カテゴリー「経済・政治・国際」の20件の記事

2024年11月23日 (土)

観劇感想精選(477) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再々演(三演) 2024.11.10 SkyシアターMBS

2024年11月10日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

12時30分から、JR大阪駅西口のSkyシアターMBSで、Daiwa House Presents ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。2000年に製作されたイギリス映画をミュージカル化した作品で、日本では今回が三演(再々演)になる。前回(再演)は、2020年の上演で、私は梅田芸術劇場メインホールで観ている。特別に感銘深い作品という訳ではなかったのだが(完成度自体は映画版の「リトル・ダンサー」の方が良い)、とある事情で観ることになった。

今年出来たばかりのSkyシアターMBS。このミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」もオープニングシリーズの一つとして上演される。先にミュージカル「RENT」を観ているが、この時は2階席。今日は1階席だが、1階席だと音響はミュージカルを上演するのに最適である。程よい残響がある。演劇やミュージカルのみならず、今後は斉藤由貴などがコンサートを行う予定もあるようだ。オーケストラピットを設置出来るようになっていて、今日はオケピを使っての上演である。

ロングラン上演ということもあって、全ての役に複数の俳優が割り当てられている。前回は、益岡徹の芝居が見たかったので、益岡徹が出る回を選んだのだが、今回も益岡徹は出演するので、益岡徹出演回を選び、濱田めぐみの歌も聴いてみたかったので、両者が揃う回の土日上演を選び、今日のマチネーに決めた。

今日の出演は、石黒瑛土(いしぐろ・えいと。ビリー・エリオット)、益岡徹(お父さん=ジャッキー・エリオット)、濱田めぐみ(サンドラ・ウィルキンソン先生)、芋洗坂係長(ジョージ・ワトソン)、阿知波悟美(おばあちゃん)、西川大貴(にしかわ・たいき。トニー)、山科諒馬(やましな・りょうま。オールダー・ビリー)、髙橋維束(たかはし・いつか。マイケル)、上原日茉莉(デビー)、バレエダンサーズ・ベッドリントン(組)、髙橋翔大(トールボーイ)、藤元萬瑠(ふじもと・まる。スモールボーイ)ほか。
ベッドリントン(組)=岩本佳子、木村美桜、清水優、住徳瑠香、長尾侑南。


ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」は、映画「リトル・ダンサー(原題「Billy Elliot」)」をエルトン・ジョンの作曲でミュージカル化(「Billy Elliot the Musical」)したもので、2005年にロンドンで初演。日本版は2017年に初演され、2020年に再演、今回が三演(再々演)となる。日本でも初演時には菊田一夫演劇大賞などを受賞した。

ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」は、トニー賞で、ミュージカル作品賞、脚本賞、演出賞、振付賞など多くの賞を受賞している。なお、脚本(リー・ホール)、演出(スティーブン・ダルドリー)、振付(ピーター・ダーリング)は映画版と一緒である(テキスト日本語訳:常田景子、訳詞:高橋亜子、振付補:前田清実&藤山すみれ)。
ただ、社会批判はかなり強くなっており、冒頭の映像で、マーガレット・サッチャー(劇中ではマギー・サッチャーの愛称で呼ばれる。マーガレットの愛称にはもう一つ、メグというチャーミングなものがあるが、そちらで呼ばれることは絶対にない)首相が炭鉱の国有化を反故にした明らかな悪役として告発されているほか、第2幕冒頭のクリスマスイブのパーティーのシーンではジョージがサッチャーの女装をしたり、サッチャーの巨大バルーン人形が登場したりして、サッチャーの寿命が1年縮んだことを祝う場面があるなど、露骨に「反サッチャー色」が出ている。実際にサッチャーが亡くなると労働者階級の多くがパーティーを開いたと言われている。
イングランド北東部の炭鉱の町、ダラムのエヴァリントンが舞台なので、炭鉱で働く人の多くを失業に追いやったサッチャーが目の敵にされるのは当然なのだが、サッチャー的な新自由主義そのものへと嫌悪感が示されているようである。新自由主義は21世紀に入ってから更に大手を振って歩くようになっており、日本も当然ながらその例外ではない。

炭鉱の町が舞台ということで、日本を代表する炭鉱の存在する筑豊地方の方言にセリフが置き換えられている。
子役は多くの応募者の中から厳選されているが(1374人が応募して合格者4人)、今日、ビリーを演じた石黒君も演技の他に、バレエ、ダンス、タンブリング、歌など、高い完成度を見せている(2023年NBA全国バレエコンクール第1位、2023年YBCバレエコンクール第1位などの実績がある)。


反サッチャー色が濃くなっただけで、大筋については特に変更はない。1984年、ボクシングを習っていた11歳のビリー(どうでもいいことですが、私より1歳年上ですね)は、ボクシング教室の後に同じ場所で行われるバレエ教室のウィルキンソン先生(自己紹介の時に「アンナ・パヴロワ」と「瀕死の白鳥」で知られる名バレリーナを名乗る)にバレエダンサーとしての素質を見出され、ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受けてみないかと誘われる。しかし、男臭い田舎の炭鉱町なので、最初はビリーも「バレエをやるのはオカマ」という偏見を持ち、炭鉱夫であるビリーの父親もやはり「バレエはオカマがやるもの」と思い込んでいる。なお、ビリーの母親はすでに亡くなっているが、幻影として登場する(演:大月さゆ)。現在、町はサッチャリズムに反対したストライキ中で、炭鉱の将来の見通しも暗い。
人々は、英語で「仕事と命を守れ」、「この町を地獄に追い落とすな」等の文句の書かれたプラカードを掲げている(英語が苦手な人は意味が分からないと思われる)。

元々筋が良いため、バレエも日々上達し、次第にロイヤル・バレエ・スクールのオーディションを受けることに関心を見せていくビリー。しかし、オーディションの当日、警官達がストライキ中の町を襲撃するという事件があり、ビリーはオーディションを受けることが出来なくなってしまう。

作曲はエルトン・ジョンであるが、ビリーがジュラルミンの楯を持った警官達と対峙するときに、チャイコフスキーの「白鳥の湖」より情景のメロディーが一瞬流れ、ビリーがオールダー・ビリーとデュオを踊る(ワイヤーアクションの場面あり)シーン(映画ではラストシーンだが、ミュージカルでは途中に配される)にも「白鳥の湖」が用いられ、更にその後も一度、「白鳥の湖」は流れる。

ウィルキンソン先生を、ビリーが母のように慕うシーンは映画版にはなかったもの(そもそも映画版とミュージカル版ではウィルキンソン先生の性格が異なる)。またビリーの父親であるジャッキーが故郷への愛着を三拍子の曲で歌ったり、炭鉱の人々がビリーを励ます歌をあたかもプロテストソングのように歌い上げたりするシーンもより政治色を強めている。
ビリーの兄のトニーがいうように、炭鉱の人々はサッチャーによって全員失業させられる。これからどうやって生きていくのか。ビリーのサクセスストーリーよりもそちらの方が気になってしまう。ビリーのために乏しい財布からカンパをした人々だ。この後、炭鉱の閉鎖が決まり、地獄のような時代が待っているはずだが、皆、生き抜いて欲しい。

ビリーは、出る時も客席通路からステージに向かう階段を昇って現れたが、去る時も母親の幻影と決別した後に階段を使って客席通路に降り、客席通路を一番上まで上って退場した。客席から第二のビリーが現れるようにとの制作側のメッセージが感じられた。実際、今日のビリーを演じた石黒瑛土君もミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」の初演と再演を観てオーディション参加を決めたという。

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

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2024年5月31日 (金)

楽興の時(47)「TAIWAN+PLUS 2024 京都新宝島 KYOTO FORMOSA」音楽ステージ2日目 キンボー・イシイ指揮Style KYOTO管弦楽団ほか

2024年5月12日 左京区岡崎の京都市勧業館 みやこめっせ3階「第3展示場」にて

左京区岡崎の京都市勧業館 みやこめっせ3階「第3展示場」で、「TAIWAN+PLUS 2024 京都新宝島 KYOTO FORMOSA(台湾の別称。「美しい」という意味である)」というイベントの2日目にして最終日を見に行ってみる。台湾の屋台と、音楽ステージで行われる演奏の二本柱で行われる2日間のイベント。「TAIWAN+PLUS」は、これまでは東京の上野で行われてきたが、今年は文化施設が集中する「京都の上野」ともいうべき左京区岡崎のみやこめっせで行われることになった。入場無料である。

音楽ステージでは、キンボー・イシイ指揮のStyle KYOTO管弦楽団(イベント会社のStyle KYOTOがメンバーを集めたオーケストラで、常設ではないと思われるが、ゴールデンウィークにロームシアター京都で行われた「『のだめカンタービレ』音楽祭 in KYOTO」にも出演しており、仕事は多いようである)の演奏が行われており、京都市少年合唱団による「日本の四季・京のわらべ歌」(編曲:松園洋二)、京都市出身で同志社大学卒の毎日放送(MBS)アナウンサー・西村麻子が『徒然草』の現代語訳テキストを朗読する岸田繁(くるり)作曲の「京わらべ歌による変奏曲~朗読とオーケストラのための~」(広上淳一指揮京都市交響楽団の演奏、栗山千明の朗読によって初演された曲である)が取り上げられていた。西村麻子はアナウンサーだけあって朗読も安定感があって上手い。

ラストは台湾の少数民族・普悠瑪族出身の一族の歌唱による普悠瑪音樂家族×Style KYOTO管弦楽団の演奏が行われる。普悠瑪族は、台湾の台東市に住む少数民族で、南王村に居住することから南王族とも呼ばれているようである。全員、民族衣装を着ての登場。
「小鬼湖の恋」「冬の祭り」「美しき稲穂」「卑南山」「祖先頌歌」「みなさんさようなら(再見大家)」といった普悠瑪族の民謡が歌われ、キンボー・イシイ指揮のStyle KYOTO管弦楽団が伴奏を行う。なお、みやこめっせの「第3展示場」は当然ながら音響設計が全くなされていないため、ステージ上にマイクを何本も立てて、スピーカーで拡大した音が流れる。
背後のスクリーンには文字や映像が流れた。

指揮者のキンボー・イシイは、名前だけみると日系人っぽいが、日本人の指揮者である。台湾生まれということと、幼少期を日本で過ごしたほかは、ヨーロッパとアメリカで教育を受けたというところだけが一般的な日本人指揮者とは異なる。最初、ヴァイオリニストを志すも左手の故障のために断念し、指揮者に転向している。本名は石井欽一で、「一(いち)」を横棒に見立てた「キンボー」があだ名となり、師である小澤征爾から「お前はキンボーを名乗れ」と言われたことからあだ名の「キンボー」を芸名にしている。以前は母方の姓も含めたキンボー・イシイ=エトウと名乗っていたが、長すぎるためかキンボー・イシイに改めている。キャリアは欧米中心で、現在はドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州立劇場の音楽総監督。大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)の首席客演指揮者を務めていたこともあるが、関西のプロオーケストラの定期演奏会に出演する機会は最近では余り多くない。今年はNHK交響楽団の演奏会に客演し、NHK大河ドラマのテーマ曲集などを指揮。今年の大河ドラマである「光る君へ」の冬野(とうの)ユミ作曲によるテーマ音楽「Amethyst」や、昨年の大河ドラマ「どうする家康」の稲本響作曲によるテーマ音楽「暁の空」も指揮している。この演奏会は映像収録が行われ、NHK交響楽団の公式YouTubeチャンネルでその模様を見ることが出来る

アンコールとして、「野火」と「大巴望の歌」が歌われ、キンボー・イシイもマイクを向けられて一節を歌った(台湾生まれだけに言葉が出来るのかも知れない)。
かなり楽しい音楽で、珍しさもあり、聴衆に好評であったように思う。


午後5時過ぎに演奏が終わった後も、屋台などは午後6時まで営業を続けるが、食品などは屋内ということもあってか控えめ。お馴染みのパイナップルケーキや、日本ではブームが去ったタピオカ入りミルクティーなどを買って飲んだ。

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2022年8月20日 (土)

観劇感想精選(443) 学生演劇企画「ガクウチ」 in E9「そよそよ族の叛乱」

2022年8月13日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後7時から、THEATRE E9 KYOTOで、学生演劇企画「ガクウチ-学徒集えよ、打とうぜ芝居-」in E9「そよそよ族の叛乱」を観る。作:別役実、演出:小倉杏水。
京都や大阪の学生劇団14団体から36人の学生が集い、上演を行う企画。参加団体(50音順)は、演劇企画モザイク(同志社大学)、演劇集団Q(同志社大学)、演劇集団ペトリの聲(同志社大学)、演劇実験場下鴨劇場(京都府立大学)、劇団ACT(京都産業大学)、劇団明日の鳥(京都府立医科大学)、劇団月光斜(立命館大学)、劇団ケッペキ(京都大学)、劇団蒲団座(大谷大学)、劇団万絵巻(関西大学)、劇団〈未定〉(京都女子大学)、劇団愉快犯(京都大学)、劇団立命館芸術劇場、第三劇場(同志社大学)。「別役実メモリアル」参加作品である。

探偵と科学博物館に勤める女の二人が主人公となっている。サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を想起させるシーンがあるが、おそらく意図的に取り入れているのであろう。

午後2時33分、遺体が発見される。通報を受けた探偵は現場に駆けつける。女性の遺体であった。外傷は全くない。探偵と遺体に興味を持つ女が一人。科学博物館の地下にある鯨の骨の監視を職業としているのだが、鯨の骨を見に来る客は1ヶ月に1人程度の閑職である。

探偵と女は遺体の身長と体重を量る。身長165.5cm、体重39.8kg。かなりの痩身であり、女は「餓死したのではないか」と推理する。ちなみに身長165.5cmの女性は「大女」だそうだが、今でも高めで「スタイルが良い」と言われがちな身長ではあるが、現在では170cm以上ないと「大女」(という言葉自体今では使われないかも知れないが)とは呼ばれないだろう。時の流れを感じる。

今では餓死者が出た場合、「異例」とは見なされるだろうが、餓死する人がいるのかどうかは発表されないし、人々は「日本には餓死する者など今はいない」という前提で生きている。いるのかも知れないが見ないし知らないようにしている。それが現代の日本社会である。一方でアフリカなどには餓死者がいるのはよく知られており、「前提」ではある。だが、募金などはするかも知れないが我がこととして実感する日本人は少ないだろう。そうした社会に対して、別役は切り込んでいく。
「社会」の人々、個人個人は善良な人々である。それはこの劇でも描かれている。だがそれが全体となった時に「無関心」「事なかれ主義」といった目の曇りが生まれてしまう。

そよそよ族というのは、劇中では古代にいた失語症の民族と定義されているが、一方で、餓死者の痛みや「助けを呼べない心理」などを敏感に察知する人のことでもある。死体処理係の男は、餓死者が出たことの責任が自分にあるように感じ、「自首する」と言い出す。「誰かの分を自分が食べてしまった」とも語るのだが、この戯曲が書かれた1971年時点で日本は「飽食の時代」を迎えており、食料が足りているのみならず大量の残飯が社会問題になっていた。一方ではアフリカなどでは食べるものがなく餓死者が普通に出ている。そうしたことの痛みと責任を我がことのように受け取ることが出来るのが「そよそよ族」と呼ばれる人々である。飢えを訴えたとしても意味はない、餓死することでしか問題を提起することが出来ない。そうした現状を別役は「そよそよ族の叛乱」として訴えてみせるのである。

劇中で「そよそよ族」は自身の罪を訴えることしか出来ない。太宰治の言葉の逆を言うようだが、今の時代は「犠牲者」であることは必ずしも尊いことではないのかも知れない。だが「犠牲者」でなければ「自罰的」であらねば伝わらないものごとは確実にある。今現在の世界的状況に照らし合わせても意味のある、痛切なメッセージを持った本と上演であった。

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2022年2月13日 (日)

これまでに観た映画より(280) 「シン・ゴジラ」

2022年2月9日

Blu-rayで、日本映画「シン・ゴジラ」を観る。「エヴァンゲリオン」シリーズの庵野秀明が脚本と総監督を務めた作品であり、豪華キャストでも話題になった。

出演は、長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ、高良健吾、市川実日子、高橋一生、余貴美子、手塚とおる、渡辺哲、津田寛治、柄本明、嶋田久作、國村隼、平泉成、大杉漣ほか。その他にも有名俳優や、映画監督などがちょい役で出ている。ゴジラの動きは、野村萬斎の狂言での動きをコンピュータ解析したものである。

「ゴジラ」は第1作で、核の問題を描いた社会派の作品だった。その後、国民的特撮映画となってからは、人類の味方であるゴジラや、可愛らしいゴジラが描かれるなど、エンターテインメントの要素が強くなる。
私が初めて「ゴジラ」の映画を観たのは、1984年のことで、沢口靖子や武田鉄矢が出ていた作品である。現在のミニシアターとなる前の千葉劇場(千葉松竹)に母と二人で観に行った。1984年の「ゴジラ」も原点回帰作としても話題になったが、「シン・ゴジラ」もまた庵野秀明色を出しつつ、第1作目の「ゴジラ」のメッセージに帰った社会的な作品である。

「シン・ゴジラ」で描かれているのは、人々がゴジラというものを知らないパラレルワールドの現代日本である。そして作品全体が福島第一原子力発電所事故のメタファーとなっている。

3.11以前、準国営企業である各電力会社は、「日本の原発は安全です」と安全神話を振りまいていた。だが、福島第一原子力発電所が津波に襲われたことにより、事態は暗転。史上最悪レベルの原発事故を起こした日本は、これまで獲得してきた全世界からの信用を一気に失いかねない一大危機に陥る。そんな時であっても、政府は国民への呼びかけという最も大事な役割を果たすことが出来ず、菅直人内閣の信頼は地に落ちる。
菅直人は東京工業大学出身の理系の宰相で、放射線の波形などが読めるため、それを監視するのが自身がなすべき仕事と考えたようだが、結果としては傍から見ると引きこもっているようにしか思われず、また福島第一原発に乗り込んでもいるのだが、それが首相がまずすべきことなのかというと大いに疑問である。
「シン・ゴジラ」でも、対応が後手後手に回るという、いかにも日本らしい判断力の弱さが露呈し、いざとなったらアメリカ様頼りという悪い癖も描かれている。

原発安全神話があった頃、「そんなに安全だというなら、東京湾に原発を作ればいいじゃないか」という皮肉が反原発派から発せられたが、「もし東京湾の原発がメルトダウンを起こしたら」という話を、ゴジラとの戦いという形で上手く描いているように思う。個人的には余り好きな展開ではなかったが、「問題を描く」という意志は評価したい。

庵野秀明が総監督ということで、音楽も鷺巣詩郎の「エヴァンゲリオン」シリーズのものが用いられていたり、字幕に使われるフォントや短いカットによる繋ぎなど、「エヴァ」的な演出が意図的に用いられていて、全体が庵野カラーに染め抜かれている。
一方で、オープニングやエンディングは、「ゴジラ」第1作へのオマージュのような映像(というよりそれそのもの)が用いられており、エンディングも伊福部昭の音楽によるお馴染みのもので、いつとも分からぬ時代に迷い込んでしまったような独自の趣を醸し出している。「シン・ゴジラ」が「ゴジラ」第1作の正統的な後継作であるとの庵野監督の矜持も垣間見える。

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2021年7月14日 (水)

京都版ラ・デファンスのための覚え書き

 卒業後の就職先が少ないため、大学時代だけを過ごす「通過する街」とも呼ばれる京都。だが今後の事を考えれば、京都市内南部にパリのラ・デファンスに相当する経済特区を設ける必要があるのは明らかである。京都駅よりも北にそうしたものを作るのは景観上も問題があって不可能だが、南側なら可能である。景観上も過去と現在と未来が調和したものになるはずで、問題がないどころか望ましいものとなる。北陸新幹線の駅もそこに作ればなお良い。特に金沢との連携は重要である。双子都市である大津市を始めとする湖南地域も今はむしろ大阪との経済的結びつきが強くなっているが、京都駅の南側に京都版ラ・デファンスを設けられたなら、京滋の絆は強まるだろう。京都に拠点を置きたい企業はいくらでもあるので心配はない。大学の街、京都の特性を生かすなら、就職するのではなく京都で起業したいと考える学生の後押しも行いたい。税制などの優遇策を設ければ不可能ではないはずだ。

 近くに大阪という一大経済都市があるが、京都は名門大学や個性のある大学をいくつも抱えているということで、情報産業に重きを置きたい。製造業で大阪に勝つのは難しいため、棲み分け戦略が必要となる。

 京都版ラ・デファンスを置くべき場所は、らくなん進都および洛南新都心である。少しややこしい問題もあったりするが、開発は可能なはずである。京都市の財政再建策であるということを考えると、パリの隣町にあるラ・デファンスとは異なり、京都市内に置く必要がある。
 洛南新都心計画は交通の問題によって頓挫したままになっているが、従来計画されて全く進まなかった京都市営地下鉄烏丸線の延伸ではなく、新たに開発されたLRTなども含めた複数の交通手段を用いる。らくなん進都に北陸新幹線の駅を置くことで、交通は更に便利になる。らくなん進都と更に先の洛南新都心に向かう乗客数が増えれば、京都市営地下鉄の赤字問題も軽減され、将来的には解消される可能性もあるだろう。
 地域政党・京都党は、崇仁地区に京都市立芸術大学を移転させるのではなく商業地域にするプランを打ち出しているが、崇仁地区は景観上、経済特区のようなものを作るのは無理で、もっと南である必要がある。

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2021年4月 7日 (水)

これまでに観た映画より(254) 「レンブラントは誰の手に」

2021年4月3日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「レンブラントは誰の手に」(原題:「マイ・レンブラント」)を観る。ウケ・ホーヘンダイク監督作品。

オランダを代表する絵画の巨匠、レンブラント(1606-1669)。世界中にファンを持つ有名画家だが、彼が残した作品に対するそれぞれのスタンスを持った人物達の姿が、皮肉を交えて描かれる。

最も好意的に描かれているのは、スコットランドのバックルー公爵で、映画の最初とラストに彼が登場する。所蔵するレンブラントの「読書する老女」に心底惚れ抜いており、売る気など全くなく、毎日のように眺めては悦に入っているという正真正銘のレンブラント好きである。

他の登場人物はバックルー公爵に対比される役割となっており、俗物っぽく描かれているが、これはホーヘンダイク監督の切り取り方に由来する部分も多いと思われる。
画商のヤン・シックス11世(貴族の家系)は、競売の場で、「これはレンブラントの真作ではないか」と思われる作品の存在に気づき、作品を手に入れる。それまで周りから画商としての確かな評価を得られてこなかったものの、彼の目は確かで、全くといっていいほど注目されていなかったその作品がレンブラントの真作であると断定され、一躍時の人となるのだが、競売の際に「共同購入という形にしたい」と申し出ていた友人の画商を出し抜く形になったために訴えられ、更にレンブラントの作品かどうかを鑑定することで交流が芽生えていた大学教授とも絶縁することになる。

富豪のロスチャイルド家が、多額の相続税を払う必要が出たために、所蔵していたレンブラントの作品を、1億6000万ユーロという高値で売りに出すという話も描かれる。手を挙げたのはアムステルダム国立美術館とパリのルーブル美術館。しかし、1億6000万ユーロは高すぎるため、「共同購入にしよう」とアムステルダム国立美術館が提案。その後、アムステルダム国立美術館はレンブラント作品購入のための寄付を募り、レンブラントの祖国ということもあって、1億4000万ユーロと、あとちょっとで単独購入出来るだけの寄付金が集まる。ルーブル美術館が行っている寄付が完全な空振りとなっていることを知ったアムステルダム国立美術館側に「単独購入しよう」という動きも出るのだが、共同購入を申し込んだのがアムステルダム国立美術館側だったことから、倫理上難しいということになる。更に国家の威信をかけた動きが、背後で動き始めており、ついには「政争」にまで発展する。

「結局は金」という言葉も出てきており、本来のレンブラント作品や芸術の価値とは全く違った基準で起こっている美術界の出来事が描かれている。
だが、これはホーヘンダイク監督の芸術観と取材に基づいた編集がなされており、「芸術の価値は金や名誉とは別」という価値観が正しいとも言い切れないように思われる。少なくとも「紋切り型」という印象は受ける。単に愛好する(アマチュア)だけでなく、見抜いたり動いたりといったプロの働きも芸術には大切なはずである。

とはいえ、死んでから何百年も経つというのに、人々を感動させるのみならず、その作品の価値故に人間関係を破綻にまで導いてしまうレンブラント。天才とはげに怖ろしきものである。

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2020年11月 3日 (火)

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

2020年10月30日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。「リトル・ダンサー」という邦題で公開されたイギリス映画をエルトン・ジョンの音楽でミュージカル化した作品で、日本では2017年に初演され、今回は再演となり、今日が大阪公演初日である。

「リトル・ダンサー(原題「Billy Eliot」)」は、2000年に公開された、スティーヴン・ダルドリー監督の映画で、私もDVDで観ているが、かなりの好編に仕上がっていた。
スティーヴン・ダルドリー監督は元々は舞台演出家として活躍していた人であり、ミュージカル版でも演出を担当。イギリスを代表するミュージシャンのエルトン・ジョンの作曲ということもあって、高い評価を受けているが、こうして実際に観てみると、映画とは別物として評価すべきであるように感じる。感銘の度合いは映画の方が上である。舞台演出家であったスティーヴン・ダルドリーがまずは「映画として撮るべき」と判断したのであるから、それは間違いないだろう。舞台にしてしまうとどうしても背景が分かりにくくなってしまう。ミュージカル版は妙技を堪能する作品だ。

主演のビリー・エリオット少年役はクワトロキャスト(4人)であり、今日は川口調がタイトルロールを務める。他の役もダブルキャストで、今回はお父さん(ジャッキー・エリオット)役が益岡徹、ウィルキンソン先生役が柚希礼音、おばあちゃん役が根岸季衣、トニー(兄)役が中河内雅貴、ジョージ役が星智也、オールド・ビリー(成人後のビリー)役が大貫勇輔となっている。

梅田芸術劇場メインホールの新型コロナ対策であるが、運営元である阪急グループ独自の追跡サービスが導入されているのが特徴である。おそらく宝塚歌劇などでも用いられていると思われる。

 

英国病といわれた時代の北部イングランドの炭鉱の町・エヴァリントンが舞台ということで、英語の訛りが日本版では筑豊炭田や三池炭坑で知られる福岡県の言葉に置き換えられている。

下手からビリー・エリオット役の川口調が登場し、しゃがむと同時に紗幕に映像が映し出される。第二次大戦で英国がナチス・ドイツに勝利し、炭鉱も国営化されるということで更なる発展が英国にもたらされるはず……、というところで事態が暗転する。紗幕に映し出されたのはマーガレット・サッチャーだ。長期政権(1979-1990)を敷き、今でも20世紀後半の英国の首相というと真っ先に顔や名前が思い浮かぶマーガレット・サッチャー。高福祉社会の副産物ともいえる英国病克服のため新自由主義の先駆ともいえる政策を次々に打ち出し、労働者階級から目の敵にされた政治家である。サッチャーによって炭鉱は民営化され、ただでさえ斜陽の産業であったため多くの炭坑夫が苦境に立たされることになるのだが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」はそんな時代(1984年)の話である。

サッチャーの政策に反対し、エヴァリントンの炭坑夫達がストライキに入る。リーダー的存在のジャッキー・エリオットの息子で、11歳のビリー・エリオット(劇中で1つ年を取る)は、ボクシングを習っていたのだが、ボクシング教室が終わった後、同じ場所で開かれることになったバレエ教室を目にする。早くに母親を亡くしたビリー。ジャッキーも「ビリーに強くなって欲しい」との思いからボクシングを習わせたのだが、何しろ保守的な田舎町、男は男らしくあるべしという思想が根強く、「バレエなどをやる男はオカマだ」という偏見に満ちており、ビリーも知らず知らずのうちにそうした考えに染まっている。ウィルキンソン先生からバレエに興味があるかどうか聞かれたビリーも最初は否定したが、その後、父親には内緒でレッスンを受け、バレエに惹かれていく。
ウィルキンソン先生から才能を見込まれたビリーは、「ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受験してみないか」と誘われる。だが当然ながら父親は反対。一度はバレエダンサーへの夢は絶たれたかに見えたのだが……。

伏線としてビリーの友人であるマイケルが実はトランスジェンダー(でいいのかどうかは正確にはわからない。LGBTのうちのGBTのどれかである)であるという設定がある。作曲を担当したエルトン・ジョンも男性と結婚したことで知られているため、そうした問題にも軽くではあるが触れられている。ただ、それは主題ではなく、重要なのは「らしさとは何か」ということであると思われる。

ダンスだけでなく、セリフやアクロバットをこなす子役の実力にまず感心する。日本初演時には千人を超える応募があり、その中から勝ち抜いた子ども達がビリー役を得ているが、今回も高倍率のオーディションを潜り抜けた子達であり、身体能力も表現力も並みの子役ではない。

チャイコフスキーの「白鳥の湖」より“情景”(「白鳥の湖」と聴いて誰もが真っ先に思い浮かべる音楽)をオールド・ビリー役の大貫勇輔を二人で踊る(デュエット)シーンがダンスとしては最大の見せ場であるが、ワイヤーアクションも鮮やかにこなしていた。

イギリスは階級社会であるが、そのことが最もはっきりと現れているのが、ロイヤル・バレエ・スクール受験のシーンである。エリオット親子以外はみな上流階級に属しており、日本版ではそれを表すために「ざます」言葉が用いられている。上流階級と労働者階級では当然ながら考え方が根本から異なるわけで、それが揉め事に繋がったりもする。
現代の日本は階級社会でこそないが、「上級国民」という言葉が話題になったり、格差や学歴の固定化などが問題視されるようになっており、イギリスのような社会へといつ変貌するかわからないという状況である。そもそも日本とイギリスは島国の先進国としてよく比較される存在である(イギリスも日本も先進国なのか今では怪しいが)。
「総中流」といわれた日本であるが、今では非正規社員が約4割を占め、ついこの間までの常識が通用しないようになっている。それを考えれば、このミュージカルを単なるサクセスストーリーと見るわけにはいかないだろう。そこには明確にして冷徹な視座も含まれている。

同じくイギリスの炭鉱町を描いた映画に「ブラス!」という作品(1996年制作)があり、これはバレエではなく音楽を題材にしているが、主題は同じである。ロードショー時に有楽町の映画館(今はなき銀座シネ・ラ・セット)で観て感銘を受けたが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を気に入った人はこの映画も観て欲しい。

毀誉褒貶激しかったサッチャーの政策だが、その後のイギリスが辿った道を冷静に見つめてみると、少なくとも「正しかった」とは言えないように思う。サッチャーが残した爪痕は今もイギリスだけでなく、世界各国で見ることが出来る。無論、日本も例外ではない。

なんだが、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」も観てみたくなった。

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2020年10月31日 (土)

観劇感想精選(362) 森山未來リーディングパフォーマンス『「見えない/見える」ことについての考察』

2020年10月27日 阪神尼崎駅近くのあましんアルカイックホール・オクトにて観劇

尼崎へ。午後7時30分から、あましんアルカイックホール・オクトで、森山未來のリーディングパフォーマンス公演「『見えない/見える』ことについての考察」を観る。関西出身の森山未來による全国ツアーであるが、関西公演はフェニーチェ堺と、あましんアルカイックホール・オクトの2カ所で行われることになった。森山未來はロームシアター京都でもダンス公演に出演しているが、残念ながら今回は京都公演はなしである。初演は2017年で、この時は東京芸術大学上野キャンパス内のみでの公演となったが、森山未來初のソロ全国ツアー作品として再演が行われることになった。

ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(翻訳:雨沢泰。河出書房新社)とモーリス・ブランショの『白日の狂気』(翻訳:田中淳一ほか。朝日出版社)をテキストに用いているが、断片的であり、新型コロナウイルスの流行の喩えとして用いられていることがわかるようになっている。演出と振付は森山未來自身が担当する。企画・キュレーションは、長谷川祐子(東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科教授)。

あましんアルカイックホール・オクトのコロナ対策であるが、チケットの半券に名前と電話番号を記入。兵庫県独自の追跡サービス(メールを用いるものとLINEを使ったものの二種類)への登録も強制ではないが勧められているようである。今回は整理番号順による全席自由(午後7時開場)で、友人や夫婦同士で隣に座ったとしても一向に構わないようになっている。入場時に検温があり、手指の消毒が求められる。

客層であるが、当然というべきか、女性客が大半である。また余り積極的に宣伝がされていなかったためか、あるいは規制のためか、観客はそれほど多くはない。

入場口で音声ガイドが配られる。片耳に引っかけるタイプのイヤホンであるが、セリフや音楽などが流れ、劇場内でも他のセリフや音楽が鳴っているためラジオの混線のような効果が生まれている。

間に15分ほどの休憩を挟む二部構成の作品であり、共に上演時間30分ほどだが、第2部は第1部を手法を変えて繰り返すという形態が選ばれていた。第1部では森山未來がマイクを使って語ったセリフが、第2部ではマイクを使わずに発せられたり、その場で発せられていたセリフが録音になっていたり、その逆であったりと、中身はほぼ同じなのだが、伝達の仕方が異なる。これによって重層性が生まれると同時に、同じセリフであっても印象が異なることを実感出来るよう計算されている。

 

話は、ある男が、車を運転していた時に視力を失うという事件で始まる。視野が暗闇ではなく真っ白になり、まるで「ミルクの海」の飲み込まれたかのようと例えられる。同じ日に、子どもと16歳の売春婦が視界が白くなる病に冒され、病院に運ばれてきた。眼科医は、「失明は伝染しない。死がそうであるように。だが誰でもいつかは死ぬんだけどね」

だが、白の失明は蔓延するようになり、罹患した者はことごとく隔離される。他の多くの伝染病でも同様の措置がなされて来たわけだが、パンデミックを題材にしたテキストということで、新型コロナウイルスの騒動を直接想起させる形となっている。

断片的であるため分かりにくいが、戒厳令が敷かれ、軍部にも罹患する人が現れ、殺害事件まで起こり、それに反対する人々が反乱を起こすという展開になる。新型コロナでも似たようなことが起こっており、新型コロナ以外でもやはり同じようなことは起こっている。

第1部では、「見えなくなった? 見えなくなったっていつから? 最初から見えなかったんじゃないの? 私は最初から見えない状態で見ていた」というセリフが印象的である。コロナでも盲目的な行動が確認されたことは記憶に新しいが、新型コロナが蔓延してから急に人間性や国民性が変わったということではなく、今まで意識されていなかったことが可視化出来るようになったということである。同時にこれまで当たり前と思ったことが闇に飲み込まれ、見えなくなってしまっていたりもする。そうしたことは史上何度も起こってきたのだが、それでも変われないほど人間は愚かしく、世界は単純にして複雑である。
あましんアルカイックホール・オクトのエントランスで撮られた写真や上演中に撮影された客席の写真がスクリーンに映り、今行われているパフォーマンスが他人事ではないことが示唆される。

iPhoneを始めとするスマホの着信音が鳴り、その中で森山未來が踊る。情報化社会の中でもがき、サーバイブする姿のようだ。
それとは対称的に、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」よりアリアが音声ガイドから流れ、高雅にして悲痛なダンスがダイナミックに展開されたりもした。

第2部でも音楽は同じだが、ストーリーの結末は異なる。ストーリーと書いたが、「物語はやめてくれ」というセリフがある。今のこの状況は危険な物語に溢れている。
「街はあった」という救いともそうでないとも取れる言葉でパフォーマンスは終わるのであるが、容易に答えが出せないというのもまさに「今」であると思える。人智を超えた状況であり、本来はそのことに恐怖すべきなのだが、なぜか国同士や人種間もしくは同じ人種同士で争いが起こってしまっており、これまた妙な状況を生んでしまっている。生んでしまっているというより曖昧だったものがはっきり見えるようになってしまったというべきか。全ては「無知」が原因なのだが、人類はそれに対して謙虚になれないでいる。バッハはおそらく「己を超えた存在」に対して謙虚であった人物だと思われるが。

構成が良く、テキストや展開が抽象的であるのもまた良く、森山未來のキレのあるダンスが間近で見られて、見終わった後でも考えさせられる。これは観ておくべき公演だったと思う。

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2020年6月28日 (日)

2346月日(21) 直七大学第84講「SDGsと仏教」

2020年5月31日

午後8時から、直七大学第84講「SDGsと仏教」をネット受講。SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)の先進順位において、京都市は日本の市町村の中で第1位に輝いており、京都市内の映画館ではそのことが京都市出身の漫才コンビであるブラックマヨネーズ出演のCMが予告編で流れて紹介されている。講師は浄土真宗本願寺派僧侶で、SDGsおてらネットワーク代表の西永亜紀子氏。冒頭は見ることが出来なかったため、自己紹介などは聞けなかったが、東京の築地本願寺所属だと思われる。

午後7時45分頃からパソコンの前で準備していたが、メールソフトのメール受信が遅いため、10分ほど遅れて参加することになる。メールソフトが頼りないのは知っていたので、事前にメールのダウンロード作業をしておくべきだったと思う。

最初は聞くだけにしようと思っていたのだが、ノートも取ることにする。

まず「エシカル」「エシカル消費」の紹介。自然環境や社会貢献に配慮した消費のことで、貢献を第一に考えて行われる。

バナナペーパーが紹介されたが、バナナの繊維を使用した紙であり、パルプを使用した普通の紙とは違って樹木を伐採しないため森林保護に役立ち、アフリカのザンビアではバナナペーパーが雇用の創出にも繋がっているという。

坂本龍一の、「買い物は投票行為だ」という言葉も紹介される。利便性などではなく環境第一という考えで購入するものを選ぶという意味で、自然や環境保護に以前から積極的だった坂本龍一らしい言葉である。西永氏も坂本龍一のファンであるようだ。

一般社団法人四方僧伽(サンガ)によるバングラデシュ難民のための仏陀バンクも紹介される。バングラデシュは国旗が日本に似ていることで有名だが、地の部分が緑であることから分かる通り、イスラム教の国である。ただ小さいながらも仏教を信仰している組織があるそうで、そこと協力して善意の融資を行い、返済はお布施という形で行われているそうである。

僧侶が作った新電力会社、TERA Enegyの紹介も行われる。再生可能エネルギーによる発電で、原子力によって発電されたものは用いない。電機代は一部がソーシャルグッド活動への寄付に回されるといった特徴があるようである。


レジ袋削減の問題。この4月からレジ袋有料化が始まっている店舗があり、私は東京ヤクルトスワローズのオフィシャルショップで購入したエコバッグをすでに愛用している。値段は1100円。有料レジ袋は1枚5円なので、元を取るには200回以上買い物に出掛けないといけなくなるが、7月1日からはコンビニでもレジ袋が有料化されるため、出番もかなり増えると思われる。ちなみにレジ袋が広まる前は、みんな風呂敷を下げるなどして買い物行っていた。「サザエさん」を見ると、サザエさんの時代には買い物かごを下げて買い物に出掛けるのが当たり前だったことがわかる。入れ物はこちら側で用意していたのだ。ただ新型コロナが流行ってからは、エコバッグにはコロナウィルスが付着する可能性が高いということでアメリカで使用禁止になるなど、逆行した動きも出始めている。


ジェンダーの問題。日本のジェンダーの先進度は、調査に協力した150ほどの国と地域の中で121位とかなりの下位。先進国の中では最下位である。仏教界でも女性の役割は、お茶くみ、掃除、雑用など、バブル期の一般職OL(お茶をくむことだけが仕事の「お茶くみOL」というものが実在した。今から振り返ると嘘のようだが)や現在の派遣社員の一部の仕事と同じようなものに限られており、また女性自身がそれを望む傾向にもあるという。

仏教の声明も男声の音程に合わせて行われるのが基本であるが、真宗興正寺派は次期門主が女性(真慶。俗名:華園沙弥香)になることが決定しているため、女声に合わせた声明も考案されようとしているようだ。

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2019年12月 1日 (日)

これまでに観た映画より(145) アキ・カウリスマキ監督作品「希望のかなた」

2019年11月27日 京都シネマにて

京都シネマで、アキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」を観る。英題は「The Other side of Hope」で、邦題とはニュアンスはかなり異なる。フィンランドを代表する映画監督であるアキ・カウリスマキ(アキやミツコはフィンランドでは男性の名前である)であるが、これを最後の映画にしたい旨を発表済みである。2017年にベルリン国際映画際銀熊賞(監督賞)や、国際批評家連盟年間グランプリ、ダブリン国際映画祭でのダブリン映画批評家協会賞と最優秀男優賞、ミュンヘン映画祭の平和のためのドイツ映画賞ザ・ブリッジ監督賞などを受賞した作品。出演は、シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ、ヤンネ・ヒューテンアイネン、ヌップ・コイブ、サイモン・フセイン・アルバズーン、ニロズ・ハジ、マリヤ・ヤルヴェンヘルミほか。

内戦に揺れるシリア。北部のアレッポで暮らしていたカーリド・アリ(シェルワン・ハジ)は、空襲やテロが酷く、家族や親族のほとんどを失ってしまったこともあって亡命を決意し、国境を越えてトルコへ、更にギリシャを経て東欧を北へと向かう。ポーランドの港町でネオナチに襲撃されたアリは、貨物船の石炭の中に隠れる。船員一人に見つかるが、通報されるどころか食事を与えられるなど厚遇される。船員はフィンランドについて、「みんな平等でいい人が多いいい国」と語っていた。
ヘルシンキに着き、早速、難民申請を行うアリだったが、審査が降りるまでは囚人と同じような扱いである。そこでアリはイラク人の難民であるマズダック(サイモン・フセイン・アルバズーン)と出会い、親しくなる。
政府がアレッポの現状を戦地とはいえないと見做したため、アリの強制送還が決まる。シリアに送り返される日、アリは収容所を抜け出してヘルシンキの街に出る。アリには妹が一人いて、ずっと彼女を探して東欧を彷徨っていたのだ。シリアに帰るわけにはいかない。

一方、販売商などを行っていたヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は店を畳み、新たにレストラン経営を始めようとしていた。妻とは別れ、ポーカーで圧勝した金で、裕福な学生が多く住む地区で売りに出されていたレストランを買い取る。店員も前の店から引き継いだが、看板になる料理がなく、ビールしか売れない。そんなある日、レストランのゴミ出し場を占領していた男が一人。「ここが自分の家だ」と主張する男とヴィクルトロムは殴り合いとなる。その男こそアリであり、アラブ人で身長も171cmと西洋人に比べると小柄であるアリは、一発で伸されてしまうのだが、結果としてレストランの店員として採用される。アリは身の安全のために身分証を偽造して貰い(名をアリからフセインに変える)。マズダックに妹の居所がわかったら教えてくれるように頼む。

アキ・カウリスマキ監督の作品は、暴漢が出てくることが多いのだが、アリもレストランにたどり着くまでに、ごろつきのような地元の親父達に絡まれ、逃げ込んだバスにウイスキーの小瓶を投げつけられたりする。レストランでのライブを聴いていると、フィンランド解放軍という極右排斥主義組織のメンバーに囲まれ、会場を出た後で襲撃され、あわや落命寸前のところまで追い詰められている。フィンランドでも難民排斥問題は持ち上がっており、決していい人達ばかりではない。

アリとフィンランドの人達との交流であるが、センチメンタルになったりヒューマンドラマになったりするのは避け、クールな描写が一貫されている。いわゆる「感動」とは少し距離を置いて撮られた作品である。

どうもヘルシンキでは今、寿司がブームになっているようで、店の売り上げに悩むヴィクストロムは、ウエイターのカラムニウス(イルッカ・コイヴラ)の提案を受け、書店で日本関連の書籍を買い漁って得た知識で、「インペリアル・スシ」という店を始めてしまうのだが、ネタもシャリも全てがいい加減で、わさびはドデカ盛り。店員達は法被や浴衣を着て、「いらっしゃいませ」と日本語で日本人客を出迎える。店内には「竹田の子守唄」が流れている。当然ながら成功するはずもないのだが、このシーンで一番笑えるのはやはり日本人であろう。映画の中では日本酒の話が出てきたり、ラスト近くの良い場面でも日本の歌謡曲が流れたりと、日本的記号が鏤められている。

ラストはささやかな幸せの場面なのだが、悲しさも漂っており、「解決」はさせていない。物足りなく思う人も結構いそうだが、これが現実に最も近いのであろう。
あるいは、「続きはもう引退するような人間ではなく、もっと若い人が書け」ということなのかも知れない。

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