カテゴリー「フランス」の68件の記事

2022年1月23日 (日)

美術回廊(71) 大丸ミュージアム〈京都〉 「堀内誠一 絵の世界」

2022年1月5日 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉で、「堀内誠一 絵の世界」を観る。
1932年、東京に生まれた堀内誠一は、第二次世界大戦の影響を受けて、家計を助けるため中学校卒業後に伊勢丹に就職。日本大学第一商業学校(日本大学第一高校の前身)の夜間部に入学しているが中退している。父親が今でいうデザイナーの日本での走りということもあり、誠一も幼い頃から絵が得意で、伊勢丹でもデザイン部門の仕事を行っているが、その後に独立。絵本や童話の挿絵などを手掛けるようになる。「an・an」や「Popeye」の創刊号の表紙の想定を手掛けるなど、グラフィックデザイナーとしても活躍している。

若い頃に描いた絵画なども観ることが出来るが、ピカソ、モディリアーニ、ゴッホ、ゴーギャン、ラウル・デュフィなど、フランスで活躍した画家からの影響が一目で分かるほど顕著な作品もあり、フランスへの憧れが垣間見える。1974年に堀内誠一は、日本でのグラフィックデザインの仕事を全て断って渡仏。パリ郊外のアントニーに居を構え、絵本の制作などに打ち込んだ。パリには1981年まで滞在。1987年に下咽頭癌のため54歳の若さで死去している。

パリに移る前後に、詩人の谷川俊太郎とのコラボレーションを行っており、谷川俊太郎が翻訳した『マザーグース』に挿絵を付けたり(現在の講談社文庫の挿絵は堀内誠一のものではない)、共通の趣味であるクラシック音楽のために堀内がエッセイと作曲家の肖像を描き、谷川が作曲家に纏わる詩を書くなど、芸術性の高い仕事を行っている。ストラヴィンスキーの肖像画は、明らかにラウル・デュフィの作品へのオマージュであることが分かる。

絵本のために描いた絵は作品ごとにタッチが異なっており、アメリカ風だったり、淡彩画風だったり、バランスを敢えて崩してチャーミングさを増してみたりと、様々な工夫を行っている。

地理も愛していたようで、移住したパリを始め、世界各地の都市の地図を描いている。原色系の愛らしい地図である。

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2021年10月18日 (月)

コンサートの記(749) 沖澤のどか指揮 京都市交響楽団第661回定期演奏会

2021年10月15日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第661回定期演奏会を聴く。今日の指揮は期待の若手、沖澤のどか。

沖澤のどかは、1987年、青森県生まれ。以前に聞いた話では、青森で音楽を学ぶことにはやはりハンディがあるそうで、プロのオーケストラの演奏を聴く機会は年に1度あるかないか。お金さえあれば毎日のようにオーケストラの演奏会に通える東京とは雲泥の差だそうである。
東京藝術大学と同大学大学院で指揮を学んだ後、渡独。ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学大学院で学び、二つ目の修士号を獲得した。現在もベルリン在住。
2018年に東京国際音楽コンクール指揮部門で優勝して注目を浴び、翌2019年にはブザンソン国際指揮者コンクールでも優勝している。現在は、ベルリン・フィルハーモニー・カラヤン・アカデミー奨学生として、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者・芸術監督であるキリル・ペトレンコのアシスタントを務めながら世界各地のオーケストラに客演するという生活を送っている。今年はまず、大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会にデビューする予定だったのだが、ベルリン在住ということで、日本で活動するには2週間の自主隔離が必要となり、スケジュール的に無理ということで流れ、続くオーケストラ・アンサンブル金沢への客演も同じ理由で実現しなかった。京都市交響楽団への客演も当然ながら2週間の隔離が必要となるのだが、こちらは間に合った。


オール・フランス・プログラムで、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:務川慧悟)、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」組曲第1番&第2番。
ラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」は、全曲や第2組曲がコンサートで演奏されることが多いが、第1組曲も演奏されるのは珍しい。

今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーに泉原隆志。今日は、客演首席チェロにNHK交響楽団首席チェロ奏者の「大統領」こと藤森亮一が入る。「大統領」「藤森大統領」というのは、ペルーのアルベルト・フジモリ(元)大統領に由来するあだ名で、1990年代に書かれた茂木大輔のエッセイに頻繁に登場するのだが、アルベルト・フジモリ大統領失脚から長い時間が経過した今も使われているあだ名なのかどうかは不明である。
フルート首席の上野博昭は「牧神の午後への前奏曲」と「ダフニスとクロエ」に登場。オーボエ首席の髙山郁子は「ダフニスとクロエ」のみの出演。クラリネット首席の小谷口直子は全編に登場した。


午後6時30分頃から沖澤のどかによるプレトークがある。「プレトークというものを行うのは生まれて初めてなので緊張している」と、まず述べた沖澤だが、話が面白く、頭の良さが感じられる。

京都に来るのは高校の修学旅行以来だそうだが、リハーサルをしていたので観光にはほとんど行けなかったこと、数年前に黛敏郎のオペラ「金閣寺」のアシスタントをしたことがあるのだが、その時は京都には行けないので、GoogleマップやGoogleストリートビューで金閣寺の周りをWeb上で回ってイメージ作りをしたという話をして笑いを取っていた。京都市交響楽団については、「まろやかな音」「音のパレットが豊富」という印象を受けたそうである。

ベルリン・フィルのアシスタントをしているということで、リハーサルや本番に立ち会うことが多いのだが、ベルリン・フィルはたまに人間の声のような音を出すそうである。そして、京響との今回のリハーサルでも、「ダフニスとクロエ」バレエ全曲版などでは合唱の入る「夜明け」のクライマックスのような部分でも同じことを感じたと語る。「合唱が入る部分なので気のせいかと思った」がやはりそのような音がしていたとのこと。
「牧神の午後への前奏曲」と「ダフニスとクロエ」には牧神パンが登場するのだが、「ダフニスとクロエ」のパンの登場にはうねりのようなものを感じるという。今回の演奏会のためにスコアを読んでいたところ、パンの登場の場面で本当に地響きのようなものを感じ、「自分の想像力もいよいよこの領域まで来たか」と思ったものの、実際に地震が起こっていた(先日、関東地方を襲った地震)ということでまた笑いを取っていた。
また、芸術=Artは、自然=Natureの対義語であるとし、今は自然を感じる機会が減っているという話もしていたが、「アートネイチャーはきっととても知的な方が付けた社名」というようなことを語り、ここでも笑いを誘っていた。

サン=サーンスについては、ドイツ人がフランス人について憧れを抱く「計算された自由さやさりげなさ」(実際は違う言葉を使っていたがこちらの方が分かりやすいので変えてみた)を体現している代表格と見なされているという話をしていた。

沖澤が下手袖に退場すると、京響の楽団員が出迎える拍手の音が聞こえる。かなり気に入られたようである。


ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。非常に優しい感じの演奏であり、一音一音を愛でるかのような丁寧さが目立つ。フランス系の指揮者が奏でるような「爽やか」だったり「カッコイイ」系だったりする「牧神の午後への前奏曲」ではなく、もっと温かで柔らかな演奏である。


サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番。
独奏者の務川慧悟(むかわ・けいご)は、東京藝術大学音楽学部ピアノ科1年在学中に第81回日本音楽コンクール第1位を受賞して注目され、2014年にパリ国立高等音楽院に審査員満場一致で合格して入学。ピアノ科第2課程と室内楽科を修了し、現在はピアノ科第3課程とフォルテピアノ科にも在籍しているという。2019年、ロン・ティボー・クレスパン国際コンクール2位入賞。2021年、エリザベート王妃国際コンクール3位とコンクール歴を重ねている。
硬質な音で入り、堅固な造形を見せるが、第2楽章などはサン=サーンスの気の利いた旋律をお洒落に奏で、パリ在住者ならでは――というと言い過ぎかも知れないが――のエスプリ・クルトワを振りまく。第3楽章もチャーミングさを失わない演奏だ。
沖澤指揮の京響も細部まで神経が行き届きつつ、神経質にはならない独特のおおらかさを持った伴奏を繰り広げる。

務川のアンコール演奏は、ラヴェルの「クープランの墓」より第5曲“メヌエット”。これもやはり洒落た感覚が生きた演奏であった。


ラヴェルの「ダフニスとクロエ」組曲第1番&第2番。沖澤と京響の作り出す音楽はスケール豊かで、音の煌めきが見事である。
沖澤の指揮は、昨今の指揮者に多い派手さやバトンテクニックの鮮やかさで勝負するものではなく、「堅実」といった印象を受ける。指揮姿で見せるタイプではないようだ。音楽もまた誠実なものなのだが、つまらない演奏には陥らない。なお、第1番演奏終了と同時に照明が絞られ、薄明の中で第2番の「夜明け」が始まるという視覚的な演出が施されていた。
沖澤が、「声のように聞こえた」と語った、「夜明け」の場面のクライマックス。私には声にようには残念ながら聞こえなかったが(そこまで耳が良くないということなのだろう)、「光彩陸離」や「極彩色」といった常套句を超えた色彩が横溢するのを感じた。「爆発的」と言ってもいいほどの輝きである。
その他の部分の描き方も鮮やかで、沖澤の圧倒的な才能を感じる演奏会となった。

なお、沖澤のどかは、今後産休に入るということで、実演に接する機会はしばらくおあずけとなりそうである。

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2021年10月14日 (木)

コンサートの記(748) びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニ 歌劇「つばめ」2021.10.10

2021年10月10日 大津市の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニの歌劇「つばめ」を観る。園田隆一郎指揮大阪交響楽団の演奏。演出は伊香修吾。なお、園田と伊香は、今月下旬にフェニーチェ堺大ホールで日本語訳詞によるプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を上演する予定である(演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団)。
ダブルキャストで今日の出演は、中村恵理(マグダ)、熊谷綾乃(リゼット)、谷口耕平(ルッジェーロ)、宮城朝陽(プルニエ)、平欣史(ランバルド)、市川敏雅(ペリショー)、有本康人(ゴバン)、美代開太(クレビヨン)、山岸裕梨(イヴェット)、阿部奈緒(ビアンカ)、上木愛李(スージィ)ほか。原語(イタリア語)歌唱、日本語字幕付きでの上演。字幕担当は藪川直子。伊香修吾が字幕監修も行っている。

なお、東京ヤクルトスワローズにマジックナンバーが点灯しているが、「つばめ」ということで、舞台袖ではつば九郎の人形が見守っていることがSNSで紹介されていた。

上演開始前に、伊香修吾によるお話がある。注目の若手オペラ演出家である伊香修吾。東京大学経済学部を経て、同大学院経済学研究修士課程を修了するが、そのまま経済学やビジネス方面には進まず、英国ミドルセックス大学大学院舞台演出科修士課程を修了し、ザルツブルク音楽祭、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フォルクスオーパーなどで研鑽を積んだという比較的変わった経歴の持ち主である。びわ湖ホール オペラへの招待では、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の演出を手掛けている。

伊香は、まず「つばめ」が初演された時代の背景について、ココ・シャネルをモデルに語る。ココ・シャネル(「ココ」は愛称で、本名はガブリエル・シャネル)が、パリにサロンを開いたのが、今から丁度100年前の1921年のこと。シャネルのサロンには、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが出入りしていたという。
行商人の娘として生まれたシャネルは、12歳の時に母親を亡くし、父親はフランス中を旅していてそばにいられないということで教会が運営する孤児院に入れられ、そこで育つことになる。その後、22歳の時にキャバレーで歌手としてデビュー。この時代にはまだ歌手や女優というのは売春婦と同義語であり、シャネルも元将校の愛人となって、歌手として大成は出来なかったものの、後にデザイナーとして頭角を現していくことになる。シャネルだけが特別なのではなく、この時代は資産家の愛人となる以外に資金を得たり自立したりといった術はほとんどなく、今とは女性の存在価値自体が大きく異なっていた。これが「つばめ」が初演された時代のパリである。

「ラ・ボエーム」と背景が似ているといわれる「つばめ」であるが、シャネルの例からもわかる通り、この時代のフランスは女性の地位が著しく低く、貴族階級の生き残りや新興のブルジョワジーなどの良家や資産家に生まれなかった女性は、低賃金労働に従事せざるを得ず、それでも搾取の対象で、どれだけ働いても生活するのに十分な金銭を稼ぐことは到底無理であり、愛人として囲われたり、売春をして日銭を稼ぐしかなかった。その中で特に寵愛を得た者は高級娼婦(クルティザンヌ)となっていく。「椿姫」のヴィオレッタ(原作ではマルグリット)が特に有名だが、「つばめ」のヒロインであるマグダも銀行家のランバルドをパトロンとする高級娼婦である。

「つばめ」は、プッチーニの歌劇の中でも人気がある方ではなく、上演される機会も少ない。ということで伊香は、プッチーニが上演の機会に恵まれない「つばめ」のことを気に掛けながら亡くなったということを紹介してから、「これが『オペラへの招待』のみではなく『つばめ』への招待となるように」「皆様が『つばめ』のようにびわ湖ホールに舞い戻って来られますように」という話もしていた。タイトルとなっている「つばめ」は、マグダの性質を燕に重ねたものである。渡り鳥である燕は、遠く海を越えた場所へと飛び去っていくが、1年後に元の巣へと戻ってくることで知られている。

3幕からなる歌劇。第1幕はマグダのサロン、第2幕はブリエの店(ダンスホール)、第3幕は南仏コート・ダジュールが舞台となっている。今回の上演では舞台となる時代は、第二帝政期から1920年代に置き換えられている。

サロンの運営者であるマグダは、豪奢な生活を送っている。不満も述べるマグダだが、他の夫人からは、「貧乏していないから分からないのよ」とたしなめられる。マグダは少女時代に、ブリエの店(今もその名残はあるが、この頃のダンスホールはちゃんとした身分の人はほとんどいない場所である)で若い男性に一目惚れする。まだ男を知らなかったマグダは恐怖心を抱いて逃げてしまったため、この初恋は2時間しか持たなかったが、マグダはまたあの時のようなときめきを味わいたいと語る。
サロンに出入りする詩人のプルニエは、戯曲なども書いているようで、2時間のみの恋を題材にした作品を書こうと語ったりするのだが、手相も見られるようで、マグダの手相を見て、「運命に導かれ、つばめのように海を越え、愛を目指すだろう」(伊香修吾の訳)と診断する。そこにランバルドの旧友の息子であるルッジェーロがやって来る。パリは初めてのルッジェーロが「パリを観光するならまずどこに」と聞くと、プルニエは、「ブリオの店だ」と即答し……。

高級娼婦というのは、愛人の援助を受けて、場合によっては社会的な成功を収めることも可能だが、基本的に好きな男性と結婚することは出来ない。マグダも身分を隠したままルッジェーロと恋に落ちるが、身分故に最初から結婚に行き着くことは不可能であり、また元の場所へと戻っていく。その姿が「つばめ」に重ねられている。

「高級娼婦は好きな人と結婚出来ない」。このことは初演が行われた時代には常識であり、「当たり前のことが上演されている退屈なオペラ」と見られるのも必然であったように思う。悲恋でもなんでもなかった。ただ、身分違いの恋は、初演から100年を経た今現在では十分に悲恋の要素をはらんでいるように見受けられる。実際、「つばめ」の日本での上演は21世紀に入ってから大幅に増えているようだ。


伊香修吾は、常に紗幕が降りているという演出を採用。紗幕に様々な映像が投影され、モノクロの映画を観ているような気分を味わえる。実はこのことは説明的な要素だけでなく伏線ともなっていて、第2幕には、自転車に二人乗りしたルッジェーロとマグダがパリの名所(凱旋門、ノートルダム大聖堂、エッフェル塔など)を回るという、本来にはない場面が用意されているのだが、これが名画「ローマの休日」の名場面に重なって見える。おそらくかなり意識していると思われるのだが、「つばめ」にはもう一組、これまたオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」(原作はバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』)を連想させるカップルが登場する。詩人のプルニエと、マグダの女中であるリゼットで、プルニエはリゼットに詩人の恋人に相応しい行いをするように命じている。結果としてこのピグマリオンは失敗に終わるのだが、そこからの連想で「ローマの休日」へと繋げるアイデアが生まれたのかも知れない。これが当たっているのかどうかは分からないが、「ローマの休日」ならぬ「パリの休日」の場面は本当に微笑ましく(俗にいう「キュンキュンする」場面である)、第1幕で歌われる「ドレッタの美しい夢」そのものである。ちなみにドレッタというのはプルニエが書いた詩劇のヒロインのことである。

「つばめ」自体は知名度の高いオペラとはいえないが、「ドレッタの美しい夢(ドレッタの素晴らしい夢)」は、40代以上の方は聞き覚えはあると思われる。1990年頃だったと思うが、当時新進ソプラノであった中丸三千繪がこの曲を得意としており、テレビCMにも採用されていた。

評価の高いソプラノ、中村恵理の歌は本当に圧倒的。スケールといい、声の艶と輝きといい文句なしの歌唱である。

「つばめ」の登場するもう一組のカップルであるプルニエとリゼットは実はもっと注目されても良いように思われる。ピグマリオンに失敗して別れるかと思った二人なのだが、プルニエはそのままのリゼットを受け入れるのである。それまでには余り見られなかったタイプのキャラクターだ。プルニエという人物は、進歩的であると同時に一連の出来事の仕掛け人的立場であり、かなり魅力的である。

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2021年10月12日 (火)

上映会「アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険」@ロームシアター京都サウスホール

2021年10月1日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、上映会「アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険」を観る。

1939年、パリに生まれた演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキンは、2019年に第35回京都賞(思想・芸術部門)を受賞しており、それを記念した太陽劇団の新作「金夢島」の京都公演が11月に行われる予定だったのだが、コロナ禍により中止。代わりに太陽劇団とアリアーヌ・ムヌーシュキンに取材したドキュメンタリー映画(2009年制作。カトリーヌ・ヴィルプー監督作品)が上映されることになった。事前申込制入場無料である。
冒頭にアリアーヌ・ムヌーシュキンからのメッセージ映像、本編終了後に今年の9月中旬に撮影された最新の映像が追加されている。

アリアーヌ・ムヌーシュキン。苗字から分かる通りロシア系である。更に、アリアーヌ自身も十代後半になってから知ったそうだが、父親で映画監督のアレクサンドル・ムヌーシュキンはユダヤ系であるという。

アリアーヌは、オックスフォード大学に短期留学した際に演劇に魅せられ、1964年に太陽劇団を旗揚げ。歴史や自身の体験に基づく独自の作劇法で注目を浴び、パリ郊外(12区)の「カルトゥーシュリ」(弾薬庫跡)を拠点に上演を重ねている。2001年に初来日公演を新国立劇場で行い、文楽のエッセンスを盛り込んで話題になったそうだが、この映画を観る限り、最も影響されたのは京劇のようである。若い頃にアジアに興味を持ち、中国に旅行したいと思ったもののビザが下りず、インド、カンボジア、日本、台湾などを回り、日本で東洋演劇を学んでいる。

若い頃のアリアーヌ自身の映像を見たアリアーヌは、昔の自分に向かって「傲慢」、劇場を作るというプランには「気狂い沙汰」と辛辣な言葉を発している。多くの人がある程度年を取ってから若い頃の映像を見直した場合、やはり同様の言葉を発するもことになるのだろうが、残念ながら私も含めて若い頃の映像が残っている人はほとんどいないと思われる。アリアーヌが若手演劇人として注目を浴びていたから映像が残っているのだ。

アリアーヌは演劇について、「権力に取り込まれないために重要なもの」という見方をしているようだが、演劇の本質については、自分なき後の太陽劇団を想像して「弱さを支える力」が必要になると語っており、ある意味、太古からの演劇の芯にあるものを自覚しているようである。シンプルな言葉こそ観る者に届くという哲学を持っているようでもあるが、演劇を行う上で最も重要なのは「愛」であるとシンプルな思想を貫いてもいる。

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2021年9月13日 (月)

配信公演 古瀬まきを主演 プーランク オペラ「人間の声(声)」YouTube配信アーカイブ視聴

2021年9月2日

YouTubeで、古瀬まきを主演によるプーランクのオペラ「人間の声(声)」を視聴。8月9日に上演と同時配信とが行われた公演で、終演後1ヶ月はアーカイブとして映像を観ることが出来る。
プーランクのオペラ「人間の声」は、ジャン・コクトーのテキストを用いたモノオペラ(一人で演じるオペラ)である。

コクトーの一人芝居「声」は、青山のスパイラルホールで、鈴木京香の主演、三谷幸喜の演出で観たことがあるのだが、鈴木京香、三谷幸喜共に陽性で健康的な表現を得意とする人であるためか、痛切さはほとんど感じられなかった。鈴木京香が高校時代に陸上部だったということで、そうした要素も入れて笑いに変えていたが、この作品には笑いの要素は夾雑物でしかないように思われる。

オーケストラ伴奏によるプーランクの「声」は、「近江の春びわ湖クラシック音楽祭」2019において、石橋栄実の主演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏、中村敬一の演出によるものを、びわ湖ホール大ホールでハーフステージ形式で聴いており(石橋栄実は体調不良で降板した砂川涼子の代役)、追い込まれた女の孤独が浮かび上がる優れた出来であったのを覚えている。

今回の上演は、コロナ感染拡大に配慮し、入場者20名と数を抑えて行われる公演で、關口康佑によるピアノ伴奏版と、歌い手だけでなく演奏者も一人きりの版での上演である。
字幕は、昨年11月に他界した藤野明子による日本語訳詞が用いられている。

なお、古瀬まきをは、2019年に行ったプーランクのオペラ「人間の声」を中心としたソプラノリサイタルで、第40回音楽クリティック・クラブ賞奨励賞を受賞している。


ジャン・コクトーのテキストによる一人芝居「人間の声(声)」が初演された1930年時点では、一人芝居はそれほどポピュラーなジャンルではなかった。一人語り形式のものは勿論あったが、朗読されることの方が多く、「声」のように語りではなくセリフのみで行われる一人芝居はほとんど例がなかった。「声」は、ある女性(名前不明)がある男(こちらも名前不明)と電話で話している状態を描いた作品である。当時はまだ電話は高級品で、一般にはそれほど普及しておらず、今と違って交換手を通じて望む相手に繋いで貰う必要があり、また混線があるなど、必ずしも便利な道具という訳ではなかった。この作品でも、混線や偶然起こった傍受などは女を焦らせ、苛立たせる。また今のようにワイヤレスではなく、電話機に伸びる電話線も、受話器と電話本体を繋ぐコードも長く、これがラストへと繋がっていく。

電話という当時はまだ新しい装置が、声は近くにあるが体は遠いという、当時としては奇妙なパースペクティブとアンバランスを招いている。また、犬の存在が、間接的かつ絶対的な男女の分け隔てを象徴する。

コクトーの原作では、女が外国語を話すシーンがある(オペラ版ではカットされている)。コクトーは「出演している女優が最も得意とする外国語を話すこと」としているのみで、何語を話すのが適切なのか指示はしていない。いずれにせよ、この女性がフランス語圏以外の外国籍で、出身身分もそれほど高くなく、経済的手段も能力もなんら持ち合わせていないことが分かってくる。当時のフランスは今よりもかなり差別が酷く、外国籍である程度年齢がいった女性が職に就ける可能性はまずない。あったとしても洗濯婦など最底辺の肉体労働で身も心もすり減らしていくだけだ。
そんな女が、5年間囲われていた男に捨てられた。女は睡眠薬自殺を図るのだが、命は取り留める。男からの電話に、女は「睡眠薬は飲んだが1錠だけだ」と嘘をつく……。

電話の向こうの男の声は聞こえないので、観る側が想像する必要がある。そのため、自由度が高いと同時に、内容を把握するのは困難で、100%想像するのはほぼ不可能である。観る者、聴く者に許されるのは、おおよその状況把握のみである。
ただ、オペラ「人間の声(声)」はプーランクが作曲した音楽によって、その場の空気や心理状態はある程度規定される。そういう意味では原作の一人芝居版よりもモノオペラ版の方が入りやすいかも知れない。

女にはマルトという女友達がいて(マルトというのはジャン・コクトーの実姉と同じファーストネームだが、どの程度関係があるのか、あるいは無関係なのかは不明。たまに「モルト=死」(この単語は劇中に登場する)に聞こえてゾッとするが、フランス人は多分間違えないだろう)、男と女が暮らしていた家の執事の名はジョゼフという。女が自殺未遂を図った際には、マルトが駆けつけ、マルトが医師を呼んだために女は助かっている。だが今はマルトは家に帰り、女は一人である。電話の向こうで男は、「マルトの下に身を寄せてはどうか」と提案しているようだが、女はそんな身勝手な真似は出来ないと断る。

男と女の甘い思い出が語られる際には、プーランクの音楽もロマンティックなものへと傾く。「パリのモーツァルト」の異名を取ったプーランク。甘い旋律を書かせると天下一品である。

男が新しい女と旅行に出ようとしているのは確実で、男が家から電話しているというのも交換手によって嘘であることが分かる。そして男は、かつて女と暮らしていた時に女にしてくれたのと同じ事を新しい女としようとしている。思い出が上書きされる。忘れ去られる。

女にとっては、おそらくは生活が出来なくなるということよりも、男が他の女のものになるということの方が耐えられない事実なのだと思われる。電話コードを体に巻き付け、男の声を体で感じながらの死は(ただし、今回の演出では死は明示されない)、単なる自殺というよりも男の声に抱かれた「空想の上での情死」を女が選んだことを仄かに伝えている。

明るすぎても暗すぎても良くないという、高度な演技が要求されるオペラであるが、古瀬まきをは過不足のない演技で、地球の外に放り出されたかのような女の孤独を炙り出していた。

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2021年8月22日 (日)

コンサートの記(740) 上方西洋古楽演奏会シリーズ2021夏「~フランス宮廷バレエと劇音楽~ コメディ・バレへの憧れⅡ」

2021年8月14日 大阪・中之島の大阪市中央公会堂中集会室にて

午後5時から、中之島にある大阪市中央公会堂中集会室で上方西洋古楽演奏会シリーズ2021夏「~フランス宮廷バレエと劇音楽~ コメディ・バレへの憧れⅡ」というコンサートを聴く

京都市左京区下鴨の楽器店兼音楽教室・月光堂の講師でもあるフルート・リコーダー奏者の森本英希(日本テレマン教会所属)が音楽監督を務める演奏会で、タイトル通りブルボン王朝最盛期のフランスの音楽家達が作曲したバレエと劇音楽が演奏される。


曲目は、シャンパンティエのコメディ・バレ「病は気から」より、リュリのコメディ・バレ「町人貴族(「超人気俗」と誤変換された)」より、ラモーの歌劇「ピグマリオン」より序曲、ラモーの歌劇「イポリトとアリシ」より、歌劇「優雅なインドの国々」より、歌劇「ピグマリオン」より。

前半がバレ(バレエ)、後半が歌劇の曲で構成されているが、前半にもアリアは歌われ、後半でもバレエは踊られる。今でこそバレエとオペラは別分野となっているが、元々は区別なく上演されており、歌あり踊りありが普通の姿であった。


演奏は、「コメディ・バレへの憧れ」特別アンサンブル。ピリオド楽器使用である。音楽監督の森本英希が曲によって、指揮、リコーダー弾き振り、フルート弾き振りを行い、「町人貴族」の“トルコ儀式の行進曲”では太鼓も叩く。
参加者は、戸田めぐみ・赤坂放笛(オーボエ)、中山裕一・大谷史子(ヴァイオリン)、中川敦史(ヴィオラ)、上田康雄(チェロ。エンドピンなし)、池内修二(ヴィオローネ=コントラバスの先祖のようなもの)、二口晴一(ファゴット)、吉竹百合子(チェンバロ)、樋口裕子・有門奈緒子(バロック・ダンス)、進元一美(ソプラノ)、眞木喜親(テノール)。

オーボエとリコーダーを吹く赤坂放笛は、このコンサートを主催する「そう楽舎」の主宰でもあるが、1988年から14年間、狂言を修行したこともあるそうで、前半は曲の演奏の前に、「この辺りの者でござる」と狂言の口調で自己紹介をして、「疫病退散」のために演奏を行うことを宣言したり、「町人貴族」のあらすじを紹介したりする(ここでは森本英希も参加)。

歌手やダンサーは当時の衣装に近いものを身に纏い、重要文化財に指定されている大阪市中央公会堂中集会室の内装も相まって、古雅にして絢爛豪華な世界が繰り広げられる。

マルカントワーヌ・シャンパンティエもジャン=バティスト・リュリも、フランスのバロック以前の作曲家としてはかなり有名な部類に入るが、リュリは、「床を杖で突いて指揮している最中に誤って自分の足を突き刺してしまい、それが元で亡くなった作曲家」としてのみ有名で作曲作品が知られている訳ではない。ただ、共に典雅で良い音楽を書いている。

ジャン=フィリップ・ラモーは、シャンパンティエやリュリより時代が下ったバロック期の作曲家であり、フランスのみならず、この時代の最重要作曲家の一人に数えても良いと思われる。音楽愛好家以外にも名前は知れ渡っていたようで、ラモーの死の約20年後に思想家のディドロが『ラモーの甥』という小説を書いて当時のベストセラーとなったりしている。ラモー自身も風変わりな経歴を持った人物で、若い頃は教会のオルガニストや音楽理論を専門とする学者として活躍しており、40歳を越えてから本格的に作曲家に転身。フランス楽壇の頂点まで上り詰めることになる。

ラモーはそれまでの作曲家とは違い、明らかに自身の個性を作品に刻印している。そのため部分部分ではあるが、モーツァルトの先達のように聞こえたり、凝った技巧が展開されるなど、我々が「クラシック音楽」としてイメージする像に近くなっている。フランスのバロック音楽入門には、やはりラモーの楽曲が最適であろう。


アンコール演奏として、リュリのコメディ・バレ「町人貴族」より“イタリア人の二重唱”が再度演奏され、続いてプログラムノートには載っているが本編では演奏されなかった、同じく「町人貴族」より“道化のシャコンヌ”が、樋口裕子と有門奈緒子のバロック・ダンス付で演奏された。

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2021年8月 8日 (日)

コンサートの記(735) 沼尻竜典オペラセレクション ビゼー作曲 歌劇「カルメン」@びわ湖ホール 2021.81

2021年8月1日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、ビゼーの歌劇「カルメン」を観る。沼尻竜典オペラセレクションとして、沼尻が芸術監督を務めるびわ湖ホールと、東京・初台の新国立劇場との提携オペラ公演として上演される。今日がびわ湖2日目にして楽日。公演全体としても大千穐楽を迎える。


指揮は沼尻竜典。演奏は日本のオーケストラとしては最もオペラ経験が豊かであると思われる東京フィルハーモニー交響楽団が担う。
ダブルキャストによる公演で、今日の出演は、山下牧子(カルメン。メゾソプラノ)、村上敏明(ドン・ホセ。テノール)、須藤慎吾(エスカミーリョ。バリトン)、石橋栄実(ミカエラ。ソプラノ)、大塚博章(スニガ。バス)、星野淳(モラレス。バリトン。両日とも出演)、成田博之(ダンカイロ。バリトン)、升島唯博(レメンダード。テノール)、平井香織(フラスキータ。ソプラノ)、但馬由香(メルセデス。メゾソプラノ)ほか。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団、大津児童合唱団。
演出は、アレックス・オリエ。舞台美術は、アルフォンス・フローレス。

先に新国立劇場オペラパレスで大野和士の指揮により上演されているが、舞台を現代のキャバレーやライブハウスに置き換えたアレックス・オリエの演出がかなりの不評であり、気にはなっていたが、自分の目で確かめないことには何ともいえない。

無料パンフレントに記載されたオリエの演出ノートを読むと、オリエがカルメンを27クラブ(27歳で他界したミュージシャン達を指す言葉。ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンなどなぜか数が多く、「27」は不吉な数字とされている)の一人であるエイミー・ワインハウスに重ねていることが分かる。エイミーは十代で成功を収めるも、酒とドラッグに溺れ、晩年は酔ったままステージに立って、まともな歌唱が行えないことで酷評を受けたりした(タモリがこの時のことを「笑っていいとも」で語っており、「名前がエイミー・ワインハウス」だからとネタにしていた)。その後に事故か自殺か分からない形でエイミーは他界している。

今日は4階席の中央通路より後ろで、出演者の顔などははっきりとは見えず、字幕の文字も小さめに感じられたが、音響的にはまずまずである。


沼尻はかなり速めのテンポを採用。迫力は増すが、特に合唱、重唱などでは歌手達がテンポに付いていけず、粗めになった場面が多かったことも否めない。

オーケストラピットで演奏する機会が多い東京フィルハーモニー交響楽団。ただ、びわ湖ホールでの演奏経験はそれほど多くなく、勝手が分からないためだと思われるが、第1幕などでは音が散り気味であった。

びわ湖ホール大ホールは、近年ワーグナー作品を立て続けに上演して、「日本のバイロイト」「オペラの殿堂」とも呼ばれるようになっているが、4面舞台を備えたオペラ対応劇場ではあるものの、基本的にはコンサートホール寄りの音響であるため残響も長く、今日も歌声で壁などがビリビリいう場面が何度もあった。兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールやロームシアター京都メインホールは、逆にオペラ寄りの音響であり、オーケストラ演奏よりも声楽に向いている。

アルフォンス・フローレスの美術は、鉄パイプを網の目に張り巡らせたセットを効果的に用いており、同じ風景がライトによって街頭、闘牛場の壁、牢獄などに変容していく。


舞台を現代に置き換えているということで、衣装なども現代風(衣装デザイン:リュック・カステーイス)。カルメンは煙草工場で働きながら密輸盗賊集団の一味として暗躍するというジプシー(ロマ)ではなく、ライブハウスなどで歌う人気歌手(ボヘミアン)で、よくあるように裏でマフィアとのパイプを持つという設定に変わっている。一方のドン・ホセは、捜査4課あるいは組対5課の私服刑事もしくは厚労省の麻薬取締官で、元の設定よりも公務員的印象が増している。
現代に置き換える必要性がどこまであったのかは疑問だが、私服刑事ということでドン・ホセがカルメンに抱く恨みが伝わりやすくなっているように思われる。
一方で、洗練され過ぎたことで、ドン・ホセがたやすくカルメンに籠絡される馬鹿男以外に見えなくなり、なぜそれほど簡単にカルメンに惚れるのかも納得しにくくなる。カルメンがドン・ホセの何が良いと思ったのかも同様に伝わりにくい。元々の歌劇「カルメン」にあった一種の土臭さが、こうした謎を中和していたのだが、舞台を現代に置き換えたことで理屈に合わないように見えてしまう。恋に落ちるのに理屈はいらないが、生涯未婚率が高くなった現代社会にはマッチしていない演出のように思われる。だがその他の本質の部分は変えていないため、全般的には満足のいく上演となっていた。


「面白いがなんか変」な場面はいくつもあり、カルメン登場の場面では、カルメンはステージの上でスタンドマイクに向かって「ハバネラ」を歌い、ビデオカメラで撮影された映像が背後のスクリーンに映る。これによってドン・ホセのカルメンに対する思いは、「歌姫への恋」となるのだが、これがその後の展開と余り結びつかない。

第3幕第2場では鉄パイプのセットが金色に照らされ、闘牛場らしく見えるセットの前に敷き詰められたレッドカーペットの上を出演者達が歩き、フラッシュがたかれる。映画祭の一場面のようになっているが、特になくてもいい演出のようにも思える。

ただ、この第3幕第2場での心理表現は優れている。カルメンのせいで公務員、しかも私服刑事という花形から追われる羽目になったドン・ホセは復讐のために現れてもいいのだが、実際はカルメンに復縁を迫る。カルメンはカルメンで、ホセから貰った指輪をはめたままである。本当に100%エスカミーリョに靡いたなら、ホセから貰った指輪を身につけたり所持していたりはしないはずで、カルメンも実はホセに未練があるのだと思われる。これは愛と葛藤の話なのである。演出によってはこれが上手く伝わってこなかったりするのだが、オリエはカルメンとホセの姿勢によって心情を観る者に悟らせる演出を施していた。奇抜なだけでなくきちんとした演出が出来る人であることもここで分かる。
闘牛場の中から聞こえてくる「闘牛士の歌」の合唱は、ビゼーが仕掛けたホセとカルメンの好対照な心理を暴き出す巧みな装置であるが、今回の演出は、合唱、ホセ、カルメンの演技の三つがはまって愚かしくも切ない人間ドラマが表れていた。かなり感動的である。ここさえしっかり描けていれば、現代に舞台を置き換えたことで発生したマイナスも気にする必要はないように思われる。人間が描けていればそれで良い。


歌手では、びわ湖ホールへの出演回数も多い石橋栄実が、繊細さと迫力を兼ね備えた歌声で魅せる。ミカエラのキャラクターもあるが、彼女はびわ湖ホール大ホールの音響を把握しているためか、迫力は出しても壁をビリビリ鳴らすことはなかった。

タイトルロールを務めた山下牧子も知情意のバランスの取れた歌唱で、カルメンを単なる「自由」に憧れる向こう見ずな女とはせず、「揺れ動く女性」として再現していて説得力がある。

女性陣に比べると、男性陣は歌声が大き過ぎたり、身振りが大仰だったりとマイナスも多いが、沼尻のテンポとの相性が悪かった可能性もある。


観る度に発見のある歌劇「カルメン」。やはり永遠の名作である。

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2021年7月30日 (金)

美術回廊(65) 京都市京セラ美術館 「フランソワ・ポンポン展」

2021年7月23日 京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、フランソワ・ポンポン展を観る。

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京都市美術館をリニューアルした京都市京セラ美術館。展示会場が増え、現在、6つの展覧会が同時進行で行われている。

「古代エジプト展」も「上松松園」展も、北回廊1階の展示室で行われているが、フランソワ・ポンポン展は、北回廊の2階が会場である。展覧会を見終えてから、東山キューブのバルコニーに出て、ウエスティン都ホテルなどを眺めた。

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フランソワ・ポンポン(1855-1933)は、フランスに生まれ、活躍した彫刻家である。遅咲きであり、全仏にその名が知れ渡ったのは67歳の時。それまでは彫刻家の下彫り職人をしながら自作を発表していたが、人物彫刻では十分な評価を得られず、51歳で動物彫刻に転向。巨大なシロクマ像を発表して話題になり、「売れている」と見なされるまでにはそれからまだ時間が掛かるが、巨大シロクマ像発表の前年である1922年に、東久邇宮稔彦(後に史上初にして唯一の宮家出身首相となる)がポンポンの作品を買い上げているそうである。

巨大シロクマ像は移動させることが大変であるため、展示はされていないが、小型のシロクマ像はいくつか展示されており、そのうちの一つは写真撮影可となっている。また展示場内売店にポンポンの巨大シロクマ像の模型が展示されており、記念撮影をすることが出来る。

なお、紙に印刷された作品リストは存在せず、QRコードを読み取って、スマホで確認することになる。コロナ対策なのか、今後は作品リストはこうしたタイプのものが主流になるのか、現時点では判断保留である。

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フランス中央部、旧ブルゴーニュ地方のソーリューに生まれたフランソワ・ポンポン。父親は高級木工家具職人であり、ポンポンも幼時から父親の仕事を手伝っている。将来彫刻家になる素養はこの父親と成育環境から受け継いだものだと思われる。
15歳の時に地元の司祭に才能を認められたポンポンは奨学金を得て、ブルゴーニュ地方のより大きな都市であるディジヨンに移り、墓石を掘る大理石職人として働きながら美術学校の夜間部で本格的に彫刻を学び始める。ディジヨンの彫刻コンクールで1等賞を得たポンポンは兵役に就くためにパリに出て、短期間で軍務を終えた後は、パリのモンパルナスに住み、やはり墓石の大理石職人をしながらプティット・エコール(ポンポンが入学した年に国立装飾美術学校に改名)の夜間部で学ぶ。ここでは動物彫刻家のピエール=ルイ・ルイヤールが教えており、ポンポンにパリの植物園内の動物園で動物の観察をするようポンポンに勧めたそうだが、この時はポンポンは人物の彫刻家を目指していたため、助言を聞き入れなかったようである。

1890年から5年ほど、ポンポンはオーギュスト・ロダンの工房で下彫り職人を務め、最終的には工房長にまでなる。当時、彫刻家として並ぶ者のいないほどの名声を得ていたロダンの「動き」に着目する技法にポンポンは影響を受ける。ロダンの下を離れてからは、ルネ・ド・ポール・ド・サン=マルソーという彫刻家の下彫り職人として働き、夏場はノルマンディー地方のキュイ=サン==フィアクルという小さな村で過ごしたサン=マルソーに従って、ポンポンもキュイ=サン=フィアクルに家を買い、サン=マルソーの仕事を手伝ったのだが、キュイ=サン=フィアクルの農場で飼われている動物達の姿がポンポンのインスピレーションを刺激することになる。

当時のフランスの彫刻界では、人物の彫刻像が主流。それも文学作品に出てくる人物を彫るのが流行りであった。ポンポンも『レ・ミゼラブル』のコゼット像などを彫っており、好評で本人も自信があったそうだが、国による買い上げは認められず、これを機にポンポンは本格的に動物彫刻の道へと進んでいく。動物彫刻は人物彫刻よりも格下と見られていた時代だったが、20世紀初頭には動物彫刻の再評価が始まっており、ポンポンもこの潮流に乗ることが出来た。

ポンポンの後期の動物彫刻は、磨き抜かれたフォルムが特徴で、これは墓石の大理石職人をしていた影響が強いと思われる。表面は陶器か漆器のようであり、現実なのか非現実なのか、リアルなのか象徴なのか、その絶妙の間でポンポンが作成した彫刻は生命力を見せつける。

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有名なシロクマシリーズなども、足が太く、足の運び方も現実とは異なっているのだが、「今まさに移動している最中のような」躍動感を上手く面に出すことに成功している。「ノッシノッシ」という擬音が聞こえてくるかのようだ。現実ではあり得ないが、よりリアル(切実)である。目で見たものそれ自体よりも目で感じたこととして彫刻作品を作り上げている。またこの時代にフランスではアールデコが流行っており、ポンポンもアールデコに基づくデザイン性を取り入れた動物彫刻を作成している。
「休んでいる冠鶴」などはその典型で、細部をデザイン化することで、「そのもの」からは遠くなるが、フォルムと生命感を抽出した作品となっており、「そのもの」が持つ力はより先鋭化されるというアンビバレントが技巧が用いられている。

ポンポンは、パリ旧王立植物園付属動物園に足繁く通っていたようで、ついには動物園の動物達がポンポンになついてしまったという。そうした動物への愛情が、動物も持つであろう心情やエネルギーをいわば理想化しつつ誠実に読み込み、彫刻作品として昇華することを可能にさせたのだと思われる。

ポンポンが理想の一つとしたのだが、古代エジプトの動物彫刻だそうで、シンプル且つ生命力豊かという古代エジプト芸術に感銘を受けたようだ。

ポンポンが売れる直前の1921年に、苦楽をともにした妻のベルトが死去。ポンポンは彼女の墓にコンドルの像を飾った。同じ形のコンドル像が展示されているが、ポンポンは古代エジプトでは、コンドルに似たハゲワシが冥界の守護神となっていることを知っており、妻のあの世での安寧を期して、コンドル像を飾ったことが推測される。1933年、78歳の誕生日を3日後に控えて他界したポンポンは、コンドル像のある墓所で妻と共に眠っている。


ポンポンの作品は、ソーリューのフランソワ・ポンポン美術館、ディジヨン美術館、パリのオルセー美術館などの他に群馬県立館林美術館が多く所蔵しており、館林美術館所蔵のものが数多く展示されている。また、今年の11月からは、館林美術館でフランソワ・ポンポン展が開催される予定である。

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2021年7月22日 (木)

コンサートの記(732) 大植英次指揮 京都市交響楽団第658回定期演奏会

2021年7月17日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第658回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、大阪フィルハーモニー交響楽団第2代音楽監督で現在は同楽団桂冠指揮者としても知られる大植英次。当初予定されていたパスカル・ロフェが、新型コロナウイルスによる外国人入国制限で来日不可となったための代役である。
同一地区内にポストを持つ指揮者は、基本的に客演は難しいが、桂冠指揮者は名誉称号なので問題はなく、京都市交響楽団の桂冠指揮者である大友直人も大阪フィルや関西フィルに客演しているが、大友の場合は京響の常任指揮者に就任する前から大阪のオーケストラと良好な関係を築いていたのに対して、大植は海外に拠点を起き続けてきたこともあって今回が京響初客演。もしコロナ禍がなかったら、永遠に実現しなかったかも知れない顔合わせである。

曲目は、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」(1947年版)、ミュライユの「シヤージュ(航跡)」、ドビュッシーの交響詩「海」。パスカル・ロフェと決めたプログラムを変更なしで演奏する。


午後2時頃から大植英次によるプレトークがある。大植は見た目がコロコロ変わるタイプだが、今日はスッキリとした顔で登場。滑舌が悪い人なので、京都コンサートホールの貧弱なスピーカーで内容が聞き取れるか心配だったが、今日は比較的聞き取りやすかった。

京都市交響楽団は1956年の創設だが、大植も1956年生まれで同い年だという話から入る。なお、大植は大フィルの音楽監督時代には毎年、京都コンサートホールで大フィル京都公演を指揮しており、慣れた会場である。

各曲の作品解説。「ペトルーシュカ」は人形を主人公としたバレエだが、「『ピノキオ』はご存じだと思いますが、あれの逆」「ピノキオは人間になってハッピーエンドになりますが」と、人間のようになったペトルーシュカが悲劇を迎えるというストーリーの説明を行う。

トリスタン・ミュライユの「シヤージュ」については、京都信用金庫の依頼によって作曲されたもので、「シヤージュ」は「航跡」という意味であり、京都の石庭をイメージして作った曲だと語る。
ミュライユの「シヤージュ」は、1985年に京都信用金庫の創立60周年記念の一環として3人の作曲家に新作を依頼し、同年9月9日に小澤征爾指揮京都市交響楽団の演奏によって初演された交響的三部作「京都」を構成する1曲である。ちなみに他の2曲は、マリー・シェーファーの「香を聞く」、そして現在は武満徹の代表作の一つとして知られる「夢窓/Dream Window」である。「シヤージュ」「香を聞く」「夢窓」の順に演奏されたようだ。

ドビュッシーの交響詩「海」。人気作であり、海の日が祝日として誕生してからは7月の演奏会のプログラムに載ることが増えている。
大植は、ドビュッシーが葛飾北斎の海の浮世絵(「神奈川沖浪裏」)に影響を受けて作曲したと語る。ただ、ドビュッシーはアトランティックオーシャン(大西洋)しか知らなかったため、葛飾北斎が描いたパシフィックオーシャン(太平洋)とは異なるという話もする。
カルロ・マリア・ジュリーニがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した「海」は、ゆったりとしたテンポでスケールも大きく、太平洋を感じさせる演奏であるが、ジュリーニが太平洋を意識したものなのかは定かでない。

大阪クラシックの時などに一人で喋ることに慣れている大植。最後は京都市交響楽団と素晴らしい一週間を過ごすことが出来たことを述べ、プレトークは10分ほどと手短に纏めた。


今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別名誉友情コンサートマスター(肩書きが長いな)の豊島泰嗣(とよしま・やすし)。フォアシュピーラーに泉原隆志。「ペトルーシュカ」では、ピアノが指揮者と正対するところに置かれるというスタイルで、ピアノ独奏を担当するのは佐竹裕介。第2ヴァイオリン客演首席は、読売日本交響楽団の瀧村依里。チェロ客演首席には、オーケストラ・アンサンブル金沢のルドヴィート・カンタが入る。フルート首席の上野博昭と、クラリネット首席の小谷口直子は「シヤージュ」からの参加。一方、ホルン首席の垣本昌芳は「ペトルーシュカ」のみの参加で、「シヤージュ」と「海」は水無瀬一成が1番の位置に入った。トランペット首席のハラルド・ナエスは「ペトルーシュカ」と「海」に参加する。

大フィルを指揮した演奏は何度も耳にしている大植英次。だがやはりオーケストラが違うと印象も異なる。重厚さが売りの大フィルに比べ、京響は音の重心が高めで音色も華やかだ。

大植というと、暗譜での指揮が基本だったが、今日は全曲譜面台を用いて、総譜を見ながらの指揮。「ペトルーシュカ」と「シヤージュ」では老眼鏡を掛けての指揮だったが、「海」では老眼鏡は用いていなかった。


ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」(1947年版)。
ストラヴィンスキーは大植の得意曲目の一つで、「春の祭典」や「火の鳥」組曲はミネソタ管弦楽団とレコーディングしたCDも出ているが、「ペトルーシュカ」は未録音だと思われる。
京響らしい色彩感溢れる演奏で、浮遊感もあり、フランス音楽のように響く。ラストの悲劇に重点を置く重い「ペトルーシュカ」の演奏もあるが、大植と京響の「ペトルーシュカ」はお洒落な印象すら受ける。だからといって悲劇性やストラヴィンスキーならではの異様さがないがしろにされているわけではなく、バランスも良い。

演奏終了後に、大植は弦楽器の最前列の奏者とリストタッチ、グータッチ、エルボータッチなどを行うが、泉原は今日も客席の方をずっと見つめていたため、大植の存在に気づくのに少し時間が掛かっていた。


ミュライユの「シヤージュ(航跡)」。石庭をイメージした曲だが、具体的には枯山水の砂紋を船の航跡に見立てたものだとされる。先に書いた通り、交響的三部作「京都」の1曲として武満徹の「夢窓」などと共に初演されたものだが、武満の作風にも通じるところのある作品である。打楽器奏者が複数の楽器を掛け持ちするのが特徴で、見ていてもかなり忙しそうである。ただティンパニは使用されておらず、この辺りも武満に通じる。武満のティンパニ嫌いは有名であるため、あるいはミュライユも三部作として統一感を出すため、ティンパニを使用しないことに決めたのかも知れない。
京響らしい煌びやかな音色も特徴である。


ドビュッシーの交響詩「海」。大植が浮世絵を意識したのかどうかは分からないが、フランス系の指揮者が描く「海」とは若干異なり、音のパレットをいたずらに重ねることなく詩的な音像を築き上げる。「ペトルーシュカ」ではあれだけ華やかな音を出していたため、意図的に抑えたのだと思われるが、これはこれでタイトにして生命力に溢れている。元々が音色鮮やかである京響だけに、多少抑えたとしても味気ない演奏になることはあり得ず、良い選択である。
第3楽章「風と海との対話」の途中でテンポをぐっと落としたのも印象的。パシフィックオーシャン的な広がりを出すための演出なのかどうかは不明だが、これによってスケールが増し、日本人がイメージする「海」像に近づいたように感じた。

今日明日の同一プログラム2回公演で、コロナ下、更に定期会員に当たる京響友の会会員の募集も停止中ということで、客席はやや寂し目であったが、盛大な拍手が大植と京響を讃えた。

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2021年7月 4日 (日)

コンサートの記(727) 京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」

2021年6月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」を聴く。

緊急事態宣言発出のため、4月25日から5月31日まで臨時休館していたロームシアター京都。今日の公演が再スタートとなる。

京都市出身の芥川賞受賞作家である藤野可織と京都市交響楽団によるコラボレーション。藤野の新作小説の朗読と、パリゆかりの作曲家の作品による新たな表現が模索される。指揮は三ツ橋敬子。

朗読を担当するのはAKB48出身の川栄李奈であるが、企画発表時には出演者はまだ決まっておらず、しばらく経ってから川栄の出演が公にされた。

演奏曲目は、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第1曲〈プレリュード〉、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「カルタ遊び」より抜粋、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈夜への前奏曲〉、シベリウスの「悲しきワルツ」、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第2曲〈フォルラーヌ〉、サティ作曲ドビュッシー編曲の「ジムノペディ」第2番(表記の揺れのある楽曲で、ここではピアノ版のジムノペディ第1番のオーケストラ用編曲を指す)、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈マラゲーニャ〉、ドビュッシーの「夜想曲」より〈雲〉、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。シベリウスを除いて、パリゆかりの作曲家の作品が並んでいる。


藤野可織は、1980年、京都市生まれの小説家。同志社大学文学部卒業、同大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了とずっと京都市で生きてきた人である。大学院修了後は、京都市内にある出版社でのアルバイトをこなしながら小説の執筆を開始。2006年に「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を受賞し、2013年には「爪と目」で第149回芥川賞を受賞。2014年には『おはなしして子ちゃん』で第2回フラウ文芸大賞を受賞している。
藤野は、今回の企画を持ちかけられてから、初めてロームシアター京都メインホールを訪れたそうで、4階席から舞台を見下ろした時に作品の構想を得たようである。


今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。シベリウスの「悲しきワルツ」演奏後に20分の休憩が入るが、出演者は見た限りでは前半後半ともに変わらない。首席クラリネット奏者の小谷口直子は今日は降り番。他の管楽器パートは首席奏者がほぼ顔を揃えている。

藤野可織の「ねむらないひめたち」は、9歳の少女を主人公とした作品で、新型コロナウイルス流行に絡めた「昏睡病」がまん延する近未来の話である。近未来ではスマートフォンではなくスマート眼鏡というもので情報をやり取りするようになっており、パソコンはまだ用いられているが、キーボードはバーチャルのものに置き換わっているようである。
なお、「ねむらないひめたち」のテキストは、「新潮」7月号に掲載されている。「新潮」7月号には野田秀樹の新作戯曲「フェイクスピア」も載ってるため、舞台芸術好きにはお薦めであるが、野田秀樹の戯曲は多くの場合、上演よりもテキストの方が勝ってしまうため、観る予定のある方は、舞台を鑑賞後にテキストを読むことを勧めたい。

上演前にまず藤野可織が登場して挨拶を行い、この作品が朗読とオーケストラが奏でる音楽とが一体となったものであるため、曲ごとの拍手はご遠慮頂きたい旨を述べる。京都市の生まれ育ちということで、柔らかな京言葉で話し、雅やかな印象を受ける。おそらくこうした話し方や雰囲気を「はんなり」と言うのだと思われる。

京都市交響楽団に客演する機会も多い三ツ橋敬子。バトンテクニックの高い非常に器用な指揮者だが、今に至るまでオーケストラのポストは得られないでいる。平均点の高いタイプながら、何が得意なのか分からない指揮者でもあったが、これまで聴いた限りでは、現代音楽、モーツァルトなどで好演を示しており、フランスものも合っているようである。

朗読担当の川栄李奈。AKB48在籍中は、お勉強が不得意なお馬鹿キャラとして知られたが、握手会で襲撃されて負傷。トラウマにより「握手会にはもう出られない」としてAKBを卒業した。その直後から本格的な女優活動に入るが、CMや映画、テレビドラマなどで、「あのお馬鹿キャラの川栄」とは思えないほどの才気煥発ぶりを発揮。上り調子の時にできちゃった結婚で休業に入ってしまい、「ああ、やっぱり」と思わせたりもしたが、復帰後も活躍はめざましく、大河ドラマ「青天を衝け」に一橋慶喜正室の美賀君役で出演し、怪演を展開中。次期NHK朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」のヒロインの一人を演じることも決まっている。女優は天職なのだろう。
声優としても活動しており、映画「きみと、波にのれたら」では主演声優を務めている。

舞台後方にスクリーンがあり、三好愛のイラストと、藤野可織の「ねむらないひめたち」のテキストが映し出される。

主人公の「あたし」は、タワーマンションの37階に住んでいる。年齢は9歳で、今年13歳になる姉がいる。
姉妹が両親と住むマンションの部屋にはバルコニーがあるのだが、バルコニーにはいつも嵐のような強風が吹き荒れており、母親は、「嵐はすごく危険」「だからバルコニーには出ちゃいけません」と言う。だが、姉妹は学校から帰るとバルコニーに出て、姉は双眼鏡で外を覗き、妹のあたしは機関銃タイプの水鉄砲で姉が指示した人物に向かって狙撃を行った。「射殺」したのだが、当然ながら水鉄砲で人は殺せない。殺し屋ごっこである。マンションの周りには様々なタイプの人がいたが、スパイだの異星人だの、不思議な人々もいる。もっとも、これは姉の見立てによるもので、実際にスパイや異星人がいた訳ではないと思われる。

そうしているうちに、人々が昏睡状態になるという謎の病が流行し、人々は感染を避けるため外出せずに家に籠もるようになる。姉妹が通う学校も休校になり、両親もリモートワークでいつも家にいるようになる。両親は姉妹に好きなだけ映画を観ることを許可し、姉妹は、暗殺者ものの映画を観まくるようになる。だが、予想に反して暗殺者達の仕事そのものよりもロマンスに焦点を当てた作品が多いことに気づく。
やがて両親が昏睡病に感染。砂色の飴で覆われたようにコチコチに固まってしまう。
あたしは、新たにアカウントを開設。「ソラコ」という名で自撮りの写真などを載せたが、誤って住所も見えるように載せてしまったため、奇妙な男達が何人も「君を助けたい」と言ってタワーマンションの下までやって来るようになる。姉妹は、カップアンドソーサーのカップやジャムの瓶などをバルコニーから落とすことで彼らを次々に殺していき……。


選ばれた楽曲を見ると、「死」に直結するイメージをもった作品が多いことに気づく。
射殺ごっこが、本物の殺人へと変わり、映画で観るような暗殺者の恋愛の代わりに、異様な人々の来訪があるという展開が高度に情報化された現実社会の不気味さを表しているかのようである。
やがて舞台はコンサートホールの4階席へと移り、未来への希望と不信がない交ぜになったまま再び殺し屋としての社会との対峙が始まる。

設定が近未来ということで、不思議な話が展開されるが、外部の危機的状況とそんな中でもネット上や現実社会で繰り広げられる不穏さが描かれている。そんな中で未来の夢や漠然とした期待に浸ることなく目の前を見つめ続けること、今を生き続けることと、引いては小説を書くことの意義が仄かに浮かび上がる。


川栄李奈の朗読であるが、予想よりも遙かに上手い。地の文とセリフの使い分け、感情の描き分け、抑揚やメリハリの付け方などが巧みで、声自体も美しい。女優の朗読に接する機会は多くはないながらもあるが、少なくともこれまでに聴いた二十代の女優の中ではトップだと思われる。全身が表現力に満ちあふれており、表現者としてのエネルギーやパワーの総体が同世代の他の女優よりも大きいことが察せられる。やはりこの人は女優が天職なのであろう。

三ツ橋敬子指揮する京都市交響楽団も煌びやかな演奏を展開。ドビュッシーやラヴェルの音楽ということで、浮遊感や典雅さの表現が重要になるが、これも十分にクリアしている。後は奥行きだが、これは更に年齢を重ねないと表出は難しいようにも感じる。


本編終了後にアフタートークがある。司会は、京都市交響楽団からロームシアター京都の音楽事業担当部長に異動になった柴田智靖。三ツ橋敬子、藤野可織、川栄李奈、会田莉凡の女性4人が参加する。

曲目は、ロームシアター京都から提案されたものが中心だったようだが、三ツ橋敬子は、普段余りフランス音楽を演奏しない京都市交響楽団で、元々別の物語性を持つ音楽を奏でることの難しさを語った。ちなみにリハーサル時と本番とではオーケストラの色彩が大きく異なっていたため驚いたそうである。

藤野可織は、小説家の仕事は自己完結であるが、こうしてオーケストラとのコラボレーションという協働作業の機会を得られたことへの面白さを語る。ちなみに司会の柴田は、表現したかったことを藤野に聞いていたが、「それを小説家に聞いちゃ駄目でしょ」と思う。

川栄李奈は朗読で緊張したことを語り、手の汗でページがめくれないんじゃないかとヒヤヒヤしたことを打ち明ける。また、個人的に京都の街が大好きだそうで、お土産をいっぱい買って帰りたいと笑顔で話していた。

会田莉凡も、京都市交響楽団でフランス音楽の演奏を行う難しさと新型コロナ流行下での演奏活動の困難さを語り、更には京都市交響楽団の活動の宣伝も忘れなかった。

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