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2021年9月16日 (木)

風 「22才の別れ」

岩松了の作、宮沢章夫の演出で行った授業公演「アイスクリームマン」においてみんなで歌った思い出の曲でもあります。

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2021年9月13日 (月)

配信公演 古瀬まきを主演 プーランク オペラ「人間の声(声)」YouTube配信アーカイブ視聴

2021年9月2日

YouTubeで、古瀬まきを主演によるプーランクのオペラ「人間の声(声)」を視聴。8月9日に上演と同時配信とが行われた公演で、終演後1ヶ月はアーカイブとして映像を観ることが出来る。
プーランクのオペラ「人間の声」は、ジャン・コクトーのテキストを用いたモノオペラ(一人で演じるオペラ)である。

コクトーの一人芝居「声」は、青山のスパイラルホールで、鈴木京香の主演、三谷幸喜の演出で観たことがあるのだが、鈴木京香、三谷幸喜共に陽性で健康的な表現を得意とする人であるためか、痛切さはほとんど感じられなかった。鈴木京香が高校時代に陸上部だったということで、そうした要素も入れて笑いに変えていたが、この作品には笑いの要素は夾雑物でしかないように思われる。

オーケストラ伴奏によるプーランクの「声」は、「近江の春びわ湖クラシック音楽祭」2019において、石橋栄実の主演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏、中村敬一の演出によるものを、びわ湖ホール大ホールでハーフステージ形式で聴いており(石橋栄実は体調不良で降板した砂川涼子の代役)、追い込まれた女の孤独が浮かび上がる優れた出来であったのを覚えている。

今回の上演は、コロナ感染拡大に配慮し、入場者20名と数を抑えて行われる公演で、關口康佑によるピアノ伴奏版と、歌い手だけでなく演奏者も一人きりの版での上演である。
字幕は、昨年11月に他界した藤野明子による日本語訳詞が用いられている。

なお、古瀬まきをは、2019年に行ったプーランクのオペラ「人間の声」を中心としたソプラノリサイタルで、第40回音楽クリティック・クラブ賞奨励賞を受賞している。


ジャン・コクトーのテキストによる一人芝居「人間の声(声)」が初演された1930年時点では、一人芝居はそれほどポピュラーなジャンルではなかった。一人語り形式のものは勿論あったが、朗読されることの方が多く、「声」のように語りではなくセリフのみで行われる一人芝居はほとんど例がなかった。「声」は、ある女性(名前不明)がある男(こちらも名前不明)と電話で話している状態を描いた作品である。当時はまだ電話は高級品で、一般にはそれほど普及しておらず、今と違って交換手を通じて望む相手に繋いで貰う必要があり、また混線があるなど、必ずしも便利な道具という訳ではなかった。この作品でも、混線や偶然起こった傍受などは女を焦らせ、苛立たせる。また今のようにワイヤレスではなく、電話機に伸びる電話線も、受話器と電話本体を繋ぐコードも長く、これがラストへと繋がっていく。

電話という当時はまだ新しい装置が、声は近くにあるが体は遠いという、当時としては奇妙なパースペクティブとアンバランスを招いている。また、犬の存在が、間接的かつ絶対的な男女の分け隔てを象徴する。

コクトーの原作では、女が外国語を話すシーンがある(オペラ版ではカットされている)。コクトーは「出演している女優が最も得意とする外国語を話すこと」としているのみで、何語を話すのが適切なのか指示はしていない。いずれにせよ、この女性がフランス語圏以外の外国籍で、出身身分もそれほど高くなく、経済的手段も能力もなんら持ち合わせていないことが分かってくる。当時のフランスは今よりもかなり差別が酷く、外国籍である程度年齢がいった女性が職に就ける可能性はまずない。あったとしても洗濯婦など最底辺の肉体労働で身も心もすり減らしていくだけだ。
そんな女が、5年間囲われていた男に捨てられた。女は睡眠薬自殺を図るのだが、命は取り留める。男からの電話に、女は「睡眠薬は飲んだが1錠だけだ」と嘘をつく……。

電話の向こうの男の声は聞こえないので、観る側が想像する必要がある。そのため、自由度が高いと同時に、内容を把握するのは困難で、100%想像するのはほぼ不可能である。観る者、聴く者に許されるのは、おおよその状況把握のみである。
ただ、オペラ「人間の声(声)」はプーランクが作曲した音楽によって、その場の空気や心理状態はある程度規定される。そういう意味では原作の一人芝居版よりもモノオペラ版の方が入りやすいかも知れない。

女にはマルトという女友達がいて(マルトというのはジャン・コクトーの実姉と同じファーストネームだが、どの程度関係があるのか、あるいは無関係なのかは不明。たまに「モルト=死」(この単語は劇中に登場する)に聞こえてゾッとするが、フランス人は多分間違えないだろう)、男と女が暮らしていた家の執事の名はジョゼフという。女が自殺未遂を図った際には、マルトが駆けつけ、マルトが医師を呼んだために女は助かっている。だが今はマルトは家に帰り、女は一人である。電話の向こうで男は、「マルトの下に身を寄せてはどうか」と提案しているようだが、女はそんな身勝手な真似は出来ないと断る。

男と女の甘い思い出が語られる際には、プーランクの音楽もロマンティックなものへと傾く。「パリのモーツァルト」の異名を取ったプーランク。甘い旋律を書かせると天下一品である。

男が新しい女と旅行に出ようとしているのは確実で、男が家から電話しているというのも交換手によって嘘であることが分かる。そして男は、かつて女と暮らしていた時に女にしてくれたのと同じ事を新しい女としようとしている。思い出が上書きされる。忘れ去られる。

女にとっては、おそらくは生活が出来なくなるということよりも、男が他の女のものになるということの方が耐えられない事実なのだと思われる。電話コードを体に巻き付け、男の声を体で感じながらの死は(ただし、今回の演出では死は明示されない)、単なる自殺というよりも男の声に抱かれた「空想の上での情死」を女が選んだことを仄かに伝えている。

明るすぎても暗すぎても良くないという、高度な演技が要求されるオペラであるが、古瀬まきをは過不足のない演技で、地球の外に放り出されたかのような女の孤独を炙り出していた。

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2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年9月 9日 (木)

観劇感想精選(412) TFACTORY 「4」

2021年8月28日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時30分から、京都芸術劇場春秋座で、TFACTORYの「4」を観る。作・演出:川村毅。出演は、今井朋彦、加藤虎ノ介、池岡亮介、川口覚、小林隆。

モノローグを積み重ねる演劇として2011年に構想され、リーディングなどを経て2012年に東京のシアタートラムで初演された作品であり、ニューヨークでもジョン・ジェスランの演出でリーディング公演が行われるなど、デンマーク語、韓国語などによる翻訳上演が重ねられてきた。いわゆる演劇の本公演としての上演は今回が2度目で、再演ということになり、川村毅が自身で演出も手掛けるバージョンとしては初演ということになるらしい。

本来は、5月に東京で、6月に京都で上演が行われる予定だったのだが、コロナ禍によって延期となっていた。

壁のセットがある他は、椅子の上に箱が置かれているだけの舞台。やがて5人の男が現れ、箱の中に手を入れてくじ引きを行う。小林隆だけは舞台を去り、残った4人は下手手前、下手奥、上手奥、上手手前に分かれて陣取り、やがて一人ずつモノローグを行う。
くじで割り当てられた役を即興で演じるという設定であり、演じ手の性格と演じられる人物の性格は必ずしも一致しない。
裁判員裁判の話ではないが、後述するように彼らは全員裁判員の欠格事項に触れており、割り振られた役も欠格事項に該当する人物が多く、裁判員になれない人の声を拾う役割を担っている。

一巡目は、今井朋彦演じる男(一応、4を意味するFOREに由来する「F」という役名があるが、この芝居では役名は特に意味を持たない)が裁判員に選ばれた大学職員、加藤虎ノ介が死刑執行命令を出す法務大臣、池岡亮介が刑務官、川口覚が無差別殺人で5人を殺害した未決囚(ここでは死刑が執行される前の死刑囚という意味)として、それぞれ長大なモノローグを行う。
5人が殺害されたということで、5人の正体が被害者の身内であることが察せられるようになっている。
死刑は執行されたようだが、死刑囚が犯した罪と身内が殺されるという各々の不幸を受け入れるためにシミュレーションが行われているようだ。謎に迫ることで、死刑囚との距離も微妙に変化していく。話しているうちに、自分の見知らぬ場所にたどり着いてしまうこともある。

そして途中で、役柄チェンジ。今井朋彦が刑務官に、池岡亮介が裁判員に選ばれた大学職員に、加藤虎ノ介が未決囚に、川口覚が法務大臣になる。

刑務官が初めて未決囚の首に縄を掛ける時に、慣れないために浅くしてしまい、下にいて未決囚(死刑執行がされた瞬間に死刑囚となるわけだが)の体を支えたり引っ張ったりする役割のMに負担を掛けてしまう。Mは首を絞めて死刑囚を殺すのだが、そのことがトラウマとなって配置転換となり、刑務官も辞めて実家に戻るが、やがて精神病院に入るという設定が、今井朋彦演じる刑務官が演じるという形で語られる。

池岡亮介が扮した大学職員が語る話も、Sという同僚が駅で飛び込み自殺を図ったという展開になり、あるいは自分がSの背中を押したのではという疑念を抱くなど、闇の世界へと階段を一歩ずつ降りていくことになる。この辺は心理スリラー的な味わいがあり、「死」や「死刑」についての問いがなされる。

ただ、淵にまで来てしまったということで、再び元の配役に戻ってシミュレーションが続けられる。なお、法務大臣が語った、「古書店街の真ん中にある大学」で「刑事博物館」があり、「展望レストラン」が存在すると語られる場所があるのだが、これは明らかに明治大学駿河台キャンパスのことである。少なくても日本には、この三つ全てに該当する大学のキャンパスは他には存在しない。それぞれの名称は、「神田古書店街(神田神保町古書店街)」「明治大学博物館」「スカイラウンジ暁」である。ただ京都での公演ということで、その場所が明治大学駿河台キャンパスだと気づいたのは、おそらく私だけであったと思われる。気づいたからといってどうということはないのだが。

ちなみに小林隆だけは、前半には全くセリフがなく、ラスト近くになって長大なモノローグが用意されているのだが、それまでの4人の横糸とは異なり、法廷だったら発言を慎むよう注意される類いの感情的な縦の糸を与えるという重大な役目を担っている。なお、小林隆と川村毅はほぼ同じ時期に明治大学に在籍していたはずで、川村毅は在学中に第三エロチカを旗揚げしているが、小林隆は学生時代はヨット部に所属しており、演劇活動はほとんど行っていなかったはずなので、学生時代に互いに面識があったのかどうかは分からない。

川村毅は基本的にストーリーの人であり、ストーリーテリングの才能を見せると同時に、「演劇ならでは」の底深さが感じられないという欠点も合わせ持つ。アングラ第三世代の中で今はちょっと埋もれた印象を受けるのもそのためだろう。今回も小林隆が一度目に下した判断やラストは弱めに感じられた。モノローグということで私小説的な語りが続くのだが、良くも悪くも文学的であり、虚構を演じるという最も演劇的な要素を用いながら「あるいは映像でも可能な表現」と思われる構造を持ってもいる(川村毅は映画マニアである)。あるいはレーゼドラマでも構わないような気もする。

出演者達は超長ゼリフを情感豊かに語り、巧みな表現を見せるが、劇場の音響のためか空間が広いからか、セリフが聞き取りにくい場面が多く、こちらも入り込むのが難しかった。

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2021年9月 3日 (金)

観劇感想精選(411) IN STU×KAIKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」

2021年8月13日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、IN STU×KAKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」を観る。作:トム・ストッパード。テキストは、ハヤカワ演劇文庫から出ている小田島恒志訳のものを使用。演出は大石達起。出演は、阿僧祇(白河夜船)、高橋紘介、勝二繁(日本海/およそ三十世帯)、黒木陽子(劇団衛星/ユニット美人)、横山清正(気持ちのいいチョップ)、藤村弘二、川﨑祐輔(劇団つちの娘)、岡田眞太郎(トム論)、伊藤彩里(gallop/カイテイ舎)、土肥嬌也、上条拳斗、大山渓花。

21世紀に入ってから日本でも作品が上演される機会が増えたトム・ストッパード(1937- )。映画「恋におちたシェイクスピア」や「未来世紀ブラジル」などで共同脚本として名を連ねていることでも有名である。
「アルカディア」は、1993年にイギリスで初演され、日本初演は2016年に栗山民也の演出によって行われている。

イングランドの貴族、カヴァリー家の屋敷が舞台なのだが、時代を隔てた二つの世界が互い違いに描かれていく。最初に舞台となるのは1800年代。13歳のトマシナ・カヴァリー(阿僧祇)は、家庭教師のセプティマス・ホッジ(高橋紘介)に数学などについて教わっている。イギリスの場合、貴族階級の女子は学校に通うのではなく家庭教師に教わるのが一般的で、それが変わるのは20世紀以降である。

トマシナは聡明な女の子で、特に代数に関しては図抜けた能力を持っている。おそらく彼女に解けないのは、17世紀に提唱された「フェルマーの最終定理」(「アルカディア」初演から2年経った1995年にアンドリュー・ワイズによってようやく証明された)ぐらいで、実際にトマシナがフェルマーの最終定理に挑む場面がある。それを教えるセプティマス・ホッジもパブリックスクールの名門であるハロー校を経てケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだというインテリである。実はセプティマス・ホッジは、ロマン主義最大の詩人といわれるジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿)の先輩であり面識もあった、ということでカヴァリー邸にもバイロンは訪れている(劇中には登場しない)。

一方の舞台は現代である。登場人物は、カヴァリー家の末裔であるヴァレンタイン・カヴァリー(上条拳斗)とクロエ・カヴァリー(大山渓花)、そしてガス・カヴァリー(川﨑祐輔)。更にカヴァリー邸の歴史を調査しているベストセラー作家のハンナ・ジャービス(伊藤彩里)と、ハンナのライバル的存在であるサセックス大学研究員のバーナード・ナイチンゲール(最初の場面ではバーナード・ピーコックという偽名を付けられる。土肥嬌也)の5人。ガス・カヴァリーは、場面緘黙もしくは全緘黙で、知能は高いと思われるのだが話すことが出来ない。ただし音楽の才能は抜群で、母親からは「我が家の天才くん」と呼ばれている。ヴァレンティンは数学者ということで、先祖の血を受け継いでいるように思われる。
ちなみにガスを演じる川﨑祐輔は、1800年代の場面ではオーガスタス・カヴァリーを二役で演じているが、オーガスタスはガスとは真逆の、映画「アマデウス」に登場するモーツァルトを思わせるような天真爛漫な人物である。「オーガスタス」は、ラテン風に読むと「アウグストゥス」であり、クレオパトラの名前が劇中で出てくるのとおそらく関係があり、またセプティマスがセプテンバーに繋がる名前なのも意図的だと思われる。

現代の場面では、バイロンの研究をしているバーナードが、バイロンとカヴァリー邸で出会った詩人のエズラ・チェイター(藤村弘二)が、自作の詩をバイロンに酷評されたため決闘を申し出て、敗北。チェイターは死んだが、その結果、バイロンはイングランドにいられなくなったという説を唱える。その証拠となりそうな史料がカヴァリー邸にはいくつも眠っていたのである。だが、最終的にはその説は否定されることになる。

現代がこの路線で進む一方、1800年代の物語は、カヴァリー邸の庭園であるシドリー・パークが軸になって展開される。トマシナがシドリー・パークの設計図に書かれた「隠者の家」に隠者の絵を描き込み、庭園設計家のリチャード・ノークス(横山清正)は実際に隠者の家を建てるも、肝心の隠者が見つからないという話になる。セプティマスは、「隠者でしたらすぐに見つかると思います」と嘯く。

現代では、ハンナがこの隠者の正体について調査していたのだが、隠者と呼ばれた人物が、セプティマスと同い年であるという事実に気づき……。


トム・ストッパードは、数学に強い劇作家だそうで、この作品にも数学や物理に関する専門用語がちりばめられているが、理系に弱いと内容が分からないということはない。数字によって物語が展開していく訳ではないからだ。というよりもむしろ、数学の理論は最終的には退けられている。

面白いのは、本当に重要な物語が語られることなく作品が進み、終わるということである。

インテリでお堅いように見えるセプティマスであるが、男前で文武両道ということで様々な女性から誘われたり情を交わしたりしている。そんな彼が隠者、つまりなぜ女を避けて引きこもるようになったのか、という疑問が起こる。
この理由も仄めかされる。初登場時には13歳と10ヶ月(あと6週間で「ロミオとジュリエット」のジュリエットに並ぶ)だったトマシナであるが、終盤では16歳と11ヶ月に成長している。だが、トマシナは火事に遭って17歳の若さで亡くなっていることが記録されているのである。セプティマスが隠者となるのはそれ以降。つまり女からモテモテであったセプティマスが、亡くなったトマシナを最後の女性として、残りの人生を隠者として彼女の思い出と共に過ごしたというかなりロマンティックな物語が浮かび上がる。この話が舞台上で語られることはないのだが、おそらく多くの人に隠者としてのセプティマスの物語の始めと終わりが浮かぶだろうし、それは多分、正しい。語られない愛が最も雄弁に観る者に訴えかけるという極めて巧みな作劇法が用いられた物語である。

交互に登場した1800年代の場面と現代の場面が、終盤には同じ場で展開される。互いのことは見えないのだが、同時進行である。
ラストは、高い次元で理解し合えた二組の男女のワルツを踊る場面である。そのうち、トマシナとセプティマスは最初にして最後のワルツであり、永遠の男女としての最後にして最初のワルツだ。甘く悲しい最後である。


多くの出演者が、京都の小演劇で活躍している舞台俳優であるが、最近、京都の小劇場に接する機会が余りないので、何度も演技を見たことがあるのは黒木陽子だけである。
おそらくTHEATRE E9 KYOTOの舞台に慣れていないのと、キャリアが浅いことの両方が関係していると思われるのだが、特に男性陣はセリフも動きも押しの一手であり、「この大きさの空間なら怒鳴らなくても伝わるのに」と思った場面が多いのが気になるところである。

ラストのワルツの場面も、出演者達が音楽の素養に欠けるため、拍をちゃんと刻めていなかったり(三拍子の三角形を空間に描くのだが、三拍分を一拍で描くため、拍が取れていないことが分かる)、拍が取れていないので当然ながらワルツが踊れていなかったりと、かなり気になった。男性が常にリードするといったようなルールも知らないまま適当にやっているようである。

舞台美術などは結構お洒落に作ってあったり(舞台美術:岩崎靖史)、衣装なども良かった(衣装:久保梨緒)ので、後は演技の細部を詰めればもっと良くなるはずである。

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2021年9月 2日 (木)

観劇感想精選(410) 枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」@枚方市総合文化芸術センター

2021年8月30日 枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールにて観劇

午後7時から、関西医科大学の隣に出来た枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールで、枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」を観る。

枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホール(ネーミングライツによるもので、関西医科大学が運営している訳ではない)を始めとする枚方市総合文化芸術センター本館の正式オープンは9月で、今回は杮落とし的公演となる。

公演タイトル名は、辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」であるが、実際の上演順は逆である(表記は「末廣かり」であるが、読みは「すえひろがり」である。流派によって違うようだが、基本的に祝いのための演目なので、濁点が付くのは良くないのだと思われる)。
杮落とし的公演であるため、スタッフも全く慣れておらず、開場の際にミスがあったり、開演前のアナウンスで、「辰巳満次郎『末廣がり』、野村萬斎『船弁慶』」と真逆に紹介されたりと色々ある。

開場の時は3列なのが見て分かったのだが、他の人は慣れてないのか一番手前の1列目のみに一列で並んでいた。私は一番奥、つまり手前から3列目を選んだのだが、3列目のスタッフがホワイエへの入り口の扉を開けるのを忘れているというミスがあった。まあ、笑いで済んだが。そんなことがあったが、他の列はもっと慣れていないようで、結果として、ホワイエに入ったのも客席内に入ったのも私が一番先であった。自慢になることなのかどうかは分からないけれども。


まず、枚方市文化芸術アドバイザーの辰巳満次郎(宝生流能楽シテ方)による解説があり、続いて野村萬斎ほかによる狂言「末廣かり」と辰巳満次郎ほかによる能「船弁慶」が上演される。

辰巳満次郎は、この公演が即日完売となったことを告げて、「伝統芸能の公演が即日完売となるのは本当に珍しいことで、『流石、枚方市民は文化度が高い』と萬斎と話しておりました」と語る。それから、「私は『すえひろがり』はやりません。さっき、お気づきになった方、いらっしゃると思いますが」

まずは能狂言の初歩ということで、舞台上の説明から。
「こちら、橋懸かりと言います。『廊下』って言っちゃう人いるんですが、橋懸かりです」
その後、初心者にも分かるよう能狂言のお約束と、「末廣かり」と「船弁慶」のストーリーについて丁寧な説明を行う。

狂言に関しては、「今は大声で笑うのはよろしくないとされているようですが、余り口を開けずにそっと笑って下さい」

「船弁慶」の義経は子役がやるが、「人手が足りない訳ではありませんで」高貴な身分は子役が演じるという慣例があり、また義経と静という恋愛関係にある者同士を大人が演じると生々しくて、能においてはよろしくないとされるようである。

能と狂言を観るには想像力が必要ということで、「敢えてセットを置いていません。セットを置いてもいいんですが、それだと誰がやっても一緒になる」「想像力を使わないとつまらない、下手したら居眠りしちゃう」とも語っていた。


狂言「末廣かり」(和泉流)。出演は、野村萬斎(果報者)、野村太一郎(太郎冠者)、石田淡朗(すっぱ)。後見:深田博治。大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。

果報者は身分が高いということで、野村萬斎は素早い足取りで思いっ切り前に出る。多分、萬斎ファンはこれだけで大笑いなのであろうが、そこまでの萬斎ファンは今日は来ていないようだ。
以前に歌舞伎版で観た演目であるが、原作の狂言は歌舞伎版とは登場人物からして異なっている。

正月。果報者(長者)が縁起の良い末廣かり(扇のこと)を買ってくるよう太郎冠者に命じる。太郎冠者は「京まで行けば何でも売っていましょう」と買い物に出掛けるが、京まで着いたところで末廣かりがなんのことか聞くのを忘れてしまったことに気づく。そこで、「すえひろがりあるか?」「すえひろがり買おう」と言いながら往来を歩くことにする。
それを見たすっぱ(詐欺師、悪知恵の働く者)が、「騙してやろう」と近づく。すっぱは唐傘を「これがすえひろがりじゃ」と言って売りつけることにする。果報者が出した末廣かりの条件はいくつかあるが、すっぱは口八丁で丸め込む。それでも「戯れ絵」についてはすぐには妙案が浮かばないが、「絵」ではなく「柄(え)」であるとして、太郎冠者相手に戯(たわむ)れ、「これが戯れ(ざれ)柄」ということにしてしまう。
高い金を払って唐傘を購入して帰ってきた太郎冠者。当然ながら果報者は激怒するが、太郎冠者はすっぱが言ったすえひろがりについて説明を続ける。それでも当たり前ではあるが果報者の怒りは収まらない。そこで太郎冠者は、すっぱがうたっていた謡を披露することにして……。
太郎冠者の謡は、「三笠山(若草山、春日山の別名)」と傘と「春日山(こちらは具体的には春日大社を指す)」の神を掛けたものである。狂言と能の基となった猿楽は、奈良の興福寺とその鎮守である春日大社の下級神官や職員が始めたとされており、目出度さがより一層高まる。

果報者を演じる野村萬斎は、太郎冠者などをやる時とは違い、独自性は余り出さないが、身のこなしの巧みさや滑稽さで魅せる。


能「船弁慶」(宝生流)。ポピュラーであると同時に、劇場の「船出」を祝うのに相応しいということで選ばれた演目だと思われる。出演は、辰巳満次郎(シテ:静。後シテ:知盛の怨霊)、辰巳紫央莉(義経。子役)、原大(弁慶)、原陸(従者)。アイ(間)として野村裕基が船頭を演じる。
大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。後見:山内崇生、石黒実都。地謡:辰巳大二郎、澤田宏司、辰巳孝弥、辰巳和麿。

平家を滅亡に追いやり、英雄となった源義経だが、兄である鎌倉殿こと源頼朝との仲が悪化。義経は一転して追われる身となる。
尼崎の大物浦にやって来た義経一行。義経は、「女連れとあっては体裁が悪い」ということもあり、静をいったん京に帰すことにする。弁慶を通して静に京に帰るよう命じたのだが、静は、「弁慶が自分を騙そうとしているのではないか」と疑い、義経に真偽を直接問う。義経の意志だと知った静は金の烏帽子を被って白拍子の舞を行い、泣く泣く京へと帰っていく。
大物浦から出た船であるが、天候が悪化し、波が荒くなり、遠くから知盛を始めとする平氏の亡霊が現れる。長刀を振り回す知盛に対して、義経も刀で応戦しようとするが、亡霊なので幾太刀浴びせようと一向に応える気配がない。そこで弁慶が仏法で知盛を調伏する。

芸能者であるだけに、武よりも身につけた芸を上位に置くという演目の系譜に入るものであるが(「勧進帳」もそうだが、一番強そうな弁慶が武力で押し通そうとしないところが妙味となっている)、新型コロナが猛威を振るっており、収束への祈りも込められているように感じられた。

見ようによってではあるが、中国のように民衆を力で押さえつけて無理矢理終わったということにしている国もあり(中国は情報操作を行っている典型的な国なのでコロナ罹患者数のデータは当てにならないと見て間違いないだろう)、西洋各国も行っているロックダウンなど強制力を伴う支配に関する話が日本でも起こっている。だが、あらゆる意味でそれは危険で、日本はあくまで強権発動をしない形で抑えたいという意志も感じられる。芸能や表現の歴史を見れば、それは当然であるといえる。

野村萬斎の息子である野村裕基。顔は父親に余り似ておらず、井上芳雄系の美男子であるが、声は萬斎にそっくりで、声だけだと本当に萬斎と間違えるのではないかと思えるほどに酷似していた。

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2021年8月29日 (日)

観劇感想精選(409) team申第5回公演「君子無朋(くんしにともなし)~中国史上最も孤独な「暴君」雍正帝~」

2021年8月26日 広小路の京都府立文化芸術会館にて観劇

午後6時から、広小路の京都府立文化芸術会館で、team申の「君子無朋(くんしにともなし)~中国史上最も孤独な「暴君」雍正帝~」を観る。作・阿部修英(あべ・のぶひで)、演出:東憲司(ひがし・けんじ)。主演:佐々木蔵之介。team申は、第1回公演の出演者である佐々木蔵之介(1968年生まれ。座長=申長)と佐藤隆太(1980年生まれ)が共に申年生まれだったことに由来する演劇プロデュースユニットで、本公演を行うのは11年ぶりとなるが、その間に番外公演を4回行っている。
出演は佐々木蔵之介の他に、中村蒼(あおい)、奥田達士(たつひと)、石原由宇(ゆう)、河内大和(こうち・やまと)。

名君として伝わる清朝第4代皇帝・康熙帝と第6代皇帝・乾隆帝の間に13年だけ治天の君となった雍正帝を主人公とした話である。

康熙帝は、皇帝としての実績もさることなるが、「康熙字典」の編纂を命じたことでも有名で、「康熙字典」は現在に至るまでの中国語の字典の大元と見なされており、康熙帝の名もこの「康熙字典」の存在によってより認知度が高まっている。乾隆帝は清朝最盛期の皇帝として有名で、軍事と文化の両面で拡大を行っている。
その間に挟まれた地味な皇帝、雍正帝に光を当てたのが今回の作品である。
阿部修英は、東京大学大学院で中国美術を学んだ後にテレビマンユニオンに参加したテレビディレクターで、戯曲執筆は今回が初めて。有料パンフレットの阿部の挨拶に「東憲司さんという最高の師父を得て」と書かれており、また佐々木蔵之介と東憲司との鼎談でも「手取り足取り教えて頂いて」とあり、内容は別にして物語の展開のさせ方に関しては東憲司からの影響がかなり強いと思われる。複数の人物が何役も演じるというスタイルは東憲司の作品によく見られるものである。

「ゲゲゲの女房」、「夜は短し歩けよ乙女」などの脚色・作・演出で知られる東憲司は、アングラ(アンダーグラウンド演劇)の手法を今に伝える演出家で、今回も歌舞伎の戸板返しの手法が駆使されていた。

佐々木蔵之介が雍正帝を、中村蒼が雲南省の若き地方官・オルクを演じるが、それ以外の3人の俳優は、狂言回しなども含めて何役も演じる。

中国史は日本でも比較的人気の高いジャンルだが、清朝に関しては最後の皇帝である宣統帝溥儀や、西太后など末期のみが映画なども含めてよく知られているだけで、雍正帝についてもほとんど知られていない。ということで、冒頭は、3人の俳優が、「紫禁城」「皇帝」「後宮」「宦官」などの初歩的な用語の説明を、京都ネタを挟みつつ(「紫禁城って知っている?」「出町の甘栗屋でしょ?」「いや、京大の近くの雀荘のことさ」といった風に)行う。

雍正帝の治世の特長は、地方官と文箱による直接的な手紙のやり取りをしたことで、歴史学者の宮崎市定が『雍正硃批諭旨』という雍正帝と地方官が交わした手紙を纏めた大部の書物を読んだことが、今回の作品に繋がるのだが、それが戦後直後の1947年のこと。宮崎市定がそれらの研究の成果を『雍正帝 中国の独裁君主』という書物に著したのが1950年。作の阿部修英もこの本で雍正帝を知ったという。阿部修英は中国を舞台にした小説も好きで、浅田次郎の一連の作品も読んでおり、そうした背景があったために中国の歴史を辿るドキュメンタリー番組の制作に携わり、そこで一緒に仕事をしたのが佐々木蔵之介であった。ドキュメンタリー番組作成中に、「雍正帝で、戯曲を書いてみませんか?」と佐々木に言われ、それが今回の上演へと繋がる。戯曲執筆時間や稽古の時間はいうほど長くはないだろうが、一番最初から「君子無朋」が完成するまでの歴史を辿ると構想74年ということになる。その間、何か一つでもボタンの掛け違えがあったら、舞台が完成することはなかっただろう。

「中国の皇帝モノと言うのは珍しい。ストレートプレイでは滅多にないのではないだろうか」という東憲司の記述が有料パンフレットにあるが、京劇では「覇王別記」(厳密に言うと覇王こと項羽は皇帝ではないが)などいくつかあるものの、そもそも日本では知名度のある中国の皇帝は限られるということで、上演はしにくいと思われる(私も明朝最後の皇帝である崇禎帝を主人公にした未上演の戯曲を書いているが、変な話になるが実際に描かれているのは崇禎帝ではない)。その中でも更に知名度の低い雍正帝を主人公に選んだことになるが、知名度が低いだけに自由に書ける部分は多くなるというメリットはある。

康熙帝の次の皇帝でありながら、雍正帝は父親とは違い、同母弟でやはり次期皇帝候補であったインタイに康熙帝(諡号は聖祖)の墓守を命じるなど残忍な面を見せつける。それを見た雍正帝の実母は自殺。また、先帝である康熙帝の事績を見習うよう進言した家臣は容赦なく処分した。
暴君であり、独裁者であった雍正帝であるが、その意外な実像に迫っていく謎解き趣向の作品である。手法的にはよくあるものだが、史実かどうかは別として少なくとも物語としての説得力はあり、よく出来た作品であると思う。

佐々木蔵之介の地元ということで、ロングランとなった京都公演。残念ながら京都における新型コロナの感染者が日々新記録を更新中である上に、佐々木蔵之介以外は知名度がそれほど高いとはいえないオール・メール・キャストということで、後ろの方を中心に空席が目立ったが、観る価値のある作品であることは間違いない。悪役も得意とする佐々木蔵之介を始め、出演者達は熱演であり、東憲司のスピーディーな演出も相まって、演劇そして史劇の素晴らしさを観る者に伝えていた。

歴史ものに限らないが、演劇というのは、今この場所で二つの歴史が始まっていくことが魅力である。上演史としての歴史と観る者の中に流れる歴史だ。それが同じ時、同じ場所を共有することで始まるというジャンルは、演劇をおいて他にない。今この場所で歴史が始まると同時に歴史が変わっていく。しかも直に。これだけ素晴らしいジャンルを知っている人は、それだけで生きるということの意義を、少なくともその一端を獲得しているのだと思われる。


雍正帝という人物であるが、44歳の時まで皇帝になれる見込みがなく、本ばかり読んでいたというところが井伊直弼に似ており、母親が後に雍正帝となるインシンよりも弟のインタイの方を可愛がっていたという話は織田信長とその弟の信行、母親の土田御前との関係や、徳川家光とその弟の駿河大納言こと忠長、母親のお江の方(お江与の方。小督の方)との関係を思い起こさせる。また自身の業績を我が子の功績とするところなどは徳川秀忠を連想させる。隣国の歴史であるが、人間の本質は国籍や人種によってさほど変わらないはずであり、また歴史というものは大抵どこかで結びついているものである。

久しぶりに中国史も学んでみたくなる舞台であった。あるいは今日からこれまでの私とは違った歴史が始まるのかも知れない。

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2021年8月18日 (水)

観劇感想精選(408) 「森 フォレ」

2021年8月8日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「森 フォレ」を観る。作:ワジディ・ムワワド、テキスト翻訳:藤井慎一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。出演:成河(ソン・ハ)、瀧本美織、栗田桃子、前田亜季、岡本玲、松岡依都美(まつおか・いずみ)、亀田佳明、小柳友(こやなぎ・ゆう。男性)、大鷹明良(おおたか・あきら)、岡本健一、麻実れい。

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ワジディ・ムワワドは、1968年、レバノンの首都ベイルートに生まれた劇作家。幼い頃にレバノンの内戦を避けるためにフランスに亡命し、その後、カナダのフランス語圏であるケベック州に移住している。レバノンはフランスの文化受容が盛んな国のようだ。ケベック州は緻密な心理描写を特徴とする作品の数々が「ケベック演劇」と呼ばれて世界的な注目を浴びている場所であるが(日本で上演された有名作に、井上靖原作・中谷美紀主演の「銃口」や白井晃の一人芝居である「アンデルセン・プロジェクト」などがある)、ムワワドの作風は「ケベック演劇」の本流とは少し距離があるようで、むしろ血脈を描くことが多いスペイン文学や、マジックリアリズムなど独特の手法で評価される南米スペイン語圏の文学と親和性があるように見える。
2000年に「岸 Littoral(リトラル)」でカナダ総督文学賞(演劇部門)を受賞。その後、「岸 Littoral」に始まる「約束の地」4部作で高く評価された。今回上演される「森 フォレ」は、「約束の地」4部作の第3作に当たる。日本では第2作の「炎 アンサンディ」がまず上演され、次いで第1作である「岸 リトラル」が上演されているが、私はいずれも観る機会はなかった。有料パンフレットに「炎 アンサンディ」と「岸 リトラル」のあらすじが記載されているが、「森 フォレ」と共通する部分が多いようである。双子の主題が出てきたり、両親の過去の謎が前2作では描かれているようだが、「森 フォレ」ではそれらを発展させつつ、重層的構造の作品として構築している。

舞台は、ケベック州最大の都市モントリオール、ドイツ領時代のストラスブール(当時はドイツ読みでシュトラウスブルク)、第1次世界大戦中のアルデンヌの森、カナダ北部・マタン、フランスのメッスなどに飛ぶ。時系列も複雑である。
シーン表が有料パンフレットに記載されているが、演劇というより現代音楽のプログラムのようである。

ファーストシーンでは雪が舞い散る中、モントリオールに住むエメという女性(栗田桃子)が自己紹介も含めた長大なモノローグを行う。自分は余りものを覚えるのが得意ではないこと(おそらくワーキングメモリに関する話)、ただ教えられたことに関する記憶力は良いこと、今が1989年の11月16日であること、1週間前の11月9日にベルリンの壁が崩壊したこと、ただそのことに自身が何の興味も抱いていないことが明かされる。語り口と知識の豊かさからエメが聡明な女性であることが分かる。エメの両親は幼いエメを養子に出しており、エメは両親の顔を知らない。
他の人が登場し、11月9日がベルリンの壁崩壊だけでなく「水晶の夜」(1938年11月9日、ドイツ全土でナチスがユダヤ人の商家などを襲撃した事件)の日であるということも告げる。
エメはフランス人脱走兵の幻影を見たということで、精神科医の診察を受ける。

エメは、バチスト(岡本健一)と結婚し、子を授かったのだが、脳腫瘍を患っていることが判明する。今すぐどうこうというはないが余命は15年ほど。しかも脳の腫瘍と思われたものは、胎内にいる双子の片方が脳へと向かい、硬化したものであるということが分かる(この辺はマジックリアリズム的である)。ただ仮に堕胎したならエメの余命が伸びると医師に言われたエメとバチストの夫妻は、一度は堕ろすことに決めるが、そんな時にモントリオール理工科大学虐殺事件が起こる。同年12月6日のことだった。名門・モントリオール理工科大学に銃を持った若い男が押し入り、女子学生ばかり14名が射殺された。生まれてくる子供の性別が女であるということを知っていたエメは、「私は15人目を(堕胎という形で)殺したくない」と語り、出産することに決める。生まれた娘は、ルー(瀧本美織)と名付けられた。だがエメはその後に意識を失う。20年後、パンクロッカーのような格好を好む反抗的な女性に成長したルーは、5年前に亡くなった母親のエメの遺体を父親のバチストが埋葬しようとせず、冷凍保存していることに疑問を抱く。またエメの母、つまりルーの祖母であるリュス(麻実れい)やその先祖にまつわる謎が次々と沸いてくる。ルーはフランス人古生物学者のダグラス・デュポンテル(成河)と共に、先祖に関する調査を行い始める。ダグラスは、第二次大戦中のナチスによる虐殺の被害者の頭蓋骨を鑑定したのだが、その骨がエメの脳腫瘍となった双子の片方の骨と一致することを確認していた。


成河、瀧本美織以外の俳優は、血脈を強調するためだと思われるが複数の役を演じ、また時間と場所が次々と移るため、簡単に把握出来るような内容にはなっていない。だが先祖がどこで何をしており、その結果何が起こったかを辿ることは困難というほどでもない。ただ、名前などの由来などに裏設定があるようで、こうした情報は有料パンフレットを買わないと手に入らない。

時系列順に並び替えると、大元は、1871年、ドイツ・ストラスブール(シュトラウスブルク)に始める。アレクサンドル・ケレールー(大鷹明良)の息子で獣医のアルベール(岡本健一)は、オデット(栗田桃子二役)と結婚し、エドモンという子を設けるが、アレクサンドルがオデットとの間に生んだ(オデットは「見知らぬ男に強姦された」と嘘をついている)義理の娘に当たるエレーヌ(岡本玲)と性的関係を持つ。エレーヌはエドガー(小柳友)と二卵性双生児として生まれたが、エレーヌはエドガーとも性的関係を持つという、かなりグチャグチャドロドロの展開である。やがてエレーヌは双子を産むが、父親がアルベールなのかエドガーなのかは分からない。双子の男の子の方は怪物で、エレーヌを襲い、洞窟のようなところに閉じこもってしまう。女の子の方はレオニー(岡本玲二役)と名付けられ、アルベールがアルデンヌの森の奥に築いた「森」という組織で暮らすようになる。レオニーは第一次大戦中に森に逃げ込んだフランス人脱走兵のリュシアン(亀田佳明)と結ばれて、リュディヴィーヌ(松岡依都美)という女の子を産む。第二次大戦中に、リュディヴィーヌは、サミュエル(岡本健一二役)らが立ち上げたレジスタンス軍団「コウノトリ・ネットワーク」に所属し、反ナチス活動に身を投じる。リュディヴィーヌの親友だったサラ(前田亜季)はサミュエルと結婚。女の子を設ける。実はこの女の子がルーの祖母であるリュスである。

血脈を辿る旅であったが、ルーが確かめたかったリュディヴィーヌとの血縁の輪は、繋がってはいなかった。更にリュディヴィーヌは両性具有者(「リング」シリーズの貞子もそうであることがよく知られている)であり、子供を産むことは不可能で、繋がっている可能性も途切れていた。

だが、この話は血脈が繋がっていなかったという調査報告では勿論、終わらない。リュスが自分のことをリュディヴィーヌの娘だと思ったのには訳がある。「母親の名はリュディヴィーヌという」と伝えられていたのだ。だがリュディヴィーヌの正体はサラであった。「コウノトリ・ネットワーク」に加わったサラとリュディヴィーヌは、アジトを発見されそうになる。リュディヴィーヌは偽名の証明書を持っていたが、サラは本名の証明書しか持っていない。ゲシュタポは「コウノトリ・メンバー」の本名のリストは手に入れており、このままではサラは確実に殺される。サラはこの時すでにリュスを宿していたため、リュディヴィーヌは、サラの証明書とそれに張られている写真を自身の偽造証明書と交換することを提案。結果、リュディヴィーヌとなったサラはアメリカ兵に救助されてカナダへと渡ったが、本物のリュディヴィーヌはダッハウの強制収容所に送られて殺害された。自らを犠牲にして親友とその娘を救おうという「思い」。それがエメを通してルーにまで伝わっていた。血は絶えていたが「思い」はそうではない。

話は複雑だがメッセージはシンプルで力強い。そして観客も含めたここにいる全員が、「思い」をリレーするのだという決意が示されて劇は終わった。


出演者の多くは、他の舞台でもよく見る人達なのだが、瀧本美織の演技を生で見るのはおそらく初となる。朝ドラ出身の女優で、真面目で優等生的な性格といわれている瀧本美織だが、今回はそれとは真逆のタイプの女性を演じる。演技は達者であり、余裕を持って演じているように見える。真面目タイプゆえにどうしても「地味」と捉えられてしまう傾向があるようだが、彼女の場合は器用で華もあり、これからも様々な役柄で活躍出来そうである。

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2021年8月15日 (日)

コンサートの記(738) アンサンブル九条山コンサート VOL.12 観世流能楽師・浦田保親×アンサンブル九条山「彼岸にて」

2021年8月6日 烏丸迎賓館通りの京都府立府民ホールアルティにて

午後7時から、京都府立府民ホールアルティで、アンサンブル九条山コンサート VOL.12 観世流能楽師・浦田保親×アンサンブル九条山「彼岸にて」を聴く。文字通り、観世流の能楽師である浦田保親とアンサンブル九条山によるコラボレーション。

現代音楽への挑戦を続けるアンサンブル九条山。2010年にヴィラ九条山のレジデントであったヴァレリオ・サニカンドロによって現代音楽アンサンブルとして結成され、2015年からは演奏家による企画を主体的に行う団体として再始動している。今日の出演は、太田真紀(ソプラノ)、畑中明香(はたなか・あすか。打楽器)、石上真由子(いしがみ・まゆこ。ヴァイオリン)、上田希(うえだ・のぞみ。クラリネット)、福富祥子(ふくとみ・しょうこ。チェロ)、森本ゆり(ピアノ)。

能舞を行う浦田保親は、1967年生まれ。父親は観世流職分・浦田保利。3歳で初舞台を踏み、10歳で初シテを「猩々」で演じている。2012年には長男である親良との「ちかの会」を結成。復曲能や新作能にも意欲的に取り組んでいる。重要無形文化財総合指定保持者。


曲目は、まず早坂文雄の「佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌」より「孤独」と「漳州橋畔口吟」の2曲が太田真紀によって歌われ、畑中明香の演奏による石井眞木の「サーティーン・ドラムス」を挟む形で残りの2曲である「嫁ぎゆく人に」と「うぐひす」の歌唱が行われる。後半にはメシアンの代表作の一つである世の終わりのための四重奏曲が演奏される。


黒澤映画の作曲家としても知られる早坂文雄。仙台生まれの札幌育ち。家庭の事情で中学卒業後すぐに社会に出ており、作曲は独学である。同じ北海道出身の伊福部昭や三浦敦史らと札幌で新音楽連盟を結成。この頃、サティ作品に傾倒し、いくつかの曲を日本初演している。1939年に東宝映画に音楽監督として入社し、黒澤明との名コンビで知られたが、結核の悪化により41歳の若さで他界。その死に際して黒澤明は、「両腕をもがれたよう」と悲嘆に暮れている。同じく結核に苦しんでいた武満徹は、早坂のために「弦楽のためのレクイエム」を書き上げた。
「佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌」は、佐藤春夫のごくごく短い詩の一節を選んで作曲したものだが、四つの歌を通すと一つの物語が浮かぶように設計されている。
汎東洋主義を掲げた早坂文雄。この歌曲でも尺八の息づかいを応用するなど、独特の試みがなされている。
「漳州橋畔口吟」に浦田保親が登場。扇子を持って舞う。


石井眞木(男性)の「サーティーン・ドラムス」。タイトル通り13の太鼓で演奏される曲である。数種類のバチの他、素手でも演奏が行われる。畑中明香のダイナミックな演奏が魅力的である。
浦田保親は、榊の付いた杖を持って登場。神へ奉納するような舞を見せる。


メシアンの世の終わりのための四重奏曲(ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノのための)。20世紀に作曲された最高の室内楽作品の一つとして高く評価されており、その特異な曲名と共に有名である。演奏は、石上真由子、上田希、福富祥子、森本ゆり。
森本ゆりの硬質のピアノが、全曲を通して良いアクセントとなっている。

世の終わりのための四重奏曲は、第二次大戦中にドイツの捕虜収容所にて書かれ、1941年にメシアン自身のピアノで初演されている。ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという編成は、たまたま捕虜収容所で一緒だった演奏家を念頭に入れたが故の産物である。世の終わりのための四重奏曲というタイトルは『ヨハネ黙示録』に由来するが、意味的には「時の終わりのための四重奏曲」とした方が原題に近いようである。

この曲では浦田は増女の能面を付けて登場。まずは赤の着物、次いで白の着物、最後は頭に鳳凰の飾りを付けた天女の衣装で現れる。
アルティは舞台が可動式で自由に設計することが出来るが、今日は中央部を張り出した独特の設置。舞台奥側から俯瞰で見ると凸型に見えるはずである。

能面を付けると視界がほとんど遮られるはずだが、浦田はそれを感じさせないキレのある舞を披露。舞台端や演奏家のすぐそばまで寄るため、見ているこちらがヒヤヒヤしたりもした。

オリヴィエ・メシアンの母親は、詩人であり、メシアンがまだお腹の中にいる時に、「いまだかつて誰も聴いたことのない音楽が聞こえる」という詩を書いたというが、生まれた息子は本当に「誰も聴いたことのない音楽」を生み出すことになる。
世の終わりのための四重奏曲は、この世とあの世の対比が描かれるのだが、それはまさに能が描き続けてきた世界である。
上田希のピアニシモで彼方から響き始めるかのようなクラリネットの音は、異人である能の登場人物の肉声のように聞こえたりもする。
余り指摘されてはいないはずだが、メシアンの音楽は天体と親和性があり、天の川や星々の煌めきが音楽で描写されたようなところがある。「天国への階段」とされるラストも、同時に満点の星空へと吸い込まれていくような「魂の昇華」が目に見えるかのようだ。

浦田の舞も、本当の意図は分からないが、衣装の変遷とメシアンの音楽とのストーリー性、また演奏者が全員女性であるということから、三者三様というよりも三つの女性の舞を通して「女人往生」に繋がるものがあるようにも見えた。一言で表せるほど単純なものでもないと思われるが。

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2021年8月10日 (火)

観劇感想精選(407) 下鴨車窓 「透明な山羊」

2021年8月7日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、下鴨車窓の公演「透明な山羊」を観る。作・演出:田辺剛。
昨年は1度も行くことが出来なかったTHEATRE E9 KYOTO。考えてみれば、京都の団体の公演を観るのは今日が初めてである。
出演:佐々木峻一(努力クラブ)、西村貴治(ニットキャップシアター)、岡田菜見(下鴨車窓)、野村明里(ブルーエゴナグ)。

小説家、杉田(登場することはない)の仕事場であった山小屋が舞台である。杉田が亡くなり、杉田の息子である杉田ヨシノリ(佐々木峻一)と山小屋の管理人である阿部タカオ(西村貴治)が杉田の遺品の整理を行おうとしている。阿部は管理人であり、杉田の仕事についてはよく知らないので、杉田の担当編集者だった手塚イオリ(野村明里)が助っ人して呼ばれることになっていた。ちなみにヨシノリとイオリには面識はなく、今日が初対面となる。

杉田の主な遺品はカセットテープである。杉田の執筆は、パソコンのワープロソフトや原稿用紙に向かうのではなく、カセットテープに音声を吹き込むというスタイルが取られていた。杉田はデジタルメディアを信用しておらず、最後までカセットテープを愛用していた。実際に吹き込んで書くという小説家は存在していて、志茂田景樹が有名、ってこの情報が欲しい人はあんまりいないか。
カセットテープに吹き込むというものではないが、太宰治は口述を得意としており、語ったものを編集者に書き取らせることがよくあった。誰だったかは忘れたが、小説家志望だった編集者が太宰の口述に接したことがあり、余りの上手さに「天才」を感じて小説家になることは断念したと書いていたのを記憶している。

杉田の残した膨大なカセットの内の一つをヨシノリがまず再生。聞こえてきたのは都はるみが歌う「好きになった人」。グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」や、合唱サークルに参加していたとうことで(おそらく)「大地讃頌」などの音楽が入ったテープもある。音楽の趣味が分裂しているようにも見える。その他のテープには日記のような語りや創作上の思いつき、思索などが吹き込まれていた。統一性は感じられないが、山小屋の近くではしょっちゅう災害が起こっているようで、自衛隊が何度か救助に来ていることが分かる。
カセットの山の中にコンドームの箱が一つ。杉田は比較的高齢のはずだが、どうも相手がいたようである。言うまでもなくこれは伏線となっている。

山小屋に一人の女性が訪ねてくる。ヨシノリも阿部も彼女が編集者の手塚イオリだと思ったのだがそうではなかった。亡くなった父親が杉田の友人だったという木村ユカ(岡田菜見)であった。父親の命日ということで花を捧げようと山小屋を訪ねてきたのだ。ユカは杉田が他界したことを知らなかった。父親が転落した崖を見たいというユカだったが、阿部はユカが厭世観の持ち主であることを見抜いていた。ちなみに山羊は崖を好む動物である。

手塚イオリがやってきて、テープの整頓が始まる。
崖を見に行ったユカは足を滑らせて転落。幸い、木に引っかかったため命を落とすことはなかったが、左脚を負傷する。だが阿部はユカが転落したのは足を滑らせたからではないと見ていた。

山小屋と「下の世界」では天気も違い、「下の世界」での天気は晴れの予報であったが、山小屋周辺では雷鳴が轟き、やがて嵐となる。
山から下りる道は土砂崩れによって通れなくなり、四人は山小屋に閉じ込められることになる。すぐそばで雷鳴が轟き、雷が木に落ちて火事となる(すぐに鎮火した)。そして得体の知れない音が響き……。


杉田という人物を巡るそれぞれの距離感(英語にするとディスタンスということになるのだろうか)を描いた作品である。

ヨシノリは幼い時から杉田にDVを受けていた。母親もやはりDVの被害者であり、先に母親が他界。直後にヨシノリも家を出ており、杉田とは疎遠であった。杉田に対する思いは恨み以外にはほとんどない。

女性編集者の手塚イオリと杉田とは想像通りの関係で、むしろ積極的だったのはイオリの方のである。イオリはそのことをヨシノリに告白するのだが、告白する前にすでに言動に表れている。

木村ユカにとって杉田は父親の友人である。杉田とヨシノリの関係とは異なり、父親との関係は良好だったが、父の死により一家は大黒柱を失う。ユカは現在、大学4年生。就職活動は上手くいっていない。彼女にとって父親の死はおそらく「埋め切れない何か」だ。

阿部はあくまで山小屋の管理人で杉田とはそう親しくはなかったようである。

ヨシノリは、父親の知られざる部分について積極的に知りたくはないようで、再生された杉田の音声についても快くは思っておらず、たびたびテープを止めようとする。再生に積極的なのはイオリで、編集者としてテープに吹き込まれているはずの新作を探すという目的もあるが、想像された通りの関係であるため、杉田の声に対するスタンスもディスタンスもヨシノリとは正反対である。個人に対する各々の印象の異なり、また死者について想像を巡らす面白さもここには存在する。そして4人は同じ場所に集って同じ体験をしているが、世界観も見える景色も全て異なる。「憎悪」「愛着」「懐旧」「無関心」。

ヨシノリの父に対するタナトスが、偶然という形ではあるが全てを崩壊へと導いていく。
ネタバレを書いていく。
仄めかしに留まり、はっきりとは描かれないが、まずは阿部の車が土砂崩れに巻き込まれて、車内で寝ていた阿部がこの世を去る。元々、死ぬために山小屋に来ていたユカは、自殺なのか土砂崩れに巻き込まれた分からない形で他界。最後は山小屋が土砂崩れに巻き込まれて倒壊し、全ての登場人物が死者となるが、全員が自分が幽霊になったことに気づかないまま劇は終わる。ユカは肉体を抜け出した魂になっているため、左脚ももう負傷してはいない。

幽霊というものが実在するのかどうかは分からないが、事故や自殺という「天寿を全うしない」形で生涯を終えた魂は、幽霊として彷徨うことになり、自分が幽霊になったことにも気づかないと霊能者などがよく語っているのを耳にする。私は霊能者ではないので本当なのかどうかは知らないが、一昨年にTHEATRE E9 KYOTOで観たshelfの「AN UND AUS/つく、きえる」(ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒが東日本大震災を描いた戯曲の上演)でも、津波によって命を奪われるも自分が幽霊となったことに気づかない人々が登場しており、「天寿を全うしない」魂は幽霊となり、自分が幽霊になったことに気づかないという考え方は国境を越えて広く普及していることが分かる。


今日はアフタートークがあり、演出家の山口浩章がゲストとして参加する。
山口さんが、木村ユカもまた杉田の愛人(杉田の奥さんはすでに他界しているため正確にいうと愛人ではなく恋人になるようだが)に見えたという話をして、客席にもそう見えた人が何人かいたようである。戯曲のスタイルから語ると、杉田に恋人が二人いた場合は、同じ場所に同じスタイルとディスタンスの人物が二人いるということになるため、場における混乱の種類が異なって、面白さは半減するように思われる。ただのゲス野郎の恋の話になってしまうのだ(確かに山羊の英語である“goat”には「悪漢」「愚か者」の他に「スケベ爺」という意味もあるが)。田辺さんによると説明的な部分をカットしたためわかりにくくなった可能性があるかも知れないとのことだった。一応、ユカは大学4年生で、杉田と知り合ったのはおそらく未成年の時。ということで二人が男女の関係だったとすると法的(正確にいうと法ではないのだが)にも倫理的にもまずいということになる。一応、それがユカは違うという根拠として示されていたように思うのだが、最近、変なことを言う政治家が出てきた(辞職したが)ため、そうした設定がストッパーに見えなくなったのかも知れない。

ともあれ、分断は4つと捉えた方が劇として面白いように思う。

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