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2024年11月 3日 (日)

コンサートの記(868) 堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」

2024年9月29日 堺東のフェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、堺東のフェニーチェ堺大ホールで、堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つで、オペラ作品の代名詞的作品の一つである。ボーマルシェの原作戯曲をダ・ポンテがオペラ台本化。その際、タイトルを変更している。原作のタイトルは、「ラ・フォル・ジュルネ(狂乱の日)またはフィガロの結婚」で、有名な音楽祭の元ネタとなっている。
指揮はデリック・イノウエ、演奏は堺市を本拠地とする大阪交響楽団。演出は堺シティオペラの常連である岩田達宗(たつじ)。チェンバロ独奏は碇理早(いかり・りさ)。合唱は堺シティオペラ記念合唱団。

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午後1時30分頃から、演出家の岩田達宗によるプレトークがある。なお、プレトーク、休憩時間、カーテンコールは写真撮影可となっているのだが、岩田さんは「私なんか撮ってもどうしようもないんで、終わってから沢山撮ってください」と仰っていた。

岩田さんは、字幕を使いながら解説。「オペラなんて西洋のものじゃないの? なんで日本人がやるのと思われるかも知れませんが」「舞台はスペイン。登場するのは全員スペイン人です」「原作はフランス。フランス人がスペインを舞台に書いています」「台本はイタリア語。イタリア人がフランスの作品をイタリア語のオペラ台本にしています」「作曲はオーストリア人」と一口に西洋と言っても様々な国や文化が融合して出来たのがオペラだと語る。ボーマルシェの原作、「フィガロの結婚 Le Mariage de Figaro」が書かれたのは、1784年。直後の1789年に起こるフランス革命に思想的な影響を与えた。一方、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚 La nozze di Figaro」の初演は1786年。やはりフランス革命の前であるが、内容はボーマルシェの原作とは大きく異なり、貴族階級への風刺はありながら、戦争の否定も同時に行っている。ただ、この内容は実は伝わりにくかった。重要なアリアをカットしての上演が常態化しているからである。そのアリアは第4幕第4景でマルチェッリーナが歌うアリア「牡の山羊と雌の山羊は」である。このアリアは女性差別を批判的に歌ったものであり、今回は「争う」の部分が戦争にまで敷衍されている。
岩田さんは若い頃に様々なヨーロッパの歌劇場を回って修行していたのだが、この「牡の山羊と雌の山羊は」はどこに行ってもカットされていたそうで、理由を聞くと決まって「面白くないから」と返ってくるそうだが、女性差別を批判する内容が今でも上演に相応しくないと考えられているようである。ヨーロッパは日本に比べて女性差別は少ないとされているが、こうした細かいところで続いているようである。私が観た複数の欧米の歌劇場での上演映像やヨーロッパの歌劇場の来日引っ越し公演でも全て「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされており、日本での上演も欧米の習慣が反映されていて、「牡の山羊と雌の山羊は」は歌われていない。コロナ禍の時に、岩田さんがZoomを使って行った岩田達宗道場を私は聴講しており、このことを知ったのである。

「フィガロの結婚」の上演台本の日本語対訳付きのものは持っているので(正確に言うと、持っていたのだが、掃除をした際にどこかに行ってしまったので、先日、丸善京都店で買い直した)、休憩時間に岩田さんに、「牡の山羊と雌の山羊は」の部分を示して、「ここはカットされていますかね?」と伺ったのだが、「今日はどこもカットしていません」と即答だった。ということで、「牡の山羊と雌の山羊は」のアリアに初めて接することになった。
岩田さんによると、今回は衣装も見所だそうで、戦後すぐに作られた岸井デザイン工房のものが用いられているのだが、今はこれだけ豪華な衣装を作ることは難しいそうである。
岩田さんには終演後にも挨拶した。

出演は、奥村哲(おくむら・さとる。アルマヴィーヴァ伯爵)、坂口裕子(さかぐち・ゆうこ。アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、西村圭市(フィガロ)、浅田眞理子(スザンナ)、山本千尋(ケルビーノ)、並河寿美(なみかわ・ひさみ。マルチェッリーナ)、片桐直樹(ドン・バルトロ)、中島康博(ドン・バジリオ)、難波孝(ドン・クルツィオ)、藤村江李奈(バルバリーナ)、楠木稔(アントニオ)、中野綾(村の女性Ⅰ)、梁亜星(りょう・あせい・村の女性Ⅱ)。


ドアを一切使わない演出である。


指揮者のデリック・イノウエは、カナダ出身の日系指揮者。これまで京都市交響楽団の定期演奏会や、ロームシアター京都メインホールで行われた小澤征爾音楽塾 ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」などで実演に接している。
序曲では、音が弱すぎるように感じたのだが、こちらの耳が慣れたのか、次第に気にならなくなる。ピリオドはたまに入れているのかも知れないが、基本的には流麗さを優先させた演奏で、意識的に当時の演奏様式を取り入れているということはなさそうである。デリック・イノウエの指揮姿も見える席だったのだが、振りも大きめで躍動感溢れるものであった。

幕が上がっても板付きの人はおらず、フィガロとスザンナが下手袖から登場する。
フィガロが部屋の寸法を測る最初のシーンは有名だが、実は何を使って測っているのかは書かれていないため分からない。今回は脱いだ靴を使って測っていた。スザンナの使う鏡は今回は手鏡である。

スザンナとバルバリーナは、これまで見てきた演出よりもキャピキャピしたキャラクターとなっており、現代人に近い感覚で、そのことも新鮮である。
背後に巨大な椅子のようなものがあり、これが色々なものに見立てられる。
かなり早い段階で、ドン・バジリオが舞台に登場してウロウロしており、偵察を続けているのが分かる。セットには壁もないが、一応、床の灰色のリノリウムの部分が室内、それ以外の黒い部分が廊下という設定となっており、黒い部分を歩いている人は、灰色の部分にいる人からは見えない、逆もまた然りとなっている。

この時代、初夜権なるものが存在していた。領主は結婚した部下の妻と初夜を共に出来るという権限で、今から考えると余りに酷い気がするが、存在していたのは確かである。アルマヴィーヴァ伯爵は、これを廃止したのだが、スザンナを気に入ったため、復活させようとしている。それを阻止するための心理面も含めた攻防戦が展開される。
フィガロとスザンナには伯爵の部屋に近い使用人部屋が与えられたのだが、これは伯爵がすぐにスザンナを襲うことが出来るようにとの計略から練られたものだった。スザンナは気づいていたが、フィガロは、「親友になったから近い部屋をくれたんだ」と単純に考えており、落胆する。

舞台がスペインということで、フィガロのアリアの歌詞に出てきたり、伴奏に使う楽器はギターである。有名な、ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」もスザンナのギター伴奏で歌われるという設定である(実際にギターが弾かれることはない)。ちなみに「恋とはどんなものかしら」はカラオケに入っていて、歌うことが出来る。というよりも歌ったことがある。昔話をすると、「笑っていいとも」の初期の頃、1980年代には、テレフォンショッキングでゲストが次のゲストを紹介するときに、「友達の友達はみんな友達だ。世界に拡げよう友達の輪」という歌詞を自由なメロディーで歌うという謎の趣旨があり、女優の紺野美沙子さんが、曲の説明をしてから、「恋とはどんなものかしら」の冒頭のメロディーに乗せて歌うというシーンが見られた。

ケルビーノが伯爵夫人に抱く気持ちは熱烈であり、意味が分かるとかなり生々しい表現が出てくる。リボンやボンネットなどはかなりセクシャルな意味があり、自分で自分の腕を傷つけるのは当時では性的な行為である。

第1幕と第2幕は続けて上演され、第2幕冒頭の名アリア「お授けください、愛を」の前に伯爵夫人とスザンナによる軽いやり取りがある。ちなみに「amor」は「愛の神様」と訳されることが多いが、実際は「愛」そのものに意味が近いようだ。
第3幕と第4幕の間にも、歌舞伎のだんまりのような部分があり、連続して上演される。

伯爵夫人の部屋は、舞台前方の中央部に入り口があるという設定であるが、ドアがないので、そこからしか出入りしないことと、鍵の音などで見えないドアがあることを表現している。

フィガロの代表的なアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」(やはりカラオケで歌ったことがある)は、戦地に送られることになったケルビーノに向けて歌われるもので、蝶々とは伊達男の意味である。ここにまず戦争の悲惨さが歌われている。この時代、日本は徳川の治世の下、太平の世が続いていたが、ヨーロッパは戦争や内乱続きである。
映画「アマデウス」には、サリエリが作曲した行進曲をモーツァルトが勝手に改作して「もう飛ぶまいぞこの蝶々」にするというシーンがあるが、これは完全なフィクションで、「もう飛ぶまいぞこの蝶々」は100%モーツァルトのオリジナル曲である。ただ、このシーンで、モーツァルトが「音が飛ぶ作曲家」であることが示されており、常識を軽く飛び越える天才であることも暗示されていて、その意味では重要であるともいえる。

続いて表現されるのは、伯爵の孤独。伯爵には家族は妻のロジーナしかいない。フィガロは天涯孤独の身であったが、実はマルチェッリーナとドン・バルトロが両親だったことが判明し(フィガロの元の名はラファエロである)、スザンナとも結婚が許されることになったので、一気に家族が出来る。伯爵は地位も身分も金もあるが、結局孤独なままである。

なお、ケルビーノは、結局、戦地に赴かず、伯爵の屋敷内をウロウロしているのだが、庭の場面では、「愛の讃歌」を「あなたの燃える手で」と日本語で歌いながら登場するという設定がなされていた。クルツィオも登場時は日本語で語りかける。

「牡の山羊と雌の山羊は」を入れることで、その後の曲の印象も異なってくる。慈母のような愛に満ちた「牡の山羊と雌の山羊は」の後では、それに続く女性蔑視の主張が幼く見えるのである。おそらくダ・ポンテとモーツァルトはそうした効果も狙っていたのだと思われるのだが、それが故に後世の演出家達は危険性を感じ、「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされるのが慣習になったのかも知れない。

最後の場では、伯爵が武力に訴えようとし、それをフィガロとスザンナのコンビが機転で交わす。武力より知恵である。

伯爵の改心の場面では笑いを取りに来る演出も多いのだが、今回は伯爵は比較的冷静であり、誠実さをより伝える演出となっていて、ラストの「コリアントゥッティ(一緒に行こう)」との対比に繋げているように思われた。

岩田さんは、「No」と「Si」の対比についてよく語っておられたのだが、「Si」には全てを受け入れる度量があるように思われる。
井上ひさしが「紙屋町さくらホテル」において、世界のあらゆる言語のノーは、「N」つまり唇を閉じた拒絶で始まるという見方を示したことがある。「ノー」「ノン」「ナイン」「ニエート」などであるが、「日本語は『いいえ』だと反論される」。だが、拒絶説を示した井川比佐志演じる明治大学の教授は、「標準語は人工言語」として、方言を言って貰う。「んだ」「なんな」などやはり「N」の音で始まっている。なかなか面白い説である。

武力や暴力は、才知と愛情にくるまれて力を失う。特に愛は強調されている。

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2024年10月22日 (火)

観劇感想精選(472) シス・カンパニー公演 日本文学シアター Vol.7 [織田作之助] 「夫婦パラダイス~街の灯はそこに~」

2024年9月26日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後2時から、大阪の森ノ宮ピロティホールで、シス・カンパニー公演 日本文学シアターVol.7[織田作之助] 「夫婦(めおと)パラダイス ~街の灯はそこに~」を観る。作:北村想、演出:寺十吾(じつなし・さとる)。出演:尾上松也、瀧内公美、高田聖子(たかだ・しょうこ)、福地桃子、鈴木浩介、段田安則。なかなか魅力的な俳優が揃っているのだが、大阪公演は平日のマチネーのみでもったいない。ちなみにナレーターは劇中では明かされなかったが、上演終了後に「高橋克実でした」と正体が明かされた。

一応、織田作之助の『夫婦善哉』を題材にしているのだが、内容は全くといっていいほど重なっていない。有名な折檻のシーンなどもない。川島雄三の映画「洲崎パラダイス 赤信号」の要素も入れているようである。

名古屋を代表する演劇人である北村想。滋賀県大津市の出身であるが、滋賀県立石山高校卒業後は進学しなかったものの、友人がいた名古屋の中京大学の演劇サークルなどに加わり、演劇活動を始めている。鬱病持ちであるため、活動に波のある人でもある。

名古屋の演劇界は、北村想と天野天街が二枚看板だったのだが、天野天街は今年死去。名古屋の大物演劇人は北村想だけとなった。
そんな北村さんであるが、ホワイエにいて、自身の戯曲を買ってくれた人にその場でサインを入れている。戯曲は他の場所で買うよりも安めの価格設定だったので、私も買って北村さんにサインして貰った。買うと同時にサインしてくれるシステムである。呼び込みのおじさんは、「1500円で戯曲を買うと北村先生のサインが貰えます」と呼びかけていたのだが、何度も同じ言葉を繰り返していたためか、途中、「1500円でサインが貰えます」と間違えて言ってしまい、自身でも周囲の人々も笑っていた。


実のところ、天野天街の演劇は触れる機会が比較的多かったが、北村想の演劇は思ったよりも接していない。「寿歌(ほぎうた)」、「十一人の少年」などいくつかに限られ、いずれも北村さん本人は関与していない上演である。北村さんの本は読んでいるし、私は参加はしなかったが、北村さんは伊丹AIホールで、「想流私塾」という戯曲講座を行っており、また出身が滋賀県ということで関西にゆかりのある人だけに自分でも意外である。北村想が原作を手掛けた映画「K-20 怪人二十面相・伝」(出演:金城武、松たか子ほか)などは観ている。

時代物であるが、現代が鏡に映った像のように反映され、鋭い指摘がなされている。


今回の舞台は大阪の東部にある河内地方である。大阪市は北摂地方に当たるため、直接的な舞台ではないが、同じ大阪府内ということでご当地ものと言って良いだろう(大阪市の人は言葉の荒い河内の人と一緒にされるのを嫌がるようだが)。

お蝶(蝶子。瀧内公美)が、欄干にもたれて、鞄の中から色々と取りだしている場面で芝居は始まる。滋賀県野洲(やす)市の出身である是野洲柳吉(これやす・りゅうきち。尾上松也)が下手の客席入り口から登場。客席通路を通って舞台に上がる。
お蝶は元コンパニオンガール。年を取ったので、今はその仕事は出来ない。一時期は三味線芸者をしていたこともある。柳吉は商人の息子であるが放蕩が過ぎたため勘当され、今では浄瑠璃パンク・ロックという特殊なジャンルの芸人をしているが、ほとんど相手にされていない。
金がなくなった二人は、蝶子の腹違いの姉である信子(高田聖子)が営む居酒屋「河童」に転がり込んだ。川を挟んで向かいには公営カジノ「パラダイス」の看板が浮かんでいる。
「河童」のなじみ客に馬淵牛太郎(段田安則)という社長がいる。牛太郎は「パラダイス」でも遊んでいるようだ。
信子には藤吉(鈴木浩介)という亭主がいたのだが、藤吉はある日、「煙草を買いに行ってくる」と言ったきり帰ってこなかった。

なお、福地桃子演じる静子は、出前持ちの女性として登場する。彼女は夢と現実の間で翻弄されることになる。

信子は神棚に胡瓜を供えていた。やがて、居酒屋「河童」に河童が訪れる。藤吉だった。
藤吉は、エクセルが出来るのを見込まれて経理の仕事を始めていたのだった。

江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」、田端義夫の「十九の春」(尾上松也が客席に、「田端義夫を知ってます? 知っている人は結構なお年の人」と振っていた)など、文学や音楽の要素がちりばめられており、照明の転換の仕方などは天野天街の作品に似ていて、名古屋のローカル色が感じられる。歌舞伎の影響を受けて、だんまりの場面があるなど、多ジャンルを横断する形で描かれているのも特徴。フィクションや物語の力も肯定されている。

物質の瞬間移動も用いられている。役者が手にしたものをすっと引っ込めると同時に、別の役者が、同じ種類のものを袖などから引き出して、物体が瞬間移動したように見える技である。これは実は私もやったことがある。私の役目は投げられた振りをした鼓を、投げた俳優の背後で受け取り、体の影に隠すというもので、その間に、向こう側では隠し持っていた鼓を出して、あたかも受け取ったかのように見せかけていた。

また、アドリブが多く、特に尾上松也は段田安則によく突っ込んでいた。

「リバーシブルオーケストラ」、「Amazon」のCM、NHK大河ドラマ「光る君へ」の源明子役で注目を集めている瀧内公美。独特の色気のある女優さんだが、今日はそのスタイルの良さが特に目立っていた。

ベテランの段田安則、実力派の鈴木浩介、関西出身レジェンドの高田聖子らが、楽しみながらの演技を披露し、東京や大阪のそれとは異なる独自のエンターテインメントとして上質の仕上がりとなっていた。

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2024年10月12日 (土)

コンサートの記(860) 2024年度全国共同制作オペラ プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」京都公演 井上道義ラストオペラ

2024年10月6日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、2024年度全国共同制作オペラ、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。井上道義が指揮する最後のオペラとなる。
演奏は、京都市交響楽団。コンサートマスターは特別名誉友情コンサートマスターの豊島泰嗣。ダンサーを使った演出で、演出・振付・美術・衣装を担当するのは森山開次。日本語字幕は井上道義が手掛けている(舞台上方に字幕が表示される。左側が日本語訳、右側が英語訳である)。
出演は、ルザン・マンタシャン(ミミ)、工藤和真(ロドルフォ)、イローナ・レヴォルスカヤ(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、スタニスラフ・ヴォロビョフ(コッリーネ)、高橋洋介(ショナール)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ベノア)、仲田尋一(なかた・ひろひと。アルチンドロ)、谷口耕平(パルピニョール)、鹿野浩史(物売り)。合唱は、ザ・オペラ・クワイア、きょうと+ひょうごプロデュースオペラ合唱団、京都市少年合唱団の3団体。軍楽隊はバンダ・ペル・ラ・ボエーム。

オーケストラピットは、広く浅めに設けられている。指揮者の井上道義は、下手のステージへと繋がる通路(客席からは見えない)に設けられたドアから登場する。

ダンサーが4人(梶田留以、水島晃太郎、南帆乃佳、小川莉伯)登場して様々なことを行うが、それほど出しゃばらず、オペラの本筋を邪魔しないよう工夫されていた。ちなみにミミの蝋燭の火を吹き消すのは実はロドルフォという演出が行われる場合もあるのだが、今回はダンサーが吹き消していた。運命の担い手でもあるようだ。

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オペラとポピュラー音楽向きに音響設計されているロームシアター京都メインホール。今日もかなり良い音がする。声が通りやすく、ビリつかない。オペラ劇場で聴くオーケストラは、表面的でサラッとした音になりやすいが、ロームシアター京都メインホールで聴くオーケストラは輪郭がキリッとしており、密度の感じられる音がする。京響の好演もあると思われるが、ロームシアター京都メインホールの音響はオペラ劇場としては日本最高峰と言っても良いと思われる。勿論、日本の全てのオペラ劇場に行った訳ではないが、東京文化会館、新国立劇場オペラパレス、神奈川県民ホール、びわ湖ホール大ホール、フェスティバルホール、ザ・カレッジ・オペラハウス、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール、フェニーチェ堺大ホールなど、日本屈指と言われるオペラ向けの名ホールでオペラを鑑賞した上での印象なので、おそらく間違いないだろう。

 

今回の演出は、パリで活躍した画家ということで、マルチェッロ役を演じている池内響に藤田嗣治(ふじた・つぐはる。レオナール・フジタ)の格好をさせているのが特徴である。

 

井上道義は、今年の12月30日付で指揮者を引退することが決まっているが、引退間際の指揮者とは思えないほど勢いと活気に溢れた音楽を京響から引き出す。余力を残しての引退なので、音楽が生き生きしているのは当然ともいえるが、やはりこうした指揮者が引退してしまうのは惜しいように感じられる。

 

歌唱も充実。ミミ役のルザン・マンタシャンはアルメニア、ムゼッタ役のイローナ・レヴォルスカヤとスタニスラフ・ヴォロビョフはロシアと、いずれも旧ソビエト圏の出身だが、この地域の芸術レベルの高さが窺える。ロシアは戦争中であるが、芸術大国であることには間違いがないようだ。

 

ドアなどは使わない演出で、人海戦術なども繰り出して、舞台上はかなり華やかになる。

 

 

パリが舞台であるが、19世紀前半のパリは平民階級の女性が暮らすには地獄のような街であった。就ける職業は服飾関係(グレーの服を着ていたので、グリゼットと呼ばれた)のみ。ミミもお針子である。ただ、売春をしている。当時のグリゼットの稼ぎではパリで一人暮らしをするのは難しく、売春をするなど男に頼らなければならなかった。もう一人の女性であるムゼッタは金持ちに囲われている。

 

この時代、平民階級が台頭し、貴族の独占物であった文化方面を志す若者が増えた。この「ラ・ボエーム」は、芸術を志す貧乏な若者達(ラ・ボエーム=ボヘミアン)と若い女性の物語である。男達は貧しいながらもワイワイやっていてコミカルな場面も多いが、女性二人は共に孤独な印象で、その対比も鮮やかである。彼らは、大学などが集中するカルチェラタンと呼ばれる場所に住んでいる。学生達がラテン語を話したことからこの名がある。ちなみに神田神保町の古書店街を控えた明治大学の周辺は「日本のカルチェラタン」と呼ばれており(中央大学が去り、文化学院がなくなったが、専修大学は法学部などを4年間神田で学べるようにしたほか、日本大学も明治大学の向かいに進出している。有名語学学校のアテネ・フランセもある)、京都も河原町通広小路はかつて「京都のカルチェラタン」と呼ばれていた。京都府立医科大学と立命館大学があったためだが、立命館大学は1980年代に広小路を去り、そうした呼び名も死語となった。立命館大学広小路キャンパスの跡地は京都府立医科大学の図書館になっているが、立命館大学広小路キャンパスがかなり手狭であったことが分かる。

 

ヒロインのミミであるが、「私の名前はミミ」というアリアで、「名前はミミだが、本名はルチア(「光」という意味)。ミミという呼び方は気に入っていない」と歌う。ミミやルルといった同じ音を繰り返す名前は、娼婦系の名前といわれており、気に入っていないのも当然である。だが、ロドルフォは、ミミのことを一度もルチアとは呼んであげないし、結婚も考えてくれない。結構、嫌な奴である。
ちなみにロドルフォには金持ちのおじさんがいるようなのだが、生活の頼りにはしていないようである。だが、ミミが肺結核を患っても病院にも連れて行かない。病院に行くお金がないからだろうが、おじさんに頼る気もないようだ。結局、自分第一で、本気でルチアのことを思っていないのではないかと思われる節もある。


「冷たい手を」、「私の名前はミミ」、「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)など名アリアを持ち、ライトモチーフを用いた作品だが、音楽は全般的に優れており、オペラ史上屈指の人気作であるのも頷ける。


なお、今回もカーテンコールは写真撮影OK。今後もこの習慣は広まっていきそうである。

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2024年9月29日 (日)

コンサートの記(857) 大友直人指揮 第13回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバル IN 京都コンサートホール

2024年9月15日 京都コンサートホールにて

午後3時から、京都コンサートホールで、第13回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバル IN 京都コンサートホールを聴く。

大阪音楽大学、大阪教育大学、大阪芸術大学、京都市立芸術大学、神戸女学院大学、相愛大学、同志社女子大学、武庫川女子大学の8つの音楽大学や音楽学部を持つ大学が合同で行う演奏会である。指揮は、大阪芸術大学教授、京都市立芸術大学客員教授でもある大友直人。大友は他に東邦音楽大学特任教授、洗足学園音楽大学客員教授も務めている。

大阪音楽大学は大阪府豊中市にある音楽学部のみの単科大学で、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスを持っていることから、声楽に特に強いが器楽も多くの奏者が輩出している。朝比奈隆がこの大学でドイツ語などの一般教養を教えており(大阪音楽大学には指揮科はない)、目に付いた優秀な演奏家を自身の手兵である大阪フィルハーモニー交響楽団にスカウトすることが度々であった。

大阪教育大学は、大阪府柏原(かしわら)市にあるのだが、大阪府の東端にある柏原市の中でも更に東端にあり、ほぼ奈良県との県境に位置している。教育大学なので音楽の先生になる課程もあるが、音楽を専門に学ぶコース(芸術表現専攻音楽表現コース)も存在する。このコースの校舎は奈良との県境が目の前のようだ。

大阪芸術大学は、大阪府南河内郡河南町にある総合芸術大学で、音楽よりも演劇、ミュージカル、文芸、映画などに強いが、音楽学科も教員に大友直人、川井郁子(ヴァイオリン)、小林沙羅(ソプラノ歌手)などを迎えており、充実している。

京都市立芸術大学は、音楽学部と美術学部からなる公立芸術大学で、西日本ナンバーワン芸術大学と見なされている。これまでは西京区の沓掛(くつかけ)という町外れにあったが、このたび、JR京都駅の東側にある崇仁地区に移転し、都会派の公立芸術大学に生まれ変わった。有名OBに佐渡裕がいるが、彼は指揮科ではなくフルート科の出身である。少数精鋭を旨としている。

神戸女学院大学は、神戸を名乗っているが、西宮市にメインキャンパスがあるミッションスクールである。以前は西日本ナンバーワン私立女子大学であった神戸女学院大学であるが、女子大不人気により、最近は定員割れするなど苦しい状況にある。音楽学部を持つ。キャンパスにはウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の建物(多くが重要文化財に指定)が並ぶ。

相愛大学は、浄土真宗本願寺派の大学で、人文学部と音楽学部と人間発達学部を持ち、キャンパスは大阪市の南港と、北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)に近い本町(ほんまち)の2カ所にある。

新島八重が創設したミッション系の同志社女子大学は、京都市上京区の今出川、同志社大学の東隣にもキャンパスがあるが、本部のある京都府京田辺市に設置された学芸学部に音楽学科を持つ。京田辺キャンパスのある場所は田舎である。京都市内で活躍する女性音楽家には、同女(どうじょ)こと、この大学の出身者が割と多い。

武庫川女子大学は、日本最大の女子大学であり、西宮市にメインキャンパスがある。総合大学であり、音楽学部を持つ。


曲目は、千住明のオペラ「万葉集~二上山挽歌編~」(大津皇子・大伯皇女レクイエム)より抜粋(オーケストラバージョン,2013。台本:黛まどか)とベルリオーズの幻想交響曲。


開演前にウェルカムコンサートがあり、ホワイエで、大阪教育大学の学生と、大阪芸術大学の学生が演奏を行う。

大阪教育大学は、全員が打楽器奏者で、木製のスツールにバチを当ててリズム音楽を奏でる。ジュリー・ダビラの「スツール・ビジョン」という曲である。リズミカルに躍動感を持って音を出す大阪教育大学の学生。互いのバチ同士を当てて音を出す場面もあり、仲の良さが伝わってくる。

大阪芸術大学は、レイモンド・プレムルの5つの楽章「ディヴェルティメント」よりを演奏。トランペットとトロンボーンが4、ホルンとチューバが1人ずつという編成。ちょっと音が大きめの気もするが、快活な演奏を聴かせてくれた。


千住明のオペラ「万葉集~二上山挽歌~」(大津皇子・大伯皇女レクイエム)より抜粋(オーケストラバージョン)。
千住明のオペラ「万葉集」は2009年に作曲され、2011年に改訂されて「明日香風編」と「二上山挽歌編」の二部構成になった。初演は東京文化会館小ホールで行われており、オペラではあるが、音楽劇、オラトリオ的な性質を持っており、「二上山挽歌編」は挽歌とあることからも分かる通り、レクイエム的性格が強い。

独唱者は、伊吹日向子(ソプラノ。京都市立大学大学院修士課程声楽専攻1回生)、吉岡七海(メゾソプラノ。大阪音楽大学大学院声楽研究室に在籍)、向井洋輔(テノール。京都市立芸術大学大学院修士課程2回生)、芳賀拓郎(大阪芸術大学大学院在学中)。
合唱は、各大学からの選抜。大阪音楽大学、大阪芸術大学、武庫川女子大学(当然ながら女声パートのみ)の学生が比較的多めであり、これらの大学は声楽が強いことが分かる。

この曲のコンサートミストレスは、原田凜奏(京都市立芸術大学)。メンバーは弦楽器は京都市立芸術大学在籍者が圧倒的に多く、管楽器や打楽器は各大学がばらけている。

大津皇子と草壁皇子による皇位継承問題を題材とした作品であり、讒言により失脚した大津皇子は自害して果て、亡骸は二上山に葬られた。姉である大伯皇女(大来皇女。おおくのひめみこ。日本初の伊勢斎宮)が弟を思って詠んだ「うつそみの人なる我や明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む」(現世の人である私は明日よりは二上山を弟と見なして生きていきます)がよく知られており、この作品でも歌われている。

大津皇子も草壁皇子も、天武天皇の子であるが、大津皇子と大伯皇女の母親は大田皇女の子、一方の草壁皇子の母親は神田うのの名前の由来として有名な(でもないか)鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ/ひめみこ)、後の持統天皇である。大田皇女は鸕野讃良皇女の姉であるが若くして亡くなっており、息子の後ろ盾にはなれなかった。そこで草壁皇子が立太子するが、草壁皇子は病弱であった上に、異母兄の大津皇子は文武両道の「人物」であり、鸕野讃良皇女は危機感を持ち、大津皇子に謀反の疑いを掛け、死へと追い込んだとされる。時に24歳。
しかし鸕野讃良皇女の願いも空しく、草壁皇子は即位することなく28歳の若さで病死。そこで鸕野讃良皇女は、草壁皇子の息子を次の天皇に就けることにするが、その軽皇子は8歳と幼かったため、繋ぎとして自らが女帝として即位。持統天皇が誕生する。軽皇子はその後、文武天皇として即位している。

今回の黛まどかの台本は、石川女郎(いらつめ)と大津皇子の問答歌、草壁皇子の歌で始まる。草壁皇子は石川女郎に恋心を寄せているのだが、石川女郎は大津皇子に惚れている。

その後、初代の伊勢斎宮に選ばれ、神宮に赴いた大伯皇女の下に、弟の大津皇子がやって来る。この頃はまだ皇室では近親婚もそれほどタブー視されておらず、大津と大伯の間には姉弟を超えた愛があることが仄めかされる。

飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)では、草壁皇子が「大津皇子が謀反を企てている」と母親に讒言(史実では讒言を行ったのは川島皇子であるとされる)。大津皇子に死を賜ることが決まる。大津皇子は死ぬ前に姉に一目会いたいと伊勢までやって来たのだった。当時、意味なく伊勢神宮に参拝するのは禁止されていたようで、これが大津が死を賜る直接の原因となったという説もある。
大和へと帰る大津皇子を大伯皇女がなすすべもなく見送り、和歌のみを詠んだ。
鸕野讃良皇女と息子の草壁皇子は、大津を排し、新たな国を作る決意をする。

フィナーレは、大伯皇女の「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む」の和歌に始まり、天武天皇(合唱のバスのメンバーの一人が歌う)、大伯皇女、持統天皇、草壁皇子、大津皇子、民の合唱が、大津皇子の御霊がシリウス(天狼)として青い炎を身に纏い、大和で輝き続けることを願う歌詞となって終わる。

大友直人は今日は全編ノンタクトで指揮。この曲は4拍子系が基本なので振りやすいはずである。
いかにもレクイエム的な清浄な響きが特徴であり、分かりやすくバランスの良い楽曲となっている。メロディーも覚えやすい。

独唱は学生で京都コンサートホールの音響に慣れてないということもあってか、声量が小さめで、発声ももっと明瞭なものを求めたくなるが、まだ大学院生なので多くを望むのは酷であろう。合唱もバラツキがあったが、臨時編成でもあり、これも許容範囲である。

大友は若い頃はしなやかな感性を生かした音楽作りをしていた。最近は押しの強い演奏が目立っていたが、パワーがそれほど望めない学生オーケストラということもあってか、歌心と造形美の両方を意識した音楽作りとなっていた。大友は声楽付きの作品には強いようである。
オーケストラは、弱音の美しさに限界があるが、なかなかの好演だったように思う。


後半、ベルリオーズの幻想交響曲。大友は譜面台を置かず、暗譜での指揮となる。
幻想交響曲のコンサートミストレスは、日下部心優(京都市立芸術大学)。
大友は比較的遅めのテンポで開始。じっくりと妖しい音を愛でていく。オーケストラも輝きと艶やかさがあり、臨時編成の団体としてはレベルが高めである。アンサンブルの精度も高く、金管や打楽器にも迫力がある。

第2楽章は、コルネット不採用。典雅なワルツが奏でられ、やがて哀しきとなり、最後は強引に盛り上げて切り上げる。ベルリオーズの意図通り。

第3楽章でのオーボエのバンダは、上手袖すぐの場所で吹かれるため音が大きい。寂寥感が自然に表出されている。

第4楽章「断頭台への行進」。大友さんなので狂気の表出まではいかないが、力強い金管と蠢くような弦楽のやり取りや対比が鮮やかである。

第5楽章「最初のワルプルギスの夜」も、弦楽のおどろおどろしさ、クラリネットなどが奏でる「恋人の主題」の不気味さなど、よく表れた演奏である。鐘は下手袖で叩かれた。明るめの音色である。大友のオケ捌きは万全であり、学生のみの演奏としては十分に納得のいく出来に達していた。

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2024年9月21日 (土)

観劇感想精選(469) 佐野史郎&山本恭司&小泉凡 「小泉八雲 朗読のしらべ 龍蛇伝説~水に誘われしものたち~」

2024年9月6日 大阪・谷町4丁目の山本能楽堂にて

午後6時から、谷町4丁目の山本能楽堂で、「小泉八雲 朗読のしらべ 龍蛇伝説~水に誘われしものたち~」を観る。小泉八雲が愛した松江出身の佐野史郎がライフワークとして続けている朗読公演。二夜連続で小泉八雲作品の公演に接することとなった。
原作:小泉八雲、監修・講演:小泉凡、脚本・朗読:佐野史郎、構成・音楽:山本恭司、翻訳:平井星一、池田雅之。

佐野史郎と山本恭司は松江南高校の同級生である。

今回の演目は、『知られぬ日本の面影』より「杵築」、『知られぬ日本の面影』より「美保の関」、『知られぬ日本の面影』より「日本海に沿って」河童の詫び証文、『天の川奇譚』より「鏡の乙女」、『霊の日本』より「振袖火事」、『怪談』より「おしどり」、『東の国から』より「夏の日の夢」


まず、小泉八雲の曾孫である小泉凡が登場。ちょっとした講演を行う。今年は小泉八雲の没後120年、そして代表作『怪談』出版120周年に当たるメモリアルイヤーだという。更に、来年のNHK連続テレビ小説が小泉八雲の妻である小泉節(小泉セツ、小泉節子)をモデルにした「ばけばけ」に決まり、会う人会う人みな一様に「おめでとうございます」と言ってくるという話をする。小泉節を主役級として描いた作品としては、八雲との夫婦生活を描いた「日本の面影」(1984年、NHK総合。原作・脚本:山田太一。小泉節を演じたのは檀ふみ。小泉八雲を「ウエストサイド物語」のジョージ・チャキリスが演じているという異色作である。私も子どもの頃に見てよく覚えている)以来となる。小泉凡が子どもの頃、家の奥に姿見があったそうだが、それが小泉節の遺品だったそうだ。鏡の右の部分が少し色あせたような感じだったので、「なんであそこだけあんなになってるの?」と聞くと、「おばあちゃん(小泉節)、いつもあそこに手ぬぐい掛けてたからよ」と母親が答えたそうである。ちなみに小泉凡が小学校に上がり、おもちゃのサッカーボールを買って貰って家の中で遊んでいたところ、その姿見に思い切りボールをぶつけてしまって、ひびが入り、その後はテープで留めてあるという。今回は井戸が鏡になるという話が出てくるのだが、ラフカディオ・ハーンが青年期を過ごしたアイルランドにも聖なる泉が沢山あり、そこに不思議な姿が映るという話が数多くあるそうだ。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、来日当初は、東京や横浜、特に外国人居留区のあった横浜に長く滞在していたのだが、鎌倉や江ノ島(よく勘違いされるが、江ノ島は鎌倉市ではなく藤沢市にある)に出掛け、水泳が得意なのでよく泳いでいたそうだが、江ノ島の龍の像や龍神伝説を知って感銘を受けているという。ということで、今回は龍蛇を題材にした作品でランナップの組むことになった。

ちなみに出雲地方にはウミヘビが打ち上がるそうで、出雲の西の方では出雲大社に、出雲の東の方では佐太(さだ)神社に打ち上がったウミヘビを龍神として毎年奉納していたのだが、地球温暖化の影響で、ここ10年ほどはウミヘビが打ち上げられることがなくなってしまったそうである。出雲の沖には寒流が流れ込んでおり、それに行方を遮られたウミヘビが浜に打ち上げられるのだが、寒流がなくなってしまったため、男鹿半島の方まで行かないとウミヘビが打ち上がる様子は見られなくなってしまったそうである。
なお、「ばけばけ」とは全く関係なしに、現在、小泉八雲記念館では、「小泉セツ―ラフカディオ・ハーンの妻として生きて」という企画展をやっていることが紹介される。


佐野史郎は羽織袴姿で登場。山本恭司はエレキギターの演奏の他、効果音も担当する。舞台正面から見て左手(下手)に佐野史郎が、右手(上手)に山本恭司が陣取る。

佐野史郎は声音や声量を使い分けての巧みな朗読を見せる。音楽好きということもあって音楽的な語り口を聞かせることもある。だが、技術面よりも八雲への愛に溢れていることが感じられるのが何よりも良い。


ラフカディオ・ハーンは、素戔嗚尊が詠んだ日本初の和歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」にちなんで八雲と名乗ったとされており、今回の佐野史郎が解説を担当した無料パンフレットにもそう書かれているが、日本ではハーンが、「ハウン」に聞こえ、「ハウンさん」と呼ばれたことから、「ハ=八、ウン=雲」にしたという説もある。

「杵築」は、八雲が出雲大社を参拝する時の記録で、宍道湖を船で渡っている時に見た、お隣、鳥取の大山の描写があるなど、旅情と詩情に溢れた文章である。

「美保の関」。美保関の神様は鶏を嫌うという。ついでに卵も嫌うという。ある日、船旅に出た一行は美保関で強風に遭う。誰か卵を持っていないかなどと言い合う人々。実は煙管に鶏の絵を入れた男がおり、それで美保関の神様が機嫌を損ねたのではないかという話になっている。この話には、大国主命の国譲りの神話が関与しているようである。美保関(美保神社)の神様はえびす様で事代主のこととされている。えびすは商売の神様としてお馴染みだが、実は蛭子(身体障害者)として流されており、祟り神でもある。
事代主自体は大国主の子とされ、鹿島神こと建御雷神に国譲りを迫られた大国主が事代主に聞くように言い、事代主が承諾したという展開になる。一方、弟神の建御方神は抵抗して建御雷神に敗れ、信州へと逃れ、諏訪大社に根付いている。建御雷神は藤原氏の氏神であるため、何らかの勢力争いが背景にあると思われる。
鶏というと、島根県の隣に鳥取県があるが、「鳥が騒がしい」と鳥取で乱が起こっているような描写が『古事記』に登場する。関係があるのかどうかは分からない。
大国主は、大神神社の大物主と同一視されることがあり、佐野史郎は、大神神社には卵が備えられることから、「大物主は蛇?」と記しているが、大物主が蛇なのは神話でも語られている。佐野は「卵は蛇の好物」としている。ということで、事代主は大国主=大物主とは逆の性質を持っていることが分かる。
鶏を嫌うことに関しては、折口信夫が面白い説を出しているが、鶏は朝を告げる鳥であり、太陽神である天照大神を最高神とする大和朝廷への反骨心があるのではないかと私は見ている。えびすが大和朝廷から捨てられた神であることもここに関係してくるのではないか。


日本各地にある河童の話。河童は馬を好むのだが、川に入った馬を掴んだところ、そのまま引きずり出され、人間達に捕らえられてしまう。そこで詫び状を書くという話である。
舞台は出雲の川津なのだが、小泉節は出雲弁がきつかったため、「かわづ」と発音できず、「かわぢ」と発音し、八雲は「河内」と聞き取り、そのまま記している。八雲は日本語はそれほど達者ではなかったため、節さんが頼りだったようだが、節さんが間違えるとそのまま間違えるということになっている。


『天の川奇譚』より「鏡の乙女」。京都が舞台である。ある日、男が井戸に飛び込んで死ぬという事件が起こる。
神官の松村が、京都にやってきて寺町に住み、老朽化した社殿復興の資金調達に奔走する。日照りがあり、京の水も涸れるのだが、松村の家の前の井戸だけは水が潤沢である。ある日、松村が井戸を覗くと、そこに絶世の美女が映っていた。余りに美しいので、松村は気を失い、危うく井戸に落ちるところであった。その美女がある日、松村の家を訪れる。美女は弥生という名の鏡の妖精で、毒蛇に捕らえられ、操られていたが、毒蛇は信州へと逃げた(つまり建御方神か?)という。井戸をさらうと鏡が見つかる。大分古びていたが、磨くと見事なものとなった。三月に作られたものであり、美女が弥生と名乗った意味も分かる。
弥生が再び現れる。百済からやってきた弥生は、藤原家の所有する鏡となったという。やはりここでも、藤原氏と建御方神の対立があるようだ。弥生の鏡は足利義政に献上され、義政は松村に金子を渡し、これで社殿の復興が叶うこととなった。


『霊の日本』より「振袖火事」。江戸時代初期、娘が町で色男を見かける。すぐに見失ってしまったが、色男の姿が脳裏に焼き付いた。色男の着物に似た色の振袖を着れば色男にまた会えるのではないかと考えた娘は、当時の流行りであった袖の長い青の振袖を作って貰い、それを常に着るようになる。だが、色男とは再会出来ない。娘は「南無妙法蓮華経」と唱え続ける。しかし恋の病のために次第に痩せ細り、ついには亡くなってしまう。振袖は娘の菩提寺に預けられたのだが、この寺の住職が高く売れると見込んで売りに出す。果たして、先の娘と同じ年頃の若い女性が振袖を結構な値段で買う。しかし、その女性もすぐにやつれて亡くなってしまう。振袖は寺に戻されるが、住職はまた売りに出す。また高値で売れ、買った若い女性がやつれて亡くなる、ということが繰り返される。流石に住職も、「この振袖には何かある」ということで、焼却処分しようとしたのだが、振袖は大いに燃え上がり、「南無妙法蓮華経」の七文字が火の玉となって江戸の町に飛び散る。延焼が延焼を生み、ついには江戸のほとんどが焼けてしまう。これが「振袖火事」こと明暦の大火である。火元となったのは、本郷の日蓮宗(法華宗)本妙寺であった。実は色男の正体は蛇であったという。

『怪談』より「おしどり」。陸奥国田村の郷、赤沼(現在の福島県郡山市に地名が残る)が舞台。村允(そんじょう)という鷹匠が狩りに出るが獲物を捕まえることが出来ない。ふと見ると、赤沼につがいのおしどりがいる。村允は空腹を満たすため、おしどりのオスを射る。メスの方は葦の中に逃げ去る。
その夜、村允の枕元に美しい女が現れる。女はおしどりのメスであることを明かし、なぜ罪もない夫を殺したのかと村允をなじる。そして赤沼に来いとの歌を詠む女。
翌朝、村允は赤沼に出向き、おしどりのメスを見つける。おしどりのメスは村允めがけて泳いできて、くちばしを自分に刺して自害して果てた。その後、村允は頭を丸めて僧侶となった。

『東の国から』より「夏の夜の夢」。浦島太郎の物語を翻案したものである。
大坂の住之江が舞台。漁師の倅である浦島太郎は、船で漁に出て釣り糸を垂らすが、かかったのは一匹の亀のみ。亀は千年万年生きるとされる縁起物である上に龍王の使い。殺す訳にはいかず、浦島太郎は亀を逃がす。すると水面を渡って美しい女がこちらに近づいてくる。女は龍王の娘であり、龍王の使いである亀を助けてくれたお礼に常夏の島にある父の宮殿、竜宮城へ共に行って、お望みならば花嫁となるので永遠に一緒に楽しく暮らそうと浦島太郎に言い、浦島太郎もそれに従った。二人で共に櫓を取り、竜宮城へと進む。
3年の楽しい月日が流れた。しかしある日、浦島太郎は、「両親の顔が見たいので戻りたい」と女に告げる。女は「もう会えなくなるから」と止めるが、浦島太郎は「顔を見て帰るだけだから」と聞かない。女は絹の紐で結んだ玉手箱を浦島太郎に渡し、「これが帰る助けになりましょうが、決して開けてはなりませぬ。どんなことがあっても!」と浦島太郎に念押しする。
浦島太郎は元いた浜に戻るが、全てが異なっている。老人に話を聞き、浦島太郎だと名乗ると老人は、「浦島太郎なら400年前に遭難したよ」と呆れる。古い墓を訪れた浦島太郎は、自分の墓を発見。一族の墓もそばにあった。落胆して帰路に就く浦島太郎。しかし、玉手箱を開ければ何かが変わるのではと思ってしまい……。

異国人の目が捉えた美しい日本が、日本語の名人にして小泉八雲の良き理解者である佐野史郎によって語られる。贅沢な夜となった。

なお、松江での公演が決定しており、『怪談』出版120年ということで、『怪談』からの話を多く取り上げ、いつもより上演時間も長く取った特別バージョンで行うという。興味深いが松江は遠い。

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2024年9月20日 (金)

観劇感想精選(468) イキウメ 「小泉八雲から聞いた話 奇ッ怪」

2024年9月5日 大阪・福島のABCホールにて観劇

午後7時から、大阪・福島のABCホールで、イキウメの公演「小泉八雲から聞いた話 奇ッ怪」を観る。原作:小泉八雲。脚本・演出:前川知大。出演:浜田信也(はまだ・しんや。小説家・黒澤)、安井順平(警察官・田神)、盛隆二(もり・りゅうじ。検視官・宮地)、松岡依都美(まつおか・いずみ。旅館の女将)、生越千晴(おごし・ちはる。仲居甲)、平井珠生(ひらい・たまお。仲居乙)、大窪人衛(おおくぼ・ひとえ。男性。仲居丙)、森下創(仲居丁)。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』で描かれた物語と、現代(かどうかは分からない。衣装は今より古めに見えるが、詳しくは不詳。「100年前、明治」というセリフがあるが、100年前の1924年は大正13年なので今より少し前の時代という設定なのかも知れない。ただ小泉八雲の時代に比べるとずっと現代寄りである)。役名は、現代の場面(ということにしておく)のもので、小泉八雲の小説の内容が演じられるシーンでは他の役割が与えられ、一人で何役もこなす。

舞台中央が一段低くなっており、砂か砂利のようなものが敷き詰められていて、中庭のようになっている。下手に祠、上手に紅梅の木。開演前、砂が舞台上方から細い滝のように流れ落ちている。舞台端に細い柱が数本。


京都・愛宕山(「京都の近くの愛宕の山」とあるが京都の近くの愛宕山は京都市の西にある愛宕山しかないので間違いないだろう)の近くの旅館が舞台。かつては寺院で、50年前に旅館に建て替えられたという。天然温泉の宿である。この宿に小説家の黒澤シロウが長逗留している。小説を書きながら周囲でフィールドワークを行っているため、つい根を張るようになってしまったらしい。この宿はGPSなどにもヒットしない隠れ宿である。
宿に男二人組が泊まりに来る。田神と宮地。実は二人とも警察関係者であることが後に分かる。

使用される小泉八雲のテキストは、「常識」、「破られた約束」、「茶碗の中」、「お貞の話」、「宿世の恋」(原作:「怪談牡丹灯籠」)の5作品。これが現代の状況に絡んでいく。

舞台進行順ではなく、人物を中心に紹介してみる。小説家の黒澤。雑誌に顔写真が載るくらいには売れている小説家のようである。美大出身で、美大時代にはシノブという彼女がいた。黒澤は当時から小説家志望だったが、余り文章は上手くなく、一方のシノブは子どもの頃から年齢に似合わぬ絵を描いていたが、それが予知夢を描いたものであることが判明する。来世の話になり、黒澤は、「シノブが生まれ変わったとしても自分だと分かるように小説家として有名にならないと」と意気込む。だが、その直後にシノブは自殺してしまう。シノブは自身の自殺も絵で予見していた。
生まれ変わったシノブに会いたいと願っていた黒澤。そして愛宕山の近くの宿で、シノブによく似た19歳の若い女性、コウノマイコ(河野舞子が表記らしいが、耳で聞いた音で書くことにする)と出会う。マイコが「思い出してくれてありがとう」と話したことから、黒澤はマイコがシノブの生まれ変わりだと確信するのだが、マイコもまた自殺してしまう。マイコの姉によると精神的に不安定だったようで、田神は「乖離性同一障害」だろうと推察する。

小泉八雲の怪談第1弾は、「常識」。白い像に乗った普賢菩薩の話。この宿が寺院だった頃、人気のある僧侶がいて賑わい、道場のようであったという。僧侶は夜ごと、白い像に乗った普賢菩薩が門から入ってくるのが見えるのだという。普賢菩薩を迎える場面では、般若心経が唱えられる。しかしその場に居合わせた猟師が普賢菩薩をライフルで撃ってしまう。殺生を生業とする自分に仏が見えるはずはなく、まやかしだとにらんでのことだった。普賢菩薩が去った後に鮮血が転々と続いており、池のそばで狐が血を流して倒れていた。化け狐だったようだ。その狐が祀られているのが、中庭の祠である。

続いて、「破られた約束」。落ちぶれはしたが、まだ生活に余裕のある武士の夫婦。だが、妻は病気で余命幾ばくもない。夫は後妻は貰わないと約束したが、妻は跡継ぎがまだいないので再婚して欲しいと頼む。傍らで見ていた田神が、「女の方が現実的で、男の方がロマンティストというか」と突っ込む。妻は、亡骸を梅の木の下に埋めることと、鈴を添えて欲しいと願い出る。
妻の死後、やはり男やもめではいけないと周囲が再婚を進め、それに従う男。比較的若い奥さんを貰う。しかし夫が夜勤の日、鈴が鳴り、先妻の幽霊が現れ、「この家から去れ、さもなくば八つ裂きにする」と脅す。夫が夜に家を空ける際にはいつもそれが繰り返される。新妻は恐れて離縁を申し出る。ある夜、また夫が夜勤に出ることになった。そこで夫の友人が妻の寝所で見守ることにする。囲碁などを打っていた男達だが、一人が「奥さん、もう寝ても構いませんよ」を何度も繰り返すようになり、異様な雰囲気に。やがて先妻の幽霊が現れ、新妻の首を引きちぎるのだった。

現代。それによく似た事件が起こっており、泊まりに来た二人はその捜査(フィールドワークを称する)で来たことが分かる。ここで二人の身分が明かされる。首なし死体が見つかったのだが、首が刃物ではなく、力尽くで引きちぎられたようになっていたという。


「茶碗の中」。原作では舞台は江戸の本郷白山。今は、イキウメ主宰で作・演出の前川知大の母校である東洋大学のメインキャンパスがあるところである。だが、この劇での舞台は白山ではなく、愛宕山近くの宿屋であり、警察の遺体安置所である。田神が茶碗の中に注いだ茶に見知らぬ男の顔が映っている。なんとも気持ちが悪い。そこで、他の人にも茶碗を渡して様子を見るのだが、他の人には別人の顔は見えないようである。
ところ変わって遺体安置所。検視官の宮地も茶碗の中に別人の顔が映っているのを見つける。そして遺体安置所から遺体が一つ消えた。茶碗の中に映った男の顔が黒澤に似ているということで黒澤が疑われる。消えた遺体は自殺したコウノマイコのものだった。黒澤はコウノマイコには会ったことがないと語る(嘘である)。捜査は、この遺体消失事件を中心としたものに切り替えられる。

温泉があるというので、田神は入りに出掛ける。宮地は「風呂に入るのは1週間に1度でいい」と主張する、ずぼらというか不潔というか。そうではなくて、「1日数回シャワー」、あ、これ書くと炎上するな。あの人は言ってることも書いてることもとにかく変だし、なんなんでしょうかね。もう消えたからいいけど。


「お貞の話」。これが、先に語った、シノブと黒澤シロウ、黒澤シロウとコウノマイコの話になる。来世で会う。この芝居の核になる部分である。
ついこの間、Facebookに韓国の女優、イ・ウンジュ(1980-2005)の話を書いたが(友人のみ限定公開)、彼女がイ・ビョンホンと共演した映画「バンジージャンプする」に似たような展開がある。「バンジージャンプする」は、京都シネマで観たが、キャストは豪華ながら映画としては今ひとつ。イ・ウンジュは映画運には余り恵まれない人であった。

「宿世の恋」。落語「怪談牡丹灯籠」を小泉八雲が小説にアレンジしたものである。この場面では、女将役の松岡依都美が語り役を務める。
旗本・飯島家の娘、お露は評判の美人。飯島家に通いの医師である志丈(しじょう)が、萩原新三郎という貧乏侍を連れてきた。たちまち恋に落ちるお露と新三郎。お露は、「今後お目にかかれないのなら露の命はないものとお心得下さい」とかなり真剣である。しかし、徳川家直参の旗本と貧乏侍とでは身分が違う。新三郎の足はなかなか飯島家に向かない。それでも侍女のお米の尽力もあり、飯島家に忍び込むなどして何度か逢瀬を重ねたお露と新三郎だったが、新三郎の足がまた遠のいた時に、志丈からお露とお米が亡くなったという話を聞いた新三郎。志丈は、「小便くさい女のことは忘れて、吉原にでも遊びに行きましょう。旦那のこれ(奢り)で」と新三郎の下僕であるトモゾウにセリフを覚えさせ、トモゾウはその通り新三郎に話すが、激高した新三郎に斬られそうになる。お露のことが忘れられず落胆する新三郎であったが、ある日、お露とお米とばったり出会う。志丈が嘘をついたのだと思った新三郎。聞くと二人は谷中三崎(さんさき)坂(ここで東京に詳しい人はピンと来る)で暮らしているという。二人の下を訪れようとする新三郎だったが断られ、お露とお米が新三郎の家に通うことになる。だが、お察しの通り二人は幽霊である。新三郎の友人達は二人の霊を成仏させるため、新三郎の家の戸口を閉ざし、柱に護符を貼り、般若心経が再び唱えられる。お守りを渡された新三郎はその間写経をしている。新三郎の不実を訴えるお露の声。
6日我慢した新三郎だが、今日耐えれば成仏という7日目に、会えなくなるのは耐えられないと、お守りを外し、戸口を開けて……。

照明がつくと、田神と宮地が寝転んでいる。旅館だと思っていたところは荒れている。「こりゃ旅館じゃないな」と田神。
黒澤がマイコの遺体を隠したのだと見ていた二人は、狐を祀る祠の下で抱き合った二人の遺骸を発見する。マイコはミイラ化しており、黒澤は死後10日ほどだった。「報告書書くのが面倒な事件だなこりゃ」とこぼしながら旅館らしき場所を去る田神と宮地。下手袖に現れた黒澤の霊はお辞儀をしながら彼らを見送り、砂の滝がまた落ち始める。
生まれ変わった恋人にも自殺されてしまった新三郎だが、再会は出来て、あの世で一緒になれるのならハッピーエンドと見るべきだろうか。少なくともマイコもその前世のシノブも彼のものである。


小泉八雲の怪談と現代の恋愛、ミステリーに生まれ変わりの要素などを上手く絡めたロマンティックな作品である。次々に場面が入れ替わるストーリー展開にも妙味があり、また、青、白、オレンジなどをベースとした灯体を駆使した照明も効果的で、洗練とノスタルジアを掛け合わせた良い仕上がりの舞台となっていた。
やはり幽霊や妖怪を駆使した作風を持つ泉鏡花の作品に似ているのではないかと予想していたが、泉鏡花が持つ隠れた前衛性のようなものは八雲にはないため、より落ち着いた感じの芝居となった(ただし抱き合った遺体は、鏡花の傑作『春昼・春昼後刻』のラストを連想させる)。


上演終了後、スタンディングオベーション。多分、私一人だけだったと思うが、周りのことは気にしない。ほとんどの人が立っている時でも立たない時は立たないし、他に誰も立っていなくても立つ時は立つ。ただ一人だけ立っている状態は、大阪府貝塚市で観た舞台版「ゲゲゲの女房」(渡辺徹&水野美紀主演)以来かも知れない。渡辺徹さんも今はもういない。

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2024年9月13日 (金)

好きな短歌(39)

瀬を早み岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)

日本最強の怨霊ともいわれる崇徳院(崇徳上皇)。崇徳上皇を祀る京都市の白峯神宮は蹴鞠を家業とした飛鳥井家の邸跡に建つため、球技・スポーツの神様として知られる。

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2024年6月20日 (木)

観劇感想精選(463) 第73回京都薪能 「光源氏の夢」初日

2024年6月1日 左京区岡崎の平安神宮境内特設会場にて

左京区岡崎の平安神宮で行われる第73回京都薪能。午後6時開演である。今回は「光源氏の夢」というタイトルが付いている。演目は、「半蔀(はじとみ)」(観世流)、「葵上」(金剛流)、狂言「おばんと光君(ひかるきみ)」(大蔵流)、「土蜘蛛」(観世流)。
思ったよりも人が多く、最初は立ち見。その後、補助席が設けられた。どうやら京都市京セラ美術館から椅子を借りてきたようである。

まずナビ狂言として、茂山千五郎家の茂山茂(しげやま・しげる)と井口竜也が登場。京都薪能があるので急いでいるという設定で、茂山茂が、「西宮神社の福男」に例えて一番乗りを目指すのが京都薪能の見方だと語る。ちなみに今年から指定席も設けられたことも紹介される(ただし高い)。井口竜也から今年の京都薪能の演目を聞かれた茂山茂は、「今年はNHK大河ドラマが『光る君へ』ゆえ、『源氏物語』にちなんだ演目が揃っておりまする」
井口「それは、『ちなんだ』というよりも、『便乗商ほ……』」
茂山「シーッ!」
確かに例年より客が多いような気がする。「光る君へ」は低視聴率が続いているが、なんだかんだでテレビの影響力は大きい。
井口「それがし、能についてはようわからんのだが」
茂山「そういう方のために、パンフレットを販売しております。あとイヤホンガイドも貸し出してございます」
井口と茂山は、その後、「半蔀」の紹介(そもそも半蔀とは何かから説明する)などを行う。

能「半蔀」。『源氏物語』の中でもホライックな場面として教科書などでもお馴染みの「夕顔」を題材にした演目である。シテの夕顔の亡霊を演じる松井美樹さんとは知り合いなのだが、長いこと顔を合わせていない。
北山の雲林院(今も大徳寺の塔頭として規模と宗派は異なるが同じ名前の後継寺院がある)の僧が花供養をしていると、女がやって来て夕顔の花を捧げる。女は「五条あたりにいた者」と名乗る。
僧が五条の夕顔の咲いた茅屋を訪ねると、半蔀を開けて夕顔の亡霊が現れる(そもそも光源氏は半蔀を開けていた夕顔を見初めたのである)。夕顔は夕顔の花にまつわる光源氏との思い出を語る。

「半蔀」の上演後、平安神宮の本殿から神官によって火が運ばれ、薪に移す火入式が行われる。傍らでは消防の方々が見守る。

その後、松井孝治京都市長による挨拶がある。松井市長は「文化首都・京都」を掲げて当選。古典芸能を愛するほか、自称「クラオタ(クラシックオタク)」で、X(旧Twitter)などを見ると沖澤のどかの追っかけをしていたりするのが確認出来る。そんな市長なので、文化芸能について語るのかと思いきや、それを後回しにして、「まずお詫びがございます」と始める。立ち見の方が出てしまったことや今も立ち見状態の方へのお詫びだった。座席数よりかなり多くのチケットを売ってしまった訳で、やはりこれは計算ミスだったであろう。

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再びナビ狂言の茂山茂と井口竜也が登場し、「葵上」について語る。
井口「しかし肝心の葵上の名前がないが、これはミスプリか?」
茂山「いえいえ」
葵上は病気になって寝ているという設定で、着物(小袖)を敷いて葵上に見立てる。茂山茂が着物を敷いた。

能「葵上」。今でいうメンヘラの六条御息所が生き霊となって葵上に祟るという内容である。
葵上が病で伏せっている(着物しかないが寝ているという設定)。そこへ照日巫女が連れてこられ、梓弓の呪法を行う。夕顔の名も登場する。破れ車に乗った六条御息所の怨霊が現れ、愚痴りまくった上で、恨み(賀茂の祭りこと葵祭での車争いの恨みとされる)を晴らそうとする。結構激しいシーンとなる。
比叡山の横川の小聖が呼ばれることになる。横川まではかなり遠いはずだが、物語の展開上、早く着く。横川の小聖は延暦寺ではなく修験道の行者である。小聖は苦戦の末、六条御息所の霊をなんとか調伏する。


狂言「おばんと光君」。光源氏が出てくる狂言の演目は古典にはないそうで、そこで明治以降に書かれた現代狂言の中から、光源氏ならぬほたる源氏(茂山逸平)、頭中将ならぬとうふの中将(茂山忠三郎)、惟光ならぬあれ光(鈴木実)とそれ光(山下守之)などが登場するパロディが上演される。パロディということで、表現も思いっきり砕けており、「熟女」という比較的新しい言葉が使われたり、「スキャンダル」という英語が用いられたり、「文春砲」という芸能用語が飛び出したりする。
ほたる源氏も光源氏同様にモテモテで、声を掛ければどんな女でもなびくので面白くなくなり、これまで抱いたことのない熟女にチャレンジしようと決めたことから起こるドタバタ劇で、途中、歌舞伎の「だんまり」に似た場面もある。

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能「土蜘蛛」。京都では壬生狂言でも人気の演目である。ちなみに「土蜘蛛」は明日も金剛流のものが上演されるので、明日も観る予定がある場合は、ここで席を立つ人も多かった。
源頼光が主人公であるが、四天王は登場しない。その代わり、独武者という頼光の従者が登場する(四天王の誰かに当たるのかも知れないが、名前がないので分からない)。
頼光が病気で伏せっていると、僧侶が現れる。僧侶の正体は葛城山の土蜘蛛で、頼光に蜘蛛の糸を投げつける。
土蜘蛛と独武者との大立ち回りが見物の演目である。
土蜘蛛の正体は、大和葛城郡を根拠地とし、渡来人を多く抱えていた有力豪族の葛城氏であるとされる。葛城氏はその後に滅ぼされることになるが、土蜘蛛伝説となって後世に存在を残すこととなった。

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2024年5月28日 (火)

これまでに観た映画より(335) 黒澤明監督作品「蜘蛛巣城」

2022年11月29日 京都シネマにて

京都シネマで、黒澤明監督作品「蜘蛛巣城」を観る。4Kリマスター版での上映だが、京都シネマは基本的に2K対応なので4Kで上映されたのかどうかは不明である。
1957年の作品ということで、制作から60年以上が経過しているが、今もなお黒澤明の代表作の一つとして名高い。シェイクスピアの「マクベス」の翻案であり、舞台が戦国時代の日本に置き換えられた他は、基本的に原作にストーリーに忠実である。ただ、有名シーンを含め、黒澤明の発想力が存分に発揮された作品となっている。
脚本:小國英雄、菊島隆三、橋本忍、黒澤明。出演:三船敏郎、山田五十鈴、千秋実、志村喬、佐々木孝丸、浪花千栄子ほか。音楽:佐藤勝。

マクベスは三人の魔女にたぶらかされて主君を殺害するが、「蜘蛛巣城」の主人公である鷲津武時(三船敏郎)は、物の怪の老女(浪花千栄子)の発言と妻の浅茅(山田五十鈴)の煽動により、主君で蜘蛛巣城主である都築国春(佐々木孝丸)を暗殺することになる。

魔女や物の怪が唆したからマクベスや鷲津は主君を討つことにしたのか、あるいは唆す者の登場も含めて運命であり、人間は運命の前に無力なのか。これは卵が先か鶏が先かの思考に陥りそうになるが、いずれにせよ人間は弱く、その意思は脆弱だということに間違いはない。人一人の存在など、当の本人が思っているほどには強くも重くもないのだ。

冒頭、土煙の中「蜘蛛巣城趾」の碑が立っているのが見え、栄華を誇ったと思われる蜘蛛巣城が今は碑だけの廃墟になっていることが示されるのだが、そうした砂塵が晴れると蜘蛛巣城の城門や櫓などが見え、時代が一気に遡ったことが分かる。
ラストも蜘蛛巣城が砂埃に包まれて消え、「蜘蛛巣城趾」の碑が現れる。「遠い昔あるところに」といった「スター・ウォーズ」の冒頭のような文章や「兵どもが夢の跡」といった語りが入りそうなところを映像のみで示しており、ここに黒澤明の優れた着想力が示されている。

鷲津が弓矢で射られるシーンは、成城大学弓道部の協力を得て本物の矢が射られている。メイキングの写真を見たことがあるが、思ったよりも三船の体に近いところを射ており、黒澤の大胆さを窺うことが出来る。

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2024年5月26日 (日)

コンサートの記(845) ローム クラシック スペシャル 2024 「日本フィル エデュケーション・プログラム 小学生からのクラシック・コンサート」 グリーグ 劇音楽「ペール・ギュント」より@ロームシアター京都サウスホール

2024年5月6日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、海老原光指揮日本フィルハーモニー交響楽団によるローム クラシック スペシャル「心と体で楽しもう!クラシックの名曲 2024 日本フィル エデュケーション・プログラム 小学生からのクラシック・コンサート」を聴く。上演時間約70分休憩なしの公演。演目はグリーグの劇音楽「ペール・ギュント」より抜粋で、江原陽子(えばら・ようこ)がナビゲーターを務める。

毎年のようにロームシアター京都で公演を行っている日本フィルハーモニー交響楽団。夏にもロームシアター京都メインホールで主に親子向けのコンサートを行う予定がある。

昔から人気曲目であったグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」であるが、2つの組曲で演奏されることがほとんどであった。CDでは、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団による全曲盤(ドイツ・グラモフォン)、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団(DECCA)やネーメの息子であるパーヴォ・ヤルヴィ指揮エストニア国立交響楽団の抜粋盤(ヴァージン・クラシックス)などが出ているが、演奏会で組曲版以外が取り上げられるのは珍しく、シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団の定期演奏会で取り上げられた全曲版が実演に接した唯一の機会だろうか。この時は歌手や合唱も含めた演奏だったが、今回はオーケストラのみの演奏で、前奏曲「婚礼の場にて」、「夜の情景」、「婚礼の場にて」(前半部分)以外は2つの組曲に含まれる曲で構成されている。

ヘンリック・イプセンの戯曲「ペール・ギュント」は、レーゼドラマ(読むための戯曲)として書かれたもので、イプセンは上演する気は全くなかったが、「どうしても」と頼まれて断り切れず、「グリーグの劇音楽付きなら」という条件で上演を許可。初演は成功し、その後も上演を重ねるが、やはりレーゼドラマを上演するのは無理があったのか、一度上演が途切れると再演が行われることはなくなり、グリーグが書いた音楽のみが有名になっている。近年、「ペール・ギュント」上演復活の動きがいくつかあり、私も日韓合同プロジェクトによるものを観た(グリーグの音楽は未使用)が、ゲテモノに近い出来であった。
近代社会に突如現れた原始の感性を持った若者、ペール・ギュントの冒険譚で、モロッコやアラビアが舞台になるなど、スケールの大きな話だが、ラストはミニマムに終わるというもので、『イプセン戯曲全集』に収録されているほか、再編成された単行本なども出ている。

今回の上演では、海老原光、江原陽子、日フィル企画制作部が台本を纏めて共同演出し、老いたソルヴェイグが結婚を前にした孫娘に、今は亡き夫のペール・ギュントの昔話を語るという形を取っている。江原陽子がナレーターを務め、「山の魔王の宮殿にて」では聴衆に指拍子と手拍子とアクションを、「アニトラの踊り」ではハンカチなどの布を使った動きを求めるなど聴衆参加型のコンサートとなっている。


指揮者の海老原光は、私と同じ1974年生まれ。同い年の指揮者には大井剛史(おおい・たけし)や村上寿昭などがいる。鹿児島出身で、進学校として全国的に有名な鹿児島ラ・サール中学校・高等学校を卒業後に東京芸術大学に進学。学部を経て大学院に進んで修了した。その後、ハンガリー国立歌劇場で研鑽を積み、2007年、クロアチアのロヴロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで3位に入賞。2010年のアントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールでは審査員特別賞を受賞している。指揮を小林研一郎、高階正光、コヴァーチ・ヤーノシュらに師事。日フィルの京都公演で何度か指揮をしているほか、日本国内のオーケストラに数多く客演。クロアチアやハンガリーなど海外のオーケストラも指揮している。2019年に福岡県那珂川市に新設されたプロ室内オーケストラ、九州シティフィルハーモニー室内合奏団の首席指揮者に就任し、第1回と第2回の定期演奏会を指揮した(このオーケストラはその後、大分県竹田市に本拠地を移転し、改組と名称の変更が行われており、シェフ生活は短いものとなった)。

ナビゲーターの江原陽子は、東京藝術大学(東京芸術大学は国立大学法人ということもあり、新字体の「東京芸術大学」が登記上の名称であるが、校門やWeb上で使われている旧字体の「東京藝術大学」も併用されており、どちらを使うかはその人次第である)音楽学部声楽科を卒業。現在、洗足学園音楽大学の教授を務めている。藝大在学中から4年間、NHKの番組で「歌のおねえさん」を務め、その後、教職や自身の音楽活動の他に、歌や司会でクラシックコンサートのナビゲーターとしても活躍している。日フィルの「夏休みコンサート」には1991年から歌と司会で参加するなど、コンビ歴は長い。


舞台後方にスクリーンが下がっており、ここに江原のアップや客席、たまにオーケストラの演奏などが映る。

海老原光の演奏に接するのは久しぶり。私と同い年だが、にしては白髪が目立つ。今年で50歳を迎えるが、指揮者の世界では50歳はまだ若手に入る。キビキビした動きで日フィルから潤いと勢いのある響きを引き出す。ビートは基本的にはそれほど大きくなく、ここぞという時に手を広げる。左手の使い方も効果的である。

日フィルは、創設者である渡邉暁雄の下で、世界初のステレオ録音による「シベリウス交響曲全集」と世界初のデジタル録音による「シベリウス交響曲全集」をリリースし、更にはフィンランド出身のピエタリ・インキネンとシベリウス交響曲チクルスをサントリーホールで行って、ライブ録音を3度目の全集として出すなどシベリウスに強いが、渡邉の影響でシベリウス以外の北欧ものも得意としている。北欧出身者ではないが、フィンランドの隣国であるエストニアの出身で北欧ものを得意としているネーメ・ヤルヴィ(現在は日フィルの客員首席指揮者)を定期的に招いていることもプラスに働いているだろう。

音楽は物語順に演奏され、合間を江原のナレーションが繋ぐ。降り番の楽団員やスタッフも進行に加わる。演奏曲目は、前奏曲「婚礼の場にて」、「イングリットの嘆き」、「山の魔王の宮殿にて」、「オーゼの死」、「朝(朝の気分)」、「アラビアの踊り」、「アニトラの踊り」、「ペール・ギュントの帰郷」、「夜の情景」、「ソルヴェイグの歌」、そしてペール・ギュントとソルヴェイグの孫娘の結婚式があるということで「婚礼の場にて」の前半部分が再び演奏される。

ロームシアター京都サウスホールは、京都会館第2ホールを改修したもので、特別な音響設計はなされておらず、残響もほとんどないが、空間がそれほど大きくないので音はよく聞こえる。日フィルも音色の表出の巧みさといい、全体の音響バランスの堅固さといい、東京芸術劇場コンサートホールやサントリーホールで聴いていた90年代に比べると大分器用なオーケストラへと変わっているようである。
江原陽子のナビゲートも流石の手慣れたものだった。


演奏終了後に撮影タイムが設けられており(SNS上での宣伝に使って貰うためで、スマホやタブレットなどに付いているカメラのみ可。ネットに繋げない本格的な撮影機材は駄目らしい)多くの人がステージにカメラを向けていた。

終演後には、海老原光と江原陽子によるサイン会があったようである。

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