観劇感想精選(486) パルテノン多摩共同事業体企画 三浦涼介&大空ゆうひ&岡本圭人「オイディプス王」2025@SkyシアターMBS
2025年3月1日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇
午後5時から、JR大阪駅西口にあるJPタワー大阪の6階、SkyシアターMBSで、「オイディプス王」を観る。これもSkyシアターMBSオープニングシリーズに含まれる公演である。「オイディプス王」は、ギリシャ悲劇の中で最も有名な作品であるが、劇場で観るのは初めてである。男児が母親を独占しようとして、その障害となる父親を嫌悪するジークムント・フロイト定義の「エディプス・コンプレックス」の由来となったオイディプス王(女児が父親を独占しようとして、その障害となる母親を嫌悪する真逆の現象は、やはりギリシャ悲劇由来の「エレクトラ・コンプレックス」と呼ばれる。「エレクトラ」は高畑充希のタイトルロールで、ラストに別作品を加えたり少しアレンジしたバージョンを観たことがある)。ソポクレスのテキストを河合祥一郎が日本語訳したテキストを使用。演出は蜷川幸雄の弟子である石丸さち子。出演は、三浦涼介、大空ゆうひ、岡本圭人、浅野雅博、外山誠二、大石継太、今井朋彦ほか。パルテノン多摩共同事業体の企画・製作。大阪公演の主催はMBSである。MBS(毎日放送)は大阪城のそばの京橋にMBS劇場、後のシアターBRAVA!を持っていたのだが、土地の所有者と金銭面で意見が合わなくなり撤退。昨年春にSkyシアターMBSをオープンさせている。
文学座や演劇集団円など、新劇系の所属者や出身者が目立つが、様々な背景を持つ俳優が集められている。2023年のプロジェクトの再演。
「オイディプス王」の映像は、野村萬斎がタイトルロールを演じた蜷川幸雄演出のものを観たことがある。ギリシャでの上演で、オイディプス王はラストで自らピンで目を刺して失明するのだが(ギリシャ悲劇の約束事として、悲惨な場面は舞台裏の観客からは見えないところで行われることになっている)、野村萬斎は手に血糊をたっぷり付けて、白い壁に塗りたくるということをやっていた。今回演出の石丸さち子は、蜷川の弟子だが、そこまで外連味のある演出は行っていない。
「オイディプス王」のテクストであるが、ギリシャ悲劇は現代まで通じる演劇の大元となってはいるのだが、上演様式が異なるため、文庫などで購入出来るテキストをそのまま上演することは余りない(そもそもセットがない時代なので、最初は何があるかの描写や説明が延々と続いたりする。今回はセットはあるのでそうしたものは全部カットである)。今回もアレンジを施しての上演である。ギリシャ悲劇では、オーケストラの語源となったオルケストラという場所にコロスと呼ばれる合唱や朗唱を受け持つ人達がいて、解説なども行っていたのだが、今回はコロスは全員舞台上に上がり、合唱の代わりにダンスを行う。台詞も勿論ある。
セットは比較的シンプルで、階段の上に宮殿への入り口があるだけのものだが、入り口の上にも細長いセットが伸びている。まるでオイディプス(膨れた足という意味)の傷を負った脚のようだが、そういう意図があるのかどうかは不明である。
朗唱も多いのだが、SkyシアターMBSはミュージカル対応の劇場だけに少し残響があり、発音がはっきりと聞こえない場面もあった。
神託や予言が重要な役割を持つ作品で、テーバイの王、ライオスは、「生まれた子は父親を殺し、母親を犯すだろう」という神託を受けて、妻のイオカステに命じて、生まれた子のくるぶしをピンで突き刺し、キタイロンの山に捨てさせた。しかしその子は拾われ、オイディプスと名付けられて、子がなかったコリントスの王と王妃に育てられることになった。だが、成長したオイディプス(三浦涼介)はやはり「父親を殺し、母親を犯す」との神託を受けて、それから逃れるためにコリントスを去る。そして「三つの道が交わるところ」で、進路を妨害してきた老人達に激怒。殺害してしまう。テーバイに入ったオイディプスはスフィンクスの謎を解く(「朝は四本足、昼は二本足、夕方には三本足となるものは何か?」。この場面は、劇中には出てこない)。こうして英雄となったオイディプスはテーバイの王となり、先王の王妃であったイオカステ(大空ゆうひ)を妻に迎え、3人の子をもうける。余りにも有名なので記すが、オイディプスが殺害したのは実父でテーバイの先王であるライオスであり、妻にしたイオカステはオイディプスの実母である。神託を避けたつもりが逆に当たるという結果になってしまったのだ。
オイディプスが王になってから、疫病などが流行るようになった。そこでオイディプスは摂政のクレオン(岡本圭人)を使者としてデルポイに送り、神託を行わせる。神託の結果は、「ライオス殺害の穢れが原因であり、下手人を捕まえて追放せよ」というものだった。まずここでオイディプスが気付きそうなものだが気付かず進む。
ミステリーの要素が強いのがこの戯曲の特徴で、ギリシャ悲劇の中でも人気の作品となっている理由が分かる。途中でネタバレしそうになるのだが、バレずに続くという場面があるが、そこはお約束である。
三浦涼介は、三浦浩一と純アリスの息子。岡本圭人は岡本健一の息子で、二世俳優が劇の両腕ともいえるポジションを受け持っているのが特徴である。二世俳優は批判も受けがちだが、子どもの頃から芸能に接していることも多いため、芸の習得が早いなど、プラスに働くことも多い。今日の二人も若さを生かしたダイナミックでエネルギッシュな演技を行っており、なかなか魅力的である。ああいったギラギラした感じは二世だから出しやすいとも思える。叩き上げの人がやるとまた違った感じになるだろう。
大空ゆうひは、宝塚歌劇団宙組元トップスターだが、今日は「いかにも元宝塚」な演技は行っていなかった。ただ立ち姿が美しいのが宝塚的であったりもする。
波の音が比較的多く使われているのだが、これはラスト付近のコロスの台詞、「悲劇の海」に掛けられたものだと思われる。
コロスなので、朗唱もあるのだが、複数の人が一言一句同じ台詞を言うというのは、リアリズムという点で言うとやはり不自然である。台詞に厚みが出るというプラスの面もあるが、二人程度による朗唱に留めると「約束事」として受け取りやすくなるように思う。
今回のラストは、オイディプス王の退場ではなく、オイディプス王が舞台の前方に出てきて手を大きく広げ、その後に暗転があってコロスによるダンスで終わる。
オイディプス王の手に動きは何かを引き裂くようでもあるが、正確には何を表したかったのかは上手く伝わってこなかった。ただ、常に神託に頼る展開であり、自ら「追放してほしい」と願うオイディプスをクレオンが「神託を聞いてから」と止めているため、それに背いて道を切り開く、と見えないこともない。「オイディプス王」の一側面として、神託に背こうとして逃れられないという展開が続くという場面が多いことが挙げられる。神の前で人は無力。神が力を失った現代(特に日本人は無神論者が多数派)においても、例えば「運命」などという言葉は生きており、そこから逃れる、もしくは打ち勝つ(難しいが)というメッセージが込めやすい作品であるとも感じる。
コロスのダンスに関しては、プロのダンサーが揃っている訳ではないので、格別上手いということはなく、本当に踊る必要があるのかどうかも疑問だが、本筋とは関係のない部分であり、一つの実験として見るなら意味はあったように思う。結論としてはダンスは合わないとは思うが。
役者が客席から舞台に上げる場面が何度かあるが、視覚的効果と「遠くから来た印象を与える」以外の意味はないように感じた(客席から舞台に上げることに意味がある芝居も勿論存在する)。
神が絶対的な権威を持ち、神託からは逃れられない時代の物語である。人間は何をしても神には勝てない。だからこその悲劇なのであるが、それを破る展開も今ではありのような気がする。ただその場合はソフォクレスの「オイディプス王」としてはやらない方がいいようにも思う。
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