カテゴリー「ドキュメンタリー映画」の38件の記事

2022年5月11日 (水)

これまでに観た映画より(293) 「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」

2022年5月6日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」を観る。監督:ハリナ・ディルシュカ、撮影:アリシア・パウル、ルアーナ・クニップファー。ドイツ映画であるが、ドイツ語、英語、スウェーデン語の3カ国語が用いられている。

カンディンスキーらに先駆けて抽象画を生み出したスウェーデンの女流画家、ヒルマ・アフ・クリントの生涯とその謎に迫る、再現VTRなどもまじえたドキュメンタリーである。

カンディンスキーらが抽象画を発表したのは1910年代であるが、ヒルマ・アフ・クリントは、それよりも前の1906年に初めて抽象画の系譜に入る絵画を創作している。だが、当時、ヒルマの抽象画はほとんど認められず、ヒルマもつましい生活のまま82歳で世を去り、甥のエリックに、「晩年の作品は死後20年公開しないように」との遺言を残した。

ヒルマ・アフ・クリントが生まれたのは、1862年。代々海軍士官を務める貴族の家に生を受けた。当時、スウェーデンの貴族の娘が長年独身でいるケースが目立っており、「自立させる」ための絵画教育を施すことが流行っていた。ヒルマもこれの波に乗り、スウェーデン王立美術院に学んで、卒業後は伝統的な絵画を描くことで職業画家として自立。ストックホルムの当時の中心部にアトリエを与えられ、純粋な絵画作品の他に、病院などで用いられる実用的な作品も手掛けていた。

当時のスウェーデンでは降霊術が流行っており、ヒルマも降霊術のサークルに参加している。同じサークルにのちに劇作家となるストリンドベリも参加していたそうだが、その時は互いに有名になる前だったため、接点らしい接点はなかったようである。

やがて神秘主義に傾倒したヒルマは、志を同じくする女性芸術家達と「5人」という芸術集団を結成。啓示を受け、降霊などにインスピレーションを得た絵画を創造することになる。

「降霊などにインスピレーションを得た」などと書くといかにも怪しそうだが、シャーロック・ホームズ・シリーズで知られるサー・アーサー・コナン・ドイルも降霊術に傾倒していたことで知られているように、降霊に興味を持つことは世界的な風潮でもあった。スウェーデンは、その名もずばりエマヌエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)という、世界史上最大級の心霊学者が生まれた国でもある。
また、科学が一大進歩を遂げる時代でもあり、原子や波動などの発見があり、「世界そのものを描きたいなら見えるように描いてはいけない」という科学からの影響も大きかった。

ただ、新しいものは往々にして受け入れられない。ヒルマの新しい絵画は仲間の女性芸術家2人から否定的に受け取られ、ヒルマが理解を求めた神秘思想家のルドルフ・シュタイナーからも色よい返事は貰えず、シュタイナーと会った1908年から4年ほどは創作自体を行っていない。

当時はスウェーデンでもまだ、「女性は結婚したら家庭に入り、仕事は辞めるべき」という風潮があり、女性が芸術家として生きていくことは難しい時代。そして、美術史は男性画家の歴史であり、女性の作品というだけで価値以前の扱いを受けていた。

こうして、カンディンスキーやモンドリアンといった男性の抽象画家が注目を浴びる中、ヒルマは埋もれた存在となっていく。これまでヒルマは生前に展覧会を開いたことはないとされていたが、実はロンドンで一度だけ個展を開いていることが分かったそうだ。
売れない画家として後半生を送ったヒルマ。彼女が生活していけたのは、芸術団体「5人」のメンバーで、富豪の娘であったアンナ・カッセルによる援助があったためとされている。

ところが、2019年、ヒルマは突如として脚光を浴びる。没後20年が経過し、ヒルマの抽象画も世に出るようになるが、最初のうちは、「降霊術の絵なんて興味はない」と断られたりもしていた。しかし、各地の展覧会での好評を受けて、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で行われた回顧展が大評判となり、同美術館史上最高となる約60万の来場者を記録。マスコミ各紙からも絶賛される。

ただ大成功したからといって、美術的な価値が診断されるには20年から30年掛かるそうで、ヒルマがこのまま偉大な画家との評価が定まるかどうかは不確定であるが、このドキュメンタリーに出演した多くの専門家は、美術史の書き換えに肯定的な意見を述べている。

彼女の作品は巨大であり、実物を観ないことには、そのエネルギーは感じられないであろうことが察せられる。一度は実作を目にしてみたくなる。

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2022年3月29日 (火)

これまでに観た映画より(288) 「焼け跡クロニクル」

2022年3月22日 アップリンク京都にて

新風館の地下にあるアップリンク京都で、ドキュメンタリー映画「焼け跡クロニクル」を観る。監督・撮影・編集:原まおり、原將人。

広末涼子の映画デビュー作である「20世紀ノスタルジア」などの監督を手掛けた、京都在住の映画人である原將人。彼の自宅が、2018年7月27日に全焼するという事件が起こった時に、原將人の奥さんである原まおりがスマホのカメラで捉えた映像などを中心にドキュメンタリー映画として再構成された作品である。

原將人の自宅があったのは、広義でいうと京都の西陣。より正確な住所を書くと、北野や上七軒辺りということなる。原將人自身のナレーションによると最初に出火に気付いたのは原將人のようで、「小さな火だと思ったのですぐ鎮火出来るだろう」と予想するも、思いのほか火の回りが速く、原將人は、新作映画の映像が収められたハードディスクと、その編集用のノートパソコンを取るために、煙の中に飛び込み、顔や腕に火傷を負う。出火原因については、電気コードが古くなっていた可能性が高いことが原將人監督の口から語られているが、結果は不明ということに落ち着いたようである。
風の吹いていない日だったということで、延焼は免れたのが不幸中の幸いで、原夫妻は騒がせたことを周囲の家に謝罪に行ったが、皆、同情してくれたようである。

2018年の夏は、歴史上稀な降雨量を記録しており、気温も高かった。火傷を負ったため救急車で運ばれ、入院することになった原監督であるが、熱中症の患者が多く運ばれていたためか、翌日には退院させられてしまったようである。火傷の処置は長男が手伝ってくれた。
新作の映像は無事であったが、それまでに撮った映画のフィルムや、プライベートを収めた8ミリフィルムは駄目になってしまう。8ミリフィルムのなんとか再生可能な箇所がスクリーンにたびたび映される。家族の思い出がそこには収められていた。

原將人は、親子ほども年の離れたまおり夫人と結婚。奥さんの実家から猛反対されたそうだが、長男が生まれると態度も軟化し、一家を応援してくれるようになったという。原監督は、自身と奥さん、長男と双子の女の子の計5人家族。まおり夫人は当日、仕事に出ており、長男から電話で知らせを受けても、頭が真っ白になって、すぐには実感が生まれなかったようである。帰宅後、全員の無事を確認、とっさにスマホで撮影を行い、これが本編映像として生きることになる。その後もまおり夫人はスマホでの撮影を続行する。スマホによる録画であるが、最近のスマホは性能が良いため、商業作品に耐えるだけのクオリティを持った映像が続く。原將人監督とまおり夫人が、山田洋次、大林宣彦、大島渚等と共に撮影した写真が収められたアルバムは焼け残っていた。

家を失った一家は、公民館に身を寄せるが、数日で退去する必要があり、それまでに知人の紹介により、なんとか家財道具付きのアパートを見つけることが出来た。家が全焼するという災難に遭った一家であるが、前向きに困難を乗り越えていく様が印象的である。原監督とまおり夫人の性格を受け継いだためか、子供達が動揺せずに、淡々と現実に向き合っていることも心強い。

一方で、原將人監督の芸術家としての資質を強く感じさせる場面もある。出火を目にした時に、「火が手を繋いで踊っているように見えた」と原監督は語る。困難に遭遇した時でさえそこに美を見いだす感性。十代の頃から映像を撮り続けている原監督の映画人としての矜持と本質が垣間見える気がした。

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2022年2月15日 (火)

これまでに観た映画より(281) 没後40年 セロニアス・モンクの世界「MONK」

2022年1月31日 アップリンク京都にて

アップリンク京都で、「没後40周年 セロニアス・モンクの世界『MONK(モンク)』」を観る。「セロニアス・モンクの世界」は「MONK」と「MONK IN EUROPE」の2本立てであり、共に上映時間1時間ちょっとと短いが、料金は1000円と安めに抑えられている。

ジャズ・ジャイアンツの中でも、一風変わったピアニストとして知られるセロニアス・モンク(1917-1982)。独学でピアノを習得し、ペダルの使用を控えた独特の響きと独自のコード進行などで人々を魅了している。今回の映像は、1968年に製作されたモノクローム作品で、ニューヨークのヴィレッジヴァンガードなどでの本番やリハーサル、モンクの日常の風景などを収めている。監督は、マイケル・ブラックウッド。

劇中でモンクは、1917年にノースカロライナで生まれたこと、母親が子供をニューヨークで育てたがったため、幼くしてニューヨークに移ったことなどを話している。モンクの若い時代については、本人が余り語りたがらなかったようで、今も良くは分かっていないようである。

ジャズ・ジャイアンツの多くは奇行癖の持ち主であったが、モンクもその場で何度もグルグル回ってみたりと謎の行動を見せている。煙草をくゆらせながら汗だくでピアノを弾いているが、リハーサルに密着した映像では酩酊したような語りを見せており、薬の影響が疑われるが、実は1970年代に入ると、セロニアス・モンクは表舞台から遠ざかってしまう。躁鬱病(双極性障害)であった可能性が高いとのことなのだが、あるいはこの時の喋り方は病気の予兆なのかも知れない。

情熱的で個性豊かな音楽を生んだ不思議な音楽家の姿を収めた貴重なフィルムである。

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2022年2月 4日 (金)

これまでに観た映画より(277) 京都シネマ ペルー映画祭「残されたぬくもり」

2022年1月29日 京都シネマにて

京都シネマで、ペルー映画祭「残されたぬくもり」を観る。2017年製作のドキュメンタリー映画。スペイン語と、ペルーを始めとする南アメリカ太平洋側で用いられるケチュア語(スペインがラテンアメリカを征服する以前から用いられている現地の原語で、ペルーの公用語となっている)による作品である。

1980年代、ペルーでは毛沢東思想にかぶれた反政府組織「ペルー共産党 センデロ・ルミノソ(輝ける道)」が武力闘争を開始し、内乱状態となる。その最中、虐殺や虐待が起こったのだが、犠牲になったペルー人民の約75%が先住民であった。人種差別が起こっていたことが分かる。ちなみにペルーの人口の約60%がメスチソ(スペイン系と現地人の混血)、先住民は25.8%で、白人が6%である。
「残されたぬくもり」は、肉親を殺害された女達やその子供、虐殺を行った側の元警察官(原住民は警察からテロリストと同一視され、蹂躙、殺害された)などのケチュア語のブルースと当時の悲劇を綴った詩の朗読からなる。上映時間69分。短編というほどではないが、短めの作品である。

残された人々の証言により、先住民がいかに非人間的な扱いをされたかを知ることが出来る。女性達は警察官によって犯され、トラックに袋のように吊されたという。
「ペルー共産党 センデロ・ルミノソ」は、ある日、地平線の彼方から姿を現したという。銃と鎌を手にしていた。彼らは、「こんな社会は止めにしよう。俺たちの政府を作る」と嘯いていた。程なく彼らは区役所を襲撃。優秀な公務員達の頭を石で叩き割った。悪夢の始まりである。その悲劇は今も歌となってうたいつがれている。

元警察官のシンガーの証言もある。警官になってすぐに「訓練」と称して前線に送られたそうである。同期が次々とテロリストによって殺害されていく。犠牲となったのは彼の知り合いの警官だけで50人、警察官全体では何人になるのか想像も付かないそうだ。「今日俺の番か、明日俺の番か」と恐怖に震える日々が続いたという。
映画は彼がボーカルを務めるバンドのケチュア語による鎮魂歌によって締めくくられる。

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2022年2月 3日 (木)

これまでに観た映画より(276) 京都シネマ ペルー映画祭「わが町の映画館――ペルー映画館の軌跡――」

2022年1月28日 京都シネマにて

京都シネマで、ペルー映画祭「わが町の映画館――ペルー映画館の軌跡――」を観る。2020年製作のドキュメンタリー映画で、今回が日本初公開となる。ワリ・ガルベス監督作品。Blu-rayでの上映である。

かつて日本でも「娯楽の王様」と呼ばれた映画だが、テレビの出現によって大幅後退を余儀なくされている。そのテレビも今は落ち目で、ネットが主役になりつつあるが、ネットの場合は個人で楽しむことが多いため、娯楽の在り方が変わってきている。

ペルーでも状況は同じで、1970年代までは映画が庶民の娯楽であった。ペルーは日本ほど識字率が高くないため、読み書きが出来ない人も多く、そうした人々に映画が受け容れられたということもある。だが、80年代も半ばを過ぎると状況は一変、テレビの多チャンネル化と大画面化が映画館の強力なライバルとなり、更にテロリストの台頭、アラン・ガルシア大統領の経済的失政などが重なって、人々は映画館に通う余裕をなくしていく。更に90年代後半になるとシネマコンプレックスがペルーでも増え、人々は従来の映画館ではなく、綺麗なシネコンへと通うようになってしまう。21世紀に入ってからは、DVDやBlu-rayの登場、更にスマホで映画が観られるようになり、古くからある映画館は次々と閉鎖されていく。

映画はまず、ペルー国内の趣のある映画館の外観を次々に紹介していく。その後、映画館で働いていた人々が出てきて、映画に関する思い出を語る。買い付け人、プロデューサー、映写係、看板描き、切符係などが登場する。今は映画はデジタル方式でスクリーンに映るため、昔からの映写係はペルーでも活躍の場は限られていると思われる。
映画館から客足が遠のいて以降、なんとか客を呼ぶため、従来の映画館では成人映画が上映されるようになったのだが、未成年が付け髭などをして変装して入ろうとするため、主に彼らを追い出す役目を担った切符係のおばちゃんもいたようである。

ペルーでは、上映時間が1時間30分から40分の国産作品が主流だったが、それを変えたのがインド映画だそうで、3時間程の上映時間を持つインド映画に人々は熱狂。インド映画が一番人気になっていたようである。音楽が良いというのでメキシコ映画も人気があったそうだ。
世界的な名画も当然ながら上映されており、「エクソシスト」はペルーの映画界に大きな衝撃を与えたようである。

ペルーでも娯楽の王座から退いた映画であるが、なんとか客を取り戻そうと、ラジオを使って宣伝する試みもカメラは捉えているのだが、この「わが町の映画館」が紹介される場面があり、ちょっとした入れ子構造になっているのが面白い。

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2022年2月 2日 (水)

これまでに観た映画より(275) 京都シネマ ペルー映画祭「Supa Layme(スーパ・ライメ)」

2022年1月27日 京都シネマにて

京都シネマで、ペルー映画祭「Supa Layme(スーパ・ライメ)」を観る。藤川史人(ふみと)監督が撮影、編集を手掛けたドキュメンタリー映画。藤川監督が、アンデス高地で牧畜を営むスーパ・ライメ一家に取材した作品である。ナレーションや音楽は一切なく、物語的に見えるような編集もされていないため、独自の風習に関するこちらの解釈が合っているのかどうか分からないところがある。ナレーションはないが、藤川監督がスペイン語で一家と語り合っている(藤川監督は「フミト」と呼ばれている)のを聞くことが出来る。

スーパ・ライメ家は、二男二女(だったかな? 男の子2人と女の子1人は印象に残っいるが、もう一人は記憶に残っておらず)の6人家族。リャマとアルパカが計約200頭、更に羊に鶏、馬にロバを飼っている。アルパカは毛皮を刈って売り、リャマは解体して食料としている。

子供達がスペイン語のドリルを学習したり、簡単な暗算をするシーンがあるが、学校はふもとの村にあるようで、そのために一家は4700mの高地から2600mの土地へと下りていく。子供達が学校に通う時期は、父親は都会に出て別の生活を送るようである。

リャマを殺して食料とするシーンは結構残忍であるが、子供達も生きるための営みとして理解しているようである。

母親であるベロニカの話が興味深い。彼女が子供の頃はまだアンデス山脈一帯にはテロリストが良く出たそうで、彼女の父親も成功を妬む誰かから、「泥棒をやっている」と偽の告発をされ、怒ったテロリストが家に押しかけて来たことがあったそうだ。父親はその時不在だったそうで、テロリスト達は彼女の母親の腕を銃で撃つなど乱暴を働いた上、年の離れた父親の弟を連れて行ってしまったそうだ。テロリスト達はまだ子供だった父親の弟に兵器の使い方を教えたりしていたそうだが、結局、身ぐるみ剥いで追い出したという。父親は激怒してテロリスト達の後を追おうとしていたという。

更にベロニカは自身の子供時代についても語る。父親は彼女が幼い頃に亡くなり、母親の手で育てられたという。学歴に関してだが、学校に通ったのは小学校3年生まで、それも学齢通りではなく、10歳前後になってから小学校に通い始めたそうである。小学校1年2年は昼間の学校に通ったが、小学校3年の時は他の街での夜学に転じる。昼間は住み込みの使用人として働き、夕方になると着替えて学校に通うという生活だったが、無給だったそうで、住む場所と食事を保障されるだけで我慢するしかなかったようだ。まだ十代前半で、仕事の勝手も何も分からず、かなりの苦労をしたようである。それでも彼女の妹は学校に通った経験が一切ないそうで、それに比べれば恵まれていたと感じていることも分かる。ベロニカは小学校に通わなくなった直後に現在の夫と出会い、将来を誓い合うのだが、彼女の兄達が「若すぎる」という理由で猛反対。ベロニカは実の兄から両目を殴打され、失明しそうになったこともあったようである。

子供達がサッカーに興じるシーンがあったり、電波状況の悪い中でサッカー・ペルー代表の試合をテレビ観戦しようとする姿もあり、南米らしさを感じさせる。
子供達は、将来はエンジニアや医師になりたいという夢を持っている、というにはまだ早いが、ぼんやりとであるが描いている将来に牧畜は入っていないようである。

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2022年1月25日 (火)

これまでに観た映画より(272) ドキュメンタリー映画「我が心の香港 映画監督アン・ホイ」

2022年1月6日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「我が心の香港 映画監督アン・ホイ」を観る。「女人、四十。」などで知られる、香港を代表する女性映画監督、アン・ホイ(許鞍華)を追ったドキュメンタリーである。監督:マン・リムチョン(文念中)。音楽:大友良英。
話される言葉は広東語がメインだが、北京語の比重も軽くはなく、また英語も時折混じる。
映画監督のツイ・ハーク、候孝賢、俳優のアンディ・ラウなど、日本でもお馴染みの中華圏の映画人が多数、アン・ホイの関する証言を行っているのも見所の一つである。

香港映画というと、世代によってイメージが大きく異なることで知られる。比較的年配の方に多く、全世代を通じて人気があるのがカンフーアクションで、私が小学生だった1980年代にはジャッキー・チェン(成龍)が大人気であった。それより少し下ると、「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」やキョンシーシリーズなどの怪奇路線が人気を博し、「男達の挽歌」などの任侠ものの時代を経てチャウ・シンチー(周馳星)らによるコメディーアクションが人気となる。
香港映画のイメージをガラリと変えたのが、王家衛(ウォン・カーウァイ)で、「恋する惑星」や「天使の涙」で、お洒落でポップにしてエスニックという作風は全世界を席巻した。
アン・ホイ自身は、「香港ニューウェーブ」と呼ばれた世代に属しており、ジャンルとしては上記のいずれにも属さないヒューマンドラマを得意としている。

アン・ホイ(許鞍華)は1947年生まれ。父親は中国人で、当時の父親の職場があった中国遼寧省鞍山で生まれている。漢字名に「鞍」の字が入るのはそのためである。その後、父親の転勤に伴い、マカオ、そして香港へと移り住んでいる。
生まれた1947年は、第二次大戦終結後まもなくで、中華人民共和国建国以前である。子どもの頃は当時の反日教育を受けて(日本は香港を占領したことがある)、「いつか(戦時中の)復讐をしてやる」と思っていたほど日本と日本人が大嫌いだったそうだが、16歳の時に実母が日本人であることを知る。母親は当時日本が傀儡政権を置き、移民を進めていた満州で過ごしており、ソビエト参戦の混乱中にアン・ホイの父親と出会うことになった。アン・ホイは今も母親と一緒に暮らしている。

アン・ホイは、子どもの頃から感受性豊かにして学業優秀だったようで、香港大学に進み、文学と英語を学ぶ。勉強熱心な学生だったそうだが、当時の香港大学ではいわゆる「ガリ勉」タイプは嫌われており、アン・ホイも下級生の頃は上級生からいじめを受けて毎晩泣いていたそうだ。父親には文芸の才があったようで、アン・ホイも自然に文学好きとなり、漢詩などを暗唱する習慣もあったようだ。

香港大学卒業後はイギリスに渡り、ロンドンの映画学校に学ぶ。帰国後は映画監督キン・フーに師事。キン・フーの勧めもあってテレビ局のTVBで仕事をするようになる。アン・ホイは当初はテレビ局での仕事を嫌がっていたようだが、中国各地の伝統文化を丹念に取材する番組を作った経験などから、伝統を大切にする姿勢を学んだようである。

文学解釈などを得意とするアン・ホイであるが、映画監督としては珍しく、脚本を一切書かないという姿勢を貫いている。共作も含めて一度も手掛けたことはないそうだ。その理由についてアン・ホイは、「書けなかった時のショックが怖いから」としている。脚本は信頼出来る書き手に全て任せ、自身は演出に徹する。

で、あるにも関わらず、彼女の作品の多くに自己像が反映されていることが強く感じられる。自分で執筆しないだけで、アイデア自体は脚本家に色々と伝えているのかも知れない。

またアン・ホイは、ヘビースモーカーとしても有名で、この映画でも煙草を吸いながら話すシーンが多い。
東アジアの中では、日本は比較的女性喫煙者が多いが、中華圏や韓国では煙草を吸う女性は極端に少なく、吸うのは売春婦や悪女と相場が決まっているようである。アン・ホイは激しやすく落ち込みやすいという性格であることが見ていて分かるため、煙草を吸うことでストレスを発散し、感情を意図的に鈍磨させているのかも知れない。詳しい理由は知りようがないが。

照れ屋であるアン・ホイは、「何故映画を作り続いているんですか?」という問いに、「金のため」と言い続けてきたようだが、香港での映画制作は決して金になる仕事ではないようで、名声は得ても生活が楽になったということはさほどないようである。
映画を作り続けている本当の理由は、「香港に貢献したいから」のようで、これまでは照れくさくて本当のことは言えなかったようである。

世代的にも人間的にも香港という街の特性を体現しているかのようなアン・ホイ監督。年齢的に映画を撮り続けるのは難しいと感じているようだが、今まさに史上最大レベルの激動の最中にある香港を彼女がどう受け止めており、作品に反映させるのか気になるところである。

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2022年1月 9日 (日)

これまでに観た映画より(270) ドキュメンタリー映画「世界で一番美しい少年」

2022年1月4日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「世界で一番美しい少年」を観る。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」で、主人公のアッシェンバッハ(ダーク・ボガード)をあたかも死へと導くような美少年・タジオを演じ、全世界に衝撃を与えたビョルン・アンドレセンの現在と過去に取材した作品である。クリスティーナ・リンドストロムとクリスティアン・ペトリの共同監督。

映画のタイトル通り、当時新聞で「世界で一番美しい少年(the Most Beautiful Boy in the World)」と呼ばれたビョルン・アンドレセン。スウェーデンのストックホルム出身で、現在もストックホルムに住んでいるが、その姿は白髪の長髪に同じ色の口ひげとあごひげ、目はくぼんでおり、「ベニスに死す」の美少年の面影はどこにもない。

ビョルン・アンドレセンは1955年生まれ。父親は今に至るまで不明。11ヶ月ほど下の妹がいるが父親が異なるという複雑な境遇。幸い兄妹仲は良く、幼い頃はいつも一緒にいたようだ。

デンマーク出身である母親のバルブロはボヘミアン気質で、芸術の才能に溢れており、ビョルンもそれを受け継いでいるようだが、幼い子ども二人を連れて世界中を旅し続けたあげく、二人を残して失踪。その後、森の中で遺体となって発見される。
その後、ビョルンはデンマークにある寄宿制の学校に入れられたようだが、馴染めずにスウェーデンに戻り、祖母に育てられた。この祖母が山っ気のある人で、ビョルンをスターとして売り出そうと画策する。

そんな時に、トーマス・マン原作の映画「ベニスに死す」の美少年役を探していたルキノ・ヴィスコンティがストックホルムを訪れる。イタリアの名門貴族の末裔にして、同性愛者であることを公言していたヴィスコンティは、理想の美少年を探してヨーロッパ中でオーディションを行うも、未だ理想にぴったりの少年に出会うことが出来ないでいた。
ビョルンも15歳とヴィスコンティの希望に比べれば年上であり、また身長が高すぎるもネックだと考えたようだが、見た目は理想通りであり、キャスティングされることが決まった。

映画「ベニスに死す」は大ヒット。グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、作曲家のグスタフ・マーラーをモデルにしており、トーマス・マンは作曲家ではなく自己像も投影した小説家としていたが、ヴィスコンティはマーラーと同じ作曲家に職業を戻し、マーラーの交響曲第5番より第4楽章“アダージェット”をメインの音楽に採用している。「マーラーが妻となるアルマに宛てた音楽のラブレター」とも言われる耽美的なアダージェットを採用したことで、マーラーの再評価にも繋がっている。

ちなみにビョルンにオーディションを受けさせた祖母も「ベニスに死す」にちょい役で出ており、得意満面の笑顔を浮かべている様がカメラに捉えられている。

「ベニスに死す」で大成功を収めたビョルンだったが、ヴィスコンティは彼に冷たく、カンヌ映画祭ではビョルンについて、「将来美青年になるかも知れないが、今は1年前に比べると大分醜くなった」と突き放し、その後のキャリアに繋がりそうなことは一切しなかった。それどころか、自身のみならずスタッフも全員同性愛者で固めていたヴィスコンティは、ゲイのコミュニティにビョルンを連れて行き、自身を飾るアクセサリーのよう扱っている。美少年を蔑むことは、ヴィスコンティのサディスティックな趣味の表れなのかも知れない。
その後のビョルンにも、美少年を好む男が群がるようになる。この映画ではパリでの出来事に触れているが、直接的な描写は避けられている。ビョルン自身が明言していないからだろう。

ビョルンは音楽を愛する少年だった。老人となり、決して広いとは言えないアパートメントに住むビョルンが狭い部屋にキーボードを置き、コンピューターで作曲する様をカメラは捉えている。実際、「ベニスに死す」のオーディションを受けた当時は音楽学校に通っていたようだ。それが「ベニスに死す」が当たったことで方向転回し、演劇学校に通うようになる。だがヴィスコンティが道を敷かなかったということもあり、俳優活動は順調とは言えず、仕事の依頼は多かったようだが大半は脇役であった。主役が減ったことで死亡説まで出たりしている。
その後、詩人であったスーザンと出会い、一男一女を設けるが、更なる悲劇がビョルンを襲うことになる。


私が映画「ベニスに死す」を初めて観たのは、15歳か16歳の頃。丁度、タジオを演じた時のビョルンと同年代である。その時は気付かなかったのだが、「世界で一番美しい少年」の中に出てくる「ベニスに死す」やその制作ドキュメンタリーである「タジオを求めて」に映っているビョルンは、驚くほど陰の濃い眼差しをしている。あたかもその後の人生を見据えているかのような目であるが、当然ながらビョルン本人も未来のことは何一つ知ってはいない。だが、その宿命が視線に出てしまっているということなのか。

「ベニスに死す」により、ビョルン旋風が巻き起こる。その中でも特に熱心だったのが日本のファンで、ファンレターのうち最も多くを占めているのは日本からのものであるようだ。
ということで、ビョルンは祖母の意向もあり、来日することになる。若い女性からの熱狂的な出迎えを受けたビョルンは、東京の帝国ホテルに泊まり、周りに言われるがままにCMに出演し、日本語で歌ったレコードをリリースしてヒットさせている。レコードリリースの仕掛け人となったのが、昨年亡くなった酒井政利であり、酒井もこの映画に証言者として出演している。

過密スケジュールで、それを乗り切るための赤い錠剤という怪しげなものを飲まされたりもしたが、日本人として嬉しいことに、ビョルンは日本には好感を抱いているようで、約半世紀ぶりに訪れた帝国ホテルで「懐かしい」と嬉しそうな笑みを浮かべている。
また「ベルサイユのばら」のオスカルのモデルとしてビョルンを選んだ池田理代子との対面も果たしている。

東京でピアノの演奏を行うシーンもあり、ビョルンが本当は音楽への道を歩むことを望んでいたことが窺える。孫を子役スターにしようとした祖母の意向で、また周囲の意見に合わせて俳優にならざるを得なかった残酷さも感じられる。十代半ばの少年に、大人達に抗うだけの力があるはずもない。その後のビョルンは鬱病とアルコール中毒に悩むことになる。

2019年にホラー映画「ミッドサマー」で久々の主演を務めたビョルン・アンドレセン。私自身は「ミッドサマー」は観たことはないのだが、多くの人が「ベニスに死す」のタジオとの落差に驚いたであろうことは想像に難くない。

ラストシーンは、ベニス(ヴェネチア)の海岸に立つビョルンの姿である。彼に名声とその後の地獄を与えた場所である。半世紀前、ビョルンはこの海岸で誰よりも輝いていた。曇り空の海岸に佇むビョルンが何を思ったのかは分からないが、人生と人間の不確かさというもの感じ取ることは出来た。

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2021年12月26日 (日)

これまでに観た映画より(269) 「HARUOMI HOSONO SAYONARA AMERICA 細野晴臣 サヨナラ アメリカ」

2021年11月26日 アップリンク京都にて

アップリンク京都で、細野晴臣のライブドキュメンタリー映画「HARUOMI HOSONO SAYONARA AMERICA 細野晴臣 サヨナラ アメリカ」を観る。細野晴臣が2019年5月にニューヨーク、6月にロサンゼルスで行ったアメリカライブの映像を中心とした構成である。監督はNHK出身の佐渡岳利(さど・たけとし)。「イエローマジックショー」も手掛けた監督である。タイトルは、細野が所属したはっぴぃえんどの楽曲「さよならアメリカ さよならニッポン」から取られており、同曲を細野が再録音したものが映画のエンドロールで流れる。

日本音楽界に燦然と輝くカリスマ、細野晴臣。イエローマジックオーケストラ(Yellow Magic Orchestra。YMO)などで世界的な名声も得ており、今回のドキュメンタリー映画でも細野の音楽について熱く語るアメリカ人が何人も登場する。

初期の代表作である「HOSONO HOUSE」のリメイク「HOCHONO HOUSE」をリリースして話題にもなったが、「HOCHONO HOUSE」制作中にロームシアター京都サウスホールで公演を行っており、「HOSONO HOUSE」のナンバーを何曲も歌ったが、今回の映画でも京都でのライブと同一の楽曲がいくつか流れる(「住所不定無職低収入」「北京ダック」「SPORTS MEN」「GHOO-CHOOガタゴト」など)。

ニューヨークでの公演開場前に列をなしている人々に被さるようにして「In Memories of No-Masking World」という文字が浮かび上がるが、「出掛ける時はマスク」が常態化している現在(2021年11月)から見ると、誰もマスクをしていない光景は異世界のように感じられる。途中にバックバンドのメンバーがコロナ下での生活状況について語るシーンがあるのだが、高田漣が「これまでの音楽人生の方が夢だったんじゃないか」という意味のことを語る場面があり、新型コロナが生んでしまった断絶を観ているこちらも強く感じる。

「芸術とは最も美しい嘘のことである」とドビュッシーが語ったとされる。その言葉が浮かぶほどにスクリーンの向こう側は美しく、生命力に満ち、華やかな世界が音楽によって形作られている。それがコロナを経た今となっては虚構のようにも見えるのだが、今の世界にあって、それだけが本当に必要なもの、あるいは全てのような実感も覚えるのだから不思議である。「こういうもの」のために世界はあるのではなかろうか。「こういうもの」のために我々は「今」を耐えているのではなかろうか。
とにかく「ここ」には人種や国境を超えた調和がある。「今」を耐えた暁には、またいつか結び合える時が来る。隔てられた世界の映像を観た後で、「欠落感」とその奥に浮かぶ上がる音楽という名の希望を見いだしたような複雑な感情が胸に去来した。

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2021年8月21日 (土)

これまでに観た映画より(266) 「デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング」

2021年8月11日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング」を観る。
英語と広東語による作品。北京語は、中国共産党の幹部などの発言など、一部で使われているのみである。スー・ウィリアムズ監督作品。

21世紀初頭にデビューし、香港を代表する女性シンガーとなったデニス・ホー(何韻詩)。1977年、教師をしていた両親の下、香港に生まれるが、1989年に第二次天安門事件が発生したことで、「教師が弾圧される可能性は否定出来ない」と考えた両親と共にカナダのモントリオールに移住。そこで様々な音楽に触れることになる(モントリオールにある大学で音楽を学んだ作曲家のバート・バカラックが以前、「モントリオールはポピュラー音楽が盛んな街」と話していたのを読んだことがある)。中でもデニス・ホーの心を捉えたのは、当時、香港最大の歌姫として君臨していたアニタ・ムイである。

香港ポップス初の女性スターといわれるアニタ・ムイ(梅艶芳)。一時は、「香港の美空ひばり」に例えられたこともある。
自身で作詞と作曲も始めたデニスは、「アニタ・ムイに会いたい」という一心で一人香港に戻ってオーディション番組などに参加。見事、グランプリを獲得してデビューすることになる。最初の頃は「カナダから来た子」であり、金もないし仕事もないしと苦しみ、アニタ・ムイにも余り相手にして貰えなかったようだが、デニスは自らアニタに弟子入りを志願。アニタと共演するようになり、アニタとデニスは師弟関係を超えた盟友のような存在となる。香港に帰ってくるまでは政治には関心がなかったデニスだが、アニタが社会問題に関する発言が多いということで、香港を巡る様々な問題に真正面から取り組むことになる。

元々同性愛者だったデニスだが、LGBTが香港でも注目された2012年に、レズビアンであることをカミングアウト。これがむしろ共感を呼ぶことになる。

中国共産党による香港の締め付けが厳しくなり、 2014年に「逃亡犯条例」を香港政府が認めそうになった時には、自ら「雨傘運動」と呼ばれる若者達中心の抗議活動に参加。座り込みによる公務執行妨害で逮捕されたりもした。

香港はアジアにおける重要な貿易拠点であり、人口も約750万人と多いが、音楽的なマーケットとしては規模が小さい(ちなみに東京23区の人口は約960万人である)。小室哲哉が凋落する原因となったのも香港の音楽マーケットとしての弱さを知らずに進出したためだったが、規模の小ささは香港出身のアーティストとっても重要な問題で、すでに90年代には香港のトップスター達は北京語をマスターして、中国本土や台湾に活動の場を拡げていた(リトル・ジャッキーことジャッキー・チュンなどは簡単な日本語をマスターして日本でもコンサートを行い、また北京出身で、香港を拠点に北京語、広東語、英語を駆使して歌手活動を行っていたフェイ・ウォンは、日本人以外のアジア人として初めて日本武道館でのコンサートを、しかも2回行っている)。デニスも北京語歌唱のアルバムを発表し、中国の主要都市でコンサートも行うようになっていた。中国ではテレビコマーシャルにも出演。ギャラの9割以上は中国本土から受け取っていた。それが香港の民主主義体制維持活動によって逮捕されたことで、中国での仕事、そしてギャラも当然ながらなくなり、香港での活動も制限されることになる。今は中国本土に入ることも出来ないようだ。
だがその後もデニスは一国二制度(一国両制)と香港の自由を訴えるために世界各国に赴いている。パリやワシントンD.C.で、デニスは法治国家でなく基本的人権も守られない共産党中国の危険性を訴えており、立ち寄った外国のライブハウスで、メッセージ性の強い歌詞を持つ曲を歌い続けている。

そんなデニスであるが、やはり子供の頃から憧れ、長じてからは姉のように慕う存在となったアニタ・ムイをどこかで追いかけていることが伝わってくる。出会ったばかりの頃は、アニタの真似をしており、逮捕後初のコンサートでもアニタを思わせる衣装を纏ったデニス。子宮頸がんによって2013年に40歳というかなり若い年齢で他界したアニタ・ムイの意志を継いでいる部分は当然あるのだろう。今はアニタ・ムイを超えたという意識はあるようだが、40年という短い人生ではあったが香港の黄金期の象徴の一つであり続けたアニタ・ムイに対する敬慕の念が薄れることはないはずである。アニタ・ムイの音楽における後継者であるデニス・ホーが、アニタ・ムイの姿勢をも受け継いだように、デニス・ホーの曲が歌い継がれることで香港人の意志も変わっていくのか。現在進行形の事柄であるだけに見守る必要があるように思う。

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