カテゴリー「映画」の336件の記事

2021年1月25日 (月)

これまでに観た映画より(243) 「かくも長き不在」

2021年1月19日

録画してまだ観ていなかった映画「かくも長き不在」を観る。1961年制作のフランス映画。監督:アンリ・コルピ。脚本:マルグリット・デュラス&ジェラール・ジャルロ。第14回カンヌ映画祭パルムドール受賞作である。主演は、「第三の男」のアリダ・ヴァリ。「世界映画史上最も長い歩くだけのシーン」で歩いていた人である。「第三の男」の頃は若かったアリダ・ヴァリだが、「かくも長き不在」は「第三の男」の12年後の制作、ということでアリダ・ヴァリは印象も役どころも異なる。

「かくも長き不在」は名画として有名であるため、テレビで放送される機会も比較的多く、私も十代の頃にBSで放送されたものを観ているが、鑑賞するのはそれ以来となる。マルグリット・デュラスによる脚本はちくま文庫から発売されており、現在も入手は可能。高値は付いているが、大きめの図書館などには置いてあるはずである。デュラスの映画・演劇用台本(『インディア・ソング』、『ユダヤ人の家』、『ヴィオルヌの犯罪』、『苦悩』など)は重層的な構造を持つものが多いが、「かくも長き不在」の脚本は共作ということもあってか、比較的シンプルな筋書きを持つ。

1960年のパリが舞台である。テレーズ・ラングロワ(アリダ・ヴァリ)はパリでカフェを営んでいる。パリ祭(7月14日)が終わり、常連客を含むパリ市民の多くがバカンスに出掛け、パリを離れられない者だけが残る。

テレーズの店の前を、浮浪者風の男が毎日のように通り過ぎる。男はロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」より“陰口はその風のように”を口ずさんでいる。最初は気にも留めなかったテレーズだったが、ある日、間近で見た男が夫のアルベール・ラングロワに似ていることに気付く。アルベールは16年前、ドイツ占領下のショーリュでパリ祭の日にドイツ秘密警察(ゲシュタポ)に逮捕され、それ以降、消息を絶っていた。テレーズはアルベールが行方不明になってからも再婚はせず、苗字も戻さず、夫が帰ってくるのを待っていたのだ。

男の名は身分証明書によるとロベール・ランデ(演じるのはジョルジュ・ウィルソン)。記憶喪失となっており、昔のことは覚えていない。ロベール・ランデが本名なのかどうかも不明である。テレーズは男の後を付け、セーヌ川沿いの廃屋で暮らしていることを突き止める。男は、午前中は古紙を拾って生活費を稼ぎ、午後は雑誌の切り抜きをして過ごしている。
テレーズは、ロベールがアルベールであることを確かめるために親族(アルベールの叔母と甥)を呼び、「セビリアの理髪師」のレコード(EP)を手に入れて掛け、ロベールを店に誘い込む。アルベールらしき男の前でアルベールに関する話をするテレーズ達。しかし、テレーズがアルベールだと信じているロベールは、話を聞いても何も思い出さない。そして親族が出した結論は、「あれはアルベールではない」

テレーズは再びロベールの廃屋に行き、食事に誘う。音楽を聴きながら恋の始めをやり直そうとするテレーズの姿がいい。テレーズもロベールもとうに中年に差し掛かっているのだが、仕草は二十代の始めのようであり、まるで青春映画のワンシーンのようでもある。音楽やダンスの記憶はあり、ロベールこそアルベールだと多くの人は確信することになると思うが、テレーズはこの時、残酷な事実を発見をする。結局、ロベールは記憶を取り戻せず、テレーズは記憶を取り戻すのを待つことに決める。

「待つ」ということが重要なテーマとなっており、それは単にロベールの記憶ではなく、更に大きな何かを感じさせるところがある。ドイツ侵攻によって無残に奪われた16年という歳月を取り戻すためか、あるいはいったんは失われた幸せの到来か。それよりも大きな恩寵か。とにかく待ち続けるという人生そのものの、若しくは人生最大の主題が、大仰にならない形で描かれている。完全な屈服は認めない。それこそが人々を不幸の底へと陥れた戦争への最大のレジスタンスでもある。

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2021年1月24日 (日)

これまでに観た映画より(242) 周防正行監督作品「それでもボクはやってない」

2007年3月15日 TOHOシネマズ二条にて

TOHOシネマズ二条で周防正行監督作品『それでもボクはやってない』を観る。久しぶりに映画館に行ったが、「映画館で観ることが出来て良かった」と思える作品に久々に当たった。秀作であった。

『それでもボクはやってない』は、『Shall We ダンス?』から11年ぶりとなる周防監督の新作。周防監督は『Shall We ダンス?』公開後は著述業やプロデューサー業をしながら、「どうしても撮りたいもの」を探し続けており、2002年の秋から痴漢冤罪事件に関する取材を開始、30件、200回以上に渡る裁判を傍聴、約200人に話を聴き、200冊以上の参考文献に目を通し、取材時期は3年以上に及んだという。
周防監督はもともと題材を丹念に探し、取材を徹底して行うタイプだが、3年以上というのは異例である。

監督・脚本:周防正行。主演:加瀬亮。出演:役所広司、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、小日向文世、尾美としのり、鈴木蘭々、光石研、正名僕蔵、唯野未歩子(ただの・みあこ)、NHKドラマ「ハゲタカ」で知名度が急上昇中の大森南朋(おおもり・なお)、そして周防ファミリーである竹中直人、田口浩正、清水美砂(のちに清水美沙に改名)らが出演している。

笑えるエンターテインメントを作ってきた周防正行監督だが、今回の『それでもボクはやってない』は、取り調べから裁判の過程を通して「人間」の問題を問うた極めてシリアスでシビアな作品である。

配役の妙もある。裁判長に善人も悪人も巧みに演じる小日向文世を当てたことでスリルが増す。痴漢被害者で、加瀬亮演じる金子徹平を誤認逮捕する女子中学生役には真面目で可愛らしく傷つきやすい雰囲気を持ち、声も幼い感じの女の子(柳生みゆ)を起用、徹平や観客の「冤罪を作ってしまった者に対する憎悪」を見事に逸らしてしまう。またミステリアスな雰囲気を持つ唯野未歩子を「痴漢でないことを見ていた」証言者として用いたのも効果的だ。

検察の取り調べのシーンもあるが、例えばキムタク主演のテレビドラマ『HERO』のようなちゃらちゃらしたものではなく、自然に身につけてしまう悪意を前面に出すなど、非人間性の表れを冷徹に示してみせる。

エンターテインメントというと、出演者が騒いで楽しく楽しくというものをイメージするが、『それでもボクはやってない』もエンターテインメントだ。そして『HERO』と『それでもボクはやってない』どちらがエンターテインメントしているかと聞かれたら、私は『それでもボクはやってない』の方が『HERO』の100倍エンターテインメントしていると答えるだろう。

『それでもボクはやってない』は観る者に普通とは違った意味での肯定を与える。勇気づけられる人も多いはずだ。

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2021年1月23日 (土)

これまでに観た映画より(241) 「カッコーの巣の上で」

2007年3月14日

DVDでアメリカ映画「カッコーの巣の上で」を観る。1975年度のアカデミー作品賞受賞作品。ミロス・フォアマン監督、マイケル・ダグラス製作、ジャック・ニコルソン主演。

精神病院を舞台にした名作との誉れ高い作品である。タイトルは「カッコーの巣の上で」というものだが、ご存じの通りカッコーは巣を作らない鳥である。意味深長なタイトルだ。

前科者で何度も刑務所に入っているマクマーフィ(ジャック・ニコルソン)は今度は刑務所行きを逃れるために精神異常を訴えて精神病院の閉鎖病棟に送り込まれる。しかし、そこは徹底して管理された非人間的社会であった……

決して心楽しくなる映画ではない。マクマーフィによって精神病院から一時的に抜け出した患者達が魚釣りに出かけたりする場面に痛快さを覚えることはあるが、後半、特に結末近くは陰惨であり、生きるということの難しさと痛々しさが胸に迫る。

本当に人間らしくあるといはどういう事なのかという問いがある。精神病患者を精神病患者として扱っても人間として扱ってもそこには矛盾が生じてしまう。そもそも人間らしさという概念そのものが曖昧なのに人間らしさというイメージをなんとなく共有していることは世界としてまっとうなのだろうか。

全米から1200人以上も集まったオーディションを勝ち抜いた精神病院入院患者役の俳優達の演技は実に上手い。日本にも精神病患者を演じるのが上手な俳優もいるが質量共にアメリカには勝てないだろう。まあ、映画層も俳優層もアメリカは日本とは比べものならないほど厚いのでそれは当然なのだが。

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2021年1月19日 (火)

R.I.P. 大城美佐子 「十九の春」(映画『ナビィの恋』より)

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2021年1月15日 (金)

これまでに観た映画より(240) 「ラ・ラ・ランド」

2021年1月11日 新京極のMOVIX京都ドルビーシネマにて

MOVIX京都ドルビーシネマで、ミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を観る。英語表記だと「LA LA LAND」と「LA」が3つ重なるが、これは「LA」ことロサンゼルス(Los Angeles)が舞台になっていることにも由来する。脚本・監督:デミアン・チャゼル。音楽:ジャスティン・ハーウィッツ。出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、ジョン・レジェンド、ローズマリー・デウィット、J・K・シモンズほか。2016年の公開(日本では2017年公開)。高音質のドルビーシネマの登場に合わせてのリバイバル上映である。

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アメリカ文化が背景にあり、名ミュージカル作品へのオマージュに溢れているため、そういった知識が十分にない人は意味を100%掴むことは難しいかも知れないが、ストーリーは複雑でないため、楽しむのには何の問題もない。

セブ(本名はセバスチャン。ライアン・ゴズリング)は売れないジャズピアニストだが、アメリカにおけるジャズ文化の衰退が背景にある。私がジャズを本格的に聴き始めた1990年代にはすでに、アメリカにおいては「ジャズはコンテンポラリーな音楽ではない」と見なされていた。勿論、偉大な現役のジャズミュージシャンは何人もいるが、ジャズ・ジャイアンツといわれた時代の人々は、モノクロの写真や映像の時代に活躍している。この映画にも写真が登場するチャーリー・パーカー然り、ビル・エヴァンス然り、会話に登場するサッチモことルイ・アームストロング然り。マイルス・デイヴィスはカラーの時代の人だが、故人である。彼らに匹敵するジャズメンははもはや存在しないというのが現状である。セブの弾くジャズがオーナーの怒りを買ったり、ヒロインのミア(エマ・ストーン)が平然と「ジャズは嫌い(英語のセリフを聞くと、思いっきり“I hate Jazz.”と言っている)」と言ってセブが激怒するという背景にはこうした事実がある。日本でも人気のあるケニー・Gの話も出てくるが、どうもアメリカではイージーリスニング扱いのようである。

ハイウェイの通勤ラッシュのシーンから始まる。夏の朝のロサンゼルス、気温は摂氏29度。少しも進まぬ渋滞に皆イライラしている。そんな時にある黒人女性が路上に降り立ち、歌い踊り始める。すると人々は次々に車のドアを開けて歌とダンスに参加する。曲が終わると、人々は車に戻り、元の渋滞へと帰る。やがて車が動き始めるのだが、一人で車に乗っていた女優志望のミアはセリフの練習をしていたため発車が遅れ、後ろにいたセブにクラクションを鳴らされる。セブはエマの車に横付けして「何をやってるんだ?」という顔。出会いは最悪だった。そしてその夜、二人は偶然再会する、という一昔前に流行ったトレンディードラマのような展開を見せる。

その後も突然歌ったり踊ったりがある(タモリさんが嫌いそうな)王道のミュージカル的展開で話は進む。

ミアは、女友達と共同生活を送りながらオーディションを受ける日々を続けている。普段は撮影所の近くのカフェでアルバイトをしているが、たまに有名俳優がその店を訪れることがあるようだ。なんとかかんとか一次オーディションを通ったのだが、二次オーディションではセリフを言い終わらないうちに落選を告げられ、落ち込む。

一方、セブは、オールドジャズに憧れを持っているのだが、西海岸ということもあって音楽好きからも理解が得られない。レストランのピアノ弾きに採用されたが、ジャズを弾いたためオーナーからその場で解雇を言い渡される。その場にたまたまミアが居合わせることになった。ただここでの再会もまた最悪のうちに終わる。
セブはオールドジャズのための店を開くという夢を持つが資金がない。
その後、セブは余りパッとしないバンドにキーボーディストとして加わり、またも偶然、ミアと再会する。急速に距離を縮めていく二人。セブはミアにも店をやりたいという夢を語り、ミアは女優を目指す理由を幼少期の思い出から物語る。
ある日、昔なじみのキース(ジョン・レジェンド)と再会したセブは、セッションに加わる。キースは、電子音を用いたジャズを行っているのだが、セブはそれには違和感を覚える。キースはマイルス・デイヴィスの話を持ち出す。

ここでなぜマイルス・デイヴィスなる人物の話が登場するのかわからない人もいると思うが、マイルス・デイヴィスは初めてジャズにエレキ音を取り入れた人であり、その他にもラッシュフィルムに即興で音楽を付けるなど(「死刑台のエレベーター」)次々と新しい試みを行って「ジャズの帝王」と呼ばれた人物である。セブはマイルスに比べて保守的に過ぎるというキースの意見が語られている。
随分昔、黛敏郎が「題名のない音楽会」で司会を務めていた時代に、ジャズの特集が放送されたことがあったのだが、黛がエレキを取り入れたマイルスのジャズに「これはもうジャズではなくロックだ」と否定的な見解を述べていたのを覚えている。

本心からやりたい音楽ではなかったが、店を始めるための資金を稼ぐため、セブはキースのバンドに加わり、レコーディングを行い、全米ツアーに出る。かなり売れているバンドのようだ。ミアはセブが出演しているライブを聴きに行くが、熱狂する観客の中にあってセブの存在が遠くなるのを感じる。ただセブの方もやりたい音楽が全く出来ないばかりか、プロモーションに継ぐプロモーションという環境に嫌気が差し始めていた。

一方、ミアは女優の仕事がないなら自分で作るということで、一人芝居の戯曲を書き、劇場を借りて上演することに決めた。主人公の名はジュヌヴィエーヴ。名作ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」のヒロインの名前である。出身地であるボールダーを舞台にした作品だ(上演中のシーンは出てこないため、筋書きや内容は一切わからない)。セブはミアに自分のツアーに帯同してはどうかと誘うが、ミアは稽古のための時間が取れないと断る。すでに同棲を始めていた二人だったが、次第に境遇に差が生まれていた。

小劇場で行われたミアの一人芝居だが、知り合いとそのほか数名が観に来ただけで不入り。更に楽屋に戻ったミアは、帰る途中の観客がミアの演技と作品を酷評しているのを聞いてしまう。仕事で劇場に駆けつけるのが遅れたセブがようやく劇場の前に到着。だが己の才能に絶望したミアはセブの言うことも聞かず、女優の夢を諦めて故郷のボールダーに帰ることを決意する。
再び一人で暮らすことになったセブだが、ある日、一本の電話が入る。配役エージェンシーからのもので、ミアの一人芝居を観た映画関係者が彼女の演技を観て気に入り、呼びたいとの申し出があったという。配役エージェンシーはミアがまだセブと同棲しているものだと思い込んでセブのスマホに電話をかけてきたのである。セブはすぐにボールダーのミアの実家に向かって車を飛ばす。

 

「シェルブールの雨傘」からの影響が特に顕著であり、あの物語をもっと納得のいく形で終わらせたいという思いがあったのかも知れない。
「シェルブールの雨傘」では、共に金銭的に成功しながら完全なる別離という残酷な結末を迎えた男女だったが、この「ラ・ラ・ランド」では成功しつつも別の道を歩んだことを後悔はせず、むしろ互いを祝福しているように見える。
成功を夢見る若者が押し寄せる希望と絶望の街、ロサンゼルスが舞台となっているが、エマ・ストーン演じるミアは夢見る人々への讃歌を歌い、セブはささやかではあるが確固とした幸せを手にしている。別れを描いているにも関わらず、清々しい気持ちになれる佳編であった。

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2021年1月11日 (月)

これまでに観た映画より(239) 「アイデン&ティティ」

2006年12月12日

DVDで映画「アイデン&ティティ」を観る。俳優の田口トモロヲがメガホンを取った作品。原作:みうらじゅん、脚本:宮藤官九郎。出演:峯田和信、麻生久美子、中村獅道、マギーほか。

4人組のバンド・スピードウェイ。メジャーデビューしたばかりのスピードウェイだが、メジャーになっても生活が良くなるわけではない。バンドマンは使い捨てであり、明日が見えるわけでもない。
スピードウェイのギタリスト・中島(峯田和信)は、バンドの楽曲を一人で制作しているが、自分達が目指す音楽と音楽業界との間に隔たりを感じ、自分達は本当のロックをしていないと痛感している。そんな中島の前にボブ・ディランが現れる……

予想していたよりもずっと良い映画だった。ロックの映画だが、心を揺り動かすのではなく、胸にそっと染み込みタイプの物語だ。かといってロックしていないわけではなく、配分が絶妙である。
宮藤官九郎の脚本の巧さが光るが、あるいは宮藤自身がロックバンドのメンバーであることも関係しているのかも知れない。音楽もやる人の脚本はやらない人の脚本とは違うはずだし、この「アイデン&ティティ」の脚本もある意味音楽的である。

麻生久美子がかなり理想化された大人の女性を演じている。ああいう出来た女性はまずいないはずだが、本当にいたらいいな、と男ゆえに馬鹿である私は叶わぬことを思ってしまうのだった。

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2021年1月 8日 (金)

これまでに観た映画より(238) 「罪の声」

2021年1月4日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、日本映画「罪の声」を見る。グリコ・森永事件をモデルとした未解決事件に巻き込まれた子ども達の視点を中心に描いた作品。原作:塩田武士。監督:土井裕泰。脚本は「逃げるは恥だが役に立つ」の野木亜紀子。出演:小栗旬、星野源、市川実日子、松重豊、梶芽衣子、古舘寛治、宇野祥平、篠原ゆき子、原菜乃華、阿部亮平、火野正平、尾上寛之、橋本じゅん、川口覚、阿部純子、塩見三省、宇崎竜童ほか。音楽:佐藤直紀。

NHKがドラマ&ドキュメンタリーで制作した「未解決事件」でも第1作で取り上げられたグリコ・森永事件(NHKスペシャル「未解決事件 グリコ・森永事件」のドラマ部分主演は上川隆也)。多くの物的証拠や目撃証言が残りながら、今なお犯人像は藪の中という不可思議な事件であり、今に到るまで「逮捕出来ない理由があった説」「犯人外国人説」など様々な説が浮かんでは消えている。身代金を要求しながら犯人グループは一銭も手にしておらず、直接的な死者が出たわけでもなく、とにかく他に例を見ない奇妙な事件であった。いくつかある説の中で株を操作して儲けたのではないかという説をこの映画では採用しているが、たんなる愉快犯説、怨恨説などもある。
奇妙なことだらけの事件であるが、その中でも特に奇妙だったのが、電話で流された犯人からの指示メッセージである。録音された子どもの声によるものだった。グリコ・森永事件が振り返られる時にも、この声の主が誰でなぜ録音されるに到ったのか、またこの子ども達は今どうしているのかが最大の謎として立ちはだかる。「罪の声」はこの子どもの声による指示メッセージに注目して書かれたフィクションである。

製菓メーカーなどは架空のものに入れ替わっており、時効となったこの事件を取材することになった阿久津英士(小栗旬)が所属するのも大阪大日新聞という架空の新聞社で、大阪市役所の庁舎が大日新聞の社屋という設定で登場する。

架空の物語ではあるが、事件の経緯自体はグリコ・森永事件をほぼなぞっており、「キツネ目の男」も登場する。

京阪神地区を中心とする関西一円が舞台となっており、登場人物達も関西の言葉を話す。


京都でテーラーの二代目として働く曽根俊也(星野源)は、ふとしたことからギンガ・萬堂事件(略称「ギン萬事件」。グリコ・森永事件がモデル)で犯人が用いたメッセージに使われたのが幼い頃の自分の声だったことを知り、動揺する。父親の光雄(尾上寛之)が俊也の思い出の品をまとめたと思われる缶の中から、1984年に録音されたカセットテープが見つかったのだが、警察への指示メッセージの前には、わらべの「もしも明日が」を歌う幼い頃の俊也の声と、亡き父の笑い声などが入っていた。しかし、セットになっていると思われたメモ帳には英文が綴られていた。テーラーであった父にこれほどの英語力があったとは思えず、また字も父親のものではない。実は俊也には、「死んだ」と聞かされていた伯父の達雄がいた。「死んだ」というのは嘘だったのだが、達雄は姿をくらませており、生きているのか死んでいるのかもわからない。

大日新聞の記者、阿久津英士は、元々は社会部にいたのだが、事件取材のあり方に疑問を感じ、今は文化部に異動している。しかし、社会部から昭和の未解決事件を追跡する特別企画を任されることになり、ギン萬事件を追ううちに、やはり事件について調べている俊也の存在に気付く。

電話から流れた子どもの声によるメッセージは3回、いずれも違う子の声によるものだった。俊也と阿久津は残された二人の声の主を探すことになる。

犯人グループは暴力団の組長を中心に、暴力団から賄賂を受け取っていたことが発覚して懲戒免職になった元警官・生島秀樹(阿部亮平)、チンピラなどで構成されていたが、その中に俊也の伯父である達雄がいたことがわかる。達雄は若い頃は学生運動に身を捧げており(京大全共闘出身のようである)、権力というものに反感を抱いていた。父親が過激派に殺されたのをきっかけに左翼運動に傾倒し、革命を夢見ていたのだが、その後の学生運動の迷走に嫌気がさし、単身ロンドンへと渡っていた。そこに学生時代に柔道を通して知り合いになった生島が訪ねてきて、警察や世間に一泡吹かせてやりたいという話を持ちかける。達雄は自らの正義を完遂するために、ブレーンとして犯人グループに加わる。

「正義」というといかにも格好良く、死者を出さなかったということでフェアを気取っていたのかも知れないが、結局の所、製菓メーカーや食品会社が業績不振となり、規模縮小による解雇などで多くの人が不幸になっている。そしてそうしたことに関する想像力は一行に働いていない。俊也は事件について全く覚えていなかったため、普通に暮らし、妻子を得て仕事も順調であったが、カセットテープに録音された幼い頃の声を聞き、それまでと同じ精神状態で過ごすことは難しくなる。そして残る二人の声の主、実の姉弟は事件発生直後から暴力団によって軟禁状態に置かれるなど悲惨な人生を歩むことになっていた。真の悪の前には、自称「正義」はなんとも軽薄である。
メッセージに子どもの声を選んだのは、捜査の攪乱も狙っていたが、「子どもならそのうち声も変わる」という理由も含まれていた。声が変わってしまった後では心に傷も残らないと考えたようだが、そうした考えもやはり浅い。
「正義」は結局、私怨に過ぎず、「正しさ」自体が嘘だったのだ。

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2021年1月 4日 (月)

これまでに観た映画より(237) 「さよならみどりちゃん」

2006年11月5日

DVDで日本映画「さよならみどりちゃん」を観る。「この窓は君のもの」、「ロボコン」の古厩智之監督作品。女性漫画家・南Q太の漫画が原作。
「3年B組金八先生」の乙女ちゃん役でおなじみの星野真里主演。共演は西島秀俊、岩佐真悠子ほか。

素直なことだけが取り柄であるOLのゆうこ(星野真里)は元バイト先の先輩であるユタカ(西島秀俊)と結ばれて幸せ一杯。ところが、ユタカから「みどり」という名の彼女がいると知らされてショックを受ける。それでもユタカが好きなゆうこは、ユタカの勧めで仕事帰りにスナック「有楽 YouLark」でのバイトを始める。ユタカの働くカフェバーで優希(岩佐真悠子)という女の子が働き始める。優希に「ユタカさんの彼女ですか?」かと聞かれたゆうこは違うと否定する。優希もユタカが好きで彼女になってみたいと言う。彼女じゃないから、とゆうこは答えた。
ユタカの優しさに惹かれるゆうこ。だが、ユタカの優しさはいい加減さと表裏一体であり、またユタカは誰に対しても優しいのだった……

自己が希薄で、すぐに流されてしまうゆうこ。映画の中でも成長は見られず、このまま人生駄目駄目街道を歩み続けそうだが、一途なところがあるため、鈍くささよりも愛らしさを先に感じてしまう。

大人になれない大人のユタカであるが、あるいは一度はゆうこに「No」と言って貰いたかったのかも知れない。言って貰ったからと言ってユタカが成長するとも、ゆうこが成長するとも限らないのだが。

星野真里のかなり長いヌードシーンがあるが、エロティックな感じが余りしないのは、「二人(ゆうことユタカ)はまるで捨て猫みたい」に見えるからだろうか。実に切ないのである。

ユーミンの「14番目の月」、“次の日からは欠ける満月より 14番目の月が一番好き”という歌詞を持つ曲を、ゆるーく歌うゆうこは本当に魅力的である。多分ゆうこは14番目の月にも満月にもなれないだろうし、救いがあるわけでもないのに何故か救われたような気分になれる。
「14番目の月」は主題歌としても用いられている。

古厩監督は最初の頃は矢口史靖監督と良く比較されたが、矢口監督がエンターテインメント路線を歩み続けているのに対し、古厩監督は独自の路線を進みつつあるようだ。電車の音や子供達の遊ぶ声など、街の音をそのまま効果音として使うところや、本来なら少しはカメラが寄りそうなところを全く寄らずにフラットに撮っているところなどが興味深い。

なお、星野真里はこの映画で、「ナントの勅令」で有名なフランス・ナントの映画祭の主演女優賞を獲得している。


昨日、「洛北日和」に“十四番目の月”というタイトルでモノクロームの写真を載せた。タイトルはもちろんユーミンの「14番目の月」に由来しているのだが、その翌日に「14番目の月」を主題歌にした映画を観るという偶然。大した偶然ではないけれど、人生は不思議だ。

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2020年12月29日 (火)

2346月日(26) 東京芸術劇場オンライン「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦――芸術と矯正の融合を目指して――」

2020年12月21日

東京芸術劇場のオンラインイベント、「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦 ――芸術と矯正の融合を目指して――」を視聴。約3時間の長丁場である。事前申し込み制で、当初定員は先着100名であったが、申し込みが多かったため、150名に増えている。

事前に、稽古やワークショップの様子や、本番のダイジェスト映像、資料などにアクセスするURLが書かれたメールが送られて来ており、それに目を通すことで、内容がわかりやすくなるようになっている。

ドイツで刑務所の受刑者に演技指導をして上演するという活動を続けているアウフブルッフ(ドイツ語で「出発」という意味)の芸術監督で舞台美術家のホルガー・ズィルベによるレクチャーと、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」にも出演していた毛利真弓(同志社大学心理学部准教授、元官民協働刑務所民間臨床心理士)による日本の刑務所で矯正のために行われている治療共同体(Therapeutic Community。頭文字を取ってTCと呼ばれる)の活動報告、そしてホルガー・ズィルベと毛利真弓の対談「矯正教育による芸術の可能性」からなるオンラインイベントである。モデレーターは、明治大学国際日本学部教授の萩原健(専門はドイツの演劇及びパフォーマンスと日本の演劇及びパフォーマンス)。

アウフブルッフは、刑務所演劇を専門に行っている団体ではなく、フリーのプロ演劇カンパニーだそうで、1996年に結成。翌1997年から刑務所演劇に取り組みようになったという。

アウフブルッフが本拠地を置くベルリン都市州は大都市ということもあって犯罪率も高めだが、「移民が多い」「教育水準の低い人が多い」「再犯率が高い」という特徴があるそうで、刑務所演劇によって再犯率が低くなればという狙いもあったようだが、演劇を行ったことで再犯率に変化があったかどうかの立証は不可能であるため、統計も取られていないようである。
「移民で教育水準が低い」と悪条件が重なった場合はドイツ語も喋れないため、犯罪に手を出す確率は高くなることは容易に想像される。また職業訓練も上手く受けられない場合も多いようだ。そうした状態にある人に芸術でのアプローチを試みたのが、ズィルベ率いるアウフブルッフである。アウフブルッフは、ドイツの他にもロシアやチリの刑務所での上演も行っているようだ。

刑務所演劇の意義として、刑務所のマイナスイメージに歯止めをかけることが挙げられる。受刑者以外で刑務所に入ったことのある人は余り多くないため、その中やそこから出てきた人に対するイメージはとにかく悪い。ただ、刑務所で受刑者が演じる演劇を観て貰うことで、両者を隔てる壁が少しだけ低くなるような効果は生まれる。少なくとも「断固拒絶すべきスティグマ」ではなくなるようである。
1997年にドイツ最大の男性刑務所であるテーゲル司法行刑施設での、「石と肉」という作品で上演が始まり、今に到るまでベルリンの全ての刑務所で公演を行ったほか、外部プロジェクトとして元受刑者で今は社会に出ている人などをキャスティングし、プロの俳優や市民と共同で上演を行う混成アンサンブルによる上演が、博物館、裁判所、教会、ベルリンの壁記念碑の前などで行われているそうである。

ちなみに小さい刑務所の場合は上演を行うスペースがないため、代わりに演劇のワークショップなどを行っているという。

キャストであるが、刑務所側が止めた場合(暴行罪や暴力癖のある人)を除くと希望者がトレーニングを受けて本番に臨むというスタイルのようである。アウフブルッフ側は敢えて受刑者の知識は入れないようにしており、罪状なども一切知らないで稽古を進めるようだ。最初は1回4時間の稽古を4~6回行い、その先に行きたい希望者向けに計300時間ほどの稽古を行うという。刑務作業以外の自由時間は全て稽古に費やす必要がある。無断欠席を3回行った場合は脱落者と見做されるそうである。

ラップや合唱など、コーラスを使った演出も特徴で(演出は全てペーター・アタナソフが行っている)、その他にもセリフの稽古、書き方のワークショップなどが音楽の練習と並行して行われる。本番は6回から14回ほど、キャパは75人から250人までだそうである。受刑者には芸術に触れた経験も興味もない人も多いため、最初は暇つぶしのために参加したり、人から勧められて参加したりと、前向きな理由で加わる人はほとんどいないそうだが、稽古を重ねるうちに社会性が高まる人もおり、更に本番では観客からの拍手を受けるのだが、それが生まれて初めての称賛だったという人も多いそうで、「人生で初めて何かを最後までやり遂げた」と感激の表情を浮かべる受刑者もかなりの数に上るそうである。これにより自信を付け、自己肯定感を得て再犯率も減り……、だといいのだが先に書いたとおり、再犯率低下に演劇が貢献しているのかどうかまではわからないようである。
ただ、刑務所に入るまでに抱き続けていた劣等感は、仮にたった一時であったとしても振り払えるため、何らかの形での再生に繋がっている可能性は否定出来ないように思う。
稽古の終わりに、毎回、キャスト全員で反省会を行い、各々の意見を述べるのだが、これも受刑者がそれまでの人生で余りやってこなかったことであり、人間関係と他者の存在とその視点を知るという意味では有意義なように思われる。

ズィルベによると犯罪者はいずれ社会復帰することになるため、社会の側も刑務所演劇を観ることで受刑者に対する新たな見方を得て彼らを受け入れるための準備をすることが出来る。そうした意味での刑務所演劇の可能性も語られた。

 

毛利真弓による刑務所の報告。「プリズン・サークル」の舞台となった島根あさひ社会復帰促進センターという半官半民の刑務所で臨床心理士をしていた毛利だが、島根あさひ社会復帰促進センターでTCを受けた人の再犯率は9.5%と、TCを受けていない人達の19.6%より優位に低かったそうである。
日本の刑務所は、あくまで収監し、懲役を行うのが主目的で、社会復帰のための教育は遅れているのが現状であり、職業訓練などはあるが、再犯防止のための教育策は基本、取られてこなかった。それでも2006年から少しだけ風向きが変わっているという。

島根あさひ社会復帰促進センターでは、アミティという海外で考え出されたプログラムを使い、イメージトレーニングや加害者と被害者を一人二役で演じる自己内対話を経て他者の視点を得る訓練、また受刑者が受刑者に教えるというシステムもあり、他者と接する機会を多く設けている。これまでの日本の刑務所は他者と触れ合うこと自体が禁じられていることも多かったため、画期的なことであったといえる。

島根あさひ社会復帰促進センターは、初犯の男性受刑者のみが収監されるが、それまでの人生で他者と向き合う機会がほとんどなかったという人も少なくなく、「他者を通して自己と向き合う」「生身の人間のリアルに触れる」ことを目標としたトレーニングが組まれているようである。

ホルガー・ズィルベが島根あさひ社会復帰促進センターの情報を得て、「社会と繋がっていないように感じる」と述べたが、やはり日本の場合、受刑者が社会と直接的な繋がりを持つのは難しいだろう。刑務所演劇の場合は、目の前で受刑者が演技を行い、終演後に観客と受刑者が会話を交わすことも許されているようだが、日本の場合は受刑者という存在に対するスティグマがかなり強いため、少なくともドイツと同様というわけにはいかないように思う。

「犯罪の加害者と上演をしているが、被害者とはどうなんだ?」という視聴者からの質問が来ていたが、被害者とは接点が持てないそうで、まず被害者同士で纏まるということもなく、接触も禁じられているため、手を打とうにも打てないようである。加害者が出演している芝居を観た被害者から一度連絡が来たことがあったそうだが、その一例だけのようである。

刑務所演劇も稽古や上演に到るまで、何ヶ月にも渡って行政と話し合いを持ったそうだが、最終的には「やってやる!」というズィルベの意志が勝ったそうで、毛利も「日本では(刑務所演劇は)難しい」ということを認めながら、「違いを超える」必要性を説いていた。

折しも、日本では第九の季節である。シラーとベートーヴェンが唱えたように「引き裂かれていたものが再び結び合わされる」力にもし演劇がなれるとしたのなら、それに携わる者としてはこの上ない喜びである。

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2020年12月24日 (木)

コンサートの記(674) 「京都市交響楽団 クリスマスコンサート」2020

2020年11月20日 京都コンサートホールにて

午後3時から京都コンサートホールで、「京都市交響楽団 クリスマスコンサート」を聴く。
メインはレイモンド・ブリッグズ原作の無声アニメーション「スノーマン」(1982年制作)のフィルムコンサートであり、主に子ども向け、親子向けのコンサートである。「スノーマン」のフィルムコンサートは、以前にも京都市交響楽団のオーケストラ・ディスカバリーで園田隆一郎の指揮によって上映されたことがあり、好評を受けての再演ということになったのだと思われる。

今日の指揮者は広上淳一門下の関谷弘志。知名度はそれほど高くないが、「三度の飯よりクラシック音楽が好き」という人なら名前ぐらいは知っているという指揮者である。
関谷弘志は、元々はフルート奏者で、パリのエコール・ノルマルでのフルート科を卒業し、大阪センチュリー交響楽団(現・日本センチュリー交響楽団)のフルート奏者として活躍した後に東京音楽大学の指揮科に入学し、広上淳一と三石精一に師事している。
これまでに仙台フィルハーモニー管弦楽団副指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢の専属指揮者などを経て、現在は同志社女子大学学芸学部音楽学科講師(吹奏楽担当)を務めている。

 

曲目は、第1部「ファンタジック・メロディ」が、ルロイ・アンダーソンの「そりすべり」、「忘れられた夢」、「フィドル・ファドル」、J・S・バッハ/グノーの「アヴェ・マリア」(オーケストラ編曲者不明)、チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」から“花のワルツ”。第2部が、ハワード・ブレイクの音楽による「スノーマン」フィルムコンサートだが、途中休憩はなく、上演時間約1時間に纏められている。

今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置による演奏だが、「スノーマン」の上映のため、ステージは管楽器奏者が一段高くなっているだけで、高さは抑えられている。

今日も客席は前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応布陣となっていた。見切れ席は販売されていないため、集客も抑え気味であるが、それに指揮者の知名度などを加えて勘案すると入りはまあまあといったところである。

関谷弘志の指揮するルロイ・アンダーソン作品は、色彩豊かではあるが表情はやや堅め。昔、ドイツのオーケストラが演奏したルロイ・アンダーソン作品のCD(正確に書くと、ピンカス・スタインバーグ指揮ケルン放送交響楽団のCDである)を聴いたことがあるが、それに少し似ている。もう少し洒落っ気が欲しいところである。

関谷弘志は、マイクを両手に持って自己紹介と京都市交響楽団の紹介をし、客席に向かって「コロナ禍にお集まり下さったことに感謝致します」と述べた。

J・S・バッハ/グノーの「アヴェマリア」は、沼光絵理佳のピアノ・チェレスタでバッハ作曲の伴奏(元々は伴奏ではなく、平均律クラーヴィアのプレリュードという独立した楽曲である)が奏でられた後に泉原のヴァイオリンがグノー作曲のメロディーをソロで奏で始めるという編曲で、弦楽合奏にホルンとファゴットが加わり、フルートがソロを奏でて全楽合奏に到るというものである。

チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」より“花のワルツ”も華やかさには欠け気味だったがきちんと整った演奏になっていた。

 

第2部「スノーマン」。映写は京都映画センターが行う。上映時間は約26分。映像に演奏を合わせるのは難しく、時折、音楽が先走ったりする場面もあったが、全般的には状況によく合ったテンポと描写による演奏を行っていたように思う。関谷の指揮する京響の音色もアニメーションの内容にピッタリであった。「ウォーキング・イン・ジ・エア」のボーイソプラノを務めるのは京都市少年合唱団の谷口瑛太郎(一応、カヴァーキャストとして稲葉千洋が控えていたようである)。美しくも幻想的な歌声を聴かせ、「スノーマン」の空中飛行の場面を彩った。
「スノーマン」はキャラクターはよく知られているものの、内容は誰でも知っているという類いのものではないが、男の子が雪の日に自分で作り上げたスノーマン(雪だるま)と共に空を舞いながら冒険の旅に出掛けるという物語である。レイモンド・ブリッグズの絵のタッチが愛らしく、雪景色の描写の美しさとファンタスティックな展開(子どもの頃に映画館で「大長編ドラえもん」シリーズを観た時の心持ちが思い出される)、そしてラストなどが印象に残る。

 

アンコール演奏は、藤岡幸夫司会の音楽番組「エンター・ザ・ミュージック」(BSテレ東)のオープニング楽曲としても知られるようになった、ルロイ・アンダーソンの「舞踏会の美女」。関谷もフィルムコンサートの指揮という大仕事を成し遂げた後であるためか、今日聴いたルロイ・アンダーソン作品の演奏の中でも最もリラックスした感じのチャーミングな仕上がりとなっていた。

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