これまでに観た映画より(396) 「KANO~1931 海の向こうの甲子園~」
2025年8月21日
U-NEXTで、台湾映画「KANO~1931 海の向こうの甲子園~」を観る。戦前の全国中等学校野球優勝大会(今の全国高等学校野球選手権大会)を描いた、多民族スポーツ青春映画。KANO(かのう)とは、台湾の嘉義農林学校の略称である嘉農のことで、それまで1勝も出来なかった弱小野球部が、甲子園で準優勝するまでを描く、史実に沿った展開である。
出演:永瀬正敏、坂井真紀、大沢たかお、曹佑寧、魏祈安、小市慢太郎ほか。音楽:佐藤直紀。監督:馬志翔
日本が植民地政策を採り、版図を拡大していた頃には、植民地化された土地も日本と同等に扱い、台湾の他にも、朝鮮半島や遼東半島の中学校も甲子園に出場している。また旧制中学校と同様に商業学校が人気だったようで、嘉義農林こと嘉農と対戦する学校の多くが商業学校である。
主演の永瀬正敏演じる近藤兵太郎は、野球指導者として長く活躍した人物である。松山商業の出身で母校の松山商業の監督となるが後に辞任。劇中では指導が厳しすぎたことが示唆されている。その後、1929年に台湾に渡り、嘉農の簿記教諭となって野球部監督に就任する。
劇中では、嘉農の選手達は練習というよりもボール遊びをしており、これでは勝てないのも当たり前。近藤は厳しく、しかし厳しすぎないよう指導しつつ、野球哲学も選手達に叩き込む。近藤の親心のようなものは随所に窺える。
1895年の下関講和条約により、日本に割譲された台湾。清国側は台湾を重要視しておらず、台湾程度で良かったと思ったようである。この時、遼東半島も割譲されているが、大国の圧力、つまり三国干渉によって、後に返上せざるを得なくなる。その後、日露戦争により遼東半島の先端のみ租借権が認められ、結果、この映画にも大連商業が出場している。
台湾を得たとは言え、台湾に住む人々が、「日本人の方々、いらっしゃいませ」と歓迎する訳もなく。台湾を武力で討伐する必要があった。鎮定後、日本政府はインフラを日本本土と同等に整備することに着手。「教育は諸刃の剣」という慎重論もあったが、日本と同等の教育を施し(勿論、日本語必修)、そのため、台湾人も人によって水準は異なるが、日本語を扱えるようになる。この映画では台湾語(福建語)が多く用いられるが、野球部の生徒はたどたどしいながらも日本語を話す。台湾語を話している民衆も、日本語の意味は分かっていることが示唆されている場面もある。
台湾人を加えたチームを差別的に見る人も当然ながらいて、日本人、漢人(大陸、主に対岸の福建省から渡ってきた漢民族)、蕃人(台湾先住民)の混合と呼んでいる。特に日本人以外を見下す意図はなかっただろうが。また、「民族が違うのにコミュニケーション取れるの? 日本語話せるの?」と聞く記者(小市慢太郎が演じている)もいる。今ほど情報が発達していなかったので、台湾の教育事情なども知らなかったのだろう。
ちなみに、後に読売巨人軍に入り、二刀流でも活躍する呉波(呉昌征の名でも知られる)少年が嘉農の野球部に手伝いに来ている。その後、成長した呉波は嘉農の主力として甲子園にも出場することになる。
野球部の主役となるのは、エースピッチャーの呉明捷(日本風の通称はアキラ。演じるのは曹佑寧)。大きく体を捻り、背中を見せてから、左手を落とすと同時に右腕を真っ向から振り下ろすという背負い投げのような投げ方だが、ストレートは速く、バッター達を手こずらせる。野茂英雄のトルネード投法以前にも打者に背中を見せて投げるピッチャーはいて、若林忠志の「ロカビリー投法」などがその代表格である。甲子園での快投に呉には「麒麟児」のあだ名が付く。
ちなみに呉明捷は早稲田大学に進んで野手として活躍し、当時の東京六大学記録となる通算7本の本塁打を放っている。この記録を塗り替えたのが長嶋茂雄である。
近藤の指導により、嘉農野球部はみるみる成長。甲子園の台湾予選大会で初勝利を挙げると、次々に相手を撃破。台湾代表として甲子園に出場することになる。
甲子園のセットだがまずまず立派な作りである。現代の野球と違うのは、監督がユニフォーム姿ではなく背広やジャケット姿であること。サッカーやラグビーの監督のようである。みなそうなので義務だったのであろう。
一塁から二塁、二塁から三塁の間に白線が入れられている。まだヘルメットはなくバッターが帽子を被っている。この時代の投手のストレートは今ほど速くなかったと思われるが、頭に当たったらかなり危ない。捕手もヘルメットではなく帽子で、フォロースルーの大きな打者のバットが後頭部に当たったら危険である。フェンスも当然ながらラバーフェンスではなくコンクリートである。こう考えると、野球がかなり危険なスポーツであることが分かる。
その他の違いとしては、選手に背番号はなく、ピッチャーがマウンドの土を手に擦りつけてから投げてもスピットボールとして退場になることはない。現代のルールでは、「ピッチャーはロージンバッグと球以外には触れてはならない(斎藤佑樹投手のハンカチは厳密には反則)」となっているが、この時代にはまだロージンバッグはないようだ。
また観客席であるが、男女別学の時代であるため、女子が応援席にいることはなく、女性の観客自体もかなり少ない。バックスクリーンがないのは撮影上の理由である可能性が高い。翌1932年の甲子園球場の映像を見たことがあるが、バックスクリーンは存在している。
フェンス直撃の打球を打った選手が、当たったところにサインをする場面があるが、当時の甲子園球場は今より広く、フェンス直撃の打撃を打つ者はまれ(アジア人最初とのアナウンスがある)。1934年の日米野球で、ベーブ・ルースに「Too Large」と言われてから見直しが始まった。
一方、嘉義の人々はラジオの甲子園中継に夢中。なお、「嘉義農林大阪出征」の垂れ幕があり、本土と距離があったためか、甲子園球場が大阪府内にあると思い込まれていたことが分かる。
決勝まで勝ち進んだ嘉農であるが、エースの呉は中指の爪が割けて出血しており、痛みでストライクが入らない。相手は常勝時代の中京商業(現在の中京大中京高校)。エースの吉田正男は、23勝3敗の甲子園最多勝利記録を持つ。もっとも旧制中学は現在の中学校と高校を兼ねた5年制であることを考慮する必要がある。戦後の3年制高校における甲子園最多勝は桑田真澄の20勝3敗で、桑田の記録も今後破られることはないと思われる。
こんな大エース相手に、劣勢のまま、9回2死満塁から、エースの呉は特大の飛球を放ち……。
札幌商業(現在の北海学園札幌高校)のエース、錠者博美(じょうしゃ・ひろみ。演じるのは青木健)は対戦して敗れるも嘉農の野球に感銘を受け、出征の途中に嘉農のグランドを訪れる。これがラストシーンである。ちっぽけで整備が行き届いているとは言えないグラウンド。ただここから甲子園準優勝チーム、錠者が讃えた「天下の嘉農」「戦場の英雄」が出たと思うと夢がある。
嘉義農林学校は、現在、中学(国民中学)でも高校(高級中等学校)でもなく国立嘉義大学となっている。





































































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