カテゴリー「ドキュメンタリー映画」の51件の記事

2024年10月29日 (火)

これまでに観た映画より(348) ドキュメンタリー映画「拳と祈り-袴田巌の生涯-」

2024年10月28日 京都シネマにて

ドキュメンタリー映画「拳(けん)と祈り-袴田巌の生涯-」を観る。その名の通り、袴田事件の容疑者として死刑宣告が行われ、以後、47年7ヶ月を死刑囚として過ごした袴田巌さんの釈放後の姿と、袴田事件の概要を描いた作品。監督・撮影・編集は笠井千晶。

袴田事件は、1966年6月30日未明に、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で起こった一家惨殺事件。味噌製造会社の専務一家のうち4人が刺殺され、全焼した民家から見つかった事件で、味噌製造会社に住み込みで働いていた当時30歳の袴田巌さんが容疑者として静岡県警清水警察署に逮捕されている。袴田巌さんは元プロボクサーで(タイトルの「拳と祈り」の拳はボクシングの意味である)、バーの経営者となったが成功せず、味噌製造会社の従業員となっていた。殺害された専務は柔道を得意とする巨漢であったが、「ボクサーなら殺害も可能」という偏見もあり、拷問を伴う激しい取り調べによる自白が証拠とされた。また、当初は袴田さんが着ていたパジャマに微量の血痕がついていたとされていたが、事件発生の1年2ヶ月後に血まみれの衣服5点が味噌樽の中から見つかる。袴田さんと同じB型の血液が付着しており、これが袴田さんのものとされ、証拠とされたのだが、実際に着て貰ったところ、ズボンが小さすぎて履けないなど、衣服が袴田さんのものでない可能性が高まった。
血液型がB型の者などいくらでもいる。
自白以外に証拠がないまま静岡地方裁判所での一審で死刑の判決が下り、袴田さんは無罪を主張し続けたが、控訴、上告共に棄却され、死刑が確定する。

当初から冤罪説は根強く、何度も再審請求がなされ、2014年に再審の決定と、袴田さんの死刑及び拘置の執行停止が行われ、袴田さんは釈放された。
釈放後、袴田さんは姉の秀子さんと共に静岡県浜松市で静かな生活を送るようになる。45年以上に渡って拘置所におり、一般人と接する機会がほぼなかった袴田さん。親しい人を作る機会は奪われ、コミュニケーション能力も十分に培うことは叶わなかった。友人らしき人はいない。
笠井監督は秀子さんと交流があり、この辺りから、袴田姉弟を中心とする人々の映像が撮られるようになる。袴田さんはひたすら歩くことを日々の課題とする生活を送っている。映画「フォレスト・ガンブ/一期一会」に、主人公のフォレスト・ガンブ(トム・ハンクス)がひたすら走り続ける生活を送る日々が描かれているが、それに近いものを感じる。
袴田さんは、「世界平和」などへの祈りを繰り返し語っていたりもする。

映画では、静岡県警による計48時間にも及び袴田さんへの取り調べ音声からの抜粋なども用いられている。

袴田さんは現在の浜松市生まれ。中学卒業後、昼間は工場で働いて夜はボクシングに励むという日々を送り、国体にも出場。その後、プロボクサーを目指し、川崎市内のボクシングジムに入ってトレーニングを行う。当時の袴田さんについて、ボクシング評論家の郡司信夫やボクシング雑誌の編集者らは、「とてもタフな選手」と評している。年間19試合出場は現在でも年間最多試合出場の記録となっている。プロボクサーとしてはまずまずの成績を収めるが、体調に問題が発生したため引退。結婚してバーを経営。子どもも出来るが、運営の才覚はなかったようでバーは1年で廃業。清水市内の味噌製造会社の従業員となり、ここで事件が起きている。

死刑が確定してからも証拠が余りに乏しく、冤罪の余地があったためか死刑は執行されず、この間、支援者による再審請求の輪が広がっていく。
2014年に証拠とされた衣服5点のDNA鑑定が行われ、これらが袴田さんのものである可能性が否定される。死刑と拘置の執行停止はこの鑑定結果が大きい。

しかし釈放されたとはいえ、無罪を勝ち取った訳ではなく、袴田さんもすでに高齢。再審を急ぐ必要があった。
実は静岡地方裁判所で行われた第一審でも、裁判官のうち2人は死刑の判決をしたが、1人は無罪との判断をしている。だが無罪の判断をした熊本典道裁判官は判決を覆すよう言われた上、死刑執行の決定書などを書かされている。熊本裁判官は、このことをずっと苦にしており、裁判官から弁護士に転身し、袴田さんの無罪を訴える運動に参加している。また袴田さんが獄中でカトリックに入信すると、自身もカトリックの洗礼を受けた。年老いた熊本氏の様子や、死が迫った熊本氏が入院する福岡市内の病院を袴田さんと秀子さんが訪ねる場面をカメラは捉えている。

カナダのトロントに住む、ルービン・カーターへの取材が行われる。かつてルービン・“ハリケーン”カーターの名でプロボクサーとして活躍したルービン・カーター。袴田事件の起こった1966年に殺人の容疑で逮捕され、終身刑の判決を受けたが、89年に証拠不十分で釈放されている。以後は冤罪救済活動団体を組織して活動。その半生がデンゼル・ワシントン主演による「ザ・ハリケーン」というタイトルの映画になったり、ボブ・ディランに「ハリケーン」という曲で歌われてもいるカーター。袴田さんの支援者がモデルケースとした人物でもある。同じ冤罪容疑の元プロボクサーという共通点のある袴田さんへのメッセージを語るカーターであるが、そのカーターも2014年に結果を知ることなく他界する。

その2014年に袴田事件の再審が決まったが、2018年に東京高裁は再審請求を棄却。ただし死刑と拘置の執行停止は保持される。弁護側は特別抗告を行った。
再審が始まるも、検察側は、執拗に「死刑」の求刑を求める。
そして今年の9月26日(ついこの間である)、袴田さんの無罪判決が下る。10月9日に検察側が上訴権の放棄を決定し、無罪が確定した。

お姉さんの秀子さんが明るい人で、それが救いにもなっている。孤独な僧侶のようにも見える袴田さん。事件がなかったらどんな人生を歩んでいたのだろうか。

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2024年8月 2日 (金)

これまでに観た映画より(343) ドキュメンタリー映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」

2024年6月6日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」を観る。ザ・フォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンドなどの中心メンバーとして活躍し、日本ポピュラー音楽界をリードし続けながら残念な最期を遂げた加藤和彦(愛称:トノバン)の姿を多くの音楽関係者達の証言を元に浮かび上がらせるという趣向の映画である。

京都市伏見区生まれの加藤和彦。実は生まれてすぐに関東に移っており、中高時代は東京で過ごして、自身は「江戸っ子」の意識でいたようなのだが、京都市伏見区深草にある龍谷大学経済学部に進学し、在学中にデビューしているため「京都のミュージシャン」というイメージも強い。ということもあってか、京都シネマは満員の盛況。一番小さいスクリーンでの上映であるが、それでも満員になるのは凄いことである。

監督:相原裕美。出演:きたやまおさむ(北山修)、松山猛、朝妻一郎、新田和長、つのだ☆ひろ、小原礼、今井裕、高中正義、クリス・トーマス、泉谷しげる、坂崎幸之助(THE ALFEE)、重実博、清水信之、コシノジュンコ、三國清三、門上武司、高野寛、高田漣、坂本美雨、石川紅奈(soraya)、斉藤安弘“アンコー”、高橋幸宏ほか。声の出演:松任谷正隆、吉田拓郎、坂本龍一。

加藤和彦は、バンドを始めるに当たって、雑誌でメンバーを募集。住所が京都市内となっていたため、それを見た、京都府立医科大生のきたやまおさむ(北山修)が、「京都で珍しいな」と思い、参加を決めている。参加したのは、加藤と北山を含めて5人。うち二人は浪人生で一人は高校生。浪人生二人は受験のために脱退。一人は東京の大学に進学したために戻ってこなかった。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)に進学を決めた芦田雅喜は戻ってくるが、再び脱退。加藤、北山、平沼義男の3人で再スタートする。
加藤和彦が龍谷大学への進学を決めたのは、祖父が仏師であるため、それを継ぐ志半分で、浄土真宗本願寺派の龍谷大学を選んだということになっているが、どうも東京時代に東京を離れたくなる理由があったようだ。龍谷大学には文学部に仏教学科と真宗学科があるが、加藤が選んだのは経済学部であり、特に仏教について学びたい訳ではなかったことが分かる。
常に新しいことをやりたいと考えていた加藤和彦。「帰ってきたヨッパライ」はメンバーが新しくなったので新しいことをやりたいという思いと、半ば「ふざけ」で作ったものだが、その先に何か新しいことが開ける予感のようなものがあるという風なことを若き日の加藤は語っている。

「帰ってきたヨッパライ」は、自主制作アルバム「ハレンチ」の1曲として発売された。当時、関西のミュージシャンが関西でレコーディングしたアルバムを出し、加藤もそのアルバムの録音に参加。「関西でもやろうと思えば出来る」との思いがあった。また関西の音楽人には、中央=東京に対する反骨心のようなものがあったと、北山は述べている。「帰ってきたヨッパライ」は、ラジオ関西で放送され、大きな反響を呼ぶ。それがやがて東京に飛び火。オールナイトニッポンのパーソナリティーだった斉藤安弘“アンコー(安弘を有職読みしたあだ名)”は、「帰ってきたヨッパライ」を一晩に何度も流したそうだ。
「帰ってきたヨッパライ」に関しては、高橋幸宏や坂崎幸之助が、「今まで聴いたことのない新しい音楽」と口を揃えて評価する。そんな曲が関西のアマチュア音楽家でまだ大学生の若い人々によって作られたというのは衝撃的だった。
一方、加藤、そして医大生だった北山は大学卒業と同時に音楽は終わりと考えていた。北山は大学院に進学して医師を目指し、加藤は普通に就職する気だった。だが、プロデビューの話が舞い込み、パシフィック音楽出版と東芝レコード(東芝音楽工業。後に東芝EMI、EMIミュージック・ジャパンを経て、ユニバーサル・ミュージックに吸収される)と契約。東芝からレコードを出し、1年限定のプロ活動を行うことにする。この時、はしだのりひこが加わる。どうもこの頃、加藤は学生生活が上手くいっていなかったようで、はしだが加藤の面倒をよく見ていたようだ。プロデビューのために龍谷大学は中退した。
東芝側は、第2、第3の「帰ってきたヨッパライ」を期待していたのだが、ビートルズは1曲ごとにスタイルを変えているということで、ザ・フォーク・クルセダーズ側は全く趣が異なる「イムジン河」を第2弾シングルとすることを決める。だがここで問題が起こる。ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーは全員、「イムジン河」が朝鮮の民謡だと思い込んでいたのだが、実際は北朝鮮の作詞家と作曲家が作ったオリジナル楽曲だったのだ。北山は、「南北分断が歌詞に出てくるんだから民謡の訳がない」と後になって気づいたそうだが、朝鮮総連から「盗作」「歌詞を正確に訳すように」と物言いが付き、東芝は当時、韓国進出に力を入れていて、北朝鮮と揉めたくないということで、「イムジン河」は発売中止となる。そこで、「加藤をスタジオに缶詰にするから」という条件で、サトウハチローに作詞を依頼して書かれたのが、「悲しくてやりきれない」だった。

その後、ソロミュージシャンとしての活動をスタートさせた加藤和彦。新しいものが好きで、「イギリスで、グラムロックというものが流行っている」と知るといち早く真似をして髪を染めてステージに立った。

北山との共作でベッツィ&クリスに「白い色は恋人の色」を提供。ヒットさせる。

北山修との共作で「あの素晴らしいを愛をもう一度」をリリースしてヒット。実は、クリスに歌って貰うつもりで作ったのだが、出来が良いので「俺たちで歌っちゃおうぜ」となったようだ。「あの素晴らしい愛をもう一度」は高校の音楽の教科書に載っており、私が初めて知った加藤和彦の楽曲である。また、若き日の仲間由紀恵も出演していた、村上龍原作、庵野秀明監督の映画「ラブ&ポップ」のエンディング曲として主役の三輪明日美が拙い歌声で歌っており、そのため却って印象に残っている。

代表曲「悲しくてやりきれない」は、実は最初は松本伊代によるカバーをラジオで聴いて知ったのだが、周防正行監督の映画「シコふんじゃった。」で印象的な使われ方をしていた。立教大学をモデルとした教立大学相撲部が合宿を行うシーンで、おおたか静流の歌唱で流れた。

1970年に加藤は同じ京都出身の福井ミカと結婚。サディスティック・ミカ・バンドの結成へと繋がる。ちなみに私が福井ミカの声を初めて聴いたのは、サディスティック・ミカ・バンドの音楽ではなく、YMOのアルバム「増殖」に含まれていた有名ナンバー「NICE AGE」の途中に挿入される「ニュース速報」のナレーション(ポール・マッカートニーが大麻取締法違反で逮捕されたことを仄めかしたもの)においてであった。
ちなみにドラムの高橋幸宏を加藤に紹介したのは、小原礼だそうで、小原は高橋幸宏と一緒に演奏活動をしており、「高橋幸宏といういいドラマーがいる」と加藤に紹介。加藤と高橋はロンドンでたまたますれ違い(そんなことってあるんだろうか?)、加藤が「話には聞いてます」と話しかけたのが最初らしい。

加藤和彦の若い頃の映像は見たことがあったが、高橋幸宏の若い頃の映像は余り見たことがなく、想像以上に若いのでびっくりする。
つのだ☆ひろは、若い頃にずっと加藤和彦にくっついており、サディスティック・ミカ・バンドにも加入するが、すぐに辞めてしまったそうだ。
サディスティック・ミカ・バンドは、日本よりも先にイギリスで評判となり、逆輸入という形で日本でも売れた。高橋幸宏はYMOでも同じような体験をしている。

この頃の加藤和彦は音響にも熱心で、「日本はPAが弱い」というので、イギリスから機材を個人輸入して使っていたそうだ。

イギリスでの好評を受けて、イギリスからクリス・トーマスが招かれ、サディスティック・ミカ・バンドのレコーディングが行われることとなる。クリス・トーマスは、ビートルズのアルバム制作にも関わったプロデューサーであり、レコーディングの初日にはメンバー全員が緊張していたというが、クリスはまず「左と右のスピーカーの音が違う」とスタジオの音響から指摘。スピーカーの調整から始まった。クリス・トーマスへのインタビューも含まれるが、福井ミカについては、「彼女は、何というか、音程が、その……自由だった」と語っている。クリスは気に入るまで作業をやめず、レコーディングが朝まで続くこともたびたびであった。
そんな苦労の末にセカンドアルバム「黒船」を完成させ、イギリスでのツアーも成功させる。日本に帰ってきた加藤であるが、東芝の新田和長に「ミカが帰ってこない」と漏らす。新田は若い頃に加藤とミカと暮らしていた経験を持つ人物である。新田は、「そのうち帰ってくるよ」と慰めるが、3、4日して、「これはミカはもう帰ってこない。クリス・トーマスと一緒になる」ということが明らかになる。そんな折りに加藤が失踪。ほうぼう電話しても見つからなかったが、しばらくして「ズズのところにいる」と加藤から連絡が入る。ズズというのは作詞家の安井かずみのことである。コシノジュンコの親友で、ハイクラスの人物であり、新田は「我々とは釣り合わないのではないか」と思ったというが、加藤と安井は結婚する。安井との結婚後、加藤もまたハイクラス志向になったそうで、明らかに影響を受けている。ちなみに、安井が亡くなった後、加藤は有名ソプラノ歌手の中丸三千繪と結婚しているが、そのことについては今回の映画では触れられていない。サディスティック・ミカ・バンドの再結成や再々結成についても同様である。

加藤和彦は、「ヨーロッパ三部作」という一連のアルバムを作成することになるが、レコーディングスタジオにはこだわったようだ。YMOのメンバーが参加しており、レコーディングの様子などについて坂本龍一が語っているが、細野晴臣は写真に写っているだけで、今回は何も語っていない。坂本は、加藤について「事前に何冊も本を読んで練り上げる人」といったような証言をしている。また加藤は、楽曲が出来上がってレコーディングをする振りをしてアレンジが出来る音楽家を呼び、「いいイントロない?」「いいアレンジ出来ない」と言っていきなり仕事を振ることがあったそうで、竹内まりやの「不思議なピーチパイ」で清水信之がそうした経験をしており、「教授にもやってる」と証言しているが、教授こと坂本龍一もそれを裏付ける発言をしている。
三部作最後のアルバム「ベル・エキセントリック」では、最後にサティの「Je Te Veux(ジュ・トゥ・ヴー)」(「おまえが欲しい」と訳される男版「あなたが欲しい」と訳される女版の二つの歌詞を持つシャンソン。ピアノソロ版も有名)を入れることにし、坂本龍一がピアノを担当することになった。楽譜は当時、坂本と事実婚状態にあった(その後、正式に結婚)矢野顕子が買ってきたそうである。

加藤和彦は料理が得意で、料理を味わう舌も肥えていた。いきつけの店だったという、京都の祇園さゝ木が紹介されている他、岡山の吉田牧場でのエピソードなどが語られる。

音楽面ではその後、映画音楽や歌舞伎の音楽に挑戦するなど、様々なチャレンジを行っているが、この映画では触れられていない。

2009年10月17日、加藤和彦は軽井沢のホテルで遺体となって発見される。首つり自殺であった。鬱病を患っており、鬱病の患者は自殺率が高いことから、精神科医となっていた北山修は加藤に「絶対に自殺はしない」と誓わせていたが、果たされることはなかった。

北山修は、加藤について、「完璧を目指す人。だが完璧を演じる自分と素の自分との間に乖離があり、それが広がっていったのではないか」という意味の分析を行っている。
プロデューサーの朝妻一郎、つのだ☆ひろ、坂崎幸之助なども「自分が何かしてあげられたら」結末は違うものになっていたのではないかとの後悔を述べている。

小原礼は加藤を「ワン・アンド・オンリー」と称し、北山修は「ミュータント。彼のような人に会ったことはない」と語り、高中正義は「加藤さんと出会わなかったら今の自分はない」と断言した。

最後は、「あの素晴らしい愛をもう一度」の2024年版のレコーディング風景。高野寛と高田漣がギターを弾き、きたやまおさむ、坂崎幸之助、坂本美雨、石川紅奈などのボーカルにより録音が行われる。坂本美雨を映像で見るのは久しぶりだが(舞台などでは見ている)、顔が両親に似てきており、体型は矢野顕子そっくりになっていて、遺伝の力の強さが伝わってくる。


映画の中では全く触れられていない、俳優・加藤和彦についての思い出がある。岩井俊二監督の中編映画「四月物語」である。松たか子の初主演作として知られている。今はなくなってしまったが、渋谷のBunkamuraの斜向かいにあったシネ・アミューズという映画館(上のフロアからハイヒールで歩く音が絶えず響いてくる映画館で、映画館側も苦情を入れていたようだが、上のフロアには何があったのだろう?)でロードショー時に観ている。ファーストシーンで観客を笑わせる仕掛けのある映画であるが、加藤和彦はラストシーンに登場する。千葉市の幕張新都心での撮影である。
主人公の楡野卯月(松たか子)は、高校時代、密かに思いを寄せる先輩(山崎先輩。田辺誠一が演じている)がおり、その先輩が東京の武蔵野大学(映画公開時には架空の大学であったが、その後、浄土真宗本願寺派の武蔵野女子大学が共学化して武蔵野大学となり、実態は違うが同じ名前の大学が存在することとなった)に進学したと知り、卯月も武蔵野大学を目指して合格。上京した四月の出来事を描いた作品である。卯月は先輩がアルバイトをしている本屋を探しだし、高校と大学の後輩だと打ち明けた後、スコールに襲われ雨宿りをする。ここで画廊から出てきた加藤と出会う。加藤もスコールだというので画廊の職員から傘を借りたところだったのだが、加藤は「傘ないの? じゃあこれ使いなさい。まだ中に傘あるから」と提案。卯月は傘を受け取るも、「傘買ってすぐ戻ってくるんで。すぐ戻りますから」と言って、先輩がアルバイトをしている本屋に引き返し、傘を借りようとする。しかし本屋にあるのは破れ傘ばかり。だが卯月は破れ傘を「これでいいです。これがいいです」と言って引き返す。加藤は破れ傘で戻ってきた卯月を見て、「それどうしたんだい? 拾ったのかい?」と笑いかけるという役であった。役名は画廊の紳士・加藤で、身分は明かされていなかったが、画家ではおそらくなく、知的な雰囲気であったことから、大学の先生か出版社の人物か何かの役で、エレガントな身のこなしが印象的であった。

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2024年7月20日 (土)

これまでに観た映画より(340) ドキュメンタリー映画「ビヨンド・ユートピア 脱北」

2024年1月31日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「ビヨンド・ユートピア 脱北」を観る。アメリカの作品。金王朝が続く北朝鮮。洗脳教育が行われ、民は貧しく餓死者が出る始末。飲み水にも事欠くという状況であり、脱北を試みる人が後を絶たないが、金正恩は脱北は犯罪行為と断言したため、連れ戻されて悲惨な目に遭う人も多い。最悪、死刑もあり得るようだ。

今回のドキュメンタリーでは、北朝鮮から鴨緑江を越え、中国へと入った一家5人が、中国大陸を通過し、ベトナムとラオスを経てタイに亡命するまでを追っている。ソウルに住む牧師が計画を立ててリードを行い、ブローカーが何人も間に入るが、ブローカーは人助けがしたいわけではなく、金目当てだという。

中国国内も安全というわけではないが、そこから先は更に危険。ベトナムでは3つの道なき山を上る必要があり、予想以上に時間が掛かってしまう。ラオスも共産圏だけあって中国との結びつきが強く、途中、危険な目に遭うことはなかったが、用心する必要はある。

最後はラオスとタイの間を流れるメコン川。船は小さく、川に落ちたら渦巻く底流によりまず助からないという。そうした危機の数々を乗り越えて、ようやくソウルに至った家族。それでもまだ金正恩に対する洗脳が解けていないのが印象的であり、北朝鮮がいかに異様な国家であるかをうかがい知ることが出来る。

北朝鮮の家庭では、金日成、金正日、金正恩の肖像を一家で一番良いところに掛けねばならず、時折、当局から抜き打ちの検査があり肖像に埃が付いていたりすると大変なことになるようだ。また北朝鮮の威容を世界に示すマスゲームも幼い頃から放課後に有無を言わさず練習させられるようで、実情を知る人は哀れで見ていられないという。

この異様な国家がどこへ向かうのか。我々は見届ける必要があるように思う。

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2024年6月 3日 (月)

これまでに観た映画より(336) 「ジョン・レノン 失われた週末」

2024年5月15日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「ジョン・レノン 失われた週末」を観る。
1969年に結婚し、1980年にジョンが射殺されるまでパートナーであったジョン・レノンとオノ・ヨーコだが、1973年の秋からの18ヶ月間、別居していた時代があった。不仲が原因とされ、ジョンはニューヨークにオノ・ヨーコを置いてロサンゼルスに移っている。この間、ジョンのパートナーとなったのが、ジョンとヨーコの個人秘書だったメイ・パンであった。
中国からの移民である両親の下、ニューヨークのスパニッシュ・ハーレム地区に生まれ育ったメイ・パンは、カトリック系の学校に学び、卒業後は大学への進学を嫌ってコミュニティ・カレッジに通いながら、大ファンだったビートルズのアップル・レコード系の会社に事務員として潜り込む。面接では、「タイピングは出来るか」「書類整理は出来るか」「電話対応は出来るか」との質問に全て「はい」と答えたものの実は真っ赤な嘘で、いずれの経験もなく、まさに潜り込んだのである。プロダクション・アシスタントとして映画の制作にも携わったメイ。ジョン・レノンの名曲「イマジン」のMVの衣装担当もしている。また「Happy Xmas(War is Over)」にコーラスの一人として参加。ジャケットに写真が写っている。

ジョンの最初の妻、シンシアとの間に生まれたジュリアン・レノン。ヨーコは、ジュリアンからの電話をジョンになかなか繋ごうとしなかったが、メイはジョンとジュリアン、シンシアとの対面に協力している。ジョンが「失われた週末」と呼んだ18ヶ月の間に、ジョンはエルトン・ジョンと親しくなって一緒に音楽を制作し、不仲となっていたポール・マッカートニーと妻のリンダとも再会してセッションを行い、ジョン・レノンとしてはアメリカで初めてヒットチャート1位となった「真夜中を突っ走れ」などを制作するなど、音楽的に充実した日々を送る。デヴィッド・ボウイやミック・ジャガーなどとも知り合ったジョンであるが、メイは後にデヴィッド・ボウイのプロデューサーであったトニー・ヴィスコンティと結婚して二児を設けている(後に離婚)。

テレビ番組に出演した際にジョンが、「ビートルズの再結成はある?」と聞かれて、「どうかな?」と答える場面があるが、その直後にビートルズは法的に解散することになり、その手続きの様子も映っている。

現在(2022年時点)のメイ・パンも出演しており、若い頃のメイ・パンへのインタビュー映像も登場するなど、全体的にメイ・パンによるジョン・レノン像が語られており、中立性を保てているかというと疑問ではある。メイにジョンと付き合うことを勧めたのはオノ・ヨーコだそうで、性的に不安定であったジョンを見て、「あなたが付き合いなさい」とヨーコが勧めたそうである。ジョンの音楽活動自体は「失われた週末」の時期も活発であり、ヨーコの見込みは当たったことになるが、ジョンも結局はメイではなくヨーコを選んで戻っていくことになる。
ジョンがヨーコの下に戻ってからも付き合いを続けていたメイであるが、1980年12月8日、ジョンは住んでいた高級マンション、ダコタハウスの前で射殺され、2人の関係は完全に終わることになる。

メイ・パンは、ジュリアン・レノンとは親しくし続けており、映画終盤でもインタビューを受けるジュリアンに抱きつき、歩道を肩を組みながら歩いている。
ちなみにメイ・パンが2008年に上梓した『ジョン・レノン 失われた週末』が今年、復刊されており、より注目を浴びそうである。

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2024年4月 2日 (火)

これまでに観た映画より(327) TBSドキュメンタリー映画祭2024 「坂本龍一 WAR AND PEACE 教授が遺した言葉たち」

2024年3月28日 アップリンク京都にて

TBSドキュメンタリー映画祭2024「坂本龍一 WAR AND PEACE 教授が遺した言葉たち」を観る。監督は金富隆。前半は坂本龍一が「NEWS23」に出演したり「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」の企画に参加したりした際の映像を中心とし、後半はTBSが収録したドキュメンタリーの映像の数々が登場する。

出演:坂本龍一、筑紫哲也、細野晴臣、高橋幸宏、DREAMS COME TRUE、佐野元春、桜井和寿(Mr.Children)、大貫妙子、TERU(GLAY)、TAKURO(GLAY)、Chara、シンディ・ローパー、デヴィッド・シルヴィアン、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)ほか。

筑紫哲也がキャスターを務めたTBS50周年特別企画「地雷ZERO」で、坂本龍一がモザンビークの地雷撤去作業地域を訪れるところから映画は始まる。2001年のことである。坂本龍一は、地雷撤去のための資金を集めるためにチャリティー音楽「ZERO LANDMINE」を作成することを思い立ち、デヴィッド・シルヴィアンの作詞による楽曲を完成。シンディ・ローパーなど海外のアーティストも参加した作品で、国内からも多くのミュージシャンが参加した。

その後、植樹の活動(モア・トゥリーズ)なども始めた坂本龍一。環境問題に取り組み、ライブのための照明も水力発電によるものを買って使用するようになる。

2001年9月11日。アメリカで同時多発テロが発生。発生時、ニューヨークの世界貿易センター(ワールドトレードセンター)ビルから1マイルほどのところにいた坂本はカメラで炎上する世界貿易センタービルを撮影。その後、ツインタワーであった世界貿易センタービルは倒壊し、土煙を上げる。アメリカは報復措置として、アフガン空爆、そしてイラク戦争へと突入する。坂本は「世界に60億の人がいても誰もブッシュを止められない」と嘆く。
「ニュース23」の企画で、戦争反対の詩を募集し、坂本の音楽に乗せるという試みが行われる。全国から2000を超える詩の応募があり、中には6歳の子が書いた詩もあった。その中から坂本自身が19編の詩を選び、作者のナレーションを録音して音楽に乗せる作業を行う。作業はコンピューターを使って行われるのだが、微妙なズレを生むために何度も繰り返し行われる。

日本では安保法案改正問題があり、坂本も反対者の一人として国会議事堂前でのデモに参加し、演説も行う。都立新宿高校在学時の若き坂本龍一がアジ演説を行っている時の写真も紹介される。

2011年3月11日。東日本大震災が発生。福島第一原子力発電所ではメルトダウンが起こる。
坂本は原発稼動への反対を表明。電気よりも命を優先させるべきだと演説し、50年後には電気は原発のような大規模な施設ではなく、身近な場所で作られるものになるだろうとの理想を述べる。
東日本大震災では家屋にも甚大な被害が出たが、坂本は植樹運動で育てた樹を仮設住宅に使用する。
その後、東北ユースオーケストラを結成した坂本。東北の復興のために音楽で尽力する。東北ユースオーケストラは坂本が亡くなった現在も活動を続けている。

坂本の最後のメッセージは、明治神宮外苑再開発による樹木の伐採反対。交流があった村上春樹も反対の声明をラジオで発しているが、東京23区内で最も自然豊かな場所だけに、再開発の影響を懸念する声は多い。

名物編集者、坂本一亀(かずき)の息子として生まれた坂本龍一。若い頃には父親への反発から文学書ではなく思想書ばかり読んでいたというが(音楽家になってからも小説などはほとんど読まなかったようである)、若き日に得た知識の数々が老年になってからもなお生き続けていたようである。また、音楽家が自らの思想を鮮明にするアメリカに長く暮らしていたことも彼の姿勢に影響しているのかも知れない。

映画のラストで流れるのは、「NEWS23」のエンディングテーマであった「put your hands up」のピアノバージョン(「ウラBTTB」収録)。心に直接染み渡るような愛らしい音楽である。

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2024年3月27日 (水)

これまでに観た映画より(325) ドキュメンタリー映画「アアルト」

2024年3月21日 京都シネマにて

京都シネマで、フィンランドのドキュメンタリー映画「アアルト」を観る。フィンランドのみならず北欧を代表する建築家にしてデザイナーであるアルヴァ・アアルトの生涯と彼の二人の妻に迫る作品。ヴィルビ・スータリ監督作。

母校のヘルシンキ工科大学が現在はアアルト大学に校名変更されていることからも分かるとおり、絶大な尊敬を集めたアルヴァ・アアルト(1898-1976)。「北欧デザイン」といわれて何となく頭に浮かぶイメージは彼が作り上げたものである。彼の最初の妻であるアイノは4つ年上であり、同じヘルシンキ工科大学の出身であった。
アアルトがヘルシンキ工科大学卒業後にユヴァスキュラに建築事務所を設立。従業員を募集し、それに応募してきたのがアイノであった。

アアルトの設計の最大の特徴は、「人間的」であること。また自然との調和も重視し、人間もまた自然の一部であるという発想はシベリウスを生んだフィンランド的である。
二人三脚で仕事を進めたアアルトとアイノ夫人。アイノもアアルトと同じヘルシンキ工科大学を卒業しているだけあって、アイデアも豊富でセンスにも長け、アアルトが起こしたデザイン企業アルテックの初期の家具などのデザインにはアイノ夫人の発案も多く取り入れられているようである。
ただ、二人とも家具職人ではないので、実用的な部分は専門家に任せていたのだが、彼が亡くなると家具デザイナーとしてのアアルトは全盛期を過ぎることとなる。
地中海を行く船上で行われた近代建築国際会議(CIAM)に出席し、ル・コルビュジエなどの知遇を得、パリ万博やニューヨーク万博のフィンランド館(パビリオン)、ニューヨーク近代美術館(MoMA)での個展などで注目を浴びたアアルト。作風を次々に変えながら、「人間的」という意味では通底したものを感じさせる建築を次々に発表。マサチューセッツ工科大学(MIT)の客員教授に就任し、MITの学生寮も設計。蛇行した川に面したこの学生寮は、全ての部屋から川面が見えるよう、建物自体もうねっているという独特のものである。

1948年にアイノ夫人が若くして亡くなると、3年後に24歳年下のアアルト事務所職員で同じヘルシンキ工科大学出身のエリッサと再婚。エリッサ夫人は、アアルトが亡くなると、彼が残した設計図を元に建築の仕上げなども行っているようである。

アアルトの最大の仕事は、ヘルシンキ市中心部の都市設計であったが、これはフィンランディアホールを完成させるに留まった。このフィンランディアホールは白亜の外観の美しさで有名であるが、それ以上に劣悪な音響で知られており、ヘルシンキのクラシック音楽演奏の中心は、現在ではヘルシンキ音楽センターに移っている。

晩年になると海外での名声は高まる一方であったアアルトであったが、フィンランド国内では逆に保守的な建築家と目されるようになり、国民年金協会本部や村役場、大学などの設計を行うことで、体制側と見なされることもあったという。

フィンランド以外での建築物としては、前記MITの学生寮、ハーバード大学のウッドベリー・ポエトリー・ルーム、ベルリン・ハンザ地区の集合住宅、ノイエ・ファールの高層集合住宅(ドイツ・ブレーメン)、フランスのルイ・カレ邸、ヴォルフスブルクの文化センター(ドイツ)、同じくヴォルフスブルクの精霊教会、エドガー・J・カウフマン記念会議室(アメリカ・ニューヨーク)、リオラの教会(イタリア)などがある。

ラジオなどで収録されたアアルト自身の肉声、アアルトが残した手紙などを朗読する声優(アアルトの声を当てているエグゼクティブ・プロデューサーで俳優でもあるマルッティ・スオサオは、ヴィルビ・スータリ監督の夫だそうである)の他に、建築家の仲間や専門家、大学教授などの証言を豊富に収めており、アカデミックな価値も高いドキュメンタリー映画である。

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2022年12月28日 (水)

これまでに観た映画より(318) 第44回ぴあフィルムフェスティバル in 京都 ブラック&ブラック「ザ・ビッグ・ビート:ファッツ・ドミノとロックンロールの誕生」 ピーター・バラカンのアフタートーク付き

2022年11月25日 京都文化博物館フィルムシアターにて

午後6時から、京都文化博物館フィルムシアターで、第44回ぴあフィルムフェスティバル in 京都、ブラック&ブラック 日本未公開/関西初上映の音楽映画「ザ・ビッグ・ビート:ファッツ・ドミノとロックンロールの誕生」をピーター・バラカンのアフタートーク付きで観る。

共にルイジアナ州ニューオーリンズ近郊に生まれたファッツ・ドミノとデイヴ・バーソロミューを中心に、黒人音楽がリズム&ブルールへ、そしてロックンロールへと昇華する過程を様々なミュージシャンや伝記作家などへのインタビューと往年の演奏姿によって綴る音楽映画である。
ジャズ発祥の地としても名高いニューオーリンスが生んだ二人の天才音楽家が生み出した音楽が、エルヴィス・プレスリーやビートルズなどの白人ミュージシャンに影響を与え、ロックンロールという名を与えられていく。
ちなみに、リズム&ブルースは1949年に生まれたとされる言葉で、それまでは黒人の音楽を指す専門用語はほとんど存在しなかったようである。ただ、リズム&ブルースは、黒人音楽のイメージが余りに強いため、ロックンロールという新語が生まれたようだ。ともあり、ファッツ・ドミノが生み出し、デイヴ・バーソロミューが演奏とプロデュースを手掛けた音楽は全米で大ヒット。新たな音楽の潮流を生むことになった。
ブラスの分厚いニューオーリンズサウンドがとにかく華やかで、音楽性の豊かさに魅せられる。

ピーター・バラカンのアフタートークは、ニューオーリンズの紹介を中心としたもので(持ち時間が限られていたためにそこから先に行けなかったということもある)、フレンチクオーターと呼ばれる地域があり、フランス統治時代の面影が残っている(ルイジアナ州のルイジアナとはルイ○世のルイ由来の地名であり、オーリンズとはフランスのオルレアン地方が由来である)。フレンチクオーターの北の方にコンゴスクエアという場所があるが、ここで黒人奴隷達が週に1回音楽を奏でることが許されたそうで、ここが黒人音楽の発祥の地ということになるようである。音楽をすることを許されたのは、ピーター・バラカンによると統治していたフランスがカトリックの国であったことが大きいという。その他の地域、イギリスの統治下にあったところは、黒人が音楽を奏でることは許されなかったそうである。

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2022年11月10日 (木)

これまでに観た映画より(314) ドキュメンタリー映画「役者として生きる 無名塾第31期生の4人」

2022年11月1日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「役者として生きる 無名塾第31期生の4人」を観る。

仲代達矢が主宰する無名塾。1975年に仲代と妻の宮崎恭子と共に創設した俳優養成所である。入塾のための倍率は高く、文学座と共に「演劇界の東大」と呼ばれることもある。

無名塾に第31期生として入ったのは、上水流大陸(かみずる・たいりく)、中山正太郎、島田仁(じん)、朝日望(のぞみ。女性)の4人である。バックボーンは様々で、中山正太郎は日大一高演劇部から日大藝術学部演劇学科を卒業して入塾。上水流大陸は鹿児島高校の演劇部での活動を経て無名塾に入り、島田仁は国立香川高等専門学校の5年次に無名塾に合格、国立大学の編入試験にも合格していたが無名塾を選んでいる。朝日望は以前に無名塾に合格するも短大での学生生活より無名塾を優先させることがためらわれて一度辞退し(最終面接で、「短大は辞めて来て下さい」と言われたようである)、短大卒業後に無名塾を再度受けてまた合格し、第31期生となった。

無名塾は学費無料だがアルバイトは原則禁止であり(新入生に仲代本人が説明する場面がある)、塾生(でいいのだろか)は常に俳優としてのスキルを上達させることが望まれる。
第31期生は2017年の入塾ということで、新型コロナによる中断を経て、2021年の11月に、総決算ともいえる「左の腕」(松本清張原作、仲代達矢の演出。能登演劇堂ほかでの上演)に全員が出演することとなる。

無名塾は自主稽古が多く、無名塾の先輩からの指導で稽古をすることも比較的多く、仲代が年4回ほどの直接指導を行う。

仲代は、「俳優はアスリート」と考えを持っており、身体訓練は自主的に行うことが求められる。第31期生も、近くの砧公園でランニングを行い、それぞれが成長を自覚しているようである。

養成課程修了後に関しては仲代は、「自由にしていい。ただ演劇は続けて欲しい。技術が必要になるから」と述べている。

4人の演劇観もそれぞれ異なり、小劇場指向で、「お金のために演技をしたくない。稼ぐにはアルバイトがあるので」と昔ながらの舞台俳優としての生き方を志すメンバーもいた。

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2022年11月 3日 (木)

これまでに観た映画より(313) ドキュメンタリー映画「フェルナンド・ボテロ 豊満な人生」

2022年10月28日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「フェルナンド・ボテロ 豊満な人生」を観る。現在、京都市京セラ美術館で開催されている「ボテロ展」に合わせて公開されているものである。2018年の制作で、監督はドン・ミラー。バンクーバーを拠点とするカナダ人スタッフを中心に制作されている。フェルナンド・ボテロ本人を始め、ボテロの実子や孫などが出演し、コメントをしたりインタビューに応えたりしている。キュレーターや評論家といった絵画・美術の専門家も多数登場する。

3人兄弟の次男として生を受けたフェルナンド・ボテロ。父親は商売人であり、馬にまたがって商品を運んだりしていた。だがボテロが4歳の時に心臓発作で他界。母親は女手一つで3人の子どもを育てることになる。母親には裁縫の才があり、お針子として生計を立てていたが、収入は十分ではなく、ボテロは中学生の頃から新聞の挿絵などを描くアルバイトに励んでいた。ボテロの夢は世界一の画家になることだったが、生まれ育ったメデジンには絵画の教育を受けるのに十分な機関が存在せず、ボテロはヨーロッパに渡ることになる。

ボテロの画風の特徴であるふっくらとした「ボテリズム」は、直接的にはメキシコでマンドリンを描いている時に着想を得たものだが、若い頃、フィレンツェ滞在中に数多く触れたルネサンス期とその少し前のイタリア絵画に影響を受けていることがこのドキュメンタリーを見ていると分かる。ボテロの絵を見ているだけでは関連性に気づかなかったが、ルネッサンス期の絵画は確かにふくよかなものが多い。

ボテロはその後も成功を求めてニューヨークやパリなどに移り住み、絵画を制作。決して順風満帆という訳ではなく、作品を酷評されることも多かった。だがニューヨークで活動をしていたある日、隣に住んでいた画家のところにMoMAことニューヨーク近代美術館のキュレーターが来ており、その画家が、「隣にも画家がいるからついでに見て行きなよ」と言ったため、キュレーターがボテロのアトリエに来たのが成功へと繋がる。MoMAで行われたボテロの個展は大成功を収める。実の子ども達と語り合うシーンで、「私がその時留守だったら運命は変わっていた」とボテロは述べている。

この映画にはこの手のドキュメンタリーとしては珍しく、ボテロの作風を「マンガ的」などと否定的に捉える評論家のコメントなども取り上げられている。
また、「分かりやすいから成功したと思われるようだがそうではない」という専門家の意見も聞くことが出来る。

子ども達や孫達はボテロの成功を夢見ての努力を賞賛しているが、ボテロ本人のコメントは面白いことにそれとは異なっており、「成功したか失敗したかは問題じゃない」として、「とにかく描くことが人生」だとボテロは心の底から思っているようである。描くことで学ぶことが出来、日々発見がある。存命中の画家としては世界で最も有名という評価もあるが、老境に入った今は若い頃と違って名声をいたずらに求めるのではなく、絵と芸術に向かい合うことが何より幸せな時間であると実感していることが伝わってくる。

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2022年8月16日 (火)

これまでに観た映画より(306) ドキュメンタリー映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路」

2022年8月12日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路」を観る。アメリカを代表するバンドであったビーチボーイズのリーダーにしてヴォーカル、ベース&キーボード、作詞・作曲、プロデューサーを一人で手掛けたブライアン・ウィルソン。「God Only Knows(神のみぞ知る)」はポール・マッカートニーから「ポピュラー音楽史上最高の傑作」と称されるなど、「真の天才」と誰もが認める大物ミュージシャンでありながら、天才音楽家ゆえの繊細さから精神を病み、また麻薬中毒に苦しんで長期に分かってキャリアを絶つことになってしまう。近年はまた積極的にライブ活動を行っており、エルトン・ジョン、グスターボ・ドゥダメル(ベネズエラ出身の指揮者)、ブルース・スプリングスティーンなどジャンルを超えたミュージシャン達がブライアンを激賞している。ハイライトとなるのは、ハリウッド・ボウルでのライブであるが、客席にいるドゥダメルの姿が映っている(ドゥダメルはハリウッドに近いロサンゼルスのフィルハーモニックの音楽監督を務めている)。

ブライアン・ウィルソンは本当に特別な才能で、ビーチボーイズのメンバーには実弟のデニスとカールがいるが、音楽家としての才能はブライアンが飛び抜けている。「サーフズ・アップ」などを聴けばそれは明白である。
しかし、ブライアンの音楽活動からの離脱は比較的早く、ビーチボーイズのアルバム「ペット・サウンド」を巡るバンド内での争いに疲れたブライアンは、ツアー中にパニック発作に襲われ、ライブ活動を見合わせることになり、その後の精神的不調を診ることになった精神科医ユージン・ランディの職権乱用(最終的にはランディは、「ブライアンへの不適切な処方を行った」ことで医師免許を剥奪されることになる)に振り回されることになる。

本作品でドライブの相棒的存在を務めるジェイソン・ファイン(元「ローリング・ストーン」誌編集者)と知り合った直後も自宅で冷蔵庫の中に隠れていたことがあったそうで(ポール・マッカートニーとの初対面時にも同じようなエピソードがあったはずである)、精神状態がなかなか安定しないことが分かる。

そんな中でブライアン・ウィルソンは音楽活動を続けている。ルーティンワークではなく、様々な新しい実験を行いながらである。この人は音楽に愛された男であり、音楽しかないのだということがありありと伝わってくるドキュメンタリー映画である。

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