説得するが、病的にプライドの高いコリオレイナスは演じるということにさえ嫌悪を覚え……

優れた資質を持ちながら樫の木のように固い性格と渡世術の欠如が災いしたコリオレイナスの悲劇を描く。タイトルロールのコリオレイナスを演じる唐沢寿明は強面にするために頭を坊主に丸めての熱演である。

幕が上がると鏡張りのセットがあり、観客がその鏡張りのセットに映っている。4枚組の鏡の中央の2枚が開くと背後に急階段状の舞台が現れ、一番上の段では四天王の像が客席を睥睨している。
四天王の像があることからもわかるとおり、仏教風のデザインが多く用いられており、元老達やコリオレイナスの衣装も山法師風である。またローマといいながらも、コリオレイナスが大小の日本刀を差し、長刀で戦ったり、ヴォラムニアが清の西太后を思わせる衣装を纏うなど、アジア的要素を多く取り入れている。

良い舞台であった。演出も俳優も良いが(特に俳優陣の殺陣は迫力満点であった)、観ているうちに演出の工夫や演技の巧拙などは気にならなくなり、「コリオレイナス」という作品自体の良さが浮かび上がってくる。観客に「良い演出だ」、「良い演技だ」と思わせる舞台はまだまだ一級品には遠く、「良い作品」だと思わせるのが真に優れた舞台であるとするなら、今日観た「コリオレイナス」はその真に優れた舞台であった。
「コリオレイナス」の登場人物全員が私の分身のようにも見えてくる。それだけ人物が巧みに描かれているということであり、晩年とはいえ、シェイクスピアの筆がさほど衰えていたわけではない証拠ともいえる。もっとも演出で隠してあるが、冷静に考えると妙に雑な箇所があり、シェイクスピアの体調が万全ではなかったことも同時にうかがえるのだが。

民主主義と衆愚政治が隣り合わせであることが示されるが、「コリオレイナス」の悲劇は英雄達だけで成り立つものではなく、愚かだろうが何だろうが、市民が生み出したものであり、市民の存在の大きさと恐ろしさを同時に伝える。歴史の主役は良くも悪くも市民なのだ。
劇が始まる前と、終演後、鏡状のセットに観客達を映したのも、「劇の主役は実は観客=市民」という構図を際だたせるための工夫であると思われる。

| | | コメント (0)

2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

Dsc_0647

| | | コメント (0)

NHK「クローズアップ現代 [瀬戸際のオーケストラ対策は]」2007年1月17日放送(後記あり)

2007年1月17日

NHK「クローズアップ現代」。今日は[瀬戸際のオーケストラの対策は]というテーマで、経営難が叫ばれ続けている日本のオーケストラ事情を特集する。

オーケストラは大所帯であるためコストパフォーマンスが悪く、毎回客席が超満員になっても黒字が出ない。存続のためには資金援助に頼るしかないのだが、言葉だけは「好況」と言われていても実情が伴っていない現在の日本(2007年時点)では援助金がカットされ続けているというのが現状である。

私の出身地である千葉市に本拠を置く、ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(現・千葉交響楽団)の苦境が放送される。千葉県内唯一のプロオーケストラとして1985年に発足。千葉市は比較的クラシック音楽愛好家の多い街だが、東京に近いということもあって、より優秀な演奏を求めて東京のプロオーケストラの演奏に通う人の方が多い。

千葉県も文化においては東京に頼り切りというところがあり、自前で文化を生み出そうという気概には欠けるところがある。JR千葉駅前に音楽専用ホール「ぱ・る・るホール」がオープンしたが、千葉県はニューフィルのフランチャイズにして育てるのではなく、東京フィルハーモニー交響楽団を招くという政策を採った(後記:その後、「ぱ・る・るホール」は大手地方銀行の一つである京葉銀行がネーミングライツを得て、京葉銀行文化プラザ音楽ホールとなったが、運営費が維持出来ず、2018年に閉鎖されている)。

ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉は年5回の定期演奏会を開いているが、会場は千葉市、市川市、船橋市、習志野市などに分散されているため、一つの都市に密着して演奏を行うということが出来ない。またゲストの堺屋太一氏が大阪フィルの前身である関西交響楽団の学校巡りの話をしていたが、ニューフィルは学校巡りや芸術鑑賞会での演奏を数多くこなしている。しかし思うような結果は出ていない。
クラシック音楽の聴衆を増やすためには、クラシックが持つ、「難しい」、「高尚な」、「インテリが聴く」、「暗い」、「退屈」という誤ったイメージを払拭する必要があるのだが、かつてのインテリ達が「クラシックは特別」という意識を今も持ち続けていることが多いこともあってか、なかなか普及しない。海外有名オーケストラの来日演奏会チケットが高いため、日本のオーケストラのチケット料金も高いと誤解されている節もある。

オーケストラだけでなく演劇もまたそうで、誤ったイメージが浸透しているため観客が増えない。映画にしろテレビ番組にしろ本にしろ漫画にしろ、一度も観たことがない、一冊も読んだことがないという人を探すのは難しい。しかしクラシックのコンサートや演劇を生で一度も味わうことなく生涯を終える人は思ったより多いと思われる。
初対面の人と演劇の話をする場合は、「まず演劇というものを観たことがあるか」から始めなければならない。そうでないと失礼になる。悲しいことだがこれが現状である。欧州などとは違い、日本では演劇が日常に溶け込んでいないのだ。

| | | コメント (0)

2021年1月15日 (金)

これまでに観た映画より(240) 「ラ・ラ・ランド」

2021年1月11日 新京極のMOVIX京都ドルビーシネマにて

MOVIX京都ドルビーシネマで、ミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を観る。英語表記だと「LA LA LAND」と「LA」が3つ重なるが、これは「LA」ことロサンゼルス(Los Angeles)が舞台になっていることにも由来する。脚本・監督:デミアン・チャゼル。音楽:ジャスティン・ハーウィッツ。出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、ジョン・レジェンド、ローズマリー・デウィット、J・K・シモンズほか。2016年の公開(日本では2017年公開)。高音質のドルビーシネマの登場に合わせてのリバイバル上映である。

Dsc_0665

アメリカ文化が背景にあり、名ミュージカル作品へのオマージュに溢れているため、そういった知識が十分にない人は意味を100%掴むことは難しいかも知れないが、ストーリーは複雑でないため、楽しむのには何の問題もない。

セブ(本名はセバスチャン。ライアン・ゴズリング)は売れないジャズピアニストだが、アメリカにおけるジャズ文化の衰退が背景にある。私がジャズを本格的に聴き始めた1990年代にはすでに、アメリカにおいては「ジャズはコンテンポラリーな音楽ではない」と見なされていた。勿論、偉大な現役のジャズミュージシャンは何人もいるが、ジャズ・ジャイアンツといわれた時代の人々は、モノクロの写真や映像の時代に活躍している。この映画にも写真が登場するチャーリー・パーカー然り、ビル・エヴァンス然り、会話に登場するサッチモことルイ・アームストロング然り。マイルス・デイヴィスはカラーの時代の人だが、故人である。彼らに匹敵するジャズメンははもはや存在しないというのが現状である。セブの弾くジャズがオーナーの怒りを買ったり、ヒロインのミア(エマ・ストーン)が平然と「ジャズは嫌い(英語のセリフを聞くと、思いっきり“I hate Jazz.”と言っている)」と言ってセブが激怒するという背景にはこうした事実がある。日本でも人気のあるケニー・Gの話も出てくるが、どうもアメリカではイージーリスニング扱いのようである。

ハイウェイの通勤ラッシュのシーンから始まる。夏の朝のロサンゼルス、気温は摂氏29度。少しも進まぬ渋滞に皆イライラしている。そんな時にある黒人女性が路上に降り立ち、歌い踊り始める。すると人々は次々に車のドアを開けて歌とダンスに参加する。曲が終わると、人々は車に戻り、元の渋滞へと帰る。やがて車が動き始めるのだが、一人で車に乗っていた女優志望のミアはセリフの練習をしていたため発車が遅れ、後ろにいたセブにクラクションを鳴らされる。セブはエマの車に横付けして「何をやってるんだ?」という顔。出会いは最悪だった。そしてその夜、二人は偶然再会する、という一昔前に流行ったトレンディードラマのような展開を見せる。

その後も突然歌ったり踊ったりがある(タモリさんが嫌いそうな)王道のミュージカル的展開で話は進む。

ミアは、女友達と共同生活を送りながらオーディションを受ける日々を続けている。普段は撮影所の近くのカフェでアルバイトをしているが、たまに有名俳優がその店を訪れることがあるようだ。なんとかかんとか一次オーディションを通ったのだが、二次オーディションではセリフを言い終わらないうちに落選を告げられ、落ち込む。

一方、セブは、オールドジャズに憧れを持っているのだが、西海岸ということもあって音楽好きからも理解が得られない。レストランのピアノ弾きに採用されたが、ジャズを弾いたためオーナーからその場で解雇を言い渡される。その場にたまたまミアが居合わせることになった。ただここでの再会もまた最悪のうちに終わる。
セブはオールドジャズのための店を開くという夢を持つが資金がない。
その後、セブは余りパッとしないバンドにキーボーディストとして加わり、またも偶然、ミアと再会する。急速に距離を縮めていく二人。セブはミアにも店をやりたいという夢を語り、ミアは女優を目指す理由を幼少期の思い出から物語る。
ある日、昔なじみのキース(ジョン・レジェンド)と再会したセブは、セッションに加わる。キースは、電子音を用いたジャズを行っているのだが、セブはそれには違和感を覚える。キースはマイルス・デイヴィスの話を持ち出す。

ここでなぜマイルス・デイヴィスなる人物の話が登場するのかわからない人もいると思うが、マイルス・デイヴィスは初めてジャズにエレキ音を取り入れた人であり、その他にもラッシュフィルムに即興で音楽を付けるなど(「死刑台のエレベーター」)次々と新しい試みを行って「ジャズの帝王」と呼ばれた人物である。セブはマイルスに比べて保守的に過ぎるというキースの意見が語られている。
随分昔、黛敏郎が「題名のない音楽会」で司会を務めていた時代に、ジャズの特集が放送されたことがあったのだが、黛がエレキを取り入れたマイルスのジャズに「これはもうジャズではなくロックだ」と否定的な見解を述べていたのを覚えている。

本心からやりたい音楽ではなかったが、店を始めるための資金を稼ぐため、セブはキースのバンドに加わり、レコーディングを行い、全米ツアーに出る。かなり売れているバンドのようだ。ミアはセブが出演しているライブを聴きに行くが、熱狂する観客の中にあってセブの存在が遠くなるのを感じる。ただセブの方もやりたい音楽が全く出来ないばかりか、プロモーションに継ぐプロモーションという環境に嫌気が差し始めていた。

一方、ミアは女優の仕事がないなら自分で作るということで、一人芝居の戯曲を書き、劇場を借りて上演することに決めた。主人公の名はジュヌヴィエーヴ。名作ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」のヒロインの名前である。出身地であるボールダーを舞台にした作品だ(上演中のシーンは出てこないため、筋書きや内容は一切わからない)。セブはミアに自分のツアーに帯同してはどうかと誘うが、ミアは稽古のための時間が取れないと断る。すでに同棲を始めていた二人だったが、次第に境遇に差が生まれていた。

小劇場で行われたミアの一人芝居だが、知り合いとそのほか数名が観に来ただけで不入り。更に楽屋に戻ったミアは、帰る途中の観客がミアの演技と作品を酷評しているのを聞いてしまう。仕事で劇場に駆けつけるのが遅れたセブがようやく劇場の前に到着。だが己の才能に絶望したミアはセブの言うことも聞かず、女優の夢を諦めて故郷のボールダーに帰ることを決意する。
再び一人で暮らすことになったセブだが、ある日、一本の電話が入る。配役エージェンシーからのもので、ミアの一人芝居を観た映画関係者が彼女の演技を観て気に入り、呼びたいとの申し出があったという。配役エージェンシーはミアがまだセブと同棲しているものだと思い込んでセブのスマホに電話をかけてきたのである。セブはすぐにボールダーのミアの実家に向かって車を飛ばす。

 

「シェルブールの雨傘」からの影響が特に顕著であり、あの物語をもっと納得のいく形で終わらせたいという思いがあったのかも知れない。
「シェルブールの雨傘」では、共に金銭的に成功しながら完全なる別離という残酷な結末を迎えた男女だったが、この「ラ・ラ・ランド」では成功しつつも別の道を歩んだことを後悔はせず、むしろ互いを祝福しているように見える。
成功を夢見る若者が押し寄せる希望と絶望の街、ロサンゼルスが舞台となっているが、エマ・ストーン演じるミアは夢見る人々への讃歌を歌い、セブはささやかではあるが確固とした幸せを手にしている。別れを描いているにも関わらず、清々しい気持ちになれる佳編であった。

Dsc_0659

| | | コメント (0)

2021年1月13日 (水)

コンサートの記(681) ペーター・グート指揮ウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラ「ニューイヤー・コンサート」2007京都

2007年1月12日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールで、ペーター・グート指揮ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラによるニューイヤー・コンサートを聴く。日本を代表する若手ソプラノ歌手・森麻季がゲスト出演する。

ウィンナ・ワルツやポルカのスペシャリストとして一部で高い評価を受けているペーター・グートはもともとはヴァイオリニストであり、生地のウィーンでヴァイオリンを学んだ後、旧ソ連に留学。モスクワ音楽院で当時世界最高のヴァイオリニストの一人であったダヴィッド・オイストラフに師事している。
ウィーン交響楽団の初代コンサートマスターとなったグートは1982年に指揮者としての活動を開始、ヨハン・シュトラウスⅡ世同様、ヴァイオリンを弾きながらオーケストラを指揮することもある。

ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラは名前通りの祝祭オーケストラだが、1978年から活動を続けており、シュトラウス・ファミリーの演奏はお手の物だ。

森麻季は有名だ。
で済ませたいところだが、クラシックの知識のある方ばかりとは限らないので紹介しておくと、1970年、東京に生まれ、東京藝術大学および大学院、文化庁オペラ研修所を経て、イタリアに留学。まずアメリカで成功を収め、日本ではNHK交響楽団との共演で知名度を上げる。昨年(執筆当時。具体的に書くと2006年)、avexからCDデビューしている。伸びやかな高音と華やかな容姿が売りである。

ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラは小編成(ファースト・ヴァイオリン8、セカンド・ヴァイオリン3、ヴィオラとチェロとコントラバスが2。2管編成)であり、京都コンサートホール大ホール向きではない。だから最初の曲である「こうもり」序曲などは音量に不満を感じたが、ワルツやポルカなどは音量よりも音の美しさが重要なのでボリューム不足はさほど気にならなかった。アンサンブルの精度はもう1ランク上を望みたくなるが音の艶やかさは十二分に合格点に達していた。

ペーター・グートの指揮はCDでも耳にしているが、本当に楽しそうにワルツやポルカを演奏する。ショーマンである。これは音だけではわからない。やはり音楽は生が一番である。チケットもそう高くはないんだし。

森麻季は3曲に登場。まずはオペレッタ「こうもり」より“伯爵様、あなたのようなお方は”。続いてワルツ「春の声」。最後がオペレッタ「こうもり」より“田舎娘を演る時は”。いずれも余裕を持って歌われる高音が素晴らしい。ただ今日は私はステージ下手(左側)真横に座っており、私の席からは森の声は聞き取りにくかった。残念。
森は“伯爵様、あなたのようなお方は”ではピンクのドレスにショッキングピンクの手袋、「春の声」では青いドレスにターコイスブルーのショール、“田舎娘を演るときは”ではエメラルドグリーンのドレスに白い手袋で登場。森のドレス姿の鮮やかさに会場のここかしこから女性のため息が起こる。

全プログラムを終えて、グートと森が登場。森は最初に出てきた時と同じピンクのドレスにショッキングピンクの手袋。グートはラデツキー行進曲をオーケストラに演奏させて、自分は森と共に客席に降りて1階席を巡る。会場にいた子供3人を呼んでステージに立たせ、指揮棒を持たせて指揮の真似事をさせると再び森麻季と更にファーストヴァイオリン8人を引き連れて1階席を一巡り。サービス精神旺盛である。


ウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラ ニューイヤー・コンサート2007 公演パンフレット(鴨東記)

| | | コメント (0)

2021年1月12日 (火)

美術回廊(61) 京都髙島屋7階グランドホール 「没後70年 吉田博展」

2021年1月7日 京都髙島屋7階グランドホールにて

京都髙島屋7階グランドホールで、「没後70年 吉田博展」を観る。

現在の福岡県久留米市に生まれた吉田博(1876-1950)は、明治、大正、昭和期に掛けて風景画の第一人者として活躍した人物である。久留米藩士の子として生まれ、京都と東京で洋画を学び、洋画家として活躍したが、49歳の時に木版画を始める。その後、1923年(大正12)に関東大震災が起こり、木版画や版木を全て焼失。他に被害を受けた画家仲間も多かったため、代表してアメリカに渡って絵を売ることになるが、売れたのは吉田の木版画ばかり。アメリカでも浮世絵の評価は高く、そのため版画が人気だったのだが、「反骨の男」とも呼ばれた吉田は、江戸時代の浮世絵ばかりが高く評価されていることに疑問を抱き、以降は独自の木版画制作に没頭するようになる。

実は若い頃に吉田は渡米しており、デトロイトやボストンで展覧会を開いて好評を博している。ちなみにこの時は英語は一切出来なかったそうで、かなりのチャレンジャーである。当時は、黒田清輝を中心とするフランス帰りの画家が日本で人気を得ていたが、吉田はこれに反発。敢えてフランスではなくアメリカに向かって腕試しをしている。
吉田は黒田清輝率いる白馬会のメンバーとはかなり仲が悪かったそうで、白馬会の白がかった淡めの画風を毛嫌いしていた。九州男児だからかどうかはわからないが喧嘩っぱやく、黒田清輝に殴りかかったこともあったという。後には、白馬会に対抗する形で太平洋画会を興している。

旅と山岳を愛し、画材を持ち仲間を連れて富士山を始めとする日本の名山に登山。登山中にじっくりとした描写を行うのが常だったという。次男には穂高岳にちなむ穂高(ほだか)という名を与えている。ちなみにこの穂高と、長男の遠志(とおし)は二人とも版画家となっている。

吉田博は、浮世絵ではなく洋画を版画に移したような新しい木版画を目指したが、構図の大胆さなどは案外、浮世絵と共通しているように思われる。あるいは構図の大胆さは「摺りやすさ」に由来しているのかも知れないが、私は版画を制作したことがないのでよくわからない。

独自の画風を目指した吉田博だが、ホイッスラーにだけは惹かれたという。仄暗い寒色系の色使いなどにはホイッスラーに共通するものも感じられるが、最終的には吉田はホイッスラーからも離れたという。

アメリカの風景を版画で描いた作品がいくつか並ぶ。グランド・キャニオンやナイヤガラ瀑布などで、色彩感や構図が面白い。

吉田は版画の性質を生かし、同じ版木に異なる色彩を入れることで、朝、昼、夕、夜など、同じ絵の時間違いバージョンなどもいくつか制作している。これには日本を題材にした作品のみならず、スフィンクスやタージマハルなど海外で描かれた風景画も含まれる。

なお、吉田は専ら風景画家として活躍。人物画は余り得手としていなかったようで、風景画の中にいる人物達の表情も簡素である。

吉田の作品は、日本よりも海外での評価が高く、ファンも多い。厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサーの第一声が、「ヒロシ・ヨシダはどこだ?」だったというジョークも存在する。マッカーサーが吉田ファンというのは本当で、新宿区下落合にあった吉田のアトリエを実際に訪れている。ダイアナ妃も吉田博のファンで、「瀬戸内海集 光る海」と「猿沢池」の2作品を自室に飾っていた。
「瀬戸内海集 光る海」は、海に反射する光を描いた作品である。吉田は印象派の絵画について特に語ってはいないようだが、この光のたゆたい方は印象派のアイデアそのものである。印象派は日本の浮世絵の版画に影響を受けたが、そうした浮世絵の影響を受けた洋画が日本の版画へとフィードバックされたような形となっている。循環である。面白い。

富士山と山中湖を描いた版画には、定番の「逆さ富士」が描かれているが、吉田の作品はこの他にも水に反映した物体を描いていることがかなり多い。また暖色と寒色の組み合わせが絶妙であり、幻想性を高めている。

映像も2点流れている。版画の工程を描いた映像では、吉田が摺り師にかなりの数の重ね摺りを要求したことが語られており、江戸時代の浮世絵の版画は多くても十数回の重ね擂りで完成するが、吉田の作品は平均でも30回以上、日光東照宮の「陽明門」の版画に至っては実に96回も重ね摺りが行われたという。

展示会場を出たところにあるモニターには、吉田の人生を描いた映像が映っており、反骨精神旺盛な吉田のエピソードはここで語られていた。

Dsc_0640

| | | コメント (0)

2021年1月 6日 (水)

コンサートの記(679) クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」

2020年12月25日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」を観る。台本と作曲は、ジャン=カルロ・メノッティ。演出と日本語訳詞は岩田達宗(いわた・たつじ)。岩田さんはこのところ、メノッティのオペラの演出を手掛けることが多い。出演は、古瀬まきを(ソプラノ)、福原寿美枝(ふくはら・すみえ。メゾ・ソプラノ)、総毛創(そうけ・はじめ。テノール)、福嶋勲(バリトン)、武久竜也(バス)、水口健次(テノール)。合唱は、堺シティオペラ記念合唱団と宝塚少年少女合唱団。ダンサーとして宮原由紀夫(振付兼任)、佐藤惟(さとう・ゆい。男性)が出演する。日本語歌唱、字幕付きの上演であり、歌手達はマウスシールドを付けて歌う。
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールは、前から4列目の後ろに中央通路があるのだが、その中央通路より前は全て空席となっており、舞台からの飛沫を観客が浴びないよう工夫されている。

オーケストラは園田隆一郎編曲による室内楽編成であり、指揮はオペラのスペシャリストである牧村邦彦が担当する。演奏するのは3人だけで、關口康祐(せきぐち・こうすけ。ピアノ)、蔭山晶子(かげやま・あきこ。クラリネット)、福田奈央子(チェロ)という顔触れである。アンサンブルは舞台の下手端に陣取って演奏する。
今や関西を代表するソプラノ歌手の一人となった古瀬まきをの主演、母親役をこれまた関西ではお馴染みの福原寿美枝が務め、大阪音楽大学客員教授でもある岩田達宗の演出ということもあって、関西では有名なオペラ歌手も結構観に来ている。

作曲のジャン=カルロ・メノッティ(1911-2007)は、名前からもわかる通り、イタリア出身である。11歳にして初めてのオペラを自らの台本によって書いた神童であり、ミラノ音楽院に学んだ後で、同郷の大指揮者であるトスカニーニに誘われる形で渡米。フィラデルフィアのカーティス音楽院でも学んでいる。メノッティは同性愛者であったが、カーティス音楽院在学中に同じく同性愛者であるサミュエル・バーバーと知り合い、パートナーの関係になっている。当時はアメリカにおいても同性愛は認められにくい傾向にあり、バーバーは生涯そのことに悩まされることになるが、おそらくメノッティの場合も同様であり、また足に障害があったということもあって、生きることの苦悩が作品に反映されている。


「アマールと夜の訪問者たち」は、1950年にNBCから依頼を受けてテレビ用オペラとして書かれた作品であり、最初からテレビ用のオペラとして書かれた史上初の作品である。メノッティはメトロポリタン美術館で出会った絵画「東方三博士の礼拝」にインスピレーションを受けてこのオペラを完成させている。

「アマールと夜の訪問者たち」は、上演時間約50分と短いため、本編上演の前に第1部として、同じ西宮市内に本部のある関西学院大学神学部助教で関西学院宗教センター宗教主事も務める井上智(いのうえ・さとし)のトークと、宝塚少年少女合唱団(今日は女の子のみの出演。合唱指導・指揮:笠原美保)による讃美歌の合唱がある。
東方三博士ということで、3という数字がキーになっており、宝塚少年少女合唱団が歌った讃美歌も3曲全てが三拍子、本編の演奏は3人で行われ、セットも三角屋根のテントや頂点がオベリスクのように三角形になった背景が使用されている。アムールが初めて歌うアリアも三拍子で、設定上も3は重要な数となる。ただストーリーやメッセージは3が軸になるものではない。

井上智の話は、「暗闇の中で見る光」をテーマにしたもので、関西学院大学大学院修了後に岩手県での教会活動に従事した時の思い出に始まり、今自分であることの幸せをこのオペラの中に見出すという解釈を示した。ちなみにクリスマスは12月25日であるが、イエスの生まれた日も季節もはっきりとはわかっておらず(馬小屋で生まれたというのが本当なら少なくとも寒い季節ではなかったはずである)、冬至を過ぎて日が少しずつ長くなる頃が相応しいということで取り敢えず12月25日に決まった。ただ国や地域によっては1月6日をクリスマスとするところもあるという。
一応日本でも有名であるが、詳しいことは知られていない東方の三博士についても解説し、三博士は最初から三博士と決まっていたわけではなく、古い宗教画などを見ると、東方から集団でやって来る博士(王、占い師などそのほかのパターンもある)が描かれていたりもするという。ただ贈りものが三種類であったため、最終的には三人ということになり、今に到っているそうである。また、この三人は人間の人生における形態、つまり、青年、壮年、老年を表し、更に当時知られていた3つの大陸、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの三つの象徴でもあるとされたそうである。王だったり博士だったり占い師だったりするのは理由があり、占術に長けた者が王として君臨することになった神託政治の時代があり(日本の邪馬台国なども「鬼道をこととしよく衆を惑わす」卑弥呼が王座にあるなど似た状況の時代は存在した。弓削道鏡と和気清麻呂の宇佐八幡宮託宣事件なども同じような部類に入ると思われる)、同一視されていたという。

 

主人公の少年、アマール(初演時はボーイソプラノが演じたが、演技力が必要であるため、現在ではソプラノ歌手が務めることが多い。演じるのは古瀬まきを)は、片方の足が不自由だが、想像力豊かな少年である。ただ母親(福原寿美枝)は単なる虚言癖だと見做しており、厄介に思っている。クリスマス直前のある日、アマールは巨大な星を見つけ、それに想像を加えて話すが、母親はアマールに早く寝るよう言いつける。アマールは、当時最下層の仕事である羊飼いをしており、極貧生活を強いられていた。その羊飼いも羊が死んでしまったことで続けられなくなりそうであり、母親は乞食になるしかないと嘆く。やがて、従者に導かれた三人の王様がアマール達の前に現れる。一人は黒人、一人は白人、一人はアジア人(アラブ系)で、みなそれらしい格好をしている。アラブ系の王であるカスパール(総毛創)は老人であり、耳が遠い。
三人の王様は、特別な子を探してやって来たと言い、その子の特徴を語る。その子の特徴はアマールにも当てはまるので、母親はそのことを歌う。やがて村人達(村人達は口の前に布を垂らし、頭巾を被るという大谷吉継スタイルのコロナ対策であるが、いかにも異境の人という見た目であり、自然に見える)が現れ、王達に贈りものをして歓迎の宴が始まる。アラブ風の格好の青年二人がアクロバティックなダンスを披露するなどかなり盛り上がる。ステージの上に階段4つ分の高さのステージがあるダブルステージなのだが、アマールは下のステージに降りて牧童の笛を吹き、一緒に盛り上がる(バッハのようだが「音楽の贈りもの」と受け取ることも出来る)。一方、母親は自分だけが贈りものすら出来ないため輪に加われず、上のステージの下手奥に一人所在なげに佇んでいる。三人の王様が寝静まった深夜、母親は貧困の身である苦悩を歌い、富豪達の想像力の欠如を嘆き、恨む。そして王達の財宝を盗もうとするのだが、従者に見つかってしまい……

ストーリー自体は子どもでもわかるシンプルなものであり、主人公のアマールが少年ということもあって共感も得やすいはずである。ただ、一見するとハッピーエンドに思えるストーリーの裏に、生きることの苦しみが宿っているようにも思える。
なくてはならはいはずの松葉杖を贈りものにしようとしたことで奇跡が起こり、アマールの足が治る。だが、アマールは松葉杖を贈りものとして持って、三人の王(全ての人種と全ての世代の象徴である)と共に星が告げる救世主の下に向かうことを母親に告げ、母親も松葉杖をアマールに背負わせる。補助や導きの役割と同時に不自由と苦しみの象徴である松葉杖を背負って旅をするということは、多くの人々の人生のメタファーであり、旅路は決して前途洋々としたものではないかも知れない。だがそれでもアマールは向かう。

15歳の頃、『巴里の憂鬱』というタイトルに惹かれてボードレールの詩集を購入した。その中にある「人皆キメールを背負えり」という詩が気に入った。不可解さを背負いつつ生き続ける人間存在への確かな眼差しが、その詩には描かれていた。松葉杖を背負って果てしない旅へと向かうアマールの姿が、ボードレールの詩に重なった。
天空を一人で支えるアトラスのように、全人類の悲しみを支える興福寺阿修羅像のように、とまではいかないが、彼こそが希望であり、我々の分身でもあり、代表でもある。それ故に心が躍る。豊かな想像力を武器とすれば、苦悩と宿命を背負ってはいても我々は希望へと到るために歩き続けることが出来る。
私の座右の銘は徳川家康公遺訓だが、最初の行である「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」はこの物語にも繋がる。人種や時代は違えど人間の本質はそう大きく異なるものではないし、異なるはずがない。

例年なら日本の年末のクラシックシーンは第九一色になるが、第九の「歓喜の歌」もこれに似たメッセージを持っている。あれは「歓喜! 歓喜! 万歳! 万歳!」という能天気な内容ではなく、共に苦難を生きる人類の旅路を歌ったものであり、まだ訪れていない輝かしい未来への讃歌である。1年の終わりに自分だけでなく全人類の未来を夢見る儀式のようなものがあるというのは、おそらく良いことなのだと思われる。

 

日本社会においてはオペラは根付くのに時間が掛かっており、観たことのない人からは、「外国語を使った高尚で近づきがたい存在」か、「太った男女がわけのわからないことを歌っているへんちくりんなもの」という両極端なイメージで語られてしまうことも多いのだが、オペラとは今に到るまで作品が生き続けている偉大な作曲家のメッセージが込められたものであり、生きるための糧となるものが得られる豊穣なる時間の果実である。

Dsc_0588

| | | コメント (0)

2021年1月 2日 (土)

Eテレ「クラシック音楽館」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー ベートーヴェン交響曲全曲演奏2020

録画してまだ見ていなかったEテレ「クラシック音楽館」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー第一夜を見る。ベートーヴェンの交響曲を日本全国のオーケストラが1曲ずつ演奏していくという企画で、通常の演奏会ではなく、この企画のために特別に収録されたものが演奏される。

交響曲第1番は、広上淳一指揮京都市交響楽団が京都コンサートホールで行ったものが、第2番は飯守泰次郎指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団が名取市文化会館で行ったものが放送される。

共にリハーサルの様子が収められており、広上はピアニカ(鍵盤ハーモニカ)吹きながら音楽を示し、飯守はオーケストラ奏者からの質問に真摯に答えている様子を見ることが出来る。

 

広上淳一指揮京都市交響楽団は、交響曲第1番の前に、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第16番より第3楽章の弦楽オーケストラ編曲版も演奏する。

交響曲第1番は、バロックティンパニを用い、ピリオドを意識した演奏になっている。ただ弦楽のビブラートは要所要所での使い分けとなっており、ベートーヴェンの生きていた時代の演奏の再現を目指しているわけではない。
ヴァイオリンやフルートといった高音の楽器を浮かび上がらせており、それがフレッシュな印象を生んでいる。京響の持つ力強さを生かし、広上らしい流れの良さとエネルギー放出力が印象的な演奏を築き上げた。

ちなみに、広上のベートーヴェン解釈は独特で、元NHK交響楽団首席オーボエ奏者で、広上淳一に指揮を師事し、現在では指揮者として活躍する茂木大輔の著書『交響録 N響で出会った名指揮者たち』(音楽之友社)に、茂木がベートーヴェンの交響曲第1番フィナーレ(第4楽章)序奏部の解釈を広上に聞いた時のことが描かれているのだが、
広上(話し手の名前表示は引用者による)「あ、あれはね、花園があって。まず」
茂木(同上)「は、はい、花園……(メモ)」
広上「そこにね」
茂木「はい、そこに?」
広上「桜田淳子ちゃんが(引用者注:広上は桜田淳子の大ファンである)」
茂木「じゅ、淳子ちゃん……(メモ……)」
広上「遠くに、楽しそうに立っているのを、目指して、だんだん近寄って行くわけね。するとその花園がね……(どんどん続く)」
というものだそうである。

 

交響曲第2番を演奏する仙台フィルハーモニー管弦楽団。東北にある二つあるプロオーケストラの一つである。山形交響楽団の方が先に出来たが、仙台フィルの前身である宮城フィルハーモニー管弦楽団が生まれる際に、山形交響楽団から移籍した人も結構いた。仙台市と山形市は隣接する都市となっており関係は密である
山形交響楽団は飯森範親をシェフに迎え、関西フィルハーモニー管弦楽団の理事長であった西濱秀樹が移籍してからは、大阪でも毎年「さくらんぼコンサート」を行うようになったが、仙台フィルは関西での公演に関して積極的ではない。山形交響楽団がクラシック音楽対応のコンサートホール二つを本拠地としているのに対し、仙台にはまだクラシック音楽用のホールは存在しない。
ただ、録音や配信で聴く仙台フィルハーモニー管弦楽団はかなりハイレベルのオーケストラであり、かつて東京に次ぐ第二都市とまで言われた仙台の文化水準の高さを示している。

飯守も広上も関西に拠点を持っているが、タイプは正反対で、流れを重視する広上に対し、飯守は堅固な構築力を武器とする。
飯守は日本におけるワーグナー演奏の泰斗であり、ワーグナーに心酔していたブルックナーの演奏に関しても日本屈指の実力を持つ。

仙台フィルの音色の瑞々しい音色と、飯守の渋めの歌が独特の味となったベートーヴェン演奏である。

 

ベートーヴェン愛好家の多い日本に生まれるというのは、実に幸運なことである。生誕250周年記念の演奏会の多くが新型コロナによって中止となってしまっても、こうして放送のための演奏を味わうことが出来るのだから。第九の演奏を毎年のように生で聴けるということを考えれば、ドイツやオーストリアといった本場を上回る環境にあるのかも知れない。

 

 

録画してまだ見ていなかった、Eテレ「クラシック音楽館」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー第二夜と第三夜を続けてみる。

ベートーヴェンの交響曲を日本各地のプロオーケストラが1曲ずつ演奏し、収録を行うという企画。
交響曲第3番「英雄」は高関健指揮群馬交響楽団、交響曲第4番は小泉和裕指揮九州交響楽団、第5番は阪哲朗指揮山形交響楽団、第6番「田園」は尾高忠明指揮大阪フィルハーモニーが演奏を行う。基本的に本拠地での収録であるが、大阪フィルはフェスティバルホールでもザ・シンフォニーホールでもなく、NHK大阪ホールでの無観客収録が行われた。

 

建築としては第一級だが音響の評判は悪かった群馬音楽センターから高崎芸術劇場へと本拠地を移した群馬交響楽団。談合問題によるゴタゴタもあったようだが、クラシック音楽対応の大劇場や室内楽用の音楽ホール、演劇用のスタジオシアターなどを備え、評判も上々のようである。

日本の地方オーケストラとしては最古の歴史を誇る群馬交響楽団。学校を回る移動コンサートが名物となっており、小学生以来のファンが多いのも特徴である。コロナによって活動を停止せざるを得なかった時期にも、ファンからの激励のメッセージが数多く届いたそうだ。

Twitterで「高崎で高関が振るベートーヴェン」と駄洒落を書いたが、高関健は、1993年から2008年までの長きに渡って群馬交響楽団の音楽監督を務め、退任後は同交響楽団の名誉指揮者の称号を得ている。

古典配置での演奏。高関はノンタクトでの指揮。速めのテンポで颯爽と進むベートーヴェンであり、第1ヴァイオリンに指示するために左手を多用するのも特徴である。

「英雄」の演奏終了後には、プロメテウス繋がりで、「プロメテウスの創造物」からの音楽が演奏された。

 

交響曲第4番を演奏する小泉和裕指揮の九州交響楽団。アクロス福岡 福岡シンフォニーホールでの収録である。

九州も比較的音楽の盛んな場所だが、プロオーケストラは福岡市に本拠地を置く九州交響楽団のみである。人口や都市規模でいえば熊本市や鹿児島市にあってもおかしくないのだが、運営が難しいのかも知れない。

小泉和裕は徒にスケールを拡げず、内容の濃さで勝負するタイプだが、この交響曲第4番は渋めではあるが情報量の多い演奏となっており、なかなかの好演である。

演奏終了後に、序曲「レオノーレ」第3番の演奏がある。ドラマティックな仕上がりで盛り上げも上手く、交響曲第4番よりも序曲「レオノーレ」第3番の演奏の方が上かも知れない。

 

交響曲第5番を演奏するのは、阪哲朗指揮の山形交響楽団。長く一地方オーケストラの地位から脱することが出来なかったが、飯森範親を音楽監督に迎えてから攻めの戦略により、一躍日本で最も意欲的な活動を行うオーケストラとしてブランド化に成功した。キャッチフレーズは、「食と温泉の国のオーケストラ」。山形テルサ・テルサホールという音響は良いがキャパ800の中規模ホールを本拠地とするのが弱点だったが、今年、オペラやバレエ対応のやまぎん県民ホールがオープン。更なる飛躍が期待されている。
今回はそのやまぎん県民ホールでの演奏。
山形交響楽団はピリオドアプローチや、弦楽器をガット弦に張り替えての古楽器オーケストラとしての演奏に早くから取り組んでおり、今回の演奏でもトランペットやホルンはナチュラルタイプのものが用いられている。

阪哲朗はノンタクトで振ることも多いのだが、今回は指揮棒を使用。
冒頭の運命動機を強調せず、フェルマータも比較的短め。流れ重視の演奏である。速めのテンポで駆け抜ける若々しくも理知的な演奏であり、中編成の山形交響楽団とのスタイルにも合っている。

演奏終了後には、「トルコ行進曲」が演奏された。


尾高忠明と大阪フィルハーモニー交響楽団は、一昨年にフェスティバルホールでベートーヴェン交響曲チクルスを行っているが、「田園」だけが平凡な出来であった。「田園」はベートーヴェンの交響曲の中でも異色作であり、生演奏で名演に接することも少ない。

まず「プロメテウスの創造物」序曲でスタート。生き生きとした躍動感溢れる演奏である。

「田園」も瑞々しい音色と清々しい歌に満ちた満足のいく演奏になっていた。

 

 

録画しておいた、Eテレ「クラシック音楽」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー第四夜を視聴。川瀬賢太郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェンの交響曲第7番、秋山和慶指揮札幌交響楽団による交響曲第8番、下野竜也指揮広島交響楽団による劇音楽「エグモント」の演奏が放送される。

今年36歳の若手、川瀬賢太郎。広上淳一の弟子である。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者は契約を更新しないことを表明しているが、名古屋フィルハーモニー交響楽団の正指揮者としても活躍している。
神奈川フィル退任の時期や広上で弟子であることから、あるいは京都市交響楽団の次期常任指揮者就任があるのかも知れないが、今のところ広上の後任は発表になっていない。

「のだめカンタービレ」で有名になった交響曲第7番だが、曲調から若手指揮者が振ることが多く、佐渡裕のプロデビューも新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した第7をメインとしたコンサートだった。川瀬もやはり第7を振る機会は多く、今までで一番指揮したベートーヴェンの交響曲だそうである。
リハーサルでも単調になることを嫌う様子が見て取れたが、しなやかにして爽快な第7を演奏する。

愛知県芸術劇場コンサートホールで何度か実演に接したことのある名古屋フィルハーモニー交響楽団。意欲的なプログラミングでも知られており、今年もベートーヴェン生誕250年特別演奏会シリーズが予定されていたようだが、そちらは残念ながら流れてしまったようである。

第7の後に、「英雄」の第3楽章が演奏された。

 

第8番を演奏する秋山和慶指揮札幌交響楽団。日本屈指の音響との評判を誇る札幌コンサートホールKitaraでの演奏である。
秋山はレパートリーが広く、何を振っても一定の水準に達する器用な指揮者であり、外国人指揮者が新型コロナウイルス流行による入国制限で来日出来ないというケースが相次いだ今年は、各地のオーケストラから引っ張りだことなった。
岩城宏之が、「日本のクリーヴランド管弦楽団にする」と宣言して育てた札幌交響楽団。尾高忠明の時代に「シベリウス交響曲全集」や「ベートーヴェン交響曲全集」を作成し、好評を得ている。
秋山の適切な棒に導かれ、透明感のある音色を生かした活気ある演奏を示した。

 

下野竜也指揮広島交響楽団による劇音楽「エグモント」。序曲が有名な「エグモント」だが、劇音楽全曲が演奏されることは珍しい。

NHKの顔となる大河ドラマのオープニングテーマを何度も指揮している下野竜也。NHKとN響からの評価が高く、来年もN響の地方公演を振る予定がある。
下野は広島交響楽団に音楽総監督という肩書きで迎えられており、期待の大きさがわかる。
語りをバリトン歌手である宮本益光(歌手の他に語りなどをこなす器用な人であり、寺山修司ばりに、職業・宮本益光を名乗っている)が務め、ソプラノは石橋栄実(いしばし・えみ)が担当する。
下野らしいドラマティックな演奏であり、広島交響楽団の実力の高さも窺える。
人口で仙台市とほぼ同規模である広島市。両都市とも地方の中心都市でありながら音楽専用ホールがないという共通点があったが、広島は、旧広島市民球場跡地隣接地に音楽専用ホールを建設する予定がある。

 

 

午後8時から、オーケストラでつなぐ希望のシンフォニーのダイジェストを含む今年のクラシックシーン(例年に比べると寂しいものである)を振り返った後で、12月23日に東京・渋谷のNHKホールで収録されたNHK交響楽団の第九演奏会の模様が放送される。指揮は、スペイン出身のパブロ・エラス・カサド。フライブルク・バロック・オーケストラを第九と合唱幻想曲で本年度のレコード・アカデミー大賞を受賞した指揮者である。ノンタクトで汗をほとばしらせながらの熱演。

新型コロナ流行下での第九演奏であるため、合唱を務める新国立劇場合唱団は人数を抑え、前後左右に距離を空けての配置。歌唱時以外はマスクを付けていた。

HIPを援用した快速テンポによる演奏であるが、音が磨き抜かれており、N響の技術も高く、耽美的な演奏となる。
N響も本当に上手く、真のヴィルトゥオーゾオーケストラといった感じである。90年代にN響の学生定期会員をしていた時にも、「不器用だが上手い」という印象を受けていたが、今、90年代に収録された映像やCD化された音源を聴くと、「あれ? N響ってこんなに下手だったっけ?」と面食らうこともある。それほど長足の進歩を遂げたという証でもある。
カサドがスペイン出身ということも影響していると思われるが、音の重心が高めであり、フルートやヴァイオリン、ピッコロといった高音を出す楽器の音が冴えているのも特徴である。全体的に明るめの第九であり、アバド、シャイー、ムーティといったイタリア人指揮者の振った第九との共通点も見出すことが出来る。
第3楽章もかなり速めのテンポを取りながら溢れるような甘さを湛えているのが特徴である。
合唱も例年に比べると編成がかなり小さいが、収録されたものということで音のバランスは調整されており、迫力面でも不満はない。ライブではどんな感じだったのであろうか。

見通しの良い第九であり、甘美なのもこうした年の最後を締めくくる第九としては良かったように思う。

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2346月日 DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 劇評 動画 千葉 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 食品 飲料 香港映画