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2020年10月23日 (金)

コンサートの記(663) 能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」ソーシャルディスタンス対応公演@よこすか芸術劇場

2020年10月18日 横須賀・汐入の横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場にて

午後2時から、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場で、能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」を観る。世阿弥の息子である観世元雅の作による狂女ものの有名作「隅田川」と、20世紀のイギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンが「隅田川」を東京で鑑賞した時にインスパイアを受けて書かれた作品「カーリュー・リヴァー」(台本:ウィリアム・プルーマー)の連続上演である。「カーリュー・リヴァー」は最初はオペラと定義されず、「教会上演用の寓話劇」と題してサフォーク州オーフォードの聖バーソロミュー教会という小さな教会で初演されたが、現在ではオペラとして歌劇場で上演されるようになっている。2014年に大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで、山下一史の指揮、井原広樹の演出で観ているが、それ以来、久しぶりの再会となる。

能「隅田川」は、映像や歌舞伎版(南座にて坂田藤十郎の狂女)では観ているのだが、劇場で観るのは初めてとなる。

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よこすか芸術劇場の感染症対策であるが、まず横須賀芸術劇場が入っているベイスクエアよこすかの3階入り口からは1階席前方の席を取った客が入場し、それ以外の客はベイスクエアよこすか4階から入ることで分散を図る。チケットの半券は自分でもぎって箱に入れ、パンフレットも自分で取る。サーモカメラによる検温も行う。
そもそも「幻(GEN)」はチケット発売時に通常の形で売り出したが、それをいったん全て払い戻しとし、客席前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応公演として再度チケットを発売して行われている。
終演後は、混雑を避けるために時差退場が行われた。

 

能「隅田川」の出演は、観世喜正(シテ・狂女)、観世和歌(子方・梅和若丸)、森常好(ワキ・渡し守)、舘田善博(ワキツレ・旅人)。笛:竹市学、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠。演出は観世喜正が行う。観世喜正は2005年からよこすか芸術劇場で「よこすか能」をプロデュースしているそうである。「よこすか能」は蝋燭を使った演出が特徴だそうで、今回も巨大蝋燭数本に小型の蝋燭数百本が灯される中での上演である。日本語字幕付き。

武蔵国と下総国の国境を流れる隅田川。現在とは水路も異なるが、川幅も今の2倍ほどはあった巨大な川である。後に荒川放水路が出来て川幅は狭くなっている。
国境ということで(江戸時代中期以降には二つの国に跨がることが由来である「両国」の東岸が栄えるようになり、後に隅田川以東の葛飾は武蔵国に編入されることになる)、あの世とこの世の境、つまり三途の川にも見立てられている。
とにかく川幅が広いため、渡るのも容易ではない。また坂東の川はよく荒れる。ということで渡し守も何度も川を渡ることはままならず、客を溜めてから渡すことにする。旅人が現れ、渡し守と子細を話す。丁度1年、商人に連れられて来た少年が隅田川を渡ったところで病死した。商人は少年を見捨てて行ってしまったという。今日はそれから1年目ということで供養のための大念仏が唱えられているという。
そこへ、狂女がやって来る。京・北白川に住まいしていた女であり、我が子がさらわれたため、追って東国までやって来たのだ。
隅田川で詠まれた歌として知られる、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」が効果的に用いられ、狂女がただの狂女ではなく、元は教養溢れる人物であったことが偲ばれ、一層の哀感を誘う。

船の上で渡し守が1年前に亡くなった少年のことを語り、狂女がそれが自分の息子だと徐々に気付く。狂女役の観世喜正は、少しずつ少しずつ体を時計回りに回転させ、そのことを表現する。

少年を埋葬した塚の前で念仏が唱えられ、狂女もそれに加わるのだが、突然、念仏に子どもの声が混じり、少年の幽霊が現れる。

少年の幽霊を登場させることに、観世元雅の父親である世阿弥が大反対したという話が残っているが、子方を出すと生々しくなるというのがその理由の一つだと思われる。幽玄さも後退するだろう。だが、この能の本質が「哀感」であるとしたのなら、子方を出した方が狂女の悲しみへの共感はより強まるだろう。目の前に見えているのに触れることも叶わずに訪れる別れ。それこそが「隅田川」を傑作へと昇華しているのだと思われる。
狂女を演じる観世喜正の動きは抑制されたものであったが、それゆえにその心情が惻々と伝わってきた。語らざる雄弁であり、動かざるダイナミズムである。

 

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ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」。日本語字幕付きの上演であるが、タイトルには「キリスト教会上演用の寓話劇」と記されており、舞台に教会のステンドグラスが映されるなど、キリスト教的要素の濃い上演となる。「隅田川」に念仏を唱えるシーンがあるため、よりクッキリと対比を付けたいという意図もあるのかも知れない。

演出は彌勒忠史。小編成のオーケストラのための作品で、指揮者を置かないというのがブリテンの指示である。ただ、今回、オルガンと音楽監督を務めるのが鈴木優人というのが最大の売りであり、鈴木優人だけが客席に背中を向けての演奏し、またそのキャリアから事実上の指揮者であることは明白である。演奏は鈴木の他に、上野星矢(うえの・せいや。フルート)、根本めぐみ(ホルン)、中村翔太郎(ヴィオラ)、吉田秀(よしだ・しゅう。コントラバス)、高野麗音(たかの・れいね。ハープ)、野本洋介(パーカッション)。邦楽器を模した音型が登場するのが特徴である。
出演は、鈴木准(狂女)、与那城敬(渡し守)、坂下忠弘(旅人)、町田櫂(霊の声。ボーイソプラノ。横須賀芸術劇場少年少女合唱団員)、加藤宏隆(修道院長)。巡礼者役(合唱)として、金沢青児、小沼俊太郎、吉田宏、寺田穰二、寺西一真、山本将生、奥秋大樹、西久保孝弘が出演する。

 

「カーリュー・リヴァー」も大型蝋燭2本に火を灯しての上演となる。
まず、「隅田川」でも鳴り物を務めた、竹市学、飯田清一、亀井広忠の3人が登場し、邦楽の演奏を行う。その後、修道僧が登場し、オペラ「カーリュー・リヴァー」が始まるのだが、いかにもキリスト教的な賛美歌風合唱から始まるため、かなりの落差が感じられる。

ブリテンとプルーマーは、亡くなった子を「聖人」としており、そのことからして「隅田川」とはかなり趣が異なる。
出演者達は、口元を布で隠し、頭巾を被っている。大谷刑部こと大谷吉継のようだが、これはコロナ対策であると同時に、宗教的な雰囲気を出す役割も担っていると思われる。

カウンターテナーでもある彌勒忠史は、観世喜正と2018年まで数年に渡って、市川海老蔵の「源氏物語」で共演してきたそうで、能の要素を取り入れた演出となっている。元々はもっと能の型を全面に取り入れるはずだったのだが、コロナの影響で少しシンプルになったようだ。だが、狂女が、さらわれてきた子が我が子だと気付く場面で、「隅田川」の観世喜正と完全に同じゆっくりとした振り返りを取り入れており、能との連続上演ということで、違う作品に同じ動きを取り入れることで却って明らかになる差違を示していく。

「隅田川」では現れるだけだった少年が、「カーリュー・リヴァー」ではキリスト教的な救済を述べる。ブリテンもプルーマーも「隅田川」的哀感ではやはり救いがないと思ったのだろうか。「隅田川」も、日本的「哀れ」を描いた作品であり、他国の人に完全に伝わるかどうかは疑問である。また宗教観の違いもあり、有名な「悲しむ者は幸いである」をメッセージとして入れるべきだと感じたのかも知れない。なによりこれは救済のための「寓話」として再現された「隅田川」である。

鈴木優人を音楽監督とする演奏者達は、邦楽からの置き換えを上手く表現しつつ、高雅な響きを紡ぎ上げる。独唱者も合唱も充実しており、ブリテンの叡智と才気を十全に表現していた。

両作品とも、突如として響き渡る子どもの声が効果的に用いられている(「カーリュー・リヴァー」では舞台奥の紗幕の後ろに少年の姿が浮かび上がる)。それは突然の啓示のようでもあり、闇の中に不意に差し込んできた光のようでもある。金曜日に小林研一郎指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で聴いた、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲のオルガンにもそうした要素があるが、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により、未来が全く見えない今現在、求められている救いにも似たものである。
もののわかった振りをした山師的な人々が現れては消えているが、そうした打算的なものとは違った本当の恩寵が、フィクションの世界の中とはいえもたらされていることが、あるいは救いなのかも知れない。

フィクションとは絵空事ではなく、人類の歴史が凝縮されたものである。これまで人類に降りかかってきた数々の悲劇が、そこには詰め込まれているが、にも関わらず人類は今も存在して歩みを続けている。それは希望に他ならない。

 

 

上演終了後、どぶ板通りを歩いてみる。コロナの影響からか、あるいは日曜の夜だからかはわからないが閉まっている店も多い。
一昔前に比べるとアメリカ系の店舗は減ったといわれているが、それでも迷彩服姿の米兵が何人も歩いているなど、日本離れした光景が広がっている。
舗道には横須賀ゆかりの有名人の手形が押してあり、指揮者の飯森範親(鎌倉生まれの葉山育ちだが、横須賀市内にある神奈川県立追浜高校出身)と横須賀市出身のヴァイオリニストである徳永二男(元NHK交響楽団コンサートマスター)の手形が並んでいた。

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2020年10月20日 (火)

観劇感想精選(360) SPAC 鈴木忠志演出「酒神ディオニソス」

2006年4月1日 尼崎市のピッコロシアターにて観劇

尼崎のピッコロシアターでSPAC(Shizuoka Performing Arts Center)の公演、ギリシャ悲劇「酒神ディオニソス」を観る。作:エウリピデス、演出は鈴木忠志。

テーバイの王室がディオニソス神の怒りに触れ、悲劇が起こるという物語である。

演出は、「型」や「格調」を重視したものでいかにも鈴木忠志らしい。しかし外面を重視する余り、人間味が後退しているのはいただけない。そもそも鈴木忠志の演劇にそんなものを求めるのが間違いだと言われればそれまでなのだけれど。

初演の際、テーバイの王・ペンテウスを演じたのが故・観世寿夫(能楽師。観世榮夫の実兄)ということもあって、いかにも能のような味わい。しかし意図がわかりすぎて、奥行きを感じない。それに初演の時の演出をほぼそのまま今やっていいのかという疑問も起こる。
やはり不用意に芸術したところがあるので、明らかに笑いが起こる箇所で、クスリとも笑いが起きなかったり(観客も芸術だと思ってみていたのだろう。私は少し笑った)、人間の愚かしさが伝わりにくかったりもする(かなりお馬鹿な人も出てくるのだが)。
だが、こうしたことが海外に行くと、「オリエンタリズム」、「ジャポニズム」と言われて評価されるのだと思われる(今日は鈴木忠志のアフタートークがあり、鈴木が意図的にそういう評価を狙っているのだということもわかった)。

アフタートーク。鈴木の喋ること喋ること。かなり話し好きの人らしい。話の内容は分かり易い。分かり易すぎるくらいだ。演出の仕方なども話していたが、かなりオーソドックスである。特別なことは何もしていない。悪く言えばありきたりですらある。鈴木忠志というと理論好きというイメージがあるが、あれはあくまで知的武装で、実際は、おしゃべりと自慢と演劇が好きな普通のおっさんであるようだ。いついかなる時も演劇のことは考えているそうで、パチンコが大好きだそうだが、どれだけ夢中になっても演劇のことは考えているそうである。

30分以上一人で喋り続けてから、観客の質問に答えるというスタイルになる。しょうもない質問をする人もいたが(だから鈴木さんはさっき説明していただろ)、鈴木忠志は1つの質問に対して、10分近くも答え続ける。本当に話し好きなようだ。

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2020年10月18日 (日)

これまでに観た映画より(218) 月イチ歌舞伎(シネマ歌舞伎)「三谷かぶき 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち」

2020年10月13日 MOVIX京都にて

新京極のMOVIX京都で、月イチ歌舞伎(シネマ歌舞伎)「三谷かぶき 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち」を観る。京都市出身の漫画家、みなもと太郎の「風雲児たち・寛政編」より大黒屋光太夫の話を三谷幸喜の作・演出で歌舞伎化した作品である。出演:松本幸四郎、市川染五郎、片岡愛之助、市川猿之助、市川男女蔵、坂東彌十郎、坂東新吾、中村鶴松、大谷廣太郎、市川高麗蔵、八嶋智人、松本白鸚ほか。昨年6月に東京の歌舞伎座で収録されたものである。
歌舞伎の上演の際には尾上松也が語り手を務めたようだが、今回のシネマ歌舞伎では尾上松也は登場せず、ナレーターを務めている。原作者であるみなもと太郎の絵が登場し、松也はそれに説明を付けていく。

ロシアに漂流し、女帝エカテリーナⅡ世に謁見するなど激動の人生を歩んだ大黒屋光太夫(今回の歌舞伎では松本幸四郎が演じる)。井上靖の『おろしや国酔夢譚』などでも知られているが、今回の上演では光太夫の周辺の人々にも光を当て、歌舞伎界と彼らの関連も絡めたストーリー展開がなされている。


まずみなもと太郎の筆によるオリジナルアニメと尾上松也のナレーションで「船の成り立ち」が語られ、竿から櫓、そして帆船への進化が説明される。この進化に待ったを掛けたのが徳川家康である。家康の時代には瀬戸内海などの水軍が活躍し、織田信長が鉄製の船(鉄甲船)を造設するなど、造船・海洋技術の進歩は著しかったが、家康はそれを怖れ、マスト1本だけの船の造設しか許さなくなる。しかし帆が一つしかない船は不安定であり、座礁や沈没、漂流することが増えた。伊勢・鈴鹿出身の大黒屋光太夫が船頭(ふながしら)を務める帆船・神昌丸も駿河沖で嵐に遭い、遠くアリューシャン列島アムチトカ島まで流される。

舞台は、漂流する神昌丸の船上で、占いをする場面から始まる。船親司(ふなおやじ)の三五郎(松本白鸚)が占いを行うのだが、ここから陸地までは何度占っても600里以上はある。その時には17人いた船員だが、その後次々と脱落していく。

アムチトカ島に漂着して2年。今は亡き三五郎の息子である磯吉(市川染五郎)は、ロシア語を徐々にものにしている。実は磯吉は船乗りとしての素質はからっきしであり、父親のお蔭で特に何も言われてこなかったが、父亡き今では重荷扱いされていたことを知る。だが、語学の才能を見込まれ、その後、大活躍するようになっていく。
アムチトカ島にロシアの船が近づいてくる。だが、嵐の中、突如右往左往するようになる。立派な船であるが、どうも乗組員が「嵐」というものの存在を知らないようで、帆をたたむことがない。結局、ロシアの船は沈没してしまうのだが、光太夫一行は沈没したロシア船を材料に船をこしらえ、旅へと出る。カムチャッカ半島に到着した一行は帰国の手段を求めて更にオホーツク、ヤナーツク、イルクーツクに到る。イルクーツクでは庄蔵(市川猿之助)が凍傷を患い、左足を切断することになる。イルクーツクでスウェーデン系フィンランド人のキリル・ラックスマン(八嶋智人)と出会った光太夫は、ラックスマンが親しくしているロシアの女帝、エカテリーナⅡ世(市川猿之助二役)に謁見することが決まる。光太夫はエカテリーナⅡ世、更に時の権力者ポチョムキン(松本白鸚二役)の前で帰国を願い出るのだが、ポチョムキンからは「生活は保障するのでロシアに留まるよう」命令される。ロシアに関する様々な知識や情報を仕入れていた光太夫をポチョムキンは危険視していたのだった。


歌舞伎の様式を巧みに取り入れてはいるが、劇の展開や演技様式などは現代歌舞伎からも外れたものになっており、三谷幸喜が表現したいことを行い、たまたまそれが歌舞伎であったという印象も受ける。ただ、「これが歌舞伎」という制約は現代にあってはむしろ邪魔になるため、表現第一は正解ということになるのかも知れない。そもそも三谷幸喜にコテコテの歌舞伎を望んでいる人が多いとも思えない。

次々と仲間達が脱落していく中で、「生と死を分けるものは何か」についての考察が述べられるシーンがある。今生きている者は「死ぬことを考えていない者」であり、そうでない者は日本へ帰るという希望を失っていた者だと。
これには大河ドラマ「真田丸」のラストとの繋がりを見出すことも出来る。それだけに「真田丸」で茶々(淀殿)を演じていた竹内結子の死が余計に悲しくなるのだが。三谷さんのメッセージも彼女には届かなかったということなのだろうか。

イルクーツクで光太夫は様々な人と出会い、自分の体験を面白おかしく話して聞かせるようになる。この頃には光太夫もロシア語を話せるようになっており、ちょっとした人気者になっていたのだが、新蔵(片岡愛之助)や庄蔵は、「見世物になるのがそんなに楽しいか」と光太夫の行動に不信感を抱いている。だが光太夫は、「これまで会った人の誰が日本への帰国に繋がるかわからない」「これまでお世話になったロシアの人々に報いたい」「そのためなら喜んで見世物になるさ」との考えを述べる。これは歌舞伎役者の意気込みを連想させるもので、三谷幸喜も意図的にこうしたセリフを挟んでいるのだと思われる。

光太夫がポチョムキンに対して語る愛国心も、伝統芸能の担い手として語っていると考えると感慨深い。そしてアメリカのコメディーに憧れ、作品にアメリカを始めとする洋画の要素を取り入れ、新作でもシットコムを手掛けている三谷幸喜が、決してアメリカ人になりたいわけでもアメリカで活躍したいわけでもなく、こうして日本で最良のものを作ることに誇りを持っていることが窺えるシーンでもある。

あらゆる表現に長けた歌舞伎俳優を使って、10年にも渡る悲喜こもごもの壮大な叙事詩が描かれるわけだが、ラストでも三谷は人間への信頼を語っている。あるいは神よりも偉大かも知れない人類とその想像力に対するさりげない賛美がいかにも三谷幸喜らしくもある。

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2020年10月17日 (土)

観劇感想精選(359) 「ゲルニカ」

2020年10月10日 京都劇場にて観劇

午後6時から、京都劇場で「ゲルニカ」を観る。作:長田育恵(おさだ・いくえ。てがみ座)、演出:栗山民也。栗山民也がパブロ・ピカソの代表作である「ゲルニカ」を直接観た衝撃から、長田に台本執筆を依頼して完成させた作品である。出演:上白石萌歌、中山優馬、勝地涼、早霧せいな(さぎり・せいな)、玉置玲央(たまおき・れお)、松島庄汰、林田一高、後藤剛範(ごとう・たけのり)、谷川昭一郎(たにがわ・しょういちろう)、石村みか、谷田歩、キムラ緑子。音楽:国広和毅。

上白石姉妹の妹さんである上白石萌歌、関西ジャニーズ所属で関西テレビのエンタメ紹介番組「ピーチケパーチケ」レギュラーの中山優馬、本業以外でも話題の勝地涼、京都で学生時代を過ごし、キャリアをスタートさせた実力派女優のキムラ緑子など、魅力的なキャスティングである。

ピカソが代表作となる「ゲルニカ」を描くきっかけとなったバスク地方の都市・ゲルニカでの無差別爆撃に到るまでを描いた歴史劇である。当然ながらスペインが舞台になっているが、コロナ禍で明らかとなった日本の実情も盛り込まれており、単なる異国を描いた作品に終わらせてはいない。

京都劇場のコロナ対策は、ザ・シンフォニーホールでも見た柱形の装置による検温と京都府独自の追跡サービスへのQRコード読み取りによる登録、手指の消毒などである。フェイスシールドを付けたスタッフも多い。前日にメールが届き、半券の裏側に氏名と電話番号を予め書いておくことが求められたが、メールが届かなかったり、チェックをしなかった人のために記入用の机とシルペン(使い捨て用鉛筆)が用意されていた。客席は左右1席空け。京都劇場の2階席は視界を確保するために前の席の斜交いにしているため、前後が1席分完全に空いているわけではないが、距離的には十分だと思われる。

紗幕が上がると、出演者全員が舞台後方のスクリーンの前に横一列に並んでいる。やがてスペイン的な手拍子が始まり、今日が月曜日であり、晴れであること、月曜日にはゲルニカの街には市が立つことがなどが歌われる。詩的な語りや文章の存在もこの劇の特徴となっている。

1936年、スペイン・バスク地方の小都市、ゲルニカ。フランスとスペインに跨がる形で広がっているバスク地方は極めて謎の多い地域として知られている。スペインとフランスの国境を挟んでいるが、バスク人はスペイン人にもフランス人にも似ていない。バスク語を話し、独自の文化を持つ。

バスク地方の領主の娘であるサラ(上白石萌歌)は、テオ(松島庄汰)と結婚することになっていた。サラの父親はすでになく、男の子の残さなかったため、正統的な後継者がこれでようやく決まると思われていた。しかし、フランコ将軍が反乱の狼煙を上げたことで、スペイン全土が揺るぎ、婚礼は中止となる。教会はフランコ率いる反乱軍を支持し、テオも反乱軍の兵士として戦地に赴く。当時のスペイン共和国(第二共和国。スペインは現在は王政が復活している)では、スペイン共産党、スペイン社会労働党等の左派からなる親ソ連の人民戦線が政権を握っており、共産化に反対する人々は反乱軍を支持していた。フランコはその後、世界史上悪名高い軍事独裁政権を築くのであるが、この時には人々はまだそんな未来は知るべくもない。
反共の反乱軍をナチス・ドイツ、ファシスト党政権下のイタリア、軍事政権下のポルトガルが支持。日露戦争に勝利した日本も反乱軍に武器などを送っている。一方、左派の知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルロー、イギリスのジョージ・オーウェルらが共和国側支持の一兵卒として参加していたこともよく知られている。
バスクは思想によって分断され、ゲルニカのあるビスカヤ県は多くが人民戦線を支持する共和国側に立ち、1936年10月、共和国側は、バスクの自治を認める。だが翌1937年4月26日、晴れの月曜日、反乱軍はゲルニカに対して無差別爆撃を行った。市民を巻き込んだ無差別爆撃は、これが史上初となった。当時、パリにいたピカソは怒りに震え、大作「ゲルニカ」の制作を開始する。

 

サラの母親であるマリア(キムラ緑子)は、サラがテオと結婚することで自身の家が往年の輝きを取り戻せると考えていた。バスクは男女同権の気風が強いようだが、家主が女では見くびられたようである。しかし、内戦勃発により婚礼を済まさぬままテオは戦場へと向かい、マリアの期待は裏切られる。その後、サラはマリアから自身が実はマリアの子ではないということを知らされる。今は亡き父親が、ジプシーとの間に生んだ子がサラだったのだ。サラはマリアの下から離れ、かつて料理番として父親に仕えていたイシドロ(谷川昭一郎)の食堂に泊まり込みで働くことを決める。


一方、大学で数学を専攻するイグナシオ(中山優馬)は、大学を辞め、共和国側に参加する意志を固めていた。イグナシオはユダヤ人の血を引いており、そのことで悩んでいた。田園地帯を歩いていたイグナシオはテオとばったり出会い、決闘を行う格好になる。結果としてテオを射殺することになったイグナシオは、テオの遺品である日記に書かれたサラという名の女性を探すことになる。

イシドロの食堂では、ハビエル(玉置玲央)やアントニオ(後藤剛範)らバスク民族党の若者がバスクの誇るについて語るのだが、樫の木の聖地であるゲルニカにバスク人以外が来るべきではないという考えを持っていたり、難民を襲撃するなど排他的な態度を露わにしていた。

一方、従軍記者であるクリフ(イギリス出身。演じるのは勝地涼)とレイチェル(パリから来たと自己紹介している。フランス人なのかどうかは定かでない。演じるのは早霧せいな)はスペイン内戦の取材を各地で行っている。最初は別々に活動していたのだが、フランスのビリアトゥの街で出会い、その後は行動を共にするようになる。レイチェルはこの年に行われた「ヒトラーのオリンピック」ことベルリン・オリンピックを取材しており、嫌悪感を抱いたことを口にする。
レイチェルが事実に即した報道を信条としているのに対し、クリフはいかに人々の耳目を引く記事を書けるかに懸けており、レイチェルの文章を「つまらない」などと評する。二人の書いた記事は、舞台後方のスクリーンに映し出される。

イグナシオからテオの遺品を受け取ったサラは、互いに正統なスペイン人の血を引いていないということを知り、恋に落ちる。だがそれもつかの間、イグナシオには裏の顔があり、入隊した彼はある密命を帯びてマリアの下を訪ねる。それはゲルニカの街の命運を左右する任務であった。マリアは判断を下す。

 

ゲルニカの悲劇に到るまでを描いた歴史劇であるが、世界中が分断という「形の見えない内戦」状態にあることを示唆する内容となっており、見応えのある仕上がりとなっている。

新型コロナウイルスという人類共通の敵の出現により、あるいは歩み寄れる可能性もあった人類であるが、結局は責任のなすりつけ合いや、根拠のない差別や思い込み、エゴイズムとヒロイズムの暗躍、反知性主義の蔓延などにより、今置かれている人類の立場の危うさがより顕著になっただけであった。劇中でクリフが「希望」の残酷さを語るが、それは今まさに多くの人々が感じていることでもある。

クリフはマスコミの代表者でもあるのだが、センセーショナルと承認を求める現代のSNS社会の危うさを体現している存在でもある。
報道や情報もだが、信条や矜持など全てが行き過ぎてしまった社会の先にある危うさが「ゲルニカ」では描かれている。

ゲルニカ爆撃のシーンは、上から紗幕が降りてきて、それに俳優達が絡みつき、押しつぶされる格好となり、ピカソのゲルニカの映像が投影されることで描かれる。映像が終わったところで紗幕が落ち、空白が訪れる。その空白の残酷さを我々は真剣に見つめるべきであるように思われる。

劇はクリフが書き記したゲルニカの惨状によって閉じられる。伝えることの誇りが仄見える場面でもある。

 

姉の上白石萌音と共に、今後が最も期待される女優の一人である上白石萌歌。薩摩美人的な姉とは違い、西洋人のような顔と雰囲気を持つが、姉同様、筋の良さを感じさせる演技力の持ち主である。

 

関西では高い知名度を誇る中山優馬も、イグナシオの知的で誠実な一面や揺れる心情を上手く演じていた。

 

万能女優であるキムラ緑子にこの役はちょっと物足りない気もするが、京都で学生時代を過ごした彼女が、京都の劇場でこの芝居を演じる意味は大いにある。ある意味バスク的ともいえる京都の街でこの劇が、京都に縁のある俳優によって演じられる意味は決して軽くないであろう。

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2020年10月12日 (月)

観劇感想精選(358) 近松劇場パート20ファイナル わかぎゑふ作・マキノノゾミ演出「夢のひと」

2006年3月20日 吹田メイシアター中ホールにて観劇

阪急吹田駅前にある吹田メイシアター中ホールで、近松劇場パート20ファイナル「夢のひと」を観る。近松劇場とは、吹田メイシアターが、近松門左衛門の戯曲を関西の有名劇作家が現代風にアレンジした作品の上演を毎年続けてきたもので、今年で20年目を迎えた。そして今回がラストとなる。

ファイナルを飾る「夢のひと」は近松の特定の作品をアレンジしたものではなく、わかぎゑふによるほぼオリジナルの作品。
舞台は女郎屋であり、当初わかぎは、「心中ものを書こう!」と思っていたが、けっきょくは「死ぬ人の物語ではなく、生きぬく人の話に」なった(パンフレットに書かれた、わかぎゑふの文章より)。

ファイナルということで、今回は、かつての関西小演劇会を代表する俳優であり、現在は東京を本拠地に、テレビ、映画、舞台などで活躍する升毅を主演俳優に、東京の北区つかこうへい劇団から木下智恵をヒロインに迎え、吹田メイシアター中ホールでの上演となった(これまでは小ホールでの上演であった)。演出は、劇団M.O.P.のマキノノゾミ。

昭和初期。大阪にある女郎屋の「梅川」に、久我山陽一郎(升毅)という三越の社員がなぜか住み着いていた。ある日、「梅川」に上田千代(木下智恵)という広島出身の若い女が売られてくる。夜中、陽一郎が「梅川」に帰ってくると、彼を泥棒と勘違いした千代が火鉢を手に出ていくよう迫る。その勘違いが、陽一郎と千代との出会いであった……。

物語はわかりやすく、きちんとしている。余計と思われるストーリーもあるが、それも一興。くさいセリフと演技によるシーンがあるのも一興。くさいセリフも良い俳優が言うと格好良く聞こえるのだから不思議だ。

ただ、何かが足りなくて、何かが多すぎるような気もする。バランスが微妙に悪いのだ。2時間10分ほどの公演だったが、陽一郎と千代がメインの恋愛話になるまでに1時間半近くを要したのが、あるいはバランスの悪さを感じさせた一因なのかも知れない。

マキノ演出とわかぎ脚本の相性はそれほど良くないのかも知れないが、役者は総じて高レベルであった。

明日は、ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦であり、升毅が王ジャパンへの期待を語った。

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2020年10月 9日 (金)

観劇感想精選(357) 「野村万作・野村萬斎 狂言公演」@びわ湖ホール2020

2020年10月4日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

びわ湖ホール中ホールで午後5時から「野村万作・野村萬斎 狂言公演」を観る。
本来は、今年の3月にびわ湖ホールで行われるはずの公演だったのだが、コロナ禍で中止となり、半年ちょっとの時を経て公演に漕ぎ着けた。3月公演のチケットは全て払い戻しとなり、前後左右1席ずつ空けたソーシャルディスタンス対応版のチケットが新たに発売された。ステージに近い3列は空席となっている。入場時に人が集中するのを避けるため、通常は開演30分前開場となるところを開演1時間前開場と30分前倒しにしていた。クラシック音楽のコンサート、特にオーケストラの公演は「開場は開演の1時間前」であることが多いため、特に違和感は覚えなかった。

今日は午後1時からと午後5時からの2回公演であるが、午後5時からの公演は残念ながら入りは今ひとつ。隣の大ホールでは日本センチュリー交響楽団がコンサートを行うなど、通常時に近い稼働を行っているびわ湖ホールであるが、コロナの影響もあって人は余り多くないという印象を受ける。

野村万作、野村萬斎、野村裕基の三代が3つの演目で主役を務めるという舞台。これまでも三代の共演は観たことがあるが、同じ演目で共演することなく単独で主演という形は初めてだと思われる。
演目は、「蚊相撲」(出演:野村裕基、内藤連、深田博治)、「謀生種(ぼうじょうのたね)」(出演:野村万作、野村太一郎)、「六地蔵」(出演:野村萬斎、高野和憲、中村修一、飯田豪、石田淡朗)。


上演が始まる前に、高野和憲が登場して、狂言と演目の解説を行う。狂言はセットなどを用いないため、全てセリフで語るのだが、暗黙のルールがあるため、「約束事の演劇」とも呼ばれているという話をする。
日本中どこでも、あるいは海外でも「この辺りの者でござる」と自己紹介する人物が登場し、庶民が主人公になることが多い舞台である。中世において庶民が主人公になる演劇は世界的に見てもかなり珍しい。

高野は、「冗談もあります」と言って、「木に二羽の鳥が止まっている。カラスとスズメだが、この二羽は親子である。カラスが『コカー』と鳴き、スズメが『チチ』と応える。これで笑えないと狂言は楽しめません」と語っていた。説明するまでもないことだが、カラスの鳴き声が「子か」、スズメの鳴き声が「父」という風に聞こえるという話である。そのほか、道行きの話をして、「なんだあいつ、同じところグルグルして馬鹿じゃないの? という人には狂言は無理です」と語っていた。
その後、演目の解説。「蚊相撲」と「謀生種」には滋賀県の話が登場する。「蚊相撲」には蚊の精が登場するのだが、江州(近江国)守山からやってきたという設定である。「守山は蚊どころ(蚊の名所)」というセリフもある。往時の守山は湿地帯であり、蚊が多いことで知られていたようである。
「謀生種」にも琵琶湖の話が出てくる。更に滋賀県人にはお馴染みの名所も例えとして登場する。
「六地蔵」は、京都を舞台にした話だが、京都市伏見区と宇治市一帯にある六地蔵地区とは関係がない。すっぱを題材にしたお話である。

高野は、「人生に悩んでいる人が狂言を観ても何も変わりません」と語る。「失敗する人ばかり出てくる」からだが、「昨日も失敗、今日も失敗、明日も失敗で生きていくのが人間であり、みんな一緒」と思えたなら少しは勇気づけられるかも知れない。

 

「蚊相撲」。大名(演じるのは野村裕基。いわゆる守護大名や戦国大名などとは違い、その土地の有力者という程度の意味)が、新たな家来を雇おうという話を太郎冠者(内藤連)としている。狂言では身分の高い人(余り出てこないが)は最初から前の方に出てくるという約束があり、大名も目一杯前に出て自己紹介を行う。今、家来は太郎冠者一人であり、太郎冠者も新たな家臣を雇えば楽が出来るというので賛成する。最初は8000人の家来を雇いたいという無茶をいう大名であったが、太郎冠者に「家が確保出来ない」と反対され、200名に下げたが「食事の面倒が見られない」ということで、太郎冠者と合わせて2人、つまり新規採用1人となった。
太郎冠者は往来に出て、めぼしい人材がいないか目をこらす。スカウトを行う訳である。そこへ、「都へ上って人々の血を吸おう」と企んでいる蚊の精(深田博治)が通りかかる。蚊の精が気になった太郎冠者は正体を知らずに話し掛ける。蚊の精が「自分は万能だ」という意味の話をしたため、太郎冠者は採用を決め、蚊の精を屋敷に連れ帰る。
蚊の精が一番得意とするのは、「やっとまいった」=「相撲」である。大名は蚊の精に相撲の腕を見せて欲しいというのだが、一人では相撲は出来ない。そこで大名が相手をすることになるのだが、相撲の最中に蚊の精は正体を現す。最初の取り組みを終えて相手の正体を見破った大名は団扇を隠し持ち、蚊の精を嬲り始めるのだが……。

蚊の精の鳴き声が結構可愛らしく、ユーモラスである。狂言には獣の精に取り憑かれるという話がいくつかあるのだが、これもその系統に入る。
まだ若い野村裕基だが、立ち姿は美しく、堂々とした振る舞いが板に付いている。

 

「謀生種」は和泉流の専有曲であり、嘘つきの話である。主人公である甥(野村太一郎)には山一つあなたに住む伯父(野村万作)がいるのだが、この伯父が法螺話を得意としており、甥が勝負を挑んでもいつも打ち負かされてしまう。甥は予め作り話を考えておき、伯父の上を行こうとするのだが……。
富士山に紙袋を着せる話、琵琶湖で茶を沸かす話(茶の葉を取り寄せて練り、三上山ぐらいの大きさまで練り上げて琵琶湖に投じたという話が出てくる)、本州から首を伸ばして淡路島の草を食う牛の話などが出てくる。壮大すぎる話だが、日本人の多くが知っている名所を題材としているため、荒唐無稽ではあるがイメージは出来てしまうというのが特徴である。ちなみにオチはない。

 

「六地蔵」。とある田舎者(高野和憲)が、六地蔵を堂宇に安置しようと計画。地蔵堂は建てたのだが、田舎であるため仏師がおらず資源もない。ということで都まで仏師を探しに出掛ける。だが、仏師が京都のどこにいるのかも調べずに来てしまったため、都大路をウロウロする羽目になる。それを見ていたいかにも悪そうな顔のすっぱ(野村萬斎)が田舎者と見抜き、騙すことを思いつく。
田舎者が「仏師を探している」と言うと、すっぱは、「その真仏師(まぶっし)だ」と名乗る。田舎者は「マムシ」と聞き違えて震え上がるが、すっぱは「真の仏師で真仏師だ」と説明する。すっぱは当然ながら仏像とは縁がなく、「楊枝一つ削ったことがない」のだが、六地蔵を彫ろうという約束をする。最初は3年3月90日(この辺の数え方の意味はよくわからない)かかるといっていたのだが、弟子達に分業体制で行わせ、完成した各々の部分を膠で固めたら1日で六地蔵が完成すると説明する。そして大金を吹っ掛けるが、明日までに六地蔵を完成させられる仏師は他にいそうにないので田舎者も話を飲む。

さて、すっぱは、仲間3人(中村修一、飯田豪、石田淡朗)を呼び、各自が地蔵に化けるという提案を行う。3体にしかならないので、すっぱ仲間の一人がもう3人呼んでこようとするが、提案を行ったすっぱは、「分け前が減る」ということで、3体ずつ別々にあるところを見せて田舎者を騙そうと企む。三条通の大黒屋に金が振り込まれ、因幡薬師(平等寺)の北側の本堂(北側の寺院の本堂という意味だろうか。往時の因幡薬師は参拝者が多いので因幡薬師内という訳ではないと思われる)を待ち合わせ場所とする。早めに因幡薬師の北側に着いたすっぱとその仲間は法具などを手にした地蔵に化けようとするのだが、無教養の者が多いため、何をすればいいのかわからない。ということでこの場面の野村萬斎はスパルタ教官と化す。
本堂のすっぱ達が化けた地蔵を見て感心する田舎者であったが、六地蔵なのに3体しかないとやはり言い出す。すっぱは「残りの3体は置き場所がないので鐘楼堂に安置した」と説明し、鐘楼堂に先回りして田舎者を騙すことにいったんは成功したのだが……。

特にひねりはないため、意外性には欠けるのだが、舞台と橋掛かりの間を何度も行き来するためダイナミックかつ賑やかで、華のある狂言となっていた。

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2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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2020年10月 5日 (月)

観劇感想精選(355) こまつ座「兄おとうと」2006

2006年3月17日 尼崎市のピッコロシアターにて観劇

尼崎市の塚口というところにあるピッコロシアターで、こまつ座の「兄おとうと」を観る。作は勿論、こまつ座の座付き作家である井上ひさし。演出は文学座の鵜山仁。出演は、辻萬長(つじ・かずなが。通称の〔つじ・ばんちょう〕の方が通りがいいかも知れない)、剣幸(つるぎ・みゆき)。大鷹明良(おおたか・あきら)、宮地雅子、小嶋尚樹、神野三鈴(かんの・みすず)。
大正デモクラシーの先導者、吉野作造と、弟で官僚の吉野信治の兄弟が主人公。理想主義者の兄・作造と、現実主義者の弟・信治の葛藤を描く。

1階ロビーのソファーに腰かけていると、見覚えのある痩身の男性が階段を降りてくるのが見えた。「誰だろう?」と思ってよく見てみると、桃園会の深津篤史(ふかつ・しげふみ)氏であった(深津篤史氏は2014年に46歳の若さで他界することになる)。


作品は文句なしに良かった。本当に良いものを観たときは手が勝手に動いて拍手するものだが、今日は久しぶりにその感覚を味わうことが出来た。拍手という行為の始まりは儀礼的なものではなくて、自然発生的なものなのではないかと、思ってしまうほど無意識に手が動いていた。

何よりもまず、セリフが創り上げる作品構造がしっかりしている。物語を組み立てる言葉と説明、心理吐露、駄洒落などがはまるべき所にはまっていて盤石である。役者も万全。普段見慣れている舞台俳優とは格が違う。力がある俳優でないと、こまつ座の舞台に上がることなど出来ないから、これは当然といえば当然なのだけれど、役者の成すべきことは何か、今すべきことは何か、してはいけないことは何か、を全て把握している。

井上ひさしの作品は嘘と実が頻繁に入れ替わるのだが、いつもながら手並みは鮮やかである。笑いが欲しいところで笑いを入れてくれるし、考えさせるべきところできちんと考えさせてくれる。

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2020年9月30日 (水)

配信公演 「京都能楽チャリティ公演~祈りよとどけ京都より~」2020.9.25

2020年9月25日

午後7時から、YouTubeライブで「京都能楽チャリティ公演~祈りよとどけ京都より~」を観る。東日本大震災の被災地のためのチャリティ公演であり、ロームシアター京都完成後は、毎年サウスホールで公演が行われていたのだが、今年は新型コロナの影響で中止となり、代わりに配信が行われることになった。
なお、今回は新型コロナウイルスの流行中であるということで、チャリティ募金は行われない。東日本大震災での被災地は、主に東北地方の太平洋側であったが、今現在は全世界が新型コロナの被災地といって過言ではない状態になってしまっている。

「能楽チャリティ公演」は、例年は昼夜別演目1回ずつの2回公演であったが、今回は流石に2回は難しいということで、能2番、狂言1番の1公演分の演目が先月20日にロームシアター京都サウスホールで収録され、観世流シテ方の片山九郎右衛門がライブ出演して、特別に演目の解説を行うというスタイルとなった。歌舞伎などではイヤホンガイドがあるが、能や狂言にはそうしたものはないので、貴重な機会である。

まず、祝言謡「四海波」が能楽師有志によって謡われ、能「羽衣」(出演:浦田保浩ほか)、狂言「口真似」(出演:茂山千五郎ほか)、能「大会(だいえ)」(出演:片山九郎右衛門ほか)が上演される。


「四海波」は、能楽師が最もよくうたう謡だそうである。


能「羽衣」。世阿弥の作と伝わるが、確たる証拠はないという演目である。舞台となっているのは駿河国の三保の松原。舞台設定や登場人物、あらすじは歌舞伎舞踊になっているものとほぼ同じである。
能舞台の場合は鏡板があるわけだが、今回は能楽堂ではなく劇場での公演ということで、背景は富士山の山稜や雲を表しているかのような抽象的な線が照明で描かれている。
天女の昇天(でいいのかな?)は、富士山の煙と二重写しになるように描かれており、また天女は月世界からやって来たということで、「竹取物語」も意識されているようである。

英語の字幕スーパー入りでの上演。ちなみに羽衣は英語で“Robe(ローブ)”となっており、確かにそうかも知れないが大分イメージが異なる。英語圏の人に「羽衣とは何か」を説明しても、多分、すぐにはわからないので、ローブが適当なのだろう。
歌舞伎ではそうではないが、能では天女は面を付けているため、明らかに異界の人である。
また、天女の舞も迫力重視である。
ラストでは富士山が須弥山に例えられ、月の光は浄土の無量寿光に重なって、この世の安寧が祈念される。


狂言「口真似」。主(茂山茂)が酒を飲もうとするのだが、一人で飲んでも面白くない。そこで太郎冠者(茂山千五郎)を呼び、「面白い奴を客人として呼んでこい」と無茶を言う。太郎冠者は酔狂人(飲んべえ)の逸平(茂山逸平)を呼ぶことにする。主は、酔狂人が来ると聞いて不満に思うも無下にするわけにもいかず、太郎冠者に自分の言う通りにして逸平に接するよう命じるのだが、太郎冠者は主の言ったことを一言一句そのまま逸平に伝えてしまい……。

どこかで見た覚えがあったのだが、1996年の大河ドラマ「秀吉」の第48回の劇中で、豊臣秀吉(竹中直人)が徳川家康(西村雅彦。現・西村まさ彦)と共に演じ始めたのがこの演目であったことを思い出す。一度、確認してみたいのだが、残念ながら今すぐに確認出来る手段はないようだ。調べてみたところ、能狂言好きとしても知られた豊臣秀吉は、「口真似」の元となる狂言を徳川家康と前田利家と共に3人で舞ったことがあるそうである。


能「大会(だいえ)」。大会というのは、釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で行った説法を指す言葉のようである。
前段が、絵本で紹介される。片山九郎右衛門の制作で「大会」を絵本化した『天狗の恩返し』からの引用である。

天狗(片山九郎右衛門)が鳶に化けて東北院(とうぼくいん)近くの都大路で遊んでいたところ、武士の投げた石で落とされ、子ども達に捕まって、殺されそうになった。たまたま通りかかった僧侶が鳶の命を助けたのだが、鳶の正体である天狗は僧侶にお礼がしたくなって寺院(原作では比叡山延暦寺とされているが、今回の上演では具体的な寺院名は出てこなかった)を山伏に化けて訪れる。山伏に化けた天狗は、僧侶に「望みがあれば仰って下さい」という。大会の様が見たいと僧侶が言うと、天狗は法力(でいいのかな?)を使って大会の様子を再現してみせる。ただ、これは明らかに釈迦と邪魔の話に重なるため、激怒した帝釈天が姿を現し……。

天狗が強者・帝釈天に追われるという話なのだが、今回の上演では天狗が帝釈天に立ち向かい、一騎打ちとなる。YouTubeLiveということで、チャットにコメントが書き込めるのだが、一騎打ちの場面では、「かっこいい」「凄い」という言葉が並ぶ。
帝釈天と天狗が去った後、舞台上に鳶の羽が一つ舞い落ち、僧侶がそれを拾い上げるという、映像でしか出来ない詩的な演出が施されており、これも好評であった。


私もチャットに参加していたが、こうした上演に立ち会うと、「日本人に生まれて良かった」としみじみ思う。こうした考えも決して大袈裟ではないはずだ。

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2020年9月27日 (日)

観劇感想精選(354) 三谷幸喜 作・演出「君となら」2014

2014年9月17日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

※本来なら「観劇感想精選」には、私が優れていると認めた公演しか載せないのですが、竹内結子氏逝去につき、特別にこの記事を上梓します。彼女の名前がないというのは余りに寂しいことですので。もっと良く書いてあげることが出来れば良かったのですが、冷静に判断した結果です。書かなかったことで「素晴らしい」と思ったことはいくつもあるのですが、それは個人的なことですので、表さずにおきます。
不在がまたも増えてしまいました。


午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「君となら」を観る。作・演出:三谷幸喜。「君となら」は、斎藤由貴と佐藤慶の主演作として三谷幸喜の作、山田和也の演出で1995年に初演。その後、97年に再演されているが、それから、約17年を経ての再演である。佐藤慶はすでに4年前に他界しており、主演も含めて全て新キャストでの再演となる。演出も今回は三谷自身が手掛ける。出演:竹内結子、草刈正雄、イモトアヤコ、長野里美、長谷川朝晴、木津誠之、小林勝也。

舞台は90年代の東京である。客入れの音楽は、槇原敬之やプリンセスプリンセスらが歌ってた90年代のポップスであり、幕開けの音楽も90年代のヒットナンバーであるKANの「愛は勝つ」である。

年の差約50歳というカップルが誕生するのだが、成り行きで誤魔化さなくてはいけないようになり……、というストーリーで、三谷幸喜が90年代に書いたものの中でも特に完成度が高いと思われる作品の一つである。再演の時はテレビ収録が行われ、WOWOWで放送されたものを私は録画して何度も繰り返し観ている。

今日は、何の知識も入れないで観に出かけたので、故・佐藤慶がやっていた役を草刈正雄がやるのだと思い込んでいたのだが、最初の顔見世のシーンで草刈正雄が出てきたので、草刈正雄は竹内結子演じるヒロインの父親役であり、婚約相手を演じるのは小林勝也だと気付く。ただ、小林勝也には酷だが、佐藤慶は男が見ても良い男だと思うタイプであり、「佐藤慶ならひょっとしたらあり得るのではないか」と思えるのだが、小林の場合はそうではないと思われる。

ヒロインの父親役を初演時にやっていたのは角野卓造であり、それが草刈正雄になるのだから、これは佐藤慶→小林勝也以上にギャップのある配役である。
ヒロインは、相手が「実業家」だとしか言っていなかったのだが、家族全員がヒロインと同年代だと思っているので、「青年実業家」だと思い込み、特に母親の中ではその姿は「完全に草刈正雄になっている」というセリフが初演時からあるのだが、そのセリフを当の草刈正雄に言わせようということでこうした配役になったのだと思われる。初演は19年前なので、当時は草刈正雄も「青年」と呼ばれてもおかしくない歳だった。
事実、草刈正雄が、「草刈正雄だ!」というセリフを発した時には拍手喝采であった。

ヒロインの小磯あゆみを演じるのはこれが初舞台となる竹内結子であるが、完全に映像向けの演技になっており、小さく纏まっている。勿論、舞台のために身振り手振りを大きくしたり、表情を大袈裟にしたりということはやっているのだが、舞台で表現を行うには動きが細やかすぎるのだ。映像では心理描写のために有効な演技ではあり、竹内結子はそもそも映像向きの演技をする人なのかも知れないが、舞台でそうした演技を行うと単に神経質な人に見えてしまう。神経質な役だったらまだ良かったのだが。また、コメディエンヌが板に付いていないが、コメディエンヌの素質というのは生まれ持ったものに左右されることが大きいため、これに関しては竹内一人のせいではないだろう。
彼女は、「いよいよ私にも初舞台が回ってきた」と意欲を語っており、登場時には満面の笑みを浮かべて現れ、客席も拍手で出迎えた。

小林勝也はやはりミスキャストであるが、これはキャスティングした側の責任であると思う。

初演時の俳優を上回っていたのは、あゆみの妹である小磯ふじみを演じたイモトアヤコ。ふじみはそもそも狂言回し的な役割であるが、スラプスティックな要素を最も要求される役であるため、イモトには上手くはまっていた。

三谷幸喜の本は全て当て書きであり、俳優を変えて再演する際には演じる俳優に合わせてセリフを変えるのだが、前回は、ふじみを演じていた宮地雅子が言っていたセリフを、今日はあゆみ役の竹内結子が話すなど、セリフの割り振りも微妙に違ったりする。
ただ、セリフやト書きをいくら直しても限度はあり、初演時と再演時は小倉久寛がやっていた役を今回は長谷川朝晴が演じているのだが、小倉がやると滑稽に見えたことも長谷川がやると無理矢理笑いを取りに行っているように見えてしまう。そもそもオリジナルキャストのクオリティを今回のメンバーに求めること自体が間違いといえば間違いなのであるが。

「君となら」を今回初めて観る人には薦められる舞台だが、斎藤由貴&佐藤慶バージョンを観たことのある人には「イメージが崩れるから観なくても良い」としか言えない。私が感じたように「『君となら』って、こんな程度の芝居だったっけ?」と拍子抜けする可能性もあるためである。そして更に、常に当て書きをしてきた作家の限界を感じることになるかも知れない。

芝居の内容よりも強く感じられたのは、佐藤慶と、初演時・再演時に和田を演じていた伊藤俊人の不在感である。佐藤慶が他界してから今年で4年、伊藤俊人は12年にもなる。彼らはもうこの世には存在せず、彼らのような俳優が現れることも二度とないのだろうと思うと無常を感じずにはいられない。

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