カテゴリー「演劇」の578件の記事

2021年6月13日 (日)

NHKプレミアムシアター「プライド」 2011.2.6

2011年2月6日視聴

録画しておいた、NHKプレミアムシアター「プライド」を観る。一条ゆかりの少女マンガを、大石静の脚本で舞台化。演出は寺﨑秀臣。音楽:佐橋俊彦。
笹本玲奈、新妻聖子、佐々木喜英、鈴木一真による四人芝居である。2010年12月、東京のシアター・クリエでの収録。

笹本玲奈、新妻聖子という、若手を代表するミュージカル俳優を起用しているだけに歌は抜群。オリジナルの音楽やオペラの曲以外にも、THE BOOMの「島唄」、エディット・ピアフの「愛の賛歌」、童謡「故郷」、ドヴォルザークの歌曲「我が母の教え給いし歌」などが歌われていて、いずれも効果的である。


売れっ子ソプラノ歌手だった母を持つサラブレットで、三田音楽大学生の麻見史緒(笹本玲奈)と、実家が貧しく苦学しながら立川音楽大学に通う緑川萌(新妻聖子)はオペラ・コンクールの決勝で争うことに。本番直前、ドレスが切れていることに気付く萌。史緒はドレスを貸そうかと提案するが、萌は反発。ついでに史緒の母親が史緒をかばって交通事故で亡くなったことを告げる。そのことを初めて知った史緒は本番で声が出ず、優勝は萌に輝く。

オペラのコンサートの主催者であるクィーン・レコードの副社長である神野隆(鈴木一真)は優勝の特典であるミラノ留学を獲得した萌を祝福する一方で、史緒には将来自分と結婚することを前提にウィーン留学を持ちかける。

一方、史緒の伴奏ピアニストである池之端蘭丸(佐々木喜英)は、史緒と萌と三人でポピュラーソングを歌うことを思いついていた。

優勝した萌だが、お金はなく、大学の学費も払えていないという状態。そこで萌は神野にバー「プリマドンナ」で相談。神野は「プリマドンナ」の歌い手が先月辞めたので、ここのシンガーになればいいと提案。「プリマドンナ」で女装してピアニストをやっている蘭丸の伴奏で、「島唄」を歌う。神野は採用は間違いなしというが、実は史緒が「プリマドンナ」の歌い手として入っていて……


少女マンガが原作だけに、セリフなどはかなりクサイが、そこは大石静の脚本だけにしっかりとした構造の作品を提供してくれる。ドロドロとした女の情念と、歌っている時の心の通い合いの描写は見事だ。演じ手達も大袈裟にならない程度に力の籠もった演技を見せていて、上質のエンターテインメントに仕上がっている。

笹本玲奈のさらりとした甘い声と、新妻聖子の芯のある凜とした歌声の対比が見事な二重唱は特に聴き物である。

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観劇感想精選(401) 「イリアス」

2010年10月2日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「イリアス」を観る。

開場の1時間前に着いてしまったのだが、丁度、芸術文化センター設立5周年セレモニーをすぐ下の高松公園でやっており、佐渡裕(感極まって涙していた)指揮のスーパー・キッズ・オーケストラがヴィヴァルディの「四季」より「秋」、ルロイ・アンダーソンの「フィドル・ファドル」、更に題名はわからないがもう1曲を演奏していた。


「イリアス」は、ギリシャのホメロスの叙事詩を原作とし、木内宏昌の脚本、栗山民也の演出での上演。出演は、内野聖陽、池内博之、高橋和也、馬渕英俚可、新妻聖子、チョウ・ソンハ、木場勝己、平幹次郎ほか。舞台下手袖にバンドが控えていて生演奏が行われる。音楽担当は金子飛鳥。


トロイア戦争が舞台。踵の弱点以外は不死身の肉体を持つアキレウス(内野聖陽)はトロイア戦争に参戦しているが、大将であるアガメムノン(木場勝己)に反発して戦場には出ていない。そんな中、アキレウスの親友であるパトロクロ(チョウ・ソンハ)がトロイアの武将であるヘクトル(池内博之)に惨殺されてしまう。激怒したアキレウスは、トロイアの城門の前でヘクトルと対決する…...

5人の女優がコロスの代わりとなって、状況説明をする。


最大の見所は内野と池内による殺陣。特に内野は年齢を感じさせない体のキレがある。

原作の「イリアス」がヘクトルの死で終わってしまうので、この舞台もそれを踏襲しているが、そのために中途半端な終わり方をするのが唯一の難点である。

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2021年6月 9日 (水)

観劇感想精選(400) リー・カルチェイム作 「ビリーバー」

2010年9月17日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後7時からシアター・ドラマシティで「ビリーバー」を観る。作:リー・カルチェイム、演出・上演台本:鈴木勝秀、出演:勝村政信、風間俊介、草刈民代、川平慈英。

ロサンゼルスが舞台。科学者のハワード(勝村政信)は、サンタクロースの存在を信じている。一方、9歳のスティーヴン(風間俊介)はサンタクロースの存在に否定的であった。ある日、スティーヴンの通う学校でハワードはサンタクロース実在の可能性について講義をする。スティーヴンにはそんな父親の姿が変人としてしか映らず……

信じること、信仰とは何かを問いかける作品。9・11後、神の存在は信じるが、信頼できなくなったアメリカの風潮を題材としている。


神を信じるのは尊いことで、サンタクロースの存在を信じるのは子供っぽいことなのか。神なき社会で何を信じればいいのかを問いかける作品でもある。ビッグバンの後で宇宙が生まれるが、それ以前の状態はどうだったのかという答えのでない質問に、科学と信仰が絡んでくる。ビッグバンは神様が起こしたのかどうか。

黒い立方体を組み立てることで、様々なセットを作り出す演出が面白い。役者達も達者であった。

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2021年6月 3日 (木)

観劇感想精選(399) 井上芳雄主演 ミュージカル「ハムレット」

2012年2月27日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後1時から、梅田芸術劇場シアタードラマシティで、ミュージカル「ハムレット」を観る。原作:ウィリアム・シェイクスピア、脚本・作曲・作詞:ヤネック・レデツキー、演出:栗山民也。出演は、井上芳雄、昆夏美、伊礼彼方、成河(ソン・ハ)、阿部裕、山路和弘、涼風真世、村井国男ほか。

ストレートプレーだと上演時間3時間を超える大作である「ハムレット」を2時間に短縮してミュージカル化したもの。

開演前、舞台上にはデンマークの国旗が下4分の1ほどが何かに被さる形で垂れている。

上演開始、先王ハムレットの葬儀のシーンから始まり、デンマークの国旗が被さっていたものが、先王の棺であることがわかる。ハムレット(井上芳雄)は棺が運ばれていく様を憂鬱な表情で見つめている。

舞台は一転して、オフィーリア(昆夏美)が明るい表情で登場。ハムレットからの恋文を読み上げて浮き浮きしている。

そしてクローディアス(村井国男)とガートルード(涼風真世)の婚儀のシーンとなり、皆は愛の美しさを歌い上げるが、ハムレットは「愛は全てを駄目にする」と語る。

その後、ハムレットがガートルードに向かって言う「弱き者、汝の名は女」、そしてポローニアスがハムレットのことを「He is crasy」だと歌い上げるナンバー(このナンバーは同じ旋律でハムレットによる「Who is crasy」としてポローニアス殺害後に歌われる)を挟んで、ハムレットがオフィーリアに向かって放つ「尼寺へ行け!」のセリフが出てくる。

なお、有名な「To be,or not to be」は日本語に訳されることなく、英語のまま、後半の冒頭の歌詞に登場する。

役者では井上芳雄が抜群の出来。動きにキレがあるし、歌声も、特に高音の伸びが素晴らしい。オフィーリアを演じた昆夏美も小柄な体型からは想像出来ないほどパワフルな歌声を発し、後半の狂気の場面での演技力も高い。

ただ、ミュージカルとしてはまずまずの出来であったが、「ハムレット」としてはやや不満が残る。カットした部分が多いため、心理描写が今一つで、あらすじを追っているだけに思える場面もあった。また追加された場面もさして効果的とは思えなかった。音楽や俳優は充実していただけにそれが残念である。

栗山民也の演出は、ラストでデンマークの国旗が十字架に見えるという仕掛けがなかなか良かったように思う。


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2021年5月29日 (土)

観劇感想精選(398) 「ANJIN イングリッシュ・サムライ」

2010年1月23日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「ANJIN イングリッシュ・サムライ」を観る。徳川家康に仕えた三浦按針ことウィリアム・アダムスを主人公にした日英合作の舞台である。脚本:マイク・ポウルトン、共同脚本執筆:河合祥一郎、演出:グレゴリー・ドーラン(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)。出演は、市村正親、オーウェン・ティール、藤原竜也、高橋和也、床嶋佳子ほか。

名前だけは有名だが、実際はどういう人だったのか余り知られていない三浦按針(1564年生まれでシェイクスピアと同い年であり、そのため英国のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが制作に参加している)を主人公に、関ヶ原の戦いや大坂の陣の起こる激動の時代を綴る叙事詩である。途中休憩20分を含めて上演時間約3時間半という長編。

セリフは英語と日本語で、舞台両端に字幕が出る。

イギリス人でありながら、旗本・三浦按針となり、イギリス人でも日本人でもなくなったウィリアム・アダムス(オーウェン・ティール)と、名門・北条氏の出身で侍の心を持ちながら宣教師となったドメニコ(藤原竜也)という、自我が二つに引き裂かれた人物が登場する。ただ、彼らの苦悩を描くという点では突っ込みが甘く、せっかくの設定を生かし切れなかったように見えた。その他の点では、優れた舞台であったように思う。

役者は大熱演。特に驚異的な長ゼリフをこなす徳川家康役の市村正親、英語のセリフをこなした藤原竜也(役作りのために2ヶ月に渡ってロンドンで英語の特訓に挑んだという)の二人の演技には脱帽ものである。

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2021年5月18日 (火)

観劇感想精選(397) 野田秀樹作 熊林弘高演出 「パンドラの鐘」2021@兵庫県立芸術文化センター

2021年5月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「パンドラの鐘」を観る。今でも野田秀樹の代表作の一つに挙げられる名戯曲の上演である。演出は熊林弘高。出演:門脇麦、金子大地、松尾諭(まつお・さとる)、柾木玲弥(まさき・れいや)、木山廉彬(きやま・ゆきあき)、長南洸生(ちょうなん・こうき)、八条院蔵人、松下優也、緒川たまき。比較的若い俳優がキャスティングされているが、名前を見ただけで若い世代の人が多いということが分かる(芸名の人も勿論いる。意図されたのかどうかはわからないが、門脇麦と緒川たまきの名前と役のイメージがひっくりかえっているのも面白い)。声の出演:野田秀樹。野田秀樹が芸術監督を務める東京芸術劇場の制作で、野田秀樹本人が許可を出した新演出版での上演となる。
今回の新演出では、ラスト付近が改変されているのが最大の特徴である。

1999年の暮れに初演された「パンドラの鐘」。同一の戯曲を野田秀樹の自作自演と蜷川幸雄演出の2バージョンでほぼ同時期に上演されたことで話題を呼んだ。野田秀樹演出版は三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで、蜷川幸雄演出版は渋谷の東急Bunkamuraシアター・コクーンで上演されている。「シアターガイド」などの演劇専門誌や、「ぴあ」などの情報誌にも野田秀樹や蜷川幸雄のインタービューが載り、野田秀樹は「あっちは渋谷でこっちは三軒茶屋。その時点で負けている」言っていたり、蜷川幸雄がこれまでの野田の演出を評して、「あいつは綺麗にやり過ぎる。だから駄目なんだ」と口撃していたりと、言動でも盛り上がっていた。
すぐそこに迫った2000年は「ミレニアム」という名称を新たに与えられており、華やいだ雰囲気がまだあった。

「パンドラの鐘」とは、長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」と広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」(鐘を説明する「鐘に童」の「童」である)、長崎の鐘などのイメージを重ねたものであり、「戦争責任」という重いテーマを扱った作品である。夢の遊眠社時代は、今聴くと面映ゆくなるほど詩的な言葉選びと、掛詞などを中心とした言葉遊び、古典的な作品からの引用などをちりばめて、イメージの世界を拡大した野田秀樹だが、イギリス留学をきっかけに社会的なテーマを題材に選ぶようになっており、戦争、天皇制、差別、貧困、暴力、アウトローなどを独自の筆致で描くようになる。
昭和天皇の戦争責任というきわどい問題に触れながら、当時の右翼に絶賛されたことでも話題になった。

実際のところは、私は世田谷パブリックシアターにもシアターコクーンにも行けなかったのだが(当時はまだインターネットが十分に発達しておらず、チケットの購入は電話か店頭のみで、人気公演のチケットを手に入れるのはかなり難しかった)、共に収録されたものがNHKBSで放送されており、比較が可能になった。
アクションと見立て重視の軽妙な野田演出に対して、蜷川幸雄の演出はあたかもシェイクスピア作品に挑むかのような重厚なものであった。蜷川がシェイクスピア作品のような演出を行ったのには訳があり、「パンドラの鐘」ではシェイクスピアの「ハムレット」が重要なモチーフとして使用されているのである。題材とされているのは他に、「古事記」などに描かれる日本の神話、邪馬台国などの古代国家、大正天皇知的障害者説、二・二六事件、統帥権問題、長崎原爆、長崎を舞台としたプッチーニの歌劇「蝶々夫人」などである。
1936年の長崎と、古代の長崎にあった王国とが交互に描かれるのが最大の特徴。

野田版でも蜷川版でも一人二役はあったが、今回の熊林版ではそれがかなり徹底されており、タマキとヒメ女を門脇麦が、オズとミズヲを金子大地が、カナクギ教授と狂王を松尾諭が、イマイチと古代の未来の参謀を柾木玲弥が、ピンカートン未亡人とヒイバアを緒川たまきが演じており、過去と未来とが一対(生まれ変わりに相当する可能性を残す)になるよう工夫されていて、「歴史は繰り返す」の構図が見やすくなっている。ちなみに野田秀樹演出版では、野田秀樹がヒイバアを演じており、先王の葬儀の演出をしたヒイバアにミズヲが「つまらない演出」と難癖を付けて、ヒイバアを演じる野田秀樹が「この私が演出した葬式がつまらないっていうの?!」と怒るセリフで爆笑の嵐が起こっていた。ただ蜷川版でも熊林版でもそれは特に意味のないセリフとなっている。なお今回はヒイバアにアラフィフとはいえバアと呼ぶにはまだ若い緒川たまきをキャスティングしたことで、ハンニバル(松下優也)とヒイバアが男女の関係であるという演出が出来るようになっている。

1936年、国をひっくりかえそうとした二・二六事件が起こる直前のこととして物語は始まる。長崎の遺跡発掘現場で、オズ(「オズの魔法使い」に登場する島国、オズ王国が由来か)とカナクギ教授が「ひっくりかえった古代の舟」のようなものとそのそばにあった釘や人骨などを発見する。それが邪馬台国とは異なる、ヒメ女(ひめじょ)という女王を頂く古代国家発見の可能性へと繋がるのだが、カナクギ教授は教授の肩書きを得ているものの、自分の意見や考えといったものは持っておらず、ほぼ全て他人のものを剽窃して上り詰めてきた男である。今回も助手であるオズの意見を悉くパクリ、オズの恋人まで奪い、論文もオズが書いたものを自身とタマキの共著であるとして発表する。
そういうことを許してしまうオズというのが、実に鈍い男であり、恋人であるはずのタマキがカナクギ教授と関係を持ったことを仄めかしても何一つ気がつかない。古代に向かう想像力は豊かだが、目の前のことは何も見えていないのである。
だが、オズが書き、カナクギ教授が発表しようとした説は、古代から来たハンニバルによって阻止される。今、国のために犠牲になった王がいたということが明らかになれば、国体が保てない。

ヒメ女は14歳で即位。この14歳というのが実は重要である。シェイクスピア劇に登場するオフィーリアやコーディリアといった有名ヒロインが14歳前後という設定なのである。シェイクスピア劇にはあと2週間で14歳の誕生日を迎える13歳のジュリエットなど、他にも年齢の近いヒロインが何人か登場する。当時の結婚適齢期がこれぐらいの年齢ということもあるが、シェイクスピアの時代には男性しか舞台に上がることが出来なかったため、ヒロインは少年が演じたのだが、少年が演じてそれっぽく見えるのは声変わりを迎える前の14歳前後が限界だったという事情もあったようである。同じような年齢のヒロインが多いのはそのためだ。ヒメ女は「柳の下で」で始まる幽霊とのダブルミーニングの象徴的なセリフで自身のモチーフがオフィーリアであることをさりげなく知らせる。

今回の演出では即位したばかりのヒメ女がハンニバルやヒイバアの操り人形(傀儡)であることが強調されている。実はここに新しい解釈を入れる余地があると思うのだが、今のところそうした解釈を分かるように入れた演出は存在していないようである。

最初は言われるがままだったヒメ女であるが次第に自立していき、ハンニバルとヒイバアもヒメ女を怖れるようになる。ちなみにヒイバアがヒメ女の性格を「ちょっと言い過ぎ」と言いつつ絶賛する場面があるが、これもオフィーリアがハムレットの資質を讃える場面のパロディーであると思われる。

「ハムレット」では、主人公のハムレットが佯狂を演じる場面が有名だが、「パンドラの鐘」ではこのパロディーがヒメ女の兄である先王が狂ったという設定で登場する。狂ったということを民衆に悟られないために先王はハンニバルとヒイバアによって幽閉される。公には先王は死んだということにされ、葬儀が行われ、ミズヲら墓掘り人達(「ハムレット」にも墓掘り人達による有名な場面がある)によって埋葬されることになるのだが、棺桶の中に入っていたのは実は猫の死体であった。
口封じのために生き埋めにされるはずだったミズヲ達だが、ミズヲの挑発にヒメ女が乗ったことで生きながらえる。ミズヲは生きている人間よりも死体の方がよっぽど人間らしいと考えおり、また死んだ人間が化けて出てきたら再会したことを喜ぶべきだと説く(幽霊に関するセリフは、先王ハムレットの幽霊登場の場面を踏まえていると思われる)。
ヒメ女の王国は、デンマークを含むスカンジナビアの国家のように海賊(ヴァイキング)行為を行うことで国力を付けてきた。ヒメ女の王国があった長崎の地下からは世界中から集められた様々な遺物が見つかり、博物館のようになっている。このあたりは、カナクギ教授の人物像、引いては野田秀樹自身の作風へのカリカチュアとなっているようにも思われる。
その海賊行為によって、オズとカナクギ教授が発見するようになる「ひっくり返った船のようなもの」もミズヲによって長崎へと運ばれていた。ヒメ女の王国の人々もその正体が分からず、パンドラという都市の辺りで見つけたものだが、これは「なにかね?」ということでパンドラの鐘と名付けることにする。
実はヒメ女の王国は見えない敵と戦争中なのだが、最近では連戦連敗。ハンニバルとヒイバアはそれを隠すため、偽のニュースを流し、海岸の打ち寄せた死体を海へと投げ戻すよう命じていた。

野田版でも蜷川版でもパンドラの鐘は舞台上に置かれていたが、今回はそれらしき部分がある背景は置かれているものの、パンドラの鐘そのものを表すセットは存在せず、パンドラの鐘を描写した部分のト書きを野田秀樹が朗読している音声が流れる。

ヒメ女には、オフィーリアの他に卑弥呼や天照大神のイメージが重ねられているが、真の意味でのモデルは性別はひっくりかえっているが昭和天皇である。狂王の次の王ということなのだが、昭和天皇の父親である大正天皇には、その在位中から「知的水準に問題があるのではないか」という噂が流れていた。「遠めがね事件」など有名な話もあり、この作品でも狂王のモデルが大正天皇であることが分かるよう取り入れられている。実際には大正天皇は文学の才能にも秀でており、「明治天皇に比べると」ということだったようだが、病弱だったのは確かであり、皇太子だった裕仁親王が摂政に立ったことで噂は更に広がることになった。皇室の系統に、冷泉帝や陽成帝といったちょっとおかしな天皇が存在することもそれに輪を掛けたであろう。
性別がひっくりかえっていることについては、ヒメ女と昭和天皇の他に、いざなぎいざなみをモデルにしたような話でも同様の場面があるなど、何度も用いられている。

タマキの母親のピンカートン未亡人は、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」に登場するピンカートンの孫の妻という設定であるため、タマキ(「蝶々夫人」で世界的なスターとなった三浦環がその名の由来であると思われる)はピンカートンのひ孫ということになる。ピンカートン未亡人は祖父のピンカートンが日本の幼い娘を自身のせいで自殺に追い込んでしまったことを悔い、ピンカートン財団を築いて長崎の発掘事業に貢献していることを語る。ただ、ピンカートン未亡人もタマキも蝶々夫人の自殺については否定的である。野田版と蜷川版で最も解釈が異なったセリフは、タマキが蝶々夫人を評した「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」というものだったと思われるが、今回はこのセリフが発せられる場面が変更されていたため、全くと言っていいほど目立たなかった。これはミズヲの「生きるべきか死ぬべきかそれは問題じゃない、どう死ぬのか、それがが葬式屋の問題だ」という「ハムレット」由来のセリフにも呼応する重要なセリフであるため、ちょっと物足りなく感じた。
蝶々夫人は「恥をかかされたら死ぬしかない」という日本の倫理観の犠牲になったのであるが、ここで問われているのは、責任を取って死ぬべきかということであり、「死を持って詫びる」ことを美徳とする日本人の意識であり、戦争責任を取って死を受け入れるという可能性のことを指してもいる。ただ、当時の日本の上層部に戦争責任を取らされることを拒んだ人達がかなり多かったというのも事実で、終戦間際の時点で、すでの江戸時代からの美意識は崩れつつあったようにも思う。そうした上層部の意識も戦争の責任と昭和天皇の退位とを結びつけることになる。

同音異義語などを多用する言葉遊びは今も変わらず野田演劇の特徴だが、今回は若手俳優中心のキャストということが災いしたようで、アクセントを間違えたために意味が通じないセリフになっていたり(「彼方(あなた)」を「貴方」の発音で言うなど)、言葉で情景を描くためにセリフにメリハリを付ける必要があるのだが上手くいかなかったりと、野田版や蜷川版の豪華キャストの演技を知っている人にとっては歯がゆい出来となった。これまた野田演劇の特徴である早口によるセリフ回しが今回も行われていたが、相手のセリフとの間を詰めすぎたため、人の言うことを聞かずに話し始めてしまう人々のように見えたのはかなりのマイナスである。相手を見ないと成立しないはずのやり取りが対面しないまま行われたのも意図がよく分からない。ミュージシャンの名を挙げる場面で、1999年当時に全盛を誇っていた小室哲哉ではなく、小室は小室でもミュージシャンではなく皇室絡みで話題のあの人の名前に変えていたりしたが、ここも余り意味はなかったように思う。
ただ、演技面では十分とはいえなかったが、緊急事態宣言発出の中で熱演を繰り広げた俳優達を、終演後は多くの人がスタンディングオベーションで讃えた。こういう時なので、出来不出来は横に置き、芝居に出演してくれるだけでも尊敬に値すると思う。

ラストであるが、本来のラストとその前のシーンをひっくりかえすというかなり大胆なものである。本来のラストは「パンドラの箱」に掛けた希望を語るミズヲの独白で終わるのだが、今回は古代のヒメ女の王国ではなく、1941年12月8日の長崎をラストシーンとする。オズがアメリカに向かうタマキに、「この戦争が終わったら、また長崎で逢いましょう。天主堂(爆心地のそばにあった浦上天主堂のこと)の前に流れる浦上川の畔で必ず」と再会の約束をする場面である。歌劇「蝶々夫人」とは立場がひっくりかえっており、女の方が長崎を去り、男が帰りを待つのである。本来のラストでミズヲは未来の話をした。今回の演出ではその未来の話として、タマキとオズのシーンをラストに回した。歴史そのままなら浦上で待ち続けたオズは長崎原爆により間違いなく命を落とす。ラストに流れる音楽は、マーラーの交響曲第5番よりアダージェット。様々な解釈が可能な曲だが、「愛と死」がない交ぜになったイメージが強い。棺桶にも使われたセットの中にミズヲは自ら身を沈めていき、タマキは背後のセットの一番高い部分、ひっくりかえったアーチのような場所(本来なら船の舳先なのだが、ひっくりかえった浦上天主堂のアーチに見える)にしばし佇む。本来はここで発せられるセリフが、先に挙げた「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」なのだが、更に前のシーンに置き換えられたため、事実上、カットされたことになり、オズの言葉にタマキは応えない。ここでそのセリフを言ってしまうと答えを出したことになるためカットするということになったのだろう。
後ろを向いたままのタマキは、前後をひっくりかえしたマリア像のようにも見える。少なくとも色は一致している。
答えが用意されない祈りのような風景によって、今回の「パンドラの鐘」は幕を下ろした。

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2021年5月 9日 (日)

演劇公演オンライン配信 ニットキャップシアター第40回公演「カレーと村民」オンライン配信版~じっくりと煮込んだ版~(文字のみ)

2021年5月7日視聴

有料配信で、ニットキャップシアターの第40回公演「カレーと村民」を観る。牧歌的なタイトルであるが、実は結構恐い話である。作・演出:ごまのはえ。出演:門脇俊輔、高原綾子、澤村喜一郎、仲谷萌、池川タカキヨ、日詰千栄(はひふのか)、福山俊朗(はひふのか/syubiro theater)、亀井妙子(兵庫県立ピッコロ劇団)、西村貴治、越賀はなこ、山下多恵子(京都演劇スタジオ)、山下あかり、益田萌(ニットキャップシアター公式サイトに載っているwebパンフレット掲載順)。2013年に文学部と大学院文学研究科に演劇研究系の専攻がある大阪大学と同大学の本部がある吹田市との共同プロジェクトとして初演された作品の上演である。京都・東九条のTheatre E9でのライブ収録。

1905年の(明治38)大阪・吹田村の旧庄屋(関東だと名主、北陸などでは肝煎に当たる)の浜家の表玄関に面した土間が舞台である。庄屋は農民階級でありながら、武士と農民の間を取り持つ一帯の名士として苗字帯刀もしくは苗字のみを許された豪農であり、明治時代に入ってからも裕福な家が多かった。第二次世界大戦後の農地改革で没落していく家も多かったのだが、それはまだ先の話である。

浜家の家長である長男の太郎(福山俊朗)は好人物ではあるが、「長男の甚六」という言葉が合ってしまいそうな頼りない性格である。だが、妻のお茂(仲谷萌)と共に家を支えている。この時代なので、家には人が多く、母親のまん(日詰千栄)、かつては乳母でもあった奉公人のオマサ(越賀はなこ)、新しく子守として入った山田(大阪大学の本部所在地)出身のネ(おネ。高原綾子)、そしてイギリス留学から3年ぶりに帰ってきたばかりの次男の次郎(門脇俊輔)がいる。物語は、次郎がモーツァルトの歌劇「魔笛」より“パパパの二重唱”を一人で歌っているところから始まる。当然ながら、他の人々はモーツァルトも「魔笛」もなんのことかよく分からない。次郎も「パパゲーノ」「パパゲーナ」となるところも全て「パ」で歌っているため、ドイツ語や「魔笛」の内容を十全に知っているわけではないようだが、自然児とも呼ばれるパパゲーノや運命の相手であるパパゲーナのような女性に憧れているらしいことは伝わってくる。

さて、留学から帰った次郎であるが、特に仕事に就くわけでもなく就く気があるわけでもない。実家が裕福ということでいわゆる「高等遊民」となっている。この時代、実は高等遊民と呼ばれる人は結構いたわけだが、次郎が夏目漱石の『それから』の主人公である代助を意識したキャラクターであることは明らかで、彼はイギリス留学時代にロンドンで、まだ漱石と名乗る以前の夏目金之助の世話になったことがあり、その夏目金之助が夏目漱石という名で『吾輩は猫である』という小説を書いていることを知って、連載されている「ホトトギス」を読む場面がある。なお、次郎にはアキ(山下あかり)という婚約者がおり、当時としては珍しく自由恋愛(セリフに「野合で結ばれ」という表現が出てくる)なのだが、イスタンブールで様々な国の美人を見た次郎は典型的な日本人顔であるアキのことを心からは愛せなくなっていた。

そのアキは勉強する意味が分からず、女学校を辞めていた。当時の大阪は、学問的には恵まれた場所ではない。ナンバースクールである第三高等学校、通称・三高は当初は大阪に設置されたのだが、政治の中心地が東京に移ったことで不安を感じた京都市民が「未来の京都のためには学問のある若者が必要」ということで誘致を行い、三高は京都に移転。三高の上に京都帝国大学(現在の京都大学)が置かれたのだが、大阪には結局新たなナンバースクールが生まれることもなく、帝国大学を建学しようという動きも起こっていたが、近くに京都帝国大学があるという理由でなかなか実現せず、大阪帝国大学(現在の大阪大学)が開学するのは昭和になってからである。私学も関西法律学校がこの年に関西大学と名を変えた(大学と名乗るが旧制の専門学校である。私立大学が生まれるのは1918年の大学令以降となる)が、現在でも関西の四大名門私大「関関同立」に入っている大阪の大学はこの関西大学1校だけということで、往時は更に東京との差は激しかった。次郎も大阪の学問基盤の弱さ故に海外へ留学したのだが、アキにも東京の女子学校(まだ大学はなかったが、後に大学へと昇格する名門女子学校はいくつか存在した)に進むよう勧める。だが、アキは乗り気ではない。

1905年といえば、日露戦争戦勝の年である。戦勝とはいえ、実際はロマノフ王朝がロシア第一革命により危機に瀕していたため、極東の情勢に構っている場合ではなくなったことが大きいのだが、当時は情報網が発達していなかったため、「完勝」だと信じている日本人も多かった。それ故、賠償金が得られなかったことで、吹田の人々も「政府は弱腰だ!」と激怒することになる。この時の怒りのうねりとしては、東京で起こった日比谷焼き討ち事件などが有名であるが、大都市だけではなく、当時はまだ田舎であった吹田でもその火種がくすぶり始めていた。なお、太郎が新聞を皆に朗読する場面があるが、これは当時よく行われていた習慣である。諸外国に比べると識字率は高かったとはいえ、「女は学校に行かなくてもいい」「農民の子は学校に行かないで家の手伝いをした方がいい」という時代だったため、文字が読めない人や読めても内容がよく分からない人はまだまだ多かった。ちなみに太郎と次郎の母親であるまんは当然といえば当然だが江戸時代の生まれである。

次郎は学があるため、世界情勢については知悉しており、「本当に勝ったわけではない」と知っていたが、人々が求めているのは「事実」ではなく「納得出来る話」であり、「納得出来るなら嘘でもいい」ことを見抜いていた。ということで明治38年を舞台としているが、今現在に繋がることが描かれている。当時選挙権があるのは比較的裕福な25歳以上の男子だけであり、選挙権のある太郎に人々が願い出る場面がある(太郎役の福山俊朗は、実は参議院議員の福山哲朗の実弟であり、意味のある役割を与えられている)。

浜家が営む輸送船で働くお留(山下多恵子)は息子を日露戦争で失い、吹田にあるビール会社からビールを牛が引くトロッコに乗せて船着き場まで運搬する会社の社長である宮川大助(西村貴治)と妻のおはな(亀井妙子)の次男のセイロクも日露戦争で行方不明になっていたが、ようやく無事が確認されて近く戻ってくる予定である。浜家の奉公人のオマサの孫も日露戦争で戦死しており、犠牲を払ったのに賠償金なし(報道では賠償金は日清戦争の半分程度とかなり安いが支払われるとしていた)ということで、怒りに燃え、「高額の賠償金を得られるまで戦いを続けるべきだ」「そんな交渉で済ませた日本が憎い」(日本国民という大きな単位で一括りにされる危険性を含む)といったような声が上がり、「大阪に行って講和反対運動に参加しよう」と息巻く。
次郎もその場を収めるために、「戦争続行」を求める人々に賛成したふりをして兄の太郎に支援金を出させる。知恵だけは回る次郎だが確固とした思想はなく、そんな自分に嫌気がさし、最終的には子守のネと共に蒸発することになる。ちなみにネというのは秀吉の奥さんと同じ名前で、秀吉と寧は「野合で結ばれた」と表現される代表的人物であるが、意識されているのかどうかは不明。「ネ」という名では変だというので、明治に入ってからは庶民階級の女性にも付けることが許された「子」を付けて「ネ子」にしようなどといわれる場面があるが、『吾輩は猫である』に繋がっているのは確実である。

カレーの話であるが、「征露丸」(現在の「正露丸」。元々は「露西亜を征する」という意味で「征露丸」と名付けられたが、日露戦争終結後に今の表記に変わる)の模造品(関西でいう「ばったもん」)である「暴露丸」を売りに来た富山の薬売り(池川タカキヨ)が太郎や次郎と話している時に、カレーの話が出る。次郎はイギリスに留学していたため、「元々はインド料理であったがイギリスで流行し、日本に入ってきた」という正しい説明をする。当時は日英同盟下の時代であり、イギリスの文物が多く流入していた。また日本海軍でカレーが重宝されているという話も出る。カレーが浜家にも入ってくるということは軍事色が強まるという暗示でもあり、ほのぼのとした場面なのにじわじわとした恐怖を生む。この辺は巧みである。

お留(おとめ)という、坂本龍馬の姉の乙女と同じ読みの女性が出てくるが、日露戦争の際に起こった第二次坂本龍馬ブームから作られた役名なのかは不明(「おとめ」という名前自体は「これで産むのは留め」という意味を込めたありふれたものである)。アキが呉や広島市のある安芸に掛かるのかどうかもよく分からないが、この辺は言葉遊びに留まるため、深く追わなくて良いだろう。

実戦の怖ろしさは、戦地帰りの潮(うしお。これも意味ありげな役名である。演じるのは澤村喜一郎)によって語られる。潮はトラウマを抱えており、心理的要因で耳が聞こえなくなっているのだが、突然、戦地の模様を一人で演じ出す場面がある。これは結果として戦場の惨状を人々に伝えることになるのだが、人々にどれだけ影響を与えたのかは不明となっている。

ラストは、アキが東京の名門女学校への進学を決め、「頑張って勉強して、皆が幸せになれる世の中を作ります」という意味のことを朗らかに述べるも、誰も本気にはしておらず、アキが天を仰ぐ場面で終わる。結局のところ、人々は自分さえよければよく、学ぶことにも、それによって生まれる未来に期待もしていないし価値も見いだしていないのだ。政治を人任せにしている日本の現状の怖ろしさが投影されており、一種の絶望を突きつけられることになる。

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2021年5月 4日 (火)

観劇感想精選(396) 加藤健一事務所 「ドレッサー」2021@京都府立府民ホールアルティ

2021年4月24日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都御苑の西にある京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「ドレッサー」を観る。作は、「戦場のピアニスト」、「想い出のカルテット」、「テイキング・サイド」などで知られるロナルド・ハーウッド(1934-2020)。テキスト日本語訳:松岡和子。演出は鵜山仁(うやま・ひとし)。出演は、加藤健一、加納幸和(花組芝居)、西山水木、佐伯太輔(さえき・たいすけ)、照屋実、岡﨑加奈、一柳みる(ひとつやなぎ・みる。昴)。声の出演:石田圭祐、外山誠二、高橋ひろし、鍛冶直人、郡山冬果、浅海彩子。

「ドレッサー」の実演には、2005年に、平幹二朗と西村雅彦(現・西村まさ彦)ほかの上演に接したことがある。
「ドレッサー」の世界初演は、1980年にロンドンで行われているが、日本初演はその翌年の1981年。座長役が三津田健で、ノーマン役が平幹二朗であった。平幹二朗は、2005年の「ドレッサー」では座長役を演じている。1988年には、加藤健一がノーマン役、三國連太郎が座長役を演じた「ドレッサー」が上演されている。加藤健一事務所による「ドレッサー」は、2018年が初演で今回が再演だが、どうもノーマン役を演じた俳優が後に座長役に回るというケースが多いようである。ということは、西村まさ彦が将来、座長役をやることがあるのかも知れない。楽しみである。

ロナルド・ハーウッドは、ロンドンの王立演劇学校で学んだ後に、ドナルド・ウォルフィットのドレッサー(衣装係兼付き人)を5年間務めていたという経験があり、それがこの作品には生かされている。

舞台は1942年1月のイギリス。ナチスドイツとの戦いが始まっており、イギリスはたびたび空襲に見舞われていた。劇中でも「リア王」の上演中に空襲警報が鳴り響くという場面がある。
上演、ひいては演劇が続けられるのかどうか分からない状態が劇中で続くが、それがまさに今の日本に重なる。実は、「ドレッサー」は明日(4月25日)、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの上演が予定されていたのだが、緊急事態宣言発出により中止が決まっている。また、アルティも明日から休館に入る。

「ドレッサー」のノーマン役は、とにかくセリフが多いのが特徴である。シェイクスピア専門劇団の座長は年老いており、セリフやスケジュールなどを忘れていることが多いが、ノーマンは全て記憶しており、逐一補うためセリフの量も膨大になる。ノーマンはドレッサーとして常に座長の傍らにいるため、シェイクスピア劇のセリフは全てそらんじているなど極めて有能である。

座長(加藤健一)は高齢ゆえ奇行なども多い。元々がエキセントリックな性格であったようだが、今宵も入院したため、本日の演目である「リア王」の上演が危ぶまれる。座長は病院を脱出し、なんとか上演にこぎ着ける。「リア王」というのが重要で、ノーマン(加納幸和)は、リア王にずっとついている道化(フール)の役を担っている。

明治大学在学中に、戯曲論の講義で武田清(比較的有名な先生である。授業がとにかく面白かった)に「シェイクスピア劇に出てくる道化」について教わったのだが、昔の王宮には、様々な障害者が王の周りに使えており、知的障害者などが実際に道化として王の話し相手になっていたりしたそうである。知的障害者とはいえ、王に仕えるレベルになると観察眼は鋭い場合が多く、常人では出来ない発想などをしたため重宝されたという。
そして、「リア王」の道化は、最愛の娘であるコーディリア役の少年俳優(シェイクスピアの時代には女性は舞台には上がれなかったため、女性役は主に少年が演じた)が一人二役で務めていたというのが定説になっている。実は道化とコーディリアが一緒にいる場面は存在せず、コーディリアの追放後に道化が登場してリア王と共にさまようが、最後は不自然な形で舞台を後にし、その後、コーディリアがずっと出るという場面が続く。この一人二役は、「ドレッサー」でも座長の口から語られる。

「ドレッサー」でコーディリアに相当する女性は実は二人いる。座長夫人(劇中の「リア王」でコーディリア役。演じるのは西山水木)と座付きの舞台監督であるマッジ(一柳みる)である。座長夫人とは再婚であり、仲は余り良くない。座長はマッジと過ごした時間の方が長い。劇中に、座長がマッジに伝説的名優であるエドマンド・キーンから貰ったという指輪をマッジに譲ろうとする場面がある。マッジは、「本当のコーディリアは私」と思ったはずだが、ここにロナルド・ハーウッドらしい捻りがある。そう、本当のコーディリアに相当するのはドレッサーのノーマンなのである。
直接的な場面はないが、ノーマンが同性愛者なのではないかと仄めかすようなセリフや設定がいくつかあり、花組芝居の加納幸和がノーマン役にキャスティングされたのもどうやらそのためのようである。

ラストを明かしてしまうと、ノーマンの前で座長は亡くなってしまうのだが(その直前に、劇中劇「リア王」の中で、リア王がコーディリアの死を悟るシーンがあり、ここでも転倒が見られる)、そこで夫人のような振る舞いをしたのはマッジである。マッジは一度は断ったキーンの指輪を手に入れて退場する。一見すると指輪を手に入れたから退場したようにも見えるのだが、その振る舞いはどちらかというと敗れた女のものである。自身が本当のコーディリアではないことを悟って敗走したのか。あるいは、二人の正体はコーディリアではなく、ゴネリルとリーガンだったのかも知れない。

自伝を書く計画をしていた座長だが、筆無精であるため、冒頭の献辞しか書くことが出来なかった。そこにノーマンの名前はない。ノーマンはそのことを悔しがり、勝手に自分の名前を書き込んだりするのだが、座長はノーマンが身近すぎたために名前を記すことを忘れたのではないかとも思える。それほどノーマンは座長と一体なのである(あるいは単に忘れたか、「自分の影は影で表に出すべきではない」という認識だったのかも知れないが。座長は演劇以外にはいい加減な人間である)。座長は自伝を残すことは出来なかったが、おそらくノーマンは座長の伝記を書くことは可能である。実際に書くかどうかは示されないが、名優と一体になったドレッサーの姿を描くというのは、実際にその役割を務めたことのあるハーウッドの誇りの現れのようでもある。俳優は死んでも、その思い出はドレッサーの中に残る。ドレッサーだったロナルド・ハーウッドは劇作家となり、座長の面影を芝居として描き、モデルがウォルフィットであるということも明かす(モデルとしただけで、ウォルフィットその人の姿を座長に反映させたわけではないとしている)。

設定を見ていくと、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作である「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」に似たところがある。三谷幸喜は欧米のコメディー作品をベースにした作品を書くこともあるが(元ネタを明かすことも多く、ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」に登場するムスタッシュのパロディーは、「王様のレストラン」と「巌流島」で用いている)、「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」もバックステージもので、座長の宇沢萬(佐藤B作)と舞台監督の進藤(西村雅彦)の関係は「ドレッサー」の座長とノーマンのそれによく似ている。今回の「ドレッサー」におけるオクセンビー(佐伯太輔)に相当する梓(野仲功が演じていた)という人物も登場する。面白いことに、座長にはドレッサー(付き人。小原雅人が演じていた)までいる。三谷幸喜は2013年には「ドレッサー」の演出も手掛けている。ただ、同じバックステージものということで設定が偶然似かよる可能性も高く、三谷幸喜が「ドレッサー」を元ネタに選んだのがどうかは不明である。加藤健一事務所の次回作がジョン・マーレイの「ショーマストゴーオン」であることを知ったため、共通点が目についたという可能性もある。
ちなみに、私が自分でチケットを買って初めて観た演劇作品が、1994年の4月に紀伊國屋ホールで上演された東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」であり、当日のチラシに東京サンシャインボーイズが30年の充電期間に入り、復活第一弾が小林隆主演の「リア玉(だま)」であることも予告されていた。「ドレッサー」のような「リア玉」をやってくれるのではないかと密かに期待してしまう。東京サンシャインボーイズの活動再開は3年後に迫っている。

 

アルティでの加藤健一事務所の公演は、アフタートークがあるのが好例であり、通常はロビー(喫茶店としても営業されている場所を使うこともある)で行われるが、今回は「より安全」ということでホール内で行われる。いつもは出演者のほぼ全員が参加するのだが、今回は加藤健一と加納幸和の二人に絞られる。

空襲の中でも演劇の上演を止めようとしない座長の姿に、加藤健一もやはり今の状況を重ねていたようで、本来は座長役にはもっと滑稽な要素もあるのだが、シリアスな部分をより面に出すよう、演出家の鵜山仁に頼んだそうである。
コロナ禍については、今日の来場者に感謝を述べ、「オンライン上演はやったことがないのですが、劇場でお客さんを入れてやらないと演劇は演劇でなくなっちゃう。劇がなくなって演だけになっちゃう」と劇場で観客を入れて上演することの重要さについて語っていた。また、ドイツ政府が新型コロナ感染が広まり始めてからいち早く、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」と宣言してくれたことが嬉しかったと語り、「良い芸術が生まれる国は違う」と絶賛する。

加納幸和は、「ドレッサー」のノーマン役を軽い気持ちで引き受けたが、台本を読んでセリフの量を知り、後悔したそうである。加藤健一は自身もノーマン役を演じた経験から、「セリフが多いだけでなく他のことをしながらセリフを語るのが大変」と明かし、今回も演出の鵜山仁が、「そこ紅茶運びなら話して」といったような演出を加えるたびに、加納が頭を抱える回数も増えたそうである。

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2021年4月28日 (水)

観劇感想精選(395) 青年団国際演劇交流プロジェクト2009日仏交流企画「鳥の飛ぶ高さ」

2009年6月12日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

午後7時から京都芸術センターフリースペースで青年団国際演劇交流プロジェクト2009日仏交流企画「鳥の飛ぶ高さ」を観る。ミシェル・ヴィナヴェール作、アルノー・ムニエ演出、翻案&演出協力:平田オリザ。出演は、山内健司、ひらたよーこ、松田弘子、志賀廣太郎、永井秀樹ほか。

猿渡商会という便器専門会社を舞台に、フランスの家具会社に押されつつある日本の会社の奮闘を描く。

企業もの、それも買収や合併話が絡む話というとドロドロとした劇になりがちだが、この劇は比較的さっぱりとした味わいである。

会社内、営業担当とその娘と娘がつきあうルアンダ人、会社社長の息子とフランス人の恋人など、いくつかのストーリーが交錯するが複雑な劇ではなく、歌など交えた楽しさもある。

役者では、独特の雰囲気を醸し出すひらたよーこ(平田オリザの当時の奥さん。2012年に離婚)が特に印象的であった。

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2021年4月27日 (火)

観劇感想精選(394) 井上芳雄主演「十二番目の天使」

2019年4月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「十二番目の天使」を観る。原作:オグ・マンディーノ、翻訳:坂本貢一、台本:笹部博司、演出:鵜山仁。出演:井上芳雄、栗山千明、六角精児、木野花、辻萬長ほか。東宝と新潟市のりゅーとぴあの製作。

ビジネスマンとして活動しつつベストセラー作家にもなったオグ・マンディーノの同名小説の舞台化である。

ジョン・ハーディング(井上芳雄)は、三十代にして大手コンピューター会社の社長にまで上り詰めたエリート。子供の頃から地元の英雄視されており、大学で怪我をするまではメジャーリーグのスカウトからも注目されるほどの野球選手だった。

前途洋々に思えたジョンの人生だが、妻のサリー(栗山千明)と息子のリックを事故で喪ったことで希望を失い、社長の座を辞することを決める。辞任は認められず、4ヶ月の休職が決まったが、心は晴れず、拳銃自殺をしようとまで思い悩むが、幼馴染みのビル(六角精児。「俺たちは同級生だ。誰も信じてくれないけど」というセリフあり)から「リトルリーグの監督にならないか」と誘われる。

リトルリーグは1チーム12人の編成で行われる。ジョンが監督になったエンジェルスは4つのチームからなるリーグに所属しており、選手獲得はウェーバー制によって行われる。

4チームの監督がくじを引き、1を引いた監督が最初の選手を指名することが出来るが、2巡目は逆に1を引いた監督が4番目に指名することになり、1を引いたジョンは投打に長けたトッドを獲得するが、12巡目の最後まで残ったティモシーも引き取ることになる。リトルリーグのルールではベンチ入り12人全員が1試合に1度は出場しなければならず、1度は必ず打席に入り、6つのアウト分は守備につかねばならない。つまり上手い子だけ出すのは駄目で全員を戦力として育てる必要がある。
ティモシーは亡くなった息子のリックにそっくりだが、1年前までサッカー大国のドイツで暮らしていたということもあって走攻守全てで劣る存在。ただ前向きでひたむきで、「諦めるな諦めるな、絶対、絶対、絶対諦めるな」(ウィンストン・チャーチルのモットーとしても有名である)「日々なにもかもが良くなっている」を信条に懸命に練習に取り組んでいた。

 

オグ・マンディーノは自己啓発系の小説を書く人であり、いかにもそれらしい展開とセリフが鏤められている。小説の舞台化ということで内容を観客に知らせるためのナレーションが多く、余り演劇らしくないが、その手法を取らないと上演時間が恐ろしく長くなってしまうため、こうした端折り方も納得のいくものではある。

ストーリー自体はこれまで映画やドラマなどで何回も観たことのある類いのものであり、特にひねりもないため既視感を覚えるが、野球を主題にした作品ということで野球好きにとっては悪くない芝居である。

井上芳雄主演の舞台ということで、ラストに井上が歌う場面が用意されている。ほかのキャストも合唱で参加し、なかなか楽しい。

 

終演後、井上芳雄、栗山千明、六角精児によるアフタートークがある。「先ほどまで、皆さんお気づきだと思いますが、一番セリフの量が多かった私、井上芳雄が司会を務めるという光栄に浴しまして、愚痴を言ってるわけじゃないですよ」ということで井上芳雄を中心に話を進める。

六角精児は姫路生まれということで、客席に向かって「ただいま!」とやる。生後6年ほどは兵庫県内に住んでいたそうだ。井上芳雄が香川県生まれの福岡県育ちであり、今回は香川公演と福岡公演があったため、両方で「ただいま!」と言ったそうで、その影響を受けてのことらしい。井上芳雄は、「香川生まれということはむしろ隠して、福岡県出身としておいた方がメジャーなので」と冗談を言う。今回は、栗山千明の出身地である茨城県でも公演があったのだが、香川公演よりも先で、「私ごときがやっていいのか」と思っていたため、「ただいま」発言はしなかったそうである。
ちなみに香川県から福岡県に移動する際、大半の人は岡山まで出て新幹線で博多に向かったのだが、六角は地方列車に乗るのが好きということで、JR予讃線で松山に向かい、道後温泉で一泊。その後、八幡浜に向かい、船で臼杵に渡って大分経由の在来線で福岡入りしたそうである。

名古屋では井上がラストで歌うときのためのこめかみにつけるマイクが汗によって駄目になるというハプニングがあり、代わりとして普通のハンドマイクを渡されたそうだが、溶明時にいきなりマイクを持っているのは変だとの判断から腹の前まで下げてボールで隠しながら歌ったそうである。それでも案外ばれなかったそうだ。

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