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2022年3月28日 (月)

コンサートの記(771) 日本オペラプロジェクト2022 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」西宮公演

2022年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。木下順二の代表的戯曲を「セリフの一字一句に至るまで変更しない」という約束の下、オペラ化した作品で、日本が生んだオペラとしては最高の知名度を誇っている。今回は2013年に初演されたプロジェクトの再々演(三演)である。2013年の公演は私は観ていないが、2018年に行われた再演は目にしている。

演出は引き続き岩田達宗が担当。美術も故・島次郎のものをそのまま踏襲している。
今回の指揮者は、1989年生まれの若手、粟辻聡(あわつじ・そう)。京都市生まれで京都市少年合唱団出身。2015年に第6回ロブロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで第2位に入賞。京都市立芸術大学、グラーツ芸術大学大学院、チューリッヒ芸術大学大学院においていずれも首席を獲得して卒業している。京都市立芸術大学では広上淳一に師事。現在は奈良フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める。大阪音楽大学講師。
演奏は、大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートマスター:赤松由夏)。

つうと与ひょうはいずれもダブルキャストで、今日は老田裕子(おいた・ゆうこ。ソプラノ)と中川正崇(テノール)のコンビとなる。運ずは晴雅彦(バリトン)、惣どに松森治(バス)。少年合唱は、夙川エンジェルコール。

開演前にホワイエで、岩田さんに前回観た「夕鶴」の解釈について質問したりした。上演内容自体は、今回もほとんど変わりない(プログラムノートも同一である)。

「夕鶴」は、人間と鶴とのすれ違いを描いた悲恋と観るのが一番面白いように私は思う。
実は互いは互いにとって最高のパートナーともいえる関係にある。押しかけ女房のつう(正体は鶴)は、矢で射られて倒れていたところを与ひょうから治療を受けて、その感動から人間となって与ひょうの前に現れる。冒頭の少年合唱による童謡のシーンでメンバーの一人が弓矢遊びをしているが、当時は鶴の数も多く、天然記念物という概念もなく、あったとしてもそれには該当せず、鶴は普通に狩りの対象であった。そんな鶴に優しくしてくれた与ひょうは人間に化けたつうにも当然ながら優しい。
この与ひょうというのがかなり不思議なキャラクターであり、金銭というものにほとんど興味を示さない。示すとしてもそれはつうのためになることだけである。つうが織った千羽織が売れて、熱心に働くことを止めてしまったようだが、それは働くのが嫌になったというよりも、つうと一緒にいる時間を増やしたいからであろう。与ひょうはそれほどつうのことを愛しているのである。

千羽織も、元は与ひょうに求められて織ったのではない。つうの方から織って与ひょうに贈ったのである(民話「鶴の恩返し」とは違い、恩返しのために織った訳ではない)。つうは与ひょうに喜んで貰って嬉しい。ただ、ここはちょっと引っ掛かる。つうの正体は鶴である。「正体がばれたら捨てられる」。つうは当然ながらそう思っただろう。正体が露見する危険を冒しながら、それでも敢えて自分の身を傷つけて千羽織を作るのであるが、そうでもしない限り与ひょうに捨てられるという恐怖を抱き続けていたのではないだろうか。子供達と「かごめかごめ」の遊びをした時の必要以上の動揺を始めとして、常に別れにおびえているような印象を受ける。そうであるが故に、与ひょうのちょっとした変化に敏感になりすぎてしまったのではないか。客観的に見ると与ひょうは終始一貫しておおらかな性格であり(惣どと運ずに、「千羽織をもっと織らせるように」と言われたときも、「(出来の良い)千羽織はつうが作った」とのろけており、金銭欲はほとんど感じられない)、全てはつうの勘違いであった可能性が高い。そのままでいようと思えばいられたかも知れないのだが、怖れが逆に別れへの道を開いてしまった。

与ひょうはつうに千羽織を作るよう頼むが、それはつうと一緒に都に出掛けるためである(「つうも都に行きたいと思っているはず」だと勝手に思い込んでもいるのだが)。だが、つうはそれ以前の与ひょうの「金がいる」という内容の言葉の数々に耳をふさいでしまったため、肝心の「つうと都に行く」ためという、理由となる言葉を聞き逃してしまうという演出を岩田は施す。
ラストで同じ内容の言葉が出て、つうは与ひょうの本心を初めて知るのだが、時すでに遅しである。更には、つうの正体が鶴であったと分かっても与ひょうはそれを受け容れる気でいた。そんな男は他にはいないだろう。だがつうの体はもうボロボロ、そして当時の通念からすれば、恥を掻かされた以上は、死ぬか別れるか、あるいはその両方かしか残されていない。つうは千羽織を二反作った(岩田の解釈では千羽織は二人の「子供」であるが、見る側はそれに従っても従わなくても良いように思う)。一つは売って金にするために、もう一つは自分の形見として。二反織ったためにつうは精も根も尽き果ててしまったのだが、与ひょうはつうと別れる気はさらさらなく、形見として一反余計に織る必要は全くなかったのである。最愛のパートナーとして末永く暮らせる可能性がありながら、分かり合えなかったという悲劇が浮かび上がる。誰もが一度は経験する最愛の人から理解されないという孤独。
単なるストーリーで出来ている訳ではない戯曲とそれを説明するだけでない音楽。木下順二も團伊玖磨もやはり偉大な芸術家である。

粟辻聡の指揮に本格的に接するのは初めてであるが、ドラマティックなうねりと雄大なフォルムを築くことに長けた指揮者である。オペラにはかなり向いていそうだ。

つう役の老田裕子のハリのある声と体全体を使った巧みな心理描写、穏やかな佇まいと柔らかな声を持つ与ひょう役の中川正崇も実に良い。役にはまっている。晴雅彦と松森治の安定感も良かった。

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2022年3月25日 (金)

BSプレミアム「アナザーストーリーズ」 村上春樹『ノルウェイの森』“世界のハルキはこうして生まれた”

2022年2月1日

NHKBSプレミアム「アナザーストーリーズ」。今回は村上春樹の代表作の一つである『ノルウェイの森』の誕生秘話が紹介される。
『ノルウェイの森』は、私が2度目に読んだ村上春樹の小説である。初めて読んだ村上春樹の小説は、長編第2作目である『1973年のピンボール』で、私の生まれた前年である1973年というタイトルに惹かれて購入した。中学1年の時である。実のところ、『1973年のピンボール』は、村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』の続編であり、『1973年のピンボール』だけを読んだのでは何のことかよく分からないのである。「不思議な小説」という印象だけ持った。

『ノルウェイの森』を初めて読んだのは、高校2年生の時。かなり辛く追い詰められた青春時代を送っていた私にとって、『ノルウェイの森』は福音のような役割を果たした。「このまま生きていていいんだ」とそれまでの人生を肯定された気になったことを今も忘れることはない。特別な小説である。

その後、明治大学文学部で日本史を専攻するはずだった私は、受験の壁に弾き飛ばされ、やむなく明治大学の夜間の文学部のみに設置されていた文芸学専攻に入学した。敬愛する詩人である田村隆一の直接の後輩になれた訳だが、やはり誰よりも得意だった歴史学を生かせないのは後々痛手になるのではないかと、心が震えるような日々を過ごしていた。3年生になった時、津田洋行教授が、ゼミで村上春樹作品を取り上げることを知る。ゼミに入れるかどうかは早い者勝ちであるため、私は受付当日に事務室の前に3時間前から並び(当然ながら一番乗り)、音楽之友社から発行されていた「世界の指揮者名鑑」を読みながら待ち続けて、参加券を得た。ゼミ自体では上手くいかないこともあったが、ゼミ最後の席でなかなか良い発言が出来たため、そのままの流れで津田先生の担当により村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を卒論に選ぶことになる。自身が書いた論文の文体が気に入らなかったが(論文の文体ではなく、フィクション作品を書く時のような文章であった)、高い評価はいただけた。

そんなこんなで村上春樹は私にとって特別な作家の一人となっている。余談だが、村上春樹を卒論で取り上げなかった場合は、中島敦論を書く予定であった。そのため1年生の頃からちくま文庫の『中島敦全集』を全て読むなど準備を進めてきたのだが、3年の時に方向転換することになる。

『ノルウェイの森』は、読んだことのない人には「お洒落な小説」と映っているようである。1987年に単行本が出た時の装丁が、上巻が赤地に緑の抜き字、下巻が緑に赤の抜き字で、「クリスマスみたい」と言われていたのを記憶している。ただ私にとって『ノルウェイの森』はお洒落でもなんでもない、痛切なサーヴァイブの小説であり、巨大な世界と対峙して敗れていく若者の姿を描いたシリアスな文学だった。東京と京都が舞台となっているというのも気に入った。東京と京都への憧れを持った少年だったから。

自分がどこにいるのか分からなくなるラストは、おそらくは夏目漱石の『それから』へのオマージュであると同時に、多くの若者が体験するであろう乖離のような感覚が叩きつけられるほど鮮烈に描かれていた。『ノルウェイの森』に描かれた風景は確かに私の中にあった。まだ大学にも入っていないのだが、その存在は現実よりもありありと私の眼前にあった。東京23区内の大学に進むことで、それを追体験してみたい気持ちもあった。

そして私は、ヴィルヘルム・バックハウスのピアノ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームスのピアノ協奏曲第2番のCD(ロンドン=DECCA)を買った。京都の花脊峠の向こうにあるという療養所での会話で紹介されている録音である。高校2年生の時の京都・奈良への修学旅行の帰りに、千葉そごう内にあったレコードショップで買って帰って聴いている。まだ演奏の良し悪しがさほど分からない頃だが(ただ感動だけはする)そうやってそれまでの自分とは決別した、新たな自覚を持って歩み始めた人生の後押しをしてくれたのが、『ノルウェイの森』だったような気がする。

トラン・アン・ユンが監督した映画「ノルウェイの森」を観たのは、折しも私が36歳の時。『ノルウェイの森』の冒頭で、語り手であるワタナベトオルが、今「36歳」であることを告げる場面がある。かなりの苦みを伴うシーンなのだが、ワタナベと同じ36歳で「ノルウェイの森」の映画と向き合える巡り合わせを喜んだ。

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2022年3月 5日 (土)

観劇感想精選(429) 三谷幸喜 作・演出 斉藤由貴&長澤まさみ「紫式部ダイアリー」

2014年12月11日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後7時から、大阪の森ノ宮ピロティホールで「紫式部ダイアリー」を観る。作・演出:三谷幸喜。出演:長澤まさみ、斉藤由貴。開場は開演の30分前が演劇の基本であるが、森ノ宮ピロティホールは屋外で開場を待つことになり、冬は寒いため、午後6時15分頃にロビー会場、6時30分に客席開場となった。

「紫式部ダイアリー」は「紫式部日記」のことで、紫式部が清少納言のことをこれでもかとばかりにこき下ろしていることで有名であるが、今回はそれを舞台に転じたものではない。舞台は現代である。清少納言(斉藤由貴)は『枕草子』という大ヒット作を持つベテランエッセイスト、紫式部(長澤まさみ)は『源氏物語』という長編恋愛小説が大ヒット中の新進ベストセラー作家という設定になっている。

実は、斉藤由貴と長澤まさみの他にもう一人、セリフを一言も発さない男優がバーテンダーとして出演しているため、厳密な意味でこれが二人芝居といえるのかどうかは微妙なところである。セリフで物語を進めるのは二人だけなので、二人芝居に入れてもいいのかも知れないが。

音楽は、モーツァルトやベートーヴェンのような作曲家が書いたものではない正真正銘の「トルコ行進曲」を使用。その他にもイスラム系の音楽が用いられる。


とあるバー。あけぼの文学賞の選考委員である清少納言は、このバーに紫式部を呼んだ。紫式部は今年からあけぼの文学賞の選考委員に選ばれたのである。そこで打ち合わせをしたいということでこのバーを選んだのだ。だが、バーのスツールは清少納言には高すぎて、いったん下りてしまうと上るのに苦労する。

廻り舞台を用いており、バーのカウンターが回転する。時系列を飛ばすときなどに廻り舞台が用いられる。この劇は三谷の劇によく見られる一幕物であるが、カウンターの回転は場面転換と取れるし、同時系列ではない。

清少納言が苦労するスツールに、紫式部はすんなりと座ってしまう。紫式部を演じる長澤まさみはセクシー路線を取っているため、肩や背中の開いた露出の多い衣装である。

紫式部は常にノートパソコンを携帯、思いついたらすぐに小説の続きなどを書けるようにしている。


清少納言と紫式部は初対面。『蜻蛉日記』の藤原道綱母の葬儀の時に互いに顔を見たことがあるだけで言葉を交わすのは今日が初めてである。

二人はまず日本語の乱れを指摘し合う。

あけぼの文学賞の今回の受賞者は、二人とも和泉式部で決まりだと思っているのだが、清少納言は授賞式の講論(代表が講評を口頭で論じること)を自分にやらせて欲しいという。清少納言は前回と前々回で講論を務めており、好評だったので、今回もやりたいというのだ。だが、紫式部は……というところで、長澤まさみがミスをする。「(マスコミが)今回の講論は紫式部さんでお願いしますって」というべきところを「今回の講論は清少納言でお願いしますって」と言ってしまった。それだと清少納言の意が通ってしまうことになり、その後の展開に支障を来すため、斉藤由貴は少し間をおいてから「あなた今なんて言ったの?」というセリフをアドリブで入れ、長澤まさみが今度は「今回の講論は紫式部さんでお願いしますって」と言って軌道修正した。

その後、紫式部は出版社から電話で『源氏物語』の続きのプロットの締切が今日だと告げられ、清少納言も何故か『源氏物語』の今後のストーリー展開を作らされる羽目になるのだが、清少納言が描いたシノプシスは紫式部にことごとく否定されてしまう。紫式部は『枕草子』についても「軽い」と批評する。

紫式部は今、『紫式部ダイアリー』なるものを執筆中である。紫式部初のエッセイで日記の体裁を取るという。紫式部はパソコンで今日のこともエッセイにする。清少納言は紫式部がトイレに立った隙に自分のことを紫式部がどう書いたのか読みたくてパソコンを開くが、4桁の暗証番号が必要であり、読むことが出来ない。

紫式部はパソコンの蓋に罠としてピーナッツの殻を3つ置いており、それが全て落ちていたので清少納言が『紫式部ダイアリー』を読もうとしたことの確証を得る。

本音を言うと清少納言は紫式部のことが大嫌いである。

清少納言は「自分は書くことしか能が無い人間だ」と語り、紫式部に向かって「あなたは文章も書けるし、スタイルも良い。狡い! どっちかにしなさいよ!」と堂々と嫉妬を語るが、紫式部は「あなたは美人の気持ちがわかっていない」とやり返す。「誰も私の文章をちゃんと読んでいない。最近は文章も荒れ放題なのに誰もそれを指摘しない。顔の皺が少しでも荒れたらすぐにでも取り上げる癖に」と不満を口にする。


作家論であると同時に女優論、アイドル論とも取れる芝居である。紫式部も自分よりも若くて男にモテモテの和泉式部のことを憎むほどに嫌っている。作家も俳優もだが、それ以上に女優や女性アイドルは自分よりも若くて勢いがある人に少なからず脅威の念を持つものである。


残念ながら、「もっと掘り下げて欲しい」と思う場面が沢山あった。ここからどうなるかとこちらが期待していると「トルコ行進曲」が鳴り、次のシーンへと移ってしまう。ドロドロしたものにしたくなかったのかも知れないが(斉藤由貴演じる清少納言のセリフにそのような内容のものがある)、見ている側としては中途半端なまま置き去りにされた気分になってしまう。


さて、紫式部は清少納言のことを『紫式部ダイアリー』にどう書いたのか? これは明かせない。というより明かす意味がないと書くべきだろうか。


長澤まさみであるが、今回の演技は一本調子に見えた。だが紫式部のキャラクターがぶれないため、多彩な演技を披露する必要がなかったのも事実であり、一本調子だから必ずしも悪いということにはならない。

斉藤由貴はコミカルな味わいがなかなかである。

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2022年2月27日 (日)

コンサートの記(766) 池辺晋一郎作曲 新作オペラ「千姫」

2021年12月12日 アクリエひめじ大ホールにて

姫路へ。

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午後3時から、アクリエひめじ大ホールオープニングシリーズ公演:新作オペラ「千姫」を観る。池辺晋一郎の作曲。構想も池辺によるもので、池辺は姫路市の隣にある加古川市在住の作家、玉岡かおるに台本の作成を依頼したが、玉岡は、「小説家の私はシナリオでなく小説を書いて本に残すのが使命なのでは?」ということで、原作となる小説『姫君の賦~千姫流流』を執筆。それを平石耕一が台本に直すという過程を経た。
演出は、新作の演出を手掛けることも多い岩田達宗。出演は、小林沙羅(千姫)、古瀬まきを(おちょぼ)、矢野勇志(本多忠刻)、池内響(本多忠政)、井上美和(お熊)、小林峻(徳川秀忠)、尾崎比佐子(お江)、井上敏典(宮本武蔵)、近藤勇斗(宮本三木之助)、伊藤典芳(松坂の局)、奥村哲(坂崎出羽守)、山田直毅(桂庵)、林真衣(芥田四左衛門)、金岡伶奈(奥女中)。
子役が二人出演(松姫=東福門院和子と千姫の娘である勝姫の役。共に達者な演技を見せた)。刺客役という歌のない役で、河本健太郎と青山月乃が出演する。

二幕十九場からなる大作であるが、それぞれの場の名称は背面のスクリーンに投影される。

演奏は、田中祐子指揮の日本センチュリー交響楽団。注目の女性指揮者として人気を博していた田中祐子だが、更なる研鑽の必要を感じ、日本での仕事を徐々に減らしてパリに留学。その最中にコロナ禍に見舞われたが、日本での仕事も再開を始めており、今回久々の日本でのオペラ指揮である。

ストーリーも音楽も分かりやすいが、その分、「ここがクライマックス」という盛り上がりには少し欠ける印象は否めない。

徳川二代将軍秀忠と、浅井長政の三女である江の娘として生まれた千姫。夫となった豊臣秀頼と義母で伯母でもある茶々(淀殿)を生家である徳川家に殺された悲劇のヒロインとして有名であるが、その後に美男子として知られる本多忠刻と自ら望んで再婚。忠刻との間の娘である勝姫は江戸時代前期の三大名君の一人として知られる池田光政の正室となり、全国屈指の大大名である備前池田家の繁栄に貢献している。

そもそも千姫の弟は三代将軍家光、妹は後水尾天皇に嫁した東福門院和子(最初は「かずこ」で降嫁後は「まさこ」)、姪は奈良時代以来の女帝となる明正天皇という華麗この上ない血筋。忠刻の没後に江戸に戻ってからも大奥で権勢を振るうなど、恵まれた一生であり、親豊臣の人々からは余り好かれていなかったようである。そのために後世、「刑部姫と本多忠刻」や、千姫が夫二人に先立たれたショックから狂女になったとする「千姫御殿」といった怪談が生まれている(共に姫路での上演には相応しくないので、当然ながら登場しない)。千姫一人が幸福に過ごしたということを認めたくない人々がいたのだろう。実際には千姫は江戸に帰ってから狂女になったどころか、有名人の墓地が多いことでも知られる鎌倉の縁切り寺・東慶寺を再建するなど、女性のための施策も行っており、このオペラでも姫路時代の発案として登場する。

姫路と姫路城というのがこれまた危ういバランスの上にあり、西国将軍・池田輝政が現在まで聳えている五重の大天守などを築いているが、最初に姫路城に天守を築いたのは羽柴秀吉である。秀吉は毛利攻めのための山陽道の拠点として黒田官兵衛から本丸を譲り受け、居城としている。
一方で江戸期以降の姫路は江戸を手本とした街作りを行っており、城郭のみならず惣構えを渦を巻くような水堀で囲い、水運の便を図っている。渦郭式城郭と呼ばれるものだが、大規模な渦郭式城郭は日本には江戸城と姫路城しか存在しない。
豊臣と徳川の双方が息づいているということなのだが、それは千姫にも当てはまる。

舞台は大坂夏の陣、大坂城落城の場面から始まる。秀頼と淀殿の助命を父親である秀忠に請う千姫であったが(今回のオペラには家康は登場しない)受け容れられず、劫火に包まれる大坂城の姿が千姫のトラウマとなる。そのトラウマの火を消す水の役目を司るのが本多忠刻である。
池田輝政は現在の姫路城の礎を築いたが、外堀などは完成させることが出来なかった。惣構えを築き、播磨灘への水運を開いたのは本多忠刻であり、このことはこのオペラでも描かれている。
千姫の大坂城脱出というと、坂崎出羽守直盛との関係が有名で(「千姫事件」として知られる)、このオペラでもどう描かれるのか気になっていたのだが、千姫のトラウマと直結しているものの、余り深くは描かれていなかった。姫路での千姫のオペラということで、坂崎出羽守の話を大きくするとバランスを欠くためだと思われる。

千姫は名前だけはとにかく有名だが、実際に何をした人なのかは広く伝わっておらず、最初の夫と二番目の夫に先立たれた悲運の徳川の姫という印象だけが強い。もし仮に大坂の陣で秀頼や淀殿と運命を共にしていたら、あるいは宮本武蔵の養子である三木之助のように本多忠刻の後を追っていたら、悲劇の女性として更に名高かったかも知れない。祖母であるお市の方のように。だが、死んだとして、それで何かを成し得たと言えるのだろうか。

死んでいれば、坂崎出羽守の千姫事件や千姫御殿の物語で汚名を着ることもなかったかも知れない。死を美徳とするこの国にあっては尚更そうだ。だが彼女は生きた。人には知られなかったかも知れないが、生きて成すべきことを成した。名門に生まれたことで発生した義務を彼女は果たした。女が政治の道具でしかなかった時代、徳川と豊臣の政略結婚として大坂城に嫁ぎ、その後は徳川四天王の一人、忠勝系本多氏に入って、徳川の結束を高めた。だが、これらは親が決めたことであり(千姫が忠刻の妻になることを自ら望んだというのも事実であろうが)、その犠牲になったとしても「千姫可哀相」で終わってしまう。その後の彼女は徳川家や豊臣家でなく、彼女の運命を生きた。「千姫事件」や「千姫御殿」のようにドラマティックではないかも知れないが、真に美しい生き方だったと思う。
あるいは、「本当の美しさ」とは「ドラマティック」の中にはないのかも知れない。そう思わせてくれるオペラだった。

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2022年2月21日 (月)

観劇感想精選(427) 文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」@びわ湖ホール

2022年2月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」を観る。作:アントン・チェーホフ、台本・演出:松本修(MODE)。

滋賀県が、令和2年3月に作成した「滋賀県障害者文化芸術活動推進計画」に基づいて行われる、「障害のある人やない人、年齢のちがう人、話す言葉がちがう人など、さまざまな人が支えあうことで、だれもが自分らしく活躍できる滋賀県をつくる」ために発足した「文化芸術×共生社会プロジェクト」の一つとして行われる公演である。

出演者は、数人のプロフェッショナルや演技経験者を除き、オーディションで選ばれたキャストによって行われる。オーディションは、演技経験や障害の有無を問わずに行われ、約3ヶ月の稽古を経て本番を迎える。一つの役に複数の俳優(読み手)が扮し、幕ごとに役が交代となる。朗読劇であるが、座ったまま読むだけでなく、立ち上がって動きを付けたり、経験豊富な俳優は一般上演さながらの演技も行う。

出演は、花房勇人、吉田優、保井陽高、山下佐和子(以上、トレープレフ)、木下菜穂子(元俳優座)、齋藤佳津子、住田玲子(以上、アルカージナ)、廣田誠一、江嶋純吉、山口和也(以上、トリゴーリン)、平川美夏、高木帆乃花、服部千笑、西田聖(以上、ニーナ)、大辻凜、西山あずさ、飯田梨夏子、伊東瑛留(以上、マーシャ)、大田新子、梅下節瑠、横田明子、藤野夏子(以上、ポリーナ)、孫高宏(兵庫県立ピッコロ劇団)、小田実(以上、シャムラーエフ)、布浦真(ドールン)、清水亮輔、佐藤海斗(以上、メドヴェージェンコ)、HERO、森川稔(以上、ソーリン)。
ナレーター:孫高宏&清水洋子。ピアノ演奏:松園洋二。松園は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」などのロシア音楽を中心に演奏。第4幕のトレープレフが舞台裏でピアノを弾くという設定の場面では、ショパンの夜想曲第20番(遺作)を奏でた。

聴覚障害者のため、舞台下手側で手話通訳があり、背後のスクリーンにもセリフが字幕で浮かぶ。また視覚障害者のためには、点字によるパンフレットが配布された。

湖のほとりを舞台とした芝居であるチェーホフの「かもめ」。それに相応しい湖畔の劇場であるびわ湖ホール中ホールでの上演である。
また、スクリーンには、滋賀県内各地で撮られた琵琶湖の写真が投影され、雰囲気豊かである。

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新劇の王道作品の一つである「かもめ」であるが、接する機会は思いのほか少なく、論外である地点の公演を除けば、新国立劇場小劇場で観たマキノノゾミ演出の公演(北村有起哉のトレープレフ、田中美里のニーナ)、今はなきシアターBRAVA!で観た蜷川幸雄演出の公演(藤原竜也のトレープレフ、美波のニーナ)の2回だけ。マキノノゾミ演出版はそれなりに良かったが、蜷川幸雄演出版は主役の藤原竜也が文学青年にはどうしても見えないということもあり、あらすじをなぞっただけの公演となっていて、失敗であった。蜷川は文芸ものをかなり苦手としていたが、「かもめ」も省略が多いだけに、表現意欲が大き過ぎると空回りすることになる。

今回の「かもめ」であるが、演技経験を問わずに選ばれたキャストだけに、発声などの弱さはあったが(字幕があったためになんと言ったか分かったことが何度もあった)、きちんとテキストと向き合ったことで、セリフそのものが持つ良さがダイレクトに届きやすいという点はかなり評価されるべきだと思う。テキストそのものに力があるだけに、余計なことをしなければ、「かもめ」は「かもめ」らしい上演になる。第4幕などはかなり感動的である。涙が出たが、人前で泣くのは嫌いなので指で拭って誤魔化した。


「かもめ」は、「余計者」の系譜に入る作品である。主人公のコンスタンチン・トレープレフは、有名舞台女優のアルカージナの息子であり、教養も高く、天分にもそれなりに恵まれた青年であるが、これといってやることがなく、日々を無為に過ごしている。彼が湖畔の仮設舞台で、ニーナを出演者として上演した演劇作品は、生き物が全くいなくなった世界で、それまでの生物の魂が一つになるという、先端的な思想を取り入れたものであり、観念的であるが、注意深く内容を探ってみると、トレープレフ本人が他の多くの人間よりも優れているという自負を持って書いたものであることが分かる。トレープレフが凡人を見下したセリフは実際に第3幕で吐かれる。トレープレフは、恋人であるニーナも当然ながら見下している。大した才能もないのに女優を夢見る世間知らずのお嬢ちゃん。おそらくそう受け止めていただろう。

「かもめ」でよく指摘されるのが、片思いの連鎖である。トレープレフはニーナと恋人関係にあるが、ニーナはトレープレフよりも売れっ子作家であるトリゴーリンへと傾いていく。管理人であるシャムラーエフとポリーナの娘であるマーシャはトレープレフのことが好きだが、トレープレフはマーシャの行為を受け容れないどころか迷惑がっている。そんなマーシャを愛しているのが、目の前の事柄にしか注意が向かない、教師のメドヴェージェンコである。マーシャはトレープレフの芸術気質に惚れているので、当然ながら給料が足りないだの煙草代が必要だのとシミ垂れたことをいうメドヴェージェンコのことは好みではない。

通常は、「片思いの連鎖」という状況の理解だけで終わってしまう人が多いのだが、それが生み出すのは壮絶なまでの孤独である。分かって欲しい人、その人だけ分かってくれれば十分な人から、分かっては貰えないのである。
トレープレフは、女優である母親から自作を理解されず(トレープレフがエディプスコンプレックスの持ち主であることは、直接的には関係のない場面でさりげなく示唆される)、ニーナもトリゴーリンの下へと走る。ニーナはトリゴーリンと共にモスクワに出たはいいが、トリゴーリンは文学には関心があるものの演劇は見下しており、あっけなく捨てられる。マーシャは結局はメドヴェージェンコと結婚するのだが、その後もメドヴェージェンコを完全に受け容れてはおらず、トレープレフに未練がある。

そうした状況の中で、トレープレフは作家としてデビューすることになるのだが、評価は決して高くなく、中島敦の小説の主人公達のように「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」にさいなまれている。作家にはなったが成長出来ていない。相変わらず他人を見下しているが、その根拠がないことに自身でも気付いている。
そこにニーナがふらりと訪ねてくる。同じ町に宿泊していたのだが、会いたくてなんどもトレープレフの家に足を運んでいたのだ(かつて自身がトレープレフの台本で演じた仮説舞台で泣いていたのをメドヴェージェンコに見られていたが、メドヴェージェンコはそれを幽霊か何かだと勘違いしていた)。
一時、追っかけのようなことをしていたため、ニーナの演技力について知っていたトレープレフは、相変わらずの何も分からない女の子だと、ニーナのことを見なしていた。それは一種の、そして真の愛情でもある。少なくとも劇の始まりから終わりに至るまで、彼がニーナを愛していない時間などただの1秒もないのであるが、至らない女性であるニーナは自分の下に戻ってくると高をくくっていたかも知れない。
だが、目の前に現れたニーナは、精神的に追い詰められていたが、自立した女性へと変身していた。トレープレフはいつの間にか追い抜かれていたのである。そして自分より上になったニーナはもう自分のものにはならない。こうなると小説家になったのもなんのためだったのか分からなくなる。

ロシアの「余計者」文学の系譜、例えばプーシキンの『エフゲニー・オネーギン(私が読んだ岩波文庫版のタイトルは『オネーギン』)』などでもそうだが、当初は見下してた女性が、気がついたら手の届かない存在になっており、絶望するというパターンが何度も見られる。余計者であるが故の鬱屈とプライドの高さが生む悲惨な結末が、男女関係という形で現れるからだろうか。他の国の文学には余り見られないパターンであるため不思議に感じる(相手にしなかった男が出世しているという逆のパターンは良くあるのだが)。
ただ言えるのは、それが遠のいた青春の象徴であるということある。あらゆる夢が詰まっていた青春時代。多くの選択肢に溢れていたように「見えた」季節の終わりを、観る者に突きつける。その胸をえぐられるような感覚は、多くの人が感じてきたはずのことである。

庶民を主人公としたために初演が大失敗に終わった「かもめ」。だが、我々現代人は登場人物達の中に自身の姿を発見する。そうした劇であるだけに、「かもめ」は不滅の命を与えられているといえる。

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2022年2月20日 (日)

これまでに観た映画より(283) スティーヴン・スピルバーグ監督「ウエスト・サイド・ストーリー」

2022年2月15日 MOVIX京都にて

新京極のMOVIX京都でスティーヴン・スピルバーグ監督のミュージカル映画「WEST SIDE STORY ウエスト・サイド・ストーリー」を観る。先頃亡くなったスティーヴン・ソンドハイムの作詞、レナード・バーンスタイン作曲の最強ミュージカルである「ウエスト・サイド・ストーリー(ウエスト・サイド物語)」。1曲ヒットナンバーがあれば大成功というミュージカル界において、全曲が大ヒットというモンスター級の作品であり、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台をニューヨークのスラム街に置き換え、ポーランド系移民のジェッツとプエルトリコ移民によるシャークスという少年ギャングの対立として描いて、世界中の若者の共感も呼んでいる。

1961年に公開された映画「ウエスト・サイド物語」も大ヒットしており、名画として認知されているが、出演俳優がその後、なぜか不幸に見舞われるという因縁でも知られている。マリアを演じたナタリー・ウッドは、1981年、映画の撮影中に水死。事故とされたが、最近に至るまで殺害説がたびたび浮上している。トニー役のリチャード・ベイマーは、一時的に俳優のキャリアを中断している。ベルナルド役のジョージ・チャキリスも映画よりもテレビドラマなどに活動の場を移しているが、日本では小泉八雲ことラフカディオ・ハーンを演じた「日本の面影」に出演しており、私が初めてジョージ・チャキリスという俳優を知ったのも「日本の面影」においてである。


1961年の「ウエスト・サイド物語」と、今回の「ウエスト・サイド・ストーリー」とでは、設定や舞台、歌の担い手、ラストの解釈などが大きく異なっている。

スピルバーグ版「ウエスト・サイド・ストーリー」のキャストは、アンセル・エルゴート(トニー)、レイチェル・ゼグラー(マリア)、アリアナ・デボーズ(アニータ)、デヴィット・アルヴァレス(ベルナルド)、マイク・ファイスト(リフ)、ジョシュ・アンドレス(チノ)、コリー・ストール(シュランク警部補)、リタ・モレノ(バレンティーナ)ほか。リタ・モレノは、「ウエスト・サイド物語」で、アニータを演じ、アカデミー助演女優賞などを受賞した女優であり、今回の映画の製作総指揮も彼女が務めている。

脚本はトニー・クシュナーが担当しており、細部にかなり手を加えている。

指揮を担当するのは世界的な注目を浴びているグスターボ・ドゥダメル。ニューヨーク・フィルハーモニックや手兵のロサンゼルス・フィルハーモニック(コロナによりニューヨークでの録音が出来なくなったための追加演奏)からシャープにしてスウィング感にも溢れる極上の音楽を引き出している。

「ウエスト・サイド物語」では、リタ・モレノ以外は、白人のキャストがメイクによってプエルトリコ人に扮して演技を行っていたが、今回の「ウエスト・サイド・ストーリー」では、プレルトリコ移民側は全員、ラテンアメリカ出身の俳優がキャスティングされている。また、プエルトリコ移民は英語も話すが、主として用いる言語はスペイン語であり、プエルトリコ移民同士で話すときはスペイン語が主となるなど、リアリティを上げている。デヴィッド・ニューマン編曲によるスペイン語によるナンバーも加わっている。

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映画はまず、リンカーン・センター(メトロポリタン歌劇場や、ニューヨーク・フィルハーモニックの本拠地であるデヴィッド・ゲフィン・ホールなどが入る総合芸術施設)の工事現場の上空からのショットで始まる。マンハッタンのウエスト・サイドがスラム街から芸術の街に変わっていく時代を舞台としている。と書くと美しく聞こえるが、それまでその土地で暮らしていた人が住み家や居場所を失うということでもある。皮肉にも――と書くのはおかしいかも知れないが――彼らを追い込み追い出すのは、映画やミュージカルも含む芸術なのである。ジェッツのメンバーが、リンカーン・センター建設の工事現場地下からペンキを盗み出し、プエルトリコの国旗が描かれたレンガにぶちまけ、それを見たシャークスの面々と乱闘になる。

今回の映画では、ジェッツのメンバーの主力がポーランド系移民とは示されず(トニーはポーランド系移民であることが明かされる場面がある)、白人対有色人種の構図となっている。ヒスパニック系住民の増加は、現代アメリカの重要問題となっており、将来、英語を母語とする人種を数で上回るのではないかといわれている。また、ジェッツの取り巻きには、外見は女性だが内面は男性というトランスジェンダーのメンバーがおり、LGBTQの要素も入れている。

「ウエスト・サイド・ストーリー」といえば、ダンスシーンが有名だが、今回一新されたジャスティン・ペック振付によるダンスはキレも迫力も抜群であり、カメラ自身が踊っているような優れたカメラワークも相まって見物となっている。

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トニー(本名はアントン)は、傷害罪で逮捕され、刑務所で1年間の服役を終えて仮出所中という設定になっており、ベルナルドはボクサーとしても活躍しているということになっている(格闘のシーンではなぜかトニーの方がベルナルドより強かったりする)。

リフが歌う「クール」であるが、これがトニーの歌に変わっており、「クラプキ巡査どの」は警察署に拘留されたジェッツのメンバーによる戯れの劇中劇のような形で歌われる。「Somewhere」が、今回のバージョンのオリジナルキャラクターであるバレンティーナの独唱曲として懐旧の念をもって歌われる場面もある。

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決闘の場が塩の保管倉庫になっていたり、ラストシーンの舞台がバレンティーナが営む商店のそばになるなど、異なる場面は結構多い。ベルナルドの腰巾着的立場であったチノが幅のある人間として描かれているのも意外だが、映画全体の奥行きを出すのに一役買っている。

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シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は人間の愚かしさを恋愛劇という形で描き上げた作品であるが、1961年の「ウエスト・サイド物語」のラストシーンでもマリアが人間の愚かしさを憎むような表情で退場していた。ただ、今回の「ウエスト・サイド・ストーリー」では憎しみというよりも運命の受け容れに近いように見える。時を経て、差別に対しては憎悪よりもある程度の受け容れが重要であると認識が変わってきたことを表しているようでもある。

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2022年2月19日 (土)

これまでに観た映画より(282) 「ベニスに死す」

2022年2月8日

DVDで映画「ベニスに死す」を観る。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品。トーマス・マンの同名小説の映画化であるが、主人公のアシェンバッハ(アッシェンバッハ)は、原作の小説家から音楽家に変えられている。元々、トーマス・マンは、作曲家にして指揮者のグスタフ・マーラーをアシェンバッハのモデルにしたとされており、最初の構想に戻す形となっている。舞台となっている年代は、原作では「19××」年とぼかされているが、この映画ではマーラーの没年である1911年に設定されている。
セリフは、英語、フランス語、イタリア語、ポーランド語、ロシア語、ドイツ語で語られる(メインは英語)。

アシェンバッハは高名な作曲家にして指揮者であるが、作曲作品は聴衆から受け容れられていない。アシェンバッハが自作を指揮する場面があるが、演奏終了後に拍手が起きないどころか、ブーイングと怒号の嵐となる。

私が初めて「ベニスに死す」を観たのは、タージオ役のビョルン・アンドレセンと同じ、15、6歳の時、高校1年か2年である。当時フジテレビでは深夜に名画をCMなしで放送しており、それを録画して3回ほど観ている。今回、30数年ぶりに見直してみて、映像のキメが細かいことに驚いた。当時の地上アナログ波、そしてVHSの限度が分かる。
また、フジテレビ放送版は、おそらく15分ほどのカットがあったと思われる。

自作の上演が成功せず、鬱状態に陥ったアシェンバッハ(ダーク・ボガード)は、心臓が弱いということもあり、医師から静養を勧められ、ベニス(ヴェネツィア)に旅行に出掛け、リード・デ・ヴェネツィアにあるホテルに滞在することになる。
アシェンバッハは厳格な性格であり、精神性を何よりも大事にしていた。そんなアシェンバッハが、滞在先のホテルで絶世の美少年であるタージオ(タジオ。本名はタデウシュ。演じるのはビョルン・アンドレセン。タージオはフランス語とポーランド語を話すという設定だが、アンドレセンはフランス語やポーランド語は出来ないため、セリフは全て吹き替えである)を見掛ける。最初はタージオへの思いに戸惑い、自身に怒りすら覚えるアシェンバッハだったが、次第にタージオの精神を超えた美に対する愛を肯定するようになる。友人の音楽家であるアルフレッドから指摘された殻を破れそうになるのだが、ベニスには疫病が蔓延していた……。

時間と場所、現実と妄想が予告なしに入れ替わる、「意識の流れ」のような手法が採用されている。

アシェンバッハは、いつも通っている美容師から白塗りのメイクを伝授されたのだが、見るからに不吉である。そして、同じように白塗りをした男達にからかわれたりするのだが、どうも彼らも死神の分身のように見える。
そして、死神の本体とも思えるのが、美少年であるタージオである。愛と死とは隣接したものであるが、それが淡いのように渾然として描かれているのは流石である。

ヴィスコンティ好みの耽美的な作風であり、ベニスという都市が登場人物以上の存在感を持つようカメラで切り取られている。芸術性は非常に高い。

本来なら作曲の新境地へと行けるはずだったアシェンバッハが、その前に命を落とすという悲劇のはずであるが、絵が余りに美しいので余り悲壮な感じはしない。好みが分かれるとしたらここであると思われる。

この映画が公開された当時、マーラーはまだ人気作曲家ではなかった。ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーといったマーラーの指揮の弟子達が作品を取り上げ、マーラーの生前からその作品を高く評価していたウィレム・メンゲルベルク、そして「この作品が自分の作曲であったなら」とまで惚れ込んでいたレナード・バーンスタインが演奏と録音を行っていたが、一般的な評価は「不気味な曲を書く作曲家」といったところだった。ところが「ベニスに死す」でマーラーの交響曲第5番第3部第1章(第4楽章)「アダージェット」がメインテーマとして取り上げられたことで甘美な一面が知られるようになり、マーラーの人気は上がっていく。

映画界だけでなく、音楽界の潮流も変えた記念碑的作品である。

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2022年2月 8日 (火)

これまでに観た映画より(278) 「風と共に去りぬ」

2014年12月6日

DVDで、ハリウッド映画「風と共に去りぬ」を観る。誰もが知っている名画の一つ。マーガレット・ミッチェルの唯一の小説の映画化。戦中の製作であるが、少なくともこんな映画を作っている国に戦争を挑んでも勝ち目はないと思われる。

アメリカ唯一の内戦である南北戦争を背景にした男女の恋物語である。客観的に見ると男を手段として用いるスカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)は計算高すぎるし、レット・バトラー(クラーク・ゲーブル)は単にモテるだけの嫌な男なのだが、南側の立場から南北戦争を描いていることと、緻密な心理描写も重なり、見応えのある劇になっている。

監督:ヴィクター・フレミング。製作:デイヴィッド・O・セルズニック。出演:ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード、オリヴィア・デ・ハヴィランド、トーマス・ミッチェル、バーバラ・オニール、ハティ・マクダニエル、イヴリン・キース、アン・ラザフォード他。音楽:マックス・スタイナー。


タラの屋敷が実は画によるものだったりと、色々と種明かしされているが、凝ったセットを用いた完成度の高い仕上がりである。後半はメロドラマに過ぎるといえなくもないが。


アカデミー賞で9部門を受賞しているが、現在では映画音楽としてトップレベルの知名度を誇る「タラのテーマ」を含む音楽部門は、この年は当たり年だっため受賞していない。

受賞こそしていないが、アシュレー役のレスリー・ハワードとオリヴィア・デ・ハヴィランドは主役であるヴィヴィアン・リーやクラーク・ゲーブル以上に洗練された演技を見せており、助演男優賞や助演女優賞を受けてもおかしくないハイレベルに達している(助演女優賞は、この映画で黒人のメイドを演じたハティ・マクダニエルが黒人初となる受賞を勝ち得ている)。

1939年度のアカデミー賞で受賞したのは、作品賞、監督賞、主演女優賞、助演女優賞、脚色賞、撮影賞、室内装飾賞、編集賞、特別賞である。

このDVDでは、ラストのスカーレット・オハラのセリフが、「明日は明日の風が吹く」ではなく、「明日は必ず約束されているのだから」という新しい訳になっている。

DVDは、地デジ対応以前の画像サイズで、現在のモニターだと左右が切れる形になる。Blu-rayだとそういうことはなさそうだ。

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2022年1月30日 (日)

コンサートの記(761) 沼尻竜典作曲・指揮 歌劇「竹取物語」2022@びわ湖ホール(セミ・ステージ形式)

2022年1月23日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

大津へ。琵琶湖岸から見る比叡山や比良山系、東の三上山などには霞やもやが掛かり、文人画のような趣がある。曇り空を反映した湖面も穏やかであり、カイツブリ以外に動くものは見受けられない。

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午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典作曲・指揮による歌劇「かぐや姫」を観る。オーケストラピットを囲む形でエプロンステージを設け、そこで歌手達が演じるセミ・ステージ形式での上演。オーケストラピットの後方には間口の広い階段状のステージがあり、合唱(びわ湖ホール声楽アンサンブル)が歌う。その背後にはスクリーンがあり、竹取翁の家や都の大内裏の絵、月などが投影される。

日本最古の物語とされる「竹取物語」を題材としたオペラ。沼尻が手掛けた台本は原典の流れに比較的忠実であるが、オペラ的な要素も当然ながら取り込んでいる。

演奏は日本センチュリー交響楽団。演出は栗山昌良。栗山が高齢ということで中村敬一が演出補として入っている。出演は、砂川涼子、迎肇聡(むかい・ただとし)、森季子(もり・ときこ)、松森治、谷口耕平、市川敏雅、平欣史、晴雅彦、美代開太、有本康人、八木寿子、久保田考揮(大津児童合唱団)ほか。

沼尻が作曲した音楽は、日本的な「よな抜き」も用いた調性音楽であるが、たまに不協和音なども加わる。かぐや姫に求婚した公達達が成果を発表する場では、アコーディオンを加えたシャンソン風のものが奏でられたり、派手なブロードウェイミュージカル風のナンバーが加わったり、ハナ肇とクレイジーキャッツ風のコミカルソングが出てきたりと多彩な表情を持つ。

竹取の翁(迎肇聡)が光る竹の中に赤子を見つける場面から始まり、媼(森季子)と共に娘として育てることに決め、名付けを住職に頼もうとする。
瞬く間に成長したかぐや姫(砂川涼子)に婿を取らせようとする翁と媼であるが、かぐや姫はずらりと揃った5人の公達達一人ひとりに難題を与える。おそらくこの場面でのかぐや姫の態度は、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」をなぞる形で書かれていると思われる。沼尻が2015年に書いたプログラムノートの「冷たい心を持ったかぐや姫」という文言からもそれは察せられる。求婚してくる者に同じ謎かけをし、答えられなかった者(全員であるが)の首を容赦なくはねたトゥーランドット姫。一方で、かぐや姫の場合は、無理難題を言うが、個別に、というところが特徴である。トゥーランドット姫のように1つの難題を与えて5人に競わせるという形でも一向に構わないと思われるのだが、そうしないところに私はかぐや姫の優しさを見る。原作の解釈も同様で良いと思われるのだが、1つの難題を与えて競わせると、当然ながら諍いが生じてしまう。場合によっては殺し合いなどに発展する可能性もある。かぐや姫は個別に難題を与えることでそれを避けたのではないか、と私はこれまでも思ってきた。

難題を与えたのは、そうすれば全員が諦めると思ったからと推察する。だが、実際は、かぐや姫を手に入れるために公達達は奮闘、転落して命を落としてしまう者も出る。そのことに対するかぐや姫の態度の記述は原作にはなかったと思われるが、今回のオペラでは落命する者が出たことにかぐや姫は激しく動揺する。

かぐや姫は、罪を犯して月から追放され、地球に「再生」という形でやってくるのだが、おそらく月に帰るための試練を与えられていたと思われる。「罪」については実は明かされることはないのだが、おそらくは「男と情を交わした」のだろうと推測される。月の住人には寿命がなく、永遠に生きることが出来るのだが、その場合は子孫を設ける必要がない。ということは異性と良い仲になる必要がないということであり、それを破った場合は「罪あり」とされるのではないかとの推理が成り立つ。そして地球に落とされたかぐや姫には懸想する男達を交わすというミッションが与えられているのではないだろうか。
ただそれ以上に、「月に戻る身なのだから、所帯を持った場合、夫を傷つけることになる」とわきまえての行動だったのではないかという気が私にはしている。よくある「かぐや姫=わがまま女説」は私は支持しない。帝の寵愛を受ける好機が訪れてもそれを固辞するのも私は同様の優しさであると捉えている。

そうして、ミッション遂行のために心を閉ざしていたかぐや姫が、帝と和歌のやり取りを重ねる内に地球への愛着を持っていく過程が歌われる。その経過は、ある意味「トゥーランドット」よりも鮮やかである。「去りがたいのに去らねばならない」というジレンマのドラマがあるが、それはこの世界への肯定にも繋がっている。


昨日は幸田浩子が歌ったかぐや姫を今日は砂川涼子が歌う。声の質自体は、個人的には幸田浩子の方が好みだが、砂川涼子のクリアな歌声もかぐや姫の一種の儚さを却って引き立たせていたように思う。狂言回しとコミックリリーフの役目を合わせ持った翁と媼を演じる迎肇聡と森季子の存在感も印象的。トゥーランドット姫のような衣装を纏った月よりの使者役の八木寿子の威厳ある佇まいも、月世界のトゥラーンドット姫的冷たさと、日本版トゥーランドット姫からきめ細かな心遣いが出来る女性へと変わったかぐや姫との対比を鮮やかに見せてくれる。

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2022年1月28日 (金)

これまでに観た映画より(273) 「ドライブ・マイ・カー」

2022年1月13日 T・ジョイ京都にて

八条のイオンモールKYOTO内にある映画館T・ジョイ京都で、「ドライブ・マイ・カー」を観る。村上春樹の長めの短編小説(もしくは短めの中編小説)を、黒沢清監督の「スパイの妻」の脚本も手掛けた濱口竜介の脚本と監督で映画化した作品であるが、「ドライブ・マイ・カー」は短編小説で、そのまま映画化するとかなり短いものになってしまうため、「ドライブ・マイ・カー」が収録された短編集『女のいない男たち』に入っている「シェエラザード」と「木野」という2編の短編小説に出てくる要素を加えて一本の映画としている。

『ダンス・ダンス・ダンス』や『国境の南、太陽の西』といった村上春樹のその他の小説に影響を受けた可能性のある展開も出てくるのだが、たまたま似たのか意図的に加味したのかは不明である(濱口竜介監督は村上春樹作品の愛読者である)。

「ドライブ・マイ・カー」の主人公である家福が舞台を中心に活躍している俳優であり、今現在出演している舞台であるチェーホフの「ワーニャ伯父さん(小説中では「ヴァーニャ伯父さん」表記)」が、この映画では「柱」と言っていいほどの存在となっている。

出演は、西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいか、パク・ユリム、安部聡子、ジン・デヨン、ソニア・ユアンほか。日本トップレベルの映画俳優である西島秀俊、話題作に次々出演している三浦透子、十代からイケメン俳優として注目され続けてきた岡田将生、アラフィフとは思えないほどの美貌を持つ霧島れいかなど魅力的な俳優が揃っており、かなり力が入っていることが窺える。

上映時間約3時間。村上春樹作品の特徴である比喩、隠喩、寓喩などの多用や重層構造を生かした芸術映画であり、監督が観客に要求するレベルが高めであることが分かる。「ワーニャ伯父さん」は知っていて当然というスタンスで、もし「ワーニャ伯父さん」のタイトルも知らないレベルで観に行ってしまうと、実際には何が起こっているのかほとんど分からないのではないかと思えるほどである。

舞台俳優で演出家の家福悠介(西島秀俊)は、様々な国の俳優とコラボレートした多言語上演に意欲的に取り組んでおり、注目を浴びている。まず上演シーンが映されるのはベケットの「ゴドーを待ちながら」である。家福はジジ(ウラジミール)を演じている。
そして次に演じられるのが、「ワーニャ伯父さん」である。タイトルロールは家福が演じており、十八番となっている。

家福の妻である音(おと。この「音」という役名は「極めて」重要である。演じるのは霧島れいか)は、元女優で現在は脚本家として活躍している。脚本家としてはまずまず売れっ子のようであり、夫とベットを共にした時に自らが創作した物語を語って聴かせていた。音が語るのは、好きな男の子の家に空き巣として何度も入る女子高生の話である(短編小説「シェエラザード」に出てくるエピソードだが、細部や結末は映画の筋に合うよう変えられている)。女子高生は、男の子の部屋に忍び込み、そこに母親の影響を嗅ぎ取る。そして女子高生は男の子の部屋から何かを盗み、代わりに自分のものを置いていく。それが繰り返される。王家衛の映画「恋する惑星」(村上春樹の『ノルウェイの森』に影響を受けた作品である)のような展開だが、これは実は暗示である。音は夫の留守中に他の男と寝ていた。それも複数人と。全員俳優である。音は寝たことのある、もしくは寝る予定の俳優を家福に紹介する癖があった。高槻耕史(岡田将生)もその一人だった。

ウラジオストックでの演劇祭に審査員として招かれた家福は成田国際空港に向かうが、空港の駐車場に車を停めた直後に天候不順によりウラジオストック行きの飛行機が全て欠航となったことを知り、一度都内の自宅に戻る。そこで妻と男の不貞行為を目撃してしまう。家福は二人に見つからないようにそっと家を出て成田に向かい、演劇祭の実行委員が宿泊代を負担してくれるホテルに泊まり、妻の音とのビデオ電話ではウラジオストックにいると嘘をついた。その後も家福は俳優の技量を生かして「気付かない」ふりを演じ続ける。

「ワーニャ伯父さん」に出演するようになった家福は、音からセリフを吹き込んだカセットテープを渡される。ワーニャ伯父さんのセリフの部分だけが抜けた、音楽でいうと「マイナスワン」仕様のもので、他の登場人物のセリフは全て音が吹き込んでいた。

ある日、家福は自動車事故に巻き込まれ、左目が緑内障によって視野に死角(ブラインドスポット)が生じていると医師から告げられる。それでも運転は続けた。ちなみに「死角」や「死角にいる妻」は、村上春樹の代表作の一つである『ねじまき鳥クロニクル』で重要なモチーフとなっている。
仕事に向かう際に、音から「今晩帰ったら少し話せる?」と訊かれる家福。寄り道せずに帰ろうとするのだが、別れを切り出されるのではないかとの予感があったため、仕事を終えてからも都内を彷徨い帰宅が遅れる。ようやく家に帰った家福は、音がリビングに倒れているのを見つけ、119番。だが、くも膜下出血により音は帰らぬ人となった。「もし早く帰っていたのなら」と家福は自責の念にとらわれる。

2年後。家福は、広島市で行われる国際演劇祭に演出家として招かれる。広島県内に2ヶ月ほど滞在し、世界各国からオーディションのために集まった俳優達の中から出演者を選び、1ヶ月半の稽古を行った後で本番を行うのだが、演劇祭のスタッフは、家福のために瀬戸内海に面した宿を用意し、そこまでの送り迎えのドライバーとして、渡利みさきという若い女性(原作には見た目が良くないという設定があり、これが劇中劇のある人物に繋がっている。演じるのは三浦透子)を手配していた。最初の内は自分で運転すると主張していた家福だが、抜群に運転の上手いみさきの技量に惚れ、運転を任せるようになる。

オーディション参加者の中には高槻もいた。2年の間にそれなりの売れっ子俳優となっていた高槻だったが、ハニートラップに引っ掛かり、未成年との淫行疑惑で事務所を退所(事実上のクビだと思われる)、現在はフリーの俳優となっていた。

アーストロフ役を希望する高槻に、家福はワーニャ伯父さん役を振る。「ワーニャ伯父さん」がどういう話か知っている人は、半ば当てつけだと気付くはずである。村上春樹の原作には「ワーニャ伯父さん」の上演シーンはなく、高槻に対する家福の思いは、セリフと地の文で語られるのだが、映画では「ワーニャ伯父さん」のテキスト及び稽古との二重構造となっている。その後も、見た目ではそれほどでもないが、意識下では激しい殴り合いが起こっていることが感じられるような描写が続き、この映画の優れた部分の一つとなっている。「ワーニャ伯父さん」を知らないと、ここまでの激闘になっているとは気付かないかも知れない。

「ワーニャ伯父さん」も「ゴドーを待ちながら」も、敗北を抱えながら生きていく、生きていかざるを得ない人間を描いたものだが、この映画でも妻を亡くしたことで喪失感を抱きながら生きる家福の姿が描かれており、俳優としての家福と彼の実生活の部分がオーバーラップする技法が取られている。それまで自分で車を運転していた家福が、みさきという運転手を得たことで、新たな視座と視野を得るという展開にも上手さを感じる。

「みさき」というのは、今の時代ではありふれた女性の名前だが、実は「事故死したため成仏出来ない幽霊」という意味もあり、縁起は良くなかったりするのだが、「神様の先触れや案内役=御先」という意味も存在している。運転手として家福を導いていくみさきは、御先由来の名前である可能性もある。
一方で、みさきは現在23歳で、4歳の時に亡くなった家福と音の娘が生きていたとしたら同い年。またみさきの父親は実は家福と同い年であるため、前者の「みさき」の可能性もあって、その場合も奥行きが出るのだが、こちらの方は主筋にはさほど関係がないため、どちらでも良いような気がする。

広島での「ワーニャ伯父さん」の稽古では、日本語、韓国語、北京語、タガログ語、英語、韓国語の手話などが飛び交い、無国籍的な芝居が現出しているが、言葉では通じ合えない部分という、村上春樹がよく取る手法が却って浮き彫りになる。村上春樹の場合は、基本的には肉体関係、つまりセックスという形を取ることが多く、これが村上作品への好悪を分かつ一番の理由にもなっているのだが、それは人間の根源的な謎へのアプローチでもある。妻の音がなぜ隠れて他の男と情を交わし続けねばならなかったのかという、答えのない謎に家福は戸惑い続けていたのだが、一つの「啓示」のようなものがみさきの口から語られている。
また、劇中劇の重要なセリフが「音ではない手法」で語られるのも効果的である。

「ワーニャ伯父さん」でも「ゴドーを待ちながら」でも、そして「ドライブ・マイ・カー」でも人々は空虚、虚無、喪失感の中で生き続けている。それは人間の宿命でもある。
そうしたことと向かい合うことの出来る文学、映画、演劇の素晴らしさを改めて感じさせてくれる好編であった。

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