カテゴリー「日本映画」の156件の記事

2020年10月25日 (日)

これまでに観た映画より(222) 麻生久美子主演「eiko」

2006年4月21日

DVDで映画「eiko」を観る。加門幾生監督作品。麻生久美子主演。

話の転がし方が実に巧い作品である。冒頭、駅前のシーン、秋森エイコ(麻生久美子)が様々な会社が配っているポケットティッシュを全部貰ってしまうことで彼女の断れない性格が示される。案の定、キャッチセールスの女性(南果歩が演じている)に引っかかり、96万円もする指輪を買ってしまう。しかしエイコは自分が騙されたことに気づいていない。彼女の部屋には、同様に騙されて買ってしまったと思われる健康器具が沢山。当然、借金もしている。借金取りの男(宇梶剛志が演じている)から、今日までに借金を返さないと売り飛ばすと脅されるエイコ。「明日お金が入るのでそれまで待って欲しい」と頼んだエイコだが、翌朝、出勤すると会社は倒産、社長の岡本は夜逃げしてしまっている。岡本のマンションを訪ねるが、そこには江ノ本という老人(沢田研二)が暮らしていて……。

人が良すぎて人生駄目駄目街道一直線のエイコ。本当にどうしようもない状態に陥ってしまって見ていて哀れになってしまう。男としては絶対に放っておけないタイプの女の子なのだが、実際に関わり合うと大変であることもわかる。

そんなエイコの成長を静かなタッチで描くのだが、脚本が巧みであり、映像も美しく、決してきれいな物語ではないのに観ていて心が温まる作品である。20代の女性のための童話という趣もある。

エイコを演じる麻生久美子はやはり巧い。麻生久美子は確かに美人だけれど飛び抜けて美人というわけではないし、ルックスだけならもっと上の女優も沢山いる。しかし自分が演じる人物のキャラクターを的確に把握して表現する力は抜きんでている。心理とセリフの一致させ方と突き放し方の両方がこれほど巧い女優は同世代では他にいないだろう。

ラストシーンも爽快で、観ていて元気が貰える。観る前はあまり期待していなかったのだが、拾いものの一本であった。「映画はリアリズムでないと絶対に駄目」という人は除いて、観て絶対に損はしない映画である。

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2020年10月18日 (日)

これまでに観た映画より(218) 月イチ歌舞伎(シネマ歌舞伎)「三谷かぶき 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち」

2020年10月13日 MOVIX京都にて

新京極のMOVIX京都で、月イチ歌舞伎(シネマ歌舞伎)「三谷かぶき 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち」を観る。京都市出身の漫画家、みなもと太郎の「風雲児たち・寛政編」より大黒屋光太夫の話を三谷幸喜の作・演出で歌舞伎化した作品である。出演:松本幸四郎、市川染五郎、片岡愛之助、市川猿之助、市川男女蔵、坂東彌十郎、坂東新吾、中村鶴松、大谷廣太郎、市川高麗蔵、八嶋智人、松本白鸚ほか。昨年6月に東京の歌舞伎座で収録されたものである。
歌舞伎の上演の際には尾上松也が語り手を務めたようだが、今回のシネマ歌舞伎では尾上松也は登場せず、ナレーターを務めている。原作者であるみなもと太郎の絵が登場し、松也はそれに説明を付けていく。

ロシアに漂流し、女帝エカテリーナⅡ世に謁見するなど激動の人生を歩んだ大黒屋光太夫(今回の歌舞伎では松本幸四郎が演じる)。井上靖の『おろしや国酔夢譚』などでも知られているが、今回の上演では光太夫の周辺の人々にも光を当て、歌舞伎界と彼らの関連も絡めたストーリー展開がなされている。


まずみなもと太郎の筆によるオリジナルアニメと尾上松也のナレーションで「船の成り立ち」が語られ、竿から櫓、そして帆船への進化が説明される。この進化に待ったを掛けたのが徳川家康である。家康の時代には瀬戸内海などの水軍が活躍し、織田信長が鉄製の船(鉄甲船)を造設するなど、造船・海洋技術の進歩は著しかったが、家康はそれを怖れ、マスト1本だけの船の造設しか許さなくなる。しかし帆が一つしかない船は不安定であり、座礁や沈没、漂流することが増えた。伊勢・鈴鹿出身の大黒屋光太夫が船頭(ふながしら)を務める帆船・神昌丸も駿河沖で嵐に遭い、遠くアリューシャン列島アムチトカ島まで流される。

舞台は、漂流する神昌丸の船上で、占いをする場面から始まる。船親司(ふなおやじ)の三五郎(松本白鸚)が占いを行うのだが、ここから陸地までは何度占っても600里以上はある。その時には17人いた船員だが、その後次々と脱落していく。

アムチトカ島に漂着して2年。今は亡き三五郎の息子である磯吉(市川染五郎)は、ロシア語を徐々にものにしている。実は磯吉は船乗りとしての素質はからっきしであり、父親のお蔭で特に何も言われてこなかったが、父亡き今では重荷扱いされていたことを知る。だが、語学の才能を見込まれ、その後、大活躍するようになっていく。
アムチトカ島にロシアの船が近づいてくる。だが、嵐の中、突如右往左往するようになる。立派な船であるが、どうも乗組員が「嵐」というものの存在を知らないようで、帆をたたむことがない。結局、ロシアの船は沈没してしまうのだが、光太夫一行は沈没したロシア船を材料に船をこしらえ、旅へと出る。カムチャッカ半島に到着した一行は帰国の手段を求めて更にオホーツク、ヤナーツク、イルクーツクに到る。イルクーツクでは庄蔵(市川猿之助)が凍傷を患い、左足を切断することになる。イルクーツクでスウェーデン系フィンランド人のキリル・ラックスマン(八嶋智人)と出会った光太夫は、ラックスマンが親しくしているロシアの女帝、エカテリーナⅡ世(市川猿之助二役)に謁見することが決まる。光太夫はエカテリーナⅡ世、更に時の権力者ポチョムキン(松本白鸚二役)の前で帰国を願い出るのだが、ポチョムキンからは「生活は保障するのでロシアに留まるよう」命令される。ロシアに関する様々な知識や情報を仕入れていた光太夫をポチョムキンは危険視していたのだった。


歌舞伎の様式を巧みに取り入れてはいるが、劇の展開や演技様式などは現代歌舞伎からも外れたものになっており、三谷幸喜が表現したいことを行い、たまたまそれが歌舞伎であったという印象も受ける。ただ、「これが歌舞伎」という制約は現代にあってはむしろ邪魔になるため、表現第一は正解ということになるのかも知れない。そもそも三谷幸喜にコテコテの歌舞伎を望んでいる人が多いとも思えない。

次々と仲間達が脱落していく中で、「生と死を分けるものは何か」についての考察が述べられるシーンがある。今生きている者は「死ぬことを考えていない者」であり、そうでない者は日本へ帰るという希望を失っていた者だと。
これには大河ドラマ「真田丸」のラストとの繋がりを見出すことも出来る。それだけに「真田丸」で茶々(淀殿)を演じていた竹内結子の死が余計に悲しくなるのだが。三谷さんのメッセージも彼女には届かなかったということなのだろうか。

イルクーツクで光太夫は様々な人と出会い、自分の体験を面白おかしく話して聞かせるようになる。この頃には光太夫もロシア語を話せるようになっており、ちょっとした人気者になっていたのだが、新蔵(片岡愛之助)や庄蔵は、「見世物になるのがそんなに楽しいか」と光太夫の行動に不信感を抱いている。だが光太夫は、「これまで会った人の誰が日本への帰国に繋がるかわからない」「これまでお世話になったロシアの人々に報いたい」「そのためなら喜んで見世物になるさ」との考えを述べる。これは歌舞伎役者の意気込みを連想させるもので、三谷幸喜も意図的にこうしたセリフを挟んでいるのだと思われる。

光太夫がポチョムキンに対して語る愛国心も、伝統芸能の担い手として語っていると考えると感慨深い。そしてアメリカのコメディーに憧れ、作品にアメリカを始めとする洋画の要素を取り入れ、新作でもシットコムを手掛けている三谷幸喜が、決してアメリカ人になりたいわけでもアメリカで活躍したいわけでもなく、こうして日本で最良のものを作ることに誇りを持っていることが窺えるシーンでもある。

あらゆる表現に長けた歌舞伎俳優を使って、10年にも渡る悲喜こもごもの壮大な叙事詩が描かれるわけだが、ラストでも三谷は人間への信頼を語っている。あるいは神よりも偉大かも知れない人類とその想像力に対するさりげない賛美がいかにも三谷幸喜らしくもある。

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2020年9月25日 (金)

これまでに観た映画より(212) 「雨よりせつなく」

2006年1月22日

DVDで日本映画「雨よりせつなく」を観る。野菜ジュースのCMでニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜と共演していた、モデルの田波涼子の映画初出演作にして主演作。相手役を務めるのは西島秀俊。吉元由美の短編小説集「いつもなら泣かないのに」が原作である。

大手広告代理店のマーケティング部勤務の水野綾美(田波涼子)は30歳を目の前にして独身。彼氏もいない。休みの日にはほとんど誰もいない釣り堀で釣りをしながら物思いに耽っている。結婚を決めた親友(黒坂真美)からは、「あたしと同じで顔はいけてるんだから、もっとやる気ださなきゃ」と急かされているが特に気に留めていないようだ。そんなある日、神宮外苑のフリーマーケットに参加した綾美は、同じ会社の倉沢(西島秀俊)を見かける。何かを探している倉沢。仕事は出来るが影のある倉沢に綾美は次第に惹かれていくのだった……。

田波涼子は人気モデルとして活躍しているためか、特別な美人でもなく演技も上手ではないのに独特の存在感がある。
ストーリー自体はありきたり、といっては何だが、かつてトレンディードラマと称されて量産されたタイプのドラマに似ている。
ただ、静かな展開と、にじみ出る孤独感、西島秀俊の抑えた演技により、浮ついた感じを受けることはない。恋愛と仕事というありふれた話なのに嫌な感じはしない。

映画は、綾美が倉沢からプロポーズされ、それを受け入れるところから始まる。しかし綾美の顔に笑顔はない。

倉沢が綾美にプロポーズするのはわかっているので、あとは二人がどうやって出会い、どのようにしてプロポーズするようになるのかに注意が行く。決して派手ではない、むしろ細かな心理描写に重点が置かれているのがわかる。

倉沢はかつて、愛した女性を事故で死なせてしまった。しかし亡くなった彼女のことをまだ愛し続けている。綾美もそれを知っている。倉沢は己の寂しさを埋めるために他の女を愛そうとしているだけなのではないか。それでも結婚の申し込みに「いいよ」と言った。

九十九里の海で、倉沢と綾美はラジコンの飛行機を飛ばす。倉沢は以前、恋人と二人でラジコンの飛行機を飛ばしに行き、その途中で事故を起こし、恋人は死に、自分は生き残った。

綾美は、そこで倉沢に別れを告げる。死人に負けた悔しさからではない。それが自然だと思ったからなのだろう。

3年後、雨の日に偶然、二人は再会する。これもトレンディードラマでやると見ていられなくなるはずなのだが、二人とも抑えた演技をしているため、見ているこちらが恥ずかしくなるということはない。

別れ際、「私のこと愛してた?」との問いに、「何当たり前のこと聞いてんだよ」といった風に笑顔のみで応答する西島の演技が印象的だった。

 

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2020年9月17日 (木)

これまでに観た映画より(209) 三谷幸喜 原作・脚本 市川準監督作品「竜馬の妻とその夫と愛人」

2020年9月14日

録画してまだ観ていなかった日本映画「竜馬の妻とその夫と愛人」を観る。市川準監督作品。原作・脚本:三谷幸喜。三谷幸喜が佐藤B作率いる劇団東京ヴォードヴィルショーのために書き下ろした舞台作品の映画化で、三谷幸喜もカメオ出演している。
2002年の映画であるが、意図的に「古さ」を出す画が撮られている。出演:木梨憲武、鈴木京香、江口洋介、橋爪功、トータス松本、小林聡美、中井貴一ほか。音楽:谷川賢作。

フォスター作曲の「金髪のジェニー」とアイルランド民謡「ダニー・ボーイ」の谷川賢作編曲版が何度も流れ、ノスタルジアをくすぐる。

舞台となるのは、明治13年(1880)である。坂本竜馬(トータス松本。回想シーンのみの出演)の13回忌が京都の霊山で大々的に執り行われることが決まり、勝海舟(橋爪功)は竜馬の妻であったおりょう(鈴木京香)の動向を気にしている。13回忌にはおりょうにも出席して貰いたいのだが、今でも彼女が坂本竜馬の妻に相応しい生き方をしているのかどうか。勝はおりょうの義理の弟(おりょうの妹であるきみえの旦那)に当たる菅野覚兵衛(中井貴一)におりょうの様子を探るよう命じる。
菅野覚兵衛は、千屋寅之助を名乗っていた時代に土佐勤王党や海援隊に所属していた実在の人物であり、竜馬亡き後、おりょうの面倒を見ていたことがある。

おりょうは西村松兵衛(木梨憲武)と再婚し、神奈川県横須賀市のボロ長屋で暮らしていた。旦那の松兵衛はテキ屋などをして暮らしている甲斐性のない男であり、竜馬の妻の今の夫として相応しいとは思えない。実は覚兵衛は以前、松兵衛に海軍の仕事を世話してやったことがあるのだが、松兵衛のうっかりミスが原因ですぐにクビになってしまっている。

横須賀のテキ屋の元締めとして頭角を現している虎蔵という男(後に「新選組!」で坂本龍馬を演じることになる江口洋介が扮している。虎蔵の名は、おりょうに懸想していたことでも知られる近藤勇の愛刀・虎徹に由来するのかも知れないが本当のところはよくわからない)を、おりょうは気に入る。竜馬と同じ土佐出身で、土佐弁を喋るが、虎蔵は坂本竜馬なる人物は知らないと語る。豪放磊落で北海道での開拓を夢見るという虎蔵の姿勢にもおりょうは竜馬を重ねていた。

おりょうが虎蔵に走りそうになっているのを感じた松兵衛は覚兵衛と組んで剣術の稽古をするなど、なんとか虎蔵を上回ろうとするのだが……。

 

今は亡き坂本竜馬に取り憑かれている人々を描いた作品である。ある者は坂本竜馬に憧れて少しでも近づこうとし、ある者は研究を重ねて竜馬になりきろうとし、ある者は竜馬以上の男は現れないとして、思い出に生きようとしている。
ただ、これもいかにも三谷幸喜作品らしいのだが、「生きていることが一番だぞ」という強烈なメッセージが発せられている。結局のところ、今はいない存在に身を委ねても人生がややこしくなるだけであり、そもそもそんな人生では「自分の人生を生きた」とは到底言えないものになってしまうであろう。

鈴木京香が宮本武蔵(役所広司が演じていた)の奥方であるお鶴役で出演した舞台「巌流島」(1996)を想起させるシーンがいくつも出てくるが、おりょうの現在の名前は楢崎龍ではなくて西村ツルであり、三谷幸喜が意図的に重ねている可能性もある。

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2020年9月12日 (土)

これまでに観た映画より(207) 「恋愛寫眞」

2005年11月19日

DVDで映画「恋愛寫眞」を観る。堤幸彦監督作品。松田龍平、広末涼子主演。

前評判が悪かったので、期待しないで観たのだが、思ったよりはずっと良い映画だった。何よりも映像が美しい。

冒頭とラストのリンクも良くできている。松田龍平の英語が変なのと(ニューヨークも舞台になっていて、そこで英語を使うのはおかしくないが、ナレーションと、何故か日本にいる時も英語のセリフを用いている)、過剰な演技をしている一人の女優(ネタバレになるので名前は出せない)と、彼女の正体にすぐに察しがつくことは問題だが、堤幸彦にしては真面目な作品だし、少なくとも私は好感を持った。

松田龍平は好演。広末涼子も上手くはないが、彼女でなければ出来ないキャラクターを演じていたのは確かだ。

良い映画ではないだろう。しかし印象的だった。

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2020年9月 7日 (月)

これまでに観た映画より(204) 「ALWAYS 三丁目の夕日」

2020年9月4日

DVDで日本映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観る。山崎貴監督作品。2005年の映画である。原作:西岸良平(漫画「三丁目の夕日」)。出演:吉岡秀隆、堤真一、薬師丸ひろ子、堀北真希、小雪、もたいまさこ、三浦友和(友情出演)、麻木久仁子、ピエール瀧、須賀健太、小木茂光、石丸謙二郎、奥貫薫、マギー、温水洋一、木村祐一、益岡徹、小日向文世ほか。

東京タワーが竣工する昭和33年の春から大晦日に掛けてを描いた作品であり、昭和のテイストで溢れている。

昭和33年は、西暦でいうと1958年。長嶋茂雄が読売ジャイアンツに入団し、開幕戦の対国鉄スワローズ戦で金田正一から4打席4三振を喫するという有名なデビューを果たした年である(劇中で子ども達がそれを真似るシーンが出てくる)。京都市交響楽団の常任指揮者兼芸術顧問である広上淳一はこの年の5月5日に生まれている。

この作品は、堀北真希の出世作であるが、その堀北真希も山本耕史と結婚し、3年前に芸能界を引退。時の流れの速さが感じられる。

現在の東京都港区愛宕付近が三丁目のモデルとされている。

芥川龍之介ならぬ茶川竜之介(吉岡秀隆)は三文作家。駄菓子屋・茶川商店の主と作家を兼ねている。本格的な純文学作品を目指して執筆を続けているが、良いところまで行った経験はあるものの、この頃は落選続き。生活のために子ども向けの雑誌に冒険ものを連載しているが本意ではない。飲み屋の女主人であるヒロミ(小雪)には、「大人には失望した。子ども達の文学的素養を高めるための作品を書く」とくだを巻いている。
そんな茶川のところに、捨て子である吉行淳之介ならぬ古行淳之介(須賀健太)がやって来る。最初は淳之介を邪魔者扱いしていた茶川であるが、淳之介の子どもながらに優れた文才と想像力に愕然とし……。
ちなみに淳之介の母親の名は和子(奥貫薫が演じている。ワンシーンのみの登場)となっており、遊びが見られる。

一方、青森から集団就職で上京した星野六子(むつこ。「ろく」「ろくちゃん」というあだ名で呼ばれる。堀北真希)は、大きな会社に入れるものだと胸を膨らませていた。
国鉄上野駅の改札口まで出迎えに来た鈴木オートの社長である鈴木則文(堤真一)のビシッとした背広姿に夢が広がるが、鈴木オートは小さな自動車修理業者であり、一気に幻滅する六子。夢との落差に一人涙した六子だが、熱心に働き続け、星野の家族からも認められていく。

日本が成長へと向かっていく時代。建設中の東京タワーはまさに希望の象徴であった。明日は今日よりも良くなる。それが当たり前だった時代の朗らかさが画面から伝わってくる。東京タワーの他にも、三種の神器と呼ばれた、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が登場。便利な世の中になっていく。その一方で、氷屋(ピエール瀧)が仕事を奪われて寂しそうな表情を浮かべるなど、時代から取り残されつつある人々も登場する。茶川、ヒロミなどはそうした人々の一人であり、映画の中では描かれていないが、今後訪れるモータリゼーションの時代によって成功が待ち受けているであろう鈴木オートの人々や、ある意味最も幸せな時代に青春期を過ごすであろう子ども達との対比も絶妙で、憧れと切なさが同居している。昭和33年には私はまだ生まれていないが、そんな昭和ノスタルジーはなんとなくではあるが想像出来る。

反語が多用されるセリフも魅力的であり、日本語の情緒の豊かさも印象に残る。

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2020年9月 5日 (土)

観劇感想精選(351) 劇団東京ヴォードヴィルショー 「竜馬の妻とその夫と愛人」2005大阪

2005年11月18日 大阪・京橋のシアターBRAVA!にて観劇

大阪へ。大阪城ホールの向かいにある、シアターBRAVA!で劇団東京ヴォードヴィルショーの「竜馬の妻とその夫と愛人」を観る。三谷幸喜:作、山田和也:演出。東京サンシャインボーイズの作・演コンビによるもの。タイトルはおそらく、ピーター・グリーナウェイ監督の映画「コックと泥棒、その妻と愛人」をもじったものだと思われる。
出演は佐藤B作、平田満、あめくみちこ、佐渡稔。

シアターBRAVA!はかつてのMBS劇場。TBSのそばにあった赤坂ACTシアター(現在はTBSの敷地再開発にともない消滅)に内装が似ている。やはり系列局の劇場ということで設計者が同じなのだろうか(後記:シアターBRAVAは2016年に閉館した)。

「竜馬の妻とその夫と愛人」は2000年に、同じく劇団東京ヴォードヴィルショーにより初演。その後、映画化もされた。今回は5年ぶりの再演となる。

明治12年(1879)、神奈川県横須賀市。坂本龍馬の妻であったお龍(あめくみちこ)は西村松兵衛と再婚していた。この年、京都・霊山で坂本龍馬の13回忌が盛大に行われることとなり、お龍の義理の弟(お龍の妹の旦那)である覚兵衛(佐藤B作)が、是非参加を、と依頼に来る。しかし、お龍は朝から飲み歩き、虎蔵(佐渡稔)という愛人まで作っているというだらしなさ。旦那の西村松兵衛(平田満)もぱっとしない男である。
実は覚兵衛は、勝海舟から「もし、お龍が坂本龍馬の妻として相応しくない女になっていたなら斬り捨てよ」という密命を帯びていた。


1996年に上演された「巌流島」に非常によく似たスタイルを持つ劇である。「巌流島」に登場する情けない男、蟻田休右衛門を主人公にして焼き直したような印象すら受ける。実際、セリフの使い回しもある。というわけで新鮮さには欠けるきらいあり。

自己中心的な性格のお龍に三人の男が振り回される。男達はみな、お龍が好きなのだが、彼女は龍馬以外は誰をも愛すことが出来なくなっていた。運命の人に出会いながら、一人残されてしまった女の寂しさは良く出ている。

「俺は龍馬には敵わないが、一つだけあいつに勝てることがある。俺は生きている。龍馬はお前の心の支えかも知れないが、あいつはお前に何もしてやれない。俺はお前に何だってしてやれる」という松兵衛のセリフが、生きること、生きていることの価値と大切さを語る。このセリフに励まされる人も多いだろう。

ブラックユーモアの効いたラストも面白い。龍馬ファンは怒るようなラストだったけれど。

目新しさや鋭さはないが、まずは上質な劇である。4人の俳優もしっかりしたアンサンブルを見せてくれる。エンターテインメントの精神を忘れていないのも心強い。


余談だが、開演前に、隣りに座ったおばちゃんから黒豆せんべいを貰った。落としたチラシを拾ったお礼だと思う。いかにも大阪のおばちゃんらしい温かさで心和む。

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2020年8月24日 (月)

これまでに観た映画より(201) 太田隆文監督作品「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」

2020年8月20日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」を観る。太田隆文監督作品。太平洋戦争において住民を巻き込んだ唯一の地上戦となった沖縄戦を、体験者12人・専門家8人へのインタビューとアメリカ軍が記録用に残した映像などを中心に描く。ナレーション:宝田明&斉藤とも子。この頃、なぜか斉藤とも子出演作を観ることが多い。企画・制作:浄土真宗本願寺派(西本願寺)。

大東亜共栄圏を掲げて、アメリカ、イギリス、中国、オーストラリアなどと戦った大日本帝国であるが、中国戦線やインドシナ戦線が泥沼状態となり、対米戦もミッドウェー海戦で敗れて以降は連戦連敗を重ね、本土決戦を決意する。その前哨戦の舞台となったのが沖縄である。ただ「沖縄は捨て石」という言葉がよく知られるように、日本軍にとって沖縄戦は本土決戦の準備のための時間稼ぎであり、少しでも多くアメリカ兵に血を流させて弱体化させるための手段でしかなかった。米兵が沖縄に上陸する前からすでに軍部から「沖縄は諦める」という話が出ていた程である。米軍も日本本土での戦いを視野に入れ、日本の文化や歴史などについて撤退した調査を行っていたが、「日本と沖縄は同一文化圏と見て良いが、日本人は沖縄人を差別している。沖縄人というのは少数派民族のようだ」という情報を得ており、「これは使える」と、分断作戦も念頭に置いての戦いだった。

アメリカは54万人を超える兵士を沖縄に上陸させたが、迎え撃つ日本軍の兵の数は11万人ほど、人数の時点で圧倒的に不利である。しかも参謀本部はあくまで日本本土での決戦の準備を優先させているため援軍も望めない。ということで民間人を戦場に駆り出すことになる。男子は14歳から70代までを兵士として、女子も若ければ女子挺身隊として救護活動に回される。結果、老人、母親、子どもが家を守ることになるのだが、これがまた悲劇を生む。

1944年8月22日、沖縄の子ども達を乗せた疎開船・対馬丸が米軍によって撃沈される。対馬丸に乗っていて助かった女性の証言もある。当時は状況が分かっておらず、「本土に行けば雪が見られる」などと行楽気分であったそうだが、対馬丸に乗っていた日本兵が乗員を甲板に集め、「今夜は危ない」と言ったところから不穏な空気が漂う。

沖縄の人々は日本軍を「友軍」と呼んでおり、親しみを持っていた。沖縄の子ども達の将来の夢は、「立派な兵隊さんになること」だった。だが、実際に戦が始めると、日本軍は沖縄の人々を助けるどころか、逆に死へと追い込むなど、「沖縄は敵」とまではいかないが味方とは思っておらず、当てにならないことがわかる。
沈みゆく対馬丸のマストに上って、「兵隊さん、助けて!」と叫んでいる母親がいたそうだが、日本兵は助けるどころか子ども達を海へと放り込んでいたそうで、「同じ日本人ではない」と思っていたことがわかる。
米軍は、対馬丸が疎開船であることは把握していた。その上で撃沈した。逃げ道を与えない作戦であったと思われる。

1945年3月28日、渡嘉敷島で集団自決が起こる。前日に米軍が渡嘉敷島に上陸したばかりであった。島民の男性には手榴弾が一人につき2つずつ渡されていた。軍部からは「アメリカ兵を見たら1つ投げつけろ、それでも駄目ならもう一つで自決しろ」と厳命されていた。
自決とはいえ、この自決は強制されたものであったことがわかっている。

琉球処分以降、沖縄では徹底した軍国主義教育、皇民化教育が行われており、ウチナーグチではなく日本の標準語で話すことが求められた。日本に取り込まれたわけであるが、これが沖縄人が自ら魂を蔑ろにし、「日本国のために死ぬ」という精神に染まっていくきっかけとなった。発想自体が大和民族そのものとなり、自分自身で考えないようになる。

「死して虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓(最終校閲を行ったのは島崎藤村である)を常日頃から頭に置き、「アメリカが来たら、男はみんな戦車に弾かれ、銃剣で刺されて死ぬ。女はみんな強姦される」という言葉を信じ、ガマ(洞穴)での集団自決が起こった。男はみな戦場に出ていたため、籠もっていたのは老人、母親、子どもだけだった。読谷村のチビチリガマで「娘を米兵に強姦されたくない」と思った母親は、娘を自らの手に掛ける。ただ、子ども達がみな苦しみ抜いて死ぬ様を見た母親達は自決するつもりが怯えてしまい、結局、生き残ることになった。生き残った母親達は証言者の役割を果たすことになる。現在では集団自決というのは適当でないとして、「強制集団死」と呼ばれるようになっているようだ。実際、集団自決とされてきたものは日本軍が駐留している場所でのみ起こっている。

実際の米軍はイメージ戦略を用いており、女性や子どもには優しく、食べ物やお菓子などを与えてくれたそうである。
チビチリガマのすぐそばにある読谷村のシムクガマでは、約千人が隠れていたそうだが、その中と付近にハワイで学んだ経験のある老人が二人いた。一人はハワイの学校の夜間部で本格的に英語やアメリカ文化などを学んだ経験があり、アメリカ人がやることを知悉していた。結果として投降が成功し、犠牲者は一人も出なかった。

ハワイで学んだ老人は、沖縄に帰ってからも家にエイブラハム・リンカーンの肖像を飾っていたそうだが、日本の軍国主義ではアメリカの民主主義に勝てないと見抜いていた。

エイブラハム・リンカーンは、南北戦争時の大統領であるが、この内戦で北軍司令官のウィリアム・シャーマンは南部に対して徹底した焦土化作戦と無差別殺戮を決行し、今に至るまで南部の人々から恨まれるという結果になった。第二次大戦でもウィリアム・シャーマンの名を記念した俗称「シャーマン戦車」への搭乗を拒否する南部出身者が続出している。同じ轍を踏むわけにはいかない。日本に対する戦後交渉を有利に運ぶ必要もあっただろうと思われる。日本軍とアメリカ軍の沖縄に対する態度の違いを見せつけ、沖縄人の戦意を喪失させる狙いもあったかも知れない。

米軍は沖縄本島に上陸したのは、1945年4月1日。読谷村(よみたんそん)の渡久地ビーチにおいてであった。日本軍は全く反撃しなかった。読谷村は、現在は嘉手納基地となっている中飛行場に近く、ここを抑え、空路を確保するのが目的であったが、反撃がなかったため楽々と制圧した。

米軍は、県都である那覇を目指す。首里城の地下に陸軍の司令部が置かれていたためだ。
日本軍が上陸後すぐに戦闘行為に出なかったのは、那覇へと向かう途中で待ち受け、米軍にダメージを与えるという目的があったはずである。日本軍は嘉数高地の要塞に陣取り、当初の米軍の進撃予定を40日以上も遅らせるという激戦を展開。首里城での攻防では敗れるが、今では那覇の都心となっている安里52高地(シュガーローフ)での激戦でも米軍に大打撃を与える。しかしこれらはあくまで、「本土決戦の準備を進めるための時間稼ぎ」であり、沖縄のための戦いではなかった。


私が沖縄に本格的に興味を持つきっかけを作ったのは坂本龍一である。矢野顕子と共に最初に沖縄に注目したアーティストである。中学生の頃に買った「BEAUTY」というアルバムでは沖縄の音楽をいくつもカバーしており、ネーネーズなど沖縄のミュージシャンとも共演している。坂本はインタビューで、「日本は単一民族だと思われているけれどそれは違う。最も身近にある異質なるものである沖縄を突きつける」というようなことを語っていたように記憶している。その後坂本は、山梨県出身ではあるが沖縄戦の悲劇を伝える「島唄」を作詞・作曲した宮沢和史とも一緒に仕事をしている。

というわけで、沖縄に対しては「リゾート」や「観光地」というイメージではなく、歴史から入っていたわけであるが、それでもこの映画で語られた多くのことを知らなかったわけで、「知ること」の難しさを覚える。沖縄戦を描いたドラマや映画、楽曲などは存在するが、どうしても情緒的側面が強くなるため、リアルに見つめる機会はなかなか得られない。受け身でなく取りに行く姿勢が必要であることを強く感じる。


若い頃から、教育に関して興味は持っていた。私が生まれ育った千葉県は「管理教育」の牙城であり、教師に良い印象を抱いていなかったということもあるが、「受験のためや役立てるためでない学問」を大学時代からずっとやってきたことも影響している。
「教育熱心」「教育を重要視」というといかにも良いことのように思われるが、教育というのは洗脳であり、自由な思考を奪うことにも繋がる。

渡嘉敷島で強制集団死があった時、その頃はまだ小学校1年生だった男性も手榴弾を使って自決しようとした。だが、手榴弾は不発。2発貰っていたのでもう一つを使うもこれまた不発。そこで大人から「火を焚いて手榴弾を中に入れろ」と提案される。その時、身を挺して男性を救ったのは実の母親だった。男性は母親のことを「無学だった」と語るが、教育を受けていなかったからこそ「死ぬのが当たり前」という発想にとらわれていなかったと見ることも出来る。

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2020年8月22日 (土)

これまでに観た映画より(200) 瀬々敬久監督作品「HYSTERIC」

2005年11月14日

DVD映画「HYSTERIC」を観る。小島聖、千原浩史(千原ジュニア)主演。脇役として、鶴見辰吾、村上淳、余貴美子、阿部寛などが出演している。
監督はピンク映画を撮らせたら現在ナンバー1と呼ばれる瀬々敬久。京大出身の監督である。
もちろん、出演者の顔ぶれを見ればわかると思うが、この映画はヌードシーンこそあるものの、ピンク映画ではない。

1994年に起こった青山学院大生殺害事件を基にした映画。ただノンフィクションではなく細部は変えてある。
青学大生殺害事件は無軌道な若者による場当たり的な犯行として、また犯人の男が殺人に全く罪の意識を感じていなかったということで、日本犯罪史上に残る凶悪事件である。

宮崎の高校を卒業後、岐阜県に出て、会社で働きながら短大で保母の資格を取ることを目指している真美(小島聖)。ある日、突然の大雨に降られて雨宿りをしていたところで偶然、智彰という若い男(千原浩史)と出会う。無口な性格で友達も恋人もいない真美は智彰の笑顔に癒され、惹かれていく。しかし智彰は、ピッキングや空き巣、強盗などを繰り返す危険な男だった。だが、真美は智彰から離れることが出来ない。

孤独で人生に面白さを感じられなかった女性が、奔放で残酷で幼稚で、それ故に魅力的で、かつ自分を心から好きになってくれた男と無軌道な人生を歩んでしまうという、悲しい物語。

モノクロームの挿入や、前後する時間、抒情的部分の耽美的傾向など、ありきたりな部分も多いが、暴力的な場面が多ければ多いほど、リリカルな印象が増していくのが不思議である。

真美は両親が離婚したため、祖父母に育てられた。それ故、幸せな家庭への憧れは人一倍強い、ということが示される。にもかかわらず、幸せとは別の方向へ動いていってしまう。わかっているのにやめられないという人間の弱さ。

アウトサイダーの智彰とのスリルある生活はある意味、麻薬的なものだったのかも知れない。心の底では真美は自分がこれまで押し込められていた社会を破壊したかったのだろう。社会からドロップアウトした自由と不安、そこから逃げたいのに逆に惹かれてしまうという人間の矛盾。

青学大生殺害犯二人はすぐに逮捕されたのだが、この映画の主人公二人はその後も警察の手を逃れる。ふとしたことで離れてしまった二人が、6年後の2000年に再会する。真美は充(阿部寛)と結婚していた(阿部寛が普通の人を演じているのを見るのは久々の気がするが気のせいだろうか)。

結末は希望を感じさせるものだが、何故もっと早く希望を見つけられなかったのか。そして真美は本当に智彰を愛していたのか。結局は真美も智彰を現実逃避のために利用していたのではないか。それを思うと却って切なくなってしまう。

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2020年8月16日 (日)

これまでに観た映画より(198) 「もののけ姫」2020リバイバル上映

2020年8月14日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で「もののけ姫」を観る。宮崎駿監督作品。スタジオ・ジブリの代表作の一つである。1997年のロードショー時にシネマックス千葉(CINEMAX千葉)で観たが、ここはもう存在しない映画館である。その後、「もののけ姫が家に来る!」というキャッチコピーでセルVHS(今ではVHSも化石のようなものである)が出た時に購入して観ている。1997年のロードショー時には23歳だった私も、今年の11月で46歳。約倍の歳月が経過している。

声の出演者は、石田ゆり子、松田洋治、田中裕子、美輪明宏、上条恒彦、森光子、森繁久弥、西村雅彦、小林薫ほか。23年前ということで故人も何人か含まれている。
今でこそアラフィフ女優の人気ナンバーワンを揺るぎなきものとしている石田ゆり子だが、この時は今ほど人気はなく、むしろ妹の石田ひかりの方が有名であった。セルビデオには、アフレコのリハーサルや本番などの模様も収録されているが、石田ゆり子は宮崎駿監督から何度もダメ出しを受けており、本気で「降ろされる!」と思ったことなどがインタビューで語られていた。

声優でなく、俳優を大量にキャスティングしたことについては、ロードショー時より批判があったように記憶している。

音楽:久石譲。主題歌歌唱:米良美一。

 

蝦夷(エミシ)の支配する東国のシーンから始まる。アシタカ(アシタカヒコという名であったが、穢れたために「ヒコ」の名は捨てる。声の出演:松田洋治)は、祟り神となった猪の神であるナゴの守(かみ)が村を襲おうとしたため、やむなく弓矢で射て止める。しかし、アシタカの右腕に呪いは絡みつき、蝕むようになる。
巫女のヒイ様(声の出演:森光子)から、西のヤマトの国で不吉なことが起こっているとの宣託を受けたアシタカは西へと向かう。

素朴な建物ばかりの東国に比べ、西の国は仏塔が聳え、高い文明が流入・形成されていることが窺える。一方で野武士達が農村を襲撃して殺戮と収奪を行うなど、光景は荒んでいる。

そんな中で、エボシ御前(声の出演:田中裕子)率いるたたら場は、高い鉄の生成技術を誇り、鉄や武器を売る独立した城塞都市として繁栄している(この辺りは石山本願寺と雑賀衆の関係や、自由都市であった堺に似ている)。エボシ御前は、被差別階級者を受け入れ、ライ病(ハンセン氏病)に苦しむ人々を銃器(石火矢)の製造職人として徴用している。労働は過酷だが、女性が比較的優遇されているということもあり、エボシ御前への信頼は篤い。このたたら場は度々、大名の浅野氏(広島や赤穂の浅野氏とは異なる)から襲撃を受けているのだが、その度に撃退している。
ただ製鉄には燃料とするための大量の木材が必要になるため、伐採により周囲は禿山と化しているが、エボシ御前は、更なる木材を求め、シシ神の森の制圧を目論んでいた。

たたら場で過ごしていたアシタカは、エボシ御前と対立するもののけの神・モロ(声の出演:美輪明宏)ら山犬に育てられた少女のサン(声の出演:石田ゆり子)を見かける。サンは自然の領域を侵食しているエボシ御前を憎み、暗殺の機会を狙っていた。

森が減っていくことに憤っているのは山犬だけではない。「森の賢者」と呼ばれた猩々(しょうじょう)も人間を憎み、また人間の行為が許せなくなった猪神の長老・乙事主(おことぬし。声の出演:森繁久弥)も鎮西(九州)から海を越えて、シシ神の森へと訴えに来る。

シシ神というのは、昼はシシ(鹿)、夜はディダラボッチ(ダイダラボッチ。創世の神や製鉄の神とされることもある)の姿をした生と死を司る神であり、シバ神に似た力を持つ。一方で、存在はしているが自分から積極的に何かをする神ではない。だが、ヤマト王朝は、神は朝子(帝、天皇)だけで良く、人間世界とは異なる神がいることを怖れ、かつシシ神の首には不老不死の魔力があるということで、ジコ坊(声の出演:小林薫)らにシシ神征伐を命じていた。

 

人と自然の問題がまず挙げられる。古代から人と自然は哲学における大きなテーマの一つであったが、産業革命以降、人類は自然を苛烈なまでに虐げ、版図を拡大していった。このたびの新型コロナウイルス禍も、人類が踏み入ってはいけない領域まで侵入していった結果、自然の世界で循環していた新型コロナウイルスが拡散されることになるという、いわば自然界からの復讐を受けた格好である。

そして、神の問題である。いくつもの神が同居するという八百万の神の国、日本。だが、幕末以降に主流となった思想では、天照大神の子孫というだけでなく神の世界の頂点に君臨するのが天皇であるとする史観がベースとなっている。そして少なくとも強大な神は他には必要ではないため、神殺しが行われることになる(大本事件などもその系譜に入ると思われる)。ただ、歴史の中で育まれた「八百万の神=世界そのもの」の意識はそう簡単に日本人の思考体系の中から消滅するはずもなく、強引な神殺しは多くの人に災厄をもたらす結果となる。

日本においては積極的に描かれることの少ない民族差別についても描かれている。主人公であるアシタカは蝦夷の子であり、大和民族よりも下に置かれた社会の出身である。またヒロインのサンも山犬に育てられた少女であり、当然ながら蔑視の対象である。
この虐げられた階層出身の男女が、殺されつつある神と人間の諍いを収めるべく奮闘するという特殊な構図による物語であることにも注目すべきであろう。

闘争を経て、山は緑を取り戻し(ただ元の自然でないことがサンのセリフによってわかる)、人々は新たな生活を歩み出す。決して和解したわけではないが、争いに明け暮れる日々は遠のいていく。

新型コロナウイルスが猛威を振るう今、この作品を観る意味としては、「不可侵領域に踏み入らない」ということと「人間第一主義の愚かしさ」を知るという二つのことが挙げられるように思う。度が過ぎれば必ず復讐される。そして憎しみが憎しみを生み、連鎖は止まらなくなる。
本来ならもっと早く、人類はその足跡を見直すべきだったのかも知れない。コロナの前にも問題は山積みであったが、「より重要なこと」に目を向け、見て見ぬ振りをしてきた。いつまでもそんなことで通じるわけはなかったのだが、結局、臨界点を過ぎるまで人類は気づけなかった。
この先のことはまだ誰にもわからないが、アシタカのように「曇りなき眼で見定め」て行けるよう願うものである。

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