カテゴリー「文学」の261件の記事

2022年12月20日 (火)

これまでに観た映画より(316) 「天上の花」

2022年12月12日 京都シネマにて

京都シネマで、没後80年「萩原朔太郎大全2022」記念映画「天上の花」を観る。原作:萩原葉子(『天上の花――三好達治抄――』)、監督:片嶋一貴。脚本:五藤さや香&荒井晴彦。出演:東出昌大、入山法子、浦沢直樹、萩原朔美、林家たこ蔵、鎌滝恵利、関谷奈津美、鳥井功太郎、間根山雄太、川連廣明、ぎぃ子、有森也実、吹越満ほか。

萩原朔太郎の弟子である三好達治(東出昌大)と朔太郎の一番下の妹である慶子(実際の名前はアイ。演じるのは入山法子)の短い同棲生活を描いた作品である。

東京帝国大学を出た詩人の卵である三好達治は、萩原朔太郎(吹越満)の妹である慶子と出会い、一目惚れする。だが三好は詩作や翻訳を行うだけで、帝大卒とはいえ、定職に就いていないということで、慶子は難色を示す。「就職していれば結婚の可能性がある」ということで、三好は、北原白秋の弟が経営するアルスという出版社に朔太郎の口利きで入れて貰い、慶子と婚約するが、アルスは三好の入社2ヶ月後に倒産。婚約も破談となり、三好は佐藤春夫の姪である智恵子と結婚し、二児に恵まれる。一方の慶子は、詩人の佐藤惣之助と結婚。しかし惣之助が亡くなり、未亡人となった慶子に三好は果敢にアプローチ。智恵子とは離婚に至り、三好と慶子は福井県の三国で同棲生活を送ることになるのだが……。

三好も慶子も多分に不器用な人間であり、そうした不器用な人間のぶつかり合いが戦時を背景に破局へと向かっていく。普段は温和な三好だが、愛ゆえに束縛も強く、慶子へのそして詩の戦争抑止力の可能性を信じながら戦争礼賛の詩を書かねばならなかった自身への怒りが暴力へと向かっていく。ある意味、二人は似たもの同士であり、それが故に幸福には至れない運命だったのかも知れない。

スキャンダルまみれといった感じの東出昌大主演の映画だけに、観客は五指に余るほど。正直、興行的に成功するのは難しいだろう。とはいえ、東出昌大も入山法子もイメージには合っており(皮肉なことにスキャンダル後の東出昌大のイメージにまで合っている)不器用な文人達を描いた映画として一定の評価は出来るように思う。

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2022年8月17日 (水)

コンサートの記(797) 一般社団法人京都バレエ団公演「ロミオとジュリエット」全幕

2022年8月11日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後4時から、ロームシアター京都メインホールで、有馬龍子記念一般社団法人京都バレエ団公演「ロミオとジュリエット」を観る。プロコフィエフの傑作バレエの全曲上演である。演奏は京都市交響楽団。指揮は国立パリ・オペラ座バレエ団のミッシェル・ディエトラン。ジュリエット役は国立パリ・オペラ座バレエ団のロクサーヌ・ストヤノフ、ロミオ役は国立パリ・オペラ座バレエ団のフロロン・メラックが務める。振付は国立パリ・オペラ座バレエ団のファブリス・ブルジョワ、指導はパリ・オペラ座バレエ学校のエリック・カミーヨ。ティボルト役は京都バレエ団の鷲尾佳凛、マキューシオ役はトゥールーズ・キャピトル・バレエの金子稔。

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クラシック音楽の世界では、英語よりイタリア語の方が優位。また舞台がイタリアのヴェローナということもあって、イタリア風の「ロメオとジュリエット」表記が一般的であるが、勿論、英語由来で現在の日本で一般的なタイトルとなっている「ロミオとジュリエット」表記であっても一向に構わない。

一般にバレエ音楽はバレエダンサーの動きを想定して書かれている。そのため、チャイコフスキーの三大バレエであってもバレエなしの音楽のみで聴き通すことはかなり苦しい。バレエの動きあっての音楽なのである。一方でプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は音楽優位。世界にバレエ音楽は数あれど、1時間を超える作品で「長大な交響詩」として聴けるのは、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」ただ1作である。
プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、作曲者が当初は、「死人は踊れない」としてハッピーエンドに変更しようとしたり、リハーサルに入ってからもバレリーナから「音楽が洗練されすぎていて踊れない」という苦情が入ったりと、初演に漕ぎ着けるまで難航したが、誰もが知るシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の筋書きと、プロコフィエフの強靱な音楽により、世界中で親しまれている傑作バレエとなっている。前述通り「長大な交響詩」として聴ける唯一のバレエ音楽であり、1時間を超えるバレエ音楽としては今後これを超えるものは出てこないのではないかと思えるほどの完成度を誇る。

ミッシェル・ディエトランは、バレエ専門の指揮者ということで、バレエに合わせた指揮を行うことが可能である。アゴーギクなども彼が行うと自然だ。プロコフィエフの音楽の色彩美、可憐さ、迫力、悲劇性などを無理なく京響から引き出していた。
その京響は、今日は金管が粗めの曲があったが、艶やかでこぼれるような美音を奏で、迫力あるナンバーでも鉄壁のアンサンブルで聴かせる。
ロームシアター京都メインホールは、基本的にオペラ・バレエ、ポピュラー音楽向けの音響であるが、オーケストラがピットに入った時の方が、舞台上で演奏するよりもいい音が届くようである。

日本人のバレエダンサーの場合、特に男性は体格面で白人に劣るため、迫力に欠ける傾向にあるが、今日は遠目の席(3階席4列目)だったということもあり、不満に感じるということは特になし。女性も体格やスタイルでは白人に適わないが、可憐さなど他の部分で勝負出来るため、男性よりは世界水準に近いと思える。

小部屋で黒装束の人物が嘆きの表情を浮かべているシーンでスタート。舞台から席が遠目なので、それが誰なのかは分からなかったが、バレエが進むにつれて、ジュリエットの父親(山本隆之)らしいことが分かる。今回の「ロミオとジュリエット」は、ジュリエットの父親の悔恨に満ちた回想というスタイルを取ってるようであり、ラストも小部屋で嘆くジュリエットの父親の姿で終わる。

今回の「ロミオとジュリエット」は、ロミオの周囲にもジュリエットの周囲にもいたずら好きが集まっているのが特徴。ロミオの周囲は原作でもマキューシオのような常にいたずらばかりしている者がいるわけだが(最後まで道化ているという解釈が一般的だが、レオナルド・ディカプリオ主演の映画「ロミオ+ジュリエット」では本気で呪いの言葉を吐く設定に変わっており、衝撃的である)、ジュリエットも侍女達と共に乳母をからかうなど、少女らしい(設定では13歳である)無邪気さを発揮している。ということで、二人とも原作通りの性格を体現しているといえる(ロミオの軽佻浮薄な性格は「イメージを損なう」として従来はカットされることが多かった)。
モンタギュー家の衣装を緑色、キャピュレット家の衣装を赤と対抗色にしたのも分かりやすい。
100点満点とまではいかないが、常に80点を保つという完成度であり、日本におけるバレエの上演としては満足のいく出来である。

それにしてもプロコフィエフの音楽は素晴らしい。近年ではソフトバンクのCMに使われるなど知名度が高まっているが、あるいはバレエなしのコンサートでの全曲演奏を行うのも面白いかも知れない。そう度々行うべきものでもないと思うが、音楽だけで聴かせることの出来る唯一のバレエ音楽だけに一度は企画されても良いように思われる。

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2022年8月 4日 (木)

観劇感想精選(440) 兵庫県立ピッコロ劇団 「三人姉妹」

2022年7月20日 尼崎・塚口の兵庫県立ピッコロシアター中ホールにて観劇

午後6時30分から、尼崎・塚口のピッコロシアター中ホールで、兵庫県立ピッコロ劇団の「三人姉妹」を観る。ピッコロ劇団の島守辰明の翻訳と演出での上演である。島守はロシア国立モスクワ・マールイ劇場(「マールイ」は「小さい」という意味で、「大きい」を意味する「ボリショイ」の対義語)及びマールイ劇場附属シェープキン演劇学校で学んでおり、ピッコロ劇団でもチェーホフ作品を手掛けている。

チェーホフの四大戯曲の一つである「三人姉妹」。日本語訳テキストの上演のほかに翻案作品も数多く作られていることで知られている。私も「三人姉妹」はいくつか観ているのだが、納得のいく出来のものにはまだ出会えていない。チェーホフの上演は想像よりも難しく、そのまま上演するとあらすじを流したようになってしまい、下手に手を加えるともうチェーホフ作品にならない。かなり繊細な本で、これまでは無理に「面白くしてやろう」と手を加えて、全体が捉えられなくなり、結果としてとっちらかったような印象ばかりが残ってしまうことが多かった。


出演は、吉江麻樹(オリガ)、樫村千晶(マーシャ)、有川理沙(イリーナ)、谷口遼(アンドレイ)、山田裕(ヴェルシーニン)、今仲ひろし(クルイギン)、鈴木あぐり(ナターリヤ=ナターシャ)、堀江勇気(ソリョーヌイ)、三坂賢次郎(トゥーゼンバフ)、杏華(アンフィーサ/母)、風太郎(フェラポント/父)、チェブトゥイキン(森好文)。

「三人姉妹」に通じた方の中には、「あれ?」と思われる役名が存在すると思われるが、「生と死」「在と不在」を強調するために、幽霊役も演じる俳優がいるのである。


ロシアの田舎。チェーホフの指定によると県庁所在地の街が舞台である。ただ、三人姉妹が暮らす屋敷は、駅や街の中心地からも遠い。

三人姉妹の長女であるオリガは教師として働き、次女であるマーシャ(マリア)は、教師であるクルイギンと結婚。二十歳で世間知らずのイリーナは働くことに夢と希望を持っているが、実際に電信局で働き始めると、夢も詩も思想もない生活に辟易し始める。

三人の憧れの地として、11年前に離れた故郷であるモスクワの名が何度も語られるが、結局はその街は、行くことのままならない理想郷としてのみ語られる。人類がたどり着くべき未来などもモスクワという言葉に仮託されている。良いことなどなにも起こらぬままの人生を働くことなどでなんとか乗り切ろうとする人生の悲しい姿がそこにある。

この作品の最大の謎の一つが、ナターシャ(ナターリヤ。ロシア語には愛称の種類がたくさんあり、一人の人間に対して多くの愛称が語られるため、ロシア語圏以外の観客を戸惑わせる元となっている。ロシアの小説には、愛称の注釈なども載っていることが多いので、読んで慣れるしかない)という女性である。最初は恥ずかしがり屋で頼りない印象を与える(今日はそれほどではなかったが)が、冒頭から4年ほどが経過した第2幕では、アンドレイとの間に生まれた子どもの環境を良くするために、イリーナの部屋を明け渡すよう要求するなど、かなり図々しい性格に変化しており、最終的には当家の女主のように振る舞う。この女性は一体何なのか? ただの悪女として登場しただけではないはずである。
ロシア文学を読んでいると、当初は大人しく世間知らずだった若い女性が、いつしか相手の男をしのぐ強い女性に変身しているというケースがままあることに気づく。チェーホフの「かもめ」のニーナもその一人だし、プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」のタチヤーナもそうだ。いずれも「余計者」の相手役であるが、ナターシャの相手となるアンドレイも「余計者」とまではいかないが、大学教授や市井の研究家となることを期待されるも果たせず、片田舎の市会議員で満足するしかなく、子どもをあやして生活するような、ナターシャの尻に敷かれている男である。
単純に時が経過したということなのかも知れないが、ナターシャの場合は、ニーナやタチヤーナに比べてはるかに化け物じみており、実際に「怪物」と形容するセリフがある。なにかのメタファーだと考えてよいと思われるが、すぐに思い浮かぶもの、例えばロシアという国家などはおそらく正解ではない。目の前の人生を生きやすくし、一方で誰かに迷惑を掛けるような指向性のメタファーである。そうなると現在の世界を覆う多くの主義主張はナターシャのような怪物になってしまう訳だが。あるいは「現実主義」という言葉が彼女の性格をより的確に表しているのかも知れない。
見方を変えれば、ロシアがヨーロッパに対して抱く恐れをあるいは体現しているのかも知れないが。

街は駐屯している軍隊の恩恵を受けており、実際にマーシャはヴェルシーキンと、イリーナはトゥーゼンバフやソリョーヌイという軍人と恋愛関係になるが、軍隊が去るのと同時に彼らも目の前から消えていく。トゥーゼンバフに至ってはこの世から去る。太宰治がとある有名小説にその影響を記したと思われる言葉は果たされることなく終わる。

神も希望もなにもない世界を、ゴドーが来るまで立ち去ることが出来ないジジとゴゴのようにただ生きなければならないという寂寥。今回のラストでは、三人姉妹とアンドレイの父と母、ヴェルシーキン、トゥーゼンバフとソリョーヌイら去る人、去った人が竹林をイメージした茂みの向こうに立ち、上手へと去って行くという演出が施されていた。皆、「希望」でもあった人である。そうした何の望みもない場所で、生きていかねばならないという不条理がカタルシスを呼ぶよう工夫されていた。

「生と死」「在と不在」と描くため、青や緑といった寒色系の照明の多用が特徴。音楽も、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章以外は、アンビエント系のものが用いられており、生きる希望が沸くようなドラマに欠けた現実世界を照射しているかのようであった。

これが正解という訳では勿論ないが、「三人姉妹」の再現として良い点を突いた演出であることは間違いない。大手プロダクションが手掛ける「三人姉妹」は、どうしても大物女優がキャスティングされやすくなるが、「三人姉妹」に関しては、有名女優であることが却ってマイナスに働くであろうことは容易に察せられる。必要なのは三人の特別な姉妹ではなく、群像劇に溶け込める平凡な三人の姉妹である。その点でも今日の上演は理想に近いものであったといえる。

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2022年8月 2日 (火)

コンサートの記(794) びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」

2022年7月18日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」を観る。

ヴェルディ最後のオペラとなった「ファルスタッフ」。シェイクスピアの戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」を原作に、作曲家としても名高いアッリーゴ・ボーイトが台本を手掛け、一度は引退を決意していたヴェルディが最後の情熱を燃やして作曲した作品としても知られる。ボーイトの台本にヴェルディはかなり魅了されたようだ。
ヴェルディは、悲劇作家であり、喜劇オペラ(オペラ・ブッファ)は、2作品しか残さなかった。そのうちの1つが「ファルスタッフ」である。


園田隆一郎指揮大阪交響楽団(コンサートマスター:林七奈)の演奏。演出は、国立音楽大学を経てミラノ・ヴェルディ音楽院に学び、多くの著名演出家の演出助手として活躍した経験を持つ田口道子。出演はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーを中心としたWキャストで、今日はB組の出演。青山貴(ファルスタッフ)、市川敏雅(フォード)、清水徹太郎(フェントン。本来出演予定だった有本康人が体調不良で降板したため、A組の清水が出演)、古屋彰久(カイウス)、奥本凱哉(おくもと・ときや。バルドルフォ)、林隆史(はやし・たかし。ピストーラ)、山岸裕梨(やまぎし・ゆり。アリーチェ。インスペクター兼任)、熊谷綾乃(くまがい・あやの。ナンネッタ)、藤居知佳子(クイックリー夫人)、坂田日生(さかた・ひなせ。メグ・ペイジ)。合唱も、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが出演する。


上演の前にまず、演出家の田口道子によるお話がある。新型コロナがまた勢いを増しているということでマスクを付けてのトークである。
ヴェルディが「ファルスタッフ」を作曲しようと思い立ったきっかけ(ボーイトの台本の存在感)、ヴェルディが初めて手掛けた喜劇オペラが上演最中に打ち切りになったこと、ヴェルディのその時の心境(妻と娘を亡くした中で喜劇オペラを作曲していた)などが語られる。
またオペラが総合芸術であり、あらゆる芸術が詰め込まれた豪華なものであること。一方で、初めて観る人にも分かりやすい演出を心がけたことなどが語られた(後方のスクリーンに映像を投影させる(「紙芝居のような」演出であった)。


実は、原作となったシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房達たち」は、シェイクスピア作品のワースト争いの戯曲として知られている。偽作説まであるほどだが、エリザベス女王の御前上演会のために短期間で書かれたこと、そもそも本格上演用ではなく余興用の台本だったことなどがマイナスに作用したという説が有力である。猥語の頻用、奇妙なフランスなまりの英語、子どもだましのような展開など、「偽作」と言われるだけの要素が多いが、この作品のオペラ化を試みた作曲家もヴェルディのみに留まらず、ファルスタッフという人物が多くの人々を魅了してきたことも窺える。
ボーイトは、オペラ用台本ということで、当然ながら筋や登場人物をカットしたものを書いているのだが、それが上手くいったようである(同じような場面をカットした効果は大きい)。初演時から好評を得ており、今に至るまでヴェルディ屈指の人気作となっている。


ガーター亭で過ごしているファルスタッフが、金策のためにアリーチェ・フォードとメグ・ペイジという金持ちの夫人二人に恋文を送ろうとするところから始まる(シェイクスピアの原作はそれよりも前に色々な展開があるのだがカットされている)。バルドルフォとピストーラという使用人になぜか拒否されるが、恋文はアリーチェとメグに届く。
ところが文面が全く同一のものであったため、アリーチェとメグは激怒。ファルスタッフを懲らしめてやることにする。一方、アリーチェの娘であるナンネッタはフェントンに恋しているのだが、父親のフォードは、金持ちの医者であるカイウスと娘の結婚を画策していて……。


恋と嫉妬、復讐を果たすまでの頭脳戦と予期せぬドタバタ、道ならぬ恋など、オペラで受けそうな要素が満載である。やはり演劇と歌劇とでは客受けの良いものが微妙に異なっている、というよりも客に受けそうな要素だけでボーイトが脚本を編んだのが良かったようだ。常識的に考えて変な場面も実は多いのだが、そこは音楽の力で増強増補していく。

田口道子の演出は、滑稽な動きを強調したものであり、特にファルスタッフ役の青山貴とクイックリー夫人役の藤居知佳子の演技は、チャーミングでもあり、コメディの要素も生かし切っていた。
アリーチェ役の山岸裕梨とメグ・ペイジ役の坂田日生の安定感、またナンネッタ役の熊谷綾乃の可憐さを強調した演技も説得力があった。

園田隆一郎指揮大阪交響楽団も活きの良い演奏を聴かせる。大阪交響楽団は、大阪府内に本拠地を置くコンサートオーケストラの中で最も歴史が浅く、演奏会ではたまに非力さを感じさせたりもするのだが、びわ湖ホール中ホールは空間がそれほど広くないということもあって、迫力も万全である。
イタリアオペラを指揮することの多い園田隆一郎の絶妙のカンタービレも流石であった。

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2022年7月21日 (木)

コンサートの記(789) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」 2022.7.17

2022年7月17日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。

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モーツァルトの「魔笛」やビゼーの「カルメン」と共に、音楽雑誌などの好きなオペラランキング1位争いの常連である「ラ・ボエーム」。パリを舞台に、芸術家に憧れる若者とお針子との悲恋を描いた作品である。それまでは芸術というと、例外は案外多いが上流階級が行うものであり、たしなみでもあったのだが、プッチーニの時代になると市民階級が台頭。芸術を楽しんだり、あるいは自分で芸術作品を生み出そうとする市民が現れる。たまたますぐに認められる人もいたが、大半は長い下積みを経験し、芽が出ないまま諦めたり、貧困の内に他界する者も多かった。そんな新しい「種族」であるボヘミアン(フランス語で「ボエーム」)は、人々の目を驚かし、あるいは唾棄され、あるいは憧れられる存在となっていった。

今回、演出・装置・衣装を手掛けるのは、1943年、イタリア・マルチェラータ生まれのダンテ・フェレッティ。多くの映画監督やオペラ演出家と仕事をしてきた巨匠である。フランコ・ゼフィレッリのオペラ映画で美術を手掛け、その後にピエル・パオロ・パゾリーニ作品5本に美術担当として参加。近年はマーティン・スコセッシ監督と多く仕事をこなしている。

フェレッティは、ボヘミアン達の住み処をアパルトマンの屋根裏部屋から、セーヌ川に浮かぶ船に変更。垂直の移動をなくすことで、パリの地上に近づける工夫を施している。個人的にはアパルトマンの屋根裏から見えるパリの光景が、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』で語られる最後のセリフ、「パリよ今度はお前が相手だ」に繋がるようで気に入っているのだが、船上で暮らすボヘミアン達というのはそれはそれで面白いように思う。ただ船上に住むとした場合、隣の部屋に人知れず住んでいるミミという女性のキャラクターは余り生きないように思う。今回のミミは、船のセットの前を歩いて後方に回り、船内の部屋のドアの向こうに立って人を呼ぶという設定になる。元々は火が消えたから分けて欲しいという設定なのだが、船の家までわざわざやって来て、火を分けて欲しいというのは変である。ミミはおそらく舞台上手側にある部屋に住んでいて、船の家まで来たと思われるのだが、その場合は、ロドルフォが男前なので、近づきたいがために無理な設定をでっち上げたということなのだろうか。他に理由があるのかも知れないが、思いつかない。


指揮はいうまでもなく佐渡裕。兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。ゲストコンサートマスターはステファノ・ヴァニヤレッリ(トリノ王立歌劇場管弦楽団コンサートマスター)、第2ヴァイオリントップはペーター・ヴェヒター(元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団首席)、チェロ客演首席はレリヤ・ルキッチ(トリノ王立歌劇場管弦楽団首席)。第2幕のカフェ・モミュスの場に現れる軍楽隊のメンバーの中に、元京都市交響楽団トランペット奏者の早坂宏明の名が見える。
プロデューサーは小栗哲家(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主役を張っている小栗旬の実父)。

ダブルキャストによる上演で、今回はヨーロッパの若手歌手を中心としたA組の出番である。出演は、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)、エヴァ・トラーチュ(ムゼッタ)、リッカルド・デッラ・シュッカ(ロドルフォ)、グスターボ・カスティーリョ(マルチェッロ)、パオロ・イングラショッタ(ショナール)、エウジェニオ・ディ・リエート(コッリーネ)、清原邦仁(パルピニョール)、ロッコ・カヴァッルッツイ(ベノア/アルチンドーロ)、島影聖人(物売り)、時宗努(軍曹)、下林一也(税官吏)。合唱は、ひょうごプロデュースオペラ合唱団、ひょうご「ボエーム」合唱団、ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団。
ひょうごプロデュースオペラ合唱団のメンバーには関西では比較的有名な若手歌手も含まれている。

第2幕のカフェ・モミュスの場では、ステージ上がかなり密になるということで、吉田友昭(医学博士/感染制御医)と浮村聡(医学博士/大阪医科薬科大学大学院感染対策室長)という二人の医学関係者が感染対策の監修を手掛けている。


舞台設定は大きく変えたが、演技面などに関してはいくつかの場面を除いてオーソドックスな手法が目立つ。セットではやはりカフェ・モミュスのテラス席と屋内を一瞬で転換させる技法が鮮やかである。

オーディションを勝ち抜いた若手歌手達の歌と演技も楽しめる水準にあり、特にムゼッタを演じたエヴァ・トラーチュのコケティッシュな演技と歌声が魅力的であった。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏も潤いと艶と勢いがあり、私が座った席の関係か、たまに鳴り過ぎに聞こえる場面があったが、生命力に満ちている。在籍期間が最長3年で、常に楽団員が入れ替わる育成型オーケストラであるため、他のプロオーケストラに比べると独自の個性は発揮出来ないが、一瞬一瞬の価値を大事にしたフレッシュな演奏が可能ともなっている。


第3幕の「ダダン!」という音による始まりと終わりについてであるが、個人的には、アンフェール関門(インフェルノ関門)という場所が舞台になっているため、地獄の扉が開く音として捉えている。第2幕であれほど生き生きしていたボエーム達とミミが、第3幕では、ミミの病気やロドルフォのミミに対するDV、マルチェッロとムゼッタの喧嘩などで、地獄への道へと落ちていくことになる。

立場はそれぞれ違えども、ステージにいる人、客席にいる人の多くが、ボエーム達の生活に憧れたか、実際にそういう暮らしを送った人達であり、己の姿を投影することの可能な作品である。

一方で、この時代は女性にとっては残酷であり、地方からパリに出てきてお針子になる女性が多かったが、パリの家賃や物価は高く、多くは仕事をしているだけでは生活出来ず、売春などで小金を稼ぐ必要があった。ムゼッタのように金持ちに囲われ、歌の教師などの職を得るものもあれば、ミミのように売春をしても暮らしは楽にならず、若くして命を散らすことも決して珍しくなかった。女性でも芸術方面で活躍している人もいるにはいたが、彼女達は基本的に上流階級の出身であり、そうでない多くの女性は芸術家(ボエーム)になることも許されず、地獄のような生活を送る人も少なくはなかった。

ミミというのは俗称で(売春をする女性は、ミミのように同じ音が続く俗称で呼ばれることが多かった。ムゼッタの俗称はルルである)本名はルチア。「Lux」に由来する「光」という名の名前である。この作品でもロドルフォの戯曲を燃やす暖炉の明かり、ミミが借りに来る「火」の灯り、カフェ・モミュスの輝き、第3幕での春の陽の光に抱く恐れや、最後の場面での日光に関するやり取りなど、「光」が重要な鍵となっている。

ロドルフォは最後までミミのことを本名のルチアで呼ばない。結婚相手とは考えられないのだ。本名で呼ぶような関係の夫婦となるのに多くの障壁がある。まず金銭面、身分の問題(ロドルフォは売れない詩人、ミミは売春も行うお針子)、そして価値観の違い。ミミはボエーム達のように芸術に関して深く理解する力はなかっただろう。ロドルフォはミミを愛しい人とは思っても結婚相手とは見ておらず、芸術上の同士とも考えていないため、「ルチア」とは呼ばないのである。すれ違いといえばすれ違いであるが、新しい階級を築きつつある一方で、旧弊から抜け出せない端境期(あるいは今も端境期のままなのかも知れないが)の「自由な」「わかり合えない」若者達の悲しさと愚かしさを描く、痛切な作品でもある。

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2022年7月13日 (水)

コンサートの記(787) 日本オペラ「藤戸」@兵庫県立芸術文化センター 2015.3.21

2015年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、日本オペラ「藤戸」を観る。兵庫県立芸術文化センター(HPAC、PAC)では、日本人作曲家による日本オペラの上演を毎年行っており、今回で3回目になるが、私がHPACで日本オペラを観るのは今日が初めてになる。

「藤戸」は、源平合戦(治承・寿永の乱)、藤戸の浦の戦いを題材にしたオペラである。原作:有吉佐和子(小説ではなく舞踏浄瑠璃のための台本とのこと)、台本&作曲:尾上和彦、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。初演時のタイトルは「藤戸の浦」であったが、後に「藤戸」に改題されている。

1日2回公演であり、午後2時開演の回の主演は、井上美和と迎肇聡(むかい・ただとし)。午後6時開演の公演の主演は、小濱妙美(こはま・たえみ)、晴雅彦(はれ・まさひこ)。他の出演は2回とも一緒で、古瀬まきを、松原友(まつばら・とも)、以降は波の精としてコーラス(コロス)としての出演で、柏原保典、谷幸一郎、水口健次(以上、テノール)、神田行雄、木村孝夫、砂田麗央(すなだ・れお)、下林一也(以上はバスと表記されているが、日本人に正真正銘のバス歌手はいないといわれているのでバリトンということになるのだと思う)。

今日はダブルキャストを共に観てみたいため、2回ともチケットを取った。

オーケストラピットが設けられているが、小編成での演奏。大江浩志(フルート)、奥野敏文(パーカッション)、日野俊介(チェロ)、武知朋子(たけち・ともこ。ピアノ)によるアンサンブルである。指揮は奥村哲也。奥村哲也は尾上和彦のオペラの指揮を何度も手掛けているが、元々はギタリストであり、高校生の時に日本ギターコンクールで2位に入るなど輝かしい経歴の持ち主である。高校卒業後、ロンドンに渡り、同地の音楽院でクラシックギターの他に指揮法や作曲も学んでいる。帰国後は主にオペラの指揮者として活動しており、関西、名古屋、四国の二期会と共演を重ねている。


『平家物語』に描かれ、伝世阿弥作(偽作の可能性が高く、最近は作者不明とされることが多いが)の謡曲などで知られる「藤戸」。一ノ谷の戦いに勝利した源氏が、源範頼を総大将として児島(現在の岡山県倉敷市児島。かつては倉敷市一帯は入江であり、児島は本当に島であった)を攻めようと対岸の藤戸に陣を張るが船がない。そもそも坂東武者を多く集めた源氏は陸戦は得意だが舟戦は得手とはしていない。宇多源氏佐々木三郎盛綱は何とかして先陣の功を上げたいと思っていたが、手段がない。そこにある漁師が、浅瀬を渡って児島に渡る方法を知っていると聞く。藤戸の浦には浅瀬があり、そこを通れば徒歩でも馬でも渡れるという。盛綱は喜ぶが、この事がよそに漏れてはいけないと、漁師を殺してしまう。能では漁師が幽霊となって現れるのであるが、有吉佐和子は、児島への行き方を知っている人物を漁師ではなく、少年に変えているという。そして佐々木盛綱と少年は二人だけの冒険のように児島への秘密のルートを辿るのだ。ただ、有吉版「藤戸」でも案内役である少年はやはり盛綱に殺されてしまう。そして殺された当人ではなく、母親がその様を聞いて発狂するという展開になる。


尾上和彦は、1942年、奈良市生まれの作曲家。京都市立堀川高校音楽コース作曲科(現・京都市立京都堀川音楽高校)在学中に主任講師に認められて放送用音楽の作曲助手として活動を開始(音楽の仕事が忙しすぎて出席数が足りず、高校は中退したそうである)、17歳にして舞台音楽の作曲家として自立し、オラトリオを始めとする声楽作品やオペラ、器楽などその他のジャンルの作曲を多く手掛けてる。放送禁止歌になった「竹田の子守唄」を発掘したり、小オラトリオ「私は広島を証言する」など、シビアな題材を取り上げていることでも知られる。オペラ「藤戸」は「藤戸の浦」という題で、1992年に米国サンフランシスコで初演。大劇場と中劇場で公演を行っている文化施設での初演であり、大劇場ではヴェルディの歌劇「オテロ(オセロ)」上演時間約4時間、中劇場で「藤戸の浦」上演時間約1時間という同時上演が行われたが、「藤戸の浦」は、「1時間で4時間分の密度のあるオペラ」と激賞されたという。


午後2時開演の回、午後6時開演の回共に、日本オペラプロジェクト総合プロデューサーである日下部吉彦、作曲の尾上和彦、演出の岩田達宗によるプレトーク20分、途中休憩15分、オペラ上演60分という変わったスタイルでの上演。


開演前に、演出の岩田さんに挨拶をし、少しお話を伺う。午後6時開演の前にはオペラ上演に適した日本のホールはどこか伺ったのだが、古典派までだったら大阪府豊中市にある大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス。大規模なものだと何だかんだで東京・上野の東京文化会館が最適とのこと。東京文化会館は東京初の音楽専用施設であり、都が威信を懸けただけあって入念の音響だそうである。


音楽、ストーリー共に分かり易いものである。音楽は比較的シンプルであり、特に女が歌うときにはミニマル・ミュージックのような同じ音型のピアノ伴奏が繰り返される(歌自体はミニマルミュージックではない)。

岩田達宗の演出であるが、まず中央に白い壁。左右に白く細い紗幕が数本降りている。幕が上がると、女がすでにおり、後ろを向き、正座をして屈み額を膝に付けている。
紗幕にライトが当たると、水色なのか浅葱色なのか(浅葱色だと別の意味が足されるが)とにかく青系の衣装を着た波の精達が見える。地唄に当たる部分は、彼ら波の精と、千鳥という女装をした着物姿の歌手(今回が松原友が務める)が歌う。ちなみに、「藤戸」はこれまでに90回以上上演されているが、いずれも波の精は女声アンサンブルが務めており、尾上の構想にあった男声による波の精が実現するのは今回が初めてだそうである。女声による波の精を聴いたことがないので何とも言えないが、男声による波の精の方が「リアル」だという想像は付く。
白い壁には「戦争」、「平和」といった文字や、源平の武者達の名前などが浮かぶ。

「白」は勿論、源氏の白旗であるが、平氏の赤旗も「赤=血=殺戮」というイメージの重なりを伴い、藤戸の浦の合戦の場面で登場する(赤い布が上から吊され、バックライトで佐々木盛綱の殺陣が浮かび上がった後で、布が天井から落とされ、波の精達がそれを纏って後ずさりし、平氏の退却を表す)。

日本語歌唱、日本語字幕スーパー付きの上演であるが、時折、歌手が字幕と違う言葉を歌ったのはアドリブなのか、或いは言い間違えたのか。意味は通じるので瑕疵にはならないが。

ちなみに、午後2時開演の回では、佐々木盛綱役の迎肇聡が太刀の刃を上にした形で握っているように見える場面が長く、ちょっと気になった。太刀の場合は刃を上にして握るという発想がなく、抜くときは横にして抜くので、刃は下か横を向いているはずだが、ちょっと力が入ったのかも知れない。抜くときは横にして抜いていたので、日本刀と勘違いしたというわけではないようである。

ダブルキャストの出来であるが、午後6時開演の小濱妙美と晴雅彦の方がメリハリを付けた演技となっていた。佐々木盛綱はある意味歌舞伎的わかりやすさが出て晴雅彦の方が迎肇聡よりも面白かったが、女は井上美和の方が伸びやかさにおいて優っていたように思う。


さて、女の歌と、盛綱の歌の歌詞を比較すると、女のものは素朴で情緒豊か(反戦のメッセージも入っているが)、盛綱の歌詞は理屈っぽい傾向がある(言い逃れをしているのだから当然である)。また盛綱は経文を唱えたり「徳義」という言葉を用いるなど、文字としてもお堅い。旋律も女のものは流れが良いが、盛綱の歌は角がある。女にとっては親子の日常こそが大切なのであって、武士道だの勝つだの負けるだの出世だのはどうでもいいのである。

「情」と「理」などと分けてあれこれ言うのは理の仕事なので書くだけ野暮になるわけだが、武士の世の戦は大将が戦場にいるという点においてまだ情の入り込む余地がある。こうして、戦の中にも涙を誘うような物語も生まれる。ただ近現代の戦争は極めて「非情」である。大将が戦場にいない。映像を見ながら指示している。兵隊はいるが、それに対する情もあるのかないのか。
1990年の湾岸戦争で、初めて我々はそれを目にした。不気味なほど綺麗な風景。コンピューターゲームのワンシーンのような映像。そこでは血が流れているはずだ。だが我々にはそれは見えなかった。

あたかも人間がその場にいないかのような不気味で洗練されすぎた戦争。そうしたあらゆる戦争が今もリアルタイムで行われているのが「現在」だ。


勿論、「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は生きにくい」という夏目漱石の言葉通り、情に棹させば解決するものでもないが、理屈と理屈で格闘し、気にくわないなら殺傷ではなく、「個と個で向き合うこと」、それしか戦争を防ぐ方法はないように思える。

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2022年7月11日 (月)

観劇感想精選(438) 関西・歌舞伎を愛する会 第三十回「七月大歌舞伎」昼の部 初日 令和四年七月三日

2022年7月3日 道頓堀の大阪松竹座にて観劇

正午から、道頓堀の大阪松竹座で、関西・歌舞伎を愛する会 第三十回「七月大歌舞伎」昼の部を観る。今日が初日である。演目は、「八重桐廓噺」嫗山姥(こもちやまんば)と「浮かれ心中」。今回の「七月大歌舞伎」は、松本幸四郎が昼夜計4演目中3演目に出演。中村勘九郎も同じく2演目に出演する。

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上方系の演目への出演が目立つ幸四郎。今回は、「浮かれ心中」は江戸の売れない戯作者を演じるが、近松門左衛門作の「八重桐廓」と夜の部の「祇園恋づくし」では上方の役に取り組んでいる。


「八重桐廓噺」嫗山姥。近松門左衛門の時代浄瑠璃を原作とする義太夫狂言(人形浄瑠璃の台本で行われる歌舞伎の演目)である。
沢瀉姫(千之助)は源頼光と契りを結んだが、清原高藤の讒言により、頼光は姿を消す。高藤は沢瀉姫を自分のものにしようとしていた。これが前段での出来事である。

元廓勤めである荻野八重桐(片岡孝太郎)が沢瀉姫の屋敷の前を通りかかった時に、門の内から流れてくる謡にふと足を止める。その歌は、八重桐が廓勤めの遊女をしていた時代に坂田蔵人時行(松本幸四郎)と二人で作り上げたものであった。八重桐は「傾城の祐筆」と声を上げ、館の内から出てきたお歌(中村亀鶴)に面白がられて館の内へと招かれる。

果たして館の中では坂田蔵人時行が煙草屋源七と名を変えて潜んでいた。ここで、孝太郎と浄瑠璃(竹本谷太夫)によって八重桐の身の上が語られる。
八重桐と時行は恋仲であったが、小田巻という遊女が時行に懸想しており、時行を巡って八重桐と小田巻が大喧嘩。
一方、時行は物部の平太を仇討ちしようと機会をうかがっていたが、平太は時行の妹の白菊(中村壱太郎)によって退治されていた。時行は平太の主である平正盛と清原高藤を討つ計画を立てるが、八重桐から「源頼光さえ、清原高藤に手を出せなかったのだから、時行では相手にならない」と断言。悔し涙を流した時行は自刃し、元恋人である八重桐と妹の白菊に遺言を残す。「三日の内に(八重桐の)胎内に痛みがあったなら、それは自分の生まれ変わりであり、正盛と高藤を討ち果たす」
時行は、八重桐に自身の臓物を口にするよう促して絶命。八重桐は大力無双の山姥となり、白菊と共に高藤が放った使者の太田十郎(中村虎之介)とその一味を蹴散らすのだった。ちなみにこの後、八重桐が生むのが、幼年期が「金太郎さん」として知られる坂田公時である。

孝太郎の八重桐は初役だそうで、しかも今日が公演初日であるが、役に完全に馴染んでおり実力の高さが窺える。幸四郎はこの演目での出番はそれほど多くないが、心情の表出に長けているという印象を受けた。
白菊を演じる中村壱太郎が、メイクのせいか、今日は高岡早紀に似ているように見える。

初日ということで万全ではなく、役者のセリフに間が開いたため、プロンプター(歌舞伎では黒子が務めることが多い)の声が聞こえ、それがきっかけで役者がセリフを語り始める場面があった。初日から3日間はプロンプターが常駐しているようである。


「浮かれ心中」。井上ひさしの直木賞受賞作「手鎖心中」を小幡欣治の脚本・演出で舞台化した作品である。歌舞伎版は平成9年(1997)の初演。初演時に十八世中村勘三郎(当時は五代目中村勘九郎)が辰巳山人栄次郎演じて好評を博しており、平成12年(2000)には大阪松竹座の7月大歌舞伎でも勘三郎の栄次郎による上演が行われている。
今回は十八世中村勘三郎の長男である六代目中村勘九郎が辰巳山人栄次郎を演じ、勘九郎の弟である七之助が栄次郎と所帯を持つおすずと吉原の花魁・帚木の二役を演じる。
井上ひさし原作ということで笑劇(ファルス)の要素がかなり強いエンターテインメント歌舞伎となっている。

大店・伊勢屋の若旦那である栄次郎(中村勘九郎)は絵草紙作家になるべく、江戸・鳥越の絵草紙屋・真間屋の娘であるおすず(中村七之助)と所帯を持つことに決める。所帯を持つといっても、絵草紙作家になるための足掛かりであり、江戸屈指の豪商である伊勢屋から勘当されることで江戸中の評判になることを狙っており、そのため勘当は1年きりで、その間はおすずと男女の関係になるつもりもなく、父親(中村鴈治郎)にも真間屋の番頭・吾平(中村扇雀)にも「手は出さない」と誓っていた。おすずは24歳。当時としては婚期を10年近く逃しており、栄次郎も容姿が悪いに決まっているとして、1年間手を出さないなど楽勝と高をくくっていたが、現れたおすすは、「鳥越小町」と呼ばれたほどの美人で、栄次郎もすぐにおすずのことを気に入ってしまう。この辺りは「嘘から出た実」という言葉がぴったりくる。

一方、栄次郎の戯作者仲間である太助(松本幸四郎)は、栄次郎とおすずの婚儀の仲人を務めるはずが、吉原で有り金全部使い果たしてしまい、吉原から出られず、祝言にも遅れる。付け馬(取り立てのための監視人)を伴い、やっと祝言の席に現れた太助。仲人が一人だけでは寂しいと付け馬と二人で仲人ということになる。
なお、この場で火消しからの祝いの謡があるのだが、彼らは初演時にも火消し役で出ていたそうで、勘九郎も「親子二代に渡り」と礼を言う。

さて、絵草紙「百々謎化物名鑑(もものなぞばけものめいかん)」を今でいう自費出版した栄次郎であるが、そう簡単に売れる訳もない。ということで、吉原に使いの者を出して本を売らせ、その後で自身が吉原に繰り出して「作者登場」の評判を取ろうとする。太宰治のような話題作りをする作家である。
共に吉原に繰り出した太助は、花魁・帚木太夫(中村七之助二役)に一目惚れする。だが帚木にはすでに心に決めた相手がいた。


勘九郎が描き出す栄次郎の剽軽さが魅力的。即興の場面も比較的多いと思われる。
栄次郎と共に売れない戯作者コンビを組む太助役の幸四郎は、育ちの良い好人物で知力にも恵まれているが少々情けない男という自身のパブリックイメージにも近いであろう役柄を生き生きと演じてみせる。こうした役がこれほど嵌まる歌舞伎俳優もそうそういない。
七之助の声音を変えての二役演じ分けも見事であった。

初日ということで、この演目でもアクシデントが発生。裏の障子を思いっきり開け放った時に、そこに控えていたTシャツ姿の舞台スタッフがはっきり見切れてしまう。スタッフの男性もすぐさま退散したが、勘九郎も「あれは家の」とアドリブの説明を行おうとしていた。

さて、種明かしをすると、栄次郎は他界してしまうのだが、あの世へと向かう際に宙乗りを行う。宙乗りを行うというのは、十八世中村勘三郎のアイデアだそうで、それを継いだ息子の勘九郎も実に楽しそうに宙乗りを行い、紙吹雪や紙テープなどを繰り出す。なお、栄次郎が書いた幕政批判の絵草紙にネズミが登場するようで、そのため栄次郎はネズミに乗り、ネズミ絡みか(?)東京ディズニーランドでお馴染みの「イッツ・ア・スモールワールド」が日本語詞で謡われた。

現代歌舞伎、それも井上ひさし原作であるため分かりやすく、常連でも一見さんでも楽しめる優れた演目であった。

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2022年7月 8日 (金)

2346月日(38) 佛教大学オープンラーニングセンター(O.L.C.) 特別無料講座「七夕×和歌文学 ~31文字に想いを込めて~」

2022年7月7日 佛教大学15号館1階「妙響庵(みょうこうあん)」にて

午後5時から、佛教大学オープンラーニングセンター(O.L.C.)「七夕×和歌文学 ~31文字に想いを込めて~」を受講。無料講座である。担当は佛教大学文学部日本文学科教授の土佐朋子。専門は日本上代文学である。

先月、日本のポピュラー音楽を扱う講座に参加した際に貰ったチラシに今日の講演の宣伝が入っていたので出掛けてみる。個人的には大学の公開講座には大いに興味があるのだが、平日の昼間に行われることが多いので参加してはこなかった。ただ佛教大学のO.L.C.のラインナップは面白く、会場となる佛教大学15号館1階「妙響庵」の雰囲気も良く、行く価値は大いにあるように思われる。

五節句の一つである七夕。元々は中国の習慣で、針仕事をする女性が上達を願う祭(でいいのかな?)であったのだが、後に諸芸上達、特に芸術方面の能力発達を願う乞巧奠という儀式になり、日本へと入ってきた。七夕に和歌を取り上げるのは似つかわしいということになる。京都に唯一残った公家である下冷泉家は、七夕に和歌を詠む習慣がある。

「万葉集」に載せられた和歌が中心になるが、「万葉集」には和歌のみでなく、漢詩や漢文も載せられていて、まずは中国で書かれた七夕に関する漢詩が取り上げられる。ちなみに、中国の代名詞でもある「漢」は元々は「天の川」を意味する言葉であり、織姫=織女は、「河漢の女(天の川の女)」と表現されている。
ちなみに可漢(天の川)というのは、清流だが浅く、幅も狭いそうで、相手のことがよく見えるが手は届かない距離ということなのか、もどかしく思える設定を取っているようである。

実は、中国では織女から牽牛の方へ向かうのだが、日本では牽牛が船を漕いで織女の下へ向かうという設定に変わっている。日本では上代から中古に掛けては通い婚が一般的であり、向かうのは常に男の方だったので、牽牛と織女=彦星と織姫も男の方が会いに出掛けるのが当時の常識と照らし合わせても自然なことであったと思われる。
川幅が狭いのに船を使うのが不自然という指摘もあるようだが、多分、川幅が狭くてはドラマティックにならないので意識的にそうした情報は無視したのであろう。

「万葉集」に載っている七夕を題材にした和歌は約130首。かなり多い。
今回はその中から31首を採り上げて、設定や背景などが述べられている。

私も専門の一つが日本文学なのであるが、主に研究したのが近現代、それも作者が存命の作品に多く取り組んだので、上代の文学についてはいうほど詳しくはない。和歌を詠むこと自体は特技の一つなのであるが。

七夕には酒宴が催され、その席で歌われたと思われる和歌も多い。だが、七夕を詠んだ歌、約130首の内、作者が分かっているのは大伴家持だけで、他の作品は全て詠み人知らずとされている。

大友家持の歌は、彼が二十歳前後とかなり若い頃に詠んだ作品で、織女の船出と月を掛け合わせて詠んでいる。織女の方が出掛けるという唐土の習慣を家持は知っていたようである。
勿論、唐土の習慣を知っていたのは家持だけではなく、織女の方から牽牛の下へと出掛ける様を詠った和歌はいくつも存在している。

子どもの頃に受けたイメージで、男の方から女の方へ出向いたり、男と女が鵲の渡せる橋の真ん中で出会うような情景を思い描いていたが、女の方から男の下へと出向くという発想は、実は抱いたことがなかった。今の日本でも女の方から押し掛けるということは余りないため、イメージの埒外にあったのだと思われる。

ちなみに、織女はかなり豪奢な乗り物に乗り、華やかな衣装で出掛けていることが分かる。

上代にあっては、恋というのは、恋人同士が会ってなすことを指すのではなく、会えない時に相手を求める気持ちのことを表す言葉のようで、郷ひろみの「よろしく哀愁」的な発想がなされていたようである。

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2022年7月 1日 (金)

これまでに観た映画より(300) 「ショーシャンクの空に」4K上映

2022年6月29日 新京極のMOVIX京都にて

MOVIX京都で、アメリカ映画「ショーシャンクの空に」4K上映を観る。1994年公開の映画の4Kリマスタリング版上映である。原作:スティーヴン・キング、脚本・監督:フランク・ダラボン。ロードショー時には余り話題にならなかったようだが、再上映に大ヒットし、フィルムの永久保存が決まっている名画である。出演:ティム・ロビンス、モーガン・フリーマン、ボブ・ガントン、ウィリアム・サドラー、クランシー・ブラウン、ギル・ベローズ、ジェームズ・ホイットモア、マーク・ロルストンほか。アメリカのショーシャンク刑務所を舞台とした人間ドラマである。刑務所内が主舞台であるため、女性キャストが少ないのも特徴(いずれも刑務所外での登場)。

1947年、若くして大手銀行の副頭取まで出世したアンディ・デュフレーン(ティム・ロビンス)であるが、離婚を切り出してきた妻とその愛人のプロゴルファーを射殺したとして終身刑を宣告され、ショーシャンク刑務所に送られることになる。ショーシャンク刑務所では、同性愛者でもないのにその行為を行うことで悪名高いthe sistersと呼ばれる集団からいじめ抜かれるなど、最初のうちは地獄を味わうが、20年以上も収監されているレッド(愛称で本当の姓はレディング。演じるのはモーガン・フリーマン)に心を開くなど、徐々に仲間も増え、刑務所での生活に慣れていく。刑務所の中には洋の東西を問わず、知的水準に問題のある者が多く収監されているとされるが、その中にあって「掃き溜めに鶴」的なインテリであるアンディは経済面に強く、また文化面にも明るく、刑務所の上層部からも信頼を得るようになっていく。
レッドは刑務所内の調達係として一目置かれており、アンディも石を削ってチェスの駒を作りたいということで、ロックハンマーを手に入れてくれるよう頼む。

アンディは更に好待遇を得て、肉体労働から刑務所内図書室の司書への転身を許される。図書室にはブルックスという老人(ジェームズ・ホイットモア)が一人で務めていたが、蔵書数も乏しく、開架スペースもないなど問題山積み。ティムは蔵書の増加とスペースの確保を州議会に手紙で訴える。この訴えは6年越しでようやく叶うことになる。

やがてブルックスは入獄後半世紀を経て仮釈放が認められ、刑務所が手配したアパートに暮らし、スーパーマーケットの袋詰め係(アメリカのスーパーマーケットには精算された品を袋に入れるだけの係がいる。コロナ禍ではこうした人々が「感染を広める可能性がある」として次々と馘首されたことも話題になった)として働くようになるがシャバに馴染めず自殺する。

そんな中、刑務所長のノートン(ボブ・ガントン)の依頼によりティムは裏金作りにも手を貸すようになり、刑務所での彼の立場は受刑者としては最高位と目されるようになる。

1966年、トミーという若い男(ギル・ベローズ)が窃盗罪でショーシャンク刑務所に入獄。トミーは十分な教育を受けておらず、読み書きも満足に出来ない。妻子があるため一念発起したのか、アンディが図書室で密かに行っている教育プログラムに参加し、アルファベットの読み方から始めて、最後は高卒認定試験に合格するまでになる。トミーは若い頃から様々な刑務所に出たり入ったりを繰り返していたが、以前いた刑務所で、プロゴルファーとその愛人の殺害を自慢げに語る男がいたことをアンディらに告げる。無実を訴えるアンディは、所長のノートンに再審請求を申し出るのだが……。


名画として確固たる地位を築いているため、この映画に関して映画人や評論家など様々な人物が言及しているが、個人的には劇中にも登場する、アレクサンドル・デュマ・ペールの長編小説『モンテ・クリスト伯』を上手く用い、つかず離れずの展開にしているところが面白く、本の上手さを感じる。『モンテ・クリスト伯』は、無実の罪で投獄された男が脱獄後に大金持ちとなり、自身に罪をなすりつけた者達への復讐を図る話であるが、「ショーシャンクの空に」にも復讐はないのかと見せかけておいてあり、偽名を使って大富豪にもちゃんとなりという展開が待っている。大体において入獄ものとなると『モンテ・クリスト伯』(日本では黒岩涙香の訳による『巌窟王』というタイトルでも知られている)が世界文学史上最も有名であると思われるため、意図的に取り入れたのか、偶然そうなったのかまでは分からないが、劇中でタイトルが出てくる以上、一切知らずに脚本を書いたということはないはずで、読了済みの者の方がそうでない者よりも楽しめることは確かである。

『モンテ・クリスト伯』的傾向は抜きにしても、刑務所上層部の暴力性、収監者同士の問題、更には年老いてから仮出所した者の「生きづらさ」などをきちんと描いており、社会問題に切り込んでいるところにも好感が持てる。

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2022年3月28日 (月)

コンサートの記(771) 日本オペラプロジェクト2022 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」西宮公演

2022年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。木下順二の代表的戯曲を「セリフの一字一句に至るまで変更しない」という約束の下、オペラ化した作品で、日本が生んだオペラとしては最高の知名度を誇っている。今回は2013年に初演されたプロジェクトの再々演(三演)である。2013年の公演は私は観ていないが、2018年に行われた再演は目にしている。

演出は引き続き岩田達宗が担当。美術も故・島次郎のものをそのまま踏襲している。
今回の指揮者は、1989年生まれの若手、粟辻聡(あわつじ・そう)。京都市生まれで京都市少年合唱団出身。2015年に第6回ロブロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで第2位に入賞。京都市立芸術大学、グラーツ芸術大学大学院、チューリッヒ芸術大学大学院においていずれも首席を獲得して卒業している。京都市立芸術大学では広上淳一に師事。現在は奈良フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める。大阪音楽大学講師。
演奏は、大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートマスター:赤松由夏)。

つうと与ひょうはいずれもダブルキャストで、今日は老田裕子(おいた・ゆうこ。ソプラノ)と中川正崇(テノール)のコンビとなる。運ずは晴雅彦(バリトン)、惣どに松森治(バス)。少年合唱は、夙川エンジェルコール。

開演前にホワイエで、岩田さんに前回観た「夕鶴」の解釈について質問したりした。上演内容自体は、今回もほとんど変わりない(プログラムノートも同一である)。

「夕鶴」は、人間と鶴とのすれ違いを描いた悲恋と観るのが一番面白いように私は思う。
実は互いは互いにとって最高のパートナーともいえる関係にある。押しかけ女房のつう(正体は鶴)は、矢で射られて倒れていたところを与ひょうから治療を受けて、その感動から人間となって与ひょうの前に現れる。冒頭の少年合唱による童謡のシーンでメンバーの一人が弓矢遊びをしているが、当時は鶴の数も多く、天然記念物という概念もなく、あったとしてもそれには該当せず、鶴は普通に狩りの対象であった。そんな鶴に優しくしてくれた与ひょうは人間に化けたつうにも当然ながら優しい。
この与ひょうというのがかなり不思議なキャラクターであり、金銭というものにほとんど興味を示さない。示すとしてもそれはつうのためになることだけである。つうが織った千羽織が売れて、熱心に働くことを止めてしまったようだが、それは働くのが嫌になったというよりも、つうと一緒にいる時間を増やしたいからであろう。与ひょうはそれほどつうのことを愛しているのである。

千羽織も、元は与ひょうに求められて織ったのではない。つうの方から織って与ひょうに贈ったのである(民話「鶴の恩返し」とは違い、恩返しのために織った訳ではない)。つうは与ひょうに喜んで貰って嬉しい。ただ、ここはちょっと引っ掛かる。つうの正体は鶴である。「正体がばれたら捨てられる」。つうは当然ながらそう思っただろう。正体が露見する危険を冒しながら、それでも敢えて自分の身を傷つけて千羽織を作るのであるが、そうでもしない限り与ひょうに捨てられるという恐怖を抱き続けていたのではないだろうか。子供達と「かごめかごめ」の遊びをした時の必要以上の動揺を始めとして、常に別れにおびえているような印象を受ける。そうであるが故に、与ひょうのちょっとした変化に敏感になりすぎてしまったのではないか。客観的に見ると与ひょうは終始一貫しておおらかな性格であり(惣どと運ずに、「千羽織をもっと織らせるように」と言われたときも、「(出来の良い)千羽織はつうが作った」とのろけており、金銭欲はほとんど感じられない)、全てはつうの勘違いであった可能性が高い。そのままでいようと思えばいられたかも知れないのだが、怖れが逆に別れへの道を開いてしまった。

与ひょうはつうに千羽織を作るよう頼むが、それはつうと一緒に都に出掛けるためである(「つうも都に行きたいと思っているはず」だと勝手に思い込んでもいるのだが)。だが、つうはそれ以前の与ひょうの「金がいる」という内容の言葉の数々に耳をふさいでしまったため、肝心の「つうと都に行く」ためという、理由となる言葉を聞き逃してしまうという演出を岩田は施す。
ラストで同じ内容の言葉が出て、つうは与ひょうの本心を初めて知るのだが、時すでに遅しである。更には、つうの正体が鶴であったと分かっても与ひょうはそれを受け容れる気でいた。そんな男は他にはいないだろう。だがつうの体はもうボロボロ、そして当時の通念からすれば、恥を掻かされた以上は、死ぬか別れるか、あるいはその両方かしか残されていない。つうは千羽織を二反作った(岩田の解釈では千羽織は二人の「子供」であるが、見る側はそれに従っても従わなくても良いように思う)。一つは売って金にするために、もう一つは自分の形見として。二反織ったためにつうは精も根も尽き果ててしまったのだが、与ひょうはつうと別れる気はさらさらなく、形見として一反余計に織る必要は全くなかったのである。最愛のパートナーとして末永く暮らせる可能性がありながら、分かり合えなかったという悲劇が浮かび上がる。誰もが一度は経験する最愛の人から理解されないという孤独。
単なるストーリーで出来ている訳ではない戯曲とそれを説明するだけでない音楽。木下順二も團伊玖磨もやはり偉大な芸術家である。

粟辻聡の指揮に本格的に接するのは初めてであるが、ドラマティックなうねりと雄大なフォルムを築くことに長けた指揮者である。オペラにはかなり向いていそうだ。

つう役の老田裕子のハリのある声と体全体を使った巧みな心理描写、穏やかな佇まいと柔らかな声を持つ与ひょう役の中川正崇も実に良い。役にはまっている。晴雅彦と松森治の安定感も良かった。

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