カテゴリー「文学」の197件の記事

2020年10月31日 (土)

観劇感想精選(362) 森山未來リーディングパフォーマンス『「見えない/見える」ことについての考察』

2020年10月27日 阪神尼崎駅近くのあましんアルカイックホール・オクトにて観劇

尼崎へ。午後7時30分から、あましんアルカイックホール・オクトで、森山未來のリーディングパフォーマンス公演「『見えない/見える』ことについての考察」を観る。関西出身の森山未來による全国ツアーであるが、関西公演はフェニーチェ堺と、あましんアルカイックホール・オクトの2カ所で行われることになった。森山未來はロームシアター京都でもダンス公演に出演しているが、残念ながら今回は京都公演はなしである。初演は2017年で、この時は東京芸術大学上野キャンパス内のみでの公演となったが、森山未來初のソロ全国ツアー作品として再演が行われることになった。

ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(翻訳:雨沢泰。河出書房新社)とモーリス・ブランショの『白日の狂気』(翻訳:田中淳一ほか。朝日出版社)をテキストに用いているが、断片的であり、新型コロナウイルスの流行の喩えとして用いられていることがわかるようになっている。演出と振付は森山未來自身が担当する。企画・キュレーションは、長谷川祐子(東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科教授)。

あましんアルカイックホール・オクトのコロナ対策であるが、チケットの半券に名前と電話番号を記入。兵庫県独自の追跡サービスへ(メールを用いるものとLINEを使ったものの二種類)の登録も強制ではないが勧められているようである。今回は整理番号順による全席自由(午後7時開場)で、友人や夫婦同士で隣に座ったとしても一向に構わないようになっている。入場時に検温があり、手指の消毒が求められる。

客層であるが、当然というべきか、女性客が大半である。また余り積極的に宣伝がされていなかったためか、あるいは規制のためか、観客はそれほど多くはない。

入場口で音声ガイドが配られる。片耳に引っかけるタイプのイヤホンであるが、セリフや音楽などが流れ、劇場内でも他のセリフや音楽が鳴っているためラジオの混線のような効果が生まれている。

間に15分ほどの休憩を挟む二部構成の作品であり、共に上演時間30分ほどだが、第2部は第1部を手法を変えて繰り返すという形態が選ばれていた。第1部では森山未來がマイクを使って語ったセリフが、第2部ではマイクを使わずに発せられたり、その場で発せられていたセリフが録音になっていたり、その逆であったりと、中身はほぼ同じなのだが、伝達の仕方が異なる。これによって重層性が生まれると同時に、同じセリフであっても印象が異なることを実感出来るよう計算されている。

 

話は、ある男が、車を運転していた時に視力を失うという事件で始まる。視野が暗闇ではなく真っ白になり、まるで「ミルクの海」の飲み込まれたかのようと例えられる。同じ日に、子どもと16歳の売春婦が視界が白くなる病に冒され、病院に運ばれてきた。眼科医は、「失明は伝染しない。死がそうであるように。だが誰でもいつかは死ぬんだけどね」

だが、白の失明は蔓延するようになり、罹患した者はことごとく隔離される。他の多くの伝染病でも同様の措置がなされて来たわけだが、パンデミックを題材にしたテキストということで、新型コロナウイルスの騒動を直接想起させる形となっている。

断片的であるため分かりにくいが、戒厳令が敷かれ、軍部にも罹患する人が現れ、殺害事件まで起こり、それに反対する人々が反乱を起こすという展開になる。新型コロナでも似たようなことが起こっており、新型コロナ以外でもやはり同じようなことは起こっている。

第1部では、「見えなくなった? 見えなくなったっていつから? 最初から見えなかったんじゃないの? 私は最初から見えない状態で見ていた」というセリフが印象的である。コロナでも盲目的な行動が確認されたことは記憶に新しいが、新型コロナが蔓延してから急に人間性や国民性が変わったということではなく、今まで意識されていなかったことが可視化出来るようになったということである。同時にこれまで当たり前と思ったことが闇に飲み込まれ、見えなくなってしまっていたりもする。そうしたことは史上何度も起こってきたのだが、それでも変われないほど人間は愚かしく、世界は単純にして複雑である。
あましんアルカイックホール・オクトのエントランスで撮られた写真や上演中に撮影された客席の写真がスクリーンに映り、今行われているパフォーマンスが他人事ではないことが示唆される。

iPhoneを始めとするスマホの着信音が鳴り、その中で森山未來が踊る。情報化社会の中でもがき、サーバイブする姿のようだ。
それとは対称的に、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」よりアリアが音声ガイドから流れ、高雅にして悲痛なダンスがダイナミックに展開されたりもした。

第2部でも音楽は同じだが、ストーリーの結末は異なる。ストーリーと書いたが、「物語はやめてくれ」というセリフがある。今のこの状況は危険な物語に溢れている。
「街はあった」という救いともそうでないとも取れる言葉でパフォーマンスは終わるのであるが、容易に答えが出せないというのもまさに「今」であると思える。人智を超えた状況であり、本来はそのことに恐怖すべきなのだが、なぜか国同士や人種間もしくは同じ人種同士で争いが起こってしまっており、これまた妙な状況を生んでしまっている。生んでしまっているというより曖昧だったものがはっきり見えるようになってしまったというべきか。全ては「無知」が原因なのだが、人類はそれに対して謙虚になれないでいる。バッハはおそらく「己を超えた存在」に対して謙虚であった人物だと思われるが。

構成が良く、テキストや展開が抽象的であるのもまた良く、森山未來のキレのあるダンスが間近で見られて、見終わった後でも考えさせられる。これは観ておくべき公演だったと思う。

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2020年9月28日 (月)

これまでに観た映画より(213) ウォン・カーウァイ監督作品「恋する惑星」@アップリンク京都 2020.9.23

2020年9月23日 新風館地下のアップリンク京都にて

新風館の地下に出来たミニシアターのコンプレックス、アップリンク京都で、ウォン・カーウァイ(王家衞)監督の映画「恋する惑星」を観る。1994年の制作。日本では1995年に公開されており、私はロードショー時に今はなき銀座テアトル西友で5回観ている。一つの映画館で観た同じ映画としては自己最多だと思われる。その後、BSやレンタルDVDなどでも観ているが、現在、観ることが出来るのは多くの場面がカットされた国際版と呼ばれるものであり、カットされたがために意味が通じなくなっているところもある。

今日も国際版での上映。映画館におけるソーシャルディスタンスの基準が緩和されたため、両隣にもお客さんがいるというスタイルでの久々の映画鑑賞となった。

 

「恋する惑星」の原題は「重慶森林」という。テレビ雑誌などで舞台を「中国重慶市」と書かれていたことがあるが、これは当然ながら間違いで、「重慶森林」の「重慶」は都市の重慶ではなく、香港で最も治安が悪いといわれた重慶(チョンキン)マンションのことである。
ウォン・カーウァイも香港政府(当時はまだ返還前でイギリス領である)に重慶マンションでの撮影許可を得ようとしたのだが、断られたため、無許可でのゲリラ撮影が敢行されている。
「森林」と入っているのは、村上春樹の小説『ノルウェイの森』の影響である。ウォン・カーウァイ監督も村上春樹のファンであるが、当時の香港には村上春樹の小説の登場人物のような口調で話す若者が現れており、「ハルキ族」と呼ばれて話題になっていた。「恋する惑星」のセリフやモノローグにも「ハルキ族」的語りが取り入れられている。

出演:金城武、ブリジット・リン、フェイ・ウォン、トニー・レオンほか。台湾生まれで日本国籍の金城武、台湾出身のブリジット・リン、北京生まれのフェイ・ウォン(王菲)、香港の映画スターであるトニー・レオンなど、同じ中華圏ではあるが、異なった背景を持つキャストを起用し、セリフも広東語が中心だが、北京語、日本語、英語、そしてインドの地方の言葉まで飛び交うなど国際色に満ちている。撮影監督は、クリストファー・ドイル(中国名・杜可風)。主題歌は、フェイ・ウォンの「夢中人」(クランベリーズの「Dreams」の広東語バージョン)。

二部構成で、前半と後半では別のドラマが展開されるが、第二部の出演者が第一部にカメオ的に出演している。フェイ・ウォンが巨大な虎のぬいぐるみを買うシーンは第二部で生きてくる。

 

1994年から、CX系の深夜番組「アジアNビート」が始まっており(司会は売れる前のユースケ・サンタマリア)、関東と北海道ローカルではあったが、洋楽といえば欧米一辺倒だった時代に、韓国、中国、台湾、タイ、インドネシア、インドのポップスを紹介するという進取の気質が評価され、話題になっていた。深夜番組なので誰もが見ていたというわけではないのだが、「アジアNビート」では当然のことながら金城武やフェイ・ウォンは紹介されており、「恋する惑星」がヒットする下地は、少なくとも東京では出来上がっていたように思う。

 

当時、金城武がインタビューで語っていたが、「恋する惑星」はクランクイン時には台本が全く用意されていなかったそうである。撮影当日の朝にウォン・カーウァイ監督が短い台本を書いてきて、それを撮るということを繰り返したのだが、順撮りでは全くないため、金城武も「今、何を撮っているのか全く分からなかった」と話している。その後、完成した映画を観た金城武は、「こんな凄い映画を撮ってたのか!」と喫驚したそうである。
映画は順取りでない場合の方が多いと思われるが、場面をシャッフルして作品を作り上げるという技法は、村上春樹が処女作である『風の歌を聴け』で取り入れていた手法と同じである。どこまで意識していたのかはわからないが。

なお、金城武演じるモウがパイナップルを食べ続けるシーンがあるが、金城武の苦手な食べ物はパイナップルであり、ウォン・カーウァイ監督がそれを知った上での無茶ぶりを行ったようである。

 

前半は、刑事のモウ(漢字だと「某」になるのだろうか。演じるのは金城武)が、5年間つき合っていた彼女のメイに振られたという話から始まる。ロードショー時には、メイが山口百恵に似ているという話があり、金城武演じるモウが、「三浦友和に似ていない僕は」とメイの心が離れつつあることを嘆くモノローグがあった。だが、国際版ではここはカットされている。
その後、メイに新しい彼氏が出来たことを悟ったモウが、階段を駆け上がりながら叫ぶシーンがある。今日の字幕では、「くそったれ! もうだめだ!」、銀座テアトル西友で観た時は、はっきりとは覚えていないが「もうだめだ!」という字幕だったように思うのだが、実はこのシーンで叫んでいるのは全く別の文言なのである。それは、「三浦友和! 我要杀了你!(三浦友和、ぶっ殺す!)」という剣呑なものであり、メイの新しい彼氏を三浦友和に見立てたジョークだったのだ。だが、国際版ではメイが山口百恵に似ているというモノローグがカットされているため、なぜ三浦友和がセリフに登場するのかわからなくなっており、字幕も別の言葉に置き換えられている。

銀座テアトル西友で観た時に、中国人か台湾人か、あるいは香港人かと思われる観客がこのシーンで笑っていたのだが、こちらはまだ大学の2年生になったばかりで北京語がそれほど出来ない頃だったため、「『もうだめだ!』の何が可笑しいんだろう?」と不思議であった。その後、北京語の勉強を進めて何を言っているのかわかるようになり、「ああ、そういうことだったのか」と合点がいった。BSで放送された時だったか、一度だけ「三浦友和のバカヤロー!」という字幕になっているのを見たことがある。

それは余談として、金城武演じる刑事とブリジット・リン演じる麻薬の売人の一瞬だけ繋がる心の描き方が、繊細かつ優しい。麻薬の売人と書いたことからも分かる通り、結構ブラックな展開であり、麻薬の売人が自分を裏切った白人の男に復讐するというスリリングな話でもあるのだが、そんな切迫した状況で突如訪れる日だまりのような瞬間が心に沁みる。

ちなみに前半は音楽も格好良く、私もオリジナル・サウンドトラックを購入したのだが(残念ながら映画本編とはアレンジ違いのものが多かった)、ライナーノーツによると作曲を担当したフランキー・チェンはラッシュフィルムなどを見せて貰えず、「好きに作曲しろ」と言われて不満かつ不安だったらしいが、いざ映画を見ると、あたかもそのシーンのための作曲されたかのように聞こえたため、驚いたそうである。

 

後半のフェイ・ウォンとトニー・レオンの話は、かなり不思議というかメルヘンのような展開になっている。寓話と捉えればピッタリくるだろう。
サラダなどの軽食の売店で働くフェイ(フェイ・ウォン)は、客である警官633号(663号が正しいらしい。演じるのはトニー・レオン)と出会う。警官633号はスチュワーデス(という言葉が当時は一般的だった。演じるのはチャウ・カーリン)の彼女と別れたばかり。フェイは警官633号を一目見て気に入る。
その後、スチュワーデスの彼女が店に警官633号への手紙を託す。当たり前のように開封してみんなで回し読みする売店の店員達。手紙には部屋の鍵が入っていた。もういらないから警官633号に返すという意味である。
フェイは手紙のことを警官633号に話すが、警官633号は興味を持たない。そのためフェイは住所を教えてくれたら届けると申し出て警官633号の住所を知り、留守の間に忍び込んで警官633号の部屋の模様替えを勝手に始める。この時点でかなり変な展開だが、警官633号が鈍い男で、自分の部屋の様子が変わっていくのに気付かず、気付いたとしても独自の思考で処理してしまうため、誰かが忍び込んでいるという可能性すら思いつかない。フェイは店でいつもママス&パパスの「夢のカリフォルニア」を大音量で掛けているのだが、警官633号は自宅を訪ねてきた(というより本来は忍び込むはずが玄関で鉢合わせする)フェイが脚を攣ったというのでマッサージを行いながら「夢のカリフォルニア」を掛け、「前の彼女が好きだった曲」などと言う。実際はそのCDはフェイが持ち込んだもので、前の彼女とは何の関係もない。
ということですれ違いが続く。

「カリフォルニア」という言葉のすれ違いを経て、ラストは恋愛劇の王道のようなセリフへと向かっていく。このラストシーンは私はかなり好きである。

 

「恋する惑星」は、「香港映画=カンフーorアクション=ブルース・リー&ジャッキー・チェン」というそれまでのイメージを1作で覆してしまった画期的作品である。これ以降、香港映画というと、「ポップ」「お洒落」「楽しい」「芸術的」という観点から語られることが多くなるが、たった1作で流れを変えてしまったのだから大変な傑作である。

また村上春樹という日本人作家にインスパイアされた映画という点でも重要であり、醒めたようでいて暖かいセリフ、気取った感じで虚構を作る言葉、日常からかけ離れた設定、「壁抜け」のように通い合える瞬間を描いているが、村上春樹という小説家はパブリックイメージとは異なり、極めて日本的な作家であるため、日本の文学が影響を与えた海外の映画作品としても最右翼に位置するように思われる。


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ポップな香港映画の嚆矢「恋する惑星」

これまでに観た映画より(171) 「恋する惑星」

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2020年9月26日 (土)

観劇感想精選(353) 野田地図(NODA・MAP) 「贋作・罪と罰」2006大阪

2006年2月8日 大阪・京橋のシアターBRAVA!にて観劇

大阪へ。シアターBRAVA!でNODA・MAPの「贋作・罪と罰」を観る。作・演出・出演:野田秀樹、出演:松たか子、古田新太、段田安則、宇梶剛士、美波、マギー、右近健一、小松和重、村岡希美ほか。
タイトルを見ればわかる通り、ドストエフスキーが書いた世界文学史上最高傑作の一つが原作である。

幕末、江戸。あらゆる学校を首席で卒業し、今は江戸開成所(東京大学の前身)の女塾生である三条英(さんじょう・はなぶさ。松たか子)は、質屋の女主(野田秀樹)の存在を疎ましく思っている。自分のように若く、才気溢れる逸材が世に出る妨げになるのは、質屋の女主のような強欲張りの人間だ。そう考えた英は、ある日、女主を斧で切りつけ、殺害してしまう。しかし、たまたま居合わせた女主の妹で何の罪もないおつばさんまで殺してしまったことから、熱病に浮かされたような気分(それが罪悪感だと英は認めないのだが)に取り憑かれる。
一方、英の友人、才谷梅太郎(実は坂本龍馬。古田新太が演じる)は幕府と勤王派の二重スパイとなって、金を儲けていた……。

まずは久しぶりにNODA・MAPの芝居を観ることが出来て満足である。前に観たのは今はなき近鉄劇場での公演、「オイル」(主演はやはり松たか子)だから3年ぶりだろうか。

中央に菱形の舞台を置き、客席はその前後に向かい合うようにして並ぶという劇場の使い方、幕や布の用い方、椅子を小道具として非常に巧く効果的に使用する方法など、感心することも多い。役者は、舞台上にいないときは舞台の四隅に待機し、効果音などを担当する(ノックの音は木槌を、鍵の開く音はチェーンを使う)。
劇としては十分に高い水準なのだが、野田の芝居を観て、かつてのような痛切さを感じられなくなったのは、あるいは私が年を取ったからなのだろうか。あるいはドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいるだけに、脚色され、舞台化された「贋作・罪と罰」では物足りないのだろうか。

真っ直ぐなものほど折れやすい。三条英の真っ直ぐな生き方に生じた狂い、思想に飲み込まれていく姿に痛々しさも感じる。
あらゆる汚い存在も飲み込める心の広さがあれば、あるいは理想が達成できたのかも知れない。しかし真っ直ぐである故、飲み込むことが出来ず飲み込まれてしまった。

心理や思想、若者と世間の対峙など、今日の舞台には原作の小説に遠く及ばないところがある。それはそれで仕方ない。舞台は心理サスペンスを見せるには小説ほど適当な表現手段ではないのだから。
しかし、一人の天才には「権利」があるという超人思想と、殺されていい人間などいないという信条、「特別な人間とは」という問い、それを幕末の動乱期、特に坂本龍馬暗殺に重ねた手法の見事さに感心しながらも、何か大切なものが抜け落ちてしまっているのではないかという印象を持ってしまう。あるいは野田の才気が、「罪と罰」という物語に秘められた不可解さを殺してしまったのかも知れない。もしくは私が、「全てお終い」というカタルシスを望みすぎていたのだろうか。

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2020年9月 4日 (金)

BSプレミアム 森光子生誕100年記念「放浪記」を観てのメモ

2020年8月29日

BSプレミアムで、森光子生誕100年記念「放浪記」を観る。2009年5月9日に帝国劇場で収録されたもの。

2012年に92歳で他界した森光子のライフワークであった「放浪記」。林芙美子の同名自伝的小説を菊田一夫が戯曲化した作品であり、1961年に初演。森光子はこの時、すでに41歳であったが、それまでは映画で脇役専門のパッとしない女優だった。森光子が出演していた大阪での舞台をたまたま観た菊田一夫が森のことを気に入り、自身が本を担当した作品の主演に抜擢している。

私も、2008年に大阪の旧フェスティバルホールで森光子主演の「放浪記」を観ているが、3階席で舞台から遠かった上に、この時の大阪公演では森は体調不良であり、セリフもはっきりしないなど万全な出来にはほど遠かった。その後、東京での復調が伝えられ、2009年の5月9日、森の89歳の誕生日の公演で計2000回の上演を達成した。

2000回目の上演を収録した映像である。これを観る限りでは、2008年の大阪公演に比べてはるかに出来が良いのがわかる。セリフにも切れが戻っており、動きも89歳という年齢を考えれば驚異的とまではいかないが上々で、森光子の女優魂が感じられる。

内容自体は、戯曲がまだ完全に文学の領域だった時代の作品ということで現代日本の主流の演劇とは質がかなり異なる。時代に合わせて変えてはいるだろうが、本質は敢えて保存しているように感じられる。古関裕而の音楽を伴う、いかにもメロドラマという場面もある。
そのため人によっては時代がかって感じられるだろうが、1961年当時の空気がそのまま伝わってくるようでもある。

貧困や自意識の問題と戦い続け、描き続けることで本当の「幸せ」から自ら遠ざかっていった林芙美子の人生の「放浪」が描かれており、寄るべきなき人間の孤独と悲しさが伝わってくる。

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2020年8月25日 (火)

観劇感想精選(349) こまつ座第133回公演「人間合格」@名古屋・御園座

2020年8月18日 名古屋・伏見の御園座にて観劇

名古屋へ。伏見(京都だけでなく名古屋にも伏見という駅がある。江戸時代の初めに京都の伏見から移住した人が作った街だと思われる)の御園座で、こまつ座の第133回公演「人間合格」を観るためである。作:井上ひさし、演出:鵜山仁。出演は、青柳翔、塚原大助、伊達暁(だて・さとる)、益城孝次郎(ますき・こうじろう)、北川理恵、栗田桃子。

昭和を代表する小説家の一人である太宰治の、主に若き日々を描いた作品である。
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの公演もあったのだが、その日は仕事が入っていたため、大千秋楽となる御園座での公演を選んだ。御園座に入ってみたいという気持ちも当然ながらあった。名古屋に行った時は、御園座の前を通ることも多かったのだが、今日が念願の初御園座となる。

名古屋を代表する劇場である御園座。名古屋で歌舞伎の公演となると使用される劇場である。長らく建て替え工事が続いていたが、2017年に新しい御園座が竣工し、翌2018年に開場している。

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客席はソーシャルディスタンスに配慮した席割りが行われていたが、何故か二人並ぶ席があったりする(友人、知り合い、夫婦等で並ぶ席かと思ったのだが、必ずしもそうではないようだ。私の横の席も誰かが座れる仕様になっていたが、結局、誰も座らなかったため、全くの他人が横に来るということもないようだったが)。歌舞伎対応の劇場であり、花道使用時に歌舞伎俳優が同じ階の客から見下ろされては困るということで、1階席の傾斜は緩やかである。私は下手側の席であり、客が点在しているという、平時ではあり得ない状態であったため問題はなかったが、中央列で満員の場合は、前のお客さんの頭で舞台が見えないということもよくあるようで、評判は良くないようだ。
赤を基調にした内装で、椅子も座りやすい。

座るのは1階席であるが、一応2階も覗いてみる。階段が安普請でがっかりしたが、エスカレーターを使う人が多いので、特に問題にはならないのだろう。ロビーの壁には絵が飾られていて雰囲気は良い。

前の御園座はよく知らないのだが、新しい御園座は奥行きよりも間口が広い設計で、ポストモダン(という言葉ももう古くなってしまったが)な外観もそうだが、内装も昭和の頃の公会堂のようであり、歌舞伎劇場らしくない。やはり歌舞伎座、南座、大阪松竹座といった歌舞伎専用の劇場とは違うということなのであろう。

入場前に配られた紙に、氏名、住所、電話番号を記入し、検温を受ける必要がある。スティックタイプのハンディアルコール除菌スプレーを貰った。

「人間合格」というタイトルは、太宰の代表作である『人間失格』に由来するのだが、降りた幕に、『人間失格』の太宰による肉筆原稿が描かれており、冒頭の「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」までが記されているのだが、劇はそのパロディのセリフ、「私は、その男の写真を六葉、見たことがある」でスタートする。六葉のうち二葉は実際の太宰治の写真だが、他の四葉は今回の「人間合格」で太宰を演じる青柳翔を撮ったものである。六人の俳優が六葉の写真について一人一葉ずつ説明やら解説やらを行い、印象を述べる。

そして舞台は、昭和5年(1930)の高田馬場の近くにある学生下宿、常盤館に飛ぶ。

常盤館に下宿することになった津島修治(のちの太宰治。演じるのは青柳翔)が現れる。
津島修治は旧制の弘前高校(現在の弘前大学教養課程に相当)を出て東京帝国大学(現在の東京大学)文学部仏文科に入学したばかり(ほとんど登校せず、1単位も取らないまま中退することになる)。そこへ、共産主義思想に共鳴している二人の学生が現れる。同じ東京帝国大学の経済学部に通う佐藤浩蔵(旧制山形高校出身。塚原大助)と早稲田大学文学部に通う山田定一(旧制麻布中学出身。伊達暁)である。二人はフロシキ劇団なるものを結成していて、町工場や百姓家の前でフロシキを拡げ、反ブルジョア親プロレタリアのプロパガンダを行っている。
津島も反ブルジョアであり、共産主義思想に共感を抱いて革命に憧れているのだが、彼は津軽でも五本の指に入る大地主の出であり(ただし名家ではなく成金)、行動に矛盾が生じてしまう。とにかく仕送りはたっぷり貰っており、ブルジョア階級の出身であることの恩恵を浴びるほどに受けている。

ただあるいは、太宰治が恵まれた境遇に生まれていながらそれに逆らうように生きたということが、太宰が今に至るまで人気作家で居続けるという理由なのかも知れない。

セリフには太宰の有名小説のよく知られた言葉やそのパロディが登場する。特別人気のある俳優が出演するわけでもないのにこんなコロナ禍の最中に観に来ているということは、客の多くは太宰のファンであり、「待ってました!」とばかりに笑いが起こっていた。

その後、前衛党の隠れアジトである高田馬場の「クロネコ」という喫茶店で女給をしている東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の学生で、前衛党の高田馬場支部長である立花すみれ(北川理恵)と出会い、前衛党に入党する津島であったが、そこに津軽から中北芳吉(益城孝次郎)が訪ねてくる。中北は津島家の番頭の一人であるが、その後に帝国主義的思想にかぶれていく。

第3場の「タワシ」の前では、字幕によって治安維持法について触れ、「ひとはみな同じ」そう思うだけで非国民とみなされたと説明される。

津島は日本共産青年同盟直属のタワシの行商を行うようになったが、現実的な仕事には全く向いておらず、タワシを川に投げ捨ててしまい、口では売れ行き上々で毎日完売ということにしている。はっきり言って駄目人間である。とにかくあらゆることから失格している津島であるが、それゆえ高みから居丈高に見下ろしてくる人間の醜さと、煩悶する己の魂を見据えることが出来るようになったと取ることも出来る。

やがて軍人の時代が来る。軍人にあらねば人にあらずという時代である。そんな時に作家、太宰治となった津島修治は東京武蔵野病院という精神病院に入院させられていた。
そこに佐藤がやって来る。地下活動に身を投じた佐藤は特高に追いかけられ、東京武蔵野病院に逃げ込んだのだ。佐藤はこだわりが強く、これまでずっと「あか」で始まる地名(赤池炭鉱や赤城村、そして今の東京・赤羽など)での活動を続けてきた。ちなみに赤池炭鉱で偽名として用いたのが大庭葉蔵だそうである。佐藤は太宰の処女小説集『晩年』を手にしていた。

佐藤は言う。「だめなやつ、普通の人びとはみんな、自分のことをそう思っているわけですよ」。そして自分と同じだめな奴が小説の中でのたうちまわっている。自分と同じ人間がいることに励まされる。それが太宰の小説の本質だと見抜く。
その後も佐藤の流浪は続く。

一方、山田は売れっ子の俳優になっていた。軍事劇を演じさせれば天下一品であり、日本各地で人気を博していたが、山田がセリフに込めた思いは聴き手には正反対に受け取られており、孤独を感じていた。
仙台で再会した太宰と山田と佐藤。太宰は仙台の医学校で学んでいた魯迅の「藤野先生」の話をする。「宝石よりもっとずっと尊い出来事」の話だ。

日本は敗戦を迎える。昭和21年4月、太宰は故郷の金木町にいた。長男の文治が政治家に立候補するため、その応援として山田定一の劇団を金木町の劇場に呼んだのだ。敗戦により、全ては変わった。山田の人気は凋落した。今はアメリカ軍を賛美する芝居を上演しているが本意ではない。中北も変わったが、かつての軍国主義者が180度方向転換して民主主義を礼賛するようになっている。

中北こそがまさに人間だ。「わが身が可愛いだけ」で起用に立場や思想を変えて生き延びる。汚らしいが、生き残る。今は「ひとはみな同じ」それが当たり前の時代になったが、それを信じ続けてきたがために駄目になった太宰や佐藤や山田はなんなのかということである。

その後、佐藤と山田は時を同じくしてこの世の表舞台から消えることになる。

 

太宰、佐藤、山田、不器用な男達の小さな宝石のような友情が語られる作品である。全員、学生時代まではエリートコースに乗りながら、信念のために人生に失敗した男である。だがそれゆえに惹かれあい、少なくとも太宰治は後世の人からも友人のように慕われる存在である。人間としてのある格から転げ落ちたからこそ別の人間の格に嵌まることになった。セリフに出てくる「アウフヘーベン」ではないかも知れないが、彼と我々とは高次元で結ばれることが出来るのである。「合格」つまり「格が合う」ということによって。

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2020年8月12日 (水)

毎日テレビ(TBS系) ドラマ特別企画 豊川悦司&菅野美穂主演 「太宰治物語」

2005年10月10日

毎日テレビ ドラマ特別企画「太宰治物語」を見る。太宰治を演じるのは豊川悦司。トヨエツは太宰というイメージではないが、40歳前後で他に太宰が似合いそうな俳優はいないので仕方ないのかも知れない。10数年前に役所広司が太宰治を演じていたが役所広司は太宰っぽかった。
太宰に心酔し、太宰の墓の前で後追い自殺した、小説家の田中英光(代表作『オリンポスの果実』。タイトルは太宰がつけた)も登場するがこれもイメージとは大分違う。

冒頭のシーンは、例の鎌倉・小動(こゆるぎ)での心中事件のイメージから始める。しかしこれがラストまで繋がることなく途中で切れてしまうのが残念である。単なるイメージ映像になってしまっていて、伏線にも何にもなっていなかった。

物語は太宰が石原美知子(寺島しのぶ)と結婚した頃から始まる。それ以前にも太宰には、――いささか自作自演気味ではあるものの――、ドラマティックな人生があったのだが、それは割愛されている。

「富嶽百景」、『斜陽』などが主なモチーフだ。太宰が口述筆記を得意としたことなどもちゃんと描かれている。

ドラマ自体の出来は、最近のドラマにしては良い方だと思うが、ラストは物足りない。
玉川上水での入水事件は直接描かれることなく、やけに綺麗な幕切れにしてしまっていた。まるでイメージクリップのようだ。

さて、太田静子(菅野美穂)との出会い、そして、静子の日記をモデルに、太宰が傑作『斜陽』を書くまでの過程が描かれている。

小説『斜陽』の中に、主人公かず子が上原を慕って上京してきたところ、上原は取り巻きを連れてどんちゃん騒ぎをしているというシーンがあるのだが、確かに太宰と太田静子は料亭で再会しており、それが『斜陽』に投影されてもいる。ただ、『斜陽』のかず子が上原の子を宿すつもりでやって来たのに対し、静子は子供が出来たので認知してもらいに来たのである。ドラマや小説に描かれた馬鹿騒ぎもどうやらなかったようだ。

ドラマでは『斜陽』の上原のセリフをそのまま太宰に語らせている。また、その後のシーンからして、「上原=太宰」説を採っていることがわかる。だが果たしてそうだろうか。勿論、太田静子は太宰への手紙で「M・C マイ・チェーホフ」と記していることから、最初の構想では太宰は上原を自分の分身として書くつもりだったのかも知れない。しかし、太宰本人が投影されているのは、むしろ、かず子の弟である直治であることは間違いない。上原に対する攻撃と皮肉も、太宰本人の自己批判や自身のカリカチュアというより、誰か他の作家への雑言のような気がしてならないのだ。それも旧世代の作家に対する、である。

『斜陽』における上原は、聖書におけるヨゼフと好一対であり、不要な父親なのである。そして太宰はかず子に「恋と革命」を語らせる。ここに誤解が生じやすくなっているのだが、「恋」と「革命」は別のものである。「恋愛革命」を起こそうというのではない。かず子は自身をマリアとし、生まれてくる子をイエスに見立てて本当の革命を起こすことを夢見ているのである。これにはかって共産主義運動に荷担した太宰の姿が重なる。つまり太宰本人が感情移入しているのは、かず子と直治であり、視線は没落する華族の悲劇、というよりも、革命による新時代の可能性の方を向いているのである。確かに太宰は新しい女性像を描いたけれども、それは戦後を生きる女性の典型的理想像を描いたわけではないはずだ。書きたかったのは新時代への可能性の方なのだ。
そして太宰本人は新時代の作家であることを自認していたであろう。
その前に立ち塞がる旧世代の作家、笑われるべき存在である上原のモデルは本当は誰なのだろうか?

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2020年8月 5日 (水)

京都芸術センター ティディエ・テロン 「ラスコリニコフの肖像」

2005年8月28日 京都芸術センターフリースペースにて

京都芸術センターのフリースペースで、フランス人のダンサー、ディディエ・テロンの公演がある。テロンは今年5月に、アトリエ劇研で行われた、「GEKKEN dance selection」にも参加しており、詰め襟の学生服を着たユニークなダンスで会場を沸かせている。
今回、テロンが演じるのは、「ラスコリニコフの肖像」という作品。なによりもタイトルに惹かれる。というより、タイトルが気になって見に行ったようなものだ。ラスコーリニコフ(ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公)は、私がもっとも関心を寄せている小説中の人物の一人である。

「ラスコリニコフの肖像」の上演時間は25分ほど。テロンは滑らかで勢いのある「動」の部分と、緊張感漲る「静」の部分を演じ分ける。ノイズが観客の耳の中に入り込んできて、ラスコリニコフの焦燥感が、こちらの心にもダイレクトに伝わるかのようだ。もちろん、テロンのことなので、ユーモアにも欠けていない。
そして、突然、ノイズをかいくぐるように、J・S・バッハの『マタイ受難曲』の冒頭部分、「来たれ、娘達よ。我とともに嘆け」が流れ始め、やがてその曲が会場を支配する。殺人を犯した自分への慰めなのか、救いの響きなのか。

『罪と罰』という小説の中で、最も印象深かった、大地への口づけのシーンがあったのかなかったのかはわからない。それらしいシーンはあったが、あくまで、「それらしい」シーンであった。ただ、それが大地への口づけでなかったとしても、慚愧と悔恨の(ような)感情は上手く表現されていたと思う。

ラストでジーン・ケリーの「雨に唄えば」が流れるのは、少々、能天気な気がするが、演出意図はなんとなくわかる。


舞台公演を観るというのは疲れるものだ。何といっても舞台上から演じ手のエネルギーがビュンビュン飛んでくる。それを受け止めなけれならない。当然、こちらにも相応のエネルギーは必要であり、疲弊する。

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2020年7月24日 (金)

SPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優、教科書朗読 芥川龍之介 「トロッコ」 朗読:美加理

ク・ナウカ時代から宮城聰作品のヒロインとして活躍してきた美加理の朗読。

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2020年6月19日 (金)

SPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優、教科書朗読 太宰治 「走れメロス」 朗読:大高浩一

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2020年6月 6日 (土)

配信公演 浅草九劇オンライン 柄本明ひとり芝居「煙草の害について」(劇評。文字のみ。関連リンクはあり)

2020年6月5日 東京の浅草九劇からの配信

午後7時30分から、オンライン型劇場に模様替えした浅草九劇の配信公演、柄本明ひとり芝居「煙草の害について」を観る。事前申込制の有料公演である。配信はVimeoを使って行われる。

配信公演への入り口となるURLは開演1時間ほど前に送られて来たのだが、メールソフトの調子が今日もおかしく、HTML形式のメールの画像がダウンロード出来ないので、返信やら転送やらのボタンを押して、無理矢理別の形式に置き換えて見る。返信を押した場合、更に「返信をやめる」を押すのだが、それでも返信されてしまう場合がある。

 

午後7時開場で、その直後に配信画面に入ったのだが、ずっと暗闇が続く。「LIVE」と視聴者数の文字は出ているので動いていることは確かだが、午後7時30分丁度になっても暗闇のままなのでブラウザの更新ボタンを押す。そのためか、あるいはそれとは関係なく配信の時間が来たからなのか、画面に舞台の背景が映る。臨場感を増すため、フルスクリーンにして視聴する。

 

「煙草の害について」は、アントン・チェーホフが書いた一人芝居である。オリジナルに近い形での上演は、MONOが京都芸術センターで行った「チェーホフは笑いを教えてくれる」というチェーホフの短編を連作にした作品の中で水沼健(みずぬま・たけし)が演じたものを観たことがあるのだが、上演時間が20分弱という短いものであるため、今回はチェーホフが書いた他の戯曲のセリフや歌などを加えて、上演時間1時間前後に延ばしたテキストを使用しての上演である。柄本版「煙草の害について」は、1993年初演で、書き直しを行いながら何度も上演を重ねているが、私は観るのは今日が初めてである。

柄本明が演じるのは、妻が経営する全寮制女子音楽学校の会計係兼教師であるが、恐妻家であり、今いちパッとしない男である。着ているベストも継ぎ接ぎだらけだ。

妻に命令されて、無理矢理「煙草の害について」というタイトルの健康に関する講演をすることになったのだが、彼自身は喫煙者であり、煙草の害に関する知識は辞書などで得たもの以外にはさほどない。当然ながらやる気もない。

音楽学校の生徒全員分のホットケーキを焼くよう妻に命じられて作ったのだが、体調不良で5人が食事をキャンセルしたため、妻から5人分を一人で食えと命じられ、食べ過ぎで体調不良である。妻からは「かかしんぼ」と呼ばれることがあり、かなり侮られている。

 

本編に入る前に、柄本明はアコーディオンを弾きながら榎本健一の楽曲「プカドンドン」(もしくは歌詞違いの「ベアトリ姉ちゃん」。サビの歌詞が一緒なので判別出来ず)を歌う。伴奏と歌がかなりずれることもあるが、あるいは浅草での上演ということでエノケンへのリスペクトも込めて歌われたのかも知れない。

体調が悪いので、持ってきた原稿の1枚目に向かってくしゃみをしたり、もうちょっと汚いものが出たため、それを丸めて棄てたのだが、実はそれが「煙草について調べた内容を書き記したメモ」だったため、それに気づいて、汚いのを承知で拾い、広げて読み上げるのだが、出したものでインクが滲んでしまい、上手く読めない。「イタリえば」と読んだが、実は「例えば」だったり、「中洲」という博多の繁華街ネタが始まるが、実際は「中枢神経」と書かれたものだったことが直後に判明したりする。男は「学がない」と自己紹介をしていたが、最後の辺りで「若い頃は大学で学問に励んだ」という話をしたり、音楽学校で理系から文系までの教養科目を幅広く教える能力があるため、謙遜しただけで、今は冴えないが少なくとも若い頃はかなり優秀と見られた人物であるらしいことがわかる。ちなみに彼の奥さん(「三人姉妹」に登場する怪女・ナターリヤの要素を入れている)は友人とフランス語で話すが、男の悪口を言うときはロシア語になるということが語られる場面があるのだが、帝政ロシア時代はかなり徹底したフランス指向の影響で上流階級はロシア語でなくフランス語を話していたという事実があり、奥さんもフランス語が話せて音楽がわかるということからハイクラスの出身であることがわかり、そうした女性と結婚出来た男も同等の階級出身である可能性が高い。あるいは彼も優れた才能と身分に恵まれながら時代の壁に阻まれて上手く生きられなかった「余計者」の系譜に入るのかも知れない。

「いざ鎌倉。鎌倉はどっち? ここは浅草だから」という話が出てきたり、「休憩」と称して下手隅にある椅子に腰掛けてバナナを食べた後で、ぶら下がっている紐に首を入れて揺らし、縊死するかのように見せた後で「ゴンドラの唄」を歌い、黒澤映画の「生きる」をモチーフにした演技を見せるなど、日本的な要素もちりばめられている。

とにかく妻や娘から軽視されているというので愚痴が多く、「誰でも出来る」結婚しか出来なかった(ただ今の人にとっては、結婚自体が高望みになりつつある。私も結婚していない。「私にも妻がいればいいのに」)不甲斐なさを述べるのだが、柄本明自身が奥さんである角替和枝を亡くしているということが透けて見えるような愛情吐露の場面もあり、妙に切なかったりする。

途中で後ろの方に座っていた学生風の若者が勝手に退出しようとしたのを見とがめたり、女子音楽学校の校則などの紹介が載っている本を客席に向かってロシア通貨で販売しようとする場面があったり(今回は無観客上演なので誰もいない)とステージ上だけでない空間の広がりを生む演技もある。

ラスト付近ではラヴェルの「ボレロ」が流れ、妻の影絵が浮かび、転調を伴う狂乱の内に芝居は終わる。

 

上演終了後、柄本は無人の劇場で演じるのは初めてだと語り、文化は生きることと同等であり、なくてはならないもの。なくなったら死んでしまうと熱いメッセージを語った。

 

初の配信ということもあってか、映像が時折途切れたりする。こちらの回線が悪い時もあったかも知れないが、スローモーションになった時には視聴者数が一気に20人ほど減ったため、観るのを諦めたかいったんログアウトしたかで、他の人が観ている映像にも問題が生じていることが察せられた。その後、観客数が一気に増え、ほどなくして画面も動き出した。

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