カテゴリー「イギリス」の76件の記事

2026年6月 1日 (月)

観劇感想精選(518) フリードリヒ・シラー原作 ロバート・アイク翻案「メアリー・ステュアート」

2026年5月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、フリードリヒ・シラー原作、ロバート・アイク翻案の「メアリー・ステュアート」を観る。シラーの原作を翻案したものとしては、2015年に、ダーチャ・マライーニが二人芝居に翻案したものを梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで観ている。出演は、中谷美紀と神野三鈴であった。
今回のロバート・アイク翻案版は、それに比べると登場人物は多い。演出は栗山民也。テキスト日本語訳:小田島則子。メアリー・ステュアートとエリザベス1世は何年か前に映画にもなっているはずだが、未見である。
出演:宮沢りえ、若村麻由美、橋本淳(あつし)、木村達成(たつなり)、犬山イヌコ、谷田歩、大場泰正、宮﨑秋人(しゅうと)、采澤靖起(うねざわ・やすゆき)、阿南健治、久保酎吉、伊藤麗(れい)、上野恵佳(あやか)、松本祐華、段田安則。途中休憩20分を含み、上演時間が3時間を超えるという大作であった。

今回は、メアリー・ステュアートの幽閉から死までが描かれる。
メアリー・ステュアートは数奇な運命を辿った人で、生後6日でスコットランド王に即位。摂政にはジェームズ・ハミルトンが就くが、後に戦に敗れている。メアリーは、フランスに亡命。フランスのフランソワ王太子と婚約し、将来的にはフランス王妃となる。
一方、エリザベス女王(エリザベス1世)は、父親が離婚したいがためにイギリスの国教をカトリックからプロテスタント(英国国教会となる)に変えたヘンリー8世、母親はヘンリー8世が離婚後に再婚したアン・ブーリンである。アン・ブーリンは複数の罪で処刑された人として有名で、エリザベスが女王として即位後も「庶子」という理由から「相応しくない」との声が上がった。そしてフランス王フランソワ2世が16歳で亡くなったため、スコットランド王として即位したメアリーにもイングランド王となる権利があったことから事態はややこしくなる。当時はイングランドとスコットランドは別の国であるが、緩やかな連合体をなしていた。「メアリーの方が英国の王に相応しい」という声もある。メアリーはダーンリー卿ヘンリーと再婚。一児を設ける。この子どもであるジェームズが、ステュアート朝の祖であり、メアリー・ステュアートはステュアート朝の生みの親とも言うべき存在である。よく知られている通り、エリザベス女王は子をなさなかったため、敗れたはずのステュアート家が、イギリスの正統な王家を占めたこともあったのだ。諍いには敗れたが血統と歴史で勝ったというべきか。
そんなメアリー・ステュアートも、スコットランドで起こった暴乱により、イングランドに亡命。エリザベス女王はメアリーをイングランド内の城に軟禁状態に置く。
ここからが今日の「メアリー・ステュアート」の物語である。分かろうと思ったらそれなりに知識がいる。メアリーの幽閉先と、エリザベスの王宮の一室のみが舞台だ。

メアリー(宮沢りえ)と乳母のケネディ(犬山イヌコ)は、城の中で比較的自由に暮らしている。看守のポーレット(阿南健治)がいるが、さして厳しくない。
メアリーは処刑を恐れているが、続くエリザベス1世(若村麻由美)の場では、エリザベス女王が様々な理由で、メアリーの処刑を渋っている。

メアリーを演じている宮沢りえが黒いドレスを着たしなやかな身のこなしなのに対し、エリザベス女王は座っていることが多く、堂々とした王の装いで胸を張っている。これだけで二人の性質が分かるが、エリザベスはかなり演じている部分がありそうだ。

それでも処刑を避けることが出来ないと、エリザベスは、死刑執行書に署名をした。しかし、それを持って行かないよう命じる。エリザベスとメアリーは短い時間であったが面会していた。

ただこれは明らかにエリザベスのミスなのだが、死刑執行書に署名してしまったがために、最終的にはメアリーは処刑される。エリザベスの王宮は権謀術数が渦巻き、裏切りが多発していた。セリフの多くはそうした謀だ。

緋色のドレスになり、処刑場へと向かうメアリー。ケネディが手を取る。

役者陣はかなり充実。完璧に近い。

今日は2階席で観たのだが、舞台上には白の×があるのが見える。スコットランドの国旗の色である。栗山民也なりのメアリーへの追悼であった。

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中谷美紀&神野三鈴二人芝居「メアリー・ステュアート」

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2026年5月 1日 (金)

コンサートの記(956) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第597回定期演奏会

2026年4月10日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第597回定期演奏会を聴く。指揮は大フィル音楽監督の尾高忠明。
今年に入ってからスケジュールが合わず、久しぶりの大フィル定期である。枚方での特別演奏会などは聴いている。

曲目は、尾高尚忠(ひさただ)の交響曲第1番、ディーリアス作曲(ビーチャム編曲)の歌劇「村のロメオとジュリエット」より間奏曲“楽園への道”、エルガーの「エニグマ」変奏曲。尾高の十八番が並ぶ。
コンサートマスターは須山暢大、フォアシュピーラーに尾張拓登。ドイツ式の現代配置での演奏である。

 

尾高尚忠の交響曲第1番。戦中・戦後を代表する音楽家の一人、尾高尚忠。尾高忠明の父親である。ユダヤ人であっためドイツを離れ、日本に来ていたクラウス・プリングスハイムに指揮と作曲を師事。プリングスハイムはマーラーの弟子であり、尾高尚忠はマーラーの孫弟子ということになる。戦前にはウィーンに留学し、フェリックス・ワインガルトナーに指揮を習っている。ベルリン・フィルの指揮台にも立った。
戦中の1942年にNHKの資本を受けた日本交響楽団(現・NHK交響楽団)の常任指揮者として活躍し、作曲も行った。しかし過労が祟り、1951年に39歳の若さで死去。NHKによる酷使が問題視され、「NHKが尾高を殺した」という文句が躍った。
尾高氏は渋沢栄一の子孫に当たる名家。尾高忠明の兄である尾高惇忠は作曲家である。
尾高尚忠の交響曲第1番は単一楽章の交響曲と思われており、1948年に完成し、「平和のために世界に贈る交響曲懸賞」で第1位を獲得。同年、作曲者指揮の日本交響楽団によって初演されている。
しかし、2005年に遺品の中から第2楽章が見つかる。ほぼ完成形に近い出来で、発見者である尾高惇忠の補筆により、2006年に外山雄三指揮のNHK交響楽団によって2楽章版が初演されている。なお、第2楽章の最後に「アタッカ(続けて入る)」の表記があったことから、少なくとも3楽章以上からなる曲想の存在が明らかになっている。

天地を揺るがすような巨大な音によってスタート。大阪フィルの機能の高さもあって、大軍による前進が続く。平和のために書かれた曲のはずだが、戦のおぞましさが描かれているのだろう。マーラーの孫弟子ということで、影響を受けているのは明らかで、この時代にここまで力強い楽曲を書いていた人は少数派であろう。マーラー自体、ウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)による演奏が高い評価を受けていたが、マーラーの愛弟子であるブルーノ・ワルターはユダヤ人だったため、ナチスから逃れるのに必死でマーラーの曲の演奏は限られ、それ以外ではマーラー作品は「おどろおどろしくて不気味な曲」として評価されていなかった。そんな中、マーラーの音楽性を受け継ぐ作曲家が東洋の島国に現れたというのはかなり驚くべきことである。
第2楽章は第1楽章と異なり耽美的であるが、「大地の歌」に繋がるものが感じられる。東洋的な曲想も顔を覗かせるが、尾高尚忠は正真正銘の東洋人。ということでマーラーを凌ぐオリエンタルな典雅さが花を咲かせている。
晴れた日に散りゆく桜を眺めながら、春の名残を味わうようなそんな趣である。

この後に「アタッカ」で来るなら、第1楽章のような鋭い音楽だった可能性が高いが、それはもう想像するしかない。

 

休憩後、ディーリアス(ビーチャム編曲)の歌劇「村のロメオとジュリエット」より間奏曲“楽園への道”。楽園というのはいわゆる楽園ではなくて、劇中に出てくる居酒屋の名前だそうである。
繊細な作風で知られるディーリアス。英語圏では知名度が高いが、それ以外ではさほど有名ではない。一時、出谷啓がやたらと推していた作曲家である。ビーチャムによる編曲版であるが、指揮者のサー・トーマス・ビーチャムはディーリアスの良き理解者であった。

ディーリアスは、オランダ系ドイツ人の両親の下、イングランドの裕福な商家に生まれるが、商売には興味がなく、アメリカに行ってフロリダでオレンジ栽培をしながら黒人霊歌に興味を持ち、ドイツに渡ってライプツィッヒ音楽院で教育を受けてパリで作曲活動をスタート。ライプツィッヒ音楽院では留学していたグリーグと出会っている。
デビュー後、40歳近くになって名声を得るようになるが、次第に梅毒に悩むようになり、最後は失明しながらも作曲を続けた。
歌劇「村のロメオとジュリエット」より間奏曲“楽園への道”であるが、穏やかで優しい弦の響きが次第に輝きを増したかと思うと、一瞬不吉な旋律が現れ、元へと戻っていく。
歌劇「村のロメオとジュリエット」であるが、やはりバッドエンドのようである。

 

エルガーの「エニグマ」変奏曲。ニムロッドの大英帝国の栄耀栄華を描いたかのようなゴージャスで輝かしくノーブルな響きが印象的であるが、それ以外の曲も堂々且つチャーミングで、「イギリスを代表する1曲」といっても過言ではないだろう。
「エニグマ変奏曲(謎の変奏曲)」は、二人芝居のタイトルになっており、南座で一度観たことがある(沢田研二と杉浦直樹)が、上演は余り多くないようである。「エニグマ変奏曲」に「書かれていない謎」があることから、それ同様に登場人物の一人である小説家の小説にも書かれていない謎があり、それを探るという内容。実際、エルガーは、「演奏されない中心的主題」があると記しており、その謎は今も解かれていない。
尾高の十八番である「エニグマ」変奏曲。余り腕を振らずにオーケストラを操ることが可能である。「ニムロッド」の最初の方は腕をほとんど動かさずにオーケストラに任せていた。「ニムロッド」が終わってからは少し間を置いて演奏を再開し、「ニムロッド」が他よりも一段格上の音楽であることを示していた。
ベストかと言われるとそうではないかも知れないが、「尾高らしいエニグマ」というべき仕上がり。エルガー作品の良き表現者によるエルガーを聴けるのは幸せなことである。

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2026年4月29日 (水)

観劇感想精選(515) アーサ・ミラー作「るつぼ The Crucible」(坂本昌行主演)

2026年4月3日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「るつぼ The Crucible」を観る。「アメリカの頭脳」アーサー・ミラーの代表作である。「アメリカの頭脳」に名前負けせず、彼が残した戯曲の数々は今も各国で上演され、高い評価を得ている。「るつぼ」は、日本でも数年前に堤真一の主演で上演されたが、チケット争奪戦に敗れて観ることは叶わなかった。

今回は坂本昌行の主演版である。テキスト日本語訳は水谷八也、演出は上村聡史。

「エクソシスト」を先取りしたような、奇怪にしておどろおどろしい作品だが、主軸にはキリスト教などの権威の傲慢さへの冷めた目があるように思う。

出演:坂本昌行、前田亜季、松崎祐介、瀧七海、伊達暁、佐川和正、夏子、大滝寛、那須佐代子、大鷹明良ほか。

舞台美術は長田佳代子で、○を八百屋飾りにし、中間の何もない部分に、こちらも少し八百屋になったセットを作っている。出入り口は背後、階段を降りた先にある。

 

魔女狩りが主題である。中世ヨーロッパでは魔女狩りが横行し、ジャンヌ・ダルクも魔女として火刑台に消えた。今もイギリスなどでは魔女として暮らしている人は多いが、特に他者を害するということはないようである。一方、新大陸では……。

アメリカ合衆国独立前の英領アメリカで起こったセイラム魔女裁判がモデルとされる。

黒人役の人が出てくるが、肌を塗ったりは出来ないので、髪型をそれらしくして演じている。鍵を握るのは、アビゲイルという17歳の女性(瀧七海)である。アビゲイルというと、オーケストラ・アンサンブル金沢のコンサートミストレスであるアビゲイル・ヤングを連想してしまう。アビゲイルという名前の人を彼女以外に知らないからでもあるが。
アビゲイルは他の女の子と共に、夜の森で踊り、それが悪魔崇拝だとして問題視される。特にパリス牧師の娘であるベティ(前田亜季)は意識不明となり、ベッドで寝ているのだが、突如起き上がって暴れたりする。本当に「エクソシスト」の世界である。ベティの出番は短いが、前田亜季はその後は成人女性であるエリザベス(エリザベスの愛称もベティである)役で登場する。

パリスというのも意味ありげな名前だが、この人物は魔女騒動を焚きつけているようなところがあり、好人物とは言えない。魔女を巡る人々の心に寄り添うのはヘイル牧師(松崎祐介)の方である。

しかし、おそらく集団ヒステリーによるものだと思われるが、街の若い娘達が悪魔を目撃するなど奇妙な精神状態へと陥り、奇声を発するようになる。

主人公のジョン・プロクター(坂本昌行)は、信仰心はそこそこ。畑仕事をしている方が好きで、安息日である日曜日にも畑に出掛けて土を耕していたことがある。日曜の集会にも出られる日だけ出ている。
妻のエリザベスとの関係は良好だが、つい侍女のアビゲイルと関係を持ってしまう。アビゲイルはそれをネタに……。

 

魔女狩りという前近代的な習慣を題材にしながら、絶対的権威と個人など、現代においても起こる対立を緻密に描いた作品である。魔女審問では次々に死刑とされるなど、血なまぐさい出来事が背後で起こっているが、そうした凄惨な出来事は今は終わったわけではない。

この小さな街の魔女狩りの話をスライドさせれば日本で言えば特高警察の話になる。アーサー・ミラーは、そうした作劇法を確信犯的に用いている。

 

坂本昌行はミスもあったが集中力の高い演技を見せ、ジョンという男の多面性を表していた。ジョンという人物は必ずしも格好良くはないのだが、坂本昌行は多くの女性の目に格好良く映るだろう。
近年は舞台を活躍の場に選ぶことが多い前田亜季。やはり可憐な役も多かったが、今回は心揺れる女性を情感豊かに演じていた。

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2026年3月10日 (火)

観劇感想精選(509) 稲垣吾郎主演「プレゼント・ラフター」

2026年3月5日 京都劇場にて観劇

午後6時から、京都劇場で、「プレゼント・ラフター」を観る。ノエル・カワードが自身の生活をモデルにしたとされるドタバタ喜劇。ノエル・カワードはシチュエーションコメディが得意な人だが、この劇は完全にスラップスティックである。

ロンドンにあるギャリー・エッセンディーン(稲垣吾郎)の高級アパートメントの一室が舞台であり、セットの転換はない。

作:ノエル・カワード、テキスト日本語訳:徐賀世子(じょ・かよこ)。演出:小山(こやま)ゆうな。
出演:稲垣吾郎、倉科カナ、黒谷友香、桑原裕子、望月歩、金子岳憲、中谷優心、白河れい、浜田信也、広岡由里子。

時代から言って、多くの人が喫煙をするが、ニコチンなしの茶葉スティック、つまり偽煙草であることがホワイエに掲示してある。今はどの芝居も演技で用いるのは「ネオシダー」などの偽煙草であることが掲示されており、事実上、舞台上で本物の煙草を吸うことは不可能になっている。この茶葉スティック、結構匂う。

トップクラスのスター俳優であるギャリー・エッセンディーン。間違いなく成功者だが、俳優の職業病故か、常に演技をしてしまう癖がある。そう言いつつ演技でない部分も多いと思われるが、「マクベス」の「眠りを殺した」など有名ゼリフを引用してしまうことがある。

2日間の出来事が描かれる。ギャリーの朝は遅め。スウェーデン人の家政婦であるミス・エリクソン(広岡由里子。広岡由里子に家政婦役だけではもったいないので、もう一つ別の役を演じる)が掃除をし、付き人兼使用人のフレッド(中谷優心)が朝食を作り、秘書のモニカ(桑原裕子)が、ギャリーが起きる前にやるべきことを始める。主が起きるより先に働いているので、この人達は住み込みなのだと思われる。
ギャリーには妻のリズ(倉科カナ)がいる。彼女は劇作家で業界人だが、現在は別居中だ。

だが、この家にやたらと人が訪ねてくる。アフリカでのツアーが迫っており(この時代、イギリスはアフリカに多くの植民地を持っていた。今は全て手放しているが、元英国領の多くは英語を公用語としている。ということでアフリカの植民地でなら英語での芝居が打てたのである)、その関係者が来るのは分かるのだが、劇作家志望のローランド・モール(望月歩)が戯曲を読んでほしいと訪ねてきたり(リズが本職の劇作家なのでリズに聞いた方がいいような気がするが、二人が夫婦と知らないのかも知れない。ギャリーは「20回作品を書け、そうすれば21回目に光が見える」とアドバイスする)、プロデューサーのヘンリー・リピアット(金子岳憲)の妻のジョアンナ(黒谷友香)が、「トスカニーニ(指揮)のコンサートを聴きに行ったけれど鍵を落とした」というので夜遅く訪ねてくる。二人が抱き合うのが第1幕のラストだが、二人は普通に考えて男女の関係になっているということで、仕事関係で女を巡るゴタゴタが起こりそうになったりする(ギャリーが大スターなので、よく起こるような展開にはならない)。

その他にも、ギャリーに憧れた母子が訪ねてきたりする。

なんでこんなに人が訪ねてくるんだろうという展開には、三谷幸喜作の「巌流島」の佐々木小次郎(益岡徹)のセリフ、「どうして今日に限って沢山人が訪ねてくるんだ!」が思い起こされたりするが、三谷幸喜も連なる英米系の喜劇作家の作風を作り上げたのがノエル・カワードだと言っても差し支えないので、似てはくるのである。「巌流島」で人が訪ねてくる理由は、「宮本武蔵の居場所が珍しく知られているから」だが、ギャリーに会いに来るのは、「今日を逃すとしばらくギャリーに会えないから」だと思われる。

ノエル・カワードは、1899年生まれ。聖歌隊で知り合った両親の子であり、音楽的才能にも優れていた。階級的には下層中流階級で、余り大金を稼ぐことは望めないが、母親が「子役募集」のチラシを見つけ、息子の才能を信じて応募。ノエルは売れっ子子役となり、そのまま俳優、劇作家へと進んでいく。学校教育はほとんど受けていない。

常に自分を格好良く見せる強迫に駆られているようなギャリーだが、稲垣吾郎なら伊達男を演じても嫌な気はしない。
倉科カナは、初舞台を観ている女優である。2008年、兵庫県立芸術文化センター中ホール。クラシックの室内楽とコラボレーションした「4×4」という芝居である。当然ながら演技は上手くなかったが、それから5年後に上川隆也主演版の舞台「真田十勇士」にくノ一役で出たときはかなりの成長が見られ、今日の演技も役に馴染んでいる。
なお、イギリスが舞台なので、基本的に新劇スタイルの演技が採用されている。
黒谷友香は久しぶりだが、大人の女の色香がほんのりと漂い、魅力的。彼女とならギャリーが間違いを犯したとしても仕方ないように思える。

出捌けが多く、とにかく導線が重要となる舞台である。登場人物達も個性的で、ローランドが2日目に特に用もないのに訪ねてきたり、ジョアンナが夫のヘンリーの前で2人の男と関係を持ったことを明かしてしまったりと、2日間だというのに、10年分のことが起こったりする。

ヘンリック・イプセンの「ペール・ギュント」の話が出てくる。イプセンがレーゼドラマ(読むための戯曲)として書いたもので、上演を想定していなかったが、クリスチャンセン(現・オスロ)の国民劇場から何度も上演依頼があり、イプセンも「グリーグの劇附随音楽付きでなら」と許可。当初は大ヒットするが、一度上演が途切れるとほとんど上演されなくなる。
「ペール・ギュント」は、山の魔王の娘と結婚させられそうになったり、モロッコで富豪になったり、アラビアで予言者となって尊敬されるも騙されて無一文になったりと波乱万丈のストーリーである。予言的ではある。
「ペール・ギュント」の舞台でもあるアフリカでのツアーには妻のリズも愛人となったジョアンナも同行するようだ。

稲垣吾郎に最も合う音楽は、マーラーの「アダージェット」だと思っていたが、今日は実際にアダージェットが響く。ギャリーが蓄音機から流した。

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2026年3月 9日 (月)

これまでに観た映画より(431) National Theatre Live「ハムレット」(2025)@ナショナル・シアター・リトルトン劇場,ロンドン

2026年2月18日 大阪ステーションシティシネマにて

大阪ステーションシティシネマで、National Theatre Live(NFL、NFLive)「ハムレット」を観る。ハムレットはカットして上演しても3時間掛かるという大作だけに途中に15分間の休憩があり、実際の上演と近い形になっている。なお、「ハムレット」の創作に迫った「ハムネット」という映画が4月10日に公開予定で、ややこしいことになっているが、「ハムネット」の内容も面白そうである。

「多様性」に気を配ったと思われる配役である。出演:ヒラン・アベイセケラ、アストリー・ペトリ、アイーシャー・ダルカール、フランチェスカ・ミルズ、テッサ・ウォンほか。演出は、シェフィールズ劇場芸術監督時代にローレンス・オリヴィエ賞最優秀新作ミュージカル賞を2度受賞した演出家であるロバート・ヘイスティ。現在は英国ナショナル・シアターの副芸術監督である。

2025年9月25日に、ロンドンのナショナル・シアター・リトルトン劇場で行われた上演の収録である。

まず、タイトルロールを演じる、ヒラン・アベイセケラからしてアングロサクソン系ではなく、スリランカ出身である。またオフィーリアを演じるフランチェスカ・ミルズは、小人症である。人に「ダウン」を言わせる場面があるため、ダウン症でもあるのかも知れないが、見た目でははっきり分からない。ただ演劇や映画、テレビドラマなどに出演するプロの俳優である。蜷川幸雄が、小人症の人を墓掘り人役で「ハムレット」に出演させたことがあるが、ヒロインであるオフィーリア役への抜擢ということで、それよりも大胆である。フランチェスカ・ミルズであるが、短めのタンクトップを着るシーンがあるのだが、腹筋が鍛えられているのが分かり、プロの俳優としての誇りがありそうだ。

ガートルード役のアイーシャー・ダルカールもイギリス国籍で、はっきりしたことは分からないが、中東の女性によく似ている。

テッサ・ウォンは女性であるが、ホレイシオを演じる。この他にも本来男性だが女性が演じる役がいくつかある。ウォンは、王(ワン)の広東語読みなので、広東省か香港の出身だと思われる。20世紀だったら、中国本国の人は簡単に国から出られなかったので香港人だと分かったが、今は好きに出られるので、広東省出身なのか香港出身なのか分からない。ブリストル・オールド・ヴィック演劇学校に学んでいる。

ホレイシオを女性にするという変更はかなり効果的である。今回のハムレットとホレイシオは男女の関係ではないはずだが、男女の親友であり、物語を受け継ぐのが女性というのは、稗田阿礼(男性説と女性説があるが、稗田氏は代々女性が宮中に勤めに出るという家であり、女性でないと辻褄が合わない)や清少納言、紫式部、赤染衛門という女性が記すという伝統があった日本にも馴染みやすい(稗田阿礼は記憶するだけで筆は太安万侶が執ったが、おそらく女性なので文字が書けなかったのだろうと思われる)。

とにかく多国籍で、性別も異なる「ハムレット」である。オーソドックスな演出ではなく、着ているものも現代のそれだが、物語の進行においては、人種はさほど気にならない。
小人症のオフィーリアだが、王妃になるのは難しいと思われるが、この世界ではそうしたことも気にされてはいないようだ。佯狂のハムレットが元に戻るよう神に祈るシーンでは、余り痛切さが感じられなかったが、狂乱の場では独特の迫力があった。

「生か死かそれが問題だ」は一番オーソドックスな訳を採用。ただオーソドックスと言いながらこの言葉が用いられている翻訳戯曲は1冊だけである。小田島雄志の「このままでいいのかいけないのか、それが問題だ」も有名である。
この言葉は、そのまま取ると父王ハムレットの言葉通り復讐を果たすべきか、という場面で用いられているため、単純なことを言っている可能性もある。

クローディアスとガートルードのことをハムレットが、「一心同体」と評する場面がある。クローディアスを殺すとガートルードをも殺す、つまり母親殺しになってしまうという考えである。これは、ハムレットがクローディアスと勘違いしてポローニアスを殺害する場面があるため、「名答」とはならないのだが、今回の演出はどうもクローディアスとは思わずにポローニアスを殺している(指ピストルでである)ようであり、「一心同体」説が通る余地がある。今回のハムレットはこれまでの中でもかなり露骨にマザコンである。今回は上手く通じたように思う「母親がいるから」という「一心同体」説だが、1回だけでは有力説には上がってこないかも知れない、何しろハムレットについて書かれた論文は、文学史上最も膨大であるとされており、「ハムレット学者は、ハムレットに関する論文を読むのに忙しくて、『ハムレット』を読む暇がない」というブラックジョークがあったりする。
ただこの「一心同体」説が通れば、ハムレットについては、「うじうじ悩んでばかりで行動しない『ハムレット型性格』(対義語は『ドン・キホーテ型性格』)」という汚名をそそぐことが出来るかもしれない。

ラストは、女性に見取られて英雄が亡くなるシーンである。多くの主人公達がこうして最期を遂げた。世界のミステリー小説家の中にはハムレットの悲劇の黒幕がノルウェーのフォーティンブラスとする説を唱える人がいるようだが、それはない。ただデンマークの王室全滅で、フォーティンブラスが何もしないで領土を獲得するのも事実である。
しかし、描かれているのはあくまでデンマーク王室の悲劇だ。元々デンマーク王室は人が足りないという状態であり、そんな中で欲に駆られてことを行うと、結末は悲惨ということである。

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2026年2月18日 (水)

これまでに観た映画より(427) National Theatre Live「ウォレン夫人の職業」

2026年2月9日 大阪の扇町キネマにて

扇町キネマで、英National Theatre Live(NTLive)「ウォレン夫人の職業」を観る。奇才バーナード・ショー(代表作「ピグマリオン」=ミュージカル映画版タイトル「マイ・フェア・レディ」)の戯曲を、ロイヤル・コート劇場の芸術監督を務めたドミニク・クックが演出。出演は、イメルダ・ストウントン、ベッシー・カーター、ケヴィン・ドイル、ロバート・グレニスターほか。

英国のみならず、ブリュッセルやウィーンにも家を持つ金持ちのウォレン夫人の職業であるが、バーナード・ショーの世代とその時代のオペラがどのような女性を描くことが多かったかを考えると、タイトルでおおよその見当はつき、実際、当たっている。
母娘の話であり、当時の女性が置かれた立場をも明らかにする芝居である。

ウエストエンドの劇場での上演。上から見ると円形の舞台でやり取りが行われる。かなりの確率で笑いが起こるが、日本人としてはちょっと笑うのをはばかられるものが多い。やはりお国柄か、ブラックユーモアには笑いの反射神経が良さそうである。

ヴィヴィ・ウォレンは、幼い頃から寮などに住み、大学でも学んでいる(卒業したのか休学中なのかは不明)。「大学に戻る」という言葉が、「復学する」にも「大学院に進む」にも取れる。ただ知的水準は、牧師の息子であるフランクによると「ケンブリッジ大学卒業クラス」だそうだ。
母親のキティ・ウォレン(ウォレン夫人)は娘の面倒を余り見てこなかった。ずっとヨーロッパ大陸にいたが、久しぶりにイギリスに帰ってくる。
ちなみにヴィヴィは、自分の父親が誰なのかを知らない。
世間知らずと思われがちなヴィヴィであるが、短期間ながらロンドンに出て、事務仕事(数学が得意なので経理なども受け持ったのだろうか)をしたことがある。一方、ロンドンの芸術好きの友達に誘われて、ロンドンの美術館やオペラなどを観たが、彼女には芸術嗜好は全くなく、退屈でしかなくて今も芸術嫌いである。

キティ・ウォレンは、子ども4人のシングルマザーの子として育った。上二人は父親が違い、キティと姉のリズは純粋な姉妹だ。しかし、ある日、リズが姿を消す。橋から身投げして命を絶ったのだ、などと言われたが、ある日、リズが上品な上着に身を包んで帰ってくる。彼女は売春婦となったのだ。キティが1日14時間、バーでウエイトレスとして働いても薄給なのに対し、売春を行えば好きなものが好きなだけ手に入る。リズがブリュッセルに開いた高級娼婦の店でキティは働くことになり、ヴィヴィに十分な学費と生活費を送ることが出来たのだった。おそらくキティにとっては、女に必要なのは女であることで、聡明さなどは大して意味がない。娘を大学に進ませることが出来たのも金があったからだ。
この時代、女性が身を立てることの出来る職業は限られており、女性一人が一人だけの稼ぎで生きていくのは至難の業だった。国は違えど同じヨーロッパの国々で同じような問題が発生していたことは、オペラによく描かれている。
売春宿の話が出てくる時には、娼婦姿の女優達が背後に、ステージを取り囲むように立ち、その後、娼婦役のキャスト達は小道具を片付けたりする。
狩猟などをして遊び暮らし、収入が全くないフランクが、ヴィヴィの金を目当てに近づくも、二人は(おそらく異母)姉弟であることが分かるなど、バーナード・ショーらしい皮肉も効いている。
母親の言うことも分かるのだが、薄給でも職業婦人として歩き出したヴィヴィが頼もしくもある。

今回はパンフレットの取り扱いはなく、詳しいことは分からない。

イギリスの俳優は、表情と手の動きが日本人俳優より豊かだ。新劇の欧米作品上演などは白人の動きを真似て演技をするわけで、不自然ではあるのだが、一度、日本人の動きのままで欧米の作品に取り組んだ団体を観たことがあり、とてもじゃないが見ていられなかった。ということで新劇的な演技にならざるを得ないように思う。白人にはなれないが白人のフリをするしかない。

演出面であるが、不穏な音がずっと響いているのは逆効果。そんな説明はなくても分かる。

他にも欧米と日本の違いは色々あるが、英国の俳優の方が舞台に馴染んでいるように思う。そして自身に与えられた役を楽しんでいる。英国には王立の演劇学校や私立の音楽演劇学校があってそれによる違いもあるだろうが、技術よりも「いかに芝居が好きか」の違いは大きいように思う。昔の日本は新劇の劇団上がりなども多かったが、今は容姿が良かったのでスカウトして演技はそれからというケースも多い。「好きこそものの上手なれ」で、演技が好きな人の方が演技力が伸びやすいのは当然である。そうして培った演技をこちらも楽しんでみたくなるのだ。

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2026年1月 5日 (月)

これまでに観た映画より(421) ナショナル・シアター・ライブ(National Theatre Live) 「インター・エイリア(Inter Alia)」

2025年12月27日 梅田の大阪ステーションシティシネマにて

大阪へ。大阪ステーションシティシネマで、ナショナル・シアター・ライブ(National Theatre Live。NTL、NTLive)「インター・エイリア(Inter Alia)」を観る。今年の7月23日にロンドンの英国ナショナル・シアター リトルトン劇場で初演された作品で、三人芝居であるが、主役であるロザムンド・パイク(ジェシカ・パークス役)がストーリーテラーを兼任するため、膨大の量のセリフをこなしている。ロザムンド・パイク以外の出演は、ジェイミー・グローヴァー(マイケル・ウィートリー役)、ジャスパー・タルボット(ハリー・ウィートリー役)。その他に、子役が計6人出演する。
作は、オーストラリア・メルボルン出身のスージー・ミラー。豪州で弁護士兼劇作家として活躍した後、2010年にロンドンに移住したが、現在は、英、米、豪の3カ所で演劇、映画、テレビドラマに関わっている。
演出は、ジャスティン・マーティン。スティーブン・ダルドルーと共にキャリアを築いてきた演出家である。
スージー・ミラーとジャスティン・マーティンのコンビは、前作「プライマ・フェイシィ」に続き、NTL上映作品に選ばれた。
「Inter Alia」は、ラテン語で「その他のことの中で」という意味である。

セットはシンプルである。とある家庭の一室、中央にカウチとキッチンテーブル、上手にキッチンがあり、下手はものを入れる棚になっている。

ジェシカは、英刑事法院判事に昇格したばかりの法曹。夫のマイケルは弁護士だが、稼ぎは余り良くないようだ。弁護士などは接客業なので、頭脳は優秀でも対人関係を築くのが苦手な場合は、顧客が付かず、稼げず生活保護へ、というコースもあり得るため、日本でも近年は苦労して勉強してそれでは割に合わないと、弁護士志望者は減りつつある。マイケルも肩身が狭いというほどではないが、余り出しゃばらないよう心がけているようだ。
「妻より夫の方が上で」とジェシカも一人で夫婦円満法を唱えるが、取りあえずそれはそれである。夫婦間に亀裂はない。だが、18歳の息子、ハリーのことは心配である。ハリーの性的経験に関してはジェシカは踏み入らないようにしていた。自分が、男女間の暴力訴訟を得意とする検事だったからかも知れない。しかし、あるとき、ジェシカはハリーのノートパソコン(英米で言うラップトップ)の訪問履歴を検索する。しない方が賢明だとは思うのだが、ポルノハブなどの性関係の投稿サイトの閲覧履歴や、自分たちの仲間で撮影した性的な動画を見て、ジェシカは動揺する。
そして、ハリーが、強姦容疑で起訴される。ハワイ関連のイベントに参加し、クラスメイトと関係を持った疑惑が浮上したのだ。
ハリーとクラスメイトとの証言は食い違うのだが……。

性暴力の裁判を長年に渡って担ってきた女性が、息子が起こした性加害事件にどう向かい合うのか描いた作品である。
ただ、その前に、両親ともに法曹という、特殊な家庭であることには触れておきたい。イギリスは階級社会であり、労働者階級から上流階級に上がるには専門職に就くしかない。法曹は専門職なので、階級を超えることが出来る。上流階級になれるのだ。ただ、上流階級出身の法曹も当然ながらいるので、この夫婦の出身階級は不明である。ジェシカはやたらお喋りであるが、自分たちの出身階級には触れていない。息子のハリーは幼い頃にいじめに遭っていたが、これに関しても階級が影響しているのか不明である。労働階級の方が荒れてはいるが、仮に上流階級でパブリックスクールに入っていたとしてもいじめに遭う可能性はある。
それでも現時点では上流階級にいると思って間違いないだろう。前作の「プライマ・フェイシィ」は、労働者階級から法曹となり、上流階級へと移った女性が主人公だったが、本作とは繋がっていない。

階級によって思想や信条は変わってくるが、この芝居では、どの階級でも起こる事件を扱っており、意図的にかどうかは不明だが、階級にまつわる話は描かれていない。
その代わりに、妻の方が夫よりも上という、努力しても少し歪んでしまう家庭像には僅かながら振れている。階級よりも前に妻と夫のランクによって家庭のバランスが崩れるということもあり得る。

ハリーがどこまで行ったらレイプかどうか、ジェシカに問うシーンがある。性教育が十分ではなかったのだが、日本も性教育に関しては先進国中最低レベルといわれているため、耳の痛い問題である。

終盤はジェシカとハリー二人の話となるが、幼き頃のハリーを子役が舞台上を駆け巡ることで演じている。
ラストはベストではないかも知れないが、上手いところに落としたなという印象を受ける。法曹としてというよりも母親として、ジェシカはハリーときちんと向かい合ってこなかったように思う。18歳、子離れの年齢。ハリーからの提案をジェシカが受け入れることが、ほんの僅かながら明るさを感じさせる。

とにかくジェシカ役のロザムンド・パイクのセリフ量が多く、圧倒される。演じるジェシカ・パークスも判事で超エリート。ただ母親としてはスーパーウーマンではなくありふれた母親であったことが、観客をホッとさせる。これは超人達ではなく、普通の人々の物語だ。
今後、親子で事件に向き合うこともあるかも知れない。だがその前に母と息子の二人の話が続くはずだ。

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2025年11月10日 (月)

観劇感想精選(500) 森田剛主演「ヴォイツェック」(ジャック・ソーン版)

2025年10月25日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「ヴォイツェック」を観る。チフスのため23歳の若さで早逝した小説家、劇作家のゲオルク・ビューヒナーの未完にして代表作となる戯曲の上演。「ヴォイツェック」であるが、未完の上に原稿に通し番号などが振られていない状態で発見されたため、ビューヒナーがどこをどのようにどの順番で上演するつもりだったか今になっても分かっておらず、演出家が原稿の順番を選ぶため、同じ「ヴォイツェック」でも印象が大きく異なる。
ただ、アルバン・ベルクが作曲した歌劇「ヴォツェック」という、オペラ史上1、2を争うほどの傑作があり、このオペラが基準になるとは思われる。タイトルが「ヴォツェック」なのは、ベルクに送られた台本のタイトルに不備があり、「Woyzeck」であるべきところが「Wozzeck」となっていたためである。ヴォイツェックは実在の殺人犯であるため、ベルクはすぐにタイトルを変更しようとしたが、ゲオルク・ビューヒナーの「ヴォイツェック」と自身の歌劇「ヴォツェック」はもはや別物と考え、タイトルの変更を行わなかった。
ベルクの歌劇「ヴォツェック」の完成度が高いため、演劇の「ヴォイツェック」で満足の行く出来に持って行くことは至難の業である。

歌劇「ヴォツェック」は、東京・初台の新国立劇場オペラパレスで聴いている。今に至るまで唯一のオペラパレス体験である。指揮のギュンター・ノイホルトが優れた音像を生み出していたが、演出が余計なことをしまくったため、全く感動も納得も出来ないという残念な結果に終わっている。

ストレートプレーではなく。音楽劇とした「ヴォイツェク」は、大阪の京橋にあったシアターBRAVA!で、山本耕史のタイトルロールで観ており、そこそこ良い印象であった。
今回はストレートプレーでの上演であるが、ビューヒナーのテキストそのままではなく、ジャック・ソーンが翻案したテキストを使用しており、舞台を1981年の西ベルリンに変更。登場人物は、主にイギリス系とアイルランド系で、IRAが起こした闘争などを避けて、西ベルリンに渡っているという設定である。上演台本と演出は、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子が行っている。小川はプロデュース作品に演出家として参加するのは初となるようだ。

 

出演:森田剛、伊原六花、伊勢佳世、浜田信也、中上サツキ(なかがみ・さつき)、須藤瑞己(みずき)、冨家ノリマサ、栗原英雄。
冨家(ふけ)ノリマサの姿を見るのは久しぶりである。バブル期にはテレビによく出ていた気がするのだが。中上サツキは、「なかがみ」と読む苗字。中上姓の人物として、若くして亡くなった中上健次が有名であるが、彼の本姓は「なかうえ」と読む苗字である。ただ、「なかがみ・けんじ」はペンネームとしての読み方ではなく、中上自身、自分の苗字の読み方を終生勘違いしていたというのが本当のところのようである。中上は被差別部落出身を売りにしていたが、実際は被差別部落のそばの結構良い家出身だったりと、妙な話が多い。

中上健次の話は置くとして、「ヴォイツェック」である。タイトルロールを演じるのは森田剛だが、北アイルランドのベルファスト出身の「フランク」に設定が変わっている。妻のマリー(伊原六花)は、アイルランドの出身。この時点で上手く行きそうにない。
その他の登場人物では、医師(名前はマーティンとイギリス風だがドイツ人。栗原英雄)、東ドイツ市民(中上さつき)と東ドイツ市民とアパートの大家(須藤瑞己が二役で演じる)以外の全員がイギリス人という設定である。

イギリスとアイルランドは、大英帝国の時代はイギリスがアイルランドを飲み込む形で同じ国家であったが、アイルランドはケルト系が多く、第二次大戦後は独立。国教はカトリックである。ただ北部の一部はプロテスタントが多く、そのままイギリスに残り、イギリスの日本語による正式名称は、「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」となっている。だが、当然ながら、「アイルランド全島がアイルランドだ」考える人も多く、宗教紛争、それも命に関わるものが絶えない。
イギリスも元々はカトリックの国だったが、カトリックでは離婚が出来ないため、国王が離婚したいがためにプロテスタントに改宗し、国教(英国国教会)としている。
ここに宗教の壁の問題がある。

更に舞台となる1981年のドイツは東西に分断されている。ベルリン市は東西に分かれ、西ベルリンから西ドイツに渡るには、空路か東ドイツが運営する鉄道を利用するしかなかった。東ベルリンは東ドイツの首都だが、西ベルリンは西ドイツの首都ではなく、西ドイツの首都はベートーヴェンの生まれ故郷として知られる中規模都市、ボンに置かれた。
東ドイツは事実上、ソビエト連邦の属国である。
ただ、陸の孤島状態とはいえ、西ベルリンは西ドイツの文化の中心。東ベルリンとの繁栄の差は明らかで、東ドイツでは人権も制限されるため、東ベルリンから西ベルリンに移る人が後を絶たず、ある日突然、東ベルリン当局によってベルリンの壁が築かれた。
兵士であるヴォイツェックは、同僚のアンドリュース(浜田信也)と共に、ベルリンの壁を見張っている。元の「ヴォイツェック」では、赤い空の幻影をヴォイツェックが見ておびえる印象的なシーンがあるが、それは今回はない。代わりに東ベルリンの街を見続け、マリーと二人で、アパートの6階から寂れた東ベルリンの街を見るシーンもある。東ベルリンから西ベルリンに入ろうとして失敗した女性(中上サツキ)が、東ドイツの兵士(須藤瑞己)に連れ戻される場面もある。

アンドリューズは、医師の妻であるマギー(伊勢佳世)と不倫しており、更にマリーとも不倫しているようである。マリーは、男と寝てお金を貰っていることを、マギーにさも当たり前でもあるかのように話しており、歌劇「ヴォツェック」の貞操感に悩むマリーとは大きく異なる。19世紀から1981年に舞台が移っているので、感覚がまるで違うのである。19世紀には、姦通罪のある国も多く(日本も含まれる)、不倫は本当に犯罪だったのだが、1981年時点の西ドイツには姦通罪はない。カトリックには、「汝姦淫するなかれ」など、厳格な規律があるが、20世紀には宗教の力も落ちている。ただ、マリーは寄付を募っている。カトリックは、信者から寄付を集めるのだが、マリーはカトリックの教会のために寄付を集めているのである。マリーの主な仕事は子育てと寄付集めになる。カトリックは集まった寄付で立派な教会を建てたりする。一方、プロテスタントは、そもそもそうした金集めの制度を疑問視しているので、基本、寄付は募らない。京都市内にもキリスト教の教会は多いが、綺麗で立派なのがカトリックの教会、なんだかオンボロなのがプロテスタントの教会という見分け方がある。
イギリスからの移民とアイルランドからの移民とでは宗教が異なることが最大の問題であり、イギリス出身のジャック・ソーンも宗教の違いを重要なテーマとしている。

ヴォイツェクとマリーの間には赤子が一人おり、なぜか子育てを「携わる」という堅い言葉で呼んでいるのだが、マリーは赤子の性別についても嘘をつく。「女の子」とヴォイツェックには告げるが実際には男の子である。

「ヴォツェック」と言えば、ヴォツェックに金を与える代わりに人体実験を施し、やたらと偉そうに命令する医師との場面が有名なのだが、オペラとは異なり、医師の登場は余り早くない。ヴォイツェックには立ち小便をする癖があり、医師から「立ち小便を止めろと言っただろう!」と叱責される場面があるのだが、オペラの台本では、「下品だ」という理由で、「咳を止めろと言っただろう!」という無茶苦茶な要求に変わっている。止めるに止められない生理現象に口出しするところが頭のおかしさの強調にもなっているのだが、いくらなんでも「咳を止めろ」という人は余りいない。最晩年のショルティが、演奏開始直前に最前列で咳が止まらなくなった老人を「うるさい」と叱りつけたという話はあるけれども。
今回は「立ち小便」になっている。ヴォイツェックは4歳で孤児になり、12歳の時に母と永遠に別れ(ヴォイツェクの母親とその幻影は、伊勢佳世が二役もしくは三役で演じている)、満足な教育を受けていないため読み書きは出来ず、礼儀作法なども教わっていない。袋小路という感じの悲惨な設定である。医師に「頭がおかしい」と断言される場面もある。そういう医師もおかしく、ドイツ語が出来ないヴォイツェクに延々とドイツ語で話して屈辱を与える。
マナーが悪いから立ち小便をするのを禁じるというのではなく、与えた薬の効き目を知りたいので「無闇に小便をするな!」という意味で言っていることが時間が経つに連れて明らかになる。

マリーは西ベルリンを諦め、アイルランドに帰ることを決意。先にアイルランドに帰るが、その後にヴォイツェックにも来て貰うつもりだった。だがヴォイツェックはトラウマのあるアイルランドに行くつもりはない。IRAについては多くの作品で描かれているが、最近の作品としては、ケネス・ブラナー監督の「ベルファスト」などが詳しい。

最終的には、マリーの不貞に気付くヴォイツェックだったが、マリーは断固否定。しかしマリーを信じられないヴォイツェックは彼女を絞め殺し、銃で自殺する。

歌劇「ヴォツェック」のラストは、ヴォツェックとマリーの息子が、子どもたちの遊びの輪に加わろうとするも、殺人者の子どもなので入れて貰えず退場するという、救いのないものだが、今回はベルリンの壁を表していると思われる落書き(ヴォイツェックの息子が冒頭で書き殴った)のある壁の下に座り込んでいる。2025年からの視点で見れば、1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西両ドイツは併合。一時は旧西ドイツが旧東ドイツに経済面で足を引っ張られるものの回復。EUのリーダー格となり、GDPも日本を抜いて世界3位に浮上、というのは日本人としては悲しいが。
時代的には、ヴォイツェックの息子の未来は、ヴォイツェックよりは明るいと思われる。

森田剛は背が低いが、比較的背の高い俳優を何人も起用することで、見下された立場を表している。森田剛がタイトルロールに選ばれた一つの理由と考えられる。森田剛は演技のバリエーションは余り多く持っていない人で、5年前に観た「FORTUNE(フォーチュン)」の時と余り変わっていない気がするが、熱演ではあった。
マリー役の伊原六花。大阪府立登美丘高校の林キャプテンとして「バブリーダンス」のセンターを務めて注目された人だが、舞台で観るのは二度目。前回は安部公房原作の「友達」で、一番最初にセリフを発する役だったが、それほど良い役という訳でもなく、余り印象に残っていない。今回はナチュラルな演技で、熱演タイプの森田剛を上手く受け止めていたように思う。大阪出身なので、表に届いていた花も彼女宛のものだけだった。
この人は明るい性格だが、かなりの負けず嫌いだと思われるため、今後伸びそうである。NHK連続テレビ小説「ブギウギ」でも誰にも負けたくない女性・秋山美月を演じていたが、ある程度、伊原の性格に合わせた部分もあるのだろう。

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2025年7月19日 (土)

観劇感想精選(493) 彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd Vo2 「マクベス」 藤原竜也・土屋太鳳主演

2025年6月28日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd Vol.2 「マクベス」を観る。彩の国さいたま芸術劇場大ホールで、蜷川幸雄の演出により、シェイクスピア作品の上演を続けた彩の国シェイクスピア・シリーズ。蜷川幸雄亡き後は吉田鋼太郎が演出を受け継ぎ、全作品を上演、完走した。そして2週目が吉田鋼太郎の演出でスタート。その2作目が四大悲劇の一つ「マクベス」である。

翻訳:小田島雄志、演出・上演台本・出演:吉田鋼太郎、音楽:東儀秀樹。
出演:藤原竜也、土屋太鳳、河内大和、廣瀬友祐、井上祐貴、たかお鷹ほか。

魔女の予言、マクベスノック、バンクォーの幽霊、手洗いを止められないマクベス夫人、バーナムの森が動くなど、数々の名場面で知られるマクベス。終盤の展開が速いため、締め切りが間近で筆を急いだのではないかという説があるが、上演されたものを観て「展開が速い」と思ったことはない。台本を読んだ時と上演したものを観た時の印象が異なるのかも知れないが、戦の展開がもっとゆったりだったり緩んだ可能性も高い。

音楽が東儀秀樹の担当ということで篳篥や笙を使ったものが流れる。蜷川幸雄と異なり、日本的な演出をしているわけではないので、合っているのか合っていないのかは微妙だが、音楽自体はいいように思う。

蜷川幸雄の「ハムレット」でタイトルロールを演じたのを観ている藤原竜也。今回はマクベスに挑戦だが、ハムレットを演じるのと同じスタンスでマクベスを演じているため、ハムレットがマクベスを演じているように見える。ハムレットは「悩める青年」だが、マクベスは魔女の予言らしくものに引きずられるスコットランドを代表する猛将であり、ナイーブな青年にするとこの人物の特性が違ってきてしまうように思う。

マクベスは果たして魔女達の予言に引きずられたのか。情勢は全てマクベスを唆すように移行していく。ダンカン王がマクベス邸に泊まりに来ることになり、暗殺する機会が訪れた。だが暗殺を行わないという選択もあるはずだ。スコットランドの寵臣として重用されており、遭えて王位を狙う必然性はどれほど高かったのか。予言に従うだけならそれだけの話だが、苦悩が生まれるところに「マクベス」という作品の面白さがある。

吉田鋼太郎は、魔女の一人として登場。野村萬斎が以前、「日本で『マクベス』をやると魔女達が化け物になってしまう」という話をしていて、野村萬斎は特殊な動きをする暗黒舞踏の人達を魔女役に起用したが、おじさん達が女装をして魔女をやると確かに化け物になってしまう。ユーモラスになる工夫はしていたが。
客席通路を頻繁に使う演出だったが、シアター・ドラマシティは客席通路が全て階段、しかも段差が場所によって異なるということで、冒頭でそれが突っ込まれていた。また客いじりがあり、舞台の上まで上がって貰っていた。

実力がありながら、何故かなかなか人気が上がらない土屋太鳳。森山未來主演の舞台「プルートゥ PLUTO」で一人二役を演じ、見事な演技を披露。彼女は日本女子体育大学舞踏学専攻でダンスを学んでおり、ダンスが行われるのは舞台、ということで演劇においてもステージでこそ本領が発揮されるのかも知れない。
私はマクベス夫人に関しては違う解釈をしているのだが、今回、土屋が演じるマクベス夫人はオーソドックスな悪女。土屋は声を変え、毒々しさすら湛えながらマクベスの背中を押す烈女を演じていく。彼女は153㎝と身長が低いので、本来は迫力はあまり出ないはずだが、そこは体の動きで補う。手を洗い続ける場面の強迫神経症の演技も大仰にならずリアルティを出すことに成功していたように感じられる。
The悪女という解釈としては、土屋太鳳は最良の演技を行っていたように思う。
今は「隠れ演技派」のようになっている土屋太鳳だが、もっともっと評価されても良い女優だと思う。

藤原竜也を始め、出演者たちの殺陣のレベルは高く、迫力ある舞台となっていた。

「マクベス」の最大の疑問は、魔女達は導いたのか、予言は絶対だったのかということである。宙に浮かぶ短剣も先導の形となっている。なのだとすれば人間は運命に抗えないということになるが。
マクベスが冷静な判断をしていればどうなっていたのかと考えると想像が膨らむ。魔女達もそのまま引き下がったりするまい。マクベスが魔女達に打ち克つことは可能なのか、あるいはこれよりももっと悲惨な筋書きが用意されていたのか。「マクベス」はシェイクスピア作品の中で最も興味深いものの一つである。

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2025年7月15日 (火)

コンサートの記(908) 〈RMF&山田和樹グローバルプロジェクト〉 山田和樹指揮バーミンガム市交響楽団日本公演2025京都公演

2025年7月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後3時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、〈RMF&山田和樹グローバルプロジェクト〉山田和樹指揮バーミンガム市交響楽団2025年日本公演京都公演を聴く。

先日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に客演して話題になった山田和樹。現在、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督兼芸術監督、バーミンガム市交響楽団の音楽監督(2024年5月から、それ以前は首席指揮者アーティスティックアドヴァイザーを務めていた)の座にあり、2026年からベルリン・ドイツ交響楽団首席指揮者兼芸術監督に着任する予定である。3つのオーケストラのシェフの兼任は困難であるため、モンテカルロ・フィルからの離任を表明している。
バーミンガム市交響楽団と山田の関係は長く、2016年のバーミンガム市交響楽団来日演奏会の指揮も山田が務めている。

サイモン・ラトルの時代に名声を高めたバーミンガム市交響楽団(City of Birmingham Symphony Orchestra。CBSO)。イギリスは首都ロンドンと地方の格差が広く、第二の都市であるバーミンガムのオーケストラも性能は低かったが、ラトルは大幅に機能を上げている。それでもロンドンの名門オーケストラ(ロンドン交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、BBC交響学団)とは差があったが、ラトルの後任のフィンランド人指揮者サカラ・オラモの時代にはラトルに続き「シベリウス交響曲全集」を作成。2代続いてシベリウスの交響曲をリリースしたため、北欧ものの評価を高める。オラモはグリーグなどでも名盤を残した。
その後、数人がバーミンガム市交響楽団のシェフを務め、中にはミルガ・グラジニーテ・ティーラという若い女性指揮者が起用されたりもした(首席指揮者であった山田は、名前が長いので「ミルガ」と呼んでいたようである)。
響きの良いホールがないことで知られるイギリスであるが、バーミンガムはラトルがアメリカ人の技術者を招いて響きの優れたホールを建立。イギリス中から羨望の眼差しを向けられている。

私がCBSOをホールで聴くのは4回目。最初は初台の東京オペラシティコンサートホール“タケミツ メモリアル”での演奏会で指揮はサー・サイモン・ラトル。タケミツホールで音楽を聴くのは初めてだった。ラトルの指揮であったが、前半に現代曲が並んだため、客席はガラガラであった。
2度目は、サカリ・オラモ指揮の演奏会。2002年9月22日で、この時が初京都コンサートホールであった。オール・シベリウス・プログラム。覇気にあふれる演奏で、ヴァイオリン協奏曲の独奏を務めた諏訪内晶子のソロも神品と呼ぶに相応しい出来であった。

3回目は山田和樹指揮。大阪での公演。山田とピアニストの河村尚子の共演が特に印象的だった。

 

曲目は、ショスタコーヴィチの祝典序曲、エルガーのチェロ協奏曲(チェロ独奏:シェク・カネー=メイソン)、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ヘンリー・ウッド編曲)

 

山田和樹のプレトーク。「このツアーも残り2か所となりました」ということで、「8回の演奏会で、明日、横浜で最後を迎えます」
先日、ベルリン・フィルの指揮台に立ったことについては、「直前にバーミンガム市交響楽団が同じプログラムの演奏会を開いてくれました。『よし、カズキを送り出そう』」という粋のようである。
また今回は、京都両洋高校吹奏楽部がショスタコーヴィチの祝典序曲でバンダを務めることが明かされる。東京では音楽科のある千葉県立幕張総合高校がバンダを担ったようだ

「ちなみにこれまでもバーミンガム市交響楽団生で聴いたことあるよ、という方」と山田。結構手が挙がる。来日の機会の多いオーケストラである。山田は、「2年に1度、来日公演で聴けるオーケストラが3つある。まずはベルリン・フィル、続いてウィーン・フィル。最後にバーミンガム市交響楽団」

エルガーのチェロ協奏曲。ソリストを務めるシェク・カネー=メイソンについて山田は、「素晴らしいチェリストなので是非お聴きいただきたい」と述べた。

組曲「展覧会の絵」は、よく聴かれるモーリス・ラヴェル編曲版ではなく、ヘンリー・ウッド編曲版で演奏する。山田は、ヘンリー・ウッドについてプロムスを始めた人と紹介し、山田はヘンリー・ウッドの方が先に編曲しているということで、「ラヴェルがどれほどパクったかに注目」とも語っていた。

また今回は、RMF(Rohm Music Foundation)と山田和樹の共同企画ということで、若い演奏家が選ばれ、バーミンガムでの研修を経て今回の演奏にも参加する。今回は、FUKUDA Asakoというヴァイオリニストが、第2ヴァイオリンの第4プルトで演奏していた。

 

チェロが客席側に来るアメリカ式の現代配置での演奏。ティンパニは指揮者の正面ではなく上手端に置かれた。

 

祝典序曲。昔からよく言うと渋い、悪く言うと地味な音色が特徴であったバーミンガム市交響楽団。ただこの曲は謎の多い曲調の時は渋めだったが、後半に入るとブラスが輝かしい音を奏でる。
京都両洋高校のバンダは、中央通路と、上手バルコニー席に陣取って通りの良い音を聴かせた。

 

エルガーのチェロ協奏曲。ソリストのシェク・カネー=メイソンは、黒人の血が入った奏者である。ピアニストである妹とデュオコンサートを行うこともあるそうだ。
気高さの感じられる曲調がやがて祈りへと通じていくかのようである。

シェクのアンコール演奏は、ナタリー・クロウダのチェロ組曲第4楽章。ファンキーなノリもある楽しい曲である。

 

休憩後、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ヘンリー・ウッド編曲)。豪壮な編曲である。ラヴェルの編曲よりも楽器が多く用いられ、爆発的な場面もある。編曲の腕も確かなのだが、大風呂敷を広げたようなところがあり、ラヴェルがこの編曲を聴いていたとしたら、もっと自然体の編曲を行おうと考えただろう。そういう意味ではラヴェルは音をタイトにして、この曲の「追悼曲的意味」に心を砕いているような印象を受ける。
プロムナードは最初の1回しか出て来ない。
ヘンリー・ウッド編曲版ではバンダも使用。下手側2階席にトランペットを、上手側3階席にテューバなどを配して、立体的な音響を築き上げていた。
なお、オルガン(電子オルガン)が編成に加わっており、都築由理江が演奏を行った。

CBSOの音は主にラトル指揮の音源で聴くことが多いが、往時に比べると音の輝かしさが格段に増しているのが分かる。

 

アンコール演奏は、ウォルトンの戴冠式行進曲「宝玉と王の杖」。イギリスの作曲家の中でも構築力に定評のあるウォルトン。格好良い曲と演奏である。

 

楽団員が退場しても拍手は続き、山田和樹再登場。山田はいったん引っ込んだ楽団員をステージ上に呼び戻し、みんなで記念写真を撮影していた。

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