カテゴリー「アメリカ」の89件の記事

2024年11月 9日 (土)

これまでに観た映画より(350) 英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」

2024年6月13日 桂川・洛西口のイオンシネマ京都桂川にて

イオンシネマ京都桂川で、英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。イギリス・ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)で上演されたオペラやバレエを上映するシリーズ。今回は、今年の3月26日に上演・収録された「蝶々夫人」の上映である。最新上演の上映といっても良い早さである。今回の上演は、2003年に初演されたモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエによる演出の9度目の再演である。日本人の所作を専門家を呼んできちんと付けた演出で、そのため、誇張されたり、不自然に思えたりする場面は日本人が見てもほとんどない。

京都ではイオンシネマ京都桂川のみでの上映で、今日が上映最終日である。

指揮はケヴィン・ジョン・エドゥセイ。初めて聞く名前だが、黒人の血が入った指揮者で、活き活きとしてしなやかな音楽を作る。
演奏は、ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団&ロイヤル・オペラ合唱団。
タイトルロールを歌うのは、アルメニア系リトアニア人のアスミク・グリゴリアン。中国系と思われる歌手が何人か出演しているが、日本人の歌手は残念ながら参加していないようである。エンドクレジットにスタッフの名前も映るのだが、スタッフには日本人がいることが分かる。

入り口で、タイムテーブルの入ったチラシを渡され、それで上映の内容が分かるようになっている。まず解説と指揮者や出演者へのインタビューがあり(18分)、第1幕が55分。14分の途中休憩が入り、その後すぐに第2幕ではなくロイヤル・オペラ・ハウスの照明スタッフの紹介とインタビューが入り(13分)、第2幕と第3幕が続けて上映され、カーテンコールとクレジットが続く(98分)。合計上映時間は3時間18分である。

チケット料金が結構高い(今回はdポイント割引を使った)が、映画館で聴く音響の迫力と美しい映像を考えると、これくらいの値がするのも仕方ないと思える。テレビモニターで聴く音とは比べものにならないほどの臨場感である。

蝶々夫人役のアスミク・グリゴリアンの声がとにかく凄い。声量がある上に美しく感情の乗せ方も上手い。日本人の女性歌手も体格面で白人に大きく劣るということはなくなりつつあり、長崎が舞台のオペラということで、雰囲気からいっても蝶々夫人役には日本人の方が合うのだが、声の力ではどうしても白人女性歌手には及ばないというのが正直なところである。グリゴリアンの声に負けないだけの力を持った日本人女性歌手は現時点では見当たらないだろう。

男前だが、いい加減な奴であるベンジャミン・フランクリン・ピンカートンを演じたジョシュア・ゲレーロも様になっており、お堅い常識人だと思われるのだが今ひとつ押しの弱いシャープレスを演じたラウリ・ヴァサールも理想的な演技を見せる。

今回面白いのは、ケート・ピンカートン(ピンカートン夫人)に黒人歌手であるヴェーナ・アカマ=マキアを起用している点。アカマ=マキアはまず影絵で登場し、その後に正体を現す。
自刃しようとした蝶々夫人が、寄ってきた息子を抱くシーンで、その後、蝶々夫人は息子に目隠しをし、小型の星条旗を持たせる。目隠しをされたまま小さな星条旗を振る息子。父親の祖国を讃えているだけのようでありながら、あたかもアメリカの帝国主義を礼賛しているかのようにも見え、それに対する告発が行われているようにも感じられる。そもそも「現地妻」という制度がアメリカの帝国主義の象徴であり、アフリカ諸国や日本もアメリカの帝国主義に組み込まれた国で、アメリカの強権発動が21世紀に入っても世界中で続いているという現状を見ると、問題の根深さが感じられる。
一方で、蝶々夫人の自刃の場面では桜の樹が現れ、花びらが舞う中で蝶々夫人は自らの体を刀で突く。桜の花びらが、元は武士の娘である蝶々夫人の上に舞い落ち、「桜のように潔く散る」のを美徳とする日本的な光景となるが、「ハラキリ」に代表される日本人の「死の美学」が日本人を死へと追いやりやすくしていることを象徴しているようにも感じられる。日本人は何かあるとすぐに死を選びやすく自殺率も高い。蝶々夫人も日本人でなかったら死ぬ必要はなかったのかも知れないと思うと、「死の美学」のある種の罪深さが実感される。

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2024年11月 8日 (金)

美術回廊(87) アサヒビール大山崎山荘美術館 「丸沼芸術の森蔵 アンドリュー・ワイエス展―追憶のオルソン・ハウス」

2024年10月14日 京都府乙訓郡大山崎町天王山にあるアサヒビール大山崎山荘美術館にて

京都府乙訓郡大山崎町にある、アサヒグループ大山崎山荘美術館で、「丸沼芸術の森蔵 アンドリュー・ワイエス展―追想のオルソン・ハウス」を観る。私が最も敬愛する画家、アンドリュー・ワイエスの展覧会である。
アメリカ、メイン州のワイエスの別荘の近く住む、クリスティーナ・オルソンとアルヴァロの姉弟に出会ったワイエス。彼らが住む築150年のオルソン家に惹かれ、彼らと30年に渡って交流を持つことになるワイエスが、オルソン・ハウスをテーマに描いた一連の作品の展覧会である。前期と後期に分かれており、現在は前期の展示が行われている。

ワイエスがオルソン・ハウスを題材にした展覧会は、2004年に姫路市立美術館で行われており、その時出展された作品も多い。なお、姫路市立美術館を訪れた日は、私が姫路に行きながら唯一、姫路城を訪れなかった日でもある。

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オルソン・ハウスは、2階建てだったものを無理に3階建てに直した建物でバランスが悪いが、ワイエスの絵画もわざとバランスを崩すことで不吉な印象を与えている。
ワイエスは、「死の青」を用いる。ワイエスにとって青は死の象徴であり、鏡に映った自身の姿を幽霊と勘違いした姿を描いた「幽霊」の習作にも不吉な青が用いられている。「パイ用のブルーベリー」習作や「青い計量器」でも青がクッキリ浮かび上がってどことなく不吉な印象を与える。

また、アルヴァロがモデルになることを嫌がったという理由もあるのだが、本来、そこにいるべき主がいないままの風景が描かれており、孤独が見る者の心の奥底を凍らせる。

代表作の「クリスティーナの世界」は実物は展示されておらず、習作がいくつか並んでいる。クリスティーナの手の位置や、体の向き、指の形などが異なるのが特徴。ワイエスが最も効果的な構図を模索していたことが分かる。

やがてクリスティーナもアルヴァロも亡くなり、オルソン・ハウスは主を失う。小雪の舞う中、佇むオルソン・ハウス。サウンド・オブ・サイレンスが聞こえる。
一方、オルソン・ハウスの屋根と煙突を描いた絵があるのだが、在りし日のオルソン家の人々の声が煙突や窓から響いてきそうで、ノスタルジアをかき立てられると同時に、もう帰らない日々の哀しみがさざ波のように心の縁を濡らす。

1917年に生まれ、2009年に亡くなったワイエス。アメリカの国民的画家の一人だが、日本に紹介されるのは案外遅く、丁度、私が生まれた1974年に東京国立近代美術館と京都国立近代美術館で展覧会が行われ、大きな話題となった。私の世代ではすでに美術の教科書に作品が載る画家になっている。
幼い頃から体が弱く、学校には通えず、家庭教師に教わった。「長生きは出来ない」と医者から宣告されていたワイエスは、画家活動を続けながら、常に死と隣り合わせの感覚であったが、結果として長寿を全うしている。

以前、阪急電車で梅田に向かっているときに、たまたま向かい合わせの前の席の人が嵯峨美(嵯峨美術短期大学。現在の嵯峨美術大学短期大学部)とムサビ(武蔵野美術大学)出身の女性で、私も美術ではないが京都造形芸術大学で、絵にはまあまあの知識があったので、絵画の話になり、アンドリュー・ワイエスが好きだというと、「埼玉県の朝霞市にワイエスをコレクションしている美術館がある」と教えてくれたのだが、今回、ワイエス作品を提供しているのが、その朝霞市にある丸沼芸術の森である。

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アサヒグループ大山崎山荘美術館は、その名の通り、関西の実業家、加賀正太郎の大山崎山荘を安藤忠雄が美術館にリノベーションしたお洒落な施設である。美術作品と同時に、実業家の山荘の洗練度と豪壮さを楽しむことも出来るというお得な美術館。

ベランダから眺めると正面に男山(石清水八幡宮)を望むことが出来る。

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庭園も芝生が敷き詰められた場所があるなど、優しさの感じられる回遊式庭園となっている。


「天下分け目」の天王山の中腹にあり、そのまま道を登ると天王山の山頂(山崎の戦いの後、豊臣秀吉が山崎城を築き、一時、居城としていた)に出ることが出来るのだが、早いとはいえない時刻であり、登山のための準備をしてきていないので、今日は諦める。山城は危険である。

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2024年10月11日 (金)

観劇感想精選(471) 日米合作ブロードウェイミュージカル「RENT」 JAPAN TOUR 2024大阪公演

2024年9月14日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後5時30分から、大阪・梅田のSkyシアターMBSで、日米合作ブロードウェイミュージカル「RENT」JAPAN TOUR 2024 大阪公演を観る。英語上演、日本語字幕付きである。
SkyシアターMBSは、大阪駅前郵便局の跡地に建てられたJPタワー大阪の6階に今年出来たばかりの新しい劇場で、今、オープニングシリーズを続けて上演しているが、今回の「RENT」は貸し館公演の扱いのようで、オープニングシリーズには含まれていない。

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プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」をベースに、舞台を19世紀前半のパリから1990年代後半(20世紀末)のニューヨーク・イーストビレッジに変え、エイズや同性愛、少数民族など、プッチーニ作品には登場しない要素を絡めて作り上げたロックミュージカルである。ストーリーなどは「ラ・ボエーム」を踏襲している部分もかなり多いが、音楽は大きく異なる。ただ、ラスト近くで、プッチーニが書いた「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)の旋律がエレキギターで奏でられる部分がある。ちなみに「私が街を歩けば」に相当するナンバーもあるが、曲調は大きく異なる。

脚本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン。演出:トレイ・エレット、初演版演出:マイケル・グライフ、振付:ミリ・パーク、初演版振付:マリース・ヤーヴィ、音楽監督:キャサリン・A・ウォーカー。

出演は、山本耕史、アレックス・ボニエロ、クリスタル ケイ、チャベリー・ポンセ、ジョーダン・ドブソン、アーロン・アーネル・ハリントン、リアン・アントニオ、アーロン・ジェームズ・マッケンジーほか。
観客とのコール&レスポンスのシーンを設けるなど、エンターテインメント性の高い演出となっている。

タイトルの「RENT」は家賃のことだが、家賃もろくに払えないような貧乏芸術家を描いた作品となっている。

主人公の一人で、ストーリーテラーも兼ねているマークを演じているのは山本耕史。彼は日本語版「レント」の初演時(1998年)と再演時(1999年)にマークを演じているのだが、久しぶりのマークを英語で演じて歌うこととなった。かなり訓練したと思われるが、他の本場のキャストに比べると日本語訛りの英語であることがよく分かる。ただ今は英語も通じれば問題ない時代となっており、日本語訛りでも特に問題ではないと思われる(通じるのかどうかは分からないが)。
マークはユダヤ系の映像作家で、「ラ・ボエーム」のマルチェッロに相当。アレックス・ボニエロ演じるロジャーが詩人のロドルフォに相当すると思われるのだが、ロジャーはシンガーソングライターである。このロジャーはHIV陽性である。ミミはそのままミミである(演じるのはチャベリー・ポンセ)。ミミはHIV陽性であるが、自身はそのことを知らず、ロジャーが話しているのを立ち聞きして知ってしまうという、「ラ・ボエーム」と同じ展開がある。
ムゼッタは、モーリーンとなり、彼女を囲うアルチンドロは、性別を変えてジョアンとなっている。彼女たちは恋人同士となる(モーリーンがバイセクシャル、ジョアンがレズビアンという設定)。また「ラ・ボエーム」に登場する音楽家、ショナールが、エンジェル・ドゥモット・シュナールドとなり、重要な役割を果たすドラッグクイーンとなっている。

前半は賑やかな展開だが、後半に入ると悲劇性が増す。映像作家であるマークがずっと撮っている映像が、終盤で印象的に使われる。
「ラ・ボエーム」は悲劇であるが、「RENT」は前向きな終わり方をするという大きな違いがある。ロック中心なのでやはり湿っぽいラストは似合わないと考えたのであろう。個人的には、「ラ・ボエーム」の方が好きだが、「RENT」も良い作品であると思う。ただ、マイノリティー全体の問題を中心に据えたため、「ラ・ボエーム」でプッチーニが描いた「虐げられた身分に置かれた女性」像(「ラ・ボエーム」の舞台となっている19世紀前半のパリは、女性が働く場所は被服産業つまりお針子や裁縫女工、帽子女工など(グリゼット)しかなく、彼女達の給料では物価高のパリでは生活が出来ないので、売春などをして男に頼るしかなかったという、平民階級の独身の女性にとっては地獄のような街であった)が見えなくなっているのは、残念なところである。

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2024年9月22日 (日)

コンサートの記(856) 加藤訓子 プロデュース STEVE REICH PROJECT 「kuniko plays reich Ⅱ/DRUMMING LIVE」@ロームシアター京都サウスホール

2024年8月25日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後5時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、加藤訓子プロデュース STEVE REICH PROJECT 「kuniko plays reich Ⅱ/DRUMMING LIVE」を聴く。
全曲を現代を代表するアメリカのミニマル・ミュージックの作曲家、スティーヴ・ライヒの作品で固めたプロジェクト。ライヒと共演を重ねている打楽器奏者の加藤訓子(かとう・くにこ)が、自身のソロと若い奏者達との共演により、ライヒ作品を奏でていく。

曲目は、前半の「kuniko plays reich Ⅱ」(編曲&ソロパフォーマンス:加藤訓子+録音)が、「フォーオルガンズ」、「ナゴヤマリンバ」、「ピアノフェイズ」(ビブラフォン版)、「ニューヨークカウンターポイント」(マリンバ版)。後半の「DRUMING LIVE」が、「ドラミング」全曲。

開演前と休憩時間にロビーコンサートが行われ、開演前はハンドクラップによる「Clapping Music」の演奏が、休憩時間にはパーカッションによる「木片の音楽」の演奏が行われた。日本でのクラシックのコンサートでは、体を動かしながら聴くのはよろしくないということで(外国人はノリノリで聴いている人も多い)リズムを取ったりは出来ないのだが、ロビーコンサートはおまけということでそうした制約もないので、手や足でリズムを取りながら聴いている人も多い。ミニマル・ミュージックの場合、リズムが肝になることが多いため、体を動かしながら聴いた方が心地良い。


まず、スティーヴ・ライヒによる日本の聴衆に向けたビデオメッセージが流れる。1991年に初来日し、東京・渋谷のBunkamuraでの自身の作品の上演に立ち会ったこと、1996年に再来日した時の彩の国さいたま芸術劇場やBunkamuraでの再度の公演の思い出を語り、「日本に行きたい気持ちは強いのですが、1991年の時のように若くはありません」と高齢を理由に長距離移動を諦めなければならないことなどを述べた。

「kuniko plays reich Ⅱ」。第1曲目の「フォーオルガンズ」では、録音されたオルガンの音が流れる中、加藤がひたすらマラカスを振り続ける。この上演に関しては音楽性よりも体力がものを言うように思われる。
その後は、マリンバやビブラフォンを演奏。ちなみに木琴(シロフォン)とマリンバは似ているが、マリンバは広義的には木琴に属するものの、歴史や発展経緯などが異なっている。シロフォンがヨーロッパで発展したのに対し、マリンバはアフリカで生まれ、南米で普及している。日本ではオーケストラではシロフォンが用いられることの方が多いが、ソロではマリンバの方が圧倒的に人気で、日本木琴協会に登録している演奏家のほとんどがマリンバ奏者となったため、協会自体が日本マリンバ協会に名称を改めている。
ミニマル・ミュージックならではの高揚感が心地よい。


後半、「DRUMING LIVE」。「ドラミング」を演奏するのは、青柳はる夏、戸崎可梨、篠崎陽子、齋藤綾乃、西崎彩衣、古屋千尋、細野幸一、三神絵里子、横内奏(以上、パーカッション)、丸山里佳(ヴォーカル)、菊池奏絵(ピッコロ)、加藤訓子。

4人のパーカッション奏者が威勢良くドラムを奏で、しばらくしてからマリンバやビブラフォン、ヴォーカル、ピッコロなどが加わる。
リズミカルで高揚感があり、パワフルなドラムと、マリンバやビブラフォン、ヴォーカルやピッコロの神秘性が一体となった爽快で洗練された音楽が紡がれていく。音型が少しずつ形を変えながら繰り返されていく様は、聴く者をトランス状態へと導いていく。
偶然だが、久保田利伸の「You were mine」のイントロによく似たリズムが出てくるのも面白かった。

演奏修了後に、歓声が響くなど、演奏は大成功であった。

その後、カーテンコールに応えて、奏者達がハンドクラップを始める。聴衆もそれに乗り、一体感を生むラストとなった。

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2024年7月 8日 (月)

観劇感想精選(465) KAAT 神奈川芸術劇場プロデュース「ライカムで待っとく」京都公演@ロームシアター京都サウスホール

2024年6月7日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、KAAT 神奈川芸術劇場プロデュース「ライカムで待っとく」を観る。作:兼島拓也(かねしま・たくや)、演出:田中麻衣子。出演:中山祐一郎、佐久本宝(さくもと・たから)、小川ゲン、魏涼子(ぎ・りょうこ)、前田一世(まえだ・いっせい)、蔵下穂波(くらした・ほなみ)、神田青(かんだ・せい)、あめくみちこ。

1964年、アメリカ統治下の沖縄で起きた米兵殺傷事件を題材に、現在の沖縄と神奈川、1964年の沖縄、そして「物語の世界」を行き来する形で構成された作品である。

まず最初は現在の神奈川。横浜市が主舞台だと思われるが(中山祐一郎演じる浅野悠一郎が、「ウチナーンチュウ」に対して「横浜ーんちゅう」と紹介される場面がある)、神奈川県全体の問題に絡んでくるので、「神奈川」という県名の方が優先的に使われている。
カルチャー誌の記者をしている浅野悠一郎は、編集長の藤井秀太(藤田一世)から沖縄で起こった米兵殺傷事件について記事にするよう言われる。藤井は、横浜のパン屋に勤める伊礼ちえという沖縄出身の女性(蔵下穂波)と親しくなったのだが、ちえの祖父(無料パンフレットによると伊佐千尋という人物がモデルであることが分かる)が沖縄の米兵殺傷事件の陪審員をしており、その時の記録や手記を大量に書き残していた。そのちえの祖父が悠一郎にそっくりだというのだ。悠一郎が見ても、「これ僕だよ」と言うほどに似ている。実は伊礼ちえには別の正体があるのだが、それはラストで明かされる。
悠一郎の妻・知華(魏涼子)の祖父が亡くなったというので、知華は中学生になる娘のちなみを連れて、一足先に沖縄の普天間にある実家に戻っていた。知華の実家は元は今の普天間基地内にあったのだが、基地を作るために追い出され、普天間基地のすぐそばに移っている。実は知華の亡くなったばかりの祖父が、米兵殺傷事件の容疑者となった佐久本寛二(さくもと・かんじ。演じるのは佐久本宝)であったことが判明する。
沖縄に降り立った悠一郎は、タクシーの運転手(佐久本宝二役)から、若い女性が飲み屋からの帰り道に米兵にレイプされて殺害される事件があったが、その女性をタクシーに乗せて飲み屋まで送ったのは自分だという話を聞く。
悠一郎と知華は、亡くなった人の声を聞くことが出来る金城(きんじょう)という女性(おそらく「ユタ」と呼ばれる人の一人だと思われる。あめくみちこが演じる)を訪ねる。金城は、「どこから来た」と聞き、悠一郎が「神奈川から」と答えると、「京都になら行ったことがあるんだけどね。京都はね、平安神宮の近くに良い劇場(ロームシアター京都のこと)があるよ」と京都公演のためのセリフを言う。
ユタに限らず、降霊というとインチキが多いのだが、金城の力は本物で、29歳の時の祖父、佐久本寛二が現れ、金城は佐久本の言葉を二人に伝える(佐久本は三線を持って舞台奥から現れるが、悠一郎と知華には見えないという設定)。

舞台は飛んで、1964年の沖縄・普天間。近くに琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarter)があり、「Ry」と「Com」を取って「ライカム」と呼ばれていた。米軍が去った後でライカムは一帯を指す地名となり、残った。ライカムの米兵専用ゴルフ場跡地に、2015年にイオンモール沖縄ライカムがオープンしている。
1964年の沖縄でのシーンは、基本的にウチナーグチが用いられ、分かりにくい言葉はウチナーグチを言った後でヤマトグチに直される。
写真館を営む佐久本寛二は、部下の平豊久(小川ゲン)、タクシー会社従業員の嘉数重盛(かかず・しげもり。演じるのは神田青)と共に、大城多江子(あめくみちこ二役)がマーマを務めるおでんやで嘉数の恋人を待っている。嘉数は数日前に米兵から暴行を受けていたが、警察に行っても米兵相手だと取り合ってくれないため、仲間以外には告げていない。恋人がやってきたと思ったら、やってきたのは寛二の兄で、嘉数が勤めるタクシー会社の経営者である佐久本雄信(ゆうしん。前田一世二役)であった。雄信は米兵の知り合いも多い。実は寛二にはもう一人弟がいたのだが、その運命は後ほど明かされた。
嘉数の恋人、栄麻美子(蔵下穂波二役)がやってくる。「ちゅらかーぎー(美人)」である。
嘉数らはゴルフに行く予定で、皆でゴルフスイングの練習をしたりする。しかし結局、「沖縄人だから」という理由でゴルフ場には入れて貰えなかった。
嘉数は麻美子を連れて糸満の断崖へ行って話す。嘉数は11人兄弟であったが、一族は沖縄戦の際に全員、この崖から飛び降りて自決した。「名誉の自決」との教育を受けた世代であり、それが当たり前だった。嘉数一人だけが偶然米兵に助けられて生き残った。

現代。悠一郎はパソコンで記事を書いている。「中立」を保った記事のつもりだが、藤井から「中立というのは権力にすり寄るということ」と言われ、「沖縄の人達の怒りや悲しみを伝えるのが良い記事」だと諭される。悠一郎は、「沖縄の人々に寄り添った記事」を書くことにする。

米兵殺傷事件が起こる。平が米兵に暴行されたのが原因で、寛二はゴルフクラブを手に現場に向かおうとするが、やってきた雄信に「米兵に手を出したらどうなるのか分かっているのか」と説得され、それでも三線を手に現場に向かう。この三線は尋問で凶器と見做される。

米統治下であるため、尋問や証人喚問などはアメリカ人により英語で行われる(背後に日本語訳の字幕が投影される)。またアメリカ時代の沖縄には本国に倣った陪審員制度があり、法律もアメリカのものが適用された。統治下ということはアメリカが主であるということであり、アメリカ人に有利な判決が出るのが当たり前であった。沖縄人による陪審員裁判の現場に悠一郎は迷い込み、陪審員の一人とされる。寛二が現れ、「どっちみち俺らは酷い目に遭うんだから有罪に手を挙げる」よう悠一郎に促す。

「物語」の展開が始まる。「沖縄は日本のバックヤード」と語られ、内地の平和のために犠牲を払う必要があると告げられる。
実は「物語」の作者は悠一郎本人なのであるが、本人にも止められない。
琉球処分、沖縄戦(太平洋戦争での唯一の市民を巻き込んだ地上戦)、辺野古問題などが次々に取り上げられる。辺野古では沖縄人同士の分断も描かれる。アメリカ側が容疑者の引き渡しを拒否した沖縄米兵少女暴行事件も仄めかされる。
いつも沖縄は日本の言うがままだった。そしてそれを受け入れてきた。沖縄戦では大本営の「沖縄は捨て石」との考えの下、大量の犠牲を払ってもいいから米軍を長く引き留める作戦が取られた。沖縄の犠牲が長引けば長引くほど、いわゆる本土決戦のための準備が整うという考えだ。ガマ(洞窟)に逃げ込んだ沖縄の人々は、日本兵に追い出された。また手榴弾を渡され、いざとなったら自決するように言われ、それに従った。そんな歴史を持つ島に安易に「寄り添う」なんて余りにも傲慢である。悠一郎が「寄り添う」を皮肉として言われる場面もある。
丁度、今日のNHK連続テレビ小説「虎に翼」では、穂高教授(小林薫)の善意から出た見下し(穂高本人は気づいていない)に寅子(伊藤沙莉)が反発する場面が描かれたが、構図として似たものがある。

最後に、京都で「ライカムで待っとく」を上演する意義について。戦後、神奈川県内に多くの米軍施設が作られ、今も使われている(米軍施設の設置面積は沖縄県に次ぐ日本国内2位である)。横須賀のどぶ板通りを歩くと、何人もの米兵とすれ違う。これが神奈川で上演する意義だとすると、京都は「よそ者に蹂躙され続けた」という沖縄に似た歴史を持っており、そうした街で「ライカムで待っとく」を上演することにはオーバーラップの効果がある。鎌倉幕府が成立すると、承久の乱で関東の武士達が京に攻めてきて、街を制圧、六波羅探題が出来て監視下に置かれる。鎌倉幕府が滅びたかと思いきや、関東系の足利氏が京の街を支配し、足利義満は明朝から日本国王の称号を得て、天皇よりも上に立つ。足利義政の代になると私闘に始まる応仁・文明の乱で街は灰燼に帰す。
足利氏の天下が終わると、今度は三好長慶や織田信長が好き勝手やる。豊臣秀吉に至っては街を勝手に改造してしまう。徳川家康も神泉苑の大半を潰して二条城を築き、その北に京都所司代を置いて街を支配する。幕末になると長州人や薩摩人が幅を利かせるようになり、対抗勢力として会津藩が京都守護職として送り込まれ、関東人が作った新選組が京の人々を震え上がらせる。禁門の変では「どんどん焼け」により、またまた街の大半が焼けてしまう。維新になってからも他県出身の政治家が絶えず街を改造する。それでも京都はよその人を受け入れるしかない。沖縄の人が「めんそーれ」と言って出迎えるように、京都は「おこしやす」の姿勢を崩すわけにはいかないのである。

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2024年6月 3日 (月)

これまでに観た映画より(336) 「ジョン・レノン 失われた週末」

2024年5月15日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「ジョン・レノン 失われた週末」を観る。
1969年に結婚し、1980年にジョンが射殺されるまでパートナーであったジョン・レノンとオノ・ヨーコだが、1973年の秋からの18ヶ月間、別居していた時代があった。不仲が原因とされ、ジョンはニューヨークにオノ・ヨーコを置いてロサンゼルスに移っている。この間、ジョンのパートナーとなったのが、ジョンとヨーコの個人秘書だったメイ・パンであった。
中国からの移民である両親の下、ニューヨークのスパニッシュ・ハーレム地区に生まれ育ったメイ・パンは、カトリック系の学校に学び、卒業後は大学への進学を嫌ってコミュニティ・カレッジに通いながら、大ファンだったビートルズのアップル・レコード系の会社に事務員として潜り込む。面接では、「タイピングは出来るか」「書類整理は出来るか」「電話対応は出来るか」との質問に全て「はい」と答えたものの実は真っ赤な嘘で、いずれの経験もなく、まさに潜り込んだのである。プロダクション・アシスタントとして映画の制作にも携わったメイ。ジョン・レノンの名曲「イマジン」のMVの衣装担当もしている。また「Happy Xmas(War is Over)」にコーラスの一人として参加。ジャケットに写真が写っている。

ジョンの最初の妻、シンシアとの間に生まれたジュリアン・レノン。ヨーコは、ジュリアンからの電話をジョンになかなか繋ごうとしなかったが、メイはジョンとジュリアン、シンシアとの対面に協力している。ジョンが「失われた週末」と呼んだ18ヶ月の間に、ジョンはエルトン・ジョンと親しくなって一緒に音楽を制作し、不仲となっていたポール・マッカートニーと妻のリンダとも再会してセッションを行い、ジョン・レノンとしてはアメリカで初めてヒットチャート1位となった「真夜中を突っ走れ」などを制作するなど、音楽的に充実した日々を送る。デヴィッド・ボウイやミック・ジャガーなどとも知り合ったジョンであるが、メイは後にデヴィッド・ボウイのプロデューサーであったトニー・ヴィスコンティと結婚して二児を設けている(後に離婚)。

テレビ番組に出演した際にジョンが、「ビートルズの再結成はある?」と聞かれて、「どうかな?」と答える場面があるが、その直後にビートルズは法的に解散することになり、その手続きの様子も映っている。

現在(2022年時点)のメイ・パンも出演しており、若い頃のメイ・パンへのインタビュー映像も登場するなど、全体的にメイ・パンによるジョン・レノン像が語られており、中立性を保てているかというと疑問ではある。メイにジョンと付き合うことを勧めたのはオノ・ヨーコだそうで、性的に不安定であったジョンを見て、「あなたが付き合いなさい」とヨーコが勧めたそうである。ジョンの音楽活動自体は「失われた週末」の時期も活発であり、ヨーコの見込みは当たったことになるが、ジョンも結局はメイではなくヨーコを選んで戻っていくことになる。
ジョンがヨーコの下に戻ってからも付き合いを続けていたメイであるが、1980年12月8日、ジョンは住んでいた高級マンション、ダコタハウスの前で射殺され、2人の関係は完全に終わることになる。

メイ・パンは、ジュリアン・レノンとは親しくし続けており、映画終盤でもインタビューを受けるジュリアンに抱きつき、歩道を肩を組みながら歩いている。
ちなみにメイ・パンが2008年に上梓した『ジョン・レノン 失われた週末』が今年、復刊されており、より注目を浴びそうである。

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2024年2月25日 (日)

観劇感想精選(456) 三谷幸喜 作・演出「オデッサ」

2024年2月3日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後5時30分から、大阪の森ノ宮ピロティホールで、三谷幸喜の作・演出作品「オデッサ」を観る。出演:柿澤勇人、宮澤エマ、迫田孝也。音楽・演奏:荻野清子。
オデッサといえば、今ではオデーサ表記が一般的となったウクライナの黒海沿いの都市が有名だが、今回舞台となるのはアメリカはテキサス州の小都市・オデッサである。かつてロシア系の移民が開拓を行った時にオデッサに似ているというのでその名が付いたようである。以前には石油の産地として栄えたこともあったようだが、現在は寂れて、人口も10万人程度となっている。そんなオデッサで殺人事件がある。もともとテキサス州では女性ばかり8人連続で殺害されるという事件が起こっていたのだが、今回はそれとは別の老人殺しの事件で、被疑者は日本人。オデッサ署の日系アメリカ人女性警官カチンスキー警部(宮澤エマ)、通訳を務めることになったトレーナーの日高(柿澤勇人)、鹿児島出身の被疑者である児島(迫田孝也)によるダイナー(8人殺しの取り調べにより取調室が満員で、ダイナーを使う羽目になっている)における密室でのやり取りが続く。

宮澤エマと柿澤勇人は英語が話せて互いの意思疎通が可能という役なので、二人だけの時は日本語で会話が行われ、迫田が入り、柿澤が宮澤と英語でやり取りを行う場面では、背後に日本語の字幕が出る。柿澤と迫田は共に鹿児島県出身という設定なので、二人で話すときは薩摩弁が用いられる。カーテンコールでの字幕紹介でも迫田には「鹿児島弁指導」、宮澤エマには「英語監修」の肩書きが記されていた。

迫田演じる旅行者はやたらと有罪になりたがるのだが、これには訳がある。柿澤演じるスティーブこと日高は、同郷のよしみからか児島を無罪へと無闇に誘導したがる。途中まではその方向性で進んでいくのだが、迫田演じる旅行者がふと口にした一言で、それまでの取り調べの過程が一気にひっくり返ることになる。

言語を題材にしたミステリーで、言語による落差やそれぞれの立場、日本人の性質や銃社会アメリカの問題などが描かれており、コミカルな中にもアメリカ社会のシリアスな面が浮かび上がるようになっている。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演していた3人によるアンサンブル。完璧とまではいかなかったが、それぞれの持ち味を発揮した生き生きとした演技を行っていたように思う。

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2022年11月18日 (金)

コンサートの記(814) KDDIスペシャル アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団来日演奏会2022京都 京都・ボストン姉妹都市交流コンサート

2022年11月10日 京都コンサートホールにて

午後7時から京都コンサートホールで、アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団の来日演奏会を聴く。京都・ボストン姉妹都市交流コンサートでもある。

曲目は、ショウの「Punctum」(オーケストラ版)、モーツァルトの交響曲第40番、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲。


若手指揮者の中でもトップランクの一人に数えられるアンドリス・ネルソンス。1978年、ソ連時代のラトヴィアの首都リガの音楽一家の出である。ラトヴィア国立歌劇場管弦楽団のトランペット奏者としてキャリアをスタートさせ、ラトヴィア出身の名指揮者として知られたマリス・ヤンソンス、エストニア出身のネーメ・ヤルヴィ、フィンランド出身のヨルマ・パヌラらに指揮を師事。ラトヴィア国立歌劇場の首席指揮者に就任して以降、バーミンガム市交響楽団、北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団などのシェフを歴任し、現在は、ボストン交響楽団の音楽監督とライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスター(楽長)の地位にある。アメリカとヨーロッパのトップランクのオーケストラのシェフの座を手にしており、40代にしてはかなりの出世とみて間違いない。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも定期的に客演している。

アメリカのビッグ5の一角を占めるボストン交響楽団。ニューイングランドのマサチューセッツ州ボストンを本拠地にしているということもあり、アメリカのオーケストラの中でもヨーロピアンテイストの響きを聞かせることで知られる。小澤征爾との長年のコンビでもお馴染みであったが、それ以前にもシャルル・ミュンシュやセルゲイ・クーセヴィツキーと黄金期を築き、世界的に最も著名なオーケストラの一つである。
が、今日の客の入りは悲惨。安い席はほぼ埋まっているが、高い席、特に1階席は4分の1程度しか埋まっておらず、2階席のステージから遠い場所、3階席正面などもガラガラである。やはり世界的な知名度を誇るとはいえ、若手指揮者の公演の割にはチケットが高すぎたということもあるだろう。流れてきた情報によると、昨夜の横浜みなとみらいホールでの公演もやはり惨憺たる入りだったようである(その後の大阪や東京での公演では客の入りは良かったようだ)。

KDDIスペシャルと銘打たれた冠公演であり、無料パンフレットはかなり充実している。
首席指揮者などの座席には、シャルル・ミュンシュ・チェアーなどボストン響ゆかりの音楽家の名前が付けられているようだ。


ショウの「Punctum」(オーケストラ版)。弦楽オーケストラのための作品である。
キャロライン・ショウは、1982年生まれのアメリカ人若手作曲家。ピュリツァー賞、グラミー賞などを受賞している。「Punctum」(オーケストラ版)は、アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団によって今年の夏に初演されたばかりの曲である。

音楽をバスタブに例えると、蓋が外されて湯がヒューっという感じて抜けていくような独特の音型が奏でられた後で、古典的とも思える音の刻み(バッハがモチーフである)を経て、ミニマル・ミュージック系の音型が奏でられていく。分かりやすい現代音楽である。


モーツァルトの交響曲第40番ト短調。クラリネット入りの第2版での演奏である。
第1楽章は往年の名指揮者のような、ゆったりめの速度でスタート。悲劇性は余り強調されないが、惻々とした悲しみが胸に染み通る。
第2楽章は現在流行りのピリオド系の演奏のように速めのテンポを採用。どこまでも高く抜けていく空を見上げながら誰にも結びついていない孤独を味わっているような趣がある。
第3楽章、第4楽章は中庸のテンポで、迫力、疎外感、倦怠、嘆きなどを的確に表していた。


リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響楽団。かなり明るめの解釈である。夜が明ける前から山稜に太陽の光がよじ登っているのが見えるかのよう。大編成での演奏であり、京都コンサートホールがこれまで経験した中で一番と思えるほど鳴る。ただ鳴りすぎであり、音響は飽和気味。そのため音の輪郭もはっきりと聞き取ることは難しくなる。
とにかくパワフルであり、嵐に突入する際の2台のティンパニによる強打などは凄まじいほどの勢いである。
各場面の描写力にも優れているのだが、音が強すぎるということもあって陰影を欠きがちである(そもそもそれほど陰影に富んだ楽曲という訳ではないが)。押しばかりで引きがないため、せっかくのボストン響との演奏であるが、これまでに聴いたアルプス交響曲の中での上位には届かないと思われる。もっと繊細さも欲しくなる。

とはいえ、浮遊感のある響きは独特であり、やはり日本のオーケストラからは聴けないものである。音に翼が生えて空間を駆け巡る様が見えるかのようだ。

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2022年10月11日 (火)

美術回廊(80) 「アンディ・ウォーホル・キョウト」

2022年9月21日 左京区岡崎の京都市京セラ博物館・東山キューブにて

京都市京セラ美術館の新館である東山キューブで、「アンディ・ウォーホル・キョウト」を観る。アメリカのモダンアートを代表するアンディ・ウォーホル(本名:アンドリュー・ウォーホラ。1928-1987)の没後最大級の回顧展である。ちなみにウォーホルは、1956年と1974年に来日しており、京都も訪れているようである。

会場内はスマホ内蔵のカメラでの撮影のみ可であり、フラッシュの使用や動画撮影は禁止となっている。

ウォーホルの美術の特徴は、ポップなタッチや豊かな色彩もさることながら、「芸術における唯一性の逆転」を最大のものとしている。それまでの美術は、「一点しかないこと」「真作であること」に価値があったのだが、ウォーホルは大量生産・大量消費の時代を反映して、同じものをいくつも描き、オリジナリティも否定して、「唯一でないことの唯一性」を示すことの成功した。そうしたポップアートを提唱したのはウォーホルが最初であったはずである。そこにはあるいは「ミニマル」という観念が作用していたかも知れない。

ウォーホルが京都を訪れた時のスケッチの展示があるほか、YMO時代の坂本龍一や葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を取り入れたアートがあり、日本からの影響も分かりやすく示されている。坂本龍一の肖像は、2枚1組であるが、同様の肖像画としてアレッサ・フランクリンやシルヴェスター・スタローンのものが並んでいる。また、本展覧会のポスターに採用されている3つの顔が並んだマリリン・モンローのものも観ることが出来る。

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有名なキャンベルスープの缶を描いた作品や、ジャクリーン・ケネディの複数の表情をモチーフにした「ジャッキー」という作品などが興味深い。

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プライベートを明かさなかったウォーホルであるが、敬虔なキリスト教徒であり、協会での礼拝を欠かさなかった。展覧会の後半には、キリスト教をテーマにした作品も並ぶが、「最後の晩餐」には、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に20世紀のアメリカ的な要素を持ち込んだオリジナリティを放棄したことで逆に独自のオリジナリティを発揮するというウォーホルらしい技巧がちりばめられている。

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ウォーホルの「生死観」については、壁に以下のような文字が投影されている。「ぼくは死ぬということを信じていない。起こった時にはいないからわからないからだ。死ぬ準備なんかしていないから何も言えない(I don't believe it(death),because you're not around to know that it's happend.I can't say anything about it because I'm not prepared for it.)」

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2022年9月15日 (木)

これまでに観た映画より(311) 「トップガン マーヴェリック」

2022年9月12日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、「トップガン マーヴェリック」を観る。大ヒットしたトム・クルーズ主演作の36年ぶりの続編である。前作をリアルタイムで観た人も(私は残念ながら前作はロードショーでは観ていない)、前作を知らない人でも楽しめるエンターテインメント大作となっている。こうした娯楽大作の場合は、解説や解釈を書いても(そもそも解釈の入る余地はほとんどない)余り意味はないと思われるが(あるとすれば、「スター・ウォーズ」の意図的な模倣――おそらくリスペクト――ぐらいだろうか)、取り敢えず紹介記事だけは書いておきたい。

監督:ジョセフ・コシンスキー、脚本:アレン・クルーガーほか。製作にトム・クルーズが名を連ねている。実は、今月16日からは、前作「トップガン」の公開も始まるそうで、前作を観たことがない人は、「トップガン」もスクリーンで観る機会が訪れた。私もこの機会にスクリーンで観てみたいと思っている。

出演:トム・クルーズ、マイルズ・テラー、ジェニファー・コネリー、グレン・パウエル、モニカ・バルバロ、ルイス・プルマン、ヴァル・キルマー、エド・ハリスほか。

世界最高峰のパイロット養成機関トップガン出身のピート“マーヴェリック”ミッチェル(トム・クルーズ)は、今も現役のパイロットとして活躍。マッハ9、更にはマッハ10の壁を破ることに挑戦しようとしていた。だがそのプロジェクトに横槍が入りそうになる。今後、飛行機は自動運転化が進み、パイロットは不要となるということで、人間が運転して音速の何倍も速く飛ぼうが意味はないというのだ。AI万能論が台頭しつつある現代的な問題が提示されているが、マーヴェリックは、「(パイロットが不要になるのは)今じゃない」と答え、見事マッハ10の壁と突破する。
そんなマーヴェリックに課せられたミッションがある。トップガンの教員となって敵対する某国のウラン濃縮プラントの破壊に協力して欲しいというのだ。マーヴェリックは座学だけでなく、自らジェット機の操縦桿を握り、実戦形式で若いパイロット達を鍛えていくのだった。

とにかくジェット機によるアクションが見所抜群で、これだけでもおつりが来そうな感じである。マーヴェリックを巡る人間ドラマは、実のところそれほど特別ではないのだが(既視感のあるシーンも多い)、それによって空中でのシーンが一層引き立つように計算されている。
それにしてもトム・クルーズは大変な俳優である。宗教の問題が取り沙汰される昨今、サイエントロジー教会の広告塔ということだけが気になるが(難読症・失読症の持ち主として知られるが、サイエントロジーによって文字が読めるようになったと語っている)、マーヴェリックその人になりきって全てのシーンで観客を魅了してみせている。

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