カテゴリー「演劇」の551件の記事

2021年1月18日 (月)

観劇感想精選(379) 蜷川幸雄演出 唐沢寿明主演「コリオレイナス」

2007年2月14日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。シアター・ドラマシティで、「コリオレイナス」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、演出:蜷川幸雄。出演は唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、吉田鋼太郎、香寿たつき、瑳川哲朗ほか。

「コリオレイナス」はシェイクスピア作品の中でもとりわけマイナー部類に入る。シェイクスピア晩年の作品であるが、初演時から不評であり、その後も駄作扱いが続いている。ただ「優性論」という問題を考える上では現代にも通ずるところのあるテキストであると私個人は思っている。

舞台は紀元前5世紀のローマ。勇猛果敢にして高潔なローマ貴族、ケイアス・マーシアス(唐沢寿明)は、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚い。彼はヴァルサイ人の都市であるコリオライを陥落させた栄誉を称えられ、新たにコリオレイナスという名を与えられる。ローマの新執政官に推されたケイアス・マーシアス・コリオレイナスであるが、彼の高潔ゆえに俗悪なものを見下す性質、極度なまでのプライドの高さ、愛想をふりまくことが出来ない性格などが災いし、市民の代表である護民官のシシニアスとブルータスに毛嫌いされており、ローマ市民からも「傲慢でさえなければ、あれほど出来た人はいないのに」と惜しまれはするものの愛されてはいなかった。

執政官になるには選挙でローマ市民から票を集めなくてはいけないのだが、コリオレイナスはどうしても市民に頭を下げることが出来ず、謙虚であることも出来なかった。コリオレイナスの母ヴォラムニア(白石加代子)は、市民の前で演じるだけで良いとコリオレイナスを説得するが、病的にプライドの高いコリオレイナスは演じるということにさえ嫌悪を覚え……

優れた資質を持ちながら樫の木のように固い性格と渡世術の欠如が災いしたコリオレイナスの悲劇を描く。タイトルロールのコリオレイナスを演じる唐沢寿明は強面にするために頭を坊主に丸めての熱演である。

幕が上がると鏡張りのセットがあり、観客がその鏡張りのセットに映っている。4枚組の鏡の中央の2枚が開くと背後に急階段状の舞台が現れ、一番上の段では四天王の像が客席を睥睨している。
四天王の像があることからもわかるとおり、仏教風のデザインが多く用いられており、元老達やコリオレイナスの衣装も山法師風である。またローマといいながらも、コリオレイナスが大小の日本刀を差し、長刀で戦ったり、ヴォラムニアが清の西太后を思わせる衣装を纏うなど、アジア的要素を多く取り入れている。

良い舞台であった。演出も俳優も良いが(特に俳優陣の殺陣は迫力満点であった)、観ているうちに演出の工夫や演技の巧拙などは気にならなくなり、「コリオレイナス」という作品自体の良さが浮かび上がってくる。観客に「良い演出だ」、「良い演技だ」と思わせる舞台はまだまだ一級品には遠く、「良い作品」だと思わせるのが真に優れた舞台であるとするなら、今日観た「コリオレイナス」はその真に優れた舞台であった。
「コリオレイナス」の登場人物全員が私の分身のようにも見えてくる。それだけ人物が巧みに描かれているということであり、晩年とはいえ、シェイクスピアの筆がさほど衰えていたわけではない証拠ともいえる。もっとも演出で隠してあるが、冷静に考えると妙に雑な箇所があり、シェイクスピアの体調が万全ではなかったことも同時にうかがえるのだが。

民主主義と衆愚政治が隣り合わせであることが示されるが、「コリオレイナス」の悲劇は英雄達だけで成り立つものではなく、愚かだろうが何だろうが、市民が生み出したものであり、市民の存在の大きさと恐ろしさを同時に伝える。歴史の主役は良くも悪くも市民なのだ。
劇が始まる前と、終演後、鏡状のセットに観客達を映したのも、「劇の主役は実は観客=市民」という構図を際だたせるための工夫であると思われる。

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2021年1月16日 (土)

NHK「クローズアップ現代 [瀬戸際のオーケストラ対策は]」2007年1月17日放送(後記あり)

2007年1月17日

NHK「クローズアップ現代」。今日は[瀬戸際のオーケストラの対策は]というテーマで、経営難が叫ばれ続けている日本のオーケストラ事情を特集する。

オーケストラは大所帯であるためコストパフォーマンスが悪く、毎回客席が超満員になっても黒字が出ない。存続のためには資金援助に頼るしかないのだが、言葉だけは「好況」と言われていても実情が伴っていない現在の日本(2007年時点)では援助金がカットされ続けているというのが現状である。

私の出身地である千葉市に本拠を置く、ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(現・千葉交響楽団)の苦境が放送される。千葉県内唯一のプロオーケストラとして1985年に発足。千葉市は比較的クラシック音楽愛好家の多い街だが、東京に近いということもあって、より優秀な演奏を求めて東京のプロオーケストラの演奏に通う人の方が多い。

千葉県も文化においては東京に頼り切りというところがあり、自前で文化を生み出そうという気概には欠けるところがある。JR千葉駅前に音楽専用ホール「ぱ・る・るホール」がオープンしたが、千葉県はニューフィルのフランチャイズにして育てるのではなく、東京フィルハーモニー交響楽団を招くという政策を採った(後記:その後、「ぱ・る・るホール」は大手地方銀行の一つである京葉銀行がネーミングライツを得て、京葉銀行文化プラザ音楽ホールとなったが、運営費が維持出来ず、2018年に閉鎖されている)。

ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉は年5回の定期演奏会を開いているが、会場は千葉市、市川市、船橋市、習志野市などに分散されているため、一つの都市に密着して演奏を行うということが出来ない。またゲストの堺屋太一氏が大阪フィルの前身である関西交響楽団の学校巡りの話をしていたが、ニューフィルは学校巡りや芸術鑑賞会での演奏を数多くこなしている。しかし思うような結果は出ていない。
クラシック音楽の聴衆を増やすためには、クラシックが持つ、「難しい」、「高尚な」、「インテリが聴く」、「暗い」、「退屈」という誤ったイメージを払拭する必要があるのだが、かつてのインテリ達が「クラシックは特別」という意識を今も持ち続けていることが多いこともあってか、なかなか普及しない。海外有名オーケストラの来日演奏会チケットが高いため、日本のオーケストラのチケット料金も高いと誤解されている節もある。

オーケストラだけでなく演劇もまたそうで、誤ったイメージが浸透しているため観客が増えない。映画にしろテレビ番組にしろ本にしろ漫画にしろ、一度も観たことがない、一冊も読んだことがないという人を探すのは難しい。しかしクラシックのコンサートや演劇を生で一度も味わうことなく生涯を終える人は思ったより多いと思われる。
初対面の人と演劇の話をする場合は、「まず演劇というものを観たことがあるか」から始めなければならない。そうでないと失礼になる。悲しいことだがこれが現状である。欧州などとは違い、日本では演劇が日常に溶け込んでいないのだ。

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2020年12月29日 (火)

2346月日(26) 東京芸術劇場オンライン「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦――芸術と矯正の融合を目指して――」

2020年12月21日

東京芸術劇場のオンラインイベント、「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦 ――芸術と矯正の融合を目指して――」を視聴。約3時間の長丁場である。事前申し込み制で、当初定員は先着100名であったが、申し込みが多かったため、150名に増えている。

事前に、稽古やワークショップの様子や、本番のダイジェスト映像、資料などにアクセスするURLが書かれたメールが送られて来ており、それに目を通すことで、内容がわかりやすくなるようになっている。

ドイツで刑務所の受刑者に演技指導をして上演するという活動を続けているアウフブルッフ(ドイツ語で「出発」という意味)の芸術監督で舞台美術家のホルガー・ズィルベによるレクチャーと、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」にも出演していた毛利真弓(同志社大学心理学部准教授、元官民協働刑務所民間臨床心理士)による日本の刑務所で矯正のために行われている治療共同体(Therapeutic Community。頭文字を取ってTCと呼ばれる)の活動報告、そしてホルガー・ズィルベと毛利真弓の対談「矯正教育による芸術の可能性」からなるオンラインイベントである。モデレーターは、明治大学国際日本学部教授の萩原健(専門はドイツの演劇及びパフォーマンスと日本の演劇及びパフォーマンス)。

アウフブルッフは、刑務所演劇を専門に行っている団体ではなく、フリーのプロ演劇カンパニーだそうで、1996年に結成。翌1997年から刑務所演劇に取り組みようになったという。

アウフブルッフが本拠地を置くベルリン都市州は大都市ということもあって犯罪率も高めだが、「移民が多い」「教育水準の低い人が多い」「再犯率が高い」という特徴があるそうで、刑務所演劇によって再犯率が低くなればという狙いもあったようだが、演劇を行ったことで再犯率に変化があったかどうかの立証は不可能であるため、統計も取られていないようである。
「移民で教育水準が低い」と悪条件が重なった場合はドイツ語も喋れないため、犯罪に手を出す確率は高くなることは容易に想像される。また職業訓練も上手く受けられない場合も多いようだ。そうした状態にある人に芸術でのアプローチを試みたのが、ズィルベ率いるアウフブルッフである。アウフブルッフは、ドイツの他にもロシアやチリの刑務所での上演も行っているようだ。

刑務所演劇の意義として、刑務所のマイナスイメージに歯止めをかけることが挙げられる。受刑者以外で刑務所に入ったことのある人は余り多くないため、その中やそこから出てきた人に対するイメージはとにかく悪い。ただ、刑務所で受刑者が演じる演劇を観て貰うことで、両者を隔てる壁が少しだけ低くなるような効果は生まれる。少なくとも「断固拒絶すべきスティグマ」ではなくなるようである。
1997年にドイツ最大の男性刑務所であるテーゲル司法行刑施設での、「石と肉」という作品で上演が始まり、今に到るまでベルリンの全ての刑務所で公演を行ったほか、外部プロジェクトとして元受刑者で今は社会に出ている人などをキャスティングし、プロの俳優や市民と共同で上演を行う混成アンサンブルによる上演が、博物館、裁判所、教会、ベルリンの壁記念碑の前などで行われているそうである。

ちなみに小さい刑務所の場合は上演を行うスペースがないため、代わりに演劇のワークショップなどを行っているという。

キャストであるが、刑務所側が止めた場合(暴行罪や暴力癖のある人)を除くと希望者がトレーニングを受けて本番に臨むというスタイルのようである。アウフブルッフ側は敢えて受刑者の知識は入れないようにしており、罪状なども一切知らないで稽古を進めるようだ。最初は1回4時間の稽古を4~6回行い、その先に行きたい希望者向けに計300時間ほどの稽古を行うという。刑務作業以外の自由時間は全て稽古に費やす必要がある。無断欠席を3回行った場合は脱落者と見做されるそうである。

ラップや合唱など、コーラスを使った演出も特徴で(演出は全てペーター・アタナソフが行っている)、その他にもセリフの稽古、書き方のワークショップなどが音楽の練習と並行して行われる。本番は6回から14回ほど、キャパは75人から250人までだそうである。受刑者には芸術に触れた経験も興味もない人も多いため、最初は暇つぶしのために参加したり、人から勧められて参加したりと、前向きな理由で加わる人はほとんどいないそうだが、稽古を重ねるうちに社会性が高まる人もおり、更に本番では観客からの拍手を受けるのだが、それが生まれて初めての称賛だったという人も多いそうで、「人生で初めて何かを最後までやり遂げた」と感激の表情を浮かべる受刑者もかなりの数に上るそうである。これにより自信を付け、自己肯定感を得て再犯率も減り……、だといいのだが先に書いたとおり、再犯率低下に演劇が貢献しているのかどうかまではわからないようである。
ただ、刑務所に入るまでに抱き続けていた劣等感は、仮にたった一時であったとしても振り払えるため、何らかの形での再生に繋がっている可能性は否定出来ないように思う。
稽古の終わりに、毎回、キャスト全員で反省会を行い、各々の意見を述べるのだが、これも受刑者がそれまでの人生で余りやってこなかったことであり、人間関係と他者の存在とその視点を知るという意味では有意義なように思われる。

ズィルベによると犯罪者はいずれ社会復帰することになるため、社会の側も刑務所演劇を観ることで受刑者に対する新たな見方を得て彼らを受け入れるための準備をすることが出来る。そうした意味での刑務所演劇の可能性も語られた。

 

毛利真弓による刑務所の報告。「プリズン・サークル」の舞台となった島根あさひ社会復帰促進センターという半官半民の刑務所で臨床心理士をしていた毛利だが、島根あさひ社会復帰促進センターでTCを受けた人の再犯率は9.5%と、TCを受けていない人達の19.6%より優位に低かったそうである。
日本の刑務所は、あくまで収監し、懲役を行うのが主目的で、社会復帰のための教育は遅れているのが現状であり、職業訓練などはあるが、再犯防止のための教育策は基本、取られてこなかった。それでも2006年から少しだけ風向きが変わっているという。

島根あさひ社会復帰促進センターでは、アミティという海外で考え出されたプログラムを使い、イメージトレーニングや加害者と被害者を一人二役で演じる自己内対話を経て他者の視点を得る訓練、また受刑者が受刑者に教えるというシステムもあり、他者と接する機会を多く設けている。これまでの日本の刑務所は他者と触れ合うこと自体が禁じられていることも多かったため、画期的なことであったといえる。

島根あさひ社会復帰促進センターは、初犯の男性受刑者のみが収監されるが、それまでの人生で他者と向き合う機会がほとんどなかったという人も少なくなく、「他者を通して自己と向き合う」「生身の人間のリアルに触れる」ことを目標としたトレーニングが組まれているようである。

ホルガー・ズィルベが島根あさひ社会復帰促進センターの情報を得て、「社会と繋がっていないように感じる」と述べたが、やはり日本の場合、受刑者が社会と直接的な繋がりを持つのは難しいだろう。刑務所演劇の場合は、目の前で受刑者が演技を行い、終演後に観客と受刑者が会話を交わすことも許されているようだが、日本の場合は受刑者という存在に対するスティグマがかなり強いため、少なくともドイツと同様というわけにはいかないように思う。

「犯罪の加害者と上演をしているが、被害者とはどうなんだ?」という視聴者からの質問が来ていたが、被害者とは接点が持てないそうで、まず被害者同士で纏まるということもなく、接触も禁じられているため、手を打とうにも打てないようである。加害者が出演している芝居を観た被害者から一度連絡が来たことがあったそうだが、その一例だけのようである。

刑務所演劇も稽古や上演に到るまで、何ヶ月にも渡って行政と話し合いを持ったそうだが、最終的には「やってやる!」というズィルベの意志が勝ったそうで、毛利も「日本では(刑務所演劇は)難しい」ということを認めながら、「違いを超える」必要性を説いていた。

折しも、日本では第九の季節である。シラーとベートーヴェンが唱えたように「引き裂かれていたものが再び結び合わされる」力にもし演劇がなれるとしたのなら、それに携わる者としてはこの上ない喜びである。

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2020年12月23日 (水)

観劇感想精選(378) 二兎社 「書く女」2006(初演)

2006年10月21日 大阪・茶屋町のシアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。午後6時よりシアター・ドラマシティで二兎社の公演「書く女」を観る。永井愛:作・演出。明治の女流作家・樋口一葉の話である。
永井愛さんは会場にいらっしゃっていて、休憩の合間に臨時サイン会なども行っていた。また客席には岩松了の姿もあった(ピッコロ劇団の演出を担当するので現在は関西にいるのだろう)。

休憩15分を含め3時間10分の大作。出演は、寺島しのぶ、筒井道隆、粟田麗(あわた・うらら)、江口敦子ほか。

障子や格子をモチーフにした巨大なセットがまずは印象的である。

樋口一葉こと樋口夏子(寺島しのぶ)が、作家・半井桃水(なからい・とうすい。筒井道隆)のもとを訪れる場面から始まる。長兄が若くして亡くなり、次兄はどこへともなく去り、姉はよそへ嫁ぎ、父親が死去。かくして若くして女戸主となってしまった樋口夏子。母と妹と三人暮らしだが、これではとてもやっていけないので小説を書くべく、半井桃水に弟子入りしたのだった……

今では一葉の師としてしか名前の残っていない半井桃水であるが、筒井道隆をキャスティングしているだけにかなりの好人物として描かれている。
一葉が通う歌塾「萩の舎(はぎのや)」の先輩で女流作家の魁となった田辺龍子(たなべ・たつこ。筆名は田辺花圃と書いて「たなべ・かほ」。石村実伽)、一葉の親友で同じ夏子という名前であることから「い夏」と呼ばれる伊東夏子(粟田麗。ちなみは一葉は「ひ夏」と呼ばれている)、一葉に半井桃水を紹介した野々宮菊子(江口敦子)、半井桃水の妹である半井幸子(なからい・こうこ。小澤英恵)、一葉最大の理解者といわれた斉藤緑雨(さいとう・りょくう。向井孝成)、一葉の小説に最初に注目した平田禿木(ひらた・とうぼく。中上雅巳)、一葉文学の研究者となった馬場孤蝶(ばば・こちょう。杉山英之)、泉鏡花と並び称されるほどの名声を得ながら39歳で自殺した川上眉山(かわかみ・びざん。細貝弘二)など、個性溢れる人々によって織りなされる明治文壇記(それにしても読みにくい名前の人が多いな)。

生活苦に喘ぐ樋口家の人々や、文学への希望に燃える人々、また文学に敗れる人々などが真摯な眼差しで、しかしユーモアも持って描かれる。

樋口一葉の半井桃水への思い。また、その創作が「感性」や「共感」からというよりも、「業」もしくは「怨念」のようなもの(日本語には適当な言葉が見つからない。韓国語の「恨(ハン。激しい心の動きを指す)」という言葉が一番合うかも知れない)に根ざしたものなのではないか、という解釈が目新しい。

脇役陣が演技はなかなか達者ながら個性に欠けるのがウィークポイントだが、見応えはあった。永井愛の微妙にテーマをスライドさせるやり方はいつもながら巧い。

観劇感想精選(180) 二兎社 「書く女」2016(黒木華主演版)

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2020年12月20日 (日)

これまでに観た映画より(236) アンソニー・ホプキンス主演作「タイタス」

2006年9月27日

DVDでアメリカ映画「タイタス」を観る。シェイクスピアの戯曲「タイタス・アンドロニカス」が原作。ジュリー・テイモア監督作品。アンソニー・ホプキンス主演。

残酷劇「タイタス・アンドロニカス」はシェイクスピアが残した戯曲の中でも最も人気のない作品の一つ。残酷過ぎ、また文章の格調が高くないことから、シェイクスピアの真作かどうか疑われた時期もあった。シェイクスピア存命中は人気があったようだが、長く忘れられ、また20世紀に入ってからの上演でも、クライマックスで失笑が起きるなど失敗が多く、問題作とされる。

「ライオン・キング」の演出家として知られるジュリー・テイモアは、シェイクスピアの原典を大筋では守りつつ、古代ローマの話なのに、自動車が出て来たり、ゲームセンターがあったりと、古典一色になるのを避け、美しい映像で残酷さを彩ってみせる。冒頭の仕掛けと、ローマ兵の物々しさで、まず観る者の度肝を抜くのも効果的だ。

ラストの残酷シーンも上手く切り抜けた。というより、良く計算された演出を施した。そのため却って原作の限界が見えてしまった部分もあるのだが。

主人公であるタイタス・アンドロニカス役のアンソニー・ホプキンスの怪演も見事である。

イギリスの映画だったら、人間の抱える闇にもっと奥行きが出たのかも知れないが、アメリカ風の「生まれながらの悪人」像もこうした映画で観るなら悪くはない。

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2020年12月13日 (日)

観劇感想精選(377) 「戸惑いの日曜日」(「アパッチ砦の攻防」より)2006

2006年9月12日 大阪・新町の大阪厚生年金会館(ウェルシティ大阪)芸術ホールにて観劇

大阪へ。新町にある大阪厚生年金会館(ウェルシティ大阪)芸術ホールで、『戸惑いの日曜日』(「アパッチ砦の攻防」より)を観る。10年前に東京ヴォードヴィルショーが初演した三谷幸喜作の「アパッチ砦の攻防」に三谷自身が加筆したテキストを用いて、1999年に名古屋のみで上演された舞台の再演。演出・出演:佐藤B作。佐藤B作の他、あめくみちこ、佐渡稔といった東京ヴォードヴィルショーのメンバーに加え、西郷輝彦、細川ふみえ、中澤裕子らが出演する。

かなり前の方の席であった。幕が上がると佐藤B作と中澤裕子が板付きでいるのだが、第一声を発するまで中澤裕子が極度の緊張状態にあることがありありと伝わってくるほど前の席である。
中澤裕子ももうベテランだが、やはり舞台は──特に第一声を発するまでは──幾つになっても極度に緊張するものらしい。

東京・代々木上原の超高級マンション「フォート・アパッチ」の一室。鏑木(佐藤B作)が離れて暮らす娘のちよみ(中澤裕子)の婚約の報告に喜んでいる。しかし実は鏑木は4日前まではこの部屋の住人だったのだが、借金返済のためすでに部屋を売り払っており、今のこの部屋の主は引っ越してきたばかりの鴨田(西郷輝彦)という男だ。しかし、鏑木は見栄のため、今は四畳半のアパートに越したと娘に言うことが出来ず、大家に返したふりをして持ち続けていた合鍵を用い、鴨田の留守を狙って、娘を呼び、今でも高級マンション暮らしをしているように装っているのだ。
娘に良い暮らしをしているよう見せかけることに成功し、さっさと帰ろうとする鏑木。しかし、鴨田が腰を痛めて、ゴルフを早めに切り上げて帰ってきてしまったことからややこしいことになり……。

状況設定も人物設定も嘘くさいが、もともとこの手の劇はそうしたものだし、それを承知で楽しみに来ているので問題はない。こんな人は絶対にいない、というより実際にいたら怖いという人物が次から次に出てくるが、ありふれた人が出て来てもコメディーにはならないので、傷とはしない。演劇は「リアルごっこ」でも「もっともらしさを競うゲーム」でもないのだから。

「古畑任三郎」の風間杜夫がゲストの回に似たところのある展開。細部はよく詰められており、笑わせ所も気持ちいいくらいビシッと決まる。

第1幕80分、第2幕70分という大作であったが、最後の最後まで客を惹きつけ、笑わせることに成功していた。作品の内容自体はそう大したものではないかも知れないが、笑わせる技術の高さにはやはり感心する。作品のクオリティーを上げるより、笑いの回数を増やす方が難しいはずなので、大成功といってもいいだろう。

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2020年12月12日 (土)

観劇感想精選(376) 當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部「末広がり」&「廓文章」吉田屋

2020年12月7日 京都四條南座にて観劇

午後6時40分から、京都四條南座で、當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部を観る。新型コロナの影響により、密集を避けるために3部形式となった今年の南座での顔見世。座席も前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応であり、歌舞伎の華である声掛けも禁止ということで寂しいが、顔見世が観られるというだけで感謝しないといけないのだろう。もっとも私自身は毎年顔見世に行っているわけではなく、行かない年もある。

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「顔見世」の第3部の演目は、「末広がり」と「廓文章(くるわぶんしょう)」吉田屋。コロナの影響で余り長い演目は出来ないが、「末広がり」と「廓文章」吉田屋は特に短く、「末広がり」が30分弱、「廓文章」吉田屋も45分程度である。

2階ロビーに立てられた口上の中には、「あまびえ」が隠れており、その後に続く疫病封じの神である祇園社(現在の八坂神社)と共に新型コロナ調伏の願が掛けられている。

 

「末広がり」の出演は、尾上右近(音羽屋)と中村米吉(播磨屋)。長唄囃子は全員、口の前に黒い布を垂らしており、頭巾を被っていない大谷吉継が並んでいるかのようである。

狂言を原作とした狂言舞踊であり、安政元年(1854)に三世桜田治助の作詞、杵屋三郎助の作曲により、江戸中村座で初演されているという。原作の主が女大名に置き換えられており、ラストは二人で華やかに踊れるよう改められている。

近年の女形は、裏声でなくかなり女性に近い声を出せる人が多い。猿之助一門(澤瀉屋)に多いのだが、播磨屋である中村米吉も女性そっくりの声を出す。舞台は京都に置き換わっているようで、太郎冠者は「都」という言葉を使っている。
米吉演じるキリッとした女大名に対し、尾上右近演じる太郎冠者は酔っ払いながら花道を歩いて登場。ユーモラスである。
本来ならもっと笑いが起こるはずなのだが、やはりコロナの患者数が増加している最中ということで、客席は遠慮がちな笑いに留まる。

タイトルにある「末広がり」というのは扇のことであり、女主人は恋しい人に自作の歌を綴った扇を送ろうと考え、太郎冠者に末広がりを買うよう申しつけたのだが、太郎冠者は末広がりが何かわからず、街を「末広がり買いましょう」と言いながら歩き回ったため、騙されて傘を買わされてしまった。帰ってきた太郎冠者は末広がりとは傘のことだと言い張る。確かに傘も末は広がっている。女主人は激怒するが、太郎冠者が申の舞を披露したため機嫌を直し、共に目出度い唄と舞を行う。尾上右近は傘の上の鞠を回すという、目出度い芸も披露した。

「末広がり」というタイトルからしてハッピーエンだとわかる作品であるが、申は「去る」に繋がるため(鬼門には鬼が「去る」よう猿の像が置かれることが多い)、今の状況に去って欲しいという願いを込めて、この演目が選ばれたのかも知れない。

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「廓文章」吉田屋。原作は近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)」という人形浄瑠璃のための本で、これが歌舞伎化され(歌舞伎台本に直した人物の名前はわかっていないようである)、更に六世菊五郎が再構成したのが今回上演される「廓文章」である。

出演は、松本幸四郎(高麗屋)、片岡千壽(松嶋屋)、片岡千太郎(松嶋屋)、澤村由蔵(紀伊國屋)、中村雁洋(成駒家)、澤村伊助(紀伊國屋)、片岡りき彌(松嶋屋)、片岡千次郎(松美屋)、中村壱太郎(成駒家)。

大坂が舞台である。新町遊郭の吉田屋の店先に編笠に紙衣装の男が現れる。吉田屋の下男(片岡千次郎)は、男を乞食か何かと勘違いして追い払おうとするが、主である喜左衛門の妻であるおきさ(片岡千壽)がそれを止める。編笠の中をのぞき込んだおきさは、男の正体が大坂屈指の大店である藤屋の若旦那、伊左衛門(松本幸四郎)だと気付く。伊左衛門は、新町の名妓・夕霧(実在の人物である。演じるのは中村壱太郎)に入れあげ、多額の借金を作ったため、親から勘当されたのだ。粗末ななりに変わった伊左衛門だが、夕霧が病を得たというので、心配して吉田屋までやって来たのである。
部屋に上がって夕霧を寝ながら待つことになった伊左衛門だが、目覚めてみると手持ち無沙汰であり、床の間にあった三味線を取り上げて弾いたり(一部は実際に幸四郎が奏でている)、夕霧と疎遠になったことを嘆いたりする。いったんは夕霧に会わずに帰ろうと決めた伊左衛門だが、割り切れず、部屋に残ることになる。夕霧が現れた時のことを考えて格好良く見えるポーズを考えたりする伊左衛門。
夕霧が現れる。具合は大分悪そうだが、相変わらず可憐である。伊左衛門は夕霧に掛ける言葉を見つけることが出来ず、「万歳傾城!」などとなじってしまい、今宵で二人も最後かと思えたのだが……。

「末広がり」もそうだったが、「廓文章」吉田屋も「雨降って地固まる」話になっている。南座の2階に書かれていた口上にも現れていたが、危機を乗り越えて更なる発展を期したいという歌舞伎界の祈りが込められた作品である。「今」に合うものを選んだのであろう。
ちなみに、みなで大阪締めを行う場面があるのだが、セリフこそないものの、「ここは観客にも参加して欲しいのだろうな」というのが空気でわかったため、私を含めて参加した人が結構いた。声掛けは出来ないが、違った形での一体感を得ようと試行錯誤しているのが伝わってくる。

伊左衛門を演じる幸四郎は、女形をやった経験から得たものを立役である伊左衛門に生かしているのがわかる。女形の演技を転用することで、育ちが良くて純粋で時にコミカルというボンボン像を巧みに表してみせる。
先代の幸四郎(現・二代目白鸚)が、ザ・立役という人であるため、例えば弁慶などの男っぽい役をやった場合は、当代が一生涯かけても先代に追いつくことは難しいように思われるのだが、伊左衛門役は先代には出来ないため(実際、やったことは一度もないようである)高麗屋の新しい当たり役となる可能性は高い。見た目が優男なのもプラスに働く。これまで伊左衛門を演じて当ててきたのは、坂田藤十郎、仁左衛門、愛之助、四代目鴈治郎、三代目扇雀といった上方の俳優達だが、幸四郎は3年連続で伊左衛門を演じており、江戸の歌舞伎俳優として新たなる伊左衛門像を打ち立てつつある。

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2020年12月11日 (金)

これまでに観た映画より(234) 「デストラップ・死の罠」

2006年8月29日

DVDでアメリカ映画「デストラップ・死の罠」を観る。ブロードウェイで大ヒットしたアイラ・レヴィン作の同名舞台の映画化。「12人の怒れる男」のシドニー・ルメットと「パトリオット・ゲーム」のフィリップ・ノイスの共同監督作品。「サイダーハウス・ルール」のマイケル・ケイン、「スーパーマン」でお馴染みのクリストファー・リーヴ主演。

スリラー専門の劇作家のシドニー・ブリュール(マイケル・ケイン)はブロードウェイのロングラン記録を持つほどの大作家であるが、最近は失敗作ばかり。最新作も酷評され、意気消沈してニューヨーク州イースト・ハンプトンの自宅に戻ったシドニーを妻のマイラ(ダイアン・キャノン)が出迎える。シドニーは「更に頭に来ることがあった」と言う。クリフ・アンダーソン(クリストファー・リーヴ)という大学の教え子が「死の罠」という戯曲を送って来たことを知らせる。「死の罠」は傑作であり、シドニーはクリフ・アンダーソンを殺害して、「死の罠」を自作として発表しようと持ちかける……。

二重三重のどんでん返しが仕掛けられたスリラーで、これならブロードウェイでヒットしたのも肯ける。ただ、現在の日本で「死の罠」を上演しても成功するかどうかは微妙だと思う。

演劇が原作であるということを意識して、役者の演技もわざと大袈裟になっている。特にダイアン・キャノンの長ゼリフは「そこまでやるか」と思えるほど身振りの大きな演技を見せ、笑わせてくれる(映画の観客を笑わせるためにわざとやっていると見て間違いない)。

入れ子構造を用いたり、わざとキャラクターの奥行きを浅くしてそれが罠であったことを後になって観客に悟らせる技法など、感心させられるところも多い。演技もストーリーもリアリズムから外れたものを目指しており(外連のためだろう)大人の観客はニヤリとさせられるだろう。ただ、リアリズム絶対病にかかっているといってもいい現代日本人が見ると、その「わざとわざとらしくやる魅力」は伝わらない可能性が高い。かくいう私もリアリズム絶対病に多少なりとも罹患しているためだろう、心理的に入り込めない箇所があった。

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2020年12月 9日 (水)

観劇感想精選(375) 串田和美独り芝居「月夜のファウスト」

2020年12月4日 伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて観劇

午後7時から、伊丹市立演劇ホールAI・HALLで、串田和美の独り芝居「月夜のファウスト」を観る。今年の5月末に串田和美が松本市で思い立ち、Facebookのみで宣伝をして行った公演を、伊丹、北九州、松本の3カ所で再演するツアー。今日が全公演の初日である。

2月末以降、演劇人は一斉に自粛を求められ、「芝居やらないでくれって言われても、ずっと芝居しかやってこなかったし」と串田も不満であったが、松本市内を自転車で散策していた際、旧制松本高校跡地に出来た、あがたの森公園という場所で池の畔にある四阿(あずまや)を発見する。「ここでなら風通しも良いし、大丈夫なんじゃないか」ということで、Facebookに「みなさん、突然ですが、独り芝居をやってみようと思い立ちました」と書き込み、ライフワークとして何度も上演してきた「ファウスト」を独り芝居用に構成しなおしたものが上演された。

今回の上演は、AI・HALLの窓口と電話のみでのチケット受付であり、私は電話で予約を入れた。午後6時15分から受付が開始されて整理券が配られ、午後6時30分開場となる全席自由である。まだそれほど多くの人は入れられない。

実は先約があったのだが、串田和美の独り芝居なら観ないわけにはいかない。明日もマチネーがあるが、土曜出勤の日であり、行けない。ということで伊丹へと向かった。午後6時15分に間に合うかどうか微妙だったが、そう大きな会場ではないし、特等席である必要もないし、と特に慌てはしなかった。結果としては、午後6時12分頃にAI・HALLの前に着いた。整理番号は6。大抵の日本人には関係がないが、「6」は中国語ではラッキーナンバーである。

前から2列目に着座して待っていると、午後6時45分頃に串田和美が太鼓とバッグを持ってふらりと現れる。

箱馬の上に平台を3つ並べただけというシンプルな舞台。背後も平台を立てて並べただけである。平台の舞台の外に学校で使うような机と椅子、キッチンテーブルなど置かれているが、それらを串田は自分で持ち上げて舞台の上に並べ、バッグの中から小さな鉄琴やバチなどの小道具を取り出す。バッグは後ろに放り投げる。

串田はいったん舞台を降りて、スタッフと会話を交わしたりしたのだが、舞台に戻って、「早く来過ぎちゃった」と語り、客席からの笑いを誘う。今日が初日ということで気が急いたということもあるが、劇場での上演は初めてなので時間配分がわからなかったようである。

ゲーテの序文の代わりに串田和美の個人的な思い出に絡められて語られる「ファウスト」であり、どこからがスタートと正確には決まっていないのだが、「ここは初めてですが、良いホールですね。市立、市のホールですか?(観客、一斉にうなずく) 市立ぐらいだといいんですけどね……」、後は愚痴になるので書かないでおく。

まつもと市民芸術館の館長でもある串田和美。あがたの森公園での上演は、先に書いた通り、Facebookのみでの宣伝となったため、お客さんが来てくれるかどうか不安だったのだが、結構来てくれたそうである。ただ、小劇場出身者であるため、「詰めて! 詰めて! そこ一人座れる!」と言ってきたのに、あがたの森公園では、「(間を)空けて! 空けて!」と、初めて逆のことを言うことになったそうだ。プライベートな公演ということで小道具なども全部自分で自転車に乗せて運んだという。会場には、あがたの森公園で録音したという自然音が流れている。

「記憶」についての話から本編はスタートする。「意味もないのになぜか覚えていること」が誰にでも存在していると思うが、串田の最初の記憶は、まだハイハイをしている頃のもので、ボールか何かが転がったのでハイハイして追いかけていって、文机の下をのぞき込んだというのが最も古い記憶だそうである(どうでもいいことだが、私自身もハイハイしていた頃の記憶がある。母親と祖母のセリフも覚えている。そしてそれは最初の記憶では多分ない)。串田和美は、Wikipediaなどによると出身地は東京都小金井市となっているが、串田本人が語るところによると生家は都心の麹町だそうである。戦中生まれであり、空襲が激しくなると、山形県新庄市の近くの田舎に疎開。戦争が終わって東京に帰ってきてみたら都心は一面の焼け野原だったため、吉祥寺のそばの牟礼という町の借家で10年ほど過ごしたそうである。テレビもゲームも何もない時代。遊びは全部、自分達で考えて作り出していた。

今でこそ吉祥寺はハイソと庶民的情緒を兼ね備えた街で、「住みたい街ランキング」の上位に常に入るが、当時は本当に雑多な場所であり、家がない人は原っぱに勝手に掘っ立て小屋を建てて家族で住んでいたりしたそうである。そんな人もひっくるめて街全体で生きてきたそうで、「隣に住む家族のことすら知らない」今とはかなり違うようである。いい年をしているが学生服を着て演説して歩く「新川のまあちゃん」など不思議な人も沢山いた。
子どもなので、みんなであだ名を付けて遊んだりもしたのだが、目つきが鋭くて地下足袋を履いているおじちゃんに「泥棒」というあだ名を付けたりもしたそうだ。その「泥棒」さんの自宅を覗きに出掛けたこともあるのだが、針金で後光を作ったマリア像があったそうで、神々しさに息をのんだ記憶があるそうである。

進駐軍がジープから投げ捨てたものを拾って匂いを嗅ぎ、「アメリカの匂いがする」と言ったこともあるそうだが、それは屈辱でもあったそうだ。

近所にボケたお爺さんがいたのだが、ある日、立派な馬車がお爺さんを迎えに来たそうである。御者も仁丹の広告のような帽子を被って白馬を操っていた。ということでボケたお爺さんの正体が気になるのだが、今でも何だったのかはわからないそうである。

紙芝居も楽しみだった。ダムロット(だったかな?)と、しゃも爺というあだ名の二人の紙芝居屋がいたそうで、ダムロットは太鼓を叩きながら大きな声で語るのだが、太鼓の音も大きいし何を言っているのかわからない(ここで串田は太鼓を叩き、ハーモニカを吹く)。というわけで、しゃも爺の方が人気だった。ちなみに顔がしゃもじに似ていたため、しゃも爺というあだ名が付いたそうである。
紙芝居の話から、すってんころ助というキャラクターが生まれる。

やがて、郊外に謎の老人がいるという話が始まる。学識の高い老人で、「発明実験場」と看板を掲げた小屋も持っている。ある日、猟師を名乗る紳士が老人を訪れ、「錬金術を行って欲しい」と頼んだという辺りから「ファウスト」っぽくなり始め、ドイツの地名が語られて舞台は移り、ファウスト博士の「何も知り得ぬ」という苦悩のモノローグとなる。助手のワグナーが現れ、更にすってんころ助も助手として採用される。人形のアウエルハーンも登場し、すってんころ助と「魂」について語ったりする。
月の思い出を語るうちに、悪魔がやって来たことに気付くファウスト。ただ、悪魔でありながらどうにも頼りない人が多く、最後に大袈裟に現れたメフィストフェレスが一番気の利いたことを言ったため、ファウストはメフィストフェレスと契約を交わすことになる。

あらすじは、まだ書こうと思えば書けるのだが、あらすじ(「やっぱり串田和美は江戸っ子だねえ」という展開を見せる)以上に重要なのは串田和美の存在である。1960年代から本格的な演劇活動を始め、オンシアター自由劇場などで数々の伝説を作ってきた串田和美。私も21世紀に入ってから串田の舞台にはたびたび接しており、例えばシアターコクーンで観た「上海バンスキング」や、松たか子主演でリバイバル上演が行われた「もっと泣いてよフラッパー」など、オンシアター自由劇場時代の作品も楽しんだのだが、それらはあくまでも21世紀版として上書きされたものという印象を受けたのも確かで、私が生まれる前の時代、あるいは私が生まれてまもなくの時代という作品が誕生した頃の空気感は実のところ余り感じ取れないものでもあった。
ただ、串田和美が一人で自身のことを絡めて語る今回の上演からは、「私が生まれる前の時代に対する強烈な郷愁」を感じ取った。あたかもその時代に、串田和美のような紙芝居屋を前にした子どもであった記憶が存在するかのような不思議な感覚である。

実際、そんなはずはないのだが、テレビも何もなく、想像の世界で遊び回っていた時代の記憶が確かに存在する。それは嘘の記憶のはずなのだが、妙にリアルである。ただ、これこそが目の前にいる俳優を観て想像を駆け巡らせる観劇という行為の醍醐味なのだと、改めて実感する。残念ながら映像では無理である。どんなに優れた映像であっても、それは向こうの世界のお話である。場を共有する人物と協働で描くイリュージョンは演劇だからこそ成立するのだ。

この世で上手に迷子になれた気分で、異世界のような伊丹郷町を抜けて帰路に就く。


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2020年12月 6日 (日)

観劇感想精選(374) 「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演2020

2020年11月29日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演を観る。
2年に1度のペースで春秋座で公演が行われている「琉球舞踊と組踊」。今回の琉球舞踊は、琉球王朝時代ではなく、廃藩置県や琉球処分による日本の沖縄県となった後で生まれた芸能が披露される。

まず、国立劇場おきなわの芸術監督である嘉数道彦が、ウチナーグチによる挨拶を行い、それをヤマトグチに直す。今年は平年よりも気温は高めだが、「やはり京都は寒い」とのことである。
そして沖縄芸能の歴史について話す。琉球舞踊は、元々は宮中の祝賀や年中行事で披露されていたものであり、庶民は観る機会がほとんどなかったのだが、王朝時代が終わり、沖縄県になると、上演の場を芝居小屋に移すことになる。ただ王族や貴族向けの内容であったため洗練され過ぎている上に一定の教養がないとわからないということで、客足が絶えるようになってしまう。そこで生み出されたのが雑踊(ぞうおどり)というものであり、庶民を主人公とし、市井の風俗を描いた平易な作風であるため人気を博するようになった。今回は前半に雑踊作品が並んでいる。

第一部・琉球舞踊。演目は、「鳩間節」(踊り手:田口博章)、「むんじゅる」(踊り手:山城亜矢乃)、「金細工(かんぜーくー)」(指導:宮城能鳳。踊り手:石川直也、新垣悟、阿嘉修)、「木花風(むとぅはなふう)」(踊り手:宮城能鳳)、舞踊喜劇「戻り駕篭」(踊り手:金城真次、玉城匠、山城亜矢乃)。日本語(というと変かも知れないが、いわゆる大和言葉)字幕付きでの上演である。

地謡は、西江喜春(にしえ・きしゅん。地謡指導兼)、花城英樹、玉城和樹(たましろ・かずき)、和田信一(わだ・のぶかず。以上、歌三線)、安慶名久美子(あげな・くみこ。箏)、宮城英夫(笛)、平良大(たいら・だい。胡弓)、久志大樹(太鼓)。

 

日本舞踊もそうだが、琉球舞踊も身体全体を大きく見せているが、手や足は実は最短距離を通っており、無駄がない。演者は全て「最高賞受賞」「新人賞受賞」「師範」など華麗な経歴や肩書きを誇る人々で、沖縄の優れた芸能を堪能することが出来る。

沖縄県になってから生まれた雑踊ということで日本本土の芸能が積極的に取り入れられており、空手、かっぽれ、チャンバラ、狂言などお馴染みの芸が登場する。

「金細工(かんぜーくー)」は、芝居仕立てである。金細工(鍛冶屋のことだそうだ)の加那兄は、遊女の真牛を一月も連れ回してる。本当は身請けしたいのだが金がない。ということで商売道具を売ろうとするのだが上手くいかず、身をはかなんで身投げしようとしたところに左官の長兵衛が、とはならない。真牛が揚げ代は自分で払うということで、ハッピーエンドへと向かっていくという話である。

「本花風(むとぅはなふう)」は、非常にゆったりとした踊りであり、前半の演目の中では異色である。踊り手の宮城能鳳(みやぎ・のうほう)は人間国宝指定保持者であり、今回の「本花風」の振付も手掛けている。男との別れを描いた作品であり、さりげない仕草に哀感がにじむ。
登場する際も退場の際も同じようなゆっくりとした足取りだが、前者は別れへの怖れ、後者は去りがたき未練にように見え、全体をかなり緻密に練り上げているという印象を受ける。

舞踊喜歌劇「戻り駕篭」は歌舞伎舞踊「戻籠」の一部を原作に、今日も出演する玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)が創作した作品で、タイトル通りの舞踊劇となっている。駕篭かき二人が、美女を乗せた駕篭を走らせているのだが、やがて取り合いとなる。駕篭かき二人は杖を刀代わりにチャンバラを行うなど外連味も十分。この作品では、踊り手がセリフを発し、地謡が同じ言葉を返すという趣向が特徴となっている。美女だと思っていたら実は……、という展開は狂言の「吹取」や「業平餅」と同様である。

 

第二部・組踊。演目は「二童敵討(にどうてきうち)」。まずは嘉数道彦による解説がある。タイトル通り、二人の童が敵を討つ話なのだが、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が、1719年に中国(当時は清王朝)からの冊封使をもてなすために創作した最初の組踊二編のうちの一編だそうである(もう一編は「道成寺」の翻案である「執心鐘入」)。昨年は組踊の初演から300年ということで琉球芸能にとって特別な年となったようだ。
組踊は、歌舞劇の一種であるが、琉球オペラや琉球ミュージカルとも言われており、地謡に特徴があるという。
玉城朝薫は、当時琉球が二重朝貢として使者を送っていた薩摩、更には江戸にも滞在し、能や狂言、歌舞伎などに触れたことがあるそうで、組踊創作の際に影響を受けたと思われる。

冊封使をもてなす場で上演されるということで、往時の組踊は士族の男子のみが演じることを許されていたそうである。

兄弟が父親の敵を討つという話であり、「曾我兄弟」を思い起こさせるが、「二童敵討」に登場する鶴松と亀千代の年齢はそれぞれ13歳と12歳で、曾我兄弟よりも更に若い。

出演は、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ。あまおへ)、田口博章(鶴松)、金城真次(きんじょう・しんじ。亀千代)、宮城能鳳(母)、石川直也(供一)、新垣悟(あらかき・さとる。供二)、阿嘉修(あか・おさむ。供三)、玉城匠(たまき・たくみ。きやうちやこ持ち)。立方指導は宮城能鳳。

勝連の阿麻和利(あまおへ)は、中城(なかぐすく)の護佐丸氏の一族を滅ぼし、首里城に攻め込む準備をしているが、吉日だというので、家臣の者を連れて野原へ遊びに出掛ける。
あまおへが一族根絶やしにしたと思っていた護佐丸氏だが、13歳になる鶴松と12歳の亀千代は生きており、「親の敵を討ち取れば、二人がともに死んだとしても国がある限りは名が残る」と父を殺したあまおへに復讐する機会を窺っていた。

自己紹介などの説明や、ちょっとしたやり取りなどは、「ドミファソシド」の琉球音階を上がり下がりするだけの単純な節回しで行われるが、表に出ない心の声は、地謡がコブシたっぷりに歌い上げ、メロディーをなぞる胡弓が哀切な響きを奏でる。
鶴松、亀千代が母と対面する場面では、二人の決意と、母親の我が子を心配する気持ちが地謡で切々と歌われる。

鶴松と亀千代は、あまおへが家臣と遊んでいる野原を訪れ、自慢の舞を行い始める。二人の舞はすぐにあまおへの目にとまり、あまおへは家臣に命じて二人を呼び寄せ、目の前で舞うよう命令する。
鶴松と亀千代は、最初の内はそうでもなかったが、次第にあまおへの顔から目を逸らさずに舞うようになり、緊迫感が増す。
だが、あまおへは油断しているのか、二人の視線には気がつかず、褒美として軍配、大小の刀、羽織などを与え、更に家臣達を下がらせ、鶴松と亀千代の踊りを真似て上機嫌。そこで二人は名乗りを上げ、見事、あまおへを討ち果たすのだが、殺害の場面はギリシャ悲劇同様、見えない場所で行われる。冊封使歓待の劇で殺害シーンを見せるというのは、やはり憚られたのだろうか。

酒宴での踊り子に化けての暗殺は日本武尊の熊襲襲撃伝説に繋がる。
兄弟による仇討ちや、酒宴の場での殺害などは演劇において決して珍しい場面ではないが、「曾我兄弟の仇討ち」や日本武尊の話を朝薫が日本滞在中に知り、自作に取り入れた可能性は高い。オリジナリティが尊重されるのはもっとずっと後の時代であり、往時は「オリジナリティ」は、「勝手な思いつき」でしかなく、観る方は「なんでお前の思いつきにつき合わねばならんのだ」となる方が普通であったと思われる。実際に起こった歴史上の出来事や古くから伝わる話の方が迫真性があるという考え方は確かに納得のいくものである。

嘉数道彦の話によると、「二童敵討」は、中国からの冊封使に見せるということで、中国で盛んな儒教の要素、「君に忠、親に孝」を取り入れているとのことだったが、要は「勧善懲悪」の面白さであり、日本の時代劇と同じ要素で出来ている。「勧善懲悪もの」のテレビ時代劇は今は数がかなり少なくなってしまっているが、BSやCSなどでは流されており、また「『半沢直樹』は時代劇だ」という言葉が聞こえてくるなど、現代劇であっても人々は勧善懲悪の物語を求めている。明らかな悪が退治される話に胸がすくというのは、世界中どこへいってもそう変わらないだろう。

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