カテゴリー「文学」の158件の記事

2019年11月26日 (火)

これまでに観た映画より(144) 「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」

2019年11月19日 京都シネマにて

京都シネマで、アメリカ映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」を観る。J・D・サリンジャー生誕100周年記念作品。監督・脚本:ダニー・ストロング。出演:ニコラス・ホルト、ケヴィン・スペイシー、ゾーイ・ドゥイッチ、ホープ・デイヴィス、サラ・ポールソンほか。

若者の間でバイブル的人気を保ち続ける『ライ麦畑でつかまえて』の作者、J・D・サリンジャーの伝記映画である。原作は、ケネス・スラウェンスキーの『サリンジャー 生誕91年の真実』。

サリンジャーが作家を志してコロンビア大学の創作コースに入る直前から、沈黙に入る時期までを描いている。

左翼団体が幅を利かせすぎたために今はなくなってしまった明治大学の生協で初めて買った本はE・H・カーの『歴史とは何か』であるが、初めて買った小説は『ライ麦畑でつかまえて』だったという記憶がある。だが、私が明治大学第二文学部に入った当初は生協は今は紫紺館が建つ小川町校舎にあり、『ライ麦畑でつかまえて』を買ったのは今は三省堂書店が入っている12号館の地下2階であったことは確かである。私が明大に入った1994年の夏に生協が小川町校舎から竣工したばかりの12号館に移っているため、ひょっとしたら『ライ麦畑でつかまえて』を買ったのは12号館の生協で買った小説としては最初であるが、小川町校舎時代の生協で何か別の本を買っている可能性もある。もう大分前のことなので記憶も曖昧である。ただ当時、「十代の内に『ライ麦畑でつかまえて』は読んでおきたい」という気持ちがあったことは覚えており、その日のうちに一気に読み終えた記憶がある。

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(劇中では愛称の「ジェリー」で呼ばれる。演じるのはニコラス・ホルト)は、成功した貿易商の息子として生まれた。父親はユダヤ系である。成績不振でハイスクールを退学処分になったことがあり、このことが『ライ麦畑でつかまえて』に繋がっている。その後、別のハイスクールを卒業し、大学に入るも退学、別の大学に入学してまた退学を繰り返した。

コロンビア大学では、ウィット・バーネット(ケヴィン・スペイシー)のクラスの聴講生となり、様々なことを教わるのだが、劇中で語られるバーネットの言葉が、サリンジャーを指針となり、その後に起こる出来事の伏線となっている。

劇作家のユージン・オニールの娘であるウーナ(ゾーイ・ドゥイッチ)との恋も描かれているが、ウーナが自分を袖にして、あのチャールズ・チャップリンと結婚したことを戦地にて知るという場面がある。
第二次世界大戦では、「史上最大の作戦」ことノルマンディー上陸作戦に参加。だが、悲惨な戦場に身を置いたことがトラウマとなり、精神疾患(今でいうところのPTSD)となり、療養を余儀なくされる。この映画の最大の見所が、トラウマを抱えながら『ライ麦畑でつかまえて』を書き上げるまでなのだが、『ライ麦畑でつかまえて』の出来が良すぎたため、「自分のことを書いた」と思い込む若者が続出し、サリンジャーが隠遁するきっかけとなっていく。

引きこもりとなったサリンジャーは、そのため却って、「聖なる隠遁者」や「時代の被害者」として神聖視されるようになっていく。本当はこの時代のサリンジャーがどう描かれるのかに興味があったのだが、残念ながら映画では詳しくは触れられていない。バーネットがコロンビア大学聴講生時代のサリンジャーに語った「見返りがなくても書き続けるのが本当の作家」という言葉によって、サリンジャーが本当の作家になったという解釈が提示されるだけである。隠遁時代のサリンジャーについてはまだ研究が進んでいない段階であるようだ。サリンジャーが映画にあるように隠遁後も出版されず何の見返りもない小説を書き続けていたのかどうかも現時点では謎としか言い様がないようである。

バーネットの言葉がサリンジャーを常に導いていることからも分かるとおり、師弟愛を描いた作品でもある。ただ単純にして綺麗事の師弟愛作品ではなく、第二の父親的存在であるバーネットとの衝突も描かれており、文学史的な意味における「父親殺し」を捉えた人間ドラマである。

Dsc_7980

| | コメント (0)

2019年11月18日 (月)

これまでに観た映画より(140) 「愛がなんだ」

2019年5月15日 京都シネマにて

京都シネマで「愛がなんだ」を観る。今泉力哉監督作品。原作:角田光代。出演:岸井ゆきの、成田凌、深川麻衣、若葉竜也、江口のりこ、筒井真理子、片岡礼子、穂志もえか、中島歩ほか。

今月10日で上映終了のはずが、好評につき上映期間延長となっている。定員55名のシアター3での上演であるが、チケット完売で立ち見まで出るという盛況である。私も随分久しぶりに最前列で観ることになる。

小さな会社で電話営業などをしている山田テルコ(岸井ゆきの)は、友人のそのまた友人の結婚式の二次会で田中守(成田凌)という雑誌のレイアウトデザイナーをしている男と知り合う。すぐさま恋仲にという展開を予想したテルコであるが、なかなか恋人にはなれない。テルコは守を「マモちゃん」と愛称で呼んでいるのに、守はテルコを「山田さん」と呼び、距離がある。風邪を引いた守から電話があり、テルコは看病に向かうが、最後は追い出されてしまう。それでも守との距離は近くなり、「もう恋人だろう」とその気になったテルコは仕事が手につかず、「33歳になったらプロ野球選手になろかな」「飼育係になろうかな。プロ野球選手よりは現実的でしょ」などと語る守の未来に自分がいるものだと思っていたのだが、ある日それはあっさりと裏切られる。
同じように、テルコの友人である坂本洋子(深川麻衣)の手下のような形に落ち着いているカメラマンアシスタントの仲原青(若葉竜也)。今のままでもいいと仲原は思っているようだが。

愛し合わなきゃいけない、恋愛関係でなきゃいけない、結婚に至らなければいけないという思い込みに「愛がなんだ」とカウンターパンチを打ち込むようなテーマを扱っているのだが、むやみに映像詩的な部分があるなど押しが弱いため、結局のところ駄目男と馬鹿女の話しに見えてしまうのが難点である。ただ、主演の岸井ゆきのはとても良い。成田凌はどことなく妻夫木聡に似ているし、江口のりこはなんとなく安藤サクラ風である(江口のりこと安藤サクラは姉妹だと思われることもあるようだ)。ただ岸井ゆきのは誰にも似ていない、岸井ゆきのだ。女優としてそれだけで素晴らしいことであるが、演技や存在がとても魅力的である。映画自体が弱いかも知れないが、なんらかの映画祭で女優賞を獲ってもおかしくないと思える。

Dsc_6583

| | コメント (0)

これまでに観た映画より(139) 「ドリーミング村上春樹」

2019年11月11日 京都シネマにて

京都シネマで、デンマーク映画「ドリーミング村上春樹」を観る。村上春樹作品をデンマーク語に翻訳しているメッテ・ホルムを追ったドキュメンタリー映画である。脚本・監督:ニテーシュ・アンジャーン。

メッテ・ホルムは、村上春樹作品のデンマーク語翻訳を一人で手掛けており、彼女の翻訳がきっかけとなって、村上春樹は2016年にデンマーク最高の文学賞であるハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞を受賞している。

メッテが村上春樹作品に始めて触れたのは1995年の夏のこと。来日した際に『ノルウェイの森』を読み、自分で訳すことを決意した。15歳の時にフランスにゴブラン織りを習うためにホームステイした時、ホームステイ先の奥さんから川端康成の『眠れる美女』のフランス語訳版を薦められ、日本に興味を持った彼女は、1983年に初来日し、京都で1年に2度、計6ヶ月に渡るホームステイを行い、茶道と日本語を学んでいる。この時に撮られた写真が映画の中で紹介されていたが、一乗寺の八大神社が写っていることがわかった。その2年後には東京で4か月のホームステイを行っているが、八大神社の写真の横に並んでいた高幡不動の写真はこの時に撮られたものだろう。

メッテ・ホルムは孤独の影を抱えた女性である。人はみな集団生活を行い、馴染んでいくものだが、彼女はどうしてもそれが出来ない。勿論、友人も仕事仲間もいるが、一人になれる「秘密の居場所」が必要なようだった。彼女が自覚しているかどうかはわからないが、孤独な者同士がイメージを通して通じ合う村上春樹作品に彼女が親しみを覚えるのはある意味、当然なのかも知れない。

メッテは、『風の歌を聴け』の一節、「完璧な文章などというものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」をどう翻訳するかで悩む。勿論、直訳するのはわけがない。ただそれでは村上春樹の言葉を伝えたことにはならない。メッテは村上春樹が見た風景を確認するために日本に旅に出る。東京メトロ神宮外苑駅、JR上野駅、そしてJR京都駅でコペンハーゲン大学時代の友人であるクリスチャン・モリモト・ハーマンセンと再会し、「完璧な文章などと……」の一文についてディスカッションを行う。
また、村上春樹が育った芦屋の街ではタクシーに乗り、タクシー運転手に阪神・淡路大震災の時はどうしていたのかを聞いたりもしている。
飲み屋では、「日本が閉塞的になっている」という話をされ、「デンマークもそうだ」と語るが、日本の現状はずっと酷いということを聞かされる。日本人のおじさんは、「もっと多様性があるということを知らせないと。それをするのがアーティスト」とメッテにそう告げる。
ただ、これは、完全なドキュメンタリー映画というわけでもなく、中空に『1Q84』に登場した二つの月が浮かぶなど、翻訳されたというのが行き過ぎなら解釈されたメッテ・ホルムの話でもある。村上春樹の大ファンだという監督のニテーシュ・アンジャーンによって解釈された彼女と村上春樹の映画なのだ。この映画には、村上春樹の短編小説「かえるくん、東京を救う」のかえるくんがCGで登場する。日本映画のCGだとかえるくんも可愛らしく描かれるのかも知れないが、デンマーク映画のCGはハリウッド版ゴジラのように少しグロテスクである。この映画に登場するかえるくんは、東京を救う相棒としてメッテを選んでいるようでもある(これもアンジャーンの解釈である)。

翻訳は創作とはまた違うが、イメージと言葉の選択肢の中で繰り広げられる孤独な戦いという共通点がある。そこで戦うには孤独に強くなければいけないし、容易に心を乱されるタイプであってもならないし、無意識の領域で戦えるだけの人生の蓄積がなくてはならない。小説が人一人の人生を変えるだけの力を持っているように(少なくとも私は村上春樹の小説に出会ったことで人生は変わっている)、それを伝達する翻訳家も人を動かすだけの力を持つ、伝達の神・マーキュリーに祝福された存在である。人の心が変われば世界も変わる。誰も気づかぬほどひっそりとではあるが、聖戦は遂行されていく。

「完璧な文章などというものは存在しない」という言葉は、「完璧な翻訳などというものは存在しない」にスライドする。だが翻訳家である以上は、原作者を尊重した上で、言葉の海を上手く泳ぎ切らなくてはならない。メッテは本の表紙を決める際も「ムラカミならどう思うか」という配慮を怠らない。エゴは禁忌である。ある意味、翻訳家は再生芸術家である演奏家に近いものがある。世界史上、完璧な演奏などというものは一度もなかったと思われるが、完璧な翻訳というものは果たしてあるのか? ラストは映画自体もまた完璧でないことを告げている。
完璧を夢見ながら、メッテの聖戦は続いていくのである。

Dscpdc_0003_burst20191111182428045_cover

| | コメント (0)

2019年11月17日 (日)

観劇感想精選(326) こまつ座&ホリプロ公演「組曲虐殺」2019

2019年11月8日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、こまつ座&ホリプロ公演「組曲虐殺」を観る。井上ひさしの劇作家としての遺作の上演。2010年に初演され、2012年に再演。それから久しぶりの再々演となる。演出は初演から引き続き栗山民也が手掛け、音楽&ピアノ演奏も小曽根真が担当する。出演:井上芳雄、高畑淳子、上白石萌音、神野美鈴、山本龍二、土屋佑壱。上白石萌音は石原さとみからのバトンタッチ、土屋佑壱は山崎一から役を引き継いでいるが、それ以外は初演時と同じキャストでの上演である。

「組曲虐殺」は、プロレタリア小説家として最も有名な人物と思われる小林多喜二を主人公とした音楽劇である。リーマンショック後の2010年頃は一大不況が全世界を覆っており、イタリア初とされるプレカリアートという言葉が紹介されるなどプロレタリア文学にも光が当たっていた時期で、「蟹工船」が映画化されたりもしている。

昭和5年(1930)5月下旬から昭和8(1933)年2月下旬までの2年9ヶ月が断続的に描かれる。

まず、小林多喜二が伯父が経営するパン屋で育ったことが紹介される。小林多喜二は小学校を皆勤賞の上、成績も最優秀ということで伯父に見込まれ、住み込みでパン屋を手伝いながら小樽商業学校と小樽高等商業学校(現在の国立大学法人小樽商科大学)を卒業。北海道拓殖銀行(1997年に経営破綻し、山一証券とともにバブル崩壊後不況の象徴となった)に勤務し、銀行員として働く傍ら、「蟹工船」などのプロレタリア小説を発表し、高く評価されたが、そのことが原因で拓銀を追われている。

小林多喜二の伯父が経営するパン屋(小林三ツ星パン)は最初は「小樽で一番のパン屋」と歌われるのだが、その後「北海道一のパン屋」に歌詞が変わり、最後は焼失かとしての小林多喜二の下地を生んだということで「日本で一番のパン屋」と歌われる。この小さいところから徐々に拡大していくセリフはその後も何度か登場する。
パン屋では代用パンが、安いにも関わらず売れない。小樽商業学校時代の小林多喜二(井上芳雄)は、誰かが「代用パンを買う金をくすねている」からだと考える。それが後の巨大資本や官僚批判へと繋がっていく。

多喜二は、酌婦(体を売る接待係)の田口瀧子(上白石萌音)と出会い、引き取ることにするのだが、「奥さんと許嫁の間」という中途半端なポジションであり、多喜二は奥手なので、「キスはしていて抱き合ってもいるが、生まれたままの状態でではない」というこれまた中途半端な付き合い方をしている。結局、瀧子とは籍を入れないままで終わった。

場面は大阪市の大阪府警島之内署の取調室に変わる。多喜二は大阪で講演を行った夜に、日本共産党への資金提供容疑で逮捕されたのだ。黙秘を続けていた多喜二だが、話が瀧子や伯父のことに及ぶやうっかり話し出してしまう。

豊多摩警察署の独房で、多喜二は自らの無力さを嘆くブルースを歌う(「独房からのラヴソング」)。

その後、多喜二は監視役の特高刑事である古橋(山本龍二)と山本(土屋佑壱)が杉並町馬橋の多喜二の借家に下宿するという形での不思議な生活を送る。多喜二の姉である佐藤チマ(高畑淳子)や瀧子も馬橋の家を訪ねてくる。瀧子は山野美容学校などに通い、美容学校の助手となっていたが、収入の問題で辞め、今は給仕をしている。瀧子はパーマネントの技術を身につけたのだが、当時、パーマネントの機械は日本に3台しかないということで、その腕を生かせずにいた。多喜二はそのことを嘆くのだが、これは「独房からのラヴソング」にも呼応している。多喜二は結局は同じ無産者活動家の伊藤ふじ子(神野美鈴)と結婚するのだが、それは瀧子を危険に巻き込みたくなかったからであり、不思議な距離の愛情は終生続くことになる。

酌婦に身を落とすしかなかった瀧子、美術学校に通い舞台美術家などを経て活動家となるふじ子など搾取される側にいる階級の女性が登場するが、憎むべき特高の刑事達も、上の命令に「犬」として従うしかないという苦みを歌い上げており、やはり下層にいる哀れむべき人々として描かれている。そこに井上独特の視点があるように思われる。

日本共産党員であった井上の政治観については、ここで私が書いても余り意味のないことであり、そうした面から語ることの出来る他の多くに人に任せた方が良いように思う。私がこの劇から感じたのは、「書くこと」「イメージすること」の重要性だ。多喜二は「体で書く」重要性を特高の山本に伝える。多くの人は手や頭や体の一部で文章を書くのだが、大切なのは体全体で書くことであり、体全体で書かれたものは、書き手そのものとなって残っていく。
小林多喜二は若くして虐殺されたが、「蟹工船」を始めとする作品は今も読まれ続け、時にはブームも巻き起こす。そのことで私達は小林多喜二その人に触れることも出来る。そして井上ひさしが全身で書いたこの戯曲も、井上が亡くなって間もなく10年が経とうとしている今も上演され、井上本人の肉声に触れるかのような体験を可能としている。

 

ミュージカルトップスターの井上芳雄の歌声が素晴らしいのは勿論だが、瀧子を演じた上白石萌音の歌声も予想を遙かに凌ぐ凄さ。彼女の声凄さは、耳にではなく心に直接染みこんでくることである。稀な歌唱力の持ち主とみていいだろう。ミュージカル映画「舞妓はレディ」の小春役で注目を浴びた上白石萌音。実は「舞妓はレディ」はミュージカル化されて博多座で上演されており、私も観に出掛けたのだが、その際は唯月ふうかが小春を演じている。唯月ふうかも若手ミュージカル女優としてはトップクラスなのだが、そのため却って「ああ、上白石萌音は別格なんだな」と実感することになった。

小曽根真のピアノと音楽も多彩な表情で芝居を彩る。クルト・ワイル風のワルツが登場したりするが、実は井上ひさしが「ロマンス」でクルト・ワイルの音楽に歌詞を付けていたそうで、その影響もあるのかも知れない。

井上ひさし本人が、これが最後の戯曲になるとわかっていたのかどうかは不明である。だが、井上の最後の戯曲らしい仕上がりとなったのも事実である。
これは悲劇であるが、「思いが残っていればいつかきっと」という希望と「不滅と広がりの予感」を歌い上げる祝祭劇でもある。

Dsc_7887

| | コメント (0)

2019年11月16日 (土)

美術回廊(44) 大丸ミュージアム京都 「かこさとしの世界」展

2019年11月11日 大丸京都店6階大丸ミュージアム京都にて

大丸京都店6階の大丸ミュージアム京都で、「かこさとしの世界」展を観る。
昨年、92歳で亡くなった日本を代表する絵本作家であるかこさとし(加古里子。本名:中島哲)の絵本原画を集めた展覧会。私も子どもの頃は、毎週図書館でかこさとしの絵本を借りてきて、夢中で読んだものである。

 

1926年、福井県武生(現在の越前市)に生まれたかこさとし。幼い頃から画才を発揮。大日本帝国に尽くそうと、パイロットを目指すが、視力が悪いために断念。ならば技術力で貢献しようと東京帝国大学工学部に入学するが、在学中に敗戦を迎える。復学して、新制となった東京大学を卒業し、大手企業の社員というエリートとなったかこだが、戦争に協力しようとした愚かさを恥じ、自分のような過ちを犯さないよう子ども達を導こうとの思いから、セツルメントの一環として川崎市内の自宅のそばの公園で紙芝居上演を始め、その後、絵本作家に転じている。

入ってすぐの所にモニターが設置してあり、かこが子ども相手の紙芝居を始めた頃のエピソードなどを語る映像が流れている。約20分の映像であるが、全部見てみる。さしものかこでもすぐに子どもの心を捉えられたというわけではなく、最初は紙芝居を始めても、一人去り、二人去り、すぐそばの多摩川で虫取り遊びに興じ始めるということが普通の状態であったが、次第に子ども達の心を掴むようになる。上演された紙芝居の中には「どろぼうがっこう」の原型となる作品もあったようだ。

「からすのパン屋さん」シリーズは、どちらかといえば嫌われ者であるカラスを主人公にしている。カラスの賢さに注目し、水平の眼差しを忘れなかったかこらしい着想でもある。

京都の四季を題材にした作品もあり、かこの目を通した、葵祭、祇園祭、時代祭の京都三大祭を描いた絵を京都で楽しめるの趣がある。

 

絵本の他に、子ども達に科学を教えるために描いた絵もある。東京大学工学部応用化学科などで学んだ理系の知識が生かされているようだ。
また子ども達に芸術を教えるために描かれた絵本もある。絵画と彫刻の各1冊ずつで、ダヴィンチ、ピカソ、葛飾北斎、ミケランジェロ、ロダンのなどの作品がわかりやすく解説されており、大人が読んでも大変勉強になる。絵は有名だが名前をそれほど知られていない「ヴォルガの船引」のイリヤ・レーピンを取り上げているのもかこらしいといえる。前を見据えている一人の青年の姿は、まさに未来ある子ども達の理想そのものだ。

Dsc_7916_20191116191601

| | コメント (0)

2019年11月13日 (水)

美術回廊(43) 京都国立博物館 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」

2019年11月7日 東山七条の京都国立博物館にて

七条の京都国立博物館で、「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」を観る。

佐竹本三十六歌仙絵は、秋田久保田藩主の佐竹氏が所蔵していた三十六歌仙絵巻を一つ一つに分けたものである。現在佐竹本といわれる三十六歌仙絵巻は、藤原信実の絵、後京極良経の書によるもので、鎌倉時代に制作されたのであるが、その後しばらく行方不明となっており、江戸時代初頭には下鴨神社が所蔵していることが確認されているのであるが、再び行方をくらませていた。それが大正に入ってから突然、元秋田久保田藩主の佐竹侯爵家から売りに出される。佐竹氏は戊辰の役の際に東北地方で唯一最初から新政府方についたこともあって侯爵に叙され、優遇を受けていたのだが、それでも家計が苦しくなったため売りに出されたのである。三十六歌仙絵巻は実業家の山本唯三郎が手に入れたのだが、第一次世界大戦による不況で山本もこの絵巻を手放さざるを得なくなる。不況に見舞われたのは当然ながら山本一人というわけではなく、どこも資金が不足していたため、佐竹本三十六歌仙絵巻を買い取れるほどの資産家は日本には存在しない。このままでは海外に流失してしまうということで、三井物産の益田孝(号は鈍翁)が、絵巻を一つ一つに分けて複数人で保有することを提案。これによってなんとか海外流出は食い止められ、住吉大社の絵も含めた37枚の絵を、当時の富豪達が抽選によって1枚ずつ手に入れることとなった。それが今から丁度100年前の1919年のことのである。当時の新聞記事に「絵巻切断」という言葉が用いられたため、衝撃をもって迎えられたが、実際は刃物は用いず、もともと貼り合わせてあった絵を職人の手によってばらしただけである。抽選の会場となったのは、東京・御殿山にあった益田邸内の応挙館である。円山応挙の襖絵が施されていたため応挙館の名があったのが、この円山応挙の絵も今回の展覧会で展示されている。
三十六歌仙といっても人気が平等ではない。そのためのくじ引き制が取られたのだが、主催者である益田は坊主の絵を引いてしまって不機嫌になったため(引いたのは源順の絵だったという証言もある)、一番人気であった「斎宮女御(三十六歌仙の中で唯一の皇族)」の絵を引き当てた古美術商が絵を交換することで益田をなだめたという話が伝わる。

37枚のうち31枚が集められているが、残念ながら斎宮女御の絵は含まれていない。また、6期に分かれての展示で、今日は、源宗于、小野小町、清原元輔の絵は展示されていない。なお、大戦をくぐり抜ける激動の時代ということもあり、37点のうち、現在、行方不明になっているものも3点ほどあるそうだ。

柿本人麻呂は、歌聖として別格扱いだったようで、柿本人麻呂の他の肖像画なども数点展示されているほか、柿本人麻呂は維摩居士の化身だというので、維摩居士の絵なども展示されている。

女性や若い人は華やかな王朝の美に酔いしれることが出来るのだろうが、もうすぐ45歳の私は、老いや孤独を歌った寂しい絵に心引かれる。やはり自分自身に絵や歌を重ね合わせてしまうようだ。
例えば、藤原興風の「たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」や、藤原仲文の「ありあけの月の光をまつほどにわがよのいたくふけにけるかな」などである。

小倉百人一首でお馴染みの歌もいくつかある。藤原敦忠の「あひみてののちの心に比ぶれば昔はものを思わざりけり」などは有名だが、藤原敦忠は38歳で突然死した人物であり、菅原道真の怨霊によるものだと噂されたという。
ちなみに藤原敦忠の絵を手に入れたのは、後に血盟団事件で暗殺されることになる三井財閥の團琢磨である。流石にそれまでもが菅原道真の祟りというわけでもないだろうが。

在原業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」も百人一首で有名である。和歌の天才と呼ばれた在原業平であるが、漢詩を不得手としていたため出世はかなわず、『伊勢物語』の主人公となったように東下り伝説が残るなど激動の人生を送った。

壬生忠見と平兼盛の歌もあるが、この二人の場合は今回の絵に採用されているものではなく、百人一首に取り上げられた歌の方が有名である。
歌合戦という言葉があるが、昔の歌合はまさに合戦であり、よりよい歌を詠んだ方が政において有利な立場を得ることが出来た。
天徳内裏歌合において、一番最後に「恋」を題材にした歌合があった。壬生忠見は、自信満々に「恋すてふ我が名はまだきたちにけり人知れずこそ思ひそめしか」と歌ったが、平兼盛の「しのぶれど色に出にけりわか恋はものや思ふと人の問ふまで」に敗れ、出世の道が絶たれたため悶死したとされる(史実ではないようだが)。このことは夢枕獏の『陰陽師』などにも出てくる。

 

佐竹本の三十六歌仙絵は2階に展示されているのだが、1階にもそれとはまた違った三十六歌仙の絵が展示されており、違いを楽しむことも出来る。

 

展示の最後を飾るのは、3隻の三十六歌仙屏風。作者は、土佐光起、狩野永岳、鈴木其一である。人気上昇中といわれる鈴木其一の三十六歌仙図屏風はやはり面白い。

Dsc_7865

| | コメント (0)

2019年11月 4日 (月)

これまでに観た映画より(136) 「蜜蜂と遠雷」

2019年10月29日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、日本映画「蜜蜂と遠雷」を観る。恩田陸の直木賞&本屋大賞受賞ベストセラー小説の映画化。監督・脚本・編集:石川慶。出演:松岡茉優(ピアノ担当:河村尚子)、松坂桃李(ピアノ担当:福間洸太郎)、森崎ウィン(ピアノ担当:金子三勇士)、鈴鹿央士(新人。ピアノ担当:藤田真央)、平田満、臼田あさ美、ブルゾンちえみ、光石研、片桐はいり、斉藤由貴、鹿賀丈史ほか。

第10回芳ヶ江国際ピアノコンクールの参加者(コンテスタント)達を描く青春映画。天才少女と騒がれながら7年前に演奏会場から逃亡してしまった栄伝亜夜(松岡茉優)、音大生など24時間ピアノに集中できる出場者に交じって28歳の妻子持ちのサラリーマンで年齢制限から最後のチャンスに賭ける高島明石(松坂桃李)、「ジュリアード王子」と呼ばれて大人気であるが、師から「完璧を目指せ、余計なことするな」と厳命されているマサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)、伝説のピアニストであるホフマンに見出され、正統的な音楽教育を受けていないにも関わらずホフマンの推挙を受けてコンクールに参加することになった風間塵(かざま・じん。鈴鹿央士)ら、それぞれに複雑な背景を持ったピアニスト達が、時に競い、時に心を通わせ合っていく様が描かれている。それぞれのピアノ演奏を受け持つのが、日本を代表するトップクラスのピアニストというのが、見所であり聴き所である。

基本的には、20歳のピアニスト、栄伝亜夜(えいでん・あや)の物語である。ファーストシーンは幼い頃の亜夜とピアノ教師だった母親によるショパンの「雨だれ」の連弾場面である。母親によってピアノに開眼した亜夜は幼くしてカーネギーホールで演奏を行うなど神童ぶりを発揮するが、7年前に母親が死去した直後、ピアノ協奏曲のソリストとして登場するも演奏を行わずに逃亡。以後、表舞台から姿を消していた。そんな亜夜が芳ヶ江ピアノコンクールのコンクラリストとして姿を現す。口さがない人々は、「あの天才少女の?」「また逃げちゃうんじゃないの?」とひそひそ噂する。

そんな亜夜の前に現れた16歳の少年ピアニスト、風間塵。ホフマンの推薦状を手に現れた塵だが、ピアノも持たず無音鍵盤で練習を行っており、本格的な音楽教育も受けていないことから物議を醸す。審査員の中には露骨に彼を「最低だ」と批難するものまでいる。だが、心からピアノが好きな塵の姿勢に亜夜は影響を受ける。亜夜は塵ほどにはピアノを愛していないことを悟る。
 

今回のコンクールの本命と目されるマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。アメリカ人だが、日系で幼い頃には亜夜の母親が開いているピアノ教室に通っており、亜夜と見るやすぐあの時の少女と見抜く。亜夜もマサルのことをすぐに思い出す。互いを「あーちゃん」「まーくん」と呼び合う二人。師から教わった通りの「完璧」を目指しており、それが現代のピアニストなのだと教え込まれている。だが実際の彼はコンポーザーピアニストになることを夢見ており、完璧な表現とは違った創造性を求めていた。

高島明石は、楽器メーカーで働きながらピアノコンクールに応募。学生達では不可能な「生活に根ざしたピアノ」を弾くことを目標としている。年齢制限があるため、今回が最後のピアノコンクール参加であり、結果が出なかったら潔くピアニストを止めるつもりでいた。

 

2次審査は、新曲「春と修羅」(実際の作曲は、今最も話題の作曲家である藤倉大が行っている)の演奏で、カデンツァは、ヴィルトゥオーゾの時代のようにピアニスト達が独自に作曲したものを弾く。大時代的でドラマティックな超絶技巧を披露するマサル。一方、宮澤賢治の言葉にインスパイされた詩的なピアノを明石は弾く。宮澤賢治が理想とした生活に根ざした農民芸術的な明石のピアノに触発された亜夜は感激し、すぐさま練習室でピアノを弾こうとするが、全て塞がってしまってる。それでもどうしても今夜中にピアノが弾きたい亜夜は、明石の手配で、芳ヶ江の街のピアノ工房でピアノに向かう。亜夜の行動を察知して後を付けてきた塵は亜夜と二人で、ドビュッシーの「月の光」、「It's only a paper moon」、ベートーヴェンの「月光」などを即興で連弾する。

亜夜にとってピアノとは母親と弾くものであり、母と心を通い合わせる道具であった。だから母が他界してしまった時、亜夜はピアノを弾く意味を喪失してしまった。コンサート会場から逃げ出したのはその時である。だが、コンクールに出たことで、ピアノは人々と通じ合うツールへと姿を変える。様々な邂逅を経て、亜夜はピアノを弾く意味と失われた音楽を取り戻していく。

 女性が主人公ということもあって、登場人物にどれだけ共感出来るかが鍵となる映画。そういう点において女性向けの作品と見ることも出来るかも知れない。幸い、亜夜の実際のピアノ演奏を担当しているのが河村尚子というとこもあって、私は亜夜に感情移入することに成功したように思うし、他の人物の心境も完全というにはおこがましいが、ある程度把握することが出来、音楽を通してささやかだが確実に成長していく人々を温かく見守ることが出来た。
プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番演奏シーンでは、自分でもなぜ感動しているのかわからない感動も味わう。

芸術に限らず多くのジャンルにおいてそうだが、人との関わりや巡り合わせがとても重要であることを示してくれる映画である。

 

 

| | コメント (0)

2019年10月28日 (月)

コンサートの記(600) 「時の響」2019 「金色に魅せられた日本とオーストリア 琳派からクリムト、そして現代への継承」 広上淳一指揮京都市交響楽団 第1部「オーストリア×日本 琳派 ゴールド」ウィーンの景色&第2部「古都京都の文化財世界遺産登録25周年」京都今昔物語

2019年10月20日 京都コンサートホールにて

午後1時から、京都コンサートホールで「時の響」2019を聴く。一昨年から始まった音楽文化祭典「時の響」。昨年は規模が拡大されて音楽祭となっていたが、今年は第1部第2部とも上演時間1時間ほどのコンサート2つ、更にアンサンブルホールムラタで西村由紀江らによるスペシャルコンサートがあるが、スペシャルコンサートには参加しない。

「時の響」本編「金色に魅せられた日本とオーストリア 琳派からクリムト、そして現代への継承」は、広上淳一指揮京都市交響楽団によるコンサートである。第1部は「オーストリア×日本 琳派 ゴールド」ウィーンの景色と称したコンサート。日本とオーストリアの国交150周年を記念し、オーストリアの首都ウィーンを題材にした曲目が並ぶ。ウィーンを代表する画家のクリムトと、日本の琳派が共に金を使った絵を残しているということで、ホワイエでは作品のレプリカの展示などがある。またホール内ポディウムには「豊国祭礼図屏風」の高精度複製が立てかけられている。余談だが、この「豊国祭礼図屏風」には嘘がある。豊臣秀吉七回忌として慶長9年(1604)に行われた豊国大明神臨時祭礼であるが、その2年前に方広寺の大仏殿は火災で焼失しており、「豊国祭礼図屏風」に描かれている大仏殿は焼失前のものを仏画などによく見られる異時同図で描いたもので、実際には祭礼が行われた時には大仏殿はなかったのだ。大仏殿の再建が始まるのは慶長13年に入ってからである。

曲目は、前半が「音楽の都『ウィーン』を想う」と題して、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」、ヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」第1楽章という曲が並ぶ。後半は「岸田繁『ウィーン』の景色」という題で、岸田繁が作曲した「心の中のウィーン」と「ジュビリー」が演奏される。「ジュビリー」は岸田のギター弾き語り入りである。ナビゲーターは栗山千明。

今日は客演のコンサートミストレス。顔に見覚えがあるような気もするが思い出せない。フォアシュピーラーに尾﨑平。

席であるが、最前列の指揮者のほぼ真後ろという、先日観た映画「レディ・マエストロ」のような状態。最前列は直接音が強すぎて音は余り良くない。管楽器のメンバーの顔も弦楽奏者の影になって窺えず、フルート首席の上野博昭が前半のみ、クラリネット首席の小谷口直子は前後半共に出演ということぐらいしかわからない。トランペットは第1部ではハラルド・ナエスの、第2部では稲垣路子と早坂宏明の顔が確認出来たが、全体としてどういう布陣だったのかは不明である。
栗山千明を間近で見られるのは嬉しかったけれど。

開演前に、「時の響」実行委員会に名を連ねている公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団と大日本印刷株式会社の代表者からの挨拶があった。

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」。ニューイヤーコンサートで演奏される類いのものとは違い、がっしりとしたシンフォニックな演奏で来たのが意外だった。中間部でテンポを落としてからアッチェレランドし、ステップを踏みながら踊るのが広上らしい。

演奏終了後に、ナビゲーターである栗山千明が登場。今回の演奏会は京都を前面に押し出しており、また公益財団法人京都和装産業振興財団による「きもの文化をユネスコ無形文化遺産に!」という推進運動もあって、着物着用の聴衆にはキャッシュバックがある。栗山千明もプログラムにわざわざ「きもの着用」と書かれており、その通りの格好で現れる(現れないとまずいが)。クリムトと尾形光琳の絵には金箔が用いられているということで、栗山千明の着物にも金が用いられているのだが、ぱっと見はよく分からない。広上が「金(きん)あるの?」と聞き、栗山が「あります」と答えていた。このやり取りは台本にはないそうである。
栗山千明で京都というと、まずフジテレビ系の深夜に放送されていた「0-daiba.com」の京都特別編「京都慕情」が思い浮かぶ。栗山千明演じる成瀬一美は、京都芸術センターや百万遍交差点などを訪れている。
また映画「鴨川ホルモー」では、オタクっぽい京大リケジョの「凡ちゃん」こと楠木ふみを演じている。

広上による楽曲解説。「美しく青きドナウ」はオーストリア(広上はオーストリーという呼び方をしていた)第2の国歌と呼ばれており、広上は「日本でいう『故郷』のようなもの」と語る。またウィーンは京都に似ているということで、京都に例えて「美しく青き桂川のような」と表現する。ドナウ川はウィーン市の郊外を流れているため、京都の町中を流れている鴨川はやはりちょっと違うだろうと思われる。東京だと隅田川ではなくて多摩川、大阪だと淀川じゃなくて……、大阪市の郊外には綺麗な川はあったかな? 大和川は絶対に違う。
ウィーンはハプスブルク家の都で魅力的な場所であり、昔から様々な人がそこをものにしようと狙って来た。そこも京都に似ていると広上は述べる。
またヨハン・シュトラウスⅡ世とⅠ世は親子で同じ名前だと紹介し、ヨハン・シュトラウスⅠ世は放蕩者だったため、Ⅱ世が15歳ぐらいの時によそに女を作って出て行ってしまったという話をする。Ⅱ世はそれまで本格的に音楽に取り組む気はなかったのだが、生活費を稼ぐために音楽を学んで成功。父とはライバル関係になって勘当されたりもしている。実はⅡ世も弟2人に作曲をするよう強要して兄弟仲まで悪くなってしまうのだが、それはまた別の話である。

栗山千明は、「ラデツキー行進曲」を「デラツキー行進曲」と間違えて紹介。広上がすぐ「ラデツキー行進曲は」と言い直して、ウィーンのニューイヤーコンサートでお客さんが手拍子を入れるという話をしたのだが、結局、その後も栗山千明は「デラツキー行進曲」と何度も間違え続けていた。「ラデツキー行進曲」も知らないという事は、クラシック音楽に関してほとんど何の知識もないということであり、ちょっとがっかりする。

「ラデツキー行進曲」では、広上はオーケストラよりも聴衆の拍手を中心に指揮した。カットありの版での演奏。

 

ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲。喜歌劇「こうもり」はウィーンでは年末に上演されることが恒例となっている。
華やかさとスケールの大きさ、ウイットを兼ね備えた演奏で、京響の響きも充実している。

演奏終了後に登場した栗山千明は、「先程は大変失礼いたしました。『ラデツキー行進曲』」と詫びていた。

モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」第1楽章。この曲では栗山はなぜか「ジュピター」というタイトルは一度も告げなかった。
広上が栗山に、「モーツァルトがどういう人だったかご存じ?」と聞き、「ごめんね、台本にないことばかり言って」と続ける。「実際に会ったわけじゃないんですが」と広上は前置きして、「ハリウッド映画で『アマデウス』という作品がありましたが、あれに出てくるモーツァルトはフィクションです。ただ書き残したものから、あれに近い人だったんじゃないかと言われています。人前では言えないようなことを書いていたり、女の子が『キャー!』とか『わあ!』とか言うと、『うひひひひ』と喜ぶような。小学生がそのまま大きくなったような、こういう人ってどう?」
栗山「仲良くなりやすいとは思います」(若干引き気味に見えたが気のせいだろうか)
広上「そういう人を喜ばせるのが好きな人だったと思います」

「ジュピター」を得意とする広上。澄んだ弦楽の響きを生かした純度の高い演奏を繰り広げる。弦のビブラートは各々で異なり、ピリオドを徹底させた演奏ではないが、途中で現れる音を切りながらの演奏は古楽を意識したものだろう。
モーツァルト本人はあるいは全く意識していなかったかも知れないが、今日のような演奏で聴くと本当に宇宙的な音楽に聞こえる。

 

くるりの岸田繁が登場しての後半。栗山千明が、くるりがウィーンでレコーディングを行った経験があることなどを紹介する。ウィーンについて岸田は「京都に似ている」と言い、広上は意見が合ったと喜ぶ。「人口も180万くらいで(京都市は147万人ほどだが昼間人口は増える)。まあ同じぐらい」「中心部は昔ながらの建物が残されていて(第二次大戦の戦災で焼失したものもあるが元通りに復元されている)、郊外には意外に工業地帯があったりする」。ドイツ語圏ではあるが言葉も違い、「おはよう」も「グーテンモルゲン」ではなく、「グリュースゴット」と言うと紹介する。ウィーンで初めて聞いた時は岸田は意味が分からず、「なにそれ?」と聞き、「いや、ウィーンではこうやって言うんだ」と主張された(?)そうである。「グリュースゴッド」は、「神があなたに挨拶しますように」という意味で、広上は「キザ」と形容する。
岸田は自身の事を述べる際には「僕はキザではないんですが」と断りを入れていた。

「心の中のウィーン」はワルツと4拍子を取り入れた曲であり、ウィンナコーヒーのような甘さを意図的に出している。

岸田繁のギター弾き語り入りの「ジュビリー」はウィーンで作曲されたというだけで、特にウィーン情緒を出した感じは受けなかった。

 

1時間ほどの休憩を入れて第2部スタート。休憩の間、私は一度外に出て自販機でカフェラテを買って飲んだ。特にウィーンを意識したわけではない。

 

第2部は、「古都京都の文化財世界遺産登録25周年」京都今昔物語と題したコンサートで、新作の世界初演2曲が続く。

開演前に門川大作京都市長の挨拶があり、文化庁の京都移転や京都駅東南地区を共生の街にするプランなどが話された。どちらもちょっと前までは明るい話題であったが、そこは京都ということか、何やら暗雲が垂れ込み始めている。
門川市長は、「日本が世界に誇れるもの、それは文化」と語っていたが、現状ではこれも疑問である。クラシック音楽の分野における日本の未来は明るいかも知れないが、その他は厳しいかも知れない。

 

まずは母校の京都市立芸術大学作曲科講師でもある酒井健治のヴィオラ協奏曲「ヒストリア」。ヴィオラ独奏は、京都市交響楽団首席ヴィオラ奏者の小峰航一が務める。
疾走するヴィオラをオーケストラが盛り立てていくような曲調である。メシアンにも近いがノーノ的にも聞こえる。ヴィオラ協奏曲ということで、ヴィオラ独奏がオーケストラのヴィオラパートと歌い交わす場面もあり、意欲的な作風だ。
緊迫感もあり、面白い楽曲である。ヴィオラ独奏はかなり難度が高そうであったが。

 

今日最後の曲は、岸田繁の作・編曲(共同編曲:足本憲治)による「朗読とオーケストラ 京のわらべうた変奏曲による『徒然草』」~京都生まれの日本哲学~。吉田兼好の「徒然草」を現代語訳したものを栗山千明が朗読し、背後のスクリーンには武蔵野美術大学出身の文字×映像ユニット宇野由希子+藤田すずかによる文字アニメーションが投映される。

岸田繁の音楽はタイトルの通り、「丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦」という京の通り名を挙げる「京のわらべうた」を変奏していくもので、オーケストラのパレットも次々変わる。酒井健治の作品とは対照的であるともいえる。
素朴で愛らしいメロディーを奏でるのだが、広上の指揮ということもあってか響きは意外に重厚で輝かしく、さながらベンジャミン・ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」の日本版のような趣である。
栗山千明が読み上げるテキストは、「人生の短さ」「物事を先延ばしにすることの愚かしさ」「想像力の大切さ」「先入観を捨てることの有効性(虚であるべきこと)」などを抜粋したもの。葵祭が終わった夕暮れの寂しさなども採用されている。
栗山千明は茨城県出身なので標準語とは少し異なるイントネーションである。明るめの声を生かし、「流石は国際派女優」のしっかりした朗読を披露した。

Dsc_7708

| | コメント (0)

2019年10月25日 (金)

美術回廊(40) 美術館「えき」KYOTO 「西洋近代美術にみる『神話の世界』」

2019年10月18日 美術館「えき」KYOTOにて

美術館「えき」KYOTOで今日から始まった「西洋近代美術にみる『神話の世界』」展を観る。あべのハルカス美術館でラファエル前派の展覧会が行われているが、それとも関連のある内容である。
神話を題材に描かれた絵や彫刻が並ぶが、それは古典の再発見へと繋がっている。ジョヴァンニ=バッティスタ・ピラネージの「ローマの古代遺跡」の描写に始まり(そのままを描いたものではなく、古代の姿を想像によって復元させている)、「イリアス」や「オデュッセイア」というホメロスの文学、神や桂冠詩人に送られる月桂冠を編む女性の絵(フレデリック・レイトンの作品)、ミュンヘン分離派(ニュンヘン造形美術協会)による国際美術展のポスター(ギリシャの神々が描かれている)、テオドール・シャセリオーの「アポロンとダフネ」、アレクサンドル・カバネルの「狩りの女神ディアナ」(今回の美術展のポスターに採用されている)などの神々の像が並ぶ。ローレンス・アルマ=タルデの「お気に入りの詩人」のように、神々を描いたのではなく神話を読む女性とそれを聞くもう一人の女性を描いた作品もある。ジャン=ジャック・エンネルの「アンドロメダ」は普仏戦争によってドイツ(プロイセン)に割譲されたアルザス地方(現在はフランス領に戻っている。中心都市はストラスブール)を囚われのアンドロメダになぞらえたものだという。

幻想の画家として知られるオディロン・ルドンの「アポロンの二輪馬車」と「ペガサスにのるミューズ」が並んでいる。ルドンの絵は、昔、鎌倉の鶴岡八幡宮境内にあった神奈川県立近代美術館鎌倉(今は鎌倉文華館鶴岡ミュージアムとなっているようである)でのルドン展を観ているが、それとはかなり趣の異なる淡い印象の作品である。

美術館「えき」KYOTOやあべのハルカス美術館で観たことのあるラウル・デュフィの作品は、いかにもデュフィという趣の作品で、原色を用いた愉快な作風である。プーランクの音楽にも通じるようなエスプリ・クルトワに溢れている。

ルノワールやローランサン、ピカソといった有名画家の作品もあるのだが、今回はあまり惹かれず。ピカソは以前にも美術館「えき」KYOTOで同じ趣のエッチングを観ているということもあるだろう。後年自己模倣に陥ったことで知られるジョルジオ・デ・キリコの作品も展示されている。

デ・キリコと出会ってシュールレアリズムの影響を受けたいわれるポール・デルヴォーの「水のニンフ(セイレン)」は不安的な構図に逆に引きつけられる。美しい歌で船を水底へと引きずり込むというセイレンが、美しさと不気味さの絶妙の境で描かれている。ところで左の奥にポツンと一人で立っている男性は何者なのだろう? これも含めて悪夢的な雰囲気の漂う絵となっている。

 

Dsc_7662

| | コメント (0)

2019年10月 2日 (水)

これまでに観た映画より(129) 「人間失格 太宰治と3人の女たち」

2019年9月25日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、日本映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」を観る。蜷川実花監督作品。出演:小栗旬、宮沢りえ、沢尻エリカ、二階堂ふみ、成田凌、千葉雄大、瀬戸康史、高良健吾、壇蜜、近藤芳正、木下隆行、藤原竜也ほか。

タイトルには「人間失格」とあるが、小説『人間失格』の話は直接的には登場せず、太宰治(小栗旬)が『人間失格』執筆に至るまでを3人の実在の女性を絡めて描く。

鎌倉・腰越の小動岬での心中未遂の場面に始まり、玉川上水での入水に終わる。
登場する3人の女は、太宰の正妻である石原美知子(作家・津島佑子の母親。宮沢りえ)、愛人の太田静子(作家・太田治子の母親。沢尻エリカ)、愛人で心中することになる山崎富栄(二階堂ふみ)である。

 

スクリーン全体が一色に染まる場面が多用されるという、蜷川実花らしい演出が特徴である。舞い落ちる雪が花びらに変わったり、太宰が屋台の並ぶ祭りの中で迷い、真っ赤な風車(かざぐるま)と嘲笑を浴びせる子ども達に囲まれるという幻覚のシーンは、あるいは父親である蜷川幸雄の晩年の代表的演出作品「身毒丸」へのオマージュだったりするのかも知れない。

 

太宰が小説を書くために心中やらなんやらの事件を起こしているという噂は太宰の生前からいわれていたことであり、玉川上水で心中した際も、「どうせホラだろう」と本気にしなかった人もいたようだ。

 

『斜陽』を書くために太田静子と不倫することを許し、「もっと凄い作品」を書くために山崎富栄に走るよう仕向ける石原美知子が実は影の主人公なのではないかと思われる節もある。美知子の存在感はラストが近づくたびに増していき、最後は『斜陽』のヒロインと重なるような、太宰以上に重要な人物となる。
正樹(太宰治の息子。15歳で夭逝)がこぼしてしまった青の絵の具を美知子と娘の園子が顔に塗りたくりながら泣くという印象的なシーンがあるが、青は悲しみの色であると同時に太宰が吐き出す血の赤の反対色でもあり、はっきりとはわからないが結核を病む太宰を介抱する富栄への対抗意識と合わせて二つながらに描いているようである。本当にそうならベタで露骨ではあるが上手い技法でもある。
他の俳優も優れているが、宮沢りえが、この映画の中では最高の出演者であろう。沢尻エリカや二階堂ふみには押しの演技が必要とされるため、引きの演技の部分は宮沢りえが一人で担っているともいえる。

 

スキャンダラスな太宰治を描くということで、プレイボーイが嵌まるイメージのある小栗旬はよく合っている。頭が良さそうにも文才がありそうにも見えないが、この作品の太宰はそうした要素は二の次三の次で、とにかく色気があることが重要であり、剽軽な部分の描き方も小栗旬の良さが出ている。これまでの太宰治像というと、とにかく陰鬱で自意識過剰でありながら女々しくて、小説家としては天才だが生活は破綻しているという描き方が多かったが、小栗旬の太宰には「軽み」がある。

坂口安吾役の藤原竜也は出番は極々短いが、太宰を『人間失格』執筆へと導く重要な役どころであり、藤原竜也を配したのは正解だと思われる。

耽美的な要素と、男女関係が前面に出ているため、太宰本人ではなく太宰が書いた小説の切実さはあるいは伝わりにくくなっているかも知れない。見ようによっては本当に「ただの不倫」とも取られかねないところはある。

 

個人的には、『人間失格』は、悲惨この上ない物語だとは思っていない。人から愛されるため、他の人と同じ道を歩むために演じ続けることが人間というものなのだとしたら、そんなものは失格してしまった方が良いのではないかとすら思っている。昨今は同調圧力が今まで以上に高まり、「ダイバーシティ」の掛け声とは裏腹に、「同じであること」が強要されるようになってきている。要約すると「LGBTはまともな男と女になるよう努力しろ」ということになる文章を書く人が現れたりするのだから困ってしまう。

 

「存在するため」に人はあるいは「人間」になるのかも知れない。存在するだけではなく生きるためには人間を失格しても良いのではないか。『人間失格』という小説をそう受け取った時、私は初めて太宰治の友人になれたような気がした。この映画では、凄い小説を書くために人間を失格するという解釈なのだと思われるのだが、こうした太宰個人や表現者だけでなく、もっと多くの人に「失格」の良さを示して欲しかったと個人的には思うのだ。

Dsc_7488

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2346月日 DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア ウェブログ・ココログ関連 オペラ カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ トークイベント ドイツ ドキュメンタリー映画 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都四條南座 京都市交響楽団 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 動画 千葉 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 学問・資格 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 食品 飲料 香港映画