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2020年10月23日 (金)

コンサートの記(663) 能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」ソーシャルディスタンス対応公演@よこすか芸術劇場

2020年10月18日 横須賀・汐入の横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場にて

午後2時から、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場で、能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」を観る。世阿弥の息子である観世元雅の作による狂女ものの有名作「隅田川」と、20世紀のイギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンが「隅田川」を東京で鑑賞した時にインスパイアを受けて書かれた作品「カーリュー・リヴァー」(台本:ウィリアム・プルーマー)の連続上演である。「カーリュー・リヴァー」は最初はオペラと定義されず、「教会上演用の寓話劇」と題してサフォーク州オーフォードの聖バーソロミュー教会という小さな教会で初演されたが、現在ではオペラとして歌劇場で上演されるようになっている。2014年に大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで、山下一史の指揮、井原広樹の演出で観ているが、それ以来、久しぶりの再会となる。

能「隅田川」は、映像や歌舞伎版(南座にて坂田藤十郎の狂女)では観ているのだが、劇場で観るのは初めてとなる。

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よこすか芸術劇場の感染症対策であるが、まず横須賀芸術劇場が入っているベイスクエアよこすかの3階入り口からは1階席前方の席を取った客が入場し、それ以外の客はベイスクエアよこすか4階から入ることで分散を図る。チケットの半券は自分でもぎって箱に入れ、パンフレットも自分で取る。サーモカメラによる検温も行う。
そもそも「幻(GEN)」はチケット発売時に通常の形で売り出したが、それをいったん全て払い戻しとし、客席前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応公演として再度チケットを発売して行われている。
終演後は、混雑を避けるために時差退場が行われた。

 

能「隅田川」の出演は、観世喜正(シテ・狂女)、観世和歌(子方・梅和若丸)、森常好(ワキ・渡し守)、舘田善博(ワキツレ・旅人)。笛:竹市学、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠。演出は観世喜正が行う。観世喜正は2005年からよこすか芸術劇場で「よこすか能」をプロデュースしているそうである。「よこすか能」は蝋燭を使った演出が特徴だそうで、今回も巨大蝋燭数本に小型の蝋燭数百本が灯される中での上演である。日本語字幕付き。

武蔵国と下総国の国境を流れる隅田川。現在とは水路も異なるが、川幅も今の2倍ほどはあった巨大な川である。後に荒川放水路が出来て川幅は狭くなっている。
国境ということで(江戸時代中期以降には二つの国に跨がることが由来である「両国」の東岸が栄えるようになり、後に隅田川以東の葛飾は武蔵国に編入されることになる)、あの世とこの世の境、つまり三途の川にも見立てられている。
とにかく川幅が広いため、渡るのも容易ではない。また坂東の川はよく荒れる。ということで渡し守も何度も川を渡ることはままならず、客を溜めてから渡すことにする。旅人が現れ、渡し守と子細を話す。丁度1年、商人に連れられて来た少年が隅田川を渡ったところで病死した。商人は少年を見捨てて行ってしまったという。今日はそれから1年目ということで供養のための大念仏が唱えられているという。
そこへ、狂女がやって来る。京・北白川に住まいしていた女であり、我が子がさらわれたため、追って東国までやって来たのだ。
隅田川で詠まれた歌として知られる、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」が効果的に用いられ、狂女がただの狂女ではなく、元は教養溢れる人物であったことが偲ばれ、一層の哀感を誘う。

船の上で渡し守が1年前に亡くなった少年のことを語り、狂女がそれが自分の息子だと徐々に気付く。狂女役の観世喜正は、少しずつ少しずつ体を時計回りに回転させ、そのことを表現する。

少年を埋葬した塚の前で念仏が唱えられ、狂女もそれに加わるのだが、突然、念仏に子どもの声が混じり、少年の幽霊が現れる。

少年の幽霊を登場させることに、観世元雅の父親である世阿弥が大反対したという話が残っているが、子方を出すと生々しくなるというのがその理由の一つだと思われる。幽玄さも後退するだろう。だが、この能の本質が「哀感」であるとしたのなら、子方を出した方が狂女の悲しみへの共感はより強まるだろう。目の前に見えているのに触れることも叶わずに訪れる別れ。それこそが「隅田川」を傑作へと昇華しているのだと思われる。
狂女を演じる観世喜正の動きは抑制されたものであったが、それゆえにその心情が惻々と伝わってきた。語らざる雄弁であり、動かざるダイナミズムである。

 

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ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」。日本語字幕付きの上演であるが、タイトルには「キリスト教会上演用の寓話劇」と記されており、舞台に教会のステンドグラスが映されるなど、キリスト教的要素の濃い上演となる。「隅田川」に念仏を唱えるシーンがあるため、よりクッキリと対比を付けたいという意図もあるのかも知れない。

演出は彌勒忠史。小編成のオーケストラのための作品で、指揮者を置かないというのがブリテンの指示である。ただ、今回、オルガンと音楽監督を務めるのが鈴木優人というのが最大の売りであり、鈴木優人だけが客席に背中を向けての演奏し、またそのキャリアから事実上の指揮者であることは明白である。演奏は鈴木の他に、上野星矢(うえの・せいや。フルート)、根本めぐみ(ホルン)、中村翔太郎(ヴィオラ)、吉田秀(よしだ・しゅう。コントラバス)、高野麗音(たかの・れいね。ハープ)、野本洋介(パーカッション)。邦楽器を模した音型が登場するのが特徴である。
出演は、鈴木准(狂女)、与那城敬(渡し守)、坂下忠弘(旅人)、町田櫂(霊の声。ボーイソプラノ。横須賀芸術劇場少年少女合唱団員)、加藤宏隆(修道院長)。巡礼者役(合唱)として、金沢青児、小沼俊太郎、吉田宏、寺田穰二、寺西一真、山本将生、奥秋大樹、西久保孝弘が出演する。

 

「カーリュー・リヴァー」も大型蝋燭2本に火を灯しての上演となる。
まず、「隅田川」でも鳴り物を務めた、竹市学、飯田清一、亀井広忠の3人が登場し、邦楽の演奏を行う。その後、修道僧が登場し、オペラ「カーリュー・リヴァー」が始まるのだが、いかにもキリスト教的な賛美歌風合唱から始まるため、かなりの落差が感じられる。

ブリテンとプルーマーは、亡くなった子を「聖人」としており、そのことからして「隅田川」とはかなり趣が異なる。
出演者達は、口元を布で隠し、頭巾を被っている。大谷刑部こと大谷吉継のようだが、これはコロナ対策であると同時に、宗教的な雰囲気を出す役割も担っていると思われる。

カウンターテナーでもある彌勒忠史は、観世喜正と2018年まで数年に渡って、市川海老蔵の「源氏物語」で共演してきたそうで、能の要素を取り入れた演出となっている。元々はもっと能の型を全面に取り入れるはずだったのだが、コロナの影響で少しシンプルになったようだ。だが、狂女が、さらわれてきた子が我が子だと気付く場面で、「隅田川」の観世喜正と完全に同じゆっくりとした振り返りを取り入れており、能との連続上演ということで、違う作品に同じ動きを取り入れることで却って明らかになる差違を示していく。

「隅田川」では現れるだけだった少年が、「カーリュー・リヴァー」ではキリスト教的な救済を述べる。ブリテンもプルーマーも「隅田川」的哀感ではやはり救いがないと思ったのだろうか。「隅田川」も、日本的「哀れ」を描いた作品であり、他国の人に完全に伝わるかどうかは疑問である。また宗教観の違いもあり、有名な「悲しむ者は幸いである」をメッセージとして入れるべきだと感じたのかも知れない。なによりこれは救済のための「寓話」として再現された「隅田川」である。

鈴木優人を音楽監督とする演奏者達は、邦楽からの置き換えを上手く表現しつつ、高雅な響きを紡ぎ上げる。独唱者も合唱も充実しており、ブリテンの叡智と才気を十全に表現していた。

両作品とも、突如として響き渡る子どもの声が効果的に用いられている(「カーリュー・リヴァー」では舞台奥の紗幕の後ろに少年の姿が浮かび上がる)。それは突然の啓示のようでもあり、闇の中に不意に差し込んできた光のようでもある。金曜日に小林研一郎指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で聴いた、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲のオルガンにもそうした要素があるが、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により、未来が全く見えない今現在、求められている救いにも似たものである。
もののわかった振りをした山師的な人々が現れては消えているが、そうした打算的なものとは違った本当の恩寵が、フィクションの世界の中とはいえもたらされていることが、あるいは救いなのかも知れない。

フィクションとは絵空事ではなく、人類の歴史が凝縮されたものである。これまで人類に降りかかってきた数々の悲劇が、そこには詰め込まれているが、にも関わらず人類は今も存在して歩みを続けている。それは希望に他ならない。

 

 

上演終了後、どぶ板通りを歩いてみる。コロナの影響からか、あるいは日曜の夜だからかはわからないが閉まっている店も多い。
一昔前に比べるとアメリカ系の店舗は減ったといわれているが、それでも迷彩服姿の米兵が何人も歩いているなど、日本離れした光景が広がっている。
舗道には横須賀ゆかりの有名人の手形が押してあり、指揮者の飯森範親(鎌倉生まれの葉山育ちだが、横須賀市内にある神奈川県立追浜高校出身)と横須賀市出身のヴァイオリニストである徳永二男(元NHK交響楽団コンサートマスター)の手形が並んでいた。

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2020年7月26日 (日)

配信公演 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団「サマーコンサート in 住友生命いずみホール」(文字のみ)

2020年7月17日 住友生命いずみホールより配信。同7月23日 アーカイブを視聴

7月17日に、大阪フィルハーモニー交響楽団が大阪の京橋にある住友生命いずみホールで行った「サマーコンサート in 住友生命いずみホール」がクラシック専門ストリーミングサービスのカーテンコールで配信されたのだが、そのアーカイブを視聴する。17日は、左京区下鴨にある月光堂という楽器店で仏教談義を行っていた(店主が真言宗の僧侶である)ため、リアルタイムでは接することの出来なかった演奏会である。当初、大阪フィルはこの日に神戸国際会館国際ホールで演奏会を行うはずだったのだが、新型コロナの影響で中止となり、代わりに配信のための演奏会が組まれた。無観客ではなく関係者を客席に入れての公演である。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

冒頭に「食い倒れ」の街・大阪のグルメと、中之島周辺の夜景など大阪の魅力を紹介する映像が流れ、西成区岸里(きしのさと)にある大阪フィルハーモニー会館とこの演奏会のリハーサルの模様が映し出される。管楽器以外の奏者はマスクを、指揮者の尾高はフェイスシールドをしてのリハーサルである。
本番でも尾高はフェイスシールドをして登場したが、指揮台に上がってからは取る。尾高によると、フェイスシールドは東大阪市の会社が作ったもので、とても優秀だそうである。


曲目は、デュカスのバレエ音楽「ラ・ペリ」よりファンファーレ、ホルストの「吹奏楽のための第1組曲」、エルガーの弦楽セレナード、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」、モーツァルトの交響曲第39番。

デュカスとホルストは管楽のみ(ホルストは吹奏楽ということでコントラバス奏者はいる)、エルガーとシベリウスは弦楽のみ(シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」はティンパニ入りでの演奏)、モーツァルトでフル編成となる。

休憩時間なしの演奏会で、曲間の楽団員や楽器入れ替えの時間は尾高がマイクを手にトークで繋ぐ。


いずみホールは、元々が住友のホールであるが(住友の屋号が「泉屋」)、今年から住友生命いずみホールという名称に変わっている。


先月から演奏会が再開された大フィル。今月は定期演奏会を含めて4度のコンサートがある。ただソーシャル・ディスタンスを保つため使用可能な客席は通常の半分ほどであり、ぴあなどで取り扱うチケットは比較的少なめで、ほぼ全て売り切れ。大フィルのチケットセンターでの取り扱いが中心となっている。


まずデュカスの「ラ・ペリ」よりファンファーレ。フランス音楽のファンファーレとしては最も有名なものである。ステージ最後列に半円形に陣取った金管奏者達が輝かしい音を放つ。

本番前の映像に尾高忠明へのインタビューも含まれていたが、デュカスは自身に厳しい人で、寡作。「ラ・ペリ」もいったんは破棄しようとして、友人に止められたという比較的有名なエピソードを紹介していた。


ホルストの「吹奏楽のための第1組曲」。ホルストは職業作曲家ではあったが、専業ではなく、女学校の音楽教師をすることで主な収入を得ており、作曲作品も自分が書きたいものよりも依頼されたものが中心となっている。自身がトロンボーンを専攻していたということもあり、吹奏楽のための作品も多い。
尾高は、ホルストの代表作である組曲「惑星」の話をする。組曲「惑星」は地球を除く太陽系の惑星の神話等を音楽で描いたものだが、ホルストの死後に冥王星が発見されたため、「不完全な惑星」と見做されたこともあった。だが、つい最近であるが、「冥王星は惑星の基準を満たしていない」ということで準惑星となり、惑星の数はホルストが作曲した通りに戻ったという話である。実はイギリスのコリン・マシューズという作曲家が、サー・サイモン・ラトルの依頼を受けて「冥王星」を作曲したばかりだったのだが、それはまた別の話である。

生き生きとした演奏が展開される。舞台上でもソーシャル・ディスタンスを保つということで大編成の曲をプログラムに載せにくく、テューバなどは出番がなかったのだが、この曲はテューバが含まれるため、久々に本番を迎えられたという話を尾高はする。

演奏後、管楽器奏者は退場し、弦楽奏者が持ち場に着くという入れ替えがある。その間、尾高はイギリスの話をする。尾高は元々はイギリスのことが余り好きではなかったそうで、一番の理由は「12進法」の採用だと話す。日本は「10進法」だが、ヨーロッパは元々は12進法で、イギリスは今でも12進法が主である(12の半分が6、6の半分が3という割り算基準である。3は「1と2」という数字の始まりの数二つを足した特別な数字とされている。12は当然ながら3の倍数でもある。10進法だと2つと5つにしか割れない)。そのため初めてイギリスに行ったときは計算がややこしく難儀したが、一緒にいた安永徹(元ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスター)がとても頭が良くて計算に強い人で助かったそうである。当時、ウィーンに留学中だった尾高は「イギリスなんて二度と行くものか。ウィーンで頑張ろう」と誓ったそうだが、皮肉なことにイギリスのオーケストラから「首席指揮者にならないか」という話が来る。受ければ海外初のポストとなる。最初は断ろうと思った尾高だが、「日本からの行き帰りの交通費、全部出すよ」という話だったので受けたそうだ。

着任したのはカーディフにあるBBCウェールズ交響楽団である。日本の感覚だと「イギリスと呼ばれるところは全てイギリス」だろうと思いがちだが、そもそもあの国は「イギリス」ではなく、「グレート・ブリテンおよび北部アイルランド連合王国」で、ウェールズはロンドンのあるイングランドとは違うという意識が強い。これはサッカーのワールドカップで別代表を送っていることからもよく分かる。大フィルのヴィオラ奏者である木下雄介は、8歳の頃からカーディフで育ったそうだが、ウェールズは英語とはまた別の世界最古といわれる言語を持っており、尾高と木下はウェールズ語でやり取りをしていた。

ウェールズ時代のことは、尾高は「徹子の部屋」に出演した際に語っていたが、ホールから歩いて5分ぐらいの所に家を構えて、リハーサル前に紅茶を飲んでリラックスという、結構、優雅な生活であったらしい。


エルガーの弦楽セレナード。エルガーを得意としている尾高。元々の音楽性が合っていたということもあるだろうが、ウェールズとはいえ、イギリスで長い時間を過ごすことで英国音楽のイディオムを身につけたということは大きいだろう。ノーブルな演奏である。


シベリウスも得意としている尾高。シベリウスは本国であるフィンランドの他にイギリス、アメリカ、そして日本で高く評価されている作曲家である。イギリス人指揮者の多くがシベリウス作品を取り上げ、アメリカにはユージン・オーマンディ、レナード・バーンスタイン、ユタ交響楽団の指揮者であったモーリス・アブラヴァネル、日本にも渡邉暁雄という優れた紹介者がいた。
日本のオーケストラもそうだが、フィンランドのオーケストラのメンバーもシャイな人が多いそうである。シベリウス自身がシャイな人として有名である。フィンランドに行くと色々なところでシベリウスの曲が流れているそうで、「シベリウスの音楽のないフィンランドは考えられない」そうである。

「アンダンテ・フェスティーヴォ」は、ここ数ヶ月の間に、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル、村川千秋指揮山形交響楽団が共に配信演奏会で取り上げており、人気の曲目となっている。美しさの中に力強さを持っている曲であり、ラストで示される確固たる意思が人気の理由なのかも知れない。
尾高指揮の「アンダンテ・フェスティーヴォ」は、サントリーホールで行われた札幌交響楽団によるオール・シベリウス・プログラム演奏会のアンコール曲目として聴いたことがあるが、その時同様、自身と確信に満ちた演奏である。現在の日本におけるシベリウス演奏の泰斗としての誇りが窺える。

尾高は、「ティンパニがいつ入るんだろうと思われた方も多いでしょうが、ラストで効果を上げます」と語り、打楽器繋がりで、現代日本の作曲家は作品に多くの打楽器を用いるという話をする。打楽器が多いと、打楽器奏者当人よりも楽器の配置換えを行うステージマネージャーが大変になるそうで、曲の演奏の前にてんやわんやになるそうである。それでいて聴衆に大変さが分かって貰えず、配置換えの長さ故に面白い顔をされないので疲れるそうだ。
尾高は、N響のステージマネージャーだったKさんから、「モーツァルトはいいですね。打楽器の配置換えが少ないのにお客さんに喜んで貰える」という話をされたことがあるそうだ。


モーツァルトの交響曲第39番。この曲も尾高指揮大阪フィルのモーツァルト後期三大交響曲一挙演奏の定期演奏会で聴いたことがあるが、今日も尾高らしい細やかな味わいが光る演奏となる。尾高はフォルムで聴かせるタイプであるが、繊細な表情を特徴としており、音で押し切るスタイルとは異なる。


東京でも演奏会の仕事は始まっているそうであるが、東京は大阪とは違い、街を歩いていてもマスクをしていない人が目立つそうである。
錦糸町にある、すみだトリフォニーホールでの演奏は上首尾だったそうだが、「ブラボー禁止」ということで、本来ならブラボーがいくつか掛かってもいい出来と感じていたが、声を発する人がおらず、寂しい思いもしたそうだ。だが、「ブラボー!」と書かれた紙を掲げている人が5、6人ほどいたそうで、尾高も「あれいいね」と大フィルの楽団員に語りかける。「今度から紙配っておこうか」

多くの人が工夫を凝らしているようである。サッカーのサポーターが掲げるような「ブラボー!タオル」を作ったら売れそうな気もする。一時的だろうけれど。


志村けん、岡江久美子といった有名人も含めて多くの人が新型コロナで亡くなったということで、追悼曲として、グリーグの「二つの悲しい旋律」より「過ぎた春」が演奏された。

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2020年4月24日 (金)

これまでに観た映画より(167) 「もうひとりのシェイクスピア」

配信で映画「もうひとりのシェイクスピア」を観る。イギリス・ドイツ合作作品。監督:ローランド・エメリッヒ。出演:リサ・エヴァンス、ジェイミー・キャンベル・バウアー、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン、セバスチャン・アルメスト、レイフ・スポール、デヴィッド・シューリス、エドワード・ホッグ、ゼイヴィア・サミュエル、サム・リード、パオロ・デ・ヴィータ、トリスタン・グラヴェル、デレク・ジャコブほか。

シェイクスピア別人説に基づいて作られたフィクションである。

世界で最も有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアであるが、正体については実のところよく分かっていない。当時のイギリスの劇作家は、この映画に登場するベンジャミン・ジョンソン(ベン・ジョンソン)にしろ、クリストファー・マーロウにしろきちんとした高等教育を受けているのが当然であったが、シェイクスピア自身の学歴は不明。というより少なくとも高学歴ではないことは確実であり、古典等に精通していなければ書けない内容の戯曲をなぜシェイクスピアが書けたのかという疑問は古くから存在する。実は正体は俳優のシェイクスピアとは別人で、哲学者のフランシス・ベーコンとする説や、クリストファー・マーロウとする説などがある。これが「シェイクスピア別人説」である。この映画では、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアをシェイクスピアの名を借りて戯曲を書いた人物としている。

二重の入れ子構造を持つ作品である。ブロードウェイでシェイクスピアの正体を解き明かす作品が上演されるという設定があり、前説をデレク・ジャコブが語る。劇中劇として行われるエリザベス朝の世界はベン・ジョンソン(セバスチャン・アルメスト)が事実上のストーリーテラーになるという趣向である。ストラットフォード・アポン・エイボンで生まれたいわゆるウィリアム・シェイクスピアはこの映画では文盲に近い低劣な人物として描かれている。

エリザベス朝においては、演劇は低俗な娯楽として禁じられることも多かった。当時の演劇は、社会や政治風刺と一体となっており、貴族階級はそれを嫌っていたからだ。
その貴族階級に属するオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(リス・エヴァンス)が戯曲を発表するというわけにはいかず、匿名の台本での上演を行う。そして宮内大臣一座に所属していた三流の俳優であるウィリアム・シェイクスピア(レイフ・スポール)が調子に乗って「ヘンリー五世」の作者が自分であると観客に向かって宣言したことを利用する形で、オックスフォード伯エドワードは自身の戯曲にウィリアム・シェイクスピアと署名する。エドワードの書いた戯曲は当時の権力者である義父ウィリアム・セシル(デヴィッド・シューリス)やその息子のロバート・セシル(この映画では「リチャード三世」に見立てられた人物とする説を取っている。演じるのはエドワード・ホッグ)が行う言論弾圧や、スコットランド王ジェームズ(後のジェームズ6世。メアリー・ステュアートの息子)へのイングランド王継承を図っていることに対する批判や揶揄を含む内容であり、矢面に立つのを避ける意味もあった。実際に当時を代表する劇作家であったクリストファー・マーロウは謎の横死を遂げ、ベン・ジョンソンも逮捕、投獄の処分を受けている。最初はベン・ジョンソンと結託してその名を借りることを考えていたエドワードだが、シェイクスピアに白羽の矢を立てたことになる。次第に高慢な態度を取るようになるストラッドフォードのシェイクスピアとジョンソンは対立するようになるのだが、怒りに任せてジョンソンが行った密告により、エリザベス朝は悲劇を招くことになる。

複雑な歴史背景を描いた作品であり、歴史大作としても楽しめる映画だが、なんといってもシェイクスピアが書いた「戯曲」への敬意が主題となる。実際のところ内容が優れていればそれが誰の作であったとしても一向に構わない、とまではいかないが生み出された作品は作者に勝るということでもある。シェイクスピアの戯曲はシェイクスピアが書いたから偉大なのではなく、偉大な作品を生み出した人物がシェイクスピアという名前だったということである。仮にそれらがいわゆるシェイクスピアが書いたものではなかったとしてもその価値が落ちるということは一切ない。
ロバート・セシルは父親同様、演劇を弾圧しようとしたが、ジェームズ6世が演劇を敬愛したため、政治的にはともかくとして文化的および歴史的には演劇が勝利している。

ただこの映画に描かれるオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアという人物の生き方に魅せられるのもまた事実である。イングランドで一二を争う長い歴史を誇る貴族の家に生まれたエドワードだが政治的には全くの無能であり、戦争に参加して能力を発揮する機会もなかった。だが、当時は無意味と見做されていた文芸創作に命を懸け、結果として家は傾いたが、書き残したものは永遠の命を得た、というのは史実かどうかは別として文学者の本流の生き方でもある。

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2020年3月20日 (金)

観劇感想精選(344) 佐藤隆太一人芝居「エブリ・ブリリアント・シング~ありとあらゆるステキなこと~」茨木公演

2020年2月23日 大阪府茨木の茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホールステージ上特設劇場にて観劇&出演(?)

午後2時から、大阪府茨木市にある茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホールステージ上特設劇場で、佐藤隆太の一人芝居「エブリ・ブリリアント・シング~ありとあらゆるステキなこと~」を観る。作:ダンカン・マクミラン&ジョニー・ドナヒュー、テキスト日本語訳&演出:谷賢一。
観客参加型のお芝居であり、今回の大阪・茨木公演も、ステージ上に設けられた小劇場で佐藤隆太との交流が行われるインティメイトな芝居である。最近はこうした垣根をなくしたスタイルの演劇(一種のイマーシブシアター)がヨーロッパを中心に流行っており、昨年、ロームシアター京都ノースホールで観たポーランド演劇の「マルガレーテ」もそうであったし、神里雄大/岡崎藝術座もこうしたスタイルを取り入れている。

鬱病を患う母親を持つ男の話である。最初に出てくる日付は、1987年11月9日。佐藤隆太演じる男は、その時7歳だったというから佐藤隆太と同じ1980年生まれということになる。その日に母親は最初の自殺未遂を行い、入院する。男は父親が運転する車で母親の入院する病院へと向かう。父子仲は余り良くないようである。

男は子どもの頃から、「これはステキ(ブリリアント・シング)だ」と思ったものをリストアップする習慣があった。最初は母親を励ますためのプレゼントのつもりでステキだと思うものを挙げていたのだが、辛いことがあるたびにその数は増えていき、最初は単純な名詞のみだったのに、次第に形容詞と名詞を組み合わせたものや文章が加わり、最後には思索や観念、行動へと広がっていく。それは大人になっていくということでもある。
「いいとこ探し」という気分障害の療法がある。発達障害の二次障害である鬱のための療法として日本で考え出されたもので、とにかく自分や他人の良いところを探して挙げていくという療法であるが、それを思い出した。

 

さて、茨木市に行くこと自体が初めてである。これまで阪急茨木市駅は常に通過する駅であった。茨木市はかつて茨木城があった付近に市役所を始めとする多くの施設が集中するという構造を持つ街である。茨木市駅で降りると、まず真宗大谷派茨木別院の巨大な伽藍が目に入る。茨木心斎橋商店街(大昔には、銀座と心斎橋が並び賞されていた時代があり、○○銀座ならぬ○○心斎橋もあった。茨木は今もそれが残っているようだ)そこからしばらく歩くと茨木神社の鳥居が目に入る。茨木神社の西側を北に向かって走るのが川端通り。これは茨木出身の文豪である川端康成にちなんだ通りで、まっすぐ北に行くと茨木市立川端康成文学館がある。
茨木神社の西に茨木の中心の中心と思われる高橋の交差点があり、南西側に茨木市役所が見えるが、高橋交差点の北西隅が少年野球場、その北にテニスコートがあって、そこから少し入ったところにクリエイトセンターがある。

谷賢一が岸田国士戯曲賞を受賞したということで、終演後には受賞作である『福島三部作』の戯曲販売と谷賢一のサイン会が行われるようであった。

整理番号順での入場で、午後1時30分の開場であるが、午後1時25分頃にクリエイトセンターに着いた時にはすでに入場が始まっていた。
特に良い席に座らなくても良いのだが、通常の客席から見て下手側の2列目の木製のソファーというべきかベンチというべきか、とにかく特徴のある席が目に入ったため、その手前のに椅子席に座ることに決める。荷物を椅子の上に置いていると、「こんにちは」という声が聞こえる。声の方を向くと佐藤隆太がいつの間にか木製のソファーに座っている。「ああ、最初からいるんだ」と思ったが、普通に「こんにちは」と挨拶を返す。舞台上には演出の谷賢一や舞台監督と思われる人物などがいて、佐藤隆太は、「ああ、ここ座ってると他の人座れないや」と言って他の場所へと向かう。

佐藤隆太は、観客に読み上げて貰う言葉の書かれたカードを配っていく。番号が振られており、カードを配られた人は佐藤がその番号を読み上げたらカードに書かれた言葉を朗唱するというスタイルで劇は進んでいく。一人芝居ではあるが一人では出来ない芝居である。
私もカードを配られる。元々大きな声が出ない上に、ここ数年は喉の調子が十分ではないのだが、取り敢えず「頑張ります」と言って受け取る。中には断る人もいたが、強制ではないので全く問題はない。
佐藤は、カードの番号と配った人、その人がどの席にいるかを頭に入れて芝居に臨む。かなり念入りに確認を行っていた。6番のカードがないということで、「あれ、俺、6番のカード配ったかな? 6番のカードを持っている方、いらっしゃいます?」と聞いて返事がないため、舞台監督が予備のカードを取りに舞台袖に引っ込もうとするが、その直後に、「ありました!」と佐藤が机の上に置かれたカードを見つけたため、舞監さんも戻ってくる。佐藤も大変そうだが、スタッフも大変そうな芝居である。

 

芝居が始まってしばらくして、方位でいうと南側の1列目の女性が「一番、獣医に見える」ということでステージの中央まで出て、ちょっとした演技を行う。
その次の次が私なのである(ステージの中央まで出る観客としては2人目)。カードを読み上げる前に出番が来てしまう。佐藤が「目が合いましたね」ということで父親役となり、ステージ中央のソファー(車の座席に見立てられる。原作とは違い、アメリカが舞台という設定なのに右ハンドルであったため、助手席のドアを開ける仕草のところで、一瞬、戸惑った)に座って男の父親の仕草をする。その後、役が男の少年時代に変わり、父親役になった佐藤の横で同じ言葉を繰り返すという演技のようなものを行う。最後は、佐藤から手渡しされた紙に書かれたセリフを読み上げて終わる。実際に読み上げてみると、込めようとした感情と実際の声との間に乖離が感じられ、演技の難しさを実感させられる。
席に返ってからも、佐藤が父親の話をするたびにこちらの方を見るため、父親らしい姿勢を取らなくてはならない(別に取る必要はないのだが、こちらも「ちゃんとしたい」という思いがある)。カードの書かれた文字(別に変な言葉ではないが明かさないでおく)も読み上げる。あんまり上手くいかなかった。

やがて主人公は大学へと進学するが、鬱感情は移りやすい傾向があることもあってか(佐藤が演じる男も語るが、鬱病は単なる気分だけの障害ではなく、脳の気質性の病でもある)塞ぎ込みがちになり、講義にも出ないようになってしまうが、感銘を受けた教授の授業にだけは参加する。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を取り上げた授業である。教授役もお客さんが担当するのだが、佐藤は「『若きウェルテルの悩み』の内容を説明して下さい」と無茶振りをする。内容を知っているお客さんだったら良かったのだが、残念ながら知らない人であった。私もこめかみの横で引き金を引く仕草をしたりするが、それだけで伝わるとも思えない。佐藤が渡したテキスト状のものの背表紙に『若きウェルテルの悩み』の内容が記されており、教授役のお客さんはそれを読み上げた。佐藤演じる青年は、「ウェルテル効果」について語り、母親に関する体験から「何があっても自殺をしないで欲しい」と訴えかける。

やがて青年は、大学の図書館で出会った女性と恋に落ち、二人は結婚する。相手役も客席の女性に演じて貰う。

結婚式のシーンでは、私が父親としてスピーチをする羽目に、じゃなかった、ことになる。相当な無茶振りである。スピーチはマイクを片手に行うので、喉は余り気にしなくて良い。「えー、新郎の父親でございます」と話して、取り敢えず笑いは取れたので、その後は父親が語りそうなことを凝りすぎないように気をつけながら手短にまとめる。終わってから佐藤さんとハグと握手。
更に客席に戻った後も、「ここでセリフ言うんだろうな」という場所でセリフを口にした。

なんか俺、出番多いな。これでは参加ではなくもはや出演である。面白かったが疲れる。もっともこの手の疲れは嫌いではない。
とはいえ、鬱や自殺、両親の不和や親子の確執など重いテーマを扱いながら、ハイレベルなエンターテインメントに仕上げているところはやはり素晴らしい。

お客さんとのやり取りが多いため、俳優は演技力があるだけでは演じることは出来ない。明るい性格で愛され系でもある佐藤隆太だからこそ成り立つ芝居でもある。
キーボードで弾き語りを行うなど(ちなみにキーボードは女性客2人に端を持って貰い、時計回りに回転させながら弾く)佐藤の多彩さも魅力的であった。

劇中で様々なブリリアント・シングが読み上げられたが、私にとってはなんといっても佐藤隆太さんとステージ上でやり取り出来たのが、この上なくステキなことであった。

生きるとは辛いことかも知れない。でも、人生には探せばステキなことがいくらでも見つかる。それだけでもこの世に存在し続ける意味はある。

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2020年2月14日 (金)

これまでに観た映画より(154) 「イエスタデイ」

2020年2月6日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス映画「イエスタデイ」を観る。ダニー・ボイル監督作品。昨年暮れに大型映画館でロードショー公開が行われたが、観に行く機会がなく、ミニシアターでの公開が今月から始まったため観に行ってみた。脚本:リチャード・カーティス。出演:ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ、ジョエル・フライ、ケイト・マッキノン、アレクサンダー・アーノルド、ロバート・カーライル、エド・シーランほか。
人気ミュージシャンのエド・シーランが本人役で出演しているのも見所の一つである。

イギリスの地方都市。売れないシンガーソングライターのジャック・マリク(ヒメーシュ・パテル)は、元教師だが音楽家としての成功を夢見て、スーパーマーケットのパート社員として働きながらパブで自作の弾き語りを行っている。ただ聴いてくれるのはいつも友人や知人だけ。マネージャーやドライバーを務めてくれている中学校の数学教師、エリー(愛称は「エル」。リリー・ジェームズ)がフェスティバルの仕事を取ってきてくれるが、やはり知り合い以外は誰も聴いてくれない。エリーはジャックの才能を信じているが、ジャックはフェスティバルでの歌唱を最後に音楽を辞めるつもりであり、エリーにも打ち明ける。
だが、自転車での帰り道、全世界で12秒の停電が起こり(日本が映る場面もある)、その間にジャックは事故に遭って前歯を折るなどして病院に運ばれる。だが、友人達がビーチで退院祝いを行ってくれた時に、ジャックは不思議なことに気づく。事故でそれまで使っていたアコーティスティックギターが壊れてしまったので、友人達が新しいギターをプレゼントしてくれたのだが、ジャックがビートルズの「イエスタデイ」の弾き語りを行うと皆の表情が変わる。「いつの間にそんな良い曲を作ったの?」と聞く友人達に、「ビートルズの曲だよ」とジャックは説明するが、ビートルズを知る人は誰もいない。驚いたジャックはまさかと思い、自宅に帰ってGoogleで「ビートルズ」を検索。引っかかるのは「甲虫」のビートルズだけで、バンドのザ・ビートルズはこの世に存在しないことになっていた。この世から消えたのはビートルズだけではなく、コカコーラやハイスクール時代にジャックがカバーソングを歌っていたオアシス、煙草なども存在しないことになっている。イギリスを代表するあの有名なキャラクターも生まれていない。

ジャックは、ビートルズナンバーを自作として披露することになる。最初のうちは見向きもされなかったが、レコーディングエンジニアのギャビン(アレクサンダー・アーノルド)の耳にとまり、レコーディングを行うことに。最初はジャックが働いているスーパーの景品として世に出るが、地元のテレビ局で取り上げられたところを大物ミュージシャンのエド・シーラン(本人)が目にし、楽曲に惚れ込んだエド・シーランはジャックの自宅に押しかけて、自身の欧州ツアーコンサートの前座として出ないかと口説く。モスクワでのステージに立ったジャックが歌う「バック・イン・ザ・U.S.SR.」にモスクワっ子は熱狂。SNSで情報は瞬く間に拡散され、ジャックは天才音楽家としてたちまちのうちに世界的な有名人となるのだが、やがて罪悪感にも苛まれるようになり……。

地位や名声と幸福について問いかける作品である。実は最初の段階で「青い鳥」的な作品であることは察しがつくため、どう着地させるかが見所となってくる。目の前に幸せがありながら、成功を求めて遠回りしてしまったともいえるのだが、夢が膨らむごとに相手と遠ざかるという体験を経たからこそ、愛に正面から向かい合えるようになったとも考えられる。ビートルズも「愛こそは全て」という歌を歌っているが、真の愛があるなら、音楽はもう二の次三の次で構わないのかも知れない。

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2020年2月13日 (木)

これまでに観た映画より(153) 「CATS キャッツ」(字幕版)

2020年2月8日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、ミュージカル映画「CATS キャッツ」(字幕版)を観る。世界的ヒットミュージカルの映画化であるが、前評判は散々。アメリカの本年度最低映画を決めるラジー賞に最多ノミネートされている他、アメリカやイギリスの映画評論家達が「最低の作品」「とんでもない駄作」との評価を下しており、興行収入も散々で、大コケ映画確定となっている。日本は劇団四季が看板ミュージカルとしていて知名度抜群なためか、入りはまだ良い方であるが、日本の映画評論家や映画ファンからの評価も芳しくない。

「レ・ミゼラブル」のトム・フーパー監督作品。作曲はミュージカル版同様、アンドリュー・ロイド=ウェバーで、ロイド=ウェバーは、映画のための新曲も書き下ろしている。制作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ。出演は、フランチェスカ・ヘイワード、ロビー・フェアチャイルド、ジェニファー・ハドソン、ジュディ・デンチ(実は「キャッツ」の世界初演の際にグリザベル役を務めるはずだったのがジュディ・デンチであるが、怪我により降板している)、ジェームズ・コーデン、ローリー・デヴィッドソン、スティーブン・マックレー、ジェイソン・デルーロ、レベル・ウィルソン、イアン・マッケラン、イドリス・エルバ、テイラー・スウィフト、ダニー・コリンズ、ニーヴ・モーガンほか。本来は雄猫の役であるオールドデュトロノミーをジュディ・デンチ演じる雌猫としているのは、先に挙げた理由によるものであり、一定の効果を上げている。

 

ロンドンの下町に、一匹の子猫が捨てられる。白い雌猫のヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)である。ヴィクトリアが包まれた袋に集まってくるジェリクルキャッツという猫たち。今夜開かれる舞踏会と歌合戦で選ばれた最も優れた猫が天上の世界で再生する権利を得るのだという。様々な猫たちが個性溢れるパフォーマンスを披露する中、この集いに入ることを許されない猫もいて……。

 

余談になるが、浅利慶太がこの作品を劇団四季のメインレパートリーに据えたのには明確な哲学があったとされている。舞台で主役を演じるのは美男美女という常識に、猫のメイクをする「キャッツ」でアンチテーゼを掲げたのである。顔が良いのか悪いのかも分からないほどのメイクをして演じられる「キャッツ」(そもそもこの作品には主役らしい主役はいないわけであるが)では、容姿でない部分で評価されたり良い役を勝ち取る可能性が広がる。そしてこれは「キャッツ」というミュージカルの根幹にも関わるものである。ただ、映画の場合はクローズアップを使う必要もあるため、そうしたテーゼは通用しないわけだが。

ミュージカル「キャッツ」は、T・S・エリオットの詩集『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う方法』という詩集を元にしたものである。『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う方法』は、実は90年代にちくま文庫から日本語訳が出て(邦題は『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う方法』。池田雅之の訳)、私も明治大学在学中に今はなき明大の生協で買って読んでいる。哲学的な面もあるが子ども向けの詩集であり、特にどうということもないものなのだが、詩集を原作にしているということもあって「キャッツ」には明確なストーリーが実はないのである。ショー的な要素が極めて強いのであるが、登場する猫達が歌うのは基本的に自己紹介が多く、広がりのある舞台空間で行われるなら良いのだが、映像だとそうもいかないため話が遅々として進まないように感じられ、そこが映画版の悪評に繋がっていることは間違いないと思われる。特にフーパー監督はクローズアップを多用しているため、尚更空間を感じにくい。かといって引きで撮ると迫力が出ないのも目に見えているため、そもそも映像化が難しい題材ではある。他にもCGが気持ち悪いだの、猫なのか人間なのかわからなくて不気味だとの声もあるが、今の技術ならこんなものだろうし、ビジュアル面で気になることは個人的には特になかった。

個人的には結構楽しんでみられたが、それは過去の自分とはぐれてしまった猫や、いざという時に弱い猫などの悲哀がきちんと描かれているからである。底抜けに明るいミュージカルも良いが、実は「キャッツ」はそうした路線のミュージカルではない。気持ち悪いといわれたメイクやCGの多用も、猫でありながら人間を描いていると取れば(ラストにはそうしたセリフがちゃんと用意されている)納得のいくものである。「猫を描いたから成功した」といわれるミュージカル「キャッツ」であるが、今回の映画版でも猫といいながら様々な人間の諸相が描かれていることで、皮相でない充実感も味わうことが出来たように思う。

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2019年12月 8日 (日)

これまでに観た映画より(146) 「ボヘミアン・ラプソディ」

録画してまだ観ていなかった映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観る。イギリス=アメリカ合作作品。クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画である。監督:ブライアン・シンガー&デクスター・フレッチャー。出演:ラミ・マレック、ルーシー・ボイントン、グウィリム・リー、ベン・ハーディ、ジョゼフ・マゼロ、エイダン・ギレン、トム・ホランダー、アレン・リーチ、マイク・マイヤーズほか。

1970年のロンドン。ペルシャ系でゾロアスター教を信仰する移民の家に生まれたファルーク・バルサラ(ラミ・マレック)は、ヒースロー空港で「パキ野郎(パキスタン野郎)!」と差別を受けながら働いている。仕事の合間にも作詞を行い、作曲をするなど音楽への情熱に燃えていたファルークは、ボーカルに去られた学生バンド・スマイルに参加し、やがて彼らはクイーンとして世界的な人気バンドとなっていく。ファルーク・バルサラは、芸名ではなく本名をフレディ・マーキュリーに変更した。ライブ会場で出会ったショップの店員、メアリー(ルーシー・ボイントン)と恋に落ち、やがて結婚に至るなど、公私ともに順調かと思えたフレディだが、出自の問題やバイセクシャルに目覚めたことなどが影響してメアリーとの仲は次第に疎遠になっていく。CBSからのソロデビューの話を断り続けていたフレディだが、遂にはソロデビューを受け入れることになり、家族と呼んでいたクイーンのメンバーとも仲違いすることになる。クイーンの他のメンバーは有名大学卒のインテリで、本当の家族を作り、子どもを産んで育てることを当然のように行えるが不器用なフレディはそうではない。彼の第一の家族はクイーンのメンバー達だったがそれも失うのだ。

フレディと仕事仲間にして、同性愛の関係でもあったポールは、北アイルランドのベルファスト出身のカトリックで同性愛者と、自らがイギリスから阻害された存在であることを語る場面があるが、フレディもまたペルシャからインドを経てイギリスに渡った移民の子供であり、タンザニアの生まれで、ゾロアスター教徒の子であるが、教義に背いて男も愛するという阻害された存在である。ボヘミアン=ジプシーは、まさに彼のことであり、「ボヘミアン・ラプソディ」は彼自身のことを歌ったプライベートソングである。間違いなくロックではあるが、同時に阻害された者の孤独なアリアであり、バルサラからマーキュリーへの痛みを伴った転身と再生、怖れと希望を歌い上げるソウルナンバーである。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、6分という長さと難解さ故、EMIのプロデューサーからも理解されず、シングルカット当初は音楽評論家達から酷評されるが、音楽史上初ともいわれるプロモーションビデオが大衆に受け入れられ(多重録音を用いて製作された「ボヘミアン・ラプソディ」は全曲を通してはライブで歌うことの出来ない曲であり、そのためプロモーションビデオが作成されて公開されたのだが、これが予想以上の人気を呼ぶ)大ヒット。2002年にはギネス・ワールド・レコーズ社によるアンケートで、全英ポップミュージック史上ナンバーワンソングに選ばれることになる。

成功したアーティストになったフレディだが、合同記者会見を行っても記者達は音楽のことではなく自らのプライバシーに切り込もうとばかりする。成功者ではあっても理解された存在ではなかったのだ。

父親から言われ続けた「良き思い、良き言葉、良き行い」から背いたと見做され、両性愛者であったことと奔放な私生活が原因でメアリーに去られ、子供も残せない。そしてルーズな行動が目立ち始めたことに端を発するクイーンのメンバーとのすれ違い。
最後は、この3組の家族の和解と音楽を通しての世界の融合が行われる。全てが結びつけられるのだ。

音楽の力を見せつけられるかのようなラストシーンは、実に爽快である。

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2019年11月 7日 (木)

コンサートの記(605) 大和証券グループ presents 「BBC Proms JAPAN」BBCプロムス・イン・大阪 トーマス・ダウスゴー指揮BBCスコティッシュ交響楽団

2019年10月31日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、大和証券グループ presents 「BBC Proms JAPAN」 BBCプロムス・イン・大阪を聴く。毎年のロンドンの風物詩となっているBBCプロムスの日本での初開催である。東京と大阪で公演が行われるが、大阪での公演は今日1回きりである。

トーマス・ダウスゴー指揮BBCスコティッシュ交響楽団の演奏。BBCプロムスということでホール内は前半が暖色系、後半は寒色系のライトアップが行われていた。

 

デンマークの奇才、トーマス・ダウスゴー。ベートーヴェンの交響曲のピリオド・アプローチによる演奏に最も早く挑んだ指揮者の一人であり、今後が期待される中堅指揮者の一人である。1963年生まれ。王立デンマーク音楽院とロンドンの王立音楽院に学び、1997年にスウェーデン室内管弦楽団の首席指揮者に就任。このコンビで録音した「ベートーヴェン交響曲全集」は話題になった。その後、祖国であるデンマークの国立放送交響楽団のシェフなどを務め、現在はBBCスコティッシュ交響楽団の首席指揮者の座にある。

 

曲目は、メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:ユリアンナ・アヴデーエワ)、マーラーの交響曲第5番。
一応、アンコールという形になるが、最後にエルガーの「威風堂々」第1番が演奏されることが決まっており、無料パンフレットに歌詞カードが挟み込まれている。

 

BBCスコティッシュ交響楽団は、スコットランド最大の都市であるグラスゴーに本拠地を置くオーケストラ。1935年の創設。現役最高のシベリウス指揮者の一人であるオスモ・ヴァンスカが1996年から6年間、シェフを務めていたこともある。

ヴァイオリン両翼の古典配置を基本としているが、トランペットが上手奥に斜めに一列に並ぶというロシア式の配置も取り入れている。
オーケストラメンバーはステージ上に三々五々登場し、さらい始める。最後にコンサートミストレスが登場したところで拍手が起こって、チューニングの開始となる。後半のマーラーはコンサートミストレスを含めメンバー全員が思い思いに出てきて座り、ダウスゴーの登場で拍手というスタイルが取られていた。

 

メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」。各楽器の分離が驚くほど鮮明であり、全ての音がクッキリと浮かび上がるような、今までに聴いたことのない「フィンガルの洞窟」となる。パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンが分離のはっきりとした演奏を行って世界を魅了しているが、分離の良さに関してはダウスゴーの方がパーヴォを上回る。
ロンドンのBBC交響楽団自体が二流オーケストラの代名詞的存在であるため、BBCスコティッシュ交響楽団にも余り期待していなかったのだが、透明で独特な艶のある弦がとても魅力的である。一方で管などは過度に洗練されてはおらず、良い意味でのローカル色も残っている。
かなり速めのテンポを採用したダウスゴー。メンデルスゾーンはピリオドで演奏するべきがどうか微妙な時代の作曲家だが、ダウスゴーが作り出した音楽には少なくともピリオドの影響を窺うことは出来る。すっきりとしたフォルムにエネルギーが横溢し、ドラマティックというよりもスリリングな演奏になる。弦楽ではヴィオラの強さと雄弁さも特徴である。

 

ユリアンナ・アヴデーエワをソリストに迎えてのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
ユリアンナ・アヴデーエワは、1985年生まれのロシアの若手ピアニスト。モスクワ出身。5歳でピアノを始め、出身地にあるグネーシン音楽院で学んだ後、チューリッヒ音楽院でも研鑽を積み、この時期にはコンスタンティン・シチェルバコフの助手も務めている。
2010年にショパン国際コンクールで優勝し、知名度を上げている。

最近の欧州出身のピアニストはみな瑞々しい音色で弾くという特徴があるが、アヴデーエワもそうである。一頃のスタンダードだった甘い響きは近年は流行っていないようである。特に技術をひけらかすタイプのピアニストではなく、堅実で的確なピアニズムを売りとしているようだが、第3楽章のラストでは超絶技巧全開となり、ヴィルトゥオーゾの資質も兼ね備えていることがわかった。
ダウスゴー指揮のBBCスコティッシュ交響楽団も弦の美しさをベースとしたリリシズムが印象的だが、同時にダウスゴーは金管を思いっ切り吹かすタイプでもあり、迫力にも欠けていない。
第3楽章では、通常の演奏とは異なるテンポと音型で弾かれた場所があったが、そういう譜面があるのか、アヴデーエワとダウスゴーの解釈によるものなのかは不明である。他では聴いたことのない音型処理であった。

 

マーラーの交響曲第5番。いわゆるマーラー指揮者が指揮した演奏とは一線を画した個性が発揮される。
スケールはいたずらに広げすぎることはない。最強音の部分では盛大に鳴るが、虚仮威しにならないよう細心の注意が払われているようだ。
ダウスゴーの音楽作りはやはりクッキリとした分離の良さが特徴であり、マーラーがこの曲に込めた戦きや、作曲された当時の常識を踏み出した異様さがなどがそのまま提示される。美化されることのない骨組みのマーラーを聴いているようでもあり、ダウスゴーの音楽作りの独自性に感心させられる。
テンポは速いところもあるが、基本的に中庸。第4楽章(第2部前半)のアダージェットはこの速さが一番効果的なのではないかと思えるほどの美しさを湛えていた。これより速いと味気なく感じるかも知れないし、遅いとベタベタしすぎる。
ダウスゴーは、指揮棒をかなり細かく動かすタイプで、指揮棒を持たない左手も要所要所で効果的に用いられる。BBCスコティッシュ交響楽団もダウスゴーの指揮棒に俊敏に応えていた。

 

「プロムスといえば」、ということでエルガーの「威風堂々」第1番の演奏。「英国第2の国歌」といわれる歌詞が入っている部分では、ダイスゴーは客席の方を向いて指揮をする。BBCスコティッシュ交響楽団は鋭くしなやかな音色を奏でる。この辺がロンドンのオーケストラとは異なる個性かも知れない。過度にジェントルでない輝かしさと若々しさも魅力である。
私も「英国第2の国歌」といわれる「Land of Hope and Glory」を歌う。イギリス人でもないのに気分が高揚した。音楽にはそうした力がある。

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2019年11月 6日 (水)

これまでに観た映画より(137) 「エセルとアーネスト ふたりの物語」

2019年11月1日 京都シネマにて

京都シネマでアニメーション映画「エセルとアーネスト ふたりの物語」を観る。「スノーマン」などで知られる絵本作家、レイモンド・ブリッグズが自身の両親を描いたベストセラー絵本のアニメ映画化。監督:ロジャー・メインウッド、音楽:カール・デイヴィス。声の出演は、ブレンダ・ブレッシン、ジム・ブロードベント、ルーク・トレッダウェイほか。エンディングテーマはポール・マッカートニーが手掛けている。ポール・マッカートニーはレイモンド・ブリッグズの大ファンだそうで、レイモンドから直筆のオファーを受けて快諾したそうだ。

まず原作者のレイモンド・ブリッグズを写した実写映像が流れる。ブリッグズは両親が共に普通の人物であったことを語り、両親を描いた絵本がベストセラーになったことを不思議に思っていると率直に述べている。

物語は1928年に始まる。日本でいうと昭和3年。京都では毎日新聞の京都支局であった1928ビルが完成し、ロシアでは名指揮者であるエフゲニー・スヴェトラーノフが生まれた年である。

ロンドン。牛乳配達夫のアーネストは自転車を走らせている時に、豪邸の窓を掃除していたメイドのエセルを見掛け、手を振る。それが運命の出会いとなった。アーネストは毎朝、エセルを見掛けることを楽しみとし、エセルはアーネストのことで頭が一杯になって気もそぞろ。そしてある日、アーネストが花束を持ってエセルが働いている豪邸のチャイムを鳴らす。アーネストにプロポーズされたエセルは一緒に映画を観に出掛ける。実はアーネストは1900年生まれであるが、エセルは1895年生まれと5歳上であった。エセルは30代半ばに差し掛かっており、子どもを産むためには結婚を急ぐ必要があった。
二人は新居を買い、エセルはメイドを辞める。アーネストにもっと稼いで欲しいエセルであったが、アーネストは街に出て働くことが好きなため牛乳配達夫を続けており、出世すると事務方になって表に出られなくなるため消極的であった。エセルは自身を労働者階級ではないと考えており、プライドを持っていたが、アーネストの稼ぎは労働者階級よりも低かった。
政治的にもエセルが保守党支持者であるのに対してアーネストは労働党を支持しており、夫婦で思想なども異なっている。
エセルが38歳の時に、後に絵本作家となるレイモンドが生まれる。だが、高齢出産のため難産であり、エセルの命が危ぶまれたということで、出産直後にエセルとアーネストは産科医から「もう子どもは作らないように」と釘を刺されてしまう。

ドイツではヒトラーが政権を取り、1939年にドイツがポーランドに侵攻するとイギリスはナチスドイツに対して宣戦を布告。アーネストもイギリス軍に協力するようになる。ロンドンでも空襲が始まり、アーネストは防空壕を作るのだが、出来上がったのはなんとも心許ない代物であった。空襲は激しさを増し、アーネストとレイモンドもあわやという場面に遭遇したため、レイモンドは疎開することになる。エセルはレイモンドの疎開に反対するが、戦況は差し迫っていた。やがてエセルとアーネストが暮らしていた家も空襲によって破壊されてしまう。
ナチスが降伏し、ヨーロッパ戦線は終結を迎えた。しかし、1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、10万人を超える市民が一瞬にして犠牲になる。アーネストは余りのむごさを嘆くが、エセルは「戦争を終えるためには」という姿勢であった。エセルもアーネストも第1次世界大戦で肉親を失っており、戦争が一日も早く終わることを願っていた。

戦後、エセルはチャーチルの選挙での敗北を嘆くが、アーネストは労働党による新しい政治に期待する。思想も指向性も正反対であったが、夫婦としては上手くやっていく。

レイモンドは神経質な子どもだった。パブリックスクールに合格を果たし、これでオックスフォード大学かケンブリッジ大学に入って出世コースに乗れるとエセルは喜んだのだが、レイモンドは夢を追いかけるためにパブリックスクールを自主退学して美術学校に進んでしまう。やがてレイモンドは独立し、彼女を両親に紹介するのだが、その彼女が統合失調症を患っているということで両親は心配し……。

 

特別なことは何もない二人の41年の共同生活を描いた作品である。二人は息子と違って特別な才能があったわけでも何かしらの分野で有名であったわけでもない。日々生活し、子どもを生み、育て、将来を見守る。ただ、世の中の大多数を占めているのはそうした人々であり、これはエセルとアーネストの物語であると同時に、世界中の多くの家族の物語であるともいえる。激動の時代の中を淡々とただしっかりと生きていくという姿勢こそ、あるいは「世界」にとっては最も偉大なあり方なのかも知れない。
ありふれた人生だが、それだけに素晴らしい。


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2019年7月22日 (月)

コンサートの記(580) サー・ネヴィル・マリナー指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団第79回定期演奏会

2015年5月15日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団の第79回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、この4月に91歳を迎えたサー・ネヴィル・マリナー。

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、月に1度同一演目3回の定期演奏会を行っており、今日は初日である。
曲目は、ハイドンの交響曲第96番「奇蹟」、ティペットの2つの弦楽オーケストラのための協奏曲、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。イギリスを共通項としたプログラムである(スコットランドがイギリスから独立していたら演目も変わっていたのだろうか?)。

指揮のサー・ネヴィル・マリナーは日本でもお馴染みの存在。1924年、イングランド・リンカーン生まれ。映画「アマデウス」の音楽監督を務めたことでも知られる。フィリップス、DECCA、EMIなどに膨大な量の録音を行っており、「史上最もレコーディングの多い指揮者」といわれたこともあるが、90年代の世界的不況以降は録音には恵まれているとはいえない。フィリップス・レーベルにはモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームスの交響曲全集を録音しているが、フィリップスは現在ではDECCAに吸収合併され、レーベルとしては消滅している。
マリナーは当初はヴァイオリニストとして音楽活動をスタート。ロンドン王立音楽院とパリ音楽院でヴァイオリンを学び、マーティン弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、ロンドン交響楽団の第2ヴァイオリン奏者として活躍。イートン校でヴァイオリン教師をしていた時に指揮者のピエール・モントゥーと知り合い、師事する。1959年にアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(アカデミー室内管弦楽団)を組織し、指揮者兼コンサートマスターとして活動を開始。のちに指揮に専念する。指揮者としてロサンジェルス室内管弦楽団とミネソタ管弦楽団の音楽監督、シュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者などを務めた。レパートリーはバロック以前から現代音楽まで幅広いが、特にモーツァルトには定評がある。

今日の兵庫芸術文化センター管弦楽団のゲスト・コンサートマスターは田野倉雅秋(大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター、名古屋フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター)。コントラバスにNHK交響楽団の吉田秀が、ファゴットに京都市交響楽団の中野陽一郎が参加する。チェロにはゲスト・トップ・プレーヤーとしてマーティン・スタンツェライト(広島交響楽団首席チェロ奏者)が参加しているため、六人いる奏者の中で純粋な日本人は一人だけである(ハーフの奏者が一人いる)。

マリナー登場。91歳と高齢だけにゆったりとした歩みであるが元気そうである。

ハイドンの交響曲第96番「奇蹟」。
今日は前から2列目、上手の端に近い席であるが、KOBELCO大ホールはオペラ対応であるため天井が高く反響板もない。ということでステージに近い割りにはさほど音が良く聞こえないし(音が上に行ったまま帰ってこないため)、バランスも悪い。弦楽奏者で演奏中に顔がはっきり見えるのはコンサートマスターの田野倉雅秋だけ。アメリカ式現代配置であるためチェロ奏者は背中しか見えない(ティペットの弦楽オーケストラのための演目があるためティンパニは指揮者の正面ではなく上手奥)。管楽器奏者で顔がはっきり見えるのはファゴットの中野陽一郎だけ。その代わり、マリナーの指揮は良く見える。

そのマリナーの指揮であるが、指示がかなり細かい。通常の演奏なら指揮者がオーケストラのある程度任せることもあるのだが、今日のマリナーは100%、自身の棒で操ろうとする。兵庫芸術文化センター管弦楽団は日本で唯一の育成型オーケストラであるが、そのこととマリナーの棒捌きに関係があるのかわからない。ただ、伝統ある強者揃いのオーケストラを一人で完全に制御しようとすれば反発を受ける可能性があり、下手をすると喧嘩になる怖れもある。育成型オーケストラなら平均年齢が若く、メンバーが入れ替わるため伝統のようなものも築かれない。
格調が高く、明るめの音色による演奏。ピリオド奏法が話題になる前からピリオド的なアプローチを行っていたマリナーであるが、他の指揮者による流線型の演奏に比べると表情は穏健であり、刺激には乏しい。

ティペットの2つの弦楽オーケストラのための協奏曲。ヴァイオリンが両翼配置に変わり、ヴィオラがそれに挟まれる形になる。その背後に横一列にチェロ、更に後ろにコントラバスが並ぶ。シンメトリーの構図である。
颯爽とした演奏である。マリナーの指揮は相変わらずかなり細かい。第2楽章では左手でビブラートの長さも指示する。

音が良いとは言えない席ということもあって、前半は音楽を聴いたというよりもマリナーの指揮棒の細やかさを見たという印象が強い。

メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。音色が明るめであり、特にトランペットの音が輝かしいが、音の重心が全体的に高めであり、音が軽い印象を受けるため、この曲が持つ荘重な一面が余り出ない。マリナーの採ったテンポがかなり速めということもあり、曲の魅力が十全に引き出されたとは言えない演奏である。
ただ弦のハーモニーは美しく、マリナーがヴァイオリン奏者出身、それもオーケストラに所属していたということがプラスに作用したのかも知れない。

今日はアンコールがある。メンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」より第3楽章。この曲の演奏は渋みがあって良かった。
マリナーは曲が終わる毎にガッツポーズをしてみせ、最後はコンサートマスターである田野倉の手を取って一緒に退場した。

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