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2020年10月17日 (土)

観劇感想精選(359) 「ゲルニカ」

2020年10月10日 京都劇場にて観劇

午後6時から、京都劇場で「ゲルニカ」を観る。作:長田育恵(おさだ・いくえ。てがみ座)、演出:栗山民也。栗山民也がパブロ・ピカソの代表作である「ゲルニカ」を直接観た衝撃から、長田に台本執筆を依頼して完成させた作品である。出演:上白石萌歌、中山優馬、勝地涼、早霧せいな(さぎり・せいな)、玉置玲央(たまおき・れお)、松島庄汰、林田一高、後藤剛範(ごとう・たけのり)、谷川昭一郎(たにがわ・しょういちろう)、石村みか、谷田歩、キムラ緑子。音楽:国広和毅。

上白石姉妹の妹さんである上白石萌歌、関西ジャニーズ所属で関西テレビのエンタメ紹介番組「ピーチケパーチケ」レギュラーの中山優馬、本業以外でも話題の勝地涼、京都で学生時代を過ごし、キャリアをスタートさせた実力派女優のキムラ緑子など、魅力的なキャスティングである。

ピカソが代表作となる「ゲルニカ」を描くきっかけとなったバスク地方の都市・ゲルニカでの無差別爆撃に到るまでを描いた歴史劇である。当然ながらスペインが舞台になっているが、コロナ禍で明らかとなった日本の実情も盛り込まれており、単なる異国を描いた作品に終わらせてはいない。

京都劇場のコロナ対策は、ザ・シンフォニーホールでも見た柱形の装置による検温と京都府独自の追跡サービスへのQRコード読み取りによる登録、手指の消毒などである。フェイスシールドを付けたスタッフも多い。前日にメールが届き、半券の裏側に氏名と電話番号を予め書いておくことが求められたが、メールが届かなかったり、チェックをしなかった人のために記入用の机とシルペン(使い捨て用鉛筆)が用意されていた。客席は左右1席空け。京都劇場の2階席は視界を確保するために前の席の斜交いにしているため、前後が1席分完全に空いているわけではないが、距離的には十分だと思われる。

紗幕が上がると、出演者全員が舞台後方のスクリーンの前に横一列に並んでいる。やがてスペイン的な手拍子が始まり、今日が月曜日であり、晴れであること、月曜日にはゲルニカの街には市が立つことがなどが歌われる。詩的な語りや文章の存在もこの劇の特徴となっている。

1936年、スペイン・バスク地方の小都市、ゲルニカ。フランスとスペインに跨がる形で広がっているバスク地方は極めて謎の多い地域として知られている。スペインとフランスの国境を挟んでいるが、バスク人はスペイン人にもフランス人にも似ていない。バスク語を話し、独自の文化を持つ。

バスク地方の領主の娘であるサラ(上白石萌歌)は、テオ(松島庄汰)と結婚することになっていた。サラの父親はすでになく、男の子の残さなかったため、正統的な後継者がこれでようやく決まると思われていた。しかし、フランコ将軍が反乱の狼煙を上げたことで、スペイン全土が揺るぎ、婚礼は中止となる。教会はフランコ率いる反乱軍を支持し、テオも反乱軍の兵士として戦地に赴く。当時のスペイン共和国(第二共和国。スペインは現在は王政が復活している)では、スペイン共産党、スペイン社会労働党等の左派からなる親ソ連の人民戦線が政権を握っており、共産化に反対する人々は反乱軍を支持していた。フランコはその後、世界史上悪名高い軍事独裁政権を築くのであるが、この時には人々はまだそんな未来は知るべくもない。
反共の反乱軍をナチス・ドイツ、ファシスト党政権下のイタリア、軍事政権下のポルトガルが支持。日露戦争に勝利した日本も反乱軍に武器などを送っている。一方、左派の知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルロー、イギリスのジョージ・オーウェルらが共和国側支持の一兵卒として参加していたこともよく知られている。
バスクは思想によって分断され、ゲルニカのあるビスカヤ県は多くが人民戦線を支持する共和国側に立ち、1936年10月、共和国側は、バスクの自治を認める。だが翌1937年4月26日、晴れの月曜日、反乱軍はゲルニカに対して無差別爆撃を行った。市民を巻き込んだ無差別爆撃は、これが史上初となった。当時、パリにいたピカソは怒りに震え、大作「ゲルニカ」の制作を開始する。

 

サラの母親であるマリア(キムラ緑子)は、サラがテオと結婚することで自身の家が往年の輝きを取り戻せると考えていた。バスクは男女同権の気風が強いようだが、家主が女では見くびられたようである。しかし、内戦勃発により婚礼を済まさぬままテオは戦場へと向かい、マリアの期待は裏切られる。その後、サラはマリアから自身が実はマリアの子ではないということを知らされる。今は亡き父親が、ジプシーとの間に生んだ子がサラだったのだ。サラはマリアの下から離れ、かつて料理番として父親に仕えていたイシドロ(谷川昭一郎)の食堂に泊まり込みで働くことを決める。


一方、大学で数学を専攻するイグナシオ(中山優馬)は、大学を辞め、共和国側に参加する意志を固めていた。イグナシオはユダヤ人の血を引いており、そのことで悩んでいた。田園地帯を歩いていたイグナシオはテオとばったり出会い、決闘を行う格好になる。結果としてテオを射殺することになったイグナシオは、テオの遺品である日記に書かれたサラという名の女性を探すことになる。

イシドロの食堂では、ハビエル(玉置玲央)やアントニオ(後藤剛範)らバスク民族党の若者がバスクの誇るについて語るのだが、樫の木の聖地であるゲルニカにバスク人以外が来るべきではないという考えを持っていたり、難民を襲撃するなど排他的な態度を露わにしていた。

一方、従軍記者であるクリフ(イギリス出身。演じるのは勝地涼)とレイチェル(パリから来たと自己紹介している。フランス人なのかどうかは定かでない。演じるのは早霧せいな)はスペイン内戦の取材を各地で行っている。最初は別々に活動していたのだが、フランスのビリアトゥの街で出会い、その後は行動を共にするようになる。レイチェルはこの年に行われた「ヒトラーのオリンピック」ことベルリン・オリンピックを取材しており、嫌悪感を抱いたことを口にする。
レイチェルが事実に即した報道を信条としているのに対し、クリフはいかに人々の耳目を引く記事を書けるかに懸けており、レイチェルの文章を「つまらない」などと評する。二人の書いた記事は、舞台後方のスクリーンに映し出される。

イグナシオからテオの遺品を受け取ったサラは、互いに正統なスペイン人の血を引いていないということを知り、恋に落ちる。だがそれもつかの間、イグナシオには裏の顔があり、入隊した彼はある密命を帯びてマリアの下を訪ねる。それはゲルニカの街の命運を左右する任務であった。マリアは判断を下す。

 

ゲルニカの悲劇に到るまでを描いた歴史劇であるが、世界中が分断という「形の見えない内戦」状態にあることを示唆する内容となっており、見応えのある仕上がりとなっている。

新型コロナウイルスという人類共通の敵の出現により、あるいは歩み寄れる可能性もあった人類であるが、結局は責任のなすりつけ合いや、根拠のない差別や思い込み、エゴイズムとヒロイズムの暗躍、反知性主義の蔓延などにより、今置かれている人類の立場の危うさがより顕著になっただけであった。劇中でクリフが「希望」の残酷さを語るが、それは今まさに多くの人々が感じていることでもある。

クリフはマスコミの代表者でもあるのだが、センセーショナルと承認を求める現代のSNS社会の危うさを体現している存在でもある。
報道や情報もだが、信条や矜持など全てが行き過ぎてしまった社会の先にある危うさが「ゲルニカ」では描かれている。

ゲルニカ爆撃のシーンは、上から紗幕が降りてきて、それに俳優達が絡みつき、押しつぶされる格好となり、ピカソのゲルニカの映像が投影されることで描かれる。映像が終わったところで紗幕が落ち、空白が訪れる。その空白の残酷さを我々は真剣に見つめるべきであるように思われる。

劇はクリフが書き記したゲルニカの惨状によって閉じられる。伝えることの誇りが仄見える場面でもある。

 

姉の上白石萌音と共に、今後が最も期待される女優の一人である上白石萌歌。薩摩美人的な姉とは違い、西洋人のような顔と雰囲気を持つが、姉同様、筋の良さを感じさせる演技力の持ち主である。

 

関西では高い知名度を誇る中山優馬も、イグナシオの知的で誠実な一面や揺れる心情を上手く演じていた。

 

万能女優であるキムラ緑子にこの役はちょっと物足りない気もするが、京都で学生時代を過ごした彼女が、京都の劇場でこの芝居を演じる意味は大いにある。ある意味バスク的ともいえる京都の街でこの劇が、京都に縁のある俳優によって演じられる意味は決して軽くないであろう。

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2020年9月29日 (火)

2346月日(25) 「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」 2020年9月20日 厳選プログラムB・井伊直岳「彦根城の近代」

2020年9月20日 びわ湖ホール中ホールにて

午後2時40分からの講演(厳選プログラムB)「彦根城の近代」。担当者である井伊直岳は彦根井伊家(井伊掃部頭家)の18代目であるが、血の繋がりはない。三重県生まれ、京都大学大学院博士後期課程単位取得退学。彦根井伊家17代目・井伊直豪の長女である井伊裕子と結婚して井伊家に入り、18代目当主となる。元々の名前は岳夫であったが、井伊家を継いだということで、通字である「直」を付けて直岳と改めている(戸籍上は変わっていないようである)。

彦根城が取り上げられるということで、人気のゆるキャラ、ひこにゃんも登場した。

国宝に指定されている彦根城。私も何度も訪れているが、天守を始めとする建物の保存状態も良く、人気の高い城郭である。

関ヶ原の戦いの後、石田三成の居城であった佐和山城の城主となった井伊直政であるが、三成は善政を敷いていたため慕う人も多く、このままでは領民を味方に出来ないということで新たなる拠点を築く必要があった。直政は、佐和山城よりも北にある磯山への築城を目指すが、関ヶ原で受けた手傷の悪化により死去。磯山に城を築くとなるとかなり巨大な城郭となるため、政庁の性格が強い近代城郭を築くに相応しい金亀山(こんきやま。別名・彦根山)に場所を改めて建てられたのが彦根城である。佐和山城や長浜城、大津城に使われていた木材が再利用され、優雅な桃山風の天守は大津城からの移築とされる。

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内堀、中堀、外堀の三重の堀を持ち、湖上交通の要衝でもあった彦根は近江国の中心地として栄えることになる。

江戸時代には当然ながら井伊家の本拠地として中堀より内側は厳しい入場規制が行われていた彦根城だが、維新後の廃藩置県によって多くの大名が華族として東京に移ると、城郭は兵部省の管轄となり、更に陸軍省に所管を変える。

明治6年(1873)1月には全国の城郭は「存城」か「廃城」かに分けられ、ほとんどの城は廃城となったが、彦根城は城内が兵舎として利用されており、存城となった。同年5月には管理者が陸軍省から滋賀県に移る。

多くの城の天守がこの時に取り壊しとなっており、彦根城の天守も解体される予定だったが、一説によると井伊直憲の娘を妻としていた佐賀鍋島氏の家臣の出である大隈重信による明治天皇への奏上もあり、明治天皇の特旨により彦根城の保存が決まる。明確に「保存」であり、管理が行われることになった。

彦根城はその後、表御殿に彦根県の県庁が入り、その後、県が拡大して長浜県となるとその県庁ともなった。内堀の内側に官庁が置かれたのはこの時までで、県が更に拡大して犬上県となると県庁は中堀に面した西郷・庵原屋敷跡に置かれた。その直後に滋賀県が発足し、県庁は彦根市ではなく大津市に置かれることになる。

彦根の藩校・弘道館の跡には明治9年(1876)に金亀教校という浄土真宗本願寺派の学校が建つ。この学校は、金亀仏教中学、第三仏教中学と名前を変え、明治42年(1900)に京都市下京区に移転。高校野球でお馴染みの平安高校(現・龍谷大平安高校)の前身となった。
第三仏教中学の跡地には彦根町立尋常小学校付設工業学校などを経て、現在、彦根市立西中学校が建っている。

彦根城の内堀と中堀の間にはその他にも多くの学校が建ち、文教地区となった。滋賀県立尋常中学校は、その後、滋賀県内屈指の進学校となる滋賀県立彦根東高校となり、彦根高等商業学校は滋賀大学経済学部(滋賀大学の本部は、教育学部のある大津キャンパスではなくここにある)へと発展する。近江実修工業学校は、野球が強いことで有名な近江高校となった。

その他にも招魂社が築かれ、明治43年(1910)には、皇太子(春宮)嘉仁親王(後の大正天皇)が彦根に行啓した時には、宿舎として迎春館が作られた(昭和22年解体)。
大正4年には初の本格的文化施設である彦根公会堂が完成する。

彦根城内では、明治9年(1876)に地方都市としては初となる博覧会が開催されるなどしたが、明治27年に、彦根城は井伊氏の所有に戻る。大正3年(1914)に彦根町長から彦根城の貸与願いが井伊家に出され、翌大正4年から彦根城内は一般に開放され、彦根観光の目玉となった。その後、内堀沿いに桜の木が植えられ、名所としての強化がなされる。

戦時下において彦根城は井伊直弼と共に彦根市民の愛国・愛郷精神の象徴とされ、市民精神の高揚のために彦根市長が井伊家に貸与ではなく寄付願いを出し、昭和19年(1944)2月13日付けで彦根城は彦根市に無償で寄付され、今と同じ形態での管理が始まることになる。

なお、彦根城は世界遺産への登録を目指しており、何度も見送りが続いているが(「日本の城郭文化としてすでに姫路城が登録されているため」とされる)、最近もまた彦根城はユネスコへの推薦状作成に取りかかっているそうで、最後はまたひこにゃんが登場して、アピールのための撮影会も行われた。残念ながらスマホの起動に時間が掛かったために私は写真は撮れなかったのだが、色々なところに今日のひこにゃんの写真が載るはずである。

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2346月日(24) 「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」2020年9月20日 厳選プログラムA・中井均「守護・戦国大名の居城」

2020年9月20日 びわ湖ホール中ホールにて

びわ湖ホールで今日と明日行われる「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」に参加する。
毎年、横浜で行われているお城好きのためのイベント、「お城EXPO」。今年初めて出張として大津でも行われることになった。本当は8月に行われるはずだったのだが、新型コロナの影響で1月遅れの開催となった。

今日は中ホールで講演が3つ行われる。そのうちの第1回目(厳選プログラムA)の中井均滋賀県立大学教授と、2回目(厳選プログラムB)の彦根井伊家の現在のご当主で、彦根博物館館長の井伊直岳の講演を聴く。

新型コロナによる公演の中止や延期もあり、びわ湖ホールに来るのは実に1年2ヶ月ぶりとなった。
京阪びわ湖浜大津駅から、びわ湖ホールまで、久しぶりにゆっくりと湖畔を歩く。

今回の「出張!お城EXPO」の公演は、オンラインでも有料で配信されるのだが、配信された映像の転載は禁止であり、また詳しく内容を乗せることも禁じられている。何回も再生することで一字一句間違いなく書き起こすことも可能になるのだが、その場合、より高い値段で講演を聴いた人が損をする可能性があるためだと思われる。

私自身は有料でびわ湖ホール中ホール内に入って聴講したのだが、詳しい内容を紹介するのもどうかを思うので、ほどほどに留める。

 

まず、三日月大造滋賀県知事による挨拶がある。「三日月という変わった名前でありますが、本名であります。一生、満月にはなれません」と冗談を言うが、客席は無反応。大阪の人が余り来ていないのか、そもそも城郭好きに真面目な人が多いのかのどちらかであると思われる。「滋賀県には1300もの城館跡がある。琵琶湖があるから城館が多いのか、城館が多いから琵琶湖が……、それはありませんね」と再び冗談を言うも、客席から反応はなく、三日月知事も「冗談を言ったら笑って欲しい」と述べていた。関西といっても大阪府以外の人はお笑いに特別興味があるというわけではないのだが、考えてみれば笑いによるコミュニケーションというのはかなり高度なものであると思われる。笑いによって話が順調に進むこともあるため、ある程度の笑う姿勢というものは大事になってくる。

 

中井均による講演「守護・戦国大名の居城」。
彦根市にある滋賀県立大学人間文化学部の教授である中井均。大阪府枚方市に生まれ、龍谷大学文学部史学科を卒業。米原市や滋賀県の教育委員会、長浜城歴史博物館館長などを経て、滋賀県立大学の准教授に就任し、教授に昇格している。専攻は中近世の城館遺跡。

現在では「お城」というと、石垣が聳え、櫓や天守が威容を誇る巨大城郭を連想することが多いが、室町時代中期までは平地にそれほど広くない堀を掘り、塀で囲んだだけの「館(たち、たて)」と呼ばれるものが、武士の居館であった。土木技術の問題もあったと思われるが、それで十分であったということでもあろう。しかし戦国時代に入ると、館では戦に耐えられなくなり、山に築く山城が現れるようになる。初期の山城は多くの場合、山上の郭は詰めの城として平時は使わず、麓の居館で過ごして、いざ戦となると山に登って籠城というのが基本パターンであった。だが、実はそうでない城もあったということである。

取り上げるのは近江八幡市にある観音寺城である。近江国守護、六角氏の居城であり、織田信長がすぐそばに安土城を築いた際、石垣の多くを移したことでも知られている。観音寺城の石垣は今も残っており、近くを通るJRの車窓からも見ることが出来る。

近江国は佐々木源氏が代々守護を務めている。佐々木氏の発祥の地は安土(平成の合併により近江八幡市安土となった)であり、安土には沙沙貴神社という佐々木氏の氏神を祀る神社が今もある。その佐々木氏が時代を経て4つに分かれる。湖西の大原氏と高島氏という2つの家はそれほど有名ではないが、琵琶湖の東側の南半分を支配した六角氏と北半分の領主となった京極氏は共に名が知られている。六角氏は京都の六角通東洞院に、京極氏は同じく京極通(今の寺町通)高辻に館を構えていたことからその名がある。

六角氏の居城である観音寺城は、実は最初に築いた時は居城としてではなかった。築かれたのは南北朝時代であり、楠木正成の千早城や赤坂城のように、当時の山城というのは籠城するための臨時のものであった。

その後、六角氏は観音寺城を居城とするのだが、観音寺城は城の名に「寺」が入っていることからも分かる通り、観音寺という寺院があったところに築かれている。石垣を使った初の本格的な城であったが、これも寺院と関連がある。実はこの時代にはまだ武士は石垣を築く技術を持っておらず、せいぜい簡素な石積みがなせる程度。一方、寺院は石垣の技術を保有していた。観音寺城は寺院勢力に石垣の技術を教わることで完成した城だったのだ。戦国時代の城郭の石垣というと、石をそのまま積み上げた「野面積み」が一般的だが、観音寺城は石を砕いて積み上げており、寺院の石垣の技術は武士よりも大分先行していたと思われる。

観音寺城は、本丸は山頂にはない。山頂は観音寺のための聖地であり、城郭は意図的に山頂より下に築かれている。昔から「城郭は交通や防衛の要地に築かれる」といわれてきたが、実際はそうした場所にはすでに寺院や仏教の聖地がある場合が多く、寺院で暮らす人々は山内に建造物を築いて山で生活することに長けていたため、武士達はそれを参考に出来たのであろう。近江の城の中で最も有名なのは彦根城であるが、彦根城が建つ金亀山(彦根山)も以前は仏教や神道の聖地であった。

観音寺城に見られる面白い点は、山麓に館(御屋形)はあるが、近江国守護のものとしては小さいということである。一辺の長さは70m程度しかない。一般的な守護の屋形は最低でも一辺100mは超えるため、かなり小さいということになるが、観音寺城は発掘調査によって山内の郭に巨大な建造物のあった可能性が高いことが明らかになったそうで、山城を詰めの城としてではなく居住空間としており、客人などを迎える時に山麓の館を使用していた可能性が高いことがわかったそうである。

 

一方、近江の北で権勢を誇った京極氏。六角氏の同族にして六角氏を凌ぐだけの力を持っていたが、近江国守護は佐々木源氏嫡流の六角氏であり、京極氏は近江ではなく、飛騨、出雲、隠岐の守護を務めている。山名、一色、赤松氏らと共に室町幕府の四職に数えられた名門だ。浅井長政の娘である初が嫁ぎ、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城籠城戦で活躍した京極高次が出たことで知られ、後には日本の名城の一つ讃岐丸亀城を居城としたことでも知られる。
京極氏の居城は、上平寺城である。

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観音寺城に比べると知名度が低いが、米原市内、伊吹山の南腹に建てられた上平寺を利用した堅固な城である。ただ滋賀県の北の方は熊が出る、更にヒルやダニが害をなすというので中々近寄ることが出来ず、そのため知名度が上がらなかったそうである。今では米原市の職員によって雑草が刈られるなど整備され、かなり上りやすい城となったそうだ。
上平寺城には室町時代からの居館庭園が残っているが、これは日本に3つしか残っていない室町以来の居館庭園の1つとなるそうだ。足利将軍家の花の御所(室町第)でもそうだが、室町時代の居館では庭園が重要視されていたそうである。

 

最後は、京極氏の家臣から戦国大名へとのし上がった浅井氏の居城、小谷城。難攻不落の名城としてその名も高い。
京極氏を江北から追い出し、新たな支配者となった浅井亮政が築いたのが小谷城である。浅井氏はそれまでは丁野(ようの)という場所に居館を構えていたが、領地を見渡せる場所に小谷城を築いて移っている。自身が北近江の支配者となったことを示すためのデモストレーションも兼ねていたようだ。

小谷城は本丸の更に奥に京極丸、山王丸などが並ぶ巨大な山城であり、背後には大嶽(おおずく)と呼ばれる詰めの城があった。
とにかく巨大な城であるため、織田信長も落とすまでに3年を要している。落城後は羽柴秀吉の居城となるが、秀吉は巨大な山城は時代に合わないと思ったのか今浜に新たな城を築き、地名も織田信長の「長」を取って長浜に変えている。だが、長浜城が完成するまでは秀吉は小谷城で過ごしている。

小谷城からは36000点もの陶磁器が出土しているが、どれだけ調べても焼けた跡は見つからず、小谷城は落城こそしたものの炎上はしなかったと見られている。そもそも「落城=炎上」は後世のステレオタイプの産物のようだ。
なお、彦根城に小谷城の天守の移築と伝わる西の丸三重櫓が建っているが、江戸時代に老朽化のために破却され、新たに建て直された可能性が高く、外観も戦国時代の城を反映しているとは思えないものである。

小谷城も遺物から人々が山上で暮らしていたことは確かなようで、茶々、初、江の浅井三姉妹も小谷城の主郭で暮らしていた。麓の清水谷に浅井屋敷といわれる館があったが、これは饗応の場所だったようである。

三姉妹の三女である江こと、お江与(えど)の方は徳川秀忠の正室となって家光を生み、浅井氏の血は徳川将軍家に流れることになった。
ということで、小谷城には徳川将軍家16代目の徳川家達(幼名:田安亀之助)の揮毫による顕彰碑が建っている。


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2020年9月17日 (木)

これまでに観た映画より(209) 三谷幸喜 原作・脚本 市川準監督作品「竜馬の妻とその夫と愛人」

2020年9月14日

録画してまだ観ていなかった日本映画「竜馬の妻とその夫と愛人」を観る。市川準監督作品。原作・脚本:三谷幸喜。三谷幸喜が佐藤B作率いる劇団東京ヴォードヴィルショーのために書き下ろした舞台作品の映画化で、三谷幸喜もカメオ出演している。
2002年の映画であるが、意図的に「古さ」を出す画が撮られている。出演:木梨憲武、鈴木京香、江口洋介、橋爪功、トータス松本、小林聡美、中井貴一ほか。音楽:谷川賢作。

フォスター作曲の「金髪のジェニー」とアイルランド民謡「ダニー・ボーイ」の谷川賢作編曲版が何度も流れ、ノスタルジアをくすぐる。

舞台となるのは、明治13年(1880)である。坂本竜馬(トータス松本。回想シーンのみの出演)の13回忌が京都の霊山で大々的に執り行われることが決まり、勝海舟(橋爪功)は竜馬の妻であったおりょう(鈴木京香)の動向を気にしている。13回忌にはおりょうにも出席して貰いたいのだが、今でも彼女が坂本竜馬の妻に相応しい生き方をしているのかどうか。勝はおりょうの義理の弟(おりょうの妹であるきみえの旦那)に当たる菅野覚兵衛(中井貴一)におりょうの様子を探るよう命じる。
菅野覚兵衛は、千屋寅之助を名乗っていた時代に土佐勤王党や海援隊に所属していた実在の人物であり、竜馬亡き後、おりょうの面倒を見ていたことがある。

おりょうは西村松兵衛(木梨憲武)と再婚し、神奈川県横須賀市のボロ長屋で暮らしていた。旦那の松兵衛はテキ屋などをして暮らしている甲斐性のない男であり、竜馬の妻の今の夫として相応しいとは思えない。実は覚兵衛は以前、松兵衛に海軍の仕事を世話してやったことがあるのだが、松兵衛のうっかりミスが原因ですぐにクビになってしまっている。

横須賀のテキ屋の元締めとして頭角を現している虎蔵という男(後に「新選組!」で坂本龍馬を演じることになる江口洋介が扮している。虎蔵の名は、おりょうに懸想していたことでも知られる近藤勇の愛刀・虎徹に由来するのかも知れないが本当のところはよくわからない)を、おりょうは気に入る。竜馬と同じ土佐出身で、土佐弁を喋るが、虎蔵は坂本竜馬なる人物は知らないと語る。豪放磊落で北海道での開拓を夢見るという虎蔵の姿勢にもおりょうは竜馬を重ねていた。

おりょうが虎蔵に走りそうになっているのを感じた松兵衛は覚兵衛と組んで剣術の稽古をするなど、なんとか虎蔵を上回ろうとするのだが……。

 

今は亡き坂本竜馬に取り憑かれている人々を描いた作品である。ある者は坂本竜馬に憧れて少しでも近づこうとし、ある者は研究を重ねて竜馬になりきろうとし、ある者は竜馬以上の男は現れないとして、思い出に生きようとしている。
ただ、これもいかにも三谷幸喜作品らしいのだが、「生きていることが一番だぞ」という強烈なメッセージが発せられている。結局のところ、今はいない存在に身を委ねても人生がややこしくなるだけであり、そもそもそんな人生では「自分の人生を生きた」とは到底言えないものになってしまうであろう。

鈴木京香が宮本武蔵(役所広司が演じていた)の奥方であるお鶴役で出演した舞台「巌流島」(1996)を想起させるシーンがいくつも出てくるが、おりょうの現在の名前は楢崎龍ではなくて西村ツルであり、三谷幸喜が意図的に重ねている可能性もある。

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2020年9月15日 (火)

コンサートの記(654) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪クラシック2020第1公演 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」@大阪市中央公会堂大集会室

2020年9月13日 中之島の大阪市中央公会堂大集会室にて

正午から中之島にある大阪市中央公会堂大集会室で、大阪クラシック2020の第1公演を聴く。大阪クラシックのプロデューサーである大植英次指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団によるドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の演奏である。

大フィルにとって「新世界」交響曲は特別な曲である。1947年、まだ焼け跡の残る大阪で、当時は関西交響楽団と名乗っていた大阪フィルハーモニー交響楽団(定期演奏会の数なども数え直しているため別団体の扱いではあるが)の第1回定期演奏会が朝日会館(現在のフェスティバルホールの向かい、フェスティバルタワーウエストの場所にあった)で行われたが、その最初の曲目が「新世界」であった。戦災からの復興を願い、「新たなる世界」への出発の意を込めた選曲だったと思われる。指揮は勿論、朝比奈隆であった。

新型コロナウイルスの流行による自粛などもあり、大阪も文化・経済活動に大きな打撃を被った。戦争でこそないが、危機からの再出発と音楽文化の隆盛への願いを込め、また大フィルの原点回帰として、最初の曲目に「新世界」交響曲が選ばれたのだと思われる。

 

今回の大阪クラシック2020では無料公演は行われないが(無料公演だとチケットなしになるため、聴衆の住所や行動ルートなどの追跡が一切不可能となってしまう)、代わりにYouTubeを使った無料配信が行われ、1ヶ月程度であるがアーカイブの視聴も可能となる(大阪クラシック2020のホームページからYouTubeチャンネルに飛べるようになっている)。

大阪市中央公会堂の実施設計を行ったのは、東京駅や日本銀行などを手掛けたことで知られる辰野金吾であるが、辰野は今から約100年前に日本を襲ったパンデミックであるスペインかぜに罹患して亡くなっている。
大阪クラシックの第1公演は基本的に大阪市中央公会堂大集会室で行われる。そのため今回のためにこの場所が選ばれたわけではないが、因縁を感じないでもない。

大集会室へは東側のゲートから入るのであるが、手のアルコール消毒と検温が必要となり、チケットの半券も自分でもぎって箱に入れる。強制ではないが、大阪府独自の追跡サービスにメールを送る形でのチェックインを行うことも推奨されている。

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「新世界」交響曲のラストは、「corona(フェルマータの別名)」「dim.(ディミヌエンド。徐々に弱く)」「ppp(ピアニッシモシモ。最弱より弱く)」という指示で終わるため、やはり「新世界」交響曲を演奏する京都市交響楽団の団員が、「これってひょっとして」というメッセージをTwitterで発していた。
私も自分の目で確かめたかったので、「新世界」交響曲のポケットスコアを買って(JEUGIA三条本店が改修工事中であったため、Amazonで取り寄せた)ラストのみならずあちこちを確認。今日もスコアを持ってきていたので、要所要所はスコアを確認しながら聴く。当然ながらスコアを見ながら聴くと、普段なら気がつかないところにも気がつくようになる。ただずっと眺めながら聴いていると「学問的鑑賞」になってしまうため、それは避けた。知だけでは駄目だ、というより知は怖ろしい。

今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大が入る。ドイツ式の現代配置での演奏。古い建物の常として大阪市中央公会堂大集会室は傾斜が緩やかで、オーケストラのメンバーが良く見えなかったりするのだが、音が主役なのでそれは特に問題にはならない。

大植英次が現れ、指揮台に上って一礼。するとスタッフがアルコール消毒液を持ってきて、大植が自分でポンプを押して手を消毒するというパフォーマンスが行われ、笑い声が起こっていた。今日の大植はいつもに比べると抑えた指揮姿であり、なかなか格好いい。

 

どちらかというと流れて音楽を作るタイプの大植英次であるが、今日の「新世界」はじっくりとした歩みと堅牢なフォルムが目立つ演奏となる。演奏される機会が多く、「通俗名曲」と見做されることもあるこの曲を特別な作品として再現しようという意志があったのかも知れないが、印象に残る演奏であり、もしそういう意図があったとしたのなら大成功であったと思われる。

丁寧な造形美と確かな情熱を感じさせる演奏であり、ヘルベルト・ブロムシュテットの音楽性(私はブロムシュテット指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による「新世界」をザ・シンフォニーホールで聴いたことがある)にやや仄暗さを加えたような「新世界」となる。

第2楽章では冒頭のトロンボーンがややずれたが、全体としては瑞々しい出来であり、コロナ前の大阪のクラシックシーンを回顧するような趣もあるが、むしろここはこれからの大阪への希望と捉えた方が良いのかも知れない。ノスタルジアに浸るのも良いだろうが、大阪の音楽界が終わったわけではない。20世紀には色々と叩かれることの多かった日本人によるクラシック音楽演奏であるが、ようやく世界水準に達した。日本におけるクラシック音楽の歴史がたかだか150年程度であることを考えると長足の進歩なのだが、まだまだこれからなのだ。過去よりも未来である。

新しい力がふつふつと湧き上がるような第3楽章を経て、第4楽章へ。ここで大植はかなり遅いテンポを採用。勢い任せな演奏になりがちな第4楽章であるが、音をかなり伸ばすことで、ジョン・ウィリアムズの「JAWS」の音楽のような不穏さを出す。そこから加速して盛り上がるが、皮相さはゼロ。明日への思いに満ちた誠実な演奏となる。大フィルも熱演だ。
ラストもコロナ収束への思いというよりも更に先の未来への期待を込めたかのような朝比奈にも繋がる終わり方であり、それまでの渋さから解き放たれたかのような明るめの音色と浮遊感が印象的であった。

 

演奏終了後、大植英次がマイクを手にスピーチを行う。ここで飛沫防止のためのシートを支柱で挟んだ特製器具が登場する。今日のために作ったものだと思われる。大植は、こんな状況であっても大阪クラシックが開催出来たことへの感謝を述べるが、「その原動力となったのは大阪市民の皆さんの熱意です」と語る。「どうしても大阪クラシックをやって欲しい」という声が多く、大植も心動かされたそうだ。大植は「健康にだけは気をつけて下さい」とも語る。

アンコール演奏のための楽団員がステージに姿を現しており、当然ながらアンコール演奏が行われると思われたのだが、大植は引っ込んでしまい、大フィルのメンバーも「あれ?」という表情で顔を見合わせている。大植は再度登場して、「終わりです」というポーズをし、大フィルのメンバーも「アンコールなしになったのかな?」ということでコンサートマスターの崔文洙もお辞儀をしたのだが、やはりアンコール演奏はあり、大植が完全に失念していたことが分かった。大植は指揮台に戻り、「年取ったのかな?」などと述べる。

 

アンコール曲は、ヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「観光列車」。ドヴォルザークが大の鉄道好きであったことから、その関連で選ばれた曲だと思われる。軽快でユーモアに富んだ音楽と演奏だ。こうした演奏を聴くと大フィルもかなり器用な楽団になったことが確認される。大阪市中央公会堂大集会室の「大大阪時代」の名残を留めるレトロでお洒落な内装もヨハン・シュトラウスⅡ世にピッタリであり、「ある意味、今年が音楽のニューイヤー」という気分にもなる。

 

その後も、大阪市中央公会堂の中集会室や大集会室で今年生誕250年を迎えたベートーヴェンの室内楽曲の演奏会があるのだが、間が空いてしまうということもあってチケットは取っておらず、周辺の美術館などに寄ろうかなどとも考えていたがそのまま京都に帰ることにする。演奏会場よりも電車にいる時間の方が長くなるが、それでも十分に思えるほど「新世界」交響曲の演奏は良かった。淀屋橋駅の京阪ジューサーバーで和梨の生搾りジュースを飲み、大阪を後にする。

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2020年9月 5日 (土)

観劇感想精選(351) 劇団東京ヴォードヴィルショー 「竜馬の妻とその夫と愛人」2005大阪

2005年11月18日 大阪・京橋のシアターBRAVA!にて観劇

大阪へ。大阪城ホールの向かいにある、シアターBRAVA!で劇団東京ヴォードヴィルショーの「竜馬の妻とその夫と愛人」を観る。三谷幸喜:作、山田和也:演出。東京サンシャインボーイズの作・演コンビによるもの。タイトルはおそらく、ピーター・グリーナウェイ監督の映画「コックと泥棒、その妻と愛人」をもじったものだと思われる。
出演は佐藤B作、平田満、あめくみちこ、佐渡稔。

シアターBRAVA!はかつてのMBS劇場。TBSのそばにあった赤坂ACTシアター(現在はTBSの敷地再開発にともない消滅)に内装が似ている。やはり系列局の劇場ということで設計者が同じなのだろうか(後記:シアターBRAVAは2016年に閉館した)。

「竜馬の妻とその夫と愛人」は2000年に、同じく劇団東京ヴォードヴィルショーにより初演。その後、映画化もされた。今回は5年ぶりの再演となる。

明治12年(1879)、神奈川県横須賀市。坂本龍馬の妻であったお龍(あめくみちこ)は西村松兵衛と再婚していた。この年、京都・霊山で坂本龍馬の13回忌が盛大に行われることとなり、お龍の義理の弟(お龍の妹の旦那)である覚兵衛(佐藤B作)が、是非参加を、と依頼に来る。しかし、お龍は朝から飲み歩き、虎蔵(佐渡稔)という愛人まで作っているというだらしなさ。旦那の西村松兵衛(平田満)もぱっとしない男である。
実は覚兵衛は、勝海舟から「もし、お龍が坂本龍馬の妻として相応しくない女になっていたなら斬り捨てよ」という密命を帯びていた。


1996年に上演された「巌流島」に非常によく似たスタイルを持つ劇である。「巌流島」に登場する情けない男、蟻田休右衛門を主人公にして焼き直したような印象すら受ける。実際、セリフの使い回しもある。というわけで新鮮さには欠けるきらいあり。

自己中心的な性格のお龍に三人の男が振り回される。男達はみな、お龍が好きなのだが、彼女は龍馬以外は誰をも愛すことが出来なくなっていた。運命の人に出会いながら、一人残されてしまった女の寂しさは良く出ている。

「俺は龍馬には敵わないが、一つだけあいつに勝てることがある。俺は生きている。龍馬はお前の心の支えかも知れないが、あいつはお前に何もしてやれない。俺はお前に何だってしてやれる」という松兵衛のセリフが、生きること、生きていることの価値と大切さを語る。このセリフに励まされる人も多いだろう。

ブラックユーモアの効いたラストも面白い。龍馬ファンは怒るようなラストだったけれど。

目新しさや鋭さはないが、まずは上質な劇である。4人の俳優もしっかりしたアンサンブルを見せてくれる。エンターテインメントの精神を忘れていないのも心強い。


余談だが、開演前に、隣りに座ったおばちゃんから黒豆せんべいを貰った。落としたチラシを拾ったお礼だと思う。いかにも大阪のおばちゃんらしい温かさで心和む。

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2020年8月25日 (火)

観劇感想精選(349) こまつ座第133回公演「人間合格」@名古屋・御園座

2020年8月18日 名古屋・伏見の御園座にて観劇

名古屋へ。伏見(京都だけでなく名古屋にも伏見という駅がある。江戸時代の初めに京都の伏見から移住した人が作った街だと思われる)の御園座で、こまつ座の第133回公演「人間合格」を観るためである。作:井上ひさし、演出:鵜山仁。出演は、青柳翔、塚原大助、伊達暁(だて・さとる)、益城孝次郎(ますき・こうじろう)、北川理恵、栗田桃子。

昭和を代表する小説家の一人である太宰治の、主に若き日々を描いた作品である。
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの公演もあったのだが、その日は仕事が入っていたため、大千秋楽となる御園座での公演を選んだ。御園座に入ってみたいという気持ちも当然ながらあった。名古屋に行った時は、御園座の前を通ることも多かったのだが、今日が念願の初御園座となる。

名古屋を代表する劇場である御園座。名古屋で歌舞伎の公演となると使用される劇場である。長らく建て替え工事が続いていたが、2017年に新しい御園座が竣工し、翌2018年に開場している。

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客席はソーシャルディスタンスに配慮した席割りが行われていたが、何故か二人並ぶ席があったりする(友人、知り合い、夫婦等で並ぶ席かと思ったのだが、必ずしもそうではないようだ。私の横の席も誰かが座れる仕様になっていたが、結局、誰も座らなかったため、全くの他人が横に来るということもないようだったが)。歌舞伎対応の劇場であり、花道使用時に歌舞伎俳優が同じ階の客から見下ろされては困るということで、1階席の傾斜は緩やかである。私は下手側の席であり、客が点在しているという、平時ではあり得ない状態であったため問題はなかったが、中央列で満員の場合は、前のお客さんの頭で舞台が見えないということもよくあるようで、評判は良くないようだ。
赤を基調にした内装で、椅子も座りやすい。

座るのは1階席であるが、一応2階も覗いてみる。階段が安普請でがっかりしたが、エスカレーターを使う人が多いので、特に問題にはならないのだろう。ロビーの壁には絵が飾られていて雰囲気は良い。

前の御園座はよく知らないのだが、新しい御園座は奥行きよりも間口が広い設計で、ポストモダン(という言葉ももう古くなってしまったが)な外観もそうだが、内装も昭和の頃の公会堂のようであり、歌舞伎劇場らしくない。やはり歌舞伎座、南座、大阪松竹座といった歌舞伎専用の劇場とは違うということなのであろう。

入場前に配られた紙に、氏名、住所、電話番号を記入し、検温を受ける必要がある。スティックタイプのハンディアルコール除菌スプレーを貰った。

「人間合格」というタイトルは、太宰の代表作である『人間失格』に由来するのだが、降りた幕に、『人間失格』の太宰による肉筆原稿が描かれており、冒頭の「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」までが記されているのだが、劇はそのパロディのセリフ、「私は、その男の写真を六葉、見たことがある」でスタートする。六葉のうち二葉は実際の太宰治の写真だが、他の四葉は今回の「人間合格」で太宰を演じる青柳翔を撮ったものである。六人の俳優が六葉の写真について一人一葉ずつ説明やら解説やらを行い、印象を述べる。

そして舞台は、昭和5年(1930)の高田馬場の近くにある学生下宿、常盤館に飛ぶ。

常盤館に下宿することになった津島修治(のちの太宰治。演じるのは青柳翔)が現れる。
津島修治は旧制の弘前高校(現在の弘前大学教養課程に相当)を出て東京帝国大学(現在の東京大学)文学部仏文科に入学したばかり(ほとんど登校せず、1単位も取らないまま中退することになる)。そこへ、共産主義思想に共鳴している二人の学生が現れる。同じ東京帝国大学の経済学部に通う佐藤浩蔵(旧制山形高校出身。塚原大助)と早稲田大学文学部に通う山田定一(旧制麻布中学出身。伊達暁)である。二人はフロシキ劇団なるものを結成していて、町工場や百姓家の前でフロシキを拡げ、反ブルジョア親プロレタリアのプロパガンダを行っている。
津島も反ブルジョアであり、共産主義思想に共感を抱いて革命に憧れているのだが、彼は津軽でも五本の指に入る大地主の出であり(ただし名家ではなく成金)、行動に矛盾が生じてしまう。とにかく仕送りはたっぷり貰っており、ブルジョア階級の出身であることの恩恵を浴びるほどに受けている。

ただあるいは、太宰治が恵まれた境遇に生まれていながらそれに逆らうように生きたということが、太宰が今に至るまで人気作家で居続けるという理由なのかも知れない。

セリフには太宰の有名小説のよく知られた言葉やそのパロディが登場する。特別人気のある俳優が出演するわけでもないのにこんなコロナ禍の最中に観に来ているということは、客の多くは太宰のファンであり、「待ってました!」とばかりに笑いが起こっていた。

その後、前衛党の隠れアジトである高田馬場の「クロネコ」という喫茶店で女給をしている東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の学生で、前衛党の高田馬場支部長である立花すみれ(北川理恵)と出会い、前衛党に入党する津島であったが、そこに津軽から中北芳吉(益城孝次郎)が訪ねてくる。中北は津島家の番頭の一人であるが、その後に帝国主義的思想にかぶれていく。

第3場の「タワシ」の前では、字幕によって治安維持法について触れ、「ひとはみな同じ」そう思うだけで非国民とみなされたと説明される。

津島は日本共産青年同盟直属のタワシの行商を行うようになったが、現実的な仕事には全く向いておらず、タワシを川に投げ捨ててしまい、口では売れ行き上々で毎日完売ということにしている。はっきり言って駄目人間である。とにかくあらゆることから失格している津島であるが、それゆえ高みから居丈高に見下ろしてくる人間の醜さと、煩悶する己の魂を見据えることが出来るようになったと取ることも出来る。

やがて軍人の時代が来る。軍人にあらねば人にあらずという時代である。そんな時に作家、太宰治となった津島修治は東京武蔵野病院という精神病院に入院させられていた。
そこに佐藤がやって来る。地下活動に身を投じた佐藤は特高に追いかけられ、東京武蔵野病院に逃げ込んだのだ。佐藤はこだわりが強く、これまでずっと「あか」で始まる地名(赤池炭鉱や赤城村、そして今の東京・赤羽など)での活動を続けてきた。ちなみに赤池炭鉱で偽名として用いたのが大庭葉蔵だそうである。佐藤は太宰の処女小説集『晩年』を手にしていた。

佐藤は言う。「だめなやつ、普通の人びとはみんな、自分のことをそう思っているわけですよ」。そして自分と同じだめな奴が小説の中でのたうちまわっている。自分と同じ人間がいることに励まされる。それが太宰の小説の本質だと見抜く。
その後も佐藤の流浪は続く。

一方、山田は売れっ子の俳優になっていた。軍事劇を演じさせれば天下一品であり、日本各地で人気を博していたが、山田がセリフに込めた思いは聴き手には正反対に受け取られており、孤独を感じていた。
仙台で再会した太宰と山田と佐藤。太宰は仙台の医学校で学んでいた魯迅の「藤野先生」の話をする。「宝石よりもっとずっと尊い出来事」の話だ。

日本は敗戦を迎える。昭和21年4月、太宰は故郷の金木町にいた。長男の文治が政治家に立候補するため、その応援として山田定一の劇団を金木町の劇場に呼んだのだ。敗戦により、全ては変わった。山田の人気は凋落した。今はアメリカ軍を賛美する芝居を上演しているが本意ではない。中北も変わったが、かつての軍国主義者が180度方向転換して民主主義を礼賛するようになっている。

中北こそがまさに人間だ。「わが身が可愛いだけ」で起用に立場や思想を変えて生き延びる。汚らしいが、生き残る。今は「ひとはみな同じ」それが当たり前の時代になったが、それを信じ続けてきたがために駄目になった太宰や佐藤や山田はなんなのかということである。

その後、佐藤と山田は時を同じくしてこの世の表舞台から消えることになる。

 

太宰、佐藤、山田、不器用な男達の小さな宝石のような友情が語られる作品である。全員、学生時代まではエリートコースに乗りながら、信念のために人生に失敗した男である。だがそれゆえに惹かれあい、少なくとも太宰治は後世の人からも友人のように慕われる存在である。人間としてのある格から転げ落ちたからこそ別の人間の格に嵌まることになった。セリフに出てくる「アウフヘーベン」ではないかも知れないが、彼と我々とは高次元で結ばれることが出来るのである。「合格」つまり「格が合う」ということによって。

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2020年8月24日 (月)

これまでに観た映画より(201) 太田隆文監督作品「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」

2020年8月20日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」を観る。太田隆文監督作品。太平洋戦争において住民を巻き込んだ唯一の地上戦となった沖縄戦を、体験者12人・専門家8人へのインタビューとアメリカ軍が記録用に残した映像などを中心に描く。ナレーション:宝田明&斉藤とも子。この頃、なぜか斉藤とも子出演作を観ることが多い。企画・制作:浄土真宗本願寺派(西本願寺)。

大東亜共栄圏を掲げて、アメリカ、イギリス、中国、オーストラリアなどと戦った大日本帝国であるが、中国戦線やインドシナ戦線が泥沼状態となり、対米戦もミッドウェー海戦で敗れて以降は連戦連敗を重ね、本土決戦を決意する。その前哨戦の舞台となったのが沖縄である。ただ「沖縄は捨て石」という言葉がよく知られるように、日本軍にとって沖縄戦は本土決戦の準備のための時間稼ぎであり、少しでも多くアメリカ兵に血を流させて弱体化させるための手段でしかなかった。米兵が沖縄に上陸する前からすでに軍部から「沖縄は諦める」という話が出ていた程である。米軍も日本本土での戦いを視野に入れ、日本の文化や歴史などについて撤退した調査を行っていたが、「日本と沖縄は同一文化圏と見て良いが、日本人は沖縄人を差別している。沖縄人というのは少数派民族のようだ」という情報を得ており、「これは使える」と、分断作戦も念頭に置いての戦いだった。

アメリカは54万人を超える兵士を沖縄に上陸させたが、迎え撃つ日本軍の兵の数は11万人ほど、人数の時点で圧倒的に不利である。しかも参謀本部はあくまで日本本土での決戦の準備を優先させているため援軍も望めない。ということで民間人を戦場に駆り出すことになる。男子は14歳から70代までを兵士として、女子も若ければ女子挺身隊として救護活動に回される。結果、老人、母親、子どもが家を守ることになるのだが、これがまた悲劇を生む。

1944年8月22日、沖縄の子ども達を乗せた疎開船・対馬丸が米軍によって撃沈される。対馬丸に乗っていて助かった女性の証言もある。当時は状況が分かっておらず、「本土に行けば雪が見られる」などと行楽気分であったそうだが、対馬丸に乗っていた日本兵が乗員を甲板に集め、「今夜は危ない」と言ったところから不穏な空気が漂う。

沖縄の人々は日本軍を「友軍」と呼んでおり、親しみを持っていた。沖縄の子ども達の将来の夢は、「立派な兵隊さんになること」だった。だが、実際に戦が始めると、日本軍は沖縄の人々を助けるどころか、逆に死へと追い込むなど、「沖縄は敵」とまではいかないが味方とは思っておらず、当てにならないことがわかる。
沈みゆく対馬丸のマストに上って、「兵隊さん、助けて!」と叫んでいる母親がいたそうだが、日本兵は助けるどころか子ども達を海へと放り込んでいたそうで、「同じ日本人ではない」と思っていたことがわかる。
米軍は、対馬丸が疎開船であることは把握していた。その上で撃沈した。逃げ道を与えない作戦であったと思われる。

1945年3月28日、渡嘉敷島で集団自決が起こる。前日に米軍が渡嘉敷島に上陸したばかりであった。島民の男性には手榴弾が一人につき2つずつ渡されていた。軍部からは「アメリカ兵を見たら1つ投げつけろ、それでも駄目ならもう一つで自決しろ」と厳命されていた。
自決とはいえ、この自決は強制されたものであったことがわかっている。

琉球処分以降、沖縄では徹底した軍国主義教育、皇民化教育が行われており、ウチナーグチではなく日本の標準語で話すことが求められた。日本に取り込まれたわけであるが、これが沖縄人が自ら魂を蔑ろにし、「日本国のために死ぬ」という精神に染まっていくきっかけとなった。発想自体が大和民族そのものとなり、自分自身で考えないようになる。

「死して虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓(最終校閲を行ったのは島崎藤村である)を常日頃から頭に置き、「アメリカが来たら、男はみんな戦車に弾かれ、銃剣で刺されて死ぬ。女はみんな強姦される」という言葉を信じ、ガマ(洞穴)での集団自決が起こった。男はみな戦場に出ていたため、籠もっていたのは老人、母親、子どもだけだった。読谷村のチビチリガマで「娘を米兵に強姦されたくない」と思った母親は、娘を自らの手に掛ける。ただ、子ども達がみな苦しみ抜いて死ぬ様を見た母親達は自決するつもりが怯えてしまい、結局、生き残ることになった。生き残った母親達は証言者の役割を果たすことになる。現在では集団自決というのは適当でないとして、「強制集団死」と呼ばれるようになっているようだ。実際、集団自決とされてきたものは日本軍が駐留している場所でのみ起こっている。

実際の米軍はイメージ戦略を用いており、女性や子どもには優しく、食べ物やお菓子などを与えてくれたそうである。
チビチリガマのすぐそばにある読谷村のシムクガマでは、約千人が隠れていたそうだが、その中と付近にハワイで学んだ経験のある老人が二人いた。一人はハワイの学校の夜間部で本格的に英語やアメリカ文化などを学んだ経験があり、アメリカ人がやることを知悉していた。結果として投降が成功し、犠牲者は一人も出なかった。

ハワイで学んだ老人は、沖縄に帰ってからも家にエイブラハム・リンカーンの肖像を飾っていたそうだが、日本の軍国主義ではアメリカの民主主義に勝てないと見抜いていた。

エイブラハム・リンカーンは、南北戦争時の大統領であるが、この内戦で北軍司令官のウィリアム・シャーマンは南部に対して徹底した焦土化作戦と無差別殺戮を決行し、今に至るまで南部の人々から恨まれるという結果になった。第二次大戦でもウィリアム・シャーマンの名を記念した俗称「シャーマン戦車」への搭乗を拒否する南部出身者が続出している。同じ轍を踏むわけにはいかない。日本に対する戦後交渉を有利に運ぶ必要もあっただろうと思われる。日本軍とアメリカ軍の沖縄に対する態度の違いを見せつけ、沖縄人の戦意を喪失させる狙いもあったかも知れない。

米軍は沖縄本島に上陸したのは、1945年4月1日。読谷村(よみたんそん)の渡久地ビーチにおいてであった。日本軍は全く反撃しなかった。読谷村は、現在は嘉手納基地となっている中飛行場に近く、ここを抑え、空路を確保するのが目的であったが、反撃がなかったため楽々と制圧した。

米軍は、県都である那覇を目指す。首里城の地下に陸軍の司令部が置かれていたためだ。
日本軍が上陸後すぐに戦闘行為に出なかったのは、那覇へと向かう途中で待ち受け、米軍にダメージを与えるという目的があったはずである。日本軍は嘉数高地の要塞に陣取り、当初の米軍の進撃予定を40日以上も遅らせるという激戦を展開。首里城での攻防では敗れるが、今では那覇の都心となっている安里52高地(シュガーローフ)での激戦でも米軍に大打撃を与える。しかしこれらはあくまで、「本土決戦の準備を進めるための時間稼ぎ」であり、沖縄のための戦いではなかった。


私が沖縄に本格的に興味を持つきっかけを作ったのは坂本龍一である。矢野顕子と共に最初に沖縄に注目したアーティストである。中学生の頃に買った「BEAUTY」というアルバムでは沖縄の音楽をいくつもカバーしており、ネーネーズなど沖縄のミュージシャンとも共演している。坂本はインタビューで、「日本は単一民族だと思われているけれどそれは違う。最も身近にある異質なるものである沖縄を突きつける」というようなことを語っていたように記憶している。その後坂本は、山梨県出身ではあるが沖縄戦の悲劇を伝える「島唄」を作詞・作曲した宮沢和史とも一緒に仕事をしている。

というわけで、沖縄に対しては「リゾート」や「観光地」というイメージではなく、歴史から入っていたわけであるが、それでもこの映画で語られた多くのことを知らなかったわけで、「知ること」の難しさを覚える。沖縄戦を描いたドラマや映画、楽曲などは存在するが、どうしても情緒的側面が強くなるため、リアルに見つめる機会はなかなか得られない。受け身でなく取りに行く姿勢が必要であることを強く感じる。


若い頃から、教育に関して興味は持っていた。私が生まれ育った千葉県は「管理教育」の牙城であり、教師に良い印象を抱いていなかったということもあるが、「受験のためや役立てるためでない学問」を大学時代からずっとやってきたことも影響している。
「教育熱心」「教育を重要視」というといかにも良いことのように思われるが、教育というのは洗脳であり、自由な思考を奪うことにも繋がる。

渡嘉敷島で強制集団死があった時、その頃はまだ小学校1年生だった男性も手榴弾を使って自決しようとした。だが、手榴弾は不発。2発貰っていたのでもう一つを使うもこれまた不発。そこで大人から「火を焚いて手榴弾を中に入れろ」と提案される。その時、身を挺して男性を救ったのは実の母親だった。男性は母親のことを「無学だった」と語るが、教育を受けていなかったからこそ「死ぬのが当たり前」という発想にとらわれていなかったと見ることも出来る。

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2020年8月11日 (火)

これまでに観た映画より(196) 「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」

2020年8月3日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」を観る。沖縄テレビの平良いずみ監督作品。中学卒業後、沖縄県那覇市に移り住み、フリースクールに通う石川県珠洲市出身の坂本菜の花(本名)の姿を追うドキュメンタリーである。ナレーションは那覇市生まれの俳優、津嘉山正種(つかやま・まさね)が担当する。

「ちむぐりさ」は漢字にすると「肝苦りさ」となり、「肝(心、魂)の苦しい」という意味である。
実は沖縄方言(琉球語。ウチナーグチ)には「悲しい」に相当する言葉はないそうで、最も近い単語を探すと「ちむぐりさ」ということになる。ただ「ちむぐりさ」は私個人が悲しむということではなく、誰かの悲しみを己がこととして胸を痛めるというニュアンスであるそうだ。

坂本菜の花は、首里城の近くの沖縄料理の店に住み込みとして働き、昼間は那覇市内にあるフリースクール珊瑚舎スコーレで学んでいる。
坂本菜の花は、石川県珠洲市の旅館の家に生まれ育ったが、旅館では井戸水を使い、洗濯用の石けんも他の家とは異なるものを使っていたことから衣服の匂いが元でいじめに遭い、中学卒業後は、初めて訪れた時に「みんな明るくて好印象を持った」という沖縄に移り住んだ。ご両親がインタビューで語っているように、「逃げ」るしかなかったのだ。
一方で彼女の感性は高く評価されており、北陸中日新聞に「菜の花の沖縄日記」というコラムを連載することになる。

元々は琉球王朝が支配する、日本とは別の国だった沖縄。太平洋戦争で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われた県であり、戦後はアメリカ領に。1972年に日本に復帰するが、日本における米軍基地の75%が沖縄県内に置かれることになり、今も日本本土とは別の戦後を歩んでいる土地である。

珊瑚舎スコーレは、5教科など主要教科も教えているようだが、生徒達が好きなことを学ぶというスタイルを通しているようで、坂本菜の花は美術や演劇なども学んでいる。昼間はフリースクールである珊瑚舎スコーレであるが、夜にはお年寄りが通う夜間中学となる。通ってくるのは戦時中に生まれ、学校に通う機会がなかったお年寄り達。フリースクールに通う若者と夜間中学に通うお年寄りとで協力し合っており、一緒に劇を制作したりもしている。劇の内容は夜間中学に通うお年寄り達が、戦時中に実際に体験したことであり、ノンフィクションとなるようだ。

 

首里城の正殿などが焼失した際に、本土人からの心ない書き込みも目立ったが、元々別の民族である日本人(ヤマトンチュ)と沖縄人(ウチナンチュ)の心理的距離は思ったよりも離れている。今でこそ、沖縄の大学に進む本土の人もそれほど珍しくはないが、私より一世代上までは本土の人間が沖縄の大学に進むなどということは「考えられないこと」だったようで、京都出身で琉球大学に進んだ中江裕司監督や、東京都出身でやはり琉球大学に進んだ天願大介監督(今村昌平の長男)もそのようなことを口にしていたはずである。

そして普天間基地の辺野古移設問題で、日本国政府と沖縄県は更に複雑な曲面を迎えることになる。

学校や幼稚園の上空を米軍のオスプレイやヘリコプターが低空飛行で通過し、時には落下物があり、墜落が起こることも珍しくない。学校の上空を米軍機やヘリコプターが通る際は、生徒達は避難するそうで、驚くべきことに戦中の空襲警報のようなものが今もある。そんな状況を日本政府は沖縄に押しつけているわけで、普天間の基地機能移転も「最低でも(沖縄)県外」と言っておきながら結局は沖縄から出ることはなかった。県民集会で、圧倒的多数の沖縄県人が辺野古移転に反対しても声が日本国政府に届くことはない。

沖縄に滞在する米軍は下層階級出身者も多い海兵隊であるためモラルには問題があり、坂本菜の花が沖縄にいた3年(2015-2018)の間にも米軍と米軍基地絡みの事件は次々に起こる。2016年には、うるま市で米軍関係者が二十歳の女性を強姦した上で殺害、死体を遺棄するという事件が起こる。同じ年に名護市でオスプレイが墜落するという事件があり、翌2017年には米軍ヘリが民間地に墜落する。墜落したのは牧草を育てている場所だったそうで、坂本菜の花が所有者の男性に話を聞く場面があるが、「30年間育ててきた牧草が一からやり直し」になったそうである。

翁長雄志沖縄県知事が先頭に立って辺野古移転反対を訴えてきたが、その翁長知事も癌に倒れ、志半ばで亡くなる。辺野古移転反対かそれとも容認して経済優先か、県民の民意を問う沖縄県知事選挙では翁長知事の意思を受け継ぎ、辺野古移転反対を訴えた玉城デニー知事が圧勝する。

そして辺野古移転の是非を問う県民投票が行われる。石川県に戻り、実家の旅館で働いていた坂本菜の花も沖縄に1ヶ月滞在し、選挙に協力する。投票の結果は辺野古移転反対という意見が圧倒的だったが、それで何が変わったかというと何も変わらない。坂本菜の花が生まれた石川県ではかつて内灘闘争と呼ばれる米軍砲弾試撃場反対運動があり、成功したのだが、本土と沖縄とでは違う。かつて坂本菜の花を苛んだ「いじめ」にも似た本土の沖縄に対する姿勢は今も続く。

 

坂本菜の花自身は声高らかに叫ぶことはない。あくまで穏健で、マハトマ・ガンジーの言葉(「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」)を引用し、世界を変えることよりも自身が世界に変えられないことに留意する。

ヤマトンチュである坂本菜の花が望むのは、アメリカに敗れた日本本土と沖縄の悲しみの共有である。現状では本土の人間は沖縄についてよく知らず、米軍絡みの事件が起こっても、重大事件でない限りは「沖縄のこと」としてほとんど報道もされず、されたとしてもさほど興味は持たれない。同じ日本でありながら、上下関係があり、差別がある。
坂本菜の花は3年の間に沖縄の人々が明るいのは、「明るくしないとやっていられないから」だと気付く。

 

テーマ音楽として流れるのは、上間綾乃が歌う「悲しくてやりきれない」のウチナーグチバージョンである。本当に素晴らしい選曲で、現実では達成されていないヤマトンチュとウチナンチュの心の寄り添いが、歌の中では成し遂げられている。

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2020年8月 2日 (日)

観劇感想精選(347) ク・ナウカ 「王女メデイア」2005@びわ湖ホール

2005年8月7日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

大津へ。びわ湖ホール中ホールでク・ナウカの「王女メデイア」を観る。エウリピデス作のギリシア悲劇を宮城聰が演出した。
ご存じない方のために書くと、ク・ナウカとは演じ手(ムーバー)と語り手(スピーカー)を分けた演劇スタイルを特徴とする東京の劇団である。関西で公演を行うのはこれが初めてだそうだ。

昨夜、ちくま文庫の「メデイア」を読んでいったで、比較が容易である。

前半部分はメデイアの内面告白を中心に再構成されている。主人公メデイアのムーバーは看板女優の美加理(みかり)、スピーカーは阿部一徳。

開演前から紗幕の前に老女(のちに乳母であることがわかる)が座り、ポテトチップを頬張っている。ほどなく紗幕が透け、着物を着て紙袋をかぶり、自分の顔写真を持った女性達が立っているのが見える。そして、客席後方の入り口からスピーカー達が賑やかに入ってきて、舞台に上がり、役を振り当てられる。スピーカーの男達の入場は皆が思い思いに喋るのでうるさすぎてちょっと興醒めではある(男達が俗物であることを示すためにやっているのはわかるけれど)。メデイアが登場し、語り手がしっかりとしたセリフを話し始めると引き込まれる。今回はムーバーは一人を除いて全員女性、スピーカーは全員男性が務める。ムーバーの女性は和楽器やボンゴなどの演奏も手がける。

メデイアのムーバー、美加理は朝鮮の民族衣装(チマ)を纏っている。座るときも立て膝であり、完全に朝鮮の女性であることがわかる。
舞台は明治時代の日本。番傘に明治天皇の御影が描かれ、舞台には巨大な日章旗が敷き詰められている。中央やや下手寄りに本を差し込めるようになっている塔が立つ(終演後の宮城のアフタートークにより、どうやら男性のシンボルらしいことがわかった)。
セリフでは「ギリシア」といっているがそれが日本のメタファーであることは明白だ。

閔妃や愛新覚羅溥儀などの歴史上の実在の人物が劇中の人物に重なって見えるところがある。虐げられた女性の姿が虐げられた国家の様にオーバーラップする。
愛するわが子をメデイアが殺す場面は、宮城の演出と美加理の動きに表出力があり、「愛のために殺す」、「愛するが故に殺す」という哀切さがにじみ出て、惻々と胸に迫る。

後半、特にメデイアが子供を殺すかどうか逡巡する場面以降はテキストレジをせず、ほぼそのまま語らせている。ただ、メデイアが龍に乗って現れる場面にメデイアは現れず、代わりに中央の塔が揺らぎ、本が落ちてくる(本が何を意味しているのか良くわからなかったが、アフタートークで宮城が、男性の「言葉による支配」の象徴として用いた、という意味のことを述べていた)。そして真っ赤なドレスに着替えたムーバー達がスピーカーの男達を次々に斬り殺していくという大殺戮シーンとなる。
「赤」に象徴的な意味があるのかどうかは正確にはわからない。女性的な色であり、映える色である。ただ国際政治的な意味があるとすると、怖さは一層増す。
ただ、色の意味のあるなしに関わらず、虐げられ、支配されてきた女性達が赤いドレスを纏って、支配者側の男性に一斉放棄を仕掛け、皆殺しにしてしまう様には鬼気迫るものがあり、残酷な美の迫力に満ちている。


アフタートークには宮城聰、美加理、阿部一徳が参加。びわ湖ホール夏のフェスティバルプログラムディレクター・志賀玲子氏(実際に教わったことのある師の一人)の司会により興味深い話を聴くことが出来た。

びわ湖ホールの裏に出て、琵琶湖沿いに歩く。夏の琵琶湖は涼風が湖面を渡り、実に清々しい。ジェットスキーが波を切り裂き、ヨットのマストが遠くに漂っているのが見える。「夏だなあ」と妙に感心する。

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