カテゴリー「花・植物」の4件の記事

2020年8月 6日 (木)

美術回廊(55) 京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」

2020年7月31日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」を観る。

新型コロナウィルスにより、多くの行事が流れてしまった京都。その京都の四季の彩りを再確認するために京都国立近代美術館所蔵品を中心として開催されている展覧会である。

階段を上ると「晩夏」から、エレベーターを使うと「初夏」の展示から観ることになる展覧会。階段を使って「晩夏」より入る。

四季を更に細分化した二十四の季節を持つ日本。古代中国由来なので、必ずしも今の暦と符合するわけではないが、恵みと脅威を合わせ持つ自然に対する細やかな意識が察せられる区分である。

 

階段を上がったところに、北沢映月の「祇園会」という屏風絵が拡げられている。1991年に京都国立近代美術館が購入した絵だ。「小暑」の区分である。
京舞を行っている母親をよそ目に、祇園祭の鉾の模型で二人の女の子が遊んでいる。一人は鉾を手に転がそうとしているところで、もう一人はそれを受け止めるためか、片手を挙げている。動的な絵である。

不動立山の「夕立」は、おそらく東本願寺の御影堂門と烏丸通を描いたと思われる作品である。昭和5年の作品なので、京都駅は今のような巨大ビルではないし、京都タワーもなかったが、それを予見するかのような高所からの俯瞰の構図となっている。これは不動茂弥氏からの寄贈である。

「大暑」では、丸岡比呂史の「金魚」という絵が出迎える。昨日観た深堀隆介の金魚とは当然ながら趣が異なり、愛らしさが前面に出ている。

同じタイトルの作品が並んでいるのも特徴で、「処暑」では、福田平八郎の軸絵「清晨」(どういう経緯なのかはよく分からないが、旧ソヴィエト連邦からの寄贈)と深見陶治の陶器「清晨」が並んでいる。趣は大分異なるが、各々が感じた朝の気分である。

具体美術協会を起こしたことで知られる吉原治良(よしはら・じろう)の作品もある。「朝顔等」という絵だが、朝顔の周りに海産物が並べられており、海は描かれていないが海辺であることが示唆されている。夫人による寄贈。

 

「立秋」にはこの展覧会のポスターにも使われている、安井曾太郎の「桃」が展示されている。邪気を払う特別な果物だ。

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「中秋」では、京都画壇を代表する女性画家である上村松園の「虹を見る」(文化庁からの管理換)という屏風絵が素敵である。虹は右上に小さく描かれ、それを若い女性と母親と赤ん坊が見上げるという作品であるが、虹がまだ何かもわからない年齢なのに惹かれている赤ん坊が特に印象的である。

「秋分」では、小川千甕(おがわ・せんよう)の「田人」という作品が「その先」の想像をくすぐる出来である。2001年度購入作。

俳優の近藤正臣の親族としても有名な陶芸家の近藤悠三の作品もある。堂々とした作風である。

 

坂本繁二郎の「林檎と馬齢著」(立冬)。全く関係ないが、最近観た見取り図の漫才ネタを思い出す。

 

秋野不矩の「残雪」(「初春」。1985年に作者が寄贈)。これも関係ないが中国を代表する前衛小説家の残雪の作品を最近は読んでいない。急に読んでみたくなったりする。

「仲春」には花と蝶を題材にした絵画が並ぶ。久保田米僊(くぼた・べいせん)の「水中落花蝶図」、枯れて水面に落ちた花弁と、その上を舞う蝶が描かれており、動物と静物、しかも盛りを過ぎた静物との対比が描かれている。2005年度購入作。

 

「春分」には今も花見の名所として名高い円山公園を描いた作品がいくつか登場する。

「晩春」では、藤田嗣治や長谷川潔が手掛けた「アネモネ」という花の絵が美を競っている。アネモネは色によって花言葉が違うようだが、調べてみると紫のアネモネの花言葉は「あなたを信じて待つ」であり、赤のアネモネの花言葉は「辛抱」であった。

 

「立夏」には葵祭を題材にした伊藤仁三郎の絵が2点(2002年寄贈作品)並び、苺の収穫を描いた小倉遊亀(寄託作品)の作品もある。

「夏至」には千種掃雲の「下鴨神社夏越神事」(2005年度寄贈)、更に美術の教科書によく作品が登場する安田靫彦の「菖蒲」(2000年度購入)などがある。

 

そして階段から入った場合、最後の展示となるのが川端龍子(かわばた・りゅうし)の「佳人好在」(1986年度購入)。佳人(美人)の部屋を描いた作品だが、佳人は登場せず、並んだ小物などから佳人の人となりを想像させる絵となっている。これが今日一番気に入った絵となった。これぞまさに「不在の美」である。

 

京の行事はこの一年、ほぼ全て幻となってしまったが、展示された美術作品の数々の中に、悲しみと同時に希望を見出すことになった。
「京都は京都」幾多の災難を乗り越えた街であり、いつかまたこれらの作品に描かれているような愉しみが復活するのは間違いないのだから。

 

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2017年4月27日 (木)

観劇感想精選(211) 「それいゆ」(再演)

2017年4月19日 新神戸オリエンタル劇場にて観劇

午後7時から、新神戸オリエンタル劇場で、画家・ファッションデザイナー・イラストレーター・人形作家の中原淳一(1913-1983)の青春を描く舞台「それいゆ」を観る。脚本:古家和尚(ふるや・かずなお)、演出:木村淳(関西テレビ)。出演:中山優馬(座長)、桜井日奈子、佐戸井けん太、愛原実花、施鐘泰、辰巳雄大(ふぉ~ゆ~)、金井勇太ほか。
昨年5月に初演された「それいゆ」。約1年ぶりの再演となる。観る予定はなかったのだが、今日4月19日が中原淳一の命日だということを「ピーコ&兵動のピーチケパーチケ」で中山優馬本人の口から聞いて観ることに決めた。
昨年の「それいゆ」で女優デビューした「岡山の奇跡」こと桜井日奈子が今回も出演する。
中原淳一夫人は元宝塚女優であったが、今回の公演には宝塚出身の愛原実花が参加する。
まず中原淳一の書いた詩の冒頭を中原を演じる中山優馬が読み上げ、詩の続きを主要キャスト達がリレーしていくというスタイルから入る。

戦中の東京。クラシック歌手志望の天沢(施鐘泰)が宝塚女優志望の舞子(桜井日奈子)に連れられて中原淳一(中山優馬)のアトリエを訪れるところから物語は始まる。戦中ということで英語は敵性言語として排除され、新たに作られた日本語に置き換えられていたのだが、中原のアトリエでは英語やフランス語が普通に使われており、中原の助手である桜木(辰巳雄大)も英語をそのまま使っている。天沢も桜木もカーキ色の国民服を着ているのだが、中原は服の上下も白で統一された洒脱なスタイルだ。
雑誌「少女の友」の専属イラストレーターとして活躍している中原は芸術への造詣が深く(中原本人は自身が芸術家だという意識はなく、職人だと思っている)、天沢の歌を聴いて、「君の歌はクラシックではなくポピュラーに向いている」と断言する。後年、天沢はポピュラー歌手として大成するため、中原の耳は確かだった。
舞子と中原は、河原で舞子が歌の練習をしている時にたまたま出会ったのだが、中原は舞子に「顔を上げ、自信を持って歌うよう」指導したことで知己を得た。舞子は元々「少女の友」の読者であり、中原のファンであった。
中原は舞子が今日はもんぺを履いていることを気にするが、戦時統制が厳しくなり、もんぺが強要されるようになっていたのである。少女達に夢を与えるためにお洒落な少女像を描き続けてきたのだが、「少女の友」編集長の山崎(佐戸井けん太)は、中原に「)もんぺ姿の少女を描いて欲しい」と注文する。しかし理想主義者である中原はこれを拒否。「そんな戦争なら負けてもいい」と発言し、「少女の友」専属イラストレーターから降りることを決める。
女優を夢見る舞子だったが、父親が借金を抱えており、詐欺師の五味(金井勇太)に弱みを握られていた。五味が借金の肩代わりを行っており、その見返りとして舞子は強制的に五味と結婚させられることが決まっていた。

中原は、「究極の造形美」を追求し、人形創作に打ち込んでいた。中原は「美に絶対はない」としながらも「それ故に美は誤魔化される」と断言する。誰かの決めた美に流されないよう天沢に警告する。

戦争が終わり、大量消費・大量生産の時代になる。中原は自らが演出と美術を手掛けたミュージカル(日本初のミュージカルである)を上演するが評判は芳しくない。
五味は「本物よりもそれらしい偽物の方を喜ばれる人がいる」と事前から話していた。中原のミュージカルの感想を記者達に求められた山崎もまた大量消費の時流にあっては中原の時代は終わったと言う。ただ、山崎は中原の一緒に仕事をしていた頃から中原に嫉妬を抱いていた。

舞子が新宿でステージに立っているという噂を聞いた中原と天沢は新宿に出向くのであるが、そこは五味が経営する劇場であり……。


中原は「美」を追求する理由を「世界を変えることが出来るから」と語る。そして「美」とは置物的なものではなく、「人生」であり、「生きるということなのだ」と明かしていく。美に絶対はないように人生にも絶対はないが、個々の人生を追い求めることは出来る。誰かに教えられた人生ではなく、自分自身で選んだ人生を生きることの尊さをこの劇は観る者に訴えかけてくる。

セットには鏡が多用されているが、蜷川幸雄的な意味での用い方ではなく、キャスト達を多方面から映すことで「美」の多様なあり方と、鏡に映った像を観客がどう見るかによって決められる独自の「美的」視点の獲得が促されているように思われる。


理想主義者である中原とは対照的なその日暮らしの五味を演じる金井勇太が実に良い芝居をする。ある意味、金井勇太が影の主役でもある。金井勇太が五味でなく中原を演じることは可能だが、中山優馬が五味を演じることは無理であろう。中山の演技スタイルがそれだけ中原に合っているということでもあるのだが。
金井の実力を改めて知ることになる舞台であった。

「岡山の奇跡」と呼ばれる桜井日奈子。正直「奇跡」というのは褒めすぎのように思われたのだが(橋本環奈が「1000年に一人の逸材」と呼ばれていた頃に桜井も登場している)、女優としての資質にはかなり高いものが感じられ、将来が楽しみな存在である。

演技スタイルは基本的に新劇のものが用いられていたが、夢の遊眠社出身の佐戸井けん太が新劇のスタイルで演技すると実に巧み。セリフよりも仕草で語らせる細やかな演技が見事であった。


中原淳一の命日ということで、抽選で6名の方にひまわりの花がプレゼントされる。なんでも、6というのは美を象徴する数字だそうだ。更に来場者全員にひまわりの種がプレゼントされた。

「それいゆ」(再演)

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2017年4月 8日 (土)

京都大学フィールド科学教育研究センター主催 公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」

2017年3月19日 京都大学 益川ホールにて

午後2時から、京都大学吉田キャンパス北部構内にある京都大学益川ホールで、京都大学フィールド科学教育研究センター主催による公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」に参加する。「自然」「芸術」「文系」「理系」などの融合を図るシンポジウム。

無料公演で、予約多数による抽選となったようだが、なんとか突破出来た。

益川ホールは、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英を記念して北部構内総合教育研究棟1階に作られた中規模講堂であり、当然ながらまだ新しい。
私が京都に来た頃は、京都大学はまだ「日本一のオンボロ大学」と呼ばれていたが、その後、何年にも渡って増改築を繰り返し、今では「その辺の私大より豪華」な大学に変わっている。

京都大学北部構内は、理系の学部のためのキャンパスであり、私も入るのは初めて。益川ホールの場所を確認して、受付を済ませてから、缶ジュースを買いに、いったん、総合教育研究棟を出る。歩いていると、上品そうなおばさんから、「すみません、京大の先生ですか?」と聞かれる。先生どころか関係者ですらないので、否定したが、私と同じく益川ホールに向かうとわかったため(京大関係者以外で今日、北部構内を歩いているお年の方はシンポジウム参加者しかいない)場所は教えた。
顔も格好も京大の先生っぽかったのだろう(京都国立博物館上席研究員で、京都大学出身の宮川禎一先生とは知り合いだが、「よく似ている」と言われる)。


公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」。司会を務めるのは、京都大学海里森連環学教育ユニット特定准教授の清水夏樹(女性)。着物姿での登場である。

まず、京都大学総長である山極壽一(やまぎわ・じゅいち)が開会の言葉を述べてスタート。

最初に発表を行うのは、京都大学フィールド科学教育センター教授兼センター長の吉岡崇仁。「和と洋が出会う場所」というタイトルである。スクリーンに映像が映され、レーザーポインターを使って進められる。
まず、京都大学の芦生研究林(京都市左京区、京都市右京区、京都府南丹市、福井県、滋賀県にまたがる広大な森林。本部は京都府南丹市芦生にある)には鹿がいるのだが、鹿によって植物が食い荒らされるという食害が発生している。ただ、鹿は天然記念物なので殺害することも出来ない。そのため、「鳥獣保護VS植生保護」という二律背反が起こっているという報告を行う。
芦生研究林では、檜皮を作っており、本来なら結構な値段になるのだが、これらは神社の檜皮葺等に無償で提供されているという。吉岡は、「こころ」と「ふところ」という言葉を用いて、「こころ=文系=非経済」、「ふところ=理系=経済」という図式を作り、どちらも大切であることを述べる。吉岡は「和魂洋才」という言葉を出す。客席に「ご存じの方?」と聞くが、手を挙げたのは私を含めて5人前後。だが吉岡は、「全員ですね」「私には心の中で挙げてる人も見えます」と続ける。京大でのシンポジウムであるが、みなユーモアを持ち合わせていてお堅くもなんともない。
吉岡は「和魂洋才」の説明をしてから、文系は和でこころに近く、理系は洋でふところに近いという話をする。
そして、森林伐採が行われた場合、何が心配かをアンケート調査したところ、「水質」という答えが多かったということを語り、森と水とが繋がっていることを人々が認識していると同時に、森自体は水よりも生活に密接に結びついているとは取られていないことを告げた。


続いて登壇したのは、京都大学フィールド科学教育研究センター准教授で芦生研究林長でもある伊勢武史。テーマは「人はなぜ、森で感動するのか」。芦生研究林は研究林あると同時に観光名所でもあるそうで、ハイキングやピクニックに訪れる人も多いという。だが、当然ながら人間が増えると生態系が破壊されるため、「観光客を制限してはどうか」という意見が上がる一方で、「観光客を減らすのではなく、より生態系を守る活動をしよう」という見解もあるそうだ。
さて、「人はなぜ、森で感動するのか」というテーマの仮説であるが、旧石器時代以前は自然淘汰が激しかったため、森を愛した人の方がそうでない人よりも生き残りやすく、我々はその生き残った人々の子孫であるため、森に安らぎを感じるのではないかと考えられるそうである。
また、「なぜ人は森に行くのか?」という疑義が呈され、森はアミューズメントだという仮説が発表される。森には多様性があり、美しいものも醜いものも両方ある。「美」というものは生物進化の中で生まれた観念であるが、これは白紙の状態(「タブララサ」ということだろう)から生まれたものではなく、人が恣意的に作り上げたものだという。ハゲタカは死肉を食するので、死肉が美だが、人間にとっては(佐川君のような例外はあるが)そうではない。ということで、伊勢は、「芸術家がたやすく美を語るな」という心情を持っているそうである。ただ、伊勢も芸術には関心を持っており、この後登場する髙林佑丞(たかばやし・ゆうすけ)と組んで、外来種による生け花を作っているという。外来種の植物というと嫌がられ、駆除するのが人間であるが、外来種を連れてきたのも人間であり、恣意的に退けてはならないという考えを持っているようである。


続いて登場したのは、京都大学こころの未来研究センター教授の広井良典。ドイツの新聞に載った「Japan's burden」という記事をスクリーンに映し、英語に直すと「ジャパン・シンドローム」となり、人口減少と高齢化が同時に進行していることを示していると語る。日本は少子高齢化の最先端にあるが、他の先進国も同傾向にある。
さて、幸福指標であるが、日本は世界全体で53番目。日本人には控えめな人が多いので、割り引いて考える必要がある(ちなみに1位はデンマーク)が、高くはない。
一方で、世界的な幸福指数に疑問を感じ、自主的な幸福指数を作っている自治体がある。東京都荒川区と高知県である。「皆さん、荒川区といってもピンとこないかも知れませんが」と断った上で話が進み(私は関東出身者なので荒川区の様子はわかる)、荒川区はGAH(Global Arakawa Happines)という独自の指標で幸福度を追求していると語る。更に高知県もGKH(Global Kochi Happines)なるものを作り、高知県は47都道府県の中で所得最低(最近、沖縄県を抜いたそうである)であるが、逆に森林面積率は全国1位であり、これを幸福の指標の一基準にしたそうである。
さて、広井が挙げたタイトルは「鎮守の森とコミュニティづくり」であるが、秩父神社は武甲山という山を御神体(神奈備山)にした神社であるが、武甲山は石灰岩が採れるというので、採掘が進み、自然と資源の調和が取れなくなっているそうだ。工業と自然の対立と有効利用の構図が出来ているそうである。
日本には神社は約8万1千、寺院は約8万6千あるそうだが、岐阜県郡上市の白鳥町では、小水力発電を行う一方で、「白山信仰の聖地」であるとして、エネルギー関連の人が訪れた場合は、必ず長老白山神社に参拝して貰うなど、鎮守がコミュニティの中心になる文化を築いているという。また「鎮守の森セラピー」というものを行っている地方もあるそうで、そこでは森林浴ならぬ「神林浴」という言葉が使われているそうだ。神との繋がりが心身の健康に繋がり、それが自然との繋がりにもなるという。
現代日本では、ピラミッドの頂上に「個人」がおり、その下に「コミュニティ」があって、一番下に「自然」が来るのだが、自然が礎になっていることはもっと意識されて良いという。


最後に、この4月から池坊短期大学の非常勤講師に就任するという華道家の髙林佑丞が登壇。「専心口伝」という池坊の美学を語る。植物の命を見つめ、「木物」「草物」「通用物」に分ける。「通用物」というのは木なのか植物なのかわからないもので、藤や竹や牡丹などが入るそうだ。
「花は足で生けよ」という言葉があるそうだが、実際に足を使うのではなく、花の根本を学んで生けるという意味である。
ここで、生け花の実演。「立花新風体」という、1999年に始まった新しい手法による生け花。八重桜や胡蝶蘭を使うが、ミモザやユーカリなどの洋花も使用。更には松の枝や檜の皮なども用いる。
最後は余計なところを剪定。生け花には「引き算の美学」があるという。


休憩を挟んでパネルディスカッション。休憩中に聴衆からのアンケートを取り、それにも答えるという形式。私の書いたものもそのままではないが読み上げられた。

まず、京大総長の山極壽一が話す。皆の話を聞いていて「感性の問題」を感じたそうで。「今はIT社会で、イメージが先行して生身のものが取り残されていく」ように思われるそうだ。
そして、生け花が「引き算」で出来ていることに興味を持ったという。華道家の髙林によると生け花は引き算で、フラワーアレンジメントは足し算だそうである。

私は、日本人と西洋人とでは自然に対する姿勢が違うのではないかと思えたのだが、伊勢は私の意見も纏めた清水からの紹介に「日本人と砂漠に住む人とでは、自然に対する印象は勿論違うと思います。ただ、自然に対する気持ちには万国共通のものがあるように思います」と述べた。

吉岡は、和魂洋才ならぬ洋魂和裁でも日本人は最先端にあると思われるというようなことを述べ、「風景という言葉がありますが、風景というのはそこで自分が何をしたかを読み込むこと」と定義し、自然や環境の中で自己を定義するのが風景であり、生きるということだと述べる。

広井は、文系だが科学史科学哲学専攻という理系に近い文系の人である。「日本人は高度成長期に寺社を忘れてしまった」として、一方で「今の若者達にはローカル指向があり、寺社を中心とした文化に帰る可能性もある」という。

髙林は、「時間を生ける」という言葉を使い、作品を生ける時間と同時に植物が育つ時間も感じるのが生け花だと話した。伊勢が、「(洋花を生けて)怒られない?」と髙林に聞くが、髙林は、「昔は家に必ず床の間があって、そこに生け花を飾っていたわけですが、今は洋間しかない家も多いので、それに合わせて変わっていくのも生け花」だと述べる。


山極は、京都市立芸術大学学長である鷲田清一と話したときに、日本の新興住宅に足りないものが三つあると言われたという。「神木」「神社・仏閣」「場末」に三つで、それ故に新興住宅地は薄っぺらいのだそうである。

吉岡は、パネルディスカッションの冒頭で山極が挙げた「感性」という言葉に触れ、「自然に触れることが感性を育む」とし、このシンポジウムのテーマである文理融合を京都大学で進めているのだが、実際はなかなか上手くいかないという。ただ、「人間とは何か?」を問う上で文理融合は有効だとして、これからも進めていく予定であるという。

伊勢も文理融合を進めているのだが、一意専心が良しとされる現状では文理融合をやっていると、「遊んでいる」と勘違いされるそうである。

最後は、山極がまとめという形で話す。「文明は言葉から、哲学から。それから数学が分かれていくわけですが、数学も哲学のため。だから数学者達も自分は数学者だとは思っていないはず」と語り、その後、哲学よりも技術が主役とされる世の中になったが、例えば社会学を築いたオーギュスト・コントのような立場に戻る必要があるのではないかとする。
山極は「20世紀はコンクリートの時代」と言われたことがあるそうだが、そのためにコミュニティも変わってしまったという。宮大工などの地元に密着した大工などはいらなくなり、建築家さえいればコンクリートを流してどんな建物でも出来てしまう。そして「機能こそ美しい」という考えが出来てしまい、同じような建築が増えてしまった。また高層住宅では上にいくほど立場も高いということになっており、建物が人間を定義するようになってしまったと述べる。
その上で衣食住の再定義から始める必要があるのではないかと語り、「まとまっていないけれど良いですか?」と司会の清水に聞いて、シンポジウムはお開きとなった。

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2006年6月28日 (水)

紫陽花の頃

紫陽花

京都は今、紫陽花が盛りを迎えています。紫陽花の花言葉は、「移り気・高慢・忍耐強い愛」だそうで、お高くとまった人を真剣に愛してしまった苦しみを伝えるかのようですね。移り気という花言葉になったのは、紫陽花が色を変える花だからでしょう。ところで、紫陽花といえばカタツムリというイメージがあるのですが、そういえば最近、カタツムリを見なくなったような。私が子供の頃は梅雨の時期になると、そこここにカタツムリが現われたものですが。

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