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2025年3月16日 (日)

観劇感想精選(485) 令和6年能登半島地震復興祈念公演「まつとおね」 吉岡里帆×蓮佛美沙子

2025年3月9日 石川県七尾市中島町の能登演劇堂にて観劇

能登演劇堂に向かう。最寄り駅はのと鉄道七尾線の能登中島駅。JR金沢駅から七尾線でJR七尾駅まで向かい、のと鉄道に乗り換える。能登中島駅も七尾市内だが、七尾市は面積が広いようで、七尾駅から能登中島駅までは結構距離がある。

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JR七尾線の各駅停車で七尾へ向かう。しばらくは金沢の市街地だが、やがて田園風景が広がるようになる。
JR七尾駅とのと鉄道七尾駅は連結していて(金沢駅で能登中島駅までの切符を買うことが出来る。のと鉄道七尾線は線路をJRから貸してもらっているようだ)、改札も自動改札機ではなく、そのまま通り抜けることになる。

のと鉄道七尾線はのんびりした列車だが、田津浜駅と笠師保駅の間では能登湾と能登島が車窓から見えるなど、趣ある路線である。

 

能登中島駅は別名「演劇ロマン駅」。駅舎内には、無名塾の公演の写真が四方に貼られていた。
能登演劇堂は、能登中島駅から徒歩約20分と少し遠い。熊手川を橋で渡り、道をまっすぐ進んで、「ようこそなかじまへ」と植物を使って書かれたメッセージが現たところで左折して進んだ先にある。

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午後2時から、石川県七尾市中島町の能登演劇堂で、令和6年能登半島地震復興祈念公演「まつとおね」を観る。吉岡里帆と蓮佛美沙子の二人芝居。

能登演劇堂は、無名塾が毎年、能登で合宿を行ったことをきっかけに建てられた演劇専用ホールである(コンサートを行うこともある)。1995年に竣工。
もともとはプライベートで七尾市中島町(旧・鹿島郡中島町)を訪れた仲代達矢がこの地を気に入ったことがきっかけで、自身が主宰する俳優養成機関・無名塾の合宿地となり、その後10年ほど毎年、無名塾の合宿が行われ、中島町が無名塾に協力する形で演劇専用ホールが完成した。無名塾は現在は能登での合宿は行っていないが、毎年秋に公演を能登演劇堂で行っている。

令和6年1月1日に起こった能登半島地震。復興は遅々として進んでいない。そんな能登の復興に協力する形で、人気実力派女優二人を起用した演劇上演が行われる。題材は、七尾城主だったこともある石川県ゆかりの武将・前田利家の正室、まつの方(芳春院。演じるのは吉岡里帆)と、豊臣(羽柴)秀吉の正室で、北政所の名でも有名なおね(高台院。演じるのは蓮佛美沙子。北政所の本名は、「おね」「寧々(ねね)」「ねい」など諸説あるが今回は「おね」に統一)の友情である。
回想シーンとして清洲時代の若い頃も登場するが、基本的には醍醐の花見以降の、中年期から老年期までが主に描かれる。上演は、3月5日から27日までと、地方にしてはロングラン(無名塾によるロングラン公演は行われているようだが、それ以外では異例のロングランとなるようだ)。また上演は能登演劇堂のみで行われる。

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有料パンフレット(500円)には、吉岡里帆と蓮佛美沙子からのメッセージが載っているが、能登での公演の話を聞いた時に、「現地にとって良いことなのだろうか」(吉岡)、「いいのだろうか」(蓮佛)と同じような迷いの気持ちを抱いたようである。吉岡は昨年9月に能登に行って、現地の人々から「元気を届けて」「楽しみ」という言葉を貰い、蓮佛は能登には行けなかったようだが、能登で長期ボランティアをしていた人に会って、「せっかく来てくれるんなら、希望を届けに来てほしい」との言葉を受けて、そうした人々の声に応えようと、共に出演を決めたようである。また二人とも「県外から来る人に能登の魅了を伝えたい」と願っているようだ。

原作・脚本:小松江里子。演出は歌舞伎俳優の中村歌昇ということで衣装早替えのシーンが頻繁にある。ナレーション:加藤登紀子(録音での出演)。音楽:大島ミチル(演奏:ブダペストシンフォニーオーケストラ=ハンガリー放送交響楽団)。邦楽囃子:藤舎成光、田中傳三郎。美術:尾谷由衣。企画・キャスティング・プロデュース:近藤由紀子。

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舞台美術は比較的簡素だが、能登演劇堂の特性を生かす形で生み出されている。

 

立ち位置であるが、上手側に蓮佛美沙子が、下手側に吉岡里帆がいることが多い。顔は似ていない二人だが、舞台なので顔がそうはっきり見えるわけでもなく、二つ違いの同世代で、身長は蓮佛美沙子の方が少し高いだけなので、遠目でもどちらがどちらなのかはっきり分かるよう工夫がなされているのだと思われる。

 

まずは醍醐の花見の場。秀吉最後のデモストレーションとなったことで有名な、今でいうイベントである。この醍醐の花見には、身内からは前田利家と豊臣秀頼のみが招かれているという設定になっており、おねは「次の天下人は前田利家様」になることを望んでいる。淀殿が秀吉の寵愛を受けており、子どもを産むことが出来なかった自分は次第に形見が狭くなっている。淀殿が嫌いなおねとしては、淀殿の子の秀頼よりも前田利家に期待しているようだ。史実としてはおねは次第に淀殿に対向するべく徳川に接近していくのであるが、話の展開上、今回の芝居では徳川家康は敵役となっており、おねは家康を警戒している。秀吉や利家は出てこないが、おね役の蓮佛美沙子が二人の真似をする場面がある。

二人とも映画などで歌う場面を演じたことがあるが、今回の劇でも歌うシーンが用意されている。

回想の清洲の場。前田利家と羽柴秀吉は、長屋の隣に住んでいた。当然ながら妻同士も仲が良い。その頃呼び合っていた、「まつ」「おね」の名を今も二人は口にしている。ちなみに年はおねの方が一つ上だが、位階はおねの方がその後に大分上となり、女性としては最高の従一位(「じゅいちい」と読むが、劇中では「じゅういちい」と読んでいた。そういう読み方があるのか、単なる間違いなのかは不明)の位階と「豊臣吉子」の名を得ていた。そんなおねも若い頃は秀吉と利家のどちらが良いかで迷ったそうだ。利家は歌舞伎者として有名であったがいい男だったらしい。
その長屋のそばには木蓮の木があった。二人は木蓮の木に願いを掛ける。なお、木蓮(マグノリア)は能登復興支援チャリティーアイテムにも採用されている。花言葉は、「崇高」「忍耐」「再生」。

しかし、秀吉が亡くなると、後を追うようにして利家も死去。まつもおねも後ろ盾を失ったことになる。関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍が勝利。まつの娘で、おねの養女であったお豪(豪姫)を二人は可愛がっていたが、お豪が嫁いだ宇喜多秀家は西軍主力であったため、八丈島に流罪となった。残されたお豪はキリシタンとなり、金沢で余生を過ごすことになる。その後、徳川の世となると、出家して芳春院となったまつは人質として江戸で暮らすことになり、一方、おねは秀吉の菩提寺である高台寺を京都・東山に開き、出家して高台院としてそこで過ごすようになる(史実としては、高台寺はあくまで菩提寺であり、身分が高い上に危険に遭いやすかったおねは、現在は仙洞御所となっている地に秀吉が築いた京都新城=太閤屋敷=高台院屋敷に住み、何かあればすぐに御所に逃げ込む手はずとなっていた。亡くなったのも京都新城においてである。ただ高台寺が公演に協力している手前、史実を曲げるしかない)。しかし、大坂の陣でも徳川方が勝利。豊臣の本流が滅びたことで、おねは恨みを募らせていく。15年ぶりに金沢に帰ることを許されたおまつは、その足で京の高台寺におねを訪ねるが、おねは般若の面をかぶり、夜叉のようになっていた。
そんなおねの気持ちを、まつは自分語りをすることで和らげていく。恨みから醜くなってなってしまっていたおねの心を希望へと向けていく。
まつは、我が子の利長が自分のために自決した(これは事実ではない)ことを悔やんでいたことを語り、苦しいのはおねだけではないとそっと寄り添う。そして、血は繋がっていないものの加賀前田家三代目となった利常に前田家の明日を見出していた(余談だが、本保家は利常公の大叔父に当たる人物を生んだ家であり、利常公の御少将頭=小姓頭となった人物も輩出している)。過去よりも今、今よりも明日。ちなみにおねが負けず嫌いであることからまつについていたちょっとした嘘を明かす場面がラストにある。
「悲しいことは二人で背負い、幸せは二人で分ける」。よくある言葉だが、復興へ向かう能登の人々への心遣いでもある。

能登演劇堂は、舞台裏が開くようになっており、裏庭の自然が劇場内から見える。丸窓の向こうに外の風景が見えている場面もあったが、最後は、後方が全開となり、まつとおねが手を取り合って、現実の景色へと向かっていくシーンが、能登の未来への力強いメッセージとなっていた。

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能登中島駅に飾られた舞台後方が開いた状態の能登演劇堂の写真

様々な衣装で登場した二人だが、最後は清洲時代の小袖姿で登場(ポスターで使われているのと同じ衣装)。劇場全体を華やかにしていた。

共に生で見るのは3回目となる吉岡里帆と蓮佛美沙子。吉岡里帆の前2回がいずれも演劇であるのに対して、蓮佛美沙子は最初はクラシックコンサートでの語り手で(ちなみにこの情報をWikipediaに書き込んだのは私である)、2度目は演劇である。共に舞台で風間杜夫と共演しているという共通点がある。蓮佛美沙子は目鼻立ちがハッキリしているため、遠目でも表情がよく伝わってきて、舞台向きの顔立ち。吉岡里帆は蓮佛美沙子に比べると和風の顔であるため、そこまで表情はハッキリ見えなかったが、ふんわりとした雰囲気に好感が持てる。実際、まつが仏に例えられるシーンがあるが、吉岡里帆だから違和感がないのは確かだろう。ただ、彼女の場合は映像の方が向いているようにも感じた。

 

二人とも有名女優だが一応プロフィールを記しておく。

蓮佛美沙子は、1991年、鳥取市生まれ。蓮佛というのは鳥取固有の苗字である。14歳の時に第1回スーパー・ヒロイン・オーディション ミス・フェニックスという全国クラスのコンテストで優勝。直後に女優デビューし、15歳の時に「転校生 -さよなら、あなた-」で初主演を飾り、第81回キネマ旬報ベストテン日本映画新人女優賞と第22回高崎映画祭最優秀新人女優賞を獲得。ドラマではNHKの連続ドラマ「七瀬ふたたび」の七瀬役に17歳で抜擢され、好演を示した。その後、民放の連続ドラマにも主演するが、視聴率が振るわず、以後は脇役と主演を兼ねる形で、ドラマ、映画、舞台に出演。育ちのいいお嬢さん役も多いが、「転校生 -さよなら、あなた-」の男女逆転役、姉御肌の役、不良役、そして猟奇殺人犯役(ネタバレするのでなんの作品かは書かないでおく)まで広く演じている。白百合女子大学文学部児童文化学科児童文学・文化専攻(現在は改組されて文学部ではなく独自の学部となっている)卒業。卒業制作で絵本を作成しており、将来的には出版するのが夢である。映画では、主演作「RIVER」、ヒロインを演じた「天外者」の評価が高い。
2025年3月9日現在は、NHK夜ドラ「バニラな毎日」に主演し、月曜から木曜まで毎晩登場、好評を博している。
出演したミュージカル作品がなぜがWikipediaに記されていなかったりする。仕方がないので私が書いておいた。

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吉岡里帆は、1993年、京都市右京区太秦生まれ。書道を得意とし、京都橘大学で書道を専攻。演技を志したのは大学に入ってからで、それまでは書道家になるつもりであった。仲間内の自主製作映画に出演したことで演技や作品作りに目覚め、京都の小劇場にも出演したが、より高い場所を目指して、夜行バスで京都と東京を行き来してレッスンに励み、その後、自ら売り込んで事務所に入れて貰う。交通費などはバイトを4つ掛け持ちするなどして稼いだ。東京進出のため、京都橘大学は3年次終了後に離れたようだが、その後に大学を卒業しているので、東京の書道が専攻出来る大学(2つしか知らないが)に編入したのだと思われる。なお、吉岡は京都橘大学時代の話はするが、卒業した大学に関しては公表していない。
NHK朝ドラ「あさが来た」ではヒロインオーディションには落選するも評価は高く、「このまま使わないのは惜しい」ということで特別に役を作って貰って出演。TBS系連続ドラマ「カルテット」では、元地下アイドルで、どこか後ろ暗いものを持ったミステリアスな女性を好演して話題となり、現在でも代表作となっている。彼女の場合は脇役では有名な作品は多いが(映画「正体」で、第49回報知映画賞助演女優賞、第48回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞受賞)、主演作ではまだ決定的な代表作といえるようなものがないのが現状である。知名度や男受けは抜群なので意外な気がする。現在はTBS日曜劇場「御上先生」にヒロイン役で出演中。また来年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、主人公の豊臣秀長(仲野太賀)の正室(役名は慶=ちか。智雲院。本名は不明という人である)という重要な役で出ることが決まっている(なお、寧々という名で北政所を演じるのは石川県出身の浜辺美波。まつが登場するのかどうかは現時点では不明である)。

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二人とも良いとこの子だが、経歴を見ると蓮佛がエリート、吉岡が叩き上げなのが分かる。

カーテンコールで、先に書いたとおり小袖登場した二人、やはり吉岡が下手側から、蓮佛が上手側から現れる。二人とも三十代前半だが、そうは見えない若々しくて魅力的な女の子である。

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2025年2月18日 (火)

観劇感想精選(484) リリックプロデュース公演 Musical「プラハの橋」

2025年2月10日 京都劇場にて

午後6時30分から、京都劇場で、リリックプロデュース公演 Musical「プラハの橋」を観る。歌手の竹島宏が「プラハの橋」(舞台はプラハ)、「一枚の切符」(舞台不明)、「サンタマリアの鐘」(舞台はフィレンツェ)という3枚のシングルで、2003年度の日本レコード大賞企画賞を受賞した「ヨーロッパ三部作」を元に書かれたオリジナルミュージカル公演である。作曲・編曲:宮川彬良、脚本・演出はオペラ演出家として知られる田尾下哲。作詞は安田佑子。竹島宏、庄野真代、宍戸開による三人芝居である。演奏:宮川知子(ピアノ)、森由利子(ヴァイオリン)、鈴木崇朗(バンドネオン)。なお、「ヨーロッパ三部作」の作曲は、全て幸耕平で、宮川彬良ではない。

パリ、プラハ、フィレンツェの3つの都市が舞台となっているが、いずれも京都市の姉妹都市である。全て姉妹都市なので京都でも公演を行うことになったのかどうかは不明。
客席には高齢の女性が目立つ。
チケットを手に入れたのは比較的最近で、宮川彬良のSNSで京都劇場で公演を行うとの告知があり、久しく京都劇場では観劇していないので、行くことに決めたのだが、それでもそれほど悪くはない席。アフタートークでリピーターについて聞く場面があったのだが、かなりの数の人がすでに観たことがあり、明日の公演も観に来るそうで、自分でチケットを買って観に来た人はそれほど多くないようである。京都の人は数えるほどで、北は北海道から南は鹿児島まで、日本中から京都におそらく観光も兼ねて観に来ているようである。対馬から来たという人もいたが、京都まで来るのはかなり大変だったはずである。

青い薔薇がテーマの一つになっている。現在は品種改良によって青い薔薇は存在するが、劇中の時代には青い薔薇はまだ存在しない(青い薔薇は2004年に誕生)。

アンディ(本名はアンドレア。竹島宏)はフリーのジャーナリスト兼写真家。ヨーロッパ中を駆け巡っているが、パリの出版社と契約を結んでおり、今はパリに滞在中。編集長のマルク(宍戸開)と久しぶりに出会ったアンディは、マルクに妻のローズ(庄野真代)を紹介される。アンディもローズもイタリアのフィレンツェ出身であることが分かり、しかも花や花言葉に詳しい(ローズはフィレンツェの花屋の娘である)ことから意気投合する。ちなみにアンディはフィレンツェのアルノ川沿いの出身で、ベッキオ橋(ポンテ・ベッキオ)を良く渡ったという話が出てくるが、プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」の名アリア“ねえ、私のお父さん”を意識しているのは確かである。
ローズのことが気になったアンディは、毎朝、ローズとマルクの家の前に花を一輪置いていくという、普通の男がやったら気味悪がられそうなことを行う。一方、ローズも夫のマルクが浮気をしていることを見抜いて、アンディに近づいていくのだった。チェイルリー公園で待ち合わせた二人は、駆け落ちを誓う。

1989年から1991年まで、共産圏が一斉に崩壊し、湾岸戦争が始まり、ユーゴスラビアが解体される激動の時代が舞台となっている。アンディは、湾岸戦争でクウェートを取材し、神経剤が不正使用されていること暴いてピューリッツァー賞の公益部門を受賞するのだが、続いて取材に出掛けたボスニア・ヘルツェゴビナで銃撃されて右手を負傷し、両目を神経ガスでやられる。

竹島宏であるが、主役に抜擢されているので歌は上手いはずなのだが、今日はなぜか冒頭から音程が揺らぎがち。他の俳優も間が悪かったり、噛んだりで、舞台に馴染んでいない印象を受ける。「乗り打ちなのかな?」と思ったが、公演終了後に、東京公演が終わってから1ヶ月ほど空きがあり、その間に全員別の仕事をしていて、ついこの間再び合わせたと明かされたので、ブランクにより舞台感覚が戻らなかったのだということが分かった。

台詞はほとんどが説明台詞。更に独り言による心情吐露も多いという開いた作りで、分かりやすくはあるのだが不自然であり、リアリティに欠けた会話で進んでいく。ただ客席の年齢層が高いことが予想され、抽象的にすると内容を分かって貰えないリスクが高まるため、敢えて過度に分かりやすくしたのかも知れない。演劇を楽しむにはある程度の抽象思考能力がいるが、普段から芝居に接していないとこれは養われない。風景やカット割りなどが説明的になる映像とは違うため、演劇を演劇として受け取る力が試される。
ただこれだけ説明的なのに、アンディとローズがなぜプラハに向かったのかは説明されない。一応、事前に「プラハの春」やビロード革命の話は出てくるのだが、関係があるのかどうか示されない。この辺は謎である。

竹島宏は、実は演技自体が初めてだそうだが、そんな印象は全く受けず、センスが良いことが分かる。王子風の振る舞いをして、庄野真代が笑いそうになる場面があるが、あれは演技ではなく本当に笑いそうになったのだと思われる。
宍戸開がテーブルクロス引きに挑戦して失敗。それでも拍手が起こったので、竹島宏が「なんで拍手が起こるんでしょ?」とアドリブを言う場面があった。アフタートークによると、これまでテーブルクロス引きに成功したことは、1回半しかないそうで(「半」がなんなのかは分からないが)、四角いテーブルならテーブルクロス引きは成功しやすいのだが、丸いテーブルを使っているので難しいという話をしていた。リハーサルでは四角いテーブルを使っていたので成功したが、本番は何故か丸いテーブルを使うことになったらしい。

最初のうちは今ひとつ乗れなかった三人の演技であるが、次第に高揚感が出てきて上がり調子になる。これもライブの醍醐味である。

宮川彬良の音楽であるが、三拍子のナンバーが多いのが特徴。全体の約半分が三拍子の曲で、残りが四拍子の曲である、出演者が三人で、音楽家も三人だが何か関係があるのかも知れない。

ありがちな作品ではあったが、音楽は充実しており、ラブロマンスとして楽しめるものであった。

 

竹島宏は、1978年、福井市生まれの演歌・ムード歌謡の歌手。明治大学経営学部卒ということで、私と同じ時代に同じ場所にいた可能性がある。

「『飛んでイスタンブール』の」という枕詞を付けても間違いのない庄野真代。ヒットしたのはこの1作だけだが、1作でも売れれば芸能人としてやっていける。だが、それだけでは物足りなかったようで、大学、更に大学院に進み、現在では大学教員としても活動している。
ちなみにこの公演が終わってすぐに「ANAで旅する庄野真代と飛んでイスタンブール4日間」というイベントがあり、羽田からイスタンブールに旅立つそうである。

三人の中で一人だけ歌手ではない宍戸開。終演後は、「私の歌を聴いてくれてありがとうございました」とお礼を言っていた。
ちなみにアフタートークでは、暗闇の中で背広に着替える必要があったのだが、表裏逆に来てしまい、出番が終わって控え室の明るいところで鏡を見て初めて表裏逆に着ていたことに気付いたようである。ただ、出演者を含めて気付いた人はほとんどいなかったので大丈夫だったようだ。

竹島宏は、「演技未経験者がいきなりミュージカルで主役を張る」というので公演が始まる前は、「みんなから怒られるんじゃないか」とドキドキしていたそうだが、東京公演が思いのほか好評で胸をなで下ろしたという。

庄野真代は、「こんな若い恋人と、こんな若い旦那と共演できてこれ以上の幸せはない」と嬉しそうであった。「これからももうない」と断言していたが、お客さんから「またやって」と言われ、宍戸開が「秋ぐらいでいいですかね」とフォローしていた。

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2025年2月 7日 (金)

コンサートの記(885) びわ湖ホール オペラへの招待 クルト・ヴァイル作曲「三文オペラ」2025

2025年1月26日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 クルト・ヴァイル作曲「三文オペラ」を観る。ジョン・ゲイの戯曲「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」をベルトルト・ブレヒトがリライトした作品で、ブレヒトの代表作となっている。ブレヒトは東ベルリンを拠点に活動した人だが、「三文オペラ」の舞台は原作通り、ロンドンのソーホーとなっている。

セリフの多い「三文オペラ」が純粋なオペラに含まれるのかどうかは疑問だが(ジャンル的には音楽劇に一番近いような気がする)、「マック・ザ・ナイフ」などのスタンダードナンバーがあり、クラシックの音楽家達が上演するということで、オペラと見ても良いのだろう。
ちなみに有名俳優が多数出演するミュージカル版は、白井晃演出のもの(兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール)と宮本亞門演出のもの(今はなき大阪厚生年金会館芸術ホール)の2つを観ている。

実は私が初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」である。高校生の時だった。ジョン・マウチュリ(当時の表記は、ジョン・モーセリ)の指揮、RIASベルリン・シンフォニエッタの演奏、ウテ・レンパーほかの歌唱。当時かなり話題になっており、CD1枚きりで、オペラのCDとしては安いので購入したのだが、高校生が理解出来る内容ではなかった。

 

栗山晶良が生前に手掛けたオペラ演出を復元するプロジェクトの中の1本。演出:栗山晶良、再演演出:奥野浩子となっている。

振付は、小井戸秀宅。

 

園田隆一郎指揮ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の演奏。今日は前から2列目での鑑賞だったので、オーケストラの音が生々しく聞こえる。オルガン(シンセサイザーを使用)やバンドネオンなど様々な楽器を使用した独特の響き。

出演はWキャストで、今日は、市川敏雅(メッキー・メッサー)、西田昂平(にしだ・こうへい。ピーチャム)、山内由香(やまうち・ゆか。ピーチャム夫人)、高田瑞希(たかだ・みずき。ポリー)、有ヶ谷友輝(ありがや・ともき。ブラウン)、小林由佳(ルーシー)、岩石智華子(ジェニー)、林隆史(はやし・たかし。大道歌手/キンボール牧師)、有本康人(フィルチ)、島影聖人(しまかげ・きよひと)、五島真澄(男性)、谷口耕平、奥本凱哉(おくもと・ときや)、古屋彰久、藤村江李子、白根亜紀、栗原未知、溝越美詩(みぞこし・みう)、上木愛李(うえき・あいり)。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが基本である。
オーケストラピットの下手端に橋状になった部分があり、ここを渡って客席通路に出入り出来るようになっている。有効に利用された。

ロンドンの乞食ビジネスを束ねているピーチャム(今回は左利き。演じる西田昂平が左利きなのだと思われる)。いわゆる悪徳業者であるが、悪党の親玉であるメッキー・メッサーが自身の娘であるポリーと結婚しようとしていることを知る。メッキー・メッサーは、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)の警視総監ブラウンと懇意であり、そのために逮捕されないのだが、ピーチャムは娘を取り戻すためにブラウンにメッサーとの関係を知っていることを明かして脅す。
追われる身となったメッセーは、部下達に別れを告げ、ロンドンから出ることにするが、娼館に立ち寄った際に逮捕されてしまう。牢獄の横でメッサーに面会に来たポリーとブラウンの娘ルーシーは口論に。その後、上手く逃げおおせたメッサーであるが、再び逮捕されて投獄。遂には絞首刑になることが決まるのだが……。

クルト・ヴァイル(ワイル)は、いかにも20世紀初頭を思わせるようなジャンルごちゃ混ぜ風の音楽を書く人だが、「マック・ザ・ナイフ(殺しのナイフ)」はジャズのスタンダードナンバーにもなっていて有名である。今回の上演でもエピローグ部分も含めて計4度歌われる。エピローグ的な歌唱では、びわ湖ホールを宣伝する歌詞も特別に含まれていた。
また「海賊ジェニーの歌」も比較的有名である。

ブレヒトというと、「異化効果」といって、観客が登場人物に共感や没入をするのではなく、突き放して見るよう仕向ける作劇法を取っていることで知られるが、今回は特別に「異化効果」を狙ったものはない。ただ、オペラ歌手による日本語上演であるため、セリフが強く、一音一音はっきり発音するため、感情を込めにくい話し方となっており、そこがプロの俳優とは異なっていて、「異化効果」に繋がっていると見ることも出来る。
白井晃がミュージカル版「三文オペラ」を演出した際には、ポリー役に篠原ともえを起用。篠原ともえは今はいい女風だが、当時はまだ不思議ちゃんのイメージがあった頃、ということでヒロインっぽさゼロでそこが異化効果となっていた。今日、ポリーを演じたのは歌劇「竹取物語」で主役のかぐや姫を1公演だけ歌った高田瑞希。彼女はセリフも歌も身のこなしも自然で、いかにもオペラのヒロインといった感じであった。6年前に初めて見た時は、京都市立芸術大学声楽科に通うまだ二十歳の学生で、幼い感じも残っていたが、立派に成長している。

園田隆一郎指揮するザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団も、ヴァイルのキッチュな音楽を消化して表現しており、面白い演奏となっていた。

「セツアン(四川)の善人」などでもそうだが、ブレヒトは、ギリシャ悲劇の「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」を再現しており、それまでのストーリーをぶち破るように強引にハッピーエンドに持って行く。これも一種の異化効果である。

 

「三文オペラ」は、オペラ対訳プロジェクトの一作に選ばれており、クルト・ヴァイルの奥さんであったロッテ・レーニャなどの歌唱による音源を日本語字幕付きで観ることが出来る。

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2025年1月31日 (金)

これまでに観た映画より(371) 門脇麦&水原希子「あのこは貴族」

2022年12月20日

録画してまだ観ていなかった日本映画「あのこは貴族」を観る。原作:山内マリコ。監督・脚本:岨手由貴子(そで・ゆきこ)。出演:門脇麦、水原希子、高良健吾、石橋静河、山下リオ、高橋ひとみ、銀粉蝶ほか。

東京屈指の高級住宅街である渋谷区松濤(しょうとう)の開業医の家に生まれた榛原華子(はいばら・はなこ。演じるのは門脇麦)と、富山の庶民の家に生まれ育った時岡美紀(水原希子)の対照的な人生、そして二人を繋ぐことになるエリート中のエリート、青木幸一郎(高良健吾)の姿を描いた意欲作。

経済的には何不自由ない家に生まれた華子だが、役割といえば家を次世代に繋ぐだけ。初等科から大学まで一緒だった友人達が次々結婚していく中、何人かの男性とお見合いをしたり紹介されて会ったりしたが、良い相手に出会えず、最終的に巡り会ったのが、幼稚舎からの慶應ボーイで、東大の大学院を出て顧問弁護士の仕事をしている青木幸一郎であった。その幸一郎は、大学から慶應に外部生として入ってきた美紀に、授業終了後にノートを借りたことがあった。いい加減なことに幸一郎はノートを美紀に返さなかった訳だが、美紀の父親が失職し、学費が払えないということで仕方なく働き始めたクラブで美紀と幸一郎は再会し(美紀は結局、慶大は中退していた)、親しい仲となっていた。

経済的には恵まれていない美紀だが、友人の里英(山下リオ)と自転車で二人乗りするなど、自由を謳歌していた。そんな華子と美紀がある日、出会う。

現代の日本においては、貴族制度も華族制度も廃止されているわけだが、家柄を考えればまだ貴族に相当する上流階級は存在しており、大きな力を持っている。だが、そうした家柄に生まれれば幸せかといえばそういうわけでもない。
美紀が華子に語る、「とりあえずは十分なこと」を大切にすることで、階級などの差を超えて今を生きることの尊さが伝わってくる映画である。

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2025年1月30日 (木)

これまでに観た映画より(370) 「イル・ポスティーノ」4Kデジタルリマスター版

2024年11月20日 アップリンク京都にて

アップリンク京都で、イタリア映画「イル・ポスティーノ」4Kデジタルリマスター版を観る。イタリア映画の中でもメジャーな部類に入る作品である。1994年の制作。1995年のアカデミー賞で、ルイス・エンリケス・バカロフが作曲賞を受賞している。監督・脚色:マイケル・ラドフォード。ラドフォード監督は、「アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール」も監督している。音楽:ルイス・エンリケス・バカロフ。出演:マッシモ・トロイージ(脚色兼任)、フィリップ・ノワレ、マリア・グラツィア・クチノッタほか。主演のマッシモ・トロイージは、撮影中から心臓の不調に苦しんでおり、この映画を撮り終えた12時間後に心臓発作のため41歳で急死。本作が遺作となった。

実在のチリの詩人、パブロ・ネルーダをフィリップ・ノワレが演じた作品である。

イタリア、ナポリ沖のカプリ島(レオナルド・ディカプリオの先祖がこの島の出身である)をモデルとした小島が舞台。マリオ(マッシモ・トロイージ)は、漁師の子だが、アレルギーなどがあり、漁師になることは出来ない。しかし、父親からは「もう大人なのだから働け」とせかされる。郵便局の扉に求人の張り紙があるのを見たマリオは、翌日、郵便局を訪れ、詳細を聞く。チリの国民的な詩人であるパブロ・ネルーダ(フィリップ・ノワレ)が共産党員という理由で祖国を追われて亡命し、イタリアのこの島で暮らすことになったので、彼宛ての手紙を届ける専門の郵便配達夫が必要になったのだという。賃金は雀の涙だというが、マリオはこの職に就くこと決める。共に共産主義者ということもあって次第に親しくなるマリオとパブロ。
やがてマリオは瞳の大きなベアトリーチェ(マリア・グラツィア・クチノッタ)という女性に恋をする。マリオはベアトリーチェに近づくためにパブロに詩を習うことになる。

 

詩を題材にしたヒューマンドラマである。言葉によって心と心が通じ合っていく。風景も美しく、音楽も秀逸で、ローカル色の濃い南イタリアの島の風景に溶け込む喜びを感じることが出来る。偉大な詩人によって郵便配達夫が詩の腕を上げていくという大人の教養小説的な味わいにも満ちた作品だ。
ベアトリーチェ役のマリア・グラツィア・クチノッタも魅力的で、イタリア映画の中でも独自の味わいを築いている。

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2024年12月 8日 (日)

これまでに観た映画より(357) National Theatre Live 「プライマ・フェイシィ」

2024年11月11日 大阪の扇町キネマにて

大阪の扇町キネマで、National Theatre Live「プライマ・フェイシィ」を観る。イギリスのナショナル・シアターが上演された演劇作品を映画館で上映するシリーズ作品。今回は、2022年4月15日から6月18日まで、ロンドン・ウエストエンドのハロルド・ピンター劇場で行われたジョディ・カマーの一人芝居「プライマ・フェイシィ」が上映される。作:スージー・ミラー、演出:ジャスティン・マーティン。ジャスティン・マーティンは、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」などを手掛けたスティーブン・ダルドリーと長年に渡ってコラボレーションを組んできた人だという。

初の扇町キネマ。京都市内にも映画館は多く、大抵は京都の映画館で済んでしまうため、大阪市内の映画館には入ること自体が二度目である。

作者のスージー・ミラーは、オーストラリアのメルボルン出身で、オーストラリアの弁護士からイギリスの劇作家に転身したという異例の人である。この「プライマ・フェイシィ」も女性弁護士が主人公となっている。「プライマ・フェイシィ」の初演は2019年、オーストラリア・シドニーのグリフィン・シアターで行われている。

非常にセリフの量が多く、上演時間は休憩なしの2時間ほどだが、その間、ずっと喋りっぱなしのような状態である。物語は全てセリフで説明される。

女性弁護士のテッサ(ジョディ・カマー)は、性的暴行を受けた若い女性の弁護を法廷で行っている。テッサはわざと隙を作って、そこに相手を誘い込むという手法を得意としているようだ。テッサはリヴァプールで清掃業を営む労働者階級の出身であり(初演時はオーストラリアが舞台だったが、演じるジョディ・カマーがリヴァプール出身ということで設定が変わった)、公立のハイスクールを出たが、ケンブリッジ大学法学部の法科大学院(ロースクール)に進んでいる。オックスフォード大学と並ぶ世界最高峰の名門であるケンブリッジ大学の法科大学院といえど、イギリスの法曹資格を得るのは容易ではないようで、合格するのは10人に1人程度の狭き門であるようだ。ちなみに同級生にはやはり育ちの良い子が多かったようで、知り合いの多くは私立高校やパブリックスクール出身である。

テッサは、小さな弁護士事務所に勤めているのだが、大手の弁護士事務所からも誘いがある。

弁護士仲間とも上手くやっていたが、ある日、やはり弁護士のジュリアン・ブルックスと事務所内で情事に及ぶ。その後、ジュリアンとは親しくなり、日本食レストランで食事をし、日本酒(「サキ」と発音される)を飲み、テッサのアパートに移ってワインなどを空け、この日も情事に及ぶのだが、テッサはその後、吐き気がしてトイレでもどしていた。そこにジュリアンがやってきてテッサをベッドまで抱え、テッサが望まぬ二度目のことに及ぶ。テッサは「これはレイプだ」と傷つき、自身のアパートを飛び出す。雨の日でずぶ濡れになったテッサはタクシーを拾い、最寄りの警察署に言って欲しいと告げる。

それから782日が経過した。ジュリアンはその後、婦女暴行で逮捕され、審判の日を迎えることになったのだ。だが、その間、テッサが失ったものは余りに多かった。

刑事法院に原告として証言台に立ったテッサは、不快な記憶を辿る必要がある上に、様々な矛盾を指摘される。俗に言う「セカンドレイプ」である。「両手を抑えられていたのに、口も塞がれたなんてどうやったんだ?」と痛いところを突かれる。テッサは、ジュリアンが片手でテッサの両手を抑えて、片手で口を塞いだことを思い出すのだが、レイプ体験の証言ということで、どうしても頭が混乱してしまい、その場では上手く証言出来ない。法律は全て家父長的な精神の下で男性が作ったものであり、男性に有利に出来ているとテッサは告発する。「法への信念」を抱いてきたテッサの失望である。
更に、テッサがスカウトされ、現在所属している大手弁護士事務所は、ジュリアンなど複数の弁護士に誘いを掛けており、最終候補に残ったのがテッサとジュリアンの二人だった。テッサはそれを知らなかったのだが、「ジュリアンを追い落とそうとしたのでは」との疑いを掛けられる。

「魂の殺人」とも言われる強姦。女性の3人に1人が被害に遭っているという統計もあるが、被害者が基本的に混乱に陥っているということもあって立証は難しく、この劇での被告であるジュリアンも無罪となっている。
敗れたテッサだが、被害者の一人としていずれ法が変わり、多くの女性が救われる日が来ることを願う。そして、この芝居のためにセルフ・エステーム(レベッカ・ルーシー・テイラー)が書き下ろした「私が私でいられる完全な自由」を求める歌によって締められる。

1993年生まれと若いジョディ・カマーは、普段はテレビドラマを主戦場としている人のようだが、膨大な量のセリフを機関銃のように吐き出すという迫力のある演技を見せる。彼女は「プライマ・フェイシィ」で、イブニング・スタンダード演劇賞と、権威あるローレンス・オリヴィエ賞最優秀主演女優賞を獲得している。ニューヨーク・ブロードウェイ公演ではトニー賞最優秀主演女優賞にも輝いた。
作品自体もローレンス・オリヴィエ賞の最優秀新作プレイ賞を受賞している。

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2024年11月23日 (土)

観劇感想精選(477) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再々演(三演) 2024.11.10 SkyシアターMBS

2024年11月10日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

12時30分から、JR大阪駅西口のSkyシアターMBSで、Daiwa House Presents ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。2000年に製作されたイギリス映画をミュージカル化した作品で、日本では今回が三演(再々演)になる。前回(再演)は、2020年の上演で、私は梅田芸術劇場メインホールで観ている。特別に感銘深い作品という訳ではなかったのだが(完成度自体は映画版の「リトル・ダンサー」の方が良い)、とある事情で観ることになった。

今年出来たばかりのSkyシアターMBS。このミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」もオープニングシリーズの一つとして上演される。先にミュージカル「RENT」を観ているが、この時は2階席。今日は1階席だが、1階席だと音響はミュージカルを上演するのに最適である。程よい残響がある。演劇やミュージカルのみならず、今後は斉藤由貴などがコンサートを行う予定もあるようだ。オーケストラピットを設置出来るようになっていて、今日はオケピを使っての上演である。

ロングラン上演ということもあって、全ての役に複数の俳優が割り当てられている。前回は、益岡徹の芝居が見たかったので、益岡徹が出る回を選んだのだが、今回も益岡徹は出演するので、益岡徹出演回を選び、濱田めぐみの歌も聴いてみたかったので、両者が揃う回の土日上演を選び、今日のマチネーに決めた。

今日の出演は、石黒瑛土(いしぐろ・えいと。ビリー・エリオット)、益岡徹(お父さん=ジャッキー・エリオット)、濱田めぐみ(サンドラ・ウィルキンソン先生)、芋洗坂係長(ジョージ・ワトソン)、阿知波悟美(おばあちゃん)、西川大貴(にしかわ・たいき。トニー)、山科諒馬(やましな・りょうま。オールダー・ビリー)、髙橋維束(たかはし・いつか。マイケル)、上原日茉莉(デビー)、バレエダンサーズ・ベッドリントン(組)、髙橋翔大(トールボーイ)、藤元萬瑠(ふじもと・まる。スモールボーイ)ほか。
ベッドリントン(組)=岩本佳子、木村美桜、清水優、住徳瑠香、長尾侑南。


ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」は、映画「リトル・ダンサー(原題「Billy Elliot」)」をエルトン・ジョンの作曲でミュージカル化(「Billy Elliot the Musical」)したもので、2005年にロンドンで初演。日本版は2017年に初演され、2020年に再演、今回が三演(再々演)となる。日本でも初演時には菊田一夫演劇大賞などを受賞した。

ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」は、トニー賞で、ミュージカル作品賞、脚本賞、演出賞、振付賞など多くの賞を受賞している。なお、脚本(リー・ホール)、演出(スティーブン・ダルドリー)、振付(ピーター・ダーリング)は映画版と一緒である(テキスト日本語訳:常田景子、訳詞:高橋亜子、振付補:前田清実&藤山すみれ)。
ただ、社会批判はかなり強くなっており、冒頭の映像で、マーガレット・サッチャー(劇中ではマギー・サッチャーの愛称で呼ばれる。マーガレットの愛称にはもう一つ、メグというチャーミングなものがあるが、そちらで呼ばれることは絶対にない)首相が炭鉱の国有化を反故にした明らかな悪役として告発されているほか、第2幕冒頭のクリスマスイブのパーティーのシーンではジョージがサッチャーの女装をしたり、サッチャーの巨大バルーン人形が登場したりして、サッチャーの寿命が1年縮んだことを祝う場面があるなど、露骨に「反サッチャー色」が出ている。実際にサッチャーが亡くなると労働者階級の多くがパーティーを開いたと言われている。
イングランド北東部の炭鉱の町、ダラムのエヴァリントンが舞台なので、炭鉱で働く人の多くを失業に追いやったサッチャーが目の敵にされるのは当然なのだが、サッチャー的な新自由主義そのものへと嫌悪感が示されているようである。新自由主義は21世紀に入ってから更に大手を振って歩くようになっており、日本も当然ながらその例外ではない。

炭鉱の町が舞台ということで、日本を代表する炭鉱の存在する筑豊地方の方言にセリフが置き換えられている。
子役は多くの応募者の中から厳選されているが(1374人が応募して合格者4人)、今日、ビリーを演じた石黒君も演技の他に、バレエ、ダンス、タンブリング、歌など、高い完成度を見せている(2023年NBA全国バレエコンクール第1位、2023年YBCバレエコンクール第1位などの実績がある)。


反サッチャー色が濃くなっただけで、大筋については特に変更はない。1984年、ボクシングを習っていた11歳のビリー(どうでもいいことですが、私より1歳年上ですね)は、ボクシング教室の後に同じ場所で行われるバレエ教室のウィルキンソン先生(自己紹介の時に「アンナ・パヴロワ」と「瀕死の白鳥」で知られる名バレリーナを名乗る)にバレエダンサーとしての素質を見出され、ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受けてみないかと誘われる。しかし、男臭い田舎の炭鉱町なので、最初はビリーも「バレエをやるのはオカマ」という偏見を持ち、炭鉱夫であるビリーの父親もやはり「バレエはオカマがやるもの」と思い込んでいる。なお、ビリーの母親はすでに亡くなっているが、幻影として登場する(演:大月さゆ)。現在、町はサッチャリズムに反対したストライキ中で、炭鉱の将来の見通しも暗い。
人々は、英語で「仕事と命を守れ」、「この町を地獄に追い落とすな」等の文句の書かれたプラカードを掲げている(英語が苦手な人は意味が分からないと思われる)。

元々筋が良いため、バレエも日々上達し、次第にロイヤル・バレエ・スクールのオーディションを受けることに関心を見せていくビリー。しかし、オーディションの当日、警官達がストライキ中の町を襲撃するという事件があり、ビリーはオーディションを受けることが出来なくなってしまう。

作曲はエルトン・ジョンであるが、ビリーがジュラルミンの楯を持った警官達と対峙するときに、チャイコフスキーの「白鳥の湖」より情景のメロディーが一瞬流れ、ビリーがオールダー・ビリーとデュオを踊る(ワイヤーアクションの場面あり)シーン(映画ではラストシーンだが、ミュージカルでは途中に配される)にも「白鳥の湖」が用いられ、更にその後も一度、「白鳥の湖」は流れる。

ウィルキンソン先生を、ビリーが母のように慕うシーンは映画版にはなかったもの(そもそも映画版とミュージカル版ではウィルキンソン先生の性格が異なる)。またビリーの父親であるジャッキーが故郷への愛着を三拍子の曲で歌ったり、炭鉱の人々がビリーを励ます歌をあたかもプロテストソングのように歌い上げたりするシーンもより政治色を強めている。
ビリーの兄のトニーがいうように、炭鉱の人々はサッチャーによって全員失業させられる。これからどうやって生きていくのか。ビリーのサクセスストーリーよりもそちらの方が気になってしまう。ビリーのために乏しい財布からカンパをした人々だ。この後、炭鉱の閉鎖が決まり、地獄のような時代が待っているはずだが、皆、生き抜いて欲しい。

ビリーは、出る時も客席通路からステージに向かう階段を昇って現れたが、去る時も母親の幻影と決別した後に階段を使って客席通路に降り、客席通路を一番上まで上って退場した。客席から第二のビリーが現れるようにとの制作側のメッセージが感じられた。実際、今日のビリーを演じた石黒瑛土君もミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」の初演と再演を観てオーディション参加を決めたという。

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

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2024年11月 4日 (月)

観劇感想精選(474) NODA・MAP第27回公演「正三角関係」

2024年9月19日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後7時から、JR大阪駅西口のSkyシアターMBSで、NODA・MAP第27回公演「正三角関係」を観る。SkyシアターMBSオープニングシリーズの1つとして上演されるもの。
作・演出・出演:野田秀樹。出演:松本潤、長澤まさみ、永山瑛太、村岡希美、池谷のぶえ、小松和重、竹中直人ほか。松本潤の大河ドラマ「どうする家康」主演以降、初の舞台としても注目されている。
衣装:ひびのこずえ、音楽:原摩利彦。

1945年の長崎市を舞台とした作品で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と、長崎原爆が交錯する。「欲望という名の電車」も長崎に路面電車が走っているということで登場するが、それほど重要ではない。

元花火師の唐松富太郎(からまつ・とみたろう。『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイに相当。松本潤)は、父親の唐松兵頭(ひょうどう。『カラマーゾフの兄弟』のフョードルに相当。竹中直人)殺しの罪で法廷に掛けられる。主舞台は長崎市浦上にある法廷が中心だが、様々な場所に飛ぶ。戦中の法廷ということで、法曹達はNHK連続テレビ小説「虎に翼」(伊藤沙莉主演)のような法服(ピンク色で現実感はないが)を着ている。
検察(盟神探湯検事。竹中直人二役)と、弁護士(不知火弁護士。野田秀樹)が争う。富太郎の弟である唐松威蕃(いわん。『カラマーゾフの兄弟』のイワン=イヴァンに相当。永山瑛太)は物理学者を、同じく唐松在良(ありよし。『カラマーゾフの兄弟』のアレクセイ=アリョーシャに相当。長澤まさみ)は、神父を目指しているが今は教会の料理人である。
富太郎は、兵頭殺害の動機としてグルーシェニカという女性(元々は『カラマーゾフの兄弟』に登場する悪女)の名前を挙げる。しかし、グルーシェニカは女性ではないことが後に分かる(グルーシェニカ自体は登場し、長澤まさみが二役、それも早替わりで演じている)。

『カラマーゾフの兄弟』がベースにあるということで、ロシア人も登場。ロシア領事官ウワサスキー夫人という噂好きの女性(池谷のぶえ)が実物と録音機の両方の役でたびたび登場する。また1945年8月8日のソビエトによる満州侵攻を告げるのもウワサスキー夫人である。

戦時中ということで、長崎市の上空を何度もB29が通過し、空襲警報が発令されるが、長崎が空襲を受けることはない。これには重大な理由があり、原爆の威力を確認したいがために、原爆投下候補地の空襲はなるべく抑えられていたのだ。原爆投下の第一候補地は実は京都市だった。三方を山に囲まれ、原爆の威力が確認しやすい。また今はそうではないが、この頃はかつての首都ということで、東京の会社が本社を京都に移すケースが多く見られ、経済面での打撃も与えられるとの考えからであった。しかし京都に原爆を落とすと、日本からの反発も強くなり、戦後処理においてアメリカが絶対的優位に立てないということから候補から外れた(3発目の原爆が8月18日に京都に落とされる予定だったとする資料もある)。この話は芝居の中にも登場する。残ったのは、広島、小倉、佐世保、長崎、横浜、新潟などである。

NODA・MAPということで、歌舞伎を意識した幕を多用した演出が行われる。長澤まさみが早替わりを行うが、幕が覆っている間に着替えたり、人々が周りを取り囲んでいる間に衣装替えを行ったりしている。どのタイミングで衣装を変えたのかはよく分からないが、歌舞伎並みとはいえないもののかなりの早替わりである。

物理学者となった威蕃は、ある計画を立てた。ロシア(ソ連)と共同で原爆を作り上げるというものである。8月6日に広島にウランを使った原爆が落とされ、先を越されたが、すぐさま報復としてニューヨークのマンハッタンにウランよりも強力なプルトニウムを使った原爆を落とす計画を立てる。しかしこれは8月8日のソビエト参戦もあり、上手くいかなかった。そしてナガサキは1945年8月9日を迎えることになる……。

キャストが実力派揃いであるため、演技を見ているだけで実に楽しい。ストーリー展開としては、野田秀樹の近年の作品としては良い部類には入らないと思われるが、俳優にも恵まれ、何とか野田らしさは保たれたように思う。

NODA・MAP初参加となる松潤。思ったよりも貫禄があり、芝居も安定している。大河の時はかなりの不評を買っていたが、少なくとも悪い印象は受けない。

野心家の威蕃を演じた永山瑛太は、いつもながらの瑛太だが、その分、安心感もある。

長澤まさみは、今は違うが若い頃は、長台詞を言うときに目を細めたり閉じたりするという癖があり、気になっていたが、分かりやすい癖なので誰かが注意してくれたのだろう。あの癖は、いかにも「台詞を思い出しています」といった風なので、本来はそれまでに仕事をした演出家が指摘してあげないといけないはずである。主演女優(それまでに出た舞台は2作とも主演であった)に恥をかかせているようなものなのだから避けないといけなかった。ただそんな長澤まさみも舞台映えのする良い女優になったと思う。女優としては、どちらかというと不器用な人であり、正直、好きなタイプの女優でもないのだが、評価は別である。大河ドラマ「真田丸」では、かなり叩かれていたが、主人公の真田信繁(堺雅人)が入れない場所の視点を担う役として頑張っていたし、何故叩かれるのかよく分からなかった。

竹中直人も存在感はあったが、重要な役割は今回は若手に譲っているようである。
たびたび怪演を行うことで知られるようになった池谷のぶえも、自分の印を確かに刻んでいた。


カーテンコールは4度。3度目には野田秀樹が舞台上に正座して頭を下げたのだが、拍手は鳴り止まず、4回目の登場。ここで松潤が一人早く頭を下げ、隣にいた永山瑛太と長澤まさみから突っ込まれる。
最後は、野田秀樹に加え、松本潤、長澤まさみ、永山瑛太の4人が舞台上に正座してお辞儀。ユーモアを見せていた。

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2024年11月 3日 (日)

コンサートの記(868) 堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」

2024年9月29日 堺東のフェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、堺東のフェニーチェ堺大ホールで、堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つで、オペラ作品の代名詞的作品の一つである。ボーマルシェの原作戯曲をダ・ポンテがオペラ台本化。その際、タイトルを変更している。原作のタイトルは、「ラ・フォル・ジュルネ(狂乱の日)またはフィガロの結婚」で、有名な音楽祭の元ネタとなっている。
指揮はデリック・イノウエ、演奏は堺市を本拠地とする大阪交響楽団。演出は堺シティオペラの常連である岩田達宗(たつじ)。チェンバロ独奏は碇理早(いかり・りさ)。合唱は堺シティオペラ記念合唱団。

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午後1時30分頃から、演出家の岩田達宗によるプレトークがある。なお、プレトーク、休憩時間、カーテンコールは写真撮影可となっているのだが、岩田さんは「私なんか撮ってもどうしようもないんで、終わってから沢山撮ってください」と仰っていた。

岩田さんは、字幕を使いながら解説。「オペラなんて西洋のものじゃないの? なんで日本人がやるのと思われるかも知れませんが」「舞台はスペイン。登場するのは全員スペイン人です」「原作はフランス。フランス人がスペインを舞台に書いています」「台本はイタリア語。イタリア人がフランスの作品をイタリア語のオペラ台本にしています」「作曲はオーストリア人」と一口に西洋と言っても様々な国や文化が融合して出来たのがオペラだと語る。ボーマルシェの原作、「フィガロの結婚 Le Mariage de Figaro」が書かれたのは、1784年。直後の1789年に起こるフランス革命に思想的な影響を与えた。一方、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚 La nozze di Figaro」の初演は1786年。やはりフランス革命の前であるが、内容はボーマルシェの原作とは大きく異なり、貴族階級への風刺はありながら、戦争の否定も同時に行っている。ただ、この内容は実は伝わりにくかった。重要なアリアをカットしての上演が常態化しているからである。そのアリアは第4幕第4景でマルチェッリーナが歌うアリア「牡の山羊と雌の山羊は」である。このアリアは女性差別を批判的に歌ったものであり、今回は「争う」の部分が戦争にまで敷衍されている。
岩田さんは若い頃に様々なヨーロッパの歌劇場を回って修行していたのだが、この「牡の山羊と雌の山羊は」はどこに行ってもカットされていたそうで、理由を聞くと決まって「面白くないから」と返ってくるそうだが、女性差別を批判する内容が今でも上演に相応しくないと考えられているようである。ヨーロッパは日本に比べて女性差別は少ないとされているが、こうした細かいところで続いているようである。私が観た複数の欧米の歌劇場での上演映像やヨーロッパの歌劇場の来日引っ越し公演でも全て「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされており、日本での上演も欧米の習慣が反映されていて、「牡の山羊と雌の山羊は」は歌われていない。コロナ禍の時に、岩田さんがZoomを使って行った岩田達宗道場を私は聴講しており、このことを知ったのである。

「フィガロの結婚」の上演台本の日本語対訳付きのものは持っているので(正確に言うと、持っていたのだが、掃除をした際にどこかに行ってしまったので、先日、丸善京都店で買い直した)、休憩時間に岩田さんに、「牡の山羊と雌の山羊は」の部分を示して、「ここはカットされていますかね?」と伺ったのだが、「今日はどこもカットしていません」と即答だった。ということで、「牡の山羊と雌の山羊は」のアリアに初めて接することになった。
岩田さんによると、今回は衣装も見所だそうで、戦後すぐに作られた岸井デザイン工房のものが用いられているのだが、今はこれだけ豪華な衣装を作ることは難しいそうである。
岩田さんには終演後にも挨拶した。

出演は、奥村哲(おくむら・さとる。アルマヴィーヴァ伯爵)、坂口裕子(さかぐち・ゆうこ。アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、西村圭市(フィガロ)、浅田眞理子(スザンナ)、山本千尋(ケルビーノ)、並河寿美(なみかわ・ひさみ。マルチェッリーナ)、片桐直樹(ドン・バルトロ)、中島康博(ドン・バジリオ)、難波孝(ドン・クルツィオ)、藤村江李奈(バルバリーナ)、楠木稔(アントニオ)、中野綾(村の女性Ⅰ)、梁亜星(りょう・あせい・村の女性Ⅱ)。


ドアを一切使わない演出である。


指揮者のデリック・イノウエは、カナダ出身の日系指揮者。これまで京都市交響楽団の定期演奏会や、ロームシアター京都メインホールで行われた小澤征爾音楽塾 ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」などで実演に接している。
序曲では、音が弱すぎるように感じたのだが、こちらの耳が慣れたのか、次第に気にならなくなる。ピリオドはたまに入れているのかも知れないが、基本的には流麗さを優先させた演奏で、意識的に当時の演奏様式を取り入れているということはなさそうである。デリック・イノウエの指揮姿も見える席だったのだが、振りも大きめで躍動感溢れるものであった。

幕が上がっても板付きの人はおらず、フィガロとスザンナが下手袖から登場する。
フィガロが部屋の寸法を測る最初のシーンは有名だが、実は何を使って測っているのかは書かれていないため分からない。今回は脱いだ靴を使って測っていた。スザンナの使う鏡は今回は手鏡である。

スザンナとバルバリーナは、これまで見てきた演出よりもキャピキャピしたキャラクターとなっており、現代人に近い感覚で、そのことも新鮮である。
背後に巨大な椅子のようなものがあり、これが色々なものに見立てられる。
かなり早い段階で、ドン・バジリオが舞台に登場してウロウロしており、偵察を続けているのが分かる。セットには壁もないが、一応、床の灰色のリノリウムの部分が室内、それ以外の黒い部分が廊下という設定となっており、黒い部分を歩いている人は、灰色の部分にいる人からは見えない、逆もまた然りとなっている。

この時代、初夜権なるものが存在していた。領主は結婚した部下の妻と初夜を共に出来るという権限で、今から考えると余りに酷い気がするが、存在していたのは確かである。アルマヴィーヴァ伯爵は、これを廃止したのだが、スザンナを気に入ったため、復活させようとしている。それを阻止するための心理面も含めた攻防戦が展開される。
フィガロとスザンナには伯爵の部屋に近い使用人部屋が与えられたのだが、これは伯爵がすぐにスザンナを襲うことが出来るようにとの計略から練られたものだった。スザンナは気づいていたが、フィガロは、「親友になったから近い部屋をくれたんだ」と単純に考えており、落胆する。

舞台がスペインということで、フィガロのアリアの歌詞に出てきたり、伴奏に使う楽器はギターである。有名な、ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」もスザンナのギター伴奏で歌われるという設定である(実際にギターが弾かれることはない)。ちなみに「恋とはどんなものかしら」はカラオケに入っていて、歌うことが出来る。というよりも歌ったことがある。昔話をすると、「笑っていいとも」の初期の頃、1980年代には、テレフォンショッキングでゲストが次のゲストを紹介するときに、「友達の友達はみんな友達だ。世界に拡げよう友達の輪」という歌詞を自由なメロディーで歌うという謎の趣旨があり、女優の紺野美沙子さんが、曲の説明をしてから、「恋とはどんなものかしら」の冒頭のメロディーに乗せて歌うというシーンが見られた。

ケルビーノが伯爵夫人に抱く気持ちは熱烈であり、意味が分かるとかなり生々しい表現が出てくる。リボンやボンネットなどはかなりセクシャルな意味があり、自分で自分の腕を傷つけるのは当時では性的な行為である。

第1幕と第2幕は続けて上演され、第2幕冒頭の名アリア「お授けください、愛を」の前に伯爵夫人とスザンナによる軽いやり取りがある。ちなみに「amor」は「愛の神様」と訳されることが多いが、実際は「愛」そのものに意味が近いようだ。
第3幕と第4幕の間にも、歌舞伎のだんまりのような部分があり、連続して上演される。

伯爵夫人の部屋は、舞台前方の中央部に入り口があるという設定であるが、ドアがないので、そこからしか出入りしないことと、鍵の音などで見えないドアがあることを表現している。

フィガロの代表的なアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」(やはりカラオケで歌ったことがある)は、戦地に送られることになったケルビーノに向けて歌われるもので、蝶々とは伊達男の意味である。ここにまず戦争の悲惨さが歌われている。この時代、日本は徳川の治世の下、太平の世が続いていたが、ヨーロッパは戦争や内乱続きである。
映画「アマデウス」には、サリエリが作曲した行進曲をモーツァルトが勝手に改作して「もう飛ぶまいぞこの蝶々」にするというシーンがあるが、これは完全なフィクションで、「もう飛ぶまいぞこの蝶々」は100%モーツァルトのオリジナル曲である。ただ、このシーンで、モーツァルトが「音が飛ぶ作曲家」であることが示されており、常識を軽く飛び越える天才であることも暗示されていて、その意味では重要であるともいえる。

続いて表現されるのは、伯爵の孤独。伯爵には家族は妻のロジーナしかいない。フィガロは天涯孤独の身であったが、実はマルチェッリーナとドン・バルトロが両親だったことが判明し(フィガロの元の名はラファエロである)、スザンナとも結婚が許されることになったので、一気に家族が出来る。伯爵は地位も身分も金もあるが、結局孤独なままである。

なお、ケルビーノは、結局、戦地に赴かず、伯爵の屋敷内をウロウロしているのだが、庭の場面では、「愛の讃歌」を「あなたの燃える手で」と日本語で歌いながら登場するという設定がなされていた。クルツィオも登場時は日本語で語りかける。

「牡の山羊と雌の山羊は」を入れることで、その後の曲の印象も異なってくる。慈母のような愛に満ちた「牡の山羊と雌の山羊は」の後では、それに続く女性蔑視の主張が幼く見えるのである。おそらくダ・ポンテとモーツァルトはそうした効果も狙っていたのだと思われるのだが、それが故に後世の演出家達は危険性を感じ、「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされるのが慣習になったのかも知れない。

最後の場では、伯爵が武力に訴えようとし、それをフィガロとスザンナのコンビが機転で交わす。武力より知恵である。

伯爵の改心の場面では笑いを取りに来る演出も多いのだが、今回は伯爵は比較的冷静であり、誠実さをより伝える演出となっていて、ラストの「コリアントゥッティ(一緒に行こう)」との対比に繋げているように思われた。

岩田さんは、「No」と「Si」の対比についてよく語っておられたのだが、「Si」には全てを受け入れる度量があるように思われる。
井上ひさしが「紙屋町さくらホテル」において、世界のあらゆる言語のノーは、「N」つまり唇を閉じた拒絶で始まるという見方を示したことがある。「ノー」「ノン」「ナイン」「ニエート」などであるが、「日本語は『いいえ』だと反論される」。だが、拒絶説を示した井川比佐志演じる明治大学の教授は、「標準語は人工言語」として、方言を言って貰う。「んだ」「なんな」などやはり「N」の音で始まっている。なかなか面白い説である。

武力や暴力は、才知と愛情にくるまれて力を失う。特に愛は強調されている。

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2024年10月12日 (土)

コンサートの記(860) 2024年度全国共同制作オペラ プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」京都公演 井上道義ラストオペラ

2024年10月6日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、2024年度全国共同制作オペラ、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。井上道義が指揮する最後のオペラとなる。
演奏は、京都市交響楽団。コンサートマスターは特別名誉友情コンサートマスターの豊島泰嗣。ダンサーを使った演出で、演出・振付・美術・衣装を担当するのは森山開次。日本語字幕は井上道義が手掛けている(舞台上方に字幕が表示される。左側が日本語訳、右側が英語訳である)。
出演は、ルザン・マンタシャン(ミミ)、工藤和真(ロドルフォ)、イローナ・レヴォルスカヤ(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、スタニスラフ・ヴォロビョフ(コッリーネ)、高橋洋介(ショナール)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ベノア)、仲田尋一(なかた・ひろひと。アルチンドロ)、谷口耕平(パルピニョール)、鹿野浩史(物売り)。合唱は、ザ・オペラ・クワイア、きょうと+ひょうごプロデュースオペラ合唱団、京都市少年合唱団の3団体。軍楽隊はバンダ・ペル・ラ・ボエーム。

オーケストラピットは、広く浅めに設けられている。指揮者の井上道義は、下手のステージへと繋がる通路(客席からは見えない)に設けられたドアから登場する。

ダンサーが4人(梶田留以、水島晃太郎、南帆乃佳、小川莉伯)登場して様々なことを行うが、それほど出しゃばらず、オペラの本筋を邪魔しないよう工夫されていた。ちなみにミミの蝋燭の火を吹き消すのは実はロドルフォという演出が行われる場合もあるのだが、今回はダンサーが吹き消していた。運命の担い手でもあるようだ。

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オペラとポピュラー音楽向きに音響設計されているロームシアター京都メインホール。今日もかなり良い音がする。声が通りやすく、ビリつかない。オペラ劇場で聴くオーケストラは、表面的でサラッとした音になりやすいが、ロームシアター京都メインホールで聴くオーケストラは輪郭がキリッとしており、密度の感じられる音がする。京響の好演もあると思われるが、ロームシアター京都メインホールの音響はオペラ劇場としては日本最高峰と言っても良いと思われる。勿論、日本の全てのオペラ劇場に行った訳ではないが、東京文化会館、新国立劇場オペラパレス、神奈川県民ホール、びわ湖ホール大ホール、フェスティバルホール、ザ・カレッジ・オペラハウス、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール、フェニーチェ堺大ホールなど、日本屈指と言われるオペラ向けの名ホールでオペラを鑑賞した上での印象なので、おそらく間違いないだろう。

 

今回の演出は、パリで活躍した画家ということで、マルチェッロ役を演じている池内響に藤田嗣治(ふじた・つぐはる。レオナール・フジタ)の格好をさせているのが特徴である。

 

井上道義は、今年の12月30日付で指揮者を引退することが決まっているが、引退間際の指揮者とは思えないほど勢いと活気に溢れた音楽を京響から引き出す。余力を残しての引退なので、音楽が生き生きしているのは当然ともいえるが、やはりこうした指揮者が引退してしまうのは惜しいように感じられる。

 

歌唱も充実。ミミ役のルザン・マンタシャンはアルメニア、ムゼッタ役のイローナ・レヴォルスカヤとスタニスラフ・ヴォロビョフはロシアと、いずれも旧ソビエト圏の出身だが、この地域の芸術レベルの高さが窺える。ロシアは戦争中であるが、芸術大国であることには間違いがないようだ。

 

ドアなどは使わない演出で、人海戦術なども繰り出して、舞台上はかなり華やかになる。

 

 

パリが舞台であるが、19世紀前半のパリは平民階級の女性が暮らすには地獄のような街であった。就ける職業は服飾関係(グレーの服を着ていたので、グリゼットと呼ばれた)のみ。ミミもお針子である。ただ、売春をしている。当時のグリゼットの稼ぎではパリで一人暮らしをするのは難しく、売春をするなど男に頼らなければならなかった。もう一人の女性であるムゼッタは金持ちに囲われている。

 

この時代、平民階級が台頭し、貴族の独占物であった文化方面を志す若者が増えた。この「ラ・ボエーム」は、芸術を志す貧乏な若者達(ラ・ボエーム=ボヘミアン)と若い女性の物語である。男達は貧しいながらもワイワイやっていてコミカルな場面も多いが、女性二人は共に孤独な印象で、その対比も鮮やかである。彼らは、大学などが集中するカルチェラタンと呼ばれる場所に住んでいる。学生達がラテン語を話したことからこの名がある。ちなみに神田神保町の古書店街を控えた明治大学の周辺は「日本のカルチェラタン」と呼ばれており(中央大学が去り、文化学院がなくなったが、専修大学は法学部などを4年間神田で学べるようにしたほか、日本大学も明治大学の向かいに進出している。有名語学学校のアテネ・フランセもある)、京都も河原町通広小路はかつて「京都のカルチェラタン」と呼ばれていた。京都府立医科大学と立命館大学があったためだが、立命館大学は1980年代に広小路を去り、そうした呼び名も死語となった。立命館大学広小路キャンパスの跡地は京都府立医科大学の図書館になっているが、立命館大学広小路キャンパスがかなり手狭であったことが分かる。

 

ヒロインのミミであるが、「私の名前はミミ」というアリアで、「名前はミミだが、本名はルチア(「光」という意味)。ミミという呼び方は気に入っていない」と歌う。ミミやルルといった同じ音を繰り返す名前は、娼婦系の名前といわれており、気に入っていないのも当然である。だが、ロドルフォは、ミミのことを一度もルチアとは呼んであげないし、結婚も考えてくれない。結構、嫌な奴である。
ちなみにロドルフォには金持ちのおじさんがいるようなのだが、生活の頼りにはしていないようである。だが、ミミが肺結核を患っても病院にも連れて行かない。病院に行くお金がないからだろうが、おじさんに頼る気もないようだ。結局、自分第一で、本気でルチアのことを思っていないのではないかと思われる節もある。


「冷たい手を」、「私の名前はミミ」、「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)など名アリアを持ち、ライトモチーフを用いた作品だが、音楽は全般的に優れており、オペラ史上屈指の人気作であるのも頷ける。


なお、今回もカーテンコールは写真撮影OK。今後もこの習慣は広まっていきそうである。

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