カテゴリー「演劇」の494件の記事

2020年7月 4日 (土)

これまでに観た映画より(186) 「美しい夏、キリシマ」

2005年5月19日

DVDで映画を観る。「美しい夏、キリシマ」。黒木和雄監督作品。脚本は松田正隆と黒木監督の共同執筆である。黒木和雄は、映画好きである松田正隆が最も憧れを抱いていた映画監督の一人である。
松田正隆は京都造形大の戯曲の授業の時にこのシナリオについて話しており、「お蔵入りになりかけた」だとか、「どんどんセリフを削られた」、といった裏話を教えてくれた。

物語は黒木監督の少年時代の回想が基になっている。

主役の少年を演じるのは柄本明と角替和枝の息子である柄本佑。

霧島(宮崎県えびの市)の自然が美しい。この映画は評判が高いが個人的にはあまり好きになれなかった。日本情緒が前に出すぎているきらいがある。池のほとりから聞こえる幻想的な歌は印象的。場所が霧島だけに神がかって聞こえる。

戦争映画なのだが徒に暗くならないところは好感が持てる。切迫した場面ももちろんあるが、意外にのんびりとした戦時下が描かれており、安心させられる。

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2020年6月25日 (木)

配信公演 ACALINO TOKYO 「演劇の街をつくった男」

2020年6月21日 下北沢・小劇場B1からの配信

午後6時から、ぴあのストリーミング配信で、ACALINO TOKYOの演劇公演「演劇の街をつくった男」を観る。下北沢・小劇場B1で客を入れて行われている公演の有料配信。チケット事前購入制だが、リアルタイムでなくアーカイブのみを観られるチケットも発売されている。

原作:徳永京子、脚本・演出:徳尾浩治(とくお組)。出演:石川啓介、大部恵理子、笠井里美、杉山圭一、とみやまあゆみ、中薗菜々子、野川雄大、林雄大、本多一夫。

東京の下北沢で本多劇場など8つの劇場の経営主となっている本多一夫を描いた『「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢』(本多一夫:語り、徳永京子:著)を元にした演劇作品。ストーリーテラーを兼ねた女優を二人配するなど、わかりやすさを重視した作品となっている。

まずタイムスリップによる展開があり、舞台は2020年から1972年に飛ぶ。札幌工業高校時代に演劇部に在籍し、顧問の母校である北海道大学の学生劇団に入り浸っていた経験があり、元新東宝ニューフェイスであった本多一夫が、新東宝の倒産もあって俳優の道を諦め、下北沢で50軒もの飲食店を経営するまでになるが、やはり演劇を愛していたことから下北沢駅前の一等地に空いた土地を購入し、紆余曲折の末、本多劇場をオープンさせるまでを現代からタイムスリップした舞台女優の視点を通して描いていく。

演劇への思い入れが感じられる可愛らしい中編で、好感が持てた。

実は、本多劇場には一度も行ったことがない。竹中直人の会の公演である「水の戯れ」を観に行く予定があったのだが、当日の朝に首を痛めて病院に行く羽目になり、本多劇場で観劇は叶わなかった。なお、「水の戯れ」は、その後、光石研主演による再演を梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで観ている。
本多劇場に先駆けて開場した小劇場であるザ・スズナリには一度だけ行ったことがあり、青空美人の「空にかかわるもの」という作品を観ている。下北沢での観劇経験はそれ一度だけであり、他の劇場に通えていないのが残念である。

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2020年6月21日 (日)

配信公演 浅草九劇オンライン 大鶴佐助×大鶴美仁音 別役実「いかけしごむ」(劇評。文字のみ。音楽紹介のリンクはあり)

2020年6月18日 東京の浅草九劇より配信

午後7時30分から、浅草九劇オンラインで、別役実作の二人芝居「いかけしごむ」を観る。出演は、大鶴美仁音(みにょん)と大鶴佐助の姉弟。構成・演出も二人で手掛ける。無観客での上演。

開演前は、前回の柄本明ひとり芝居「煙草の害について」よりも準備が行き届いており、女優の福地桃子(哀川翔のお嬢さん)によるアナウンス映像も流れた。

「いかけしごむ」は、京都で別役実作品上演をライフワークとしている広田ゆうみと二口大学によって何度も上演されており、当然ながら私もこの二人によるバージョンを観ている。

大鶴佐助と大鶴美仁音は、唐十郎(本名・大靏義英)の実子である。大鶴義丹とは異母兄妹となる。

 

暗い夜、街の外れの行き止まりのような場所が舞台である。ベンチがあるが、「ココニスワラナイデクダサイ」と片仮名による拒絶の注意書きがある(女の推理によると、話し掛けるきっかけをつくるためにわざと書かれている)。舞台中央には受話器が降りている。いのちの電話に繋がっているようだ。その上手には手相見の机。

 

時代はかなり意識されており、大鶴美仁音はサザエさんのような髪型(今でこそ奇異に見えるが、「サザエさん」の連載が始まった当初は典型的な女性の髪型の一つであった)、大鶴佐助も戦後すぐのサラリーマンのような格好をしている。顔の表情などはかなり大仰で、映像で見るには辛いものがあるが、これも昭和を意識した演技なのかも知れない。

女(大鶴美仁音)による一人語りで始まる。「信頼できない語り手」として捉えた方がいいだろう。そこかしこから人生に行き詰まったような風情が伝わってくる。そこにサラリーマン風の男(大鶴佐助)が黒いビニール袋を抱えて現れる。男は追われているということを女に告げる。いかを使って作る「いかけしごむ」を発明したのだが、そのためブルガリア暗殺団に追われているのだという。男は誰か目撃者となる人間がいればブルガリア暗殺団も手出し出来ないだろうと、この場に留まる。

女は、男が1歳になったばかりの娘を殺し、バラバラにして黒いビニール袋に入れて逃げている最中なのだろうという推理を語る。女は男の住んでいる部屋を知っているというのだが……。

 

不条理劇と呼ばれる別役実の芝居であるが、ベケットの作品もそうであるように、そこでは人生の不可解さというよりも人生の本質が言い当てられているように思う。少なくとも私にとってはこれらは視点をずらしてはいるが人生そのものに見える。

女は女自身が語るように、女のリアリズムを生きている。自身の視点しか持たず、思考しかなし得ず、何が本当なのか知るよしもない。そしてそこに他者のリアリズムは相容れない。怖ろしく孤独であるが、多くの人間はこのようにしか生きられない。二人でいても一人であり、二人で演じられても一人芝居である。
誰かと出会い、話し、あるいは勘違いし、本当にはわかり合えず、別れていく。そしてその意味もすぐに判然としない。いや永遠の謎となることも多いだろうし、おそらくは意味すらない可能性も高いのだろう。
「本当のことなど果たしてあるのだろうか」

ラストでは屋台崩しではないが、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番第2楽章が流れる中、背後の幕が落とされると、台所を模したスペースで二人の父親である唐十郎が酒を飲んでいる姿が目に入る。そう大した意味があるわけではないだろうが、唐十郎が二人の実の父親であり、父親であるからこそこの場にいるということは揺るぎようもなくリアルであるともいえる。不確かな物語であるが、それだけは確かだ。

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2020年6月19日 (金)

SPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優、教科書朗読 太宰治 「走れメロス」 朗読:大高浩一

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2020年6月16日 (火)

ステージナタリーZoom対談 白井晃×谷賢一 2020年4月(文字のみ)

ステージナタリーにアップされた白井晃と谷賢一のZoom対談を見る。4月18日に行われたもので、24日に公開されている。

まず、演劇に関わるようになったきっかけを述べた後で(白井さんは高校までは演劇に関心がないというより嫌いだったようだ。この点は私と一緒である。松田正隆も高校時代は演劇部をうさんくさい存在だと思っていたという話をしていた)。映画に関しては二人とも撮りたいと思ったことがないという話をする。実は私も映画を撮りたいだとか映画監督になりたいと思ったことはただの一度もない。谷賢一も語っていたが、演劇と映画はストーリーがあるということだけが共通点としてあるだけの全く別の表現形態である。勿論、映画を舞台化したり、場転や暗転を多くして映像作品のように見せる演劇も少なくないが、本来は三一致の法則を遵守するとまではいかないが、三一致の法則に従ってリアルタイムで行われるものが最高の演劇作品なのではないかと思っている。大学でも映画・演劇科などといったように(私も映像・舞台芸術学科出身だ)一緒くたにされることが多いが、映画は小説などに近く、舞台はむしろボードゲームなどと親和性があるように思われる。舞台は空間の芸術なのだ。ストーリーは空間に対しては従でしかあり得ない。映画は全く逆である。鑑賞する立場ならその差は余り気にならないだろうし、批評も同じスタイルでこなせる。ただやる側としては全くの別物と考えて行った方が少なくとも利口ではあるだろう。

劇場はその場に演者がいて、観客がそれを固唾をのんで見守っているという特殊な表現スタイルである。演者が一人欠けていても成り立たない。音楽もそうだが、音楽は今は録音物がライブ以上の価値を持つこともある。トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、レナード・バーンスタイン、ピアノならラフマニノフやホロヴィッツ、アルトゥール・ルービンシュタインの録音を聴くことにライブ同等以上の価値を見いだす人もいる。グレン・グールドのように録音しか行わないピアニストすら存在したほどだ。だが、演劇の場合は映像に収められたものが劇場での体験と同一視されることは今後もないだろう。私自身は映画でない映像のための演劇があってもいいとは思っている。矢口史靖と鈴木卓爾のショートフィルム作品集である「ONE PEACE」のような作品が生まれたなら、今のような窮地もしばらくはしのげるだろうとも思う。だがやはり演劇は劇場に通って観るものだと思う。チケットが手に入らなかっただとか、その日体調が悪かったり別用があったりで行けなかった場合は映像が手に入ればありがたいが、それはあくまで補足であって、本来の演劇を観たことにはならないだろうと感じている。映画館通いもそうだが、そこに至るまでの過程にも良さがある。例えば梅田芸術劇場(メインホールとシアター・ドラマシティ)ならば、阪急電鉄大阪梅田駅で降りてから茶屋町に向かうまでの道のり、たまに参拝する綱敷天神御旅社、これまた時折立ち寄るMBS本社やロフト、NU茶屋町や終演後に乗ったエスカレーターから見える宝塚大学看護学部の高層校舎(安藤忠雄設計)、カッパ横丁や阪急三番街、京都までの帰路、全てが観劇という行為に含まれている。以前にそこで観た別の芝居との差違を帰りの阪急電車の中で味わったりもする。初めて行く劇場なら、例えば青山のスパイラルホールなら、開場前に寄った岡本太郎記念館の内装や表参道の街並みによって、その日その時でしかあり得ない自分だけの空間とその場の空気を、劇を観る前も観ている間も観た後も纏うことになる。それは人生の中で今でしかあり得ない瞬間の連続でもある。

その時間と空間の共有を白井さんは「共犯」という言葉で語っていたが、人生の中でこの一度しか巡って来ない時間の流れを共に味わうということは、生きているということのまさに本質である。そこにいたことが重要且つ幸福なことなのだ。少なくともその限られた時間においては。

白井さんが、スポーツはテレビ観戦が当たり前になっているという話もする。白井さんも谷さんもスポーツ観戦はテレビで済ませていて、最後に競技場や野球場に通ったのは小学生時代が最後ではないかという話もする。これは私とは大違いで、私は出来るなら毎日でも神宮球場に通いたいが、現実的に無理。かといって神宮球場に通うためだけに東京に住みたいとは思わない。京都という、それほどスポーツ文化が発達していない場所にあっても、2月にサンガスタジアム by KYOCERAのオープニングに行ったばかりだし、わかさスタジアム京都(西京極球場)には女子プロ野球やNPBを観に出掛ける。京セラドーム大阪には阪神対ヤクルトの開幕戦を観に行ったことがあるし、バファローズとスワローズの交流戦もよく観に行く。今年も交流戦のチケットを2日分取ったが、コロナ禍によって試合自体が流れてしまった。

私事が長くなったが、白井さんも谷さんも余りスポーツ好きには見えないので実感はないのだと思われるが、NPBなどは毎年観客動員数は増加している。地上波で試合が流れなくなったということもあるが、野球場に行って、お気に入りの食べ物や飲み物を買って、早めに着いたなら練習を眺めて、周りの面白い観客などをそれとなく見て、歓声に包まれて、たまに他のお客さんと話したりすることもあって、というボールパーク的喜びは多分、二人ともご存じないと思われる。だから演劇がスポーツのテレビ中継のようになることはないと個人的には思っている。テレビでのスポーツ中継はスタジアムに行けないので仕方なく見るものなのだ本来は。

谷さんは、4月は小説を書く予定が入っていたのだが、公演が出来ないということでそれどころではなく、白井さんは基本的に演出メインなので、「本でも読むか」と思って小説を読むと、「あれ、これ、舞台にしたらどうなるだろう」と考える職業病のようなものが出てしまい、ではあるが今は上演自体が出来ないというので胸が苦しくなってしまうそうだ。

もしコロナ禍が早めに収束したらという仮定の話を白井さんは行う。通常はリハーサルに最低1ヶ月は掛かるのだが、2週間しかなかったら2週間の稽古期間で出来るものを探してやればいいという考えを示す。今の段階では最も実現性の高い路線であると思われる。

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2020年6月15日 (月)

チャット型インプロ演劇の発案

 演劇を上演する上でネックとなっているのが、舞台上でセリフを話すと飛沫感染の怖れがあるということである。ソーシャル・ディスタンスを保っての演劇も試みとして始まっているが、2メートル以上離れたまま会話をするという状況を設定することは難しい。離れたまま会話を交わすということは日常的な場面ではほとんどないため、嘘くさくなってしまうのである。電話での会話ならあり得る。ジャン・コクトーの「声(人間の声)」の二人バージョンである。電話なら二人芝居以上は難しいが、スカイプやZoomを使っているという設定にすれば複数人での会話が可能になる。ただその場合はわざわざ舞台でやらなくてもZoom劇でいいだろうということに落ち着きそうであるが。

 セリフを発することが問題ならば無言劇もいいし、ギリシャ悲劇のようにパフォーマーと話者を切り離すのもいいかも知れないが、これまで散々演じられてきたスタイルであり、新しさはない。せっかくなのだから新しい表現方法を取り入れてみたいものである。ならば、巨大スクリーンに各々のパソコンから打ち込んだ文字を投影出来るようにして、チャット形式で進める劇はどうだろう。舞台上に複数のパソコンを用意して、役者がセリフを打ち込んでいくのである。折角なので台本はなくして配役のみの完全インプロ(インプロヴィゼーション=即興)で続けていく。難しいかも知れないが、役者の腕の見せどころともなる。
 人数制限は必要だが、客を入れれば反応もあるし、劇の展開も随時変わっていく。良いセリフが書ければ拍手も貰えるだろう。上手くいけばかなり面白いものになるはずである。

 これは劇ではないのだが、以前、某SNSで私と「トリック」(仲間由紀恵&阿部寛主演)ファンのネット上の知り合いの二人で、「トリック」を題材にした二次創作的セリフ劇を延々と続けたことがある。残念ながら公表は出来ないが、かなり笑える面白い仕上がりになっていた。文字の力、文章の力を劇場において発揮するというのも良い試みであると思う。

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2020年6月12日 (金)

反東京一極集中のための特化型劇場試論

 日本の劇場の歴史は寺院の本堂の前の仮設舞台に始まる。往時、それも千年以上レベルで昔の話だが、本堂の前には往々にして芝が敷き詰められており、人々は芝の上の腰掛けて演目を楽しんだ。これが「芝居」という言葉の始まりである。芝居はそれ専用の劇場で行われているわけではなかった。

 やがて座が生まれ、日本の古典芸能は能楽堂(現在と違って野外)や歌舞伎の劇場(これも天上がない)へと繋がっていくのだが、想定された形態(橋がかりや花道を用いる)以外の演目を行うことは難しくなる。演目と劇場は不即不離の関係であった。

 翻って日本のクラシック音楽は多目的ホールで演奏を行うのが一般的であった。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の奏楽堂など音楽のための会場もあるにはあったが、東京でも講演用に建てられた日比谷公会堂に始まり、地方では公会堂や文化会館という多目的の空間での上演が当たり前だった。多目的であるため、音楽のみならず演劇、映画上映会、講演会など多種多様の催しに対応出来るのだが、「多目的は無目的」という言葉がある通り、全ての演目において「万全という形」での上演は難しいということになる。いずれも「帯に短したすきに長し」というわけである。

 音楽特化型のホールが誕生したのは、大阪は1958年のフェスティバルホールオープン、東京は1960年の東京文化会館の竣工を待たねばならない。クラシック音楽専用となると更に遅く、大阪が1982年のザ・シンフォニーホール、東京が1986年のサントリーホール開場が嚆矢となっている。せいぜい150年ほどしかない日本における西洋音楽演奏史から見てもつい最近のことである。いずれも大阪が東京に先んじているというのが興味深い。

 その後に室内楽、器楽用の小ホールが併設されるようになり、今では室内楽・器楽曲専用のホールが単独で存在する(名古屋の宗次ホール、大阪のザ・フェイニックスホールなど)。

 オペラも多目的大ホールでの上演が主であったが、豊中市にある大阪音楽大学に小さいながらも日本初のオペラハウスがあり(1989年竣工の大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス。優れたオペラハウスだが、大学の施設ということもあって、オペラ上演は年2、3回程度と稼働率は高くない)、東京・初台の新国立劇場にもオペラパレスが誕生し、1年を通して上演が行われる日本唯一の常設オペラハウスとして機能している。

 演劇の場合も多目的ホールでの上演の他に、大劇場、中劇場、小劇場、更に小さいアトリエといった区分しかなかったが、東京の浅草九劇がオンライン配信劇場として生まれ変わっている。ということで、能・歌舞伎の時代に立ち返り、特化型の劇場がもっと出来ても良いのではないかと考えるわけである。ミュージカル専用劇場は存在する。宝塚歌劇や劇団四季による自前の劇場である。ただこれからは、音楽劇限定、映像収録前提、出演者3人までの少人数制の芝居しかやらない、若手のみあるいはシニアオンリーといったように特化された強さを持つ劇場が日本各地に存在して良いのではないかと考えるのである。専用は難しいため特化型とする。

 問題はソフト面と採算が取れるかということであるが、特化した方が固定ファンが付きやすいということはあるように思われる。「ここに行けば面白いものが観られる」というのであれば、人はよく分からなくても通うようになる。本当の演劇好きなら遠くても「行ってみようか」という気になる。

 重要なのは、特化型劇場は日本にいくつも存在しなくていいということである。特化型なので、演劇のおける特定のジャンルの最高峰を日本に一つだけ、それが無理なら各地方に一カ所だけ設けるのである。
 高校の硬式野球部においては甲子園が目標になるように、○○の甲子園、例えば高校の軟式野球部なら明石トーカロ球場、サッカーなら以前は国立競技場、吹奏楽ならかつては普門館今なら名古屋国際会議場センチュリーホールといったように各分野の頂点がある。そのような演劇における甲子園を創設するのである。東京の小劇場にとっては以前は紀伊國屋ホールが上がりだったが、その上がりをジャンルごとに新たに制定する。そしてそれは東京になくてもいい。否、東京でない場所にメッカを作ることで、東京一極集中が当然となっている演劇界へのカウンターとなる可能性を秘めているように思われるのである。ワーグナーの楽劇におけるバイロイトのように。

 これはあくまで案だが、例えば札幌に一人芝居の甲子園というべき劇場を設ける。会場自体も一人芝居が観やすいように設計する。アマチュアの一人芝居なら集客は期待出来ないが、有名芸能人の公演なら客が呼べる。しばらくは東京の俳優の力を借りるようになるだろうが、憧れの劇場と見做されるようになれば地元からスターが誕生することも期待出来る。同様に二人芝居なら、例えば金沢にメッカを作る。今は金沢も東京からも大阪からもアクセスは良好であり、日本全国から腕に覚えのあるものが集結する「二人芝居の頂点」を金沢とすることも可能だろう。まず始めにコンクールを開くのも良い。あくまで特化型で、専用ではないので、その他のジャンルを挟みつつ上演することになるだろうが。
 今はシニア劇団が日本各地にあるようだが、その年のナンバーワンを決める大会を例えば別府で行うとする。別府は観光地で老若男女が集う土地であり、シニア世代の集客も期待出来そうである。
 国際都市ということで、神戸で外国語演劇の上演を行うのも良い。来日団体に限らず、日本の団体も外国語による上演を行う。神戸市外国語大学が毎年学生による外国語演劇祭を行っているが、それを発展させた形でも良い。積極的に行うことが出来たなら、その場所は世界各国の、世界各国語の劇が上演される「国際演劇の街」として世界的な評価を得るという青写真を描くこともあるいは可能かも知れない。

 早稲田小劇場が富山県の利賀村に移ったり、青年団が本拠地を兵庫県豊岡市に移転したりと、劇団の本拠地移転は以前からあり、新本拠地での演劇祭も好評を博しているが、一劇団だけでなく、日本演劇界全体レベルで拠点を確立したならば、一劇団、一都市、そして演劇というジャンルのみならず、日本の全文化への貢献を果たせるように思うのだ。

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2020年6月 9日 (火)

配信公演 茂山千五郎家「YouTubeで逢いましょう! part11 三笑会」(文字のみ。アーカイブへのリンクはあり)

2020年6月7日

午後2時から、茂山千五郎家の「YouTubeで逢いましょう! part11 三笑会」を観る。狂言も他の伝統芸能同様、血縁関係による一門が基本となるが、狂言の家に生まれなくても狂言方になる方法も歌舞伎などと同様にあり、東京の場合は国立能楽堂の養成所を経るのが一般的だが、今回のメインとなる三笑会を結成している3人は狂言大蔵流茂山千五郎家に直弟子として入門し、今日に至っている。

三笑会は、茂山千五郎家の血縁ではない網谷正美、丸石やすし、松本薫の3人によって結成された狂言の会である。全員が大卒という共通点がある。

先週から投げ銭制度が採用された「YouTubeで逢いましょう!」。今日も日付に合わせた607円を投げ入れる。千五郎に掛けた1056円や、千作に掛けた1039円を送る人もいる。

 

演目は、「竹生島参」、「水掛聟」、「かけとり」

 

「竹生島参」。出演は、茂山千五郎(主人)、松本薫(太郎冠者)

太郎冠者が今でいう無断欠勤したので、主人は激怒。戻っていた太郎冠者を難詰するのだが、太郎冠者は琵琶湖に浮かぶ「竹生島参」をしたというので、主は興味津々。折檻を加えるはずが、竹生島の話をすれば許すということにする。竹生島は、相模国(今の神奈川県の大半)の江ノ島、安芸国(今の広島県の西側)の厳島と並んで日本三大辯才天の一つであり、芸能の神様(仏様)ということで狂言の家にとっては特別な存在である。

太郎冠者は、竹生島では、スズメが「チチチチチ、父」とカラスに向かって鳴き、カラスが「コカー、子かー」と鳴く「親子でこざる」などと駄洒落を言い、犬が「去ぬ(いぬ)」、猿が「去る」、蛙が「帰る」という掛詞を続けるが、「くちなわ(蛇)」に関しては下らないことしか言えず、主人に怒られるという話である。
オチはないとされるが、辯才天は蛇との関連が深いため、本来は蛇に関してだけは上手いことをいえないとまずいということなのだと思われる。

 

上演終了後、司会進行役の茂山逸平と松本薫のトークがある。
松本は立命館大学入学以降、能と狂言の鑑賞にはまり、自分でチケットを買って、京都や大阪の能楽堂に通うという生活を送っていたそうだが、当時は学生は祖父や狂言サークルなどの人に貰ったチケットで観に来るのが普通であり、狂言サークルなどに入っているわけでもないのに自分で窓口でチケットを買って毎週のように観に来る松本はかなり珍しい存在だったそうで、松本本人は自覚していなかったが、関西の狂言界ではかなり有名な客として知られていたそうである。

京都能楽鑑賞協会という団体の公演ポスターを見つけたのがきっかけで、左京区岡崎にある京都観世会館に出掛けて「安宅」を鑑賞。セリフはよくわからないが、興味を覚えて、1年間は能・狂言の公演に通おうと決めたそうである。それから京都の市民狂言会、その時は京都会館第2ホール(現在は改修されてロームシアター京都サウスホールになっている)での上演だったのだが、2階席で観て十二世(先々代)茂山千五郎に魅せられて、「この人の追っかけをしよう」と決めたそうである。

そして大阪で大阪能楽鑑賞会主催による劇評家の武智鉄二などによる能・狂言の講演が開かれるということで裏方として潜り込ませてもらい、日本装束研究家の切畑健から十二世茂山千五郎を紹介されて、会いに行ったらもう入門するということになっていたそうである。

 

「水掛け聟」。出演:茂山千之丞(聟)、網谷正美(舅)、山下守之(女房)

農民(耕作人)階級の人々が登場人物。
日照りにより聟の田から水が涸れてしまった。ただ隣の舅の田を見ると水が満ち満ちている。舅がこの様を見たら聟の田に水を送るだろうと勝手に決めた聟は、畦を切って自分の田に水を引き入れてしまう(まさに「我田引水」である)。
聟が去った後、舅がやって来て、今度は自分の田には水がなく、聟の田が青々としているのを見て、同じ理屈で自分の田に水を戻してしまう。

舅はその場に隠れ、聟が戻って来て先ほどと同じ事を始めたのを見咎め、水を掛けあう大喧嘩に発展する。

 

網谷正美のトーク。網谷正美は京都大学卒業後、同志社高校などで国語の教師をしており、兼業という形で狂言師を続けてきた。大学在学中に市民狂言会で初めて狂言に出会い、京都学生狂言研究会(KGKK)という狂言サークルに入って八坂神社の能舞台で初舞台を踏む。大学を卒業後すると同時に学校の国語教師となるのだが、当時、茂山千五郎家が病気などで人が足りないということで、入門することになったようである。

 

「かけとり」。茂山逸平作の落語を原作とした現代狂言である。出演は、鈴木実(太郎)、茂山茂(女房)、丸石やすし(大家)、茂山宗彦(もとひこ。酒屋)。エア囃子:島田洋海(ひろみ)。

大つごもりということで、借金を返したりするのに忙しい。家賃も全然払っていないため、太郎と女房は窮するのだが、大家が能好きということで、能を謡って誤魔化そうとする。
太郎はいきなり能楽師の振りをしながら大家の前に現れる。大家は太郎の企みを瞬時に見抜くのだが、結局、能のやり取りをして、うちよりもまず「一門の総帥である千五郎が、そばのそば屋でそばすすっている」ので先に取り立てに行けという太郎の言葉に乗せられるという、謎の展開になる。

その後、酒屋も取り立てに現れるのだが、沢田研二の「TOKIO」ならぬ「TSUKEO」を歌っている。酒屋のモッピー(宗彦)は最近、ジュリー殿と仲が良いので真似をしているのだという。ということで「勝手にしやがれ」の替え歌を太郎と酒屋とで歌い始め、「出て行ってくれ」と歌われた酒屋が「あーあー」歌いながら帰っていくという、カオス状態となって終わる。

ちなみに逸平によるとジュリーファンからの苦情は一切受け付けていないそうである(?)

 

丸石やすしは広島出身。ということで茂山千五郎一門の中で唯一のカープファンである。広島商科大学(現・広島修道大学)卒業後、東洋工業(現・マツダ。広島東洋カープの東洋である)に総務として就職するが、元々芸人志望だったということもあって勤め人が水に合わずに退社。その後、落語家や芸人を目指して桂米朝の追っかけなどをしていたが、狂言を初めて観て面白さに目覚め、当時は茂山千五郎家の電話番号が本名で電話帳に載っていたため、電話しところ、大阪能楽鑑賞会で講座をやるから、それを観てやる気があるなら弟子入りを許可するので観世会館に来いといわれて、入門したそうである。

 

アーカイブ https://www.youtube.com/watch?v=88819Q8kdoE

 

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2020年6月 6日 (土)

配信公演 浅草九劇オンライン 柄本明ひとり芝居「煙草の害について」(劇評。文字のみ。関連リンクはあり)

2020年6月5日 東京の浅草九劇からの配信

午後7時30分から、オンライン型劇場に模様替えした浅草九劇の配信公演、柄本明ひとり芝居「煙草の害について」を観る。事前申込制の有料公演である。配信はVimeoを使って行われる。

配信公演への入り口となるURLは開演1時間ほど前に送られて来たのだが、メールソフトの調子が今日もおかしく、HTML形式のメールの画像がダウンロード出来ないので、返信やら転送やらのボタンを押して、無理矢理別の形式に置き換えて見る。返信を押した場合、更に「返信をやめる」を押すのだが、それでも返信されてしまう場合がある。

 

午後7時開場で、その直後に配信画面に入ったのだが、ずっと暗闇が続く。「LIVE」と視聴者数の文字は出ているので動いていることは確かだが、午後7時30分丁度になっても暗闇のままなのでブラウザの更新ボタンを押す。そのためか、あるいはそれとは関係なく配信の時間が来たからなのか、画面に舞台の背景が映る。臨場感を増すため、フルスクリーンにして視聴する。

 

「煙草の害について」は、アントン・チェーホフが書いた一人芝居である。オリジナルに近い形での上演は、MONOが京都芸術センターで行った「チェーホフは笑いを教えてくれる」というチェーホフの短編を連作にした作品の中で水沼健(みずぬま・たけし)が演じたものを観たことがあるのだが、上演時間が20分弱という短いものであるため、今回はチェーホフが書いた他の戯曲のセリフや歌などを加えて、上演時間1時間前後に延ばしたテキストを使用しての上演である。柄本版「煙草の害について」は、1993年初演で、書き直しを行いながら何度も上演を重ねているが、私は観るのは今日が初めてである。

柄本明が演じるのは、妻が経営する全寮制女子音楽学校の会計係兼教師であるが、恐妻家であり、今いちパッとしない男である。着ているベストも継ぎ接ぎだらけだ。

妻に命令されて、無理矢理「煙草の害について」というタイトルの健康に関する講演をすることになったのだが、彼自身は喫煙者であり、煙草の害に関する知識は辞書などで得たもの以外にはさほどない。当然ながらやる気もない。

音楽学校の生徒全員分のホットケーキを焼くよう妻に命じられて作ったのだが、体調不良で5人が食事をキャンセルしたため、妻から5人分を一人で食えと命じられ、食べ過ぎで体調不良である。妻からは「かかしんぼ」と呼ばれることがあり、かなり侮られている。

 

本編に入る前に、柄本明はアコーディオンを弾きながら榎本健一の楽曲「プカドンドン」(もしくは歌詞違いの「ベアトリ姉ちゃん」。サビの歌詞が一緒なので判別出来ず)を歌う。伴奏と歌がかなりずれることもあるが、あるいは浅草での上演ということでエノケンへのリスペクトも込めて歌われたのかも知れない。

体調が悪いので、持ってきた原稿の1枚目に向かってくしゃみをしたり、もうちょっと汚いものが出たため、それを丸めて棄てたのだが、実はそれが「煙草について調べた内容を書き記したメモ」だったため、それに気づいて、汚いのを承知で拾い、広げて読み上げるのだが、出したものでインクが滲んでしまい、上手く読めない。「イタリえば」と読んだが、実は「例えば」だったり、「中洲」という博多の繁華街ネタが始まるが、実際は「中枢神経」と書かれたものだったことが直後に判明したりする。男は「学がない」と自己紹介をしていたが、最後の辺りで「若い頃は大学で学問に励んだ」という話をしたり、音楽学校で理系から文系までの教養科目を幅広く教える能力があるため、謙遜しただけで、今は冴えないが少なくとも若い頃はかなり優秀と見られた人物であるらしいことがわかる。ちなみに彼の奥さん(「三人姉妹」に登場する怪女・ナターリヤの要素を入れている)は友人とフランス語で話すが、男の悪口を言うときはロシア語になるということが語られる場面があるのだが、帝政ロシア時代はかなり徹底したフランス指向の影響で上流階級はロシア語でなくフランス語を話していたという事実があり、奥さんもフランス語が話せて音楽がわかるということからハイクラスの出身であることがわかり、そうした女性と結婚出来た男も同等の階級出身である可能性が高い。あるいは彼も優れた才能と身分に恵まれながら時代の壁に阻まれて上手く生きられなかった「余計者」の系譜に入るのかも知れない。

「いざ鎌倉。鎌倉はどっち? ここは浅草だから」という話が出てきたり、「休憩」と称して下手隅にある椅子に腰掛けてバナナを食べた後で、ぶら下がっている紐に首を入れて揺らし、縊死するかのように見せた後で「ゴンドラの唄」を歌い、黒澤映画の「生きる」をモチーフにした演技を見せるなど、日本的な要素もちりばめられている。

とにかく妻や娘から軽視されているというので愚痴が多く、「誰でも出来る」結婚しか出来なかった(ただ今の人にとっては、結婚自体が高望みになりつつある。私も結婚していない。「私にも妻がいればいいのに」)不甲斐なさを述べるのだが、柄本明自身が奥さんである角替和枝を亡くしているということが透けて見えるような愛情吐露の場面もあり、妙に切なかったりする。

途中で後ろの方に座っていた学生風の若者が勝手に退出しようとしたのを見とがめたり、女子音楽学校の校則などの紹介が載っている本を客席に向かってロシア通貨で販売しようとする場面があったり(今回は無観客上演なので誰もいない)とステージ上だけでない空間の広がりを生む演技もある。

ラスト付近ではラヴェルの「ボレロ」が流れ、妻の影絵が浮かび、転調を伴う狂乱の内に芝居は終わる。

 

上演終了後、柄本は無人の劇場で演じるのは初めてだと語り、文化は生きることと同等であり、なくてはならないもの。なくなったら死んでしまうと熱いメッセージを語った。

 

初の配信ということもあってか、映像が時折途切れたりする。こちらの回線が悪い時もあったかも知れないが、スローモーションになった時には視聴者数が一気に20人ほど減ったため、観るのを諦めたかいったんログアウトしたかで、他の人が観ている映像にも問題が生じていることが察せられた。その後、観客数が一気に増え、ほどなくして画面も動き出した。

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2020年6月 1日 (月)

遠隔強制時代の一人芝居上演案

以下のような案です
 
 ミニシアターで行われているように、俳優や劇団が好きな劇場と契約して、zoomなりYouTubeライブなりを使った公演を行う。行う場所は劇場でなくてもよい、というより今はまだ劇場を本格的に稼働させることは不可能だろうから、ある程度の広さがあれば自宅でも良い。劇場とは契約を結ぶだけである。一人芝居の場合は狭い場所でも行える作品ある。

 zoomなら前払い制度、YouTubeなら投げ銭制度がある。ミニシアターは「仮設の映画館」として視聴者が好きな映画館を選んで料金を制作者側と分けたが、演劇の場合は先に書いたと通り演じ手が支援したい、協力したい劇場を選んだ方が良いだろう。ソーシャル・ディスタンスを保って演技を行うのは難しい。別画面での演技を行うのも良いが、それが演劇的といえるかどうかだが、一人芝居なら純粋に演劇的といえる表現は可能である。

 一人芝居は難しく、それでいて複数の出演者が出る芝居より面白くなる可能性は低く、孤独な作業で、一人の魅力が全て、そしも責任は一人で負うためやりたがらない人も多いが、私は個人的には一人芝居を観るのは好きだ。

 加藤健一の「審判」、新妻聖子の「青空!!」、柄本明の「風のセールスマン」、風間杜夫の「カラオケマン」など一連の牛山明シリーズ、佐々木蔵之介の「マクベス」一人芝居版(厳密にはセリフのない俳優が他に二人出演)、白井晃の「アンデルセン・プロジェクト」、実質的に一人芝居といえる中谷美紀の「猟銃」(セリフのない出演者がいる)、戸田恵子の「なにわバタフライ」、井上芳雄の「夜と霧」や「沖田総司」(半朗読半一人芝居)、市村正親の「海の上のピアニスト」(市村正親はピアノを弾けないので、稲本響がピアノを担当)、鈴木京香の「声」(ピアノ伴奏版でプーランク作曲のオペラ上演も出来るかも知れない)など、思いつくだけでもこれだけ魅力的な芝居がある。

 遠隔には向かない一人芝居もありますが、どうです、チャレンジしてみませんか? 実は東京都内だけで、俳優を職業にする人は30万人ほどいるといわれています。そのうち、いつもテレビに出ているような人は100人ぐらいと厳しい世界なのですが、一人芝居なら、良い本を見つけて最高の演技を見せればチャンスを掴める可能性は他のことをするよりも高まります。配信が出来る技術と自己プロデュースが鍵となりますのでコネは余り要りません。他人にキャリアを邪魔されたりもしません。

 私は自分で書いた作品以外では、志賀直哉の短編小説「クローディアスの日記」を基にしたものなどをやってみたいですね。志賀直哉は著作権が切れていませんし、演技の才能はないので、実際にはやりませんけれど。

 若手女優さんがYouTubeでお菓子作りにチャレンジの映像を上げていたりして、それもファンサービスとしていいのでしょうが、演技が見たいんです。せっかく才能に恵まれているのですから。佐々木蔵之介の「マクベス」のように翻案を行って、一人で全員の役を演じてしまうのもいい。私なら有料でも観ますよ。

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