カテゴリー「文学」の176件の記事

2020年6月19日 (金)

SPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優、教科書朗読 太宰治 「走れメロス」 朗読:大高浩一

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2020年6月 6日 (土)

配信公演 浅草九劇オンライン 柄本明ひとり芝居「煙草の害について」(劇評。文字のみ。関連リンクはあり)

2020年6月5日 東京の浅草九劇からの配信

午後7時30分から、オンライン型劇場に模様替えした浅草九劇の配信公演、柄本明ひとり芝居「煙草の害について」を観る。事前申込制の有料公演である。配信はVimeoを使って行われる。

配信公演への入り口となるURLは開演1時間ほど前に送られて来たのだが、メールソフトの調子が今日もおかしく、HTML形式のメールの画像がダウンロード出来ないので、返信やら転送やらのボタンを押して、無理矢理別の形式に置き換えて見る。返信を押した場合、更に「返信をやめる」を押すのだが、それでも返信されてしまう場合がある。

 

午後7時開場で、その直後に配信画面に入ったのだが、ずっと暗闇が続く。「LIVE」と視聴者数の文字は出ているので動いていることは確かだが、午後7時30分丁度になっても暗闇のままなのでブラウザの更新ボタンを押す。そのためか、あるいはそれとは関係なく配信の時間が来たからなのか、画面に舞台の背景が映る。臨場感を増すため、フルスクリーンにして視聴する。

 

「煙草の害について」は、アントン・チェーホフが書いた一人芝居である。オリジナルに近い形での上演は、MONOが京都芸術センターで行った「チェーホフは笑いを教えてくれる」というチェーホフの短編を連作にした作品の中で水沼健(みずぬま・たけし)が演じたものを観たことがあるのだが、上演時間が20分弱という短いものであるため、今回はチェーホフが書いた他の戯曲のセリフや歌などを加えて、上演時間1時間前後に延ばしたテキストを使用しての上演である。柄本版「煙草の害について」は、1993年初演で、書き直しを行いながら何度も上演を重ねているが、私は観るのは今日が初めてである。

柄本明が演じるのは、妻が経営する全寮制女子音楽学校の会計係兼教師であるが、恐妻家であり、今いちパッとしない男である。着ているベストも継ぎ接ぎだらけだ。

妻に命令されて、無理矢理「煙草の害について」というタイトルの健康に関する講演をすることになったのだが、彼自身は喫煙者であり、煙草の害に関する知識は辞書などで得たもの以外にはさほどない。当然ながらやる気もない。

音楽学校の生徒全員分のホットケーキを焼くよう妻に命じられて作ったのだが、体調不良で5人が食事をキャンセルしたため、妻から5人分を一人で食えと命じられ、食べ過ぎで体調不良である。妻からは「かかしんぼ」と呼ばれることがあり、かなり侮られている。

 

本編に入る前に、柄本明はアコーディオンを弾きながら榎本健一の楽曲「プカドンドン」(もしくは歌詞違いの「ベアトリ姉ちゃん」。サビの歌詞が一緒なので判別出来ず)を歌う。伴奏と歌がかなりずれることもあるが、あるいは浅草での上演ということでエノケンへのリスペクトも込めて歌われたのかも知れない。

体調が悪いので、持ってきた原稿の1枚目に向かってくしゃみをしたり、もうちょっと汚いものが出たため、それを丸めて棄てたのだが、実はそれが「煙草について調べた内容を書き記したメモ」だったため、それに気づいて、汚いのを承知で拾い、広げて読み上げるのだが、出したものでインクが滲んでしまい、上手く読めない。「イタリえば」と読んだが、実は「例えば」だったり、「中洲」という博多の繁華街ネタが始まるが、実際は「中枢神経」と書かれたものだったことが直後に判明したりする。男は「学がない」と自己紹介をしていたが、最後の辺りで「若い頃は大学で学問に励んだ」という話をしたり、音楽学校で理系から文系までの教養科目を幅広く教える能力があるため、謙遜しただけで、今は冴えないが少なくとも若い頃はかなり優秀と見られた人物であるらしいことがわかる。ちなみに彼の奥さん(「三人姉妹」に登場する怪女・ナターリヤの要素を入れている)は友人とフランス語で話すが、男の悪口を言うときはロシア語になるということが語られる場面があるのだが、帝政ロシア時代はかなり徹底したフランス指向の影響で上流階級はロシア語でなくフランス語を話していたという事実があり、奥さんもフランス語が話せて音楽がわかるということからハイクラスの出身であることがわかり、そうした女性と結婚出来た男も同等の階級出身である可能性が高い。あるいは彼も優れた才能と身分に恵まれながら時代の壁に阻まれて上手く生きられなかった「余計者」の系譜に入るのかも知れない。

「いざ鎌倉。鎌倉はどっち? ここは浅草だから」という話が出てきたり、「休憩」と称して下手隅にある椅子に腰掛けてバナナを食べた後で、ぶら下がっている紐に首を入れて揺らし、縊死するかのように見せた後で「ゴンドラの唄」を歌い、黒澤映画の「生きる」をモチーフにした演技を見せるなど、日本的な要素もちりばめられている。

とにかく妻や娘から軽視されているというので愚痴が多く、「誰でも出来る」結婚しか出来なかった(ただ今の人にとっては、結婚自体が高望みになりつつある。私も結婚していない。「私にも妻がいればいいのに」)不甲斐なさを述べるのだが、柄本明自身が奥さんである角替和枝を亡くしているということが透けて見えるような愛情吐露の場面もあり、妙に切なかったりする。

途中で後ろの方に座っていた学生風の若者が勝手に退出しようとしたのを見とがめたり、女子音楽学校の校則などの紹介が載っている本を客席に向かってロシア通貨で販売しようとする場面があったり(今回は無観客上演なので誰もいない)とステージ上だけでない空間の広がりを生む演技もある。

ラスト付近ではラヴェルの「ボレロ」が流れ、妻の影絵が浮かび、転調を伴う狂乱の内に芝居は終わる。

 

上演終了後、柄本は無人の劇場で演じるのは初めてだと語り、文化は生きることと同等であり、なくてはならないもの。なくなったら死んでしまうと熱いメッセージを語った。

 

初の配信ということもあってか、映像が時折途切れたりする。こちらの回線が悪い時もあったかも知れないが、スローモーションになった時には視聴者数が一気に20人ほど減ったため、観るのを諦めたかいったんログアウトしたかで、他の人が観ている映像にも問題が生じていることが察せられた。その後、観客数が一気に増え、ほどなくして画面も動き出した。

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2020年5月27日 (水)

木村多江(朗読) 宮沢賢治 「春と修羅」 音楽:坂本龍一 「Aqua」

Zypressen=糸杉 花言葉:「死」「哀悼」「絶望」「永遠の悲しみ」「不死」「再生」「正義の人」

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2020年5月21日 (木)

これまでに観た映画より(177) 佐々木美佳監督作品「タゴール・ソングス」

2020年5月18日 「仮設の映画館」@出町座

仮設の映画館@出町座で、ドキュメンタリー映画「タゴール・ソングス」を観る。佐々木美佳監督作品。

アジア人としてまた西欧人以外では初のノーベル文学賞受賞者となったタゴール(ラビンドラナート・タゴール)が残した、タゴール・ソングスという歌の数々がベンガル地方の人々に与えた影響に迫るドキュメンタリーである。インドの国際都市コルカタ(旧カルカッタ)と、英領インドから東パキスタン時代を経て独立したバングラデシュの首都ダッカでのロケを中心とした映像が流れる。

インドの国歌の作詞・作曲とバングラデシュの国歌の作詞を手掛けたのもタゴールであり、今もベンガル地方の人からは神のように崇拝されており、タゴールが残した歌は彼らのソウルミュージックとなっている。

タゴール・ソングスは多様な心模様を歌い上げている。愛しい人を思う歌もあれば、孤独や悲しみと向き合う歌もある。元々はベンガル地方の民族楽器の伴奏で歌われていたようだが、今はギターなどの西洋の楽器の伴奏に乗って歌われることが多く、編曲も現代風になっている。

タゴールが作ったメロディーではなくラップを歌い上げる若者もタゴール・ソングへのリスペクトを語る。


タゴールは、富豪の末っ子としてカルカッタに生まれた。生家である豪邸は今も残っており、この映画にも登場する。幼い頃から詩の才能を示すが、学校の勉強は拒否した(このことは映画の中でも語られている)。金銭的には恵まれていたが、当時のインドはイギリスの植民地。実に不自由な時代である。映画に出てくる人々の証言を纏めると、今もインドは不自由だそうである。貧しさに泣いている子どもが大勢おり、家では両親、特に父親の権限が強く、女性に対する差別も激しい。生まれてくる子どもが女の子だとわかると中絶してしまうことも少なくないようである。

現在はバングラディシュ領となっている農村、シライドホの領地管理を任されたタゴールは、自然の中で多くのインスピレーションを得るようになる。また、善政を敷き、領民が「土地が欲しい」と訴えれば与え、貧しい人には租税の一時免除を行った。そのため今でもシライドホではタゴールは神様そのものと讃えられているようである。


タゴール・ソングスは、常に人々と寄り添うものである。押しつけがましさはなく、同じ道を歩む同行者である。「もし君の呼び声に誰も答えなかったとしてもひとり進め」と歌う。だが、隣にはタゴールが付いている。悲しみや孤独をタゴールは共に感じてくれる。西洋の歌とは一味も二味も違う詞と音楽をタゴールは生む。
象徴的な場面がある。タゴール・ソングを歌い、教師として弟子にも教えている男性、オミテーシュ・ショルカール。彼は人から「あなたは歌手か?」と聞かれると「違う」と答える。「でも歌を歌っているでしょ?」と聞かれると彼はこう答えるそうである。「歌っているのはタゴール・ソング。タゴール・ソングと歌は別のものだ」

コルカタの大学に通う女子学生、オノンナが、日本を訪れる場面がある。タゴールは1916年に来日しており、東京の日本女子大学校(現在の日本女子大学の前身。当時は旧制の専門学校)と軽井沢で講演を行っている。軽井沢を訪れた後、東京に向かったオノンナは、バングラデシュと日本のハーフであるタリタと知り合い、(おそらく)横浜に遊びに出掛ける。ずっと日本で過ごしてきたタリタは日本語しか話せなかったが、東京外国語大学に進学し、ベンガル語やバングラデシュの文化を専攻している。タゴールを始めとするベンガル語の文学や音楽などを広めたいと語るタリタは、同じ東京外国語大学出身でタゴールを広く紹介することを目指す佐々木美佳監督の分身のようでもある。


最後に私のタゴールに関する思い出を一つ。二十代前半の頃だったと思うが、現代詩文庫のアジアの詩人の作品を集めた詩集を明治大学駿河台キャンパス12号館の地下にあった生協(今は生協はなくなり、三省堂書店が入っている)で買って読んだのだが、劈頭を飾っていたのがタゴールの詩であった。アジア初のノーベル文学賞受賞なのだから当然といえる。海辺で遊ぶ子ども達を描いた詩であり、詳しいことは忘れてしまったが、広がりと煌めきとが印象的であったことを覚えている。

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2020年5月 5日 (火)

広上淳一指揮京都市交響楽団ほか マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」(高画質版)

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2020年5月 3日 (日)

今の季節に読みたい小説 泉鏡花 「龍潭譚」(青空文庫)

躑躅の圧倒的な色彩感が目に浮かぶ、泉鏡花初期の傑作短編小説「龍潭譚」。9歳の頃に実母と死に別れた鏡花の、母に対する慕情が最も鮮烈に現れている小説の一つです。

泉鏡花 「龍潭譚」(青空文庫)

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2020年4月29日 (水)

これまでに観た映画より(168) 黒澤明監督作品「羅生門」

※この記事は2005年11月11日に書かれたものを加筆修正したものです

DVDで映画「羅生門」を観る。言わずと知れた黒澤明監督作品。1951年度ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞作品。
前に「羅生門」を観たのはまだ10代だった時だから10数年ぶりの鑑賞になる。

芥川龍之介の小説を原作としているが、原作になったのは「羅生門」ではなく、「藪の中」である。
光と影が織りなす妙なる映像が何ともセクシーである。映像美だけでも賞賛に値する。

人間のエゴ、醜さをあぶり出した作品。しかし、これが1950年に公開されたということを考えると、戦後の闇市の記憶がまだ生々しく、時代の背後で一般民衆を巻き込んだどす黒いものが淀んでいた時期であり、当時の観客は今よりもずっと生々しいものをこの画に見ていたであろうことが想像される。

三船敏郎が藪の中を駆け抜けるシーンは中央に置かれたカメラの周りをグルグル回ることで撮られたものだという。だから安心して思い切り駆け抜けることが出来た上に、広い場所も必要ではなかった。黒澤の職人芸が感じられる。

京マチ子は、10代で初めて見たときには、少しも美人に感じられなかったのだが、今見ると、妖しい雰囲気を出していてなかなかである。

「藪の中」を原作にしたのに何故タイトルを「羅生門」にしたのか? 事実はわかっていないようだが、人間の醜悪さを描いた「藪の中」を描きながらも、その醜悪な都や時代(戦後すぐの東京)を抜け出す希望に比重が置かれているからではないか、と考える。羅生門は希望への出口なのだ。

ボロボロに崩れた羅生門から赤子を抱いて、未来へと歩き出す男(志村喬)の表情がそれを裏付けているように思える。

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2020年4月24日 (金)

これまでに観た映画より(167) 「もうひとりのシェイクスピア」

配信で映画「もうひとりのシェイクスピア」を観る。イギリス・ドイツ合作作品。監督:ローランド・エメリッヒ。出演:リサ・エヴァンス、ジェイミー・キャンベル・バウアー、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン、セバスチャン・アルメスト、レイフ・スポール、デヴィッド・シューリス、エドワード・ホッグ、ゼイヴィア・サミュエル、サム・リード、パオロ・デ・ヴィータ、トリスタン・グラヴェル、デレク・ジャコブほか。

シェイクスピア別人説に基づいて作られたフィクションである。

世界で最も有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアであるが、正体については実のところよく分かっていない。当時のイギリスの劇作家は、この映画に登場するベンジャミン・ジョンソン(ベン・ジョンソン)にしろ、クリストファー・マーロウにしろきちんとした高等教育を受けているのが当然であったが、シェイクスピア自身の学歴は不明。というより少なくとも高学歴ではないことは確実であり、古典等に精通していなければ書けない内容の戯曲をなぜシェイクスピアが書けたのかという疑問は古くから存在する。実は正体は俳優のシェイクスピアとは別人で、哲学者のフランシス・ベーコンとする説や、クリストファー・マーロウとする説などがある。これが「シェイクスピア別人説」である。この映画では、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアをシェイクスピアの名を借りて戯曲を書いた人物としている。

二重の入れ子構造を持つ作品である。ブロードウェイでシェイクスピアの正体を解き明かす作品が上演されるという設定があり、前説をデレク・ジャコブが語る。劇中劇として行われるエリザベス朝の世界はベン・ジョンソン(セバスチャン・アルメスト)が事実上のストーリーテラーになるという趣向である。ストラットフォード・アポン・エイボンで生まれたいわゆるウィリアム・シェイクスピアはこの映画では文盲に近い低劣な人物として描かれている。

エリザベス朝においては、演劇は低俗な娯楽として禁じられることも多かった。当時の演劇は、社会や政治風刺と一体となっており、貴族階級はそれを嫌っていたからだ。
その貴族階級に属するオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(リス・エヴァンス)が戯曲を発表するというわけにはいかず、匿名の台本での上演を行う。そして宮内大臣一座に所属していた三流の俳優であるウィリアム・シェイクスピア(レイフ・スポール)が調子に乗って「ヘンリー五世」の作者が自分であると観客に向かって宣言したことを利用する形で、オックスフォード伯エドワードは自身の戯曲にウィリアム・シェイクスピアと署名する。エドワードの書いた戯曲は当時の権力者である義父ウィリアム・セシル(デヴィッド・シューリス)やその息子のロバート・セシル(この映画では「リチャード三世」に見立てられた人物とする説を取っている。演じるのはエドワード・ホッグ)が行う言論弾圧や、スコットランド王ジェームズ(後のジェームズ6世。メアリー・ステュアートの息子)へのイングランド王継承を図っていることに対する批判や揶揄を含む内容であり、矢面に立つのを避ける意味もあった。実際に当時を代表する劇作家であったクリストファー・マーロウは謎の横死を遂げ、ベン・ジョンソンも逮捕、投獄の処分を受けている。最初はベン・ジョンソンと結託してその名を借りることを考えていたエドワードだが、シェイクスピアに白羽の矢を立てたことになる。次第に高慢な態度を取るようになるストラッドフォードのシェイクスピアとジョンソンは対立するようになるのだが、怒りに任せてジョンソンが行った密告により、エリザベス朝は悲劇を招くことになる。

複雑な歴史背景を描いた作品であり、歴史大作としても楽しめる映画だが、なんといってもシェイクスピアが書いた「戯曲」への敬意が主題となる。実際のところ内容が優れていればそれが誰の作であったとしても一向に構わない、とまではいかないが生み出された作品は作者に勝るということでもある。シェイクスピアの戯曲はシェイクスピアが書いたから偉大なのではなく、偉大な作品を生み出した人物がシェイクスピアという名前だったということである。仮にそれらがいわゆるシェイクスピアが書いたものではなかったとしてもその価値が落ちるということは一切ない。
ロバート・セシルは父親同様、演劇を弾圧しようとしたが、ジェームズ6世が演劇を敬愛したため、政治的にはともかくとして文化的および歴史的には演劇が勝利している。

ただこの映画に描かれるオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアという人物の生き方に魅せられるのもまた事実である。イングランドで一二を争う長い歴史を誇る貴族の家に生まれたエドワードだが政治的には全くの無能であり、戦争に参加して能力を発揮する機会もなかった。だが、当時は無意味と見做されていた文芸創作に命を懸け、結果として家は傾いたが、書き残したものは永遠の命を得た、というのは史実かどうかは別として文学者の本流の生き方でもある。

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2020年4月18日 (土)

これまでに観た映画より(165) 「鉄道員(ぽっぽや)」

録画しておいてまだ観ていなかった日本映画「鉄道員(ぽっぽや)」を観る。降旗康男監督作品。原作:浅田次郎。出演:高倉健、大竹しのぶ、広末涼子、吉岡秀隆、安藤政信、志村けん、奈良岡朋子、田中好子、中本賢、小林稔侍ほか。主題歌の「鉄道員(ぽっぽや)」を作曲したのは坂本龍一。作詞は奥田民生で、歌唱は坂本龍一の娘である坂本美雨である。

生涯を鉄道員(ぽっぽや)として過ごした佐藤乙松(高倉健)の物語である。

北海道。D51の釜焚きからスタートして、機関士見習い、機関士を経て幌舞駅(架空の駅である)駅長となった佐藤乙松。雨の日も雪の日も、ホームに立って人々を向かい入れ、列車を見送る生活を送っている。ドラマは乙松の現在と過去を行き来する形で進んでいく。過去は灰色がかった映像になるが、全体として温かい感じの画像となっている。全編を通して、乙松の妻の静江(大竹しのぶ)がよくハミングしていた「テネシーワルツ」が流れ、郷愁をくすぐる。

鉄道員であることが生き甲斐であり、静江の死に目にも、幼くして亡くなった雪子の最期にも立ち会えなかった乙松。二人が死んだ日もともに日誌には「異常なし」と記した。プロの駅長であった。
かつて炭鉱の街として賑わった幌舞であるが、今は石炭も取り尽くされ、老人ばかり200名が住む限界集落となっている。若い人もいるにはいるが少数派である。幌舞駅も幌舞に向かう幌舞線も廃止が迫っていた。

幌舞の炭鉱が閉鎖される直前に、筑豊炭田から流れてきた期間工・吉岡肇を演じているのが志村けんである。志村けんが映画に出演したのはこれが唯一となるようだ。出番は余り多くないが、息子の敏行が幌舞駅前のだるま食堂の加藤ムネ(奈良岡朋子)の養子となり、後にボローニャでの修行を経て「ロコモティーヴァ(機関車)」という名のイタリアレストランを開くことになる(成長した敏行を安藤政信が演じている)など、橋渡しとして重要な役割を担っている。考えてみれば駅も駅長も橋渡しの役割である。
本当は敏行を養子にしてぽっぽやを継がせたいという思いが静江にはあったのだが、体の弱さなどの事情からムネに譲ることになった。登場人物は自身が主役になるのではなく見送る人が多い。ただ結果として、ぽっぽやは形を変えて受け継がれることになる。

機関士時代からの戦友である杉浦仙次(小林稔侍)は定年後にトマムのリゾートホテルへの就職が決まっており、同じく定年を迎える乙松にも一緒に来るよう提案するのだが、乙松は生涯一鉄道員、鉄道員以外何も出来ない男として生きることを誓っており、翻意はしない。

頑固で不器用であり、そんな自分に嫌気も差していた乙松だが、そこへ3人の少女が現れる。それは一種の奇跡であり、肯定であった。


若い頃の広末涼子は透明感抜群で才気が漲っているという感じである。こうした女優がその後、紆余曲折の女優人生を送ることになるのだから人生は上手くいかない。この頃の彼女は甘い人生設計を思い描いていることを明かしていたが、その直後に蹉跌が待っていた。

佐藤乙松の生き方は高倉健の俳優としてのあり方そのものであり、この映画が高倉健そのものの魅力を描いたものになっていることは間違いない。自身のことを「不器用ですから」と言っていた高倉健も生涯一鉄道員ではなく、生涯一俳優として人生を生き抜いた。


降旗康男監督は昨年他界、高倉健も6年前に世を去り、先日、志村けんも旅立った。田中好子もその死からもう9年が経とうとしている。みんな行ってしまった。
結局のところ、この世にあっては私もまた見送る人だということであり、人生の本質が凝縮された映画であるともいえる。

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2020年4月 1日 (水)

これまでに観た映画より(164) 「のぼうの城」

録画したまま長く未見であった映画「のぼうの城」を観る。原作・脚本:和田竜、監督:犬童一心&樋口真嗣。出演:野村萬斎、榮倉奈々、佐藤浩市、成宮寛貴、山口智充、上地雄輔、山田孝之、平岳大、前田吟、中尾明慶、尾野真千子、芦田愛菜、ピエール瀧、和田聰宏、西村雅彦、中原丈雄、鈴木保奈美、平泉成、夏八木勲、市村正親ほか。TBS開局60周年記念作品として制作された作品であり、安住紳一郎がナレーターを務めている。もとは2011年に公開予定であったが、忍城に迫る激流が東日本大震災での津波を連想させるとして、公開が1年ほど延びている。

関白・豊臣秀吉の小田原征伐に伴う忍城の戦いを描いた作品である。

まずは、天正10年(1582)、後に秀吉の中国大返しの発端となったことで知られる毛利征伐、備中高松城の戦いの描写から入る。羽柴秀吉(市村正親)は備中高松城を土塁で囲い、河川の水をその中に注ぎ込んで城を孤立させるという、水攻めを行った。城攻めの名手、秀吉の最も効果的な戦略として知られる(だが、その戦略のために落城まで時間が掛かり、このことが本能寺の変が起きる伏線ともなった)水攻めに、佐吉と呼ばれていた頃の石田三成(上地雄輔)は感動。いつかこの戦法を用いてみたいと心に誓う。

それから8年が経ち、豊臣の氏を賜った秀吉は、反抗する唯一の大名である小田原北条氏を攻めることを決意。石田三成には、北条方の城である館林城と忍城を落とすよう命じる。三成は官僚としては有能で頭も良いが、これといった戦績がなく、人望も上がらないでいた。秀吉には三成に功を上げさせようという目論見もあった。
三成は、盟友である大谷吉継(山田孝之)や、余り反りは合わないが後に共に五奉行に名を連ねることになる長束正家(平岳大)らを引き連れてまずは館林に向かうが、館林城は豊臣方の大軍に怖れをなして戦わずして開城。余りの呆気なさと相手の胆力のなさに失望した三成は、次の目標である忍へと向かう。

忍城の城主は成田氏長(西村雅彦)であったが、氏長は北条の本城である小田原城に向かう必要があったため、叔父の成田泰季(やすすえ。平泉成)に城代を任せる。実は氏長は秀吉側と通じるつもりであり、忍籠城は見せかけにせよと家臣らに命じた。

石田軍が忍城を包囲する中、泰季は病に倒れ、長男の成田長親(野村萬斎)に城代を譲る。長親は、「うつけ」と評判であったが、人に愛される質であり、「でぐのぼう」に由来する「のぼう様」として領民に好かれていた。
長親も降伏・開城に異論はなかったが、ここで三成が策を用いる。長束正家の性格を見抜いた上で軍使に命じ、忍城に送り込む。上の者には下手に、下の者には居丈高に出る正家は成田氏を見下す発言を続け、結果として長親らの反発を招く。長親は開城を翻して開戦を決意。正木丹波(佐藤浩市)、酒巻靭負(さかまき・ゆきえ。成宮寛貴)、柴崎和泉守(山口智充)らも長親を支持し、ここに忍城の戦いの幕が切って落とされた。


人たらしであるが武将としてはいささか頼りない長親と、知略に優れるが人望がなく、これといった戦績がないため侮られている三成は、一見すると対極のようでありながら実は表裏一体の関係であり、共に人の心を読むことに長けている。あるいは立場が違ったなら互いを補い合う形で良き友、良き同僚ともなり得た間柄のように思われる。負け戦であることを大声で認める三成の清々しい表情がそれを表しているようでもある。
戦国武将の友情を描いた作品ではないが、すれ違う中で一瞬、わかり合えた関係である二人が愛おしく見えたりもする。

パブリックイメージでいうと三成に近い野村萬斎が成田長親を、長親らしい要素のある上地雄輔が石田三成を演じるという逆転の配役も妙味がある。

エンドクレジットでは忍城のあった埼玉県行田市の映像が流れ、今も残る忍城の戦いの名残が紹介されている。

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