カテゴリー「映画」の350件の記事

2021年4月10日 (土)

これまでに観た映画より(255) 役所広司主演「すばらしき世界」

2021年4月7日 京都シネマにて

京都シネマで、日本映画「すばらしき世界」を観る。原作:佐木隆三(『身分帳』)、脚本・監督:西川美和。出演:役所広司、仲野太賀、六角精児、北村有起哉、白龍、キムラ緑子、長澤まさみ、安田成美、梶芽衣子、橋爪功ほか。
これまで自身のオリジナル脚本による長編映画を撮り続けてきた西川美和が、初めて原作ありで撮った作品である(ショートフィルムでは太宰治の「駆込み訴え」を翻案したものを撮っているようだが未見)。佐木隆三のノンフィクション小説『身分帳』が原作であるが、西川監督がこのノンフィクション小説に惚れ込み、自らの企画で撮ることになったようである。ただこの映画でもメッセージをストレートには打ち出さないのが西川美和監督らしい。
封切り当初はシネマコンプレックスなどの大型スクリーンで上映されたが、その時期を過ぎて、今はミニシアターで上映されるようになっている。

これまでの人生のうち28年を獄中で過ごしてきた三上正夫(役所広司)が主人公である。13年前の殺人による服役を終え、旭川刑務所から出ることになった三上は、東京に向かい、身元引受人の弁護士である庄司勉(橋爪功)とその妻の敦子(梶芽衣子)の世話になる。
とにかく稼ぎがないので、庄司のすすめで生活保護を受けることになるのだが、三上は保護を受けることに不満である。また、役所の窓口でケースワーカーの井口(北村有起哉)に見下されたと感じた三上は憤るのだが、高血圧の持病が出て倒れてしまう。怒りが発作を引き起こすようだ。
三上は刑務所内でミシン縫いの技術を得ていたが、それを生かせる仕事はない。
凶悪犯が更生してシャバに戻っても、彼らを受け入れる余地がこの世界にはほとんどないというのが現状である。

三上は私生児として福岡県に生まれ、父親の顔は知らず、母親とは4歳の時に別れて、その後は保護施設で暮らしてきた。十代後半になると関西の暴力団の舎弟となって裏社会を歩き始めるのだが、弱い者いじめが嫌いな一本気な性格であり、13年服役することになった殺人事件もそうした性格が災いしたものだった。
旭川刑務所から離れるバスの中で三上は、「今度ばっかりは堅気ぞ」と誓うのだが、昔からの性質はそう簡単には直らない。強きをくじき弱きを助ける性格はプラスに働くこともあるのだが、悪と見なしたものを完膚なきまでに叩く性質はトラブルの元となる。

三上はテレビ局に母親を探して欲しいと依頼する。プロデューサーの吉澤遥(長澤まさみ)は、小説家を志してテレビ制作会社を辞めたばかりの津乃田龍太郎(仲野太賀)に、「小説のネタになるから」と三上の取材を命じる。三上は、特別な事情により、「身分帳」と呼ばれる自身について書かれた記録を読んで書き記すことを許されており、津乃田もそれを手に入れた。

普段は温厚に見える三上を吉澤は面白がるのだが、津乃田はそんな吉澤の方針に疑問を感じ始める。ある夜、三上が津乃田と吉澤と焼肉を食べて帰る途中に三上はチンピラ2人に絡まれているサラリーマン風の中年男性を見かけ、男性を助けるのみならず、チンピラと1対2での勝負を挑む。若い頃は「喧嘩のまーちゃん」として恐れられた三上は、勝つためなら手段を選ばず、チンピラを徹底的に伸す。それを面白がってカメラを回すように命じる吉澤に、津乃田は決定的な不審を抱き、テレビ取材から降り、三上からも距離を置くようになる。
その後、暴力団の舎弟時代に車でホステスの送迎をしていたということで、運転の仕事を見つけようとした三上だが、運転免許が失効しており、再び運転免許を取るべく奮闘することに。だがブランクは大きく、すぐには上手くいかない。堅気になると誓ったものの、ヤクザ時代の癖が抜けない三上は、昔馴染みで今は下稲葉組の組長をしている下稲葉明雅(白龍)に会うために福岡県に向かう。しかし、暴力団も今ははやらず、下稲葉の妻のマス子(キムラ緑子)に「この世界に戻ってきてはいけない」と釘を刺されるのだった。

そんな日々の中で、万引きの疑いを掛けられた三上は、そのスーパーの店長である松本(六角精児)と福岡県の隣町の出身ということで次第に仲良くなったり、母親の行方がたどれるかも知れないと再び連絡してきた津乃田とも交流を深め、三上を応援する輪が出来始める。

過去にやったことのある仕事ではなく、新たに仕事を始めてはどうかという井口のアドバイスに従い、三上は介護施設の時短パート職員となることに成功する。就職祝いには庄司夫妻や松本、津乃田が集い、温かな雰囲気に包まれる。だが、介護施設でのある出来事とそれに耐えたことが三上に決定的な不幸をもたらす。

この世は、三上のような男が生きるには、余りにも歪んでいる。力のあるものが暴力で、あるいは権力で力のないものや障害を抱えたものを見下し、ねじ伏せる。三上は義憤に駆られて「やられたらやり返す」のみならず「倍返しだ」というあのドラマの主人公のようなことをしてしまう癖があるのだが、それでは生きていけない。「半沢直樹」はあくまで現代版時代劇、勧善懲悪の物語として受け入れられているのであるが、現実に半沢直樹的生き方を貫くことは難しく、三上も妥協を余儀なくされ、だがそれによって起こった怒りを貯めてしまったがために、せっかく得られた友たちに別れを告げなくてはならなくなる。
確かに三上的な生き方もある意味では魅力的ではあるのだが、社会はそうした生き方を認めるほどヤワでもなければ、理想的でもないということなのだろう。

三上という男の不器用な生き方を真似しようとは思わないが、彼のような人間を受け入れる場所がもっとあったなら、世界はより多くの人にとって「すばらしき」ものになるような気もする。

役所広司が殺人犯を演じた映画としては、まず「うなぎ」、他に「CURE」や「叫」などもそうだが、そうした精神的な疾患を抱えた殺人犯と、今回の三上のような義を通すことに忠実な男とを見比べて見るのも一興のように思う。
今でも世界はある種のすばらしさに満ちているが、三上が描いた未来の先に、更なる「すばらしき世界」が開けているようにも思うのだ。

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2021年4月 7日 (水)

これまでに観た映画より(254) 「レンブラントは誰の手に」

2021年4月3日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「レンブラントは誰の手に」(原題:「マイ・レンブラント」)を観る。ウケ・ホーヘンダイク監督作品。

オランダを代表する絵画の巨匠、レンブラント(1606-1669)。世界中にファンを持つ有名画家だが、彼が残した作品に対するそれぞれのスタンスを持った人物達の姿が、皮肉を交えて描かれる。

最も好意的に描かれているのは、スコットランドのバックルー公爵で、映画の最初とラストに彼が登場する。所蔵するレンブラントの「読書する老女」に心底惚れ抜いており、売る気など全くなく、毎日のように眺めては悦に入っているという正真正銘のレンブラント好きである。

他の登場人物はバックルー公爵に対比される役割となっており、俗物っぽく描かれているが、これはホーヘンダイク監督の切り取り方に由来する部分も多いと思われる。
画商のヤン・シックス11世(貴族の家系)は、競売の場で、「これはレンブラントの真作ではないか」と思われる作品の存在に気づき、作品を手に入れる。それまで周りから画商としての確かな評価を得られてこなかったものの、彼の目は確かで、全くといっていいほど注目されていなかったその作品がレンブラントの真作であると断定され、一躍時の人となるのだが、競売の際に「共同購入という形にしたい」と申し出ていた友人の画商を出し抜く形になったために訴えられ、更にレンブラントの作品かどうかを鑑定することで交流が芽生えていた大学教授とも絶縁することになる。

富豪のロスチャイルド家が、多額の相続税を払う必要が出たために、所蔵していたレンブラントの作品を、1億6000万ユーロという高値で売りに出すという話も描かれる。手を挙げたのはアムステルダム国立美術館とパリのルーブル美術館。しかし、1億6000万ユーロは高すぎるため、「共同購入にしよう」とアムステルダム国立美術館が提案。その後、アムステルダム国立美術館はレンブラント作品購入のための寄付を募り、レンブラントの祖国ということもあって、1億4000万ユーロと、あとちょっとで単独購入出来るだけの寄付金が集まる。ルーブル美術館が行っている寄付が完全な空振りとなっていることを知ったアムステルダム国立美術館側に「単独購入しよう」という動きも出るのだが、共同購入を申し込んだのがアムステルダム国立美術館側だったことから、倫理上難しいということになる。更に国家の威信をかけた動きが、背後で動き始めており、ついには「政争」にまで発展する。

「結局は金」という言葉も出てきており、本来のレンブラント作品や芸術の価値とは全く違った基準で起こっている美術界の出来事が描かれている。
だが、これはホーヘンダイク監督の芸術観と取材に基づいた編集がなされており、「芸術の価値は金や名誉とは別」という価値観が正しいとも言い切れないように思われる。少なくとも「紋切り型」という印象は受ける。単に愛好する(アマチュア)だけでなく、見抜いたり動いたりといったプロの働きも芸術には大切なはずである。

とはいえ、死んでから何百年も経つというのに、人々を感動させるのみならず、その作品の価値故に人間関係を破綻にまで導いてしまうレンブラント。天才とはげに怖ろしきものである。

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2021年4月 2日 (金)

これまでに観た映画より(253) 「きまじめ楽隊のぼんやり戦争」

2021年3月29日 京都シネマにて

京都シネマで日本映画「きまじめ楽隊のぼんやり戦争」を観る。監督・脚本・編集・絵:池田暁。出演:前原滉、今野浩喜、中島広稀、清水尚弥、橋本マナミ、矢部太郎、片桐はいり、嶋田久作、きたろう、竹中直人、石橋蓮司ほか。

群馬県でロケが行われており、富岡製糸場の建物なども登場する。

津平町という架空の町が舞台である。津平町は、川を挟んで隣り合う俵万智、じゃなかった太原町と戦争状態にある。だが何のための戦争なのかは誰も知らない。津平町の人間は、「太原町の人々はとにかく怖ろしい」、「太原町はとても怖い」と口にするのだが、誰も太原町に行ったことはなく、どう怖ろしいのかも知らない。映画のタイトル通り、ぼんやりとしか分からない相手との戦争を続けることになる。

戦争は、午前9時から午後5時までと時間を決めて行われる。津平町の人々は、町を練り歩く楽隊の音楽によって目を覚まし、兵隊の庁舎に集う。露木(前原滉)と友人の藤間(今野浩喜)は、並んで出勤し、準備体操などを経て、河原に腹ばいになり、午前9時になると太原町側に向かって銃撃を行う。太原町の兵隊の姿は見えないので、適当なところに向かって指定された数以上の銃撃を行い、午後5時に戦争は終わる。太原町側からも銃撃はあり、藤間は被弾して右腕を失うことになる。

ある日、露木は楽隊への異動を命じられる。楽隊のトランペット奏者であった大木(竹中直人)が他界し、学生時代に吹奏楽でトランペットを吹いていた経験のある露木に白羽の矢が立ったのだ。楽隊は毎朝町を練り歩いているので、存在していることは確かなのだが、その存在を認知していない者もおり、本部がどこにあるのかも知られていない。露木が探し当てた楽隊の本部は怖ろしく狭い部屋であり、楽隊を率いる伊達(きたろう)はパワハラ上司だった。

楽隊に入る前から、露木は川向こうの太原町からトランペットで奏でられる「美しく青きドナウ」の旋律の一部を耳にしていた。楽隊に入った露木は河原で「美しく青きドナウ」のメロディーを吹く。すると対岸からもそれに答えるメロディーがあり、ユニゾンで「美しく青きドナウ」が演奏される。ある日、太原町のトランペット奏者が姿を現した。若い女性だった(クローズアップのカットはないので容姿などははっきりとはわからない)。

池田暁監督の演出方針で、演技はかなり抑制されており、台詞なども淡々と語られる。そのため非現実的に見えるが、これは現代社会そのものの戯画であり、今現在、日本や世界で問題になっていることがトレースされた形で表現される。

津平町の町長である夏目(石橋蓮司)は、かなりいい加減な性格であり、部下の顔や名前を覚えず、毎朝、兵隊たちの前で太原町の脅威を語るが、その実態は把握していない。そして警官の上本を常にそばに侍らせている(当然ながら上本の名前をしょっちゅう忘れる)。夏目の息子の平一(清水尚弥)は窃盗の常習犯なのだが、夏目の職権乱用により警官に抜擢される。津平町では、女は子どもを産むために存在しており、子どもが産めないと見なされた女性は離婚されても仕方ないと思われている。また、伊達に「生意気だ」と目をつけられ、パワハラを受けていた女性奏者(打楽器担当)の小坂が楽隊の同僚である坂本(トロンボーン担当)と結婚するとわかると、伊達もいきなり手のひらを返し、それまで優遇されていた未婚の女性がいじめの対象に変わる。子どもを産むことが正義だからだ。

兵隊は毎朝、兵舎に出向いて、出席の確認を行うのだが、受付の女性がいかにもお役所的な対応を行うため、技術者の仁科(矢部太郎)や隻腕となった後の藤間とは話がかみ合わず、堂々巡りが始まってしまう。いずれも大袈裟に描かれてはいるが、実際に今も起こっている現象である。右腕を失った藤間は兵隊としての任務に就けなくなるのだが、保障は一切ない。これまでずっと兵隊としての任務に就いていたため、他に生活出来る手段もないのだが、「そんなの知らん」という態度で済まされる。これも障害者が雇用から排除されている現状を映している。露木がいた川の下流では戦闘もそれほど激しくないのだが、上流では大激戦となっているそうで、露木が毎日昼になると通う㐂多山食堂の女主人・城子(片桐はいり)は、息子が優秀なので川上に送られ、奮闘していることを自慢に思っている。実際の戦争でもそうだと思うが、優秀な人材というのは官庁でも一般の企業でも様々な業務を押しつけられることになるため、激務になりやすい。今は「ブラック企業」という呼称と共に周知されるようになったが、以前は、若い人には余り知らされてこなかった日本型労働の影である。いずれも非現実性を持って描かれているが、日本の縮図でもある。

仮想敵を作って相手を攻撃することは、20世紀においては共産主義の国家の常套手段であったわけだが、それ以外の国でもそうしたことは昔から行われていたわけで、21世紀に入ってからは、むしろかつての西側の国でそうした政策が採られるようになっている。日本も例外ではない。

味気ない津平町の世界にあって、露木が唯一、誰かと心を通い合わせることの出来る瞬間が、川向こうの女性とトランペットで「美しく青きドナウ」を奏でる時であった。この映画では意図的に主要キャストに美男美女ではない俳優を配することで、そうしたちょっとした幸福が引き立つ効果を生んでいる。映画の主役といえば美男美女という常識に挑戦しているようでもある。
どことなくユーモラスな展開であるのだが、内容自体はシビアであり、ラストでは分断がもたらす破滅や自滅が描かれている。

一般受けする内容ではなく(なにしろ大手映画会社の作品とは違い、美男美女が余り出てこない)、入りも悪かったのだが、かなり優れた映画であり、お薦めである。観る前は余り期待していなかったのだが、予想が良い方に裏切られた。

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2021年3月23日 (火)

これまでに観た映画より(252) スピルバーグ製作「SAYURI」

2008年6月17日

DVDでアメリカ映画「SAYURI」を観る。スティーヴン・スピルバーグ製作、ロブ・マーシャル監督作品。主演:章子怡(チャン・ツィイー)。出演は、鞏俐(コン・リー)、ミシェル・ヨー、桃井かおり、役所広司、工藤夕貴、大後寿々花、渡辺謙ほか。アメリカから見た日本が描かれているため、実際の日本や日本文化とは異なるところが多くある。

第二次世界大戦前後の、京都・祇園を舞台にした作品である。主役である「さゆり」は芸者。京都なので芸妓が正しいが、“GEISHA”や“MAIKO”は英語で通じても、“GEIKO”は通じないので、芸者でもいいだろう。

京都が舞台であるが、セリフの大半は英語。ただ、背景で時々日本語が聞こえてくる。

映像もセットも美しく。話も美しい。全てが「美しい」の一言で済んでしまうところが惜しいが。

舞いの名手である章子怡の舞いは、怖ろしいほどの美しさを持つ。

それにしても、さゆりの子供時代を演じる大後寿々花の演技の上手いこと上手いこと。これだけの子役を良く見つけてきたものである。

音楽はジョン・ウィリアムズ。ヴァイオリン演奏はイツァーク・パールマン、チェロ演奏はヨーヨー・マ。実に豪華な顔ぶれだ。旋律がたまに中国しているのが気になるが、章子怡と鞏俐という中国の二大女優の共演でもあり、中国風の音楽であっても文句はいえないだろう。

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2021年2月22日 (月)

これまでに観た映画より(251) ロビン・ウィリアムズ主演「いまを生きる」

2021年2月20日

配信でアメリカ映画「いまを生きる」を観る。1989年の制作。シンセサイザーを使ったモーリス・ジャールの音楽が時代を感じさせる。ピーター・ウィアー監督作品。ロビン・ウィリアムズ主演作。脚本のトム・シュルマンが、第62回アカデミー賞で脚本賞を受賞している。内気な少年、トッド・アンダーソン役でイーサン・ホークが出演。ニール・ペリー役のロバート・ショーン・レナードとイーサン・ホークは後に劇団を結成したりもしたようだ。

1959年、バーモント州にある名門寄宿学校、ウェルトン学院(ウェルトン・アカデミー)が舞台である。卒業生の約75%がアイビーリーグ(アメリカの大学に詳しくない人のために、字幕では「8名門大学」と訳されている。ハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学、ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ペンシルベニア大学の8つの東海岸北部の私立大学)に進むという進学校だが、ウェルトン学院に掛けてヘルトン学院(地獄学院)と生徒達に揶揄されるほど厳格な校風である。

ウェルトン学院に英語教師(日本でいう英語の教師ではなく、国語の教師とも違い、文学指導の先生である)、ジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)が赴任してくる。ウェルトン学院のOBであるが、それまではロンドンのチェルシーにある学校で教師をしていた。
ジョン・キーティングは、アカデミックな詩の教育ではなく、自らが主体となる文学を授けるべく、教室だけではなく、学校の廊下や中庭などでも独自の授業を開始する。人生の短さにも触れ、「いまを生きる」ことの大切さを生徒達に教え、自身のことも「キーティング先生」と呼んでもいいが、ホイットマンがリンカーンに捧げた「おお、キャプテン! 我がキャプテン!」にちなんで「キャプテン」と呼んでも良いと生徒達に伝える。生徒達はキーティングのことを「キャプテン」と慕い始める。

学年トップの成績を誇るニール(ロバート・ショーン・レナード)がキーティングがウェルトン学院に在学していた時の年鑑を見つける。ケンブリッジ大学に進学希望で、「死せる詩人の会」というサークルに所属していたことを知った生徒達は、詩の朗読や創作を行うサークルであった「死せる詩人の会」を復活させ、キーティング在籍時代の「死せる詩人の会」も根拠地としていた洞窟の中で自由な青春を謳歌する。内気な少年であったトッド・アンダーソン(イーサン・ホーク)も「その場にいるだけ」という条件で「死せる詩人の会」に参加する。

やがて「死せる詩人の会」メンバー達の生活に変化が起こる。ノックスは、他の高校に通うクリスという女の子(チアリーディングを行うなど、なかなか活発な女子のようである。演じるのはアレクサンドラ・パワーズ)に一目惚れし、彼女に捧げる詩を作る。
詩の創作に乗り気でなかったトッドもキーティングの前で即興で詩を作ることになり、内面が解放されていく。
ニールは、俳優になりたいという夢を見つけ、「真夏の夜の夢」の舞台公演のオーディションに参加、一番人気であるパック役に抜擢される。
だが、そうした自由さはウェルトン学院の校風にそぐわず、やがていくつかの悲劇が訪れることになる。

硬直した校風のエリート校に風穴を開ける教師と、それまでとは違った価値観を見出すことになる若者達の物語である。文学作品、特に詩が主軸となっており、実学とは異なり「人生を豊かにする」文学作品の素晴らしさが語られる。ただ一方で、文学作品の自由な解釈に関しては私は懐疑的で、内容を把握する努力を怠る危険性を感じたりもするのだが、21世紀に入ってから文学軽視の風潮は世界的により高まっており、こうした映画によって言葉で語り、表現し、受け取ることの素晴らしさを人々に広めて貰えたらとも思っている。

名門大学進学のために「今」を犠牲にする風潮も、私達の世代ほどではないが、現在も日本では根強い。実は青春時代に身につけておかなければならないことは勉強以外にも数多い。きちんと語り、受け取る技術もそれで、若い時代に身につけておかないと挽回は難しい。この映画が制作された1989年や舞台となった1959年とは比べものにならないほどの情報社会が訪れ、文章による伝達の機会も多くなったが、青年期に文学作品にきちんと向かい合う人が少ないため、極々初歩的なやり取りも成立せず、勘違いに勘違いが重なるケースが後を絶たない。「自分自身で考える」「自分の言葉を用いる」ということは、当たり前のようでいて実は難度はかなり高い。相手がいる以上、自己流を貫いてばかりでは伝達は成立しない。そこには人文的素養が必ず必要になってくる。

劇中で、キーティングが机に上に立って視点を変えることを奨励する場面が出てくる。ラストではキーティングはウェルトン学院を去ることになるのだが、彼の志は何人かの生徒に確実に受け継がれるであろうことが見て取れる。1年前に他界した野村克也は、後藤新平の「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」という格言を愛したが、キーティングは進学実績を残す前に学院を去るも人を遺すことには成功したのだ。人に教える人間としては、「上」であったと言える。

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2021年2月21日 (日)

観劇感想精選(385) 佐藤隆太主演 舞台「いまを生きる」(再演)

2021年2月13日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後1時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、舞台「いまを生きる」を観る。ロビン・ウィリアムズ主演の名画の舞台化で、今回は再演となる。主演は佐藤隆太。

佐藤隆太主演の「いまを生きる」が再演されるという情報は得ていたのだが、チケットの取り扱いがイープラスとローソンチケットとぴあの電話予約だったということもあり、いつどこで上演されるのかまでは掴んでいなかった。先月、野村万作萬斎の狂言公演を観に行った際に、サンケイホールブリーゼエントランス近くのチラシコーナーで「いまを生きる」のチラシを見つけ、「佐藤君主演だったら観なきゃな。『エブリ・ブリリアント・シング』では良い経験させて貰ったし」というわけでイープラスでチケットを取った。

佐藤隆太も女性のファンが多い俳優だが、それに加えて、ジャニーズJr.のメンバーが出演するため、客席の大半は若い女性である。

今回の「いまを生きる」は、オフブロードウェイで上演された作品の日本語上演版である。「いまを生きる」には、生徒が自殺するシーンがあるのだが、映画から起こした台本を使って高校演劇として上演されたことがあり、その高校で数ヶ月前に自殺事件が発生していたため、「倫理的にどうか」と疑問視されたことがある。ただ、今回はそれとは別のバージョンである。

脚本:トム・シュルマン(映画版脚本。第62回アカデミー賞脚本賞受賞)、演出・上演台本:上田一豪(うえだ・いっこう。東宝演出部所属)。
出演は、佐藤隆太、佐藤新(ジャニーズJr.)、瀬戸利樹、影山拓也(ジャニーズJr.)、基俊介(ジャニーズJr.)、三宅亮輔、市川理矩、日向なる、飯田基祐、佐戸井けん太。

日本初演は2018年で、3年ぶりの再演となる。

舞台となるのは、アメリカ北東部、バーモント州にある寄宿学校(ボーディングスクール)、ウェルトン・アカデミーである。アイビーリーグに多くの生徒を送り出している名門校であるが、その手の学校にありがちなように、保守的で厳格な校風であり、教師や親からの「幸福の押しつけ」が起こりやすい環境である。
そこに赴任して来た新人英語教師(日本のように非英語圏の人に英語を教えるわけではないので、日本でいう国語教師に近い。ただアメリカには当然ながら本当の意味での古文や漢文などはないので、教えるのは文学作品中心である)のジョン・キーティング(佐藤隆太)。ウェルトン・アカデミーのOBである。初登場シーンでは、口笛でベートーヴェンの「歓喜の歌」を吹きながら現れる(原作映画では別の曲である)。まず最初の「詩とは何か」の定義で教科書に書かれていることを否定し、真の意味での優れた文学教育や人間教育に乗り出していく。ただ、寄宿学校に通う生徒の両親は、往々にして金持ちだが保守的で息子の進路を勝手に決めてしまうというタイプが多いため、ジョンのやり方は次第に非難を浴びるようになっていく。ウェルトン・アカデミーの校長であるポール・ノーラン(佐戸井けん太)も自由さや独自性を重視するジョンのやり方を問題視するようになっていった。

ジョンは、生徒達に詩作を行うことを薦める。最初の内は戸惑っていた生徒だが、次第にジョンに共鳴するようになり、クラスで首席を取りながら、親が決めた道に進まざるを得ない状況となったニール(瀬戸利樹)も、ジョンに触発されて以前から興味のあった俳優の仕事に興味を持ち、他校で行われる「真夏の夜の夢」のオーディションに参加、一番の人気役であるパックにキャスティングされて大喜びである。
ジョンは、生徒達に机の上に立って、視点を変えるといったような発想法の転換などを中心に教えていく。

思春期の男の子達ということで、一番の話題はやはり恋愛。寄宿学校は男子生徒のみであり、女子との接点は少ないのだが、ノックス(影山拓也)は、パーティーで知り合ったクリス(日向なる)に一目惚れ。何かと話題にしている。

男子生徒達は、ウェルトン・アカデミー在学時代のジョンに興味を示し、残された文集やデータなどから、ジョンがウェルトン時代に「死せる詩人の会」という詩の朗読サークルに所属していたことを知る。現在は残っていないサークルだったが、生徒達は再興することを決め、文学と自由を謳歌するようになるのだが……。

ニールは「真夏の夜の夢」に出て好評を得たが、父親のペリー(飯田基祐)から、俳優などやらず、ハーバード大学の医学部に進み、医者になるよう強制される。それが代々のペリー家の男子の生き方だったようだ。苦悩するニールは最終的には拳銃自殺を選んでしまうという、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の系譜に列する作品でもあり、子ども達への「愛情」のあり方が問われている。

ジョンが最初に生徒に教えたのは、ホイットマンがリンカーン大統領の思い出に捧げた「おおキャプテン! わがキャプテン!」であり、ジョンも教師というよりキャプテンであることを生徒に印象づける。この「おおキャプテン! わがキャプテン!」は、亡くなったリンカーンを死にゆく船長になぞらえたもので、内容自体は不吉であり、ジョンのその後を予言する結果となっている。

結局、ジョンは、保守的な学校体制には勝てず、寄宿学校を去ることになるのだが、最後に生徒達は机の上に立ち上がり、「おおキャプテン! わがキャプテン!」と唱えて、ジョンを支持するのであった。

 

アメリカの学園もの映画の中では、「いまを生きる」以外に、リチャード・ドレイファス主演の「陽のあたる教室」なども好きなのだが、「陽のあたる教室」も日本でも舞台化されており、まだ東京に通っていた頃なので、私は世田谷パブリックシアターで観ている。主演は水谷豊で、大阪ではシアター・ドラマシティで公演が行われたようである。息子役が黒田勇樹であったのが良かったのか悪かったのか今となっては微妙に思える。

 

カーテンコールでは佐藤隆太が、本日の話し手として、リチャード・キャメロン役の市川理矩を指名。キャメロンは、生徒達が「おおキャプテン! わがキャプテン!」でジョンを讃えている時に、自己保身のため一人だけ立ち上がることの出来ない生徒なのだが、市川が「机の上に立ってみたかった」と言ったため、特別にキャメロンも立ち上がるバージョンのラストシーンが演じられることになる。途中で自殺してしまうニール役の瀬戸利樹も冗談で参加しようとするが、佐藤隆太が、「いや、ニールがいるのはおかしい」と突っ込んだためすぐに退場する。
キャメロンが机の上に立って、「おおキャプテン! わがキャプテン!」をやった時には、客席が若い女の子中心ということで、黄色い声や笑い声、拍手などが鳴り響いた。

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2021年2月19日 (金)

これまでに観た映画より(250) 麻生久美子主演「ハーフェズ ペルシャの詩(うた)」(第20回東京国際映画祭にて)

2007年10月25日 東京・渋谷の東急Bunkamuraシアターコクーンにて

午前10時32分京都発の新幹線で東京に向かう。第20回東京国際映画祭コンペティション作品「ハーフェズ ペルシャの詩(うた)」を観るためである。

午後3時30分、シアターコクーン開場。シアターコクーン内に入ろうとする我々の横を逆方向(つまり劇場内)からふらりとやって来た若者数人が通り抜ける。その中の一人をよく見ると俳優の安藤政信であった。安藤政信、ふらりと普通に出てこないでくれ、驚くじゃないか。
「ハーフェズ ペルシャの詩」は、麻生久美子初となる海外進出作品であり、麻生久美子が上映終了後舞台挨拶に登場する。安藤政信と麻生久美子は友人なので、おそらく安藤政信は麻生久美子の楽屋を訪れていたのだろう。

「ハーフェズ ペルシャの詩」はイラン映画。アボルファズル・ジャリリ監督作品である。ジャリリ監督は映画「カンゾー先生」を観て麻生久美子に惚れ込み、長年に渡りオファーを続けてきたそうだ。麻生久美子は業界や同業者にファンが多いことでも知られるが、イラン人映画監督までファンになってしまうとは。何か凄いな。
麻生久美子は日本人ではなく、ペルシャ人を演じる。セリフもペルシャ語とアラビア語だ。ただし見た目はどう考えてもペルシャ人ではないので、ペルシャ人とチベット人のハーフという設定にしてある(ただ、後日確認したところ、イランには日本人風の見た目の人も多いらしい。麻生久美子のイラン旅行記も読んだが、親日家が多く、日本語が出来る人も珍しくないそうである)。

内容は難解ではある。説明をなるべく省くというスタイルを取っているからだが、非常にロマンティックで愛らしい作品だ。

コーランを暗唱出来る聖人のことを指すハーフェズ。そのハーフェズを目指すシャムセディン(メヒディ・モラディ)は、一方で詩の創作に興味を持っており、詩の塾に通っている。しかし、ハーフェズは詩などを作ってはならないと諫められ、詩作は辞める。コーランの暗唱試験に合格し、見事ハーフェズとなったシャムセディン。シャムセディンことハーフェズは、街の宗教指導者(大師)から、チベットから帰ってきたばかりの娘ナバート(麻生久美子)のコーランの家庭教師としてつくよう求められる。
顔を合わせることなく侍女の監視付きでコーランの授業を進めるハーフェズとナバートだが、ナバートは詩に興味を持っており、ハーフェズに様々な質問をする。それに答えるハーフェズ。いつしか二人は互いを恋するようになるのだが、その恋が認められるはずもなく、ハーフェズは裁判により有罪となり、ハーフェズの称号を奪われ、鞭打ち50回の刑を受ける。ハーフェズではなくなったシャムセディンは煉瓦工場で肉体労働をすることに。
一方、ハーフェズとの恋路を絶たれたナバートは鬱状態に陥る。祈祷師がいくら祈ってもナバートの鬱は快癒しない。

元ハーフェズのシャムセディンとのやり取りを何とか許されることで鬱を脱したナバート。だが、ナバートは大師の部下で宗教学者である、元ハーフェズと同名のシャムセディン(メヒディ・ネガーバン)という男と無理矢理結婚させられてしまう。だが、宗教学者のシャムセディンも、元ハーフェズのシャムセディンに尊敬の念を抱いており、ナバートに手を触れようとはしなかった。

元ハーフェズのシャムセディンは、恋を忘れる儀式として鏡を持って各地の村を周り、各村で一人の処女に鏡を磨いて貰う。全部で七人の処女に鏡を磨いて貰えば恋が忘れられるというのだが、鏡を磨く儀式は本来は恋を成就させるための儀式である……。


麻生久美子は思ったより出番が少ないのだが、それでも重要な役割を務めている。

ジャリリ監督は、脚本、監督、撮影などを一人で手掛けている。登場人物がスクリーンを横切る形で走ったり歩いたりするシーンが多いのが印象的。人物の水平移動をこれほど徹底して撮る監督も珍しい。

ラストシーンがまた素晴らしい。押しつけがましさの全くないラストであり、説明的要素もほとんどないのだが、素直に“ああ、良かったね”と喜べる。

イラン映画なのに、どこか懐かしさを感じるのは、日本の民話や世界各国に古代から伝わる話に通底するものがあるからかも知れない。
邦題だけでなく、この映画自体が本当に「詩」だと思う。


上映終了後、麻生久美子とジャリリ監督が登場。主に記者を対象にしたティーチインが行われる。
麻生久美子は劇中でも着ていたイランの民族衣装を着て登場。だが、本人いわく、「映画で見慣れたのか(お客さんに)余り驚いて貰えなくてちょっと残念」とのこと。

ジャリリ監督は、「素敵な夜空を見ていたらこの風景を人に伝えたくなるんだ」といったようなことも話し、司会者の方から「ロマンティックな監督ですね」と言われていたが、「ハーフェズ ペルシャの詩」自体が大変ロマンティックであり、やはりこういう作品はロマンティックな人でないと撮れないだろう。


麻生久美子の海外映画デビューを祝えるのは嬉しい。それも欧米作品ではなくイラン映画で、更に監督に出演をせがまれてというのがいいじゃないか。

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2021年2月18日 (木)

これまでに観た映画より(249) 長谷川一夫主演「四谷怪談」

2007年9月8日

DVDで長谷川一夫主演の「四谷怪談」を観る。1959年、大映作品。三隅研次監督作品。
「四谷怪談」というタイトルで、民谷伊右衛門とお岩を始め、登場人物も原作にほぼ忠実なのだが、民谷伊右衛門を悲劇のヒーローに仕立ててしまうという異色作。京極夏彦原作、蜷川幸雄監督の「嗤う伊右衛門」など同類の作品もあるが、「四谷怪談」と銘打っておきながら別の話にしてしまうというのは凄い。

浪人・民谷伊右衛門(長谷川一夫)は清廉な人柄。袖の下を通すのが嫌で職にありつけない。それでも妻のお岩(中田康子)とともに内職などをしながら清貧の生活を送っている。ある日、職を求めて代官・伊藤喜兵衛のところに出向いた伊右衛門。しかし、「今どき金も渡さず職にありつこうなんて」と伊藤に小馬鹿にされて帰る。ところが、伊藤の娘であるお梅(近藤美恵子)が伊右衛門に惚れてしまった。だが、お岩という妻があるため、伊右衛門はお梅を相手にしない。そこで伊藤や伊右衛門の家に出入りしている直助(高松英郎)はお岩に毒を盛り、顔を醜くして伊右衛門と離縁させようと謀る……。

ラストでは、伊右衛門が伊藤の家にお岩の恨みを晴らすべく討ち入るという妙な展開になる(長谷川の当たり役である大石内蔵助を意識したのだろうか)。こういう四谷怪談もありだとは思うが、その場合はタイトルを変えるなり、付け加えるなりした方がいいと思うのだが。人によっては、「こんなの四谷怪談じゃない」と怒るかも知れないし。

映像は美しく、構図も綺麗。時には繋ぎが不自然になってでも絵のようにバランスの良い構図を重視する。
耽美的な四谷怪談になっているが、それが物足りなくもある。


同時期に新東宝は天知茂主演の「東海道四谷怪談」を制作、公開している。長谷川一夫には敵わないと、低予算で、無名の天知茂を起用して作った「東海道四谷怪談」であるが、こちらは長谷川一夫版「四谷怪談」とは比較にならないほどの傑作となった。床に水を張った直助殺害シーンなどはアイデアも仕上がりも素晴らしいの一言である。

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2021年2月16日 (火)

これまでに観た映画より(248) 章子怡主演作「ジャスミンの花開く」

2007年8月17日

DVDで中国映画「ジャスミンの花開く」を観る。章子怡(チャン・ツィイー、チャン・ツーイー、ZHANG Ziyi)主演。「ラストエンペラー」のジョアン・チェンや、張芸謀監督作品への出演も多い姜文も出演している。ホウ・ヨン監督作品。

ジャスミンを漢字で表記すると茉莉花であるが、そこから取った、茉(Mo)、莉(Li)、花(Hua)という名の親子三代に渡る女性の物語。名前の付け方がイージーな気もするし、茉、莉、花の三人とも章子怡が演じるというのも変だが、まあいいだろう。
少し前の暗い中国映画の雰囲気を引きずっているような映画。茉、莉、花ともに男運が悪く、苦労する。

上海が魔都と呼ばれていた時代。写真屋の娘である茉(章子怡)は、店頭に飾ってあった写真を見た映画プロデューサーの孟(姜文)に見初められ、映画女優としての道を歩き始める。しかし、上海事変など、戦時色が強くなる中で映画会社は解散、孟は有り金全てを持って香港へと逃げてしまう。茉は孟の子を身籠もっていたが、捨てられた格好となった。茉と孟の子は女の子で莉と名付けられる。

18年後、莉(章子怡)は、文革の時代の少し以前に、高傑という男性に恋をする。高は労働者階級で、共産党員である。母親の茉(ジョアン・チェン)は結婚に反対するが、それを押し切って莉は高と結婚する。だが、高の実家のいかにも労働者階級的な生活に絶えきれなかった莉は実家へと戻る。高が莉の実家へとやってきて、新たな生活が始まる。しかし、莉は子供が産めない体質であり、そのことを気に病んでいる。高は養子を貰うことで莉を納得させ、花という女の子を養子とする。
しかし、莉の精神状態は更に悪化していった。

13年後、花(章子怡)は、杜という男と恋に落ちる。杜は蘭州にある大学に入学することが決まっている。杜が蘭州に向かう前に、花は祖母の茉には内緒で杜と入籍する……。


監督のホウ・ヨンは、張芸謀の下で撮影監督をしていた人。それだけに色彩感覚は鋭く、茉の時代はグリーンを、莉の時代は赤などの暖色系を、花の時代はブルーを基調とした美しい映像を撮る。
章子怡の演技力も非常に高い。
莉と血のつながりのない花も章子怡が演じていたり、ストーリーに新しさが感じられなかったりと、問題点もあるが、映像に浸る感じで観れば楽しめる。ただ、悲惨な展開が多いため、一昔前の暗い中国映画が苦手な人は観ない方が良いかも知れない。

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2021年2月12日 (金)

コンサートの記(694) 加古隆コンサートツアー2007「熊野古道」@いずみホール

2007年7月1日 いずみホールにて

午後4時30分より、大阪・京橋にある、いずみホールで、加古隆コンサートツアー2007「熊野古道」を聴く。前半は加古がこれまでに作曲した有名曲の演奏、後半は加古の最新アルバムである「熊野古道」の音楽をメインとしたプログラム。
今回の加古隆のコンサートは、臨時編成の室内オーケストラ、そして、東京と大阪では人気サキソフォン奏者の須川展也(すがわ・のぶや)をゲストに迎えて行われる(名古屋、札幌など、その他の地域では室内オーケストラのメンバーでもある番場かおりがゲストである)。

加古隆は、1947年、大阪生まれ。東京藝術大学と同大学院で作曲を専攻した後、パリ国立音楽院に留学し、オリヴィエ・メシアンに作曲を師事。一方、パリではジャズピアニストとしてもデビューしている。現代音楽とイージーリスニング、ジャズの要素を取り入れた独自の作風を持ち、NHK「映像の世紀」、映画「大河の一滴」、「阿弥陀堂だより」、「博士の愛した数式」、テレビドラマ「白い巨塔」(2003-2004。唐沢寿明主演版)など話題作の音楽を数多く手がけていることでも知られる。

加古隆の特徴は、ミニマルミュージックの影響を受けた反復の心地よさと、やや感傷的だが美しいメロディーラインにある。ピアノは左手で同型のモチーフが繰り返され、その上に優美な旋律が右手で繰り出される。
時に曲がセンチメンタル過ぎる場合もあり、私も「大河の一滴」のテーマなどは余り好きになれない。一方で「パリは燃えているか」(NHK『映像の世紀』テーマ曲)などは大好きで、千葉にいる頃はピアノソロ版の楽譜を手に入れてよく弾いていた。
ちなみに私が加古隆の音楽を初めて聴いたのは、藤子・F・不二雄原作の映画「未来の想い出」(森田芳光監督作品。主演:清水美砂、工藤静香、和泉元彌。何だか凄いキャストである)において。映画の音楽を手がけていたのが加古隆であった。

アルバム「熊野古道」では、須川展也がサキソフォンで参加、金聖響(きむ・せいきょう)が指揮を担当しているが、今日のコンサートには金聖響は出演せず、加古本人が指揮も行う(指揮といっても拍子を刻むのが主で、本格的なものではない)。
三重県からの委嘱で作曲され、丁度1年前、2006年7月1日に津市で初演されたという、「熊野古道」は全4楽章からなり、第2、第3、第4楽章でサキソフォンが活躍する。弦楽とピアノ、サキソフォンという編成、ミニマルミュージック風作風ということで、少し弱腰のマイケル・ナイマンの音楽のようにも聞こえる場面もあったが、日本的な旋律は紛れもなく加古隆のものであり、特に第4楽章は感動的であった。

アンコールは須川展也をフィーチャーし、「パリは燃えているか」のピアノ&サキソフォン特別版、そして「黄昏のワルツ」(NHK『にんげんドキュメント』テーマ曲)が演奏される。聴衆は熱狂し、拍手は長いこと鳴りやまなかった。

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