カテゴリー「オペラ」の133件の記事

2025年6月 5日 (木)

これまでに観た映画より(387) ドキュメンタリー映画「私は、マリア・カラス」

2025年4月21日

ドキュメンタリー映画「私は、マリア・カラス」を観る。残されたカラスへのインタビュー映像や音声、カラスの歌唱シーンなどで彼女の人生を振り返る。フランスの制作で、言語は主に英語とフランス語が用いられている。トム・ヴォルフ監督作品。

カラスがスターになってからの映像が用いられているが、どちらかというと世紀のプリマドンナ、マリア・カラスよりも、人間、マリア・カラスに焦点が当てられている。そのためアリストテレス・オナシスとの恋愛はかなり重要視されている。歌手として成功したマリア・カラスであるが、オペラ歌手の演技の重要性を説く場面がある。ということは、それまでオペラ歌手は演技は余り重要視してこなかったことが分かるが、従来のクラシック音楽は職人気質で、きちんとした音楽学校を出ていなくても楽器が弾ければ良い、演技はおまけで歌がよければ良いという考えが一般的だった。オーケストラの団員と指揮者が喧嘩になることが多かったのも、一方は音楽学校や音楽大学で楽理からなにから収めている、一方は自己流でも何でも楽器は弾けるという知性軽視の傾向があったためである。オペラ歌手というと、今でもマフィアとのつながりなどが指摘されることがあるが、学究肌である必要はないという考えが普通。それに一石を投じたのがマリア・カラスだった。徹底した楽曲分析に裏付けられたドラマティックな歌唱は喝采を浴びた。
だが、カラスは見た目は強気な女性であったが、実際には精神的にも肉体的にも余り強い方ではなさそうだということが分かる。肉体を酷使した結果、十分に歌えなくなり、ローマ歌劇場での「ノルマ」は、第1幕終了と同時にキャンセル。アンダースタディー(カバーキャスト)などは用意していなかったようで(していても聴衆が満足したとは思えないが)公演が中止になる。「十分な体調でなければ歌えない」というカラスの完璧主義によるものだが、以後、「カラス=キャンセル」のイメージが出来てしまう。実際は、カラスがキャンセルする割合は低かったにも関わらずだ。夫のバティスタはマネージャーも務めたが余り有能とは言えなかったようだ。

そんな中、1957年にヴェネチアで出会ったのだが、ギリシャの海運王、アリストテレス・オナシスであった。優しく、少年のようなオナシスにカラスは癒やされるが、この「少年のような」部分というのは実は地雷だったのかも知れない。9年後、オナシスは、ジャクリーン・ケネディとの結婚を発表。時を同じくしてカラスは歌劇場から遠ざかるようになる。パゾリーニ監督の映画「王女メディア」に出演。カラスは次回作について聞かれて、出るかどうか分からないまでも「喜劇などにも出たい」などと話していたが、「王女メディア」が興行的に伸び悩んだため、映画の出演依頼はなく、これが最初で最後の映画出演になった。なお、「王女メディア」にはカラスが歌うシーンはない。

その後、オペラよりも負担の軽いリサイタルをジュゼッペ・ディ・ステファーノと世界各地で行う。東京のNHKホールでのカーテンコールの模様も収められている。当時の日本の聴衆は今と違ってかなり熱狂的である。
ディ・ステファーノとも恋仲だったと言われるカラスだが、オナシスが戻ってくる。この映画ではカラスはオナシスに甘えた弱い女という一面が描かれている。決して猛女という訳ではないのだ。

エンドロールに選ばれたのは、プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」から“ねえ、私のお父さん”。カラスの愛らしい一面を示す歌唱である。

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2025年6月 4日 (水)

観劇感想精選(490) 望海風斗主演「マスタークラス」

2025年4月13日 西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後2時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「マスタークラス」を観る。マリア・カラスが引退後にジュリアード音楽院で行ったマスタークラス(公開授業)を聴講した経験と講義録を基に、テレンス・マクナリーが書いた戯曲を森新太郎が演出。1939年に生まれ、コロンビア大学在学中から劇作を始めたテレンス・マクナリー。2020年にコロナに罹患して亡くなったという。ゲイであり、キリストと弟子達をゲイとして描いたことで抗議運動を起こされたこともあったようだ。
「マスタークラス」は、1995年にアメリカのフィラデルフィアで初演され、日本では翌1996年に黒柳徹子主演で銀座セゾン劇場において初演が行われている。黒柳徹子版は1999年にも再演されているが、以後、「マスタークラス」を取り上げる日本人女優は現れず、久々の上演となった。出演:望海風斗(のぞみ・ふうと)、池松日佳瑠(いけまつ・ひかる)、林真悠美(藤原歌劇団)、有本康人(藤原歌劇団、びわ湖ホール声楽アンサンブル)、石井雅登、谷本喜基(たにもと・よしき。音楽監督兼任)。テキスト日本語訳:黒田絵美子。

出演者は6人いるが、マリア・カラス役は延々と喋り続けるため、実質一人芝居と変わらない量のセリフをこなす必要がある。上演時間は15分の休憩を含んで2時間20分ほどなので、2時間近くは喋ることになる。これだけの量のセリフをこなすだけでも大変なのに、短いが歌うシーンもある。マリア・カラス役なので引退した時分とはいえそれなりの説得力は必要となる。関西テレビの「ピーチケパーチケ」というエンターテインメント&芸術紹介番組で演出の森新太郎が、「この役をやりたいという女優がいたら少しおかしい」と語っていたが、出来る女優がなかなかいない(余り歌うイメージはないが、黒柳徹子は東京音楽大学の前身である東洋音楽学校声楽科卒であり、本格的な声楽の教育を受けている)。今回は宝塚歌劇団元雪組トップスターの望海風斗がマリア・カラス役に挑むことになった。他の出演者も全員、音楽を専門的に学んでいる。池松日佳瑠は、東京音楽大学声楽演奏家コース卒で元劇団四季、林真悠美は、武蔵野音楽大学大学院修了で第23回万里の長城杯国際音楽コンクール声楽部門1位獲得。藤原歌劇団所属だが、その前にはミュージカルにも出演していた。ホームページを見ると、ストレートプレーを学んだ経験もあるようである。有本康人は、昭和音楽大学声楽科ポピュラーヴォーカルコース卒、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部門第37期修了。藤原歌劇団に所属しているが、大学でも学んだと思われるJ-POPにも取り組んでいる。石井雅登は、今回は音楽に興味を示さない音楽院の道具係役であるが、東京藝術大学音楽学部卒業、在学中に小澤征爾音楽塾塾頭を経験、劇団四季で主役を務めるなど、音楽の素養は十分である。今回は地味な役だが、いざというときにはテナーのカバーも務めることになっている。音楽監督兼任でピアノ独奏を担当するの谷本喜基は、東京芸術大学声楽科卒業。現在は合唱指導者のほか、指揮者、ピアニスト、歌手、アレンジャーなど多方面で活躍。音楽団体「イコラ」の代表、ヴォーカルグループカペラのメンバーである。声楽科の出身者であるが、ピアノとチェンバロ、通奏低音奏法なども修めているようだ。
スウィングという形で、岡田美優(おかだ・みゆう。ソプラノ役両方のカバー)と中田翔真(道具係役のカバー/プロンプター)の名がクレジットされているが、岡田美優は、東京音楽大学卒、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部修了で、藤原歌劇団に所属している。

 

開演前には、ピアノ独奏用にアレンジされた名アリアの数々が流れている。
おそらくニューヨーク・ジュリアード音楽院の教室または講堂が舞台。公開講義なので聴衆がいる。最初のうちは客電が明るいままだが、マリア・カラス役の望海風斗が客いじりをする場面があるためである。

プリマドンナの代名詞的存在であるマリア・カラス。ギリシャ系のアメリカ人でニューヨーク生まれである。最初のうちは容姿に問題があった。100キロを超す巨体の持ち主で、容姿をあげつらう声もあった。マリア・カラスは減量を行い、体重を半分にすることに成功する。カラス本人は「菜食によるもの」としていたが、わざとサナダムシを体内で飼い、体重を減らしたとする「サナダムシ説」も今も有力である。実際、サナダムシがいたことは確かなようだが、それが減量のためなのか、たまたま体の中に入ってしまったのか、真相は分からないようである。
こうして容姿の問題を解決したカラス。視力が悪いという問題もあったが、劇中で、「視力が悪いのも悪くない。指揮者の指示が目に入らなかったということに出来る」という意味のセリフがあり、難点を難点としなかったようだ。

オペラを題材にした芝居ということで、フランコ・ゼフィレッリ、ルキノ・ヴィスコンティ、レナード・バーンスタイン、ヴィクトル・デ・サバタ、ジョーン・サザーランドなどビッグネームが登場する。
カラスは、「私は同業者の悪口は絶対に言わない」と言いながら、サザーランドが長身であることをくさすなど、毒舌を発揮。マリア・カラスは、性格的には良いとは言えない人であるが、そのために人生がドラマティックになったという一面はある。

カラスは、まず「見た目」が大事だという。ピアニストのマニー(エマニュエル。ユダヤ系の名前である。演じるのは谷本喜基)にも、最初に会った時の赤いセーターのようなインパクトがあればと言う。そして客席を、「あなたは見た目に気を使っているとは言えないわね」「その後ろの人も見た目に気を使っているとは言えないわね」といじる。「見た目を良くするのは、歌を良くするより簡単」と断言する。

最初のレッスン生であるソフィー(池松日佳瑠)も、田舎娘のような格好で、見た目がいまいちである。苦労知らずの子のようで、苦労についても「いや、それぐらいは全員」ということしかいえない。ソフィーはギリシャ系イタリア人であるが、譜面に書かれたイタリア語の指示を読めないため、少なくとも育ちはアメリカで、イタリア語はネイティブではないのだと思われる。歌うのはベッリーニの歌劇「夢遊病の女」より“ああ、信じられない”。
まずピアノ伴奏を聴いていないという指摘をカラスから受けるソフィー。作曲家は音符に全てを書いているので、それを聞き逃してはならない。そして演技をしてはならない。なぞるのではない。「感じる、本当にそうなる。それが私達の仕事です」
そうしたアドバイスを書き留めなければならないのだが、ソフィーは鉛筆を持っていない。カラスは若い頃の話をする。カラスが若い頃は鉛筆は高級品だった。ある日、鉛筆とオレンジが並んだ場所で売られていた。オレンジはカラスの大好物であったが、「(歌手として成功したら)後で好きなだけ買える」ので鉛筆を選んだ。
ちなみにソフィーの好きなソプラノ歌手は、サザーランドであるが、ここで先に書いたサザーランドの悪口が出る(「熊みたい」)。カラスは「夢遊病の女」のアミーナを歌い継いできた歌手のことを思い浮かべ、歴史を感じて歌うようアドバイス。ソフィーは、「サザーランドは入りませんか?」と聞いてカラスににらまれる。オペラ界は嫉妬とやっかみの世界である。
ソフィー役(本にはソプラノ1とある)も歌うシーンが短いがあるので、やはりソプラノ歌手としての訓練を積んだ者でないと演じることは出来ない。

レッスン生2人目。シャロン(林真悠美)。ソプラノである(本にはソプラノ2と書かれている)。ドレスアップして登場。緑の美しいドレスなのだが、これから行われるのは本番ではなくて授業である。ということで、TPOに問題がある。カラスは、「あなたは何系?」と聞くが、シャロンは答えない。シャロン・グレアムという、ファーストネームもファミリーネームもWASP系だが、本名を名乗る必要もないので(マリア・カラスも本名ではない。本名は、マリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロプーロス)不明のままである。仮にWASPだったとしても、ギリシャ移民系のカラスに「WASPです」とは言えないだろう(俗に言う「マウントを取った」ことになる)。
ヴェルディの歌劇「マクベス」からマクベス夫人のアリア“勝利の日に私は~さあ急いでいらっしゃい!”を歌う。シャロンに、シェイクスピアの「マクベス」を読んだことはあるかと聞くカラス。シャロンは、「18歳の時に」と大分前の話として答えるが、「ヴェルディが『マクベス』を読まずにオペラを書いたと思ってるの?」と不勉強を責める。
ラブレターを読むシーンから入るのだが、ちゃんと読んでいるようには見えない。カラスがやってみせるが、カラスは読まない。これは、「ラブレターを何度も読んでもう暗記しているので読む必要がない」という解釈だそうである。
一度退場して、登場することになるシャロン。カラスによると「登場があって退場がある。その間に芸術がある」
しかし、シャロンは戻ってこない。様子を見に行ったカラスは、「いない」
カラスは若い頃に、ミラノ・スカラ座でマクベス夫人を歌った時のことを思い返す。フランコ・ゼフィレッリの演出、ヴィクトル・デ・サバタの指揮。高所にいるという演出である。ここでの成功で、カラスはスターへの道を歩み始める。
背景には鏡が市松模様になる形で埋め込まれているが、この時は背景にスカラ座の内部が投影される。

3人目のレッスン生は、トニー(アントニー。有本康人)である。テノール。南カリフォルニア大学で声楽を学び、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の大学院で声楽の修士獲得。この時代は今よりも東海岸と西海岸の差が激しかったはずである。
プッチーニの「トスカ」のマリオのアリア“妙なる調和”を歌う。ちょっと軽い感じの男であるが、歌は確かである。カラスは情景描写を行う。実際には台本に書かれていないことも想像力で把握していく。画家であるマリオが描いている絵の題材まで言い当てる。
カラスはトニーの歌に感銘を受けたように見えるが、実際は、マリオの相手であるトスカに自己同一化して思い出に浸っていたようである。「アリー」と愛称で呼ばれるその男、海運王、アリストテレス・オナシスである。オナシスは金持ちであるが、芸術に理解のない居丈高の男としてカラスが演じてみせる。実際のところ、オナシスがカラスに好意を持ったのは、彼女が自分と同じギリシャ系の世界最高のソプラノ歌手だったからで、別に音楽が好きだったからではない。オナシスは、カラスにオペラではなくて売春宿で歌われるような民謡を要求する。
オナシスは、その後、カラスを捨ててジャクリーン・ケネディと結婚する。ジャクリーンと結婚したのもやはりアクセサリー集め感覚だったようで、すぐに不仲になり、離婚後はまたカラスと付き合うようになるが、カラスの引退を早めた一因がオナシスにもあったように思われる。

シャロンが戻っている。体調不良となり、化粧室で嘔吐してしまったが、再びマクベス夫人に挑む。カラスに解釈を否定されつつも歌い終えるシャロンだったが、「あなたは自分が分かっていない」と言われる。カラスは、マクベス夫人には向いていないとして、いわゆるリリック・ソプラノが起用される役を提案。しかし、これにシャロンは激怒。「大嫌い!」「若い才能を潰したいだけ」と捨て台詞を吐いて出て行く。

最初の夫であるバティスタと、愛人のオナシスの思い出。ここで、バティスタとオナシスの顔写真が背景に投影されるのだが、これは余り趣味が良くないように感じた。語りすぎるくらいに語るので、それ以外は余計な要素である。
実はバティスタは、カラスより30歳年上。親子程もしくはそれ以上の差である。それが次第に耐えられなくなる。この作品中では語られないが、マネージャーでもあったバティスタはカラスに技巧的に難度の高い歌が登場するオペラへの出演を引き受けさせ、その結果、カラスは喉の故障で40歳そこそこで引退せざるを得なくなっている。オナシスの下へと走ったカラスだが、不倫だったためバッシングを浴び、離婚。オナシスと再婚したかったが、オナシスはジャクリーン・ケネディを選んだ。

ジュリアード音楽院でのマスタークラスを始める前に、カラスは映画に出演している。パゾリーニ監督の「王女メディア」。この映画は、何年か前にリバイバル上映されているが、劇中でカラスが歌うことはない。映画の内容も、回想や想像の場面がそれと示されずに突然挿入されるという抽象性の高いもので難解であり、またパゾリーニ監督作品ということで残虐シーンもあるなど少々悪趣味で、興行的には成功していない。

 

オペラのマスタークラスを描いた作品であるが、描かれるのは芸術論である。オペラだけではない。
「この世から『椿姫』がなくなっても、お日様はちゃんと昇ります。オペラ歌手なんていなくても世界は回っていきます。でも私達がいると、その世界が少し、豊かに、そして賢くなるんじゃないかって」
「肝心なのは、あなたがたが学んだことを、どう生かすかってことです。言葉をどう表現するか、どうしたらはっきり伝わるか、自分の中にある魂をどう震わせるか。どうか正しく、そして素直な気持ちで歌を歌って下さい」
正しく素直。これは実はかなり難度の高いことなのだが、おそらく講義録からの言葉でカラスはそこを目指していたのだろう。

 

最後には、マリア・カラスの肖像が、キャットウォークから降りてきて、望海風斗は膝を折ってマリア・カラスに敬意を表した。

 

望海風斗は鼻が高く、風貌がカラスに似ている。少なくとも同系統でカラス役には最適である。膨大なセリフを淀みなく喋る至芸を披露。歌声も美声である。
他の出演者も音楽家ということで、音楽的に充実していた。林真悠美と有本康人は、演技を見て、「この人達はオペラの人かな?」と思ったが、実際にそうであった。オペラの登場人物は――オテロ、蝶々夫人、トゥーランドット、ポーギーとベスなど例外も多いが――白人であることが多いため、オペラ歌手は白人のような身のこなしをすることに慣れている。それが舞台俳優との一番の違いである。新劇は西洋の戯曲の上演も多いので、その時は白人のような身のこなしをするが、オペラ歌手の場合はそれともちょっと違う。

 

近く、マリア・カラスを主人公にした「Maria」(原題)という映画が日本で公開される予定である。マリア・カラスを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー。これまた癖のある女優が選ばれている。

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2025年3月15日 (土)

コンサートの記(895) 京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

2025年2月17日 京都市立芸術大学・堀場信吉記念ホールにて

京都市立芸術大学崇仁新キャンパス A棟3階にある堀場信吉記念ホールで、京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。堀場信吉記念ホールで行われる初のオペラ公演である。「ドン・ジョヴァンニ」が京都市の姉妹都市であるプラハで初演され、大成功したことからこの演目が選ばれたようだ。

日本最古の公立絵画専門学校を前身とする京都市立芸術大学。京都市内を何度も移転している。美術学部は京都御苑内から左京区吉田の地を経て東山区今熊野にあり、京都市立音楽短期大学は左京区出雲路で誕生して左京区聖護院にあったが、京都市立音楽短期大学は京都市立芸術大学の音楽学部に昇格。その後、美術学部、音楽学部共に西京区大枝沓掛という街外れに移転した(沓掛キャンパス)。当時は近くに洛西ニュータウンが広がり、京都市営地下鉄の延伸で一帯が栄えると予想されていたのだが、地下鉄の延伸計画が白紙に戻り、ニュータウンも転出超過で、寂しい場所となっていった。美術学部は、自然豊かな方が風景画の題材が豊富ということで、多摩美や武蔵美などの例を挙げるまでもなく、郊外にあった方が有利な点もあるのだが(上野の東京芸術大学など、開けた街にある場合もあるが)、音楽学部は、例えば学内公演を行おうとした際、交通が不便な場合、よっぽど親しい人でない限り聴きに来てくれない。沓掛キャンパスはバスしか交通手段がなかったため、とにかく人が呼べないのがネックだった。だが、新しいキャンパスは京阪七条駅からもJR京都駅からも徒歩圏内であり(両方の駅の丁度中間地点にある)、集客の心配はしないで済むようになったと思われる。

堀場信吉記念ホールに名を冠する堀場信吉(ほりば・しんきち)は、京都帝国大学出身の物理学者であり、京都では名の知れた企業である堀場製作所の創業者、堀場雅夫の父親でもあるのだが、京都市立音楽短期大学の初代学長であった。

移転した京都市立芸術大学のキャンパスであるが、敷地がそれほど広くないということもあって、完全なビルキャンパスである。京都市内が建物の高さ規制があるのでビルというほどの高さもない建物によって形成されている。庭のようなスペースがほとんどないため、専門学校の校舎のようでもあり、大学のキャンパスと聞いて思い浮かべるような広大な敷地とお洒落な建物を期待する人には合わないような気がする。周囲には自然はないので、美術学部の学生は東山などに写生に出掛ける必要があるだろう。幸い、遠くはない。

堀場信吉記念ホールであるが、敷地が余り広くないところに建てたということもあってか、客席がかなりの急傾斜である。これまで入ったことのあるホールの中で客席の傾斜が最もきついホールと見て間違いないだろう。そのため、天上の高さはある程度あるが、客席の奥行きはそれほどなく、全ての席に音が届きやすくなっている。音響設計などは十分いされているようには思えないが、音に不満を持つ人は余りいないだろう。一方、そのために犠牲になっている部分もあり、ホワイエが狭く、また興行用のホールではなく、あくまでも大学の講堂メインで建てられているため、トイレが少なく、休憩時間には長蛇の列が出来る。使い勝手が良いホールとは言えないようである(その後、解決法が考案されたようである)。外部貸し出しについてだが、ロームシアター京都や京都コンサートホールがあるのに、わざわざ堀場信吉記念ホールを借りたいという団体がそう多いとも思えないため、基本的には京都市立芸術大学専属ホールとして機能していくものと思われる。

 

今回のモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、タイトル通り、京都市立芸術大学大学院声楽専攻の学生の発表の場をして設けられたものである。おそらく声楽専攻の全学生が出演すると思われるのだが、役が足りないため、ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラやツェルリーナは3人が交代で演じるという荒技が用いられていた。逆に男声歌手は数が足りないので、客演の歌手が3名招かれている。基本的に修士課程在学者が出演。博士課程1回生で騎士長役の大西凌は客演扱いとなっている。アンサンブルキャストは大学院声楽専攻の学生では数が足りないので、全員、学部の学生である。
オーケストラも京都市立芸術大学の在学生によって組織されているが、学部と修士学生の混成団体である。中には客演の人もいるが、どういう経緯で客演の話が回ってきたのかは不明である。
レチタティーボを支えるチェンバロは、学生ではなく、京都市立芸術大学音楽学部非常勤講師の越知晴子が務めている。

スタッフには指導教員の名前も記されているのだが、阪哲朗の名が目を引く。

今回の指揮者は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの指揮者として知られる大川修司。京都市立芸術大学非常勤講師でもある。

演出は、久恒秀典。国際基督教大学で西洋音楽史を専攻し、東宝演劇部を経て1994年にイタリア政府奨学生としてボローニャ大学、ヴェネツィア大学、マルチェッロ音楽院でオペラについて学び、ヴェネト州ゴルドーニ劇場演劇学校でディプロマを取得。同劇場やフェニーチェ劇場、ミラノ・カルカノ劇場などの公演に参加。2004年にも文化庁芸術家在外研究員に選ばれている。
現在は、新国立劇場オペラ研究所、東京藝術大学、東京音楽大学、京都市立芸術大学の非常勤講師を務める。

バロックティンパニを使用しており、ピリオドを意識した演奏であるが、弦楽はビブラートを控えめにしているのが確認出来たものの、「ザ・ピリオド」という音色にはなっておらず、演奏スタイルの違いにはそれほどこだわっていないように感じられた。
冒頭の序曲にもおどろおどろしさは余り感じられず、音楽による心理描写よりも音そのものの響きを重視したような演奏。個人的にはもっとドラマティックなものが好きであるが、これが普段は声楽の指揮者である大川のスタイルであり、限界なのかも知れない。

 

公立大学による公演で、セットにお金は余り掛けられないという事情もあると思われるが、舞台装置は比較的簡素で、照明なども大仰になりすぎるなど、余り効果的とはいえないようである。騎士長の顔色については、明らかに色をなくしていると歌っているはずだが、衝撃度を増すための赤い照明を使ったため、歌詞の意味が分かりにくくなっていた。

この芝居は、ドン・ジョヴァンニがドンナ・アンナを強姦しようとしたところから始まるのだが、ドン・ジョヴァンニとドンナ・アンナが初めて舞台に現れた時は、二人は離れており、たまたまドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニを見つけて腕を掴むという展開になっていたが、おそらくだが、ドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニはもっと近くにいたはずである。でないと、自分を犯そうとした人物がドン・ジョヴァンニだと分からないはずだからである。細かいことだが、理屈が通らないところは気になる。

女たらしのドン・ジョヴァンニ。ドンナ・アンナに関しては力尽くであったが、それ以外は魅力でベッドに持ち込んだらしいことがエルヴィーラの話によって分かる。ドン・ジョヴァンニに捨てられ、精神のバランスを崩したエルヴィーラ。復讐のためにドン・ジョヴァンニを追っているが、再び彼に魅せられることになる。エルヴィーラだけが特別なのではなく、基本的にはドン・ジョヴァンニは、少なくとも表面上は紳士的に振る舞い、優しいのであろう。ドン・ジョヴァンニは博愛の精神を信奉しており、スカートをはいている人物なら、老いも若きも、美醜も一切差別しないという人物である。男が女装している場合はどうなのか分からないが(歴史的には男性の一番の魅力が脚線美であり、男がスカートをはく文化を持つ時代なども存在した)。やっていることは外道でも、それ自体が100%悪とも断言は出来ない。騎士長殺しは別として。
一方で、ドン・ジョヴァンニが憎まれるのは、「愛する愛する」言っておきながら、相手からの愛を一向に受け入れないからではないのか。エルヴィーラに対する態度を見るとそんな気がしてならない。一方的な愛など罪以外のなにものでもない。というわけで地獄落ちも納得である。

まだ若い大学院生による演技と歌唱であるが、難関をくぐり抜けてきた実力者であるためか、プロと比べず、純粋に作品の登場人物として見れば、十分にリアルな存在として舞台上に立つことが出来ていたように思う。ただ、現時点では、「オペラ歌手はあくまで歌手なのだから、どんな場面でも歌う体勢を優先させるのが基本」であるが、今後はもっと舞台俳優の演技に近づいていきそうな予感もある。例えば、オペラ歌手と舞台俳優が「共演しよう」となった時に、オペラ歌手が舞台俳優のようなナチュラルな演技が出来ないため浮くという可能性も考えられる。それでも「オペラ歌手はオペラ歌手」で行くのか、「ミュージカル俳優は舞台俳優と遜色ない演技が出来るのだから」オペラ歌手にも相当のものが求められるのか。これは日本語のオペラが増えてきたために明らかになった問題でもある。

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2025年2月22日 (土)

コンサートの記(889) 柴田真郁指揮大阪交響楽団第277回定期演奏会「オペラ・演奏会形式シリーズ Vol.3 “運命の力”」 ヴェルディ 歌劇「運命の力」全曲

2025年2月9日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後3時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、大阪交響楽団の第277回定期演奏会「オペラ・演奏会形式シリーズ Vol.3 “運命の力”」を聴く。ヴェルディの歌劇「運命の力」の演奏会形式での全曲上演。
序曲や第4幕のアリア「神よ平和を与えたまえ」で知られる「運命の力」であるが、全曲が上演されることは滅多にない。

指揮は、大阪交響楽団ミュージックパートナーの柴田真郁(まいく)。大阪府内のオペラ上演ではお馴染みの存在になりつつある指揮者である。1978年生まれ。東京の国立(くにたち)音楽大学の声楽科を卒業。合唱指揮者やアシスタント指揮者として藤原歌劇団や東京室内歌劇場でオペラ指揮者としての研鑽を積み、2003年に渡欧。ウィーン国立音楽大学のマスターコースでディプロマを獲得した後は、ヨーロッパ各地でオペラとコンサートの両方で活動を行い、帰国後は主にオペラ指揮者として活躍している。2010年五島記念文化財団オペラ新人賞受賞。

出演は、並河寿美(なみかわ・ひさみ。ソプラノ。ドンナ・レオノーラ役)、笛田博昭(ふえだ・ひろあき。テノール。ドン・アルヴァーロ役)、青山貴(バリトン。ドン・カルロ・ディ・ヴァルガス役)、山下裕賀(やました・ひろか。メゾソプラノ。プレツィオジッラ役)、松森治(バス。カラトラーヴァ侯爵役)、片桐直樹(バス・バリトン。グァルディアーノ神父役)、晴雅彦(はれ・まさひこ。バリトン。フラ・メリトーネ役)、水野智絵(みずの・ちえ。ソプラノ。クーラ役)、湯浅貴斗(ゆあさ・たくと。バス・バリトン。村長役)、水口健次(テノール。トラブーコ役)、西尾岳史(バリトン。スペインの軍医役)。関西で活躍することも多い顔ぶれが集まる。
合唱は、大阪響コーラス(合唱指揮:中村貴志)。

午後2時45分頃から、指揮者の柴田真郁によるプレトークが行われる予定だったのだが、柴田が「演奏に集中したい」ということで、大阪響コーラスの合唱指揮者である中村貴志がプレトークを行うことになった。中村は、ヴェルディがイタリアの小さな村に生まれてミラノで活躍したこと、最盛期には毎年のように新作を世に送り出していたことなどを語る。農場経営などについても語った。農場の広さは、「関西なので甲子園球場で例えますが、136個分」と明かした。そして「運命の力」の成立過程について語り、ヴェルディが農園に引っ込んだ後に書かれたものであること、オペラ制作のペースが落ちてきた時期の作品であることを紹介し、「運命の力」の後は、「ドン・カルロ」、「アイーダ」、「シモン・ボッカネグラ」、「オテロ」、「ファルスタッフ」などが作曲されているのみだと語った。
そして、ヴェルディのオペラの中でも充実した作品の一つであるが、「運命の力」全曲が関西で演奏されるのは約40年ぶりであり、更に原語(イタリア語)上演となると関西初演になる可能性があることを示唆し(約40年前の上演は日本語訳詞によるものだったことが窺える)、歴史的な公演に立ち会うことになるだろうと述べる。

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柴田真郁は、高めの指揮台を使用して指揮する。ザ・シンフォニーホールには大植英次が特注で作られた高めの指揮台があるが、それが使われた可能性がある。歌手が真横にいる状態で指揮棒を振るうため、普通の高さの指揮台だと歌手の目に指揮棒の先端が入る危険性を考えたのだろうか。詳しい事情は分からないが。
歌手は全員が常にステージ上にいるわけではなく、出番がある時だけ登場する。レオノーラ役の並河寿美は、第1幕では紫系のドレスを着ていたが、第2幕からは修道院に入るということで黒の地味な衣装に変わって下手花道での歌唱、第4幕では黒のドレスで登場した。

今日のコンサートマスターは、大阪交響楽団ソロコンサートマスターの林七奈(はやし・なな)。フォアシュピーラーは、アシスタントコンサートマスターの里屋幸。ドイツ式の現代配置での演奏。第1ヴァイオリン12サイズであるが、12人中10人が女性。第2ヴァイオリンに至っては10人全員が女性奏者である。日本のオーケストラはN響以外は女性団員の方が多いところが多いが、大響は特に多いようである。ステージ最後列に大阪響コーラスが3列ほどで並び、視覚面からティンパニはステージ中央よりやや下手寄りに置かれる。打楽器は下手端。ハープ2台は上手奥に陣取る。第2幕で弾かれるパイプオルガンは原田仁子が受け持つ。

日本語字幕は、パイプオルガンの左右両サイドの壁に白い文字で投影される。ポディウムの席に座った人は字幕が見えないはずだが、どうしていたのかは分からない。

ヴェルディは、「オテロ(オセロ)」や「アイーダ」などで国籍や人種の違う登場人物を描いているが、「運命の力」に登場するドン・アルヴァーロもインカ帝国王家の血を引くムラート(白人とラテンアメリカ系の両方の血を引く者)という設定である。「ムラート」という言葉は実際に訳詞に出てくる。
18世紀半ばのスペイン、セビリア。カストラーヴァ侯爵の娘であるドン・レオノーラは、ドン・アルヴァーロと恋に落ちるが、アルヴァーロがインカ帝国の血を引くムラートであるため、カストラーヴァ侯爵は結婚を許さず、二人は駆け落ちを選ぼうとする。侍女のクーラに父を裏切る罪の意識を告白するレオノーラ。
だが、レオノーラとアルヴァーロが二人でいるところをカストラーヴァ侯爵に見つかる。アルヴァーロは敵意がないことを示すために拳銃を投げ捨てるが、あろうことが暴発してカストラーヴァ侯爵は命を落とすことに。
セビリアから逃げた二人だったが、やがてはぐれてしまう。一方、レオノーラの兄であるドン・カルロは、父の復讐のため、アルヴァーロを追っていた。
レオノーラはアルヴァーロが南米の祖国(ペルーだろうか)に逃げて、もう会えないと思い込んでおり、修道院に入ることに決める。
第3幕では、舞台はイタリアに移る。外国人部隊の宿営地でスペイン部隊に入ったアルヴァーロがレオノーラへの思いを歌う。彼はレオノーラが亡くなったと思い込んでいた。アルヴァーロは変名を使っている。アルヴァーロは同郷の将校を助けるが、実はその将校の正体は変名を使うカルロであった。親しくなる二人だったが、ふとしたことからカルロがアルヴァーロの正体に気づき、決闘を行うことになるのだった。アルヴァーロは決闘には乗り気ではなかったが、カルロにインカの血を侮辱され、剣を抜くことになる。
第4幕では、それから5年後のことが描かれている。アルヴァーロは日本でいう出家をしてラファエッロという名の神父となっていた。カルロはラファエッロとなったアルヴァーロを見つけ出し、再び決闘を挑む。決闘はアルヴァーロが勝つのだが、カルロは意外な復讐方法を選ぶのだった。

「戦争万歳!」など、戦争を賛美する歌詞を持つ曲がいくつもあるため、今の時代には相応しくないところもあるが、時代背景が異なるということは考慮に入れないといけないだろう。当時はヨーロッパ中が戦場となっていた。アルヴァーロとカルロが参加したのは各国が入り乱れて戦うことになったオーストリア継承戦争である。戦争と身内の不和が重ねられ、レオノーラのアリアである「神よ平和を与えたまえ」が効いてくることになる。

 

ヴェルディのドラマティックな音楽を大阪交響楽団はよく消化した音楽を聴かせる。1980年創設と歴史がまだ浅いということもあって、淡泊な演奏を聴かせることもあるオーケストラだが、音の威力や輝きなど、十分な領域に達している。関西の老舗楽団に比べると弱いところもあるかも知れないが、「運命の力」の再現としては「優れている」と称してもいいだろう。

ほとんど上演されないオペラということで、歌手達はみな譜面を見ながらの歌唱。各々のキャラクターが良く捉えられており、フラ・メリトーネ役の晴雅彦などはコミカルな演技で笑わせる。
単独で歌われることもある「神よ平和を与えたまえ」のみは並河寿美が譜面なしで歌い(これまで何度も歌った経験があるはずである)、感動的な歌唱となっていた。

演出家はいないが、歌手達がおのおの仕草を付けた歌唱を行っており、共演経験も多い人達ということでまとまりもある。柴田真郁もイタリアオペラらしいカンタービレと重層性ある構築感を意識した音楽作りを行い、演奏会形式としては理想的な舞台を描き出していた。セットやリアリスティックな演技こそないが、音像と想像によって楽しむことの出来る優れたイマジネーションオペラであった。ザ・シンフォニーホールの響きも大いにプラスに働いたと思う。

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2025年2月11日 (火)

コンサートの記(886) 日本シベリウス協会創立40周年記念 シベリウス オペラ「塔の乙女」(日本初演。コンサート形式)ほか 新田ユリ指揮

2024年11月29日 東京都江東区の豊洲シビックセンターホールにて

東京へ。豊洲シビックセンターホールで、シベリウス唯一のオペラ「塔の乙女」の日本初演を聴くためである・
劇附随音楽などはいくつも書いているシベリウスであるが、オペラを手掛けているというイメージを持つ人はかなり少ないと思われる。「塔の乙女」はシベリウスがまだ若い頃に書かれたもので、初演後長い間封印されていた。1981年にようやく再演が行われたという。
実は、シベリウス同様にほとんどオペラのイメージのない指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ(実際には、「フィデリオ」やミュージカルになるが「ウエスト・サイド・ストーリー」などを指揮している)が「塔の乙女」を録音しており、これが最も手に入りやすい「塔の乙女」のCDとなっている。

 

豊洲シビックセンターは、江東区役所の特別出張所や文化センター、図書館などからなる複合施設で、2015年にオープン。ホールは5階にある。音楽イベントの開催なども多いようだが、音楽専用ではなく多目的ホールである。それほど大きくない空間なので、おそらく音響設計などもされていないだろう。ステージの背景はガラス張りになっていて、豊洲の街のビルディングが見えるが、遮蔽することも出来るようになっている。本番中は閉じて屋外の景色は見えにくくなっていた。

 

今回の演奏会は、日本シベリウス協会の創立40周年を記念して行われるものである。
オペラ「塔の乙女」は、上演時間40分弱であり、それだけでは有料公演としては短いので、前半に他のシベリウス作品も演奏される。

曲目は、第1部が、コンサート序曲、鈴木啓之のバリトンで「フリッガに」と「タイスへの賛歌」(いずれも小沼竜之編曲)、駒ヶ嶺ゆかりのメゾソプラノで「海辺のバルコニーで」(山田美穂編曲)と「アリオーソ」。第2部がオペラ「塔の乙女」(コンサート形式)である。スウェーデン語の歌唱であるが日本語字幕表示はなく、聴衆は無料パンフレットに掲載された歌詞対訳を見ながら聴くことになる(客席は暗くはならない)。

日本初演作品ということでチケットは完売御礼である。

 

指揮は、北欧音楽のスペシャリストで、日本シベリウス協会第3代会長の新田ユリ。彼女は日本・フィンランド新音楽協会の代表も務めている。

管弦楽団は創立40周年記念オーケストラという臨時編成のもの(コンサートミストレス・佐藤まどか)。第1ヴァイオリン4、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがいずれも3、コントラバス2という小さい編成の楽団だが、「塔の乙女」初演時のオーケストラ編成はこれよりも1人少ないものだったそうである。

 

午後6時30分頃より、新田ユリによるプレトークがある。
シベリウスとオペラについてだが、シベリウスはベルリンやウィーンに留学していた時代にワーグナーにかぶれたことがあるそうで、「自分もあのようなオペラを書いてみたい」と思い立ち、「船の建造」という歌劇作品に取り組むことになったのだが、結局、筆が止まってしまい、未完。その素材を生かして「レンミンカイネン」組曲 が作曲された。「レンミンカイネン」組曲の中で最も有名な交響詩「トゥオネラの白鳥」は、元々は歌劇「船の建造」の序曲として書かれたものだという。
その後、ヘルシンキ・フィルハーモニー・ソサエティーからチャリティーコンサートの依頼を行けたシベリウスは、オペラ「塔の乙女」を完成させる。初演は、1896年11月7日。この時点ではシベリウスは「クレルヴォ」以外の交響曲を1曲も書いていない。指揮はシベリウス本人が行った。演奏会形式であったという。しかし、このオペラはシベリウスが半ば取り下げる形で封印してしまい、その後、1世紀近く知られざる曲となっていた。オペラにしては短いということと、シンプルなストーリー展開が作品の完成度を下げているということもあったのだろう。なお、台本はラファエル・ヘルツベリという人が書いており、先にも書いたとおりスウェーデン語作品である。これ以降、シベリウスは交響曲の作曲に本格的に取り組むようになり、オペラを書くことはなかった。
シベリウスはスウェーデン系フィンランド人で、母語はスウェーデン語である。当時のフィンランドはロシアの支配下にあったが、ロシア以前にはスウェーデンの領地であったことからスウェーデン系が上流階層を占めていた。ただ時代的には国民がフィンランド人としてのアイデンティティーを高めていた時期であり、シベリウスもフィンランド語の学校で学んでいる(ただ彼は夢想家で勉強は余り好きではなく、フィンランド語をスウェーデン語並みに操ることは終生出来なかった)。シベリウスの歌曲は多いが、大半はスウェーデン語の詩に旋律を付けたものであり、フィンランド語、英語、ドイツ語の歌曲などが少しずつある。

今日の1曲目として演奏されるコンサート序曲は、フィンランドの指揮者兼作曲家のトゥオマス・ハンニカイネンが、2018年に「塔の乙女」のスコアを研究しているうちに、矢印など意味ありげな記号を辿り、それが一つの楽曲になることを発見したもので、2021年に現代初演がなされている。1900年4月7日に、コンサート序曲が初演され、それが「塔の乙女」由来のものであることが分かっているのだが、総譜などは見つかっておらず、幻の楽曲となっていた。
一応、制約があり、2025年いっぱいまでは、トゥオマス・ハンニカイネンにのみ指揮する権利があるのだが、今回、日本シベリウス協会が「塔の乙女」の日本初演に合わせて演奏したいと申し出たところ特別に許可が下りたそうで、世界で2番目に演奏することが決まったという。

世界レベルで見るとシベリウス人気が高い国に分類される日本だが、それでも北欧音楽はドイツやフランスの音楽に比べるとマイナーである。ただ日本シベリウス協会の会員にはシベリウスや北欧の作品に熱心に取り組んでいる人が何人もいるため、オペラ作品なども上演可能になったそうである。

 

1曲目のコンサート序曲。日本初演である。創立40周年記念オーケストラは、チェロが客席寄りに来るアメリカ式の現代配置をベースにしている。楽団員のプロフィールが無料パンフレットに載っているが、日本シベリウス協会の会員も含まれている。現役のプロオーケストラの奏者や元プロのオーケストラ団員だった人もいれば、フリーの人もいる。有名奏者としては舘野泉の息子であるヤンネ舘野(山形交響楽団第2ヴァイオリン首席、ヘルシンキのラ・テンペスタ室内管弦楽団コンサートマスター兼音楽監督)が第2ヴァイオリン首席として入っている。
コンサートミストレスの佐藤まどかは、東京藝術大学大学院博士後期課程を修了。シベリウスの研究で博士号を取得している。シベリウス国際ヴァイオリンコンクールでは3位に入っている。上野学園短期大学准教授(上野学園大学は廃校になったが短大は存続している)。日本シベリウス協会理事。
シベリウスがまだ自身の作風を確立する前の作品であり、グリーグに代表される他の北欧の作曲家などに似た雰囲気を湛えている。この頃のシベリウスはチャイコフスキーにも影響を受けているはずだが、この曲に関してはチャイコフスキー的要素はほとんど感じられない。後年のシベリウス作品に比べるとメロディー勝負という印象を受ける。

 

バリトンの鈴木啓之による「フリッガに」と「タイスへの賛歌」。神秘的な作風である。
鈴木啓之は、真宗大谷派の名古屋音楽大学声楽科および同大学大学院を修了。フィンランド・ヨーチェノ成人大学でディプロマを取得している。第8回大阪国際音楽コンクール声楽部門第3位(1位、2位該当なしで最高位)を得た。

 

駒ヶ嶺ゆかりによる「海辺のバルコニーで」と「アリオーソ」。神秘性や悲劇性を感じさせる歌詞で、メロディーも哀切である。
駒ヶ嶺ゆかりも、真宗大谷派の札幌大谷短期大学(音楽専攻がある)を卒業。同学研究科を修了。1998年から2001年までフィンランドに留学し、舘野泉らに師事した。東京でシベリウスの歌曲全曲演奏会を達成している。北海道二期会会員。

 

オペラ「塔の乙女」。合唱は東京混声合唱団が務める。
配役は、乙女に前川朋子(ソプラノ)、恋人に北嶋信也(テノール)、代官に鈴木啓之(バリトン)、城の奥方に駒ヶ嶺ゆかり(メゾソプラノ)。

前川朋子は、国立(くにたち)音楽大学声楽科卒業後、ドイツとイタリアに留学。フィンランドの歌曲に積極的に取り組んでいる。東京二期会、日本・フィンランド新音楽協会、日本シベリウス協会会員。

北嶋信也は、東海大学教養学部芸術学科音楽学課程卒業、同大学大学院芸術学研究科音響芸術専攻修了。二期会オペラ研修所マスタークラス修了時に優秀賞及び奨励賞を受賞。東海大学非常勤講師、二期会会員。
東海大学出身のクラシック音楽家は比較的珍しい。東海大学には北欧学科があり(元々は文学部北欧学科だったが、現在は文化社会学部北欧学科に改組されている)、言語以外の北欧を学べる日本唯一の大学となっている。ただ、そのことと今回の演奏会に出演していることに関係があるのかは分からない。

 

「塔の乙女」のあらすじ。
乙女が岸辺で花を摘んでいると、代官が現れ、娘をさらって塔に閉じ込めてしまう。乙女は嘆き、歌う。乙女が姿を消したことで彷徨っている恋人は乙女の歌声を耳にし、乙女が塔に閉じ込められていることを知る。代官と恋人の一騎打ちになろうとしたところで城の奥方が現れ(代官は偉そうに見えるが、身分としては城の奥方の方が上である)、乙女を解放した上で代官を捕縛するよう家臣に命じる。かくて乙女と恋人はハッピーエンド、という余りにも単純なストーリーである。一種のメルヘンであるが、代官がなぜそれほど乙女に惚れ込むのか、恋人と乙女はそれまでどういう関係だったのかなど、細部についてはよく分からないことになっている。
本格的なオペラというよりも余興のような作品として台本が書かれ、作曲が行われたということもあるだろう。
このテキストだと確かに受けないだろうなとは思う。見方を変えて、これは若き芸術の内面を描いたものであり、芸術家の中に眠っている才能を葛藤を経ながら自らの手で発掘していく話として見ると多少は面白く感じられるかも知れない。演奏会形式でしか上演されたことはないようだが、いわゆるオペラとして上演する時には演出を工夫してそういう見方が出来ても良いようにするのも一つの手だろう。
出来れば字幕付きでの上演が良かったのだが、それでも楽しむことは出来た。
シベリウスの音楽は抒情美があり、ピッチカートが心の高鳴りを表すなど、心理描写にも秀でている。ストーリーに弱さがあるため、今後も単独での上演は難しいかも知れないが、他の短編もしくは中編オペラと組み合わせての上演なら行える可能性はある。

今日は前から2番目の席ということもあり、歌手達の声量ある歌声を存分に楽しむことが出来た。

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2025年2月 7日 (金)

コンサートの記(885) びわ湖ホール オペラへの招待 クルト・ヴァイル作曲「三文オペラ」2025

2025年1月26日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 クルト・ヴァイル作曲「三文オペラ」を観る。ジョン・ゲイの戯曲「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」をベルトルト・ブレヒトがリライトした作品で、ブレヒトの代表作となっている。ブレヒトは東ベルリンを拠点に活動した人だが、「三文オペラ」の舞台は原作通り、ロンドンのソーホーとなっている。

セリフの多い「三文オペラ」が純粋なオペラに含まれるのかどうかは疑問だが(ジャンル的には音楽劇に一番近いような気がする)、「マック・ザ・ナイフ」などのスタンダードナンバーがあり、クラシックの音楽家達が上演するということで、オペラと見ても良いのだろう。
ちなみに有名俳優が多数出演するミュージカル版は、白井晃演出のもの(兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール)と宮本亞門演出のもの(今はなき大阪厚生年金会館芸術ホール)の2つを観ている。

実は私が初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」である。高校生の時だった。ジョン・マウチュリ(当時の表記は、ジョン・モーセリ)の指揮、RIASベルリン・シンフォニエッタの演奏、ウテ・レンパーほかの歌唱。当時かなり話題になっており、CD1枚きりで、オペラのCDとしては安いので購入したのだが、高校生が理解出来る内容ではなかった。

 

栗山晶良が生前に手掛けたオペラ演出を復元するプロジェクトの中の1本。演出:栗山晶良、再演演出:奥野浩子となっている。

振付は、小井戸秀宅。

 

園田隆一郎指揮ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の演奏。今日は前から2列目での鑑賞だったので、オーケストラの音が生々しく聞こえる。オルガン(シンセサイザーを使用)やバンドネオンなど様々な楽器を使用した独特の響き。

出演はWキャストで、今日は、市川敏雅(メッキー・メッサー)、西田昂平(にしだ・こうへい。ピーチャム)、山内由香(やまうち・ゆか。ピーチャム夫人)、高田瑞希(たかだ・みずき。ポリー)、有ヶ谷友輝(ありがや・ともき。ブラウン)、小林由佳(ルーシー)、岩石智華子(ジェニー)、林隆史(はやし・たかし。大道歌手/キンボール牧師)、有本康人(フィルチ)、島影聖人(しまかげ・きよひと)、五島真澄(男性)、谷口耕平、奥本凱哉(おくもと・ときや)、古屋彰久、藤村江李子、白根亜紀、栗原未知、溝越美詩(みぞこし・みう)、上木愛李(うえき・あいり)。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが基本である。
オーケストラピットの下手端に橋状になった部分があり、ここを渡って客席通路に出入り出来るようになっている。有効に利用された。

ロンドンの乞食ビジネスを束ねているピーチャム(今回は左利き。演じる西田昂平が左利きなのだと思われる)。いわゆる悪徳業者であるが、悪党の親玉であるメッキー・メッサーが自身の娘であるポリーと結婚しようとしていることを知る。メッキー・メッサーは、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)の警視総監ブラウンと懇意であり、そのために逮捕されないのだが、ピーチャムは娘を取り戻すためにブラウンにメッサーとの関係を知っていることを明かして脅す。
追われる身となったメッサーは、部下達に別れを告げ、ロンドンから出ることにするが、娼館に立ち寄った際に逮捕されてしまう。牢獄の横でメッサーに面会に来たポリーとブラウンの娘ルーシーは口論に。その後、上手く逃げおおせたメッサーであるが、再び逮捕されて投獄。遂には絞首刑になることが決まるのだが……。

クルト・ヴァイル(ワイル)は、いかにも20世紀初頭を思わせるようなジャンルごちゃ混ぜ風の音楽を書く人だが、「マック・ザ・ナイフ(殺しのナイフ)」はジャズのスタンダードナンバーにもなっていて有名である。今回の上演でもエピローグ部分も含めて計4度歌われる。エピローグ的な歌唱では、びわ湖ホールを宣伝する歌詞も特別に含まれていた。
また「海賊ジェニーの歌」も比較的有名である。

ブレヒトというと、「異化効果」といって、観客が登場人物に共感や没入をするのではなく、突き放して見るよう仕向ける作劇法を取っていることで知られるが、今回は特別に「異化効果」を狙ったものはない。ただ、オペラ歌手による日本語上演であるため、セリフが強く、一音一音はっきり発音するため、感情を込めにくい話し方となっており、そこがプロの俳優とは異なっていて、「異化効果」に繋がっていると見ることも出来る。
白井晃がミュージカル版「三文オペラ」を演出した際には、ポリー役に篠原ともえを起用。篠原ともえは今はいい女風だが、当時はまだ不思議ちゃんのイメージがあった頃、ということでヒロインっぽさゼロでそこが異化効果となっていた。今日、ポリーを演じたのは歌劇「竹取物語」で主役のかぐや姫を1公演だけ歌った高田瑞希。彼女はセリフも歌も身のこなしも自然で、いかにもオペラのヒロインといった感じであった。6年前に初めて見た時は、京都市立芸術大学声楽科に通うまだ二十歳の学生で、幼い感じも残っていたが、立派に成長している。

園田隆一郎指揮するザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団も、ヴァイルのキッチュな音楽を消化して表現しており、面白い演奏となっていた。

「セツアン(四川)の善人」などでもそうだが、ブレヒトは、ギリシャ悲劇の「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」を再現しており、それまでのストーリーをぶち破るように強引にハッピーエンドに持って行く。これも一種の異化効果である。

 

「三文オペラ」は、オペラ対訳プロジェクトの一作に選ばれており、クルト・ヴァイルの奥さんであったロッテ・レーニャなどの歌唱による音源を日本語字幕付きで観ることが出来る。

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2025年1月21日 (火)

コンサートの記(880) 神戸文化ホール開館50周年記念事業 ヴェルディ:オペラ「ファルスタッフ」

2024年12月21日 大倉山の神戸文化ホールにて

午後2時から、大倉山にある神戸文化ホールで、神戸文化ホール開館50周年記念事業 ヴェルディ:オペラ「ファルスタッフ」を観る。ジュゼッペ・ヴェルディ最後のオペラで、唯一の喜劇成功作となっている(ヴェルディは喜劇は好きであったが、若い頃に発表した「1日だけの王様」が大失敗に終わり、以後は喜劇に手を出せないでいた)。
「ファルスタッフ」の原作はシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」で、この作品はシェイクスピア最大の駄作と言われている。そもそも正式な公演用ではなく、王室での余興用に書かれた本である可能性が高いそうだ。それでもオットー・ニコライがオペラ化しており、ヴェルディもボーイトが書き換えた「ファルスタッフ」をオペラの題材に選んでいる。タイトルロールのファルスタッフは、元騎士だがビア樽体型の悪党であり、二人の女性を同時に唆そうとする食えない男である。

指揮は佐藤正浩、演出は岩田達宗。出演は、黒田博(ファルスタッフ)、西尾岳史(フォード)、小堀勇介(フェルトン)、谷口文敏(カイウス)、福西仁(じん。バルドルフォ)、松森治(ピストーラ)、老田裕子(アリーチェ)、福原寿美枝(クイックリー夫人)、内藤里美(ナンネッタ)、林真衣(メグ。体調不良の山田愛子の代役)、森本絢子、福嶋勲ほか。

管弦楽は神戸市室内管弦楽団。コンサートマスターの高木和弘が体調不良で降板したため、森岡聡が代わりにコンサートマスターを務める。
神戸市室内管弦楽団は、1981年に神戸市により神戸室内合奏団として発足。当初は弦楽アンサンブルであったが、2018年に管楽奏者を正式に加入させて神戸市室内管弦楽団に改称。2021年に鈴木秀美を音楽監督に迎えている。鈴木さんとはホワイエですれ違った。
神戸文化ホールの専属団体である。なお、神戸市にはフル編成のプロオーケストラは存在しない。

合唱は神戸市室内合唱団。神戸市が設立したプロの合唱団である。

神戸文化ホールは開館50周年ということで私より一つ上で、東京・渋谷区神南のNHKホールと同い年である。この時代に建てられたホールは比較的多いが、その多くが寿命を迎えており、1975年竣工の神奈川県民ホール(NHKホールを模したホールである)は無期限休館に入る予定である。神戸文化ホールも閉鎖して、三宮に新しいホールを建てる計画があり、当初は、来年に新ホールがオープンする予定であったが、計画が遅れている。
古いホールなのでホワイエなども手狭で、客席間も狭いので移動に難がある。響き自体は悪くはない。階段が多く、エレベーターなどはないのでバリアフリーには対応していない。

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指揮者の佐藤正浩は初めて聞く名前だが、福島県出身で東京藝術大学に学び、ジュリアード音楽院のピアノ伴奏科に進んで修士課程を修了。歌劇場のコレペティトゥア(ピアノ伴奏者)として欧米で活躍した後にオペラ指揮者に転向。神戸市混声合唱団音楽監督、新国立劇場オペラ研修所所長を務めている。オペラ専門の指揮者のようだ。
日本の場合、12月になると有名な指揮者はほぼ全員第九を指揮しているので、第九以外の催しはなかなかオファーが出来ないという事情がある。

昨年の年末には、びわ湖ホール中ホールで「天国と地獄」の演出をしていた岩田達宗。年末には馬鹿騒ぎが似合うということなのか、今年もラストで馬鹿騒ぎがある「ファルスタッフ」を選んでいる。岩田達宗演出の「ファルスタッフ」は、9年前に下野竜也が指揮したものを大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで観たことがある。

本編開始前に、神戸文化ホール開館50周年を祝う吉本新喜劇風寸劇が行われる。

今回は階段状の舞台を用い、回り舞台を用いてガーター亭とウィンザーの光景が交互に現れるようになっている。
字幕もユーモアに富み、「だめよだめだめ」という今では古くなった流行語(以前の下野竜也指揮の公演でも用いられていて、それほど受けていなかったが)なども用いられている。
神戸文化ホールは、左右に花道があり、それを効果的に使っているのだが、ホールの横幅が広いので必要以上に遠くにいるように感じられるところがあった。
滑稽なダンスのような動きを取り入れているのも特徴。ロビンは、9年前の上演同様、大阪音楽大学ミュージカル科出身の森本絢子が務めており、キレのある動きを見せていた。

「メタボ」と呼ばれるファルスタッフ。しかし、ファルスタッフ自身は脂肪があることに誇りを持っているようであり、テムズ川に落とされた時には、脂肪のせいで浮かんで助かったと冗談を言っている。特に意味はないと思われるのだが、何らかのメタファーとして見た場合、あるいは面白いかも知れない。片方が蔑んでいることを片方が誇っているということがあり得るのは「年齢」であろうか。ファルスタッフは若い頃は自称・痩せた美青年だったようである。
そして老年のファルスタッフと対比されるように若い恋人が登場する。

プレトークで岩田達宗は、虐げられた女性像について語っていたが、「ファルスタッフ」は女性が男性に復讐する、それも暴力的でなく成し遂げるという様を描いていることについて触れていた。男性の復讐は暴力的であるが、女性の復讐は必ずしも暴力的ではない。
またヴェルディは奥さんや子どもを相次いで亡くすという悲劇に見舞われているが、奥さんの名前はマルゲリータ、あだ名はメグで、「ファルスタッフ」に登場するメグのモデルになっているのではないかという。メグは、特に何もしないというオペラにあっては珍しい人物である。またヴェルディは家族を描くことに腐心していたとも語っていた。

 

ファルスタッフがアリーチェとメグを同時に誘惑しようとし(恋文を書くが、宛名以外は全て一緒という手抜きである)、アリーチェの夫であるフォードが「泉」という偽名でガーター亭に乗り込んでくるなど、ドタバタの要素が多く、痛い目にあったのに、公園での逢い引きに応じてしまうファルスタッフは滑稽である。
最後の「世の中はみな冗談」は、老境の人間による人間賛歌であり、最後はガーター亭に全ての人が記念写真のように収まるという演出が施されていた(ここが前回の演出とは大きくに違うところであった)。

二幕と三幕の間に岩田さんに挨拶。来年、びわ湖ホールで上演されるコルンゴルトの歌劇「死の都」についても伺ったのだが、びわ湖ホールが出している情報によると岩田さんが栗山昌良の演出を再現するかのように書かれているが、実際は他の人が再現の演出を行うそうで、「何かあった時のためにいるだけ」だそうである。


なお、カーテンコールのみ写真撮影可であった。

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2024年12月26日 (木)

コンサートの記(874) 沼尻竜典 歌劇「竹取物語」2024 大津公演2日目 阪哲朗指揮日本センチュリー交響楽団ほか

2024年11月24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典作曲の歌劇「竹取物語」を観る。約2年ぶりの上演。

びわ湖ホールに行くのも久しぶり。京阪びわ湖浜大津駅で降りてなぎさ公園を抜け、びわ湖ホールまで歩く。良い気分である。

2014年に、横浜みなとみらいホールで、セミ・ステージ形式で初演された歌劇「竹取物語」。指揮者・ピアニストとして活躍している沼尻竜典が初めて手掛けたオペラである。オペラを指揮する経験も豊かな沼尻だけに(ピットで指揮する回数は日本人指揮者の中でもかなり上位にランクされるはずである)オペラの構成や旋律、和音などの知識に長けており、平易でバラエティに富んだ内容の歌劇に仕上げている。

前回は、沼尻による自作自演であったが、今回はびわ湖ホール芸術監督の阪哲朗が指揮を担う。オーケストラは日本センチュリー交響楽団(コンサートマスター:松浦奈々)。オーケストラはステージ上での演奏(古典配置に近いが、金管楽器は上手に斜めに並ぶロシア形式に近く、ティンパニも視覚面の問題で上手端に置かれる)。その周りをエプロンステージが取り囲み、ここで演技が行われるという形式である。
前回はオペラ演出界の重鎮である栗山晶良が演出を手掛け、高齢だというので中村敬一が演出補という形で入ったのだが、栗山は昨年6月に死去。栗山と共に仕事を行うことが多かったびわ湖ホールが、栗山が演出を手掛けたオペラの再上演を行うことを決め、その第1弾が今回の「竹取物語」である。原演出:栗山晶良、演出:中村敬一という表記になっているが、中村は基本的に栗山の演出を踏襲する形であり、自分のカラーは余り表に出していない。栗山演出の再現が目的なのだからそれは当然である。

また、前回はびわ湖ホールのみでの上演だったが、今回は阪哲朗が常任指揮者を務める山形交響楽団が演奏を担う、やまぎん(山形銀行)県民ホールでの山形公演、iichiko総合文化センターでの大分公演(管弦楽:九州交響楽団)、札幌コンサートホールkitara(管弦楽:札幌交響楽団)での公演が加わり、全4公演となっていて、これらのホールの共同制作という形を取っている。東京や関東は敢えて避けられているのかも知れない。

大津公演では、主役のかぐや姫はWキャストで、今日は若手の高田瑞希(たかだ・みずき)が歌う。昨日は砂川涼子のかぐや姫で、砂川は山形、大分、札幌でもかぐや姫を歌う(いずれも1回公演)。高田の出番は今日1回きりだが、それだけに貴重とも言える。ちなみに前回は砂川涼子のかぐや姫を聴いている。
出演はほかに、迎肇聡(むかい・ただとし。翁)、森季子(もり・ときこ。媼)、西田昂平(帝)、有本康人(石作皇子)、大野光星(庫持皇子)、市川敏雅(阿倍御主人)、晴雅彦(はれ・まさひこ。大伴御行)、平欣史(たいら・よしふみ。石上麻呂足)、有ヶ谷友輝(大将・職人)、徳田あさひ(月よりの使者)ほか。合唱は、「竹取物語」合唱団(大津公演のために公募で集まったメンバーからなる。他の場所での公演は、当地の合唱団や有志を中心に編成される予定)。

『竹取物語』は物語の祖(おや)とも呼ばれているが、作者は不明である。紀貫之説などがあるが決定打に欠ける。
竹の中で生まれたかぐや姫が成人して美女となり、多くの貴族が求婚するが、かぐや姫は無理難題を出して、彼らのアプローチを避けようとする。かくてかぐや姫を射止める者は誰も現れず、やがてかぐや姫は自身が月からの使者であることを打ち明け、月へと帰って行く。置き土産として帝に渡したものが、「不死の命を得る」という薬であるが、「かぐや姫のいない世界で生きていても仕方ない」と、帝は駿河国にある大和で最も高い山の頂、つまり月に最も近い場所で不死の薬を燃やした。かくてこの山は不死の山、転じて富士山となったという話である。沼尻竜典は現代語訳したテキストを、特別な脚色はせずにそのまま生かした台本としている。

シャープな音楽性を持ち味とする沼尻の指揮に対して、阪の音楽作りは寄り造形美重視。耳馴染みのない音楽なので、具体的に比較してみないと詳しいことは分からないと思うが、これまでの両者の音楽作りからいって、おそらく傾向そのものの把握は間違っていないと思われる。不協和音を使った現代的な場面から、アコーディオンを使ったシャンソン風音楽、クレイジーキャッツのようなコミカルな要素の多いものや、現代のポップス風などあらゆる要素の音楽が取り込まれている。かぐや姫には、特に高い声が望まれる場面があるが、高田瑞希は無難にこなしていた。

高田瑞希の紹介をしておくと、京都市生まれ。京都少年合唱団出身の若手ソプラノ。京都市立芸術大学声楽科卒業と同時に、真声会賞、京都音楽協会賞、佐々木成子奨励賞を受賞。京都市立芸術大学大学院に進み、声楽専攻を首席で修了。京都市長賞を受賞している。令和2年度青山音楽財団奨学生となっている。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバー。
大学2回生の時に京都市内の御幸町竹屋町の真宗大谷派小野山浄慶寺で行われた「テラの音」に出演しており、「お喋りな子」として紹介されている。その後、京都コンサートホールで行われた京都市立芸術大学音楽学部及び大学院音楽研究科のコンサートで、ホワイエに友達といるのを見掛けたことがある。知り合いに「よ! 久しぶり」などと挨拶していて、やたらと明るそうな子であった。

かぐや姫は罪を犯して月から追放されたという設定である。この時代の女性の罪というと、大抵は色恋沙汰であり、かぐや姫も男性と恋に落ちて断罪されたのだと思われる。月の人々は不死身であるが、そのため子どもを作る必要がない。恋愛などというものは味気ない言い方をしてしまうと、子どもを作るための準備段階。だが不死身で子どもが必要ないとなると、良い感情と思われないであろうことは目に見えている。そこで、月よりも恋愛事情に溢れている地球で一定期間修行し、恋に落ちなければ月に帰れるという約束だったのであろう。かぐや姫が、石作皇子(いしつくりのみこ)、庫持皇子(くらもちのみこ)、右大臣 阿倍御主人(あべのみうし)、大納言 大伴御行(おおとものみゆき)、中納言 石上麻呂足(いそのかみのまろたり)に難題をふっかけるのは、そもそも達成不可能な課題を与えれば、自ずと諦めるだろうという魂胆だったと思われる。とにかく恋愛をしてはいけないのだから。ただ地球の男達は、かぐや姫が予想していたよりも、欲深く、あるいは執念深く、あるいは努力家で、あらゆる手を使って困難を克服しようとする。ほとんどは嘘でかぐや姫に見破られるのであるが。大伴御行のように「わがままな女は嫌い」と歌う人がいたり、石上麻呂足のように命を落とす人も出てくるが、これらはかぐや姫の心理に大きな影響を与えたと思われる。なお、阿倍、大伴、石上(物部)のように、実在の豪族の苗字を持つ人物が登場しており、『竹取物語』の作者と対立関係にあったのではないかとされる場合があるが、これもよく分かっていない。

その後、かぐや姫は帝と歌のやり取りをするようになる。帝を遠ざけてはいたが、やまと心を理解するようになるかぐや姫。次第に月よりも今いる場所が恋しくなるが、帰らなければならない定めなのだった。
かぐや姫の成長を描くというか、「マイ・フェア・レディ」(そしてパロディの「舞妓はレディ」)の原作となった「ピグマリオン」に通じるというべきか、とにかく日本的情調の豊かさを歌い上げる内容になっているのが特徴である。このことが紀貫之原作者説に通じているのかも知れない(紀貫之は『古今和歌集』仮名序で、やまと心と和歌の重要性を記している)。


オーケストラの後方に、横に長い階段状の舞台があり、ここに声楽のメンバーが登場する。また月からの使者が現れるのもこの階段状の舞台である。その上方にスクリーンがあり、ここに竹林や月、内裏などの映像が投影される。大がかりなセットは用いられず、映像で処理されるが、21世紀に書かれたオペラなので、その方が似つかわしいかも知れない。
登場人物の歌と演技も安定していた。


なお、会場には作曲者の沼尻竜典が駆けつけており、阪の紹介を受けて立ち上がって拍手を受けていた。

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2024年11月 9日 (土)

これまでに観た映画より(350) 英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」

2024年6月13日 桂川・洛西口のイオンシネマ京都桂川にて

イオンシネマ京都桂川で、英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。イギリス・ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)で上演されたオペラやバレエを上映するシリーズ。今回は、今年の3月26日に上演・収録された「蝶々夫人」の上映である。最新上演の上映といっても良い早さである。今回の上演は、2003年に初演されたモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエによる演出の9度目の再演である。日本人の所作を専門家を呼んできちんと付けた演出で、そのため、誇張されたり、不自然に思えたりする場面は日本人が見てもほとんどない。

京都ではイオンシネマ京都桂川のみでの上映で、今日が上映最終日である。

指揮はケヴィン・ジョン・エドゥセイ。初めて聞く名前だが、黒人の血が入った指揮者で、活き活きとしてしなやかな音楽を作る。
演奏は、ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団&ロイヤル・オペラ合唱団。
タイトルロールを歌うのは、アルメニア系リトアニア人のアスミク・グリゴリアン。中国系と思われる歌手が何人か出演しているが、日本人の歌手は残念ながら参加していないようである。エンドクレジットにスタッフの名前も映るのだが、スタッフには日本人がいることが分かる。

入り口で、タイムテーブルの入ったチラシを渡され、それで上映の内容が分かるようになっている。まず解説と指揮者や出演者へのインタビューがあり(18分)、第1幕が55分。14分の途中休憩が入り、その後すぐに第2幕ではなくロイヤル・オペラ・ハウスの照明スタッフの紹介とインタビューが入り(13分)、第2幕と第3幕が続けて上映され、カーテンコールとクレジットが続く(98分)。合計上映時間は3時間18分である。

チケット料金が結構高い(今回はdポイント割引を使った)が、映画館で聴く音響の迫力と美しい映像を考えると、これくらいの値がするのも仕方ないと思える。テレビモニターで聴く音とは比べものにならないほどの臨場感である。

蝶々夫人役のアスミク・グリゴリアンの声がとにかく凄い。声量がある上に美しく感情の乗せ方も上手い。日本人の女性歌手も体格面で白人に大きく劣るということはなくなりつつあり、長崎が舞台のオペラということで、雰囲気からいっても蝶々夫人役には日本人の方が合うのだが、声の力ではどうしても白人女性歌手には及ばないというのが正直なところである。グリゴリアンの声に負けないだけの力を持った日本人女性歌手は現時点では見当たらないだろう。

男前だが、いい加減な奴であるベンジャミン・フランクリン・ピンカートンを演じたジョシュア・ゲレーロも様になっており、お堅い常識人だと思われるのだが今ひとつ押しの弱いシャープレスを演じたラウリ・ヴァサールも理想的な演技を見せる。

今回面白いのは、ケート・ピンカートン(ピンカートン夫人)に黒人歌手であるヴェーナ・アカマ=マキアを起用している点。アカマ=マキアはまず影絵で登場し、その後に正体を現す。
自刃しようとした蝶々夫人が、寄ってきた息子を抱くシーンで、その後、蝶々夫人は息子に目隠しをし、小型の星条旗を持たせる。目隠しをされたまま小さな星条旗を振る息子。父親の祖国を讃えているだけのようでありながら、あたかもアメリカの帝国主義を礼賛しているかのようにも見え、それに対する告発が行われているようにも感じられる。そもそも「現地妻」という制度がアメリカの帝国主義の象徴であり、アフリカ諸国や日本もアメリカの帝国主義に組み込まれた国で、アメリカの強権発動が21世紀に入っても世界中で続いているという現状を見ると、問題の根深さが感じられる。
一方で、蝶々夫人の自刃の場面では桜の樹が現れ、花びらが舞う中で蝶々夫人は自らの体を刀で突く。桜の花びらが、元は武士の娘である蝶々夫人の上に舞い落ち、「桜のように潔く散る」のを美徳とする日本的な光景となるが、「ハラキリ」に代表される日本人の「死の美学」が日本人を死へと追いやりやすくしていることを象徴しているようにも感じられる。日本人は何かあるとすぐに死を選びやすく自殺率も高い。蝶々夫人も日本人でなかったら死ぬ必要はなかったのかも知れないと思うと、「死の美学」のある種の罪深さが実感される。

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2024年11月 3日 (日)

コンサートの記(868) 堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」

2024年9月29日 堺東のフェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、堺東のフェニーチェ堺大ホールで、堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つで、オペラ作品の代名詞的作品の一つである。ボーマルシェの原作戯曲をダ・ポンテがオペラ台本化。その際、タイトルを変更している。原作のタイトルは、「ラ・フォル・ジュルネ(狂乱の日)またはフィガロの結婚」で、有名な音楽祭の元ネタとなっている。
指揮はデリック・イノウエ、演奏は堺市を本拠地とする大阪交響楽団。演出は堺シティオペラの常連である岩田達宗(たつじ)。チェンバロ独奏は碇理早(いかり・りさ)。合唱は堺シティオペラ記念合唱団。

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午後1時30分頃から、演出家の岩田達宗によるプレトークがある。なお、プレトーク、休憩時間、カーテンコールは写真撮影可となっているのだが、岩田さんは「私なんか撮ってもどうしようもないんで、終わってから沢山撮ってください」と仰っていた。

岩田さんは、字幕を使いながら解説。「オペラなんて西洋のものじゃないの? なんで日本人がやるのと思われるかも知れませんが」「舞台はスペイン。登場するのは全員スペイン人です」「原作はフランス。フランス人がスペインを舞台に書いています」「台本はイタリア語。イタリア人がフランスの作品をイタリア語のオペラ台本にしています」「作曲はオーストリア人」と一口に西洋と言っても様々な国や文化が融合して出来たのがオペラだと語る。ボーマルシェの原作、「フィガロの結婚 Le Mariage de Figaro」が書かれたのは、1784年。直後の1789年に起こるフランス革命に思想的な影響を与えた。一方、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚 La nozze di Figaro」の初演は1786年。やはりフランス革命の前であるが、内容はボーマルシェの原作とは大きく異なり、貴族階級への風刺はありながら、戦争の否定も同時に行っている。ただ、この内容は実は伝わりにくかった。重要なアリアをカットしての上演が常態化しているからである。そのアリアは第4幕第4景でマルチェッリーナが歌うアリア「牡の山羊と雌の山羊は」である。このアリアは女性差別を批判的に歌ったものであり、今回は「争う」の部分が戦争にまで敷衍されている。
岩田さんは若い頃に様々なヨーロッパの歌劇場を回って修行していたのだが、この「牡の山羊と雌の山羊は」はどこに行ってもカットされていたそうで、理由を聞くと決まって「面白くないから」と返ってくるそうだが、女性差別を批判する内容が今でも上演に相応しくないと考えられているようである。ヨーロッパは日本に比べて女性差別は少ないとされているが、こうした細かいところで続いているようである。私が観た複数の欧米の歌劇場での上演映像やヨーロッパの歌劇場の来日引っ越し公演でも全て「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされており、日本での上演も欧米の習慣が反映されていて、「牡の山羊と雌の山羊は」は歌われていない。コロナ禍の時に、岩田さんがZoomを使って行った岩田達宗道場を私は聴講しており、このことを知ったのである。

「フィガロの結婚」の上演台本の日本語対訳付きのものは持っているので(正確に言うと、持っていたのだが、掃除をした際にどこかに行ってしまったので、先日、丸善京都店で買い直した)、休憩時間に岩田さんに、「牡の山羊と雌の山羊は」の部分を示して、「ここはカットされていますかね?」と伺ったのだが、「今日はどこもカットしていません」と即答だった。ということで、「牡の山羊と雌の山羊は」のアリアに初めて接することになった。
岩田さんによると、今回は衣装も見所だそうで、戦後すぐに作られた岸井デザイン工房のものが用いられているのだが、今はこれだけ豪華な衣装を作ることは難しいそうである。
岩田さんには終演後にも挨拶した。

出演は、奥村哲(おくむら・さとる。アルマヴィーヴァ伯爵)、坂口裕子(さかぐち・ゆうこ。アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、西村圭市(フィガロ)、浅田眞理子(スザンナ)、山本千尋(ケルビーノ)、並河寿美(なみかわ・ひさみ。マルチェッリーナ)、片桐直樹(ドン・バルトロ)、中島康博(ドン・バジリオ)、難波孝(ドン・クルツィオ)、藤村江李奈(バルバリーナ)、楠木稔(アントニオ)、中野綾(村の女性Ⅰ)、梁亜星(りょう・あせい・村の女性Ⅱ)。


ドアを一切使わない演出である。


指揮者のデリック・イノウエは、カナダ出身の日系指揮者。これまで京都市交響楽団の定期演奏会や、ロームシアター京都メインホールで行われた小澤征爾音楽塾 ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」などで実演に接している。
序曲では、音が弱すぎるように感じたのだが、こちらの耳が慣れたのか、次第に気にならなくなる。ピリオドはたまに入れているのかも知れないが、基本的には流麗さを優先させた演奏で、意識的に当時の演奏様式を取り入れているということはなさそうである。デリック・イノウエの指揮姿も見える席だったのだが、振りも大きめで躍動感溢れるものであった。

幕が上がっても板付きの人はおらず、フィガロとスザンナが下手袖から登場する。
フィガロが部屋の寸法を測る最初のシーンは有名だが、実は何を使って測っているのかは書かれていないため分からない。今回は脱いだ靴を使って測っていた。スザンナの使う鏡は今回は手鏡である。

スザンナとバルバリーナは、これまで見てきた演出よりもキャピキャピしたキャラクターとなっており、現代人に近い感覚で、そのことも新鮮である。
背後に巨大な椅子のようなものがあり、これが色々なものに見立てられる。
かなり早い段階で、ドン・バジリオが舞台に登場してウロウロしており、偵察を続けているのが分かる。セットには壁もないが、一応、床の灰色のリノリウムの部分が室内、それ以外の黒い部分が廊下という設定となっており、黒い部分を歩いている人は、灰色の部分にいる人からは見えない、逆もまた然りとなっている。

この時代、初夜権なるものが存在していた。領主は結婚した部下の妻と初夜を共に出来るという権限で、今から考えると余りに酷い気がするが、存在していたのは確かである。アルマヴィーヴァ伯爵は、これを廃止したのだが、スザンナを気に入ったため、復活させようとしている。それを阻止するための心理面も含めた攻防戦が展開される。
フィガロとスザンナには伯爵の部屋に近い使用人部屋が与えられたのだが、これは伯爵がすぐにスザンナを襲うことが出来るようにとの計略から練られたものだった。スザンナは気づいていたが、フィガロは、「親友になったから近い部屋をくれたんだ」と単純に考えており、落胆する。

舞台がスペインということで、フィガロのアリアの歌詞に出てきたり、伴奏に使う楽器はギターである。有名な、ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」もスザンナのギター伴奏で歌われるという設定である(実際にギターが弾かれることはない)。ちなみに「恋とはどんなものかしら」はカラオケに入っていて、歌うことが出来る。というよりも歌ったことがある。昔話をすると、「笑っていいとも」の初期の頃、1980年代には、テレフォンショッキングでゲストが次のゲストを紹介するときに、「友達の友達はみんな友達だ。世界に拡げよう友達の輪」という歌詞を自由なメロディーで歌うという謎の趣旨があり、女優の紺野美沙子さんが、曲の説明をしてから、「恋とはどんなものかしら」の冒頭のメロディーに乗せて歌うというシーンが見られた。

ケルビーノが伯爵夫人に抱く気持ちは熱烈であり、意味が分かるとかなり生々しい表現が出てくる。リボンやボンネットなどはかなりセクシャルな意味があり、自分で自分の腕を傷つけるのは当時では性的な行為である。

第1幕と第2幕は続けて上演され、第2幕冒頭の名アリア「お授けください、愛を」の前に伯爵夫人とスザンナによる軽いやり取りがある。ちなみに「amor」は「愛の神様」と訳されることが多いが、実際は「愛」そのものに意味が近いようだ。
第3幕と第4幕の間にも、歌舞伎のだんまりのような部分があり、連続して上演される。

伯爵夫人の部屋は、舞台前方の中央部に入り口があるという設定であるが、ドアがないので、そこからしか出入りしないことと、鍵の音などで見えないドアがあることを表現している。

フィガロの代表的なアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」(やはりカラオケで歌ったことがある)は、戦地に送られることになったケルビーノに向けて歌われるもので、蝶々とは伊達男の意味である。ここにまず戦争の悲惨さが歌われている。この時代、日本は徳川の治世の下、太平の世が続いていたが、ヨーロッパは戦争や内乱続きである。
映画「アマデウス」には、サリエリが作曲した行進曲をモーツァルトが勝手に改作して「もう飛ぶまいぞこの蝶々」にするというシーンがあるが、これは完全なフィクションで、「もう飛ぶまいぞこの蝶々」は100%モーツァルトのオリジナル曲である。ただ、このシーンで、モーツァルトが「音が飛ぶ作曲家」であることが示されており、常識を軽く飛び越える天才であることも暗示されていて、その意味では重要であるともいえる。

続いて表現されるのは、伯爵の孤独。伯爵には家族は妻のロジーナしかいない。フィガロは天涯孤独の身であったが、実はマルチェッリーナとドン・バルトロが両親だったことが判明し(フィガロの元の名はラファエロである)、スザンナとも結婚が許されることになったので、一気に家族が出来る。伯爵は地位も身分も金もあるが、結局孤独なままである。

なお、ケルビーノは、結局、戦地に赴かず、伯爵の屋敷内をウロウロしているのだが、庭の場面では、「愛の讃歌」を「あなたの燃える手で」と日本語で歌いながら登場するという設定がなされていた。クルツィオも登場時は日本語で語りかける。

「牡の山羊と雌の山羊は」を入れることで、その後の曲の印象も異なってくる。慈母のような愛に満ちた「牡の山羊と雌の山羊は」の後では、それに続く女性蔑視の主張が幼く見えるのである。おそらくダ・ポンテとモーツァルトはそうした効果も狙っていたのだと思われるのだが、それが故に後世の演出家達は危険性を感じ、「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされるのが慣習になったのかも知れない。

最後の場では、伯爵が武力に訴えようとし、それをフィガロとスザンナのコンビが機転で交わす。武力より知恵である。

伯爵の改心の場面では笑いを取りに来る演出も多いのだが、今回は伯爵は比較的冷静であり、誠実さをより伝える演出となっていて、ラストの「コリアントゥッティ(一緒に行こう)」との対比に繋げているように思われた。

岩田さんは、「No」と「Si」の対比についてよく語っておられたのだが、「Si」には全てを受け入れる度量があるように思われる。
井上ひさしが「紙屋町さくらホテル」において、世界のあらゆる言語のノーは、「N」つまり唇を閉じた拒絶で始まるという見方を示したことがある。「ノー」「ノン」「ナイン」「ニエート」などであるが、「日本語は『いいえ』だと反論される」。だが、拒絶説を示した井川比佐志演じる明治大学の教授は、「標準語は人工言語」として、方言を言って貰う。「んだ」「なんな」などやはり「N」の音で始まっている。なかなか面白い説である。

武力や暴力は、才知と愛情にくるまれて力を失う。特に愛は強調されている。

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