カテゴリー「秋」の17件の記事

2025年1月14日 (火)

コンサートの記(879) 平野一郎 弦楽四重奏曲「二十四氣」京都公演@大江能楽堂

2024年12月10日 京都市役所そばの大江能楽堂にて

午後7時から、押小路通柳馬場東入ル(京都市役所のそば)にある大江能楽堂で、平野一郎の弦楽四重奏曲「二十四氣」の演奏を聴く。二十四節気を音楽で描いた作品。演奏は石上真由子(いしがみ・まゆこ。第1ヴァイオリン)、對馬佳祐(つしま・けいすけ。第2ヴァイオリン)、安達真理(ヴィオラ)、西谷牧人(にしや・まきと。チェロ)。全員、タブレット譜を使っての演奏であった。

能楽堂での演奏ということで色々と制約がある。まずファンヒーターは音が大きいというので本番中は切られるため、寒い中で鑑賞しなくてはいけない。客席もパイプ椅子や座布団などで、コンサートホールほど快適ではない。音響設計もされていないが、能楽堂は響くように出来ている上に空間も小さめなので、弦楽四重奏の演奏には特に支障はない。

弦楽四重奏で、四季よりも細分化された二十四氣を描くという試み。24の部分からなるが、24回全てで切るわけにはいかないので、春夏秋冬の4つの楽章で構成されるようになっている。
作曲者の平野一郎のプレトークに続いて演奏がある。能舞台の上には白足袋でしか上がってはいけない(他の履き物で上がってしまうと、板を張り替える必要があるため、膨大な金額を請求されることになる)ので、全員、白足袋での登場である。白足袋で演奏するクラシックの演奏家を見るのは珍しい。

 

平野一郎は、京都府宮津市生まれ(「丹後國宮津生」と表記されている)の作曲家。京都市立芸術大学と同大学大学院で作曲を専攻。2001年から京都を拠点に作曲活動を開始している。
プレトークで、平野は二十四節気は中国由来だが、すでに日本独自のものになっていることや、調べ(調)などについての説明を行う。

 

「二十四氣」であるが、現代曲だけあって、ちょっととっつきにくいところがある。繊細な響きに始まり、風の流れや鳥の鳴き声が模され、ピッチカートが鼓の音のように響く。弦楽器の木の部分を叩いて能の太鼓のような響きを生んだり、ヴァイオリンが龍笛のような音を出す場面もある。旋律らしい旋律は余り出てこないが、ヴィオラが古雅な趣のあるメロディーを奏でる部分もある(チェロのピッチカートで一度中断される)。ヴァイオリンであるが、秋に入ってからようやくメロディーらしきものを奏でるようになる。
秋には楽器が虫の音を模す場面もある。チェロが「チンチロリン」(松虫)、ヴァイオリンが「スイーッチョン」(ウマオイ)の鳴き声を模す。
冬の季節に入ると、奏者達が歌いながら奏でるようになり、足踏みを鳴らす。面白いのは四人のうちヴィオラの安達真理のみ左足で音を鳴らしていたこと。どちらの足で出しても音は大して変わらないが、おそらく左足が利き足なのだろう。
演奏時間約70分という大作。豊かなメロディーがある訳ではないので、聴いていて気分が高揚したりすることはないが、日本的な作品であることは確かだ。四人の奏者の息も合っていた。

演奏終了後に、安達真理がお馴染みの満面の笑みを見せる。彼女の笑みは見る者を幸せにする。

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2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

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2020年10月 8日 (木)

コンサートの記(660) 幸田浩子 「美しき日本のうた 秋」2020

2020年10月3日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、「美しき日本のうた 秋」を聴く。ザ・シンフォニーホールが、季節ごとに日本を代表する歌手を招いて送るリサイタル。今回は大阪府出身の人気ソプラノ、幸田浩子が登場する。ピアノ伴奏は、作・編曲家でもある藤満健。

大阪府豊中市出身の幸田浩子。幸田姉妹の妹さんである。実姉はヴァイオリニストの幸田さと子(本名:幸田聡子)。150年程度の歴史しかない日本のクラシック音楽界において、「幸田」という特に珍しくもないがありふれてもいない苗字の姉妹が二組いる(もう一組は日本クラシック黎明期の幸田延、幸田幸の幸田姉妹。幸田露伴の妹である)、というのは結構不思議なことだと思われる。日本を代表する音楽家姉妹は他にも何組かいるが、ピアノの児玉姉妹も幸田姉妹と同じ豊中出身である。豊中市には大阪音楽大学もあり、音楽が盛んなところである。大阪府立豊中高校を卒業後、東京藝術大学声楽科に進学し、首席で卒業。同大学大学院を経て、文化庁オペラ研修所で研鑽を積み、イタリアに渡る。ヨーロッパで多くのコンクールで好成績を収め、ウィーン・フォルクスオーパーと専属契約を結んだことで有名になっている。美人クラシック音楽家の一人であり、人気も高いが、容姿以上に(まあ、当たり前であるが)ハイトーンボイスの魅力で高い評価を受けている。二期会会員。

幸田浩子とコンビを組むことも多い藤満健も東京藝術大学と同大学院を修了。作曲専攻で学んでおり、修士作品は東京藝術大学が買い上げている。作曲コンクールで好成績を上げている他、ピアニストとしても活躍。ピアノ伴奏だけでなくリサイタルも開催している。1995年から2008年まで桐朋学園大学講師を務め、2006年からは桜美林大学の音楽専修講師として後進の指導に当たっている。録音なども多く、映画「おくりびと」ではピアノ演奏を担当している。
藤満も西宮生まれの芦屋育ちということで関西人である。

 

新型コロナウイルスの影響で、制限された中での演奏活動が続けられているが、クラシックの中でも声楽は飛沫が前に飛ぶため最も危険とされており、オランダの合唱団でクラスターが発生するなど、自由な活動が行えなくなっている。日本の年末の風物詩でもある第九演奏会も今年は中止が相次いでおり、京都市交響楽団も第九演奏会でなく「チャイコフスキー・ガラ」を行うことが正式に決まっている。
だからといって声楽のコンサートは全て中止というわけにもいかないので、今日のコンサートも厳戒態勢の中、実施される。

まず事前に発売されたチケットは、ソーシャルディスタンスを保つために振替となる。振替となったチケットには、大きい方に氏名、住所、電話番号を記す必要があり、半券といっても小さい方ではなく大きい方をボックスに入れる。
検温もサーモグラフィーは使うのだが、より正確に測定出来ると思われる柱状のものを用い、3人ずつの検温が行われる。出入り口付近担当のスタッフはフェイスシールドを着用しての対応である。また、陽性判定者が一人も登録しなかったことで「無意味では」と問題視された大阪府独自の追跡サービスもQRコード読み取りで登録出来るようになっている。「特典なしでは使って貰えない」という結論が出たのか、ポイントを貯めると景品が当たるチャンスを得るシステムに変わっている。
アナウンスでは、最新式の除菌システムが採用され、また10分でホール全体の空気が入れ替わる換気装置が作動していることが告げられる。

「5mは離れている必要がある」ということで、ステージに近い前から5列程度は未使用となり、他の席も前後左右最低1席は空けてのフォーメーションとなる。

 

曲目は、第1部が、「この道」、「かやの木山の」、「赤とんぼ」、「からたちの花」、「鐘が鳴ります」、「ばらの花に心をこめて」、「ちいさい秋見つけた」、「里の秋」、「花の街」、「ひぐらし」、「舟唄(方戀)」、「希望」。第2部が、「浜辺の歌」、「椰子の実」、「浜千鳥」、「初恋」、「悲しくなったときは」、日本のうたメドレー(藤満健ピアノ独奏)、「このみち」、「奇跡~大きな愛のように」、「糸」、「見上げてごらん夜の星を」

第1部の前半は山田耕筰作品が並び、秋の歌を経て團伊玖磨作品が4曲続けて歌われる。第2部は前半が「海」を歌った作品で固められ、藤満健のピアノソロを経て、近年作曲された作品やポピュラー楽曲で締められるという構成である。

 

前半は、幸田は真っ赤なドレスで登場。昨日、友人から譲られたばかりのものだという。
楽曲の間に幸田がマイクを手にトークを行うというスタイルで進行していく。
大阪出身ということで、「大阪はまさに故郷」ということから始まり、公開での演奏活動が約半年ほど止まってしまったことなどを語っていた。

冒頭から山田耕筰作品が並ぶが、幸田の母校である豊中高校の校歌が、北原白秋作詞・山田耕筰作曲のものということで思い入れがあるそうだ。と言いつつ、歌詞などはもう忘れてしまっていたそうだが、幸田がそういう話をしているということを知った高校時代の友人達が歌詞をコピーして送ってくれたという。多くの伝統校がそうであるように豊中高校も最初は男子校としてスタートしてるため、校歌も「質実剛健」という言葉から始まる男子校風のものだそうである。

美声を生かしたスケールの大きな歌唱を持ち味とする幸田浩子。日本の童謡を歌うにはもっと素朴な声の方が合っているのかも知れないが、美声でスケール雄大でありながら素朴というのはあり得ないので、声の魅力を楽しむ。素朴な歌声を楽しみたいなら他の歌手で聴けば良い。

團伊玖磨の歌曲は聴いたことのないものばかりだったが、歌詞の生かし方が巧みである。「希望」は北原白秋の詩で、シンプルなものであるが、シンプルであるが故の盛り上がり方を見せ、魅力的な仕上がりとなっていた。

第2部の「海」の歌曲集。私は海に囲まれた千葉県出身だけに「海」を扱った曲には思い入れがある。幸田浩子はクリーム色の衣装に着替えて登場。有名な楽曲が並ぶが、「浜千鳥」の計算された歌声と、寺山修司作詞である「悲しくなったときは」の物語性の的確な描写が印象に残る。

藤満健のピアノソロによる「日本のうたメドレー」は、四季を代表する童謡を藤満自身が編曲したものが演奏される。印象派風の編曲による「朧月夜」に始まり、「夏の思い出」、「もみじ」を経て、「雪の降るまちを」が演奏されるのであるが、「雪の降るまちを」の演奏前には出だしがよく似ていることで知られるショパンの幻想曲ヘ短調冒頭の演奏が挟まれるなど、クラシックファンをくすりとさせる仕掛けが施されていた。

「このみち」は金子みすゞの代表的童謡の一つに伊藤康英がメロディーを付けたものである。金子みすゞの童謡に曲を付ける試みは以前から行われているが、金子みすゞの童謡は、独創的な着眼点や日本語の響き自体の美しさを特徴としているため、メロディーが負けることが多く、これまで成功した例がほとんどない。今回の「このみち」も童謡を読んだ時の印象とかけ離れているため、成功とは言い難いように思う。やはり金子みすゞの童謡は童謡として読むべきものなのだろう。
「このみち」は仏教的要素、特にみすゞが信仰していた浄土真宗本願寺派の影響が顕著であり、「サンガ」的解釈をするのが正解であろうと思われる。

 

多くのシンガーにカバーされていることで知られる中島みゆきの「糸」。幸田は後半をオペラ的なアレンジによるもので歌った。こうしたアレンジに好き嫌いはあると思われるが、最後の一節は原曲のメロディーに戻るため、安心感が得られるという良さもある。

 

「見上げてごらん夜の星を」は、当初はお客さんにも歌って貰おうということで無料パンフレットの裏表紙に歌詞を載せていたのだが、コロナなので大勢で歌うのはやはり「よろしくない」ということで、お客さんには心の中で歌って貰うということになる。
実際には小声で歌う人も何人かいたが、マスク着用必須であり、小声ならそうそう飛沫も飛ばないので問題なしだと思われる。

 

アンコールは2曲。まずは、今や日本語歌曲の定番となった感もある武満徹の「小さな空」。「ポール・マッカートニーのようなメロディーメーカーになりたい」と願いつつ、基本的には響きの作曲家として評価された武満徹。歌曲の旋律は「素朴」との評価もあるが、幸田による「小さな空」を聴いていると、広がりのあるメロディーラインが浮かび上がり、生命感に溢れていることが感じられる。「素朴」というこれまでの評価はあるいは誤りなのかも知れない。今日のコンサート全編を通して、この「小さな空」が幸田の個性に一番合っていた。

最後は、沼尻竜典の歌劇「竹取物語」よりかぐや姫の「告別のアリア~帝に捧げるアリア」。初演時に幸田がかぐや姫を演じて好評を博した歌劇「竹取物語」。今年、東京の新国立劇場と、沼尻竜典が芸術監督を務める滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールでの再演が行われるはずだったのだが、コロナのために中止となっている。
幸田の最大の持ち味である高音を駆使した哀切な歌唱となっていた。

 

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2020年8月 6日 (木)

美術回廊(55) 京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」

2020年7月31日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」を観る。

新型コロナウィルスにより、多くの行事が流れてしまった京都。その京都の四季の彩りを再確認するために京都国立近代美術館所蔵品を中心として開催されている展覧会である。

階段を上ると「晩夏」から、エレベーターを使うと「初夏」の展示から観ることになる展覧会。階段を使って「晩夏」より入る。

四季を更に細分化した二十四の季節を持つ日本。古代中国由来なので、必ずしも今の暦と符合するわけではないが、恵みと脅威を合わせ持つ自然に対する細やかな意識が察せられる区分である。

 

階段を上がったところに、北沢映月の「祇園会」という屏風絵が拡げられている。1991年に京都国立近代美術館が購入した絵だ。「小暑」の区分である。
京舞を行っている母親をよそ目に、祇園祭の鉾の模型で二人の女の子が遊んでいる。一人は鉾を手に転がそうとしているところで、もう一人はそれを受け止めるためか、片手を挙げている。動的な絵である。

不動立山の「夕立」は、おそらく東本願寺の御影堂門と烏丸通を描いたと思われる作品である。昭和5年の作品なので、京都駅は今のような巨大ビルではないし、京都タワーもなかったが、それを予見するかのような高所からの俯瞰の構図となっている。これは不動茂弥氏からの寄贈である。

「大暑」では、丸岡比呂史の「金魚」という絵が出迎える。昨日観た深堀隆介の金魚とは当然ながら趣が異なり、愛らしさが前面に出ている。

同じタイトルの作品が並んでいるのも特徴で、「処暑」では、福田平八郎の軸絵「清晨」(どういう経緯なのかはよく分からないが、旧ソヴィエト連邦からの寄贈)と深見陶治の陶器「清晨」が並んでいる。趣は大分異なるが、各々が感じた朝の気分である。

具体美術協会を起こしたことで知られる吉原治良(よしはら・じろう)の作品もある。「朝顔等」という絵だが、朝顔の周りに海産物が並べられており、海は描かれていないが海辺であることが示唆されている。夫人による寄贈。

 

「立秋」にはこの展覧会のポスターにも使われている、安井曾太郎の「桃」が展示されている。邪気を払う特別な果物だ。

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「中秋」では、京都画壇を代表する女性画家である上村松園の「虹を見る」(文化庁からの管理換)という屏風絵が素敵である。虹は右上に小さく描かれ、それを若い女性と母親と赤ん坊が見上げるという作品であるが、虹がまだ何かもわからない年齢なのに惹かれている赤ん坊が特に印象的である。

「秋分」では、小川千甕(おがわ・せんよう)の「田人」という作品が「その先」の想像をくすぐる出来である。2001年度購入作。

俳優の近藤正臣の親族としても有名な陶芸家の近藤悠三の作品もある。堂々とした作風である。

 

坂本繁二郎の「林檎と馬齢著」(立冬)。全く関係ないが、最近観た見取り図の漫才ネタを思い出す。

 

秋野不矩の「残雪」(「初春」。1985年に作者が寄贈)。これも関係ないが中国を代表する前衛小説家の残雪の作品を最近は読んでいない。急に読んでみたくなったりする。

「仲春」には花と蝶を題材にした絵画が並ぶ。久保田米僊(くぼた・べいせん)の「水中落花蝶図」、枯れて水面に落ちた花弁と、その上を舞う蝶が描かれており、動物と静物、しかも盛りを過ぎた静物との対比が描かれている。2005年度購入作。

 

「春分」には今も花見の名所として名高い円山公園を描いた作品がいくつか登場する。

「晩春」では、藤田嗣治や長谷川潔が手掛けた「アネモネ」という花の絵が美を競っている。アネモネは色によって花言葉が違うようだが、調べてみると紫のアネモネの花言葉は「あなたを信じて待つ」であり、赤のアネモネの花言葉は「辛抱」であった。

 

「立夏」には葵祭を題材にした伊藤仁三郎の絵が2点(2002年寄贈作品)並び、苺の収穫を描いた小倉遊亀(寄託作品)の作品もある。

「夏至」には千種掃雲の「下鴨神社夏越神事」(2005年度寄贈)、更に美術の教科書によく作品が登場する安田靫彦の「菖蒲」(2000年度購入)などがある。

 

そして階段から入った場合、最後の展示となるのが川端龍子(かわばた・りゅうし)の「佳人好在」(1986年度購入)。佳人(美人)の部屋を描いた作品だが、佳人は登場せず、並んだ小物などから佳人の人となりを想像させる絵となっている。これが今日一番気に入った絵となった。これぞまさに「不在の美」である。

 

京の行事はこの一年、ほぼ全て幻となってしまったが、展示された美術作品の数々の中に、悲しみと同時に希望を見出すことになった。
「京都は京都」幾多の災難を乗り越えた街であり、いつかまたこれらの作品に描かれているような愉しみが復活するのは間違いないのだから。

 

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2019年11月10日 (日)

第62回祇園をどり 「千紫万紅倭色合(せんしばんこうやまとのいろあい)」全八景

2019年11月5日 祇園会館にて

午後4時から、祇園会館(よしもと祇園花月)で第62回祇園をどりを観る。当日券を買い、補助席での鑑賞。

五花街の中で唯一、秋に公演の行われる祇園をどり。祇園東の芸妓と舞妓による上演である。
実は五花街のをどりの中で最初に観たのが祇園をどりである。その後、鴨川をどり、京おどり、都をどりの順で観ているが、上七軒の北野をどりは離れた場所にあるということもあってまだ観たことはない。

祇園をどりを観るのは15年ぶり。「猫町通り通信」を始めて最初の秋に観ているので覚えている。当然ながら記事も残っていて読むことも出来るが、大したことは書いていないので読み返す価値はない。
祇園東の歌舞練場である祇園会館であるが、15年前はまだ吉本興業の小屋ではなく、通常は映画の二番館として営業していた。往時の祇園をどりは、舞妓が少なく、芸妓も年上の方が多く、それでも足りないのでご年配の方まで登場していて、祇園東の窮状が見ているだけで伝わってきたのだが、今では舞妓も増えて大分持ち直しているようである。15年前は舞妓(そもそもは「半人前」の意味である)も今ほどもてはやされていなかったようにも記憶しているが、映画で舞妓がよく取り上げられるようになったということもあってか時代は変わった。現在は、祇園東には舞妓が7人いるようで、舞妓だけによる舞の場面も上演出来る。

「千紫万紅倭色合(せんしばんこうやまとのいろあい)」と題された公演であり、令和改元御祝「紫宸殿の庭」「籬(まがき)の禿(かむろ)」「雪むすめ」「黒木売り」「三社祭」「春野の蝶」「花街十二階」「祇園東小唄」の八景が上演される。監修は藤間紋寿郎、演出振付は藤間紋、脚本構成は塩田律、作曲は清元菊輔&杵屋勝禄、作調は藤舍名生&中村寿鶴。

 

祇園会館は現在はよしもと祇園花月として運営されているということで、ロビーには吉本の大崎洋会長と記者会見で話題になった岡本昭彦社長からのお花が飾られていた。

15年前の記憶はほとんどないが、視覚的にほぼ同じ位置から舞台を眺めていたことは映像として残っている。15年前も当日券で入ったため、おそらくほぼ同じような場所で観ているのだろう。

まず「紫宸殿の庭」(紫の踊り)では、聖武天皇の「橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉の木」をアレンジした、「橘は実さえ花さえその葉さえ霜降りてなお常盤の木」という歌詞が歌われる。桜も「花」という名で出てくるが、常緑の木である橘の方が、新元号令和の長久を願うのに相応しいだろう。
「左近の桜 右近の橘」と呼ばれ、桜と並び称された橘だが、いつの間にか華々しく咲いて散る桜の精神こそが大和魂ということになってしまっている(本居宣長 「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」)。常に変わらぬ橘の精神もあってこその桜だと思うのだが。桜と橘が両輪であったことを思い直すのも良いだろう。この上演ではセリが多用されており、つね和が一度下がってからから瑞兆を表す紫雲に乗って現れることで目出度さを演出した。

「籬の禿」(赤の踊り)では、まりこが赤い可憐な着物姿で登場、続く「雪むすめ」(白の踊り)は雪の背景の中での踊りであり、紅白の対比で縁起の良さを表現する。続くは黒の踊り「黒木売り」。つね和一人での舞である。

ここで、舞妓5人が客席に登場。聖徳太子の冠位十二階は、6つの色に濃淡を加えた12の色で身分を表したという話をする。セリフはつたないが、それこそが舞妓の売りだったりする。

青の踊り「三社祭」は男装しての踊りである。昨年の南座での顔見世でも観た演目であり、善玉と悪玉の面をして舞う。

「春野の蝶」では、照明が鮮やかな効果を上げる。15年前に祇園をどりを観た時には「思ったより地味だな」と思ったものだが、今回はかなり絵になる演出となっている。

舞妓5人による「花街十二階」。冠位十二階の色を祇園東の光景に例えた舞踊で、舞妓達がラスト付近で「おたのもうします」と言う。実は今日は小さなお子さんが客席の上の方でずっとなんかを言っている状態だったのだが、ここでその子が「おたのもうします」と真似て返す。おぼこさを売りにしている舞妓であるが、本当の子どもの声の方が可愛いので客席から笑いが起こる。舞妓さん達が食われてしまった格好であった。

ラストの「祇園東小唄」。総出での舞である。舞妓さんも可愛らしいが、こうして一緒に踊る姿を見ると、技術以外の部分でも芸妓さんとは差があるのがわかる。おひねりが撒かれ、華々しいうちに祇園をどりの幕は下りた。

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2018年11月 3日 (土)

笑いの林(106) ファミリーレストラン 「ファミレスライブ in 滋賀 Vol.76」~秋の大運動会SP~

2018年10月27日 滋賀県野洲市の野洲文化ホール小ホールにて

人口約5万人の小都市、滋賀県野洲市へ。午後3時開演の、野洲文化ホール小ホールでのファミリーレストラン単独公演「ファミレスライブ in 滋賀 Vol.76」を観に来たのである。
来ている人の話から察するに、ほとんどの人が地元・野洲在住のようである。祇園花月でのファミリーレストランの公演には若い女の子がたくさん駆けつけるが、その子達は野洲まで追いかけてきたりはしないようだ。設備が大都市のものに比べると貧弱ということもあるのかも知れない。ファミリーレストランの二人がお客さんの名前を知っているため、常連の人が多いこともわかる。

入場時にくじ引きのようなことをする。しもばやしの一発ギャグを書いた紙が入っており、引いた紙に書かれたギャグと同じものをしもばやしがラストに行った場合は、ファミリーレストランの二人のサイン入り写真を貰うことが出来る。

今日は「秋の大運動会スペシャル」と銘打たれた公演。全席自由であり、しもばやしを応援したい人は中央の通路を挟んで上手に置かれたパイプ椅子席に、ハラダを応援したい人は同じく下手の席に座ることになる。私は下手側の席を選ぶ。

ファンの数であるが、しもばやし側が多い。しもばやし側が前の方から詰めて座っているのに対し、ハラダ側は前から2列目までは全て埋まってるが、それ以降は真ん中や端の席が空いている。

しもばやし側の前の方に座っている人の中にはサイリウムを振っている熱心なファンもいる。

というわけで、登場したしもばやしは喜び、ハラダは落ち込む。サイリウムを振っている人達は以前からいたが、全員しもばやしファンだったようで、ハラダはガックリのようである。客入り時の客席の映像を二人はモニターで確認していたのだが、しもばやし側が明らかに多いため、ハラダは構成作家さんにも「これが結果ですよ」などと言われたらしい。

まずは二人によるトーク。しもばやしが最近、久しぶりにハラダが出てくる夢を見たらしい。二人でライブに出ていたところ、突然、お客さん達がキョンシーと化し、襲いかかってくるという夢である。ハラダの掴みのギャグである「いらっしゃーせー!」をお客さんとやる時に、ハラダは「まず腕を前に伸ばして下さい」と言うのだが、お客さんの様子を見て「皆さんキョンシーみたいですね」ということがあるそうで、それが頭の片隅にあっての夢らしい。二人で建物の影に隠れて息を潜めていたが、キョンシーが襲ってきたため、ハラダが「ここは俺に任せてお前は逃げろ!」と言ったそうである。ハラダのキャラではないらしいのだが、夢の中での出来事なので違う性格になったらしい。地下室に逃げ込んだしもばやしは、何故かそこに麒麟の田村裕を見つけ、田村は「みんなここに段ボールあるで」と言って段ボールを食い始める、というのは田村の『ホームレス小学生』の影響らしいのだが、その後、地上に出たしもばやしは、街が廃墟のようになっているのを見て愕然。とそこに、キョンシーがただ一人(数詞は「人」でいいのかな?)ピョンピョンとこちらにやって来ることに気づく。それがキョンシーと化したハラダであり、ハラダは立ち止まって、両手を突き出し、「いらっしゃーせー!」って、どんな夢なんだそれ。

ハラダの方は最近夢を見ないらしいのだが、それは酒を飲んで寝るからだそうで、酒を飲んで落ちるのは寝入るのではなく失神するのと一緒であり、つまり寝ているわけではないので疲れが取れないそうだ。

漫才を二つやってからコーナーがある。今日のコーナーは大運動会で、ハラダが赤の、しもばやしが白のTシャツに着替えて様々な種目を競う。観客参加のものが多い。


漫才。
まずは、ハラダが「滋賀県を盛り上げるために知事選に立候補」するようしもばやしに提案する。ハラダは「お前のためならウグイス嬢でもなんでもやったる」と言うのだが、いざ、しもばやしを候補として紹介する段になると、ボートを漕ぐ真似をして、何故か琵琶湖の真ん中で候補紹介を始めようとしたり、サービスエリアを舞台にしようとしたり(滋賀県内のサービスエリアには人が多いが、大半は滋賀県外の人達だそうである)、街中でやるのはいいが「ライバルがいない時間にアピール」ということで深夜2時に行おうとする。
最後は集まった人に袖の下を使ったり、演説が終わったと思ったら園児達の前でのものだったりする。


二つ目の漫才も滋賀県ネタ。滋賀を盛り上げるためにご当地アイドルを作ろうとしもばやしが提案し、ハラダが具体的なプランを語るのだが、女性アイドルグループの名前がE-girls。しもばやしが「E-girlsというグループはもうあるやん」と言うが、ハラダは「字が違うねん。井戸の『井』に伊藤園の『伊』で『井伊ガールズ』」と彦根藩主ネタにしたり、男性アイドルグループ「近江米ふっくら2」とKis-My-Ft2のばった物を提案したり、「ここって近畿? キッズ」と言って、しもばやしに「バリバリ近畿や!」と突っ込まれる。
今度は滋賀県を舞台にしたドラマを作ろうとしもばやしが言い、有名なドラマの滋賀版のタイトルをハラダが挙げるのであるが、「花より男子」が「滋賀より京都」になり(ハラダに言わせると、「知名度」「人口」「観光名所の数」「都市としての規模」「都会度」など全て京都の方が上だそうだ)、「世にも奇妙な物語」が「とても微妙なものばかり」になるらしい。更に朝ドラ「半分、青い。」の滋賀版を「半分、琵琶湖。」と言って、「半分もないわ! 6分の1や!」としもばやしに突っ込まれる。「絶対零度」は「絶対京都」になるそうで、ただ「ひとつ屋根の下」は「ひとつ奈良の上」となり、滋賀は奈良よりは上らしいのだが、奈良県人は奈良県人で「滋賀よりは上」と思っているそうだ。歴史的に見ると天智と天武ということになるだろか。その後は、有名ドラマに似た名前を持つ滋賀県の施設が挙げられていく。
しもばやしがCMを作ろうと提案して、ハラダがCMの内容を演じてみるのだが、すでに廃業になったホテルのCMをやったり、滋賀県人を馬鹿にする京都人の様子が演じられ、「滋賀県人を見下す京都人へ、『琵琶湖の水止めるぞ!』」というACジャパンのCMになったりする。


コーナー「秋の大運動会スペシャル」。まずは客席から男性1人女性1人を選んで、1チーム3人でその場で1人10秒間ダッシュしてバトンを繋ぎ、バトンの先につけた万歩計の歩数を競うというもの。若い人や子ども達の方が有利である。その後も、プラスチックのバットを立てて頭に当て、10回回ってからパン食い競争を行ったり、4人で卓球のドリブルとラリーを行い、4人目が筒型のケースにボールを入れるという競技があったり(元卓球部の男性が出場したが、卓球を辞めてから19年が経過ということで活躍出来ず。というより卓球は基本的にドリブルは反則になるため、やった経験がないと思われる)、パンストの端と端をかぶって引っ張るパンスト相撲を行ったり(途中でDA PUMPの「U.S.A」が流れ、その時は競技を止めて踊る)と様々な種目が行われる。ファミリーレストランの二人ももう40代であるため、一つの種目が終わるごとにヘトヘトになり、水を飲んだり小休憩を入れたりする必要がある。

最後は、借り人競争。観客は事前にアンケート用紙に書かれた「ハイテンション『 』」の『』内を単語一つで埋めておき、茶封筒に入れておく。ファミリーレストランの二人がそれを受け取って舞台上で演じるというものである。
私も、「野洲といったら野洲高校の『セクシーフットボール』だよな」ということでそう書いておき、ハラダが演じることになったのだが、ハラダは「セクシーフットボール」が何か知らなかったようで、単なる「セクシーに行うフットボール」をやっていた。ファミリーレストランのネタに、ボクサーに扮したしもばやしにハラダが「ストレートをセクシーによける」と無茶ぶりするものがあり、それも念頭にあったので良かったりもするのだが、滋賀県住みます芸人であり、野洲で何度も単独ライブを行っていながら、野洲高校の「セクシーフットボール」を知らないというのはあってはならないこと、という程ではないがかなりまずいように思う。ハラダは京都人で、サッカーに詳しくない場合は「セクシーフットボール」がなにかわからなくても仕方ないのかも知れないが、お客さんは野洲の方々で意味は当然知っているだろうし。

結果は、しもばやしチームの勝利となり、しもばやしを応援する席に座ったお客さんが全員舞台上に上がって記念写真を撮るという特典が与えられた。これは嬉しいだろうな。

ラストは先に書いたとおり、しもばやしの一発ギャグ抽選。しもばやしもくじを引いて演じる。同じくじを持っていた5名の方にプレゼントが贈られた。


色々あったが、野洲サイズの都市で毎月こうしたライブが行われているというのは素晴らしいことだと思う。地方創生のモデルとして他の自治体の参考になることだからだ。おらが街の芸人がいて、毎月会うことが出来て、プレゼントも貰える。老若男女みんなで、あるいは家族ぐるみで応援出来る。こうしたことが本当の文化だと思える。ちょっと感動してしまった。


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2018年9月26日 (水)

コンサートの記(430) 井上道義指揮 京都市交響楽団 第22回 京都の秋 音楽祭開会記念コンサート

2018年9月16日 京都コンサートホールにて

午後2時から京都コンサートホールで、第22回 京都の秋音楽祭開会記念コンサートを聴く。演奏は京都市交響楽団、指揮は元京都市交響楽団音楽監督兼常任指揮者の井上道義。

前半はホルストの組曲「惑星」、後半がショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」というプログラム。

今日のコンサートマスターは客演の男性奏者。誰なのかはわからない。わかった書くことにする(東京交響楽団のコンサートマスターである水谷晃だったようである)。泉原隆志は降り番でフォアシュピーラーに尾﨑平。
今日は両曲共に実力の高い奏者が必要ということで、管楽器は前後半とも多くの首席奏者が顔を揃えていた。

まず、門川大作京都市長による開会宣言がある。門川市長は今年の夏がことのほか暑かったこと、3日続きの豪雨に地震、3つの台風が京都を襲ったことに触れ、日本の各地でも地震が水害が起こったことも述べて、「鎮魂と復興の祈り」を捧げる演奏会にしたいと語った。

ホルストの組曲「惑星」。オーケストラピースとして人気の曲で、録音では次々と名盤が生まれているが、コンサートで取り上げられる回数も増加中である。
近年の京都市交響楽団に於いては、ジェームズ・ジャッドが定期演奏会で演奏している。

井上登場。ポディウム側と正面に向かって手を振る。相変わらずキザである。

輝きと迫力に溢れる音を響かせる京都市交響楽団にピッタリの曲である。ただ、合奏は良いのだが、ソロになると実力を発揮出来ていないように感じられることも多く、イタリアのオーケストラと真逆である。サッカーでのスタイルも一緒なので国民性なのだろう。
「火星」の迫力、「金星」の美的センス、「水星」の浮遊感、「土星」での奥行き、「天王星」での神秘感の表出などいずれも長けているが、「木星」では造形の端正さをもっと望みたくなる。なお、「海王星」の女声合唱はシンセサイザーを使用。演奏終了後に井上が女性奏者を連れてステージに登場し、ジェスチャーで「彼女が弾いたの」と示した。

ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。
演奏の前に井上がマイクを手に「少しお話しして良いですか?」と言いながら現れる。
「市長はもう帰っちゃったかな?」と下手袖を振り返り、「京都の秋音楽祭開会記念コンサート、おかげさまで完売だそうで、切符安かったからね」
「今日のコンサートは僕の歴史を振り返るプログラムにしてみました。京都コンサートホールが出来る前、僕が(小学校2年生ぐらいの少年が最前列を通るのを見て)これぐらいだった時、京都市交響楽団とホルストの『惑星』を録音しまして」と語る。井上道義指揮京都市交響楽団による「惑星」のCDは、今では手に入らないようだが、発売当時話題になったものである。同時期にNHK教育テレビ(現在のEテレ)で、京都会館でだったと思うが、井上と京都市交響楽団の演奏による「惑星」演奏の模様も放送されている。今と違って京響はそれほど上質のアンサンブルを誇っていたわけではなかった。

井上が就任した当時は、京響は旧京都会館を本拠地としていたのだが、「とにかく響きが悪くてねえ」。定期演奏会での集客も振るわず「がらんどう状態」。とにかく響く曲はないかと色々やってみたのだが全て駄目。ショスタコーヴィチをやった時は良く聞こえるような演奏が出来たのだが、「皆さん、ショスタコーヴィチお嫌いでしょう?」
ショスタコーヴィチには、「ソビエトの思想のようなもの」が込められていると勘違いしているというのがその理由だと語り、ロシアでもサンクトペテルブルクとモスクワ以外ではショスタコーヴィチの交響曲はほとんど取り上げられていない、取り上げられたとしても5番だけという状態が今も続いているそうだ。否定されたソビエトを代表する作曲家だと誤解されているのがその理由らしい。

その後、井上は交響曲第12番「1917年」におけるトロンボーンのメロディーがスターリンを象徴しているという話を始めたのだが、ただでさえ京都コンサートホールのスピーカーは音が聞き取りにくい上に、私の席のすぐそばでチケットをめぐる問題(前半、私の席の隣2席が空いていたのだが、その横にいた二人が、もう人が来ないものだと思い込んで休憩中に席を詰めたところ、その席の人が来てしまった)があってレセプショニストさんとお客さんとでやり取りがあったためよく聞こえなかった。ただ、どこでどうなるのかは想像出来る。

ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」は冒頭で響く英雄的で悲劇的なメロディーと、その後に現れる「歓喜の歌」にオマージュを捧げたブラームスの交響曲第1番第4楽章のパロディーのようなチョイダサの旋律の二つが軸となる。他の要素も勿論あるが、この2つの歌は全編を通して循環形式のように何度も繰り返される。
悲劇的な旋律にチョイダサ歓喜的歌が勝って凱歌になりかけるのだが、突如としてメロディーが消え去れ、茫漠とした弱音が響く場面は、「勝利の白昼夢が破られたかのような衝撃」があり、印象的である。
トロンボーンが活躍した後で、弦楽が恐ろしげな音を出す場面があるのだが、井上が語っていたのはここだと思われる。
悲劇的旋律はその後も同じ形で登場するのだが、チョイダサ歓喜の歌はその後、音が分散されたり、短調に変貌したりしながら現れる。全楽合奏の中でホルンだけが異質のことをしている場面もあるのだが、やがてトロンボーンがチョイダサ歓喜の歌を挽歌のように演奏。凄絶なラストへとなだれ込むのだが、勝利のための旋律が二つ合わさるのに破滅の音楽のように響くのが印象的である。

井上道義は大阪フィルハーモニー交響楽団ともこの曲を演奏しているが、京都市交響楽団は各楽器の音の輪郭がクッキリしているため、より分析的に聞こえる良さがあったように思う。

演奏終了後、井上はガッツポーズを見せ、最後は「俺じゃなくて京響を称えよ!」というジェスチャーをしていた。

ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」には駄作説も多く、音楽的にはショスタコーヴィチの他の交響曲に比べると皮相な印象で充実感に欠けるかも知れないが、聴きながら仕掛けられた謎を解き明かしていくという、ミステリー小説を読むような面白さがある。



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2011年9月17日 (土)

第15回「京都の秋音楽祭」が始まりました

京都の秋音楽祭が始まりました

本日9月17日から第15回「京都の秋音楽祭」が始まりました。京都コンサートホールを主会場に、京都市内の各ホールで11月末まで様々な公演が行われます。今日は午後2時から京都コンサートホール大ホールで第15回京都の秋音楽祭開会記念コンサート、広上淳一指揮京都市交響楽団による演奏会がありました。チケット料金が安く設定され、更に葉書応募による無料招待もあるということで、京都市交響楽団も経費を抑えるべく、管楽器の首席奏者を外すなど一軍半の編成で、傷もありましたが、広上の力もあって優れた演奏会になりました。

曲目
・デュカス 「ラ・ペリ」よりファンファーレ(京都市交響楽団金管奏者による、指揮者なし、ボックス席での演奏)
・リスト ピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:田村響)
・チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」第2幕全曲

感想はこちら

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2007年11月30日 (金)

紅葉の盛り

紅葉の盛り 北白川疎水沿いの紅葉

北白川疎水沿いの紅葉。写真では余りきれいに出ていませんが、実際は目に染みるほど鮮烈な赤です。

夏の酷暑の影響で遅れ気味だった京都の紅葉、今が盛りです。明日明後日は天気も良いとの予報が出ており、絶好の紅葉狩り日和となりそうです。ぜひ京都にお越しください。

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