カテゴリー「絵画」の61件の記事

2021年1月29日 (金)

観劇感想精選(382) 三谷幸喜 作・演出「コンフィダント・絆」

2007年5月10日 大阪・京橋のシアターBRAVA!にて観劇

大阪へ。京橋のシアターBRAVA!で、三谷幸喜:作・演出の「コンフィダント・絆」を観るためだ。

「コンフィダント・絆」は、19世紀末のパリ画壇を描いた作品。フィンセント・ファン・ゴッホとポール・ゴーギャンがクロード・エミール・シュフネッケルという売れない画家を通して知り合いだったことを手がかりに、もし当時、パリに住む画家達が共同のアトリエを持っていたら、という設定で書かれた劇である。登場人物は、ゴッホとゴーギャンとシュフネッケルの3人に加え、本当は世代が異なるが、中井貴一に演じさせたい画家としてジョルジュ・スーラを加え、更に男だけの芝居にはしたくなかったということで、画のモデルとしてルイーズという架空の女性(堀内敬子)を入れ、5人による芝居とした。
出演は、中井貴一、寺脇康文、相島一之、堀内敬子、生瀬勝久。音楽&ピアノ生演奏:荻野清子。
生瀬勝久がゴッホを、寺脇康文がゴーギャンを、相島一之がシュフネッケルを演じる。

スーラが陰で「点々」(スーラは点描による画風が特徴である)とあだ名されていたり、ゴッホは観たものしか書けないが、とにかく良く観るという性質を付け加えるなど、画家の群像劇として上手く設計されている。そして最後にシュフネッケルの悲劇が待ち受けている。

良く出来た芝居であった。笑えたし、感動できる要素も盛り込まれていた(私自身は感動はしなかった)。三谷幸喜本人が二幕目の頭に登場してボタン式のクロマチック・アコーディオンを奏でる(大阪公演ということで、冒頭には「六甲おろし」のフレーズも挿入。笑いを取る)というサービスもあった。
ただ、三谷の芝居を何本も観ているためか、類型化、そして類型から逃れようというパターンまで看取出来てしまった。「三谷ならこうするだろうな」と思った通りになる。
こういう時は、自分が芝居好きであることが呪わしくなる。

20代前半の頃、BSで放送された三谷作の芝居をビデオに録画して何度も何度も観た。それはそれは楽しかった。だが、そうやって楽しみすぎてしまったために、今では三谷の芝居に対して新鮮な気持ちで臨むことが出来なくなったようだ。
三谷幸喜という人間は一人しかいない。一人の人間が長いこと同じ仕事を続けていて類型化から逃れることは難しい。一人の力で生み出せるものは実はそう多くはないということなのだろう。歴史上に残る芸術家達も、そのほとんどが類型化や自己模倣と戦ってきたのだ。

| | | コメント (0)

2021年1月12日 (火)

美術回廊(61) 京都髙島屋7階グランドホール 「没後70年 吉田博展」

2021年1月7日 京都髙島屋7階グランドホールにて

京都髙島屋7階グランドホールで、「没後70年 吉田博展」を観る。

現在の福岡県久留米市に生まれた吉田博(1876-1950)は、明治、大正、昭和期に掛けて風景画の第一人者として活躍した人物である。久留米藩士の子として生まれ、京都と東京で洋画を学び、洋画家として活躍したが、49歳の時に木版画を始める。その後、1923年(大正12)に関東大震災が起こり、木版画や版木を全て焼失。他に被害を受けた画家仲間も多かったため、代表してアメリカに渡って絵を売ることになるが、売れたのは吉田の木版画ばかり。アメリカでも浮世絵の評価は高く、そのため版画が人気だったのだが、「反骨の男」とも呼ばれた吉田は、江戸時代の浮世絵ばかりが高く評価されていることに疑問を抱き、以降は独自の木版画制作に没頭するようになる。

実は若い頃に吉田は渡米しており、デトロイトやボストンで展覧会を開いて好評を博している。ちなみにこの時は英語は一切出来なかったそうで、かなりのチャレンジャーである。当時は、黒田清輝を中心とするフランス帰りの画家が日本で人気を得ていたが、吉田はこれに反発。敢えてフランスではなくアメリカに向かって腕試しをしている。
吉田は黒田清輝率いる白馬会のメンバーとはかなり仲が悪かったそうで、白馬会の白がかった淡めの画風を毛嫌いしていた。九州男児だからかどうかはわからないが喧嘩っぱやく、黒田清輝に殴りかかったこともあったという。後には、白馬会に対抗する形で太平洋画会(現・太平洋美術会)を興している。

旅と山岳を愛し、画材を持ち仲間を連れて富士山を始めとする日本の名山に登山。登山中にじっくりとした描写を行うのが常だったという。次男には穂高岳にちなむ穂高(ほだか)という名を与えている。ちなみにこの穂高と、長男の遠志(とおし)は二人とも版画家となっている。

吉田博は、浮世絵ではなく洋画を版画に移したような新しい木版画を目指したが、構図の大胆さなどは案外、浮世絵と共通しているように思われる。あるいは構図の大胆さは「摺りやすさ」に由来しているのかも知れないが、私は版画を制作したことがないのでよくわからない。

独自の画風を目指した吉田博だが、ホイッスラーにだけは惹かれたという。仄暗い寒色系の色使いなどにはホイッスラーに共通するものも感じられるが、最終的には吉田はホイッスラーからも離れたという。

アメリカの風景を版画で描いた作品がいくつか並ぶ。グランド・キャニオンやナイヤガラ瀑布などで、色彩感や構図が面白い。

吉田は版画の性質を生かし、同じ版木に異なる色彩を入れることで、朝、昼、夕、夜など、同じ絵の時間違いバージョンなどもいくつか制作している。これには日本を題材にした作品のみならず、スフィンクスやタージマハルなど海外で描かれた風景画も含まれる。

なお、吉田は専ら風景画家として活躍。人物画は余り得手としていなかったようで、風景画の中にいる人物達の表情も簡素である。

吉田の作品は、日本よりも海外での評価が高く、ファンも多い。厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサーの第一声が、「ヒロシ・ヨシダはどこだ?」だったというジョークも存在する。マッカーサーが吉田ファンというのは本当で、新宿区下落合にあった吉田のアトリエを実際に訪れている。ダイアナ妃も吉田博のファンで、「瀬戸内海集 光る海」と「猿沢池」の2作品を自室に飾っていた。
「瀬戸内海集 光る海」は、海に反射する光を描いた作品である。吉田は印象派の絵画について特に語ってはいないようだが、この光のたゆたい方は印象派のアイデアそのものである。印象派は日本の浮世絵の版画に影響を受けたが、そうした浮世絵の影響を受けた洋画が日本の版画へとフィードバックされたような形となっている。循環である。面白い。

富士山と山中湖を描いた版画には、定番の「逆さ富士」が描かれているが、吉田の作品はこの他にも水に反映した物体を描いていることがかなり多い。また暖色と寒色の組み合わせが絶妙であり、幻想性を高めている。

映像も2点流れている。版画の工程を描いた映像では、吉田が摺り師にかなりの数の重ね摺りを要求したことが語られており、江戸時代の浮世絵の版画は多くても十数回の重ね擂りで完成するが、吉田の作品は平均でも30回以上、日光東照宮の「陽明門」の版画に至っては実に96回も重ね摺りが行われたという。

展示会場を出たところにあるモニターには、吉田の人生を描いた映像が映っており、反骨精神旺盛な吉田のエピソードはここで語られていた。

Dsc_0640

| | | コメント (0)

2020年11月20日 (金)

美術回廊(60) 京都国立近代美術館 「生誕120年 藤田嗣治展」

2006年7月23日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で開かれている、「生誕120年 藤田嗣治展」に出かける。今日が最終日である。チケットは買ってあったのだが、結局最終日に来ることになってしまった。最終日は当然ながら混む。

藤田嗣治は東京に生まれ、若くしてパリに渡り成功を収めた画家である。第二の藤田になることを目指して渡仏するも夢やぶれた画家は非常に多いそうだ。

第二次大戦前夜に藤田は日本に戻り、日本の戦闘行為を英雄的に描く戦争画を制作したりもした。しかし、戦争協力責任を問われるなどして、日本での活動に限界を感じた藤田は再びパリに戻りフランスに帰化。その後、日本の土地を踏むことはなかったという。

パリで成功し始めた頃の作品は、ピカソのキュビズムに影響されていたり、ムンクの模写のような画を描いていたりする。だが、本当に認められたのは乳白色を多用した画だ。彫刻をキャンバス上に刻んだような、独特の乳白色をした画の数々は個性的である。

だが、藤田の特色は、個性的であることではなく、その器用さにある。南米で過ごした頃の画からは、パリ時代とは全く異なるラテンの血が感じられる。また日本回帰の時代というのもあって、ここでは高橋由一や青木繁のような画風を示す。この時期に描かれた「北平の力士」(北平とは中華民国時代の北京の名称。中華民国の首都が南京に置かれたために北京は北平と改称されたのである)という画は日本画と中国画のタッチを取り入れた、迫力と生命力が漲る優れた作品である。

戦争画の一枚は、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」に構図が似ていたり、また宗教画にはミケランジェロの「最後の審判」をアレンジしたもの(タイトルは「黙示録」)があったり、藤田は自分の観たものを貪欲に取り入れる精神に溢れていたようだ。かといって自らの個性を殺したわけではなく、例えば、フランスの女性を描いても目の辺りが日本美人風になっていたりするのは藤田独特の個性だろう。

フランスに帰化してからの藤田は子供を題材にした画を多く残している。戦争画を描くことを強要し、戦争が終わると「戦争協力責任」なるものを押しつけようとする「大人達」への反発がそうさせたのだろうか。面白いのは、藤田が描いた子供の顔には、それに似つかわしい無邪気さが見られないことである。何かあるのだろう。


3階の「藤田嗣治展」を観た後、4階の通常展示も見学。私の好きな長谷川潔や、浅井忠の画を見て回る。藤田嗣治と吉原治良(よしはら・じろう。風間杜夫似の、画家というより俳優か小説家のような顔をした画家。具体美術協会の創設者であり、吉原製油社長という実業家でもあった)が握手をしている写真が飾ってある。そして吉原の作品も展示されている。個人的には吉原の作風の方が気に入った。

| | | コメント (0)

2020年11月16日 (月)

美術回廊(59) 京都国立博物館 御即位記念特別展「皇室の名宝」

2020年11月11日 東山七条の京都国立博物館にて

京都国立博物館で行われている御即位記念特別展「皇室の名宝」を観る。密を避けるため、インターネットで事前予約を行う必要がある。基本的にスマートフォンを利用するもので、必要な情報を入力するとメールが送られてきて、記載されたURLをタップすると表示されるQRコードがチケットの代わりとなる。パソコンで申し込んだ場合は届いたメールをスマートフォンへと転送することで処理するようだ。

朝方、たまたまNHKで、「皇室の名宝」が取り上げられているのを見た。レポーターは、京都幕末祭でご一緒したこともある泉ゆうこさん。特別ゲストとして中村七之助が登場する。七之助は来年正月2日に放送される新春時代劇で伊藤若冲を演じるそうで、番宣も兼ねての登場であった。

 

皇居三の丸にある宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の名品を中心とした展覧会である。1993年に完成した三の丸尚蔵館所蔵の名宝が京都で展示されるのはこれが初めてとなるそうだ。

第一章「皇室につどう書画 三の丸尚蔵館の名宝」は、タイトル通り、書画が並ぶ。西行の書状や、藤原定家が写した「更級日記」、八条宮智仁親王の筆による古歌屏風などが展示されている。桂離宮を造営したことで知られる八条宮智仁親王は、ある意味、この展覧会のキーパーソンともいうべき人物で、彼が関わった様々な名宝が展示されている。

八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王は、正親町天皇の孫にして、後陽成天皇の実弟。豊臣秀吉の猶子となり、次期関白を約束されていたが、秀吉に鶴松が生まれたために反故とされ、八条宮家を創設。後陽成帝から皇位継承者と見做された時期もあったが、結局は徳川家康が反対したため、皇位は後陽成帝の息子である後水尾天皇が継ぐことになり、どちらかというと不遇の人生を歩んでいる。桂離宮を別邸としたことで八条宮家はその後に桂宮家となった。

「絵と紡ぐ物語」では、竹崎季長が描かせたことで有名な「蒙古襲来絵詞」が展示されている。「てつはう」が炸裂していることで有名な前巻(文永の役を描く)の展示は今月1日で終了しており、現在は弘安の役を描いた後巻の展示である。文永の役ではモンゴル軍と高麗軍の戦術に関する知識がなかったため度肝を抜かれることになった御家人達だが、再度の襲来を見越して博多湾に防塁を築き、万全の迎撃態勢を整えていた。後巻には防塁の前を馬で進む竹崎季長らが描かれている。
元の撃退には成功したが、追い返しただけで新たなる領地を獲得したわけではないため、鎌倉幕府は恩賞を与えようにも与えられない。それを不服とした竹崎季長が自らの奮闘を幕府に示すために奏上したのが「蒙古襲来絵詞」である。

その他には、浄瑠璃やスーパー歌舞伎、オペラや宝塚歌劇などの題材となった「小栗判官絵巻」(巻5。岩佐又兵衛筆)や、尾形光琳が描いた「西行物語」巻4などが展示されている。

続く唐絵の展示だが、中国よりも日本で人気のある画家のものが多いようである。

「近世絵画百花繚乱」と題された展示では、伝狩野永徳による「源氏物語図屏風」、保元の乱と平治の乱の名場面を扇の面に描いた「扇面散図屏風」などが展示されている。
中村七之助が紹介していた伊藤若冲の絵もここに展示されているのだが、S字カーブが特徴の「旭日鳳凰図」や「牡丹小禽図」、逆S字カーブを描く「菊花流水図」、「八」の字の構図を3つ重ねることで垂れ下がる南天の重力をも表出しようとした「南天雄鶏図」など、デザイン性の高い作品が並んでいる。

現代に到るまでの京都画壇の祖といえる円山応挙の「源氏四季図屏風」。写生を得意とした応挙だが、この作品はリアリズムよりも水の流れのエネルギーが感じられる出来となっている。

 

「第二章 御所をめぐる色とかたち」。「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」(狩野永納筆)は、天皇の顔がはっきりと描かれているという、当時としては珍しい作品である。
京都最後の天皇となった孝明天皇の礼服も展示されているが、八咫烏なども描かれているものの、基本的には龍をモチーフにしており、中国の王朝からの影響が強く感じられる。

「令和度 悠紀地方・主基地方風俗和歌屏風」は新作である。後期の展示は、永田和宏の筆による和歌の書と土屋禮一の絵による「主基地方風俗和歌屏風」である。令和の主基地方は京都であり、桜の醍醐寺、万緑の大文字山、紅葉の嵐山、雪の天橋立が描かれている。

「漢に学び和をうみだす」では、小野道風、伝紀貫之、藤原行成らの書が並ぶ。伝紀貫之の「桂宮本万葉集」は、八条宮智仁親王の子、忠仁親王以降、桂宮家が所蔵していたもの。桂宮本と呼ばれる蔵書群の基礎を築いたのが智仁親王である。土佐光吉・長次郎筆による「源氏物語画帖」の詞書連作の中にも八条宮智仁親王は名を連ねている。

一般には桂離宮の造営者としてのみ、その名が知られる八条宮智仁親王であるが、近世の文芸において大きな役割を果たしていることがわかる。
なお、桂宮家は断絶しているが、智仁親王の子である広幡忠幸の血は柳原氏に受け継がれることとなり、柳原愛子(やなぎわら・なるこ)が大正天皇の生母となっているため、現在の皇室は智仁親王の血を受け継いでいるということになる。

Dsc_0163

| | | コメント (0)

2020年10月14日 (水)

美術回廊(58) 京都文化博物館 特別展「舞妓モダン」

2020年10月8日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で行われている特別展「舞妓モダン」を観る。
舞妓を描いた絵画を中心とした展覧会である。
京都以外の人は案外知らなかったりするのだが、舞妓というのは芸妓になるための見習い期間を指す言葉であり、「半人前」である。それがいつの間にか芸妓よりも注目されるようになっている。
私が子どもの頃に、京都出身にして在住の推理小説家であった山村美紗が舞妓が探偵役を務めるシリーズを書いてヒットにつなげており、テレビドラマ化などもされたため、この時点で舞妓がすでに人気だったことがわかるのだが、その後、宮川町が芸妓ではなく舞妓を前面に押し出す戦略を始め、宮川町が後援する舞妓を題材とした映画がいくつか作られている。
その後、それとは全く無関係に周防正行監督の「舞妓はレディ」も制作されるなど、初々しさが売りの舞妓は京都の象徴であり続けている。

舞妓は今では「半人前」ということで髪型や衣装も芸妓とは異なっているが、江戸時代以前にはそうした区別はなかったそうで、往時の絵では描かれているのが舞妓なのか芸妓なのか判然としないそうである。

江戸時代から明治初期までに描かれた舞妓はいわゆる「江戸美人」の名残を残しており、細いつり目の瓜実顔であり、今の「美人」や「可愛い」とは大分基準が異なる。美人芸妓として知られた江良加代を描いた絵と彼女の写真も展示されているが、今の時代であっても彼女が売れっ子になれたかというとかなり怪しくなってくる。

昭和6年(1931)に行われた都をどりの映像が流れている。昭和6年というと、関西では大阪城天守閣の再建(正確に書くと「新たなデザインによる建設」となる)がなった年として重要だが、松の廊下事件から230年目ということで、「忠臣蔵」を題材とした演目で都をどりが行われたようである。今でも美人で通用する人と難しいかも知れない人の両方が映っているが、昭和初期であっても今と美人の基準が異なっているのは映画スターの顔を見ればわかり、今の基準で美人の子が当時も人気だったかどうかは分からない。全ては無常で移り変わっていくのである。

「つり目の舞妓」が、黒田清輝の絵画(明治29年に描かれたもの。なお、後期からは重要文化財に指定されている黒田の「舞妓」という作品が展示される予定である)から一気に変わる。キュレーターがそういう絵を選んだという可能性もあるのだが、展示された黒田清輝の絵に登場する舞妓はつり目ではなく、フラットというかナチュラルな表情をしている。日本における美人の基準が年を経れば経るほど西洋の美女に似てくるというのはよくいわれることであり、現代でもハーフタレントなどは大人気であるが、黒田清輝が舞妓の絵を描いたのはフランスへの留学を終えて帰国した後であり、あるいは当時の一般的な日本人とは違った美意識を持っていたかも知れない。異国への留学を経て帰ってきた黒田であるが、京都の舞妓にむしろ外国人以上に外国的なものを見出したことが記されている。

山があり、川が流れ、田園が広がるという景色が日本の原風景だとすると、大都市は明らかに「非日本的」な要素を多く持つことは自明であるが、ご一新の世にあっても大都市の中では日本らしさを守り続けた京都は明治時代においてすでに異国的であり、年を経るにつれ、様々な時代の建造物や価値観が渾然一体となって、いうなれば「日本的要素を凝縮しすぎたが故に却って異国的」となっていく。芸妓・舞妓はその象徴ともいえる。誤解を怖れずにいえば、彼女達は異人なのだ。特に舞妓は、華麗な衣装を纏ってはいるが半人前というアンバランスさを持っており、そこに一種の儚さやこの世ならぬものが見出されていく。

京都画壇を代表する画家である竹内栖鳳は、舞妓の「不自然さ」について書いている。竹内によると舞妓はその仕草からして不自然であり、往時は9歳から舞妓になれたということで、幼い顔や肉体とその優美な着物が不一致であるとしている。

大正時代に入ると長田幹彦が書いた祇園を舞台とする小説がヒットし、大正を代表する美人画家である竹久夢二が長田とコラボレーションを行うようになる。夢二が描く舞妓はいかにも夢二的なものである。絵としては正直弱いと思うが、大衆受けはとにかく良かったため、祇園の知名度を上げることには大いに貢献したであろうことが想像される。

舞妓という存在の不可思議性を追求する画家はその後も登場しており、速水御舟が描いた一見グロテスクな「京の舞妓」(大正9年。この作品は前期のみの展示)は、その特異性に光を当てていると見ることも出来る。ちなみにこの作品は、「悪趣味だ」として、横山大観を始めとする多くの画家から酷評されたそうである。

岡本神草の「口紅」(大正7年。この作品も前期のみの展示)も、舞妓を泉鏡花の小説に出てきそうなあだっぽい存在として描いたものであり、問題視されたそうである。

勿論、舞妓が持つそのものの魅力を描く画家もおり、「舞妓モダン」のポスターに使われている北野恒富の「戯れ」は青紅葉とカメラを持った舞妓の横顔を描いており、瑞々しさが強調されている。

Dsc_9808


だが、その後もデフォルメは続き、下村良之介が昭和55年に描いた「たこやき」などは可憐な舞妓のイメージから最もかけ離れたものになっている。

その他にも、一見、可憐な舞妓に見えるが、よく見えると目が白人風だったりと、「別世界の女性」としての舞妓を描く作品は多い。

舞妓と呼ばれるのは芸妓になる前の5年ほどの歳月である。可憐にして奇妙な仕組みの住人となるこの短い日々を、画家達は常識的でない視点で切り取っている。

 

| | | コメント (0)

2020年9月18日 (金)

美術回廊(57) 美術館「えき」KYOTO 「キスリング展 エコール・ド・パリの巨匠」

2020年9月13日 美術館「えき」KYOTOにて

美術館「えき」KYOTOで、「キスリング展 エコール・ド・パリの巨匠」を観る。

キスリング(本名はモイーズ・キスリングだが、キスリング本人はユダヤ的であるファーストネームが余り気に入らず、姓のみを記すことが多かったようだ)は、「ポーランドの京都」に例えられることが多い古都クラクフに生まれ、最初は彫刻に興味を持つが、地元の美術学校の彫刻科に空きがなかったため、絵画科に学ぶ。
19歳でパリに出たキスリングは、モンマルトルでピカソ、モンパルナスでモディリアーニや藤田嗣治(レオナール・フジタ)らと交流。影響を受ける。藤田嗣治とは特に親しかったようで、二人で収まっている写真が残っている。

ちなみによく知られた「エコール・ド・パリ」という言葉だが、当時のフランスでは国粋主義が台頭しており、元々はモンパルナスという家賃の安い場末で創作活動を行う非フランス人画家を指す差別語であったようだが(この時代のフランス人画家達は「エコール・フランセーズ」と呼ばれていたそうである)、「印象派」同様、今では良いイメージの言葉に変わっている。

初期のキスリングの絵は渋めの色を用いたものが多いのだが、パリでの生活によって色彩豊かな作風へと変わっていく。キュビズムの影響も受け取ったが、「ちょっとした試み」として取り入れただけのようだ。そうはいいながら、菱形をモチーフにした静物画と風景画が意図的に並べられており、構図と構造は参考にしているようである。

風景画と違い、人物画は正面から光を当てたような独特の輝きと眼のデフォルメが特徴である。眼は大きめで少女漫画のような描き方をされていて、輝きと憂いを宿す。当時、モンパルナスでアイドル的な人気を得ていた「モンパルナスのキキ」ことアリス・プランと親しくしていたキスリングはキキを題材にした裸婦画、その名もずばり「モンパルナスのキキ」も残している。キスリングの裸婦画は臀部を膨らませたような描き方をしているのが特徴である。1918年には南仏に長期滞在し、南仏を題材にした絵も描いている。

「モンパルナスのプリンス」「モンパルナスの帝王」と呼ばれるほどの成功を収めたキスリング。彼自身は「自分はユダヤ人ではなくてフランス人だ」と思っていたようである。フランスに帰化もした。だがナチスドイツが台頭するとキスリングは反ナチ的な発言によりドイツから死刑宣告を受けたこともあって、ドイツによるフランス侵攻が始まると亡命。マルセイユからポルトガルを経てアメリカに渡る。ニューヨークに居を構えるが、旧知のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインに誘われハリウッドでも暮らしている。アメリカ時代に描いた「ミモザの花束」では花弁に使う絵の具をホイップ状に重ねることで立体感を出している。
南仏を代表する花であり、「不滅」という意味を持つミモザ。キスリングのフランスへの思いを表しているようだ。戦後フランスに戻ったキスリングは南仏サナリーにアトリエを構え、同地で没した。

Dsc_9548

| | | コメント (0)

2020年8月29日 (土)

美術回廊(56) 京都文化博物館 特別企画展「池大雅―文人たちの交流」&「三条御倉町 大橋家の歴史と美術 木島櫻谷と京都画壇」

2020年8月21日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別企画展「池大雅―文人たちの交流」(京都府蔵 池大雅美術館コレクション)と「三条御倉町 大橋家の歴史と美術 木島櫻谷と京都画壇」展を観る。

京都文化博物館に入るにはサーモグラフィーによる各自の検温(スクリーンに映ったカメラ映像に体温が表示されるようになっている)の他、手のアルコール消毒、京都府独自の追跡サービスである「こことろ」をスマートフォンにインストールして「京都文化博物館」にチェックインを入れるか、氏名や住所などを専用紙に記入する必要がある。

京都を代表する文人画家にして書家の池大雅(いけ・たいが、いけのたいが)。享保8年(1723)に京に生まれ、幼くして唐書を学び、隠元隆琦以来、清国出身者が住持を務めた黄檗宗萬福寺(近年は代々日本出身者が住持となっており、往時とは異なる)に出入りするなどして、当時は先端であった中国の文化を自分のものとし、「神童」の名をほしいままにした。その後、大和郡山の柳沢家の重臣であった柳沢淇園(やなぎさわ・きえん。五代将軍・徳川綱吉の側近として辣腕を振るった柳沢吉保から柳沢姓を授かった人物であり、柳沢氏の血筋というわけではない)に師事し、日本における文人画(南画)の第一人者となっている。

唐の風流人の「万巻の書を読み、万国を歩く」を実践し、江戸への遊学や加賀金沢に長期に渡って滞在した時には立山や白山といった北陸の名山を踏破。更に富士山登山や東北の名勝にして日本三景の一つである松島にまで足を延ばすなど旅と登山を愛した画家でもあった。

2013年までは嵯峨野に池大雅美術館があったのだが、閉館後は京都府が池大雅のコレクションを譲り受けている。

描かれた男達は福々しく、彼らの所作は活気に満ちていて声まで聞こえてきそうである。ポスターに採用された「山亭小酌之図」(画もしくは書を描いていると思われる人物の手元を5人の男達がのぞき込んでいる)などでは描かれた人物達の現在の心境まで伝わってきそうである。

Dsc_9370


山は「筋骨隆々」といった趣で、江戸の浮世絵師達の作風とは明らかに異なるパワフルさを備え、一方で針葉樹の葉などはジョルジュ・スーラを思わせる点描で描かれており、個性はかなり強い。
草木などを描いたものは陰影豊かであり、単なる異国趣味に留まらない止揚を成し遂げている。

書の巧拙は残念ながらわからないのだが、デザインとして見た場合に面白いということは伝わってくる。

池大雅は画家でもあった玉瀾を妻とし、共に切磋琢磨する間柄でもあったのだが、その玉蘭の画も展示されている。柔らかさを特徴とする作品である。

 

「三条御倉町 大橋家の歴史と美術 木島櫻谷と京都画壇」。
三条御倉町(三条烏丸と三条室町の間の両側町)に居を構える大橋家ゆかりのコレクション展である。本来は今年の春に行われるはずだったのだが、コロナ禍によって展示期間がずれることになった。
大橋家は、皇族や寺社関係の染色業を扱う西村家の番頭格であり、のちに「別家」と呼ばれるようになる。

大橋家は近代京都画壇の日本画をコレクションしており、それらが今回、公開される。

最初に展示されている木島櫻谷(このしま・おうこく)の画が気に入る。木島櫻谷は、1877年(明治10年。コレラの流行により、八坂神社に季節外れの茅の輪が立った年である。今年はそれ以来、143年ぶりに季節外れの茅の輪が立った)に生まれ、四条派を受け継いだ日本画家である。四条派らしく描写力が高く、何よりも画の力によって見せるタイプである。「最後の四条派」とも呼ばれているようだ。

 

| | | コメント (0)

2020年8月 6日 (木)

美術回廊(55) 京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」

2020年7月31日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」を観る。

新型コロナウィルスにより、多くの行事が流れてしまった京都。その京都の四季の彩りを再確認するために京都国立近代美術館所蔵品を中心として開催されている展覧会である。

階段を上ると「晩夏」から、エレベーターを使うと「初夏」の展示から観ることになる展覧会。階段を使って「晩夏」より入る。

四季を更に細分化した二十四の季節を持つ日本。古代中国由来なので、必ずしも今の暦と符合するわけではないが、恵みと脅威を合わせ持つ自然に対する細やかな意識が察せられる区分である。

 

階段を上がったところに、北沢映月の「祇園会」という屏風絵が拡げられている。1991年に京都国立近代美術館が購入した絵だ。「小暑」の区分である。
京舞を行っている母親をよそ目に、祇園祭の鉾の模型で二人の女の子が遊んでいる。一人は鉾を手に転がそうとしているところで、もう一人はそれを受け止めるためか、片手を挙げている。動的な絵である。

不動立山の「夕立」は、おそらく東本願寺の御影堂門と烏丸通を描いたと思われる作品である。昭和5年の作品なので、京都駅は今のような巨大ビルではないし、京都タワーもなかったが、それを予見するかのような高所からの俯瞰の構図となっている。これは不動茂弥氏からの寄贈である。

「大暑」では、丸岡比呂史の「金魚」という絵が出迎える。昨日観た深堀隆介の金魚とは当然ながら趣が異なり、愛らしさが前面に出ている。

同じタイトルの作品が並んでいるのも特徴で、「処暑」では、福田平八郎の軸絵「清晨」(どういう経緯なのかはよく分からないが、旧ソヴィエト連邦からの寄贈)と深見陶治の陶器「清晨」が並んでいる。趣は大分異なるが、各々が感じた朝の気分である。

具体美術協会を起こしたことで知られる吉原治良(よしはら・じろう)の作品もある。「朝顔等」という絵だが、朝顔の周りに海産物が並べられており、海は描かれていないが海辺であることが示唆されている。夫人による寄贈。

 

「立秋」にはこの展覧会のポスターにも使われている、安井曾太郎の「桃」が展示されている。邪気を払う特別な果物だ。

Dsc_9276

「中秋」では、京都画壇を代表する女性画家である上村松園の「虹を見る」(文化庁からの管理換)という屏風絵が素敵である。虹は右上に小さく描かれ、それを若い女性と母親と赤ん坊が見上げるという作品であるが、虹がまだ何かもわからない年齢なのに惹かれている赤ん坊が特に印象的である。

「秋分」では、小川千甕(おがわ・せんよう)の「田人」という作品が「その先」の想像をくすぐる出来である。2001年度購入作。

俳優の近藤正臣の親族としても有名な陶芸家の近藤悠三の作品もある。堂々とした作風である。

 

坂本繁二郎の「林檎と馬齢著」(立冬)。全く関係ないが、最近観た見取り図の漫才ネタを思い出す。

 

秋野不矩の「残雪」(「初春」。1985年に作者が寄贈)。これも関係ないが中国を代表する前衛小説家の残雪の作品を最近は読んでいない。急に読んでみたくなったりする。

「仲春」には花と蝶を題材にした絵画が並ぶ。久保田米僊(くぼた・べいせん)の「水中落花蝶図」、枯れて水面に落ちた花弁と、その上を舞う蝶が描かれており、動物と静物、しかも盛りを過ぎた静物との対比が描かれている。2005年度購入作。

 

「春分」には今も花見の名所として名高い円山公園を描いた作品がいくつか登場する。

「晩春」では、藤田嗣治や長谷川潔が手掛けた「アネモネ」という花の絵が美を競っている。アネモネは色によって花言葉が違うようだが、調べてみると紫のアネモネの花言葉は「あなたを信じて待つ」であり、赤のアネモネの花言葉は「辛抱」であった。

 

「立夏」には葵祭を題材にした伊藤仁三郎の絵が2点(2002年寄贈作品)並び、苺の収穫を描いた小倉遊亀(寄託作品)の作品もある。

「夏至」には千種掃雲の「下鴨神社夏越神事」(2005年度寄贈)、更に美術の教科書によく作品が登場する安田靫彦の「菖蒲」(2000年度購入)などがある。

 

そして階段から入った場合、最後の展示となるのが川端龍子(かわばた・りゅうし)の「佳人好在」(1986年度購入)。佳人(美人)の部屋を描いた作品だが、佳人は登場せず、並んだ小物などから佳人の人となりを想像させる絵となっている。これが今日一番気に入った絵となった。これぞまさに「不在の美」である。

 

京の行事はこの一年、ほぼ全て幻となってしまったが、展示された美術作品の数々の中に、悲しみと同時に希望を見出すことになった。
「京都は京都」幾多の災難を乗り越えた街であり、いつかまたこれらの作品に描かれているような愉しみが復活するのは間違いないのだから。

 

| | | コメント (0)

2020年8月 4日 (火)

美術回廊(54) 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉 「金魚絵師 深堀隆介 金魚愛四季(いとしき)」

2020年7月30日 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階にある大丸ミュージアム〈京都〉で、「金魚絵師 深堀隆介 金魚愛四季(いとしき)」を観る。一部写真撮影可。

Dsc_9273

深堀隆介(ふかほり・りゅうすけ)は、1973年愛知県生まれ。愛知県立芸術大学美術学部デザイン・工芸専攻学科を卒業し、画家としての活動を始めるが、2000年に制作に行き詰まり、「もうアートなんてやめよう」と思った時に、7年間粗末に扱っていた金魚が目に入り、金魚を題材にした作品の制作を始める。深堀はこの体験を「金魚救い」と呼んでいるようだ。

新しいことをしようということで深堀は、樹脂に金魚の絵を描き、その上に更に樹脂を重ねることで立体感と水の中に浮かぶ感じを生み出した。絵画と彫刻の中間にある新しいアートである。

作品であるが、ぱっと見はリアリティがある。だが動かない金魚は死体そのもののようでグロテスクにも映る。
作品の紹介を見ると、深堀は生きている金魚ではなく常に死んだ金魚をデッサンしているそうで、それは弔いの儀式でもあるようだ。

東日本大震災が発生した時には自分の作品では圧倒的な災害の前に立ち向かう術はないと思ったそうだが、金魚の卵を描くことを思いつき、精神的な危機を乗り越えたそうである。

様々な作品を観たが、静止した金魚に確固たる死を与えた上で、その輪郭に生を注ぎ込むような、「間」「境界」の瞬間が捉えられるような気になった。これは生が死に変異した瞬間であり、同時に死から生へと立ち返る刹那の躍動である。日本の美の象徴、特に江戸期以降における庶民的な夏の美の代表格である金魚が持つエネルギーが、日本的な美意識を伴って溢れ出てくるかのようである。

タイトルにもなっている「四季」の金魚作品展示コーナーがある。ここと出口にある立体に見える金魚の絵(1枚目の写真)だけが撮影可である。
四季の金魚であるが、個人的にはやはり夏の金魚が最も魅力的に見えた。私は千葉市の郊外にある一戸建てだらけの住宅地の出身だから、夏祭りの金魚掬いというのはあるにはあったがさほど祝祭性を帯びたものではなかった。が、現実の記憶ではない日本的原風景における金魚の既視感をそこに見出すことになった。

Dsc_9272

| | | コメント (0)

2020年7月17日 (金)

美術回廊(53) 京都文化博物館 特別展「祇園祭 京都の夏を彩る祭礼」

2020年7月17日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別展「祇園祭 京都の夏を彩る祭礼」を観る。

新型コロナウイルスの影響で、山鉾巡航など大がかりなものは中止となってしまった今年の祇園祭。密にならない小規模なものは行われているが、それも毎日ではない。祇園囃子も録音されたものが四条通に流れているのは例年通りだが、生音を聴くことはない。
「動く美術館」といわれる山鉾巡航であるが、今年は 動くどころか建てることすら不可である。
そんな「動く美術館」をずっと静止した形で展示しているのが今回の展覧会である。

 

入場者を確認出来るようにするため、入る前に氏名等の記入が必要となる。

 

山鉾の前懸(その名の通り前に懸ける布)や胴懸の展示がまずある。「日本の祭り」というイメージの強い祇園祭であるが、実際は西洋画なども用いられている。ギリシャの「イーリアス」などの絵で、江戸時代ものである。京都人はよく「進取の気質に富む」といわれるが、こうしたところにそれが窺える。保守的であったら自分達の祭りに西洋の絵を用いようとは思わないだろう。

勿論、舶来のものだけでなく、和の要素も重要視される。安芸・宮島の前懸(占出山)などがそうである。

 

京都の円山派・四条派などの礎を築いた円山応挙(1733-1795。家は四条通に面しており、今は石碑が建つ)が書いた絵を基に編み上げた刺繍の展示がある。保昌山のものである。
とにかく徹底した描写力を追求した円山応挙だが、刺繍の基になっている絵は江戸の絵師達の影響を受け、エネルギー放射量を重要視するようになってからの作品である。
刺繍になると描写力の精緻さは当然ながら後退するのだが(絵筆を使ったタッチの再現は出来ない)そこに登場する虎などの動物は立体感と毛皮のように見える視覚を伴い、よりリアルなものへと変わっている。刺繍にした方が生きる絵を選んだということでもあるだろう。見事な発想である。

 

祇園祭がどのように行われてきたのかという記録も展示されている。名所図会などに描かれた山鉾、そして町衆によって書かれた「入日記」と呼ばれる記録用の冊子を見ることが出来る。

 

山鉾を彩る彫像などの展示もあるが、極めて繊細にして精緻な仕上がりであり、こうしたものを作り上げる技巧の高さは想像の外にある。中学校の美術の時間に取り組んだ木彫りが酷いものにしかならなかった私の技量では、まずどこからどう取りかかればこうなるのかすら掴むことが出来ない。空間認知能力に秀でていることも重要だろうし、手先の器用さも必要なのはわかる。技巧面でわかるのはそこまでである。
ただ、日本が誇る宮大工の技術や、仏教美術の蓄積がこれらの製作に大いに貢献しているということは想像に難くない。天明年間に製作された八幡宮の祠の展示もあるが、ここに展示されているのとほぼ同じ技術によるものが、京都の神社や寺院で見ることが出来る。祇園祭は八坂神社の祭礼であり、八坂神社は明治に入るまでは、祇園社や祇園感神院と呼ばれた神仏習合社であり、神道と仏教の両方の美術が社や氏子達に受け継がれてきたことになる。いわば、美の発信拠点でもあったわけだ。
それを象徴するような欄干様の細工がある。八坂神社の神紋は「五瓜に唐花」と神道共通の「左三つ巴」であるが、その真ん中に仏教の法輪が入ったものである。

ちなみに八坂神社の神紋が五瓜という瓜系の紋なのは、祭神である牛頭天王が瓜を好んだという話に由来すると思われる。左京区にある瓜生山は、牛頭天王に捧げる瓜を栽培したことにちなむ地名である。牛頭天王が初めて京に降り立った場所は北白川東光寺とされているが、この北白川東光寺がどこにあったのかは現在では不明である。ただ北白川という地名はいにしえとは範囲が異なると思われるが残っており、北白川東光寺の跡地に建つと主張している岡崎神社(東天王)は北白川に比較的近い場所にあり、同じく北白川東光寺の有力後継社である八大神社(北天王)は瓜生山の麓にある。

 

明治時代以降の山鉾についての展示が最後にある。幸野楳嶺や今尾景年、竹内栖鳳ら絵師というよりも画家と呼ばれる時代の人々による伝統美を追求した作品が展示されている。

 

一番最後に展示されているのは、鈴木松年(すずき・しょうねん)の筆による「宇治川合戦屏風」。浄妙山の人形の姿の元となった合戦の場面を屏風にしたものでダイナミックな構図が印象的であり、勝ち運の山である浄妙山への祈念が込められているようにも見えた。

Dsc_9163

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2346月日 DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オンライン公演 カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 劇評 動画 千葉 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 食品 飲料 香港映画