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2021年5月12日 (水)

コンサートの記(720) 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021 石橋栄実&藤井快哉「もしあなたと一緒になれたなら」+福原寿美枝&船橋美穂「女の想い~シューマン歌曲集」+砂川涼子&河原忠之「ベルカント!」

2021年5月2日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

今日もびわ湖ホールで、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021がある。今日が2日目にして楽日である。

今日は午前中に、児玉姉妹の姉である児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏があるのだが、午前中からベートーヴェンの音楽を聴くのは気が引けたたため、ソプラノの石橋栄実、メゾソプラノの福原寿美枝、ソプラノの砂川涼子が立て続けに登場する3つのコンサートのみを聴くことにする。

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今日も昨日同様、雨がパラつく天気だったのだが、びわ湖ホールに着く直前に太陽が顔を覗かせる。

 

午後12時40分開演の、公演ナンバー2-L-3「もしあなたと一緒になれたなら」。出演は石橋栄実(ソプラノ)と藤井快哉(ピアノ)。

2019年の「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」では、体調不良で降板した砂川涼子の代役としてプーランクのモノオペラ「声」に出演し、大成功を収めた石橋栄実(いしばし・えみ)。大阪音楽大学声楽科卒業、同専攻科を修了。大阪舞台芸術奨励賞、音楽クリティック・クラブ奨励賞、坂井時忠音楽賞、咲くやこの花賞などを受賞。現在は大阪音楽大学の教授と大阪音楽大学付属音楽院の院長も務めている。

藤井快哉(ふじい・よしや)は、大阪音楽大学を経て同大学院を修了。インディアナ大学音楽学部アーティストディプロマ課程修了。坂井時忠音楽賞、兵庫県芸術奨励賞、佐治敬三賞、神戸灘ライオンズクラブ音楽賞などの受賞歴があり、現在は大阪音楽大学の教授を務めている。

曲目は、ベネディクトの「四十雀(しじゅうから)」、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」より“もしあなたと一緒になれたなら”、プーランクの歌劇「ティレジアスの乳房」より“いいえ、旦那様”、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」より“与ひょう、体を大事にしてね”、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」よりムゼッタのワルツ“私が街を歩くと”。

ベネディクトは、ドイツ出身のイギリスの作曲家だそうである。石橋栄実のトークによると、選曲した時には「今頃(「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021開催の頃)は、色々と大変だったことが過去になって、『良かったね』という状況で歌いたい」ということで1曲目に選んだのだが、残念ながらコロナ禍は却って深刻さを増してしまっている。

昨年の「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」では、小ホールで全曲日本の歌曲によるプログラムを歌う予定だったのだが中止になってしまい、本来は今年も日本の歌曲を歌う予定だったのだが、会場が大ホールになり、「オペラの殿堂ということでオペラの曲を並べることにした」そうである。
ベートーヴェン歌劇「フィデリオ」より“もしあなたと一緒になれたなら”は、男装してフィデリオと名を変えたレオノーレを本当に男だと勘違いして恋をしてしまう娘、マルツェリーネのアリアである。石橋栄実は、典型的なリリック・ソプラノであり、声が澄んでいて可憐、ただ芯がしっかりしており、私が最も好むタイプの声質の持ち主である。

藤井快哉によるプーランクのピアノ曲「エディット・ピアフを讃えて」の独奏。「エディット・ピアフを讃えて」は、若手ピアニストの牛田智大がアンコールなどで好んで取り上げる楽曲である。藤井快哉が演奏前に解説を行い、エディット・ピアフがシャンソンの名歌手であることや、プーランクがピアフの大ファンだったことなどを語り、「私も石橋栄実さんの大ファンです」と言って、プーランクとピアノの関係を重ねたりする。

続く曲は、歌劇「ティレジアスの乳房」より“いいえ、旦那様”なのであるが、「エディット・ピアフを讃えて」の演奏前、いったん退場する際に石橋が、「なんていうタイトルなんでしょうと思いますが、女性が、『自分はフェミニストだ!』と言って、掃除やら洗濯やら家事一般が女性の仕事とされることに納得がいかず、兵士になりたいとか弁護士ですとか、当時、男性しか就けない仕事に就けるよう要求するのですが、すると顎にひげが生えて、胸の膨らみが飛んでいっちゃって」と解説する。
「エディット・ピアフを讃えて」演奏終了後に、石橋は胸の前に風船を二つ付けて登場。ヘリウムガスで膨らませた風船であるため、胸の膨らみを否定する場面では、風船が上に浮かぶ。その後、石橋は風船を二つとも割る。演奏前に風船を割るという演出の説明をしなかったのは、事前に言うと風船を割ることだけを意識してしまう人がいそうだったからだそうで、風船が割れる音を嫌う人もいるので、怖がらせたらまずいとも思っていたそうだ。「皆さん、こういう演出見たことあります?」と客席にも聞いていた。無反応だったので、見たことがある人はほとんどいないようであったが、私はたまたま川越塔子が青山音楽記念館バロックザールでのリサイタルでそれに近いことをしていたのを覚えている。もう4年も前なので、正確には記憶していないが、変わった演出だったので、それらしきことをしていた映像がぼんやりとではあるが浮かぶ。
演奏終了後に、藤井は、「尊敬している方にああいうことをされると結構な衝撃で」と語っていた。リハーサル時にも風船は使っていたが、割ったのは本番だけだったそうである。

切々と歌われる團伊玖磨の歌劇「夕鶴」より“与ひょう、体を大事にしてね”は、今のコロナ禍を念頭に置いて選ばれたと思われ、「ラ・ボエーム」よりムゼッタのワルツ“私が街を歩くと”では一転してコケティッシュな歌声を聴かせた。「夕鶴」と「ラ・ボエーム」ということで振り幅がかなり広い。

日本歌曲を予定していたのに、團伊玖磨の1曲だけになってしまったということで、アンコールとして中田喜直の「歌をください」が歌われた

 

午後2時10分開演の、公演ナンバー2-L-4「女の想い~シューマン歌曲集」。出演は、福原寿美枝(メゾソプラノ)、船橋美穂(ピアノ)。

福原寿美枝は、京都市立芸術大学卒業、同大学院修了。平成25年神戸市文化奨励賞、2015年度音楽クリティック・クラブ賞受賞などの受賞歴がある。現在は武庫川女子大学音楽学部教授を務め、京都市立芸術大学でも後進の指導に当たっている。

船橋美穂(ふなはし・みほ)も京都市立芸術大学出身。大学卒業後に渡米し、エール大学大学院音楽科講師などを務めた。2002年藤堂音楽褒賞、第29回京都芸術祭京都府知事賞などの受賞歴がある。

曲は、いずれもシューマンのリートで、「女の愛と生涯」と「メアリー・スチュワート女王への詩」

歌唱の前に福原は、「緊張で心臓がバクバクしてる。飛び出そう」と語り(なんでもコンサートでリートを歌うのは約30年ぶりだそうである)、また年齢を重ねるにつれて声が低くなってきているので、低音版の楽譜で歌うことを告げる。

「女の愛と生涯」は、愛しい人との出会いと結婚生活、出産、死別を描いたシャミッソーの詩に基づく歌曲で、背景にはシューマンのクララとの結婚がある。歌う前に「声が低いので、可愛らしい女の人にはなりません」と語った福原だが、これはこれで若き日を回顧する趣があり、味わい深い。

「メアリー・スチュワート女王への詩」。生後まもなくスコットランド女王に即位し、あらゆる才能に恵まれながらも様々な男性との恋に破れ、最終的にはエリザベス女王により追い込まれて処刑された悲劇の女王であるメアリー・スチュワート。その生涯は様々な文学作品や映画や芝居で描かれ、多くの人が知るところとなっている。
「メアリー・スチュワート女王への詩」に関しては事前に歌詞をチェックしていかなかったのだが、シューマンらしい個性に満ちた旋律を味わうことが出来た。
シューマンは、晩年は梅毒に起因する精神障害が進み、作曲活動が思うようにはかどらなくなっていた。シューマンが自身をメアリー・スチュワートに重ねても不思議ではない気はするが、「重ねている」という絶対的な根拠は当然ながらないようである。


午後3時30分開演の、公演ナンバー2-L-5「ベルカント!」。出演は、砂川涼子(ソプラノ)と河原忠之(ピアノ)。「ベルカント!」は砂川の最新アルバムのタイトルでもあるようだ。
びわ湖ホール大ホールの2階席(びわ湖ホールの1階席と2階席は繋がっている)の後ろの方では、本番を終えた石橋さんと福原さんが並んで聴いているのが確認出来た。

砂川涼子(すなかわ・りょうこ)は、沖縄県生まれ。ということで、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」でもオール沖縄民謡によるリサイタルを行ったことがある。武蔵野音楽大学と同大学院を修了。ミラノに渡って研鑽を積み、第34回日伊声楽コンコルソで優勝。第69回日本音楽コンクール声楽部門でも第1位を獲得している。第12回R・ザンドナイ国際声楽コンクールではザンドナイ賞を受賞。現在は藤原歌劇団団員であると共に、母校の武蔵野音楽大学で講師を務めている。

河原忠之は、歌手の伴奏ピアニストとして高い評価を受けている。太メン4人によるユニットIL DEVU(イル・デーヴ)のピアノメンバーであり、指揮者としても活躍している。国立(くにたち)音楽大学と同大学院を修了。母校の大学院教授を務めると同時に、新国立(こくりつ)劇場オペラ研修所シニアコレペティトゥアとしても活躍している。

曲目は、いずれも砂川のニューアルバム「ベルカント!」に収録されているもので、ロッシーニの「ヴェネツィアの競艇」、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」より“おいでください、膝をついて”、ビゼーの歌劇「カルメン」より“何も恐くないといったけれど”、ドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」より“妙薬よ!僕のものだ”~“ラララの二重唱”(清水徹太郎との共演)、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」より“あなたの愛の叫ぶ声に”、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」より“氷のような姫君の心は”。

プッチーニの歌劇「トーランドット」より“氷のような姫君の心は”は、女奴隷であるリューのアリアであるが、砂川は一昨年にびわ湖ホール大ホールで行われた大野和士指揮バルセロナ交響楽団ほかによる歌劇「トゥーランドット」にリュー役で出演している。

砂川涼子は見た目は可憐であるが、ドラマティックソプラノであり、声量豊かでスケールも大きい。トークでも河原に、「見た目と歌声が一致しない」と言われていた。

ロッシーニの「ヴェネツィアの競艇」は初めて聴く曲である。思ったよりも長い。
歌劇「フィガロの結婚」より“おいでください、膝をついて”は、スザンナが幼いケルビーニを無理矢理伯爵夫人に見立てようとするいたずら心たっぷりの歌で、そうした心持ちを存分に発揮する。

ビゼーの歌劇「カルメン」より“何も恐くないといったけれど”はミカエラのアリア。砂川はミカエラを得意レパートリーの一つとしているが、今年の夏にびわ湖ホールで行われる「カルメン」でもミカエラを歌い、次の曲で登場する清水徹太郎(ドン・ホセ役)と共演するそうである。

ドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」より“妙薬よ!僕のものだ”~“ラララの二重唱”。愛の妙薬が手に入ったと勘違いしたドタバタの場面である。演技付きでの演奏。ユーモラスな演技が客席の笑いを誘う。

プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」より“あなたの愛の呼ぶ声に”と歌劇「トゥーランドット」より“氷のような姫君の心は”。同じプッチーニ作品であるが、求められるものは真逆である。実際にびわ湖ホール大ホールで上演を観たことのある“氷のような姫君の心は”がダイナミックでとても良い。
“氷のような姫君の心は”は、プッチーニが最後に書き上げたアリアであり、リューはプッチーニ版の「トゥーランドット」にのみ登場する役で、実際にプッチーニに仕えていた女召使いがモデルになっているとも言われている。

 

びわ湖ホールを出ると、晴れ間が覗く中に雨粒がポツリポツリと落ちてくるという天気で、三上山の方を振り返ると、巨大な虹が架かっているのが見えた。

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2021年5月 3日 (月)

コンサートの記(715) 「ソプラノ 川越塔子リサイタル ~珠玉のオペラアリア集Ⅱ~」

2017年6月4日 上桂の青山音楽記念館バロックザールにて

午後3時から、上桂の青山音楽記念館バロックザールで、「ソプラノ 川越塔子リサイタル ~珠玉のオペラアリア集Ⅱ~」を聴く。

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今日は全席自由である。開場10分後ぐらいに会場に着いたので、後ろの方の席は埋まっており、前の方の席は空いていたので、前から3列目に座る。前列にも前々列にも誰もいない。

 

川越塔子は、私と同じ1974年生まれのソプラノ歌手。宮崎市出身。東京大学法学部卒業後、武蔵野音楽大学大学院声楽専攻を修了という異色の系列を持つ。藤原歌劇団所属。昭和音楽大学では声楽の講師も務めている。京都芸術劇場春秋座で毎年行われている「春秋座オペラ」の常連であり、これまで、「夕鶴」、「ラ・ボエーム」、「蝶々夫人」、「椿姫」、「セビリアの理髪師」で主演を務めている。私はそのうち、「ラ・ボエーム」、「蝶々夫人」、「椿姫」を観ているが、川越はいずれも薄幸な雰囲気を上手く出していた。ただ薄幸な役だけしか出来ないというわけでもないはずなので、リサイタルを聴きに来たのである。
ちなみに、春秋座で「都をどり」を見た時に、チケットオフィスのそばに川越の今日のリサイタルのチラシが置かれていたため公演の存在を知ったのであり、そうでなければ知らないままだったということになる。

ピアノ伴奏は細川智美(二期会ピアニスト)が務める。

 

曲目は、第1部が、グノーの「ロメオとジュリエット」より“夢に生きたい”、オッフェンバッハ(オッフェンバック)の「ホフマン物語」より“オランピアの唄”、マスネの「マノン」より“ガヴォット”、マスネの「エロディアード」より“甘く優しく”、細川智美のピアノソロでプーランクの即興曲第15番「エディット・ピアノを讃えて」、プーランクの「ティレジアスの乳房」より“いいえ旦那様”。
第2部が、團伊玖磨の「夕鶴」より“あたしのだいじな与ひょう”、プッチーニの「蝶々夫人」より“ある晴れた日に”、プッチーニの「蝶々夫人」より“可愛い坊や”、細川智美のピアノソロでドビュッシーの「月の光」、クルト・ワイルの「ヴィーナスの口吻」より“愚かなハート”、メノッティの「泥棒とオールドミス」より“私を盗んで”、レナード・バーンスタインの「キャンディード」より“きらびやかに着飾って”。

仏、日、伊、米というバラエティ豊かな選曲である。またプーランクやクルト・ワイル、メノッティ、レナード・バーンスタインといった「知名度はそこそこあるが作品はそれほど知られていない作曲家」の作品を選んでいるのも興味深い。

 

細川智美とともに純白のドレスで登場した川越塔子であるが、細川のピアノソロの間に着替えて、赤のコルセット風トップスに黒のミニスカートでプーランクを歌い、第2部では紫の着物姿で團伊玖磨の「夕鶴」にプッチーニの「蝶々夫人」という日本ゆかりの曲を歌い、最後は「月の光」独奏の間に薄萌葱のドレスに着替えて残りのプログラムを歌った。舞台監督さんに「こんなに着替える人、初めてです」と言われたそうである。

マイクを手にトークを挟みながらの歌唱。話もウイットに富んで面白いし、プラカードを使って笑いを誘ったり、“オランピア(オランピアは機械仕掛けの人形である)の唄”ではオペラ本番さながらに動きを止めたりギクシャク動いたりと、とにかく聴き手を楽しませるエンターテインメント性豊かな歌手である。

歌声も安定しており、とかく「お堅い」とされるクラシック音楽界にあって、楽しませることを考えた面白いコンサートであった。

 

アンコールは3曲。プッチーニの「トスカ」より“歌に生き恋に生き”、ドリーブの「カディスの娘たち」ではカスタネットを叩きながらの歌唱、3曲目は中島みゆきの「糸」であった。

カスタネットを叩きながら歌う練習をしているとのことだったが、「カルメン」をやる予定があるのだろか? ちなみに今年の春秋座オペラでは「魔笛」の夜の女王を歌うことが決まっている。

「糸」を歌う前には、川越は「皆さんと一緒に歌いたい」と述べたため、あるいは聴衆の人達にも歌って貰いたかったのかも知れないが、京都人はノリは良くないので、歌う人はいなかった。大阪人はノリが良いので参加してくれる人がいたりするのだけれど。私は前の方の席だったので、口パクだけはした。中島みゆきの「糸」は自分からカラオケで歌うことはないのだが、人に頼まれて歌うことはたまにある。

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2021年4月11日 (日)

コンサートの記(709) 現田茂夫指揮 京都市交響楽団第524回定期演奏会

2009年5月15日 京都コンサートホールにて

午後7時から京都コンサートホールで京都市交響楽団の第524回定期演奏会に接する。今日の指揮者は現田茂夫(げんだ・しげお)。

現田茂夫(愛称は「ゲンタ」)は、京都市交響楽団の常任指揮者である広上淳一と東京音楽大学において同窓であり、当然ながら知り合いである。現田は東京音楽大学卒業後、東京藝術大学でも指揮を学び、その後、オペラとコンサートの両方で活躍している。夫人はソプラノ歌手の佐藤しのぶ。以前は指揮者としてよりも、佐藤しのぶの旦那としての方が有名であった。

曲目は、前半がビゼーの歌劇「カルメン」より抜粋(メゾ・ソプラノ:福島紀子、テノール:松本薫平、バリトン:萩原寛明)、後半がシチェドリンの「カルメン組曲」(原曲:ビゼー)という興味深い組み合わせ。

今年の兵庫県立芸術文化センター・佐渡裕芸術監督プロデュースオペラの演目が「カルメン」なので、その予習にもなる。

京都市交響楽団による「カルメン」の音楽は、広上淳一指揮による実演を聴いているのでそれとの比較になるが、現田茂夫の方がテンポは平均的演奏に近い。だが、ハーモニーに関する感度の違いか、今日の演奏は広上指揮のものに比べると音がモワモワして団子状に聞こえた。

独唱者3人はいずれも見事な歌唱。現田の指揮もオペラでの豊かな経験を生かし、曲を楽しむには十分であった。

演奏は、後半のシチェドリンの「カルメン組曲」の方が更に良かった。弦楽と打楽器のための作品だが、打楽器奏者が様々な楽器を掛け持ちするため、視覚的にも面白い。現田は巧みにオーケストラを導き、聴き応えのある演奏に仕上げた。演奏終了後、盛んな拍手が現田を称えた。

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2021年4月 6日 (火)

コンサートの記(705) 「岩田達宗道場 Vol.2 オペラハイライトコンサート」@宝塚ベガ・ホール

2021年3月30日 宝塚市立文化施設ベガ・ホールにて

午後6時から、宝塚ベガ・ホールで、「岩田達宗道場 Vol.2 オペラハイライトコンサート」を聴く。

「岩田達宗道場」といわれても何のことか分からない人の方が多いと思われるが、オペラ演出家の岩田達宗(たつじ)とテノール歌手の迎肇聡(むかい・ただとし)が2020年6月に創設した若い演奏家のための鍛錬の場で、リモートにより講義や実技が行われた。有料であるが聴講も可能なので、参加しても良かったのだが、こちらもスケジュールが合わない日の方が多いため、見送っていた。ということで、オペラコンサートも当初は行く予定はなかったのだが、岩田さんが演出する予定の「ラ・ボエーム」の西宮公演と、堺での「愛の妙薬」がいずれもコロナの影響で中止になってしまったため、オペラを聴く予定がポッカリ空いてしまい、また宝塚ベガ・ホールにはまだ行ったことがないため、興味を引かれた。

ただ、今は時差出勤で、今週は早番であるため通常なら早めに終わるが、急な予定が入る可能性も否めないため、予約は入れず、当日券で入ることにする。

阪急清荒神駅の目の前にある宝塚ベガ・ホール(正式名称は「宝塚市立文化施設ベガ・ホール」)は、1980年竣工ということで、なかなか年季が入ったホールなのだが、レンガ造りのように見える(実際はどうなのかわからない)壁面とパイプオルガン、高い格子天井というお洒落な内装が特徴で、今回は舞台セットなしでの演奏であるが、セットなしでも各場面がドラマティックに見えるという利点がある。阪神間ロマンの重要地点であった宝塚市が持つ文化の奥深さを実感させられる施設である。ホール前には、2002年にウィーン市から贈られたというヨハン・シュトラウスⅡ世の像が建ち、最高の出迎えとなっている。

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岩田達宗道場は、岩田達宗の名が入っているが、代表は迎肇聡が務めるという変則的なものであるが、共同代表という形と見て良いと思われる。今回のコンサートも演出とナビゲーターは岩田達宗が担当している。

全席自由であるが、前から4列目までは飛沫対策として使用出来ないようになっており、また歌手達はマウスシールドをしての歌唱となる。演技と衣装付きでの歌唱。伴奏はピアノの掛川歩美が全曲一人で担当する。

歌手は総勢18名が登場するが、コロナによって会うこともままならない状態が続いており、18名全員が顔を合わせるのは今回が初めてだという。出演は、岩田達宗と迎肇聡が共に大阪音楽大学の教員ということもあって、全員が大阪音楽大学の学部や大学院や専攻科で学んだことのある若者達である。中には大阪音楽大学の大学院在学中という人もいる。将来が期待される若手達であるが、すでにコンクールで優秀な成績を上げていたり、関西歌劇団やびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーとして活躍している人もいる。

 

曲目は、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」、ドニゼッティの歌劇「ランメルモールのルチア」、モーツァルトの歌劇「魔笛」からのハイライトで、いずれ約1時間ほどのハイライト上演、合間に10分の休憩を挟んで合計で3時間以上と長丁場である。

出演者は、東里桜(あずま・りお)、乾彩子、岡田彩菜(あやな)、奥村哲(さとる)、田口絵理、中井百香(ももか)、中村理子(みちこ)、長太優子(なごう・ゆうこ)、難波孝、野尻友美(ともみ)、芳賀健一、福西仁(じん)、森千夏(ちなつ)、安井裕子(ゆうこ)、山村麻依、山本千尋、吉本朱里(あかり)、脇阪法子。女声は安井裕子だけがメゾ・ソプラノで、他は全員ソプラノ。男声は福西仁だけがテノールで、他はバリトンである。

客席も大阪音楽大学の関係者が多く、関西のオペラ好きなら知っている大物歌手も聴きに来ている(もっとも、出演者と師弟関係だったりもする)。

字幕なしでの原語歌唱による上演だが、演奏前に演出兼ナビゲーターの岩田達宗が舞台上であらすじや場面の内容などを、時代背景や自らの解釈を踏まえつつ紹介するため、「なにがなにやら」ということにはならない(といっても、オペラというものを一度も観たことのない人にとっては苦しいと思われるが、そうした人が今回のコンサートにふらりとやって来るとは思えないため、問題はないだろう)。

「魔笛」は、演技は日本語で、歌唱はドイツ語で行われる。今の若い歌手達が第一線で活躍する頃には日本語によるオリジナルオペラが今よりも盛んに上演されている可能性が高いため、若いうちに日本語での演技力も高めておきたいところである。ドイツ語圏には、国立の演劇音楽大学というものがいくつもあって、声楽専攻の人も演劇の実技を受けられたりするようだが、日本の場合は、演劇とクラシック音楽の専攻の両方があるのは、日大藝術学部や大阪芸術大学など数える程度で、他専攻の授業をどれだけ取れるのかも不明である。大阪音楽大学も勿論、オペラ向けの演技指導は行っているが、あくまでオペラ向けの演技である。「魔笛」のセリフと歌唱を聴いても思ったのだが、セリフと歌唱の表現力は必ずしも一致しないようである。

若さとはやはり特権であり、みなパワーがあり、声が瑞々しい。まだまだ怖いもの知らずでいられる時期ということもあり、思いっきりの良い歌唱と演技が見られる。窮地に陥っている音楽界であるが、こうした活きの良い歌手が大勢いるなら、コロナなど恐るるに足らずと思えてくる。とにかく音楽に関しては日本の未来は明るいようである。客席も身内が多いということで温かな空気に満ちており、出演者達の溌剌とした演技と歌唱を支えていた。私自身は大阪音楽大学とは特に関係はないが、良い体験になったと思う。

勿論、若さ全てがプラスに働くというわけではなく、演技も歌唱も未熟な部分があるのは確かで、今日のよう実質的なホームではなく、アウェイになった場合にどこまで通用するのか未知数という不安もある。だが、それを乗り越えていけそうなパワーを彼らから感じた。今日はそのアリアは歌われなかったが、「恐れるな若者よ」と歌いたくなる――ソプラノの曲なので実際には歌えないわけであるが――気分であった。モーツァルトやベートーヴェンも確信していた最高の武器、「音楽」を彼らは手にしているのである。

アンコールとしてモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」よりフィナーレが上演される。音楽をする喜びに溢れた出演者達の顔を見ていると、こちらも自然と笑顔になる。

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2021年3月12日 (金)

コンサートの記(701) びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー作曲 歌劇「ローエングリン」 2021.3.7 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか

2021年3月7日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホールプロデュースオペラ ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。ワーグナー作品を積極に演奏して、近年では「日本のバイロイト」とも呼ばれるようになっているびわ湖ホール。楽劇「ローエングリンの指輪」に4年がかりで挑み、昨年は最終作である楽劇「神々の黄昏」が新型コロナによって公開上演こそ中止になったものの無観客上演を行い、同時配信された映像が世界各国45万人以上の視聴を記録するなど、話題になった。そして今年は人気作の「ローエングリン」。コロナ第3波が心配であったが上演に漕ぎ着けた。だが、昨日今日と2回公演のうち、今日の公演は、当初は外国人キャスト2名が出演する予定だったのだが、入国制限による来日不可ということで日本人キャストに変更になり、更にエルザ役の横山恵子が体調不良のため降板し、元々カバーキャストとして入っていた木下美穗子が出演することになった。関西は緊急事態宣言が解除され、街に人も多くなったが、余波はまだ続いている。

今回はステージ前方の2ヵ所に台を築いてのセミ・ステージ形式での上演である。映像と照明を駆使し、演技と衣装も凝っていて、セミ・ステージではあるが十分にドラマを楽しめるようになっている。

指揮は、びわ湖ホール芸術監督である沼尻竜典。演奏は京都市交響楽団。演出は粟國淳(あぐに・じゅん)。出演は、斉木健詞(ドイツ王ハインリヒ)、小原啓楼(おはら・けいろう。ローエングリン)、木下美穗子(エルザ・フォン・ブラバント)、黒田博(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、八木寿子(やぎ・ひさこ。オルトルート)、大西宇宙(おおにし・たかおき。王の伝令)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーと客演歌手による混成である。

パンフレットは無料ながらボリューム十分で読み応えがあり、びわ湖ホール プロデュースオペラの良心が窺える。

 

京都市交響楽団はステージ前方を歌手達に譲り、舞台の中央部で演奏。舞台奥部にはひな壇が設けられていて、そこに合唱が陣取る。合唱とオーケストラの間には、ビニールを張り巡らした柵が設けられており、飛沫対策が取られている。なお、合唱は全員不織布マスクをしながらの歌唱である。合唱スペースの後ろにスクリーンが下りていて、ここに様々な映像が投影される。

オルトルート役の八木寿子は真っ赤なドレスを纏っており、オルトルートが主役となる場面では照明も赤に支配される。一方、エルザが主役の場面では神秘的な青系の照明が用いられる。

びわ湖ホール大ホールの前から3列目までは飛沫対策のため空席となっているが、ここにモニターが4台ほど設置されており、歌手達はモニターで沼尻の指揮を確認しながら歌うことになる。更に第2幕や第3幕では、金管のバンダが、空席になっている前方席の両側で壁を背にしながらの演奏を行う。

今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田尚泰。泉原隆志がフォアシュピーラーに入る。弦楽器の配置はドイツ式の現代配置がベースだが、コントラバスは最後列、合唱スペースの前に横一線に並ぶ。管楽器はコンサートの時とは違い、下手側のヴァイオリン奏者の背後に木管楽器群やハープが並び、上手側のチェロ奏者やヴィオラ奏者の後ろにティンパニなどの打楽器や金管楽器が入る。
バンダが多用されるため、トランペットの客演奏者が多い。またオルガンの演奏を桑山彩子が務める。

それまで歌手達が主役で、管弦楽は伴奏だったオペラだが、ワーグナーはオーケストラと歌手が一体となった一大交響楽を構想し、実現していった。その後、総合的なスタイルは更に追求され、楽劇というジャンルを生むことになる。

ワーグナーは子どもの頃は音楽よりも文学を好んでおり、シェイクスピア作品などを愛読。音楽家よりも文学者を夢見る少年であった。ということもあって、ワーグナーは自身の歌劇や楽劇の台本のほとんどを自ら執筆しており、「ローエングリン」もまたワーグナーが台本から音楽に至るまでを一人で手掛けた作品である。

ワーグナーはかなりハチャメチャな人生を送った人物であり、作曲家としては遅咲き。もっとも早い時期から優れた音楽の才を示していたのだが、人間関係の形成が下手だったり、倫理面で問題があったりしたため、人から受け入れられにくかった。「音楽史上最も性格が悪かった有名作曲家は誰か」というアンケートを行ったら、おそらく1位になるのはワーグナーであろう。その後、革命運動に参加したことで指名手配され、スイスでの亡命生活を余儀なくされる。革命運動参加の直前に完成した「ローエングリン」だが、上演の機会はドイツ国内に限られたため、ワーグナーは自作でありながら長きに渡って「ローエングリン」を観る機会を得ることが出来なかったという。初演は、1850年。フランツ・リストの指揮によりワイマール宮廷劇場で行われた。

 

事件や進行、感情などは全て歌われるため、筋の把握自体はそれほど困難ではない作品である。
先日、NHKオンデマンドで観た2018年のバイロイト音楽祭での「ローエングリン」について書いた際にもあらすじは記したが、もう一度確認しておく。

舞台となっているのは、現在のベルギー北部にあったブラバント公国である。先のブラバント大公が亡くなり、エルザとジークフリートという大公の子が残される。だが、ある日、森に出掛けたエルザとジークフリートは迷子になり、エルザは戻ったが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントを訪れたドイツ王ハインリヒは、ブラバントの貴族、フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵から、「エルザがジークフリートを殺害し、継承権を独り占めにしようとしている」との告発を受け、裁判を行うことにする。
被疑者であるエルザであるが、申し開きをするよう言われても、「白鳥の曳く小舟に乗って騎士がやって来る」といった、否認とは全く関係のない話をし始める。なんとも妙なのだが、実際に白鳥の曳く小舟に乗った騎士(ローエングリンである)がやって来る。そしてエルザの窮地を救うことになる。
フリードリヒは、ブラバントに貢献する数々の人材を生んだ名家出身のオルトルートと結婚した。実はオルトルートは魔女であり、フリードリヒは妻となったオルトルートの助力を得ていて、そのことで自信満々であったが、騎士と決闘してあえなく敗れ去る。

余り触れられていないことだが、エルザもまた予知能力のようなもの、あるいは思い描いた通りの騎士を呼び寄せる力を持っており、明らかに異能者である。「ローエングリン」は実は異能者である女性二人の対決という側面を持っているように思われる。

騎士は名を明かさず、正体を問うてもいけないと人々に誓わせるのだが、エルザにだけは正体を明かす可能性を話す。これがその後の悲劇への第一歩となる。オルトルートはエルザに、「後ろ暗いところがあるから正体を明かせないのではないか」「本当に彼の身分は貴族なのか」と疑問をぶつけ、エルザの心を揺るがす。

結婚式が終わり、二人きりとなった騎士とエルザだが、エルザは騎士に正体を明かすよう迫る。騎士は、「信じる力があれば名など知らなくてもいい」という意味の言葉を繰り返す(「ロミオとジュリエット」のバリエーションのように見えなくもない)。知られたなら全てが終わることを知っているからだ。だが、エルザは騎士を信じることが出来ず、破滅へと向かう。

絶対的な信仰の時代であった中世(それゆえ進歩も滞り、「暗黒の中世」などと呼ばれることになる)が終わり、科学の発展により信仰の屋台骨がきしむ時代が訪れていた。「神」の存在そのものへの疑問である。その代表格であるニーチェはワーグナーのシンパだった。
ニーチェはワーグナーに対して信仰に近い心酔を示していた。おそらくニーチェにとってはワーグナーこそが神に成り代わって世界を再生させる存在でもあったのだろうが、やはりこの関係もニーチェのワーグナーに対する不信により終わりを告げている。

自己を神格化するような性格であったワーグナーは、音楽に多大なる影響を与えたが、それが調性音楽の崩壊という一種のバッドエンドを招いている。

神の時代が終わり、人間の時代が来る。これは政治や宗教のみならず文化でもそうであり、音楽にも当然ながら反映される。そしてその人間の欲望の肥大化が、二つの世界大戦など20世紀の悲劇を招き、音楽も時の政権によって利用されることになるのだが、それはまだ先の話である

 

私個人の話をすれば、――興味がある人は余りいないと思われるが――、京都に移住後、真宗大谷派の門徒としての信仰生活に入るようになった。宗教色の余り強くない関東で育った人間にとって京都で生きるためにはそれは必須であるように思われた。どの宗教や宗派を選ぶかから始まり、最終的には父方の家の宗派である真宗大谷派を選ぶ。人間としての軸の創造である。高村光太郎的に言えば、地理的な意味ではないが「ここを世界のメトロポオルとひとり思」うことにしたのだ。ただ実感するのは、今の時代に宗教色の弱い地域に生まれ育った人間が絶対の信仰を得るのは難しいということだ。親鸞ですら弥陀の本願を信じ切れずに苦悩した、況んや~をやである。
絶対的な信仰は、心のみならずあらゆるものの安寧へと結びつく。最近では唯識思想を学ぶなど、知識が広がることへの喜びも覚える。だがそれは、基本的には知的満足においてである。理論体系に納得することは出来ても信じることは難しい。それが私のみならず現代に生きる人間の宿命である。信じることが出来たなら楽になれることはわかるのだが、それは不可能なのだ。

 

一方で、信念は狂信へと繋がる歴史を生んだ。石原莞爾が構想に関与した満州国は傀儡国家なのは間違いないが、日蓮宗国柱会の人間であった石原は本気で日蓮聖人が説いた理想郷を満州の地に生むつもりだったよう思われる。そしてその信念は、結局、悲劇で終わる。

ワーグナーを愛好したヒトラーはゲルマン民族の優越を信仰した。客観的に見れば異様にしか見えない彼の盲信は、世界的な災禍を招くことになった。

彼らは本気でユートピアの到来を信じており、それが破局へと繋がった。

そうした歴史を知った上で、まだ絶対的な何かを信じることが出来るかということだが、21世紀に入ってから、別の形での「信仰」が顕在化するようになった。従来からあったがそれが強化された形である。それを呼び寄せた者達が破滅へと向かうのは歴史的にも明らかなのだが、人々は宗教とはまた違った形の「信仰」を止めようとはしない。今回の演出では、呼び寄せた者であるエルザの最後は明確には描かれていないが、本来の筋にある彼女の破滅は、呼び寄せながら不信に陥る人間の弱さと罪業の結果であるようにも思う。信じることも信じないことも悲劇である。

 

ローエングリンとエルザのこの世界からの退場と共に、絶対的な神のいなくなった世界が始まる。おそらくそれは絶対王政の終わりとリンクしている。ワーグナーも参加した社会主義革命、それは絶対的な存在を否定する行為でもあり(この時点では却って独裁を招く形態であるとの認識を持っている人はほとんどいなかったはずである)、同時に絶対的な孤独を招く行いでもある。自由を目指す行為は、絶対的な存在の前での平等を崩してしまう。歴史を辿れば、絶対的な神のいなくなった世界では、神に成り代わろうとする英雄気取りの者達が次から次へと現れ、新たな「信仰」を生み、別の形での犠牲者を生んでいった。

 

劇の内容に関する考察はここまで。演奏であるが、なめらかな響きと輝きと神秘感を合わせ持った京都市交響楽団の演奏が見事である。
関西では、びわ湖ホール以外でも演奏を聴く機会の多い沼尻竜典。キビキビとした音運びが印象的であるのと同時に、コンサートレパートリーではややスケールの小ささも感じられる指揮者であるが、オペラの演奏に関してはドラマティックな音楽作りといい、語り口の上手さといい、優れた適性を示している。スケールも雄大であり、彼には絶対音楽よりもこうした物語性のある音楽の方が向いているようだ。沼尻も十八番がなんなのかよく分からない指揮者なのだが(マーラーやショスタコーヴィチは良い)、オペラの指揮に関しては全幅の信頼を置いてもいいように思う。

歌唱も充実。オーケストラよりも前で歌うということもあるが、凄絶なうねりを生むワーグナーの音楽と、それを見事に具現化する沼尻と京響と共に壮大な音の伽藍を築き上げる。
来日経験も豊富な某有名指揮者から、「日本人にワーグナーなど歌えるわけがない」と見下されてもそれを受け入れざるを得なかった時代が、遠い過去のことになったように思える。

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2021年3月 4日 (木)

NHKオンデマンド プレミアムシアター バイロイト音楽祭2018 クリスティアン・ティーレマン指揮 歌劇「ローエングリン」

2011年3月2日

NHKオンデマンドで、2018年のバイロイト音楽祭でのワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。7月25日、バイロイト祝祭劇場での上演と収録である。BSプレミアムシアターで放送されたものだが、NHKオンデマンドでも観ることが出来る。同一内容と思われるBlu-rayとDVDも出ているが、日本語字幕は付いていないため、ドイツ語やその他の主要外国語が分からない場合は、ディスクではなく配信で観るかプレミアムシアターを録画していたならそれで観るしかない。

クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏。演出はユーヴァル・シャロン。シャロンは、「ローエングリン」をドイツ建国神話の一部ではなく、中世のフェアリーテイルと捉えており(本当かどうかは不明)、そのため、出演者は昆虫の羽根を付けている。一部、効果的な場面もあるが、いらない演出であるようにも思える。以前、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を、蝶々だというので、出演者を昆虫に見立て、それらしい衣装で出演させるという酷い演出をDVDで観たことがあるのだが(ステファノ・モンティの演出)、それを思い出した。

ティーレマンは「ローエングリン」を十八番の一つとしているが、この上演でバイロイトでのワーグナーの歌劇や楽劇全作品の指揮を成し遂げたそうである。押しの強い指揮が持ち味であり、私は苦手なタイプだが、ワーグナー指揮者としてはやはり現役最高峰であると思われる。うねるようなワーグナーの音楽を的確に音にする才能に長けている。

出演は、ゲオルク・ツェッペンフェルト(バス。ドイツ国王ハインリヒ)、ピョートル・ペチャワ(テノール。ローエングリン)、アニヤ・ハルテロス(ソプラノ。エルザ・フォン・ブラバント)、トマシュ・コニェチュニ(バリトン。フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵)、ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ。オルトルート)、エギルス・シリンス(バリトン。ハインリヒ王の伝令)ほか。

シャロンの演出は、映像や電飾の多様が特徴。セットも発電所を意識したもののようだ。ローエングリンは、雷の剣を持っているのだが、そのためか電気技師の格好をしている。そしてエルザは最後の場面ではレスキュー隊を想起させるオレンジ色の衣装ということで、原子力発電所がモチーフとなっていることが想像される。電気関連であることの分かる演出はその他の場面にも鏤められている。原発への信頼を問う演出であり、脱原発へと舵を切ったドイツらしい演出であるとも言える(ユーヴァル・シャロン自身はアメリカ人である)。勿論、日本も他人事ではない、というよりも張本人のような立場に残念ながら立ってしまっている。そして日本は原発をまだ続ける予定である。

テーマは置くとして(本来は置いてはいけないのだが)、決闘の場面では、吹き替えのキャストが宙乗りになり、中空で闘うなど、外連に富んだ演出が目立つが、どことなく歌舞伎っぽい。そして第3幕には本来ないはずの地震のシーンが加えられている。その直後に、エルザが騎士ローエングリンの正体を知ったことが表情で分かり、騎士は頭を抱える。ラストもドイツの未来を描いたものと思われるが、日本絡みのように見えなくもない。ちなみにエルザもオルトルートも死なない。

「ローエングリン」は、アリアよりも、第1幕への前奏曲と、第3幕への前奏曲が有名で、コンサートでもよくプログラムに載る人気曲目である。また、コンサートでは演奏されることは少ないが、第3幕で演奏される「婚礼の合唱」は、「結婚行進曲」としてメンデルスゾーン作品と共に、ウエディングの定番となっている。

白鳥が重要なモチーフとなっているが(今回の演出では白鳥は具体的な形では出てこない)、白鳥を表す主題は、後に書かれたチャイコフスキーの「白鳥の湖」に用いられたメロディーに酷似しており、チャイコフスキーがワーグナーの白鳥の主題をモチーフとして取り入れたことが想像される。


「ローエングリン」は、現在のベルギーに当たるブラバントのアントワープ(アントウェルペン)を舞台とした歌劇である。聖杯伝説などのドイツの神話を下敷きとしており、ワーグナーの他の歌劇や楽劇などとも関連が深い。
先の大公が亡くなり、その娘であるエルザと息子のジークフリートが行方不明となる。エルザは戻ってくるが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントで名声を得ているフリードリヒが、「継承権を奪うために、エルザがジークフリートを殺したのだ」として告発し、裁判が行われる。エルザは自己弁護は特にせず弟の境遇を嘆き始め、「夢の中で白鳥が曳く小舟に乗った騎士を見た。彼が現れる」という不思議なことを語る。そうこうしているうちに本当に夢の中で見た騎士が白鳥が曳く小舟に乗って現れる(この辺はリアリティがないが、そもそもこれはリアルな物語ではない)。ハンガリーとの戦いにそなえてブラバントにやって来ていたドイツ国王ハインリヒは、両者が決闘を行い、騎士(観客は歌劇のタイトルからその名がローエングリンであることは知っている)が勝てばエルザは無罪、フリードリヒが勝てばエルザが有罪と決める。それが神の御意志であるとする。デンマーク制圧などに貢献した傑出した武人であったフリードリヒだが、謎の騎士の前に完敗。騎士はエルザを妻に迎えることにするが、自身の正体を問うてはならないと全員に誓わせる。だが、魔女のオルトルートの話術に乗せられたエルザは騎士の正体に疑念を抱いて……というストーリーである。今回の演出では、第3幕でそれまで各国が行っていた原発広報の危険性と暴力性を問うシーンが出てくる。

なお、調べてみたところ、2017年から2018年に掛けて、新たな発電方式が話題になったことが確認出来た。あるいは最新の情報を取り入れたラストと見ることも可能であるように思われる。もっとも、ワーグナーとも「ローエングリン」とも直接関係のない演出だけに、カーテンコールで結構な数のブーイングが飛んでいることも確認出来る。

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2021年2月 3日 (水)

コンサートの記(690) びわ湖ホール オペラへの招待 モーツァルト作曲 歌劇「魔笛」 阪哲朗指揮大阪交響楽団ほか

2021年1月30日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、「びわ湖ホール オペラへの招待」 モーツァルト作曲 歌劇「魔笛」を観る。初心者にも配慮した良質のオペラを提供し続けている「びわ湖ホール オペラへの招待」。客席に子ども達の姿も多く、企画としても成功している。今回は、オペラの中でも一二を争う人気作「魔笛」の上演である。元々はオペラではなく市民向けのジングシュピール(音楽劇)として書かれたものだが、最晩年(といってもまだ三十代半ばだが)の円熟期を迎えたモーツァルトが庶民にも分かりやすい曲を書いたということもあって、名アリア揃いの傑作である。曲調もシリアスなものからコミカルなものまで幅広い。

指揮は阪哲朗。演奏は大阪交響楽団(コンサートマスター・林七奈)。日本語台本と演出は中村敬一が担う。日本語訳詞を手掛けたのは鈴木敬介。装置:増田寿子、衣装:村上まさあき。
ダブルキャストによる公演で、今日はA組が登場。実は、B組は夜の女王として人気ソプラノの森谷真理が出演したり、ザラストロをベテランの片桐直樹が務めていたりと、キャスト的には上なのだが、日程的にB組の回を観るのは無理であった。A組は全員、B組も森谷真理と片桐直樹以外は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーによるキャストとなっており、日本初の公共ホールの専属声楽家集団としてレベルは高い。日本語訳詞と日本語のセリフによる上演であり、日本人歌手の場合、演技のレッスンを余り受けていない場合も多いが、びわ湖ホール声楽アンサンブルは、その辺りもきちんとしており、上質とはいえないかも知れないが、一定のレベルに達した演技を見せてくれる。なお、今日明日と映像同時配信が有料で行われ、編集後のアーカイブのみでも購入出来る。

今日の出演は、松本治(ザラストロ)、清水徹太郎(タミーノ)、脇阪法子(夜の女王)、船越亜弥(パミーナ)、熊谷綾乃(くまがい・あやの。パパゲーナ)、迎肇聡(むかい・ただとし。パパゲーノ)、坂東達也(モノスタトス)、市川敏雅(弁者)、宮城朝陽(みやぎ・あさひ。僧Ⅰ。タミーノ役のアンダースタディとしても入っている)、美代開太(みしろ・かいた。僧Ⅱ、武士Ⅱ)、山田知加(やまだ・ちか。侍女Ⅰ)、上木愛李(侍女Ⅱ)、藤居知佳子(侍女Ⅲ)、谷口耕平(武士Ⅰ)。合唱はアルト兼メゾ・ソプラノの阿部奈緒以外は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのソロ登録メンバーと客演の歌手が担う。3人の童子は、成人のソプラノ歌手が務めることも多いが、今回は大津児童合唱団所属の3人の女の子が出演する。

 

上演開始前に、演出の中村敬一によるお話がある。中村は、「魔笛」では、フリーメイソン同様、「3」という数がキーとなっているという話から始める。そして千円札に関するフリーメイソントリビアが語られる。千円札の肖像となっている野口英世の向かって右側の目、野口本人の視点からは左側の目が少し変だという話から入る。これは「真実の目」と呼ばれるもので、フリーメイソンの象徴にもなっているものだが、千円札に描かれた富士山にも実は仕掛けがあり、本栖湖に映っているのは実は逆さ富士ではなく、ノアの箱舟で有名なアララト山だという話もしていた。
「魔笛」の背景も語られ、先王の死により、分断が起こってしまったという話もする。
また魔笛がウィーンのリングの外にあるアン・デア・ウィーン劇場(ベートーヴェンの「運命」や「田園」が初演された劇場としても名高い)の前身となる劇場で上演され、観に来たのも貴族階級ではなく一般市民中心。貴族が観るオペラはイタリア語によるものだったが、「魔笛」は外国語を学んだことがない一般市民でもわかるようドイツ語で書かれている。今回の「魔笛」は日本語訳による上演だが、やはり一般向けに書かれたものだから、日本でやる時もわかりやすい日本語訳でやるのが正統という考え方のようである。
コロナ禍の最中であり、喋ったり歌ったりすると飛沫が5mぐらいは飛ぶというので、オーケストラピットから5m以上離れた通常より奥側での歌唱とし、歌手同士も手を握ったり抱き合ったりするシーンをなるべく減らしたソーシャルディスタンス版の演技と演出に変えたという話もしていた。

 

京都市生まれで京都市立芸術大学卒(指揮専修ではなく作曲専修の出身)である阪哲朗だが、これまでドイツでのオペラ指揮者の活動を優先させてきたため、関西で彼が指揮するオペラを聴く機会は余り多くない。
日本でも最もピリオド・アプローチによる演奏を積極的に行っている団体の一つである、山形交響楽団の常任指揮者でもある阪。そのためなのかどうかはわからないが、かなり徹底したピリオドによる演奏を展開。幕間にピットを覗いて確認したところ、管楽器はナチュラルタイプのものではなかったが、ティンパニはやはりバロックスタイルのものを採用しており、聴き慣れた「魔笛」とは大きく異なる清新な響きを生み出していた。オペラは指揮棒を使った方が歌手から見えやすいという定説があるが(ピエール・ブーレーズなどは、「そんなのは俗説だ」と一蹴している)、今日の阪はノンタクトでの指揮。びわ湖ホール中ホールはそれほど空間は大きくないので、指揮棒を使っても使わなくても余り変わりはないと思われる。指揮棒の話はともかくとして、長きに渡ってオペラ畑を歩んできただけに音運びは実に的確で、ツボの抑え方も巧みである。阪の音楽作りを聴くだけでも、びわ湖ホールに足を運ぶ価値がある。
関西のプロオーケストラのシェフは、コンサート指揮者が多いため、阪さんのようなオペラを得意とする人にももっと振って貰いたくなる。

アニメーションを多用した演出であり、序曲が始まると同時に、蜘蛛の巣のようなものや樹木などが背景に浮かぶ。やがて、「魔笛」の登場人物達の絵が浮かび上がるが、王様が死んでしまい、家臣達も消え去って、ザラストロと夜の女王の二人だけが残る。ザラストロの神殿は、ピラミッドやオベリスクが建っていてエジプト風。夜の女王の宮殿は、ヨーロッパ風にも見えるが、アラベスクがあるのでアラビア風のようでもあり、蓮の花などが出てくるため、更に東方の印象も受ける。やがて樹木の葉が落ちて冬枯れとなり。右側が赤、左側が青の背景となる。「魔笛」において重要な試練となる「火」と「水」のイメージである。やがて稲妻が走って大木が二つに割れ、ザラストロと夜の女王の決別が暗示される。王の死以外に何か原因があるのかどうかは分からないが、とにかくザラストロと夜の女王は仲違いをしたようである。

タミーノが大蛇に襲われるファーストシーンでも大蛇はアニメーションで登場する。夜の女王の侍女達により、大蛇は退治されるのだが、侍女達は大蛇のことを「オロチ」と日本古来の読み方をする。実はタミーノの衣装については「狩衣を着ている」という作者であるシカネイダーの記述があり、タミーノ日本人説があったりするのだが、今日は「オロチ」以外に特に和のテイストを入れることはなかった。
侍女達は椅子を三脚持ってくるのだが、それぞれに、「日輪」「星」「三日月」のマークが入っている。三日月はイスラム教の重要なモチーフで、その後の背景の映像にも登場するが、これはやはり終盤の「異なるものへの寛容さ」という演出に絡んでいる可能性がある。

ザラストロは、ツァラトゥストラに由来する名前であり、ツァラトゥストラとはゾロアスター教のことである。火を神聖視するゾロアスター教であるが、水も重要視され、火と水の試練が実際に説かれていたりする。実はこのモチーフはそのまま仏教にも取り入れられており、浄土への道を指す「二河白道(にがびゃくどう)」という言葉になっている。火と水との間に白い小さな道があり、阿弥陀如来が浄土へと招き、釈迦如来が此岸から白道を進むよう促すというものである。ということで、舞台を日本に置き換えることも可能であり、実際に千葉市の市民オペラで舞台を日本にした「魔笛」が上演されたこともある(千葉テレビで放送されたダイジェストを見ただけで、実演に接したわけではない)。

主筋に変更はないが、ザラストロが夜の女王達を倒して終わりではなく、最後の合唱には夜の女王や侍女達も登場し、音楽によってもたらされた和解が仄めかされている。対立を超えるのは、魔法の笛や鈴であり、引き離されたものが音楽によって再び結びつけられる。ベートーヴェンの第九でもそうだが、この時代における最新の思想では、フランス革命に繋がる「自由・平等・博愛」が重視されており、ベートーヴェンもモーツァルトも音楽こそが新たなる世界で大きな働きをすると信じていた、いや、それ以上に知り抜いていたはずである。

「魔笛」に関しては、「ザラストロが嫌い」や「夜の女王が善から悪になることに矛盾を感じる」という声が聞かれたりもするが、「どちらかが善でどちらかが悪」という単純な構図ではないように思われる。モーツァルトもベートーヴェンも、そして「魔笛」の台本を書いて初演でパパゲーノを演じたシカネイダーもフリーメイソンのメンバーであるが、フリーメイソンは思想的には当時の先端を行っており、「自由・平等・博愛」は最も重要視されていた。一方的な勧善懲悪は、当時の精神から見ても時代遅れだったかも知れない。

ザラストロが課した試練の一つに「沈黙」があるが、これはコロナ禍の今に響くものである。会話が最も危険とされるため、劇場や電車内などでのアナウンスにも「会話はお控え下さい」という文言が入っている。私などは沈黙が全く苦にならない質だが、世の中には人と話せないのが苦痛という人も多く、「沈黙」の試練が今現在起こっているということになる。

ただ一方で、スパルタ式では全くない道も示されており、試練から脱落したパパゲーノはパパゲーナを得ている(仏教における聖道門と浄土門のようなものかも知れない)。モーツァルトは、実は思想関連についてはかなり詳しい人であり、自由を重んじていた。精神論に凝り固まるというのも、一種の毒で忌避すべきことである。

「昼と夜」、「光と影」、「男と女」、「情と知」、「自由と試練」、「老いと若さ」など様々な対比があるのが「魔笛」だが、音楽はそうした対比や対立を止揚するのではなくそのまま結びつけ、「そうしたもの」として肯定していく。
分かりやすいが奥深い、それが「魔笛」であり、モーツァルトの音楽である。

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2021年1月13日 (水)

コンサートの記(681) ペーター・グート指揮ウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラ「ニューイヤー・コンサート」2007京都

2007年1月12日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールで、ペーター・グート指揮ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラによるニューイヤー・コンサートを聴く。日本を代表する若手ソプラノ歌手・森麻季がゲスト出演する。

ウィンナ・ワルツやポルカのスペシャリストとして一部で高い評価を受けているペーター・グートはもともとはヴァイオリニストであり、生地のウィーンでヴァイオリンを学んだ後、旧ソ連に留学。モスクワ音楽院で当時世界最高のヴァイオリニストの一人であったダヴィッド・オイストラフに師事している。
ウィーン交響楽団の初代コンサートマスターとなったグートは1982年に指揮者としての活動を開始、ヨハン・シュトラウスⅡ世同様、ヴァイオリンを弾きながらオーケストラを指揮することもある。

ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラは名前通りの祝祭オーケストラだが、1978年から活動を続けており、シュトラウス・ファミリーの演奏はお手の物だ。

森麻季は有名だ。
で済ませたいところだが、クラシックの知識のある方ばかりとは限らないので紹介しておくと、1970年、東京に生まれ、東京藝術大学および大学院、文化庁オペラ研修所を経て、イタリアに留学。まずアメリカで成功を収め、日本ではNHK交響楽団との共演で知名度を上げる。昨年(執筆当時。具体的に書くと2006年)、avexからCDデビューしている。伸びやかな高音と華やかな容姿が売りである。

ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラは小編成(ファースト・ヴァイオリン8、セカンド・ヴァイオリン3、ヴィオラとチェロとコントラバスが2。2管編成)であり、京都コンサートホール大ホール向きではない。だから最初の曲である「こうもり」序曲などは音量に不満を感じたが、ワルツやポルカなどは音量よりも音の美しさが重要なのでボリューム不足はさほど気にならなかった。アンサンブルの精度はもう1ランク上を望みたくなるが音の艶やかさは十二分に合格点に達していた。

ペーター・グートの指揮はCDでも耳にしているが、本当に楽しそうにワルツやポルカを演奏する。ショーマンである。これは音だけではわからない。やはり音楽は生が一番である。チケットもそう高くはないんだし。

森麻季は3曲に登場。まずはオペレッタ「こうもり」より“伯爵様、あなたのようなお方は”。続いてワルツ「春の声」。最後がオペレッタ「こうもり」より“田舎娘を演る時は”。いずれも余裕を持って歌われる高音が素晴らしい。ただ今日は私はステージ下手(左側)真横に座っており、私の席からは森の声は聞き取りにくかった。残念。
森は“伯爵様、あなたのようなお方は”ではピンクのドレスにショッキングピンクの手袋、「春の声」では青いドレスにターコイスブルーのショール、“田舎娘を演るときは”ではエメラルドグリーンのドレスに白い手袋で登場。森のドレス姿の鮮やかさに会場のここかしこから女性のため息が起こる。

全プログラムを終えて、グートと森が登場。森は最初に出てきた時と同じピンクのドレスにショッキングピンクの手袋。グートはラデツキー行進曲をオーケストラに演奏させて、自分は森と共に客席に降りて1階席を巡る。会場にいた子供3人を呼んでステージに立たせ、指揮棒を持たせて指揮の真似事をさせると再び森麻季と更にファーストヴァイオリン8人を引き連れて1階席を一巡り。サービス精神旺盛である。


ウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラ ニューイヤー・コンサート2007 公演パンフレット(鴨東記)

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2021年1月 6日 (水)

コンサートの記(679) クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」

2020年12月25日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」を観る。台本と作曲は、ジャン=カルロ・メノッティ。演出と日本語訳詞は岩田達宗(いわた・たつじ)。岩田さんはこのところ、メノッティのオペラの演出を手掛けることが多い。出演は、古瀬まきを(ソプラノ)、福原寿美枝(ふくはら・すみえ。メゾ・ソプラノ)、総毛創(そうけ・はじめ。テノール)、福嶋勲(バリトン)、武久竜也(バス)、水口健次(テノール)。合唱は、堺シティオペラ記念合唱団と宝塚少年少女合唱団。ダンサーとして宮原由紀夫(振付兼任)、佐藤惟(さとう・ゆい。男性)が出演する。日本語歌唱、字幕付きの上演であり、歌手達はマウスシールドを付けて歌う。
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールは、前から4列目の後ろに中央通路があるのだが、その中央通路より前は全て空席となっており、舞台からの飛沫を観客が浴びないよう工夫されている。

オーケストラは園田隆一郎編曲による室内楽編成であり、指揮はオペラのスペシャリストである牧村邦彦が担当する。演奏するのは3人だけで、關口康祐(せきぐち・こうすけ。ピアノ)、蔭山晶子(かげやま・あきこ。クラリネット)、福田奈央子(チェロ)という顔触れである。アンサンブルは舞台の下手端に陣取って演奏する。
今や関西を代表するソプラノ歌手の一人となった古瀬まきをの主演、母親役をこれまた関西ではお馴染みの福原寿美枝が務め、大阪音楽大学客員教授でもある岩田達宗の演出ということもあって、関西では有名なオペラ歌手も結構観に来ている。

作曲のジャン=カルロ・メノッティ(1911-2007)は、名前からもわかる通り、イタリア出身である。11歳にして初めてのオペラを自らの台本によって書いた神童であり、ミラノ音楽院に学んだ後で、同郷の大指揮者であるトスカニーニに誘われる形で渡米。フィラデルフィアのカーティス音楽院でも学んでいる。メノッティは同性愛者であったが、カーティス音楽院在学中に同じく同性愛者であるサミュエル・バーバーと知り合い、パートナーの関係になっている。当時はアメリカにおいても同性愛は認められにくい傾向にあり、バーバーは生涯そのことに悩まされることになるが、おそらくメノッティの場合も同様であり、また足に障害があったということもあって、生きることの苦悩が作品に反映されている。


「アマールと夜の訪問者たち」は、1950年にNBCから依頼を受けてテレビ用オペラとして書かれた作品であり、最初からテレビ用のオペラとして書かれた史上初の作品である。メノッティはメトロポリタン美術館で出会った絵画「東方三博士の礼拝」にインスピレーションを受けてこのオペラを完成させている。

「アマールと夜の訪問者たち」は、上演時間約50分と短いため、本編上演の前に第1部として、同じ西宮市内に本部のある関西学院大学神学部助教で関西学院宗教センター宗教主事も務める井上智(いのうえ・さとし)のトークと、宝塚少年少女合唱団(今日は女の子のみの出演。合唱指導・指揮:笠原美保)による讃美歌の合唱がある。
東方三博士ということで、3という数字がキーになっており、宝塚少年少女合唱団が歌った讃美歌も3曲全てが三拍子、本編の演奏は3人で行われ、セットも三角屋根のテントや頂点がオベリスクのように三角形になった背景が使用されている。アムールが初めて歌うアリアも三拍子で、設定上も3は重要な数となる。ただストーリーやメッセージは3が軸になるものではない。

井上智の話は、「暗闇の中で見る光」をテーマにしたもので、関西学院大学大学院修了後に岩手県での教会活動に従事した時の思い出に始まり、今自分であることの幸せをこのオペラの中に見出すという解釈を示した。ちなみにクリスマスは12月25日であるが、イエスの生まれた日も季節もはっきりとはわかっておらず(馬小屋で生まれたというのが本当なら少なくとも寒い季節ではなかったはずである)、冬至を過ぎて日が少しずつ長くなる頃が相応しいということで取り敢えず12月25日に決まった。ただ国や地域によっては1月6日をクリスマスとするところもあるという。
一応日本でも有名であるが、詳しいことは知られていない東方の三博士についても解説し、三博士は最初から三博士と決まっていたわけではなく、古い宗教画などを見ると、東方から集団でやって来る博士(王、占い師などそのほかのパターンもある)が描かれていたりもするという。ただ贈りものが三種類であったため、最終的には三人ということになり、今に到っているそうである。また、この三人は人間の人生における形態、つまり、青年、壮年、老年を表し、更に当時知られていた3つの大陸、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの三つの象徴でもあるとされたそうである。王だったり博士だったり占い師だったりするのは理由があり、占術に長けた者が王として君臨することになった神託政治の時代があり(日本の邪馬台国なども「鬼道をこととしよく衆を惑わす」卑弥呼が王座にあるなど似た状況の時代は存在した。弓削道鏡と和気清麻呂の宇佐八幡宮託宣事件なども同じような部類に入ると思われる)、同一視されていたという。

 

主人公の少年、アマール(初演時はボーイソプラノが演じたが、演技力が必要であるため、現在ではソプラノ歌手が務めることが多い。演じるのは古瀬まきを)は、片方の足が不自由だが、想像力豊かな少年である。ただ母親(福原寿美枝)は単なる虚言癖だと見做しており、厄介に思っている。クリスマス直前のある日、アマールは巨大な星を見つけ、それに想像を加えて話すが、母親はアマールに早く寝るよう言いつける。アマールは、当時最下層の仕事である羊飼いをしており、極貧生活を強いられていた。その羊飼いも羊が死んでしまったことで続けられなくなりそうであり、母親は乞食になるしかないと嘆く。やがて、従者に導かれた三人の王様がアマール達の前に現れる。一人は黒人、一人は白人、一人はアジア人(アラブ系)で、みなそれらしい格好をしている。アラブ系の王であるカスパール(総毛創)は老人であり、耳が遠い。
三人の王様は、特別な子を探してやって来たと言い、その子の特徴を語る。その子の特徴はアマールにも当てはまるので、母親はそのことを歌う。やがて村人達(村人達は口の前に布を垂らし、頭巾を被るという大谷吉継スタイルのコロナ対策であるが、いかにも異境の人という見た目であり、自然に見える)が現れ、王達に贈りものをして歓迎の宴が始まる。アラブ風の格好の青年二人がアクロバティックなダンスを披露するなどかなり盛り上がる。ステージの上に階段4つ分の高さのステージがあるダブルステージなのだが、アマールは下のステージに降りて牧童の笛を吹き、一緒に盛り上がる(バッハのようだが「音楽の贈りもの」と受け取ることも出来る)。一方、母親は自分だけが贈りものすら出来ないため輪に加われず、上のステージの下手奥に一人所在なげに佇んでいる。三人の王様が寝静まった深夜、母親は貧困の身である苦悩を歌い、富豪達の想像力の欠如を嘆き、恨む。そして王達の財宝を盗もうとするのだが、従者に見つかってしまい……

ストーリー自体は子どもでもわかるシンプルなものであり、主人公のアマールが少年ということもあって共感も得やすいはずである。ただ、一見するとハッピーエンドに思えるストーリーの裏に、生きることの苦しみが宿っているようにも思える。
なくてはならはいはずの松葉杖を贈りものにしようとしたことで奇跡が起こり、アマールの足が治る。だが、アマールは松葉杖を贈りものとして持って、三人の王(全ての人種と全ての世代の象徴である)と共に星が告げる救世主の下に向かうことを母親に告げ、母親も松葉杖をアマールに背負わせる。補助や導きの役割と同時に不自由と苦しみの象徴である松葉杖を背負って旅をするということは、多くの人々の人生のメタファーであり、旅路は決して前途洋々としたものではないかも知れない。だがそれでもアマールは向かう。

15歳の頃、『巴里の憂鬱』というタイトルに惹かれてボードレールの詩集を購入した。その中にある「人皆キメールを背負えり」という詩が気に入った。不可解さを背負いつつ生き続ける人間存在への確かな眼差しが、その詩には描かれていた。松葉杖を背負って果てしない旅へと向かうアマールの姿が、ボードレールの詩に重なった。
天空を一人で支えるアトラスのように、全人類の悲しみを支える興福寺阿修羅像のように、とまではいかないが、彼こそが希望であり、我々の分身でもあり、代表でもある。それ故に心が躍る。豊かな想像力を武器とすれば、苦悩と宿命を背負ってはいても我々は希望へと到るために歩き続けることが出来る。
私の座右の銘は徳川家康公遺訓だが、最初の行である「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」はこの物語にも繋がる。人種や時代は違えど人間の本質はそう大きく異なるものではないし、異なるはずがない。

例年なら日本の年末のクラシックシーンは第九一色になるが、第九の「歓喜の歌」もこれに似たメッセージを持っている。あれは「歓喜! 歓喜! 万歳! 万歳!」という能天気な内容ではなく、共に苦難を生きる人類の旅路を歌ったものであり、まだ訪れていない輝かしい未来への讃歌である。1年の終わりに自分だけでなく全人類の未来を夢見る儀式のようなものがあるというのは、おそらく良いことなのだと思われる。

 

日本社会においてはオペラは根付くのに時間が掛かっており、観たことのない人からは、「外国語を使った高尚で近づきがたい存在」か、「太った男女がわけのわからないことを歌っているへんちくりんなもの」という両極端なイメージで語られてしまうことも多いのだが、オペラとは今に到るまで作品が生き続けている偉大な作曲家のメッセージが込められたものであり、生きるための糧となるものが得られる豊穣なる時間の果実である。

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2020年12月16日 (水)

コンサートの記(672) 兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」

2020年12月12日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」を聴く。タイトルが長いが、要するに第九の演奏会である。

合唱は飛沫が危険ということで、今年の第九演奏会は取りやめになるところが多く、例えば京都市交響楽団は第九の演奏会を中止し、代わりにチャイコフスキー・ガラを行うことが決まっている。PACオーケストラこと兵庫芸術文化センター管弦楽団は、今年から来年に掛けてベートーヴェン交響曲全曲演奏会を予定しており、第九は例年どおり年末に合わせている。公演自体は行われるが、新型コロナ感染者が増えているということもあり、希望者にはチケット料金払い戻しにも応じるという形態が取られている。

演奏の前に指揮者の佐渡裕が現れて、マイクを手にトークを行う。昨日、兵庫県立芸術文化センターの開館15周年記念コンサートがあり、第九の第4楽章とオペラの前奏曲やアリアなどが演奏され、今日明日は第九全曲の演奏となるが、全てチケット完売であり、沢山の拍手をいただけることを幸せに思うという話から入る。春先から演奏会の中止とチケットの払い戻しが続いたが、7月には歌入りのコンサートも行えて嬉しかったこと、それに先駆けて、オンライン参加型で宝塚歌劇の「すみれの花咲くころ」の演奏を佐渡とPACオーケストラで行い、好評を得たことなどを話す。
佐渡は、今月6日に行われた大阪城ホールでの「サントリー1万人の第九コンサート」の指揮者も務めたが、1万人は流石に無理だというので、千人に絞り、無観客公演とすることにしたものの、それでも厳しいというので、最終的には抽選による500人限定の参加とし、他は動画での投稿を募ることになったという。投稿者は音声をイヤホンで聴きながら歌ったものを録画して送るシステムだったようだが、佐渡はそれに合わせて予め決まったテンポで現場の合唱やオーケストラを誘導する必要があったようで、「リモートに合わせるのは大変だった」と語った(予め決まったテンポに合わせて指揮する大変さについては、フィルムコンサートなどを多く指揮しているジョン・マウチェリの著書『指揮者は何を考えているか』が参考になる)。
兵庫県立芸術文化センター大ホールの杮落としとPACオーケストラのデビューが佐渡の指揮する第九であり私も聴きに行ったが、佐渡はPACの年末の第九のうち、5周年と10周年を指揮、そして5年おきということで今年指揮台に立つことになったと語った。
「歓喜の歌」については、「歓喜の歌とはいっても、初演された当時は社会全体が厳しい状態で、そういう時代を喜ぶ歌ではなかった」と語り、合唱の合間やラストにシンバルや太鼓が叩かれる場面があるが、あれは「人類への応援歌」であり、人類への信頼とその先にある歓喜を歌ったものとの解釈を示した。

今日のコンサートマスターは、元大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターで、2019年9月からは日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務める田野倉雅秋。チェロが上手手前側に来るアメリカ式の現代配置での演奏である。ゲスト・プレーヤーとして水島愛子(元バイエルン放送交響楽団ヴァイオイリン奏者、兵庫芸術文化センター管弦楽団ミュージック・アドヴァイザー)、中野陽一朗(京都市交響楽団首席ファゴット奏者)、五十畑勉(東京都交響楽団ホルン奏者)らが参加している。
合唱はひょうごプロデュースオペラ合唱団(マウスシールドを付けての歌唱)。独唱は、並河寿美(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、行天祥晃(ぎょうてん・よしあき。テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。バリトンは当初、キュウ・ウォン・ハンが務める予定だったが、新型コロナ流行による外国人入国規制によって参加出来ず、甲斐が代役を務めることになった。
合唱と独唱者、そしてピッコロ奏者は、第2楽章終了後にステージに登場する。

9月にアルプス交響曲を演奏した時と同様、反響板を後ろに下げることでステージを広くし、ひな壇を設けて、管楽器奏者や独唱者、合唱はかなり高い場所で演奏に加わることになる。

字幕付きの演奏会であり、ステージの左右両側、ステージからの高さ4メートル程のところに字幕表示装置が設置されている。なお、兵庫芸術文化センター管弦楽団の字幕を一人で担当してきた藤野明子が11月に急逝したそうで、おそらくこの第九の字幕が最後の仕事になったと思われる。

若い頃はエネルギッシュな演奏を持ち味とした佐渡裕だが、ここ数年は細部まで神経を行き届かせた丁寧な音楽作りへと変わりつつある。佐渡も還暦間近であり、成熟へと向かっているということなのであろうが、長年に渡って海外と日本を往復する生活が続いているためか、表情が疲れているように見えるのが気になるところである。

第1楽章は、悲劇性というよりもこの楽章が持っている鬱々とした曲調に焦点を当てたような演奏である。ドラマ性を強調せずにむしろ均したような印象を受けるが、おそらく第4楽章に頂点が来るように計算もしているのだと思われる。PACオーケストラは育成型であり、そのためどうしても個性には欠ける。音色の輝かしさはあるのだが、渋みは育成型オーケストラで生むのは難しいだろう。
佐渡もHIPを取り入れており、ケルン放送交響楽団(WDR交響楽団)と行った第九のツアーでは速めのテンポを採用していたように記憶しているが、今回はテンポは中庸である。低音部をしっかり築くことで安定感を増す手法は、手兵であるトーンキュンストラー管弦楽団を始めとするドイツ語圏のオーケストラとの共演で身につけたものだろう。
第4楽章ではヴィオラ奏者に完全ノンビブラートで演奏させることでハーディ・ガーディのような音色を生むなど、面白い工夫が施されていた。

第2楽章も緻密なアンサンブルが特徴で、宇宙の鳴動を描いたかのような神秘的な音の運動を鮮やかに示している。

第3楽章も自然体の演奏で、音楽が持つ美しさをそのままに引き出す。各楽器が美音を競う。

第3楽章からほぼ間を置かずに突入した第4楽章。第1楽章から第3楽章までの旋律が否定された後で、歓喜の歌のメロディーが登場するのだが、ドラマの描き方や盛り上げ方は最上とはいえないものの優れた出来である。
佐渡は最初の合唱の部分を締めくくる音をかなり長く伸ばす。
新型コロナ対策として、合唱も前後左右を開けた市松配置ということでステージに上がるのは40人であり、日本の年末の第九としては少なめであるため、迫力面では例年に比べると物足りないが、合唱の精度自体は高い。
最後の追い込みは佐渡はかなり速めのテンポを採るのが常だが、PACオーケストラの技術は高く、余裕すら感じさせるアンサンブルであった。

疫病の蔓延した年に第九を演奏する意義についてだが、シラーが書いた詩に出てくる「薔薇」というのは、華やかな薔薇ではなく、どうやら茨のことのようで、ここで描かれているのはバラ色の道を行くのではなく、皆で試練の道を乗り越える過程のようである。確かにシラーがお花畑な詩を書くとは思えない。そして自然が与えた茨とのことなので、今の状況下にも当てはまる。
天使も出てくるが、ここでいう天使とはエンジェルではなく、半獣半人の智天使ケルビムであり、楽園の前に立ちはだかる存在である。ただ、ケルビムに会えているということは、人類が楽園の一歩手前まで来ていることを示してもおり、理想社会実現の可能性がこの先にあるということでもある。ただそれは試練の時でもあり、救済はまだ訪れていない。
21世紀も序盤から中盤に入りつつあるが、ここに来て人類は全て平等で自由な社会から大きく遠ざかってしまったように思う。日本に関しては希望に乏しく、暗い未来を描くのは容易いが明るい未来は現実味がないというのが現状ではある。だが、コロナ禍という茨の道を全世界で乗り越えた暁には、可能性は低くとも新たな地平が待ち受けているような、そんな希望をシラーとベートーヴェンは照らし続けてくれているよう思う。

アンコールとして、ヴェルディの歌劇「椿姫」より“乾杯の歌”が演奏される。「楽園」繋がりである。ベートーヴェンの楽園とヴェルディの楽園とでは言葉は同じであっても意味するものは異なるが、音楽という美しくも儚い楽園に浸る喜びとして私は楽しんだ。

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