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2026年5月31日 (日)

コンサートの記(962) ローム ミュージック フェスティバル 2026 オーケストラコンサート 10th アニバーサリー・プログラム with 沖澤のどか

2026年4月19日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後4時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、ローム ミュージック フェスティバル 2026 オーケストラコンサート 10th アニバーサリー・プログラム with 沖澤のどかを聴く。ロームシアター京都開場と同時に始まったローム ミュージック フェスティバル。今年が節目の10年目である。中規模ホールのサウスホールと大ホールであるメインホールを使った小規模な音楽祭。中庭であるローム・スクエアでは、毎年吹奏楽の名門校による演奏も行われている。

ローム ミュージック フェスティバルのオーケストラコンサートは、東京のオーケストラが招かれることも多かったのだが、今年は京都の音楽の顔である沖澤のどか指揮の京都市交響楽団が演奏を行う。タイトルだけだと沖澤のどかが客演のようだが、沖澤のどかは京都市交響楽団の第14代(当代)常任指揮者である。ベルリン在住だが、現在、京都に長期滞在中で、来月まで京響と行動を共にする予定である。

 

曲目は、酒井健治の「ゆく河の流れは絶えずして~The flow of the river never ceases...」(ローム ミュージック フェスティバル第10回記念委嘱作品)、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:青木尚佳)、ビゼーの「アルルの女」第2組曲から“メヌエット”“ファランドール”、プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」第1組曲より“ロメオとジュリエット”、第2組曲jより“モンタギュー家とキャピュレット家”、ラヴェルの「ボレロ」

今日のコンサートマスターは客演の神谷未穂。神谷は現在、仙台フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターと千葉交響楽団の特任コンサートマスターを務めている。
仙台フィルは関西で演奏会を行ったことはないはずだが、私の故郷にある千葉交響楽団は東大阪市で行われた合同コンサートで聴いたことがあり、神谷も出演していた。

泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。フルート首席の上野博昭は降り番。クラリネット首席の小谷口直子は全編に出演した。他の首席に関しては、ある事情によって顔が見えなかった。ある事情というのは、今日の席が前から3列目だったことである。コンピューターの都合と、申し込んだ時期により、前の方の席になった。そのため管楽器奏者の顔が陰になって見えないのである。小谷口さんは、本番前にステージ上でさらっていたので、それで確認出来た。

酒井健治の「ゆく河の流れは絶えずして」。酒井健治はアルティで行われた個展も聴きに行っており、京都の作曲家の中では作品に接する機会は多い方である。現在は京都市立芸術大学の教授を務めている。大阪出身。京都市立芸術大学卒業後に渡仏し、パリ国立高等音楽院作曲科、ジュネーヴ音楽院を共に最優秀の成績で卒業している。
これを読むと分かると思うが、音楽家というのは、大学を3つも4つも卒業しているのは「普通」である。
帰国後、武満徹作曲賞を受賞。更にローマ賞にも選ばれている。本人としては前衛嗜好なのだが、以前、ロームシアターのために分かりやすい曲を書いたこともあり。そのコンサートが終わって帰るときに、たまたま酒井さんが私の後ろにいて、「ああいう音楽を書く人だと思われるたら嫌だな」と話していた。

実際、「ゆく河の流れは絶えずして」は簡単に分かるような曲ではない。布陣から独特で、指揮者の背中を見る角度にハープが置かれ、松村衣里が演奏を行う。
指揮者の背中を見る角度にもう一人、奏者がいる。第1パーカッションの中山航介で、シロフォンや銅鑼を演奏する。更に一人、舞台下手端最前列に第2パーカッション奏者としてチェレスタ兼の矢野百華(本職はピアニスト)が入る。中山も矢野も水の入ったプラスチックケースを前にしている。この3人は指揮者より客席に近い場所にいるが、第1ヴァイオリンも膨らんで、ギリギリ指揮者よりも客席に近い場所にいるように見える。
曲であるが、鴨長明の『方丈記』を元にしている。今は現代語訳も出ているので、読んだことのある人は多いかも知れないが、竜頭蛇尾気味のところがある。
能楽を模したような響きに始まり、「和」のテイストが隅々まで行き渡っている。黛敏郎や武満徹もこうした曲を書いた。その遺産を上手く生かしている感じである。「ハープは箏を喚起する」と酒井は書いているが、掻き鳴らし方が激しいため、むしろ琵琶などを感じさせる。そういえば鴨長明の趣味は琵琶だった。『方丈記』にも琵琶の話は出てくる。
第1パーカッションの中山航介は、シロフォンを奏でた後で、小型の銅鑼を鳴らし、鳴り終わらないうちに水に浸ける。音が急速に弱まって消える。
第2パーカッションの矢野百華は、水が跳ねる音を、実際に水の入ったプラスチックケースの中に素手を入れて直接出す。また、中山と矢野は共にポットに入った水をプラスチックケース内の水の中に垂らす。また矢野はチューブを使って水の中に息を吐き出し、ボコボコという音を奏でた。
パーカッションの福山直子は、折れ曲がって柔らかいオレンジ色の棒のようなものを回す。「未知との遭遇」みたいな音が出る。あれはなんという楽器なのだろう?
視覚面にも訴える曲。なかなか面白いと思う。

客席にいた酒井健治は立ち上がって拍手を受けた。

舞台下手にナビゲーターの朝岡聡登場。口の横に集音器のつくマイクを装着していたが、故障なのか不具合なのか、作動しない。仕方がないので朝岡は声を張って話すが、手持ち式のワイヤレスマイクが届けられて以後はそれを使って話す。

「鴨長明の『方丈記』の冒頭は学生時代に暗記させられた方も多いのではないでしょうか」と朝岡。かくいう私も暗記させられた、というより率先して暗記していた。朝岡が述べたものと私が暗記しているものの間に異同があったが、古典とされるものは原典が消失しているのが普通で、多くの人が写筆したものによって現代まで生き残っている。人が書き写すので、違いが出るのが普通である。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲に関しても、「カデンツァは普通、第1楽章の最後に来るのですが、この曲は途中に2分ぐらい、ヴァイオリンの青木さんが一人で弾きます。そこがカデンツァです。音符も全てメンデルスゾーンが書いてます。それまではソリストの即興だったのですが」
それまで作曲家と演奏家は兼業だったのだが、それが分離し、演奏家が即興演奏を行うのが難しくなったということが背景にある。

 

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。独奏の青木尚佳(あおき・なおか)は、1992年東京生まれ。3歳でヴァイオリンを始め、桐朋学園大学ソリスト・ディプロマ・コースに最年少で合格。NHK交響楽団のコンサートマスターとして知られた堀正文に師事。2011年にイギリスに留学。英王立音楽大学(Collegeの方)に学び、卒業時にチャールズ皇太子(現・チャールズ三世国王)からタゴール・ゴールドメダルを授与される。その後、ミュンヘン音楽大学に進み、2014年にはロン=ティボー国際コンクール・ヴァイオリン部門で2位。2021年にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団初の女性コンサートマスターに就任している。

京響は編成を一回り小さくしての伴奏。古楽の要素であるが、第1ヴァイオリンはビブラートを掛けないときは掛けない、掛けるときは掛けると、折衷型を選択。ヴィオラは一貫してノンビブラート奏法である。

桜色のドレスで現れた青木。おそらく女性としては背の高い方で、女性としても背が余り高くないと思われる沖澤(そのため今日の指揮台は二段重ねになっている)とでは身長差がかなりある。
青木のヴァイオリンであるが、ステップを踏みながら、正面と指揮者に向かう左向きとを連続しながら弾くスタイルである。左を向いたときは、沖澤とアイコンタクトを取ることもあるが、必ずしも同時に目が合うわけではない。
芯の通った美音家という印象で、メカニックもかなり高い。
第3楽章では、青木も右向きになってより勢いを付けて弾くようになる。技術面ではかなり高度な弾き手である。
沖澤指揮する京響も雅やかな伴奏を聴かせた。

 

休憩を挟んで、ビゼーの「アルルの女」第2組曲より“メヌエット”と“ファランドール”。「カルメン」と「アルルの女」で知られているジョルジュ・ビゼー。作曲家として成功できないまま若くして亡くなったが、亡くなった直後に「カルメン」が大ヒットした。生前の栄光に浴することが出来なかった不運な作曲家としても知られている。ただ残っている作品も多いということを考えれば、それでも作曲家としては幸せな方なのかも知れない。
南仏を舞台とした劇の附随音楽だけに、パリ周辺の音楽趣味とは少し異なる。
“メヌエット”はフルートの定番とでも言うべき有名曲。ビゼーは「カルメン」でも姉妹関係になるような曲を書いているが、一般受けは「アルルの女」の方が良い。
堂々として情熱的な“ファランドール”。沖澤は終盤に掛けて、アッチェレランドで大いに盛り上げた。

 

プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」第1組曲より“ロメオとジュリエット”と第2組曲“モンタギュー家とキャピュレット家”。
ナビゲーターの朝岡は、「2024年に沖澤さんと京都市交響楽団がプロコフィエフの『ロメオとジュリエット』を演奏して称賛」と語るが、実は沖澤と京響が「ロメオとジュリエット」を演奏したのは京都においてではない。大阪・中之島のフェスティバルホールで行われた「関西6オケ」というイベントで演奏し、大好評を博している。私も会場で聴いていたが、「美演」ということに関してはかなり上の部類に入るのは間違いないと思われた。朝岡は、「好評に応えて『プロコフィエフの陣』という交響曲全曲演奏会をやります」と宣伝。更に「プロコフィエフは来日したことがあり、2ヶ月ほど滞在して名所を巡り、京都では祇園と琵琶湖疎水を散策」と紹介した。実は、プロコフィエフは共産党の台頭したソ連を嫌い、アメリカに向かうつもりで、日本は単なる中継点で素通りするはずだった。しかしアメリカに行く船便は出たばかりで、次の便は2ヶ月後であったため、その間、日本を探索することにしたのだ。
プロコフィエフは、アメリカに亡命したが、最終的にはソ連に戻り、スターリンと全く同じ日に亡くなっている。
プロコフィエフのバレエ「ロメオとジュリエット」であるが、プロコフィエフは最初、ハッピーエンドにしようとした。「死人は踊れない」という理由である。だがそれでは困るというので、関係者に頼まれて、現行のものを書き上げた。しかしリハーサルになると今度はバレエダンサーが、「音楽が洗練されすぎていて踊れない」と言い出す。難産の末、バレエの最高峰を窺う「ロメオとジュリエット」が完成した。
ちなみにバレエ音楽「ロメオとジュリエット」は全曲盤が数種出ているが、いずれも「長大な交響詩」として聴くことが出来るものである。チャイコフスキーの三大バレエもバレエ音楽としては優れているが、バレリーナが主体で音楽は脇役であるため、それを心得た音楽だけにそれだけで聴き通すのは難しい。少なくとも1時間を超えるバレエ音楽で聴き通すことが出来るのは「ロメオとジュリエット」しかないように思う。

沖澤と京響による「ロメオとジュリエット」より2曲。いずれも美音で瞬発力がある。爆発的な音響とそれにつづく神秘的な雰囲気の対比が鮮やかである。管と弦の掛け合いも洗練されたものだ。

ロンドンでは、ヴァレリー・ゲルギエフが、ロンドン交響楽団を指揮してプロコフィエフの交響曲チクルスを行い、ちょっとしたプロコフィエフブームが起こった。京都でもそうなるだろうか。

 

ラヴェルの「ボレロ」。スネアドラムの福山直子が、オーケストラの中盤に陣取り、ボレロ(本場のボレロとはやや異なる)のリズムを叩き続ける。近年、「ボレロ」のスネア奏者は実は2人だったことが判明した。リレーしたのか交互に叩いたのか。ただ人が変わるとリズムも微妙に変わる可能性があるためか、今も一人のスネア奏者に任せることは多い。
「『ボレロ』の前半は指揮者はすることがない」と言われる。今のオーケストラの精度なら指揮者なしでも十分演奏出来る。ただ沖澤は最初から3拍を小さく刻む。首席のいないパートでメカニックが狂う場面であったが、沖澤の演出も上手く、クライマックスに向かって集中力を増していく。
クライマックスになると沖澤は二つ振りになり、高揚感に拍車を掛けていた。

演奏終了後、沖澤はスネアの福山直子に歩み寄り、握手し、そのまま手を引いて指揮台のところへと連れて行き、聴衆の拍手を受けさせた。

 

アンコール演奏は、ハチャトゥリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」より“剣の舞”。短いが盛り上がる曲である。実は数年前にハチャトゥリアンを主人公にした「剣の舞」という映画が公開されたのだが、ハチャトゥリアンは体制側の作曲家で、ドラマティックなエピソードは全くない。ということで、伝記映画なのに100%脚本家がでっち上げたフィクションになっていた。伝記映画なら1%ぐらいは本当のことがあってもいいのだが、なかった。
なお、ハチャトゥリアンは、1963年に来日し、京響の指揮台にも立って、自作を指揮している。

ホールを熱狂させた沖澤と京響。良いコンサートだったように思う。

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2026年5月29日 (金)

コンサートの記(960) ミシェル・タバシュニク指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第598回定期演奏会

2026年5月23日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第598回定期演奏会を聴く。大阪で良く行くホールは、フェスティバルホール、ザ・シンフォニーホール、住友生命いずみホールだが、いずれも「大阪」がホール名につかない。東京でもサントリーホールやNHKホールには「東京」はつかないが、「東京」がつくホールの方が多い。

今日の指揮者は、スイス出身のミシェル・タバシュニク。今年83歳になる。
ジュネーヴ生まれのタバシュニク。出身地の音楽院で指揮や作曲、ピアノを学ぶ。指揮の他に作曲でも活躍。いずれもピエール・ブーレーズの影響は濃厚で、ブーレーズがBBC交響楽団の音楽監督を務めていた時代にアシスタントを務め、ブーレーズが組織したアンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督を務めたこともある。
近年はブリュッセル・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼音楽監督を務め、現在は名誉指揮者の称号を獲得。ポルトガル・リスボンのグルベンキアン管弦楽団の音楽監督、フランスのロレーヌ国立管弦楽団の音楽監督、ノールト・ネーデルラント交響楽団の首席指揮者を務め、ノールト・ネーデルラント交響楽団の名誉指揮者にも就いている。
新宗教絡みの事件に関与し、無罪となったが、それがなければもっと世界中に数少ない「巨匠」指揮者として有名であったような気がする。その場合は、大阪フィルハーモニー交響楽団には来てくれなかったかも知れないが、

 

曲目は、ブラームスの交響曲第3番、ストラヴィンスキーの組曲「プルチネルラ」、ドビュッシーの交響詩「海」

前回、2024年に大阪フィルに客演した際、次回の客演については、「是非来たい」。曲目については、「ドイツ音楽ならブラームスの交響曲第3番。フランス音楽ならドビュッシーの『海』」ということで、「両方やられたらどうですか」とその場でプログラムの大半が決まってしまったという。またタバシュニクは現代音楽が得意ということで、ストラヴィンスキーの新古典主義時代の代表作である組曲「プルチネルラ(プルチネッラ)」に決まったという。

コンサートマスターは須山暢大。フォアシュピーラーは尾張拓登だと思われる。第2ヴァイオリンは客演奏者も含めて全員女性である。

ブラームスの交響曲第3番。年齢故、足腰が弱っているということで、ステップのある高めの指揮台を使用。指揮台の前に譜面台はなく、暗譜での指揮である。
第4楽章以外はかなり遅めのテンポでの演奏。ブラームスの心情に焦点を当てた解釈である。指揮者によっては、「天地創造」のように演奏し、それゆえ「ブラームスの英雄交響曲」と呼ばれることもある交響曲第3番。しかしブラームスが描いているのはやはり差し迫った悲劇であり、悲哀であるように思う。懐旧の趣も強い。再現部では全てを投げ捨てるかのようなやるせなさである。
第2楽章で少し取り戻し、有名な第3楽章へ。「さよならをもう一度(フランソワーズ・サガンの原作タイトルは『ブラームスはお好き』)」などの映画や松本清張スペシャル「張り込み」などで使われ、大石恵がなぜかポピュラーソングとして歌っている(全く売れなかったようだが)第3楽章。ここでもテンポを緩やかにすることで、取り返しのつかない悔恨として響き。メロディーが美しいだけにより胸が痛くなる。
これら3つの楽章を、最後の第4楽章でテンポを上げて一気にひっくり返してみせる。悲壮な感じではあるが、それまでには感じられなかった強さがある。一気に日差しが溢れてきたかのようだ。曲自体を変えるわけにはいかないので、最後は敗北で終わる。ただ第4楽章冒頭の力強さは、この曲が持つ特性の一部に光を当てていた。
透明感のある音も印象的である。

 

ストラヴィンスキーの組曲「プルチネルラ」。42名での演奏だそうで、管楽器は中央にぎゅっと固まり、トランペットとトロンボーンのみ上手に少し離れて陣取る。
弦楽器であるが、プルトを組むことはなく、首席奏者を始め、全員が横に人がいない状態で演奏する。
三大バレエでパリを震撼させたストラヴィンスキー。だが彼は常に新しい試みを行う作曲家であり、第一次大戦の勃発でスイスに移り住むと、バロック音楽の要素を取り入れた新古典主義、更には第二次大戦後にアメリカに移ってからは、十二音音楽に接近している。
組曲「プルチネルラ」は、分かりやすいということもあり、三大バレエ以外の作品の中では知名度は高めである。
18世紀の音楽を20世紀の手法でアレンジしているが、プロコフィエフの交響曲第1番「古典」に発想は似ているかも知れない。
雅やかな音楽が奏でられるが、ストラヴィンスキーの作風も含めて、その時代には絶対聴かれなかった豪快な音楽を入れるなど、ストラヴィンスキーは能天気に昔の音楽と向き合っているわけではないことが分かる。
タバシュニクは、この曲では譜面台の上に総譜を用意して、繰りながら指揮していた。

 

ドビュッシーの交響詩「海」。透明感を生かした独自の海である。どこかの海の光景ではなく、形而上に創造された透明感溢れる海である。スケールは雄大。大フィルの音も力強く、ダイナミックな海となる。
第2楽章では冷ややかな印象も受けるが、形而上の海の故とも思える。大西洋を念頭に置いたような他の多くの「海」とも、太平洋を想起させるような広がりのあるジュリーニとロイヤル・コンセルトヘボウの「海」とも異なる。
そして最終楽章のラストでは、アッチェレランドを伴う豪快なラストを築き上げる。
ブラームスとドビュッシーのラストで好対照をなした。

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2026年3月 3日 (火)

コンサートの記(950) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXXⅠ ヴェルディ:歌劇「椿姫」 ディエゴ・マテウス指揮

2025年3月16日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後3時から、左京区岡﨑のロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩⅩⅠ ヴェルディ:歌劇「椿姫」を観る。

小澤征爾は亡くなったが、その志は若い人々へと受け継がれている。

今回も指揮者は、小澤征爾音楽塾首席指揮者のディエゴ・マテウス。演出は、デイヴィッド・ニースが手掛ける。小澤征爾には、創設者と共に永久音楽監督の称号が追贈されている。
小澤征爾音楽塾副塾長(実質的なトップ)には、チェリストの原田禎夫。アシスタント・ディレクターには、小澤征爾の娘である小澤征良(せいら)が就いている。

出演は、ニーナ・ミナシアン(ヴィオレッタ)、カン・ワン(アルフレード・ジェルモン)、クイン・ケルシー(ジョルジュ・ジェルモン)、メーガン・マリノ(フローラ)、牧野真由美(アンニーナ)、マーティン・バカリ(ガストン子爵)、井出壮志朗(ドゥフォール男爵)、町英和(ドビニー侯爵)、河野鉄平(こうの・てっぺい。医師グランヴィル)。
管弦楽は小澤征爾音楽塾オーケストラ。合唱は小澤征爾音楽塾合唱団。

原作小説・戯曲:アレクサンドル・デュマ・フィス。台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ。

 

ベネズエラの「エル・システマ」出身のディエゴ・マテウス。「エル・システマ」が輩出した有力指揮者としては、グスターボ・ドゥダメルに次いで二人目であり、単にドゥダメル一人に才能があったわけではなく、「エル・システマ」の有効性を示した人物でもある。「第二のドゥダメル」と呼ばれたこともあるが、最近はこの称号で呼ばれることは余りないようである。
小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトの演出の多くを手掛けているデイヴィッド・ニースは、メトロポリタン歌劇場の演出家として長年活躍してきた人物である。
ヴィオレッタを歌うニーナ・ミナシアンは、アルメニア出身。アルフレード役のカン・ワンは中国系オーストラリア人である。アルフレードの父親役のジョルジュを歌うクイン・ケルシーはハワイ出身。見た目から原住民系であると思われる。ハワイ大学マノア校で音楽を学び、卒業後に欧米で活躍している。
日本人キャストも全員出身校が異なり、バラエティーに富んだ人選となっている。

 

紗幕にパリの情景が描かれている。エッフェル塔、セーヌ川、ポン・ヌフ、ノートルダム大聖堂。おそらくこれらが一度に見える場所はないので架空のパリなのだろう。「椿姫」が初演された時には、エッフェル塔はまだなかったと思うが、パリらしさを演出するためなのでいいだろう。

前奏曲を、マテウスは極めて小さな音でスタートさせる。その後も繊細な表現が続くが、華やかさが徐々に増していく。小澤征爾音楽塾オーケストラは、日本、韓国、中国などで行われたオーディションで選ばれた若い音楽家による団体だが、よく訓練されていて、アンサンブルの精度も高い。このオペラではフルートが重要な場面で演奏されるのだが、マテウスはフルートを上手く浮かび上がらせていた。
「椿姫」の音楽は三拍子系のものが多いのも特徴である。最も有名な「乾杯の歌」も三拍子であるが、この曲はカラオケ(JOYSOUND)に入っていて歌うことが出来る。

前奏曲の途中で紗幕が透け、ヴィオレッタ達が立っているのが見える。
ヴィオレッタは高級娼婦である。大金を手に入れることが可能だが、結婚は許されていない。そのヴィオレッタがアルフレードという若者に恋をしたことから起こる一騒動と、若くしての病死を描いた悲劇である。
私は、2002年に京都芸術劇場春秋座で行われた京都造形芸術大学(当時)と京都市立芸術大学音楽学部との合同公演で初めて「椿姫」を観ており(あの頃は二校は仲が良かった)、その後も春秋座のオペラ、佐渡裕が指揮した神戸文化ホールでの上演を観たことがある。

近年は、象徴的な演出が行われることも多い「椿姫」だが、デイヴィッド・ニースの演出は奇をてらわないオーソドックスなもので、まず「演技で見せるのだ」という強い意志が感じられる。ヴィオレッタは不治の病に冒されている。通常は死因となる結核という解釈が取られるが、結核の割りには元気な描写があったり、隔離されたりなどの措置が取られていないため、結核にかかったのは死の直前で、不治の病は別のものなのかも知れないが、ヒントとなるものがないため、現状ではやはり結核とするのが無難なように思う。

歌手達の水準は高く、ロームシアター京都メインホールということで声もよく通り、オーケストラの音も美しく聞こえる。

装置や衣装を手掛けたのはロバート・パージオーラだが、フローラの屋敷の場では、壁も登場人物の衣装も真っ赤で統一。特に深い意味はない(吐血のイメージは込められていると思う)と思われるが、インパクトはある。その他の場面でも装置はお洒落である。

第3幕で瀕死のはずのヴィオレッタが朗々と歌うのが、「リアルでない」と言われることもあるが、内面の吐露なのでそんな指摘をしても仕方ない気もする。今回、ヴィオレッタを演じたニーナ・ミナシアンは、ベッドの上にアルフレードと並んで座った時に、何度か頭に手をやって具合が悪そうに見せるなど、リアルな演技を見せていた。

 

この上演もカーテンコールでの撮影は可となっており、SNSへのアップも許されていた。

なお、今回の公演を持って、ロームは小澤征爾音楽塾から撤退することを明らかにした。

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2025年12月29日 (月)

コンサートの記(934) 鈴木優人指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第2回「国を越えてリズムがわたる」

2025年9月7日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第2回「国を越えてリズムがわたる」を聴く。指揮は第1回に引き続き鈴木優人。鈴木優人クラスの指揮者が2回連続で引き受けてくれるというのは珍しいことである。

今回はタイトルの通り、リズムが印象的な楽曲が並ぶ。また今回は全てメモリアルイヤーを迎えた作曲家の作品である。

曲目は、芥川也寸志(生誕100年)の交響管弦楽のための音楽、ヨハン・シュトラウスⅡ世(生誕200年)のワルツ「美しく青きドナウ」、ラヴェル(生誕150年)のピアノ協奏曲(ピアノ独奏:ルゥオ・ジャチン)、ショスタコーヴィチ(没後50年)の「舞台管弦楽のための組曲」第1番から5曲、ラヴェルの「ボレロ」

 

日本指揮者界のトップランナーの一人である鈴木優人。日本におけるバッハ演奏の泰斗である鈴木雅明の息子であるが、人気は父親を上回るかも知れない。
専門は古楽で、バッハ・コレギウム・ジャパンの首席指揮者であるが、現代音楽にも詳しく、日本の現代音楽の作曲家の作品のみに絞った演奏会なども行っている。「題名のない音楽会」にはたびたび登場。「エンター・ザ・ミュージック」にもたまに出演する。
経歴を確認すると、新たに九州大学の客員教授に着任したようである。

今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。ヴィオラの客演首席は大阪フィルハーモニー交響楽団首席ヴィオラ奏者の一樂もゆるで、京都市交響楽団のチェロ奏者である一樂恒(ひさし)と夫婦共演である。チェロの客演首席は藤原秀章。首席クラリネットの小谷口直子と首席フルートの上野博昭は降り番である。
いつも通りのドイツ式の現代配置での演奏。

 

台本を手に、カラヤンのような髪型で現れた鈴木優人。「前回はウエンツ瑛士さんがとても素敵な司会を務めて下さいましたが、今日は私が指揮と司会の両方をやります」と述べる。爽快で見通しの良い音楽作りもカラヤンに通ずるところがあるがくれぐれも権威主義に陥らないようにして貰いたい。あの一族なら大丈夫と思うが。

 

芥川也寸志の交響管弦楽のための音楽。鈴木は、「芥川也寸志は芥川龍之介の息子です。芥川龍之介知ってるって子?」と聞き、多くの子どもが手を挙げる。芥川龍之介の作品は、ほとんどの国語の教科書に載っているので、読んだことのある人は多いだろう。鈴木は、「あれ? 京響の側は?」と言い、京響のメンバーも慌てて手を挙げる。高校から音楽高校という人もいるだろうが、芥川龍之介の作品は、中学校の教科書によく載っているので、知らないということはないだろう。
芥川也寸志は、思想的には左翼で、ソビエトや中国の現代音楽を研究。ショスタコーヴィチの作品紹介にも尽力した。
「伊福部昭に学ぶことが多かった」と言われているが、たしかにこの交響管弦楽のための音楽も、伊福部作品のような土俗的な迫力とリズムに溢れている。

鈴木は、「芥川さんの音楽って、プロのオーケストラでやられてますかね? 伊福部さんはよくやられていると思うんですが」と語る。確かに、芥川作品はごくたまに見かける程度の演奏頻度でしかない。ただ芥川本人もプロオーケストラよりも新交響楽団のようなアマチュアオーケストラを好んで指揮したため、プロよりもアマチュア方面に知られているのかも知れない。今年も京都のアマチュアオーケストラのいくつかが芥川作品を取り上げている。

 

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」。ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで演奏されることでお馴染みだが、鈴木は一度だけウィーンで年越しをしたことがあり、12月31日の夕方には、ウィーン市庁舎の前で様々な音楽が鳴り、スキーをしたりソリに乗って飛び上がったりしているのだが、翌年の1月1日が近づくと、それまでの音楽が鳴り止み、「美しく青きドナウ」が流れてくるのだという。
鈴木は説明しなかったが、ウィーンのドナウ川は特に美しくも青くもない濁った川だそうで、流れているのも街外れである。ドナウが美しい街というとウィーンよりもブダペストかも知れない。
広上淳一が以前、「美しく青きドナウ」を指揮した時に、「京都なら、『美しく青き桂川』」と鴨川にしなかったのも、ドナウ川が街外れを流れているからである。鴨川は100万都市の街中を流れる川としては珍しい清流を現在は取り戻している。
ウィンナ・ワルツということで、鈴木も溜めやテンポダウンなどを駆使しながらの音楽作り。聴くだけのワルツにはしない。

 

ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調。20世紀後半になってから人気が上がり、音盤の数も増え続けている曲である。ジャズの影響を受けており、それを苦手に思う人もいると思われるが、現在の音楽教育は古典にも現代にも幅を拡げており、20世紀の作品を多くレパートリーに多く入れているピアニストもいる。

ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章について、鈴木は「世界で最も美しい音楽」と讃えるが、ソリストのルゥオ・ジャチン(ルゥオと読める苗字には魯迅でお馴染みの「魯」や「羅」があるが漢字表記がないため分からない)も同感のようだった。
ルゥオ・ジャチンは、1999年生まれの中国の若手ピアニスト。湖南省の出身である。武漢音楽院附属中学校に入学し、卒業後に渡米。オバーリン音楽院(アメリカ初の4年制音楽大学。主体であるオバーリン大学は、この大学から校名を取った桜美林大学と提携しているので、オバーリン音楽院も桜美林大学と提携を結んでいるかも知れない)やニューイングランド音楽院に学ぶ。ニューイングランド音楽院では、ベトナム出身の大家、ダン・タイ・ソンに師事したという。今後は、ヨーロッパに渡り、ケルン音楽舞踊大学のドイツ国家演奏家資格課程で研鑽を積む予定だという。
2022年第8回仙台国際音楽コンクール・ピアノ部門の覇者でもある。

演奏前に、鈴木とルゥオのトーク。通訳が付くのだが、
鈴木「何歳からピアノを始めましたか?」
ルゥオ「(日本語で)4歳」
と簡単な日本語なら話せるようだ。日本が大好きだそうで、色々なところに観光に行っており、京都は今回が3回目だが、前2回は純然たる観光だったそうだ。日本の文化については「ほとんど好きですが、特にアニメ」と応え、「京アニ」と言ったため、鈴木は、「これはガチな人が来ちゃいましたね」と述べていた。中でも好きな作品は、京都府宇治市が主舞台の「響け!ユーフォニアム」だそうである。明日オフだった聖地巡礼出来るじゃん! まあそんなに暇ではないだろうけれど。
今日はロームシアター京都メインホールだったが、京都コンサートホールは、「響け!ユーフォニアム」の冒頭に出てくるので、そちらだったら喜んだだろうな。

ルゥオ・ジャチンのピアノは純度の高さが特徴。ペダリングは特別なことはせず、弱音の時にソフトペダルを踏む。ダンパーペダルは、ずっと踏んでいる時と頻繁に切り替える時がある。
鈴木とルゥオが共に「世界一美しい音楽」と呼んだ第2楽章。初演者はマルグリット・ロンだが、実はマルグリット・ロンが演奏したラヴェルのピアノ協奏曲第2楽章の録音が残っており、YouTubeで聴くことが出来る
ひょっとしたらこの楽章はヨーロッパ人よりも日本人の心に訴えかけるのではないかと思えてくる。センチメンタルな気分から次第に自然のただ中へと溶け込んでいく感覚。元NHK交響楽団首席オーボエ奏者で、現在は指揮者として活躍する茂木大輔はこの楽章に「初恋」というタイトルを付けているが、私の感覚とは少し違う。私が付けるなら「幼き日から今日まで」。人生のあらゆるシーンが蘇るかのようだ。
美音による第2楽章を経て、第3楽章へ。「ゴジラ」と呼ばれる箇所も力強く、(行ったことはないが)パリの街の風景が浮かび上がるような瑞々しい演奏だった。

 

アンコール演奏は、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。しっとりとして構築感のある演奏だった。

 

ショスタコーヴィチの「舞台管弦楽のための組曲」第1番から、“行進曲”、“ダンス第2番”、“リリック・ワルツ”、“ワルツ第2番”、“終曲”。全8曲から5曲を選曲。
ギター:佐藤紀雄、クロマチックアコーディオン:大田智美が参加。
この曲は「ジャズ組曲第2番」と呼ばれていたが、戦後行方不明になっていた本来の「ジャズ組曲第2番」のピアノ譜が1999年に発見され、以後、「舞台管弦楽のための組曲」第1番と名を変えている。
冒頭の“行進曲は”、のどかな田舎にある小学校で行われている徒競走の時のような音楽である。その後もほのぼのとした曲が続くが、ワルツ2曲だけは、妖艶でミステリアスで、悲劇の予感がするようで、他の楽曲とは大きく趣が異なる。ハチャトゥリアンも「仮面舞踏会」のワルツで似た旋律を作曲しており(アイスクリームによる毒殺を図る場面の音楽)特に関係はないと思われるが、地に吸い込まれそうなほど官能的な音楽が書けるのはロシア人しかいないのではないか。一人だけ例外がいた。梅林茂である。

佐藤の使っているギターであるが、その辺で売っているギターと一緒で特別なことはなにもないという。
ちなみに、佐藤は、鈴木のデビューリサイタルで共演しているそうである。その時は、鈴木はオルガンを弾いたそうだ。

クロマチックアコーディオンの紹介。学校などで使う鍵盤式のアコーディオンとは違い、ボタンしかない。大田智美によると、右側が92鍵、左側が108鍵だそうである。鍵盤はないが、一応、音の上がり方は一定であるとのこと。

 

ラヴェルの「ボレロ」。スネアドラム奏者がひたすら同じリズムを刻み続けるという過酷な曲。しかも旋律が2つしかないので、管楽器奏者は間違えたらすぐにバレるという怖ろしい曲でもある。
鈴木は、「実は、スネアドラム奏者二人で交互に演奏していたことが分かった」と述べる。京都市交響楽団は、ジャンルイジ・ジェルメッティを指揮台に招いた定期演奏会で、スネアドラム3台による「ボレロ」を演奏したことがある。
ただ今回は、第2のスネアドラム奏者は交代に叩くのではなく、どこかから出てくるそうである。
京響の音の美しさが生かされた演奏。フランス音楽らしい淡さと濃さが交差する色彩で、ラヴェルの魔術が十分に生かされている。音楽を旋律ではなく、クレッシェンドと楽器の変化とスネアの延々と叩かれる響きで変化させる。そして転調。音楽の転換ともいえる創造物である。実はこのモチーフを真似て、ショスタコーヴィチがとんでもない音楽を作るのだが、それはもう少し後の話である。

テンポとしてはトータルで15分台ぐらいの演奏だが、第1ヴァイオリンが第1主題を奏でる1つ前に鈴木はテンポアップ(作曲者の指示では全編通して「同じ速度で」であり、演奏時間は「17分ほど」である))。その後、更にもう1回速度を上げる。

そして1階席中央横断通路にスネアドラム奏者が登場。肩から下げたスネアドラムを歩きながら叩く。二つのスネアが鳴る中、転調があってクライマックス。鈴木優人は客席の方を向いて動きを止めた。

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2025年12月14日 (日)

コンサートの記(932) ジャン=クリストフ・スピノジ指揮 京都市交響楽団第706回定期演奏会

2025年11月29日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第706回定期演奏会を聴く。指揮は、ジャン=クリストフ・スピノジ。

ジャン=クリストフ・スピノジ。いかにもベートーヴェン好きになりそうな名前であり、フランス・コルシカ島出身ということでナポレオンと同郷である。ベートーヴェンは「ウェリントンの勝利」を書いているけれども。
詳しい経歴などは無料パンフレットには載っていないが、クラシック音楽における「アンファン・テリブル(恐るべき子ども)」と呼ばれていたり、「並外れたリズム感と身体能力を持ち合わせた。音楽家=振付師」と称されてもいるようだ。

2007年に自ら組織したアンサンブル・マテウスと共にシャトレ劇場で珍しいものも含むオペラをいくつも上演。客演指揮者として、ベルリン・ドイツ交響楽団、パリ管弦楽団、hr交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団、ウィーン交響楽団などと定期的に共演し、2021年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台にも立っている。

開演30分前からプレトークがあるが、スピノジは、フランス語で比較的長めのトークを行っていた。事前に打ち合わせはしていたと思うが、通訳泣かせではある。内容は楽曲の解説が中心。「田園」交響曲については、日本人の独自の自然観についても述べていた(私の認識とは多少異なっていたが)。

 

曲目は、ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」、ハイドンの交響曲第82番「熊」、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」

 

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の町田琴和(まちだ・ことわ。女性)が客演コンサートマスターとして入る。町田姓は圧倒的に鹿児島県出身者が多いのだが、彼女は東京生まれのようである。ちなみに私には京都出身の町田姓の友人が二人いる。
フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に石橋直子、チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。管の首席奏者の大半はベートーヴェンのみの出演である。クラリネット首席の小谷口直子は、老眼鏡をかけて出演した。私も近頃は老眼に悩むようになっている。

チェロが客席側に来るアメリカ式の現代配置での演奏。実のところ、ドイツ式の現代配置でもアメリカ式の現代配置でも大した違いはないとこれまでは思ってきたが、「田園」交響曲を聴いてその認識が誤りであることが分かった。

 

指揮台の前に譜面台はなく、スピノジは全て暗譜によるノンタクトでの指揮を行う。拍を刻むことは稀で、基本的には音型を両手で示してみせる。

 

ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」。ピリオドによる弦楽の響きの透明さがプラスに働き、管も快活で楽しい演奏になる。

問題はここからである。
ハイドンの交響曲第82番「熊」。最近、熊が日本のあちこちに出没しているが、「タイムリー」などとは言えないタイトルである(後記:令和7年の今年の漢字は「熊」に決まった)。タイトルの由来はよく分かっていないが、第4楽章の音型が熊の鳴き声に聞こえた説などがある。ハイドンによる命名ではない。

ロッシーニにはティンパニのパートがなく、この曲から中山航介がバロックティンパニを担当するが、ティンパニは指揮者の真正面ではなく、後列の中で一番上手寄りに陣する。

交響曲第82番「熊」は、ロヴロ・フォン・マタチッチがNHK交響楽団の定期演奏で取り上げたときの放送用音源がCD化されているので、それで親しんだ人も多いかも知れない。
だが、スピノジの「熊」は一般的な「熊」交響曲とは別物。緩急、強弱の幅が著しく、「これが俺の考える『熊』だ!」と思い切り提示してみせる。常日頃の京響では追いつけない解釈で、そこでスピノジと共演経験のある町田琴和が客演コンサートマスターとして呼ばれたのだろう。

かなり即興的であり、再創造的であるが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどは「音楽は即興的でなければならない」と考えており、同じ演奏は二度としなかったし、朝比奈隆もその時々によって演奏を変えていた。だからスピノジが前例のないことをした訳でもない。

良い演奏かどうかは人によって意見が分かれると思うが、私は、「遊んでるな」と微笑ましく見ていた。

ハイドンは交響曲第90番で、「全曲終わったと見せかけてまだ終わってない」を繰り返すのだが、スピノジは「熊」で同じことをやる。勿論、スピノジが切ったところで曲が終わるわけはないのだが、客席からは、「クレイジー!」という言葉が飛び(演奏中に言葉が飛ぶのはかなり珍しい)、演奏が終わってからはブーイングも響いた。

ハイドンは古典派なので、格調高く演奏すべきという考えは分かる。ただそうした考えがハイドンの人気を下落させ、ピリオド・アプローチが盛んになってから復活したということを考えると、「べき」演奏は作曲家の魅力を下げることに繋がらないと言い切れるだろうか。

 

ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。

第1楽章はやはり緩急を付けた演奏。同じフレーズでも急に遅くなったり速くなったりアゴーギクを多用する。ゲネラルパウゼも長め。この楽章ではそうする必要を強くは感じなかったが、第2楽章ではほぼインテンポによる細やかな演奏を聴かせる。小川のせせらぎを描いているのでそんなに急に遅くなったり速くなったりする訳はない。
第3楽章は「風景」よりも「心情」を表出。沸き立つ気分が描かれる。そして「嵐」であるが、ここで客席側に配置されたチェロがエッジの立った音を聴かせる。チェロは音が前に飛ぶ楽器なので、ドイツ式の現代配置のようにオーケストラの内側にあった方が有利なような気がするのだが、アメリカ式の現代配置のように指揮者のすぐ横にあった方が操りやすい。ストコフスキーも単に録音用に配置をした訳ではないようである。
第1ヴァイオリンの響きも電光を表していることがいつも以上によく分かる。
そして「嵐」のラストの方は引き延ばされ、嵐が去って行く様が描かれる(実際、第5楽章に入る直前までチェロは雷鳴の響きを奏で続けている)。
第5楽章は非常に明るい演奏であるが、最後の方で、「ここから去りたくない」というメッセージをスピノジは見つけていた。

 

老年になると穏健派になってしまう指揮者も多いが、スピノジにはこれからも暴れまくって欲しいものである。

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2025年12月 1日 (月)

コンサートの記(931) シャルル・デュトワ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第593回定期演奏会

2025年11月21日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバあるホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第593回定期演奏会に接する。指揮は、シャルル・デュトワ。
ここ数年は、毎年春から初夏にかけてに大阪フィルに客演していたデュトワ。だが昨年は、来日して東京での演奏会は指揮したものの、すでに体調の悪さは現れていたようで、大フィルのリハーサルにも現れたが、初日の終盤でリタイア。ヨーロッパに戻り、感染症(コロナではないとのこと)と診断されたが、めげずに再来日。予定通り福岡の九州交響楽団への初登壇を果たした。

今回も名誉音楽監督の座にあるNHK交響楽団を指揮してから大阪へとやって来たデュトワ。
N響でも大フィルでもメインとなるのはラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」全曲である。

デュトワにとって、「ダフニスとクロエ」全曲は特別な楽曲である。モントリオール交響楽団の音楽監督に就任後、ローカルなオーケストラに過ぎなかったモントリオール響の実力を大幅にアップさせ、DECCAにレコーディングした同曲がベストセラーとなり、デュトワとモントリオール交響楽団の名を天下に轟かせている。
以後、フランス音楽を中心に録音を軌道に乗せたデュトワとモントリオール響(OSM)。ラヴェル、ドビュッシー、フォーレ、ベルリオーズ、ビゼー、フランクなどのフランス音楽と、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー、プロコフィエフなどのロシア音楽を録音。リリースしたCDの約半分が何らかの賞を獲得している。
デュトワは、NHK交響楽団ともDECCAにレコーディングを行っており、OSM相手ではなく個別にオネゲル交響曲全集やルーセル交響曲全集などのフランス音楽の王道からやや外にいる作曲家の作品も録音している。
OSMと決別した後は、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」でOSM盤を上回る出来を示している。フランス国立管弦楽団とは「プーランク管弦楽曲全集」を録音。協奏曲なども含む全集で、プーランクは名声に比して録音が少ないため重要な仕事となっている。

なお、大阪フィルハーモニー交響楽団の来年度の定期演奏会のプログラムが発表になったが、そこにデュトワの名はない。デュトワも先月89歳の誕生日を迎えた。「ダフニスとクロエ」で始まった環が「ダフニスとクロエ」でいったん閉じられようとしているのかも知れない。

 

曲目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第22番(ピアノ独奏:小菅優)、ラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」全曲(合唱:大阪フィルハーモニー合唱団)。

今日のコンサートマスターは崔文洙。ドイツ式の現代配置による演奏だが、ティンパニは指揮者の真正面ではなくやや下手寄りに陣取る。

オーケストラは90人編成だそうで、エキストラも多い。出演者一覧には、京都市交響楽団の一樂恒(いちらく・ひさし。チェロ)、京都フィルハーモニー室内合奏団の松田美奈子(ヴィオラ)の名が見える。

 

モーツァルトのピアノ協奏曲第22番。モーツァルトのピアノ協奏曲の20番台前半の中では取り上げられる回数が比較的少ない曲である。他の曲が個性に満ちているだけにやや埋もれ気味になるのかも知れない。
映画「アマデウス」では、売れなくなったモーツァルトがウィーンの街を一人で歩くシーンで第3楽章の冒頭が用いられている(選曲&音楽監督;ネヴィル・マリナー)。

小菅優は、日本の若手の代表格的存在であるピアニストだが、そろそろ中堅に差し掛かろうとしている。大きなコンクールに参加したことがないのが特徴だが、マックス・ポンマーが京都市交響楽団に客演した際、ソリストを務めた小菅優が子どもだった頃に参加したピアノコンクールの決勝で協奏曲の指揮を担当したと語っていた。優勝したそうである。マイナーなコンクールを受けたことはあるのかも知れない。
世界的なコンクールで好成績を収めると注目されるが、必ずしも良い成績を収めた奏者が順調なキャリアを築くとは限らない。

編成を小さめにしてピリオドを援用しての伴奏。フェエスティバルホールは空間が大きいので、最初のうちは伴奏が聞こえにくかったのだが、次第に耳が調節される。デュトワ指揮の伴奏だが、かなり陰が濃い印象である。明るい旋律を歌っていても陰が忍び寄ってくる。
小菅のピアノはモーツァルトらしく透明度が高く愛らしいが、こちらも次第に暗いものが底から溢れてくる。
第1楽章と第3楽章のカデンツァは、20世紀を代表する作曲家であるベンジャミン・ブリテンが書いたものを使用。ブリテンはピアノ協奏曲第22番に出てくる様々なメロディーをコラージュしたものをカデンツァとして纏めていたが、最後は不吉な感じで終わる。

もっとも明るいはずの第3楽章。だが、最初はピアノが弾き、ヴァイオリンが同じ音型を返していたものが、終盤では、ヴァイオリンはピアノが弾いた通りには演奏せず、次第に距離が出来ているように感じられる。ピアノ協奏曲第20番や、第23番の第2楽章で露わにした孤独な表情を、ピアノ協奏曲第22番では、悟られにくいように行っているように感じられる。同じ天才のブリテンは当然気付いたはずだ。

 

アンコール演奏は、ショパンの「エオリアのハープ」。駆け抜ける爽やかな風のような演奏だった。

 

ラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」全曲。演奏規模、上演時間共にラヴェル最大の作品である。ラヴェルはその後、演奏会用に2つの組曲を編んでおり、特にバレエ音楽の第3部をほぼそのまま転用した第2組曲はコンサートでもたびたび取り上げる。
デュトワの指揮する「ダフニスとクロエ」全曲は、実は以前に1度聴いたことがある。渋谷区神南のNHKホールで行われたNHK交響楽団の定期演奏会で取り上げられたのだ。だが、その演奏会は、演奏内容以上に、上演中に震度3の地震が起こったことをことでよく記憶している。不幸中の幸いで、合唱だけの部分だったため、演奏は止まらず続けられたが(デュトワが地震に気付いたのかどうかは不明)、楽器の演奏だったら止まっていたかも知れない。震度3にしては揺れた方だった。この日の演奏会はNHKBS2(当時)で生放送されており、私も録画した映像を見たが、地震が起こった瞬間、男声合唱団の人々が天井を見上げる姿が映っており、「大丈夫かな?」という表情をしているのが確認出来た。勿論、カメラも揺れていた。

そんな思い出から30年近く経っての「ダフニスとクロエ」。往時のN響より今の大フィルは音の密度が濃い。また原色系の音色も特徴である。バスク地方に生まれたラヴェル。バスク地方はフランスとスペインに跨がるが、ラヴェルの血には、スペイン的な色合いや賑やかさを好むところがあるように思う。この曲も繊細なフランス的なところがありながら、闘牛を好むようなスペインの狂躁もまた顔を覗かせる。デュトワがフランス人だったら、あるいはもっと熱狂的な音楽を志向したかも知れないが、スイス・フランス語圏出身であるため、適度な上品さが加わり、理想的な演奏となりうるのだろう。
大フィルの技術も高く、大阪フィルハーモニー合唱団も力があった。
濃い密度を保ち、迫力に満ちながら、全体的に匂うような上品さを持ったラヴェル。今後、こうしたラヴェルが聴けるのかどうか分からないが、取りあえず今日はデュトワを聴けて良かった。

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2025年11月30日 (日)

観劇感想精選(502) 朗読劇「星の王子さま」 構成・朗読:安田成美

2025年11月12日 三条高倉の京都文化博物館別館ホールにて

午後5時から、京都文化博物館別館ホールで、朗読劇「星の王子さま」に接する。作:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、翻訳:内藤濯(ないとう・あろう)。構成・朗読:安田成美、音楽(作曲・演奏):阿部海太郎、美術:木梨銀士(きなし・ぎんじ。安田成美と木梨憲武の次男)。

東京の自由学園明日(みょうにち)館(国指定重要文化財)での公演を経て、昨日今日と京都文化博物館別館ホール(旧・日本銀行京都支店。国指定重要文化財)での京都公演が行われる。

 

「トレンディ女優」という言葉から連想される女優の一人である安田成美。映画、ドラマ、演劇と幅広く活躍しているが、結婚後は育児などを優先して、仕事をセーブしていた時期もある。「同・級・生」、「素顔のままで」、「ヴァンサンカン・結婚」、年末時代劇「源義経」、仲代達矢演じる弁護士と敵対関係になる女性を演じた松本清張ドラマ「霧の旗」、ベトナムロケを行った「ドク」など多くのヒットドラマに出演。映画では、「犬死せしもの」、林海象監督作品「ZIPANG」、オムニバス映画「バカヤロー!私怒ってます」第2話“遠くでフラれるなんて”、緒形拳と共演した「咬みつきたい」、役所広司主演作「すばらしき世界」などに出演している。演劇も出演作は多くはないが、「リチャード三世」は私も観ている。ただこれは劇団新感線による新感線版「リチャード三世」で、出演時間は余り長くはなかった。
こうやって見ると、ドラマに特化した活動を行っていることが分かる。

元々は、「風の谷のナウシカ」のイメージソング(作詞:松本隆、作曲:細野晴臣。映画本編では流れない)のシンガーとして登場した人で、昨年、細野晴臣との共同作業で「風の谷のナウシカ」をリメイクしている。

 

まず木梨銀士による動く美術。アニメーションとは少し違い、動く美術としか形容の仕様がないものである。そして、作曲家でマルチプレーヤーである阿部海太郎によって様々な楽器が演奏され、安田成美がにこやかな表情で下手側から現れて朗読を行う。

安田成美が構成を担当したテキストは、かなり改変されていて、原作とは違い、星の王子さまからの視点で物語は進んでいく。本来の語り手である飛行機の操縦士は途中で登場し、星の王子さまからのメッセージを受け取る役目を担う。

ドラマでは基本的に声音の使い分けは行わなかった安田成美だが、流石はプロの女優。様々な声を駆使して演じ分ける。星の王子さまの声は子どもっぽく、ヘビの物言いは狡猾そうだ。
テキストの改編については、様々な意見があるかも知れない。『星の王子さま』の著作権はすでに切れており、多くの出版社から刊行されていて、青空文庫では無料で読めたりする。なので改編も自由なのであるが、今回の上演は星の王子さまの内省の物語としてなら有効だと思われる。改編が嫌なら後で無料でテキストを読むことも可能なのだから、原作通りに頭から読まれることを希望するよりも安田成美が解釈した「星の王子さま」に耳を傾けるのも良い経験である。美声でもあるし。

 

カーテンコールには、木梨銀士も登場。安田成美が自身の次男であることを明かすと、「似てる!(安田成美にというよりも木梨憲武にだと思われるが)」という声も上がるが、実際はそんなに似ておらず、サッカー選手のような見た目である。木梨憲武も強豪・帝京高校サッカー部で、3年の地区予選までレギュラー、帝京高校は全国大会に出場を決めるが、全国大会では補欠に落ちてしまい、ピッチには立てなかった。なので両親に似ているというよりも木梨憲武のサッカー選手的雰囲気を受け継いでいるのかも知れない。

それよりも印象的だったのは、安田成美の声の可愛らしさである。今日の上演、更にはこれまでに出演したドラマや映画で演じている時の声よりも更に可愛い。つまり我々がこれまで聞いてきたのは演技用の安田成美の声であり、地声はさらに魅力的だったのだ。彼女はバラエティーにはほとんど出ないので(「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングのゲストとして出演し、ここに来る直前にスタジオアルタの前で痴漢に遭ったことを告白していたのが記憶に残っているが)、彼女の地声はほとんど関係者にしか知られていなかったということになる。

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2025年10月24日 (金)

コンサートの記(927) ジャン=エフラム・バヴゼ ピアノ・リサイタル「モーリス・ラヴェル生誕150年記念 ピアノ独奏曲全曲演奏会」@京都

2025年10月9日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタにて

午後6時から、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタ(通称:ムラタホール。ムラタは長岡京市の村田製作所ではなく京都市のムラテックこと村田機械のことである)で、ジャン=エフラム・バヴゼ ピアノ・リサイタル モーリス・ラヴェル生誕150年記念 ピアノ独奏曲全曲演奏会を聴く。文字通り、ラヴェルが作曲したピアノ独奏曲を一晩で演奏してしまおうという試み。上演時間は、アンコールと2度の休憩を含んで約3時間である。
3時間というのはピアノ・リサイタルとしては長いので、ラヴェルのファンしか集まらない。だが、まずまずの入りである。
ラヴェルのピアノ独奏曲全曲演奏会はもう一つ京都コンサートホールで行われていて、京都在住のロシア人ピアニストであるイリーナ・メジューエワが2回に分けてムラタホールで行う。2回に分けた方が聴きやすいので、メジューエワの方が人気が高いかも知れないが、バヴゼは本場フランス人ピアニストということでこちらを選ぶ人も多いはずである。おそらく両方に行くラヴェル好きも少なくはないはずである。

ジャン=エフラム・バヴゼは、パリ音楽院でピエール・サンカンに師事。1995年にサー・ゲオルグ・ショルティ指揮パリ管弦楽団の演奏会でデビュー。「ショルティが見出した最後の逸材」とも呼ばれた。ただ個人的には母国であるフランスのピアノ音楽に目覚めるのは遅く、三十代半ばになってからだそうだ。フランス人ピアニストだからフランス音楽を愛さなければならないなどいう法も規則もないので、それはそれで良いだろう。日本人だけれど、洋楽の方が好きという人も多いのだから。
ただ、バヴゼはラヴェルの音楽だけは若い頃から弾いており、共感を抱いてきたそうだ。

 

モーリス・ラヴェルは、ドビュッシーと同じ印象派に分類される作曲家だが、曲調はドビュッシーとは大きく異なり、響き重視のドビュッシーに対して、ラヴェルはメロディーラインも明確であり、初心者にはドビュッシーよりも取っつきやすい作風である。

 

曲目は、「グロテスクなセレナード」、「古風なメヌエット」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」、「水の戯れ」、ソナチネ、「鏡」、「ハイドンの名によるメヌエット」、「高雅で感傷的なワルツ」、「夜のガスパール」、「ボロディン風に」、「シャブリエ風に」、前奏曲(プレリュード)、「クープランの墓」

以前は、演奏家といえば、ドイツ人かフランス人。加えるにロシア人とイタリア人。イギリス人は古楽という感じだったのだが、ドイツとフランスは音楽大国からすでに脱落。めぼしい指揮者は一人ずつしかいないという状態で、器楽奏者も数が限られる。祖国の音楽を演奏や録音するアーティストが多いため、その国の音楽の知名度や人気が上がったが、ドイツもフランスも現状では苦しい。指揮者大国となったフィンランドは、出身指揮者が必ずシベリウスを演奏するため、「シベリウス交響曲全集」リリースラッシュが何年も続いている。アメリカ出身の指揮者も増えたので、アイヴスやレナード・バーンスタイン作品を耳にする機会が増えた。日本出身の演奏家も健闘しており、武満作品などは着実に演奏回数を増やしている。

そんな下り坂ともいえるフランスピアノ界であるが、フランス人ピアニストには他の国にはない特徴がいくつかある。どちらかといえば即物的な解釈、強く硬めのタッチ、ダイナミックレンジの広さなどで、いずれもエスプリ・ゴーロワに通じるものがある。
エスプリというと、典雅なエスプリ・クルトワがイメージされるが、もう一つエスプリ・ゴーロワがあり、野卑で力強く、豪放磊落というものである。フランス人トランペッターは力強く吹くので優れた奏者が多いと言われるのもエスプリ・ゴーロワによるものだろう。作曲に関してはエスプリ・クルトワ重視だが、演奏になるとエスプリ・ゴーロワが出てくるのが面白い。
ということで我々が思い浮かべる理想のフランス音楽の演奏はフランス人演奏家によるものでない場合が多い。フランス音楽演奏のスペシャリストであったエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団などいずれもフランス語圏ではあるがフランスの指揮者とオーケストラのコンビではない。彼らはエスプリ・ゴーロワの要素を巧みに薄めているため(あるいはフランス人ではないのでエスプリ・ゴーロワを身につけなくても良いため)、一般的にフランス的と思われる演奏が可能だったのだと思われる。サティのスペシャリストといわれたアルド・チッコリーニは甘美なカンタービレが特徴だが、チッコリーニはイタリアからフランスに帰化したピアニストで、カンタービレはイタリアの血が生んだものだ。純粋なフランス人ピアニストによるサティ演奏は案外素っ気ない。

と、長々書いたが、バヴゼのピアノもフランスの正統派で、これまでに書いた要素を全て含むが、日本人好みのラヴェル演奏家かというと人によるとしか書きようがない。

日本でも人気の「亡き王女のためのパヴァーヌ」も日本人ピアニストによるものよりも突き放した解釈で構造重視という印象を受ける。

「水の戯れ」は圧倒的なピアニズムが発揮され、水が鍵盤から溢れる様が見えるような演奏。5月に聴いたアルゲリッチの演奏を連想させる。

「鏡」はテクニック勝負。基本的にダンパーペダルは踏んだままで、音を濁らせたくない時だけ踏み換える。
オーケストラ曲としても親しまれている第4曲の“道化師の朝の歌”は白熱した演奏で、曲が終わった後に拍手が起こりそうになったが、バヴゼは右手の人差し指を立てて、「まだ1曲あるよ」と示し、笑いを誘っていた。第2部第3部ともに当初の曲目順から変更があるが、第2部は確かに「夜のガスパール」で終わった方がいいだろう。
「夜のガスパール」はオカルトな内容で、エドガー・アラン・ポーやモーパッサンなどが好きな人にお薦めの曲である。また筒井康隆がこの曲にインスパイアされた『朝のガスパール』を書いている。
超絶技巧が必要とされる曲だが、バヴゼは余裕を持って弾きこなしているように見える。

「ボロディン風に」はパストラル的、「シャブリエ風に」はワルツであるが、個人的には「亡き王女のためのパヴァーヌ」にも似たパストラルの方がシャブリエ的であるような気がする。

前奏曲は、初見で弾くための審査用に作曲された作品。技巧的には平易で、私も何度か弾いたことがあるが(初見では無理だった)、私が弾くときに「繊細に滑らかに詩的に」と心がけたものとは明らかに異なる、一音一音を大きな音で弾く「小さいが巨大な曲」として再現したのが面白かった。プロと比べるのも無粋だが、同じ音符を見て弾いているのにここまで違うとは。

ラストは「クープランの墓」。これもオーケストラ版で有名である。バヴゼのピアノからは、オーケストラ版からは聞こえない一種の切なさのようなものを感じた。フランス映画のラストによくあるあの切なさに似たもの。
音の透明度は高く、巨大な「クープランの墓」であった。

 

アンコール演奏は、「ラ・ヴァルス」ピアノ独奏版。低音から始まり、典雅なワルツが聞こえ始める。そして舞踏会は盛り上がるのだが……。
ラヴェルの曲は、「最後にとんでもないことが起こる」ものが多いが、「ラ・ヴァルス」もその1曲である。貴族階級の終わりを描いたのかも知れないが、こういうラストにした意図は不明である。

 

全てのプログラムが終わり、複数名がスタンディグオベーションを行うなど客席は沸き、バヴゼも満足そうな笑みを浮かべていた。

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2025年10月 6日 (月)

「警部補・古畑任三郎」 さよなら、DJ

2025年6月8日

ひかりTVで「古畑任三郎」の「さよなら、DJ」を見てみる。1994年当時はデジタルで映像が撮られている時代だが、初期なので劣化したのか、それともアナログで撮ったのか、今から見ると少し古く感じられる映像である。

桃井かおりが演じるのは、「おたかさん」の愛称で知られるラジオDJ、中浦たか子である。運転免許を持っていないため、専属運転手として沢村エリ子(八木小織)を雇ったのだが、たか子のボーイフレンドを寝取ったため、たか子は沢村殺害を計画する。

たか子がラジオ局内を猛ダッシュで駆け抜け、駐車場で待機していた沢村を殺害してラジオブースに戻ってくるまでに掛かっているのが越路吹雪の「サン・トワ・マミー」である。越路吹雪というと、「大ベテラン」というイメージで老年まで歌っていそうなのであるが、実際には56歳で亡くなっており、美空ひばりや江利チエミなとど共にイメージとは異なり早逝した人物の一人である。

私が、「サン・トワ・マミー」を知ったのは、勿論、越路吹雪版によってであるが、現在、よく聴いたり歌ったりするのはRCサクセションのロックバージョンである。因縁のアルバム「COVERS」に収録されているもので、越路吹雪版の主人公が女なのに対し、RC版は主人公が男になっている。ちなみに原曲のアダモ版では主人公は男である。

トリック自体は単純で、たか子のミスにも多くの人が気づくはずであり、ミステリーとしての完成度は余り高くない。ただ、桃井かおりの存在感に激走、殺人直後なので、エルヴィス・プレスリーのLPを手が震えて掛けられないので相方に任せるというリアルさなど印象深い回である。田村正和がわざと下手くそに歌う「ラストダンスは私に」が聴けるのも面白い。桃井かおりは学生時代に陸上部所属だったそうで、ノリノリで走ったそうである。
ちなみに「痛い?」は台本にはなく、完全に桃井かおりのアドリブである。

なお、有名な「赤い洗面器の男」は、この回が初出であり、冒頭でたか子が話をするのだが、落ちは当然ながら明かされない。

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2025年7月27日 (日)

コンサートの記(909) 沖澤のどか指揮京都市交響楽団第701回定期演奏会

2015年6月19日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第701回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、常任指揮者の沖澤のどか。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。今日のヴィオラの客演首席は大阪フィルハーモニー交響楽団の一樂もゆる。京都市交響楽団チェロ奏者の一樂恒(いちらく・ひさし)の奥さんで、今日は夫婦共演になる。

 

曲目は、G.レンツのヴァイオリン協奏曲「...to beam in distant heavens...」(日本初演。ヴァイオリン独奏:アラベラ・美歩・シュタインバッハー)、タイユフェールの小組曲、ラヴェルの組曲「マ・メール・ロワ」、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」

前半に現代音楽、後半にフランスものが並ぶ。沖澤のどかは現代音楽を積極的に演奏しており、またフランスものは得意としている。

 

G.レンツのヴァイオリン協奏曲「...to beam in distant heavens,,,」。溶暗してスタート。まずハンマーによる一撃で開始。照明が光度を増して行く。バッハの「シャコンヌ」を模したような旋律がソロで奏でられるが、奏者は舞台上におらず、袖で弾いているようである。3階席の後方にはバンダが設置されており、それとのやり取りもある。
ソロヴァイオリンの音色がスピーカーから聞こえるようになると、アラベラ・美歩・シュタインバッハーがステージ上に現れ、タブロイド譜を見ながら演奏を始まる。
神秘的な作風であり、サンダーマシーン、カウベルなど特殊な打楽器が打ち鳴らされるが(それでいながらティンパニは編成に加えられていない)。ヴァイオリンの超絶技巧と、オーケストラの迫力が聴きどころとなる。沖澤は時折指揮棒を持った右手一本による指揮を見せ、なかなか格好良い。
ジョルジュ・レンツは、1965年、ルクセンブルク生まれの作曲家。1990年にオーストラリアのシドニーに移住し、当地で活躍している。このヴァイオリン協奏曲は、2023年4月28日、アラベラ・美歩・シュタインバッハーの独奏によりシドニーで初演されている。
現代楽曲風であるが、難解になりすぎず、スケールの大きな作品である。アラベラ・美歩・シュタインバッハーの独奏も初演者だけに自信に溢れたものであった。
演奏の終了は再びの溶暗によって告げられる。

アラベラ・美歩・シュタインバッハーのアンコール演奏は、クライスラーのレチタティーヴォとスケルツォカプリース。
憂いと愉悦に満ちた楽曲を的確に演奏してみせる。

 

後半。タイユフェールの小組曲。フランス六人組の紅一点として、女性作曲家の中では知名度は高めのタイユフェール。ただ、作品が演奏される機会は多くない。
パリの街を自転車で駆け抜けていくような、あるいはメリーゴーランドに乗って中空を走る気分のようなご機嫌な曲である。エスプリ・クルトワ全開。
沖澤の指揮する京響は前半とは打って変わって、乳白色の軽みを帯びたような洒落た音に変わる。どうやってこのような響きを生み出しているのかは不明だが、ヴァイオリンなどはハーモニーの作り方を変えているようである。

 

ラヴェルの組曲「マ・メール・ロワ」も繊細にして浮遊感のある音で高雅な絵巻を作り上げていく。泉原隆志のヴァイオリンソロも美しい。
なお、終曲である第5曲の前にトラブルがあったようで、沖澤と泉原が何か話している。泉原が「行きましょう」という態度を示して終曲の演奏に突入したが、どうやら記録用ビデオのエラー音が鳴っていたようである。私の席からは聞こえなかった。

 

デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」。デュカスは自分に厳しい人で寡作。破棄してしまった作品も多いとされる。ある日、友人がデュカスを訪ねた時、「破棄しようと思っている曲がある」と見せたところ、友人から、「こんな素晴らしい曲を捨てたりしたら駄目だよ」と言われ、初演することにする。それは「ラ・ペリ」という代表作となる作品であった。
「魔法使いのお弟子」は、ディズニーアニメ映画「ファンタジア」でミッキーマウスが魔法使いの弟子を演じていることで有名だが(そのためにアニメ映像の著作権はまだ切れていない)、そうでなくても描写力はかなり高く交響詩として優れた作品である。
沖澤は京響からイメージ喚起力豊かな音を引き出し、爽快な演奏となった。

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