カテゴリー「絵画」の71件の記事

2022年5月11日 (水)

これまでに観た映画より(293) 「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」

2022年5月6日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」を観る。監督:ハリナ・ディルシュカ、撮影:アリシア・パウル、ルアーナ・クニップファー。ドイツ映画であるが、ドイツ語、英語、スウェーデン語の3カ国語が用いられている。

カンディンスキーらに先駆けて抽象画を生み出したスウェーデンの女流画家、ヒルマ・アフ・クリントの生涯とその謎に迫る、再現VTRなどもまじえたドキュメンタリーである。

カンディンスキーらが抽象画を発表したのは1910年代であるが、ヒルマ・アフ・クリントは、それよりも前の1906年に初めて抽象画の系譜に入る絵画を創作している。だが、当時、ヒルマの抽象画はほとんど認められず、ヒルマもつましい生活のまま82歳で世を去り、甥のエリックに、「晩年の作品は死後20年公開しないように」との遺言を残した。

ヒルマ・アフ・クリントが生まれたのは、1862年。代々海軍士官を務める貴族の家に生を受けた。当時、スウェーデンの貴族の娘が長年独身でいるケースが目立っており、「自立させる」ための絵画教育を施すことが流行っていた。ヒルマもこれの波に乗り、スウェーデン王立美術院に学んで、卒業後は伝統的な絵画を描くことで職業画家として自立。ストックホルムの当時の中心部にアトリエを与えられ、純粋な絵画作品の他に、病院などで用いられる実用的な作品も手掛けていた。

当時のスウェーデンでは降霊術が流行っており、ヒルマも降霊術のサークルに参加している。同じサークルにのちに劇作家となるストリンドベリも参加していたそうだが、その時は互いに有名になる前だったため、接点らしい接点はなかったようである。

やがて神秘主義に傾倒したヒルマは、志を同じくする女性芸術家達と「5人」という芸術集団を結成。啓示を受け、降霊などにインスピレーションを得た絵画を創造することになる。

「降霊などにインスピレーションを得た」などと書くといかにも怪しそうだが、シャーロック・ホームズ・シリーズで知られるサー・アーサー・コナン・ドイルも降霊術に傾倒していたことで知られているように、降霊に興味を持つことは世界的な風潮でもあった。スウェーデンは、その名もずばりエマヌエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)という、世界史上最大級の心霊学者が生まれた国でもある。
また、科学が一大進歩を遂げる時代でもあり、原子や波動などの発見があり、「世界そのものを描きたいなら見えるように描いてはいけない」という科学からの影響も大きかった。

ただ、新しいものは往々にして受け入れられない。ヒルマの新しい絵画は仲間の女性芸術家2人から否定的に受け取られ、ヒルマが理解を求めた神秘思想家のルドルフ・シュタイナーからも色よい返事は貰えず、シュタイナーと会った1908年から4年ほどは創作自体を行っていない。

当時はスウェーデンでもまだ、「女性は結婚したら家庭に入り、仕事は辞めるべき」という風潮があり、女性が芸術家として生きていくことは難しい時代。そして、美術史は男性画家の歴史であり、女性の作品というだけで価値以前の扱いを受けていた。

こうして、カンディンスキーやモンドリアンといった男性の抽象画家が注目を浴びる中、ヒルマは埋もれた存在となっていく。これまでヒルマは生前に展覧会を開いたことはないとされていたが、実はロンドンで一度だけ個展を開いていることが分かったそうだ。
売れない画家として後半生を送ったヒルマ。彼女が生活していけたのは、芸術団体「5人」のメンバーで、富豪の娘であったアンナ・カッセルによる援助があったためとされている。

ところが、2019年、ヒルマは突如として脚光を浴びる。没後20年が経過し、ヒルマの抽象画も世に出るようになるが、最初のうちは、「降霊術の絵なんて興味はない」と断られたりもしていた。しかし、各地の展覧会での好評を受けて、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で行われた回顧展が大評判となり、同美術館史上最高となる約60万の来場者を記録。マスコミ各紙からも絶賛される。

ただ大成功したからといって、美術的な価値が診断されるには20年から30年掛かるそうで、ヒルマがこのまま偉大な画家との評価が定まるかどうかは不確定であるが、このドキュメンタリーに出演した多くの専門家は、美術史の書き換えに肯定的な意見を述べている。

彼女の作品は巨大であり、実物を観ないことには、そのエネルギーは感じられないであろうことが察せられる。一度は実作を目にしてみたくなる。

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2022年3月24日 (木)

美術回廊(74) 京都文化博物館 特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」

2022年3月9日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」を観る。

個性派の浮世絵師であり、「相馬の古内裏」など、グロテスクで大胆な構図で知られる歌川国芳と、その弟子である月岡芳年の作品を中心とした展覧会であるが、国芳から「芳」の字を授かった弟子達の作品も多く展示されている。写真撮影可である。

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今では人気のある歌川国芳であるが、「グロテスクで大胆な構図」に拒否反応を起こす人も多かったようで、一時埋もれそうになったそうである。名古屋に住む国文学者にして教師の尾崎久弥と、九州帝国大学の医学者・高木繁が国芳を高く評価しており、コレクションしていたものが再評価されるようになったのだが、高木繁の息子は名古屋大学の教授となったそうで、尾崎久弥のコレクションと共に名古屋市博物館に収められることになっている。今回展示されているのも全て名古屋市博物館の所蔵品である。


初期の歌川国芳の画風は中心を取り囲むような構図に特徴がある。酒呑童子を描いた作品が2点あるが、どちらも酒呑童子を中心に描き、頼光四天王がそれを取り囲んでいる。
また映画館のスクリーンや最近のテレビモニターのように横長の絵(3枚続)を描いているのも特徴である。

弁慶が三井寺の鐘を引きずっているところを描いた国芳の絵が2点あるが、いずれも鐘の下の部分が枠の外に出て見えないという構図で描かれており、それによって鐘の重さが増しているように感じられるという高度なテクニックが駆使されている。
また宇治川の戦いを描いたもの2点は、いずれも水流の描き方が巧みで、動く様が容易に想像出来る。動かない動画ともいうべき浮世絵の真骨頂である。

源三位頼政が鵺(ぬえ)を退治する様子を描いたものが3点あるが、うち1点は頼光が矢を放った直後の絵であり、鵺は描かれていない。頼光の目は鵺のいる方角ではなく、こちらを見つめている。今でいうカメラ目線であるが、意図は不明で不思議な感じもする。メッセージ性があるわけではおそらくない。

国芳に反体制的なところがあったのは確かなようで、暗愚と定評のある徳川家定を揶揄したと思われる絵なども展示されている。流石にこれは公儀にも分かったようで、尋問を受けたりもしたそうだ。

国芳の弟子である歌川芳虎も、徳川幕府への反発からだと思われるが、「道外武者 御代の若餅」で、「織田が撞き羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに喰うは徳川」という落首を元にした絵を描いている。別の川柳が書かれながら、羽柴秀吉の顔が猿になっているところに風刺が効いているが、それだけにすぐに意図が見透かされたようで、この絵は即日発禁処分となり、芳虎も手鎖50日の刑に処されたそうである。

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猟奇的な絵画を集めているのもこの展覧会の特徴で、その手の絵は1カ所に集められ、そうしたものが苦手な人は見ないで通過出来るようになっている。歌舞伎を題材にしたものが多いが、血が飛び散って、首が飛んで、というさながらスプラッターホラーである。
このコーナーの少し手前に有名な「相馬の古内裏」が展示されている。

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続くは人物画のコーナー。何かをしながら物思いに耽っている美人画が多く、静止の中に躍動があるのが特徴となっている。

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2022年3月 7日 (月)

美術回廊(73) 京都国立近代美術館 新収蔵記念「岸田劉生と森村・松方コレクション」&コレクション・ギャラリー 令和3年度第5回コレクション展

2022年3月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「岸田劉生と森村・松方コレクション」という展覧会を観る。

美術の教科書に必ず載っている「麗子像」(「麗子像」という作品は多数存在する)で知られる岸田劉生(1891-1929)。
ジャーナリストの岸田吟香の長男として東京・銀座に生まれ、高等師範学校附属中学校中退後に白馬会に入り、黒田清輝に師事。白樺派の文学に傾倒し、雑誌「白樺」に載ったフランスの画家達に憧れる。高村光太郎らと共にヒュウザン会を結成し、代々木に家を構えて創作活動に入るが、肺結核と診断され(後に誤診であったことが分かる)白樺派の武者小路実篤が所有していた藤沢・鵠沼の貸別荘で転地療養を行う。その間に関東大震災が発生。岸田は関東を諦め、かねてより憧れていた京都移住を決断。南禅寺の近くに2階家を見つけて妻子と共に暮らし始める。東京にいた頃から歌舞伎見物を好んだ岸田は、南座にも通い詰める。また祇園でお茶屋遊びも楽しんだ。だがこの頃、春陽会のメンバーと不仲になり脱退。ただ梅原龍三郎は岸田によくしてくれたという。3年の京都生活を経て、岸田は鎌倉に移る。その後、満鉄の松方三郎(松方正義の息子)の招きで、満州に旅行。ここでも絵を描いて渡仏のための資金に充てるつもりだったという。だが慣れぬ大陸での生活ということもあってか、体調を崩してしまい、同行していた若き画商の田島一郎と共に帰国。山口県の徳山(平成の大合併により今は周南市となっている)にある田島の実家に身を寄せるが、そこで更に体調は悪化。38歳の若さで帰らぬ人となっている。奥さんの蓁(しげる)や娘の麗子は岸田の最期には間に合わなかったという。

初期の岸田の画風は、師である黒田清輝の模倣である。全体的に白っぽい画風がそれを表している。そこから白樺派によってフランスの画家を知るようになり、画風を大きく変える。1912年に描かれた「夕陽」という作品は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホからの影響が濃厚で、エネルギー重視の画風となっている。その他の作品も西洋の有名画家の作風をモデルとしており、初期の白馬会風のものとは大きく異なっているが、どうも岸田は、理想の絵画を求めて画風をコロコロ変えるというカメレオン的なところがあったようである。その後、後の奥さんとなる小林蓁と出会う。蓁は、鏑木清方に日本画を学んでおり、岸田も彼女の影響を受けて日本画や南画を描くようになっている。

鵠沼に移ってからの岸田は、立体感を求めた絵をいくつか描いている。「鵠沼風景」や「壜と林檎と茶碗」といった絵である。こうした立体感に富む絵が私は気に入った。
一方で、結核という当時としては死の病に冒された(実際には誤診であったが)ことで、宗教画なども描いている。岸田が子供の頃に両親が相次いで亡くなっており、岸田は洗礼を受け、クリスチャンとなって宗教家を志したこともあった。牧師の田村直臣を慕っており、岸田に画家を目指すよう進言したのも田村であったようだ。

有名な「麗子像」であるが、今回は、「麗子裸像」、「童女と菊花」、「二人麗子」、「三人麗子」、「麗子提灯を喜ぶ之図」、「麗子弾絃図」などが展示されている。

歌舞伎を好んだ岸田劉生。初代中村鴈治郎主演舞台を描いた作品があるが、舞台上よりもそれを観る観客の方がリアルに描かれているのが特徴である。

京都時代には愛らしい日本画も残している岸田。鎌倉時代には静物画の比重が大きくなっていったようである。

1929年に満州で描かれた「大連星ヶ浦風景」という絵が素晴らしい。この作品は武者小路実篤ら白樺派の面々も絶賛しているようだ。

その時々によって画風を大きく変えた岸田劉生。だた彼が真に目指した作風への道のりは、38歳で早逝したことで未完のまま途切れた印象が強い。


岸田劉生の展示会に続いて、森村・松方コレクションの展示がある。共に松方正義の息子である森村義行(森村家に養子に入っている)と松方三郎の兄弟は岸田劉生を支援していた。
この兄弟は美術品の蒐集にも熱心であり、葛飾北斎、歌川広重、藤田嗣治らの作品をコレクションしており、今回、それらが展示されている。

また岸田劉生の最初のパトロンとなった芝川照吉の芝川コレクションも展示されている(岸田劉生や椿貞雄が描いた芝川照吉の肖像は、ギョロリとした目の輝きが印象的である)。青木繁、坂本繁二郎らの作品を観ることが出来る。


4階で行われている令和3年度第5回コレクション展には、「岸田劉生の友と敵」というコーナーがある。岸田劉生は生前に様々な画家と激突したようである。性格的に円満とはいえないところがあったようだ。先に書いたように春陽会の中でも梅原龍三郎は味方であったが、他のメンバーとは折り合いが悪くなり、1925年に退会している。

「劉生が生きた時代の西洋美術」のコーナーもある。この中ではやはりユトリロ(「モンマルトルのミミ・パンソンの家」)とデュフィ(「静物」)の画風が私の好みに合う。

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2022年1月23日 (日)

美術回廊(71) 大丸ミュージアム〈京都〉 「堀内誠一 絵の世界」

2022年1月5日 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉で、「堀内誠一 絵の世界」を観る。
1932年、東京に生まれた堀内誠一は、第二次世界大戦の影響を受けて、家計を助けるため中学校卒業後に伊勢丹に就職。日本大学第一商業学校(日本大学第一高校の前身)の夜間部に入学しているが中退している。父親が今でいうデザイナーの日本での走りということもあり、誠一も幼い頃から絵が得意で、伊勢丹でもデザイン部門の仕事を行っているが、その後に独立。絵本や童話の挿絵などを手掛けるようになる。「an・an」や「Popeye」の創刊号の表紙の想定を手掛けるなど、グラフィックデザイナーとしても活躍している。

若い頃に描いた絵画なども観ることが出来るが、ピカソ、モディリアーニ、ゴッホ、ゴーギャン、ラウル・デュフィなど、フランスで活躍した画家からの影響が一目で分かるほど顕著な作品もあり、フランスへの憧れが垣間見える。1974年に堀内誠一は、日本でのグラフィックデザインの仕事を全て断って渡仏。パリ郊外のアントニーに居を構え、絵本の制作などに打ち込んだ。パリには1981年まで滞在。1987年に下咽頭癌のため54歳の若さで死去している。

パリに移る前後に、詩人の谷川俊太郎とのコラボレーションを行っており、谷川俊太郎が翻訳した『マザーグース』に挿絵を付けたり(現在の講談社文庫の挿絵は堀内誠一のものではない)、共通の趣味であるクラシック音楽のために堀内がエッセイと作曲家の肖像を描き、谷川が作曲家に纏わる詩を書くなど、芸術性の高い仕事を行っている。ストラヴィンスキーの肖像画は、明らかにラウル・デュフィの作品へのオマージュであることが分かる。

絵本のために描いた絵は作品ごとにタッチが異なっており、アメリカ風だったり、淡彩画風だったり、バランスを敢えて崩してチャーミングさを増してみたりと、様々な工夫を行っている。

地理も愛していたようで、移住したパリを始め、世界各地の都市の地図を描いている。原色系の愛らしい地図である。

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2021年11月 1日 (月)

2346月日(35) 京都府立京都学・歴彩館 「吉川観方と風俗史考証の世界―コレクションの写真を中心に―」

2021年10月18日

下鴨にある京都府立京都学・歴彩館(京都府立大学の校舎と併用されている)の展示室で、「吉川観方と風俗史考証の世界―コレクションの写真を中心に―」を観る。

京都市に生まれ、幼時に大津で暮らした他は京都で生涯を過ごした日本画家、吉川観方(よしかわ・かんぽう。1894-1979)。京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高校の前身。今は下鴨にあるが、往時は京大に隣接した吉田近衛町にあった)卒業後、京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学美術学部の前身)予科に進み、同時期に江馬務主催の風俗研究会に参加している。京都市立絵画専門学校本科に進み、卒業後は松竹合名会社に入社して、南座で舞台意匠顧問として主に衣装などを手掛けるようになる。松竹退社後も業務提携を結び、映画などで衣装の監修を手掛けた。京都市立絵画専門学校はその後も研究科に通い、卒業後は大阪・道頓堀の劇場街で衣装考証なども手掛けている。京都の画家としては初めて大錦判の役者絵の版画を制作したとされ、今回の展覧会でも初代中村鴈治郎、二代市川左團次、十二代片岡我童の役者絵が展示されている。

有職故実の研究に始まり、江戸時代の小道具(鏡箱、鼻紙台などには丸に十字の島津の家紋が入っているが、大名の島津家のものなのかどうかは不明)などの収集に興味を持った観方は、江戸時代の習慣や装束などを復活させて写真に収めるという活動を行うようになる。1932年制作のペリー来航を描いた映画「黒船」の撮影に参加している写真が展示されているが、監督の名前がジョン・ヒューストンとジョージ・ヒューストンとに分かれている。ジョン・ヒューストン(「アフリカの女王」や「許されざる者」の監督のようである)が正解で、ジョージ・ヒューストンは誤記のようであった。ちなみにジョージ・ヒューストンという有名人物も実在していて、1930年代に西部劇の映画俳優として活躍していたようである。

先日、NHKアーカイブのFacebookが「島原おいらん道中復活」というモノクロの映像を配信していたが(島原にいるのは太夫であり、花魁はいないので誤りだが、当時の東京ではそうした情報は正確には把握出来ていなかったのだろう)、1947年に太夫道中を復活させたのも吉川観方であるようだ。

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2021年10月 9日 (土)

美術回廊(69) 京都国立近代美術館 「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ー外から見る/外へ見せるー」&コレクション・ギャラリー 浅井忠「御宿海岸」ほか

2021年10月2日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡﨑の京都国立近代美術館で、「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ―外から見る/外へ見せるー」を観る。明治時代に来日したお雇い外国人の画家や、彼らと同じ時代を生きた明治時代の日本人画家達の作品を集めた展覧会。

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明治時代に日本にやって来て、洋画を教えたお雇い外国人、ワーグマン、ウィアー、ベレスフォードらが日本人が見落としていた日本の優れた風景を描き、それを見た日本人の画家達が日本の美質を再発見することになる。

1867年に始まり、1912年に終わった明治という年号。45年(43年間)という、昭和(64年。62年間)に次いで長い年号であり、前半と後半では大きく異なっている。

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1860年代は、フランスで後に印象派と呼ばれる絵画の作風が生まれた時代である。後に活躍するほとんどの画家が多かれ少なかれ印象派の影響を受けることになるのだが、お雇い外国人の画家達も、印象派のことは念頭に置いていたようで、彼らが描いた明治の日本は、光の降り注ぎ方が鮮やかである。

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また、描写の緻密さも特筆事項である。お雇い外国人として日本にやって来た外国人画家達は、日本人に洋画の手法を教え、自らのインスピレーションを深めると同時に、祖国へ未知の国「日本」を教えるという役目を担っていた。そのため、光の加減こそ印象派風であるが、描写スタイルそのものは印象派とは異なっている。写真を思わせるかのようなリアルなタッチの作品が多い。

最も展示作品が多い日本人画家は五姓田義松(ごせだ・よしまつ)である。ワーグマンやフォンタネージに師事した義松は、明治天皇御付画家の名誉を得ており、北陸地方や東海道への御幸に同行して訪れた場所の風景画をいくつも描いている。これらのうち、長野・善光寺、越前敦賀港、伊豆・三嶋大社の絵などを観ることが出来る。ワーグマンに師事していた時代には高橋由一と同門だったという五姓田義松。洋画と日本画の融合が試みられた時代であり、高橋に似た作風であるのもうなずける。

明治時代に風景画の第一人者とされた吉田博の作品も当然多い。光の移り変わりを題材にした版画なども多く手掛けた吉田博。写実的で動画的でもあるという、西洋と日本の融合への試みが、今回展示された作品のいくつかから伝わってくる。

古くから「子守」の文化があった日本だが、その様子は西洋人の目には面白く映ったようで、お雇い外国人画家達が子守の様子を描き、それが日本人画家による子守の再発見に繋がる。浮世絵が盛んであった江戸時代には子守を題材にした絵はほとんどなかったが、明治に入ると子守は重要な題材となる。

最後は日本の風景の至る所に配された花の絵で終わる。江戸時代から、日本の家々では園芸が盛んになり、庶民も家の片隅に花を植えていた。日本人は余り意識していないが、こうした風景は世界的には珍しいようで、これもまた海外からの視点を通して再発見された日本の美質といえるようだ。


「発見された日本の風景」は個人のコレクションによる展示会であり、4階のコレクション・ギャラリーでは、それを補う美術作品が展示されている。

まずは、ブーダン、シスレー、シニャック、マルケという、日本でいう幕末から明治時代に掛けて活躍した画家の作品が並び、お雇い外国人画家達への影響や同時代性を窺うことが出来る。

その後は、「発見された日本の風景」には登場しなかった日本人画家の作品が展示されている。いずれも京都国立近代美術館蔵のものだが、新たに購入した作品などもある。

浅井忠の「御宿海岸」は、千葉県の御宿(保養地として知られ、芥川龍之介など多くの文人が滞在している。全国的には童謡「月の沙漠」の舞台として有名である)を描いたものだが、この作品は長い間行方不明になっていたものだそうで、発見後初の展示となるようである。

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2021年8月28日 (土)

美術回廊(68) 京都文化博物館「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」

2021年8月19日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」を観る。
京都府立の施設である京都文化博物館も緊急事態宣言発出により、明日から休業に入るのだが、「小早川秋聲」展だけは引き続き展示が行われる予定である。

1885年生まれの小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)。鳥取県日野郡日野町の真宗大谷派の寺院・光徳寺の住職の子として生まれた秋聲(本名:盈麿。みつまろ)。母親は摂津三田(さんだ)元藩主・九鬼隆義の養妹であり、幼時を母の実家である神戸で過ごした。7歳から仏典を教わった秋聲は、父親が出世により本山である京都・東本願寺の事務局長となったため、共に京都に移住。9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入る。いったんは鳥取に戻った秋聲だったが、画家を志して二十歳の時に再び上洛。以降、88歳で他界するまで京都を本拠地として作品制作に取り組んだ。とはいえ、旅好きであった秋聲は、中国を皮切りにヨーロッパやアメリカまで出掛けて作品を残しており、旅を愛し、旅に生きた画家でもあった。

幸野楳嶺の門下である谷口香嶠に師事した秋聲は、谷口が京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学の前身)の教師になったため、同校に入学しているが、南画や文人画など中国を本場とする絵画に憧れていたこともあって、すぐに退学して中国に渡り、水墨画を学んだ。
秋聲の絵は、中国絵画からの影響が濃厚である。そうした画風を持ちつつ、欧米の風物を描いたことが強い個性へと繋がっているように思える。

満州事変以降、中国や東南アジアに渡って戦争画を作成した小早川だが、1974年に没すると急速に忘れ去られてしまう。彼の名前が再び脚光を浴びるのは、戦争画の一つである「國之楯」が戦争画展で注目を浴びたここ数年のことであるという。ということで、小早川秋聲の回顧展は今回が初めてとなる。「國之楯」で注目されたが、他の作品が全く知られていないという事実が、今回の展覧会開催の端緒となったようだ。

戦争画と関連のある絵画と見ることも出来る「山中鹿介三日月を排する之図」で展示はスタートする。題材は日本であるが、画風は典型的な南画の系列に入る。歴史的人物を描いた絵としては他に「楠公父子」という作品があり、楠木正成と楠木正行が描かれている。忠臣を描くことが好きだったのかどうかは分からない。

京都市立絵画専門学校時代の習作であるという「するめといわし」は、日本画のタッチで西洋的な描写も視野に入れるということで、高橋由一の作風によく似ている。

中央の火の明かりが周囲の人々を浮かび上がらせる「露営之図」の技法はその後も何度も用いられることになる。


海外を題材にした絵としては、満州吉林、蒙古ゴビ砂漠、台湾(当時日本領)、香港(当時英国領)、インド(当時英国領)のタージマハール、エジプト(当時英国領)、イタリア・ナポリ、ローマ、南仏ニース、グリーンランド、パリ、アメリカ・グランドキャニンなどを描いた作品が展示されている。いずれも西洋的な技術や視点とは異なるスタイルが取られているのが興味深い。
小早川は、ヨーロッパの夕景を好んだそうで、光と影の配分に力を入れているという点で、日本の伝統的な絵画の技術も受け継いでいることが分かる。
一見、暖かでユーモラスなタッチで描かれている「巴里所見」も描かれているのは大道芸人達ということで下層階級の人々だそうである。

一方で、「國之楯」と共に展覧会のポスターにも採用されている「長崎へ航(ゆ)く」 は、長崎の出島へ向かうオランダ商船をオランダ人が見送るという構図を持った作品で、日本人的でない発想力を持った人だったことも分かる。

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出征家族に送ることを想定した戦争画では勇ましい日本男児の姿が描かれているが、戦場で眠る日本兵士を描いた「虫の音」などはユーモラスであり、小早川の個性が窺われる。

戦死した日本軍兵士を描いた「國之楯」は、構図も内容も衝撃的である。戦死した日本人を描くのは好ましいとはされなかったようで、依頼した陸軍省から一度は受け取りを拒否されたという。

敗戦後、戦犯とされるのは覚悟の上だったという小早川だが、従軍中に体調を崩しており、京都で依頼される仏画などを描いて晩年を過ごす。真宗大谷派の寺の出身ということで、蓮如上人を題材としていたり、無量寿経(大経)に出てくる「天下和順(てんげわじゅん)」をイメージした絵画を制作している。
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起(天下は治まり、日や月が煌々と輝く 風雨は相応しい時に立ち、災害や疫病も起こることがない)」

 

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2021年7月28日 (水)

美術回廊(64) 京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」

2021年7月20日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館で、京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」を観る。なお、ポスターなどに用いられている重要文化財「序の舞」は、8月17日から始まる後期のみでの展示となる。

近世京都画壇の重要人物の一人である上村松園(1875-1949)。京都の街中である四条御幸町西入ル奈良物町(現在はビックカメラのある辺り)に生まれた彼女は、幼い頃から絵が好きで、京都市立開智小学校(跡地に現在は京都市学校歴史博物館が建つ)卒業後、京都府画学校(京都市立芸術大学美術学部の前身)で鈴木松年(しょうねん)に円山派の絵画を学び、「松」の字を譲り受けて松園と名乗る。松年が画学校を退職すると松園も退学して、松年の私塾で学ぶ。元々、美人画を描きたいと考えていた松園は、幸野楳嶺に師を変え、楳嶺が2年後に死去すると、楳嶺の一番弟子で現在も京都画壇の最重要人物と目されている竹内栖鳳に師事するようになる。その後は主に市井の女性を題材とした絵で注目され、死の前年には女性として初めて文化勲章を受章。死後には従四位に叙せられている。門徒でもあり、墓は大谷祖廟の東大谷墓地(展示されていた年表では大谷本廟となっていたが誤り)にある。息子は日本画家の上村松篁(しょうこう)、孫も日本画家の上村淳之(あつし。京都四條南座の緞帳も手掛けている)。

初期は表面的な美人画を描いていた松園だが、次第に内面の描写へと傾いていく。

初期作品の一つである「清少納言」は、清少納言が中宮定子に「香炉峰の雪はどう見るの?」と問われて御簾を掲げる場面が描かれているのが、全く同じ題材の「清少納言」を松園を大正時代に入った二十数年後に描き上げている。画風は大きく異なる。初期に書かれた「清少納言」は、床など余白とされる部分が大きく、清少納言の表情も何を考えているのかよく分からない。一方、大正時代に描かれた「清少納言」は清少納言の姿が大きく描かれ、迫力からして異なる。また清少納言の顔は、この場面には相応しくないほどの憂いに満ちている。大正期の「清少納言」の次に展示されているのは、「焔」という作品であるが、これは、紫式部の「源氏物語」に登場する六条御息所をモデルにした作品で、やはり強い憂愁の表情を浮かべている。その横に並ぶのは「紫式部之図」で、紫式部は和やかな面持ちである。歴史的に清少納言は皇后の座争いに負けた中宮定子側、紫式部は勝った中宮彰子側である。これはそう見えるようにキュレーターが並べているので、実際に松園が清少納言の憂いに何を込めたのかは分からない。御簾を掲げる場面は、清少納言が己の教養の高さを示すために「枕草子」に自慢気に書いたもので、その場で憂鬱な顔をしていたとは考えにくい。大正時代の「清少納言」が描かれた時期は、松園がスランプに陥っていた時代のようだが、己の姿を清少納言に重ねたのであろうか。

初期の松園の絵は、伝統的な日本画に多い、S字カーブの構図を用いているのも特徴。「花のにぎわい」など、同じモチーフで描かれている一連の作品は、崩れそうなバランスを敢えて取ることで、一瞬の華やぎを上手くすくい取っている。後年の作品ではS字カーブはあまり見られなくなり、代わって垂直の構図が多く用いられるようになる。

「表面的で内面描写に乏しい」というのが、初期の松園が受けた評価であった。これを受けて松園も心情が一目見て分かるような描写を心がけるようになり、先に挙げた「清少納言」や「焔」はそうした時代を代表するものである。だが松園はその後、直接的な描写ではなく、主人公以外の要素を描くことで、心象が間接的に伝わる技法へと転換していく。

昨年、京都国立近代美術館で行われた「京(みやこ)のくらし」展でも観た「虹を見る」(京都国立近代美術館所蔵)では母親と赤子、そしてもう一人の若い女性がタイトル通り虹を見上げているところを描いた絵であるが、目に映る虹は三者三様であることが察せられ、観る者の想像力をくすぐる。
また亡くなった母に捧げたとされる「母子」(重要文化財指定。前期のみの展示)では、赤子を抱いている母親の横顔が描かれているのだが、赤子は向こうを向いているので表情は見えない。だが母親の方は清々しい表情を浮かべているため、赤子も良い表情をしていることが察せられる。このように松園は直接的な描写でなく観る者の想像力に委ねる画風を確立する。「楚蓮香」など、蝶々が華やかさを演出している絵が何枚かあるが、やがてそれが憂いの蛍へと変わっていく。描かれている女性は特に憂鬱な感じではないのだが、蛍を追っていることで、自然に儚さが出ている。後期になると再び余白の部分も大きくなる。

松園の絶筆とされる「初夏の夕」(京都市美術館所蔵)も蛍を目で追う女性を描いたものだ。だがこの作品では女性は柔らかな微笑みを浮かべており、蛍が憂鬱の象徴から懐古の念を起こさせるものに変化したことが受け取れる。憂いさえも微笑んで受け入れる松園円熟の境地である。

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2021年6月16日 (水)

2346月日(33) 京都文化博物館 京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」&「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」

2021年6月11日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」と「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」を観る。

「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」は、修復された寺町・誓願寺の門前町を描いた屏風絵の展示が中心となる。豊臣秀吉によって築かれた寺町。その中でも本能寺などと並んでひときわ巨大な伽藍を誇っていたのが誓願寺である。

落語発祥の地としても名高い浄土宗西山深草派総本山誓願寺。明治時代初期に槇村正直が新京極通を通したために寺地が半分以下になってしまったが、往時は北面が三条通に面するなど、京都を代表する大寺院であった。
この「誓願寺門前図屏風」作成の中心となった人物である岩佐又兵衛は、実は織田信長に反旗を翻したことで知られる荒木村重の子である(母親は美女として知られた、だしといわれるがはっきりとはしていないようである)。荒木村重が突然、信長を裏切り、伊丹有岡城に籠城したのが、岩佐又兵衛2歳頃のこととされる。使者として訪れた黒田官兵衛を幽閉するなど、徹底抗戦の姿勢を見せた荒木村重であるが、その後、妻子を残したまま有岡城を抜け出し、尼崎城(江戸時代以降の尼崎城とは別の場所にあった)に移るという、太田牛一の『信長公記』に「前代未聞のこと」と書かれた所業に出たため、有岡城は開城、村重の妻子は皆殺しとなったが、又兵衛は乳母によってなんとか有岡城を抜け出し、石山本願寺で育った。その後、暗君として知られる織田信雄に仕えるが、暗君故に信雄が改易となった後は京都で浪人として暮らし、絵師としての活動に入ったといわれる。

誓願寺門前図屏風は、1615年頃の完成といわれる。大坂夏の陣のあった年である。翌1616年頃に又兵衛は越前福井藩主・松平忠直に招かれて、福井に移っているため、京都時代最後の大作となる。又兵衛一人で描いたものではなく、弟子達との共作とされる。又兵衛は福井で20年を過ごした後、今度は二代将軍・徳川秀忠の招きによって江戸に移り、その地で生涯を終えた。又兵衛は福井から江戸に移る途中、京都に立ち寄ったといわれている。

岩佐又兵衛について研究している京都大学文学研究科准教授の筒井忠仁出演の13分ちょっとの映像が、「誓願寺門前図屏風」の横で流されており、「誓願寺門前図屏風」に描かれた京の風俗や修復の過程で判明したことなどが語られる。

経年劣化により、かなり見にくくなっていた「誓願寺門前図屏風」。修復の過程で、二カ所に引き手の跡が見つかり、一時期は屏風ではなく襖絵として用いられたことが確認されたという。

『醒睡笑』の著者で落語の祖とされる安楽庵策伝が出たことで、芸能の寺という側面を持つ誓願寺には今も境内に扇塚があるが、「誓願寺門前図屏風」にも誓願寺のそばに扇を顔の横にかざした女性が描かれている。

また、三条通と寺町通の交差する北東角、現在は交番のある付近には、扇子を売る女性が描かれているが、彼女達は夜は遊女として働いていたそうである。また、今は狂言で女性役を表すときに使う美男鬘を思わせるかづきを被った女性などが描かれている。

誓願寺は和泉式部が帰依した寺ということで、和泉式部の塚も以前は誓願寺にあったようだ(現在は少し南に位置する誠心院に所在)。誓願寺は女人往生の寺であるため、女性の姿も目立つ。
一方、三条寺町では馬が暴れて人が投げ出されていたり、喧嘩というよりも決闘が行われていたり、物乞いがいたりと、当時の京都の様々な世相が描かれている。

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その他には、茶屋氏、角倉氏と並ぶ京の豪商だった後藤氏関係の資料が展示されている。後藤氏の邸宅は現在、新風館が建つ場所にあった。かなり広大な面積を持つ屋敷だったようで、往時の後藤氏の勢力が窺える。
作庭家や茶人としても有名な小堀遠州(小堀遠江守政一)や、豊臣家家老でありながら大坂を追われることになった片桐且元、加賀金沢藩2代目の前田利光(後の前田利常)、熊本城主・加藤清正らが後藤家の当主に宛てた手紙が残されており、後藤家の人脈の広さも分かる。虎狩りで知られる加藤清正だが、清正から後藤氏に出された手紙には、虎の毛皮を送られたことへの感謝が綴られており、清正が虎狩りをしたのではなく虎皮を貰った側ということになるようだ。


元々、下京の中心は四条室町であったが、江戸時代には町衆の中心地は、それよりやや東の四条烏丸から四条河原町に至る辺りへと移っていく。
出雲阿国の一座が歌舞伎踊りを披露した四条河原は、京都を代表する歓楽地となり、紀広成と横山華渓がそれぞれに描いた「四条河原納涼図」が展示されている。紀広成は水墨画の影響を受けたおぼろな作風であり、一方の横山華渓は横山華山の弟子で華山の養子に入ったという経歴からも分かる通り描写的で、描かれた人々の声や賑わいの音が聞こえてきそうな生命力溢れる画風を示している。

後半には四条河原町付近の住所である真町(しんちょう)の文書も展示されている。面白いのは、四条小橋西詰の桝屋(枡屋)喜右衛門の名が登場することである。万延元年(1860)の文書で、灰屋という家の息子である源郎が、桝屋喜右衛門の家に移るという内容の文書と、転居したため宗門人別改にも変更があり、河原町塩谷町にあった了徳寺という寺院の宗門人別改帳への転籍が済んだことが記載されている。

実はこの翌年、または2年後に、桝屋の主であった湯浅喜右衛門に子がなかったため、近江国出身で山科毘沙門堂に仕えていた古高俊太郎が湯浅家に養子として入り、桝屋喜右衛門の名を継いでいる。古高俊太郎は毘沙門堂に仕えていた頃に梅田雲浜に師事しており、古高俊太郎が継いで以降の桝屋は尊皇討幕派の隠れアジトとなって、後の池田屋事件の発端へと繋がっていくことになる。ということで、灰屋源郎なる人物も古高俊太郎と会っていた可能性があるのだが、詳細はこれだけでは分からない。

 

3階では、「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展が開催されている。
シュルレアリスムを日本に紹介した福沢一郎が独立美術協会を立ち上げたのが1930年。その後、四条河原町の雑居ビルの2階に独立美術京都研究所のアトリエが設置され、京都でも新しい美術の可能性が模索されるようになる。だが戦時色が濃くなるにつれてシュルレアリスムなどの前衛芸術などは弾圧されていく。そんな中で現在の京都府京丹後市出身である小牧源太郎は、仏画を題材とした絵画を制作することで土俗性や精神性を追求していったようである。

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2021年6月 6日 (日)

史の流れに(8) 京都市京セラ美術館 国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」

2021年6月3日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎にある京都市京セラ美術館で、国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」を観る。日独交流160周年記念企画である。緊急事態宣言による臨時休館を行っていた京都市京セラ美術館だが、一昨日、6月1日から展示を再開している。

京都市美術館が京都市京セラ美術館になってから入るのは初めて。内部が大幅に変わっている。以前は京セラの本社内にあった展示スペースが京セラ美術館という名前だったが、紛らわしいということで、そちらは京セラギャラリーと名前を変えている。

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「古代エジプト展 天地創造の神話」の展示品の多くが石造りや金属製ということもあって、ほぼ全てが写真撮影可となっているが、「個人的に楽しむためのものとしてご使用下さい」となっているので、おそらくWeb上にアップするのはNGだと思われる。

雄のライオンの顔を持つセクメト女神が疫病退散の力を持っているようで、その像がエジプト版「アマビエ」として積極的に撮影するよう促されていたが、お守りとして待ち受け画面に使うことが推奨されているようである。

まず始めに冥界への導き手を務める神であるアビヌスの像が展示されており、続いてアニメーション上映のコーナーがあって、アビヌス(声の担当:荒牧慶彦)が語り手を務めるエジプト版天地創造の神話が語られる。アビヌスが登場するアニメーションは他の場所でも上映されているが、それらに関しては撮影も録画も禁止である。

日本の神話でも天照大神と素戔嗚尊が姉弟でうけいをする場面があるが、エジプトの神々も兄妹で愛し合い、子どもが生まれている。エジプトは歴史が古いので、プトレマイオス朝など紀元前の王朝でも近親婚が普通だったことが知られている。例えば、美女の代名詞の一人であるクレオパトラ7世の最初の夫は、彼女の実弟である。

エジプトの原初の神は、ナイル川をモデルにしたと思われるヌンである。「原初の水」という意味だそうで、ヘロドトスの「エジプトはナイルの賜物」という言葉が浮かぶ。
そこから太陽神であるアトゥムが生まれたが、アトゥムは両性具有の創造神だそうで、自慰によって、大気の神であるシューと湿気の女神であるテフヌトが生まれたという。シューとテフヌトの兄妹が交わることで、大地の神のゲブと天空の女神であるヌトが生まれたのだが、やはり兄妹で結婚したゲブとヌトの仲が余りに良いことに父親のシューが嫉妬し、ヌトの体をつかんで引き離そうとした。ヌトはゲブから完全に体を離そうとはせず、体が弧状に伸び、これが天穹となった。


今回の展示は、クレオパトラなどの実在の人物よりも、エジプト神話の世界の展示が中心となっているが、伝ハトシェプスト女王や、伝ネフェルティティ王妃の像(有名な胸像ではなく頭部の像)なども展示されている。ハトシェプスト女王は即位中は男装していたとされるため、その像も男性化されたスフィンクスとしての装飾を施されているが、顔は柔和で女性的である。エジプトの美女というとやはりクレオパトラ7世が世界的に名高いが、彼女の場合は聡明さなども含めての評価で、純粋な容姿でナンバーワンといわれるのがネフェルティティである。今回展示されている頭部の像なども、今の基準でいっても世界的な美女と評価されるのは確実だと思われる。一方で、ネフェルティティは正体がよくわからない謎の女性としても知られている。古代エジプトの話は、TBS系の「世界ふしぎ発見!」がよく取り上げており、ハトシェプストもネフェルティティも何度も登場している。京都に来てから「世界ふしぎ発見!」も見なくなってしまったが。

ネフェルティティは、古代エジプトの宗教改革者であるアメンホテプ4世王(アクエンアテン、イクナートン)の王妃である。ただ分かっているのは、そのこととアメンホテプ4世王との間に数人の子を設けたということだけである。それ以外の記録はほとんどない。そのため、早いうちに亡くなったという説が生まれたが、正確なところははっきりしていない。アメンホテプ4世王は、突如としてそれまでの多神教的だったエジプトの宗教性を覆し、アテン神(南中した太陽を表す神)1神のみを崇拝する一神教へと舵を切った人物であり、テーベからアケトアテンに遷都するなど、徹底した改革を行ったが、その死後には揺り戻しとしてアメンホテプ4世自身が否定される存在となり、その子とされるツタンカーメン(トゥトアンクアメン)らによって実際に多くの記録などが処分された。そのためその妃であったネフェルティティに関する情報もほぼ全て失われてしまっている。

あの世に再生するための指南書である「死者の書」については、アニメーションなども使って分かりやすく説明されている。死後、魂は試練を経てあの世に向かうのだが、あの世はその時代のエジプトと完全に同じ姿をしていると考えられたようである。死後の世界に行けなかった場合は、怪物アメミットに心臓を食べられて、その人物は消滅する。輪廻転生から逃れるための修行を重視する仏教においては無になることの方がむしろハッピーエンドに近いため、死に対する観念が大きく異なっているのが分かる。


ちなみに、エジプトには世界の終焉伝説があり、蛇に身を変えたアトゥム神とオシリス神が世界の終わりを見届けるという。ただ、世界は再生するそうだ。アトゥムは創造神であり、日没時の太陽を表す神であるが、同時に破壊も司るという、シバ神に似た性格を持っているようである。
アテフ冠を被ったオシリス神の小像の冠の部分には、アトゥム神だと思われる蛇の飾りが施されている。

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