カテゴリー「正月」の52件の記事

2024年1月11日 (木)

コンサートの記(828) サッシャ・ゲッツェル指揮 京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」2024

2024年1月7日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」を聴く。指揮は、ウィーンの生まれ育ちであるサッシャ・ゲッツェル。

ウィンナワルツやポルカを中心としたプログラム。

曲目は、ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「ジプシー男爵」序曲、ヨハン・シュトラウスⅡ世のエジプト行進曲、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「南国のばら」、コルンゴルトの組曲「シュトラウシアーナ」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の狂乱のポルカ、ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、ヨハン・シュトラウスⅡ世のトリッチ・トラッチ・ポルカ、ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」、ヨハン・シュトラウスⅡ世のペルシャ行進曲、ヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と電光」


コンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。今日はヴァイオリン両翼の古典配置での演奏である。京都市交響楽団ニューイヤーコンサート恒例であるが女性奏者は今日は服装自由で、思い思いにドレスアップした姿での演奏である。

いずれも溌溂とした演奏。弦楽の音色も甘く、ウィーン情緒たっぷりである。ゲッツェルのオーバーアクション気味の指揮姿も見ていて楽しい。

楽団員たちからの、ゲッツェル「あけまして」京響楽団員「おめでとうございます」の新年の挨拶の後、アンコールとしてヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」とヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」が演奏される。「ラデツキー行進曲」では、ウィーン・フィルニューイヤーコンサート同様、ゲッツェルは客席を向いて手拍子を指揮したほか、指揮台の周りを回りながら華麗な指揮を見せていた。

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2024年1月 1日 (月)

初詣に行ってきました

今年も東山七条の豊国神社(祭神:豊臣秀吉公)へ。

いつもより少し遅く、午後4時前に行ったのだが、人が多く行列が出来ている。例年は並ぶ必要はないのだが、今年は少し並んだ。豊国神社自体の知名度も上がってきているようで、20年ほど前に最初に詣でた頃に比べると参拝者が徐々にだが増えているのが分かる。

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京都三大唐門の一つである唐門を潜り、拝殿の前へ。ちなみに唐門を潜れるのは正月三が日だけである。本殿の前で参拝している時に地面が揺れたようで、石川県の能登地方で震度7の地震が発生したことを後に知る。

 

その後、豊臣吉子(北政所。寧、寧々、於寧)を祭神とした摂社・貞照神社にも参拝。その後、方広寺の「国家安康」「君臣豊楽」の鐘を見て、仕事守を購入して帰路についた。

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2023年1月21日 (土)

観劇感想精選(454) 「万作萬斎新春狂言2023」@サンケイホールブリーゼ

2023年1月18日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで「万作萬斎新春狂言2023」を観る。

まず、飯田豪、中村秀一、野村萬斎、内藤連、野村裕基(プログラム掲載順)による謡初「雪山」が歌われ、野村裕基による小舞「兎」が舞われる。


その後、野村萬斎によるレクチャートークがあるが、「野村裕基が卯年の年男だそうで、だそうでもなにも私の息子なんですが」と、野村裕基が「兎」を舞った理由が述べられる。
野村萬斎のトークは、前半の演目「舟渡聟」に関するレクチャーが大半を占める。「『舟渡聟』は大蔵流にもあるのですが、我々和泉流の方が面白い」として、なぜ面白いのかを解説する。また例によって、狂言が「エア」であることを強調する。確かにエアであることに納得出来ないと狂言を観ても面白くないだろう。また、狂言に出てくる人というのは理性や自制心が飛んでしまっている人も多いのだが、それは観る人の代わりにその場をぶち壊してくれるという要素が強いことが語られる。
野村萬斎は、今年の大河ドラマ「どうする家康」にも出演しているが、「第1回で死んでしまう」と語り、「まだ視聴率が高い内に退場出来て良かった」と前向きに捉えて、「第3回には私は登場するようです」と予告していた。


「舟渡聟」。出演:野村万作(船頭)、野村裕基(婿)、深田博治。
琵琶湖と琵琶湖畔が舞台である。都邊土(都の近辺)から婿入り(婿が舅の家に挨拶に行くこと。今ではこの風習はない)のために琵琶湖は大津松本にやってきた婿であるが、舅の家がある矢橋まで舟に乗ることにする。舅への土産として京の酒と鯛を担いでいる婿であるが、船頭は酒ほしさに婿を脅すことになる。
野村万作の年齢(今年で92歳)を感じさせない体の捌きに方にまず感心する。十代の頃は線の細い優男という印象だった野村裕基だが、今では堂々たる若武者に変貌。今後が楽しみである。


「花折」。出演は、野村萬斎(新発意)、石田幸雄(住持)、高野和憲、内藤連、中村修一、飯田豪。

住持(住職)が出掛けることになるのだが、境内の桜は満開なるも「花見禁制にしたから誰が来ても庭へ入らせないように」と新発意(見習い僧)に言いつける。
そこへ人々が花見に訪れるのだが、新発意は住持の言いつけを守って人々を庭へは入れない。だが人々は寺の外から垣間見る形で花見をし、宴会を始めてしまう。新発意はうらやましくなり、ついには宴会に参加し、人々を寺内に招き入れてしまうのだが……。

タイトルから想像出来ると思われるが、ラストはかなり衝撃的で、客席から声や息をのむ音が伝わってきた。おそらくであるが、「質素倹約」を押しつけてきた時の為政者への強烈なカウンターの意味もあるのであろう。

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2023年1月 2日 (月)

初詣に行ってきました

今年は久々となる七条の豊国神社。祭神は豊臣秀吉公ですが、正室のおねさん(寧、豊臣吉子)も貞照神社に祀られています。

豊国神社の唐門は、以前は金地院にあったもので、伝伏見城遺構の国宝に指定されているものです。

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3が日だけは唐門を潜って拝殿の前まで行くことが出来ます。

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こちらは内陣から見た唐門。

今年は卯年、何かが生まれそうな年です。本年もよろしくお願いいたします。

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2023年1月 1日 (日)

あけましておめでとうございます

本年も宜しくお願いいたします

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2022年1月29日 (土)

観劇感想精選(424) 「万作 萬斎 新春狂言 2022」大阪

2022年1月19日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作 萬斎 新春狂言 2022」を観る。

まず新年を祝う謡初・連吟「雪山」でスタート。出演は、中村修一、深田博治、野村萬斎、高野和憲、内藤連(舞台上手側から下手側に向かう順番)。

次いで、野村萬斎によるレクチャートークがある。萬斎はまず「出にくい中、お越し頂きましてありがとうございます」と述べる。大阪では新型コロナウイルス・オミクロン株の感染拡大が続いており、連日のように新規感染者の最多記録が更新されている。

今回の演目は、「成上がり」と「小傘(こがらかさ)」。野村萬斎による「小傘」は、以前にびわ湖ホール中ホールで観たことがある。

「今年は寅年ということで、関西で寅というと阪神タイガースを思い浮かべてしまう訳ですが」という話から、大阪での「新春狂言」は、毎年その年の干支を題材にした作品を選ぶことにしていると語り、「成り上がり」が寅年にちなむ作品であるとする。
実際には寅年ではなく、寅の日の話なのだが、「寅」繋がりではある。
舞台は洛北・鞍馬寺。主が太郎冠者を連れて、初寅の日に鞍馬寺に参詣する。昔は堂籠の習慣があったようで、そのまま鞍馬寺の堂内か堂の付近で一夜を過ごすことが多かったそうだ。そこへすっぱがやって来て、太郎冠者が眠ったまま抱えている太刀を盗もうとするという話である。
野村萬斎は、コロナが広まってからは感染を避けるために初詣には行っていないようだが、昔は明治神宮などに初詣に行き、「機動隊とまでは行きませんか、警察の方々が装甲車のようなものを並べて、『スリや置き引きにご注意下さい!』と大音量を響かせていた」という話をする。「関西ではそういうのありませんか?」と聞くが、そこまでのことはないような反応である。私は、例えば伏見大社のような参拝客でごった返す神社には初詣に行かないので、状況については全く知識がない。
「熊野別当」という役職についての話になり、「武蔵坊弁慶はご存じですか? 義経と良い関係な人。手下。解釈は色々ありますが、武蔵坊弁慶の父親が熊野別当だった」という話をする。ちなみに、昨年の3月に、野村萬斎は熊野で三谷幸喜脚本のアガサ・クリスティシリーズの新作の収録を行ったと明かしていた。
熊野別当がうっかり太刀を落としてしまう。「武士にとって太刀を落とすというのは大変なことで、今でいうと実印を落とすような」と例えた、人に盗まれないよう太刀自身がくちなわに化けたという話をする。太郎冠者の言い訳が、この熊野別当の太刀落とし由来である。
「今年で91になるお年寄りが、舞台の上でゴロンゴロンします。森光子さんが『放浪記』ででんぐり返しをして拍手を貰ったという話がありますが、家の父親はそれより凄い」

「小傘」については、僧堂を建てたは良いが、肝心の堂守(住職のようなもの)がいないので困っている男が、「街道に出れば誰か見つかるかも知れない」というので出掛けていくところから始まる。丁度、僧形をした男が街道を歩いていた。その男は博打好きで、金子は勿論、家財一式まで失ったという遊び人。僧の身なりをすれば食えるらしいということで、格好だけは僧侶になったが、にわか坊主か三日坊主ということで経典を読むことは一切出来ない。偽僧侶は、弟子を新発意(しんぼち。小僧のこと)に変身させ、小傘を持たせる。堂守を探している男と堂守になりすましたい男が「Win-Winの関係」になり、僧堂に向かうのだが、経が読めないので、「昨日通る小傘が今日も通り候。あれ見さいたいよこれ見さいたいよ」という小歌を経典ぽく謡ってごまかそうとする話である。
「お寺にはキンキラキンのものが一杯ある」というのでそれを盗むのだが、萬斎は、『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンが出所後に教会に泊めて貰い、金細工や銀細工のものを盗むというシーンに重なるという話をしていた。
ラストに「なーもーだー、なーもーだー」という「南無阿弥陀仏」の六字の省略形が謡われるのだが、「私は浄土真宗の回し者でもなんでもないわけですが」客と一緒にパフォーマンスを行うことにする。萬斎が発する「なーもーだー、なーもーだー」と謡に合わせて、観客が手拍子をするというもので、「以前は、一緒に『なーもーだー』と言う形式でやっていたのですが(コロナ前のびわ湖ホールでの公演ではそういうスタイルでやっていた)、昨今は声を出すのは余りよろしくない」ということで手拍子に変えている。萬斎が「なーもーだー」と言いながら膝を叩くのに合わせて観客が手拍子をした。本番については、「私がそれとなく合図をします」


「成上がり」。出演は、野村万作(太郎冠者)、野村裕基(主)、野村萬斎(すっぱ)という三代そろい踏みである。

鞍馬寺での堂籠の最中に眠ってしまった太郎冠者。そこへ、「去年は不幸せだったが、今年は幸せに」と言いつつ、すっぱがやって来る。太郎冠者が眠り込んでいるのを見て、太刀を抜き取ろうとするが、太郎冠者は寝ているのに反応。そこですっぱは、青竹と太刀をすり替えることでまんまと獲物を手に入れる。
東の空が白んできた頃に目を覚ました主は太郎冠者を起こすが、太郎冠者が抱えていたはずの太刀が青竹に変わっている。そこで太郎冠者は熊野別当の故事を引き合いに出して、「山芋が鰻、蛙が甲虫、燕が飛び魚、嫁が姑(これについては主から突っ込まれる)」になるような成り上がりが起こり、太刀がこの青竹にと誤魔化そうとする。

「成上がり」は大蔵流にもあるそうだが、大蔵流の「成り上がり」はこの場面で終わるのに対し、和泉流は続きがある「デラックス版」となっている(?)そうである。
すっぱに太刀を盗まれたと悟った主は、「すっぱが太刀だけ盗んで帰るとは考えにくい。また近くで盗みを行うだろうから、そこを捕らえよう」と決め、二人で木陰に隠れる。
そこに太刀を持った太郎冠者が再び姿を現す。主がすっぱを羽交い締めにするが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄を綯う」を地で行ってしまい、主を苛立たせる。更にすっぱは太郎冠者を足で転がして妨害する。野村万作が転がった時には拍手が起こっていた。
結局、縄で縛めようとするものの、太郎冠者はすっぱではなく主の二の腕を体に巻き付けてしまい、状況を把握していない主が手を離すと、すっぱはまんまと逃げ出してしまう。

野村萬斎の三代は、三人が三人ともタイプが違うため、良い意味で肉親であることが感じられないような個性の引き立つものになっている。
「雌雄眼」の代表例として挙げられることも多い野村萬斎は、悪党をやるとダークなオーラのようなものが出る。何故そんなものが出るのかは良く分からない。


「小傘」。出演は、野村萬斎(僧)、深田博治(田舎者)、高野和憲(新発意)、内藤連、飯田豪、野村裕基(以上、立衆)、石田幸雄(尼)。この上演では野村万作が後見を務める。
先に書いたように、立派な僧堂をこしらえたものの、肝心の堂守がいないと嘆く田舎者が、街道で堂守候補をスカウトしようとする。そこへ僧(偽物)と新発意(こちらも偽物)がやって来る。博打ですってんてんの僧は、「出家したら金が儲かるらしい」というので、堂守になると見せかけて盗みを働く気でいた。
経が読めないので、小歌をそれらしく謡って誤魔化すと新発意に伝え、続きがある場合は、経典を持ってくるのを忘れたということにするが、新発意が、「堂に経典があったら?」と聞くので、「その時は自分が面白おかしくやって切り抜ける」と自信を見せる。
果たして、堂内には経典があり、「にくい奴」などと僧は述べるが、「自分は子供の頃から修行を行っていて、経文は全て暗記しているので、経は目にする必要はない」とする。
新発意が傘を持っているのを不審がられるも僧は、「傘こそ最高の仏具」とし、拡げた時に「後光になる」としてしまう。
さて、立衆が揃い、僧と新発意は「小傘」の謡を始める。「小傘」の謡は徐々にデフォルメされていき、笑いを誘う。またそれを真面目な顔で聞いている立衆との落差がベルグソン的である。
そして、観客の手拍子入りの「なーもーだー」。アッチェレランドしていき、高揚感が増す。一遍が始めた踊り念仏もかくやと思えるほどエネルギッシュなトランス状態へと見る者を巻き込んでいった。

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2021年1月27日 (水)

観劇感想精選(381) 「万作萬斎新春狂言2021」@サンケイホールブリーゼ

2021年1月20日 西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後7時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作萬斎新春狂言2021」を観る。
緊急事態宣言発出により、劇場の営業は午後8時までとなっているが、「すでにチケットを売ったものについては例外」となっている。ただなるべく協力する形でということで、野村萬斎によるレクチャートークを短くし、休憩時間をなくすことで、午後8時15分頃の終演とした上で上演が行われる。
ちなみに明日も同一内容の公演がサンケイホールブリーゼであるが(主役級のキャストに変更はないが、ダブルキャストの役があるため、今日と完全に同じ出演者というわけではない)、マチネーであるため、レクチャートークも通常の長さ、休憩もありで上演される予定である。

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サンケイホールブリーゼの入るブリーゼタワーの周辺、西梅田や桜橋の地上は人がまばら。ショッピングビルであるブリーゼブリーゼ内部も休業中のショップも多いためか、がらんどうである。ブリーゼタワーは下層がショッピングビルのブリーゼブリーゼであり、その最上階の7階にあるサンケイホールブリーゼまでが一般人が立ち入れるスペースである。それより上はオフィスビルとなっており、日本ハムの本社もこのビル内に移転している。日本ハムは大阪の企業であるが、ファイターズが本拠地を東京(後楽園球場→東京ドーム)や札幌(今現在は札幌市の隣町である北広島市に自前の新球場を建設中であり、2年後を目途に移転する予定)、二軍を千葉県鎌ケ谷市に置いているということもあり、大阪の会社であるということは野球ファン以外には案外知られていないようである。

さて、「万作萬斎新春狂言2021」であるが、七五三縄が降りる中、まず謡初「雪山」が、中村修一、深田博治、野村萬斎、高野和憲、内藤連(上手からの並び順)によって謡われる。背景には舞い落ちる雪片が投影される。雪ということで「衣手」といった和歌でよく取り上げられる組み合わせの言葉も登場する。

狂言の演目は、野村万作がシテを務める「横座」と野村萬斎がシテを演じる「木六駄(きろくだ)」。「木六駄」は、野村万作が演じたものをびわ湖ホールで観たことがあるが、萬斎が太郎冠者を務める「木六駄」を観るのは初めてである。

好評をもって受け取られることが多い野村萬斎のレクシャートークであるが、今日は時間に制限がある。「明けましておめでとうございます、というには少し遅いような気がしますが」と萬斎は話し始める。ちなみに昨年の「万作萬斎新春狂言」では萬斎は、自身が総合演出を務めるはずだった東京オリンピックの開会式についても触れていたのだが、東京オリンピックは延期となり、今年開催されるにしても開会式も閉会式も規模縮小ということで、野村萬斎がリーダーであった「ドリームチーム」はすでに解散となっている。余りにも商業化しすぎ、筆頭スポンサーのNBCの意向で、真夏の開催となったことで批判の多い東京オリンピック。延期により秋の開催が出来るのかと思いきや、またもやNBCの意向で、酷暑の時期の開催が決まっている。正直、今の状態で東京オリンピックが開催されるようになる可能性は極めて低い。設備は整っているのだから、今年でなく近い将来に東京オリンピックが開催されるのもありだが、秋でないなら開催自体を見送った方がいい。オリンピックは一巨大メディアの専有物ではない。

野村萬斎はコロナ禍の中で駆けつけたお客さんに向かい、「よくぞいらっしゃいました。勇気と覚悟を持って」と話し、「今日は市松模様の俺様シート(左右前後空けのソーシャルディスタンスシフト)ですのでゆったりとご覧いただけます」と語った。緊急事態宣言発出の中での公演であるが、「なるべく劇場にお越し頂きたい」とお願いもする。

野村萬斎の家で元日に行われる謡初の話から入り、今日の演目が丑年にちなむ「牛尽くし」であることを説明する。「料理店のメニューのようですが」と語った後で、「横座」の解説。「横座」というのは上座のことで、牛主が「可愛らしい子牛が生まれた」というので、上座に子牛を据え、それが元で「横座」と呼ばれるようになった牛の話である。何某が牛を買ったのだが、見立てが出来ないので、見立てが出来る者のところに赴くことにする。さて、見立ての出来る牛主だが、大事な牛がどこかに行ってしまった。そこに通りかかった何某の牛を見て、それは自分が育てた横座という牛だと主張するのだが、何某は「金を出して買ったのだから自分の牛である」と譲らない。
萬斎は客席に、「牛の見分けが付く方、いらっしゃいますか? 私は自信がないのですが、ずっと牛と一緒にいれば見分けが付くようで」

その後に、平安時代の呪術の話が登場し、ややこしいので、萬斎はそこを重点的に解説する。「『陰陽師』(映画版は野村萬斎が安倍晴明役で主演している)って覚えてますでしょうか? リモートで戦うという」という話から、「横座」で語られる呪術合戦の物語へと入っていく。文徳天皇の御代の話である。平安時代の初期だ。日本の初期の歴史書6つ、総称して「六国史」と呼ばれるが、6つのうち4つは天皇数代の記録を一つの史書に纏めている。だが文徳天皇だけは『日本文徳天皇実録』と諡号入りの一代記になっている。藤原北家が本格的な摂関政治へと繰り出すきっかけになった天皇であり、天皇としての実績はほとんどないが、歴史のターニングポイントに在位した重要な存在である。ちなみに祖父は藤原冬嗣、伯父は藤原良房である。
さて、文徳天皇には後継者として有力視される二人の皇子がいた。紀静子との間に生まれた惟喬親王(萬斎は「タカちゃん」と呼ぶ)と、藤原明子の間に生まれた惟仁親王である。藤原北家の時代が始まりつつあったが、紀氏もまだ勢力を保っていたということで跡目争いが本格化する。惟喬親王と紀氏は、東寺の柿本紀僧正(真済)の力を借り、一方の惟仁親王と藤原氏は比叡山延暦寺の慧亮和尚の後ろ盾を得て、皇位継承を決める相撲合戦を密教で操作する。最初は柿本紀僧正の密教の方が力が強く、10戦で勝敗を決める相撲の第4取り組みまでは惟喬親王派が4連勝した。これを聞いた比叡山の慧亮和尚は、独鈷で頭を割り、脳みそを引きずり出して火にくべて祈祷し、結果、惟仁親王側の力士が6連勝し、惟仁親王が清和天皇として即位することになるのだが、萬斎は、「さっきググってみたら、どうも話を盛っている。清和天皇は清和源氏の祖となりますので、源氏の人達が先祖を讃えるべく盛った」らしいという話をしていた。

「今日は時間を短くしなくちゃいけないということで、もう時間が来てしまいました」と萬斎は、「木六駄」についても軽く解説する。「お歳暮の話です」と言い、「お歳暮を黒猫(ヤマト運輸)ではなく牛で運ぶ」と冗談を言って、「『横座』は実際に牛が出てくるんですが、『木六駄』はリモートでいるように見せます」と語った。
「牛と出くわしたことのある方、いらっしゃいますか? 私はイギリスに留学していた時に野生の牛と出くわしたことがあるのですが、牛というのはとにかく動きません。通り過ぎるまで15分ぐらい待ちました」
また、通常の能舞台とは異なる場所での上演ということで、「劇場ならではの演出をする」ことも明かしていた。

 

「横座」。出演:野村万作、石田幸雄、石田淡朗。後見:飯田豪。
何某(石田幸雄)が、牛(石田淡朗)を連れ簡易橋懸かりから現れる。たまたま牛を手に入れたのだが、価値も何もわからないので、目利きの出来る牛主(博労。演じるのは野村万作)に目利きを頼むつもりで、牛を東の在所の柱に繋ぐ。そこへ牛主がやって来る。なんでも横座という名の秘蔵の牛が行方不明になったらしい。
牛主が陰陽師に見て貰ったところ、「(横座は)東の在所にいる」ということで、東の在所にやって来たのだ。そこで何某が繋いでいる牛こそが横座なのではないか、と聞くが、何某は、「これは自分がきちんとしたところから買った牛で、横座とは思えない」と返し、横座であったとしても金を出して買ったのだから自分のものだと主張する。
牛主は、横座は呼べば答える牛なので、呼んでみようとするが、「100編呼ぶ内に答えたら」と回数が余りに多く、「それだけ呼んだらたまたま鳴くこともあるだろう」と何某に突っ込まれて、50回、5回と減らされ、最期は3度の内に落ち着く。鳴かなかった場合は、牛主は何某の譜代(家来)にならねばならないという。
2度呼ぶも横座は答えず、ならば、と文徳天皇の時代の故事を語る。陰陽師の話を聞いて東の在所にやって来たり、東寺と延暦寺による加持祈祷合戦の話をしたりと、スピリチュアルな内容になっているのが特徴の狂言である。
比叡山の慧亮和尚は、五大尊の曼荼羅を置いて祈ったのであるが、五大尊の中の大威徳は、水牛に座した姿で描かれており、慧亮和尚が祈祷を行うと、描かれた水牛が鳴いたという。
「絵の牛ですら鳴くのだから、実在する横座は鳴くだろう」というのが、語られた故事の結末となっている。果たして……
最後は書かないでおく。

 

「木六駄」。出演:野村萬斎、中村修一、高野和憲、深田博治。後見:内藤連。
狂言は、「この辺りの者でござる」で始まるのが一般的だが、この狂言では最初に出てきた主(中村修一)が、「奥丹波に住まい致す者でござる」と自己紹介をする。京に住む伯父(深田博治)にお歳暮を届けようと思い、太郎冠者(野村萬斎)に牛12頭のうち6頭に炭六駄、残る6頭に木六駄を付けて運ぶよう命じる。野村萬斎演じる太郎冠者は最初の返事から「はい」ではなく「ばい」といった感じで、常日頃から主の無理難題に辟易していることが見て取れる。その後の返事も、「ふぁい」「ふぇい」と不請不請答えていることが伝わってくる。通常の狂言は、舞台上で行われる古い時代の笑い話を見ることになるのだが、野村萬斎の場合は現代人に近い感じの人物を創造するため、現代的視点が狂言の中に入り込む仕掛けとなり、客体化もしくは相対化される。これはおそらく、野村萬斎一代限りの芸である。息子さんは継げないだろう。

雪深い奥丹波を行く太郎冠者。言うことをなかなか聞かない牛を連れて、舞台を横切っていく。能舞台で演じる時は、下手の橋懸かりから出て、再び橋懸かりから下手袖に戻るということしか出来ないのだが、今日は普通の劇場ということで、上手に退場。その後、背後の紗幕が透け、紗幕の後ろを上手から下手へと牛を追う仕草をしながら歩いて行くのが見える。そして再び下手から仮設の橋懸かりに登場。そこで太郎冠者は老の坂の峠の茶屋を発見し、一休みすることにする。牛を繋ごうとするが、「進め」と言っても進まないのに、「止まれ」と命じるとなぜか進もうとし、崖の方へ向かったりと太郎冠者を苦戦させる。
茶屋の中でくつろぐ太郎冠者に、茶屋の主(高野和憲)は茶を勧めるが、太郎冠者は酒を所望する。だが、茶屋は酒を切らしており、大雪のため買いにも行けない。実は太郎冠者は伯父に贈るための酒樽を持って歩いていた。茶屋の主と二人で、「濃い酒なので少しぐらい飲んでも水を足せばバレない」と話し合い、「ちょっと一杯のつもりで飲」み始め、「いつの間にやら」酒宴となってしまう。太郎冠者は鶉舞を披露。レクチャートークで「豪華パンフレット(冗談で、ペラペラの紙が二つ折りになっているだけである)に歌詞が載っているので」後で見て欲しいと萬斎は言っていたが、源三位頼政の鵺(ぬえ)退治の話が出てくる。京都市内には三位頼政の鵺退治ゆかりの場所がいくつか存在する。

結局、ベロベロに酔っ払った太郎冠者は、木六駄とそれを付けた牛を茶屋の主に与えてしまい、酔ったまま千鳥足で旅路を急いで、都の伯父の家に辿り着く。状を伯父に渡した太郎冠者。伯父は、「炭六駄と木六駄とあるが、木六駄がないではないか」と太郎冠者を問い詰める。太郎冠者は、「近頃、名を木六駄と変えまして、それがし木六駄が炭六駄を付けた牛を連れて上って参りました」と無理矢理誤魔化そうとするのだが……

太郎冠者のトリックスターぶりを際立たせた名演技であった。

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2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

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2021年1月15日 (金)

コンサートの記(682) 阪哲朗指揮 大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)第45回名曲演奏会

2007年1月13日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

大阪へ。ザ・シンフォニーホールで大阪シンフォニカー交響楽団の第45回名曲演奏会を聴く。指揮は京都市生まれの阪哲朗。1995年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して注目を浴びた指揮者である。シンフォニーオーケストラではなくドイツの歌劇場を中心に活躍しているためか、CDなどは出ていないが、評価は高く、特にドイツにおいてはオペラ指揮者として高く評価されている。1968年生まれと若く、広上淳一(1958年生まれ)、大野和士(1960年生まれ)、大植英次(1956年生まれ)、佐渡裕(1961年生まれ)の次の世代の逸材として注目を浴びている一人である。

ニューイヤーということもあってか、後半はオール・シュトラウス・ファミリー・プログラム。前半はシュニトケの「モーツ・アルト・ア・ラ・ハイドン」と、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」。

「モーツ・アルト・ア・ラ・ハイドン」は京都市交響楽団の定期演奏会で井上道義も採り上げていた半冗談音楽。井上道義はこの曲を十八番としているようで、京響との演奏では外連味たっぷりの指揮と演技で大いに笑わせてくれた。阪さんは真面目なので(井上が不真面目ということではないが)井上のような悪ふざけはしない。ただオーケストラ団員が指揮に従わず、どんどん勝手に演奏するという演出はする。チェロ奏者やヴァイオリン奏者に指揮台を占領されてオロオロするという演技などは面白い。阪哲朗は指揮者というよりも老舗旅館の若旦那といった風貌なのでオロオロする様は実にはまっている。

モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」は古典配置による演奏。阪哲朗は知的な音楽作りに定評があるので、おそらくピリオドアプローチで来るだろうと予想。果たしてその通りであった。弦楽器のビブラートを抑えてすっきりとした響きを作り、音の強弱を「ミリ単位」という例えを使ってもいいほど細かくつける。これほど強弱に気を遣う指揮者も珍しい。躍動感にも満ちた音楽を創造するが、踏み外しが一切ないのが逆に気になる。こんなに優等生的な演奏でいいのだろうか。

後半のシュトラウス・ファミリーの音楽は、音に勢いがあり、演出も気が利いていて文句なしに楽しめる演奏であった。昨日聴いたウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラのような、ヨハン・シュトラウスⅡ世が率いていたバンドと同じサイズの編成による演奏も良いが、やはり現代のコンサートホールで聴くにはサイズの大きなオーケストラの方が適している。大阪シンフォニカー交響楽団も澄んだ響きを出しており、好演だ。

ところで阪哲朗という指揮者はいつも涼しい顔をして振っている。同じ京都市生まれで京都市立芸術大学出身であっても、佐渡裕とは正反対だ。

アンコールは3曲。まずヨハン・シュトラウスⅡ世の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。阪は演奏の途中で指揮台を降り、残りの演奏をオーケストラに任せて下手袖(ステージ向かって左側)へ引っ込んでしまうという演出をする。だがこれ、阪は事前にオーケストラに告げていなかったようで、演奏を終えたファーストヴァイオリンの奏者達が驚きの混じった顔で阪の去っていった下手袖を振り返っていた。

アンコール2曲目は恒例のワルツ「美しく青きドナウ」、3曲目も恒例の「ラデツキー行進曲」。まずまずの演奏であった。

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2021年1月13日 (水)

コンサートの記(681) ペーター・グート指揮ウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラ「ニューイヤー・コンサート」2007京都

2007年1月12日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールで、ペーター・グート指揮ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラによるニューイヤー・コンサートを聴く。日本を代表する若手ソプラノ歌手・森麻季がゲスト出演する。

ウィンナ・ワルツやポルカのスペシャリストとして一部で高い評価を受けているペーター・グートはもともとはヴァイオリニストであり、生地のウィーンでヴァイオリンを学んだ後、旧ソ連に留学。モスクワ音楽院で当時世界最高のヴァイオリニストの一人であったダヴィッド・オイストラフに師事している。
ウィーン交響楽団の初代コンサートマスターとなったグートは1982年に指揮者としての活動を開始、ヨハン・シュトラウスⅡ世同様、ヴァイオリンを弾きながらオーケストラを指揮することもある。

ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラは名前通りの祝祭オーケストラだが、1978年から活動を続けており、シュトラウス・ファミリーの演奏はお手の物だ。

森麻季は有名だ。
で済ませたいところだが、クラシックの知識のある方ばかりとは限らないので紹介しておくと、1970年、東京に生まれ、東京藝術大学および大学院、文化庁オペラ研修所を経て、イタリアに留学。まずアメリカで成功を収め、日本ではNHK交響楽団との共演で知名度を上げる。昨年(執筆当時。具体的に書くと2006年)、avexからCDデビューしている。伸びやかな高音と華やかな容姿が売りである。

ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラは小編成(ファースト・ヴァイオリン8、セカンド・ヴァイオリン3、ヴィオラとチェロとコントラバスが2。2管編成)であり、京都コンサートホール大ホール向きではない。だから最初の曲である「こうもり」序曲などは音量に不満を感じたが、ワルツやポルカなどは音量よりも音の美しさが重要なのでボリューム不足はさほど気にならなかった。アンサンブルの精度はもう1ランク上を望みたくなるが音の艶やかさは十二分に合格点に達していた。

ペーター・グートの指揮はCDでも耳にしているが、本当に楽しそうにワルツやポルカを演奏する。ショーマンである。これは音だけではわからない。やはり音楽は生が一番である。チケットもそう高くはないんだし。

森麻季は3曲に登場。まずはオペレッタ「こうもり」より“伯爵様、あなたのようなお方は”。続いてワルツ「春の声」。最後がオペレッタ「こうもり」より“田舎娘を演る時は”。いずれも余裕を持って歌われる高音が素晴らしい。ただ今日は私はステージ下手(左側)真横に座っており、私の席からは森の声は聞き取りにくかった。残念。
森は“伯爵様、あなたのようなお方は”ではピンクのドレスにショッキングピンクの手袋、「春の声」では青いドレスにターコイスブルーのショール、“田舎娘を演るときは”ではエメラルドグリーンのドレスに白い手袋で登場。森のドレス姿の鮮やかさに会場のここかしこから女性のため息が起こる。

全プログラムを終えて、グートと森が登場。森は最初に出てきた時と同じピンクのドレスにショッキングピンクの手袋。グートはラデツキー行進曲をオーケストラに演奏させて、自分は森と共に客席に降りて1階席を巡る。会場にいた子供3人を呼んでステージに立たせ、指揮棒を持たせて指揮の真似事をさせると再び森麻季と更にファーストヴァイオリン8人を引き連れて1階席を一巡り。サービス精神旺盛である。


ウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラ ニューイヤー・コンサート2007 公演パンフレット(鴨東記)

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