カテゴリー「カナダ」の6件の記事

2021年8月18日 (水)

観劇感想精選(408) 「森 フォレ」

2021年8月8日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「森 フォレ」を観る。作:ワジディ・ムワワド、テキスト翻訳:藤井慎一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。出演:成河(ソン・ハ)、瀧本美織、栗田桃子、前田亜季、岡本玲、松岡依都美(まつおか・いずみ)、亀田佳明、小柳友(こやなぎ・ゆう。男性)、大鷹明良(おおたか・あきら)、岡本健一、麻実れい。

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ワジディ・ムワワドは、1968年、レバノンの首都ベイルートに生まれた劇作家。幼い頃にレバノンの内戦を避けるためにフランスに亡命し、その後、カナダのフランス語圏であるケベック州に移住している。レバノンはフランスの文化受容が盛んな国のようだ。ケベック州は緻密な心理描写を特徴とする作品の数々が「ケベック演劇」と呼ばれて世界的な注目を浴びている場所であるが(日本で上演された有名作に、井上靖原作・中谷美紀主演の「銃口」や白井晃の一人芝居である「アンデルセン・プロジェクト」などがある)、ムワワドの作風は「ケベック演劇」の本流とは少し距離があるようで、むしろ血脈を描くことが多いスペイン文学や、マジックリアリズムなど独特の手法で評価される南米スペイン語圏の文学と親和性があるように見える。
2000年に「岸 Littoral(リトラル)」でカナダ総督文学賞(演劇部門)を受賞。その後、「岸 Littoral」に始まる「約束の地」4部作で高く評価された。今回上演される「森 フォレ」は、「約束の地」4部作の第3作に当たる。日本では第2作の「炎 アンサンディ」がまず上演され、次いで第1作である「岸 リトラル」が上演されているが、私はいずれも観る機会はなかった。有料パンフレットに「炎 アンサンディ」と「岸 リトラル」のあらすじが記載されているが、「森 フォレ」と共通する部分が多いようである。双子の主題が出てきたり、両親の過去の謎が前2作では描かれているようだが、「森 フォレ」ではそれらを発展させつつ、重層的構造の作品として構築している。

舞台は、ケベック州最大の都市モントリオール、ドイツ領時代のストラスブール(当時はドイツ読みでシュトラウスブルク)、第1次世界大戦中のアルデンヌの森、カナダ北部・マタン、フランスのメッスなどに飛ぶ。時系列も複雑である。
シーン表が有料パンフレットに記載されているが、演劇というより現代音楽のプログラムのようである。

ファーストシーンでは雪が舞い散る中、モントリオールに住むエメという女性(栗田桃子)が自己紹介も含めた長大なモノローグを行う。自分は余りものを覚えるのが得意ではないこと(おそらくワーキングメモリに関する話)、ただ教えられたことに関する記憶力は良いこと、今が1989年の11月16日であること、1週間前の11月9日にベルリンの壁が崩壊したこと、ただそのことに自身が何の興味も抱いていないことが明かされる。語り口と知識の豊かさからエメが聡明な女性であることが分かる。エメの両親は幼いエメを養子に出しており、エメは両親の顔を知らない。
他の人が登場し、11月9日がベルリンの壁崩壊だけでなく「水晶の夜」(1938年11月9日、ドイツ全土でナチスがユダヤ人の商家などを襲撃した事件)の日であるということも告げる。
エメはフランス人脱走兵の幻影を見たということで、精神科医の診察を受ける。

エメは、バチスト(岡本健一)と結婚し、子を授かったのだが、脳腫瘍を患っていることが判明する。今すぐどうこうというはないが余命は15年ほど。しかも脳の腫瘍と思われたものは、胎内にいる双子の片方が脳へと向かい、硬化したものであるということが分かる(この辺はマジックリアリズム的である)。ただ仮に堕胎したならエメの余命が伸びると医師に言われたエメとバチストの夫妻は、一度は堕ろすことに決めるが、そんな時にモントリオール理工科大学虐殺事件が起こる。同年12月6日のことだった。名門・モントリオール理工科大学に銃を持った若い男が押し入り、女子学生ばかり14名が射殺された。生まれてくる子供の性別が女であるということを知っていたエメは、「私は15人目を(堕胎という形で)殺したくない」と語り、出産することに決める。生まれた娘は、ルー(瀧本美織)と名付けられた。だがエメはその後に意識を失う。20年後、パンクロッカーのような格好を好む反抗的な女性に成長したルーは、5年前に亡くなった母親のエメの遺体を父親のバチストが埋葬しようとせず、冷凍保存していることに疑問を抱く。またエメの母、つまりルーの祖母であるリュス(麻実れい)やその先祖にまつわる謎が次々と沸いてくる。ルーはフランス人古生物学者のダグラス・デュポンテル(成河)と共に、先祖に関する調査を行い始める。ダグラスは、第二次大戦中のナチスによる虐殺の被害者の頭蓋骨を鑑定したのだが、その骨がエメの脳腫瘍となった双子の片方の骨と一致することを確認していた。


成河、瀧本美織以外の俳優は、血脈を強調するためだと思われるが複数の役を演じ、また時間と場所が次々と移るため、簡単に把握出来るような内容にはなっていない。だが先祖がどこで何をしており、その結果何が起こったかを辿ることは困難というほどでもない。ただ、名前などの由来などに裏設定があるようで、こうした情報は有料パンフレットを買わないと手に入らない。

時系列順に並び替えると、大元は、1871年、ドイツ・ストラスブール(シュトラウスブルク)に始める。アレクサンドル・ケレールー(大鷹明良)の息子で獣医のアルベール(岡本健一)は、オデット(栗田桃子二役)と結婚し、エドモンという子を設けるが、アレクサンドルがオデットとの間に生んだ(オデットは「見知らぬ男に強姦された」と嘘をついている)義理の娘に当たるエレーヌ(岡本玲)と性的関係を持つ。エレーヌはエドガー(小柳友)と二卵性双生児として生まれたが、エレーヌはエドガーとも性的関係を持つという、かなりグチャグチャドロドロの展開である。やがてエレーヌは双子を産むが、父親がアルベールなのかエドガーなのかは分からない。双子の男の子の方は怪物で、エレーヌを襲い、洞窟のようなところに閉じこもってしまう。女の子の方はレオニー(岡本玲二役)と名付けられ、アルベールがアルデンヌの森の奥に築いた「森」という組織で暮らすようになる。レオニーは第一次大戦中に森に逃げ込んだフランス人脱走兵のリュシアン(亀田佳明)と結ばれて、リュディヴィーヌ(松岡依都美)という女の子を産む。第二次大戦中に、リュディヴィーヌは、サミュエル(岡本健一二役)らが立ち上げたレジスタンス軍団「コウノトリ・ネットワーク」に所属し、反ナチス活動に身を投じる。リュディヴィーヌの親友だったサラ(前田亜季)はサミュエルと結婚。女の子を設ける。実はこの女の子がルーの祖母であるリュスである。

血脈を辿る旅であったが、ルーが確かめたかったリュディヴィーヌとの血縁の輪は、繋がってはいなかった。更にリュディヴィーヌは両性具有者(「リング」シリーズの貞子もそうであることがよく知られている)であり、子供を産むことは不可能で、繋がっている可能性も途切れていた。

だが、この話は血脈が繋がっていなかったという調査報告では勿論、終わらない。リュスが自分のことをリュディヴィーヌの娘だと思ったのには訳がある。「母親の名はリュディヴィーヌという」と伝えられていたのだ。だがリュディヴィーヌの正体はサラであった。「コウノトリ・ネットワーク」に加わったサラとリュディヴィーヌは、アジトを発見されそうになる。リュディヴィーヌは偽名の証明書を持っていたが、サラは本名の証明書しか持っていない。ゲシュタポは「コウノトリ・メンバー」の本名のリストは手に入れており、このままではサラは確実に殺される。サラはこの時すでにリュスを宿していたため、リュディヴィーヌは、サラの証明書とそれに張られている写真を自身の偽造証明書と交換することを提案。結果、リュディヴィーヌとなったサラはアメリカ兵に救助されてカナダへと渡ったが、本物のリュディヴィーヌはダッハウの強制収容所に送られて殺害された。自らを犠牲にして親友とその娘を救おうという「思い」。それがエメを通してルーにまで伝わっていた。血は絶えていたが「思い」はそうではない。

話は複雑だがメッセージはシンプルで力強い。そして観客も含めたここにいる全員が、「思い」をリレーするのだという決意が示されて劇は終わった。


出演者の多くは、他の舞台でもよく見る人達なのだが、瀧本美織の演技を生で見るのはおそらく初となる。朝ドラ出身の女優で、真面目で優等生的な性格といわれている瀧本美織だが、今回はそれとは真逆のタイプの女性を演じる。演技は達者であり、余裕を持って演じているように見える。真面目タイプゆえにどうしても「地味」と捉えられてしまう傾向があるようだが、彼女の場合は器用で華もあり、これからも様々な役柄で活躍出来そうである。

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2019年8月18日 (日)

観劇感想精選(314) 二人芝居「グレーテルとヘンゼル」

2019年8月15日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて観劇

午後3時からロームシアター京都ノースホールで、「グレーテルとヘンゼル」を観る。台風によって上演が危ぶまれたが、正午過ぎに予定通り行われることがホームページ上で発表になった。

グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」をカナダ・ケベック州の劇団ル・カルーセルがリライトした二人芝居作品である。作:スザンヌ・ルボー、演出:ジェルヴェ・ゴドロ、テキスト日本語訳:岡見さえ。出演は、土居志央梨と小日向星一。

カナダ第二の都市であるモントリオールを擁することでも知られるケベック州はフランス語圏であり、何度かカナダからの独立を試みているところだが、ケベック演劇という心理描写に長けた独自の演劇色を打ち出していることでも知られ、日本でも白井晃の一人芝居である「アンデルセン・プロジェクト」や、中谷美紀主演の「猟銃」などを生んでいる。

グレーテル役の土居志央梨は、1992年福岡県生まれ。京都造形芸術大学映画俳優コース卒。在学中に林海象監督の北白川派の映画「彌勒」に出演し、その後も行定勲監督作品などに出演している。

ヘンゼル役の小日向星一は、1995年東京生まれ。小日向文世の長男である。明治大学政治経済学部卒。在学中には演劇サークルに所属し、第12回明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)「ヘンリー六世」ではタイトルロールを演じている。兵庫芸術文化センター阪急中ホールで上演された松田龍平主演の「イーハトーボの劇列車」では、風の又三郎らしき少年役を演じていた。

1週間以内に別の場所で小日向親子の演技を見られるというのも良いものである。

 

原作の「ヘンゼルとグレーテル」は、継母に捨てられた二人がお菓子の家を発見し、そこに住む魔女に捕らえられて、というストーリーが主だが、「グレーテルとヘンゼル」は姉弟間の心理に光を当てている。

第一子と第二子の関係は、心理学でも定番中の定番であり、カインとアベルに由来する「カインコンプレクス」という名も与えられている。第一子は第二子が生まれるまでは親の愛情を独占しているが、第二子が生まれると親の関心は第二子に完全に移り、更には「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから」「大きいんだから」と新たな役割を半ば強制されるようになる。第一子は第二子に脅威を感じるようになるのである。

私も長男(第一子)で、妹が一人いるのだが、そんなことがあったようななかったような。うちは兄妹仲は比較的良好なのでよく覚えてはいない。

 

ベビーチェアが15脚、円になって並んでいるというシンプルな装置による上演である。ベビーチェアを並べ替え、照明を生かすことによって、森やかまどなどを表現する。

ヘンゼルが生まれたのは木曜日。グレーテルの家では「野菜スープの日」で、グレーテルは野菜スープが登場するのを心待ちにしていたのだが、突然、母が産気づき、野菜スープはお預けとなってしまう。元々、妹も弟も欲しくないと思っていたグレーテルは、ヘンデルの存在を嫌悪し続けることになる。ヘンゼルの方は、言葉を覚えると「グレーテル」「お姉ちゃん」と呼ぶようになるのだが、グレーテルはヘンゼルのことを「弟」と呼び続けた。
グレーテルが5歳、ヘンゼルが4歳のある日、両親が兄弟のためにと取っておいたパン二切れをヘンゼルが二つとも食べてしまうという事件が発生し、激昂したグレーテルはヘンゼルを木のスプーンで思いっ切り打擲する。異変を察した母親が二人を見に来たのだが、グレーテルはヘンゼルがパンを二きれとも食べてしまったことを告げず、ヘンゼルもグレーテルから折檻を受けたことを明かさなかった。そこで変化が訪れそうな気配もあったのだが、帰ってきた父親が母親に何かを告げ、一家4人は森の中へ。実は両親は二人の子供を捨てる覚悟を決めており……。

子供と大人のための舞台として書かれており、今まさにグレーテルとヘンゼルのような幼い姉弟のいる子達にリアルタイムで届ける作品である。終演後の親子連れの会話を聞いていると、違和感が勝っていて余り内容を理解されてはいなかったようだが、子供達に伝わると嬉しく思う。関係者でも何でもないんだけれど。

 

土居志央梨は映像中心のためか、演技が少し過剰になる嫌いがあったが、可憐さもあり、クラシックバレエをやっていたということで身のこなしも軽く優雅で、火にくべられようとする間際までヘンゼルを憎むグレーテルの心の揺れを上手く表していたように思う。

小日向星一は、顔はそれほど父親に似ていないのだが、雰囲気や声は小日向文世を連想させるものがある。幼いヘンゼルの素朴さを上手く出した演技だった。

 

 

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2017年12月31日 (日)

観劇感想精選(228) 「この熱き私の激情 ―それは誰にも触れることができないほど激しく燃える あるいは、失われた七つの歌―」

2017年12月5日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、「この熱き私の激情 -それは誰にも触れることができないほど激しく燃える あるいは、失われた七つの歌-」を観る。原作:ネリー・アルカン、翻案・演出:マリー・ブラッサール。翻訳:岩切正一郎。出演:松雪泰子、小島聖、初音映莉子、宮本裕子、芦那すみれ、奥野美和、霧矢大夢。音楽:アレクサンダー・マクスウィーン。



ネリー・アルカンは、1973年、カナダ・ケベック州生まれ。モントリオールの大学に通いながら生活のために高級娼婦のアルバイトをし、その経験を生かしたセクシャルな内容の小説『ピュタン -偽りのセックスにまみれながら真の愛を求め続けた彼女の告白-』を発表。ケベック州のみならずフランス文壇の寵児となるも、2009年に36歳の若さで首つり自殺している。
セクシャルな作風、若くして自殺という点で、サラ・ケインを彷彿とさせる人物である。


物語は6人の女優の詩的にして内省的なモノローグと歌、ダンサーの奥野美和によるダンスによって進められていく。

アクリルによって隔てられたオランダの飾り窓のような7つの部屋。この7という数字は、松雪泰子演じる影の部屋の女の独白により、7つの大罪と明白にリンクしたものであることがわかる。

暗闇の中で複数の女の声がする。父親と幼い娘の話だ。父親は娘に、「やがてお前にも安らぎがやってくるだろう」と告げる。娘、つまり幼き日の主人公は安らぎについて考えるのだが、成人して死を目前に控えた今では安らぎについての明白な答えなどどうでも良くなっていた。

最初の女(芦那すみれ)のモノローグ。「幻想の部屋」。7つの時から母親(この物語では一貫して母親の存在は希薄であるか、悪意を持ったものとして登場する)に勧められてフィギュアスケートをしていた女。だが、その演技は誰よりも稚拙であり、フィギュアスケートを勧めた母親に憎しみのような感情を抱く。やがて娼婦となった女は、「上空から見下ろした私」はクレーターや南極や北極の氷や高山の頂のようなものだと感じるようになり、周りのみなは皮膚の下の本当の自分を見ようとしないと嘆く。「自分は醜くはないが美しくもない」と感じている女だったが、こうも語る。「女は美によって革命からも守られているが、革命を起こすことは出来ない」
女は「年だけは取ってはいけない」と独りごちる。

「天空の部屋」の女(小島聖)が現れる。天空の部屋は公衆トイレの個室である。女は南極やクレバスの裂け目といった荒涼とした風景に至高の美を感じ、それらが人間が容易に立ち入れない場所にあることを嘆く。美は人々から遠く離れた場所か、望遠レンズの向こうにしか存在しない。
彼女の友人の父親は天体観測が好きだった。そして惑星が死んで爆発する瞬間の輝き(超新星=スーパーノヴァである)こそがこの世で最も美しいものだと考えていた。死と同居した美しさを語る友人の父親を、彼女は「詩人だ」と感じていた。

「血の部屋」。女(霧矢大夢)は、幼くして死んだ彼女の姉の幻影と共に生きていた。そして彼女は夢見る。美しく生きている姉の姿を(ダンサーの奥野美和が姉の幻影をアクロバットな身のこなしで演じる)。そして男が男の娘と結婚し、子供を産み、その娘達(つまり男の子供にして孫)が男を新たな関係を結ぶ「理想郷」を夢想する。

「神秘の部屋」。女(初音映莉子)は、「自分が男だったなら」と思っている。彼女が生まれたとき、母親は男の子が生まれることを希望していた。産婦人科の先生から「男の子だろう」と告げられ、セバスチャンという名前まで授かっていた。だから女は自分が生まれたとき、母親が怒りで自分を床へと叩きつけないようしっかりとその手を握っていた。
女は娼婦になった今でも「男のように愛せたら」と強く感じており、自分の中の男を意識している。女はもう一人の自分かも知れない男(やはり奥野美和が演じている)と部屋にいて、幼い頃、叔母がやってくれたタロット占いの結果を思い出すのだった。

「影の部屋」。女(松雪泰子)は、死後の世界に怯えていた。幼い頃、女は父親に問うた。「死んだらどうなるの? 私も塩の柱になってしまうの? 神様に試されるの?」。父親は、「優しい子でなければいけない。そして許しを乞うんだ」と答えた。
父親は、「ソドムの市と塩の柱」の話をするのが好きだった。燃えさかるソドムの市を振り返ったがために、ある女は神によって塩の柱にされてしまった。だが女はその後の塩の柱が気になっていた。父親は話してくれなかったことだ。ソドムの市と共に塩の柱も燃えてしまったのだろか? あるいは塩の柱はそのまま残り、朽ちるに任されたのか。
女は地獄を厭い、輪廻転生もまた恐れる。自殺した女の魂が転生したとして、また辛い生涯を過ごさねばならないのではないか。女はそうした夢想さえも嫌になり、首を吊る。

「蛇の部屋」。女(宮本裕子)は、10歳の時に過ちを犯した。同級生の男の子と性的行為に及んだのだ。それを父親に見られた。あれほど好きだった父親の関係がそれから変化してしまう。娼婦になった今、女は小学校時代の夢を見る。レンガ造りの校舎の中で、ピアノの発表を行うのだ。なんで自分が小学校にいるのかと疑問に思うが、とにかくピアノを弾こうとする。だが楽譜にはページがない。そこで女は「自分がピアニストになるのは無理なのだ」と小学生の時にすでに気づいていたことを思い返す。
女が小学生だった頃、絵を描いた。子供らしい可愛い絵だ。青い空が拡がる。だがその絵を見た父親は青い空の中に何匹もの黒蛇がいると語っていた。

「失われた部屋」。女(奥野美加)は、死を目前にしたこの時に、自分がとても美しくなっていることを感じた。観客までもが自らの想像の産物である映画館の中で、自分が主演女優を演じる映画が上演される。だが、やがて全ては崩壊し、孤独だけが残るのだった。


魂を乗せたような独特の歌によって、一人の女の孤独な姿が浮かび上がる。望み、愛し、感じ、燃え上がり、悩み、報われない。絶えず居場所のない女の魂の経歴が披瀝されていく。
強度且つ高度に芸術的な作品であり、見応えは十分であった。こうした芸術性の高い演劇は、日本では行おうと思ってもなかなか行えない。日本という国の土壌がこうしたものを生み出しにくいということもあるし、やろうと思っても観客がついてこない可能性が高い。

翻案と演出を手がけたマリー・ブラッサールは、実は日本では中谷美紀が主演した「猟銃」のカナダプロダクションで主役である三人の女を演じた人であるという。「猟銃」、「アンデルセン・プロジェクト」などと共にカナダ演劇のレベルの高さを思い知らされた上演であった。

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2007年12月25日 (火)

観劇公演パンフレット(22) 「アンデルセン・プロジェクト」

白井晃が初めて取り組んだ一人芝居でもある「アンデルセン・プロジェクト」。カナダ・ケベック州出身のロベール・ルパージュの作・演出です。テキスト日本語訳は松岡和子。
2006年7月15日、兵庫県立芸術文化センター中ホールで観劇、パンフレット購入。

「アンデルセン・プロジェクト」公演パンフレット デンマークの童話作家、ハンス・クリスティアン・アンデルセンの人生を、アンデルセンその人は出さずに炙り出すという、高度な作劇術を持った作品であり、観ているときや、見終わった直後よりも、観てから数日経ってから、描かれた内容の切実さが、そっと、しかし確実に心に染みてくるというタイプの劇です。パンフレットには、ロベール・ルパージュの演出ノート、翻訳家・松岡和子のエッセイ、白井晃により初の一人芝居に対する思いと「アンデルセン・プロジェクト」という作品ならびにルパージュ演出に寄せる文章、アンデルセンの年表、ケベック文化の紹介などが載っています。

「アンデルセン・プロジェクト」概要および感想

西宮の兵庫県立芸術文化センター中ホールで、白井晃の一人芝居「アンデルセン・プロジェクト」を観る。デンマークの童話作家、ハンス・クリスティアン・アンデルセンの、童話ではなく、アンデルセン本人にスポットを当てた作品。といってもアンデルセンの生涯そのものが描かれるわけではない。カナダ・ケベック州の舞台人にしてマルチクリエーターのロベール・ルパージュの作・演出。翻訳はちくま文庫のシェイクスピア翻訳で知られる松岡和子。            

白井晃は、モントリオールで活躍している作詞家のフレデリック・ラポワント、パリ・オペラ座(バスティーユではなく旧オペラ座の方)のディレクターであるアルノー・ギンブレティエール、モロッコからの移民であるラシド・エルワラシの3人を主に演じる(他にもアンデルセン本人になったり、アンデルセン童話に出てくる女の妖精ドリアーデの格好をしたり、同じくアンデルセン童話の「影(影法師)」に出てくる大学教授とその影を演じたりするが、これらはいずれも説明のために挿入された芝居で、「アンデルセン・プロジェクト」という芝居の本筋とは関係がない)。
意外であるが白井が一人芝居を行うのはこれが初めてだそうだ。

現代、パリ。モントリオールで作詞家をしているラポワントは、パリ・オペラ座からの依頼を受けて、アンデルセン童話を原作とした新作オペラの脚本を書くためにパリにやって来た。パリにはラポワントのロックアーチスト時代の友人であるディディエがいるが、彼は麻薬中毒の治療のためモントリオールを訪れることになり、そのためラポワントとディディエは2ヶ月だけ互いのアパートを交換したのだ。ディディエのアパートメントの一階はブルーフィルム(ポルノビデオ)試写室を営業しており、いかにもいかがわしい雰囲気が漂う。そのブルーフィルム試写室で働いているのがモロッコからの移民であるエルワラシだ。

ラポワントは、オペラ座のディレクターであるアルノー・ギンブレティエールと会う。ギンブレティエールは、アンデルセンの童話「木の精ドリアーデ」を子供のためのオペラに仕立てる計画をラポワントに話す。この場面のギンブレティエールは大変な早口で淀みなく語り、ここにギンブレティエールという男の性格が良く出ている。
実はオペラ座としてはイングリッシュ・ナショナル・オペラと合同でイギリスものをやりたかったのだが、最近、北欧方面がないがしろにされているということで、渋々、デンマークものをやることになったのだ。また、カナダともパイプを繋いでおきたいと思っており、カナダ人のラポワントが呼ばれたのはそのためだった。

「木の精ドリアーデ」オペラ化の会議がデンマークのコペンハーゲンで開かれることになる。しかし本来それに参加するはずのギンブレティエールはミラノ・スカラ座の仕事が入ったため、代理としてラポワントを会議に参加させることにする。

コペンハーゲンでの会議の場で、ラポワントは「木の精ドリアーデ」の主題はセックスであり、生涯、誰とも一度も性的関係を持たなかったアンデルセンの願望が表れていると発言する。しかし、子供向けのオペラなのに、例えそれが真実であったとしてもそういうテーマを持ち出すラポワントに賛成するものはいなかった。丁度その頃、パリ・オペラ座には、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の関係者がアポなしでやって来ており、「木の精ドリアーデ」のオペラ化に興味を示す。コペンハーゲンでの会議の模様とメトロポリタン歌劇場関係者の様子を聞いたギンブレティエールはラポワントを降ろし、ブロードウェイの作家にオペラ台本を依頼することを即決する。実はラポワントは白子であり、ギンブレティエールは密かに差別意識を持っていた……。         

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2007年8月28日 (火)

「レッド・バイオリン」オリジナル・サウンドトラック

本日8月28日は「バイオリンの日」なのだそうです。そこで、ジョン・コリリアーノが作曲した、映画「レッド・バイオリン」のオリジナル・サウンドトラックを紹介します。ソニー・クラシカルの録音&発売。

ジョン・コリリアーノ作曲 「レッド・バイオリン」オリジナル・サウンドトラック イタリアで作られた一挺のヴァイオリンが数奇なる運命をたどる様を描いた、カナダ人映画監督フランソワ・ジラールの「レッド・バイオリン」(カナダ・イタリア・オーストリア・イギリス・中国合作)のための音楽。

ジョン・コリリアーノは、現代アメリカを代表する作曲家。彼自身が同性愛者である(エイズをテーマにした交響曲を書いていたりもします)ということも関係しているのかどうかはわかりませんが、妖美な旋律を書かせたら当代一のメロディーメーカーです。「レッド・バイオリン」の音楽で、2000年度のアカデミー賞作曲賞受賞。

コリリアーノ特有の妖しいメロディーが、ミステリアスな雰囲気と奥行きを作り出しています。

演奏は、エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団、ヴァイオリン独奏:ジョシュア・ベル。

ボーナストラックとして、コンサート用の作品である「『レッド・バイオリン』より~ヴァイオリンとオーケストラのためのシャコンヌ」を収録。演奏、音楽ともに充実していてクラシック音楽ファンも楽しめます。

レッド バイオリン/Red Violin

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2007年6月16日 (土)

これまでに観た映画より(2) 「レッド・バイオリン」

DVDで映画を観る。カナダ・イタリア・オーストリア・イギリス・中国合作の「レッド・バイオリン」。フランソワ・ジラール監督作品。音楽は現代アメリカを代表する作曲家ジョン・コリリアーノ。バイオリン演奏はジョシュア・ベル。伴奏はエサ=ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団。
1681年、イタリア・クレモナ。名バイオリン職人のニコロ・ブソッティ(カルロ・セッチ)は芸術品以外の何ものでもないバイオリンを製作する。彼の妻、アンナが生むはずの子供にそのバイオリンを捧げ、音楽家にするつもりであった。しかしアンナは難産のため死去。子供も死産であった。絶望に苛まれたニコロは、子供に捧げるはずだったバイオリンに赤い物質を加えた特別なニスを塗る。
こうして出来上がったレッド・バイオリンは数奇な運命をたどることになる。

芸術指向の強い作品である。完成度も高く、特に音楽好きには面白い映画だろう。設定そのものは特に目新しくなく、というよりありがちなのだが、バイオリンという楽器の持つ魔力の援護を得て、説得力を出すことに成功している。

カナダ、アメリカ、オーストリア、ドイツ、フランス、イギリス、中国の俳優が出演。撮影も、クレモナ、ウィーン、オックスフォード、上海、モントリオールなど世界各地で行われた。

時代と場所が次々に飛ぶが(メインは1990年代、カナダ・モントリオールのオークション会場)、わかりにくいということはない。文革期の上海も舞台になっているのだが、いわゆる西洋音楽が排斥された場所と時代を選んだことで奥行きが出ている。

芸術し過ぎてしまっていること、その割りに俗な展開があること、また赤いニスの正体にすぐに察しがつくこと、などを瑕疵と感じる人もいるだろう。芸術映画至上主義の人にも、芸術映画が苦手な人にも積極的には薦めない。芸術映画としてはかなりわかりやすい部類に入るので、それを中途半端と感じるかどうかがこの映画の評価を分けるだろう。ちなみに私は「好き」と感じる側である。

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