カテゴリー「オペラ」の114件の記事

2022年12月 1日 (木)

コンサートの記(816) 沼尻竜典オペラセレクション NISSAY OPERA 2022 ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」@びわ湖ホール

2022年11月27日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典オペラセレクション NISSAY OPERA 2022 ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」を観る。演奏は、沼尻竜典指揮日本センチュリー交響楽団。演出は粟國淳。出演はWキャストで、今日の出演は、小堀勇介(アルマヴィーヴァ伯爵)、山下裕賀(やました・ひろか。ロジーナ)、黒田祐貴(フィガロ)、久保田真澄(バルトロ)、斉木健詞(ドン・バジリオ)、守谷由香(ベルタ)、川野貴之(フィオレッロ)、木幡雅志(隊長)、宮本俊一(みやもと・としかず。アンブロージョ)、及川貢(公証人)。ギター演奏:黄敬(こう・けい)。チェンバロ演奏:平塚洋子。合唱:C.ヴィレッジシンガーズ。

オペラ作曲家として一大ブームを築きながら、37歳の若さで引退したということもあり、多くの作品が序曲のみが知られるだけの存在となっているジョアキーノ・ロッシーニ。20世紀も後半になると作品の見直しが始まり、いくつかの作品は上演されたり録音されたりするようになっているが、生前から途切れることなく上演されているのは、「セビリアの理髪師」だけである。

「セビリアの理髪師」は、ボーマルシェによるフィガロ三部作の第1弾である。第2作の「フィガロの結婚」は先にモーツァルトが作曲しており、オペラ作品の中でも1、2を争うほどの人気作となっているが、「セビリアの理髪師」も「フィガロの結婚」効果が影響したのか否かは正確には不明であるが、「フィガロの結婚」の前日譚ということで人気を集めた可能性は大いにあると思われる。

フィガロは、理髪師ということになっているが、「私は街のなんでも屋」というアリアが示すとおり、理髪だけではなく外科手術や遺体の処理なども行う卑賤の身分である。フィガロは自分の店を持っているようだが(演出によってはフィガロの妄想ということになったりもする)基本的にはホームレスで生活している人々であり、バルトロ博士が内科医でエリートである一方で、同じ医術を扱っていてもこの当時の外科関係者(理髪師が兼ねていた。今も理髪店には外科関係を扱っていた時の名残であるサインポールが設置されていることが多い)は他人の体に触れる仕事ということで被差別民の扱いであった。
このオペラには伯爵身分であるアルマヴィーヴァ伯爵、貴族身分を表す「ドン」の付くバルトロやバジリオなどが登場するが、そうした身分差をはねのけて活躍するフィガロの姿が痛快であったりする。

粟國淳の演出は、テント小屋内(赤テント風)を表すような背景と回り舞台(美術:横田あつみ)を駆使したもので、物語が図式化される部分があるなど、分かりやすいように工夫がなされ、またテント芝居や見世物小屋のような活気を舞台上にもたらしていた。出演者達の踊り(振付:伊藤範子)や身のこなしなども楽しい。

歌唱もかなり充実。若手中心のキャストだと思われるが、声量に声の張りと艶、心理描写の巧みさなど、私の想像する日本人オペラ歌手の歌唱を超えたレベルで歌われており、かなり頼もしい。

沼尻の指揮する日本センチュリー響も、イタリアオペラらしいカンタービレや音のキレ、迫力満点のロッシーニクレッシェンドなど、かなり上質の演奏を展開しており、沼尻の円熟とセンチュリー響の成長を実感させる出来となっていた。

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2022年11月17日 (木)

コンサートの記(813) オペラ「石見銀山」石見銀山世界遺産登録15周年記念関西公演@京都劇場

2022年11月2日 京都劇場にて

午後6時30分から、京都劇場でオペラ「石見銀山」石見銀山世界遺産登録15周年記念関西公演を観る。

オペラ「石見銀山」は、石見銀山の世界遺産登録10周年と石見銀山のある島根県大田(おおだ)市の地方創生として2017年に制作されたもので、オペラユニット「THE LEGEND」が中心になり、THE LEGENDの吉田知明が、石見神楽の団体である大屋神楽社中の安立均がまとめた神楽の演目「石見銀山 於紅谷」を原作に脚本を書き、演出も行う。作曲は、デュオ「鍵盤男子」(現在はソロユニットとなっているようである)のメンバーでもある中村匡宏(くにひろ)が手掛けている。
中村匡宏は、ウィーン国立音楽大学大学院作曲科最終試験で最上位を獲得。国立音楽大学と同大学院で共に首席を獲得し、博士後期課程の博士号を取得している。
中村は指揮と音楽監督も兼任している。

出演は、柿迫秀(かきざこ・あきら。島根県大田市出身)、菅原浩史(すがわら・ひろし)、吉田知明、坂井田真実子、志村糧一(しむら・りょういち)、内田智一、松浦麗。ゲストピアニストは西尾周祐(にしお・しゅうすけ)。石見神楽上演は大屋神楽社中。合唱はオペラ「石見神楽」合唱団(一般公募による合唱団)。

有料パンフレットに東京公演での模様を撮影した写真が掲載されており、オーケストラピットにオーケストラ(東京室内管弦楽団)が入っているのが確認出来るが、京都公演ではオーケストラはなしで、当然ながらカーテンコールでも紹介されなかった。音色からいってシンセサイザーが用いられているのが分かるが、どのように音が出されていたのかは不明である。

石見銀山に伝わる於紅孫右衛門事件という史実が題材となっており、石見銀山で働く男女の悲劇が描かれる。

第1幕から第4幕まであるが、第1幕から第3幕までが通しで上演。休憩を挟んで石見神楽が本格的に登場する第4幕が上演された。

ストーリー的には良くも悪くも素人っぽい感じだったが、中村匡宏の音楽は明快にして才気に溢れており、今後オペラ作曲科としてさ更なる活躍が期待される。

第1幕は、1526年(大永6)に博多の大商人であった神屋寿禎(演じるのは柿迫秀)が石見銀山の主峰、仙ノ山を発見することに始まる。第2幕と第3幕は、石見銀山の間歩(まぶ。坑道のこと)頭である於紅孫右衛門(吉田知明)と、やはり間歩頭である吉田与三右衛門、そして与三右衛門の妻であるお高(坂井田真実子)、与三右衛門の弟である吉田藤左衛門(内田智一)の話が主になる。「銀よりも皆が無事であることが大事」と説き、仕事仲間からの人望もある孫右衛門に、与三右衛門は嫉妬。更に妻であるお高と孫右衛門が懇意になったことから嫉妬は更に加速していく。与三右衛門は妻のお高に暴力を振るっているが、心の底ではお高を強く愛しており、両親の命を奪った銀山からお高を救いたいと願っている。ただ愛情が強すぎて妻にきつく当たってしまうようだ。
第4幕では神屋寿禎が再度登場し、鬼女(龍蛇。演じるのは松浦麗)が登場して、石見神楽が演じられる中、緊迫感が増していく。

京都劇場は、元々はシアター1200として建てられ、音響設計がしっかりされている訳ではないと思われるが、劇団四季が一時常打ち小屋として使っていたこともあり、音響はまずまずのはずなのだが、やはりオペラをやるには空間が狭すぎるようである。PAを使っての上演だったが、声が響きすぎて壁がビリビリとした音を延々と発する場面も結構多かった。
またオペラは生のオーケストラで聴きたい。

今後この作品がオペラの定番としてレパートリー化されるのは、島根以外ではあるいは難しいかも知れないが、地方創生としておらが街のオペラを創作するというのは素晴らしい試みであると感じられた。

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2022年11月 5日 (土)

コンサートの記(812) ザ・フェニックスホール アンサンブル・ア・ラ・カルト65 フィリップ・グラス 「浜辺のアインシュタイン」(抜粋版・演奏会形式)

2022年10月30日 あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホールにて

午後3時から、大阪・曾根崎のザ・フェニックスホールで、アンサンブル・ア・ラ・カルト65 フィリップ・グラスの「浜辺のアインシュタイン」(抜粋版・演奏会形式)を聴く。
「浜辺のアインシュタイン」は、フィリップ・グラスのストーリーのないオペラとして作曲されたものだが、歌詞は音階や数のカウントやヴォカリーズからなっており、今回は朗読のない抜粋版で、演奏会形式の上演ということで、純粋なコンサートに近い形での上演となった。全編上演すると4時間ほど掛かる作品だが、今回は前半後半共に約1時間にまとめられている。

出演は、中川賢一(電子オルガン=キーボード/音楽監督)、廻由美子(めぐり・ゆみこ。電子オルガン=キーボード)、石上真由子(ヴァイオリン)、若林かをり(フルート/ピッコロ)、大石将紀(おおいし・まさのり。サクソフォン)、井上ハルカ(サクソフォン)、太田真紀(ソプラノ)、端山梨奈(はやま・りな。ソプラノ)、八木寿子(やぎ・ひさこ。アルト)、林真衣(アルト)、鹿岡晃紀(しかおか・あきのり。テノール)、松平敬(まつだいら・たかし。バス)、有馬純寿(ありま・すみひさ。音響)。


フィリップ・グラスは、ミニマル・ミュージックの作曲家である。ミニマル・ミュージックは、イギリスの作曲家であるマイケル・ナイマンが名付け親とされているが、フィリップ・グラスの祖国であるアメリカでも、実質的な提唱者とされるテリー・ライリーやスティーヴ・ライヒらがミニマル・ミュージックの大家として知られている。ただグラス本人は「ミニマル・ミュージック」の作曲家と呼ばれることを好んでおらず、自らの作風を「反復構造による音楽」と呼んでいる。

演奏開始前にキーボードが、「ラソド」という下降する3つの音を奏でている。これは演奏開始直後にテノールの鹿岡晃紀が音階名で旋律を歌う。
曲は声楽陣が「ワン、ツー」とカウントする歌から始まり、やがて歌手達は音階で歌い始める。管楽器の編成は小規模だが、ほぼユニゾンで旋律を繰り返すことも多いため、厚みがあるように聞こえる。声楽陣もユニゾンが多いが、パートに分かれて歌うことも多々ある。

個人的にはミニマル・ミュージックは好きで、マイケル・ナイマンの映画音楽を大学時代から愛聴しており、ナイマンは大阪でのコンサートも二度聴いている。そしてスティーヴ・ライヒやギャビン・ブライヤーズの音楽も聴くようになり、コンサートなどでもジョン・アダムズなどの作品に触れている。久石譲や坂本龍一など、クラシックとポピュラーの中間で活躍している作曲家の作品も愛聴した。フィリップ・グラスの音楽は、NAXOSから出ているマリン・オールソップ指揮の交響曲集のCDなどを聴いている。

繰り返される音楽は、DNA自体がそれを欲しているような高揚感を聴くものに与える。私はドラッグはもちろん酒もやらないが、そうした脳内麻薬の分泌を促すような一種の魔力に満ちていることは実感出来る。そして他のミニマル・ミュージックもそうだが、終わった瞬間の開放感もなんとも言えない。

「浜辺のアインシュタイン」は曲調も多様で、繰り返される旋律自体でなくマスとしての音響がJ・S・バッハのそれを思わせたり、オペラらしいソプラソロによるアリア(ヴォカリーズで歌われる。太田真紀の独唱)があったり、ヴァイオリンの石上真由子が疾走感のあるヴァイオリンのソロを奏でたり、電子オルガンの中川賢一と廻由美子が情熱的なデュオを繰り広げたりと、ただ単に繰り返されるだけでない音響を構築している。とはいえ繰り返しによって生み出される音楽の妙味は抗しがたい魅力があり、聴いていて癖になるのも事実である。ミニマル・ミュージックの誕生は、音楽史上において重要なマイルストーンとなるのは間違いないだろう。
今回の繰り返される音楽は、寄せては返す波のようでもあり、遊園地のアトラクションに乗っているようでもあり、常に繰り返しを続ける鼓動のようでもある。耳の外からの音楽と内からの鼓動の幸せな結実と呼んでも良いかも知れない。少なくとも呼応する音楽ではあるだろう。

終盤には、ザ・フェニックスホールの名物である背後の反響板を持ち上げて、ガラスの向こうに梅田のビル群が見えるようになる演出が施される。今日はまだ時間が早めだったが、もう少し夜が更けるとビルの灯りがムードを作る背景となる。
冒頭の「ラソド」の音楽が戻ってきて、数がカウントされる。

演奏会形式ということで、ステージ上にいる奏者達の個性を見るのも楽しい。立って凜とした姿でヴァイオリンを弾く石上真由子や、笑顔で楽しそうに歌う林真衣の姿などは印象的であった。

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2022年11月 4日 (金)

コンサートの記(811) 新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室2022@ロームシアター京都 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」

2022年10月27日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後1時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。東京・初台にある新国立劇場の高校生のためのオペラ鑑賞教室2022として開催されるもので、例年は当日券のみか、以前にモーツァルトの歌劇「魔笛」が開催された時には4階席のみ一般席として発売されたが、今回は1階席の後方が一般席として前売りが行われ、廉価でオペラを楽しめることになった。

指揮は京都出身の阪哲朗。演出は栗山民也。出演は、木下美穂子(蝶々夫人)、村上公太(ピンカートン)、近藤圭(シャープレス)、但馬由香(スズキ)、糸賀修平(ゴロー)、畠山茂(ボンゾ)、瀧進一郎(神官)、高橋正尚(ヤマドリ)、佐藤路子(ケート)、保坂真悟(ヤクシデ)、照屋睦(書記官)、藤永和望(母親)、塚村紫(叔母)、肥沼諒子(いとこ)。演奏は京都市交響楽団、合唱は新国立劇場合唱団。

舞台正面の壁の上方に長方形の開かれた窓のような空間が開けられており、そこから下手側にスロープ上の緩やかな階段が降りている。窓のような空間の下には八畳間ぐらいのスペースが設けられており、ここが蝶々さんの家の居間ということになる。

開かれた窓のような空間には星条旗がはためいている。常にあるという訳ではないが、要所要所で現れ、第2幕第2場では蝶々さんが星条旗と並ぶシーンがある。おそらく蝶々さんの見知らぬ国への憧れとそこでのピンカートン夫人としての生活の夢を表しているのだと思われる。第1幕終盤でのピンカートンと二人の場面で蝶々さんは「星」について歌っているが、今回の演出ではその「星」も夜空に瞬くリアルなものではなく星条旗にデザインされた星のことと受け取ることが可能なように思えてくる。


海外の歌劇場での音楽監督としての活動も長かった阪哲朗。彼らしいシャープで生き生きとした音楽を生み出す。京都市交響楽団は、ピットでの演奏ということで音が濁る場面もあったが、力強くも美しい音を奏で、日本で聴けるオペラの演奏としては最上の一つと思われる上質の響きを生み出していた。
ロームシアター京都メインホールの1階でオペラを聴くのは初めてだが、潤いと迫力を合わせ持った音が届き、やはりこの会場はオーケストラがピットに入った時に最も良い響きを生むことが分かる。プロセニアムの形もあるいはオーケストラがピットに入った時に音を前に飛ばす設計なのかも知れない。

登場人物が上の開いた窓のような空間から下に降りてくるということで、理想的な場所から修羅場に向かってくるようにも見えるのだが、おそらくそこまでは想定していないであろう。ただ星条旗のはためく空間は理想と希望を表しているようにも見える。一方で星条旗は帝国主義と植民地主義の象徴でもあり、蝶々さんを苛むことにもなる。見方によっては、あるいは場合によっては希望と絶望は表裏一体になり得る。

初演が大失敗に終わったことでも知られる「蝶々夫人」。だがその際は、ピンカートンの性格が帝国主義と植民地主義の権化のようなものだったそうで、その場合はピンカートンと蝶々さんのロマンスが全く生きなくなったであろうことは想像に難くない。ということでピンカートンを色男にしたことで再演は成功したとされている。ちなみにピンカートンというのは「出来の悪い海兵」を表すスラングだそうで、初演時の人物設定が今以上に悪かったことが窺える。

タイトルロールを歌う木下美穂子は細やかな歌唱と心理描写が印象的。実力をいかんなく示す。シャープレスを歌う近藤圭も想像以上に貫禄があり、アメリカの駐日領事官としての重さを演技で表していた。

栗山民也は自害した蝶々さんを息子が見つけて呆然とする(あるいは何が起こっているのか分かっていないのかも知れないが)場面を最後に持ってくることで、この物語と植民地主義とピンカートンの残酷さを描き出していた。

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2022年9月25日 (日)

コンサートの記(805) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第561回定期演奏会

2022年9月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第561回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

オール・ワーグナー・プログラムで、歌劇「リエンツィ」序曲、ヴェーゼンドンク歌曲集(メゾ・ソプラノ独唱:池田香織)、楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲。ブリュンヒルデの自己犠牲のメゾ・ソプラノ独唱は池田香織)


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。


歌劇「リエンツィ」序曲。トランペットのソロ(信号ラッパを表している)に続く弦楽の典雅な響きは、尾高の指揮ということもあってエルガーの音楽のように聞こえる。「ノーブル」という言葉が最も似合う音だ。ただ、ワーグナーの音楽の特徴は聖と俗の混交にあるため、「上品すぎるかな」とも思ったのだが、金管などには俗な要素も振っており、尾高の解釈の確かさが感じられる。


ヴェーゼンドンク歌曲集。「天使」「とどまれ」「温室にて」「苦しみ」「夢」の5曲からなる歌曲である。チューリッヒでワーグナーと出会い、愛人関係となったマティルデ・ヴェーゼンドンクという絹織物商人の夫人のために書かれた歌曲で、歌詞はマティルデが書いたものである。
ワーグナーは「夢」のみに小規模オーケストラのための編曲を施しており、残りの4曲はフェリックス・モットルによる編曲で演奏されるのが一般的であるが、今回は全5曲をハンス・ヴェルナー・ヘンツェが1976年に編曲したものが採用されている。ヘンツェの編曲も小規模オーケストラのために行われたもので、今日は第1ヴァイオリン6、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが各4、コントラバスが2という弦楽編成。管楽器はフルートとホルンが2管編成である。

日本を代表するワーグナー歌手の一人である池田香織。喉の調子が絶好調という訳ではなかったようだが、落ち着いた声による情感豊かな歌声を聞かせていた。


楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲)。
朝比奈隆以来のワーグナー演奏の伝統を持つ大阪フィルハーモニー交響楽団。「大フィルサウンド」と呼ばれる重厚な響きもワーグナーには似つかわしい。

尾高はスケール雄大で厚みと輝きのあるワーグナーサウンドを大フィルから弾き出すが、この音は尾高と今の大フィルが出したというよりも、これまでドイツ音楽に徹底して取り組んできた大フィルの長い歴史が生んだものであり、大フィルの歴史が背景のようにそそり立つのが見えるかのようだ。伝統によってもたらされた重層的な響きである。
大フィルの歴史が生んだ音を生かしつつ、尾高は彼らしい見通しの良い演奏を行う。毒こそ控えめだが、堅牢なフォルムと煌びやかな音色がワーグナーそのものの山脈を築き上げていく。
ブリュンヒルデの自己犠牲で独唱を務めた池田香織。池田はブリュンヒルデを当たり役としている。ヴェーゼンドンク歌曲集の時よりもずっと生き生きして見えるのは決して偶然ではないだろう。声に中にブリュンヒルデの命が息づいている。
歌い終えてすっくと佇む池田の姿はまるで慈母のような格好良さであった。

ワーグナーの良さを堪能出来る夜となった。

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2022年9月24日 (土)

観劇感想精選(446) 日本初演30周年記念公演 ミュージカル「ミス・サイゴン」@梅田芸術劇場メインホール 2022.9.15

2022年9月15日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ミス・サイゴン」を観る。日本でもたびたび上演される大ヒットミュージカルである。ロングランのため複数人がキャストに名を連ねており、今日の出演は、伊礼彼方(エンジニア)、高畑充希(キム)、チョ・サンウン(クリス)、上原理生(ジョン)、松原凜子(エレン)、神田恭兵(トゥイ)、青山郁代(ジジ)、藤元萬瑠(タム)ほかとなっている。

プッチーニの歌劇「蝶々夫人」の舞台をベトナム戦争とその直後に置き換えて制作されたミュージカル。作曲は、「レ・ミゼラブル」のクロード=ミシェル・シェーンベルクである。クロード=ミシェル・シェーンベルクは、「蝶々夫人」の旋律を生かしており、「ここぞ」という場面では、「蝶々夫人」の旋律が効果的にアレンジされた上で奏でられる。またベトナムが主舞台ということで、東南アジア風の旋律も要所要所で登場する。どことなくラヴェル風でもある。

ベトナム最大の都市にして、南ベトナムの主都であったサイゴン市(現ホーチミン市)。戦災により家を失い、サイゴンへと逃げてきたキムは、女衒のエンジニアの後について、売春宿にやってくる。キムは米兵のクリスに買われて一夜を共にするが、それがキムの初体験だった。二人は愛し合い、結婚式を挙げるが、アメリカの傀儡国家であった南ベトナム(ベトナム共和国)の首都であるサイゴンが陥落し、米国の敗北が決定的になったことから、米兵であったクリスはサンゴンを後にしてアメリカへと戻る。その間にキムは、クリスの子である男の子を生んでいた。


有名作であるが、私は「ミス・サイゴン」を観るのは初めて。プッチーニの音楽を大胆に取り入れた音楽構成と、ベトナムの風習や衣装を生かし「蝶々夫人」では日本人以外は納得しにくかったラストを改変するなどしたストーリーが魅力で、「蝶々夫人」を観たことがない人でも楽しめる作品になっている。
「蝶々夫人」のラストは、日本人以外には納得しにくいもののようである。台本を担当したジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカ、原作小説を書いたジョン・ルーサー・ロングとそれを戯曲化したデーヴィッド・ベラコス、更にはプッチーニも日本的な美意識を理解していたということになるが、「自決の美学」は西洋人にはピンとこない事柄であるようだ(そもそも西洋人の大半がキリスト教の信者であり、キリスト教では自殺は罪とされている)。そこで蝶々夫人にあたるキムを積極的にわが子に命を与える女性に設定し、死ぬことで子どもの未来を開いた女性の「自己犠牲」を描いた悲劇となっている。ただ日本人である私は、この改変に対しては「合理的」に過ぎるという印象を受け、良くも悪くも「死」でもって何かと決着をつけようとする日本的な美意識の方により引き付けられる。ただ日本人の美意識もたびたびの転換を迎えており、日本人であっても「蝶々夫人」のラストの意味が分からない人が大半になる日が来るのかも知れない。そしてそれは第二次大戦時の残酷さを思えば、必ずしも悪いことではないのだろう。

私自身は、高畑充希が演じるキムが見たかったので、この日を選んだが、童顔系でありながらパワフルな歌唱を聞かせる高畑充希は、キム役に合っていたように思う。何度も上演されているミュージカルなので、そのうちにまた高畑充希以外のキムで聴くのもいいだろう。今日は視覚・聴覚(歌詞が聞き取れない部分がいくつもあった)両面で問題のある席だったので、別の席で観る必要も感じた。今回のプロジェクトで再び観る気はないが、次回以降のプロジェクトでも観てみたくなる作品であった。

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2022年9月 2日 (金)

コンサートの記(803) ひろしまオペラルネッサンス アンサンブルシアターⅠ モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 2022.8.27

2022年8月27日 広島・加古町のJMSアステールプラザ大ホールにて

午後2時から、JMSアステールプラザ大ホールで、ひろしまオペラルネッサンス アンサンブルシアターⅠ モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つであり、オペラ史上最も有名な作品の一つでもありながら、結末が暗いためか上演回数は思ったよりも多くなく、私も「フィガロの結婚」や「魔笛」は何度も観ているが、「ドン・ジョヴァンニ」は過去一度しか観たことがない。その一度もカットのあるバージョンだったため、全編上演を観るのは今日が初めてとなる。個人的には、「フィガロ」や「魔笛」よりも完成度は高いと思っているのだが、世間的には楽しいオペラの方が好まれるのは必然という気もする。
指揮は川瀬賢太郎、演出は岩田達宗。演奏は広島交響楽団+ひろしまオペラルネッサンス合唱団。出演はWキャストで、今日は、折河宏治(おりかわ・ひろはる。ドン・ジョヴァンニ)、松森治(騎士長)、原田幸子(はらだ・さちこ。ドンナ・アンナ)、福西仁(ふくにし・じん。ドン・オッターヴィオ)、佐々木有紀(ドンナ・エルヴィーラ)、佐藤由基(さとう・ゆうき。レポレッロ)、山本徹也(マゼット)、並木円(なみき・まどか。ヅェルリーナ)。セリフのない出演者がこのほかに数人いる。

友人の竹本知行と、JMSアステールプラザの1階にある情報交流ラウンジで待ち合わせ。様々な公演のチラシなどを見ていたが、書棚に画集が並んでおり、一番手前に私の大好きなアンドリュー・ワイエスのものが、あたかも「取ってくれ」と言わんばかりに置かれていた。自然な形で手に取り、椅子に座って眺める。しばらく絵が続いた後に文章が載っており、タイトルが何と「父を超える」であった。映画「アマデウス」でも有名になったが、モーツァルトの父親であるレオポルト・モーツァルトの死が「ドン・ジョヴァンニ」の筋書きに影響を与えたという説がある。これはおそらく確かだと思われるのだが、「ドン・ジョヴァンニ」を観る前に同じテーマを扱った文章を読むことになった。ちなみにアンドリュー・ワイエスの父親は成功した挿絵画家であり、アンドリューは病弱だったため学校には通わず、我が子の才能を見抜いた父親によって絵画の英才教育を受けている。モーツァルトの父親であるレオポルトも、一般には教育パパとしてのみ有名だが、今も重要視されているヴァイオリンの教則本を書いていたり、おもちゃの交響曲の作曲者の候補(現在では別人の作曲とする説が有力)だったりと、偉大な音楽家であった。
「父を超える」というタイトルを見て、「呼ばれたな」と感じたが、個人的にはこうした巡り合わせは比較的頻繁に起こっているため、特に不思議とも感じなかった。


演出の岩田さんには開演前と終演後に挨拶し、終演後には大学の准教授である竹本知行を紹介した。


「ドン・ジョヴァンニ」が余り上演されない理由として、結末の暗さと共に内容の分かりにくさが挙げられる。筋書きが複雑な訳ではないのだが、言葉の意図が取りにくい。特にラスト(ウィーン第2版ではカットされる)の日本語訳で「悪人の最期はその生き様と同じ」という意味になる歌詞の意味が分かりにくいのである。
今回の字幕は、「悪人は死後も生前と同じ目に遭う」という意味の内容になっており、意味が受け取りやすくなっていた。

また、騎士長から「悪より悪を犯した」と地獄行きの理由が語られるのだが、さて、ドン・ジョヴァンニが犯した「悪より悪」なこととは何か。ドン・ジョヴァンニの女の落とし方は、甘い言葉で誘うもので、それ自体は刑事事件にはならないものである。一方で、ドンナ・アンナに対しては強姦に近いもので、十分刑事事件にはなる。ただ以前にも同じようなことがあったのかというと、歌詞を聴いた上では、そうとも思えない。少なくとも多くはないはずである。ドンナ・アンナが上司の娘なので、特別だった可能性もある。自身の娘を犯そうとしたことが「悪より悪」であるとするのも道理ではあるのだが、それだけでは奥行きがない。

ドン・ジョヴァンニは、常に「Non」と拒絶する。第2幕ではドン・ジョヴァンニに同情的となったドンナ・エルヴィーラから「心を入れ替えて」と愛より発生した懇願を受けるもこれを拒否。更に自身の父親的存在でもあり、場合によっては義父となっていた可能性もある騎士長(騎士の中ではドン・ジョヴァンニの評価は極めて高い)の石像からの「心を入れ替えろ」との最後通告も聞き入れない。
ドン・ジョヴァンニは、多くの女性を愛した。国籍も年齢も容姿の美醜も超えて愛したが、彼は一人の女性の愛も受け入れなかった。そして愛の孤児となった相手を放棄した。それが「悪より悪」の正体だと私は見なす。岩田さんは神戸のお寺の子で、私も比較的熱心な真宗門徒であるが、仏教では「愛」とは「愛着」「貪愛」のことであり、最も悪い種類の執着の一つである。そうでなくても愛というのは一方的に愛するだけでは駄目で、相手の愛を受け入れて初めて一つの体を成す。それをせずに、相手を芥川龍之介のいう「孤独地獄」へ追いやる行為、一方的に愛して終わりの愛は「悪より悪」であり得る。

八百屋(斜めになった舞台のこと。正式には八百屋飾り)になった十字架状の舞台の上で物語は展開する。レポレッロは片足が不自由という設定に変更になっており、「カタログの歌」の場面でもカタログは取り出さず、どうやら全ての女性の名前を諳んじているようである。もし片足が不自由でなかったら、平民階級出身とはいえ、学者になれるほどの才の持ち主であることが窺える。だが障害者ゆえに差別され、ドン・ジョヴァンニの従者としてゲスなことにその才能を用いるしかないということなのかも知れない。
ドン・ジョヴァンニというのは、容姿に優れ、知的レベルも高い開明的な人物で、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の初演の2年後に起こったフランス革命の「自由・平等・博愛」を体現したかのような存在である。だからレポレッロを差別せずに有能な従者として雇っているのだと思われるが、にしては扱いが酷い。また、差別なく女を愛す、平等に愛すと謳ってはいるが、そもそも女漁り自体が女性差別に他ならない。カタログに載せるようにコレクションしているため、この時点でも十分に悪である。ラストはカタログに記された女性達の復讐であるようにも見える。
こうした矛盾を抱える人物であるが、ドンナ・エルヴィーラが、捨てられてもまた好きになるような魅力的な人物でもある(ドンナ・エルヴィーラは、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの後では再婚は望まず修道院に入る決意をする)こともまた事実である。

元のテキストとは異なり、騎士長はドン・ジョヴァンニより強く、ドン・ジョヴァンニは右手を斬られて負傷。この傷はその後も要所要所で痛み出すことになり、それが元で女性よりも立場が下になったりもする。ドン・ジョヴァンニは、レポレッロが持っていたピストルで騎士長を射殺するということで、ドン・ジョヴァンニの技量が騎士長を上回ったという訳でもない。キャットウォークから十字架型の枠が降りてきて、騎士長は枠から踏み出して冥途行きになろうとするも、枠はまたがず幽霊となってしばらくの間その場に留まるというのも元のテキストとは異なる。十字架型の枠は現世とあの世の境となるものであるが、ラストでドン・ジョヴァンニも上半身が枠からはみ出るも完全に枠の外には出ず、愛を語る人々を幽霊として見守ってから地獄へと落ちていく。生前、人の愛を受け入れなかったドン・ジョヴァンニは死後も愛されない運命にあるのかも知れないが、ドン・ジョヴァンニに自身を重ねていたであろうモーツァルトは死後に「誰からも」と書いても構わないほどに愛されているのが救いとなっている。

レオポルトの死後、モーツァルトは経済面でも仕事面でも行き詰まるようになる。人気は落ち、演奏会を開いても客がほとんど入らないという状態になっても、チェーホフの「桜の園」の人々のように散財を止められず、借金を重ねた。そうして改めて父親の偉大さを実感したであろうし、逆境から脱するためには父を超える必要も感じたであろう。それが「ドン・ジョヴァンニ」の騎士長とドン・ジョヴァンニの関係に反映されているのは間違いないであろうと思われる。
モーツァルトの凄さは、そうした「父の愛」、ひいては「父の呪縛」から逃れられないのではないかという戦きをオペラ作品として昇華してみせたところにある。台本自体は、ロレンツォ・ダ・ポンテの手によるものだが、モーツァルトも台本制作に協力しており、モーツァルト自身の意図もかなり反映されているはずである。

演出面では、カタログに書かれた女性の名が記された幕が「愛」を肯定する場面で用いられているのが効果的。逆に第1幕のドンナ・エルヴィーラのようにドン・ジョヴァンニの愛を否定する際には幕が落とされたり、ラストでは愛の負の面がドン・ジョヴァンニを地獄に突き落とすなど、視覚的に分かりやすい効果を上げていた。


川瀬賢太郎指揮する広島交響楽団は生き生きとした演奏を展開。会場の音響は必ずしもオペラ向きではなかったが、良い音楽を聴かせてくれる。若手中心の歌手陣もムラはあったが健闘していた。

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2022年8月 2日 (火)

コンサートの記(794) びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」

2022年7月18日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」を観る。

ヴェルディ最後のオペラとなった「ファルスタッフ」。シェイクスピアの戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」を原作に、作曲家としても名高いアッリーゴ・ボーイトが台本を手掛け、一度は引退を決意していたヴェルディが最後の情熱を燃やして作曲した作品としても知られる。ボーイトの台本にヴェルディはかなり魅了されたようだ。
ヴェルディは、悲劇作家であり、喜劇オペラ(オペラ・ブッファ)は、2作品しか残さなかった。そのうちの1つが「ファルスタッフ」である。


園田隆一郎指揮大阪交響楽団(コンサートマスター:林七奈)の演奏。演出は、国立音楽大学を経てミラノ・ヴェルディ音楽院に学び、多くの著名演出家の演出助手として活躍した経験を持つ田口道子。出演はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーを中心としたWキャストで、今日はB組の出演。青山貴(ファルスタッフ)、市川敏雅(フォード)、清水徹太郎(フェントン。本来出演予定だった有本康人が体調不良で降板したため、A組の清水が出演)、古屋彰久(カイウス)、奥本凱哉(おくもと・ときや。バルドルフォ)、林隆史(はやし・たかし。ピストーラ)、山岸裕梨(やまぎし・ゆり。アリーチェ。インスペクター兼任)、熊谷綾乃(くまがい・あやの。ナンネッタ)、藤居知佳子(クイックリー夫人)、坂田日生(さかた・ひなせ。メグ・ペイジ)。合唱も、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが出演する。


上演の前にまず、演出家の田口道子によるお話がある。新型コロナがまた勢いを増しているということでマスクを付けてのトークである。
ヴェルディが「ファルスタッフ」を作曲しようと思い立ったきっかけ(ボーイトの台本の存在感)、ヴェルディが初めて手掛けた喜劇オペラが上演最中に打ち切りになったこと、ヴェルディのその時の心境(妻と娘を亡くした中で喜劇オペラを作曲していた)などが語られる。
またオペラが総合芸術であり、あらゆる芸術が詰め込まれた豪華なものであること。一方で、初めて観る人にも分かりやすい演出を心がけたことなどが語られた(後方のスクリーンに映像を投影させる(「紙芝居のような」演出であった)。


実は、原作となったシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房達たち」は、シェイクスピア作品のワースト争いの戯曲として知られている。偽作説まであるほどだが、エリザベス女王の御前上演会のために短期間で書かれたこと、そもそも本格上演用ではなく余興用の台本だったことなどがマイナスに作用したという説が有力である。猥語の頻用、奇妙なフランスなまりの英語、子どもだましのような展開など、「偽作」と言われるだけの要素が多いが、この作品のオペラ化を試みた作曲家もヴェルディのみに留まらず、ファルスタッフという人物が多くの人々を魅了してきたことも窺える。
ボーイトは、オペラ用台本ということで、当然ながら筋や登場人物をカットしたものを書いているのだが、それが上手くいったようである(同じような場面をカットした効果は大きい)。初演時から好評を得ており、今に至るまでヴェルディ屈指の人気作となっている。


ガーター亭で過ごしているファルスタッフが、金策のためにアリーチェ・フォードとメグ・ペイジという金持ちの夫人二人に恋文を送ろうとするところから始まる(シェイクスピアの原作はそれよりも前に色々な展開があるのだがカットされている)。バルドルフォとピストーラという使用人になぜか拒否されるが、恋文はアリーチェとメグに届く。
ところが文面が全く同一のものであったため、アリーチェとメグは激怒。ファルスタッフを懲らしめてやることにする。一方、アリーチェの娘であるナンネッタはフェントンに恋しているのだが、父親のフォードは、金持ちの医者であるカイウスと娘の結婚を画策していて……。


恋と嫉妬、復讐を果たすまでの頭脳戦と予期せぬドタバタ、道ならぬ恋など、オペラで受けそうな要素が満載である。やはり演劇と歌劇とでは客受けの良いものが微妙に異なっている、というよりも客に受けそうな要素だけでボーイトが脚本を編んだのが良かったようだ。常識的に考えて変な場面も実は多いのだが、そこは音楽の力で増強増補していく。

田口道子の演出は、滑稽な動きを強調したものであり、特にファルスタッフ役の青山貴とクイックリー夫人役の藤居知佳子の演技は、チャーミングでもあり、コメディの要素も生かし切っていた。
アリーチェ役の山岸裕梨とメグ・ペイジ役の坂田日生の安定感、またナンネッタ役の熊谷綾乃の可憐さを強調した演技も説得力があった。

園田隆一郎指揮大阪交響楽団も活きの良い演奏を聴かせる。大阪交響楽団は、大阪府内に本拠地を置くコンサートオーケストラの中で最も歴史が浅く、演奏会ではたまに非力さを感じさせたりもするのだが、びわ湖ホール中ホールは空間がそれほど広くないということもあって、迫力も万全である。
イタリアオペラを指揮することの多い園田隆一郎の絶妙のカンタービレも流石であった。

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2022年7月21日 (木)

コンサートの記(789) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」 2022.7.17

2022年7月17日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。

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モーツァルトの「魔笛」やビゼーの「カルメン」と共に、音楽雑誌などの好きなオペラランキング1位争いの常連である「ラ・ボエーム」。パリを舞台に、芸術家に憧れる若者とお針子との悲恋を描いた作品である。それまでは芸術というと、例外は案外多いが上流階級が行うものであり、たしなみでもあったのだが、プッチーニの時代になると市民階級が台頭。芸術を楽しんだり、あるいは自分で芸術作品を生み出そうとする市民が現れる。たまたますぐに認められる人もいたが、大半は長い下積みを経験し、芽が出ないまま諦めたり、貧困の内に他界する者も多かった。そんな新しい「種族」であるボヘミアン(フランス語で「ボエーム」)は、人々の目を驚かし、あるいは唾棄され、あるいは憧れられる存在となっていった。

今回、演出・装置・衣装を手掛けるのは、1943年、イタリア・マルチェラータ生まれのダンテ・フェレッティ。多くの映画監督やオペラ演出家と仕事をしてきた巨匠である。フランコ・ゼフィレッリのオペラ映画で美術を手掛け、その後にピエル・パオロ・パゾリーニ作品5本に美術担当として参加。近年はマーティン・スコセッシ監督と多く仕事をこなしている。

フェレッティは、ボヘミアン達の住み処をアパルトマンの屋根裏部屋から、セーヌ川に浮かぶ船に変更。垂直の移動をなくすことで、パリの地上に近づける工夫を施している。個人的にはアパルトマンの屋根裏から見えるパリの光景が、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』で語られる最後のセリフ、「パリよ今度はお前が相手だ」に繋がるようで気に入っているのだが、船上で暮らすボヘミアン達というのはそれはそれで面白いように思う。ただ船上に住むとした場合、隣の部屋に人知れず住んでいるミミという女性のキャラクターは余り生きないように思う。今回のミミは、船のセットの前を歩いて後方に回り、船内の部屋のドアの向こうに立って人を呼ぶという設定になる。元々は火が消えたから分けて欲しいという設定なのだが、船の家までわざわざやって来て、火を分けて欲しいというのは変である。ミミはおそらく舞台上手側にある部屋に住んでいて、船の家まで来たと思われるのだが、その場合は、ロドルフォが男前なので、近づきたいがために無理な設定をでっち上げたということなのだろうか。他に理由があるのかも知れないが、思いつかない。


指揮はいうまでもなく佐渡裕。兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。ゲストコンサートマスターはステファノ・ヴァニヤレッリ(トリノ王立歌劇場管弦楽団コンサートマスター)、第2ヴァイオリントップはペーター・ヴェヒター(元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団首席)、チェロ客演首席はレリヤ・ルキッチ(トリノ王立歌劇場管弦楽団首席)。第2幕のカフェ・モミュスの場に現れる軍楽隊のメンバーの中に、元京都市交響楽団トランペット奏者の早坂宏明の名が見える。
プロデューサーは小栗哲家(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主役を張っている小栗旬の実父)。

ダブルキャストによる上演で、今回はヨーロッパの若手歌手を中心としたA組の出番である。出演は、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)、エヴァ・トラーチュ(ムゼッタ)、リッカルド・デッラ・シュッカ(ロドルフォ)、グスターボ・カスティーリョ(マルチェッロ)、パオロ・イングラショッタ(ショナール)、エウジェニオ・ディ・リエート(コッリーネ)、清原邦仁(パルピニョール)、ロッコ・カヴァッルッツイ(ベノア/アルチンドーロ)、島影聖人(物売り)、時宗努(軍曹)、下林一也(税官吏)。合唱は、ひょうごプロデュースオペラ合唱団、ひょうご「ボエーム」合唱団、ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団。
ひょうごプロデュースオペラ合唱団のメンバーには関西では比較的有名な若手歌手も含まれている。

第2幕のカフェ・モミュスの場では、ステージ上がかなり密になるということで、吉田友昭(医学博士/感染制御医)と浮村聡(医学博士/大阪医科薬科大学大学院感染対策室長)という二人の医学関係者が感染対策の監修を手掛けている。


舞台設定は大きく変えたが、演技面などに関してはいくつかの場面を除いてオーソドックスな手法が目立つ。セットではやはりカフェ・モミュスのテラス席と屋内を一瞬で転換させる技法が鮮やかである。

オーディションを勝ち抜いた若手歌手達の歌と演技も楽しめる水準にあり、特にムゼッタを演じたエヴァ・トラーチュのコケティッシュな演技と歌声が魅力的であった。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏も潤いと艶と勢いがあり、私が座った席の関係か、たまに鳴り過ぎに聞こえる場面があったが、生命力に満ちている。在籍期間が最長3年で、常に楽団員が入れ替わる育成型オーケストラであるため、他のプロオーケストラに比べると独自の個性は発揮出来ないが、一瞬一瞬の価値を大事にしたフレッシュな演奏が可能ともなっている。


第3幕の「ダダン!」という音による始まりと終わりについてであるが、個人的には、アンフェール関門(インフェルノ関門)という場所が舞台になっているため、地獄の扉が開く音として捉えている。第2幕であれほど生き生きしていたボエーム達とミミが、第3幕では、ミミの病気やロドルフォのミミに対するDV、マルチェッロとムゼッタの喧嘩などで、地獄への道へと落ちていくことになる。

立場はそれぞれ違えども、ステージにいる人、客席にいる人の多くが、ボエーム達の生活に憧れたか、実際にそういう暮らしを送った人達であり、己の姿を投影することの可能な作品である。

一方で、この時代は女性にとっては残酷であり、地方からパリに出てきてお針子になる女性が多かったが、パリの家賃や物価は高く、多くは仕事をしているだけでは生活出来ず、売春などで小金を稼ぐ必要があった。ムゼッタのように金持ちに囲われ、歌の教師などの職を得るものもあれば、ミミのように売春をしても暮らしは楽にならず、若くして命を散らすことも決して珍しくなかった。女性でも芸術方面で活躍している人もいるにはいたが、彼女達は基本的に上流階級の出身であり、そうでない多くの女性は芸術家(ボエーム)になることも許されず、地獄のような生活を送る人も少なくはなかった。

ミミというのは俗称で(売春をする女性は、ミミのように同じ音が続く俗称で呼ばれることが多かった。ムゼッタの俗称はルルである)本名はルチア。「Lux」に由来する「光」という名の名前である。この作品でもロドルフォの戯曲を燃やす暖炉の明かり、ミミが借りに来る「火」の灯り、カフェ・モミュスの輝き、第3幕での春の陽の光に抱く恐れや、最後の場面での日光に関するやり取りなど、「光」が重要な鍵となっている。

ロドルフォは最後までミミのことを本名のルチアで呼ばない。結婚相手とは考えられないのだ。本名で呼ぶような関係の夫婦となるのに多くの障壁がある。まず金銭面、身分の問題(ロドルフォは売れない詩人、ミミは売春も行うお針子)、そして価値観の違い。ミミはボエーム達のように芸術に関して深く理解する力はなかっただろう。ロドルフォはミミを愛しい人とは思っても結婚相手とは見ておらず、芸術上の同士とも考えていないため、「ルチア」とは呼ばないのである。すれ違いといえばすれ違いであるが、新しい階級を築きつつある一方で、旧弊から抜け出せない端境期(あるいは今も端境期のままなのかも知れないが)の「自由な」「わかり合えない」若者達の悲しさと愚かしさを描く、痛切な作品でもある。

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2022年7月19日 (火)

観劇感想精選(439) 「M.バタフライ」

2022年7月14日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「M.バタフライ」を観る。1988年にトニー賞を受賞した中国系アメリカ人の劇作家、デイヴィッド・ヘンリー・ファン(黄哲伦)の戯曲の上演である。実話を基にした話であり、ジョン・ローンが主演した映画でも話題になっている。テキスト日本語訳は吉田美枝。

出演は、内野聖陽、岡本圭人、朝海ひかる、占部房子、藤谷理子、三上市朗、みのすけ。
演出は、劇団チョコレートケーキの日澤雄介が手掛ける。

主な舞台は中国の首都・北京であり、一部でフランスの首都・パリが舞台となる。

文化大革命前夜とただ中の中国で、己を模索し続けたフランス人駐在員、ルネ・ガリマール(内野聖陽)と、彼が恋する京劇の女形、ソン・リリン(岡本圭人)の二人を主軸に物語は進んでいく。

まずはルネ・ガリマール役の内野聖陽が、今、パリの獄舎にいること、それには京劇の女優が深く関わっていること、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」が大好きであることなどを述べる。ルネ・ガリマール役はとにかくセリフが多い。いわゆるセリフの他に狂言回しの役を担ったり、解説係を務める場面もある。ソン・リリン役の岡本圭人も状況説明のセリフが多く、更に京劇のアクションもこなす必要があるなど、この二人の役はかなりの難役である。


鍵を握るのは、タイトルやルネ・ガリマールの最初のセリフからも分かるとおり、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」である。日本の長崎を舞台にしたオペラで、日本ではおそらく上演回数が最も多いオペラであり、私自身も最も多く目にしたオペラである。
日本を舞台にしているので馴染みやすいが、内容的には、いい加減な性格のアメリカ海軍将校のピンカートンが赴任先の長崎で現地妻を求め、丸山の蝶々さんに白羽の矢が立つが、ピンカートンはちょっと蝶々さんを愛しただけで「コマドリが巣を作る頃に戻る」などといい加減なことを言って、蝶々さんを捨ててアメリカに帰り、蝶々さんに息子が生まれたことを聞きつけると前からいた本妻と共に長崎を訪れ、自身と蝶々さんの子どもを奪おうとする。捨てられて恥をかかされた上に子どもまで奪われることを知った蝶々さんは生きる意味を失い、抗議の意味も込めて自刃する。
だいたいこんなあらすじであるが、「蝶々夫人」の、せめてあらすじを知らないと、何が起こっているのか把握するのが困難な舞台である。

更にこの時代を知りたいなら、「さらば我が愛、覇王別姫」や「ラスト・コーション」といった中国映画も観ておくとよりよいだろうが、純粋に舞台を楽しむだけなら、そこまでする必要はないかも知れない。


「蝶々夫人」も「M.バタフライ」も時間的隔たりはあるが、東洋人と西洋人――黄色人種と白人と置き換えてもいいが――更に男女間の差別があるのが当たり前の時代を舞台にしており、両者の間に広がる巨大な「断絶」を、「融合」へと変えることを試みた本と見ていいだろう。

1960年代初頭、北京に赴任しているフランス人外交官のルネ・ガリマールは、当地の劇場で、蝶々夫人を歌うソン・リリンと出会う。ソンは京劇の女優(というより女形である。京劇には以前は男性しか出演出来なかったが、今では女性役は女優が演じるのが主流になっている)なのだが、ソン(ガリマールは「バタフライ」という愛称で呼ぶ)に理想の女性像を見いだしたガリマールは、男女の駆け引きを用いてなかなか劇場に出向こうとしない。
ガリマールにはヘルガという名の妻(朝海ひかる)がいるが、ガリマールはソンのアパートへと頻繁に通うようになるのだった。


途中20分間の休憩を含めて上演時間約3時間半という長編であり(第1幕約1時間15分、休憩20分、第2幕約1時間50分)、それまでにちりばめられた細工や伏線のようなものが、ラスト15分ぐらいで一気に纏まるが、上演時間が長すぎる上に比較的淡々とした展開であるため、時間が経つのが遅く感じられる、ラスト15分の怒濤の展開で「観る価値あり」となるが、そこに至るまでの忍耐力が必要となる。だが耐えた先に爽快な視界が広がっている。


ガリマールがソンの正体が男(ついでの毛沢東が放ったスパイでもある)であることに気づいているかどうかが焦点の一つとなり、普通に考えれば気がつかないはずがないのだが、ここでガリマールの性意識の問題や「愛」に関する思想などが開陳される。
説得力があるかどうかで考えれば、「ない」と断じることになるなるだろうが、デヴィッド・ヘンリー・ファンの思い切った踏み込みには感心させられたりもする。歌劇「蝶々夫人」で提起された差別のあり方に対し、解決とまではいかないが、「人種や性別などは大した問題ではない」という一つの答えが出されている。


他の俳優も良かったが、この作品はなんといってもルネ・ガリマール役とソン・リリン役につきる。内野聖陽と岡本圭人の上手さと一種の熱さが際立っていた。

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