カテゴリー「経済・政治・国際」の18件の記事

2022年8月20日 (土)

観劇感想精選(443) 学生演劇企画「ガクウチ」 in E9「そよそよ族の叛乱」

2022年8月13日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後7時から、THEATRE E9 KYOTOで、学生演劇企画「ガクウチ-学徒集えよ、打とうぜ芝居-」in E9「そよそよ族の叛乱」を観る。作:別役実、演出:小倉杏水。
京都や大阪の学生劇団14団体から36人の学生が集い、上演を行う企画。参加団体(50音順)は、演劇企画モザイク(同志社大学)、演劇集団Q(同志社大学)、演劇集団ペトリの聲(同志社大学)、演劇実験場下鴨劇場(京都府立大学)、劇団ACT(京都産業大学)、劇団明日の鳥(京都府立医科大学)、劇団月光斜(立命館大学)、劇団ケッペキ(京都大学)、劇団蒲団座(大谷大学)、劇団万絵巻(関西大学)、劇団〈未定〉(京都女子大学)、劇団愉快犯(京都大学)、劇団立命館芸術劇場、第三劇場(同志社大学)。「別役実メモリアル」参加作品である。

探偵と科学博物館に勤める女の二人が主人公となっている。サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を想起させるシーンがあるが、おそらく意図的に取り入れているのであろう。

午後2時33分、遺体が発見される。通報を受けた探偵は現場に駆けつける。女性の遺体であった。外傷は全くない。探偵と遺体に興味を持つ女が一人。科学博物館の地下にある鯨の骨の監視を職業としているのだが、鯨の骨を見に来る客は1ヶ月に1人程度の閑職である。

探偵と女は遺体の身長と体重を量る。身長165.5cm、体重39.8kg。かなりの痩身であり、女は「餓死したのではないか」と推理する。ちなみに身長165.5cmの女性は「大女」だそうだが、今でも高めで「スタイルが良い」と言われがちな身長ではあるが、現在では170cm以上ないと「大女」(という言葉自体今では使われないかも知れないが)とは呼ばれないだろう。時の流れを感じる。

今では餓死者が出た場合、「異例」とは見なされるだろうが、餓死する人がいるのかどうかは発表されないし、人々は「日本には餓死する者など今はいない」という前提で生きている。いるのかも知れないが見ないし知らないようにしている。それが現代の日本社会である。一方でアフリカなどには餓死者がいるのはよく知られており、「前提」ではある。だが、募金などはするかも知れないが我がこととして実感する日本人は少ないだろう。そうした社会に対して、別役は切り込んでいく。
「社会」の人々、個人個人は善良な人々である。それはこの劇でも描かれている。だがそれが全体となった時に「無関心」「事なかれ主義」といった目の曇りが生まれてしまう。

そよそよ族というのは、劇中では古代にいた失語症の民族と定義されているが、一方で、餓死者の痛みや「助けを呼べない心理」などを敏感に察知する人のことでもある。死体処理係の男は、餓死者が出たことの責任が自分にあるように感じ、「自首する」と言い出す。「誰かの分を自分が食べてしまった」とも語るのだが、この戯曲が書かれた1971年時点で日本は「飽食の時代」を迎えており、食料が足りているのみならず大量の残飯が社会問題になっていた。一方ではアフリカなどでは食べるものがなく餓死者が普通に出ている。そうしたことの痛みと責任を我がことのように受け取ることが出来るのが「そよそよ族」と呼ばれる人々である。飢えを訴えたとしても意味はない、餓死することでしか問題を提起することが出来ない。そうした現状を別役は「そよそよ族の叛乱」として訴えてみせるのである。

劇中で「そよそよ族」は自身の罪を訴えることしか出来ない。太宰治の言葉の逆を言うようだが、今の時代は「犠牲者」であることは必ずしも尊いことではないのかも知れない。だが「犠牲者」でなければ「自罰的」であらねば伝わらないものごとは確実にある。今現在の世界的状況に照らし合わせても意味のある、痛切なメッセージを持った本と上演であった。

Dsc_1278

| | | コメント (0)

2022年2月13日 (日)

これまでに観た映画より(280) 「シン・ゴジラ」

2022年2月9日

Blu-rayで、日本映画「シン・ゴジラ」を観る。「エヴァンゲリオン」シリーズの庵野秀明が脚本と総監督を務めた作品であり、豪華キャストでも話題になった。

出演は、長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ、高良健吾、市川実日子、高橋一生、余貴美子、手塚とおる、渡辺哲、津田寛治、柄本明、嶋田久作、國村隼、平泉成、大杉漣ほか。その他にも有名俳優や、映画監督などがちょい役で出ている。ゴジラの動きは、野村萬斎の狂言での動きをコンピュータ解析したものである。

「ゴジラ」は第1作で、核の問題を描いた社会派の作品だった。その後、国民的特撮映画となってからは、人類の味方であるゴジラや、可愛らしいゴジラが描かれるなど、エンターテインメントの要素が強くなる。
私が初めて「ゴジラ」の映画を観たのは、1984年のことで、沢口靖子や武田鉄矢が出ていた作品である。現在のミニシアターとなる前の千葉劇場(千葉松竹)に母と二人で観に行った。1984年の「ゴジラ」も原点回帰作としても話題になったが、「シン・ゴジラ」もまた庵野秀明色を出しつつ、第1作目の「ゴジラ」のメッセージに帰った社会的な作品である。

「シン・ゴジラ」で描かれているのは、人々がゴジラというものを知らないパラレルワールドの現代日本である。そして作品全体が福島第一原子力発電所事故のメタファーとなっている。

3.11以前、準国営企業である各電力会社は、「日本の原発は安全です」と安全神話を振りまいていた。だが、福島第一原子力発電所が津波に襲われたことにより、事態は暗転。史上最悪レベルの原発事故を起こした日本は、これまで獲得してきた全世界からの信用を一気に失いかねない一大危機に陥る。そんな時であっても、政府は国民への呼びかけという最も大事な役割を果たすことが出来ず、菅直人内閣の信頼は地に落ちる。
菅直人は東京工業大学出身の理系の宰相で、放射線の波形などが読めるため、それを監視するのが自身がなすべき仕事と考えたようだが、結果としては傍から見ると引きこもっているようにしか思われず、また福島第一原発に乗り込んでもいるのだが、それが首相がまずすべきことなのかというと大いに疑問である。
「シン・ゴジラ」でも、対応が後手後手に回るという、いかにも日本らしい判断力の弱さが露呈し、いざとなったらアメリカ様頼りという悪い癖も描かれている。

原発安全神話があった頃、「そんなに安全だというなら、東京湾に原発を作ればいいじゃないか」という皮肉が反原発派から発せられたが、「もし東京湾の原発がメルトダウンを起こしたら」という話を、ゴジラとの戦いという形で上手く描いているように思う。個人的には余り好きな展開ではなかったが、「問題を描く」という意志は評価したい。

庵野秀明が総監督ということで、音楽も鷺巣詩郎の「エヴァンゲリオン」シリーズのものが用いられていたり、字幕に使われるフォントや短いカットによる繋ぎなど、「エヴァ」的な演出が意図的に用いられていて、全体が庵野カラーに染め抜かれている。
一方で、オープニングやエンディングは、「ゴジラ」第1作へのオマージュのような映像(というよりそれそのもの)が用いられており、エンディングも伊福部昭の音楽によるお馴染みのもので、いつとも分からぬ時代に迷い込んでしまったような独自の趣を醸し出している。「シン・ゴジラ」が「ゴジラ」第1作の正統的な後継作であるとの庵野監督の矜持も垣間見える。

| | | コメント (0)

2021年7月14日 (水)

京都版ラ・デファンスのための覚え書き

 卒業後の就職先が少ないため、大学時代だけを過ごす「通過する街」とも呼ばれる京都。だが今後の事を考えれば、京都市内南部にパリのラ・デファンスに相当する経済特区を設ける必要があるのは明らかである。京都駅よりも北にそうしたものを作るのは景観上も問題があって不可能だが、南側なら可能である。景観上も過去と現在と未来が調和したものになるはずで、問題がないどころか望ましいものとなる。北陸新幹線の駅もそこに作ればなお良い。特に金沢との連携は重要である。双子都市である大津市を始めとする湖南地域も今はむしろ大阪との経済的結びつきが強くなっているが、京都駅の南側に京都版ラ・デファンスを設けられたなら、京滋の絆は強まるだろう。京都に拠点を置きたい企業はいくらでもあるので心配はない。大学の街、京都の特性を生かすなら、就職するのではなく京都で起業したいと考える学生の後押しも行いたい。税制などの優遇策を設ければ不可能ではないはずだ。

 近くに大阪という一大経済都市があるが、京都は名門大学や個性のある大学をいくつも抱えているということで、情報産業に重きを置きたい。製造業で大阪に勝つのは難しいため、棲み分け戦略が必要となる。

 京都版ラ・デファンスを置くべき場所は、らくなん進都および洛南新都心である。少しややこしい問題もあったりするが、開発は可能なはずである。京都市の財政再建策であるということを考えると、パリの隣町にあるラ・デファンスとは異なり、京都市内に置く必要がある。
 洛南新都心計画は交通の問題によって頓挫したままになっているが、従来計画されて全く進まなかった京都市営地下鉄烏丸線の延伸ではなく、新たに開発されたLRTなども含めた複数の交通手段を用いる。らくなん進都に北陸新幹線の駅を置くことで、交通は更に便利になる。らくなん進都と更に先の洛南新都心に向かう乗客数が増えれば、京都市営地下鉄の赤字問題も軽減され、将来的には解消される可能性もあるだろう。
 地域政党・京都党は、崇仁地区に京都市立芸術大学を移転させるのではなく商業地域にするプランを打ち出しているが、崇仁地区は景観上、経済特区のようなものを作るのは無理で、もっと南である必要がある。

| | | コメント (0)

2021年4月 7日 (水)

これまでに観た映画より(254) 「レンブラントは誰の手に」

2021年4月3日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「レンブラントは誰の手に」(原題:「マイ・レンブラント」)を観る。ウケ・ホーヘンダイク監督作品。

オランダを代表する絵画の巨匠、レンブラント(1606-1669)。世界中にファンを持つ有名画家だが、彼が残した作品に対するそれぞれのスタンスを持った人物達の姿が、皮肉を交えて描かれる。

最も好意的に描かれているのは、スコットランドのバックルー公爵で、映画の最初とラストに彼が登場する。所蔵するレンブラントの「読書する老女」に心底惚れ抜いており、売る気など全くなく、毎日のように眺めては悦に入っているという正真正銘のレンブラント好きである。

他の登場人物はバックルー公爵に対比される役割となっており、俗物っぽく描かれているが、これはホーヘンダイク監督の切り取り方に由来する部分も多いと思われる。
画商のヤン・シックス11世(貴族の家系)は、競売の場で、「これはレンブラントの真作ではないか」と思われる作品の存在に気づき、作品を手に入れる。それまで周りから画商としての確かな評価を得られてこなかったものの、彼の目は確かで、全くといっていいほど注目されていなかったその作品がレンブラントの真作であると断定され、一躍時の人となるのだが、競売の際に「共同購入という形にしたい」と申し出ていた友人の画商を出し抜く形になったために訴えられ、更にレンブラントの作品かどうかを鑑定することで交流が芽生えていた大学教授とも絶縁することになる。

富豪のロスチャイルド家が、多額の相続税を払う必要が出たために、所蔵していたレンブラントの作品を、1億6000万ユーロという高値で売りに出すという話も描かれる。手を挙げたのはアムステルダム国立美術館とパリのルーブル美術館。しかし、1億6000万ユーロは高すぎるため、「共同購入にしよう」とアムステルダム国立美術館が提案。その後、アムステルダム国立美術館はレンブラント作品購入のための寄付を募り、レンブラントの祖国ということもあって、1億4000万ユーロと、あとちょっとで単独購入出来るだけの寄付金が集まる。ルーブル美術館が行っている寄付が完全な空振りとなっていることを知ったアムステルダム国立美術館側に「単独購入しよう」という動きも出るのだが、共同購入を申し込んだのがアムステルダム国立美術館側だったことから、倫理上難しいということになる。更に国家の威信をかけた動きが、背後で動き始めており、ついには「政争」にまで発展する。

「結局は金」という言葉も出てきており、本来のレンブラント作品や芸術の価値とは全く違った基準で起こっている美術界の出来事が描かれている。
だが、これはホーヘンダイク監督の芸術観と取材に基づいた編集がなされており、「芸術の価値は金や名誉とは別」という価値観が正しいとも言い切れないように思われる。少なくとも「紋切り型」という印象は受ける。単に愛好する(アマチュア)だけでなく、見抜いたり動いたりといったプロの働きも芸術には大切なはずである。

とはいえ、死んでから何百年も経つというのに、人々を感動させるのみならず、その作品の価値故に人間関係を破綻にまで導いてしまうレンブラント。天才とはげに怖ろしきものである。

Dsc_1333

| | | コメント (0)

2020年11月 3日 (火)

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

2020年10月30日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。「リトル・ダンサー」という邦題で公開されたイギリス映画をエルトン・ジョンの音楽でミュージカル化した作品で、日本では2017年に初演され、今回は再演となり、今日が大阪公演初日である。

「リトル・ダンサー(原題「Billy Eliot」)」は、2000年に公開された、スティーヴン・ダルドリー監督の映画で、私もDVDで観ているが、かなりの好編に仕上がっていた。
スティーヴン・ダルドリー監督は元々は舞台演出家として活躍していた人であり、ミュージカル版でも演出を担当。イギリスを代表するミュージシャンのエルトン・ジョンの作曲ということもあって、高い評価を受けているが、こうして実際に観てみると、映画とは別物として評価すべきであるように感じる。感銘の度合いは映画の方が上である。舞台演出家であったスティーヴン・ダルドリーがまずは「映画として撮るべき」と判断したのであるから、それは間違いないだろう。舞台にしてしまうとどうしても背景が分かりにくくなってしまう。ミュージカル版は妙技を堪能する作品だ。

主演のビリー・エリオット少年役はクワトロキャスト(4人)であり、今日は川口調がタイトルロールを務める。他の役もダブルキャストで、今回はお父さん(ジャッキー・エリオット)役が益岡徹、ウィルキンソン先生役が柚希礼音、おばあちゃん役が根岸季衣、トニー(兄)役が中河内雅貴、ジョージ役が星智也、オールド・ビリー(成人後のビリー)役が大貫勇輔となっている。

梅田芸術劇場メインホールの新型コロナ対策であるが、運営元である阪急グループ独自の追跡サービスが導入されているのが特徴である。おそらく宝塚歌劇などでも用いられていると思われる。

 

英国病といわれた時代の北部イングランドの炭鉱の町・エヴァリントンが舞台ということで、英語の訛りが日本版では筑豊炭田や三池炭坑で知られる福岡県の言葉に置き換えられている。

下手からビリー・エリオット役の川口調が登場し、しゃがむと同時に紗幕に映像が映し出される。第二次大戦で英国がナチス・ドイツに勝利し、炭鉱も国営化されるということで更なる発展が英国にもたらされるはず……、というところで事態が暗転する。紗幕に映し出されたのはマーガレット・サッチャーだ。長期政権(1979-1990)を敷き、今でも20世紀後半の英国の首相というと真っ先に顔や名前が思い浮かぶマーガレット・サッチャー。高福祉社会の副産物ともいえる英国病克服のため新自由主義の先駆ともいえる政策を次々に打ち出し、労働者階級から目の敵にされた政治家である。サッチャーによって炭鉱は民営化され、ただでさえ斜陽の産業であったため多くの炭坑夫が苦境に立たされることになるのだが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」はそんな時代(1984年)の話である。

サッチャーの政策に反対し、エヴァリントンの炭坑夫達がストライキに入る。リーダー的存在のジャッキー・エリオットの息子で、11歳のビリー・エリオット(劇中で1つ年を取る)は、ボクシングを習っていたのだが、ボクシング教室が終わった後、同じ場所で開かれることになったバレエ教室を目にする。早くに母親を亡くしたビリー。ジャッキーも「ビリーに強くなって欲しい」との思いからボクシングを習わせたのだが、何しろ保守的な田舎町、男は男らしくあるべしという思想が根強く、「バレエなどをやる男はオカマだ」という偏見に満ちており、ビリーも知らず知らずのうちにそうした考えに染まっている。ウィルキンソン先生からバレエに興味があるかどうか聞かれたビリーも最初は否定したが、その後、父親には内緒でレッスンを受け、バレエに惹かれていく。
ウィルキンソン先生から才能を見込まれたビリーは、「ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受験してみないか」と誘われる。だが当然ながら父親は反対。一度はバレエダンサーへの夢は絶たれたかに見えたのだが……。

伏線としてビリーの友人であるマイケルが実はトランスジェンダー(でいいのかどうかは正確にはわからない。LGBTのうちのGBTのどれかである)であるという設定がある。作曲を担当したエルトン・ジョンも男性と結婚したことで知られているため、そうした問題にも軽くではあるが触れられている。ただ、それは主題ではなく、重要なのは「らしさとは何か」ということであると思われる。

ダンスだけでなく、セリフやアクロバットをこなす子役の実力にまず感心する。日本初演時には千人を超える応募があり、その中から勝ち抜いた子ども達がビリー役を得ているが、今回も高倍率のオーディションを潜り抜けた子達であり、身体能力も表現力も並みの子役ではない。

チャイコフスキーの「白鳥の湖」より“情景”(「白鳥の湖」と聴いて誰もが真っ先に思い浮かべる音楽)をオールド・ビリー役の大貫勇輔を二人で踊る(デュエット)シーンがダンスとしては最大の見せ場であるが、ワイヤーアクションも鮮やかにこなしていた。

イギリスは階級社会であるが、そのことが最もはっきりと現れているのが、ロイヤル・バレエ・スクール受験のシーンである。エリオット親子以外はみな上流階級に属しており、日本版ではそれを表すために「ざます」言葉が用いられている。上流階級と労働者階級では当然ながら考え方が根本から異なるわけで、それが揉め事に繋がったりもする。
現代の日本は階級社会でこそないが、「上級国民」という言葉が話題になったり、格差や学歴の固定化などが問題視されるようになっており、イギリスのような社会へといつ変貌するかわからないという状況である。そもそも日本とイギリスは島国の先進国としてよく比較される存在である(イギリスも日本も先進国なのか今では怪しいが)。
「総中流」といわれた日本であるが、今では非正規社員が約4割を占め、ついこの間までの常識が通用しないようになっている。それを考えれば、このミュージカルを単なるサクセスストーリーと見るわけにはいかないだろう。そこには明確にして冷徹な視座も含まれている。

同じくイギリスの炭鉱町を描いた映画に「ブラス!」という作品(1996年制作)があり、これはバレエではなく音楽を題材にしているが、主題は同じである。ロードショー時に有楽町の映画館(今はなき銀座シネ・ラ・セット)で観て感銘を受けたが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を気に入った人はこの映画も観て欲しい。

毀誉褒貶激しかったサッチャーの政策だが、その後のイギリスが辿った道を冷静に見つめてみると、少なくとも「正しかった」とは言えないように思う。サッチャーが残した爪痕は今もイギリスだけでなく、世界各国で見ることが出来る。無論、日本も例外ではない。

なんだが、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」も観てみたくなった。

Dsc_0064

| | | コメント (0)

2020年10月31日 (土)

観劇感想精選(362) 森山未來リーディングパフォーマンス『「見えない/見える」ことについての考察』

2020年10月27日 阪神尼崎駅近くのあましんアルカイックホール・オクトにて観劇

尼崎へ。午後7時30分から、あましんアルカイックホール・オクトで、森山未來のリーディングパフォーマンス公演「『見えない/見える』ことについての考察」を観る。関西出身の森山未來による全国ツアーであるが、関西公演はフェニーチェ堺と、あましんアルカイックホール・オクトの2カ所で行われることになった。森山未來はロームシアター京都でもダンス公演に出演しているが、残念ながら今回は京都公演はなしである。初演は2017年で、この時は東京芸術大学上野キャンパス内のみでの公演となったが、森山未來初のソロ全国ツアー作品として再演が行われることになった。

ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(翻訳:雨沢泰。河出書房新社)とモーリス・ブランショの『白日の狂気』(翻訳:田中淳一ほか。朝日出版社)をテキストに用いているが、断片的であり、新型コロナウイルスの流行の喩えとして用いられていることがわかるようになっている。演出と振付は森山未來自身が担当する。企画・キュレーションは、長谷川祐子(東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科教授)。

あましんアルカイックホール・オクトのコロナ対策であるが、チケットの半券に名前と電話番号を記入。兵庫県独自の追跡サービス(メールを用いるものとLINEを使ったものの二種類)への登録も強制ではないが勧められているようである。今回は整理番号順による全席自由(午後7時開場)で、友人や夫婦同士で隣に座ったとしても一向に構わないようになっている。入場時に検温があり、手指の消毒が求められる。

客層であるが、当然というべきか、女性客が大半である。また余り積極的に宣伝がされていなかったためか、あるいは規制のためか、観客はそれほど多くはない。

入場口で音声ガイドが配られる。片耳に引っかけるタイプのイヤホンであるが、セリフや音楽などが流れ、劇場内でも他のセリフや音楽が鳴っているためラジオの混線のような効果が生まれている。

間に15分ほどの休憩を挟む二部構成の作品であり、共に上演時間30分ほどだが、第2部は第1部を手法を変えて繰り返すという形態が選ばれていた。第1部では森山未來がマイクを使って語ったセリフが、第2部ではマイクを使わずに発せられたり、その場で発せられていたセリフが録音になっていたり、その逆であったりと、中身はほぼ同じなのだが、伝達の仕方が異なる。これによって重層性が生まれると同時に、同じセリフであっても印象が異なることを実感出来るよう計算されている。

 

話は、ある男が、車を運転していた時に視力を失うという事件で始まる。視野が暗闇ではなく真っ白になり、まるで「ミルクの海」の飲み込まれたかのようと例えられる。同じ日に、子どもと16歳の売春婦が視界が白くなる病に冒され、病院に運ばれてきた。眼科医は、「失明は伝染しない。死がそうであるように。だが誰でもいつかは死ぬんだけどね」

だが、白の失明は蔓延するようになり、罹患した者はことごとく隔離される。他の多くの伝染病でも同様の措置がなされて来たわけだが、パンデミックを題材にしたテキストということで、新型コロナウイルスの騒動を直接想起させる形となっている。

断片的であるため分かりにくいが、戒厳令が敷かれ、軍部にも罹患する人が現れ、殺害事件まで起こり、それに反対する人々が反乱を起こすという展開になる。新型コロナでも似たようなことが起こっており、新型コロナ以外でもやはり同じようなことは起こっている。

第1部では、「見えなくなった? 見えなくなったっていつから? 最初から見えなかったんじゃないの? 私は最初から見えない状態で見ていた」というセリフが印象的である。コロナでも盲目的な行動が確認されたことは記憶に新しいが、新型コロナが蔓延してから急に人間性や国民性が変わったということではなく、今まで意識されていなかったことが可視化出来るようになったということである。同時にこれまで当たり前と思ったことが闇に飲み込まれ、見えなくなってしまっていたりもする。そうしたことは史上何度も起こってきたのだが、それでも変われないほど人間は愚かしく、世界は単純にして複雑である。
あましんアルカイックホール・オクトのエントランスで撮られた写真や上演中に撮影された客席の写真がスクリーンに映り、今行われているパフォーマンスが他人事ではないことが示唆される。

iPhoneを始めとするスマホの着信音が鳴り、その中で森山未來が踊る。情報化社会の中でもがき、サーバイブする姿のようだ。
それとは対称的に、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」よりアリアが音声ガイドから流れ、高雅にして悲痛なダンスがダイナミックに展開されたりもした。

第2部でも音楽は同じだが、ストーリーの結末は異なる。ストーリーと書いたが、「物語はやめてくれ」というセリフがある。今のこの状況は危険な物語に溢れている。
「街はあった」という救いともそうでないとも取れる言葉でパフォーマンスは終わるのであるが、容易に答えが出せないというのもまさに「今」であると思える。人智を超えた状況であり、本来はそのことに恐怖すべきなのだが、なぜか国同士や人種間もしくは同じ人種同士で争いが起こってしまっており、これまた妙な状況を生んでしまっている。生んでしまっているというより曖昧だったものがはっきり見えるようになってしまったというべきか。全ては「無知」が原因なのだが、人類はそれに対して謙虚になれないでいる。バッハはおそらく「己を超えた存在」に対して謙虚であった人物だと思われるが。

構成が良く、テキストや展開が抽象的であるのもまた良く、森山未來のキレのあるダンスが間近で見られて、見終わった後でも考えさせられる。これは観ておくべき公演だったと思う。

Dsc_0052

| | | コメント (0)

2020年6月28日 (日)

2346月日(21) 直七大学第84講「SDGsと仏教」

2020年5月31日

午後8時から、直七大学第84講「SDGsと仏教」をネット受講。SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)の先進順位において、京都市は日本の市町村の中で第1位に輝いており、京都市内の映画館ではそのことが京都市出身の漫才コンビであるブラックマヨネーズ出演のCMが予告編で流れて紹介されている。講師は浄土真宗本願寺派僧侶で、SDGsおてらネットワーク代表の西永亜紀子氏。冒頭は見ることが出来なかったため、自己紹介などは聞けなかったが、東京の築地本願寺所属だと思われる。

午後7時45分頃からパソコンの前で準備していたが、メールソフトのメール受信が遅いため、10分ほど遅れて参加することになる。メールソフトが頼りないのは知っていたので、事前にメールのダウンロード作業をしておくべきだったと思う。

最初は聞くだけにしようと思っていたのだが、ノートも取ることにする。

まず「エシカル」「エシカル消費」の紹介。自然環境や社会貢献に配慮した消費のことで、貢献を第一に考えて行われる。

バナナペーパーが紹介されたが、バナナの繊維を使用した紙であり、パルプを使用した普通の紙とは違って樹木を伐採しないため森林保護に役立ち、アフリカのザンビアではバナナペーパーが雇用の創出にも繋がっているという。

坂本龍一の、「買い物は投票行為だ」という言葉も紹介される。利便性などではなく環境第一という考えで購入するものを選ぶという意味で、自然や環境保護に以前から積極的だった坂本龍一らしい言葉である。西永氏も坂本龍一のファンであるようだ。

一般社団法人四方僧伽(サンガ)によるバングラデシュ難民のための仏陀バンクも紹介される。バングラデシュは国旗が日本に似ていることで有名だが、地の部分が緑であることから分かる通り、イスラム教の国である。ただ小さいながらも仏教を信仰している組織があるそうで、そこと協力して善意の融資を行い、返済はお布施という形で行われているそうである。

僧侶が作った新電力会社、TERA Enegyの紹介も行われる。再生可能エネルギーによる発電で、原子力によって発電されたものは用いない。電機代は一部がソーシャルグッド活動への寄付に回されるといった特徴があるようである。


レジ袋削減の問題。この4月からレジ袋有料化が始まっている店舗があり、私は東京ヤクルトスワローズのオフィシャルショップで購入したエコバッグをすでに愛用している。値段は1100円。有料レジ袋は1枚5円なので、元を取るには200回以上買い物に出掛けないといけなくなるが、7月1日からはコンビニでもレジ袋が有料化されるため、出番もかなり増えると思われる。ちなみにレジ袋が広まる前は、みんな風呂敷を下げるなどして買い物行っていた。「サザエさん」を見ると、サザエさんの時代には買い物かごを下げて買い物に出掛けるのが当たり前だったことがわかる。入れ物はこちら側で用意していたのだ。ただ新型コロナが流行ってからは、エコバッグにはコロナウィルスが付着する可能性が高いということでアメリカで使用禁止になるなど、逆行した動きも出始めている。


ジェンダーの問題。日本のジェンダーの先進度は、調査に協力した150ほどの国と地域の中で121位とかなりの下位。先進国の中では最下位である。仏教界でも女性の役割は、お茶くみ、掃除、雑用など、バブル期の一般職OL(お茶をくむことだけが仕事の「お茶くみOL」というものが実在した。今から振り返ると嘘のようだが)や現在の派遣社員の一部の仕事と同じようなものに限られており、また女性自身がそれを望む傾向にもあるという。

仏教の声明も男声の音程に合わせて行われるのが基本であるが、真宗興正寺派は次期門主が女性(真慶。俗名:華園沙弥香)になることが決定しているため、女声に合わせた声明も考案されようとしているようだ。

| | | コメント (0)

2019年12月 1日 (日)

これまでに観た映画より(145) アキ・カウリスマキ監督作品「希望のかなた」

2019年11月27日 京都シネマにて

京都シネマで、アキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」を観る。英題は「The Other side of Hope」で、邦題とはニュアンスはかなり異なる。フィンランドを代表する映画監督であるアキ・カウリスマキ(アキやミツコはフィンランドでは男性の名前である)であるが、これを最後の映画にしたい旨を発表済みである。2017年にベルリン国際映画際銀熊賞(監督賞)や、国際批評家連盟年間グランプリ、ダブリン国際映画祭でのダブリン映画批評家協会賞と最優秀男優賞、ミュンヘン映画祭の平和のためのドイツ映画賞ザ・ブリッジ監督賞などを受賞した作品。出演は、シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ、ヤンネ・ヒューテンアイネン、ヌップ・コイブ、サイモン・フセイン・アルバズーン、ニロズ・ハジ、マリヤ・ヤルヴェンヘルミほか。

内戦に揺れるシリア。北部のアレッポで暮らしていたカーリド・アリ(シェルワン・ハジ)は、空襲やテロが酷く、家族や親族のほとんどを失ってしまったこともあって亡命を決意し、国境を越えてトルコへ、更にギリシャを経て東欧を北へと向かう。ポーランドの港町でネオナチに襲撃されたアリは、貨物船の石炭の中に隠れる。船員一人に見つかるが、通報されるどころか食事を与えられるなど厚遇される。船員はフィンランドについて、「みんな平等でいい人が多いいい国」と語っていた。
ヘルシンキに着き、早速、難民申請を行うアリだったが、審査が降りるまでは囚人と同じような扱いである。そこでアリはイラク人の難民であるマズダック(サイモン・フセイン・アルバズーン)と出会い、親しくなる。
政府がアレッポの現状を戦地とはいえないと見做したため、アリの強制送還が決まる。シリアに送り返される日、アリは収容所を抜け出してヘルシンキの街に出る。アリには妹が一人いて、ずっと彼女を探して東欧を彷徨っていたのだ。シリアに帰るわけにはいかない。

一方、販売商などを行っていたヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は店を畳み、新たにレストラン経営を始めようとしていた。妻とは別れ、ポーカーで圧勝した金で、裕福な学生が多く住む地区で売りに出されていたレストランを買い取る。店員も前の店から引き継いだが、看板になる料理がなく、ビールしか売れない。そんなある日、レストランのゴミ出し場を占領していた男が一人。「ここが自分の家だ」と主張する男とヴィクルトロムは殴り合いとなる。その男こそアリであり、アラブ人で身長も171cmと西洋人に比べると小柄であるアリは、一発で伸されてしまうのだが、結果としてレストランの店員として採用される。アリは身の安全のために身分証を偽造して貰い(名をアリからフセインに変える)。マズダックに妹の居所がわかったら教えてくれるように頼む。

アキ・カウリスマキ監督の作品は、暴漢が出てくることが多いのだが、アリもレストランにたどり着くまでに、ごろつきのような地元の親父達に絡まれ、逃げ込んだバスにウイスキーの小瓶を投げつけられたりする。レストランでのライブを聴いていると、フィンランド解放軍という極右排斥主義組織のメンバーに囲まれ、会場を出た後で襲撃され、あわや落命寸前のところまで追い詰められている。フィンランドでも難民排斥問題は持ち上がっており、決していい人達ばかりではない。

アリとフィンランドの人達との交流であるが、センチメンタルになったりヒューマンドラマになったりするのは避け、クールな描写が一貫されている。いわゆる「感動」とは少し距離を置いて撮られた作品である。

どうもヘルシンキでは今、寿司がブームになっているようで、店の売り上げに悩むヴィクストロムは、ウエイターのカラムニウス(イルッカ・コイヴラ)の提案を受け、書店で日本関連の書籍を買い漁って得た知識で、「インペリアル・スシ」という店を始めてしまうのだが、ネタもシャリも全てがいい加減で、わさびはドデカ盛り。店員達は法被や浴衣を着て、「いらっしゃいませ」と日本語で日本人客を出迎える。店内には「竹田の子守唄」が流れている。当然ながら成功するはずもないのだが、このシーンで一番笑えるのはやはり日本人であろう。映画の中では日本酒の話が出てきたり、ラスト近くの良い場面でも日本の歌謡曲が流れたりと、日本的記号が鏤められている。

ラストはささやかな幸せの場面なのだが、悲しさも漂っており、「解決」はさせていない。物足りなく思う人も結構いそうだが、これが現実に最も近いのであろう。
あるいは、「続きはもう引退するような人間ではなく、もっと若い人が書け」ということなのかも知れない。

Dsc_8020

| | | コメント (0)

2019年11月 3日 (日)

美術回廊(42) KYOTO EXPERIMENT 2019 グループ展「ケソン工業団地」

2019年10月26日 京都芸術センターにて

京都芸術センターへ。現在、館内各所で京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT、KEX)2019参加作品である「ケソン工業団地」の展示が行われている。エントランスに映像展示と説明文があり、ギャラリー南では、ケソン工業団地で働いていた南側と北側の人々の写真展示がある。

南北朝鮮の協働によって開発されたケソン工業団地。北朝鮮国内で最も南に位置する大都市のケソン(開城)の経済特区に置かれ、北朝鮮が土地と労働力を韓国が技術と資本を提供して2004年にスタートした。いわゆる金大中の太陽政策の一環であり、北側と南側の人々が一緒に働くこの場所は、「南北統一の先駆け」と評価されたという。普段は一般市民は国境を越えることは出来ないが、ケソン工業団地に勤める韓国側の人々は、日々国境を越えて通勤していたという。
だが、2013年に北朝鮮が核開発を行ったことで韓国側が撤退を表明。2016年には操業がストップして、南北朝鮮が見た夢は12年の歴史で幕を下ろすことになった。

「ケソン工業団地」は、そこで働いていた一人一人に焦点を当てた3人のアーティスト(イ・ブロク、イム・フンスン、ユ・ス)による展示会であり、2018年の夏にソウルでの展示会が行われ、このたび京都でも開催されることになった。

 

ギャラリー南には、ケソン工業団地で働いていた人々の等身大と思われるパネルがある。入って来た側に並んでいるのが北朝鮮の人々、裏側が韓国の人々である。ぱっと見では北側の人なのか南側の人なのかはわからない。顔は勿論、服装でもである。
誰が見ても美少女と思えるような若い女性の写真もある。胸に金日成のバッジを着けており、北側の人だとわかるのだが、余り北っぽさはない。北朝鮮は美人の産地として知られており、ここのパネルでは北側の女性の方が綺麗に見えるが、サンプル数が少ないので「北側の方が美人」と断言は出来ない。意図的に綺麗な人が選ばれた可能性もある。
背後にはケソンの一帯の風景写真が壁一面に広がっていた。

 

講堂では映像展示が行われている。中央にスクリーンが立ち、両側から別々の映像が照射されている。入り口に近い方は棺桶を担いで歩く人物の映像、裏側はニュースなどを中心とした映像である。両方の映像は時折クロスする。

その奥の大広間には、ケソン工業団地の内部を再現したコーナーが設けられている。大広間は畳敷きであるが、今回は畳は取りのけられており、板敷きでの公開となっていた。ミシンがずらりと並び、キャビネットにはハングル文字の書かれた袋に入ったお菓子などが並んでいる。

 

3階のミーティングルーム2では、ケソン工業団地で作られた布袋の展示や、写真資料、映像展示などが行われている。布袋にはいかにも共産圏らしいデザインのものもあるが、中には偶然東京ヤクルトスワローズカラーになっているものもあって微笑ましい。

 

南北共通の夢が、短い間ではあったが達成されたことを物語る貴重な展示であった。

Dsc_7775

 

| | | コメント (0)

2018年10月18日 (木)

観劇感想精選(263) アルテ・エ・サルーテ 「マラー/サド」@クリエート浜松

2018年10月11日 浜松市のクリート浜松 ホールにて観劇

午後5時30分から、クリエート浜松のホールで、アルテ・エ・サルーテの「マラー/サド(原題は「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院の患者たちによって演じられらジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」)」を観る。フランス革命時のジャコバン派首領であるジャン=ポール・マラーと、サディズムの語源として知られ、後世に多大な影響を与えたマルキ・ド・サド(サド侯爵)を軸にした芝居である。

アルテ・エ・サルーテは、浜松市の音楽文化交流都市であるイタリア・ボローニャに拠点を置く非営利協会。エミリア・ロマーニャ州立地域保健機構ボローニャ精神保険局の精神障害者80名以上が通っており、そのうち41名がプロの俳優として、散文劇団(コンパニィア・ディ・プローザ、児童向け劇団(コンパニィア・ディ・テアトロ・ラガッツィ)、人形劇団(テアトロ・ディ・フィーグラ)、精神を題材とした放送局であるサイコラジオに所属している。
今回来日したのは散文劇団のメンバーである。2000年の創設で、ボローニャに本拠を置く劇団としては最古参になるという。

イタリアからはエミリア・ロマーニャ州のボローニャ市長代理やアルテ・エ・サルーテの主治医が同行しており、上演前にスピーチを行う。イタリア語通訳の方が頼りなく、州知事代理の方が遠州方言である「やらまいか」を観客達とやりたいと申し出るも上手く通じる、バラバラになってしまう。スタッフも演劇上演には明らかに慣れていないが、地方都市であるだけにこれは仕方がない。

今回の浜松上演は、静岡文化芸術大学の名誉教授&理事で、イタリア語・イタリア演劇を専門とする高田和文の協力によって実現したものであり、高田氏が真っ先にスピーチを行った。

舞台後方の白い壁には、「じゆう」「障害はあるけど奴隷じゃない!」「革命しよう 拘束反対」「自由 平等 友愛」「マラー万歳!」といった言葉が赤と青の文字で記されている。

「マラー/サド」。作:ペーター・ヴァイス。脚色・演出:ナンニ・ガレッラ。オリジナル音楽:サヴェルオ・ヴィータ。制作はエミリア・ロマーニャ演劇財団、NPOアルテ・エ・サルーテ、エミリア・ロマーニャ州立ボローニャ地域保健連合機構精神保険局。
1964年に初演が行われたドイツ演劇作品で、1967年にはピーター・ブルックによって映画化されている。

イタリアには1978年まで精神病専門の病院があり、多くの人がそこに強制入院させられていたが、今ではそうした押し込め型の長期入院型精神病院はなくなっていて、公立総合病院の精神専門部門での病状に応じた治療が中心となっているそうである。

シャラントン精神病院に収監されたマルキ・ド・サド(演出であるナンニ・ガレッラが演じている)が、患者達を使ってマラーの人生を描いた芝居を上演する模様を上演するいう劇中劇の入れ子構造になっている。

出演は、布告役(口上役。劇中劇では窃盗罪と境界例があるという設定):ミルコ・ナンニ、サド侯爵(ここには殺人の罪で入っている。偏執狂の持ち主):ナンニ・ガレッラ、ジャン=ポール・マラー(過激派、妄想型統合失調症):モリーノ・リモンディ、シャルロット・コルデー(嬰児殺人罪、躁鬱病、ナルコレプシー):ロベルタ・ディステファノ、シモンヌ・エヴラール(家庭虐待、ヒステリー):パメラ・ジャンナージ、デュペレ(強制性交等、錯乱性色情症):ロベルト・リジィ、ジャンヌ・ルー(破壊行為、誇大妄想症虚言癖):ルーチォ・パラッツィ、ロッシニュール(売春、強迫性窃盗症):イレーオ・マッツェティ、キュキュリュキュ(放火魔):増川ねてる 、ポルポック(麻薬密売、強迫症):デボラ・クインタバッレ、ココル(麻薬常用、境界例):ルカ・ファルミーカ、患者1(殺人により強制措置):ファビオ・モリナーリ、患者2:ニコラ・ベルティ、女医(医院長):マリア・ローザ・ラットーニ、看護士:ロレッタ・ベッキエッティ&カテリーナ・トロッタ、看守:ダビデ・カポンチェッリ。

まず、医院長からの挨拶で芝居が始まる。舞台は鉄格子の向こうであるが、医院長だけは客席側に出て、芝居を観る(これも演技の内)ことが出来る。クリエート浜松ではなく、シャラントン精神病院での院内上演という設定で、観に来ているのも同じ入院患者として劇の紹介を行う。

フランス革命直後のフランス。貴族階級が否定され、この世の春を謳歌していた貴族達は次々とギロチン送りにされている。庶民達は自分達の時代を築こうとしているが、そちらの方は順調には進んでいない。血気盛んな庶民達は自由を望み、決起を、というところで医院長からストップが掛かる。「熱くなりすぎる! もっと冷静に」との注文を受けて芝居再開。

多数の貴族をギロチン送りにしているマラー。だが重度の皮膚病に苦しみ、症状を和らげるために常に浴槽に水を張って浸かっていないと症状が悪化してしまう。身の回りのことは家政婦のシモンヌに全て任せていた。
理想に燃えるマラーであるが、浴槽に幽閉されたような状態である。

パリに出てきたばかりのカーン出身の少女がマラーの命を狙っている。シャルロット・コルデー。後に「暗殺の天使」として世界に知られることになる下級貴族出身のこの女性も閉鎖的な修道院から出たばかりで、自由と理想を追求していた。
ちなみにコルデー役の女優さんが一番症状が重いという設定であり、常に眠気に襲われている上に重篤な鬱状態ということで、自分の出番が来るまでは看護士の膝を枕にして眠っている。
シャルロットは1日に3度、マラーを訪問し、3度目に刺し殺すのであるが、気が昂ぶったシャルロッテは最初の訪問でいきなりマラーを殺そうとしてサドから注意を受ける。

反体制派のマラーと貴族階級出身のサドの意見は対立する。このマラーとサドのディベートが一つの軸になっている。
サドは自然を嫌う。自然は偉大なる傍観者、弱者が滅びるのを観察しているだけ。あたかも「沈黙の神」に対するかのような姿勢だ。一方のマラーは自然がもたらすことには意味があり、それを超克したいという希望がある(西洋においては自然の対語が芸術である)。

マラーは急速に革命を推し進めようとするが、サドに革命が起こっても何も変わっていないと指摘される。下層階級は革命の前も後も苦しみのただ中にいると。

マラーを支持する下層階級のグループは自分達の改革の邪魔になりそうな人物の名を挙げて、血祭りに上げようと騒ぐ。ラファイエットやビュゾー、ロベスピエールの名が挙がるが、そのうちに医院長や医師の名前が挙がったため医院長に芝居を止められる。そもそもカットされたはずの部分が上演されてしまっていたらしい。

マラーは貴族階級を憎み、下層階級に与えられた苦しみに比べれば、貴族階級の苦悩などまだまだ浅いと考えており……。

音楽が流れ、歌い、隊列を作って行進しと様々な要素を取り入れた芝居である。
イタリアでは1978年にバザーリア法により精神病院と閉鎖病棟の制度は廃止されたが、日本では精神障害者のうち重度の患者は何十年にも渡って精神病院に閉じ込められているという現実がある。そこに精神障害者の自由はない。
登場人物の多くも幽閉されている。現実の精神病院にだけではなく、あるいは病気に、あるいは階級に、あるいは年齢に、あるいは修道院に代表される宗教に。

芝居は、コルデーが意識の解放を遂げた後で、フランス国歌にしてフランス革命歌「ラ・マルセイエーズ」を全員で歌って終わる。「marchons,marchons(進め! 進め!)」の部分を「マラー、マラー」に変えられ、その後の歌詞もマラーへの応援歌となり、「障害はあるけど奴隷じゃない!」と希望を望む言葉で締めくくられる。

最後は、「ラ・マルセイエーズ」をファンファーレとして使用したビートルズの「愛こそはすべて(All you need is love)」が流れる中を出演者が踊って大いに盛り上がる。
「自由」そして「解放」を訴える芝居だけあって、革命期の高揚を伴う展開に説得力があり、病気や環境によって真に抑圧されてきた経験のある俳優が演じているだけあってオーバーラップの効果は大変なものである。
ラストの選曲も実に上手かった。

芝居の上演の後に、ティーチインのようなものがあり、浜松市内のみならず日本全国から集まった当事者、医療関係者によって様々な質問がなされ、演出家のナンニ・ガレッラや劇団員達が答えていた。

精神障害者が精神障害から完全に抜け出る日は、あるいは来ないのかも知れない。来るとしてもまだまだ先なのかも知れない。ただ、演じることで苦しみのある現実から一瞬でも抜け出すことは可能であるように思われる。自分ではない他者として生きる経験を持つということ。この点において演劇は有効だ。

 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

2346月日 AI DVD NHK交響楽団 THEATRE E9 KYOTO YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール よしもと祇園花月 アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オンライン公演 カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都シネマ 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都市京セラ美術館 京都府立府民ホールアルティ 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 劇評 動画 千葉 南米 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 教養番組 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画リバイバル上映 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 柳月堂にて 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 浮世絵 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 食品 飲料 香港映画