カテゴリー「イギリス」の45件の記事

2022年4月20日 (水)

コンサートの記(774) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第557回定期演奏会

2022年4月8日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフィエスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第557回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏:藤田真央)とエルガーの交響曲第2番。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の独奏は、元々はフランス人ピアニストであるアンヌ・ケフェレックが担う予定であったが、コロナ禍により来日不可となったため、気鋭の若手ピアニストとして知名度を上げている藤田真央が代役に指名された。


今日のコンサートマスターは崔文洙、フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置による演奏である。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ちょっと風変わりな青年であるが、天衣無縫の音楽性を持つピアニストである藤田真央(有名人ではあるが一応注釈を入れておくと男性ピアニストである)。冒頭の天国的な響きから聴衆を魅了する。音楽は次第に思索を深めていくが、藤田真央のピアノはピアノの音そのものよりも高い音楽性で聴かせる。「いいピアノだ」という印象よりも「なんて素敵な音楽なのだろうと」、ベートーヴェンの音楽性の高さをありありと示すことが出来るのである。まだ若い故に時にムラッけが出ることもあるが、リリシズムやロマンティシズム、この上ない喜びなどを自在に奏でてみせるのだからその実力に疑問の余地はない。
尾高指揮の大フィルも、ピリオドを取り入れた深くて格好の良い伴奏を聴かせた。


藤田真央のアンコール演奏は、J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」よりガヴォット(ラフマニノフ編)。チャーミングにして愉悦感に飛んだ演奏であった。


エルガーの交響曲第2番。
大英帝国の栄耀栄華を描いたような交響曲第1番で名声を博したエドワード・エルガー。彼の交響曲第2番も大いに期待されたが、1911年5月24日にクイーンズホールで行われた作曲者自身の指揮による初演は、演奏終了後に困惑が広がったという。聴衆は交響曲第1番のような壮麗な楽曲を期待していたのだと思われるが、交響曲第2番は旋律も短めで、しかも何度も同じ音型が繰り返されるというものであり、交響曲第1番に比べてモダンな印象も受けるが、その余りの落差に、初めて聴いた聴衆が戸惑ったのもむべなるかなという気もする。

全ての楽章で、当時、大英帝国の首都として世界一の賑わいを見せていたロンドンの街の種々雑多な賑わいが描かれているようであり、楽しい曲ではあるのだが、作風がモダンすぎたのかも知れない。
第2楽章は、「故エドワード7世陛下の想い出に捧ぐと」記された追悼曲であるが、それにしては明るめの印象を受ける。一説には、エルガーが親しくしていた人物の他界に寄せた楽曲でもあるといわれているようだ。
第4楽章のラストは、「高揚」というよりも、「次の時代へと続く」という「その先」を感じさせる終わり方で、効果的である。

エルガーの交響曲第1番は英国音楽史上に燦然と輝く名曲だが、交響曲第2番も、ヴォーン=ウィリアムズを始め、その後の英国人交響曲作曲家に繋がるような曲調であり、英国音楽史上重要な音楽作品と見ることが出来るだろう。

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2022年4月 1日 (金)

これまでに観た映画より(290) 「ベルファスト」

2022年3月29日 京都シネマにて

京都シネマで、ケネス・ブラナー脚本・監督作「ベルファスト」を観る。アイルランド・イギリス合作。アカデミー賞では脚本賞に輝いた作品である。イギリス(グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国)の北アイルランドの中心都市、ベルファストを舞台としたカトリック派とプロテスタント派の闘争を少年の視点から描いた作品。ケネス・ブラナーはベルファストに生まれ、9歳の時までこの街で生活していた。ということで、自身の子供時代を重ねて描いた映画である。

出演:ジュード・ヒル、カトリーナ・バルフ、ジェイミー・ドーナン、キアラン・ハインズ、ジュディ・デンチほか。

宗教闘争が鍵となっているが、それには北アイルランドの成り立ちについて知らないと内容がよく分からないことになる。
カトリックの国であったアイルランドであるが、徐々にイギリスに浸食されることになり、遂にはイギリスに併合されてしまう。その過程で、イギリスはカトリックを離れたイギリス国教会(英国聖公会)を樹立させ、更に多くの派が分離してプロテスタント系へと流れていく。ということで、イギリスはプロテスタントが主流、アイルランドはカトリックが主流ということになる。その後、ようやく20世紀に入ってからアイルランドはイギリスからの独立を勝ち取るのだが、北アイルランドはカトリック系の住民よりもプロテスタント系の住民の方が圧倒的に多かったため、アイルランド独立後もイギリスに属することになった。これが火種となる。

映画は現在のベルファスト市の上空からのカラー映像に続き、1969年8月15日のモノクロ映像へと移る。9歳のバディ(ジュード・ヒル)が戦士ごっこを終えて家へと帰ろうとした時のことだ。向こう側から、武装した異様な風体の男達が現れる。男達は火炎瓶を投げるなどして周囲を混乱と恐怖へと陥れていった。バディが住む街ではプロテスタント派もカトリック派も家族のように仲良く暮らしていた。だが、プロテスタントのタカ派青年達がやって来て、カトリックの住民を排斥するために暴力に訴え出たのである。これがIRAなどを生んだことで知られる北アイルランド紛争の始まりであった。実はバディの一家はプロテスタントを信仰しており、直接的に排除される対象ではなかった。後にバディは従姉のモイラによって反カトリック派によるスーパーマーケット襲撃の列に強引に加えられてしまったりする。

一方、バディの父親(本名不明。演じるのはジェイミー・ドーナン)はその日、家を空けていた。北アイルランドでは待遇が悪いため、ロンドンに出稼ぎに出て大工(正確には建具工のようである)をしていたのだ。平日はロンドンで働き、週末にベルファストに戻るという生活をしていたが、ベルファストが物騒になってきたため、週末にロンドンで働いて、それ以外はベルファストにいるという逆の生活を選ぶことになる。経済的に苦しくなることが予想されたが、そんな折り、契約しているロンドンの会社から大工の正社員にならないかという誘いを受ける。それも新居が約束されているという好待遇でである。しかしバディの母親(こちらも本名不明。演じるのはカトリーナ・バルフ)は生まれ育ったベルファストに愛着があり、またアイルランドなまりによって差別を受けるのではないかとの怖れからロンドンに移ることを渋る。

バディは小学校では成績優秀。クラス一の秀才であるキャサリンに好感を抱いている。小学校では、テストがある度に席替えが行われ、成績優秀者が最前列で、点数が低いと後ろに下がることになる。今回のテストでバディの成績は3番。オリンピックになぞらえて「銅メダル」と呼ばれる。あと一つ、順位を上げれば「金メダル」であるキャサリンの隣の席になれる。
そうした事情もあり、また祖父(キアラン・ハインズ)や祖母(ジュディ・デンチ)と別れたくないとの理由もあって「ベルファストから離れたくない」と泣きわめくのだった。


ケネス・ブラナーが自身の子供時代を投影していると思われるシーンがいくつかある。バディの一家は映画好きで、たびたび家族で映画館に出掛けており、映画館で「チキ・チキ・バン・バン」を観るシーンがある。またバディが一人でテレビで放送される西部劇映画を食い入るように見つめている場面がクローズアップなども使って描かれている。また、一家は劇場にも通う習慣があったようで、ディケンズ原作の「クリスマス・キャロル」を舞台化したものを観るシーンも盛り込まれている。夢見る少年にとって、生まれた場所を離れるのは耐えがたいことであったが、ベルファストの状況が日毎に悪化していく中で、母親も移住賛成派に回り、ベルファストを去ることが決定的となるのであった。


人生の最も重要な時期の一つである少年時代の夢と悪夢を絡めながら描いた瑞々しい作品である。状況的には悲惨なのであるが、幼い日の淡い恋心や映画への憧れなど、子供を主人公にしたからこそ可能な、心が軽くスキップするような瞬間が丁寧に描かれている。そしてそうであるが故に、それと対比される暴力や争うことの愚かさが、より際立って見える。

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2022年2月26日 (土)

観劇感想精選(428) 大竹しのぶ主演「ザ・ドクター」

2021年12月4日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「ザ・ドクター」を観る。作:ロバート・アイク、テキスト日本語訳:小田島恒志、演出:栗山民也。出演は、大竹しのぶ、橋本さとし、村川絵梨、橋本淳、宮崎秋人、那須凜、天野はな、久保酎吉、明星真由美、床嶋佳子、益岡徹。

イギリスを舞台とした作品である。

芝居はまず、ルース・ウルフ(大竹しのぶ)の録音された声から始まる。彼女が目の前に死体が横たわっているのを見つけたのでどうすればいいのかを聞いている。しかし、必要なのは「救急車ではありません」「それははっきりしています」と語る。「私は医師ですから」

ルースは、エリザベス(医療)研究所の創設者であり、所長でもある。いわばエリートだ。一方で、同性愛者でもあり、チャーリーというパートナー(床嶋佳子)がいる。

ある日、エリザベス研究所に、堕胎に失敗して敗血症となったエミリーという14歳の女の子が運ばれてくる。主治医は所長で教授でもあるルースが受け持つが、もう長くないことは明らかであった。そこにジェイコブ・ライス(益岡徹)という黒人の神父がやって来る(戯曲の指定もあるが、黒人のメイクはしていない)。エミリーの両親から臨終の儀式を行うよう頼まれたのだ。ルースは医学的見地からジェイコブの面会を拒否。エミリーが「自分は死ぬ」と察してパニックになるのを防ぐ意味もあった。だが、熱心なカトリック信者であるエミリーの両親は、臨終の儀式を行わないと地獄に落ちると信じており、自分達は飛行機に乗って移動中であるため間に合わないが、ジェイコブには絶対に臨終に立ち会うよう言っていた。ジェイコブも責任を感じ、エミリーの病室に向かおうとしてルースと揉み合いになる。ジェイコブは裁判になった時の証拠になるよう、その模様を録音していた。結局、ジェイコブの立ち会いは拒否され、エミリーは混乱の内に他界。ジェイコブは怒り心頭。その後に研究所にやって来たエミリーの父であるローナン(益岡徹二役)も、「娘を地獄に落とされた」と抗議を行う。やがてネット署名も始まって、自体は深刻化する。

一つには宗教の問題がある。ルースは無神論者のようだが、両親はユダヤ教徒。エリザベス研究所にもユダヤ系が多いということで、宗教的な贔屓があるのではないかと疑われた。広報のレベッカ(村川絵梨)もユダヤ系である。また500名の研究所員のうち65%が女性ということで、女性優遇があるのではないかという疑問も生まれる。また新たに薬理学系の教授候補となったユダヤ系女性と黒人男性のうち、採用されたのがユダヤ系女性のファインマンであったことも疑いを加速させる。

結局、ルースは所長の座を辞すのだが、ルースを追求する声は日増しに大きくなり、自宅の前に停めておいた車にもハーケンクロイツの傷を付けられるなど、魔女のような扱いを受ける。そしてルースは「ザ・ディベート」という番組に出演することになるのだが……。

前半は宗教観やジェンダーを巡るシリアスで重い展開となるが、後半はヒューマンドラマへと変わっていく。

「ザ・ドクター」というタイトルがルースのアイデンティティそのものを示している。彼女は女やユダヤ教徒の娘、そして人間である前に「ドクター」である。生まれながらにしてドクターに相応しい気質を持っているのだ。性別、人種、信条によって様々なイメージが生まれ、実体を占領する。だが、彼女には揺るぎない自己像と医師としての誇りと信念がある。ラスト近くのジェイコブやチャーリーとの会話に、それがはっきり表れていた。

大竹しのぶや益岡徹の存在感が見もの。また村川絵梨を舞台で見るのは久しぶりだが、いい女になっていて驚かされた。

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2021年12月20日 (月)

観劇感想精選(417) 「Home,I’m Darling~愛しのマイホーム~」

2021年11月12日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「Home,I'm Darling~愛しのマイホーム~」を観る。2019年の英国ローレンス・オリヴィエ賞5部門にノミネートされ、ベスト・ニュー・コメディ賞を受賞したブリティッシュ・コメディの日本初演である。作:ローラ・ウェイド、テキスト日本語訳:浦辺千鶴、演出:白井晃。東宝の製作である。出演は、鈴木京香、高橋克実、江口のりこ、青木さやか、袴田吉彦、銀粉蝶。
最近話題になることの多い江口のりこは姫路市の出身であるため、今回が凱旋公演ということになる。

ロンドン近郊の一軒家が舞台。ジュディ(鈴木京香)は、元々は部下が6人いるキャリアウーマンだったのだが、会社の経営が傾き、自主退職者が募られた時に、「クビになるのは確実だからその前に」と申し込み、以後は専業主婦になっている。ジュディの母親であるシルヴィア(銀粉蝶)は、娘が専業主婦になったことに納得がいっておらず、ジュディの下をたびたび訪れては不満を漏らす。ジュディの夫であるジョニー(高橋克実。カツラを付けての演技)は、不動産会社に勤務。ジュディはバーミンガム大学卒であるが、ジョニーは大学入学資格試験の日にインフルエンザに罹ったという不運も重なって高校で学業を終えている。高卒ということで、会社では最古参であるにも関わらずなかなか出世出来ないでいるのだが、ジュディにはどうしてもジョニーに出世して貰いたい理由があった。

ジュディの趣味である1950年代風に統一された家の内装。ジュディも50年代風の衣装を好んで着る。「最高に幸せ」という雰囲気で始まる芝居だが、ジュディもジョニーも内心には不満を秘めている。

ジョニーの上司が変わる。若いアレックスという人物だ。ジュディはアレックスというファーストネームから男だと信じていたのだが、実は女性である(江口のりこが演じる)。
部下のことをよく知りたいというアレックス。ジュディとジョニーはアレックスを自宅に招くことにする。ジョニーとアレックスは実に相性が良い。アレックスはロンドン大学のスクール・オブ・エコノミクス(英タイムズ紙による2022年版英国内ランキング5位)を卒業したインテリで、バーミンガム大学(同じく2022年版英国内ランキング25位)出身のジュディよりも高学歴。ジョニーとのやり取りも親密で、ジュディは嫉妬を覚え……。

第2幕冒頭には、会社を辞める前のジュディとジョニーのシーンが挿入されており、ジョニーがキャリアウーマンタイプの女性を好んでおり、ジュディを結婚相手に選んだ理由が仄めかされている。

ストーリー的には特に目新しい展開も、特筆すべき事件も起こらないのだが、夫婦が再び互いに恋するという話でもあり、鈴木京香演じるジュディと高橋克実演じるジョニーが愛らしく、微笑ましい夫婦として映る。特段に優れた舞台という訳でもないのだが、「良いものを観たな」と思える大人のための演劇である。

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2021年9月 3日 (金)

観劇感想精選(411) IN STU×KAIKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」

2021年8月13日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、IN STU×KAKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」を観る。作:トム・ストッパード。テキストは、ハヤカワ演劇文庫から出ている小田島恒志訳のものを使用。演出は大石達起。出演は、阿僧祇(白河夜船)、高橋紘介、勝二繁(日本海/およそ三十世帯)、黒木陽子(劇団衛星/ユニット美人)、横山清正(気持ちのいいチョップ)、藤村弘二、川﨑祐輔(劇団つちの娘)、岡田眞太郎(トム論)、伊藤彩里(gallop/カイテイ舎)、土肥嬌也、上条拳斗、大山渓花。

21世紀に入ってから日本でも作品が上演される機会が増えたトム・ストッパード(1937- )。映画「恋におちたシェイクスピア」や「未来世紀ブラジル」などで共同脚本として名を連ねていることでも有名である。
「アルカディア」は、1993年にイギリスで初演され、日本初演は2016年に栗山民也の演出によって行われている。

イングランドの貴族、カヴァリー家の屋敷が舞台なのだが、時代を隔てた二つの世界が互い違いに描かれていく。最初に舞台となるのは1800年代。13歳のトマシナ・カヴァリー(阿僧祇)は、家庭教師のセプティマス・ホッジ(高橋紘介)に数学などについて教わっている。イギリスの場合、貴族階級の女子は学校に通うのではなく家庭教師に教わるのが一般的で、それが変わるのは20世紀以降である。

トマシナは聡明な女の子で、特に代数に関しては図抜けた能力を持っている。おそらく彼女に解けないのは、17世紀に提唱された「フェルマーの最終定理」(「アルカディア」初演から2年経った1995年にアンドリュー・ワイズによってようやく証明された)ぐらいで、実際にトマシナがフェルマーの最終定理に挑む場面がある。それを教えるセプティマス・ホッジもパブリックスクールの名門であるハロー校を経てケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだというインテリである。実はセプティマス・ホッジは、ロマン主義最大の詩人といわれるジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿)の先輩であり面識もあった、ということでカヴァリー邸にもバイロンは訪れている(劇中には登場しない)。

一方の舞台は現代である。登場人物は、カヴァリー家の末裔であるヴァレンタイン・カヴァリー(上条拳斗)とクロエ・カヴァリー(大山渓花)、そしてガス・カヴァリー(川﨑祐輔)。更にカヴァリー邸の歴史を調査しているベストセラー作家のハンナ・ジャービス(伊藤彩里)と、ハンナのライバル的存在であるサセックス大学研究員のバーナード・ナイチンゲール(最初の場面ではバーナード・ピーコックという偽名を付けられる。土肥嬌也)の5人。ガス・カヴァリーは、場面緘黙もしくは全緘黙で、知能は高いと思われるのだが話すことが出来ない。ただし音楽の才能は抜群で、母親からは「我が家の天才くん」と呼ばれている。ヴァレンティンは数学者ということで、先祖の血を受け継いでいるように思われる。
ちなみにガスを演じる川﨑祐輔は、1800年代の場面ではオーガスタス・カヴァリーを二役で演じているが、オーガスタスはガスとは真逆の、映画「アマデウス」に登場するモーツァルトを思わせるような天真爛漫な人物である。「オーガスタス」は、ラテン風に読むと「アウグストゥス」であり、クレオパトラの名前が劇中で出てくるのとおそらく関係があり、またセプティマスがセプテンバーに繋がる名前なのも意図的だと思われる。

現代の場面では、バイロンの研究をしているバーナードが、バイロンとカヴァリー邸で出会った詩人のエズラ・チェイター(藤村弘二)が、自作の詩をバイロンに酷評されたため決闘を申し出て、敗北。チェイターは死んだが、その結果、バイロンはイングランドにいられなくなったという説を唱える。その証拠となりそうな史料がカヴァリー邸にはいくつも眠っていたのである。だが、最終的にはその説は否定されることになる。

現代がこの路線で進む一方、1800年代の物語は、カヴァリー邸の庭園であるシドリー・パークが軸になって展開される。トマシナがシドリー・パークの設計図に書かれた「隠者の家」に隠者の絵を描き込み、庭園設計家のリチャード・ノークス(横山清正)は実際に隠者の家を建てるも、肝心の隠者が見つからないという話になる。セプティマスは、「隠者でしたらすぐに見つかると思います」と嘯く。

現代では、ハンナがこの隠者の正体について調査していたのだが、隠者と呼ばれた人物が、セプティマスと同い年であるという事実に気づき……。


トム・ストッパードは、数学に強い劇作家だそうで、この作品にも数学や物理に関する専門用語がちりばめられているが、理系に弱いと内容が分からないということはない。数字によって物語が展開していく訳ではないからだ。というよりもむしろ、数学の理論は最終的には退けられている。

面白いのは、本当に重要な物語が語られることなく作品が進み、終わるということである。

インテリでお堅いように見えるセプティマスであるが、男前で文武両道ということで様々な女性から誘われたり情を交わしたりしている。そんな彼が隠者、つまりなぜ女を避けて引きこもるようになったのか、という疑問が起こる。
この理由も仄めかされる。初登場時には13歳と10ヶ月(あと6週間で「ロミオとジュリエット」のジュリエットに並ぶ)だったトマシナであるが、終盤では16歳と11ヶ月に成長している。だが、トマシナは火事に遭って17歳の若さで亡くなっていることが記録されているのである。セプティマスが隠者となるのはそれ以降。つまり女からモテモテであったセプティマスが、亡くなったトマシナを最後の女性として、残りの人生を隠者として彼女の思い出と共に過ごしたというかなりロマンティックな物語が浮かび上がる。この話が舞台上で語られることはないのだが、おそらく多くの人に隠者としてのセプティマスの物語の始めと終わりが浮かぶだろうし、それは多分、正しい。語られない愛が最も雄弁に観る者に訴えかけるという極めて巧みな作劇法が用いられた物語である。

交互に登場した1800年代の場面と現代の場面が、終盤には同じ場で展開される。互いのことは見えないのだが、同時進行である。
ラストは、高い次元で理解し合えた二組の男女のワルツを踊る場面である。そのうち、トマシナとセプティマスは最初にして最後のワルツであり、永遠の男女としての最後にして最初のワルツだ。甘く悲しい最後である。


多くの出演者が、京都の小演劇で活躍している舞台俳優であるが、最近、京都の小劇場に接する機会が余りないので、何度も演技を見たことがあるのは黒木陽子だけである。
おそらくTHEATRE E9 KYOTOの舞台に慣れていないのと、キャリアが浅いことの両方が関係していると思われるのだが、特に男性陣はセリフも動きも押しの一手であり、「この大きさの空間なら怒鳴らなくても伝わるのに」と思った場面が多いのが気になるところである。

ラストのワルツの場面も、出演者達が音楽の素養に欠けるため、拍をちゃんと刻めていなかったり(三拍子の三角形を空間に描くのだが、三拍分を一拍で描くため、拍が取れていないことが分かる)、拍が取れていないので当然ながらワルツが踊れていなかったりと、かなり気になった。男性が常にリードするといったようなルールも知らないまま適当にやっているようである。

舞台美術などは結構お洒落に作ってあったり(舞台美術:岩崎靖史)、衣装なども良かった(衣装:久保梨緒)ので、後は演技の細部を詰めればもっと良くなるはずである。

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2021年6月20日 (日)

これまでに観た映画より(264) アルフレッド・ヒッチコック監督作品 「断崖」

2021年6月18日

録画してまだ観ていなかった、BSプレミアムのプレミアムシネマ「断崖」を観る。アルフレッド・ヒッチコック監督作品。このところプレミアムシネマではヒッチコック作品が立て続けに放送されている。

原作:フランシス・アイルズ、音楽:フランツ・ワックスマン。
出演:ケーリー・グラント、ジョーン・フォンテイン、ナイジェル・ブルース、セドリック・ハードウィック、デイム・メイ・ウィッテイ、オリオール・リーほか。アメリカ映画だが、イギリスを舞台としている。全米公開は1941年11月14日ということで、日米開戦が目前に迫っていた。

「断崖」は十代の頃に観ているはずだが、今振り返ると、あの当時は何も分かっていなかったように思う。

影のある二枚目俳優で、ヒッチコック作品の常連であったケーリー・グラントが本領を発揮しているが、世間知らずな田舎の富豪の娘から一人の女性へと自立していくリナを演じたジョーン・フォンテインの演技は更に素晴らしく、1時間40分と短めの映画であるが、冒頭とラストでは全くの別人になっている。ジョーン・フォンテインは、この演技が認められ、第14回アカデミー賞で主演女優賞を獲得している。

物語は、列車のコンパートメントで、リナとジョン・エイスガース(愛称はジョニー。ケーリー・グラント)が出会うことから始まる。色男として新聞にも載るジョニー・エイスガース。リナはたまたまその記事を目にし、ジョニーが映った写真を切り抜き、読んでいた本に挟んだ。ウイットに富んだ会話を行うジョニーにリナは才気を感じる。

再会した二人は瞬く間に恋に落ち、結婚を決める。海外に新婚旅行に出掛け、ジョニーが改装させた新居に落ち着いた二人。だが、ジョニーがとんだ甲斐性なしだと判明する。男前で人当たりが良いので、これまで色々な人がお金を貸してくれたが、ジョニー自身はこれまで一度もまともに働いたことがない。しかも競馬好きで負け続け、多額の借金がある。生活を心配するリナにジョニーは、「君はいつか大金を相続する」と語って、リナをあきれさせる。

とはいえ、ジョニーも働き口について全く考えていなかった訳ではない。いとこが、経営する不動産屋で一緒に働かないかと持ちかけてくれていた。
だが、そこでもジョニーは持ち前の駄目男ぶりを発揮。横領を働いてしまい、解雇に。親族だというので告訴はされなかったが、返済を求められているということをリナは知ってしまう。

ジョニーは親友のビーキー・スウェイト(ナイジェル・ブルース)と共に事業を興す計画を立てる。ウエストサセックス州タングメアの断崖沿いの土地を手に入れ、開発や土地の転売を行おうというのだ。
ジョニーへの失望と信頼の回復を繰り返していたリナだったが、次第に夫が保険金目当ての殺人を企てているのではないかと疑い始める。


ヒッチコック映画のトレードマークの一つとして、「ヒッチコック・シャドー」と呼ばれるものが存在する。長く伸びる影が不穏さを醸し出すのだが、「断崖」ではケーリー・グラントの影が「ヒッチコック・シャドー」として効果的に使われている。

またケーリー・グラント演じるジョニーが、妻のリナのためにミルクを入れたコップをトレイに乗せて暗めの階段を昇るシーンで、ミルクが毒々しく光る。実はこれはミルクを入れたコップに電球を仕込んで光らせるという、ヒッチコック演出の中でも特に有名なものの一つである。ヒッチコックの卓越した発想力が窺われる演出だ。

ワックスマン作曲の音楽が特に前半はずっと流れており、本当の意味でのメロドラマであるが、この映画の主題はずばり「愛」だ。心理サスペンスではあるが、リナはジョニーを、ジョニーはリナを誰よりも愛している。そして世間知らずの田舎の富豪の娘と、見た目が良いだけの馬鹿男が、夫婦として成長していくという人間ドラマでもある。

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2021年6月 7日 (月)

グラインドボーン音楽祭2012 ロビン・ティチアーティ指揮指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団ほか モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」

2021年5月4日

Blu-rayで、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を観る。2012年のグラインドボーン音楽祭での収録。指揮は、「第二のラトル」といわれたこともある若手のロビン・ティチアーティ。古楽器オーケストラであるエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の演奏。演出は、マイケル・グランデージで、彼は舞台を1960年代から70年代のヒッピームーブメントの時代に置き換えており、バルバリーナなどはサイケデリックなファッションに身を包んでいる。

出演は、リディア・トイシャー(スザンナ)、ヴィート・ブリアンテ(フィガロ)、サリー・マシューズ(アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、アウドゥン・イヴェルセン(アルマヴィーヴァ伯爵)、イザベル・レナード(ケルビーノ)、アン・マレー(マルチェッリーナ)、アンドリュー・ショ(バルトロ)ほか。
合唱は、グラインドボーン合唱団。
オーパス・アルテからの発売で、日本語字幕付き(他に英語、フランス語、ドイツ語、韓国語の字幕が付いている)。ナクソス・ジャパンによる輸入販売。

「セビリアの理髪師」では、フィガロと組んでロジーナとの結婚を成功させた才人のアルマヴィーヴァ伯爵であるが、続編である「フィガロの結婚」では、初夜権を復活させて、フィガロの婚約者であるスザンナの貞操を奪おうとする悪漢に変身している。「セビリアの理髪師」と「フィガロの結婚」の間に何があったのかは分からないが、伯爵夫人となったロジーナとの間に、何らかのすれ違いがあった可能性もある。

理髪師というホームレスが多い職業であったフィガロであるが、ロジーナとの結婚を取り持った功により、アルマヴィーヴァ伯爵の召使いに昇進。伯爵邸の一部に部屋を頂き、そこで許嫁のスザンナと共に過ごせるということでウキウキである。だが、スザンナは伯爵の企みに気づいており、スザンナから話を聞いたフィガロもそれを信じざるを得なくなる。そして、アルマヴィーヴァ伯爵の浮気の現場をつかもうという計画を練り、スザンナの身代わりとして小姓のケルビーノを使おうという話になる。
一方、「セビリアの理髪師」では、ロジーナをアルマヴィーヴァ伯爵とフィガロに奪われたバルバロは、年増のマルチェッリーナをフィガロと結婚させ、フィガロとスザンナの仲を裂くことで復讐を図る。マルチェッリーナはフィガロに恋しており、スザンナとどちらがフィガロの結婚相手に相応しいか、鞘当てを始める。
ケルビーノが去ったため、伯爵夫人はスザンナと計略を図り、互いの衣装を入れ替えて、伯爵夫人本人がスザンナに化けて夫の不貞を暴こうとする。しかし、二人の計略をフィガロもケルビーノも知らないため、想定外の狂騒(ラ・フォル・ジュルネ)が起こってしまう。
さて、フィガロとマルチェッリーナとの結婚を認めるか否かの裁判であるが、結婚は有効との判決が出る。だが、予想外の事実が判明して……。

イギリスのシックな建築が基本となった舞台。序曲演奏中も幕は下りておらず、伯爵の使用人達が表の掃除をしたり、ものを運んだりしている。フィガロも使用人頭として甲斐甲斐しく働いている。1960年代から70年代ということで伯爵と伯爵夫人がオープンカーに乗って現れ、フィガロが伯爵夫人をエスコートする。

ロビン・ティチアーティ指揮のエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団であるが、はち切れんばかりの生命力が印象的である。推進力とアンサンブルの精度も優れている。
20世紀半ばから80年代に掛けて主流だったロマンスタイルの演奏は情緒面の拡大には寄与したが、モーツァルトの音楽が持っている本来の意味での快活さや爆発力が犠牲になっていたのかも知れない。古楽器のオーケストラとその扱いに長けた若い指揮者の演奏によって初演時30歳そこそこだったモーツァルトの若々しさが復活したような印象を受ける。

フィガロを演じるヴィート・ブリアンテは男前で、おそらく女性にモテモテのはずである。なんだかんだで男前は得で、見た目だけで才気ありそうなフィガロに見える。

ボーマルシェの原作は、露骨に貴族階級批判の意図が込められたものだが、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本によるモーツァルトの歌劇版は貴族に対する矛先はそれほど鋭いものではなく(それでも貴族批判を感じ取った貴族中心の聴衆には不評で初演は数日のみで打ち切られた。現代の演出は鋭い場面をカットした穏健なものが主流であり、この上演でも端折られている)恋にまつわるドタバタが中心で、それ故に長年に渡ってオペラ史上屈指の人気を博してきたのだと思われる。

若手中心のキャストで、若者のムーブメントが盛んであった1960年代から70年代に舞台を移すことで、若々しさのエネルギーを前面に押し出した上演となっている。

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2021年5月29日 (土)

観劇感想精選(398) 「ANJIN イングリッシュ・サムライ」

2010年1月23日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「ANJIN イングリッシュ・サムライ」を観る。徳川家康に仕えた三浦按針ことウィリアム・アダムスを主人公にした日英合作の舞台である。脚本:マイク・ポウルトン、共同脚本執筆:河合祥一郎、演出:グレゴリー・ドーラン(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)。出演は、市村正親、オーウェン・ティール、藤原竜也、高橋和也、床嶋佳子ほか。

名前だけは有名だが、実際はどういう人だったのか余り知られていない三浦按針(1564年生まれでシェイクスピアと同い年であり、そのため英国のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが制作に参加している)を主人公に、関ヶ原の戦いや大坂の陣の起こる激動の時代を綴る叙事詩である。途中休憩20分を含めて上演時間約3時間半という長編。

セリフは英語と日本語で、舞台両端に字幕が出る。

イギリス人でありながら、旗本・三浦按針となり、イギリス人でも日本人でもなくなったウィリアム・アダムス(オーウェン・ティール)と、名門・北条氏の出身で侍の心を持ちながら宣教師となったドメニコ(藤原竜也)という、自我が二つに引き裂かれた人物が登場する。ただ、彼らの苦悩を描くという点では突っ込みが甘く、せっかくの設定を生かし切れなかったように見えた。その他の点では、優れた舞台であったように思う。

役者は大熱演。特に驚異的な長ゼリフをこなす徳川家康役の市村正親、英語のセリフをこなした藤原竜也(役作りのために2ヶ月に渡ってロンドンで英語の特訓に挑んだという)の二人の演技には脱帽ものである。

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2021年5月 4日 (火)

観劇感想精選(396) 加藤健一事務所 「ドレッサー」2021@京都府立府民ホールアルティ

2021年4月24日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都御苑の西にある京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「ドレッサー」を観る。作は、「戦場のピアニスト」、「想い出のカルテット」、「テイキング・サイド」などで知られるロナルド・ハーウッド(1934-2020)。テキスト日本語訳:松岡和子。演出は鵜山仁(うやま・ひとし)。出演は、加藤健一、加納幸和(花組芝居)、西山水木、佐伯太輔(さえき・たいすけ)、照屋実、岡﨑加奈、一柳みる(ひとつやなぎ・みる。昴)。声の出演:石田圭祐、外山誠二、高橋ひろし、鍛冶直人、郡山冬果、浅海彩子。

「ドレッサー」の実演には、2005年に、平幹二朗と西村雅彦(現・西村まさ彦)ほかの上演に接したことがある。
「ドレッサー」の世界初演は、1980年にロンドンで行われているが、日本初演はその翌年の1981年。座長役が三津田健で、ノーマン役が平幹二朗であった。平幹二朗は、2005年の「ドレッサー」では座長役を演じている。1988年には、加藤健一がノーマン役、三國連太郎が座長役を演じた「ドレッサー」が上演されている。加藤健一事務所による「ドレッサー」は、2018年が初演で今回が再演だが、どうもノーマン役を演じた俳優が後に座長役に回るというケースが多いようである。ということは、西村まさ彦が将来、座長役をやることがあるのかも知れない。楽しみである。

ロナルド・ハーウッドは、ロンドンの王立演劇学校で学んだ後に、ドナルド・ウォルフィットのドレッサー(衣装係兼付き人)を5年間務めていたという経験があり、それがこの作品には生かされている。

舞台は1942年1月のイギリス。ナチスドイツとの戦いが始まっており、イギリスはたびたび空襲に見舞われていた。劇中でも「リア王」の上演中に空襲警報が鳴り響くという場面がある。
上演、ひいては演劇が続けられるのかどうか分からない状態が劇中で続くが、それがまさに今の日本に重なる。実は、「ドレッサー」は明日(4月25日)、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの上演が予定されていたのだが、緊急事態宣言発出により中止が決まっている。また、アルティも明日から休館に入る。

「ドレッサー」のノーマン役は、とにかくセリフが多いのが特徴である。シェイクスピア専門劇団の座長は年老いており、セリフやスケジュールなどを忘れていることが多いが、ノーマンは全て記憶しており、逐一補うためセリフの量も膨大になる。ノーマンはドレッサーとして常に座長の傍らにいるため、シェイクスピア劇のセリフは全てそらんじているなど極めて有能である。

座長(加藤健一)は高齢ゆえ奇行なども多い。元々がエキセントリックな性格であったようだが、今宵も入院したため、本日の演目である「リア王」の上演が危ぶまれる。座長は病院を脱出し、なんとか上演にこぎ着ける。「リア王」というのが重要で、ノーマン(加納幸和)は、リア王にずっとついている道化(フール)の役を担っている。

明治大学在学中に、戯曲論の講義で武田清(比較的有名な先生である。授業がとにかく面白かった)に「シェイクスピア劇に出てくる道化」について教わったのだが、昔の王宮には、様々な障害者が王の周りに使えており、知的障害者などが実際に道化として王の話し相手になっていたりしたそうである。知的障害者とはいえ、王に仕えるレベルになると観察眼は鋭い場合が多く、常人では出来ない発想などをしたため重宝されたという。
そして、「リア王」の道化は、最愛の娘であるコーディリア役の少年俳優(シェイクスピアの時代には女性は舞台には上がれなかったため、女性役は主に少年が演じた)が一人二役で務めていたというのが定説になっている。実は道化とコーディリアが一緒にいる場面は存在せず、コーディリアの追放後に道化が登場してリア王と共にさまようが、最後は不自然な形で舞台を後にし、その後、コーディリアがずっと出るという場面が続く。この一人二役は、「ドレッサー」でも座長の口から語られる。

「ドレッサー」でコーディリアに相当する女性は実は二人いる。座長夫人(劇中の「リア王」でコーディリア役。演じるのは西山水木)と座付きの舞台監督であるマッジ(一柳みる)である。座長夫人とは再婚であり、仲は余り良くない。座長はマッジと過ごした時間の方が長い。劇中に、座長がマッジに伝説的名優であるエドマンド・キーンから貰ったという指輪をマッジに譲ろうとする場面がある。マッジは、「本当のコーディリアは私」と思ったはずだが、ここにロナルド・ハーウッドらしい捻りがある。そう、本当のコーディリアに相当するのはドレッサーのノーマンなのである。
直接的な場面はないが、ノーマンが同性愛者なのではないかと仄めかすようなセリフや設定がいくつかあり、花組芝居の加納幸和がノーマン役にキャスティングされたのもどうやらそのためのようである。

ラストを明かしてしまうと、ノーマンの前で座長は亡くなってしまうのだが(その直前に、劇中劇「リア王」の中で、リア王がコーディリアの死を悟るシーンがあり、ここでも転倒が見られる)、そこで夫人のような振る舞いをしたのはマッジである。マッジは一度は断ったキーンの指輪を手に入れて退場する。一見すると指輪を手に入れたから退場したようにも見えるのだが、その振る舞いはどちらかというと敗れた女のものである。自身が本当のコーディリアではないことを悟って敗走したのか。あるいは、二人の正体はコーディリアではなく、ゴネリルとリーガンだったのかも知れない。

自伝を書く計画をしていた座長だが、筆無精であるため、冒頭の献辞しか書くことが出来なかった。そこにノーマンの名前はない。ノーマンはそのことを悔しがり、勝手に自分の名前を書き込んだりするのだが、座長はノーマンが身近すぎたために名前を記すことを忘れたのではないかとも思える。それほどノーマンは座長と一体なのである(あるいは単に忘れたか、「自分の影は影で表に出すべきではない」という認識だったのかも知れないが。座長は演劇以外にはいい加減な人間である)。座長は自伝を残すことは出来なかったが、おそらくノーマンは座長の伝記を書くことは可能である。実際に書くかどうかは示されないが、名優と一体になったドレッサーの姿を描くというのは、実際にその役割を務めたことのあるハーウッドの誇りの現れのようでもある。俳優は死んでも、その思い出はドレッサーの中に残る。ドレッサーだったロナルド・ハーウッドは劇作家となり、座長の面影を芝居として描き、モデルがウォルフィットであるということも明かす(モデルとしただけで、ウォルフィットその人の姿を座長に反映させたわけではないとしている)。

設定を見ていくと、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作である「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」に似たところがある。三谷幸喜は欧米のコメディー作品をベースにした作品を書くこともあるが(元ネタを明かすことも多く、ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」に登場するムスタッシュのパロディーは、「王様のレストラン」と「巌流島」で用いている)、「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」もバックステージもので、座長の宇沢萬(佐藤B作)と舞台監督の進藤(西村雅彦)の関係は「ドレッサー」の座長とノーマンのそれによく似ている。今回の「ドレッサー」におけるオクセンビー(佐伯太輔)に相当する梓(野仲功が演じていた)という人物も登場する。面白いことに、座長にはドレッサー(付き人。小原雅人が演じていた)までいる。三谷幸喜は2013年には「ドレッサー」の演出も手掛けている。ただ、同じバックステージものということで設定が偶然似かよる可能性も高く、三谷幸喜が「ドレッサー」を元ネタに選んだのがどうかは不明である。加藤健一事務所の次回作がジョン・マーレイの「ショーマストゴーオン」であることを知ったため、共通点が目についたという可能性もある。
ちなみに、私が自分でチケットを買って初めて観た演劇作品が、1994年の4月に紀伊國屋ホールで上演された東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」であり、当日のチラシに東京サンシャインボーイズが30年の充電期間に入り、復活第一弾が小林隆主演の「リア玉(だま)」であることも予告されていた。「ドレッサー」のような「リア玉」をやってくれるのではないかと密かに期待してしまう。東京サンシャインボーイズの活動再開は3年後に迫っている。

 

アルティでの加藤健一事務所の公演は、アフタートークがあるのが好例であり、通常はロビー(喫茶店としても営業されている場所を使うこともある)で行われるが、今回は「より安全」ということでホール内で行われる。いつもは出演者のほぼ全員が参加するのだが、今回は加藤健一と加納幸和の二人に絞られる。

空襲の中でも演劇の上演を止めようとしない座長の姿に、加藤健一もやはり今の状況を重ねていたようで、本来は座長役にはもっと滑稽な要素もあるのだが、シリアスな部分をより面に出すよう、演出家の鵜山仁に頼んだそうである。
コロナ禍については、今日の来場者に感謝を述べ、「オンライン上演はやったことがないのですが、劇場でお客さんを入れてやらないと演劇は演劇でなくなっちゃう。劇がなくなって演だけになっちゃう」と劇場で観客を入れて上演することの重要さについて語っていた。また、ドイツ政府が新型コロナ感染が広まり始めてからいち早く、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」と宣言してくれたことが嬉しかったと語り、「良い芸術が生まれる国は違う」と絶賛する。

加納幸和は、「ドレッサー」のノーマン役を軽い気持ちで引き受けたが、台本を読んでセリフの量を知り、後悔したそうである。加藤健一は自身もノーマン役を演じた経験から、「セリフが多いだけでなく他のことをしながらセリフを語るのが大変」と明かし、今回も演出の鵜山仁が、「そこ紅茶運びなら話して」といったような演出を加えるたびに、加納が頭を抱える回数も増えたそうである。

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2021年3月26日 (金)

観劇感想精選(387) 上川隆也&斎藤晴彦 「ウーマン・イン・ブラック」2008

2008年7月10日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。午後7時より、シアター・ドラマシティで、「ウーマン・イン・ブラック」を観る。原作:スーザン・ヒル、脚本・脚色:スティーブン・マラトレット、テキスト日本語訳:川本燁子(かわもと・ようこ)、補訳:三砂博、演出:ロビン・ハーフォード、主演:上川隆也、斎藤晴彦。

ゴシックホラーの傑作「ウーマン・イン・ブラック」。これまで観た芝居で最も恐かったものを挙げよと言われたら、私は間違いなくこの作品を選ぶ。

「ウーマン・イン・ブラック」は、1987年にロンドンで初演。日本版初演は1992年に萩原流行と斎藤晴彦の主演で行われている。斎藤晴彦は以後、相手役を変えながら、「ウーマン・イン・ブラック」の上演を続けており、今回は6度目の上演となる。本日、7月10日のこの大阪公演がツアー初日であり、この後、広島、名古屋、札幌、福岡、仙台、新潟、東京の順で上演が行われ、9月には同じメンバーで渡英、ロンドンのフォーチュン・シアターでの公演も行う。

アーサー・キップスという元弁護士(斎藤晴彦)が、若い頃の怖ろしい体験を家族や友人に語るために本を書き、朗読の訓練を受けるためにある俳優(上川隆也)を訪ねる。俳優は、この本をそのまま朗読したのでは少なくとも5時間はかかると言い、演劇スタイルでの発表を提案、早速稽古に入る。俳優が若き日のアーサー・キップス(ヤング・キップスと表記されてもいる)を演じ、今のアーサー・キップスはその他の登場人物全てを演じ分ける。

アーサー・キップスは日本初演の時からずっと斎藤晴彦が演じている。ヤング・キップスは萩原流行が2度演じ、西島秀俊が後を受けて1996年に演じている。そして上川隆也が1999年にヤング・キップスを演じ、以後上川は、2003年そして今回と、3度ヤング・キップスを演じている。

私は1999年の「ウーマン・イン・ブラック」と2003年の「ウーマン・イン・ブラック」も観ているので、上川のヤング・キップスは毎回観ているということになる。そもそも、1999年の「ウーマン・イン・ブラック」を観たきっかけは、上川隆也の主演だったからであり、ヤング・キップスは上川が演じた数々のキャラクターの中でも最もはまっている役だと思える(後記:2008年当時)。上川がヤング・キップスを演じるたびに観に出かけるのは当然であるともいえる。


とにかく恐い劇なのだが、恐怖劇の常として、最初に観たときのインパクトが最も強く、再演ではタネがわかっているために、恐怖はさほど感じないということになる。

私の場合も、1999年の「ウーマン・イン・ブラック」が最も衝撃的であった。だが、その後は、仕掛けによる恐怖よりも、役者の魅力や、人間存在の怖ろしさの方に目が向くようになったため、恐怖は薄らいでも楽しめるのである。

今回の「ウーマン・イン・ブラック」で新たに発見したのは、愛の恐さと、人間の情念の怖ろしさ、そして人間の業の深さである。特に業の深さについては、私も年を重ねているために、ありありと感じ取ることが出来るようになっている。20代の頃は、業はあっても、そう長くは続かないだろうと軽く考えていたものだが、今は、「いや、これは一生続くかも知れないな」と感じるようになっている。20代ですでに感じていた業のいくつかは、今に至ってもほとんど薄れていないからである。


上川の演技には、1999年の「ウーマン・イン・ブラック」の時から感心しっぱなしだが、今回はセリフ以外のところに感心させられた。段取り通りに動いているのだが、そうは見えず、その場その場の判断で動いているかのように見えるのがまず素晴らしい。そして、いかにも自然な動きに見えるのだが、良く見ると手の動きなどは最短コースを辿っていて、動きに無駄が全くないことがわかる。


斎藤晴彦は、これまでずっとアーサー・キップスを演じてきただけに、今後も彼以外のアーサー・キップスは考えられないほどの域に達していた(後記:斎藤晴彦は、2014年に73歳で他界した)。

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