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2021年6月18日 (金)

これまでに観た映画より(263) アルフレッド・ヒッチコック監督作品 「サイコ」

2021年6月16日

録画してまだ観ていなかったBSプレミアムのプレミアムシネマ「サイコ」を観る。アルフレッド・ヒッチコック監督の代表作の一つで、興行成績は最高。知名度においても一二を争う。

「サイコ」は有名作なので、これまでにテレビで放送されたものを何度か観ている。一番最初に観たのは、まだ二十代前半だった頃で、テレビ東京で日曜の昼下がりに放送されていた映画劇場においてだった。当時のテレビ(地上アナログ放送)では、深夜を除いて洋画を放送する際は必ず吹き替え版であり、最初に観た「サイコ」も当然ながら吹き替えであった。余談であるが、京都ではテレビ東京系の地上波放送を見ることは基本出来ない。テレビ東京の関西準キー局であるテレビ大阪とKBS京都テレビとの放映権争いによるものである。


今でこそサイコサスペンスの名作は数多いが、ヒッチコックの「サイコ」はその先駆けであり、全てのサイコサスペンスがヒッチコックの「サイコ」の影響を受けているといっても、決して過言ではない。

出演:アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー、ヴェラ・マイルズ、ジョン・ギャビンほか。原作:ロバート・ブロック、脚本:ジョセフ・ステファノ。音楽:バーナード・ハーマン。

バーナード・ハーマンは映画音楽の巨匠で、ヒッチコック映画の音楽もいくつも手掛けているが、「サイコ」の音楽は、彼が書いた作品の中でも最高の部類に属すると思われる。シャワーシーンの音楽が特に有名だが、その他の音楽も素晴らしい。オープニングテーマも心の動揺と焦燥感や不安定さ、車の疾走感などを音楽で見事に描き切っており、それでいてどこかエレガントである。

映画史上最も衝撃的な音楽としても知られるシャワーシーンの音楽であるが、シャワーシーンは音楽のみならずカット割りも有名で、ヒッチコックを取り上げた書籍によくシャワーシーンのカット割りの写真が載っている。

今はサイコサスペンス作品も珍しくないので、若い人が「サイコ」を観てもそれほどの衝撃を受けないかも知れないが、公開時にはこの手の映画はほとんど存在しなかった。また押さえておかねばならないのは、ジャネット・リーが当時の人気女優だったということである。そのため観客は最初のうちは、「サイコ」が彼女を主人公とするクライムスリラーだと信じて疑わなかった。ところが……、という点が衝撃だったのである。

今の大都市の映画館は完全入れ替え制が基本だと思われるが、私が若い頃はまだそれほど厳しくなく、途中から入って何度も映画を観るということも可能だった。だが、ヒッチコックは全ての映画館に途中入場を禁じる旨を言い渡したという。有名な作品なので、ストーリー展開を全て知っている人も多いと思うが、少しだけ内容を明かすと、主役と思われたジャネット・リーの出演シーンは、映画が半分にもたどり着かないうちに終わってしまい、その後二度と現れない。途中から映画館に入った客が、「なんでジャネット・リーが出ていないんだ?」と不審がるのを防ぐための措置であった。

これまた有名な話であるが、「サイコ」は便器がスクリーンに映る映画史上初の作品である。検閲があり、日常生活で隠されている部分は撮影しないという決まりがあった。当然ながら検閲に引っかかりそうになったが、「どうしても必要なシーンだから」という説得が成功し、カットされることなく上映されている。

ノーマン・ベイツを演じたアンソニー・パーキンスは、これが出世作となり、日本でも人気が出てCMにも出演している。アイビーリーグのコロンビア大学卒というインテリであり、ノーマンがしょっちゅう飴をなめているというのは、パーキンスが出したアイデアである。コロンビア大学在学中にフランス語をマスターしており、「サイコ」がヒットした後は、ノーマンのイメージに固定されるのを嫌い、パリに移住してフランス映画への出演を続けた。だが、結局は彼はノーマンから逃れることは出来ず、人気に翳りが見えてからはヒッチコック以外が手掛けた「サイコ」シリーズに出演せざるを得なかった。同性愛者であったことも彼を苦しめたという。1992年、エイズが原因の合併症により他界。

 

ちなみに「サイコ」は、脚本、音楽などはそのままに1998年にカラー映画としてリメイクされている。監督はガス・ヴァン・サントが担当し、製作側もかなり力を入れたことが窺われるが、大コケに終わり、ヒッチコックの偉大さが改めて浮かび上がる結果となった。

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2021年6月17日 (木)

サラ・ハツコ・ヒックス指揮デンマーク国立交響楽団 バーナード・ハーマン 「サイコ」組曲

東京生まれ、ホノルル育ちのサラ・ハツコ・ヒックスが指揮するヒッチコック映画「サイコ」の音楽。作曲はバーナード・ハーマン。演奏はデンマーク国立交響楽団。

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2021年6月15日 (火)

村上ゆき 「積水ハウスの歌」

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2021年6月 8日 (火)

これまでに観た映画より(262) 「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」

2021年6月5日 マルタ・アルゲリッチの80歳の誕生日に

録画してまだ観ていなかったドキュメンタリー映画「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」を観る。フランス=スイス合作作品。実は今日、6月5日はマルタ・アルゲリッチの誕生日であり、彼女は満80歳、日本でいう傘寿を迎えた。
撮影・監督はステファニー・アルゲリッチ。彼女の三女である。邦題の「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」からはアルゲリッチのサクセスストーリーが描かれているような印象を受けるが、実際はアルゲリッチの影の部分に迫った作品と見た方が適当であるように思われる。

原題は「Bloody Daughter」。これは、「いまいましい娘」という意味で、ステファニー・アルゲリッチの父親であるスティーヴン・コヴァセヴィチがステファニーを称した言葉である。日本語でいう「いまいましい娘」とは別の意味があるようだ。

アルゲリッチには女ばかり三人の子どもがいるが、父親は全員違う。長女、リダの父親は中国系指揮者のロバート・チェン、次女のアニーの父親は日本でもお馴染みである指揮者のシャルル・デュトワ、そしてステファニーの父親はピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチである。現役最高の天才ピアニストの一人であり、女性ピアニストとしては史上最高といっていいほどの才能の持ち主であるマルタ・アルゲリッチだが、娘のステファニーが捉えたアルゲリッチの姿は、どう見ても幸せそうには感じられない。音楽を愛しているが、演奏する喜びよりも不安や虚しさの方が強く感じられ、精神的には不安定で、人生を謳歌しているとは言い難いように思われる。

映画は、ステファニーの出産にアルゲリッチが立ち会うところから始まり、ステファニーの息子、つまり孫にピアノや歌を教えるシーンで終わる。アルゲリッチの60歳から70歳までの姿が収められている。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれたアルゲリッチだが、12歳の時に一家でウィーンに移住。フリードリヒ・グルダに師事する。以降、ブエノスアイレスに戻ることはほとんどなかったようだが、この映画にはブエノスアイレスを訪れたアルゲリッチが、子どもの頃に父親とよく動物園を訪れて写真を撮ったという思い出を語る場面がある。

デュトワと結婚していた時代に、二人でインタビューに応じた映像が流され、二人の娘であり、現在はジャーナリストとして活躍するアニー・デュトワも映像と写真で出演。ヴィオラ奏者となった長姉のリダも登場する。

ステファニーの父親であるスティーヴン・コヴァセヴィチは、チェンやデュトワとは違い、今現在の姿が収められている。ステファニーによると、コヴァセヴィチは「母と違って、毎日ピアノを弾く」。アルゲリッチは天才ピアニストではあるが、ムラのあるタイプであり、またかなり変わった人物でもある。このドキュメンタリー映画の中で口にしている言葉も、意味不明というほどではないが、通常の人とは明らかに変わったものの捉え方と表現の仕方をしていることが分かる。天才ピアニストであるだけに、個性的且つ即興的、偉大な作曲家の作品を奏でているが、あたかもその場で頭に浮かんだばかりのような新鮮な音楽を生み出すことが出来るアルゲリッチ。だが、その姿に誰よりも自分自身が違和感を覚えているようですらある。若い頃はピアノが嫌いだったそうで、自分が描いていたものとは別の人生を歩んでいることの不可思議さと自身の才能に振り回されているようにも見える。日々演奏旅行を行う日常に不満を感じているようであり、もっとじっくりと自分と向かい合いたいのだがその時間が取れないもどかしさがあるようだ。
アルゲリッチは一頃はキャンセル魔として知られ、また長い間、ピアノ独奏の演奏会を一切行わない時期があった。理由は、「ステージ上に一人でいると寂しい」という、およそプロのピアニストとは思えないものであったようだが、そうした不安を抱える様子もこの作品の映像には収められている。

スティーヴン・コヴァセヴィチは、味のあるピアノを弾く人だが、天才ピアニストではない。だが、皮肉なことに表現上の迷いがない分、ピアニストとしてはコヴァセヴィチの方がずっと幸せそうに見える。アルゲリッチとコヴァセヴィチはステファニーが2歳の時に離婚しており、ステファニーがどちらの姓を名乗るかは、両親がコイントスで決めたそうで、結果、アルゲリッチ姓を名乗ることになった。そんないい加減な調子なので、コヴァセヴィチもステファニーを認知していない。ということで、出生当時のステファニーの苗字は「デュトワ」とされていたそうだ。コヴァセヴィチとステファニーの関係は良好なようだが、ステファニーがコヴァセヴィチに「父親と認める手続きをして欲しい」と申し出たシーンで、コヴァセヴィチは手続きの仕方がよく分かっておらず、必要な資料の在処も忘れていることが判明する。音楽家はその才能の代わりに何かが欠落しているようである。

ちなみに最初の正式な結婚相手であるシャルル・デュトワも実力派の指揮者で、フランス音楽演奏の第一人者であるが、やはり天才というよりも職人タイプであり、天才であるアルゲリッチは、自身とは異なった特性を持った音楽家を選んでいることになる。映画の中で語られるアルゲリッチの言葉を聞くと、意図的に選んでいるのではないかと予想される。
アルゲリッチが音楽を「愛のようなもの」と例える場面があるが、愛においては、アルゲリッチは勝者とは呼べないようである。

リダ、アニー、ステファニーは共に父親似であり、顔も、おそらく性格もアルゲリッチには似ていない。アニーとステファニーは姉妹のように育てられたようで、二人で写っている写真や映像が存在する。ある時期まではリダの存在は二人には秘せられていたようだ。
なお、幼いステファニーの世話は教育面でも生活面でもアニーが担っており、アルゲリッチは母親としては完全に無能であることが分かる。幼いアニーとデュトワと三人で写ったインタビュー映像でもアニーの面倒はデュトワが見ており、アルゲリッチは横にいるだけだ。その後は、ステファニーの面倒は、アルゲリッチの愛人となったピアニストのミシェル・ベロフが見るようになったが、やはりアルゲリッチは何もしていないようである。

ちなみに、アルゲリッチの家にビデオカメラを持ち込んだのはアルゲリッチ本人だそうで、日本で演奏会を行った時に購入し、土産として娘に与えたようだ。アルゲリッチは別府アルゲリッチ音楽祭の主催者であるため、来日してリダ(と撮影のステファニー)と共に新幹線に乗り、箸を使って駅弁を頬張るシーンがある。別府市のホールとその周辺、リダのヴィオラとのリハーサルシーンも収められている。

彼女の即興的な演奏スタイルは、ワルシャワで行われるコンサートのリハーサル、ショパンのピアノ協奏曲第1番を弾く際に最も分かりやすい形で伝わってくる。通常とは違うスタイルでの演奏をすることを思いついたアルゲリッチだが、それは閃きというよりも、向こうから来たもののようで、アルゲリッチ本人もその理由を説明することが出来ない。

その言葉では表現出来ない何かの存在を本編の最後でアルゲリッチはステファニーに伝えている。おそらくその何かは音楽であるのだと思われるのだが、音楽はアルゲリッチ本人にも統御出来るものではないようだ。こうしたピアニストの常として、アルゲリッチもホロヴィッツに憧れ、ニューヨークに渡り、ホロヴィッツの家のそばに部屋を借りて滞在していたことがあるのだが、面会は叶わなかったそうである。

アルゲリッチがコンサート終了後に延々とサイン会を行うのを、幼い頃のステファニーは不満に思っていたことが語られる。だが、この映画に収められたサイン会のシーンでアルゲリッチは実に生き生きとしている。普段のアルゲリッチは疲れたような厭世的な表情をしているが、サイン会の時は顔色が違う。ステファニーが言う「女神」のように。
アルゲリッチは幼い頃から国際的なピアノコンクールで優勝し、「美貌の天才ピアニスト」として引く手あまたで、数々の音楽家と共演した。彼らの中に正真正銘の天才は少なかったかも知れないが、いずれも特別な種類の人々であったのは確かだ。あるいはサイン会の時間は、彼女に許された数少ない普通の人々と触れ合う機会だったのかも知れない。

アルゲリッチと三人の娘がピクニックに出掛け、ペディキュアを塗り合うシーンがある。いずれも父親は違うが、三人の娘と過ごすアルゲリッチは、ある意味、平凡な女性にすら見える。だが、アルゲリッチの真の意味での娘は実は音楽以外にはいないのではないだろうか。そしてその真の娘は、腹を痛めて生んだ三人の父親似の娘よりもいまいましい娘(Bloody Daughter)であり、アルゲリッチ本人を揺すぶり続ける。
冒頭付近に、ステファニーがアルゲリッチについて「彼女の方が自分の子どもなのではないかと思われる」と語るナレーションがある。そこからは音楽の母である天才マルタ・アルゲリッチと、音楽の娘でもある幼いマルタ・アルゲリッチという二つの姿が浮かぶ。音楽は選ばれた者を人と同等には育まないようだ。

音楽の神に愛されたが故に音楽に利用され、やりたいことも出来ず、娘ともずっと向き合えなかった孤独な天才の肖像である。結婚していた時代にデュトワがインタビューで答えていたが、「演奏家は音楽を義務としてやるため、本当にしたいことは出来ない」という意味の言葉は本当のことのようである。

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2021年6月 7日 (月)

グラインドボーン音楽祭2012 ロビン・ティチアーティ指揮指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団ほか モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」

2021年5月4日

Blu-rayで、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を観る。2012年のグラインドボーン音楽祭での収録。指揮は、「第二のラトル」といわれたこともある若手のロビン・ティチアーティ。古楽器オーケストラであるエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の演奏。演出は、マイケル・グランデージで、彼は舞台を1960年代から70年代のヒッピームーブメントの時代に置き換えており、バルバリーナなどはサイケデリックなファッションに身を包んでいる。

出演は、リディア・トイシャー(スザンナ)、ヴィート・ブリアンテ(フィガロ)、サリー・マシューズ(アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、アウドゥン・イヴェルセン(アルマヴィーヴァ伯爵)、イザベル・レナード(ケルビーノ)、アン・マレー(マルチェッリーナ)、アンドリュー・ショ(バルトロ)ほか。
合唱は、グラインドボーン合唱団。
オーパス・アルテからの発売で、日本語字幕付き(他に英語、フランス語、ドイツ語、韓国語の字幕が付いている)。ナクソス・ジャパンによる輸入販売。

「セビリアの理髪師」では、フィガロと組んでロジーナとの結婚を成功させた才人のアルマヴィーヴァ伯爵であるが、続編である「フィガロの結婚」では、初夜権を復活させて、フィガロの婚約者であるスザンナの貞操を奪おうとする悪漢に変身している。「セビリアの理髪師」と「フィガロの結婚」の間に何があったのかは分からないが、伯爵夫人となったロジーナとの間に、何らかのすれ違いがあった可能性もある。

理髪師というホームレスが多い職業であったフィガロであるが、ロジーナとの結婚を取り持った功により、アルマヴィーヴァ伯爵の召使いに昇進。伯爵邸の一部に部屋を頂き、そこで許嫁のスザンナと共に過ごせるということでウキウキである。だが、スザンナは伯爵の企みに気づいており、スザンナから話を聞いたフィガロもそれを信じざるを得なくなる。そして、アルマヴィーヴァ伯爵の浮気の現場をつかもうという計画を練り、スザンナの身代わりとして小姓のケルビーノを使おうという話になる。
一方、「セビリアの理髪師」では、ロジーナをアルマヴィーヴァ伯爵とフィガロに奪われたバルバロは、年増のマルチェッリーナをフィガロと結婚させ、フィガロとスザンナの仲を裂くことで復讐を図る。マルチェッリーナはフィガロに恋しており、スザンナとどちらがフィガロの結婚相手に相応しいか、鞘当てを始める。
ケルビーノが去ったため、伯爵夫人はスザンナと計略を図り、互いの衣装を入れ替えて、伯爵夫人本人がスザンナに化けて夫の不貞を暴こうとする。しかし、二人の計略をフィガロもケルビーノも知らないため、想定外の狂騒(ラ・フォル・ジュルネ)が起こってしまう。
さて、フィガロとマルチェッリーナとの結婚を認めるか否かの裁判であるが、結婚は有効との判決が出る。だが、予想外の事実が判明して……。

イギリスのシックな建築が基本となった舞台。序曲演奏中も幕は下りておらず、伯爵の使用人達が表の掃除をしたり、ものを運んだりしている。フィガロも使用人頭として甲斐甲斐しく働いている。1960年代から70年代ということで伯爵と伯爵夫人がオープンカーに乗って現れ、フィガロが伯爵夫人をエスコートする。

ロビン・ティチアーティ指揮のエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団であるが、はち切れんばかりの生命力が印象的である。推進力とアンサンブルの精度も優れている。
20世紀半ばから80年代に掛けて主流だったロマンスタイルの演奏は情緒面の拡大には寄与したが、モーツァルトの音楽が持っている本来の意味での快活さや爆発力が犠牲になっていたのかも知れない。古楽器のオーケストラとその扱いに長けた若い指揮者の演奏によって初演時30歳そこそこだったモーツァルトの若々しさが復活したような印象を受ける。

フィガロを演じるヴィート・ブリアンテは男前で、おそらく女性にモテモテのはずである。なんだかんだで男前は得で、見た目だけで才気ありそうなフィガロに見える。

ボーマルシェの原作は、露骨に貴族階級批判の意図が込められたものだが、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本によるモーツァルトの歌劇版は貴族に対する矛先はそれほど鋭いものではなく(それでも貴族批判を感じ取った貴族中心の聴衆には不評で初演は数日のみで打ち切られた。現代の演出は鋭い場面をカットした穏健なものが主流であり、この上演でも端折られている)恋にまつわるドタバタが中心で、それ故に長年に渡ってオペラ史上屈指の人気を博してきたのだと思われる。

若手中心のキャストで、若者のムーブメントが盛んであった1960年代から70年代に舞台を移すことで、若々しさのエネルギーを前面に押し出した上演となっている。

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2021年6月 5日 (土)

コンサートの記(725) 高関健指揮 京都市交響楽団第536回定期演奏会

2010年6月19日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第536回定期演奏会に接する。今日の指揮者は高関健。

曲目は、ウェーベルンの「管弦楽のための5つの小品」と「大管弦楽のための6つの小品」、マーラの交響曲第7番「夜の歌」という意欲的なものである。

ウェーベルンの「管弦楽のための5つの小品」はチェレスタ2台が指揮台の横で向かい合うという特殊で小規模な編成、「大管弦楽のための6つの小品」はその名の通り、大編成による演奏。「大管弦楽のための6つの小品」は古典的配置による演奏であった。いずれの曲においても京響は精緻な演奏を繰り広げ、充実した響きを生んでいた。


マーラーの交響曲第7番「夜の歌」も古典配置による演奏である。マーラーの交響曲第7番「夜の歌」は比較的演奏会プログラムに載ることが少ない曲である。様々な要素が無秩序に並べられたようなところがあり、失敗作と断じる人も決して少なくはない。

京響は弦も管も充実した響きを奏でる。高関の構築力は確かであり、優れた演奏になった。欲を言えば、エリアル・インバルやレナード・バーンスタインらの名盤に比べると歌がやや硬めなのが気になるが、そうした名盤の名演と比べるのも野暮だろう。

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2021年6月 3日 (木)

観劇感想精選(399) 井上芳雄主演 ミュージカル「ハムレット」

2012年2月27日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後1時から、梅田芸術劇場シアタードラマシティで、ミュージカル「ハムレット」を観る。原作:ウィリアム・シェイクスピア、脚本・作曲・作詞:ヤネック・レデツキー、演出:栗山民也。出演は、井上芳雄、昆夏美、伊礼彼方、成河(ソン・ハ)、阿部裕、山路和弘、涼風真世、村井国男ほか。

ストレートプレーだと上演時間3時間を超える大作である「ハムレット」を2時間に短縮してミュージカル化したもの。

開演前、舞台上にはデンマークの国旗が下4分の1ほどが何かに被さる形で垂れている。

上演開始、先王ハムレットの葬儀のシーンから始まり、デンマークの国旗が被さっていたものが、先王の棺であることがわかる。ハムレット(井上芳雄)は棺が運ばれていく様を憂鬱な表情で見つめている。

舞台は一転して、オフィーリア(昆夏美)が明るい表情で登場。ハムレットからの恋文を読み上げて浮き浮きしている。

そしてクローディアス(村井国男)とガートルード(涼風真世)の婚儀のシーンとなり、皆は愛の美しさを歌い上げるが、ハムレットは「愛は全てを駄目にする」と語る。

その後、ハムレットがガートルードに向かって言う「弱き者、汝の名は女」、そしてポローニアスがハムレットのことを「He is crasy」だと歌い上げるナンバー(このナンバーは同じ旋律でハムレットによる「Who is crasy」としてポローニアス殺害後に歌われる)を挟んで、ハムレットがオフィーリアに向かって放つ「尼寺へ行け!」のセリフが出てくる。

なお、有名な「To be,or not to be」は日本語に訳されることなく、英語のまま、後半の冒頭の歌詞に登場する。

役者では井上芳雄が抜群の出来。動きにキレがあるし、歌声も、特に高音の伸びが素晴らしい。オフィーリアを演じた昆夏美も小柄な体型からは想像出来ないほどパワフルな歌声を発し、後半の狂気の場面での演技力も高い。

ただ、ミュージカルとしてはまずまずの出来であったが、「ハムレット」としてはやや不満が残る。カットした部分が多いため、心理描写が今一つで、あらすじを追っているだけに思える場面もあった。また追加された場面もさして効果的とは思えなかった。音楽や俳優は充実していただけにそれが残念である。

栗山民也の演出は、ラストでデンマークの国旗が十字架に見えるという仕掛けがなかなか良かったように思う。


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2021年6月 2日 (水)

コンサートの記(724) 下野竜也指揮 京都市交響楽団第545回定期演奏会

2011年4月22日 京都コンサートホールにて

京都市交響楽団の第545回定期演奏会に接する。今日の指揮は日本人の若手としてはトップランクと目される下野竜也。

曲目は、ハイドンの交響曲第100番「軍隊」とマーラーの交響曲第5番。

パンフレットによると、ハイドンの交響曲第100番「軍隊」の第2楽章に、マーラーの交響曲第5番冒頭のトランペットソロによく似た音型のトランペット独奏が出てくるのでこの2曲を選曲したとのこと。


開演20分前から下野竜也によるプレトーク。赤い襟のピンクのシャツに黒のジャケットという姿で現れた下野は、マーラーの交響曲第5番の思い出を語る。マーラーの交響曲第5番を下野が初めて聴いたのは、鹿児島にいた高校生の頃のテレビ放送でだった。エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団(現在の正式名称はhr交響楽団。英語名の訳は相変わらずフランクフルト放送交響楽団)の演奏だったという。マーラーの交響曲第5番というと「ベニスに死す」で用いられた第4楽章アダージェットが有名だが、下野は、アダージェットの美しさは当時はそれほどわからず、第2楽章の最後に出てくるコラールの格好良さに感動したとのこと。ここで、話はマーラーの妻であるアルマの話になり、マーラーがアルマに求婚したのは丁度、交響曲第5番を書いていた時であったこと(アダージェットはアルマに捧げた音楽のラブレターであるとの解釈が有力である。近く、このことを取り上げた映画が封切りになるという)、そして、完成したばかりの交響曲第5番をマーラーはピアノでアルマに聴いて聴かせるが、アルマが唯一不満を漏らしたのがコラールの部分であったという。マーラーは「だってブルックナーは」と尊敬するブルックナーを引き合いに出すが、アルマは「ブルックナーはいいのよ。あなたは駄目よ」と言ったというエピソードを紹介する。ちなみにブルックナーは当時は不人気な作曲家であり、ブルックナーの才能を見抜いていたマーラーとアルマは先見の明があったことになる。


下野は渋い音色を持ち味とするが、今日は2曲とも曲の性格から、輝かしい音で演奏する。両曲とも古典的配置での演奏。コントラバスはハイドンでは下手奥に置いたが、マーラーでは最後列に並べるスタイルを取った。

ハイドンの交響曲第100番「軍隊」の演奏は典雅で、弦のきめ細かさが特に印象的。タイトルの由来となったトライアングル、シンバルなどによるトルコ風軍楽も楽しい。トランペットのソロも良かった。


マーラーの交響曲第5番。トランペットによる序奏が終わり、一斉合奏によってスケールが壮大に広がる。このスケールの大きさは流石、下野である。

一方で、構築感は先輩指揮者に一歩譲る(特に第3楽章)ようで、どことなく焦点の定まらない印象を受けたのも事実だ。

アダージェットは旋律に溺れることなく、程よく共感した演奏であったが、ラストでテンポをグッと落としたのが印象的。アダージェットの余韻に浸ろうとしていたところ、下野は、間を開けることなく最終楽章に突入した。マーラーの交響曲第5番は5楽章からなる交響曲であるが、第1楽章と第2楽章を第一部、第3楽章を第二部、第4楽章と第5楽章を第三部とする指示がマーラーによって示されており、下野はそれに従ったのだろう。

第5楽章も、曲調の変転の巧みさなど、下野の優れた資質が感じられるが、ラストは力業で、「アンサンブルがこんなに粗くていいのか?」という印象を受けた。興奮を誘う解釈で、終演後は普段以上に盛り上がったが、私自身は客席と距離感を感じた。フルトヴェングラーによる「バイロイトの第九」のように、最後の音が潰れていても名演とされるものは存在する(実際は演奏ではなくEMIの録音に問題があったらしいのだが)ので、アンサンブルの乱れもそれほど気にすることではないのかも知れないが、今日の私は普段より気分が落ちていたため粗さが気になってしまったのかも知れない。

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2021年6月 1日 (火)

コンサートの記(723) 広上淳一指揮 第5回京都市ジュニアオーケストラコンサート

2010年1月31日 京都コンサートホールにて

午後2時から京都コンサートホールで、第5回京都市ジュニアオーケストラコンサートを聴く。指揮は広上淳一。

曲目は、スッペの「軽騎兵」序曲、チャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」、シベリウスの交響曲第2番。


京都市ジュニアオーケストラは京都市在住・通学の10歳から22歳までの青少年を対象としたオーケストラで、オーディションを通過した約110名からなる。


スッペの「軽騎兵」序曲では、冒頭のトランペットが野放図に強かったり、弦がもたついたりということがあったが、全般的には整った演奏。

チャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」。京都市ジュニアオーケストラは良く言うと音に余計なものが付いていない、悪くいうと音の背後に何も感じさせないところがあって、そこが不満だが、華のある演奏にはなっていたと思う。


メインのシベリウスの交響曲第2番。この曲をやるには京都市ジュニアオーケストラは基礎体力が不足していることは否めない。だが、聴いているうちにそれは余り気にならなくなる。

広上淳一とシベリウスの相性は気になるところだが、曲が交響曲第2番ということもあってか、ドラマティックで見通しの良い演奏であった。シベリウスの他の交響曲も広上の指揮で聴いてみたくなる。


アンコールは、ルロイ・アンダーソンの「そりすべり」。楽しい演奏であった。

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2021年5月31日 (月)

B・J・トーマス 「雨にぬれても」(映画「明日に向かって撃て!」挿入歌)

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