カテゴリー「演劇」の611件の記事

2022年1月27日 (木)

観劇感想精選(423) 《喜劇名作劇場》恋ぶみ屋一葉「有頂天作家」 

2022年1月16日 京都四條南座にて観劇

午後3時30分から、京都四條南座で、《喜劇名作劇場》恋ぶみ屋一葉「有頂天作家」を観る。キムラ緑子と渡辺えりが南座で(南座の休館時は大阪松竹座で)の上演を重ねている「有頂天」シリーズの最新作である。今回は、「現代の戯作者」とも呼ばれている齋藤雅文が1992年に書いた「恋ぶみ屋一葉」を齋藤雅文自身の演出で上演する。
出演は、渡辺えりとキムラ緑子の他に、大和田美帆、影山拓也(ジャニーズJr.)、瀬戸摩純(劇団新派)、春本由香(劇団新派)、長谷川純、宇梶剛士、渡辺徹ほか。

音楽劇という程ではないが、冒頭とラストに歌とダンスのシーンがあり、劇中もいくつかのナンバーが俳優達によって歌われる。

一葉というのは樋口一葉(本名:樋口奈津)本人ではなく、同じ「奈津」という名前を持つ前田奈津(キムラ緑子)のことである(樋口一葉の友人であった伊藤夏子がモデルの可能性もある)。前田奈津は、樋口一葉と共に尾崎紅葉門下であったが、樋口一葉最晩年(といってもまだ24歳だが)の情熱的な活動と出来上がった作品の完成度に惚れ込み、以降は小説家を目指すのを断念して樋口一葉のファンとして樋口一葉同様に荒物屋を営み、一方で、恋文を中心とした代書屋として活動していた。一葉は前田奈津のあだ名であり、自分から一葉を名乗ったのではなく、周りが彼女のことを一葉と呼ぶのであった。

尾崎紅葉門下の筆頭格である通俗小説家の加賀美涼月(渡辺徹。モデルは加賀金沢出身の泉鏡花だが、尾崎紅葉、更におそらくは半井桃水の要素も盛り込まれている)は現在では弟子数名を抱える売れっ子となっている。前田奈津と加賀美涼月は紅葉の門下生時代から親しい間柄で、今でも男女という性別を超えた友人として付き合ってる。前田奈津には加賀美に対する恋心もあったのだが、親友で後に芸者となったきくに加賀美を譲っていた。加賀美ときくの恋は実らず、きくは川越にある農家に嫁ぎ、21年前に他界していた。はずだったのだが、実は生きている。夫の苗字を名乗り、サツマイモ畑で汗を流す日々。夫は朝鮮に渡り、その地で亡くなっていた。きくの舅が、きくと加賀美の仲を完全に裂くために、「きくは亡くなった」と偽りの訃報を加賀美や奈津に届けていたのだ。

加賀美涼月の自宅に、一人の小説家志望の青年が訪ねてくる。川越出身の羽生草助(影山拓也)である。加賀美は、草助が書いた原稿に一応は目を通すが、「表現しようという意欲が感じられない」とこき下ろす。だが、草助に新たに玄関番になることを命じ、門下の書生となることを許す。実はこき下ろしはしたが、加賀美は草助の中に光るものを感じていた。草助が加賀美の文体を真似ようと努力していることも見抜き、新時代の感覚も身につけているということで期待していたのだった。加賀美は家を訪ねてきた奈津にそのことを語る。奈津は、草助が若い頃の加賀美に似ていると言う。

そんな中、きく(渡辺えり)が奈津を訪ねてくる。昔はほっそりしていたきくだが、今は体の幅が倍ぐらいになっており、21年ぶりの再会ということで、奈津はきくに気付かない。
きくが奈津を訪ねたのは、家出した息子を川越に連れ戻そうとしてのことだった。実はきくの息子は草助であり、草助が加賀美涼月に弟子入りすると書き置きを残していたため、東京へと出てきたのだった。

その草助は、先輩書生の片桐清次郎(長谷川純)らに連れられて吉原に遊びに行き、そこで出会った芸者の桃太郎(大和田美帆)に恋心を抱く。草助と桃太郎はすぐさま両思いとなった。
加賀美涼月は、芸者が嫌いであった。弟子達にも「芸者と遊ぶな」ときつく戒めていた。だが、加賀美はかつての恋人であった芸者時代のきくが忘れられず、50歳も間近だというのに所帯を持とうとはしなかった。弟子達に芸者遊びを禁じたのも、悲恋に終わった自身の芸者との関係が傷となり、弟子にも芸者にも自分と同じ思いをさせないためだった。

他の人物は草助についてよく知らないが、母親のきくは当然ながら彼の父親が誰なのかを知っていた……。


樋口一葉、泉鏡花、尾崎紅葉ら明治の文豪をモデルとした架空の人物達が繰り広げる文芸ロマンである。加賀美涼月は通俗作家という設定だが、新派劇と通俗小説はかなり近しい関係にあり、劇団新派文芸部出身の齋藤雅文も通俗であることの誇りを加賀美の口を借りて謳っている。

大和田美帆演じる桃太郎は、泉鏡花の奥さん(伊藤すず。ちなみ泉鏡花の実母の名前も「すず」である)と同じ芸名であり、加賀美涼月と羽生草助が共に泉鏡花の分身として登場し、泉鏡花という作家が重層的に描かれている。尾崎紅葉は鏡花と伊藤すずの交際に反対しており、二人が結婚するのは紅葉が亡くなってからだが、その構図がこの作品でも生かされている。

伏線が上手く張り巡らされ、登場人物の心の機微が綾を成して、いくつもの恋が巧みに織りなされていく。24歳で早逝した樋口一葉ではなく、その志を受け継いだ前田奈津を主人公にしたことで、今生きることの希望がメッセージとして強く押し出されていた。

Dsc_0031

| | | コメント (0)

2022年1月15日 (土)

観劇感想精選(422) MTC project プロデュース 一人芝居コラボレーション「私」と「わたし」

2021年11月6日 大阪・新町のイサオビル Regalo Gallery&Theaterにて観劇

午後5時から、大阪・新町にあるイサオビル Regalo Gallery&Theaterで、MTC project プロデュース 一人芝居コラボレーション「私」と「わたし」を観る。

イサオビルが建つのはオリックス劇場(大阪厚生年金会館大ホールを改修したもの)のすぐそばである。オリックス劇場では今日も誰かのライブがあるようで、劇場の前にある新町公園でも人が大勢待っている。


Theaterは2階にあるのだが、受付は3階にあるカフェで、午後5時にキャストが迎えにくるまでカフェ内で待つことになる。
午後5時に、「私」の作・演出・出演である増田雄氏(MTC Project代表)が現れて、1つ下の階にあるTheaterに整理番号順で入る。私は大体、会場に早く着きすぎるので(遅れるのが絶対に嫌なので早めに出て早めに着くようにしている)整理番号は1番であった。

増田雄の一人芝居である「私」は、2016年1月の初演。精神保健福祉士の卵達にも発達障害のことが良く分かるような芝居を作ってくれないかとの依頼を受けて制作されたものだった。増田雄自身、発達障害の一つであるADHDの傾向があると診断されていたが、医学に関しては素人であるため、「僕なんかより、学生でも精神保健福祉士になるための勉強をされている方の方が詳しいんじゃないですか?」と聞いたところ、「教科書で学ぶ内容と現実との余りの開きに皆戸惑っている」という返事が返ってきたため、ならばその差をより突き詰めるような内容にした方がいいだろうということで、就職に悩む大学4年生(関西風に言うと4回生)を主人公とした一人芝居とし、発達障害の当事者が周囲の見せかけの「理解」に戸惑う内容としている。主人公の男性に関しては、ADHDではなくASD(自閉症スペクトラム)としていることが分かる。ちなみに、発達障害者は、「世界で最も就職の難しい種族」などと言われることもあるのだが、「自閉症スペクトラム(スペクトラムは「連続体」という意味)」という言葉からも分かる通り、一人ひとり症状が異なるというややこしい特性があるため、断言が難しい症状でもある。
日本は先進国の中でも特に発達障害と診断される人が多い国であるが、社会制度そのものが発達障害と診断された人を弾き出すシステムになっていることも影響していると思われる。

増田雄の演じる「私」を観て、リライトを思い立ったASD当事者である関根淳子が書き上げたのが、タイトルをひらがなにした「わたし」である。単純に性別を変えただけではなく、就職の問題を恋愛問題に置き換え、身分も学生ではなく専門学校卒のフリーターに変更。「私」では寓話で語られた部分を学生時代の人間関係の思い出話とし、クライマックスで語られる童話調の物語も、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「人魚姫」を基にしたものに変更している。一人芝居であるが登場人物も大幅に増え(「私」では、面接官ぐらいしか具体的な他人は出て来ないが、「わたし」では学校の同級生、彼氏と彼氏の母親などが登場。「人魚姫」の部分では主人公の他に人魚姫の二人の姉や魔女なども声音を変えて演じ分ける)、ダンスや振りのある演技も入れたため、上演時間も約50分と、「私」の約30分から倍近くに延びている。「私」は会議室での上演を想定したものということもあって音楽なしだが、「わたし」は音楽入りと、ここも異なる。

女性の場合、男性よりもより高度なコミュニケーション能力を要求されるケースが多い。男の場合は、私もそうだが一人が好きという性格であったとしても「そういう人っているよね」で済むのだが、女の場合はいつも一人でいると異端視されやすい。発達障害者には孤独を好む傾向を持つ人も多いのだが、女性の場合は孤独が許されず、人間関係が苦手だと男性以上に地獄を見ることになる。

一方で、男性の場合は就職出来ないと負け犬扱いされることが多いが、女性の場合は「家事手伝い」という抜け道もあり、フリーターであっても「そのうち結婚すればいいから」と許される確率も高い。ただ、生涯未婚率自体が上昇の一途であり、将来的に追い込まれる人も出てきそうである。


関根淳子の「わたし」は、2年前にここイサオビル Regalo Gallery&Theaterで初演される予定だったのだが、コロナ禍によって中止となり、THEATRE E9 KYOTOが企画したオンライン上演企画に応募して、関根淳子が所属しているSPAC(Shizuoka Performing Arts Center)の本拠地である静岡市内で収録した映像によって初演が行われた。その後、静岡県内で静岡県在住者に限って観覧出来る上演が行われ、関根の母校である東京大学での上演などを経て、ようやく初演が予定されていた大阪での上演となった。

関根淳子の「わたし」は、私も有料配信のものを観ており、増田雄の「私」はYouTubeで観ている(収録の出来は満足のいかないものなので、増田さんはこの映像を観ることをお勧めしていないようである)のだが、両作品とも「演劇」として接するのは初めてとなる。

内容に関しては映像初演の時と重複する部分も多いので繰り返さないでおくが、印象自体は映像で観るのとその場で観るのとではやはり大きく異なり、演劇はやはり会場まで出向いて観る必要を強く感じる。受け取るエネルギーの量が段違いなのである。

増田雄の後で聞く関根淳子のセリフ回しに、関東人ならではの心地良さを感じる。増田雄も大学は多摩美術大学(世田谷区上野毛にあった造形表現学部映像演劇学科。現在の美術学部演劇舞踊デザイン学科の前身である)を出ているので、東京にいた期間はあるのだが基本的に西日本の人であり(出身は、西日本にも東日本にも含まれる三重県である)、セリフは標準語が用いられていたが、やはり関東で生まれ育った関東人のセリフ回しとは異なる印象を受ける。セリフだけでなく、数人いる関東出身の友人とそれ以外の地方の友人とでは日本語そのものに関する意識自体に違いを感じたりもしている。
関東人の話し方は、緩急、強弱ともに自在なのが特徴であり、「線」が波打つような感覚がある。一方、その他の地方の話し方はそれがいかに音楽的であろうと迅速な「点描」という印象を受ける。関東人の話し方は擦弦楽器あるいはオーケストラ的、それ以外の地方の人々の話し方はピアノなどの鍵盤楽器やギター的であると書くと分かりやすいだろうか。
人によって感じ方は異なるだろうが、関東で生まれ、27歳まで関東で過ごした人間としては、間近で聴く関東・標準語ネイティブである関根淳子のセリフは本能的に受け入れやすいものであるように感じられる。


「私」と「わたし」の上演の後にアフタートークがある。毎回ゲストを呼んで行われるが、今日のゲストは精神保健福祉士の山崎明子(一般社団法人みーる代表理事)。
山崎明子が代表理事を務める一般社団法人みーるは就労継続支援B型(障害のある方に就労のための訓練を施す場所。A型というのもあって、こちらは労働契約を結ぶため最低賃金が保障されるが、B型は労働の場というよりも「居場所」の色彩が濃く、工賃というものが出るが、月収が1万円いけば良い方というところも普通にある)を運営しているのだが、みーる主催による「私」が週末限定でロングラン公演が行われたそうである。

アフタートークは写真撮影可、というより増田さんによると「積極的に撮って広めて欲しい」とのことだったが、余り良い写真は撮れそうになかったので遠慮した。

山崎さんによると、支援者として障害者に接する難しさがあるそうで、相手のためを思った言動が、結果的には相手を見下す結果になることもあるそうだ。「わたし」では、「理解者」を自認する第三者からの善意が生む悪意に曝される場面があるのだが、そうした光景は支援施設でもよく見られるそうである。
施設の利用者には、上手く表現出来ない恐怖感を日常的に抱いている人も多いそうだが、これはある意味、日常というものがホラー化していることを表しているのかも知れない。


終演後に、関根淳子さんに挨拶。Zoomで話したりFacebookでやり取りをしたことはあるのだが、実際に対面するのは初めてとなった。なんだか妙な感じである。

Dsc_2563

| | | コメント (0)

2022年1月10日 (月)

観劇感想精選(421) 野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16th

2021年11月7日 左京区岡崎の京都観世会館にて

午後2時から、左京区岡崎の京都観世会館で、野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16thを観る。

演目は、まず小舞が3つあり、野村裕基による「鮒(ふな)」、野村萬斎による「鐵輪(かなわ)」、野村万作による「住吉」が舞われる。

「鮒」は、琵琶湖を舞台とした舞で、「美物の数は多けれど中に異なる近江鮒の膾(なます)の味こそすぐれたれ」と訴える大きな鮒に小袖などが与えられ、鮒がいることの目出度さが語られる。

「鐵輪」は、貴船(きぶね)の貴船(きふね)神社が舞台であり、丑の刻参りを行おうとした女性が、安倍晴明が築いた結界によって境内に入れず、目に見えぬ鬼となって消えていくという物語である。この場面は、野村萬斎が安倍晴明を演じた映画「陰陽師」にも登場する。

「住吉」は、大阪の住吉大社が舞台となっている。海路の神である住吉大社から見た瀬戸内海の風情が称される。詞も短く、動きも大きくはないが、動中の静、静中の動を共に表現する必要があり、最も難しい舞の一つに数えられているそうである。


狂言の演目は、「縄綯(なわない)」と「孫聟(まごむこ)」であるが、その前に中村修一による解説がある。

中村は、「まだ解説にはなれていませんので」ということで説明書きを用意しての解説を行う。まず小舞が行われたことに関して、「狂言を観るのは今日が初めてという方もいらっしゃるかも知れませんが、『話が違う』『全然笑えない』と思われた方、大丈夫です。本編はこれからです」と言って、まず3つの小舞の解説を行う。

「縄綯」はタイトル通り縄を綯う話なのだが、中村が太郎冠者が縄を綯うようになるまでの過程を説明する。登場する主が博打狂いだという話をして、借金のカタとして太郎冠者まで取られてしまったという顛末を語る。ただそのまま身売りの話をしても太郎冠者は首を縦に振らないだろうということで、相手先に状を届けるということにして、太郎冠者を相手の家に向かわせる。ところが、借金のカタに取られたと知った太郎冠者はふてくされて、英語で言うボイコットを行う。山一つ向こうまで使いに言ってくれと頼むも、足を痛めているということで拒否。縄を綯(な)ってくれと頼むと、「縄など綯ったことがない」と言い出す。ところが、元の主人のところに新しい主が聞きに行ったところ、実は縄綯いは太郎冠者の特技だという。ということで、太郎冠者を元の主のところに戻し、新しい主が物陰に隠れて太郎冠者が縄綯いをするところと探っていると、太郎冠者は新しい主の悪口三昧。更には会ってもいない新しい主の奥さんや子どもの話をでっち上げて謗り始め……という内容であることを語る。

「狂言というのは、最初に『この辺りの者でござる』と言いますが、ありふれた人々が失敗をしてしまう話」という定義を語った後で、「『私、失敗しないので』でお馴染みの大門未知子の『ドクターX』。野村萬斎も出ております。是非ご覧下さい」と宣伝に繋げていた。

「孫聟」に関しては、「婿入りの話だが、今で言う婿入りではなく、聟が妻の実家に挨拶に行くこと」と解説。また、「おおじ」という言葉が出てくるが、これは「祖父」と書いて「おおじ」と読み、「王子、プリンスのことではありません」と語った。


野村裕基、萬斎、万作による三代の舞。裕基は若いだけに華があるが、同時に軽さもまだ出てしまう。若さが持つ諸刃の剣である。萬斎の仄暗さの表出、万作の泰然とした舞は見応えがある。


「縄綯」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、内藤連(主)、高野和憲(何某)。
野村萬斎演じる太郎冠者は、主の命令に現代人の口調で「はい??」と返すため、本来は舞台上と客席とでは時代が違うはずなのだが、萬斎だけが現代人の心情を持った人物として現れたような印象を受ける。観る側は、萬斎を「視座」として芝居を楽しめば良い。博打狂いで借金まみれ、家内の者をカタとして譲るような人物に仕えているということで、太郎冠者がブラック企業に不承不承勤めるサラリーマンのようにも見えてくる。そうした楽しみ方もありだろう。太郎冠者が現代に生きていたら、ネット上に上司の悪口を書きまくるのかも知れない。


「孫聟」。出演は、野村万作(祖父)、深田博治(舅)、飯田豪(太郎冠者)、野村裕基(聟)。野村万作と裕基が祖父と孫という、現実と同じ役割を演じる(祖父は劇中では母方の祖父である)。裕基は、「祖父にとても可愛がられている孫でござる」と言って笑いを取っていた。
「孫聟」は和泉流の専有曲で、聟と舅が口うるさい祖父がいない間に祝言を済ませようとするのだが、結局、祖父も孫が来ているということを知って祝言に参加し、自分の思い通りにことを進めようと何度も何度も同じことを口にし、舅がそれを食い止めようとこれまた同じことを繰り返すという、反復の妙が生きた作品である。

Dsc_2574

| | | コメント (0)

2022年1月 2日 (日)

観劇感想精選(420) NODA・MAP番外公演 「THE BEE」2021大阪

2021年12月22日 グランフロント大阪北館4階ナレッジシアターにて観劇

午後6時30分から、グランフロント大阪北館4階のナレッジシアターで、NODA・MAP番外公演「THE BEE」を観る。原作:筒井康隆(「毟りあい」)、上演台本・演出:野田秀樹。阿部サダヲ、長澤まさみ、河内大和(こうち・やまと)、川平慈英による4人芝居である。井戸を演じる阿部サダヲ以外は、一人で複数の役を演じる。野田秀樹は出演しないが、NODA・MAPにおいて野田本人が出演しないのは初めてとなるようである。

Dsc_2978


「THE BEE」は、9.11事件後の聖戦という名の報復をテーマに2006年にロンドンで英語版を初演。野田のオリジナル台本ではなく、筒井康隆の短編小説を原作とした脚本が書かれた。2007年に日本初演が行われている。
その後、2012年に日本語版が再演され、今回が再々演(三演)となる。前回、フェイクニュースを題材にした「フェイクスピア」を上演した野田秀樹が今の時期に「THE BEE」を取り上げるというのも興味深い。

阿部サダヲが客席後方から通路を通って舞台に上がる。このことにも実は意味があるように感じられる。

紙製の幕を用いた演出が特徴で、この幕に影絵が投影されるなど、シンプルな装置を上手く使っている。また、残虐シーンに鉛筆が多用される。


物語は、脱獄犯である小古呂(おごろ。演じるのは川平慈英)に我が家を占拠され、妻と息子が人質となっているサラリーマンの井戸(阿部サダヲ)が会社から戻ってきたところから始まる。井戸は自宅の前で警察官に止められるまで、我が家で何が起こっているのか誰にも知らされていなかった。家の前の通路は封鎖されており、帰ることが出来ない。更に警官やらマスコミ(川平慈英、長澤まさみ、河内大和が早替えで演じる)に取り囲まれ、被害者らしく振る舞うよう強要される。

事件をより見栄えあるものに変えるべく脚色が加えられる様は、つかこうへいの「熱海殺人事件」を想起させられるが、実はこの「THE BEE」は、「熱海殺人事件」へのオマージュ、更にはポスト「熱海殺人事件」の時代が描かれているような気がする。主人公が黒電話でがなり立てる場面があるほか、「熱海殺人事件といえば」の「白鳥の湖」が「THE BEE」ではオルゴールで流れ(長澤まさみが「白鳥の湖」であることをわざわざ告げるセリフがある)、更には「熱海殺人事件」におけるもう一つの重要楽曲である「マイウェイ」もちゃんと流れる。ハチャトゥリアンの「剣の舞」の日本語歌詞付きバージョン(尾藤イサオの歌唱、なかにし礼の作詞)や、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」よりハミングコーラスなど、「熱海殺人事件」とは直接の関係がない楽曲も重要な場面で流れるが、野田秀樹の頭の中に「熱海殺人事件」が全くなかったとは考えにくい。

「熱海殺人事件」は、高度情報化社会が訪れ、イメージが事実に優先する時代を戯画風に描いた作品だが、今はポスト・トゥルースが当たり前のように幅を利かせる時代となっており、「フェイクスピア」で描かれたJAL123便墜落事故なども、「真相」という形を取って根拠不明の情報が溢れるようになってしまっている。そういう意味では現代は「熱海殺人事件」を数歩超えた時点に辿り着いてしまったという実感がある。それが今、「THE BEE」を再び世に問うた意義なのかも知れないが、ここではまず、「THE BEE」で描かれていることを追っていく。

妻と子を人質に取られた井戸は、「被害者を演じる力量が自分にはない」と悟り、案内役の刑事(川平慈英)の頭をバットで殴って拳銃を奪い、逆に脱獄犯・小古呂の妻(長澤まさみ)と小古呂の一人息子(川平慈英)を人質に取って、マンションの一室に立てこもる。

小古呂と連絡を取る内に、井戸に中に次第に狂気が芽生え始める。相手の家に押し入って妻子を人質に取るという行為からして異常だが、井戸のタナトスは次々に爆発していく。ついには小古呂を脅迫するために、小古呂の一人息子の指を切断し、封筒に入れて小古呂に送りつける。そうして井戸は小古呂の妻と情事に及び、翌朝は小古呂の妻が作った朝食を皆で共にする。そこへ、ドアポストから封筒に入れられたものが差し入れられる。井戸の一人息子の指であった。怒りに震える井戸であったが、また小古呂の息子の指を切断し、封筒に入れて送りつける。そして小古田の妻と情事に及び、翌朝には3人で食卓を囲み、そこへドアポストから井戸の息子の指を入れた封筒が投げ入れられる。それが繰り返される。
復讐の連鎖だが、何度も続いているうちに、それが日常風景のように思えてくる恐怖が観る者に忍び込んでくる。世界状況に照らし合わせれば、報復戦争が行われることが当たり前になり、感覚が麻痺していくのである。この連鎖が続いている間は、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」のハミングコーラスが流れ続け、あと何回続くかは、長澤まさみが包丁でまな板を叩く回数でキューを出していることが分かる。

結局、21世紀に入ってからも人々は戦いを好み、己が信じるもののみを信じ続け、それが異常だという感覚すらなくなっていく。本当であること、「事実」、「真実」、それらに重みが置かれない。真偽に関わりなく自分の信じるものだけ信じるという姿勢。そうしたことが続けば人と人の間は切り裂かれ、共通の言葉も失い、寄って立つ場所もなくなる。
「熱海殺人事件」のイメージ優先がまだ可愛らしく思えるほど、我々は多数の「独善」が支配する怖ろしい場所へと、いつの間にか辿り着いてしまったのかも知れない。

Dsc_2976

| | | コメント (0)

2022年1月 1日 (土)

観劇感想精選(419) 草彅剛主演「アルトゥロ・ウイの興隆」2021@ロームシアター京都

2021年12月23日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後5時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「アルトゥロ・ウイの興隆」を観る。2020年1月に、KAAT 神奈川芸術劇場で行われた草彅剛主演版の再演である(初演時の感想はこちら)。前回はKAATでしか上演が行われなかったが、今回は横浜、京都、東京の3カ所のみではあるが全国ツアーが組まれ、ロームシアター京都メインホールでも公演が行われることになった。ちなみにKAATもロームシアター京都メインホールも座席の色は赤だが、この演出では赤が重要なモチーフとなっているため、赤いシートを持つ会場が優先的に選ばれている可能性もある。アルトゥロ・ウイ(草彅剛)が率いるギャング団は全員赤色の背広を身に纏っているが、仮設のプロセニアムも真っ赤であり、3人の女性ダンサーも赤いドレス。演奏を担当するオーサカ=モノレールのメンバーもギャング団と同じ赤いスーツを着ている。

Dsc_2988

アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)を皮肉る内容を持った「アルトゥロ・ウイの興隆」。元々のタイトルは、「アルトゥロ・ウイのあるいは防げたかも知れない興隆」という意味のもので、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)がアメリカ亡命中の1941年に書かれている。ナチスもヒトラーも現役バリバリの頃だ。ヒトラー存命中にその危険性を告発したものとしては、チャールズ・チャップリンの映画「独裁者」と双璧をなすと見なしてもよいものだが、すぐに封切りとなった「独裁者」に対し、「アルトゥロ・ウイの興隆」はその内容が危険視されたため初演は遅れに遅れ、ブレヒト没後の1958年にようやくアメリカ初演が行われている。ブレヒトの母国でナチスが跋扈したドイツで初演されるのはもっと後だ。

ブレヒトの戯曲は、今がナチスの歴史上の場面のどこに当たるのか一々説明が入るものであるが(ブレヒト演劇の代名詞である「異化効果」を狙っている)、今回の演出ではブレヒトの意図そのままに、黒い紗幕に白抜きの文字が投影されて、場面の内容が観客に知らされるようになっている。

作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、演出:白井晃。
出演は、草彅剛、松尾諭(まつお・さとる)、渡部豪太、中山祐一朗、細見大輔、粟野史浩、関秀人、有川マコト、深沢敦、七瀬なつみ、春海四方(はるみ・しほう)、中田亮(オーサカ=モノレール)、神保悟志、小林勝也、榎木孝明ほか。


禁酒法時代のシカゴが舞台。酒の密売などで儲けたアル・カポネが権力を握っていた時代であるが、アル・カポネの存在は、セリフに一度登場するだけに留められる。
この時代が、ナチス台頭以前のドイツになぞらえられるのであるが、当時のドイツは深刻な不況下であり、ユンカーと呼ばれる地方貴族(ドイツ語では「ユンケル」という音に近い。「貴公子」という意味であり、ユンケル黄帝液の由来となっている。「アルトゥロ・ウイの興隆」では、カリフラワー・トラストがユンカーに相当する)が勢力を拡大しており、贈収賄なども盛んに行われていた。
清廉潔白とされるシカゴ市長、ドッグズバロー(榎木孝明)は、当時のドイツの大統領であったハンス・フォン・ヒンデンブルクをモデルにしている。ヒンデンブルクはヒトラーを首相に指名した人物であり、ナチスの台頭を招いた張本人だが、この作品でもドッグズバローはアルトゥロ・ウイの興隆を最初に招いた人物として描かれる。

小さなギャング団のボスに過ぎなかったアルトゥロ・ウイは、ドッグズバローが収賄に手を染めており、カリフラワー・トラストに便宜を図っていることを突き止め、揺する。それを足がかりにウイの一団は、放火、脅迫、殺人などを繰り返して目の前に立ち塞がる敵を容赦なく打ち倒し、暴力を使って頂点にまで上り詰める。
ぱっと見だと現実感に欠けるようにも見えるのだが、欠けるも何もこれは現実に起こった出来事をなぞる形で描かれているのであり、我々の捉えている「現実」を激しく揺さぶる。

途中、客席に向かって募金を求めるシーンがあり、何人かがコインなどを投げる真似をしていたのだが、今日は前から6列目にいた私も二度、スナップスローでコインを投げる振りをした。役者も達者なので、「わー! 速い速い!」と驚いた表情を浮かべて後退してくれた。こういう遊びも面白い。

クライマックスで、ヨーゼフ・ゲッペルスに相当するジュゼッペ・ジヴォラ(渡部豪太)とアドルフ・ヒトラーがモデルであるアルトゥロ・ウイは、客席中央通路左右の入り口から現れ、客席通路を通って舞台に上がるという演出が採られる。ナチス・ドイツは公正な民主主義選挙によって第一党に選ばれている。市民が彼らを選んだのである。市民に見送られてジヴォラとウイはステージに上がるという構図になる。

アメリカン・ソウルの代名詞であるジェイムズ・ブラウンのナンバーが歌われ、ステージ上の人物全員が赤い色の服装に変わり、ウイが演説を行って自分達を支持するよう客席に求める。ほとんどの観客が挙手して支持していたが、私は最後まで手を挙げなかった。お芝居なので挙手して熱狂に加わるという見方もあるのだが、やはり挙手ははばかられた。ただ、フィクションの中とはいえ、疎外感はかなりのものである。ナチスも熱狂的に支持されたというよりも、人々が疎外感を怖れてなんとなく支持してしまったのではないか。そんな気にもなる。流れに棹さした方がずっと楽なのだ。

アルトゥロ・ウイがヒトラーの化身として告発された後でも、音楽とダンスは乗りよく繰り広げられる。その流れに身を任せても良かったのだが、私はやはり乗り切ることは出来なかった。熱狂の中で、草彅剛演じるアルトゥロ・ウイだけが身じろぎもせずに寂しげな表情で佇んでいる。ふと、草彅剛と孤独を分かち合えたような錯覚に陥る。

こうやって浸ってみると孤独を分かち合うということも決して悪いことではない、むしろ世界で最も良いことの一つに思えてくる。誰かと孤独を分かち合えたなら、世界はもっと良くなるのではないか、あるいは「こうしたことでしか良くならないのではないか」という考えも浮かぶ。

ヒトラーが告発され、葬られても人々のうねりは止まらない。そのうねりはまた別の誰かを支持し攻撃する。正しい正しくない、良い悪い、そうした基準はうねりにとってはどうでもいいことである。善とも悪ともつかない感情が真に世界を動かしているような気がする。


大河ドラマ「青天を衝け」で準主役である徳川慶喜を演じて好評を得た草彅剛。私と同じ1974年生まれの俳優としては間違いなくトップにいる人である。横浜で観た時も前半は演技を抑え、シェイクスピア俳優(小林勝也。ヒトラーは俳優から人前に出るための演技を学んだとされるが、ヒトラーに演技を教えたのはパウル・デフリーントというオペラ歌手であると言われている。「アルトゥロ・ウイの興隆」でシェイクスピア俳優に置き換えられているのは、この作品がシェイクスピアの「リチャード三世」を下敷きにしているからだと思われる)に演技を学んでから生き生きし出したことに気づいたのだが、注意深く観察してみると、登場してからしばらくは滑舌を敢えて悪くし、動きにも無駄な要素を加えているのが分かる。意図的に下手に演じるという演技力である。


演説には乗れなかったが、スタンディングオベーションは誰よりも早く行った。良い芝居だった。

Dsc_2983

| | | コメント (0)

2021年12月31日 (金)

観劇感想精選(418) 「當る寅歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」第3部 「雁のたより」「蜘蛛絲梓弦」 令和三年十二月十日

2021年12月10日 京都四條南座にて観劇

午後6時から、京都四條南座で、「當る寅歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」第3部を観る。今年も昨年同様、コロナ対策の密集緩和のため、顔見世は3部制で行われる。また、人間国宝であった四代目坂田藤十郎三回忌追善のため、第1部の「晒三番叟」と「曾根崎心中」が追善狂言と銘打たれた他、全編に渡って藤十郎が生前に得意としていた演目が並ぶ。1階では坂田藤十郎の写真展も開催されていた。

Dsc_2802


第3部の演目は、「雁(かり)のたより」と「蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」


「雁のたより」は、3年前の顔見世で、坂田藤十郎の息子である四代目中村鴈治郎が主役の三二五郎七を演じていたが、今回は十代目松本幸四郎が五郎七役を務める。
「雁のたより」は、上方歌舞伎の代表的演目で、昭和以降で五郎七を演じてきたのは、十三代目片岡仁左衛門、二代目中村扇雀=三代目中村鴈治郎=四代目坂田藤十郎、五代目中村翫雀=四代目中村鴈治郎と、全て上方系の役者であり、江戸の歌舞伎俳優が主役を務めるのは今回が初めてとなる。

このところ、上方演目への出演が目立つ十代目松本幸四郎。先代が「ザ・立役」という人だっただけに、同じ土俵では太刀打ち出来ないが、上方狂言への適性は明らかで、今後も父親とは別の分野での活躍も期待される。

Dsc_2794

出演は、松本幸四郎、片岡愛之助、上村吉弥、片岡千壽、板東竹三郎、片岡進之介、中村錦之助ほか。

今回は、片岡仁左衛門の監修による松嶋屋型での上演。鴈治郎がやった成駒家型の上演とは内容が大きく異なる。

見た目が優男ということもあり、上方演目の主役にイメージがピタリとはまる幸四郎。だが、上方俳優の愛之助などとは動きが異なることに気付く。特に腕の動きなどは速く鋭く、愛之助のたおやかな手つきとは好対照で、幸四郎がやはり江戸の俳優であることがよく分かる。
江戸の俳優として初めて五郎七を演じることになった幸四郎。初役ということで、十分満足の行く出来とまでは行かなかったが、佇まいが良く、滑稽さの表出や動きのキレなどにはやはり光るものがある。「華」に関してはやはり上方芝居に慣れている愛之助の方が上のような気がしたが、初役であり、今後の伸びも期待される。


「蜘蛛絲梓弦」。愛之助が五変化を勤める。出演は愛之助の他に、大谷廣太郎、中村種之助、松本幸四郎ら。

Dsc_2795

京都では壬生狂言の演目としても知られる「土蜘蛛」伝説を扱っており、源頼光の土蜘蛛退治に基づく演目であるが、妖怪などは古くから疫病と結びつけて考えられてきたため、今の世相に相応しい作品であると言える。
ちなみに壬生狂言の「土蜘蛛」で使われる蜘蛛の糸は、触ると厄除けになると言われているが、歌舞伎版でも同様なのかは分からない。

土蜘蛛というのは元々は大和朝廷にまつろわなかった豪族達の寓喩であり、葛城氏などが土蜘蛛に喩えられている。

源頼光(松本幸四郎)が原因不明の病に苦しんでおり、物の怪の仕業と見た頼光家臣の碓井貞光(大谷廣太郎)と坂田金時(中村種之助)が寝ずの番をしている。そこへ土蜘蛛(片岡愛之助)が小姓や太鼓持、座頭などに姿を変えて現れ、頼光とその家臣を幻惑していく。「羅生門の鬼」で知られる頼光四天王の一人、渡辺綱の話や鴻門の会の燓噲などの話も登場する。

華やかな演出が特徴的な演目であり、愛之助の達者ぶりも光る。

梓弦は、梓弓のことで、弓は「張る」ので「春」に掛かり、「歌舞伎界の正月」とも言われる南座での顔見世に相応しい。またコロナの冬を越えて春が来ることを祈念していると見ることも出来る。真意は分からないのだが、そう取ると梨園の意気のようなものが感じられる。

なお、今回の口上では、坂田藤十郎の屋号である「山城屋」が掛けられていたり、南座とコラボレーションを行った「鬼滅の刃」を思わせる一節が隠れていたりした。

Dsc_2820_20211231214801

| | | コメント (0)

2021年12月20日 (月)

観劇感想精選(417) 「Home,I’m Darling~愛しのマイホーム~」

2021年11月12日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「Home,I'm Darling~愛しのマイホーム~」を観る。2019年の英国ローレンス・オリヴィエ賞5部門にノミネートされ、ベスト・ニュー・コメディ賞を受賞したブリティッシュ・コメディの日本初演である。作:ローラ・ウェイド、テキスト日本語訳:浦辺千鶴、演出:白井晃。東宝の製作である。出演は、鈴木京香、高橋克実、江口のりこ、青木さやか、袴田吉彦、銀粉蝶。
最近話題になることの多い江口のりこは姫路市の出身であるため、今回が凱旋公演ということになる。

ロンドン近郊の一軒家が舞台。ジュディ(鈴木京香)は、元々は部下が6人いるキャリアウーマンだったのだが、会社の経営が傾き、自主退職者が募られた時に、「クビになるのは確実だからその前に」と申し込み、以後は専業主婦になっている。ジュディの母親であるシルヴィア(銀粉蝶)は、娘が専業主婦になったことに納得がいっておらず、ジュディの下をたびたび訪れては不満を漏らす。ジュディの夫であるジョニー(高橋克実。カツラを付けての演技)は、不動産会社に勤務。ジュディはバーミンガム大学卒であるが、ジョニーは大学入学資格試験の日にインフルエンザに罹ったという不運も重なって高校で学業を終えている。高卒ということで、会社では最古参であるにも関わらずなかなか出世出来ないでいるのだが、ジュディにはどうしてもジョニーに出世して貰いたい理由があった。

ジュディの趣味である1950年代風に統一された家の内装。ジュディも50年代風の衣装を好んで着る。「最高に幸せ」という雰囲気で始まる芝居だが、ジュディもジョニーも内心には不満を秘めている。

ジョニーの上司が変わる。若いアレックスという人物だ。ジュディはアレックスというファーストネームから男だと信じていたのだが、実は女性である(江口のりこが演じる)。
部下のことをよく知りたいというアレックス。ジュディとジョニーはアレックスを自宅に招くことにする。ジョニーとアレックスは実に相性が良い。アレックスはロンドン大学のスクール・オブ・エコノミクス(英タイムズ紙による2022年版英国内ランキング5位)を卒業したインテリで、バーミンガム大学(同じく2022年版英国内ランキング25位)出身のジュディよりも高学歴。ジョニーとのやり取りも親密で、ジュディは嫉妬を覚え……。

第2幕冒頭には、会社を辞める前のジュディとジョニーのシーンが挿入されており、ジョニーがキャリアウーマンタイプの女性を好んでおり、ジュディを結婚相手に選んだ理由が仄めかされている。

ストーリー的には特に目新しい展開も、特筆すべき事件も起こらないのだが、夫婦が再び互いに恋するという話でもあり、鈴木京香演じるジュディと高橋克実演じるジョニーが愛らしく、微笑ましい夫婦として映る。特段に優れた舞台という訳でもないのだが、「良いものを観たな」と思える大人のための演劇である。

Dsc_2619

| | | コメント (0)

2021年11月10日 (水)

コンサートの記(751) オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」世界初演

2021年11月5日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて

午後7時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」(ソプラノ、ギター、電子音響のための。2021年委嘱・世界初演)を聴く。作曲は、足立智美(あだち・ともみ。男性)。出演は、太田真紀(ソプラノ)と山田岳(やまだ・がく。エレキギター、アコースティックギター、リュート)。この二人による委嘱である。演出は、あごうさとし。

テキスト生成用のAI(人工知能)であるGPT-2に、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の原文を始め、文献やWeb上の情報など数百年分のデータを入れて記述されたテキストを基に作曲されたオペラである。足立本人は敢えて「ロミオとジュリエット」の原文には触れないようにしたそうで、「おそらく、オペラ作曲家が原作を読まずに作曲した世界初のオペラでもあります」(無料パンフレットに記載された足立本人の文章より)とのことである。

英語上演(一部日本語あり)字幕なしということで、予約を入れた人に届いたメールには英語の原文と日本語訳が載ったPDFが添付されており、事前に読むことが推奨されている。テキストは当日に席の上に置かれたチラシの束の中にも入っている。

私は事前に2度読んで行ったが、AIは意味というものを理解することが出来ないということでハチャメチャなテキストになっている。「ロミオとジュリエット」の主筋は登場せず(別れの場だけ多少それらしかったりする)、突然、ゲームの話になったり(「ロミオとジュリエット」をビデオゲーム化したものがいくつもあって、その影響らしい)、「あんた誰?」という登場人物が何の予告もなしに出てきたり(「ロミオとジュリエット」の二次創作からの還元の可能性があるようだ)、矛盾だらけの文章が続いたりと、とにかく妙である。ただ、そんな妙な文章の中に、時折ふっと美しい一節が現れることがある。それまでの過程が奇妙なだけに、その美しさは際立つ。

中央から左右に開くタイプの黒い幕が開き、オペラ開始。ソプラノの太田真紀は中央に黒いドレスを纏って(正確に言うと、床に置かれた黒いドレスに潜り込んで)座り、ベールを被っている。顔は白塗りで、そのために真っ赤に口紅が引き立つ。山田岳は上手奥にいてギターを弾き始める。両手は血をイメージしたと思われる赤い塗料に染められている。

今日が世界初演の初日である。

9場からなるテキスト。上演時間は休憩時間15分を含めて約1時間20分である。
英語テキストなので聞き取れない部分も多いが、聞き取れたとしても意味は分からないので、そう変わらないと言えないこともない。

まずは第1場「ロミオ」は朗読から入り、第2場「ジュリエット」では、冒頭の「目をいつもよりちょっと大きく動かしてみましょう!」が日本語で語られる。
ボイスチェンジャーが使われたり、声が重なって聞こえるよう加工されたりする。

そんな中で第4場の「ジュリエットとサクラ」は純然とした朗読。太田真紀も情感たっぷりに読み上げるが、その実、文章の意味は通っていなかったりする。サクラなる人物が何者なのか良く分からないが、なぜか子どもが登場し(誰の子どもなのかも、サクラやジュリエットとの関係も不明)、街には当たり屋(?)がいて、裕也というこれまた謎の男が突如現れ、白人の男が黒いカーテンのようだと形容される(白人なのに黒とは如何?)。

第5場「カンティクル」も朗読だが、サクラと独立した彼女の腕との話になっており(「ロミオとジュリエット」からどうしてそんな話になったのかは不明。そもそもジュリエットはどこに行ったのだ?)、中上健次の初期の短編小説「愛のような」を連想させる。
ノーベル文学賞候補と言われながら若くして亡くなった中上健次。一週間後には私は中上健次の享年を超えることになる。

音楽的には、声が重層的になる部分がクイーンのアルバム「オペラの夜」を連想させたり、ラストの第9場「ジュリエット」では、山田岳の弾くリュートに乗せて、太田真紀がシェークスピアと同時代のイギリスの作曲家であるジョン・ダウランドを思わせるような叙情的な旋律を歌うなど(「A drop」のリフレインが印象的)、全体的にブリティッシュな印象を受けるのだが、実際には「イギリス」をどれほど意識していたのかは不明である。ただ、アフタートークで足立は第9場の音楽についてはやはりダウランドを意識したと語っていた。
エレキギターからアコースティックギター、リュートという時代に逆行した流れになっているのも面白い。

ジョン・ダウランドは、近年、再評価が進んでいる作曲家なので紹介しておく。シェークスピア(1564-1616)とほぼ同じ頃に生まれ(1563年説が最有力のようだ)、シェークスピアより10年長生きした作曲家で、オックスフォード大学で音楽を学んだリュートの名手であり、エリザベス女王の宮廷楽士になろうとするが、なぜか不合格となってしまい、やむなくヨーロッパ大陸に活躍の場を求めている。イタリア、ドイツ、デンマークなどで名声を得た後、1606年にイングランドに帰国し、1612年にようやくジェームズ1世の王宮にリュート奏者として仕官。シェークスピアは、その頃には引退間際であり、共に仕事をすることはなかった。同じ時代を生きながらすれ違った芸術家の代表格と言える。


テキストとしては、第7場「ジュリエット」における、「ロミオここにあり」「来たれ」が繰り返されるミニマルなものや、第8場「ロミオ」の「愛」と「死」と「肉体」の観念、第9場「ジュリエット」での「死」と「ひとしずく」の関係などが面白い。AIは意味というものを理解することは出来ないので、自動記述的に生み出されたものなのだが、理屈では捉えきれないが感覚的に飲み込むことの出来る何とも言えない愉悦がここには確かにある。

Dsc_2551

| | | コメント (0)

2021年11月 6日 (土)

観劇感想精選(416) ブルーエゴナク 「眺め」

2021年10月9日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後7時から、THEATRE E9 KYOTOで、ブルーエゴナクの「眺め」を観る。作・演出:穴迫信一。ブルーエゴナクは、福岡県北九州市を本拠地とする劇団である。出演:木之瀬雅貴、小関鈴音、野村明里、高山実花、平島恵璃香ほか。声のみの出演者が数名いる。

大きな観覧車のある街を舞台に、時間を前後する形で物語は進んでいく。
「過去編」と「未来編」に分かれているが、一族の四世代に渡る歴史と恋模様、将来の破滅または救済が描かれる。

背後にスクリーンがあり、ここに文字や映像が投影される。

日差し(木之瀬雅貴)と森ちゃん(小関鈴音)は、18歳。仲は良いのだが、「無視するゲーム」を行ったことから互いの関係にひびが入る。10年後、28歳になった日差しからのコメント(舞台の手前側にスタンドマイクが設置されており、ここでコメントが読まれる)で、森ちゃんとは別れてしまったことが確認出来るのだが、その後、二人は結婚し、女の子(名前は春望(はるの)。平島恵璃香)が生まれていることが分かる。
クモがコメントする場面(声:菅一馬)があり、これはノミ(野村明里)という女性の名前にも掛かっている可能性があるのだが、コメントに「クモが将来救済をもたらすことがある」というものもあり、おそらく芥川龍之介の童話「蜘蛛の糸」に掛かっているのだと思われる。

途中、タジマせかい(高山実花)という人物が登場し、子どもの頃に地元で行われた展覧会に有名な阿修羅像がやって来たこと、せかいが母親から「阿修羅像に似ている」と言われたことが語られる。その後、中学校の時に同級生のミカコが、アミノやヒガシタニという男子(これらの苗字も仏教絡みだろうか?)から「左側の阿修羅像に似ている」と言われるという話があり、せかいはミカコから「真ん中の阿修羅像に似ている」と言われる。
教科書にも載っている有名な阿修羅像ということで、興福寺阿修羅像のことだと思われ、この辺りが仏教的な救済に繋がっていそうだが、それは明示されることはない。


ところどころ日本語が妙なところがあったり、展開が複雑な割にそう特別なことが起こっている訳でもない(一応、「ディザスター(災害)」があって世界が危機に瀕していることにはなっているようだが)という難点があるが、あからさまに描かれない男女の物語と見た場合、なかなか愛らしい作品に仕上がっていたと思う。
なにはともあれ子どもという形で成就しているということは、親を始め多くの人の願いを叶えているという一つの希望である。少なくとも森ちゃんは父親の一番の望みを我が子にまで伝えている。

Dsc_2302

| | | コメント (0)

2021年10月29日 (金)

観劇感想精選(415) 安部公房原作 シス・カンパニー公演「友達」

2021年10月4日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後6時から、西梅田のサンケイホールブリーズで、シス・カンパニー公演「友達」を観る。作:安部公房、演出・上演台本:加藤拓也。出演:浅野和之、山崎一、キムラ緑子、林遣都、岩男海史、大窪人衛、富山えり子、有村架純、伊原六花(いはら・りっか)、鈴木浩介、西尾まり、内藤裕志(ないとう・ひろし)、長友郁真、手塚祐介、鷲尾真知子。なかなかの豪華キャストである。

安部公房の「友達」は、自身の短編小説「闖入者」を基にした戯曲で、1967年に青年座で初演されている。三島由紀夫が絶賛する一方で、不条理演劇の第一人者であった別役実は「文学性と演劇性」について疑問を呈していたりする。
ある男のところに突然、「家族」を名乗る人々が押しかけるという内容で不気味でもあり、正直、観ていて気持ちのよくなる舞台ではない。

安部公房の原作は、基本ラインとしては「連帯に押しつぶされる『個』」を描いている。その背後には広がりつつあった都市と地方の文化的距離(何度も繰り返し歌われるテーマソング「友達のブルース」の歌い出しが“夜の都会は”であることは象徴的である)や皆が同じ方向を向いていた高度成長期の中で埋もれていく「個人」の問題などが横たわっているのだが、加藤拓也は主題をインターネット時代の「無自覚の暴力」に変更し、「闖入者」で描かれた部分を多く取り入れている。ただそれが期せずして加藤が意図したものとは異なる「友達」の一面を浮かび上がらせることになった。

主人公の男(鈴木浩介が演じている。眼鏡がトレードマークの鈴木だが、今回は眼鏡なしでの出演である)は、独身だが婚約者(西尾まりが演じている)もおり、特に不自由なく暮らしていたのだが、ある日突然、9人の「家族」が押しかけ、男の家で勝手に生活を始めたばかりか、男の役割=仕事も多数決で決めてしまう。多数決といっても押しかけた家族9人が全員賛成で、反対するのは部屋の主である男だけということで、「家族」達のわがままが全て通ってしまう。朝食を作ったりといった「家族」のための仕事を押しつけられた男は仕事を辞めざるを得なくなり、婚約者とも別れる。そして元となった婚約者は「家族」の長男(林遣都)と付き合うようになる。そんな目に遭いながらも男が「家族」を受け入れていたのは、思わせぶりな態度を取る次女(有村架純)に惚れていたからでもあり……。

「孤独」はいけないことと言って押し寄せ、「連帯」を押しつけてくる「家族」のやり口の陰湿さには見ていて嫌悪を感じるのだが、実は男と「家族」とは合わせ鏡のような存在にも見えてくる。「家族」のうち、長男は探偵として働いたことがあり、次男(岩男海史)も警察学校を出ているようなのだが、今は共に職についておらず、父親(山崎一)は「犬に言葉を教える研究家」であるが、生活のための糧は得られていない。ということで、寄生主を探して彷徨っているという根無し草のような存在である。なお、男と「家族」以外の登場人物、婚約者、警官(長友郁真と手塚祐介)、アパートの管理者(鷲尾真知子)は腰に縄を巻いており、世界と結びついていることが分かる。男と「家族」にはそれがなく、世界を当て所なく彷徨う存在であることが暗示されている。

「家族」の人々は、ありのままの自分を受け入れてくれる誰かを求めているが、そんな人も場所も見つかる訳はない。集団ではあるが、あるいは集団であるが故に彼らは怖ろしく孤独な存在だ。そんな孤独な集団を引き受けることになった男は、次女の存在を欲しており、得られないことで元々意識していなかった孤独を深めていく。欲するがために受け入れ、依存し、互いが孤独を深めていくという不幸な関係は、実際のこの世界でもありふれた構図である。
結果として、こうした事態が実を結ぶことはなく、孤独な人々はいつまでも彷徨い続けることになる。


鈴木浩介と西尾まりは、私と同じ1974年生まれで、婚約者同士を演じるのにぴったりの関係である。実際には鈴木浩介は、一回り下の大塚千弘と結婚しているのであるが。

有村架純を舞台で観るのは初めてだが(7年ぶりの舞台となるらしい)、一目見て有村藍里と姉妹であることが実感される。見た目も似ているが、漂わせている雰囲気が同じである。

有村架純は、兵庫県出身だが、そのためにこちらの人は親しみを抱いているのか、終演後、感想などを語り合う人々はみな「架純ちゃん」と「ちゃん」付けで呼んでいた。

Dsc_0005

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2346月日 AI DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オンライン公演 カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都市京セラ美術館 京都府立府民ホールアルティ 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 劇評 動画 千葉 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 教養番組 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 食品 飲料 香港映画