カテゴリー「ヨーロッパ映画」の23件の記事

2020年10月20日 (火)

これまでに観た映画より(219) クシシュトフ・キェシロフスキ監督作品「殺人に関する短いフィルム」

2006年4月13日

DVDでポーランド映画「殺人に関する短いフィルム」を観る。クシシュトフ・キェシロフスキ監督作品。十戒をテーマにした10作品からなるテレビドラマ「デカローグ」(長編映画として映画館で上映されることもある)の中の1本にエピソードを加えて映画化したもの。「短い」とタイトルにあるが、これは「デカローグ」の時のタイトルをそのまま使ったもので、映画自体は85分の長さがあり、短いフィルムではない。

無気力な若者、身勝手なタクシー運転手、未来に燃える若手弁護士の三人が主な登場人物である。舞台となっているのはポーランドの古都クラクフ。

物語自体は特に目新しいものではないが、描き方は丁寧である。観る者の不安を掻き立てるような独特の映像美がいい。映像のそこかしこに配された不吉な記号が、さらに効果を高めている。
芸術映画であり、娯楽性には乏しいが「深い」一本である。

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2020年10月16日 (金)

これまでに観た映画より(217) 「ロゼッタ」

2006年3月23日

DVDで映画「ロゼッタ」を観る。ベルギー=フランス合作。ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ兄弟監督作品。

キャンピングカーで暮らす少女・ロゼッタ。母親は酒に溺れどうしようもない。働きに出ていたロゼッタはいきなり解雇される。その後、仕事を探すが全く見つからず、やっと見つけたワッフル屋での仕事は帰ってきた店長の息子に奪われてしまう。苛立ちが募り……。

ロゼッタの苛立ちが画面全体から伝わってくる作品である。自己と社会へ向けられたどうしようもない焦燥感。ダルデンヌ兄弟の作品らしくセリフは少なく、俳優は身体で感情を表現する技術を要求される。ロゼッタを演じるエミリー・ドゥケンヌは全くの新人だが、ダルデンヌ兄弟の演技指導が徹底しているのか、やるせなさを体全体で表現することに成功している。素晴らしいと思う。

焦燥感をより掻き立てるために、カメラワークはクリストファー・ドイルも顔負けするほどの疾走ぶり。またロゼッタの顔から数十センチの所にいつもカメラがあるため、役者達の感情が生でぶつかってくるような迫力があった。

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2020年8月 2日 (日)

これまでに観た映画より(194) ヴィム・ヴェンダース監督作品「東京画」

2005年8月9日

ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー映画「東京画」をビデオで観る。敬愛する小津安二郎監督が描く東京への憧憬からこの街にやって来たヴェンダース監督の目に映る1983年の東京の風景が切り取られている。冒頭とラストは小津監督の「東京物語」のそれをそのまま用いている。

ヴェンダース監督が興味を持つ対象はパチンコ店や、飲食店の前のショーケースに並ぶ定食のサンプルを作る工場など。特にサンプル工場のシーンは見ているこちらが奇妙に感じるほど長い。
ゴルフの打ちっ放しに対する見方は誤解だらけで、おもわず「それは違うだろう」と突っ込みたくなる。

ヴェンダースは東京ディズニーランドに行こうとしたが、「アメリカのコピーだと思うと急に興味が冷めて」引き返してしまう。そして、「アメリカの影響を受けた若者達を見た」として紹介されるのが、当時、原宿に出没していた竹の子族。この辺りは作為を感じてしまって余り面白くない。竹の子族だけで当時の東京を語らないで欲しい。

1983年の東京の風景を見たい人にはやや物足りない作品である。しかし小津安二郎の映画が好きな人は絶対観た方がいい映画だ。
笠智衆や、小津の下で撮影監督を務めた厚田雄春らのインタビューが収められているためで、これを観ると小津という男が俳優やスタッフからいかに敬愛され、神のように崇拝されていたかがわかる。小津の思い出を語っていた厚田が突然、感極まって泣き出してしまうのも印象的。

小津安二郎とは改めて偉大な映画監督、いやそれ以前に偉大な人間だったのだと確認することが出来る。

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2020年8月 1日 (土)

これまでに観た映画より(193) 「無伴奏シャコンヌ」

2005年7月9日

ビデオでフランス=ベルギー=ドイツ合作映画「無伴奏シャコンヌ」を観る。天才的な才能を持ちながら、コンサートなどでは活動せず、ただひたすら音楽を極めることだけを考える求道者のようなヴァイオリニスト、アルマン(リシャール・ベリ)。観客に媚びるような演奏ではなく、本当の演奏様式を確立したいと望み、ヴァイオリン教師などをして過ごしていた彼は、かっての親友でヴァイオリニストのミカエルが自殺したことを知る。

恋人とも上手くいかず、親友も失ってしまったアルマン。彼の求道的生き方がそういった事態を招いたのだろうか。スランプに陥っていたミカエルはアルマンの才能と己の才能を比較して失望していったのかも知れない。ミカエルの録音が良くないことで、カデンツァの場面を代役として弾くようにプロデューサーから要請され、それに応じてしまったアルマン。親友のためを思ってした行為なのだろうが、その事実を知ったミカエルは絶望しただろう。ある意味、アルマンはミカエルを殺したのではないかと思えてしまうのだ。

リヨンの地下鉄構内で演奏をするアルマン。やがて、地下鉄の切符売り場の女性・リディアと淡い恋に落ちるが、ある日、アルマンの演奏に熱狂して多くのミュージシャンが思い思いに演奏を始めるという光景を目にした彼女はアルマンの前から姿を消す。アルマンは自分より音楽を愛しているのだと気づいたのかも知れない。

リディアを失い、ヴァイオリンも心ない二人組に壊されてしまったアルマンは尋常とは思えない精神状態へ。

そこにかつて彼の演奏を耳にしたことのある音楽院の教師が現れ、ヴァイオリンを手渡されたアルマンはバッハのシャコンヌを弾く。

芸術を愛し、自分にもそして他人にも厳しかったことで多くのものを失ったアルマン。ラスト10分のシャコンヌ演奏場面は文学的過ぎる嫌いはあるものの、詩的で意味深く、感動的だ。

そして弾き終えたアルマンの表情。それは慈悲に溢れたキリストの顔のようにも見えるし、何故失うのかを悟った悲しみを湛えているようにも見える。


監督のシャルリー・ヴァン・ダムはアラン・レネやアニエス・ヴァルダなどセーヌ左岸派の映画監督の下で長年撮影監督を務めていた人物。経歴から察せられる通りの作風を持っている。

リシャール・ベリのヴァイオリン演奏シーンの演技も上手く、「本当に弾いているのでは?」と錯覚するほどだ。ところでこのベリ、役所広司にどことなく顔や雰囲気が似ている。

音楽監督は世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル。実際のヴァイオリン演奏も担当しており、素晴らしい音を奏でている。

音楽と映画が好きなら、この映画を観ずに死ぬのはもったいない。そう言いたくなる佳作である。

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2020年6月17日 (水)

これまでに観た映画より(183) ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品「ひまわり」

2020年6月15日 京都シネマにて

京都シネマで、「ひまわり」を観る。イタリア、フランス、ソ連合作映画。ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品。出演:ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベーリエワほか。音楽:ヘンリー・マンシーニ。製作:カルロ・ポンティ。

ちなみに映画プロデューサーであったカルロ・ポンティは既婚者であったが、この映画の撮影時にはすでにソフィア・ローレンと交際中であり、1972年にはローレンと再婚している。カルロ・ポンティとソフィア・ローレンの長男であるカルロ・ポンティ・ジュニアは、劇中に赤ちゃんとして登場するが、現在は指揮者として活躍しており、私も彼がロシア・ナショナル管弦楽団を指揮したCDを持っている。

映画音楽の大家、ヘンリー・マンシーニが手掛けた音楽も素晴らしく、メインテーマは彼の代表作となっている。

 

1970年に公開された映画で、今回は公開50周年を記念しての特別上映。最新のデジタル修復技術を用いたHDレストア版での上映である。

 

冒頭、中盤、ラストに登場する一面のひまわり畑が印象的である。ソ連時代のウクライナで撮影されたものだそうだ。ひまわりというと日本では華やかな陽性の花の代表格であるが、イタリアでは太陽に片想いしている寂しい花というイメージもあるようである。

 

第二次大戦中と戦後のイタリアとソ連が舞台である。
ファッションの街としても名高いイタリア・ミラノ。ロシア戦線に送られたまま生死不明となっている夫のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の行方を妻のジョバンナ(ソフィア・ローレン)が担当職員に問い詰める場面から始まる。

イタリア北部の田舎町出身のアントニオと南部の大都市ナポリ出身のジョバンナは恋に落ち、出征延期を目論んで結婚する。だが猶予はわずか12日。そこでアントニオはジョバンナと示し合わせて佯狂による一芝居を打つことで精神病院への隔離を狙うがすぐにばれ、ロシア戦線に送られることになる。
「ロシアの毛皮を土産として持って帰るよ」と約束してミラノ駅から旅立ったアントニオだったが、戦争が終わってからも行方はようとして知れない。
ロシア戦線から帰った一人の兵士が、アントニオのことを知っていた。彼によるとアントニオは真冬のロシア戦線、ドン河付近でソビエト軍からの奇襲攻撃を受け、逃走する途中で多くのイタリア兵と共に脱落したという。

それでもアントニオの生存を信じて疑わないジョバンナは、単身、ロシアに乗り込む。1953年にスターリンが亡くなり、雪解けの時代が始まっていて、ジョバンナもモスクワにたどり着くことが出来た。モスクワにある外務省で紹介された案内の男性と共にアントニオが脱落した場所付近に広がる一面のひまわり畑の中をジョバンナは進む。かつての激戦地に咲く鎮魂のひまわりに囲まれた空き地にイタリア兵とロシア人犠牲者のための供養塔があった。更にイタリア人戦没者墓地も訪ねるジョバンナだったが、「アントニオは生きている」という確信を棄てることはない。

そしてついにジョバンナは、アントニオの現在の夫人となっているマーシャ(リュドミラ・サベーリエワ)と出会う。アントニオとマーシャの間には娘のカチューシャがいた。ショックを受けるジョバンナ。すると汽笛が鳴り、働きに出ていたアントニオが自宅の最寄り駅に戻ってくる時間であることが示される。午後6時15分、以前、アントニオとジョバンナが約束の時間としていた6時よりも15分ほど先だ。

マーシャと共に駅に向かったジョバンナは今のアントニオの姿を見る。アントニオもジョバンナに気づき、歩み寄ろうとするが、もう以前のアントニオではないと悟ったジョバンナは走り出した汽車に飛び乗って去り、人目もはばからず泣き続ける。出会えさえすればたちどころに寄りを戻せると信じていたのだろうが、それは余りにも楽観的に過ぎた。

アントニオを諦めたジョバンナはミラノのマネキン工場で働く金髪の男性と新たにカップルとなり、子どもも設ける。

ジョバンナのことが忘れられないアントニオはマーシャと相談した上で、単身モスクワからミラノにたどり着き、紆余曲折を経てジョバンナと再び巡り会うのだが、ジョバンナにはすでに息子のアントニオ(カルロ・ポンティ・ジュニア)がいることを知り、関係修復が不可能なことを悟る。ジョバンナは息子にアントニオと名付けることで、かつての夫のアントニオを思い出の中の人物としていた。時計はすでに進んでしまっており、互いが互いにとって最愛の人物であることはわかっていても、時を取り戻すことは最早不可能である。報われぬ両片想いのラストが訪れる。

戦争により、本来の人生から外れてしまった男女の悲恋劇である。そしてこの物語もまた戦地に咲く片想いの花、ひまわりの一本一本が象徴する報われなかった数多の夢の一つでしかないのだということが暗示されてもいる。

 

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2020年4月24日 (金)

これまでに観た映画より(167) 「もうひとりのシェイクスピア」

配信で映画「もうひとりのシェイクスピア」を観る。イギリス・ドイツ合作作品。監督:ローランド・エメリッヒ。出演:リサ・エヴァンス、ジェイミー・キャンベル・バウアー、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン、セバスチャン・アルメスト、レイフ・スポール、デヴィッド・シューリス、エドワード・ホッグ、ゼイヴィア・サミュエル、サム・リード、パオロ・デ・ヴィータ、トリスタン・グラヴェル、デレク・ジャコブほか。

シェイクスピア別人説に基づいて作られたフィクションである。

世界で最も有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアであるが、正体については実のところよく分かっていない。当時のイギリスの劇作家は、この映画に登場するベンジャミン・ジョンソン(ベン・ジョンソン)にしろ、クリストファー・マーロウにしろきちんとした高等教育を受けているのが当然であったが、シェイクスピア自身の学歴は不明。というより少なくとも高学歴ではないことは確実であり、古典等に精通していなければ書けない内容の戯曲をなぜシェイクスピアが書けたのかという疑問は古くから存在する。実は正体は俳優のシェイクスピアとは別人で、哲学者のフランシス・ベーコンとする説や、クリストファー・マーロウとする説などがある。これが「シェイクスピア別人説」である。この映画では、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアをシェイクスピアの名を借りて戯曲を書いた人物としている。

二重の入れ子構造を持つ作品である。ブロードウェイでシェイクスピアの正体を解き明かす作品が上演されるという設定があり、前説をデレク・ジャコブが語る。劇中劇として行われるエリザベス朝の世界はベン・ジョンソン(セバスチャン・アルメスト)が事実上のストーリーテラーになるという趣向である。ストラットフォード・アポン・エイボンで生まれたいわゆるウィリアム・シェイクスピアはこの映画では文盲に近い低劣な人物として描かれている。

エリザベス朝においては、演劇は低俗な娯楽として禁じられることも多かった。当時の演劇は、社会や政治風刺と一体となっており、貴族階級はそれを嫌っていたからだ。
その貴族階級に属するオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(リス・エヴァンス)が戯曲を発表するというわけにはいかず、匿名の台本での上演を行う。そして宮内大臣一座に所属していた三流の俳優であるウィリアム・シェイクスピア(レイフ・スポール)が調子に乗って「ヘンリー五世」の作者が自分であると観客に向かって宣言したことを利用する形で、オックスフォード伯エドワードは自身の戯曲にウィリアム・シェイクスピアと署名する。エドワードの書いた戯曲は当時の権力者である義父ウィリアム・セシル(デヴィッド・シューリス)やその息子のロバート・セシル(この映画では「リチャード三世」に見立てられた人物とする説を取っている。演じるのはエドワード・ホッグ)が行う言論弾圧や、スコットランド王ジェームズ(後のジェームズ6世。メアリー・ステュアートの息子)へのイングランド王継承を図っていることに対する批判や揶揄を含む内容であり、矢面に立つのを避ける意味もあった。実際に当時を代表する劇作家であったクリストファー・マーロウは謎の横死を遂げ、ベン・ジョンソンも逮捕、投獄の処分を受けている。最初はベン・ジョンソンと結託してその名を借りることを考えていたエドワードだが、シェイクスピアに白羽の矢を立てたことになる。次第に高慢な態度を取るようになるストラッドフォードのシェイクスピアとジョンソンは対立するようになるのだが、怒りに任せてジョンソンが行った密告により、エリザベス朝は悲劇を招くことになる。

複雑な歴史背景を描いた作品であり、歴史大作としても楽しめる映画だが、なんといってもシェイクスピアが書いた「戯曲」への敬意が主題となる。実際のところ内容が優れていればそれが誰の作であったとしても一向に構わない、とまではいかないが生み出された作品は作者に勝るということでもある。シェイクスピアの戯曲はシェイクスピアが書いたから偉大なのではなく、偉大な作品を生み出した人物がシェイクスピアという名前だったということである。仮にそれらがいわゆるシェイクスピアが書いたものではなかったとしてもその価値が落ちるということは一切ない。
ロバート・セシルは父親同様、演劇を弾圧しようとしたが、ジェームズ6世が演劇を敬愛したため、政治的にはともかくとして文化的および歴史的には演劇が勝利している。

ただこの映画に描かれるオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアという人物の生き方に魅せられるのもまた事実である。イングランドで一二を争う長い歴史を誇る貴族の家に生まれたエドワードだが政治的には全くの無能であり、戦争に参加して能力を発揮する機会もなかった。だが、当時は無意味と見做されていた文芸創作に命を懸け、結果として家は傾いたが、書き残したものは永遠の命を得た、というのは史実かどうかは別として文学者の本流の生き方でもある。

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2019年12月14日 (土)

観劇感想精選(329)ヤスミナ・レザ「正しいオトナたち」&これまでに観た映画より(147)ヤスミナ・レザ+ロマン・ポランスキー「おとなのけんか」

舞台「正しいオトナたち」
2019年12月7日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「正しいオトナたち」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。真矢ミキ、岡本健一、中島朋子、近藤芳正による四人芝居である。上演時間約1時間45分、1幕もの場面転換なし、リアルタイムでの展開である。2008年の初演で、2011年にはロマン・ポランスキーの監督で映画化もされている(タイトルは「おとなのけんか」)。

開場から開演まで、ずっとヴィヴァルディの「四季」が流れている。昨年、やはり上村聡史の演出で上演されたヤスミナ・レザの「大人のけんかが終わるまで」でも「四季」が流れていたが、上村の好みなのかレザの指定なのかは不明である。

ヴェロニック(真矢ミキ)とミシェル(近藤芳正)のウリエ家の居間が舞台である。
ヴェロニックとミシェルの11歳の息子であるブリュノが、アラン(岡本健一)とアネット(中島朋子)のレイユ夫妻の息子で同級生のフェルディナンに棒で顔を打たれ、前歯が欠けるという事件が起こる。片方の前歯の神経は抜けてしまい、18歳まではインプラントなどの施術も不可能であるため、当分の間はセラミックを被せた状態でいるしかない。ということでレイユ夫妻がウリエ夫妻に謝罪に来たのだ。だが、アランはヴェロニックが宣誓書で用いた「棒で武装し」という言葉に反対する。武装では計画的に殴りかかったような印象を受けるためだ。流れの中で偶発的かつ突発的にということにしたいようである。
何故、フェルディナンがブリュノを棒で叩いたのかについては、フェルディナンもブリュノも詳しくは言わないため不明である。だが、ブリュノがグループを作っており、フェルディナンが仲間はずれにあったらしいということは噂で聞こえてきたようだ。ブリュノがフェルディナンに「お前チクっただろう」と言ったらしいことはレイユ夫妻も把握している。

最初は冷静を装っていたウリエ夫妻とレイユ夫妻であるが、次第にいがみ合いが始まる。弁護士をしているアランは、薬害事件を起こした製薬会社の弁護に取り組んでおり、四六時中、製薬会社の重役や助手と携帯で通話をしているという状態でせわしなく、ウリエ夫妻は勿論、妻であるアネットも苛立ちを隠せない。そもそもが仕事人間のアランは子どもの喧嘩など訴訟の仕事に比べれば取るに足らないことと考えており、やる気がない。
ヴェロニックはアフリカ史関係の著書がある作家であり、歴史や美術関係の出版社でも働いているのだが、パート勤務だそうである。
ミシェルは金物を中心とした小さな家庭用品販売店を営んでいる。売り上げは余りないようだが、仕事に誇りを持っているようだ。
アネットは、投資関係のコンサルタントを行っているという。

アネットが突如気分を悪くして、嘔吐し、ヴェロニックの大切な美術書を汚してしまうなど、散々な展開。レイユ夫妻がバスルームに行っている間、ヴェロニカは、「あの二人は怖ろしい!」と言い、アランがアネットのことを「トゥトゥ」と呼んでいることをからかったりするのだが、それを戻ってきていたアランに聞かれるなど、更に険悪さが増す(余談だが、「トゥトゥ」というのは、「シェリーに口づけ」の冒頭に由来しているらしい)。

それでもなんとか丸く収まりそうになるのだが、ミシェルが前日ハムスターを路上に置き去りにしたという話を聞いていたアネットが、「ハムスターを殺した」となじったことから事態は更なる悪化を見せ……。

ちょっとした見解の相違から敵と味方が次々入れ替わり、それぞれの個性の強さが溝を生んだり、逆に接近したりと目まぐるしい展開を見せるヤスミナ・レザらしい心理劇である。

子どもの喧嘩が元なのだが、それぞれの親の持つ問題点が浮かび上がる仕掛けである。原因を作った子ども二人が舞台に登場することはなく、ある意味、主役不在で脇役が勝手な展開を見せていると捉えることも出来る。

ハムスターの話は、ラストでも出てくるのだが、劇は近藤芳正演じるミシェルの示唆的なセリフで終わる。男優3人の芝居である「ART」(来年、上演される予定がある)でもそうだったが、ヤスミナ・レザの劇は個性的なセリフで締められることが多い。

原題の「Le Dieu du carnage」は「修羅場、虐殺、殺戮」というような意味だそうだが、今回の邦題が「正しいオトナたち」、日本初演時の邦題が「大人は、かく戦えり」で、いずれも「大人」という言葉が入っている。基本的にヤスミナ・レザの作品は大人向けであり、内容もシリアスで渋めのものが多い。初めて観たヤスミナ・レザの作品は、昔のABCホール(ザ・シンフォニーホールよりも北にあったABCテレビ社屋内にあった。ほたるまちに移転したABCテレビ新社屋内にあるABCホールとは別物である)で観た「偶然の男」である。長塚京三とキムラ緑子の二人芝居であったが、あれはもう一度観てみたい。とても愛らしい大人のための寓話であった。

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映画「おとなのけんか」
2019年12月7日

配信で、映画「おとなのけんか」も観てみる。原題は、「God of Carnage(殺戮の神)」。ロマン・ポランスキー監督作品。原作:ヤスミナ・レザ。脚本:ヤスミナ・レザ&ロマン・ポランスキー。2011年の作品。フランス・ポーランド・ドイツ・スペイン合作。上映時間79分の中編である。出演は、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。ポランスキー監督作品だけにかなり豪華である。ノンクレジットで少年達も登場し、木の棒で顔を殴るシーンも引きで撮られている。

英語圏の俳優を使っているため、舞台はパリからニューヨークのブルックリン地区に置き換えられており、役名もアラン(クリストフ・ヴァルツ)以外はアメリカ人風のものに変わっている。ミシェルは英語発音のマイケル(ジョン・C・ライリー)に変わっただけだが、ヴェロニックがペネロペ(ジョディ・フォスター)、アネットがナンシー(アンの愛称。ケイト・ウィンスレット)になっている。子ども達の名前も、フェルディナンがザカリーに、ブリュノがイーサンに変更になっている。だが、実際の撮影はパリで行われたそうだ(ポランスキー監督のアメリカ入国が困難だったため)。

アパートメントの一室が舞台であるが、映画であるだけに舞台の移動も可能で、一度だけだが全員が玄関を出てエレベーターの前まで出るシーンがある。また、舞台版では描くことの出来なかったトイレ(バスルーム)内でのシーンも撮影されている。

ヤスミナ・レザの作品はセリフの量が多いのだが、実際に狭いアパートメントの居間でこの量のセリフが語られると、情報過多の印象を受ける。少なくとも我々日本人はこれほど膨大な量で会話することは稀なので、空間が言葉で隙もなく埋められていくような窮屈さを覚える。だが、それこそがこの作品の本質であるため、居心地の悪さも含めて把握は出来る。
映画の場合、構造は舞台よりも把握はしやすくなっており、TPOをわきまえずに携帯で電話をしまくるアランがまず今この場所に向き合わないことで全員の気分を波立たせ、「大人として求められること。守らねばならないこと」の防波堤が崩れていく。他の登場人物も一言多いため、その余計な一言が波紋を呼んで、やらずもがなの行動を招いてしまう。「殺戮の神」という言葉は、アランがアフリカの情勢を語るときに登場するのだが、アフリカ史専門の著書のあるペネロペに向かってそうした言葉を用いて教授するような言い方をしたためペネロペの怒りを招くなど(専門家の前でさもわかったようなことを言ってはいけない)事態が悪化していく。

子どもの場合は活動の範囲が狭く、友人達と情報を共有した小さな世界で生きていることが多い。性差も大人ほどには大きく意識されず、世間のことについても詳しいとはいえない状態である。一方、大人の場合は好き好んだ場所に移動が可能で、それぞれ専門と呼べる分野を持っていることが多く、多くの場合矜持を伴っている。個人的な知識や経験も豊富で、それぞれに価値観と哲学がある。男女の指向性の違いも大きい。そのため、溝が出来ると子どもとは比べものにならないほど広く深くなり、収拾が付かなくなってしまう。ミニバベルの塔状態が簡単に生まれてしまうわけだ。

舞台版ではラストに登場するハムスターの話は映画版には登場しない。ネタバレになるのは避けるがケータイが鳴ることで「取り越し苦労が多かった」ことがわかるだけである。
ただエンドクレジットにハムスターが登場し、その後、公園で子ども達が遊ぶ姿が映される。ハムスターは子どもの寓意でもあるので、映像で表現出来るならということで会話は敢えて持ち出さなかったのであろう。

 

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2019年12月 1日 (日)

これまでに観た映画より(145) アキ・カウリスマキ監督作品「希望のかなた」

2019年11月27日 京都シネマにて

京都シネマで、アキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」を観る。英題は「The Other side of Hope」で、邦題とはニュアンスはかなり異なる。フィンランドを代表する映画監督であるアキ・カウリスマキ(アキやミツコはフィンランドでは男性の名前である)であるが、これを最後の映画にしたい旨を発表済みである。2017年にベルリン国際映画際銀熊賞(監督賞)や、国際批評家連盟年間グランプリ、ダブリン国際映画祭でのダブリン映画批評家協会賞と最優秀男優賞、ミュンヘン映画祭の平和のためのドイツ映画賞ザ・ブリッジ監督賞などを受賞した作品。出演は、シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ、ヤンネ・ヒューテンアイネン、ヌップ・コイブ、サイモン・フセイン・アルバズーン、ニロズ・ハジ、マリヤ・ヤルヴェンヘルミほか。

内戦に揺れるシリア。北部のアレッポで暮らしていたカーリド・アリ(シェルワン・ハジ)は、空襲やテロが酷く、家族や親族のほとんどを失ってしまったこともあって亡命を決意し、国境を越えてトルコへ、更にギリシャを経て東欧を北へと向かう。ポーランドの港町でネオナチに襲撃されたアリは、貨物船の石炭の中に隠れる。船員一人に見つかるが、通報されるどころか食事を与えられるなど厚遇される。船員はフィンランドについて、「みんな平等でいい人が多いいい国」と語っていた。
ヘルシンキに着き、早速、難民申請を行うアリだったが、審査が降りるまでは囚人と同じような扱いである。そこでアリはイラク人の難民であるマズダック(サイモン・フセイン・アルバズーン)と出会い、親しくなる。
政府がアレッポの現状を戦地とはいえないと見做したため、アリの強制送還が決まる。シリアに送り返される日、アリは収容所を抜け出してヘルシンキの街に出る。アリには妹が一人いて、ずっと彼女を探して東欧を彷徨っていたのだ。シリアに帰るわけにはいかない。

一方、販売商などを行っていたヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は店を畳み、新たにレストラン経営を始めようとしていた。妻とは別れ、ポーカーで圧勝した金で、裕福な学生が多く住む地区で売りに出されていたレストランを買い取る。店員も前の店から引き継いだが、看板になる料理がなく、ビールしか売れない。そんなある日、レストランのゴミ出し場を占領していた男が一人。「ここが自分の家だ」と主張する男とヴィクルトロムは殴り合いとなる。その男こそアリであり、アラブ人で身長も171cmと西洋人に比べると小柄であるアリは、一発で伸されてしまうのだが、結果としてレストランの店員として採用される。アリは身の安全のために身分証を偽造して貰い(名をアリからフセインに変える)。マズダックに妹の居所がわかったら教えてくれるように頼む。

アキ・カウリスマキ監督の作品は、暴漢が出てくることが多いのだが、アリもレストランにたどり着くまでに、ごろつきのような地元の親父達に絡まれ、逃げ込んだバスにウイスキーの小瓶を投げつけられたりする。レストランでのライブを聴いていると、フィンランド解放軍という極右排斥主義組織のメンバーに囲まれ、会場を出た後で襲撃され、あわや落命寸前のところまで追い詰められている。フィンランドでも難民排斥問題は持ち上がっており、決していい人達ばかりではない。

アリとフィンランドの人達との交流であるが、センチメンタルになったりヒューマンドラマになったりするのは避け、クールな描写が一貫されている。いわゆる「感動」とは少し距離を置いて撮られた作品である。

どうもヘルシンキでは今、寿司がブームになっているようで、店の売り上げに悩むヴィクストロムは、ウエイターのカラムニウス(イルッカ・コイヴラ)の提案を受け、書店で日本関連の書籍を買い漁って得た知識で、「インペリアル・スシ」という店を始めてしまうのだが、ネタもシャリも全てがいい加減で、わさびはドデカ盛り。店員達は法被や浴衣を着て、「いらっしゃいませ」と日本語で日本人客を出迎える。店内には「竹田の子守唄」が流れている。当然ながら成功するはずもないのだが、このシーンで一番笑えるのはやはり日本人であろう。映画の中では日本酒の話が出てきたり、ラスト近くの良い場面でも日本の歌謡曲が流れたりと、日本的記号が鏤められている。

ラストはささやかな幸せの場面なのだが、悲しさも漂っており、「解決」はさせていない。物足りなく思う人も結構いそうだが、これが現実に最も近いのであろう。
あるいは、「続きはもう引退するような人間ではなく、もっと若い人が書け」ということなのかも知れない。

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2019年11月24日 (日)

これまでに観た映画より(143) ポーランド映画祭2019 in 京都 「ポランスキー短編集」

2019年11月20日 出町枡形商店街の出町座にて

出町枡形商店街の出町座で、ポーランド映画祭2019 in 京都 「ポランスキー短編集」を観る。ポーランドを代表する映画監督の一人、ロマン・ポランスキーがウッジ国立映画大学在学中に制作した無声短編映画の上映である。クレジットに制作年が書かれており、全て1950年代後半の作品であることがわかる。

「殺人」、「微笑」、「パーティーを破壊せよ」、「タンスと二人の男」、「灯り」という作品の上映。いずれもDVDで入手できる映像であるが、今回はポーランドの音楽デュオであるシャザの生演奏付きでの上映である。ヴァイオリンとクラリネット他による演奏。

 

「殺人」は、ベッドで寝ていた男性が、小型ナイフで胸を刺されて殺害されるという、それだけを撮影したショートムービーである。
若き日のポランスキーが何を考えて、これだけのムービーを撮ったのかはわからない。ただ特殊に見える小型ナイフで心臓を一突きにしていることや、犯人の見た目が温厚そうなおじさんであることから却ってプロの殺し屋らしく見える。これらは意識して撮っているのだろう。

 

「微笑」は、覗きを題材にしたコメディーである。志村けんが作りそうなギャグでもある。マンションの部屋の主がドアの前に牛乳瓶を並べるシーンがあるが、ポーランドは共産党支配時代は牛乳が配給制だったそうで、夜の間に家のドアの前に牛乳の瓶を出しておくと、朝には配給されているというシステムだったそうである。

 

「パーティーを破壊せよ」。ウッジ国立映画大学のあるウッジという街は、ポーランドの中でもフーリガン(通訳は「ヤンキー」と訳していた)が多いことで知られているそうで、ウッジ国立映画大学在学中のポランスキーは大学でパーティーを開催する時に、街のフーリガン達も誘うことにしていたそうだ。その流れでこの「パーティーを破壊せよ」もフーリガン達に出演して貰って撮ったそうだが、喧嘩の場面は実際に殴っているとしか思えない。そんなこんなでポランスキーも大学を退学になりそうになったことがあるそうだ。映画に登場するフーリガン達は、ジェームズ・ディーン風というか、「ウエスト・サイド・ストーリー」のジェッツ(ジェット団)風というか(ジェッツはポーランド系移民のストリートギャングである)ポーランドであっても当時の不良はアメカジだったことがわかる。

 

「タンスと二人の男」は、ポランスキーの初期作品の中でも傑作として知られている作品である。音楽はクシシュトフ・コメダが作曲しているが、今回はシャザの二人がコメダの音楽を元にアレンジした曲を演奏する。映画の一場面は、同志社大学寒梅館クローバーホールで観た「コメダ・コメダ」の中でも取り上げられていた。
タンスを担ぎながら海から上がってきた二人の男が街へと繰り出し、あらゆる場所で拒否されてまた海に戻っていくという話である。かなりシュールであるが、ヨーロッパということで異人や移民の話なども絡んでいるのかも知れない。ポランスキー自身がユダヤ系ということもある。タンスを担ぎながら歩く二人の横で、スリや殺人といった犯罪が起こり、二人は街で見掛けた可愛い女の子には相手にされず、女の子にちょっかいを出そうとした不良グループとは揉めて、殴り倒される。路面電車やホテルにはタンスを担いでいるが故に立ち入りを拒否される。
タンスが何のメタファーなのかは、特に考える必要はないのかも知れない。生活用具なので、生活や人生を担いでいると見るべきなのかも知れないが、そこは固定せずに個人で捉えた方がいいだろう。
個人的には、ボードレールの「人皆キメールを背負えり」という詩を連想した。

 

「灯り」。人形館が舞台である。人形職人の男が嬉々として人形を作り続けている。部屋には完成したものや作りかけの人形が一杯で、結構不気味である。だが、電気がショートして火事が起こり、人形達は炎に包まれる。大惨事である。
ここでカメラが切り替わり、人形館の外の風景が映る。雨の日で、人々は人形館から漏れ出ている灯りが火事によるものだということに気づかず淡々と通り過ぎていく。内と外の違いが、ある意味、現代の孤独と断絶と無関心を引き立たせているとも感じ取れる。

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2019年11月23日 (土)

これまでに観た映画より(142) ポーランド映画祭2019 in 京都 「ワイダ映画学校短編集」

2019年11月18日 出町枡形商店街の出町座にて

午後6時35分から、出町枡形商店街にある出町座で、ポーランド映画祭2019 in 京都 「ワイダ映画学校短編集」を観る。全てジャパンプレミアである。
立誠シネマの後継映画館として2017年に出町に誕生した出町座。訪れるのは初めてである。2階と地下1階に1つずつミニシアターがあり、「ワイダ映画学校短編集」は2階で上映される。

ポーランド映画界を代表する存在だったアンジェイ・ワイダ(1926-2016)が、2002年に創設したアンジェイ・ワイダ映画マイスター学校の生徒が作成した短編映画の上映である。キャストも撮影技術も予想以上にしっかりしている。

上映時間30分の課題作として制作されたうちの3本が上映される。まずは「彼女の事情」。バルテク・コノプカ監督作品。2006年制作。母親が癌で余命幾ばくもないということで、里子に出されそうになったり、社会福祉課に保護されそうになったりする姉弟の話である。長女でサッカーに夢中のインガは、社会福祉課の世話になることを拒み、まずは弟二人(そのうち一人はまだ赤ん坊である)を連れて男友達の部屋に移り、そこから写真でしか見たことのない伯母(母親の姉)を訪ねて、田舎へと向かう。そこから先が見たくなるのだが、30分という制限があるためか(実際の上映時間は39分である)田舎の家の場面で終わってしまう。クローズアップの手法が多用されているのが演出上の特徴である。

2本目は、「ゲーム」という上映時間27分の作品。監督はマチェイ・マルチェノフスキ。2013年の作品である。エレベーターに閉じ込められた男女の心理ゲーム、と見せかけて、実はエレベーターは行き詰まりを迎えた夫婦のメタファーであるらしいことが徐々にわかってくる。ラストには男女を乗せたエレベーターがSF的にいくつも登場し、世界は行き場のない夫婦で溢れていることが示唆される(日本でも夫婦の三組に一組は離婚する時代である)。

3本目はドキュメンタリー映画「ワイダの目、ワイダの言葉」。ワイダと共に仕事をしてきた映画仲間に取材したドキュメンタリー映像にワイダがコメントを加えていくという形で進んでいく。エリザ・クバルスカ他による監督。2014年制作。上映時間25分。
カメラマンがフィルム撮影用カメラを紹介するときに「(クシシュトフ)キェシロフスキが使っていたカメラ」と話しているのは興味深い。カメラマンは、デジタルカメラよりもフィルム撮影用カメラの方を今でも信用しているようだ。
フィルム現像係は、1974年からずっとこの仕事を続けているが、「面白いと思ったことは一度もない」「義務としてやっている」と語ってワイダを失望させている。ワイダはエンドクレジットに全員の名前が載るのは、映画というものは皆で作るものだということの象徴であると考えており、「その中に嫌いで仕事をやっている人間がいるとは」嘆く。「仕事を変えたらどうだい。稼げる仕事なら他にある」という趣旨の発言もしてる。
一方、フィルム編集者の女性は自らの仕事に誇りを持っており、ワイダも嬉しそうである。フィルム編集は今ではフィルム編集者しか行えないが、以前は政治家が口出ししてきて、勝手にフィルムを刻むようなこともあったようだ。
ワイダが「仲間だ」と感じている人は全員、撮影スタッフだそうである。彼らはいつも現場にいて作業をしているため、自然にそうした連帯感が生まれるようである。俳優は作品によって出たり入ったりするため、「仲間」という意識にはなりにくいようだ。
ワイダは撮影所が存在することの重要性を何度も語り、最近は撮影所に活気がなくなってきていることを気に掛けているようだった。

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