カテゴリー「アメリカ」の38件の記事

2019年12月 8日 (日)

これまでに観た映画より(146) 「ボヘミアン・ラプソディ」

録画してまだ観ていなかった映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観る。イギリス=アメリカ合作作品。クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画である。監督:ブライアン・シンガー&デクスター・フレッチャー。出演:ラミ・マレック、ルーシー・ボイントン、グウィリム・リー、ベン・ハーディ、ジョゼフ・マゼロ、エイダン・ギレン、トム・ホランダー、アレン・リーチ、マイク・マイヤーズほか。

1970年のロンドン。ペルシャ系でゾロアスター教を信仰する移民の家に生まれたファルーク・バルサラ(ラミ・マレック)は、ヒースロー空港で「パキ野郎(パキスタン野郎)!」と差別を受けながら働いている。仕事の合間にも作詞を行い、作曲をするなど音楽への情熱に燃えていたファルークは、ボーカルに去られた学生バンド・スマイルに参加し、やがて彼らはクイーンとして世界的な人気バンドとなっていく。ファルーク・バルサラは、芸名ではなく本名をフレディ・マーキュリーに変更した。ライブ会場で出会ったショップの店員、メアリー(ルーシー・ボイントン)と恋に落ち、やがて結婚に至るなど、公私ともに順調かと思えたフレディだが、出自の問題やバイセクシャルに目覚めたことなどが影響してメアリーとの仲は次第に疎遠になっていく。CBSからのソロデビューの話を断り続けていたフレディだが、遂にはソロデビューを受け入れることになり、家族と呼んでいたクイーンのメンバーとも仲違いすることになる。クイーンの他のメンバーは有名大学卒のインテリで、本当の家族を作り、子どもを産んで育てることを当然のように行えるが不器用なフレディはそうではない。彼の第一の家族はクイーンのメンバー達だったがそれも失うのだ。

フレディと仕事仲間にして、同性愛の関係でもあったポールは、北アイルランドのベルファスト出身のカトリックで同性愛者と、自らがイギリスから阻害された存在であることを語る場面があるが、フレディもまたペルシャからインドを経てイギリスに渡った移民の子供であり、タンザニアの生まれで、ゾロアスター教徒の子であるが、教義に背いて男も愛するという阻害された存在である。ボヘミアン=ジプシーは、まさに彼のことであり、「ボヘミアン・ラプソディ」は彼自身のことを歌ったプライベートソングである。間違いなくロックではあるが、同時に阻害された者の孤独なアリアであり、バルサラからマーキュリーへの痛みを伴った転身と再生、怖れと希望を歌い上げるソウルナンバーである。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、6分という長さと難解さ故、EMIのプロデューサーからも理解されず、シングルカット当初は音楽評論家達から酷評されるが、音楽史上初ともいわれるプロモーションビデオが大衆に受け入れられ(多重録音を用いて製作された「ボヘミアン・ラプソディ」は全曲を通してはライブで歌うことの出来ない曲であり、そのためプロモーションビデオが作成されて公開されたのだが、これが予想以上の人気を呼ぶ)大ヒット。2002年にはギネス・ワールド・レコーズ社によるアンケートで、全英ポップミュージック史上ナンバーワンソングに選ばれることになる。

成功したアーティストになったフレディだが、合同記者会見を行っても記者達は音楽のことではなく自らのプライバシーに切り込もうとばかりする。成功者ではあっても理解された存在ではなかったのだ。

父親から言われ続けた「良き思い、良き言葉、良き行い」から背いたと見做され、両性愛者であったことと奔放な私生活が原因でメアリーに去られ、子供も残せない。そしてルーズな行動が目立ち始めたことに端を発するクイーンのメンバーとのすれ違い。
最後は、この3組の家族の和解と音楽を通しての世界の融合が行われる。全てが結びつけられるのだ。

音楽の力を見せつけられるかのようなラストシーンは、実に爽快である。

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2019年11月 9日 (土)

コンサートの記(604) ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団来日演奏会2019京都

2019年11月3日 京都コンサートホールにて

午後3時から京都コンサートホールで、ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の来日演奏会を聴く。

アメリカのBIG5と呼ばれる5つの名門オーケストラのうちの1つとして知られるフィラデルフィア管弦楽団。古都(といっても10年ほどだったため、余りそうした取られ方はしないが)にして独立宣言起草の地であるフィラデルフィアに1900年に創設されたオーケストラである。フィラデルフィアには名門のカーティス音楽院があり、楽団員の多くが同音楽院の出身である。

レオポルド・ストコフスキーを音楽監督に頂いていた時代には、ディズニー映画「ファンタジア」の演奏を担当したことで知られ、後任のユージン・オーマンディの時代には「フィラデルフィア・サウンド」と呼ばれた世界で最も輝かしい音色を武器に人気を博している。ストコフスキーとオーマンディの時代にはラフマニノフとたびたび共演。録音も多く残している。オーマンディは後に「フィラデルフィア・サウンドなんてなかった。あったのはオーマンディ・サウンドだ」と述懐しているが、オーマンディ退任後のリッカルド・ムーティ時代には演奏の傾向も少し変わる。当時、天下を狙う勢いだったムーティは、「ベートーヴェン交響曲全集」なども作成しているが、お国ものであるレスピーギなどが高く評価された他は思うような実績が残せなかった。ムーティは、アメリカにオペラが浸透していないことや「世界最悪の音響」として有名だった本拠地のアカデミー・オブ・ミュージックに不満を漏らし、在位12年でフィラデルフィアを去っている。経営陣が後釜として狙っていたのはサイモン・ラトルであったが、ラトルには断られ、代わりにラトルが強く推薦するウォルフガング・サヴァリッシュが音楽監督となる。純ドイツ的な音楽作りで知られたサヴァリッシュとフィラデルフィア管弦楽団の相性を当初は疑問視する声もあったが、フィラデルフィア管弦楽団の弱点であった独墺もののレパートリーが拡大され、好評を得ている。2001年にはアカデミー・オブ・ミュージックに変わる新しい本拠地としてヴィライゾンホールが完成。音楽的な環境も整った。
サヴァリッシュの退任後は、独墺路線の踏襲ということでクリストフ・エッシェンバッハが音楽監督に選ばれたが、エッシェンバッハは多忙を極めており、在位は5年間に留まった。エッシェンバッハの退任後は音楽監督は置かず、「音の魔術師」シャルル・デュトワを首席指揮者兼芸術顧問に指名し、往年のフィラデルフィア・サウンド復活を目指すが、リーマンショックのあおりも受けて2011年に破産。世界トップレベルのオーケストラの破産は衝撃を持って受け止められた。その後、再建し、2012年からはヤニック・ネゼ=セガンを音楽監督に迎えている。

そのヤニック・ネゼ=セガンは、1975年、カナダ・モントリオールに生まれた注目株。ケベック音楽院モントリオール校を経て、プリンストンのウエストミンスター・クワイヤー・カレッジで合唱指揮を学ぶ。この間、カルロ・マリア・ジュリーニに師事。2000年に出身地のモントリオール・オペラの音楽アドバイザーとグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任。グラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団は、就任当時全くの無名楽団であったが、レベルを急速に持ち上げ、レコーディングなども行うようになる。その功績により、現在では同楽団の終身芸術監督の座を得ている。ちなみに幼い頃からシャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団の演奏会に通っており、デュトワは憧れの人物であったが、そのデュトワからフィラデルフィア管弦楽団シェフのバトンを受け継ぐことになった。
ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を2008年から昨年まで務め、昨年からはメトロポリタン歌劇場の音楽監督も任されている。
ちなみにアメリカで活躍する指揮者にはよくあることだが、カミングアウトした同性愛者であり、現在はパートナーの男性と3匹の猫と一緒に暮らしていることを明かしている。

 

曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:ハオチェン・チャン)とドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」

 

フィラデルフィア管弦楽団とストコフスキーが始めた現代配置、ストコフスキーシフトでの演奏である。
前半後半とも楽団員が思い思いに登場して練習を行い、最後にコンサートマスター(デイヴィッド・キムであると思われる)が登場して拍手という形である。

 

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。
ピアノ独奏のハオチェン・チャンは、上海出身のピアニスト。上海音楽院小学校で学んだ後、深圳芸術大学に進み、更に渡米してフィラデルフィアのカーティス音楽院でゲイリー・グラフマンに師事している。

チャンは、鍵盤に指を置いてからしばらく目を閉じて静止し、徐に弾き始める。冒頭はかなりテンポが遅く、音も弱く仄暗く、あたかも地獄の鐘の音を奏でているような趣がある。ダイナミックレンジを広く取った、ロマンティックで表現主義的な演奏。ネゼ=セガンも同傾向の伴奏を行うが、ネゼ=セガン自体はチャンよりも流れの良い演奏を好んでいるようでもあり、第1楽章では噛み合わない場面もあった。

フィラデルフィア管弦楽団というと、オーマンディやムーティ、デュトワらとの録音を聴いた限りでは「ザ・アメリカン・オーケストラ」という印象で、豪華で煌びやかな音色で押す団体というイメージを抱いていたが、実際に聴くと渋く憂いに満ちたサウンドが特徴的であり、アメリカというよりもライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やロイヤル・コンセルトヘボウ楽団といったヨーロッパの楽団に近い印象を受ける。世代交代が進み、オーマンディの時代とは別のオーケストラになっているわけだが、ムーティ、サヴァリッシュ、エッシェンバッハ、デュトワといったそれぞれ強烈な個性の持ち主をトップに頂いたことで、アンサンブルの質が変わってきたのかも知れない。

第2楽章では、チャンのしっとりとした語りとフィラデルフィア管弦楽団のマイルドな音色が絡み合って上質の演奏となる。
第3楽章は、チャンのエモーショナルな演奏と、フィラデルフィアがこれまで隠し持ってきた都会的でお洒落なサウンドが合致し、豪勢なラフマニノフとなった。

ハオチェン・チャンのアンコール演奏は、ブラームスの間奏曲op118-2。チャンは弱音の美しさを重視しているようで、この曲でも穏やかなリリシズムを丁寧に奏でていた。

 

ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。コンサートプログラムに載る頻度が高く、「通俗名曲」という評価も受けているが、ネゼ=セガンとフィラデルフィア管弦楽団はこの曲に新たな風を吹き込む。
序奏は緩やかに展開。その後、テンポを上げていく。弦、管ともにパワフルであるが、むしろ澄み切った音色を前面に出した若々しい音楽作りを見せる。指揮者としてはまだ若いネゼ=セガンとの演奏ということでリズムの処理も上手い。「家路」や「遠き山に日は落ちて」というタイトルの歌曲となったことで知られる第2楽章の旋律も瑞々しく歌われる。
第4楽章は、下手をするとオーケストラの威力を示すだけになってしまう危険性のある音楽だが、ネゼ=セガンは曲調に込められたアメリカとヨーロッパの混交を明らかにしていく。その後に発達するロックのテイストの先取りや、ジョン・ウィリアムズに代表されるような映画音楽への影響、あくまでヨーロッパ的なノーブルさを保ちながらも発揮されるアメリカ的な躍動感など、中欧チェコの作曲家であるドヴォルザークがニューヨークで書いたからこそ成し得たハイブリッドな音楽が展開されていく。
実演で接した「新世界」交響曲の中では上位に来る仕上がりであった。面白さに関してはトップを争うかも知れない。

 

アンコール演奏は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」。磨き抜かれた美音とセンチメンタルに陥る手前で踏みとどまった表現が印象に残った。

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2019年10月 8日 (火)

これまでに観た映画より(131) 「ブラインドスポッティング」

2019年10月2日 京都シネマにて

京都シネマでアメリカ映画「ブラインドスポッティング」を観る。「ブラインドスポッティング」というのはいわゆる「盲点」のことなのだが、「2通りの見方が可能なシチュエーションやイメージ。ただし、一度に片方しか見ることができず、もう片方がブラインドスポットとなる」という定義がある。盲点と死角を併せ持ったようなものと考えると近いだろう。
メキシコ出身のカルロス・ロペス・エストラーダ監督作品。主演&脚本:ダーヴィド・ディグス、ラファエル・カザル。出演は、ジャニナ・ガヴァンカー、ウトカルシュ・アンブドゥカル、ジャスミン・シーファス・ジョーンズほか。

カリフォルニア州オークランドが舞台。MLB屈指の名門チームであるアスレチックスが本拠地としていることで有名な街だが、人種が多様でリベラルな気風でも知られているという。大企業のいくつが本社を置き、高給取りが多い一方で若者達の4人に1人は貧困者という格差の激しい街でもある。
生粋のオークランドっ子である黒人のコリン(ダーヴィド・ディグス)と白人のマイルズ(ラファエル・カザル)の二人は11歳の時から無二の親友として付き合ってきた。コリンは傷害罪で逮捕され、実刑を受けた後に1年の保護監督処分を受ける。定職に就き、門限は午後11時、奉仕活動を行うことが命じられ、指定されて一人暮らしすることになったアパート(新興のオークランド市民は高級住宅に住むようになり、賃貸の部屋はどこでも空いているような状態だったのだが、前科者なので好きな部屋を借りることは出来ない)のトイレ掃除も行っている。仕事は元カノでインド系のヴァル(ジャニナ・カヴァンカー)の斡旋で、ヴァルが受付や会計などの事務方をしている引っ越し会社の社員に決まった。マイルズも一緒に働いている。コリンは移動を制限されており、オークランドの中心部から出ることが出来ない。
だが実は、傷害事件はコリンが単独で起こしたものではなく、マイルズも加わっていたのだ。マイルズが逮捕されなかったのは白人だったからである。マイルズは自身のことを黒人への蔑称である「ニガー」と呼ばせ、黒人の女性と結婚するなど、黒人への理解はあると自覚しているのだが、何かあったら黒人のせいにされるのだというところまでは認識出来ていない。引っ越しの仕事に向かった先で、トラックの前に車を停めて動こうとしない若者をマイルズは罵倒し、何度もクラクションを鳴らすが、ヴァルが受けた苦情の電話では、クラクションを鳴らして罵倒してきたのはドレッドヘアの黒人ということになっていた。隣の席にいたコリンのせいにされたのだ。

処分が解けるまで3日となった夜。マイルズは車の中で6丁の拳銃を見せびらかす。何かあったら黒人である自分のせいにされると知っていたコリンはマイルズに自制するように申し出るが、マイルズは「家族を守るため」と主張して拳銃を所持するのを止めようとはしない。
門限の11時が迫っており、コリンはマイルズらと別れてトランクを運転して自宅へと急いでいた。トラックを発進させようとした時、黒人の若い男が前に飛び出してくる。その後ろからは白人の警官が追ってきていた。警官は何の躊躇もなく、拳銃の引き金を引く。4発の銃弾が放たれ、コリンの目の前で黒人の若い男は殺された。黒人だったからだ。

治安の悪いオークランド市の警官は高給で雇われていたが、よそ者も多く、オークランド市の郊外の高級住宅地か隣の街に住んでいて、地元愛がないといわれていた。ヤンキー気質で地元愛の強いマイルズは、白人ではありながらそうした富裕層の白人を黒人以上に目の敵にしている。人種差別を行わない自身こそがオークランド市民の本流だと考えているところのあるマイルズには黒人特有のデリケートな部分には目が及んでおらず……。


日本には目に見える形での異人種への差別は今のところそれほど顕著ではない。一目で異人種とわかるような人がそれほど多くないということもある。
ただ、私の天敵でもある認知バイアスは相当に強度なところがある。「そういうもの」と勝手に規定されてしまうことで、あらゆることがらの解釈が全てそれに沿って行われる。日本においては生き方はパターン化されており、かなりシステマチックな社会である。肌の色の違いといったようなわかりやすい目印がないだけに、そうした差別と無意識のデリカシーのなさはより巧妙に世界を覆っているともいえる。
オークランド・アスレチックスにちなんで野球で例えようか。よく「得意なコースの近くに苦手なゾーンがある」といわれるが、これは得意であるがために手を出して凡打してしまうということでもあるだろう。甘く見てしまうのだ。それと同じで「理解している」「知悉している」と自覚していることに実は盲点があったりする。決めつけも生じる。エリア・カザン監督の「紳士協定」っぽくなったが。

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2019年8月 1日 (木)

観劇感想精選(311) 黒柳徹子主演海外コメディシリーズ第29弾「ルーマーズ 口から耳へ、耳から口へ」2015

2015年6月4日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後4時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、黒柳徹子主演海外コメディシリーズ第29弾「ルーマーズ 口から耳へ、耳から口へ」を観る。喜劇王ニール・サイモンの戯曲の上演。黒柳徹子は今回の上演も含めて4度「ルーマーズ」の舞台で主演を務めているが、再演時と再々演時に演出を担当した高橋昌也が昨年逝去。しかし、今回の上演でも高橋の演出を踏襲して行われるため、演出と美術は高橋昌也とクレジットされている。演出補として演劇集団円の前川錬一(まえかわ・れんいち)が名を連ね、高橋の演出を尊重しつつ独自のカラーも出している。
テキスト日本語訳は黒田絵美子。
主演:黒柳徹子。出演:団時朗、かとうかず子、大森博史、茅島成美(かやしま・なるみ)、鶴田忍、平栗あつみ(ひらぐり・あつみ。演劇集団円会員)、石田登星(いしだ・とうせい。演劇集団円会員)、千葉ミハル(演劇集団円会員)、佐々木睦(ささき・むつみ。男性。演劇集団円会員)。
途中休憩を含めて上演時間2時間40分の大作である。

ニューヨークのチャールズ・ブロック(愛称はチャーリー)邸が舞台。ニューヨーク市長代理を務めているチャーリーと妻・マイラの結婚20周年を祝うパーティーが今夜ここで行われることになっていた。招待されたのは4組の夫婦、クリス(黒柳徹子)とケン(団時朗)のゴーマン夫妻、レナード(愛称はレニー、レン。大森博史)とクレア(かとうかず子)のガンツ夫妻、クッキー(茅島成美)とアーニーのキューザック夫妻、グレン(石田登星)とキャシー(本名はおそらくキャサリンだと思われる。平栗あつみ)のクーパー夫妻である。
まずチャーリー邸に着いたのは二人とも弁護士というゴーマン夫妻。しかし、チャーリー邸には夫人であるマイラはおらず、またフィリピン人のメイドも姿を消している。そして、2階の寝室で、チャーリーが左の耳たぶを拳銃で撃ち抜き、薬でフラフラになっているのを発見する。クリスはゴーマン家の主治医であるダドリー医師に電話をするのだが、このダドリー医師というのが尋常とは思えないほどの芝居好きで、今夜もブロードウェイでミュージカル「シカゴ」を観ており、劇場に電話をしても上演中ということでなかなか電話が繋がらない。何度か電話してようやくダドリー医師に電話が繋がるが、ケンは事を大きくしないために、拳銃で自殺を図ったのではなく、車から降りた際にすぐそばにあった階段から転げ落ちて頭を打ったということにしようと提案する。ただ、最初はクリスも「階段を駆け上がって頭を打った」とあり得ない状態を伝えてしまい、言い直す。ゴーマン夫妻はチャーリーのスキャンダルが広まらないよう、次にチャーリー邸を訪れたガンツ夫妻(来るときにレニーが運転している買ったばかりのBMWが横から飛び出してきたジャガーに追突され、レニーはむち打ち症を患う)にも最初は嘘を伝えるが、結局、状況を打ち明けることにする。レニーは公認会計士であり、チャーリーの主任会計士でもある。チャーリーの自殺未遂が巡り巡って自分の会計ミスという噂に繋がるかも知れない。ということで、ガンツ夫妻も三番目にチャーリー邸にやってきたキューザック夫妻に嘘をつく。ちなみにアーニー・キューザックは大学教授でもある精神科医、クッキー・キューザックは料理番組などでも活躍する料理専門家である。ゴーマン夫妻とガンツ夫妻は「サプライズで、チャーリーとマイラが1階に降りてくる前に皆で料理をする」と嘘をつく。だが、その時、拳銃の音のようなものが。チャーリーの拳銃を片付けようとしたケンが、けつまずいて耳のすぐそばで引き金を引いてしまったのだ。轟音により、ケンは一時的にではあるが耳が聞こえなくなってしまう。2階に行って状況を把握したレニーは、「ものが落ちた」と説明し、クリスやクレアは「ものが落ちて、シェービングの缶が暴発した」と補足をする。アーニーは「あれは拳銃の音だ」と納得しないが、結局は夫婦で料理をするためにキッチンに向かう。キッチンでも爆発が起こり、クッキーは手首に傷を負い、アーニーは指先を怪我する。だが、大したことはなかった。
そこにまた来客が。クリスもクレアもこれ以上状況がややこしくなるのは沢山なので二人でトイレに籠もってしまう。何度もチャイムが鳴る。キッチンからアーニーが出てきて、ドアを開ける。やってきたのはグレンとキャシーのクーパー夫妻。グレンは民主党に所属し、上院議員に立候補していた。そのクーパー夫妻であるが、互いに浮気を疑っており、仲が険悪である。チャーリー邸に入ってからも口喧嘩ばかり。キャシーは水晶を御守りとしていつも持っており、磨くためにトイレに入ろうとするが中から鍵が掛かっている。「誰かいるの?」と聞くキャシーにクリスが出てきて、キャシーとクリスは抱き合って挨拶する。だが、クリスが出てきてからもまたトイレには鍵が掛かっている。今度はクレアが中から出てきて……。

第2幕では、レニーがチャーリーが自殺未遂をしたようだということを全員に打ち明けた後からスタートするのだが、耳の聞こえないケンは「これ以上は我慢出来ない」と言って、レニーがしたのとほぼ同じと思われるような内容の告白をして笑いを誘う。
クーパー夫妻は相変わらず喧嘩を続けており、チャーリー邸を出て、グレンの車の中で口論をすることにする。キャシーはグレンの車に向かうついでにレニーのBMWを蹴っ飛ばす。
みな、何とか丸く収めようとしたが、なんとチャーリー邸にパトカーがやって来るのが見えた。4人の男達はうろたえて、「誰かがチャーリー役をやらねばならない」ということで、指を一本出すか二本出すかのゲームで、レニーがチャーリー役をやることになり、2階に上がっていた。ベン・ウェルシュ巡査(佐々木睦)とコニー・パドニー巡査(千葉ミハル)がチャーリー邸に入って来る。みな、状況を誤魔化そうとし、特にケンは弁護士であるためベンの言うことに一々文句を付ける。ケンは「少し時間をくれないか」といって、いったん警官二人を外に出す。だが、実は二人の警官がやって来たのはマイラがチャーリーにプレゼントしたジャガーが盗難に遭い、盗んで運転していた若い男がBMWと衝突事故を起こしたというので、BMWの持ち主であるレニーに話を伺うためだったのである。そのレニーがチャーリーということになっているため、この場にはいない。そこで今度はレニー役を誰かが演じる必要が生じ……。

9年前の2006年の公演も観ている芝居である。黒柳徹子も今年で82歳。「魔女」「黒船を見た女」などと呼ばれる黒柳も寄る年波には勝てず、セリフ回しも動きも以前に比べると弱っているのは否めない。

黒柳徹子は何をやっても黒柳徹子的ではあるが、私を含めて観客は「黒柳徹子を観に来ている」のであり、「黒柳徹子が黒柳徹子していること」はむしろ望ましい。
つかこうへいに見出され、小演劇で人気を得た平栗あつみも、もう結構な年である。9年前はまだ31歳になる直前だった私も初老になってしまった。
9年前にケンを演じていたのは喜劇を得意とする益岡徹である。団時朗のケンは益岡に比べるとコメディアン的演技は弱いが安定感はある。
演技のアンサンブルはまずまず。万全とはいえないかも知れないが、十分に楽しめる仕上がりになっている。なお、今日は最初のまだ舞台上には黒柳徹子と団時朗の二人だけのシーンで、黒柳徹子演じるクリスが民家用エレベーターで2階に上がり、2階バルコニーに足を置いた時に謎の巨大ブザー音が鳴り響いた。黒柳も団も客席も「?!」となったが、黒柳と団はそのまま演技を続けた。単なる音響のミスだったようである。

終演後、拍手は鳴り止まず、出演者達は4度のカーテンコールに応えた。大森博史は超長ゼリフを言うシーンがあるため、特別に一人だけ前に出て拍手を受けた。そして、黒柳徹子は昨年同様、人差し指で天を指し、天国の高橋昌也に敬意を表した。

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2019年7月23日 (火)

観劇感想精選(309) 文学座公演「ガラスの動物園」

2019年7月15日 尼崎市塚口の兵庫県立ピッコロシアター大ホールにて観劇

午後2時から、尼崎の塚口にある兵庫県立ピッコロシアター大ホールで文学座公演「ガラスの動物園」を観る。

テネシー・ウィリアムズの出世作にして代表作の一つである「ガラスの動物園」。新劇の王道であり、学生演劇の定番でもある作品だが、文学座が「ガラスの動物園」を上演するのは意外にも1990年以来、実に29年ぶりになるという。先月28日から今月7日まで東京芸術劇場シアターウエストでの上演を行った後、新潟県の長岡市での公演を経て、昨日今日と尼崎での関西公演を行う。この後、岐阜県可児市での上演も予定されている。
上演自体は間が開いてしまったが、文学座では研究所の長崎紀昭のクラスで毎年のように「ガラスの動物園」をテキストに使った授業が行われていたそうである。

小田島恒志による新訳テキストを使用(ちなみに、現在、新潮文庫に入って広く読まれているものは、小田島恒志の父親である小田島雄志が翻訳したものである)。高橋正徳による新演出での上演。出演は、塩田朋子、亀田佳明、永宝千晶(ながとみ・ちあき)、池田倫太郎。塩田朋子は、アマンダを演じるが、実は29年前の上演で塩田は、アマンダの娘であるローラを演じていた。

紗幕を使った巨大な父親の肖像画(顔ははっきりしない)が下がっているという舞台装置。ウイングフィールド家3人のシーンが始まってからは肖像画は吊り上がって斜めになるが、舞台上から消えることはない。

テネシー・ウィリアムズの自伝的作品といわれており、詩人志望のトム(亀田佳明)同様、テネシー・ウィリアムズも靴会社に勤めていた経験があり、またテネシー・ウィリアムズの実姉であるローズは、ローラ(永宝千晶)同様、心身を病んでいた。

 

1930年代、ミズーリ州セントルイス。足が不自由なローラは、高校を中退後、引きこもりの状態となる。ビジネススクールに通ってタイピングや速記を習っているはずだったが、実際はすぐに辞めてしまい、母親のアマンダ(塩田朋子)には、ビジネススクールに行っていると嘘をついて公園で時間を潰していた。ローラは小さなガラスの動物像をコレクションしており、アマンダはそれを「ガラスの動物園」と呼んでいた。ローラは内気でガラスの動物のように壊れやすい心を持っている。ローラが最も好きな動物像は架空の生き物であるユニコーン。
アマンダの夫、つまりローラとトムの父親はふらりと出て行ってしまったため、一家の家計はローラの弟であるトムが支えている。トムは退屈な靴屋の倉庫勤めに飽き飽きしており、上司の目を盗んではトイレで詩作などにふけり、しょっちょう映画館にも通っている。作家になりたいという気持ちはあるが、まずは現実逃避だった。

南部の大農園出身のアマンダは、トムにはたくましくて魅力的な男に、ローラには良妻賢母になるよう望んでおり、ローラに相応しい男を自宅に招くようトムにいう。トムは会社の同僚であるジム・オコーナー(池田倫太郎)を自宅に招くことにする。苗字からしてアイルランド系のオコーナーは、ハイスクール時代は学校のヒーロー的存在だったが、その後泣かず飛ばすの男だった。アマンダはローラとジムが接近するよう切望していたのだが……。

実は、ローラとジムは、高校時代から知り合いであった。かつてジムはローラに容態を聞き、ローラは「プルーローシス(胸膜炎)」と答えたのだが、 ジムは、「ブルーローズ」と聞き間違え、ローラをそういうあだ名で呼んだことがあった。ブルーローズ、今でこそ存在するが、長い間幻の存在とされていた青い薔薇のこと。幻の世界に浸ることしか出来ないローラそのままの名前である。ガラスで作られた架空のユニコーンを愛するローラ、はっきりしない将来に夢を託すトム(結局、倉庫はクビになってしまう)、南部的な幸せを思い描いているアマンダ、そうしたそれぞれの幻想が現実の前に破れていくことになる。いかにもテネシー・ウィリアムズの原点と呼ぶに相応しい作品である。
家族を捨てたトムのローラへの贖罪の念は、テネシー・ウィリアムズの実姉・ローズへの思いと重なっていたであろう。

 

演劇界の東大、新劇界の東大などとも呼ばれる文学座だが、今ではいわゆる新劇的な演技からは少し離れた状態にある。ただ、時折、堅い演技になるところはあったように思う。とはいえ、全員、演技の水準は高い。

テネシー・ウィリアムズのテキストには、スクリーンに文字が投影されたり、舞台袖で声がしたりと、当時としては前衛的な手法が書かれているのだが、そうした要素はカットされており、全体的に新劇として手堅い上演になっていた。

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2019年7月20日 (土)

コンサートの記(575) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019 レナード・バーンスタイン ミュージカル「オン・ザ・タウン」西宮公演

2019年7月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019 ミュージカル「オン・ザ・タウン」を観る。佐渡の師であるレナード・バーンスタインが初めて作曲した舞台作品であり、某有名ドラマシリーズのタイトルの由来となったミュージカル映画「踊る大紐育」の原作としても知られている。

佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。演出・装置・衣装デザインは、イギリス出身で佐渡プロデュースオペラの「魔笛」と「真夏の夜の夢」でも演出を担当したアントニー・マクドナルド。合唱は特別編成である、ひょうごプロデュースオペラ合唱団(合唱指揮:矢澤定明)。
佐渡プロデュースオペラは、外国人キャストと邦人キャストの日が交互に来ることが多いが、今回はミュージカル作品でダンスも多いということで、ロンドンで行われたオーディションで選ばれた白人中心のキャストでの上演である。出演は、チャールズ・ライス(ゲイビー)、アレックス・オッターバーン(チップ)、ダン・シェルヴィ(オジー)、ケイティ・ディーコン(アイヴィ)、ジェシカ・ウォーカー(ヒルディ)、イーファ・ミスケリー(クレア)、スティーヴン・リチャードソン(ピトキン判事&ワークマン1)、ヒラリー・サマーズ(マダム・ディリー)、アンナ・デニス(ルーシー・シュミーラー)、フランソワ・テストリー(ダイアナ・ドリーム、ドロレス・ドロレス、老女)ほか。このほかにもアンサンブルダンサーとしてバレエやコンテンポラリーのダンサーが数多く出演している。振付はアシュリー・ペイジが担当。

ブルックリンの海軍造船所に停泊した船に乗る、ゲイビー、チップ、オジーの3人の水兵が初めて訪れたニューヨークでの24時間の休暇を楽しむべく、様々な観光地を巡る計画を立てている。今回のセットは全面にマンハッタン島を中心としたニューヨークのガイド地図が描かれたものだ。ゲイビーはニューヨークの女の子とデートがしたいと語る。
キャットウォークから様々なボードが降りてきたり、左右から地下鉄の車両内のセットや登場人物のアパートメントの部屋などが出てくるなど、コミック調の演出と舞台美術が特徴である。またニューヨーク市タクシー(通称:イエローキャブ)は実際に舞台上を走り回る。

ニューヨークの地下鉄の乗り込んだ3人の水兵。ゲイビーは車両内に飾られた「6月のミス改札口」に選ばれたアイヴィ・スミスのポスターを見て一目惚れ。ニューヨークに住んでいるはずのアイヴィを探し出そうとチップやオジーに提案。ポスターに書かれた情報を手がかりに3人で手分けしてアイヴィを探すことになる。
イエローキャブに乗ったチップは、女性運転手のヒルディ(本名はブルンヒルド・エスターハージ)に惚れられ、ポスターにあった「アイヴィはミュージアムで写生の勉強をするのを好む」という情報を頼りにミュージアムに向かったオジー(勘違いして美術館ではなく自然史博物館に行ってしまう)は、文化人類学者のクレアと出会い、恋に落ちる。そしてゲイビーは「アイヴィはカーネギーホールでオペラのレッスンをしている」という記述に従い、カーネギーホール(ゲイビーは「カニーギホール」と誤読している)のレッスン室でアイヴィを探し出す。

地下鉄内でゲイビーが「6月のミス改札口」のポスターを剥がすのを見とがめた老女がその後も執拗に水兵達を追いかけようと登場するのが特徴。「統一感を与えるため」らしいのだが、この老女はクロノスの象徴なのではないかと思われる。実際に24時間ひいては人生や青春の短さが登場人物によって何度も歌われており、若者達の行方を遮る時間がつまりはクロノスとして現れているのであろう。

「オン・ザ・タウン」が初演されたのは、1944年(大戦中である)。レナード・バーンスタインはまだ二十代。ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニックの指揮台に急遽上がって社会現象を巻き起こした翌年である。登場人物達とさほど変わらぬ年齢だったことになる。

 

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、任期3年の育成型オーケストラであり、独自の色は出せない団体だが、若いメンバーが多いということもあってかアメリカものやミュージカルには最適の熱く迫力のある音を奏でる。なお、今回のゲストコンサートマスターはベルリン・ドイツ交響楽団の第1コンサートマスターであるベルンハルト・ハルトーク、第2ヴァイオリン客演首席に元ウィーン・フィルハーモニー第2ヴァイオリン首席のペーター・ヴェヒター、ヴィオラ客演首席にウィーン室内管弦楽団首席のシンシア・リャオ、チェロ客演首席にウィーン室内管弦楽団首席のヨナス・クレイッチ、トランペット首席にジャズトランペッターの原朋直という強力な布陣である。

 

日本人も食生活の変化で体格がかなり良くなったが、やはり平均値では白人の方がスタイルは上で、ミュージカルには栄える。以前、劇団四季が上演した本場ブロードウェイと同じ振付による「ウエストサイド・ストーリー」を京都劇場で観たことがあるが、体操のお兄さん風になっており、まだ歴然とした差があるようだ。

台本と作詞を担当したベティ・コムデンとアドルフ・グリーンのコンビも当時二十代で、これが初ブロードウェイ作品ということで、アメリカ的ご都合主義があったりするのだが、パワフルでユーモアに富んだ流れが実に良い。

 

カーテンコールでは、佐渡裕がイエローキャブに跨がって登場。爆発的に盛り上がり、幕が下りてはまた上がるが繰り返された。

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2019年6月17日 (月)

観劇感想精選(304) 加藤健一事務所 「Taking Sides ~それぞれの旋律~」

2019年6月1日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都府立府民ホールアルティで、加藤健一事務所の公演「Taking Sides ~それぞれの旋律~」を観る。「戦場のピアニスト」「想い出のカルテット」「ドレッサー」のロナルド・ハーウッドが、20世紀最高の最高の指揮者であったヴィルヘルム・フルトヴェングラーのナチ裁判予備審問を描いた戯曲の上演。私は6年ほど前に、行定勲の演出、筧利夫、平幹二朗、福田沙紀、当時無名の鈴木亮平らの出演による上演(「テイキングサイド ~ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日~」)を観ている。
テキスト日本語訳は小田島恒志と小田島則子。演出は鵜山仁。出演は、加藤健一、今井朋彦(文学座)、加藤忍、小暮智美(青年座)、西山聖了、小林勝也(文学座)。

舞台上方に下側がちぎれた状態の星条旗が掛かっている。舞台下手にも星条旗が、あたかも歌劇「蝶々夫人」の上演時のように掲げられている。上手に上方に設けられたドームが崩れ落ちたままのドアがあり、登場人物はこのドアから入ってくる。
ベートーヴェンの交響曲第5番第4楽章の演奏が鳴り響いて上演開始。星条旗を吊り下げていた上手側の紐が切れ、舞台上に落ちかかる。後方の壁にはベルリン陥落の模様の映像が投影される。

灯りがつくと、エンミ・シュトラウベ(加藤忍)が指揮真似をしている。エンミはベートーヴェンの愛好家なのだが、連合軍取調局に所属しているアメリカのスティーヴ・アーノルド少佐(加藤健一)は、音楽には全く興味がなく、ベートーヴェンの交響曲第5番についても、「くその役にも立たないほど退屈」と感じている。エンミはベートーヴェンの交響曲第8番が最も好きなのだが、ベートーヴェン入門曲として第九を薦める。だが、アーノルドは「第5より短いのか?」と聴く気のない発言をする。

アーノルドは世界的な大指揮者であるヴィルヘルム・フルトヴェングラー(小林勝也)の予備審問を担当するのだが、フルトヴェングラーについては全く知らない。知らないからこそ選ばれたという側面もある。アメリカで活躍するアルトゥーロ・トスカニーニやレオポルト・ストコフスキーは知っているが、指揮者ではなくバンドリーダーという認識であり、フルトヴェングラーもバンドリーダーの一人だと思っている。
フルトヴェングラーは、ナチス政権化にあってナチ党員にならず、ユダヤ人音楽家の国外逃亡に手を貸していた。だが自身はドイツに留まってベルリン陥落の前年にようやくスイスへ亡命したため、「実はナチ協力者なのではないか?」という嫌疑をかけられていた。フルトヴェングラーと彼が指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、ナチがドイツ国民の優越性を示すためのプロパガンダとして用いていた。
新たにアーノルドの部下となったデイヴィッド・ウィルズ中尉(西山聖了)は、ハンブルク生まれのユダヤ系ドイツ人で今はフィラデルフィア在住という二重にも三重にも引き裂かれた経歴の持ち主である。精神的にはヨーロッパ寄りであり、ベートーヴェンは大好き。その点において同じアメリカ人でもアーノルドとは大きく異なっている。

典型的なアメリカ的合理主義的精神の持ち主であるアーノルドは、予備知識を徹底して廃してフルトヴェングラーやベルリン・フィルの第2ヴァイオリン奏者であったヘルムート・ローデ(今井朋彦)を追求していく。
途中、タマーラ・ザックスという女性(小暮智美)が闖入する。タマーラはドイツ人女性で旧姓は典型的なドイツの苗字であるミュラー。しかし、ユダヤ人ピアニストであるヴァルター・ザックスと結婚していた。ヴァルター・ザックスとタマーラはパリに亡命するが、ナチスによってパリが陥落したため、ヴァルターはアウシュヴィッツに送られて命を落とした。だが、二人がパリに亡命出来たのはフルトヴェングラーのお陰であるとして、彼の無罪を訴えに来たのである。

タマーラだけでなく、ローデ、エンミ、デイヴィッドら全員がフルトヴェングラーは偉大な芸術家だと擁護する中、アーノルドは後光効果(ハロー効果)を廃した追求を行おうとする。フルトヴェングラー本人にも脅威となった若きヘルベルト・フォン・カラヤンの存在や、愛人や隠し子が各所にいたというフルトヴェングラーの私生活に踏み込んで揺さぶりをかけていく。
やがて、ナチス高官ハンス・ヒンケルが残した様々なデータによってローデが実はナチ党員だったことがわかり……。

 

行定勲演出の「テイキングサイド」では、小林隆がヘルムート・ローデを演じており、最初から気弱で人におもねりそうなローデ像を作り上げていたが、今回の「Taking sides」は今井朋彦のローデということで印象は大きく異なり、同じセリフでも意図が異なって聞こえる。
「テイキングサイド」でアーノルドを演じた筧利夫は、異常なまでの映像記憶力の持ち主で、かなりの早口、非感情的という人物に扮していたが、加藤健一のアーノルドは異能者であることはセリフで示されてはいるものの、それを思わせる展開はほぼないため、同じ合理主義者のアメリカ人ではあっても異なった要素が表に出ているように思われる。行定演出ということあって、筧のアーノルドはかなり挑戦的でもあったようだ。

「テイキングサイド」では、平幹二朗演じるフルトヴェングラーの完全敗北という感じに見えたラストだが、今回はフルトヴェングラーの後悔のみに留められ、またラストに流れる第九第1楽章も「芸術はそんなことで負けも終わりもしない」というアーノルドへの忠告のように響いた。

アメリカの合理主義とドイツ引いてはヨーロッパの伝統主義、芸術至上主義の代理戦争の構図がこの劇には見て取れる。そして、戦前においてはドイツを、戦後はアメリカをモデルとして発展してきた日本において「Taking sides(どちらの側を取るか)」を上演する意味についても考えさせられる。

 

ロビー(というより普段は喫茶店として使われているスペース。喫茶店は今日は午後3時で閉店)でアフタートークがあり、出演者全員が登場する。

イギリスでは「Taking Sides」は「コラボレーション」との二本立て作品として上演されており、「コラボレーション」の方は、加藤健一事務所は2011年に上演している。加藤健一は、「Taking Sides」の台本も同時に読んでいたそうだが、その時はフルトヴェングラーという人物を知らなかったために上演を見送ったそうである。ただ、それから8年経って、「早くやらないと、どっち(アーノルドとフルトヴェングラー)を演るのかわからなくなってしまう」ということで取り上げることにしたそうである。
加藤健一は、普段は真逆の人間なので演じやすかったと言って笑いを取るが、「フルトヴェングラー好きはいっぱいいるものですから」、フルトヴェングラーファンから悪く見られるのが嫌なようで、東京公演の時も楽屋に来た今井朋彦のフルトヴェングラー好きの知り合いから、「段々段々、憎く憎く見えてきました」と言われてショボンとしたそうである。
小暮智美は、「福島県会津出身です。京都には色々な思いがあります」と自己紹介。演じたタマーラについてハーウッドは「タマーラはホームレスのように見える」と書いていたため、そう見えるように稽古の時から工夫をしており、お歯黒をしてきてみんなから「この人は何をしてるんだ?」と怪訝な顔をされたり、演出の鵜山仁から「いや、そういうんじゃない」と駄目だしされつつ、色々模索している最中だそうである。ちなみに今日のメイクは今井朋彦に「八ツ橋に見える」と言われたそうだが、言われた方はどんなだかわからないそうである。

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2019年6月16日 (日)

観劇感想精選(303) リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」兵庫公演2日目 「菓子袋」「収集」&「愛について語るときに我々の語ること」

2019年5月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後2時から西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」を観る。
1980年代に村上春樹が多くの小説を翻訳したことで知られる存在になったレイモンド・カーヴァー(レイ・カーヴァー)。労働者の街で育ち、16歳で結婚。地方大学の大学院を出て大学の文芸創作の教員となるが、アイビーリーグに代表される名門私立大学出身者が大勢を占めるアメリカ文壇では異端視される。短編の名手であり、自身が書いた短編小説を更に短くリライトすることも度々で、小説に関しては「短ければ短いほど良い」というポリシーを持っていたようである。1988年に50歳の若さで死去。日常に潜んだ歪みや波立ちを描き、チェーホフにも例えられた。
1993年にレイモンド・カーヴァーの複数の短編小説で構成されたロバート・アルトマン監督の映画「ショート・カッツ」が制作され、私も観てはいるのだが、正直好きになれなかったのを覚えている。

昨日今日と2日間の公演である。昨日は手塚とおるのリーディングによる「ダンスしないか?」と「もうひとつだけ」、仲村トオルのリーディングによる「コンパートメント」が上演され、今日は矢崎広が「菓子袋」と「収集」を、平田満が「愛について語るときに我々の語ること」を読み上げる。村上春樹翻訳によるテキストを使用。演出は谷賢一。作曲&ピアノ演奏は阿部篤志。

朗読劇は演劇の中でも特別で、演じ手がほとんど動かないため、観る側にも言葉からの想像力と設定を頭に入れつつ追うための記憶力と集中力が必要となる。とはいえ動的な要素がないため面白い上演になる可能性が高いとはいえず、今日も平田満が出るというのに阪急中ホールの1階席は前半分しか埋まっていない。


矢崎広朗読による「菓子袋」と「収集」。矢崎広に関してはよく知らなかったが、なかなか良い俳優であり、引きつけられる。
「菓子袋」は、シカゴ在住の出版社のセールスマンが生まれ故郷であるカリフォルニア州サクラメントの空港で長い間会っていなかった実父に会うという話である。仕事でロサンゼルスに出向き、そのついでにカリフォルニア州の州都であるサクラメントにも寄るという設定なのだが、久しぶりに会った父親は主人公に向かって、かつての浮気の話を打ち明け始める。
その浮気が原因で両親は離婚することになるのだが、主人公は詳しいいきさつは知らされておらず、親の性的な面を詳しく知りたいと思う人は余りいない、ということで久しぶりの再会にも関わらず親子の隙間はむしろ広がることになり、父親が主人公の妻と娘のためにとくれた菓子袋も空港に置き忘れてきてしまうが、特に惜しいとも思わない。
歩み寄ろうとして却って傷口を広げてしまう人間存在の愚かしさが告発調でなく描かれているという、カーヴァーらしい作品である。


「収集」の主人公は失業中であり、雨の日に自宅で北から来る手紙を待っている。ところがやって来たのは郵便配達夫ではなく、奇妙な老人。以前に住んでいた人が懸賞に当たったということで、無料での掃除サービスを行い始める。主人公は一種の押し売りかと思ったのだが、そうでもないらしい。老人は「体の一部が毎日落ちていっている」ということで、その体の一部の染みこんだ枕だのカーペットだのを掃除していく。

どうやら老人は「過去」を収集しているようであるが、主人公が特に重要だと思う過去でもないため、結局、なにがなんだかわからないまま二人は別れることになる。
これは過去に限らないのだが、忘れてしまったものの中に、あるいは特に重要視されていないものの中に、実は大切な何かが潜んでいる可能性があり、にも関わらず気にとめていないという日常の死角が示されているようにも思える。
ひょっとしたら致命的な何かが起こっているのかも知れないが、知覚出来ないという不気味さ。こうした捉え方とすると、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」にも繋がるように思う。


平田満の朗読による「愛について語るときに我々の語ること」。二組のカップルによる会話を描いた小説である。
語り手の「僕」とローラは付き合い始めてそれほど時間が経っていない。一方、医師であるメルと妻のテリは夫婦だが共にバツイチ。テリは前夫のエドからDVを受けていたが、それは愛ゆえだとの確信を語り、メルは否定する。メルは精神的な愛について語るのだが、実は別れた前妻とその再婚相手のために多額の資金援助をする羽目になっており、前妻を愛したかつての自分の鑑識眼について疑いを持っていた。

自身が理想とする精神的な愛に裏切られ、否定すべき暴力的愛にすら勝てない悲惨な人間像が描かれているのだが、カーヴァーの特徴として感傷的な要素は極力排されている。


終演後に、谷賢一、平田満、矢崎広によるアフタートークがある。村上春樹による直訳的な翻訳についても語られたのだが(谷賢一は翻訳家でもある)、これらの作品は日常の些細なズレなどを描いており、翻訳者の体と心を通した翻訳ではそうした要素が伝わりにくくなってしまうために敢えて素材の文章に余り手を加えずに訳しているのではないかと私は想像するのだが、カーヴァーの小説を英語で読んだことはないため、仮説とせざるを得ない。
平田満は、「僕が配役されるとしたらエドだろうな」と語り、やはり駄目で一途で人間くさい男をやりたいようである。矢崎は配役されるとしたら「僕」ではないかと平田は言うのだが、確かにそんな感じではある。

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2019年3月30日 (土)

コンサートの記(536) レナード・スラットキン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第526回定期演奏会

2019年3月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第526回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、「最もアメリカ的な指揮者」と呼んでもいいと思われるレナード・スラットキン。

ハリウッド・ボウルの指揮者として活躍したフェリックス・スラットキンの息子であるレナード・スラットキン。
ロサンゼルスの生まれ、1979年にセントルイス交響楽団の音楽監督に就任すると短期間で同楽団のレベルアップに成功。全米オーケストラランキングでシカゴ交響楽団に次ぐ第2位に入ったことで話題となり、スラットキンとセントルイス響は来日公演を行うまでになっている。その後、スラットキンはワシントンDCのナショナル交響楽団の音楽監督に転身、更にBBC交響楽団の首席指揮者にも就任しているがこの時期は録音にも恵まれず、低迷の印象は拭えなかった。だが、デトロイト交響楽団の音楽監督就任以降は復活し、リヨン国立交響楽団の音楽監督なども務めている。

 

オール・アメリカ・プログラム。レナード・バーンスタインとアーロン・コープランドの楽曲が交互に並ぶ。レナード・バーンスタインのミュージカル「キャンディード」序曲、コープランドの「田舎道を下って」、バーンスタインの「チチェスター詩篇」、コープランドの交響曲第3番の演奏である。

 

今日のコンサートマスターは須山暢大が務める。

 

レナード・バーンスタインのミュージカル「キャンディード」序曲。佐渡裕司会時代の「題名のない音楽会」オープニングテーマとして日本でも知名度が高い曲である。リズム、推進力、豊かな旋律など、アメリカ音楽の要素が凝縮されたような作品であり、日本人の指揮者も取り上げることが多いが、やはりアメリカ人の指揮者であるスラットキンの指揮だけに複数の要素の処理の仕方に手慣れたものが感じられる。

 

バーンスタインの作曲の師としても知られるアーロン・コープランド。二人とも同性愛者であり、師弟関係以上のものがあったといわれている。
「田舎道を下って」は、コープランドが自作のピアノ小品をユースオーケストラのために編曲したものである。描写音楽ではなく、タイトルは作品完成後になんとなくつけられたものらしい。
抒情美と印象派的な冴えた色彩感覚を特徴とする楽曲であり、大フィル弦楽器軍の響きが実に美しい。

 

レナード・バーンスタインの「チチェスター詩篇」。バーンスタインの代表曲であるが、コンサートのメインとするには演奏時間が短く(20分ほど)、合唱とボーイソプラノもしくはカウンターテナーという編成も特異であるため取り上げられることは少なく、大フィルがこの曲を演奏するのは史上初めてになるという。
オーケストラの編成も特殊で、木管楽器は用いられず、トランペットとトロンボーンは3管、打楽器が多数用いられている。ハープは2台編成であるが、今日はハーブが指揮者と向かい合う形で2台置かれるという、普段余り見ない配置となった。
合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。カウンターテナー独唱は藤木大地が務める。

バーンスタインは作曲家デビューが「音楽なんて大嫌い!」という歌曲であり、その後もミュージカルやオペラ、ミサ曲、交響曲第1番「エレミア」にも独唱が入っているなど、声楽入りの作品に力を入れていた。「チチェスター詩篇」はイギリスのチチェスター音楽祭のために書かれた宗教曲である。
第1楽章はバーンスタインらしいリズミカルな楽想だが、第2楽章第3楽章ではバーンスタインのもう一つの側面である危機感と崇高美の対比が奏でられる。
藤木大地が美しい声を聴かせ、大阪フィルハーモニー合唱団も充実した歌声を響かせる。

 

メインであるコープランドの交響曲第3番。今回は原典版での演奏である。この曲が初演された際、バーンスタインが立ち会っていたのだが、終演後にバーンスタインが「少し長い気がします」とコープランドに進言。コープランドがそれを受け入れて8小節分カットした譜面によって再演されたのだが、再演時の楽譜が総譜とした出版されたため、長い間カット版が決定稿とされてきた。だが、スラットキンが初演時の音源をスコアを見ながらCDで聴いた際、数が合わないことを発見。アメリカ公文書館に行ってコープランドの自筆譜を確認したところ、第4楽章が8小節分長かったということがわかったという。

自作の「市民のためのファンファーレ」を取り入れて構成した作品である。非常にエネルギッシュな作品だが、印象派的な響きの美しさやストラヴィンスキー的なマジカルな音響がかなりはっきりと分かるように書かれている。
アメリカ音楽は歴史が短いため作曲家のプライドも欧州に比べれば高くなく、様々な音楽的要素を取り入れて作品を構成することに遠慮やてらいのようなものが少なく、そのことが日本も含めた音楽後進国の作品に繋がる面白さを生んでいるように思われるのだが、コープランドの交響曲第3番もそうしたごちゃ混ぜ的趣向に富んでいる。これはアイヴスやバーンスタインの作品に通じることでもある。

スラットキンは大阪フィルから立体的な音響を引き出す。浮き上がる様子が目に見えるような弦楽などは秀逸であり、管や打楽器も力強い。余りアメリカ音楽に向いたオーケストラでは大フィルだが、スラットキンによって磨き抜かれた音で聴衆を魅了。アメリカ音楽は日本では余り人気がないので、今日は空席が目立ったが、居合わせた人の多くを熱くさせる演奏だったように思う。

 

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2019年1月26日 (土)

観劇感想精選(288) 「みんな我が子」

2011年12月21日 西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後7時より、大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼで、「みんな我が子」を観る。作:アーサー・ミラー、テキスト日本語訳:伊藤美代子、演出:ダニエル・カトナー。出演:長塚京三、麻実れい、田島優成、朝海ひかる、柄本佑(えもと・たすく)、隆大介、山下容莉枝、加治将樹、浜崎茜、鈴木知憲。

第二次大戦終了直後のアメリカが舞台である。初演は1947年。

ジョー(長塚京三)は、戦時中に飛行機の部品会社を経営していた。しかし、飛行機の部品に欠陥があり、そのために13機もの戦闘機が墜落した。ジョーは裁判で無罪を勝ち取るが、同士のスティーブは実刑となり、監獄で過ごすこととなった。

ジョーは今は製造業で成功している。スティーブの娘のアン(朝海ひかる)がニューヨークからジョーを家主とするケラー家を訪ねてくる。その前日、嵐のため、ケラー家の木が倒れた。その木はジョーの次男であるラリーが生まれた日に植えられたものである。ラリーは終戦後、3年経ってもケラー家に戻ってきてはいない。誰もがラリーは亡くなったものだと思っているが、母親のケイト(麻実れい)だけはラリーの死を受けいれてはおらず、ラリーは今もどこかで生きていると信じている。

アンはラリーの婚約者だった。だが、アンはラリーの兄であるクリス(田島優成)にも惹かれていた。ラリーは帰らないと悟ったアンはクリスと結婚するためにニューヨークからやって来たのであった。かつて相思相愛だった二人は瞬く間に昔の二人に戻って結婚を誓う。しかし、ラリーが生きていると信じているケイトは二人の結婚を認めない。

ケリー家の隣人は医師であるジム(隆大介)と妻で元看護士のスー(山下容莉枝)、そして、フランク(加治将樹)とリディア(浜崎茜)である。ジムとスーはかつてはスティーブやアンが済んでいた家を住まいとしている。
そして、アンの兄で、弁護士となったジョージ(柄本佑)がケリー家にやってくる。ジョージは父親のスティーブをジョーが嵌めたのだとクリスをなじる。そしてアンを連れ戻そうとする。実はスーもジョーは怪しいのではないかと思っていたことがわかり……。


アーサー・ミラーらしい社会派の本である。第二次世界大戦終結から2年後に上演された作品であるが、資本主義の矛盾を早くも的確に突いており、社会的な成功が果たして人間として優れていると言えるのかどうかを観るものに問いかけてくる。

俳優達は、繊細で丁寧な演技を見せる。長塚京三の存在感と演技の自然さ、麻実れいの細やかな心理描写、朝海ひかるの可憐さ、山下容莉枝の表情の多彩さ、柄本佑の台詞回しの上手さなど、いずれも特筆事項である。

カーテンコールでは客席が総立ちとなる。初演から長の歳月を経ても、なお生き続ける優れた舞台であった。

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