カテゴリー「イギリス」の40件の記事

2021年6月20日 (日)

これまでに観た映画より(264) アルフレッド・ヒッチコック監督作品 「断崖」

2021年6月18日

録画してまだ観ていなかった、BSプレミアムのプレミアムシネマ「断崖」を観る。アルフレッド・ヒッチコック監督作品。このところプレミアムシネマではヒッチコック作品が立て続けに放送されている。

原作:フランシス・アイルズ、音楽:フランツ・ワックスマン。
出演:ケーリー・グラント、ジョーン・フォンテイン、ナイジェル・ブルース、セドリック・ハードウィック、デイム・メイ・ウィッテイ、オリオール・リーほか。アメリカ映画だが、イギリスを舞台としている。全米公開は1941年11月14日ということで、日米開戦が目前に迫っていた。

「断崖」は十代の頃に観ているはずだが、今振り返ると、あの当時は何も分かっていなかったように思う。

影のある二枚目俳優で、ヒッチコック作品の常連であったケーリー・グラントが本領を発揮しているが、世間知らずな田舎の富豪の娘から一人の女性へと自立していくリナを演じたジョーン・フォンテインの演技は更に素晴らしく、1時間40分と短めの映画であるが、冒頭とラストでは全くの別人になっている。ジョーン・フォンテインは、この演技が認められ、第14回アカデミー賞で主演女優賞を獲得している。

物語は、列車のコンパートメントで、リナとジョン・エイスガース(愛称はジョニー。ケーリー・グラント)が出会うことから始まる。色男として新聞にも載るジョニー・エイスガース。リナはたまたまその記事を目にし、ジョニーが映った写真を切り抜き、読んでいた本に挟んだ。ウイットに富んだ会話を行うジョニーにリナは才気を感じる。

再会した二人は瞬く間に恋に落ち、結婚を決める。海外に新婚旅行に出掛け、ジョニーが改装させた新居に落ち着いた二人。だが、ジョニーがとんだ甲斐性なしだと判明する。男前で人当たりが良いので、これまで色々な人がお金を貸してくれたが、ジョニー自身はこれまで一度もまともに働いたことがない。しかも競馬好きで負け続け、多額の借金がある。生活を心配するリナにジョニーは、「君はいつか大金を相続する」と語って、リナをあきれさせる。

とはいえ、ジョニーも働き口について全く考えていなかった訳ではない。いとこが、経営する不動産屋で一緒に働かないかと持ちかけてくれていた。
だが、そこでもジョニーは持ち前の駄目男ぶりを発揮。横領を働いてしまい、解雇に。親族だというので告訴はされなかったが、返済を求められているということをリナは知ってしまう。

ジョニーは親友のビーキー・スウェイト(ナイジェル・ブルース)と共に事業を興す計画を立てる。ウエストサセックス州タングメアの断崖沿いの土地を手に入れ、開発や土地の転売を行おうというのだ。
ジョニーへの失望と信頼の回復を繰り返していたリナだったが、次第に夫が保険金目当ての殺人を企てているのではないかと疑い始める。


ヒッチコック映画のトレードマークの一つとして、「ヒッチコック・シャドー」と呼ばれるものが存在する。長く伸びる影が不穏さを醸し出すのだが、「断崖」ではケーリー・グラントの影が「ヒッチコック・シャドー」として効果的に使われている。

またケーリー・グラント演じるジョニーが、妻のリナのためにミルクを入れたコップをトレイに乗せて暗めの階段を昇るシーンで、ミルクが毒々しく光る。実はこれはミルクを入れたコップに電球を仕込んで光らせるという、ヒッチコック演出の中でも特に有名なものの一つである。ヒッチコックの卓越した発想力が窺われる演出だ。

ワックスマン作曲の音楽が特に前半はずっと流れており、本当の意味でのメロドラマであるが、この映画の主題はずばり「愛」だ。心理サスペンスではあるが、リナはジョニーを、ジョニーはリナを誰よりも愛している。そして世間知らずの田舎の富豪の娘と、見た目が良いだけの馬鹿男が、夫婦として成長していくという人間ドラマでもある。

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2021年6月 7日 (月)

グラインドボーン音楽祭2012 ロビン・ティチアーティ指揮指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団ほか モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」

2021年5月4日

Blu-rayで、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を観る。2012年のグラインドボーン音楽祭での収録。指揮は、「第二のラトル」といわれたこともある若手のロビン・ティチアーティ。古楽器オーケストラであるエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の演奏。演出は、マイケル・グランデージで、彼は舞台を1960年代から70年代のヒッピームーブメントの時代に置き換えており、バルバリーナなどはサイケデリックなファッションに身を包んでいる。

出演は、リディア・トイシャー(スザンナ)、ヴィート・ブリアンテ(フィガロ)、サリー・マシューズ(アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、アウドゥン・イヴェルセン(アルマヴィーヴァ伯爵)、イザベル・レナード(ケルビーノ)、アン・マレー(マルチェッリーナ)、アンドリュー・ショ(バルトロ)ほか。
合唱は、グラインドボーン合唱団。
オーパス・アルテからの発売で、日本語字幕付き(他に英語、フランス語、ドイツ語、韓国語の字幕が付いている)。ナクソス・ジャパンによる輸入販売。

「セビリアの理髪師」では、フィガロと組んでロジーナとの結婚を成功させた才人のアルマヴィーヴァ伯爵であるが、続編である「フィガロの結婚」では、初夜権を復活させて、フィガロの婚約者であるスザンナの貞操を奪おうとする悪漢に変身している。「セビリアの理髪師」と「フィガロの結婚」の間に何があったのかは分からないが、伯爵夫人となったロジーナとの間に、何らかのすれ違いがあった可能性もある。

理髪師というホームレスが多い職業であったフィガロであるが、ロジーナとの結婚を取り持った功により、アルマヴィーヴァ伯爵の召使いに昇進。伯爵邸の一部に部屋を頂き、そこで許嫁のスザンナと共に過ごせるということでウキウキである。だが、スザンナは伯爵の企みに気づいており、スザンナから話を聞いたフィガロもそれを信じざるを得なくなる。そして、アルマヴィーヴァ伯爵の浮気の現場をつかもうという計画を練り、スザンナの身代わりとして小姓のケルビーノを使おうという話になる。
一方、「セビリアの理髪師」では、ロジーナをアルマヴィーヴァ伯爵とフィガロに奪われたバルバロは、年増のマルチェッリーナをフィガロと結婚させ、フィガロとスザンナの仲を裂くことで復讐を図る。マルチェッリーナはフィガロに恋しており、スザンナとどちらがフィガロの結婚相手に相応しいか、鞘当てを始める。
ケルビーノが去ったため、伯爵夫人はスザンナと計略を図り、互いの衣装を入れ替えて、伯爵夫人本人がスザンナに化けて夫の不貞を暴こうとする。しかし、二人の計略をフィガロもケルビーノも知らないため、想定外の狂騒(ラ・フォル・ジュルネ)が起こってしまう。
さて、フィガロとマルチェッリーナとの結婚を認めるか否かの裁判であるが、結婚は有効との判決が出る。だが、予想外の事実が判明して……。

イギリスのシックな建築が基本となった舞台。序曲演奏中も幕は下りておらず、伯爵の使用人達が表の掃除をしたり、ものを運んだりしている。フィガロも使用人頭として甲斐甲斐しく働いている。1960年代から70年代ということで伯爵と伯爵夫人がオープンカーに乗って現れ、フィガロが伯爵夫人をエスコートする。

ロビン・ティチアーティ指揮のエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団であるが、はち切れんばかりの生命力が印象的である。推進力とアンサンブルの精度も優れている。
20世紀半ばから80年代に掛けて主流だったロマンスタイルの演奏は情緒面の拡大には寄与したが、モーツァルトの音楽が持っている本来の意味での快活さや爆発力が犠牲になっていたのかも知れない。古楽器のオーケストラとその扱いに長けた若い指揮者の演奏によって初演時30歳そこそこだったモーツァルトの若々しさが復活したような印象を受ける。

フィガロを演じるヴィート・ブリアンテは男前で、おそらく女性にモテモテのはずである。なんだかんだで男前は得で、見た目だけで才気ありそうなフィガロに見える。

ボーマルシェの原作は、露骨に貴族階級批判の意図が込められたものだが、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本によるモーツァルトの歌劇版は貴族に対する矛先はそれほど鋭いものではなく(それでも貴族批判を感じ取った貴族中心の聴衆には不評で初演は数日のみで打ち切られた。現代の演出は鋭い場面をカットした穏健なものが主流であり、この上演でも端折られている)恋にまつわるドタバタが中心で、それ故に長年に渡ってオペラ史上屈指の人気を博してきたのだと思われる。

若手中心のキャストで、若者のムーブメントが盛んであった1960年代から70年代に舞台を移すことで、若々しさのエネルギーを前面に押し出した上演となっている。

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2021年5月29日 (土)

観劇感想精選(398) 「ANJIN イングリッシュ・サムライ」

2010年1月23日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「ANJIN イングリッシュ・サムライ」を観る。徳川家康に仕えた三浦按針ことウィリアム・アダムスを主人公にした日英合作の舞台である。脚本:マイク・ポウルトン、共同脚本執筆:河合祥一郎、演出:グレゴリー・ドーラン(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)。出演は、市村正親、オーウェン・ティール、藤原竜也、高橋和也、床嶋佳子ほか。

名前だけは有名だが、実際はどういう人だったのか余り知られていない三浦按針(1564年生まれでシェイクスピアと同い年であり、そのため英国のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが制作に参加している)を主人公に、関ヶ原の戦いや大坂の陣の起こる激動の時代を綴る叙事詩である。途中休憩20分を含めて上演時間約3時間半という長編。

セリフは英語と日本語で、舞台両端に字幕が出る。

イギリス人でありながら、旗本・三浦按針となり、イギリス人でも日本人でもなくなったウィリアム・アダムス(オーウェン・ティール)と、名門・北条氏の出身で侍の心を持ちながら宣教師となったドメニコ(藤原竜也)という、自我が二つに引き裂かれた人物が登場する。ただ、彼らの苦悩を描くという点では突っ込みが甘く、せっかくの設定を生かし切れなかったように見えた。その他の点では、優れた舞台であったように思う。

役者は大熱演。特に驚異的な長ゼリフをこなす徳川家康役の市村正親、英語のセリフをこなした藤原竜也(役作りのために2ヶ月に渡ってロンドンで英語の特訓に挑んだという)の二人の演技には脱帽ものである。

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2021年5月 4日 (火)

観劇感想精選(396) 加藤健一事務所 「ドレッサー」2021@京都府立府民ホールアルティ

2021年4月24日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都御苑の西にある京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「ドレッサー」を観る。作は、「戦場のピアニスト」、「想い出のカルテット」、「テイキング・サイド」などで知られるロナルド・ハーウッド(1934-2020)。テキスト日本語訳:松岡和子。演出は鵜山仁(うやま・ひとし)。出演は、加藤健一、加納幸和(花組芝居)、西山水木、佐伯太輔(さえき・たいすけ)、照屋実、岡﨑加奈、一柳みる(ひとつやなぎ・みる。昴)。声の出演:石田圭祐、外山誠二、高橋ひろし、鍛冶直人、郡山冬果、浅海彩子。

「ドレッサー」の実演には、2005年に、平幹二朗と西村雅彦(現・西村まさ彦)ほかの上演に接したことがある。
「ドレッサー」の世界初演は、1980年にロンドンで行われているが、日本初演はその翌年の1981年。座長役が三津田健で、ノーマン役が平幹二朗であった。平幹二朗は、2005年の「ドレッサー」では座長役を演じている。1988年には、加藤健一がノーマン役、三國連太郎が座長役を演じた「ドレッサー」が上演されている。加藤健一事務所による「ドレッサー」は、2018年が初演で今回が再演だが、どうもノーマン役を演じた俳優が後に座長役に回るというケースが多いようである。ということは、西村まさ彦が将来、座長役をやることがあるのかも知れない。楽しみである。

ロナルド・ハーウッドは、ロンドンの王立演劇学校で学んだ後に、ドナルド・ウォルフィットのドレッサー(衣装係兼付き人)を5年間務めていたという経験があり、それがこの作品には生かされている。

舞台は1942年1月のイギリス。ナチスドイツとの戦いが始まっており、イギリスはたびたび空襲に見舞われていた。劇中でも「リア王」の上演中に空襲警報が鳴り響くという場面がある。
上演、ひいては演劇が続けられるのかどうか分からない状態が劇中で続くが、それがまさに今の日本に重なる。実は、「ドレッサー」は明日(4月25日)、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの上演が予定されていたのだが、緊急事態宣言発出により中止が決まっている。また、アルティも明日から休館に入る。

「ドレッサー」のノーマン役は、とにかくセリフが多いのが特徴である。シェイクスピア専門劇団の座長は年老いており、セリフやスケジュールなどを忘れていることが多いが、ノーマンは全て記憶しており、逐一補うためセリフの量も膨大になる。ノーマンはドレッサーとして常に座長の傍らにいるため、シェイクスピア劇のセリフは全てそらんじているなど極めて有能である。

座長(加藤健一)は高齢ゆえ奇行なども多い。元々がエキセントリックな性格であったようだが、今宵も入院したため、本日の演目である「リア王」の上演が危ぶまれる。座長は病院を脱出し、なんとか上演にこぎ着ける。「リア王」というのが重要で、ノーマン(加納幸和)は、リア王にずっとついている道化(フール)の役を担っている。

明治大学在学中に、戯曲論の講義で武田清(比較的有名な先生である。授業がとにかく面白かった)に「シェイクスピア劇に出てくる道化」について教わったのだが、昔の王宮には、様々な障害者が王の周りに使えており、知的障害者などが実際に道化として王の話し相手になっていたりしたそうである。知的障害者とはいえ、王に仕えるレベルになると観察眼は鋭い場合が多く、常人では出来ない発想などをしたため重宝されたという。
そして、「リア王」の道化は、最愛の娘であるコーディリア役の少年俳優(シェイクスピアの時代には女性は舞台には上がれなかったため、女性役は主に少年が演じた)が一人二役で務めていたというのが定説になっている。実は道化とコーディリアが一緒にいる場面は存在せず、コーディリアの追放後に道化が登場してリア王と共にさまようが、最後は不自然な形で舞台を後にし、その後、コーディリアがずっと出るという場面が続く。この一人二役は、「ドレッサー」でも座長の口から語られる。

「ドレッサー」でコーディリアに相当する女性は実は二人いる。座長夫人(劇中の「リア王」でコーディリア役。演じるのは西山水木)と座付きの舞台監督であるマッジ(一柳みる)である。座長夫人とは再婚であり、仲は余り良くない。座長はマッジと過ごした時間の方が長い。劇中に、座長がマッジに伝説的名優であるエドマンド・キーンから貰ったという指輪をマッジに譲ろうとする場面がある。マッジは、「本当のコーディリアは私」と思ったはずだが、ここにロナルド・ハーウッドらしい捻りがある。そう、本当のコーディリアに相当するのはドレッサーのノーマンなのである。
直接的な場面はないが、ノーマンが同性愛者なのではないかと仄めかすようなセリフや設定がいくつかあり、花組芝居の加納幸和がノーマン役にキャスティングされたのもどうやらそのためのようである。

ラストを明かしてしまうと、ノーマンの前で座長は亡くなってしまうのだが(その直前に、劇中劇「リア王」の中で、リア王がコーディリアの死を悟るシーンがあり、ここでも転倒が見られる)、そこで夫人のような振る舞いをしたのはマッジである。マッジは一度は断ったキーンの指輪を手に入れて退場する。一見すると指輪を手に入れたから退場したようにも見えるのだが、その振る舞いはどちらかというと敗れた女のものである。自身が本当のコーディリアではないことを悟って敗走したのか。あるいは、二人の正体はコーディリアではなく、ゴネリルとリーガンだったのかも知れない。

自伝を書く計画をしていた座長だが、筆無精であるため、冒頭の献辞しか書くことが出来なかった。そこにノーマンの名前はない。ノーマンはそのことを悔しがり、勝手に自分の名前を書き込んだりするのだが、座長はノーマンが身近すぎたために名前を記すことを忘れたのではないかとも思える。それほどノーマンは座長と一体なのである(あるいは単に忘れたか、「自分の影は影で表に出すべきではない」という認識だったのかも知れないが。座長は演劇以外にはいい加減な人間である)。座長は自伝を残すことは出来なかったが、おそらくノーマンは座長の伝記を書くことは可能である。実際に書くかどうかは示されないが、名優と一体になったドレッサーの姿を描くというのは、実際にその役割を務めたことのあるハーウッドの誇りの現れのようでもある。俳優は死んでも、その思い出はドレッサーの中に残る。ドレッサーだったロナルド・ハーウッドは劇作家となり、座長の面影を芝居として描き、モデルがウォルフィットであるということも明かす(モデルとしただけで、ウォルフィットその人の姿を座長に反映させたわけではないとしている)。

設定を見ていくと、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作である「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」に似たところがある。三谷幸喜は欧米のコメディー作品をベースにした作品を書くこともあるが(元ネタを明かすことも多く、ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」に登場するムスタッシュのパロディーは、「王様のレストラン」と「巌流島」で用いている)、「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」もバックステージもので、座長の宇沢萬(佐藤B作)と舞台監督の進藤(西村雅彦)の関係は「ドレッサー」の座長とノーマンのそれによく似ている。今回の「ドレッサー」におけるオクセンビー(佐伯太輔)に相当する梓(野仲功が演じていた)という人物も登場する。面白いことに、座長にはドレッサー(付き人。小原雅人が演じていた)までいる。三谷幸喜は2013年には「ドレッサー」の演出も手掛けている。ただ、同じバックステージものということで設定が偶然似かよる可能性も高く、三谷幸喜が「ドレッサー」を元ネタに選んだのがどうかは不明である。加藤健一事務所の次回作がジョン・マーレイの「ショーマストゴーオン」であることを知ったため、共通点が目についたという可能性もある。
ちなみに、私が自分でチケットを買って初めて観た演劇作品が、1994年の4月に紀伊國屋ホールで上演された東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」であり、当日のチラシに東京サンシャインボーイズが30年の充電期間に入り、復活第一弾が小林隆主演の「リア玉(だま)」であることも予告されていた。「ドレッサー」のような「リア玉」をやってくれるのではないかと密かに期待してしまう。東京サンシャインボーイズの活動再開は3年後に迫っている。

 

アルティでの加藤健一事務所の公演は、アフタートークがあるのが好例であり、通常はロビー(喫茶店としても営業されている場所を使うこともある)で行われるが、今回は「より安全」ということでホール内で行われる。いつもは出演者のほぼ全員が参加するのだが、今回は加藤健一と加納幸和の二人に絞られる。

空襲の中でも演劇の上演を止めようとしない座長の姿に、加藤健一もやはり今の状況を重ねていたようで、本来は座長役にはもっと滑稽な要素もあるのだが、シリアスな部分をより面に出すよう、演出家の鵜山仁に頼んだそうである。
コロナ禍については、今日の来場者に感謝を述べ、「オンライン上演はやったことがないのですが、劇場でお客さんを入れてやらないと演劇は演劇でなくなっちゃう。劇がなくなって演だけになっちゃう」と劇場で観客を入れて上演することの重要さについて語っていた。また、ドイツ政府が新型コロナ感染が広まり始めてからいち早く、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」と宣言してくれたことが嬉しかったと語り、「良い芸術が生まれる国は違う」と絶賛する。

加納幸和は、「ドレッサー」のノーマン役を軽い気持ちで引き受けたが、台本を読んでセリフの量を知り、後悔したそうである。加藤健一は自身もノーマン役を演じた経験から、「セリフが多いだけでなく他のことをしながらセリフを語るのが大変」と明かし、今回も演出の鵜山仁が、「そこ紅茶運びなら話して」といったような演出を加えるたびに、加納が頭を抱える回数も増えたそうである。

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2021年3月26日 (金)

観劇感想精選(387) 上川隆也&斎藤晴彦 「ウーマン・イン・ブラック」2008

2008年7月10日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。午後7時より、シアター・ドラマシティで、「ウーマン・イン・ブラック」を観る。原作:スーザン・ヒル、脚本・脚色:スティーブン・マラトレット、テキスト日本語訳:川本燁子(かわもと・ようこ)、補訳:三砂博、演出:ロビン・ハーフォード、主演:上川隆也、斎藤晴彦。

ゴシックホラーの傑作「ウーマン・イン・ブラック」。これまで観た芝居で最も恐かったものを挙げよと言われたら、私は間違いなくこの作品を選ぶ。

「ウーマン・イン・ブラック」は、1987年にロンドンで初演。日本版初演は1992年に萩原流行と斎藤晴彦の主演で行われている。斎藤晴彦は以後、相手役を変えながら、「ウーマン・イン・ブラック」の上演を続けており、今回は6度目の上演となる。本日、7月10日のこの大阪公演がツアー初日であり、この後、広島、名古屋、札幌、福岡、仙台、新潟、東京の順で上演が行われ、9月には同じメンバーで渡英、ロンドンのフォーチュン・シアターでの公演も行う。

アーサー・キップスという元弁護士(斎藤晴彦)が、若い頃の怖ろしい体験を家族や友人に語るために本を書き、朗読の訓練を受けるためにある俳優(上川隆也)を訪ねる。俳優は、この本をそのまま朗読したのでは少なくとも5時間はかかると言い、演劇スタイルでの発表を提案、早速稽古に入る。俳優が若き日のアーサー・キップス(ヤング・キップスと表記されてもいる)を演じ、今のアーサー・キップスはその他の登場人物全てを演じ分ける。

アーサー・キップスは日本初演の時からずっと斎藤晴彦が演じている。ヤング・キップスは萩原流行が2度演じ、西島秀俊が後を受けて1996年に演じている。そして上川隆也が1999年にヤング・キップスを演じ、以後上川は、2003年そして今回と、3度ヤング・キップスを演じている。

私は1999年の「ウーマン・イン・ブラック」と2003年の「ウーマン・イン・ブラック」も観ているので、上川のヤング・キップスは毎回観ているということになる。そもそも、1999年の「ウーマン・イン・ブラック」を観たきっかけは、上川隆也の主演だったからであり、ヤング・キップスは上川が演じた数々のキャラクターの中でも最もはまっている役だと思える(後記:2008年当時)。上川がヤング・キップスを演じるたびに観に出かけるのは当然であるともいえる。


とにかく恐い劇なのだが、恐怖劇の常として、最初に観たときのインパクトが最も強く、再演ではタネがわかっているために、恐怖はさほど感じないということになる。

私の場合も、1999年の「ウーマン・イン・ブラック」が最も衝撃的であった。だが、その後は、仕掛けによる恐怖よりも、役者の魅力や、人間存在の怖ろしさの方に目が向くようになったため、恐怖は薄らいでも楽しめるのである。

今回の「ウーマン・イン・ブラック」で新たに発見したのは、愛の恐さと、人間の情念の怖ろしさ、そして人間の業の深さである。特に業の深さについては、私も年を重ねているために、ありありと感じ取ることが出来るようになっている。20代の頃は、業はあっても、そう長くは続かないだろうと軽く考えていたものだが、今は、「いや、これは一生続くかも知れないな」と感じるようになっている。20代ですでに感じていた業のいくつかは、今に至ってもほとんど薄れていないからである。


上川の演技には、1999年の「ウーマン・イン・ブラック」の時から感心しっぱなしだが、今回はセリフ以外のところに感心させられた。段取り通りに動いているのだが、そうは見えず、その場その場の判断で動いているかのように見えるのがまず素晴らしい。そして、いかにも自然な動きに見えるのだが、良く見ると手の動きなどは最短コースを辿っていて、動きに無駄が全くないことがわかる。


斎藤晴彦は、これまでずっとアーサー・キップスを演じてきただけに、今後も彼以外のアーサー・キップスは考えられないほどの域に達していた(後記:斎藤晴彦は、2014年に73歳で他界した)。

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2021年1月26日 (火)

観劇感想精選(380) 若尾文子主演 ノエル・カワード作「セレブの資格」

2007年4月28日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。シアター・ドラマシティで、ノエル・カワード作のコメディ「セレブの資格」を観る。「セレブの資格」の原題は“RELATIVE VALUES”。「セレブの資格」という日本語タイトルのセンスは今一つだと思うが、特に困るほどでもないので(私が興行する側だったらやめさせるけれども)いいだろう。
「プライベート・ライヴズ(私生活)」のノエル・カワードの本ということで期待の公演。テキスト日本語訳:高橋知伽江、演出:高瀬久男、音楽:稲本響。
出演は、若尾文子、柴田理恵、愛華みれ、小林十市、峰さを理、綾田俊樹ほか。
まさか、若尾文子主演の舞台を観る日が来ようとは想像もしていなかった。

1950年代、イギリス・ケント州の、とある田舎に暮らす地方貴族、マーシュウッド伯爵家が舞台である。
先代のマーシュウッド伯爵未亡人であるフェリシティ(若尾文子)の息子で、海外滞在期間の長かったナイジェル・マーシュウッド伯爵(小林十市)が、ハリウッド女優のミランダ(愛華みれ)との結婚を決める。ナイジェルはバツイチ。前回の結婚も上手くいかなかったが、今回は相手が庶民出身のハリウッド女優ということで、フェリシティは息子の結婚に乗り気でない。
ナイジェルがミランダを連れて伯爵家に戻って来ようというその日、フェリシティは、20年間もメイドとして働いているモクシー(柴田理恵)から意外な事実を告げられる。ミランダはモクシーの実の妹だというのだ……

高瀬久男の演出は、「やはり」というべきか、かなりオーソドックス。前半は見応えがあったが、後半はスマート過ぎ、あっさりと終わってしまって多少物足りない。後半の鍵を握る、おつむの余り良くない美男美女の単純な言動は、イギリス人にとっては笑いのツボのはずだが、日本人はそうしたことでは笑いにくいので(何しろ「八百屋お七」を悲劇のヒロインとする国である)、ちょっとしたアレンジが必要だったかも知れない。

若尾文子は高齢に加え、夫(黒川紀章)が都知事選に出馬という気苦労もあってか、他の役者とはセリフのスピードが若干異なっていたり、疲れが見えたりするが、長ゼリフをこなすのを見ているとこちらも嬉しくなる。

柴田理恵は登場するだけで観客の笑いを取っていた。更にセリフを言い間違えても笑いを取っていた。羨ましい。

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2020年11月 8日 (日)

これまでに観た映画より(225) メル・ギブソン&ショーン・ペン 「博士と狂人」

2020年11月5日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス=アイルランド=フランス=アイスランド合作映画「博士と狂人」を観る。久しぶりとなるスクリーン1(京都シネマは、スクリーン1、スクリーン2、スクリーン3という3つの上映空間からなっており、番号が若いほど大きい)での鑑賞となる。

言語を網羅化したものとしては世界最高峰の辞典『オックスフォード英語大辞典』編纂に纏わる実話を基にした物語の映画化。原作:サイモン・ウィンチェスター。脚本・監督:P.B.シェムラン。出演:メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマン、エディ・マーサン、スティーヴ・クーガンほか。2018年の制作である。

英語に関する単語や表現、由来や歴史などを集成した『オックスフォード英語大辞典』。19世紀に編纂が始まり、完成までに70年を要した大著であるが、その編纂初期に取材したサイモン・ウィンチェスターのノンフィクションを映画化したのが、この「博士と狂人」である。サイモン・ウィンチェスターの著書は1998年に発売されたが、映画化の権利獲得に真っ先に名乗りを挙げたのがメル・ギブソンであり、当初はメル・ギブソン自身が監督する案もあったそうだが、最終的にはメル・ギブソンは主演俳優に専念することになった。構想から完成まで20年を費やした力作である。

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教師として働くジェームズ・マレー(メル・ギブゾン)は、スコットランドの仕立屋の子として生まれたが、生家が貧しかったため、14歳で学業を終えて働き始めた(先日亡くなったショーン・コネリーに生い立ちが似ている)。その後、独学で語学を学び、ヨーロッパ圏の言語ほとんどに通じる言語学の第一人者と認められるまでになるが、大学を出ていないため当然学士号は持っておらず、話し方もスコットランド訛りが強いということで白眼視する関係者もいる。『オックスフォード英語大辞典』はその名の通り、オックスフォード大学街で編纂が行われるが、マレーの案で、イギリスとアメリカ、そして当時のイギリスの植民地などに在住する英語話者からボランティアを募り、単語や言い回し、その歴史や出典などを手紙で送って貰って、それらをマレー達が中心になって取捨選択し編纂するという形を取る。その中に、一際英語に詳しい人物がいた。アメリカ出身の元軍医で、今はイギリスのバークシャー州に住むウィリアム・G・マイナー博士(ショーン・ペン)である。マレーはその住所からマイナーのことを精神病院の院長だと思い込むのだが、実際はマイナーは殺人事件を起こし、幻覚症状が酷いことから死刑を免れて刑事精神病院に措置入院させられている人物であった。マイナーは、南北戦争に軍医として従軍。敵兵の拷問に関与したのだが、その時の記憶がトラウマとなり、今では拷問を受けた人物が殺意を持って自分を追いかけてくると思い込む強迫神経症に陥っていた。敵が自分を監視していると思い込んだマイナーは、その場を通りかかったジョージ・メレットを誤認識し、射殺してしまっていたのだ。精神病院でもマイナーは幻覚に苛まれる(後に統合失調症との診断が下る)。

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マイナーが実は精神病患者で殺人犯だと気付いたマレーだが、学識豊かなマイナーと英語に関する知識を交換し、すぐに友情で結ばれるようになる。二人のやり取りは、これまで互いに理想としてきた人物との邂逅の喜びに溢れていた。
『オックスフォード大辞典』の第1巻が完成し、その功績によりマレーは言語学の博士号を送られ、正式な博士となる。
だが、アメリカ人の殺人犯が権威ある英語辞典の編纂に関与していることが知られてスキャンダルとなり、マイナーの病状も徐々に悪化して、異様な行動も目立つようになる。

『オックスフォード英語大辞典』編纂の物語ということで、派手な展開ではないが、しっかりとした構造を持つヒューマンドラマに仕上がっている。マレーとマイナーの友情の物語、またメレット夫人(イライザ・メレット。演じるのはナタリー・ドーマン)とマイナーとの男女の物語が平行して進むのだが、文盲であったメレット夫人がマイナーの指導によって読み書きの能力を身につけていく過程は、メレット夫人の成長とマイナーとの歩み寄りの物語でもある。「許すとは何か」がここで問い掛けられている。メレット夫人を単なる悲劇のヒロインや復讐に燃える女性としないところも良い(マイナーとメレット夫人のシーンはフィクションの部分が多いようだが)。

単にヒューマンドラマとして観てもいいのだが、マレーがスコットランド出身であることや学歴がないことで見下されたり、追い落とされそうになるところ、またマイナーがアメリカ人で(今でこそイギリスとアメリカではアメリカの方が優位だが、19世紀当時のアメリカは「ヨーロッパの落ちこぼれが作った未開の国」でイギリスへの裏切り者というイメージだった)しかも精神病に冒されているということで異端視されるなど、差別と偏見がしっかりと描かれている。こうした傾向は、19世紀よりはましになったが、今に到るまで続く問題であり、単なる「知られざる偉人の物語」としていないところに奥行きが感じられる。

ちなみに、若き日のウィンストン・チャーチルが登場する場面がある。世界史好きの方はご存じだと思われるが、チャーチルも生涯に渡って精神病に悩まされた人物であった。実際に映画で描かれているようなことがあったのかどうかは分からないが、ある意味、象徴的な役割を果たしている。

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2020年11月 3日 (火)

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

2020年10月30日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。「リトル・ダンサー」という邦題で公開されたイギリス映画をエルトン・ジョンの音楽でミュージカル化した作品で、日本では2017年に初演され、今回は再演となり、今日が大阪公演初日である。

「リトル・ダンサー(原題「Billy Eliot」)」は、2000年に公開された、スティーヴン・ダルドリー監督の映画で、私もDVDで観ているが、かなりの好編に仕上がっていた。
スティーヴン・ダルドリー監督は元々は舞台演出家として活躍していた人であり、ミュージカル版でも演出を担当。イギリスを代表するミュージシャンのエルトン・ジョンの作曲ということもあって、高い評価を受けているが、こうして実際に観てみると、映画とは別物として評価すべきであるように感じる。感銘の度合いは映画の方が上である。舞台演出家であったスティーヴン・ダルドリーがまずは「映画として撮るべき」と判断したのであるから、それは間違いないだろう。舞台にしてしまうとどうしても背景が分かりにくくなってしまう。ミュージカル版は妙技を堪能する作品だ。

主演のビリー・エリオット少年役はクワトロキャスト(4人)であり、今日は川口調がタイトルロールを務める。他の役もダブルキャストで、今回はお父さん(ジャッキー・エリオット)役が益岡徹、ウィルキンソン先生役が柚希礼音、おばあちゃん役が根岸季衣、トニー(兄)役が中河内雅貴、ジョージ役が星智也、オールド・ビリー(成人後のビリー)役が大貫勇輔となっている。

梅田芸術劇場メインホールの新型コロナ対策であるが、運営元である阪急グループ独自の追跡サービスが導入されているのが特徴である。おそらく宝塚歌劇などでも用いられていると思われる。

 

英国病といわれた時代の北部イングランドの炭鉱の町・エヴァリントンが舞台ということで、英語の訛りが日本版では筑豊炭田や三池炭坑で知られる福岡県の言葉に置き換えられている。

下手からビリー・エリオット役の川口調が登場し、しゃがむと同時に紗幕に映像が映し出される。第二次大戦で英国がナチス・ドイツに勝利し、炭鉱も国営化されるということで更なる発展が英国にもたらされるはず……、というところで事態が暗転する。紗幕に映し出されたのはマーガレット・サッチャーだ。長期政権(1979-1990)を敷き、今でも20世紀後半の英国の首相というと真っ先に顔や名前が思い浮かぶマーガレット・サッチャー。高福祉社会の副産物ともいえる英国病克服のため新自由主義の先駆ともいえる政策を次々に打ち出し、労働者階級から目の敵にされた政治家である。サッチャーによって炭鉱は民営化され、ただでさえ斜陽の産業であったため多くの炭坑夫が苦境に立たされることになるのだが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」はそんな時代(1984年)の話である。

サッチャーの政策に反対し、エヴァリントンの炭坑夫達がストライキに入る。リーダー的存在のジャッキー・エリオットの息子で、11歳のビリー・エリオット(劇中で1つ年を取る)は、ボクシングを習っていたのだが、ボクシング教室が終わった後、同じ場所で開かれることになったバレエ教室を目にする。早くに母親を亡くしたビリー。ジャッキーも「ビリーに強くなって欲しい」との思いからボクシングを習わせたのだが、何しろ保守的な田舎町、男は男らしくあるべしという思想が根強く、「バレエなどをやる男はオカマだ」という偏見に満ちており、ビリーも知らず知らずのうちにそうした考えに染まっている。ウィルキンソン先生からバレエに興味があるかどうか聞かれたビリーも最初は否定したが、その後、父親には内緒でレッスンを受け、バレエに惹かれていく。
ウィルキンソン先生から才能を見込まれたビリーは、「ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受験してみないか」と誘われる。だが当然ながら父親は反対。一度はバレエダンサーへの夢は絶たれたかに見えたのだが……。

伏線としてビリーの友人であるマイケルが実はトランスジェンダー(でいいのかどうかは正確にはわからない。LGBTのうちのGBTのどれかである)であるという設定がある。作曲を担当したエルトン・ジョンも男性と結婚したことで知られているため、そうした問題にも軽くではあるが触れられている。ただ、それは主題ではなく、重要なのは「らしさとは何か」ということであると思われる。

ダンスだけでなく、セリフやアクロバットをこなす子役の実力にまず感心する。日本初演時には千人を超える応募があり、その中から勝ち抜いた子ども達がビリー役を得ているが、今回も高倍率のオーディションを潜り抜けた子達であり、身体能力も表現力も並みの子役ではない。

チャイコフスキーの「白鳥の湖」より“情景”(「白鳥の湖」と聴いて誰もが真っ先に思い浮かべる音楽)をオールド・ビリー役の大貫勇輔を二人で踊る(デュエット)シーンがダンスとしては最大の見せ場であるが、ワイヤーアクションも鮮やかにこなしていた。

イギリスは階級社会であるが、そのことが最もはっきりと現れているのが、ロイヤル・バレエ・スクール受験のシーンである。エリオット親子以外はみな上流階級に属しており、日本版ではそれを表すために「ざます」言葉が用いられている。上流階級と労働者階級では当然ながら考え方が根本から異なるわけで、それが揉め事に繋がったりもする。
現代の日本は階級社会でこそないが、「上級国民」という言葉が話題になったり、格差や学歴の固定化などが問題視されるようになっており、イギリスのような社会へといつ変貌するかわからないという状況である。そもそも日本とイギリスは島国の先進国としてよく比較される存在である(イギリスも日本も先進国なのか今では怪しいが)。
「総中流」といわれた日本であるが、今では非正規社員が約4割を占め、ついこの間までの常識が通用しないようになっている。それを考えれば、このミュージカルを単なるサクセスストーリーと見るわけにはいかないだろう。そこには明確にして冷徹な視座も含まれている。

同じくイギリスの炭鉱町を描いた映画に「ブラス!」という作品(1996年制作)があり、これはバレエではなく音楽を題材にしているが、主題は同じである。ロードショー時に有楽町の映画館(今はなき銀座シネ・ラ・セット)で観て感銘を受けたが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を気に入った人はこの映画も観て欲しい。

毀誉褒貶激しかったサッチャーの政策だが、その後のイギリスが辿った道を冷静に見つめてみると、少なくとも「正しかった」とは言えないように思う。サッチャーが残した爪痕は今もイギリスだけでなく、世界各国で見ることが出来る。無論、日本も例外ではない。

なんだが、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」も観てみたくなった。

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2020年10月23日 (金)

コンサートの記(663) 能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」ソーシャルディスタンス対応公演@よこすか芸術劇場

2020年10月18日 横須賀・汐入の横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場にて

午後2時から、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場で、能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」を観る。世阿弥の息子である観世元雅の作による狂女ものの有名作「隅田川」と、20世紀のイギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンが「隅田川」を東京で鑑賞した時にインスパイアを受けて書かれた作品「カーリュー・リヴァー」(台本:ウィリアム・プルーマー)の連続上演である。「カーリュー・リヴァー」は最初はオペラと定義されず、「教会上演用の寓話劇」と題してサフォーク州オーフォードの聖バーソロミュー教会という小さな教会で初演されたが、現在ではオペラとして歌劇場で上演されるようになっている。2014年に大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで、山下一史の指揮、井原広樹の演出で観ているが、それ以来、久しぶりの再会となる。

能「隅田川」は、映像や歌舞伎版(南座にて坂田藤十郎の狂女)では観ているのだが、劇場で観るのは初めてとなる。

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よこすか芸術劇場の感染症対策であるが、まず横須賀芸術劇場が入っているベイスクエアよこすかの3階入り口からは1階席前方の席を取った客が入場し、それ以外の客はベイスクエアよこすか4階から入ることで分散を図る。チケットの半券は自分でもぎって箱に入れ、パンフレットも自分で取る。サーモカメラによる検温も行う。
そもそも「幻(GEN)」はチケット発売時に通常の形で売り出したが、それをいったん全て払い戻しとし、客席前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応公演として再度チケットを発売して行われている。
終演後は、混雑を避けるために時差退場が行われた。

 

能「隅田川」の出演は、観世喜正(シテ・狂女)、観世和歌(子方・梅和若丸)、森常好(ワキ・渡し守)、舘田善博(ワキツレ・旅人)。笛:竹市学、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠。演出は観世喜正が行う。観世喜正は2005年からよこすか芸術劇場で「よこすか能」をプロデュースしているそうである。「よこすか能」は蝋燭を使った演出が特徴だそうで、今回も巨大蝋燭数本に小型の蝋燭数百本が灯される中での上演である。日本語字幕付き。

武蔵国と下総国の国境を流れる隅田川。現在とは水路も異なるが、川幅も今の2倍ほどはあった巨大な川である。後に荒川放水路が出来て川幅は狭くなっている。
国境ということで(江戸時代中期以降には二つの国に跨がることが由来である「両国」の東岸が栄えるようになり、後に隅田川以東の葛飾は武蔵国に編入されることになる)、あの世とこの世の境、つまり三途の川にも見立てられている。
とにかく川幅が広いため、渡るのも容易ではない。また坂東の川はよく荒れる。ということで渡し守も何度も川を渡ることはままならず、客を溜めてから渡すことにする。旅人が現れ、渡し守と子細を話す。丁度1年、商人に連れられて来た少年が隅田川を渡ったところで病死した。商人は少年を見捨てて行ってしまったという。今日はそれから1年目ということで供養のための大念仏が唱えられているという。
そこへ、狂女がやって来る。京・北白川に住まいしていた女であり、我が子がさらわれたため、追って東国までやって来たのだ。
隅田川で詠まれた歌として知られる、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」が効果的に用いられ、狂女がただの狂女ではなく、元は教養溢れる人物であったことが偲ばれ、一層の哀感を誘う。

船の上で渡し守が1年前に亡くなった少年のことを語り、狂女がそれが自分の息子だと徐々に気付く。狂女役の観世喜正は、少しずつ少しずつ体を時計回りに回転させ、そのことを表現する。

少年を埋葬した塚の前で念仏が唱えられ、狂女もそれに加わるのだが、突然、念仏に子どもの声が混じり、少年の幽霊が現れる。

少年の幽霊を登場させることに、観世元雅の父親である世阿弥が大反対したという話が残っているが、子方を出すと生々しくなるというのがその理由の一つだと思われる。幽玄さも後退するだろう。だが、この能の本質が「哀感」であるとしたのなら、子方を出した方が狂女の悲しみへの共感はより強まるだろう。目の前に見えているのに触れることも叶わずに訪れる別れ。それこそが「隅田川」を傑作へと昇華しているのだと思われる。
狂女を演じる観世喜正の動きは抑制されたものであったが、それゆえにその心情が惻々と伝わってきた。語らざる雄弁であり、動かざるダイナミズムである。

 

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ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」。日本語字幕付きの上演であるが、タイトルには「キリスト教会上演用の寓話劇」と記されており、舞台に教会のステンドグラスが映されるなど、キリスト教的要素の濃い上演となる。「隅田川」に念仏を唱えるシーンがあるため、よりクッキリと対比を付けたいという意図もあるのかも知れない。

演出は彌勒忠史。小編成のオーケストラのための作品で、指揮者を置かないというのがブリテンの指示である。ただ、今回、オルガンと音楽監督を務めるのが鈴木優人というのが最大の売りであり、鈴木優人だけが客席に背中を向けての演奏し、またそのキャリアから事実上の指揮者であることは明白である。演奏は鈴木の他に、上野星矢(うえの・せいや。フルート)、根本めぐみ(ホルン)、中村翔太郎(ヴィオラ)、吉田秀(よしだ・しゅう。コントラバス)、高野麗音(たかの・れいね。ハープ)、野本洋介(パーカッション)。邦楽器を模した音型が登場するのが特徴である。
出演は、鈴木准(狂女)、与那城敬(渡し守)、坂下忠弘(旅人)、町田櫂(霊の声。ボーイソプラノ。横須賀芸術劇場少年少女合唱団員)、加藤宏隆(修道院長)。巡礼者役(合唱)として、金沢青児、小沼俊太郎、吉田宏、寺田穰二、寺西一真、山本将生、奥秋大樹、西久保孝弘が出演する。

 

「カーリュー・リヴァー」も大型蝋燭2本に火を灯しての上演となる。
まず、「隅田川」でも鳴り物を務めた、竹市学、飯田清一、亀井広忠の3人が登場し、邦楽の演奏を行う。その後、修道僧が登場し、オペラ「カーリュー・リヴァー」が始まるのだが、いかにもキリスト教的な賛美歌風合唱から始まるため、かなりの落差が感じられる。

ブリテンとプルーマーは、亡くなった子を「聖人」としており、そのことからして「隅田川」とはかなり趣が異なる。
出演者達は、口元を布で隠し、頭巾を被っている。大谷刑部こと大谷吉継のようだが、これはコロナ対策であると同時に、宗教的な雰囲気を出す役割も担っていると思われる。

カウンターテナーでもある彌勒忠史は、観世喜正と2018年まで数年に渡って、市川海老蔵の「源氏物語」で共演してきたそうで、能の要素を取り入れた演出となっている。元々はもっと能の型を全面に取り入れるはずだったのだが、コロナの影響で少しシンプルになったようだ。だが、狂女が、さらわれてきた子が我が子だと気付く場面で、「隅田川」の観世喜正と完全に同じゆっくりとした振り返りを取り入れており、能との連続上演ということで、違う作品に同じ動きを取り入れることで却って明らかになる差違を示していく。

「隅田川」では現れるだけだった少年が、「カーリュー・リヴァー」ではキリスト教的な救済を述べる。ブリテンもプルーマーも「隅田川」的哀感ではやはり救いがないと思ったのだろうか。「隅田川」も、日本的「哀れ」を描いた作品であり、他国の人に完全に伝わるかどうかは疑問である。また宗教観の違いもあり、有名な「悲しむ者は幸いである」をメッセージとして入れるべきだと感じたのかも知れない。なによりこれは救済のための「寓話」として再現された「隅田川」である。

鈴木優人を音楽監督とする演奏者達は、邦楽からの置き換えを上手く表現しつつ、高雅な響きを紡ぎ上げる。独唱者も合唱も充実しており、ブリテンの叡智と才気を十全に表現していた。

両作品とも、突如として響き渡る子どもの声が効果的に用いられている(「カーリュー・リヴァー」では舞台奥の紗幕の後ろに少年の姿が浮かび上がる)。それは突然の啓示のようでもあり、闇の中に不意に差し込んできた光のようでもある。金曜日に小林研一郎指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で聴いた、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲のオルガンにもそうした要素があるが、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により、未来が全く見えない今現在、求められている救いにも似たものである。
もののわかった振りをした山師的な人々が現れては消えているが、そうした打算的なものとは違った本当の恩寵が、フィクションの世界の中とはいえもたらされていることが、あるいは救いなのかも知れない。

フィクションとは絵空事ではなく、人類の歴史が凝縮されたものである。これまで人類に降りかかってきた数々の悲劇が、そこには詰め込まれているが、にも関わらず人類は今も存在して歩みを続けている。それは希望に他ならない。

 

 

上演終了後、どぶ板通りを歩いてみる。コロナの影響からか、あるいは日曜の夜だからかはわからないが閉まっている店も多い。
一昔前に比べるとアメリカ系の店舗は減ったといわれているが、それでも迷彩服姿の米兵が何人も歩いているなど、日本離れした光景が広がっている。
舗道には横須賀ゆかりの有名人の手形が押してあり、指揮者の飯森範親(鎌倉生まれの葉山育ちだが、横須賀市内にある神奈川県立追浜高校出身)と横須賀市出身のヴァイオリニストである徳永二男(元NHK交響楽団コンサートマスター)の手形が並んでいた。

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2020年7月26日 (日)

配信公演 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団「サマーコンサート in 住友生命いずみホール」(文字のみ)

2020年7月17日 住友生命いずみホールより配信。同7月23日 アーカイブを視聴

7月17日に、大阪フィルハーモニー交響楽団が大阪の京橋にある住友生命いずみホールで行った「サマーコンサート in 住友生命いずみホール」がクラシック専門ストリーミングサービスのカーテンコールで配信されたのだが、そのアーカイブを視聴する。17日は、左京区下鴨にある月光堂という楽器店で仏教談義を行っていた(店主が真言宗の僧侶である)ため、リアルタイムでは接することの出来なかった演奏会である。当初、大阪フィルはこの日に神戸国際会館国際ホールで演奏会を行うはずだったのだが、新型コロナの影響で中止となり、代わりに配信のための演奏会が組まれた。無観客ではなく関係者を客席に入れての公演である。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

冒頭に「食い倒れ」の街・大阪のグルメと、中之島周辺の夜景など大阪の魅力を紹介する映像が流れ、西成区岸里(きしのさと)にある大阪フィルハーモニー会館とこの演奏会のリハーサルの模様が映し出される。管楽器以外の奏者はマスクを、指揮者の尾高はフェイスシールドをしてのリハーサルである。
本番でも尾高はフェイスシールドをして登場したが、指揮台に上がってからは取る。尾高によると、フェイスシールドは東大阪市の会社が作ったもので、とても優秀だそうである。


曲目は、デュカスのバレエ音楽「ラ・ペリ」よりファンファーレ、ホルストの「吹奏楽のための第1組曲」、エルガーの弦楽セレナード、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」、モーツァルトの交響曲第39番。

デュカスとホルストは管楽のみ(ホルストは吹奏楽ということでコントラバス奏者はいる)、エルガーとシベリウスは弦楽のみ(シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」はティンパニ入りでの演奏)、モーツァルトでフル編成となる。

休憩時間なしの演奏会で、曲間の楽団員や楽器入れ替えの時間は尾高がマイクを手にトークで繋ぐ。


いずみホールは、元々が住友のホールであるが(住友の屋号が「泉屋」)、今年から住友生命いずみホールという名称に変わっている。


先月から演奏会が再開された大フィル。今月は定期演奏会を含めて4度のコンサートがある。ただソーシャル・ディスタンスを保つため使用可能な客席は通常の半分ほどであり、ぴあなどで取り扱うチケットは比較的少なめで、ほぼ全て売り切れ。大フィルのチケットセンターでの取り扱いが中心となっている。


まずデュカスの「ラ・ペリ」よりファンファーレ。フランス音楽のファンファーレとしては最も有名なものである。ステージ最後列に半円形に陣取った金管奏者達が輝かしい音を放つ。

本番前の映像に尾高忠明へのインタビューも含まれていたが、デュカスは自身に厳しい人で、寡作。「ラ・ペリ」もいったんは破棄しようとして、友人に止められたという比較的有名なエピソードを紹介していた。


ホルストの「吹奏楽のための第1組曲」。ホルストは職業作曲家ではあったが、専業ではなく、女学校の音楽教師をすることで主な収入を得ており、作曲作品も自分が書きたいものよりも依頼されたものが中心となっている。自身がトロンボーンを専攻していたということもあり、吹奏楽のための作品も多い。
尾高は、ホルストの代表作である組曲「惑星」の話をする。組曲「惑星」は地球を除く太陽系の惑星の神話等を音楽で描いたものだが、ホルストの死後に冥王星が発見されたため、「不完全な惑星」と見做されたこともあった。だが、つい最近であるが、「冥王星は惑星の基準を満たしていない」ということで準惑星となり、惑星の数はホルストが作曲した通りに戻ったという話である。実はイギリスのコリン・マシューズという作曲家が、サー・サイモン・ラトルの依頼を受けて「冥王星」を作曲したばかりだったのだが、それはまた別の話である。

生き生きとした演奏が展開される。舞台上でもソーシャル・ディスタンスを保つということで大編成の曲をプログラムに載せにくく、テューバなどは出番がなかったのだが、この曲はテューバが含まれるため、久々に本番を迎えられたという話を尾高はする。

演奏後、管楽器奏者は退場し、弦楽奏者が持ち場に着くという入れ替えがある。その間、尾高はイギリスの話をする。尾高は元々はイギリスのことが余り好きではなかったそうで、一番の理由は「12進法」の採用だと話す。日本は「10進法」だが、ヨーロッパは元々は12進法で、イギリスは今でも12進法が主である(12の半分が6、6の半分が3という割り算基準である。3は「1と2」という数字の始まりの数二つを足した特別な数字とされている。12は当然ながら3の倍数でもある。10進法だと2つと5つにしか割れない)。そのため初めてイギリスに行ったときは計算がややこしく難儀したが、一緒にいた安永徹(元ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスター)がとても頭が良くて計算に強い人で助かったそうである。当時、ウィーンに留学中だった尾高は「イギリスなんて二度と行くものか。ウィーンで頑張ろう」と誓ったそうだが、皮肉なことにイギリスのオーケストラから「首席指揮者にならないか」という話が来る。受ければ海外初のポストとなる。最初は断ろうと思った尾高だが、「日本からの行き帰りの交通費、全部出すよ」という話だったので受けたそうだ。

着任したのはカーディフにあるBBCウェールズ交響楽団である。日本の感覚だと「イギリスと呼ばれるところは全てイギリス」だろうと思いがちだが、そもそもあの国は「イギリス」ではなく、「グレート・ブリテンおよび北部アイルランド連合王国」で、ウェールズはロンドンのあるイングランドとは違うという意識が強い。これはサッカーのワールドカップで別代表を送っていることからもよく分かる。大フィルのヴィオラ奏者である木下雄介は、8歳の頃からカーディフで育ったそうだが、ウェールズは英語とはまた別の世界最古といわれる言語を持っており、尾高と木下はウェールズ語でやり取りをしていた。

ウェールズ時代のことは、尾高は「徹子の部屋」に出演した際に語っていたが、ホールから歩いて5分ぐらいの所に家を構えて、リハーサル前に紅茶を飲んでリラックスという、結構、優雅な生活であったらしい。


エルガーの弦楽セレナード。エルガーを得意としている尾高。元々の音楽性が合っていたということもあるだろうが、ウェールズとはいえ、イギリスで長い時間を過ごすことで英国音楽のイディオムを身につけたということは大きいだろう。ノーブルな演奏である。


シベリウスも得意としている尾高。シベリウスは本国であるフィンランドの他にイギリス、アメリカ、そして日本で高く評価されている作曲家である。イギリス人指揮者の多くがシベリウス作品を取り上げ、アメリカにはユージン・オーマンディ、レナード・バーンスタイン、ユタ交響楽団の指揮者であったモーリス・アブラヴァネル、日本にも渡邉暁雄という優れた紹介者がいた。
日本のオーケストラもそうだが、フィンランドのオーケストラのメンバーもシャイな人が多いそうである。シベリウス自身がシャイな人として有名である。フィンランドに行くと色々なところでシベリウスの曲が流れているそうで、「シベリウスの音楽のないフィンランドは考えられない」そうである。

「アンダンテ・フェスティーヴォ」は、ここ数ヶ月の間に、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル、村川千秋指揮山形交響楽団が共に配信演奏会で取り上げており、人気の曲目となっている。美しさの中に力強さを持っている曲であり、ラストで示される確固たる意思が人気の理由なのかも知れない。
尾高指揮の「アンダンテ・フェスティーヴォ」は、サントリーホールで行われた札幌交響楽団によるオール・シベリウス・プログラム演奏会のアンコール曲目として聴いたことがあるが、その時同様、自身と確信に満ちた演奏である。現在の日本におけるシベリウス演奏の泰斗としての誇りが窺える。

尾高は、「ティンパニがいつ入るんだろうと思われた方も多いでしょうが、ラストで効果を上げます」と語り、打楽器繋がりで、現代日本の作曲家は作品に多くの打楽器を用いるという話をする。打楽器が多いと、打楽器奏者当人よりも楽器の配置換えを行うステージマネージャーが大変になるそうで、曲の演奏の前にてんやわんやになるそうである。それでいて聴衆に大変さが分かって貰えず、配置換えの長さ故に面白い顔をされないので疲れるそうだ。
尾高は、N響のステージマネージャーだったKさんから、「モーツァルトはいいですね。打楽器の配置換えが少ないのにお客さんに喜んで貰える」という話をされたことがあるそうだ。


モーツァルトの交響曲第39番。この曲も尾高指揮大阪フィルのモーツァルト後期三大交響曲一挙演奏の定期演奏会で聴いたことがあるが、今日も尾高らしい細やかな味わいが光る演奏となる。尾高はフォルムで聴かせるタイプであるが、繊細な表情を特徴としており、音で押し切るスタイルとは異なる。


東京でも演奏会の仕事は始まっているそうであるが、東京は大阪とは違い、街を歩いていてもマスクをしていない人が目立つそうである。
錦糸町にある、すみだトリフォニーホールでの演奏は上首尾だったそうだが、「ブラボー禁止」ということで、本来ならブラボーがいくつか掛かってもいい出来と感じていたが、声を発する人がおらず、寂しい思いもしたそうだ。だが、「ブラボー!」と書かれた紙を掲げている人が5、6人ほどいたそうで、尾高も「あれいいね」と大フィルの楽団員に語りかける。「今度から紙配っておこうか」

多くの人が工夫を凝らしているようである。サッカーのサポーターが掲げるような「ブラボー!タオル」を作ったら売れそうな気もする。一時的だろうけれど。


志村けん、岡江久美子といった有名人も含めて多くの人が新型コロナで亡くなったということで、追悼曲として、グリーグの「二つの悲しい旋律」より「過ぎた春」が演奏された。

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