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2025年2月27日 (木)

コンサートの記(891) 準・メルクル指揮 京都市交響楽団第697回定期演奏会

2025年2月15日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第697回定期演奏会を聴く。指揮は、日独ハーフの準・メルクル。

NHK交響楽団との共演で名を挙げた準・メルクル。1959年生まれ。ファーストネームの漢字は自分で選んだものである。N響とはレコーディングなども行っていたが、最近はご無沙汰気味。昨年、久しぶりの共演を果たした。近年は日本の地方オーケストラとの共演の機会も多く、京響、大フィル、広響、九響、仙台フィルなどを指揮している。また非常設の水戸室内管弦楽団の常連でもあり、水戸室内管弦楽団の総監督であった小澤征爾の弟子でもある。
現在は、台湾国家交響楽団音楽監督、インディアナポリス交響楽団音楽監督、オレゴン交響楽団首席客演指揮者と、アジアとアメリカを中心に活動。今後は、ハーグ・レジデエンティ管弦楽団の首席指揮者に就任する予定で、ヨーロッパにも再び拠点を持つことになる。これまでリヨン国立管弦楽団音楽監督、ライプツィッヒのMDR(中部ドイツ放送)交響楽団(旧ライプツィッヒ放送交響楽団)首席指揮者、バスク国立管弦楽団首席指揮者、マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督(広上淳一の前任)などを務め、リヨン国立管弦楽団時代にはNAXOSレーベルに「ドビュッシー管弦楽曲全集」を録音。ラヴェルも「ダフニスとクロエ」全曲を録れている。2012年にはフランス芸術文化勲章シュヴァリエ賞を受賞。国立(くにたち)音楽大学の客員教授も務め、また台湾ユース交響楽団を設立するなど教育にも力を入れている。

 

曲目は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲(ピアノ独奏:アレクサンドラ・ドヴガン)とラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」全曲(合唱:京響コーラス)。
「ダフニスとクロエ」は、組曲版は聴くことが多いが(特に第2組曲)全曲を聴くのは久しぶりである。
今日はポディウムを合唱席として使うので、いつもより客席数が少なめではあるが、チケット完売である。

 

午後2時頃から、準・メルクルによるプレトークがある。英語によるスピーチで通訳は小松みゆき。日独ハーフだが、日本語の能力については未知数。少なくとも日本語で流暢に喋っている姿は見たことはない。同じ日独ハーフでもアリス=紗良・オットなどは日本語で普通に話しているが。ともかく今日は英語で話す。
ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲だが、パガニーニの24のカプリースより第24番の旋律(メルクルがピアノで弾いてみせる)を自由に変奏するが、変奏曲ではなく狂詩曲なので、必ずしも忠実な変奏ではなく他の要素も沢山入れており、有名な第18変奏はパガニーニから離れて、「世界で最も美しい旋律の一つ」としていると語る。私が高校生ぐらいの頃、というと1990年代初頭であるが、KENWOODのCMで「ピーナッツ」のシュローダーがこの第18変奏を弾くというものがあった。おそらく、それがこの曲を聴いた最初の機会であったと思う。
「ダフニスとクロエ」についてであるが、19世紀末のフランスでバレエが盛んになったが、音楽的にはどちらかというと昔ならではのバレエ音楽が作曲されていた。そこにディアギレフがロシア・バレエ団(バレエ・リュス)と率いて現れ、ドビュッシーやサティ、ストラヴィンスキーなどに新しいバレエ音楽の作曲を依頼する。ラヴェルの「ダフニスとクロエ」もディアギレフの依頼によって書かれたバレエ曲である。演奏時間50分強とラヴェルが残した作品の中で最も長く(バレエ音楽としては長い方ではないが)、特別な作品である。バレエ音楽としては珍しく合唱付きで、また歌詞がなく、「声を音として扱っているのが特徴」とメルクルは述べた。またモチーフライトに関しては「愛の主題」をピアノで奏でてみせた。
また笛を吹く牧神のパンに関しては、元々は竹(日本語で「タケ」と発音)で出来ていたフルートが自然の象徴として表しているとした。

往々にしてありがちなことだが、バレエの場合、音楽が立派すぎると踊りが負けてしまうため、敬遠される傾向にある。「ダフニスとクロエ」も初演は成功したが、ディアギレフが音楽がバレエ向きでないと考えたこともあって、この曲を取り上げるバレエ団は続かず、長らく上演されなかった。
現在もラヴェルの音楽自体は高く評価されているが、基本的にはコンサート曲目としてで、バレエの音楽として上演されることは極めて少ない。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏。フルート首席の上野博昭はラヴェル作品のみの登場である。今日のヴィオラの客演首席は佐々木亮、チェロの客演首席には元オーケストラ・アンサンブル金沢のルドヴィート・カンタが入る。チェレスタにはお馴染みの佐竹裕介、ジュ・ドゥ・タンブルは山口珠奈(やまぐち・じゅな)。

 

ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲。ピアノ独奏のアレクサンドラ・ドヴガンは、2007年生まれという、非常に若いピアニストである。モスクワ音楽院附属中央音楽学校で幼時から学び、2015年以降、世界各地のピアノコンクールに入賞。2018年には、10歳で第2回若いピアニストのための「グランド・ピアノ国際コンクール」で優勝している。ヒンヤリとしたタッチが特徴。その上で華麗なテクニックを武器とするピアニストである。
メルクルは敢えてスケールを抑え、京響の輝かしい音色と瞬発力の高さを生かした演奏を繰り広げる。ロシアのピアニストをソリストに迎えたラフマニノフであるが、アメリカ的な洗練の方を強く感じる。ドヴガンもジャズのソロのように奏でる部分があった。

ドヴガンのアンコール演奏は、ショパンのワルツ第7番であったが、かなり自在な演奏を行う。溜めたかと思うと流し、テンポや表情を度々変えるなどかなり即興的な演奏である。クラシックの演奏のみならず、演技でも即興性を重視する人が増えているが(第十三代目市川團十郎白猿、草彅剛、伊藤沙莉など。草彅剛と伊藤沙莉はインタビューでほぼ同じことを言っていたりする。二人は共演経験はあるが、別に示し合わせた訳ではないだろう)、今後は表現芸術のスタイルが変わっていくのかも知れない。
今まさにこの瞬間に生まれた音楽を味わうような心地がした。

 

ラヴェルの音楽「ダフニスとクロエ」全曲。舞台上に譜面台はなく、準・メルクルは暗譜しての指揮である。
パガニーニの主題による狂詩曲の時とは対照的に、メルクルはスケールを拡げる。京都コンサートホールは音が左右に散りやすいので、最初のうちは風呂敷を広げすぎた気もしたが次第に調整。京響の美音を生かした演奏が展開される。純音楽的な解釈で、あくまで音として聞かせることに徹しているような気がした。その意味ではコンサート的な演奏である。
京響の技術は高く、音は輝かしい。メルクルの巧みなオーケストラ捌きに乗って、密度の濃い演奏を展開する。リズム感も冴え、打楽器の強打も効果を上げる。

ラストに更に狂騒的な感じが加わると良かったのだが(ラヴェルはラストでおかしなことを要求することが多い)、「純音楽的」ということを考えれば、避けたのは賢明だったかも知れない。オーケストラに乱れがない方が良い。
ポディウムに陣取った京響コーラスも優れた歌唱を示した。

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2025年2月 4日 (火)

これまでに観た映画より(373) リドリー・スコット監督作品「ブラック・レイン」デジタル・リマスター版

2025年1月30日 烏丸御池のアップリンク京都にて

アップリンク京都で、リドリー・スコット監督作品「ブラック・レイン」デジタル・リマスター版を観る。松田優作の遺作としても知られる映画である。出演:マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシア、高倉健、松田優作、ケイト・キャプショー、神山繁、若山富三郎、安岡力也、内田裕也、ガッツ石松、島木譲二、小野みゆき、國村隼ほか。音楽:ハンス・ジマー。撮影監督:ヤン・デ・ボン。
タイトルは、B29による爆撃の後に降り注いだ黒い雨に由来している。
1週間限定の上映。

ニューヨークで物語は始まるが、大阪や神戸など、関西圏でのロケ場面の方が長い作品である。
ニューヨークで日本のヤクザの抗争があり、佐藤(松田優作)を逮捕したニューヨーク市警のニック(マイケル・ダグラス)とチャーリー(アンディ・ガルシア)。二人は佐藤を彼の地元の大阪まで護送することになるが、伊丹空港で佐藤の手下に騙されて、佐藤に逃げられてしまう。大阪府警の松本警部補(高倉健)と共に佐藤を追うニックとチャーリーだったが、チャーリーは佐藤とその手下の罠にはまり、日本刀で斬られて命を落とす。復讐を誓うニック。アメリカへの強制送還を命じられるが、飛行機から抜け出し、松本を頼る。松本はニックに協力していたため停職処分を受けていたが、最終的にはニックとすることになる。
佐藤は偽札作りを行っていた元兄貴分の菅井(若山富三郎)と接触。その情報を得たニックは菅井が他の組の者達を落ち合う場所を知り、出向く。

関西でロケが行われているのが魅力であるが、銃撃シーンは許可が下りなかったため、アメリカの田舎で撮影されている。その辺は残念である。

すでに癌に蝕まれていた松田優作。血尿が出たりしていたそうだが、安岡力也以外には病状を教えず、撮影を貫いた。バイクアクションなども華麗にこなしている。

 

坂本龍一の『SELDOM ILLEGAL 時には、違法』を読むと、プロデューサーから彼に、「『ブラック・レイン』に出る背格好の丁度良い日本人俳優を探してるんだ、まあ君でもいいんだけど」という話があったことが分かる。坂本は依頼を断ったようだ。その代わり楽曲を提供しており、いかにも坂本龍一的な音楽が流れる場面がある。

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2025年2月 2日 (日)

コンサートの記(884) レナード・スラットキン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第584回定期演奏会 オール・ジョン・ウィリアムズ・プログラム

2025年1月23日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第584回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、大フィルへは6年ぶりの登場となるレナード・スラットキン。オール・ジョン・ウィリアムズ・プログラムである。

MLBが大好きで、WASPではなくユダヤ系でありながら「最もアメリカ的な指揮者」といわれるレナード・スラットキン。1944年生まれ。父親は指揮者でヴァイオリニストのフェリックス・スラットキン。ハリウッド・ボウル・オーケストラの指揮者であった。母親はチェロ奏者。

日本にも縁のある人で、NHK交響楽団が常任指揮者の制度を復活させる際に、最終候補三人のうちの一人となっている。ただ、結果的にはシャルル・デュトワが常任指揮者に選ばれた(最終候補の残る一人は、ガリー・ベルティーニで、彼は東京都交響楽団の音楽監督になっている)。スラットキンが選ばれていたら、N響も今とはかなり違うオーケストラになっていたはずである。

セントルイス交響楽団の音楽監督時代に、同交響楽団を全米オーケストラランキングの2位に持ち上げて注目を浴びる。ただ、この全米オーケストラランキングは毎年発表されるが、かなりいい加減。セントルイス交響楽団は実はニューヨーク・フィルハーモニックに次いで全米で2番目に長い歴史を誇るオーケストラではあるが、注目されたのはその時だけであり、裏に何かあったのかも知れない。ちなみにその時の1位はシカゴ交響楽団であった。セントルイス響時代はセントルイス・カージナルスのファンであったが、ワシントンD.C.のナショナル交響楽団の音楽監督に転身する際には、「カージナルスからボルチモア・オリオールズのファンに転じることが出来るのか?」などと報じられていた(当時、ワシントン・ナショナルズはまだ存在しない。MLBのチームが本拠地を置く最も近い街がD.C.の外港でもあるボルチモアであった)。ただワシントンD.C.や、ロンドンのBBC交響楽団の首席指揮者の時代は必ずしも成功とはいえず、デトロイト交響楽団のシェフに招かれてようやく勢いを取り戻している。デトロイトではデトロイト・タイガーズのファンだったのかどうかは分からないが、関西にもTIGERSがあるということで、大阪のザ・シンフォニーホールで行われたデトロイト交響楽団の来日演奏会では「六甲おろし」をアンコールで演奏している。2011年からはフランスのリヨン国立管弦楽団の音楽監督も務めた。現在は、デトロイト交響楽団の桂冠音楽監督、リヨン国立管弦楽団の名誉音楽監督、セントルイス交響楽団の桂冠指揮者の称号を得ている。また、スペイン領ではあるが、地理的にはアフリカのカナリア諸島にあるグラン・カナリア・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者も務めている。グラン・カナリア・フィルはCDも出していて、思いのほかハイレベルのオーケストラである。
録音は、TELARC、EMI、NAXOSなどに行っている。
X(旧Twitter)では、奇妙なLP・CDジャケットを取り上げる習慣がある。また不二家のネクターが好きで、今回もKAJIMOTOのXのポストにネクターと戯れている写真がアップされていた。
先日は秋山和慶の代役として東京都交響楽団の指揮台に立ち、大好評を博している。

ホワイエで行われる、大阪フィルハーモニー交響楽団事務局長の福山修氏によるプレトークサロンでの話によると、6年前にスラットキンが大フィルに客演した際、終演後の食事会で再度の客演の約束をし、ジョン・ウィリアムズのヴァイオリン協奏曲が良いとスラットキンが言って、丁度、「スター・ウォーズ」シリーズの最終章が公開される時期になるというので、オール・ジョン・ウィリアムズ・プログラムで、ヴァイオリン協奏曲と「スター・ウォーズ」組曲をやろうという話になったのだが、コロナで流れてしまい、「スター・ウォーズ」シリーズの公開も終わったというので、プログラムを変え、余り聴かれないジョン・ウィリアムズ作品を取り上げることにしたという。

今日のコンサートマスターは須山暢大。フォアシュピーラーはおそらくアシスタント・コンサートマスターの尾張拓登である。ドイツ式の現代配置での演奏。スラットキンは総譜を繰りながら指揮する。

 

曲目は、前半がコンサートのための作品で、弦楽のためのエッセイとテューバ協奏曲(テューバ独奏:川浪浩一)。後半が映画音楽で、「カウボーイ」序曲、ジョーズのテーマ(映画「JAWS」より)、本泥棒(映画「やさしい本泥棒」より)、スーパーマン・マーチ(映画「スーパーマン」より)、SAYURIのテーマ(映画「SAYURI」より)、ヘドウィグのテーマ(映画「ハリー・ポッターと賢者の石」より)、レイダース・マーチ(「インディ・ジョーンズ」シリーズより)。

日本のオーケストラ、特にドイツものをレパートリーの中心に据えるNHK交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団は、アメリカものを比較的不得手としているが、今日の大フィルは弦に透明感と抜けの良さ、更に適度な輝きがあり、管も力強く、アメリカの音楽を上手く再現していたように思う。

 

今日はスラットキンのトーク付きのコンサートである。通訳は音楽プロデューサー、映画字幕翻訳家の武満真樹(武満徹の娘)が行う。

スラットキンは、「こんばんは」のみ日本語で言って、英語でのトーク。武満真樹が通訳を行う。

「ジョン・ウィリアムズの音楽は生まれた時から聴いていました。なぜなら私の両親がハリウッドの映画スタジオの音楽家だったからです。私は子どもの頃、映画スタジオでよく遊んでいて、ジョン・ウィリアムズの音楽を聴いていました」

 

スラットキンは、弦楽のためのエッセイのみノンタクトで指揮。弦楽のためのエッセイは、1965年に書かれたもので、バーバーやコープランドといったアメリカの他の作曲家からの影響が濃厚である。

テューバ協奏曲。テューバ独奏の川浪浩一は、大阪フィルハーモニー交響楽団のテューバ奏者。福岡県生まれ。大阪の相愛大学音楽学部に入学し、2006年に首席で卒業。在学中は相愛オーケストラなどでの活動を行った。2007年に大フィルに入団。第30回日本管打楽器コンクールで第2位になっている。
通常、協奏曲のソリストは指揮者の下手側で演奏するのが普通だが、楽器の特性上か、今回は指揮者の上手側に座って吹く。
テューバの独奏というと、余りイメージがわかないが、思っていた以上に伸びやかなものである。一方の弦楽器などはいかにもジョン・ウィリアムズしているのが面白い。
比較的短めの協奏曲であるが、テューバ協奏曲自体が珍しいものであるだけに、楽しんで聴くことが出来た。

 

「カウボーイ」序曲。いかにも西部劇の音楽と言った趣である。スラットキンは、「この映画を観たことがある人は少ないと思います。ただ音楽を聴けばどんな映画か分かる、絵が浮かんできます。ジョン・ウィリアムズはそうした曲が書ける作曲家です」

ジョーズのテーマであるが、スラットキンは「鮫の映画です。2つの音だけの最も有名な音楽です。最初にこの2つの音を奏でたのは私の母親です。彼女は首席チェロ奏者でした。ですので私の母親はジョーズです」(?)
誰もが知っている音楽。少ない音で不気味さや迫力を出す技術が巧みである。大フィルもこの曲にフィットした渋みと輝きを合わせ持った音色を出す。

本泥棒。反共産主義、反ユダヤ主義が吹き荒れる時代を舞台にした映画の音楽である。後に「シンドラーのリスト」も書いているジョン・ウィリアムズ。叙情的な部分が重なる。
「シンドラーのリスト」の音楽の作曲について、ジョン・ウィリアムズは難色を示したそうだ。脚本を読んだのだが、「この映画の音楽には僕より相応しい人がいるんじゃないか?」と思い、スピルバーグにそう言ったのだが、スピルバーグは、「そうだね」と認めるも「でも、相応しい作曲家はみんな死んじゃってるんだ。残ってる中では君が最適だよ」ということで作曲することになったそうである。

スラットキン「ジョン・ウィリアムズは、人間だけでなく、動物や景色などの音楽も書きました。そして勿論、スーパーマンも」
大フィルの輝かしい金管がプラスに働く。大フィルは全体的に音が重めなところがあるのだが、この曲でもそれも迫力に繋がった。

SAYURIのテーマ。「SAYURI」は、京都の芸者である(そもそも京都には芸者はいないが)SAYURIをヒロインとした映画。スピルバーグ作品である。SAYURIを演じたのは何故か中国のトップ女優であったチャン・ツィイー(章子怡)。日本人キャストも出ているが(渡辺謙や役所広司など豪華)セリフは英語という妙な映画でもある。日本の風習として変なものがあったり、京都の少なくとも格上とされる花街では絶対に起きないことが起こるなど、実際の花街界隈では不評だったようだ。映画では、ヨーヨー・マのチェロ独奏のある曲であったが、今回はコンサート用にアレンジした譜面での演奏である。プレトークサロンで事務局長の福山修さんが、「君が代」をモチーフにしたという話をされていたが、それよりも日本の民謡などを参考にしているようにも聞こえる。ただ、美しくはあるが、日本人が作曲した映画音楽に比べるとやはりかなり西洋的ではある。

ヘドウィグのテーマ。スラットキンは、「オーケストラ曲を書くときは時間は自由です。しかし映画音楽は違います。場面に合わせて秒単位で音楽を書く必要があります」と言った後で、「上の方に梟がいないかご注意下さい」と語る。
ジョン・ウィリアムズの楽曲の中でもコンサートで演奏される機会の多い音楽。主役ともいうべきチェレスタは白石准が奏でる。白石は他の曲でもピアノを演奏していた。
ミステリアスな雰囲気を上手く出した演奏である。
ちなみに、福山さんによると、ヘドウィグのテーマの弦楽パートはかなり難しいそうで、アメリカのメジャーオーケストラの弦楽パートのオーディションでは、ヘドウィグのテーマの演奏が課せられることが多いという。

レイダース・マーチ。大阪城西の丸庭園での星空コンサートがあった頃に大植英次がインディ・ジョーンズの格好をして指揮していた光景が思い起こされる。力強く、躍動感のある演奏。リズム感にも秀でている。今日は全般的にアンサンブルは好調であった。

 

スラットキンは、「ありがとう」と日本語で言い、「もう1曲聴きたくありませんか?」と聞く。「でもどの曲がいいでしょう? 選ぶのは難しいです。『E.T.』にしましょうか? それとも『ホームアローン』が良いですか? 『ティーラーリラリー、未知との遭遇』もあります。ではこの曲にしましょう。皆さんが予想している曲とは違うかも知れません。私がこの曲を上手く指揮出来るかわかりませんが」
アンコール演奏は、「スター・ウォーズ」より「インペリアル・マーチ」(ダース・ベイダーのテーマ)である。スラットキンは指揮台に上がらずに演奏を開始させる。その後もほとんど指揮せずに指揮台の周りを反時計回りに移動。そして譜面台に忍ばせていた小型のライトセーバーを取り出し、指揮台に上がってやや大袈裟に指揮した。その後、ライトセーバーは最前列にいた子どもにプレゼント。エンターテイナーである。演奏も力強く、厳めしさも十全に表現されていた。

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2025年1月 7日 (火)

コンサートの記(878) 横山奏指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024 「マエストロとディスカバリー」第3回「シネマ・クラシックス」

2024年12月1日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024 「マエストロとディスカバリー」第3回「シネマ・クラシックス」を聴く。今日の指揮者は、若手の横山奏(よこやま・かなで。男性)。

京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024は、9月1日に行われる予定だった第2回が台風接近のため中止となったが、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の語り手を務める予定だったウエンツ瑛士が、そのまま第3回のナビゲーターにスライド登板することになった。

「シネマ・クラシックス」というタイトルからも分かる通り、シネマ(映画)で使われているクラシック音楽や映画音楽がプログラムに並ぶ。
具体的な曲目は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った(かく語りき)」から冒頭、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」、ブラームスのハンガリー舞曲第5番(シュメリング編曲)、マーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェット、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、ニューマンの「20世紀フォックス」ファンファーレ、ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトル、久石譲のジブリ名曲メドレー(直江香世子編。Cinema Nostalgia~ハトと少年~海の見える街~人生のメリーゴーランド~あの夏へ~風の通り道~もののけ姫)、ハーラインの「ピノキオ」から星に願いを(岩本渡編)、フレディ・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディ」より同名曲(三浦秀秋編)、バデルトの「パイレーツ・オブ・カリビアン」(リケッツ編)

 

横山奏は、1984年、札幌生まれ。クラシック音楽業界には男女共用の名前の人が比較的多いが、彼もその一人である。ピアニストの岡田奏(おかだ・かな)のように読み方は異なるが同じ漢字の女性演奏家もいる。
高校生の時に吹奏楽部で打楽器を担当したのが、横山が音楽の道に入るきっかけになったようだ。北海道教育学部札幌校で声楽を学ぶ。北海道教育大学には現在は岩見沢校にほぼ音楽専攻に相当するゼロ免コースがあるが、地元の札幌校の音楽教師になるための学科を選んだようだ。在学中に指揮者になる決意をし、桐朋学園大学指揮科で学んだ後、東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程を修了。ダグラス・ボストックや尾高忠明に師事した。
2018年に、第18回東京国際指揮者コンクールで第2位入賞及び聴衆賞受賞。2015年から2017年までは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の指揮研究員を務めている。
趣味は登山で、NHK-FM「石丸謙二郎の山カフェ」のシーズンゲストでもある。
今年の6月には急病で降板したシャルル・デュトワに代わって大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」全曲などを指揮して好評を得ている。直前にデュトワから直接「火の鳥」のレクチャーを受けていたことが代役に指名される決定打になったようだ。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ヴィオラの客演指揮者には田原綾子が入る。ハープはマーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェットまでは舞台上手寄りに置かれていたが、演奏終了後にステージマネージャーの日高さんがハープを舞台下手側へと移動させた。

 

リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」冒頭と、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」はいずれも「2001年宇宙の旅」で使われた曲である。特に「ツァラトゥストラはこう語った」は映画によって誰もが知る音楽になっている。
「ツァラトゥストラはこう語った」と「美しく青きドナウ」は続けて演奏される。
「ツァラトゥストラはこう語った」はオルガンなしでの演奏。京響の輝かしい金管の響きが効果的である。ロームシアター京都メインホールも年月が経つに連れて響くようになってきているようだ。
「美しく青きドナウ」も端麗で優雅な音楽として奏でられる。

「美しく青きドナウ」演奏後にナビゲーターのウエンツ瑛士が登場。これまでオーケストラ・ディスカバリーのナビゲーターは吉本の芸人が務めていたが、ウエンツ瑛士は俳優だけあって、吉本芸人とは話の流麗さが違う。吉本芸人も生き残るのは100人に1人程度なので凄い人ばかりなのであるが。またウエンツ瑛士は吉本芸人とは異なり、台本を手にしていない。ミスもあったが全て暗記して臨んでいるようだ。俳優はやはり凄い。

ウエンツ瑛士は、「マエストロとディスカバリー」というテーマだが、「マエストロとは何か?」とまず聞く。会場にいる「マエストロ」の意味が分かる子どもに意味を聞いてみることにする。指名された男の子は、「指揮者やコンサートマスターのこと」と答えて、横山の「その通り」と言われる。
横山「先生とか権威ある人とか言う意味がある。コンサートマスターもマエストロと呼ばれることがあります」とコンサートマスターの泉原の方を見る。
ウエンツ「ご自分で『権威ある人』と仰いましたね。大丈夫なんですか?」
横山「自認しております」

 

ブラームスのハンガリー舞曲第5番。ハンガリー舞曲の管弦楽曲版は今では第1番(ブラームス自身の管弦楽版編曲あり)や第6番も演奏されるが、昔はハンガリー舞曲と言えば第5番であった。
ウエンツ瑛士は、この曲が、チャップリンの「独裁者」で使われているという話をする。
ロマの音楽であるため、どれだけテンポを揺らすかが個性となるが、横山は大袈裟ではないが結構、アゴーギクを多用する。ゆったり初めて急速にテンポを上げ、中間部では速度を大きく落とす。
躍動感溢れる演奏となった。
子どもの頃、ハンガリー舞曲第5番といえば、斎藤晴彦のKDD(現・KDDI)の「国際電話は」の替え歌だったのだが、今の若い人は当然知らないだろうな。

 

マーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェット。トーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」でテーマ曲的に使われ、マーラー人気向上に大いに貢献している。それまでマーラーといえば「グロテスクな音楽を書く人」というイメージだったのだが、アダージェットによって「こんな甘美なメロディーを書く人だったのか」と見直されるようになった。
ウエンツ瑛士が、「この曲は、『愛の楽章』と呼ばれているそうですが」と聞く。横山は、「マーラーが当時愛していて、後に奥さんになるアルマへの愛を綴った」と説明した。
実は当初は交響曲第5番にはアダージェットは入る予定ではなかったのだが、マーラーがアルマに恋をして書いた音楽を入れることにしたという説がある。第4楽章は第5楽章とも密接に繋がっているので、第5楽章も当初の構想から大きく変更されたと思われる。
ウエンツは、「アダージェット」の意味についても横山に尋ねる。横山は、「『アダージョ』は『ゆったりとした』といういう意味で、『アダージェット』はそれより弱く『少しゆったりとした』という意味」と説明していた。
弦楽のための楽章なので、木管奏者が退場した中での演奏。金管奏者は残って聴いている。
中庸のテンポでの演奏で、ユダヤ的な濃さはないが、しなやかな音楽性が生きており、京響のストリングスの音色も適度な透明感があって美しい。
横山はどちらかというと、あっさりとした音楽を奏でる傾向があるようだ。

 

デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」。ディズニー映画「ファンタジア」でミッキーマウスが魔法使いの弟子を演じる場面があることで知られている。横山は、「三角帽子のミッキーマウスが」と話し、元々はゲーテが書いた物語ということも伝えていた。
実は、「ファンタジア」における「魔法使いの弟子」は、著作権において問題になっている作品でもある。ディズニーはミッキーマウスを著作権保護の対象にしたいため、保護期間を延ばしている。そのため著作権法案はミッキーマウス法案と揶揄されている。この映画での演奏は、フィラデルフィア管弦楽団が担当しているのだが、フィラデルフィア管弦楽団が「ファンタジア」の「魔法使いの弟子」の映像ををSNSにアップしたところ、ディズニー側の要請で動画が削除されるという出来事があった。演奏している当事者のアップが認められなかったのである。

横山の演奏はやはり中庸。描写力も高く、水が溢れるシーンなども適切なスケールで描かれる。

 

後半は劇伴の演奏である。日本では劇伴音楽が低く評価されている。映画音楽もそれほど好んで聴かれないし、映画音楽を聴く人は映画音楽ばかりを聴く傾向にある。アメリカでは映画音楽は人気で、定期演奏会に映画音楽の回があったりするのだが、日本では映画音楽の演奏会を入れても集客はそれほど見込めないだろう。
大河ドラマのメインテーマなども、NHKが1年の顔になる音楽ということで威信を賭けて、当代一流とされる作曲家にしか頼まず、指揮者も「良い」と認めた指揮者にしか任せないのだが、例えばシャルル・デュトワが「葵・徳川三代」のメインテーマをNHK交響楽団と小山実稚恵のピアノで録音することが決まった時、まだ楽曲が出来てもいないのに「そんなつまらない仕事断ればいいのに」という書き込みがあった。どうも伝統的なクラシック音楽しか認めないようだが、予知能力がある訳でもないだろうに、聴いてもいない音楽の価値を決めて良いという考えは奢りに思えてならない。

 

ニューマンの「20世紀フォックス」ファンファーレ。演奏時間1分の曲なので、続けてジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトルが演奏される。
「20世紀フォックス」ファンファーレは、短いながらも「これから映画が始まる」というワクワク感を上手く音楽化した作品と言える。この曲も京響のブラスの輝かしさが生きていた。

ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトルは、映画音楽の代名詞的存在である。指揮者としてボストン・ポップス・オーケストラ(ボストン交響楽団の楽団員から首席奏者を除いたメンバーによって構成され、セミ・クラシックや映画音楽の演奏などを行う)の常任指揮者としても長く活躍していたジョン・ウィリアムズは、近年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立て続けに招かれている。「ジョン・ウィリアムズの音楽はクラシックではない」と見る人も当然いるが、「クラシックとは何か」を考えた場合、これだけ世界中で演奏されている音楽をクラシックではないとする方が無理があるだろう。
横山指揮による京響は、輝きに満ちた演奏を展開する。力強さもあり、イメージ喚起力も豊かだ。

演奏終了後、ウエンツ瑛士は、「『スター・ウォーズ』が観たくなりましたね。今夜は帰って『スター・ウォーズ』を観ましょう」と述べていた。

 

久石譲のジブリ名作メロディー。ジブリ作品においては愛らしいメロディーを紡ぐ久石譲。北野武作品の映画音楽はもう少し硬派だが、大人から子どもまで楽しめるジブリメロディーは、やはり多くの人の心に訴えかけるものがある。坂本龍一が亡くなり、今は世界的に通用する日本人の映画音楽作曲家は久石譲だけになってしまった。久石譲は指揮活動にも力を入れているので、自作自演を聴く機会が多いのも良い。自作自演には他の演奏家には出せない味わいがある。
今回は久石譲の自作自演ではないが、京響の器用さを横山が上手くいかした演奏となる。私が京都に来た頃は、京響はどちらかというと不器用なオーケストラで、チャーミングな音楽を上手く運ぶことは苦手だったのだが、急激な成長により、どのようなレパートリーにも対応可能なオーケストラへと変貌を遂げている。
久石譲の映画音楽は世界中で演奏されており、YouTubeなどで確認することが出来るが、本来の意味でのノスタルジックな味わいは、あるいは日本のオーケストラにしか出せないものかも知れない。
なお、ピアノは白石准が担当した。

 

ハーラインの「ピノキオ」から、星に願いを。岩本渡のスケール豊かな編曲による演奏される。スタンダードな曲だけに、多くの人の心に訴えかける佳曲である。

 

フレディ・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディ」。同名映画のタイトルにもなっている。映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、クィーンのボーカルであったフレディ・マーキュリーの生涯を描いたもので、ライブエイドステージでの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱がクライマックスとなっている。
「ボヘミアン・ラプソディ」。全英歴代の名曲アンケートでは、ビートルズ作品などを抑えて1位に輝いている。ただこの曲は本番では歌えない曲としても知られている。フレディ・マーキュリーがピアノで弾き語りをする冒頭部分は歌えるのだが、そこから先は多重録音などを駆使したものであり、ライブエイドステージでも、ピアノ弾き語りの部分で演奏を終えている。「本番では歌えない」ということで、ミュージックビデオが作られ、テレビで全編が流されたのだが、これが「格好いい」ということでヒットに繋がっている。
横山は、ラプソディについて、「日本語で簡単に言うと狂詩曲」と言うもウエンツに、「うーん、簡単じゃない」と言われる。横山は、「伝統的、民謡的な音楽などを自由に使った音楽」と定義した。
横山は「ボヘミアン・ラプソディ」が大好きだそうだ。80名での演奏で、ウエンツは、「クィーンで80人は多いんじゃないですか」と言うが、演奏を終えると、「クィーン、80人要りますね」と話していた。
ピアノは引き続き白石准が担当。メランコリックな冒頭のメロディーはオーボエが担当する。スイング感もよく出ており、第3部のロックテイストの表現も上手かった。

 

ラストは、バデルトの「パイレーツ・オブ・カリビアン」。ウエンツは「映画よりも音楽の方を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか」と述べる。
スケールも大きく、推進力にも富んだ好演となった。

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2025年1月 3日 (金)

これまでに観た映画より(361) 「バグダッド・カフェ」

2024年12月26日 京都シネマにて

京都シネマで、西ドイツ制作の映画「バグダッド・カフェ」の4Kレストア版(京都シネマでは2K上映)を観る。1987年の制作。ベルリンの壁崩壊の2年前である。
かなり有名な作品であるが、テーマ曲である「Calling You」は、ひょっとしたら映画以上に有名かも知れない。
「バグダッド・カフェ」というタイトルであるが、イラクの首都であるバグダッドが舞台になっている訳ではなく、アメリカ・カリフォルニア州にあるモハーヴェ砂漠の真ん中、バグダッドで営業を行っているモーテル兼ガソリンスタンド兼ダイナーのバグダッド・カフェというカフェが主舞台となっている。というより一部を除けば、バグダッド・カフェの周辺で全て完結している。
パーシー・アドロン監督作品。なお、アドロン監督は今年(2024年)の3月に死去したそうである。
出演:マリアンネ・ゲーゼブレヒト、CCH・パウンダー、ジャック・パランス、クリスティーネ・カウフマンほか。

大人のための一種の寓話である。

バグダッド・カフェのオーナーは黒人女性であるブレンダ。夫と娘がいるが、家庭が上手くいっているとは言えないようである。そんなバグダッド・カフェをヤスミンという中年女性が訪れる。ドイツ人のヤスミンは夫婦でアメリカを旅していたのだが、車が故障したのをきっかけに夫婦喧嘩を起こし、夫と別れてバグダッド・カフェを訪れたのだった。ヤスミンは部屋の内装を勝手に変えるなど奔放なところがあり、バグダッド・カフェに住み着いてしまう。バグダッド・カフェには様々な人種や指向、前歴を持った人が集まってくる。やがて手品を習得したヤスミン。その手品が受けて、バグダッド・カフェは盛況となる。
バグダッド・カフェの近くのコンテナで生活しているコックスは、元はハリウッドで舞台美術の仕事をしていた(ヤスミンは俳優だったと勘違いしていた)。コックスは、ヤスミンをモデルにした肖像画を描きたいという申し出、ヤスミンはそれを受け入れる。
順調に行くかに見えた日々だったが、保安官のアーニーがバグダッド・カフェを訪れ、ヤスミンに「ビザが切れている。グリーンカードを持っていないとこの先、ここでは生活出来ない」と告げる。バグダッド・カフェを去る決意をしたヤスミンだったが……。

不思議な感触を持った映画である。ヤスミンは太めの中年女性なのであるが、時折、「この人は人間ではなくて妖精か何かなのではないか」と思わせられるところがある。手品の習得も異様に早く、高度な技もこなせるようになる。
時の経過は、いつもピアノの練習をしているサロモの上達ぶりによって観客に知らされる。J・S・バッハの曲をたどたどしく弾いていたサロモだが、最終的にはジャズ風の即興的な曲もバリバリ弾きこなせるようになる。

個性豊かな面々が、不毛な砂漠の真ん中のバグダッド・カフェで至福の時を見つけ、もう若いとはいえないヤスミンとコックスは接近する。
都会で多数派のように生きることだけが幸せではないと教えてくれる佳編である。

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2024年11月 9日 (土)

これまでに観た映画より(350) 英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」

2024年6月13日 桂川・洛西口のイオンシネマ京都桂川にて

イオンシネマ京都桂川で、英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。イギリス・ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)で上演されたオペラやバレエを上映するシリーズ。今回は、今年の3月26日に上演・収録された「蝶々夫人」の上映である。最新上演の上映といっても良い早さである。今回の上演は、2003年に初演されたモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエによる演出の9度目の再演である。日本人の所作を専門家を呼んできちんと付けた演出で、そのため、誇張されたり、不自然に思えたりする場面は日本人が見てもほとんどない。

京都ではイオンシネマ京都桂川のみでの上映で、今日が上映最終日である。

指揮はケヴィン・ジョン・エドゥセイ。初めて聞く名前だが、黒人の血が入った指揮者で、活き活きとしてしなやかな音楽を作る。
演奏は、ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団&ロイヤル・オペラ合唱団。
タイトルロールを歌うのは、アルメニア系リトアニア人のアスミク・グリゴリアン。中国系と思われる歌手が何人か出演しているが、日本人の歌手は残念ながら参加していないようである。エンドクレジットにスタッフの名前も映るのだが、スタッフには日本人がいることが分かる。

入り口で、タイムテーブルの入ったチラシを渡され、それで上映の内容が分かるようになっている。まず解説と指揮者や出演者へのインタビューがあり(18分)、第1幕が55分。14分の途中休憩が入り、その後すぐに第2幕ではなくロイヤル・オペラ・ハウスの照明スタッフの紹介とインタビューが入り(13分)、第2幕と第3幕が続けて上映され、カーテンコールとクレジットが続く(98分)。合計上映時間は3時間18分である。

チケット料金が結構高い(今回はdポイント割引を使った)が、映画館で聴く音響の迫力と美しい映像を考えると、これくらいの値がするのも仕方ないと思える。テレビモニターで聴く音とは比べものにならないほどの臨場感である。

蝶々夫人役のアスミク・グリゴリアンの声がとにかく凄い。声量がある上に美しく感情の乗せ方も上手い。日本人の女性歌手も体格面で白人に大きく劣るということはなくなりつつあり、長崎が舞台のオペラということで、雰囲気からいっても蝶々夫人役には日本人の方が合うのだが、声の力ではどうしても白人女性歌手には及ばないというのが正直なところである。グリゴリアンの声に負けないだけの力を持った日本人女性歌手は現時点では見当たらないだろう。

男前だが、いい加減な奴であるベンジャミン・フランクリン・ピンカートンを演じたジョシュア・ゲレーロも様になっており、お堅い常識人だと思われるのだが今ひとつ押しの弱いシャープレスを演じたラウリ・ヴァサールも理想的な演技を見せる。

今回面白いのは、ケート・ピンカートン(ピンカートン夫人)に黒人歌手であるヴェーナ・アカマ=マキアを起用している点。アカマ=マキアはまず影絵で登場し、その後に正体を現す。
自刃しようとした蝶々夫人が、寄ってきた息子を抱くシーンで、その後、蝶々夫人は息子に目隠しをし、小型の星条旗を持たせる。目隠しをされたまま小さな星条旗を振る息子。父親の祖国を讃えているだけのようでありながら、あたかもアメリカの帝国主義を礼賛しているかのようにも見え、それに対する告発が行われているようにも感じられる。そもそも「現地妻」という制度がアメリカの帝国主義の象徴であり、アフリカ諸国や日本もアメリカの帝国主義に組み込まれた国で、アメリカの強権発動が21世紀に入っても世界中で続いているという現状を見ると、問題の根深さが感じられる。
一方で、蝶々夫人の自刃の場面では桜の樹が現れ、花びらが舞う中で蝶々夫人は自らの体を刀で突く。桜の花びらが、元は武士の娘である蝶々夫人の上に舞い落ち、「桜のように潔く散る」のを美徳とする日本的な光景となるが、「ハラキリ」に代表される日本人の「死の美学」が日本人を死へと追いやりやすくしていることを象徴しているようにも感じられる。日本人は何かあるとすぐに死を選びやすく自殺率も高い。蝶々夫人も日本人でなかったら死ぬ必要はなかったのかも知れないと思うと、「死の美学」のある種の罪深さが実感される。

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2024年11月 8日 (金)

美術回廊(87) アサヒビール大山崎山荘美術館 「丸沼芸術の森蔵 アンドリュー・ワイエス展―追憶のオルソン・ハウス」

2024年10月14日 京都府乙訓郡大山崎町天王山にあるアサヒビール大山崎山荘美術館にて

京都府乙訓郡大山崎町にある、アサヒグループ大山崎山荘美術館で、「丸沼芸術の森蔵 アンドリュー・ワイエス展―追想のオルソン・ハウス」を観る。私が最も敬愛する画家、アンドリュー・ワイエスの展覧会である。
アメリカ、メイン州のワイエスの別荘の近く住む、クリスティーナ・オルソンとアルヴァロの姉弟に出会ったワイエス。彼らが住む築150年のオルソン家に惹かれ、彼らと30年に渡って交流を持つことになるワイエスが、オルソン・ハウスをテーマに描いた一連の作品の展覧会である。前期と後期に分かれており、現在は前期の展示が行われている。

ワイエスがオルソン・ハウスを題材にした展覧会は、2004年に姫路市立美術館で行われており、その時出展された作品も多い。なお、姫路市立美術館を訪れた日は、私が姫路に行きながら唯一、姫路城を訪れなかった日でもある。

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オルソン・ハウスは、2階建てだったものを無理に3階建てに直した建物でバランスが悪いが、ワイエスの絵画もわざとバランスを崩すことで不吉な印象を与えている。
ワイエスは、「死の青」を用いる。ワイエスにとって青は死の象徴であり、鏡に映った自身の姿を幽霊と勘違いした姿を描いた「幽霊」の習作にも不吉な青が用いられている。「パイ用のブルーベリー」習作や「青い計量器」でも青がクッキリ浮かび上がってどことなく不吉な印象を与える。

また、アルヴァロがモデルになることを嫌がったという理由もあるのだが、本来、そこにいるべき主がいないままの風景が描かれており、孤独が見る者の心の奥底を凍らせる。

代表作の「クリスティーナの世界」は実物は展示されておらず、習作がいくつか並んでいる。クリスティーナの手の位置や、体の向き、指の形などが異なるのが特徴。ワイエスが最も効果的な構図を模索していたことが分かる。

やがてクリスティーナもアルヴァロも亡くなり、オルソン・ハウスは主を失う。小雪の舞う中、佇むオルソン・ハウス。サウンド・オブ・サイレンスが聞こえる。
一方、オルソン・ハウスの屋根と煙突を描いた絵があるのだが、在りし日のオルソン家の人々の声が煙突や窓から響いてきそうで、ノスタルジアをかき立てられると同時に、もう帰らない日々の哀しみがさざ波のように心の縁を濡らす。

1917年に生まれ、2009年に亡くなったワイエス。アメリカの国民的画家の一人だが、日本に紹介されるのは案外遅く、丁度、私が生まれた1974年に東京国立近代美術館と京都国立近代美術館で展覧会が行われ、大きな話題となった。私の世代ではすでに美術の教科書に作品が載る画家になっている。
幼い頃から体が弱く、学校には通えず、家庭教師に教わった。「長生きは出来ない」と医者から宣告されていたワイエスは、画家活動を続けながら、常に死と隣り合わせの感覚であったが、結果として長寿を全うしている。

以前、阪急電車で梅田に向かっているときに、たまたま向かい合わせの前の席の人が嵯峨美(嵯峨美術短期大学。現在の嵯峨美術大学短期大学部)とムサビ(武蔵野美術大学)出身の女性で、私も美術ではないが京都造形芸術大学で、絵にはまあまあの知識があったので、絵画の話になり、アンドリュー・ワイエスが好きだというと、「埼玉県の朝霞市にワイエスをコレクションしている美術館がある」と教えてくれたのだが、今回、ワイエス作品を提供しているのが、その朝霞市にある丸沼芸術の森である。

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アサヒグループ大山崎山荘美術館は、その名の通り、関西の実業家、加賀正太郎の大山崎山荘を安藤忠雄が美術館にリノベーションしたお洒落な施設である。美術作品と同時に、実業家の山荘の洗練度と豪壮さを楽しむことも出来るというお得な美術館。

ベランダから眺めると正面に男山(石清水八幡宮)を望むことが出来る。

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庭園も芝生が敷き詰められた場所があるなど、優しさの感じられる回遊式庭園となっている。


「天下分け目」の天王山の中腹にあり、そのまま道を登ると天王山の山頂(山崎の戦いの後、豊臣秀吉が山崎城を築き、一時、居城としていた)に出ることが出来るのだが、早いとはいえない時刻であり、登山のための準備をしてきていないので、今日は諦める。山城は危険である。

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2024年10月11日 (金)

観劇感想精選(471) 日米合作ブロードウェイミュージカル「RENT」 JAPAN TOUR 2024大阪公演

2024年9月14日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後5時30分から、大阪・梅田のSkyシアターMBSで、日米合作ブロードウェイミュージカル「RENT」JAPAN TOUR 2024 大阪公演を観る。英語上演、日本語字幕付きである。
SkyシアターMBSは、大阪駅前郵便局の跡地に建てられたJPタワー大阪の6階に今年出来たばかりの新しい劇場で、今、オープニングシリーズを続けて上演しているが、今回の「RENT」は貸し館公演の扱いのようで、オープニングシリーズには含まれていない。

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プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」をベースに、舞台を19世紀前半のパリから1990年代後半(20世紀末)のニューヨーク・イーストビレッジに変え、エイズや同性愛、少数民族など、プッチーニ作品には登場しない要素を絡めて作り上げたロックミュージカルである。ストーリーなどは「ラ・ボエーム」を踏襲している部分もかなり多いが、音楽は大きく異なる。ただ、ラスト近くで、プッチーニが書いた「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)の旋律がエレキギターで奏でられる部分がある。ちなみに「私が街を歩けば」に相当するナンバーもあるが、曲調は大きく異なる。

脚本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン。演出:トレイ・エレット、初演版演出:マイケル・グライフ、振付:ミリ・パーク、初演版振付:マリース・ヤーヴィ、音楽監督:キャサリン・A・ウォーカー。

出演は、山本耕史、アレックス・ボニエロ、クリスタル ケイ、チャベリー・ポンセ、ジョーダン・ドブソン、アーロン・アーネル・ハリントン、リアン・アントニオ、アーロン・ジェームズ・マッケンジーほか。
観客とのコール&レスポンスのシーンを設けるなど、エンターテインメント性の高い演出となっている。

タイトルの「RENT」は家賃のことだが、家賃もろくに払えないような貧乏芸術家を描いた作品となっている。

主人公の一人で、ストーリーテラーも兼ねているマークを演じているのは山本耕史。彼は日本語版「レント」の初演時(1998年)と再演時(1999年)にマークを演じているのだが、久しぶりのマークを英語で演じて歌うこととなった。かなり訓練したと思われるが、他の本場のキャストに比べると日本語訛りの英語であることがよく分かる。ただ今は英語も通じれば問題ない時代となっており、日本語訛りでも特に問題ではないと思われる(通じるのかどうかは分からないが)。
マークはユダヤ系の映像作家で、「ラ・ボエーム」のマルチェッロに相当。アレックス・ボニエロ演じるロジャーが詩人のロドルフォに相当すると思われるのだが、ロジャーはシンガーソングライターである。このロジャーはHIV陽性である。ミミはそのままミミである(演じるのはチャベリー・ポンセ)。ミミはHIV陽性であるが、自身はそのことを知らず、ロジャーが話しているのを立ち聞きして知ってしまうという、「ラ・ボエーム」と同じ展開がある。
ムゼッタは、モーリーンとなり、彼女を囲うアルチンドロは、性別を変えてジョアンとなっている。彼女たちは恋人同士となる(モーリーンがバイセクシャル、ジョアンがレズビアンという設定)。また「ラ・ボエーム」に登場する音楽家、ショナールが、エンジェル・ドゥモット・シュナールドとなり、重要な役割を果たすドラッグクイーンとなっている。

前半は賑やかな展開だが、後半に入ると悲劇性が増す。映像作家であるマークがずっと撮っている映像が、終盤で印象的に使われる。
「ラ・ボエーム」は悲劇であるが、「RENT」は前向きな終わり方をするという大きな違いがある。ロック中心なのでやはり湿っぽいラストは似合わないと考えたのであろう。個人的には、「ラ・ボエーム」の方が好きだが、「RENT」も良い作品であると思う。ただ、マイノリティー全体の問題を中心に据えたため、「ラ・ボエーム」でプッチーニが描いた「虐げられた身分に置かれた女性」像(「ラ・ボエーム」の舞台となっている19世紀前半のパリは、女性が働く場所は被服産業つまりお針子や裁縫女工、帽子女工など(グリゼット)しかなく、彼女達の給料では物価高のパリでは生活が出来ないので、売春などをして男に頼るしかなかったという、平民階級の独身の女性にとっては地獄のような街であった)が見えなくなっているのは、残念なところである。

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2024年9月22日 (日)

コンサートの記(856) 加藤訓子 プロデュース STEVE REICH PROJECT 「kuniko plays reich Ⅱ/DRUMMING LIVE」@ロームシアター京都サウスホール

2024年8月25日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後5時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、加藤訓子プロデュース STEVE REICH PROJECT 「kuniko plays reich Ⅱ/DRUMMING LIVE」を聴く。
全曲を現代を代表するアメリカのミニマル・ミュージックの作曲家、スティーヴ・ライヒの作品で固めたプロジェクト。ライヒと共演を重ねている打楽器奏者の加藤訓子(かとう・くにこ)が、自身のソロと若い奏者達との共演により、ライヒ作品を奏でていく。

曲目は、前半の「kuniko plays reich Ⅱ」(編曲&ソロパフォーマンス:加藤訓子+録音)が、「フォーオルガンズ」、「ナゴヤマリンバ」、「ピアノフェイズ」(ビブラフォン版)、「ニューヨークカウンターポイント」(マリンバ版)。後半の「DRUMING LIVE」が、「ドラミング」全曲。

開演前と休憩時間にロビーコンサートが行われ、開演前はハンドクラップによる「Clapping Music」の演奏が、休憩時間にはパーカッションによる「木片の音楽」の演奏が行われた。日本でのクラシックのコンサートでは、体を動かしながら聴くのはよろしくないということで(外国人はノリノリで聴いている人も多い)リズムを取ったりは出来ないのだが、ロビーコンサートはおまけということでそうした制約もないので、手や足でリズムを取りながら聴いている人も多い。ミニマル・ミュージックの場合、リズムが肝になることが多いため、体を動かしながら聴いた方が心地良い。


まず、スティーヴ・ライヒによる日本の聴衆に向けたビデオメッセージが流れる。1991年に初来日し、東京・渋谷のBunkamuraでの自身の作品の上演に立ち会ったこと、1996年に再来日した時の彩の国さいたま芸術劇場やBunkamuraでの再度の公演の思い出を語り、「日本に行きたい気持ちは強いのですが、1991年の時のように若くはありません」と高齢を理由に長距離移動を諦めなければならないことなどを述べた。

「kuniko plays reich Ⅱ」。第1曲目の「フォーオルガンズ」では、録音されたオルガンの音が流れる中、加藤がひたすらマラカスを振り続ける。この上演に関しては音楽性よりも体力がものを言うように思われる。
その後は、マリンバやビブラフォンを演奏。ちなみに木琴(シロフォン)とマリンバは似ているが、マリンバは広義的には木琴に属するものの、歴史や発展経緯などが異なっている。シロフォンがヨーロッパで発展したのに対し、マリンバはアフリカで生まれ、南米で普及している。日本ではオーケストラではシロフォンが用いられることの方が多いが、ソロではマリンバの方が圧倒的に人気で、日本木琴協会に登録している演奏家のほとんどがマリンバ奏者となったため、協会自体が日本マリンバ協会に名称を改めている。
ミニマル・ミュージックならではの高揚感が心地よい。


後半、「DRUMING LIVE」。「ドラミング」を演奏するのは、青柳はる夏、戸崎可梨、篠崎陽子、齋藤綾乃、西崎彩衣、古屋千尋、細野幸一、三神絵里子、横内奏(以上、パーカッション)、丸山里佳(ヴォーカル)、菊池奏絵(ピッコロ)、加藤訓子。

4人のパーカッション奏者が威勢良くドラムを奏で、しばらくしてからマリンバやビブラフォン、ヴォーカル、ピッコロなどが加わる。
リズミカルで高揚感があり、パワフルなドラムと、マリンバやビブラフォン、ヴォーカルやピッコロの神秘性が一体となった爽快で洗練された音楽が紡がれていく。音型が少しずつ形を変えながら繰り返されていく様は、聴く者をトランス状態へと導いていく。
偶然だが、久保田利伸の「You were mine」のイントロによく似たリズムが出てくるのも面白かった。

演奏修了後に、歓声が響くなど、演奏は大成功であった。

その後、カーテンコールに応えて、奏者達がハンドクラップを始める。聴衆もそれに乗り、一体感を生むラストとなった。

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2024年7月 8日 (月)

観劇感想精選(465) KAAT 神奈川芸術劇場プロデュース「ライカムで待っとく」京都公演@ロームシアター京都サウスホール

2024年6月7日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、KAAT 神奈川芸術劇場プロデュース「ライカムで待っとく」を観る。作:兼島拓也(かねしま・たくや)、演出:田中麻衣子。出演:中山祐一郎、佐久本宝(さくもと・たから)、小川ゲン、魏涼子(ぎ・りょうこ)、前田一世(まえだ・いっせい)、蔵下穂波(くらした・ほなみ)、神田青(かんだ・せい)、あめくみちこ。

1964年、アメリカ統治下の沖縄で起きた米兵殺傷事件を題材に、現在の沖縄と神奈川、1964年の沖縄、そして「物語の世界」を行き来する形で構成された作品である。

まず最初は現在の神奈川。横浜市が主舞台だと思われるが(中山祐一郎演じる浅野悠一郎が、「ウチナーンチュウ」に対して「横浜ーんちゅう」と紹介される場面がある)、神奈川県全体の問題に絡んでくるので、「神奈川」という県名の方が優先的に使われている。
カルチャー誌の記者をしている浅野悠一郎は、編集長の藤井秀太(藤田一世)から沖縄で起こった米兵殺傷事件について記事にするよう言われる。藤井は、横浜のパン屋に勤める伊礼ちえという沖縄出身の女性(蔵下穂波)と親しくなったのだが、ちえの祖父(無料パンフレットによると伊佐千尋という人物がモデルであることが分かる)が沖縄の米兵殺傷事件の陪審員をしており、その時の記録や手記を大量に書き残していた。そのちえの祖父が悠一郎にそっくりだというのだ。悠一郎が見ても、「これ僕だよ」と言うほどに似ている。実は伊礼ちえには別の正体があるのだが、それはラストで明かされる。
悠一郎の妻・知華(魏涼子)の祖父が亡くなったというので、知華は中学生になる娘のちなみを連れて、一足先に沖縄の普天間にある実家に戻っていた。知華の実家は元は今の普天間基地内にあったのだが、基地を作るために追い出され、普天間基地のすぐそばに移っている。実は知華の亡くなったばかりの祖父が、米兵殺傷事件の容疑者となった佐久本寛二(さくもと・かんじ。演じるのは佐久本宝)であったことが判明する。
沖縄に降り立った悠一郎は、タクシーの運転手(佐久本宝二役)から、若い女性が飲み屋からの帰り道に米兵にレイプされて殺害される事件があったが、その女性をタクシーに乗せて飲み屋まで送ったのは自分だという話を聞く。
悠一郎と知華は、亡くなった人の声を聞くことが出来る金城(きんじょう)という女性(おそらく「ユタ」と呼ばれる人の一人だと思われる。あめくみちこが演じる)を訪ねる。金城は、「どこから来た」と聞き、悠一郎が「神奈川から」と答えると、「京都になら行ったことがあるんだけどね。京都はね、平安神宮の近くに良い劇場(ロームシアター京都のこと)があるよ」と京都公演のためのセリフを言う。
ユタに限らず、降霊というとインチキが多いのだが、金城の力は本物で、29歳の時の祖父、佐久本寛二が現れ、金城は佐久本の言葉を二人に伝える(佐久本は三線を持って舞台奥から現れるが、悠一郎と知華には見えないという設定)。

舞台は飛んで、1964年の沖縄・普天間。近くに琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarter)があり、「Ry」と「Com」を取って「ライカム」と呼ばれていた。米軍が去った後でライカムは一帯を指す地名となり、残った。ライカムの米兵専用ゴルフ場跡地に、2015年にイオンモール沖縄ライカムがオープンしている。
1964年の沖縄でのシーンは、基本的にウチナーグチが用いられ、分かりにくい言葉はウチナーグチを言った後でヤマトグチに直される。
写真館を営む佐久本寛二は、部下の平豊久(小川ゲン)、タクシー会社従業員の嘉数重盛(かかず・しげもり。演じるのは神田青)と共に、大城多江子(あめくみちこ二役)がマーマを務めるおでんやで嘉数の恋人を待っている。嘉数は数日前に米兵から暴行を受けていたが、警察に行っても米兵相手だと取り合ってくれないため、仲間以外には告げていない。恋人がやってきたと思ったら、やってきたのは寛二の兄で、嘉数が勤めるタクシー会社の経営者である佐久本雄信(ゆうしん。前田一世二役)であった。雄信は米兵の知り合いも多い。実は寛二にはもう一人弟がいたのだが、その運命は後ほど明かされた。
嘉数の恋人、栄麻美子(蔵下穂波二役)がやってくる。「ちゅらかーぎー(美人)」である。
嘉数らはゴルフに行く予定で、皆でゴルフスイングの練習をしたりする。しかし結局、「沖縄人だから」という理由でゴルフ場には入れて貰えなかった。
嘉数は麻美子を連れて糸満の断崖へ行って話す。嘉数は11人兄弟であったが、一族は沖縄戦の際に全員、この崖から飛び降りて自決した。「名誉の自決」との教育を受けた世代であり、それが当たり前だった。嘉数一人だけが偶然米兵に助けられて生き残った。

現代。悠一郎はパソコンで記事を書いている。「中立」を保った記事のつもりだが、藤井から「中立というのは権力にすり寄るということ」と言われ、「沖縄の人達の怒りや悲しみを伝えるのが良い記事」だと諭される。悠一郎は、「沖縄の人々に寄り添った記事」を書くことにする。

米兵殺傷事件が起こる。平が米兵に暴行されたのが原因で、寛二はゴルフクラブを手に現場に向かおうとするが、やってきた雄信に「米兵に手を出したらどうなるのか分かっているのか」と説得され、それでも三線を手に現場に向かう。この三線は尋問で凶器と見做される。

米統治下であるため、尋問や証人喚問などはアメリカ人により英語で行われる(背後に日本語訳の字幕が投影される)。またアメリカ時代の沖縄には本国に倣った陪審員制度があり、法律もアメリカのものが適用された。統治下ということはアメリカが主であるということであり、アメリカ人に有利な判決が出るのが当たり前であった。沖縄人による陪審員裁判の現場に悠一郎は迷い込み、陪審員の一人とされる。寛二が現れ、「どっちみち俺らは酷い目に遭うんだから有罪に手を挙げる」よう悠一郎に促す。

「物語」の展開が始まる。「沖縄は日本のバックヤード」と語られ、内地の平和のために犠牲を払う必要があると告げられる。
実は「物語」の作者は悠一郎本人なのであるが、本人にも止められない。
琉球処分、沖縄戦(太平洋戦争での唯一の市民を巻き込んだ地上戦)、辺野古問題などが次々に取り上げられる。辺野古では沖縄人同士の分断も描かれる。アメリカ側が容疑者の引き渡しを拒否した沖縄米兵少女暴行事件も仄めかされる。
いつも沖縄は日本の言うがままだった。そしてそれを受け入れてきた。沖縄戦では大本営の「沖縄は捨て石」との考えの下、大量の犠牲を払ってもいいから米軍を長く引き留める作戦が取られた。沖縄の犠牲が長引けば長引くほど、いわゆる本土決戦のための準備が整うという考えだ。ガマ(洞窟)に逃げ込んだ沖縄の人々は、日本兵に追い出された。また手榴弾を渡され、いざとなったら自決するように言われ、それに従った。そんな歴史を持つ島に安易に「寄り添う」なんて余りにも傲慢である。悠一郎が「寄り添う」を皮肉として言われる場面もある。
丁度、今日のNHK連続テレビ小説「虎に翼」では、穂高教授(小林薫)の善意から出た見下し(穂高本人は気づいていない)に寅子(伊藤沙莉)が反発する場面が描かれたが、構図として似たものがある。

最後に、京都で「ライカムで待っとく」を上演する意義について。戦後、神奈川県内に多くの米軍施設が作られ、今も使われている(米軍施設の設置面積は沖縄県に次ぐ日本国内2位である)。横須賀のどぶ板通りを歩くと、何人もの米兵とすれ違う。これが神奈川で上演する意義だとすると、京都は「よそ者に蹂躙され続けた」という沖縄に似た歴史を持っており、そうした街で「ライカムで待っとく」を上演することにはオーバーラップの効果がある。鎌倉幕府が成立すると、承久の乱で関東の武士達が京に攻めてきて、街を制圧、六波羅探題が出来て監視下に置かれる。鎌倉幕府が滅びたかと思いきや、関東系の足利氏が京の街を支配し、足利義満は明朝から日本国王の称号を得て、天皇よりも上に立つ。足利義政の代になると私闘に始まる応仁・文明の乱で街は灰燼に帰す。
足利氏の天下が終わると、今度は三好長慶や織田信長が好き勝手やる。豊臣秀吉に至っては街を勝手に改造してしまう。徳川家康も神泉苑の大半を潰して二条城を築き、その北に京都所司代を置いて街を支配する。幕末になると長州人や薩摩人が幅を利かせるようになり、対抗勢力として会津藩が京都守護職として送り込まれ、関東人が作った新選組が京の人々を震え上がらせる。禁門の変では「どんどん焼け」により、またまた街の大半が焼けてしまう。維新になってからも他県出身の政治家が絶えず街を改造する。それでも京都はよその人を受け入れるしかない。沖縄の人が「めんそーれ」と言って出迎えるように、京都は「おこしやす」の姿勢を崩すわけにはいかないのである。

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