カテゴリー「大阪」の28件の記事

2020年12月12日 (土)

観劇感想精選(376) 當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部「末広がり」&「廓文章」吉田屋

2020年12月7日 京都四條南座にて観劇

午後6時40分から、京都四條南座で、當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部を観る。新型コロナの影響により、密集を避けるために3部形式となった今年の南座での顔見世。座席も前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応であり、歌舞伎の華である声掛けも禁止ということで寂しいが、顔見世が観られるというだけで感謝しないといけないのだろう。もっとも私自身は毎年顔見世に行っているわけではなく、行かない年もある。

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「顔見世」の第3部の演目は、「末広がり」と「廓文章(くるわぶんしょう)」吉田屋。コロナの影響で余り長い演目は出来ないが、「末広がり」と「廓文章」吉田屋は特に短く、「末広がり」が30分弱、「廓文章」吉田屋も45分程度である。

2階ロビーに立てられた口上の中には、「あまびえ」が隠れており、その後に続く疫病封じの神である祇園社(現在の八坂神社)と共に新型コロナ調伏の願が掛けられている。

 

「末広がり」の出演は、尾上右近(音羽屋)と中村米吉(播磨屋)。長唄囃子は全員、口の前に黒い布を垂らしており、頭巾を被っていない大谷吉継が並んでいるかのようである。

狂言を原作とした狂言舞踊であり、安政元年(1854)に三世桜田治助の作詞、杵屋三郎助の作曲により、江戸中村座で初演されているという。原作の主が女大名に置き換えられており、ラストは二人で華やかに踊れるよう改められている。

近年の女形は、裏声でなくかなり女性に近い声を出せる人が多い。猿之助一門(澤瀉屋)に多いのだが、播磨屋である中村米吉も女性そっくりの声を出す。舞台は京都に置き換わっているようで、太郎冠者は「都」という言葉を使っている。
米吉演じるキリッとした女大名に対し、尾上右近演じる太郎冠者は酔っ払いながら花道を歩いて登場。ユーモラスである。
本来ならもっと笑いが起こるはずなのだが、やはりコロナの患者数が増加している最中ということで、客席は遠慮がちな笑いに留まる。

タイトルにある「末広がり」というのは扇のことであり、女主人は恋しい人に自作の歌を綴った扇を送ろうと考え、太郎冠者に末広がりを買うよう申しつけたのだが、太郎冠者は末広がりが何かわからず、街を「末広がり買いましょう」と言いながら歩き回ったため、騙されて傘を買わされてしまった。帰ってきた太郎冠者は末広がりとは傘のことだと言い張る。確かに傘も末は広がっている。女主人は激怒するが、太郎冠者が申の舞を披露したため機嫌を直し、共に目出度い唄と舞を行う。尾上右近は傘の上の鞠を回すという、目出度い芸も披露した。

「末広がり」というタイトルからしてハッピーエンだとわかる作品であるが、申は「去る」に繋がるため(鬼門には鬼が「去る」よう猿の像が置かれることが多い)、今の状況に去って欲しいという願いを込めて、この演目が選ばれたのかも知れない。

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「廓文章」吉田屋。原作は近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)」という人形浄瑠璃のための本で、これが歌舞伎化され(歌舞伎台本に直した人物の名前はわかっていないようである)、更に六世菊五郎が再構成したのが今回上演される「廓文章」である。

出演は、松本幸四郎(高麗屋)、片岡千壽(松嶋屋)、片岡千太郎(松嶋屋)、澤村由蔵(紀伊國屋)、中村雁洋(成駒家)、澤村伊助(紀伊國屋)、片岡りき彌(松嶋屋)、片岡千次郎(松美屋)、中村壱太郎(成駒家)。

大坂が舞台である。新町遊郭の吉田屋の店先に編笠に紙衣装の男が現れる。吉田屋の下男(片岡千次郎)は、男を乞食か何かと勘違いして追い払おうとするが、主である喜左衛門の妻であるおきさ(片岡千壽)がそれを止める。編笠の中をのぞき込んだおきさは、男の正体が大坂屈指の大店である藤屋の若旦那、伊左衛門(松本幸四郎)だと気付く。伊左衛門は、新町の名妓・夕霧(実在の人物である。演じるのは中村壱太郎)に入れあげ、多額の借金を作ったため、親から勘当されたのだ。粗末ななりに変わった伊左衛門だが、夕霧が病を得たというので、心配して吉田屋までやって来たのである。
部屋に上がって夕霧を寝ながら待つことになった伊左衛門だが、目覚めてみると手持ち無沙汰であり、床の間にあった三味線を取り上げて弾いたり(一部は実際に幸四郎が奏でている)、夕霧と疎遠になったことを嘆いたりする。いったんは夕霧に会わずに帰ろうと決めた伊左衛門だが、割り切れず、部屋に残ることになる。夕霧が現れた時のことを考えて格好良く見えるポーズを考えたりする伊左衛門。
夕霧が現れる。具合は大分悪そうだが、相変わらず可憐である。伊左衛門は夕霧に掛ける言葉を見つけることが出来ず、「万歳傾城!」などとなじってしまい、今宵で二人も最後かと思えたのだが……。

「末広がり」もそうだったが、「廓文章」吉田屋も「雨降って地固まる」話になっている。南座の2階に書かれていた口上にも現れていたが、危機を乗り越えて更なる発展を期したいという歌舞伎界の祈りが込められた作品である。「今」に合うものを選んだのであろう。
ちなみに、みなで大阪締めを行う場面があるのだが、セリフこそないものの、「ここは観客にも参加して欲しいのだろうな」というのが空気でわかったため、私を含めて参加した人が結構いた。声掛けは出来ないが、違った形での一体感を得ようと試行錯誤しているのが伝わってくる。

伊左衛門を演じる幸四郎は、女形をやった経験から得たものを立役である伊左衛門に生かしているのがわかる。女形の演技を転用することで、育ちが良くて純粋で時にコミカルというボンボン像を巧みに表してみせる。
先代の幸四郎(現・二代目白鸚)が、ザ・立役という人であるため、例えば弁慶などの男っぽい役をやった場合は、当代が一生涯かけても先代に追いつくことは難しいように思われるのだが、伊左衛門役は先代には出来ないため(実際、やったことは一度もないようである)高麗屋の新しい当たり役となる可能性は高い。見た目が優男なのもプラスに働く。これまで伊左衛門を演じて当ててきたのは、坂田藤十郎、仁左衛門、愛之助、四代目鴈治郎、三代目扇雀といった上方の俳優達だが、幸四郎は3年連続で伊左衛門を演じており、江戸の歌舞伎俳優として新たなる伊左衛門像を打ち立てつつある。

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2020年11月15日 (日)

観劇感想精選(367) 維新派 「ナツノトビラ」

2006年7月14日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

梅田芸術劇場メインホール(旧・梅田コマ劇場)で、維新派の「ナツノトビラ」を観る。構成・演出:松本雄吉、音楽:内橋和久。

維新派は、「ヂャンヂャン☆オペラ」という独特の歌唱と動きによる演劇(パフォーマンスと言った方が近いかも知れない)を確立した大阪の劇団で、セリフは全くと言っていいほど用いられず、歌詞はあるが、そのほとんどは意味が剥奪されており、ストーリー展開よりもパフォーマーの動きと声が織りなす雰囲気で魅せる団体だ。

「ナツノトビラ」は、夏休みの間、テレビばかり見ていた少女が、ふと思い立って昨年亡くなった弟の墓参りに出かけ、そこで数々の幻影を目にするという作品である。筋だけ書くとありきたりのようだが、ストーリーよりもその場その場の雰囲気作りで勝負する劇団なので、実際に観てみると個性溢れる構成に魅せられることになる。

巨大な直方体がステージ上に並ぶ。外面はシンプルだが、どうやら高層ビル群を表しているらしい。そして、そのミニチュア版が墓碑として現れる。墓碑は小さなビル群であり、高層ビル群は巨大な墓碑のようだ。

影絵の男が、建設現場で働いているのが見える(袖から舞台奥に向かって光りを送ることで作り出される演者の影絵は、この場面だけではなく、全編に渡り効果的に用いられている)。

レッサーパンダの帽子(衣装は全て白を基調としており、帽子も白いため、実際はレッサーパンダには見えないのだが)をかぶったランドセルの少年が通りかかった婦人を次々に包丁で刺していく。東京・上野で起こった通り魔殺人事件と、頻発する少年犯罪のメタファーだ。

巨大ビル群が築かれていく繁栄の影で、そうした奇妙な犯罪が起こる要素もまた築かれていたということなのだろうか。

世界貿易センターに突っ込んだ2機の飛行機のモデルを手にした少年、カラシニコフを手にした少年達、北朝鮮のミサイルを思わせる筒を持った少年など、テロリストを連想させる人々が登場するが、それらが単純で直線的なメッセージに回収されることはない。少女の「日常」には含まれていないが、世界にはそうしたものが存在するということだけを示しており、いたずらにメッセージ性や物語性を持たせないのが却って良い。

音楽は単純な動機の繰り返しだが、一時、ミニマルミュージックが隆盛を極めたように、反復される音楽は実に心地良く、それだけで十分ステージに引き込まれる。

魅力溢れるイリュージョンであり、演出も音楽も優れているが、「そろそろ終わりかな?」という場面になっても、また続きが始まってしまうということが度々あったためか、上演時間がやや長く感じた。

維新派は普段は野外に巨大な特設劇場を設けて公演を行っている。今日の劇も、もし野外で行われていたら祝祭性も加わって、より神秘的に見えたことだろう。ただそういった、悪く言えば「誤魔化し」がなくても、幻想的で特殊な舞台の味わいは十分に伝わってきた。

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2020年11月11日 (水)

観劇感想精選(365) 桃園会 「もういいよ」

2006年6月30日 大阪・なんばの精華小劇場にて観劇

大阪の精華小劇場で、桃園会の「もういいよ」を観る。作・演出:深津篤史(ふかつ・しげふみ)。
携帯電話の電源を切るアナウンスは出演者が務めたのだが、その口調から、劇がすでに始まっていることがわかる。

親子が話している。やがてそこが火葬場の一室であることがわかる。関連性があるのかどうかよくわからないナレーションや主人公の内面の言葉がPAで流され、そうしているうちに、先程、携帯電話関連のアナウンスをした女優が再び現れて、アナウンスを繰り返そうとするのだが、そこで映像と音が流れ、場面が一変する。まるで天野天街の演劇を思わせる展開だ。実は天野天街は現在来阪しており、明日は終演後に精華小劇場で深津篤史と対談する。ということで、天野天街を意識した演劇であり、演出であることは確かだろう。

最初のうちは、天野天街的なスタイルが桃園会の演劇には巧く馴染んでいないように思え、「これでは天野天街の真似で終わってしまう」と感じたが、中盤から演出は皮相な模倣スタイルを離れ、独自のメタ演劇へと昇華されていく。

現在、過去、空想、想像、夢、実在しないテレビドラマや映画の世界、現在の主人公、ちょっと前の主人公、子供時代の主人公、主人公の元カノ、主人公が作っている映画で主人公の母親を演じる女優らが入り乱れ、また主人公の母親と妹が一瞬で入れ替わったり、小説の技法である「意識の流れ」を感じるような展開を見せ、「シャッフル」がある。混沌とした演劇であり、場面場面は決してわかりやすくはないのだが、全体を通したとき、単純な構造の芝居では見えなかったはずのものが見えてくる。ハッとさせられる瞬間もいくつかあった。

実験的な要素もあるが、それだけに留まらない「知的な面白さ」がある。「知的な面白さ」と「演劇的面白さ」は必ずしも一致しないのだが、私は両方を感じることが出来た。メタ演劇としても優れた作品になっていたと思う。

ラストにもそっと胸に染み込むような、押しつけがましさのない感動がある。タイトルの「もういいよ」が切なくも優しい言葉であることがここに来てわかる。

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2020年10月27日 (火)

スタジアムにて(29) 読売ジャイアンツ対東京ヤクルトスワローズ@大阪ドーム 2006.4.19

2006年4月19日 大阪ドーム(京セラドーム大阪)にて

京阪電車と大阪市営地下鉄を乗り継ぎ、大阪ドームで読売ジャイアンツ対東京ヤクルトスワローズ戦を観戦。もちろん3塁側(ヤクルトサイド)に座ったのだが、大阪ドームを埋める観客の9割近くはジャイアンツファンであり、ヤクルト応援団はレフト側の外野2階席の一部を占めるのみである。
一方、1階外野席と2階外野席のライト側、そしてレフト側の中間付近までは全てジャイアンツの応援団である。やはり人数が多いだけあって、声の迫力は耳を圧せんばかりである。特にチャンス時の声援は、ドームを揺るがすほどのパワーがある。

巨人軍の先発は尼崎出身の野間口貴彦。東京ヤクルトの先発は5年連続2けた勝利を狙う石川雅規。

野間口は初回から乱調。先頭打者の青木宣親にフォアボールを出す。真中満のヒットと岩村明憲の犠飛で三塁を陥れた青木は、ラミレスの犠牲フライで生還。ヤクルトが1点を先制する。

その後も、野間口は再び青木を歩かせると、完全にモーションを盗まれて二盗を許す。キャッチャー阿部慎之助が送球体勢に入った時にはすでに青木は二塁ベースに達していた。ヤクルトは続く二人が立て続けに犠牲フライを打って、ノーヒットで2点目を奪う。

原辰徳監督の采配にも疑問が残る。ピンチでヤクルトの8番バッター、キャッチャー米野智人を迎えた場面が二度あった。米野は打率1割台のバッターである。しかし、ここで原監督は2回とも米野との勝負を避けて敬遠のフォアボールを与え、続くピッチャー石川との対決を選んだ。
野間口はコントロールがどうしようもなかったので安全策としてわかるが、原監督は二番手の久保にも米野を歩かせるよう指示を出した。慎重といえば慎重だが、弱腰采配であることは否めない。ピッチャーにしてみれば全く信頼されてないことがわかってしまい、士気に影響が出る。結果、巨人は出るピッチャーがことごとく打ち込まれ、8失点。ピッチャー心理を読めなかった原監督のミスだろう。

東京ヤクルトの先発・石川雅規は、スピードはないがコントロールが冴え、徹底して低めを攻めて、ジャイアンツ打線を1点に抑える。
石川は7回まで投げ、8回からは木田優夫が古巣・巨人相手のマウンドに上がる。球に勢いがある。スピードガン計時もMAX148キロを記録したが、それ以上の球威を感じる。だが、かつての木田のストレートはこんなものではなかった。もう15年も前になるが、神宮球場でのヤクルト戦(当時、木田は巨人に在籍)でブルペンで投げる木田を見たことがあるが、彼の投げたボールは生き物のように勝手に飛んでいくように見えた。人間が投げたボールとは思えなかったほどだ。今日の木田のストレートもスピードガンでの表示は以前と余り変わらない。しかし投げる球の質が変わってしまったようだ。木田はワイルドピッチで1点を失う。しかし、スコアは8対2。8回裏が終わった時点で、観客はどんどん帰り始める。

スワローズ最後のピッチャーは快速右腕・五十嵐亮太。MAXは149キロを記録。しかし生で見ると、ボールに勢いを感じない。スピードはあるのだが、伸びがないのだろうか。高めに投げた釣り球をあっさりと弾き返されたのがその証拠である。普通ならあのコースにあれだけの速さのボールを投げ込まれたら絶対に空振りするはずなのだが。それでも五十嵐はなんとか0点に抑える。8対2で東京ヤクルトスワローズの完勝であった。

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2020年10月12日 (月)

観劇感想精選(358) 近松劇場パート20ファイナル わかぎゑふ作・マキノノゾミ演出「夢のひと」

2006年3月20日 吹田メイシアター中ホールにて観劇

阪急吹田駅前にある吹田メイシアター中ホールで、近松劇場パート20ファイナル「夢のひと」を観る。近松劇場とは、吹田メイシアターが、近松門左衛門の戯曲を関西の有名劇作家が現代風にアレンジした作品の上演を毎年続けてきたもので、今年で20年目を迎えた。そして今回がラストとなる。

ファイナルを飾る「夢のひと」は近松の特定の作品をアレンジしたものではなく、わかぎゑふによるほぼオリジナルの作品。
舞台は女郎屋であり、当初わかぎは、「心中ものを書こう!」と思っていたが、けっきょくは「死ぬ人の物語ではなく、生きぬく人の話に」なった(パンフレットに書かれた、わかぎゑふの文章より)。

ファイナルということで、今回は、かつての関西小演劇会を代表する俳優であり、現在は東京を本拠地に、テレビ、映画、舞台などで活躍する升毅を主演俳優に、東京の北区つかこうへい劇団から木下智恵をヒロインに迎え、吹田メイシアター中ホールでの上演となった(これまでは小ホールでの上演であった)。演出は、劇団M.O.P.のマキノノゾミ。

昭和初期。大阪にある女郎屋の「梅川」に、久我山陽一郎(升毅)という三越の社員がなぜか住み着いていた。ある日、「梅川」に上田千代(木下智恵)という広島出身の若い女が売られてくる。夜中、陽一郎が「梅川」に帰ってくると、彼を泥棒と勘違いした千代が火鉢を手に出ていくよう迫る。その勘違いが、陽一郎と千代との出会いであった……。

物語はわかりやすく、きちんとしている。余計と思われるストーリーもあるが、それも一興。くさいセリフと演技によるシーンがあるのも一興。くさいセリフも良い俳優が言うと格好良く聞こえるのだから不思議だ。

ただ、何かが足りなくて、何かが多すぎるような気もする。バランスが微妙に悪いのだ。2時間10分ほどの公演だったが、陽一郎と千代がメインの恋愛話になるまでに1時間半近くを要したのが、あるいはバランスの悪さを感じさせた一因なのかも知れない。

マキノ演出とわかぎ脚本の相性はそれほど良くないのかも知れないが、役者は総じて高レベルであった。

明日は、ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦であり、升毅が王ジャパンへの期待を語った。

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2020年9月15日 (火)

コンサートの記(654) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪クラシック2020第1公演 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」@大阪市中央公会堂大集会室

2020年9月13日 中之島の大阪市中央公会堂大集会室にて

正午から中之島にある大阪市中央公会堂大集会室で、大阪クラシック2020の第1公演を聴く。大阪クラシックのプロデューサーである大植英次指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団によるドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の演奏である。

大フィルにとって「新世界」交響曲は特別な曲である。1947年、まだ焼け跡の残る大阪で、当時は関西交響楽団と名乗っていた大阪フィルハーモニー交響楽団(定期演奏会の数なども数え直しているため別団体の扱いではあるが)の第1回定期演奏会が朝日会館(現在のフェスティバルホールの向かい、フェスティバルタワーウエストの場所にあった)で行われたが、その最初の曲目が「新世界」であった。戦災からの復興を願い、「新たなる世界」への出発の意を込めた選曲だったと思われる。指揮は勿論、朝比奈隆であった。

新型コロナウイルスの流行による自粛などもあり、大阪も文化・経済活動に大きな打撃を被った。戦争でこそないが、危機からの再出発と音楽文化の隆盛への願いを込め、また大フィルの原点回帰として、最初の曲目に「新世界」交響曲が選ばれたのだと思われる。

 

今回の大阪クラシック2020では無料公演は行われないが(無料公演だとチケットなしになるため、聴衆の住所や行動ルートなどの追跡が一切不可能となってしまう)、代わりにYouTubeを使った無料配信が行われ、1ヶ月程度であるがアーカイブの視聴も可能となる(大阪クラシック2020のホームページからYouTubeチャンネルに飛べるようになっている)。

大阪市中央公会堂の実施設計を行ったのは、東京駅や日本銀行などを手掛けたことで知られる辰野金吾であるが、辰野は今から約100年前に日本を襲ったパンデミックであるスペインかぜに罹患して亡くなっている。
大阪クラシックの第1公演は基本的に大阪市中央公会堂大集会室で行われる。そのため今回のためにこの場所が選ばれたわけではないが、因縁を感じないでもない。

大集会室へは東側のゲートから入るのであるが、手のアルコール消毒と検温が必要となり、チケットの半券も自分でもぎって箱に入れる。強制ではないが、大阪府独自の追跡サービスにメールを送る形でのチェックインを行うことも推奨されている。

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「新世界」交響曲のラストは、「corona(フェルマータの別名)」「dim.(ディミヌエンド。徐々に弱く)」「ppp(ピアニッシモシモ。最弱より弱く)」という指示で終わるため、やはり「新世界」交響曲を演奏する京都市交響楽団の団員が、「これってひょっとして」というメッセージをTwitterで発していた。
私も自分の目で確かめたかったので、「新世界」交響曲のポケットスコアを買って(JEUGIA三条本店が改修工事中であったため、Amazonで取り寄せた)ラストのみならずあちこちを確認。今日もスコアを持ってきていたので、要所要所はスコアを確認しながら聴く。当然ながらスコアを見ながら聴くと、普段なら気がつかないところにも気がつくようになる。ただずっと眺めながら聴いていると「学問的鑑賞」になってしまうため、それは避けた。知だけでは駄目だ、というより知は怖ろしい。

今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大が入る。ドイツ式の現代配置での演奏。古い建物の常として大阪市中央公会堂大集会室は傾斜が緩やかで、オーケストラのメンバーが良く見えなかったりするのだが、音が主役なのでそれは特に問題にはならない。

大植英次が現れ、指揮台に上って一礼。するとスタッフがアルコール消毒液を持ってきて、大植が自分でポンプを押して手を消毒するというパフォーマンスが行われ、笑い声が起こっていた。今日の大植はいつもに比べると抑えた指揮姿であり、なかなか格好いい。

 

どちらかというと流れて音楽を作るタイプの大植英次であるが、今日の「新世界」はじっくりとした歩みと堅牢なフォルムが目立つ演奏となる。演奏される機会が多く、「通俗名曲」と見做されることもあるこの曲を特別な作品として再現しようという意志があったのかも知れないが、印象に残る演奏であり、もしそういう意図があったとしたのなら大成功であったと思われる。

丁寧な造形美と確かな情熱を感じさせる演奏であり、ヘルベルト・ブロムシュテットの音楽性(私はブロムシュテット指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による「新世界」をザ・シンフォニーホールで聴いたことがある)にやや仄暗さを加えたような「新世界」となる。

第2楽章では冒頭のトロンボーンがややずれたが、全体としては瑞々しい出来であり、コロナ前の大阪のクラシックシーンを回顧するような趣もあるが、むしろここはこれからの大阪への希望と捉えた方が良いのかも知れない。ノスタルジアに浸るのも良いだろうが、大阪の音楽界が終わったわけではない。20世紀には色々と叩かれることの多かった日本人によるクラシック音楽演奏であるが、ようやく世界水準に達した。日本におけるクラシック音楽の歴史がたかだか150年程度であることを考えると長足の進歩なのだが、まだまだこれからなのだ。過去よりも未来である。

新しい力がふつふつと湧き上がるような第3楽章を経て、第4楽章へ。ここで大植はかなり遅いテンポを採用。勢い任せな演奏になりがちな第4楽章であるが、音をかなり伸ばすことで、ジョン・ウィリアムズの「JAWS」の音楽のような不穏さを出す。そこから加速して盛り上がるが、皮相さはゼロ。明日への思いに満ちた誠実な演奏となる。大フィルも熱演だ。
ラストもコロナ収束への思いというよりも更に先の未来への期待を込めたかのような朝比奈にも繋がる終わり方であり、それまでの渋さから解き放たれたかのような明るめの音色と浮遊感が印象的であった。

 

演奏終了後、大植英次がマイクを手にスピーチを行う。ここで飛沫防止のためのシートを支柱で挟んだ特製器具が登場する。今日のために作ったものだと思われる。大植は、こんな状況であっても大阪クラシックが開催出来たことへの感謝を述べるが、「その原動力となったのは大阪市民の皆さんの熱意です」と語る。「どうしても大阪クラシックをやって欲しい」という声が多く、大植も心動かされたそうだ。大植は「健康にだけは気をつけて下さい」とも語る。

アンコール演奏のための楽団員がステージに姿を現しており、当然ながらアンコール演奏が行われると思われたのだが、大植は引っ込んでしまい、大フィルのメンバーも「あれ?」という表情で顔を見合わせている。大植は再度登場して、「終わりです」というポーズをし、大フィルのメンバーも「アンコールなしになったのかな?」ということでコンサートマスターの崔文洙もお辞儀をしたのだが、やはりアンコール演奏はあり、大植が完全に失念していたことが分かった。大植は指揮台に戻り、「年取ったのかな?」などと述べる。

 

アンコール曲は、ヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「観光列車」。ドヴォルザークが大の鉄道好きであったことから、その関連で選ばれた曲だと思われる。軽快でユーモアに富んだ音楽と演奏だ。こうした演奏を聴くと大フィルもかなり器用な楽団になったことが確認される。大阪市中央公会堂大集会室の「大大阪時代」の名残を留めるレトロでお洒落な内装もヨハン・シュトラウスⅡ世にピッタリであり、「ある意味、今年が音楽のニューイヤー」という気分にもなる。

 

その後も、大阪市中央公会堂の中集会室や大集会室で今年生誕250年を迎えたベートーヴェンの室内楽曲の演奏会があるのだが、間が空いてしまうということもあってチケットは取っておらず、周辺の美術館などに寄ろうかなどとも考えていたがそのまま京都に帰ることにする。演奏会場よりも電車にいる時間の方が長くなるが、それでも十分に思えるほど「新世界」交響曲の演奏は良かった。淀屋橋駅の京阪ジューサーバーで和梨の生搾りジュースを飲み、大阪を後にする。

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2020年9月13日 (日)

観劇感想精選(352) 大槻能楽堂 「野村万作 萬斎狂言会 第25回記念」SD版振替公演

2020年9月8日 大阪・上町の大槻能楽堂にて観劇

午後7時から、大阪・上町の大槻能楽堂で「野村万作 萬斎狂言会 第25回記念」SD版振替公演を観る。SDは「Social Distance」の略で、一度売れたチケットを全て払い戻し、使用出来る客席を減らした上で再発売している。他の劇場公演同様、両隣を最低1席空けた上での鑑賞となる。

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この公演でもチケットは自分で半券を切り、手のアルコール消毒と検温の必要がある。また大阪府独自の追跡サービスに登録するか、スマートフォンや携帯がサービス非対応か、そうしたものを持ち歩いていない人は氏名や住所などを用紙に記入する必要がある。

 

まず野村万作による芸話が15分ほどあり、その後に野村裕基による小舞「名取川」、野村萬斎と野村太一郎による「清水(しみず)」。休憩を挟んで、野村萬斎、野村万作、野村裕基の三代共演となる「業平餅」が上演される。

 

野村万作の芸話。孫の野村裕基が先日、「奈須與市語」への初挑戦(「披く(ひらく)」」というそうである)を務め、今度は弟子達に「釣狐」の稽古を付けているという話から、自身が若い頃に「釣狐」を演じた時の話をする。現在は能舞台が横浜能楽堂に移築されている染井能楽堂で「釣狐」をやった二十代の頃の話である。まだ若く、運動神経にも自身があったことから張り切って挑んだが、舞台と橋掛かりを何度も行き来する必要があったため息切れが酷くなり、「気になる」と不評であった。そのため、再度「釣狐」に挑んだ時は復讐として慎重に演じたという話をする。何度も演じていく上で万作なりの工夫を凝らすことになるのだが、今行っている弟子への稽古は自分が付けた工夫は全て取り払い、昔、父親から教わった通りの「釣狐」に戻しているという。狂言は伝承が大切であり、自分がつけた色をそのまま伝えると元の形から逸脱したものが後世に残ってしまうため、それは避ける必要がある。
「釣狐」は、万作が「卒業論文のようなもの」と表現するほど狂言方にとって重要なものであるが、「釣狐」を演じることで得た技術は他の狂言を行う時にも生きるそうである。

 

小舞「名取川」。日本各地の川の名が読み上げられる川尽くしの舞である。
野村萬斎の長男、野村裕基は、清潔感に溢れる見た目と仕草が印象的。父親に顔は余り似ていないが声はそっくりである。

 

水繋がりとなる「清水」。主人(野村太一郎)が茶会を開くことになったので、良い水を汲む必要があり、太郎冠者(野村萬斎)に秘蔵の手桶を持たせ、野中の清水を汲みに行かせる。太郎冠者は、「居間での仕事があるので次郎冠者にお命じ下さい」という意味のことを言うが、主人は太郎冠者に行くよう命令する。この作品での太郎冠者は結構反抗的である。「女子どもにも出来る仕事」と不満を言い、こんなことをしていては茶会がある度に水汲みに行かせられる羽目になると嘆く。そこで太郎冠者は「清水で水を汲もうとしたところ、山の向こうから鬼が駆けて来た」と嘘をつき、水汲みの仕事をさぼる。だが主人は太郎冠者に持たせた秘蔵の手桶が気になり(主人は手桶の方が太郎冠者の命より大事らしい)、自ら清水へと赴く。太郎冠者は主人を追い返すために、鬼に化けて現れ、主人を脅すのだが……。

野村萬斎が時折行う口語調というか、開いた感じというか、いわゆる狂言の節とは違った台詞回しが絶妙のアクセントとなり、笑いを誘う。「狂言の革命児」野村萬斎の真骨頂である。狂言とはまた違った西洋音楽的、というと語弊があるかも知れないが、異質の台詞を挿入することで生まれる一種の「異化」効果によって、これまでの狂言とは別種の面白さが生まれている。あるいはこの「工夫」は萬斎一代で終わるものなのかも知れないが、彼が与えた影響は今後も形を変えて残っていく可能性が高い。

 

「業平餅」。色男の代名詞の一人である在原業平を主人公にした作品である。狂言は、「この辺りの者でござる」という口上が多いことからも分かるが、「その辺の人」が演じられることが多く、歴史上の人物が登場することは比較的珍しい。

橋掛かりから現れた野村萬斎は流石の気品。「おお! 業平だ!」と感嘆する。

業平が、歌人でありながらまだ歌道の神社である紀伊・玉津島明神に参拝したことがないというので、従者を引き連れて参詣に向かう途中の話である。
朝臣(ここでは「あそん」ではなく「ちょうしん」と読む)在原業平は和歌の名手と認められ、容姿の良さも相まって女からはモテモテであったが、政争に敗れた上、漢詩など、当時は和歌よりも上とされた学芸が不得手であったため、出世は叶わなかった(実際は晩年にそれなりに出世はしたようである)。というわけで金がない。
道中で売られていた餅が食べたくなった業平は、餅屋(石田幸雄)に、金の代わりに歌を詠もうと提案するが断られる。業平は、干ばつの時、小野小町が神泉苑での雨乞いで、「ことわりや日の本なれば照りもせめ さりとてはまたあめが下かは(日の本の国なので、日が照るのも道理でしょう。しかしながら、天が下というからには雨が降らないのはおかしい)」という歌を詠んで雨を降らすことに成功し、その褒美として餅を貰ったという話をして、餅と歌との繋がりを説くが、そんなことで餅屋が納得するはずもない。
業平はならばと、餅尽くしの歌を延々と披露し(ここで冒頭の小舞「名取川」と繋がり、循環する)、餅屋を驚嘆させる。業平が自らの正体を明かすと餅屋は「娘が一人いるが宮仕えを望んでいる」と語る。好色である業平は娘(野村裕基が面を被って演じている)をものにしようとするが……。

茂山千五郎家の「YouTubeで逢いましょう!」で観た「吹取」によく似た展開であり、娘を他人(この「業平餅」では、野村万作演じる傘持)に押しつけようとする下りもそっくりである。この作品では、「悲劇の才人」「稀代のモテ男」という業平のイメージからの落差が笑いのツボとなっている。


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2020年5月16日 (土)

「日本国民よ、これが関西人だ! 知らんけど」 関西電気保安協会公式チャンネルCM集「ある日突然関西人になってしまった男の物語」全編

ちなみに関東人は、「お仏壇の」と言われたら「はせがわ~♩」と歌うと思います。ちなみに宮崎ではこれ、長野県ではこうなり、その南の静岡県ではこういう風に、熊本に行くとこう変わる。山口県ではこんな歌になっている。更に鳥取ではこんな感じにということで何を歌うかでどこの人かわかるかも知れません。

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2020年3月18日 (水)

2346月日(20) 茨木市立川端康成文学館

2020年2月23日 大阪府茨木市の茨木市立川端康成文学館にて

茨木市立川端康成文学館に向かう。入館無料である。
川端康成は、生まれは大阪市内の天満だが、両親が共に病弱であり、2歳の誕生日を迎える前に開業医であった父親が、3歳の誕生日を迎える前に母親が他界したため、以降、茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)を卒業する18歳まで茨木にある祖父母の家で育っている。

川端も未熟児として生まれ、病弱であったため、小学校に入っても同い年の子などと遊ぶことは難しく、読書をして過ごす時間が長かった。川端の家は、元を辿ると北条平氏に繋がる名家であり、江戸時代には茨木一帯の庄屋を務めていた。祖父の代に没落するが、庄屋ということで父も祖父も教養があり、漢詩や文人画などに通じていた。というわけで祖父は蔵書家でもあり、川端は読む本に困らなかったようである。小学校に上がる前にある程度の読み書きが出来るようになっていた川端にとって学校での授業は退屈であり、授業中にも本を読んで過ごすことがあったようである。
茨木中学校へは片道6キロを歩いて通学。体も次第に丈夫になっていった。祖父は目が不自由であったが、川端に将来画家か小説家になるよう勧めたという。

茨木中学からは第三高等学校(今の京都大学の教養課程)に進む生徒が多いのだが、川端は第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学。東京で寄宿舎生活を送る。「ダルビッシュ有に似ている、もしくはダルビッシュ有が似ている」という写真が撮られたのがこの一高時代である。
一高を卒業すればそのまま東京帝国大学に進めるシステムもあり、川端は文学部英文科に進学。その後、国文科に転科して卒業している。一高から東大という過程が大阪人らしくないため(三高から東大という人は結構いる)、川端が大阪人だと知らない人も結構多そうである。
小説家としての川端は鎌倉市二階堂に居を構え活動を行っている。あるいは先祖の北条氏が治めていた場所だからなのかも知れない。

小さな文学館であり、展示などもそれほど充実しているわけではないが、川端の直筆原稿などを読むことが出来る。映像コーナーもあり、川端康成の生涯を辿るドキュメンタリーや少年時代の川端を描いたアニメーションなどを楽しめるようになっている。
川端の鎌倉二階堂の書斎を再現したコーナーもあり、希望する場合は職員に申し出て執筆体験が出来るようである。川端の小説などを原稿用紙などに模写することになるようだが、私はそれなりの文章を書ける自信はあるので、わざわざ川端になる必要はない。

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2019年12月26日 (木)

観劇感想精選(333) 南船北馬 「これ から の町」

2019年12月13日 大阪・周防町筋のウイングフィールドにて観劇

午後7時30分から、大阪・周防町筋のウイングフィールドで、南西北馬の「これ から の町」を観る。作・演出:棚瀬美幸。
大阪を代表する演劇人の一人である棚瀬美幸。ドイツに留学し、ドイツ人の男性と結婚。大阪でドイツ料理店をやっていたが、このほど閉店。そして、石垣島に移住することにしたそうで、棚瀬美幸が大阪の演劇人として南船北馬で公演を行うのはこれが最後となるようだ。

ウイングフィールドは奥側を舞台として用いることが多いのだが、この公演では奥と手前を客席とし、挟まれる形になったスペースで演技を行う。上から見ると菱形に見える台が置かれていて、これがステージということになるのだが、片方が赤、もう片方が白く塗られており、方位磁針を模したものであることがわかる。

出演は、橋本浩明、桂ゆめ(俳優座)、竹内宏樹(空間悠々劇的)、岩本苑子(少年王者舘)、高橋映美子、出口弥生。

出演者は6人であるが、最後の場面を除き、俳優を入れ替えながら2人ないし3人での芝居が行われるシークエンスが連続する。

関係を整理しておくと、悟(橋本浩明)の妻であったミカの姉が史歩(高橋映美子)。悟の妹が絢奈(桂ゆめ)で、絢奈は睦月(竹内宏樹)と同棲していたが、同じアパートに暮らしていた人が火事を起こして二人の部屋にも煙が充満してしまい、いられなくなったため、絢奈は兄である悟の部屋に移っている。睦月はといえば、もう一人の恋人である麻友(岩本苑子)と日帰り出来る場所を転々とする旅を続けている。観光をするような生やさしものではないという意識を麻友は持っているようだ。麻友は睦月の子どもを身籠もっている。
結月(出口弥生)は睦月の姉である。睦月は背中に瘤があるが、これは子どもの頃、結月の鼓膜が破れるほどの殴り合いの喧嘩をして、姉弟もろとも階段から転げ落ちた際に出来た傷が元で出来たものである。結月は編み物を得意としていて、レッサーパンダのニット帽を編んでいたりする。

ミカが亡くなってから3年が経つ。詳しいことは語られないが、ミカは災害によって亡くなったようである。その災害では多くの人が亡くなり、ミカ自身の遺体も見つかっていない。悟は、自宅をミカがいた時のままに保存している。ミカがいなくなってからの悟は毎日のように家を掃除して清潔に保っている。男としては珍しいが、実は悟はミカの死を受け入れてはおらず、「遺体が見つかっていないので、死んだとはまだ言い切れないはず」として、ミカがいた時の状態のままに家を保っており、いつミカが帰ってきてもいいよう整えていたのであった。史歩(フルネームは田中史歩で、キンタロー。の本名である田中志保と音は一緒である。この役名は漢字も意味ありげだが、音にも意味があり、キンタロー。を意識してつけられた名前ではない。そもそもキンタロー。の本名を知っている人はそれほど多くないはずである)は、3年が経過したため、妹の遺品を引き取りたいと悟に申し込んでいる。史歩は、悟の妹の絢奈を何度も「アヤメ」と言い間違え、悟も最初の内はうちは訂正を入れていたが、無駄だと悟ってスルーするようになる。

睦月と旅を続ける麻友は、睦月の同棲相手であった絢奈や睦月の姉である結月に敵愾心をむき出しにする。とにかく自分の方が睦月を理解しているのだとアピールしたがるのだが、結月に「ほあのきつむ、るたれかわ」という呪文を教わり、絢奈が語る睦月の一面を知り、引き下がることを決意するようになる。ちなみに「ほあのきつむ、るたれかわ」は、「睦月のアホ! 別れたる!」を逆から読んだものである。
資産家の子どもとされる睦月と結月は仲は良いのだが、結月は親からの遺産を睦月に譲る気はない。睦月に遺産を分けるくらいならいっそのこと絢奈に渡した方がましだと思っているのだが、睦月と絢奈にも別れと新たな旅立ちが迫っていた。

悟とミカ、悟と史歩、睦月と絢奈、睦月と麻友、睦月と結月など、とにかく登場人物全てが別れと再出発の季節を迎えており、悟も思い出詰まったこの部屋を出て行くことになる。なんとなくチューリップの「サボテンの花」っぽい展開だが(サボテンの話は実際に劇中に登場する)、大阪の街を離れて新天地へと向かう棚瀬美幸の心境が込められているのだろう。

言葉の食い違いに始まり、やがて登場人物達は逆回しの言葉を話し始める。ミカはカミになる。名古屋生まれで大阪弁のセリフも書いた棚瀬美幸が島ごとに言葉が異なるという沖縄に向かう。
「いゃしっらてっい。ねすでいいとるかつみがばとこいしらたあ」
ダンケシェーン! アウフヴィーダーゼン!

 

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