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2022年3月28日 (月)

コンサートの記(771) 日本オペラプロジェクト2022 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」西宮公演

2022年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。木下順二の代表的戯曲を「セリフの一字一句に至るまで変更しない」という約束の下、オペラ化した作品で、日本が生んだオペラとしては最高の知名度を誇っている。今回は2013年に初演されたプロジェクトの再々演(三演)である。2013年の公演は私は観ていないが、2018年に行われた再演は目にしている。

演出は引き続き岩田達宗が担当。美術も故・島次郎のものをそのまま踏襲している。
今回の指揮者は、1989年生まれの若手、粟辻聡(あわつじ・そう)。京都市生まれで京都市少年合唱団出身。2015年に第6回ロブロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで第2位に入賞。京都市立芸術大学、グラーツ芸術大学大学院、チューリッヒ芸術大学大学院においていずれも首席を獲得して卒業している。京都市立芸術大学では広上淳一に師事。現在は奈良フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める。大阪音楽大学講師。
演奏は、大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートマスター:赤松由夏)。

つうと与ひょうはいずれもダブルキャストで、今日は老田裕子(おいた・ゆうこ。ソプラノ)と中川正崇(テノール)のコンビとなる。運ずは晴雅彦(バリトン)、惣どに松森治(バス)。少年合唱は、夙川エンジェルコール。

開演前にホワイエで、岩田さんに前回観た「夕鶴」の解釈について質問したりした。上演内容自体は、今回もほとんど変わりない(プログラムノートも同一である)。

「夕鶴」は、人間と鶴とのすれ違いを描いた悲恋と観るのが一番面白いように私は思う。
実は互いは互いにとって最高のパートナーともいえる関係にある。押しかけ女房のつう(正体は鶴)は、矢で射られて倒れていたところを与ひょうから治療を受けて、その感動から人間となって与ひょうの前に現れる。冒頭の少年合唱による童謡のシーンでメンバーの一人が弓矢遊びをしているが、当時は鶴の数も多く、天然記念物という概念もなく、あったとしてもそれには該当せず、鶴は普通に狩りの対象であった。そんな鶴に優しくしてくれた与ひょうは人間に化けたつうにも当然ながら優しい。
この与ひょうというのがかなり不思議なキャラクターであり、金銭というものにほとんど興味を示さない。示すとしてもそれはつうのためになることだけである。つうが織った千羽織が売れて、熱心に働くことを止めてしまったようだが、それは働くのが嫌になったというよりも、つうと一緒にいる時間を増やしたいからであろう。与ひょうはそれほどつうのことを愛しているのである。

千羽織も、元は与ひょうに求められて織ったのではない。つうの方から織って与ひょうに贈ったのである(民話「鶴の恩返し」とは違い、恩返しのために織った訳ではない)。つうは与ひょうに喜んで貰って嬉しい。ただ、ここはちょっと引っ掛かる。つうの正体は鶴である。「正体がばれたら捨てられる」。つうは当然ながらそう思っただろう。正体が露見する危険を冒しながら、それでも敢えて自分の身を傷つけて千羽織を作るのであるが、そうでもしない限り与ひょうに捨てられるという恐怖を抱き続けていたのではないだろうか。子供達と「かごめかごめ」の遊びをした時の必要以上の動揺を始めとして、常に別れにおびえているような印象を受ける。そうであるが故に、与ひょうのちょっとした変化に敏感になりすぎてしまったのではないか。客観的に見ると与ひょうは終始一貫しておおらかな性格であり(惣どと運ずに、「千羽織をもっと織らせるように」と言われたときも、「(出来の良い)千羽織はつうが作った」とのろけており、金銭欲はほとんど感じられない)、全てはつうの勘違いであった可能性が高い。そのままでいようと思えばいられたかも知れないのだが、怖れが逆に別れへの道を開いてしまった。

与ひょうはつうに千羽織を作るよう頼むが、それはつうと一緒に都に出掛けるためである(「つうも都に行きたいと思っているはず」だと勝手に思い込んでもいるのだが)。だが、つうはそれ以前の与ひょうの「金がいる」という内容の言葉の数々に耳をふさいでしまったため、肝心の「つうと都に行く」ためという、理由となる言葉を聞き逃してしまうという演出を岩田は施す。
ラストで同じ内容の言葉が出て、つうは与ひょうの本心を初めて知るのだが、時すでに遅しである。更には、つうの正体が鶴であったと分かっても与ひょうはそれを受け容れる気でいた。そんな男は他にはいないだろう。だがつうの体はもうボロボロ、そして当時の通念からすれば、恥を掻かされた以上は、死ぬか別れるか、あるいはその両方かしか残されていない。つうは千羽織を二反作った(岩田の解釈では千羽織は二人の「子供」であるが、見る側はそれに従っても従わなくても良いように思う)。一つは売って金にするために、もう一つは自分の形見として。二反織ったためにつうは精も根も尽き果ててしまったのだが、与ひょうはつうと別れる気はさらさらなく、形見として一反余計に織る必要は全くなかったのである。最愛のパートナーとして末永く暮らせる可能性がありながら、分かり合えなかったという悲劇が浮かび上がる。誰もが一度は経験する最愛の人から理解されないという孤独。
単なるストーリーで出来ている訳ではない戯曲とそれを説明するだけでない音楽。木下順二も團伊玖磨もやはり偉大な芸術家である。

粟辻聡の指揮に本格的に接するのは初めてであるが、ドラマティックなうねりと雄大なフォルムを築くことに長けた指揮者である。オペラにはかなり向いていそうだ。

つう役の老田裕子のハリのある声と体全体を使った巧みな心理描写、穏やかな佇まいと柔らかな声を持つ与ひょう役の中川正崇も実に良い。役にはまっている。晴雅彦と松森治の安定感も良かった。

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2022年3月26日 (土)

コンサートの記(770) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXVⅢ ヨハン・シュトラウスⅡ世 喜歌劇「こうもり」@ロームシアター京都 2022.3.20

2022年3月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後3時から、ロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXVⅢ ヨハンシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」を観る。

新型コロナウイルス流行のため、2020、2021と2年連続で公演中止になっていた小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト。昨年はオペラ公演が行えない代わりに宮本文昭指揮によるオーケストラコンサートが東京文化会館大ホールで行われたようだが、オペラ・プロジェクトとしては、また京都での公演は3年ぶりとなる。私は2019年の「カルメン」の公演も風邪を引いて行けなかったので、実に4年ぶりとなった。

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ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇(オペレッタ)「こうもり」は、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトのロームシアター京都メインホールでの初公演の演目となったものである。私は、ロームシアター京都で聴く初オペラを、ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場の引っ越し公演となるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」にしたかったので、小澤征爾音楽塾の公演には足を運ばなかった。ウクライナ危機の影響により、ゲルギエフは西側の音楽界から弾き出される形となっており、今後日本で聴く機会があるのかどうかも不透明である。あるいは「エフゲニー・オネーギン」が最初で最後のゲルギエフ指揮によるオペラ体験となってしまうのかも知れないが、それはそれとして小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトの「こうもり」である。小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトと銘打たれているが、小澤征爾は癌の後遺症、そして高齢であるため、もう指揮台に立つことは出来ない。私が聴きに行けなかった2019年の「カルメン」でも小澤は前奏曲だけを指揮して、後は弟子であるクリスティアン・アルミンクに託しており、もう「小澤征爾の『カルメン』」とは言えない状態であった。
今回は、小澤征爾は音楽監督として教育のみに徹し、全編の指揮はディエゴ・マテウスに委ねられている。

1984年生まれの若手指揮者であるディエゴ・マテウス。ベネズエラの音楽教育制度、エル・システマの出身であり、「第二のドゥダメル」とも呼ばれる逸材である。
エル・システマではヴァイオリンを専攻し、グスターボ・ドゥダメルが組織したシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(現:シモン・ボリバル交響楽団)ではコンサートマスターを務める。その後に指揮者に転向し、クラウディオ・アバドの推薦によりアバド自身が組織したモーツァルト管弦楽団の首席客演指揮者に抜擢されるなど、若い頃から頭角を現している。フェニーチェ歌劇場首席指揮者、メルボルン交響楽団の首席客演指揮者などを経て、現在は自身の音楽故郷的存在のシモン・ボリバル交響楽団の首席指揮者を務めている。2018年に、小澤征爾と交互にサイトウ・キネン・オーケストラを振り分け、これが小澤との縁になったようだ。以降、セイジ・オザワ松本フェスティバルなどにも参加している。昨年6月にヴェローナでヴェルディの歌劇「アイーダ」を成功させており、また今年7月には、ローマのカラカラ劇場でレナード・バーンスタインの「ミサ」の指揮を行う予定である。

つい最近まで、日本は外国人の入国を基本的に禁止としており、今回の公演は白人メインとなるため、公演が行われるのかどうかも定かでなかったが、なんとか外国人の入国も原則OKとなり、間に合った。

出演は、エリー・ディーン(ロザリンデ)、アドリアン・エレート(ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン)、アナ・クリスティー(アデーレ)、エリオット・マドア(ファルケ博士)、エミリー・フォンズ(オルロフスキー公爵)、ジョン・テシエ(アルフレート)、デール・トラヴィス(フランク)、ジャン=ポール・フーシェクール(ブリント博士)、栗林瑛利子(イーダ)、イッセー尾形(フロッシュ)ほか。演奏は小澤征爾音楽塾オーケストラ、合唱は小澤征爾音楽塾合唱団、バレエは東京シティ・バレエ団。
演出は今回もデイヴィッド・ニースが受け持つ。

アジア各地で行われるオーディションを勝ち抜いた若手によって結成されて来た小澤征爾音楽塾オーケストラであるが、今回はコロナ禍のためアジアでのオーディションが行えず、日本国内のオーディションによって選抜されたメンバーによる編成となった。


上演開始前に、指揮者のディエゴ・マテウスによってメッセージが伝えられる。英語によるスピーチだったため、全ての言葉を理解することは出来なかったが、京都市と姉妹都市であるキエフ市を首都とするウクライナの平和を願うという意味の言葉であったと思われる。


マテウス指揮する小澤征爾音楽塾オーケストラは序曲などでは荒削りなところがあり、楽器によって技術のばらつきがあるように感じられたが、演奏が進むにつれて音も洗練され、音楽をする喜びが伝わってくるようになる。勢い任せのように感じられるところもあるマテウスの音楽作りであるが、生命力豊かであり、この指揮者の確かな才能が確認出来る。

歌手陣も充実。ただ、ロームシアター京都メインホールは、客席の奥行きが余りないということもあって、音がどの席にも伝わりやすく、オペラの音響には最適だが、歌手によっては声が通りにくい場面があったのも確かである。おそらく単なる喉の不調だと思われるのだが。
マテウスはかなり器用な指揮者のようで、そうした場面に瞬時に対応。オーケストラの音を下げていた。

メトロポリタン歌劇場出身のデイヴィッド・ニースは、今回も豪華で色彩感豊かな舞台装置を背景に、こうした折りではあるが人海戦術なども駆使した華麗な演出を展開させる。
第2幕などは、本当に夢の世界へさまよい込んだような心地で、心が中空で躍る。
「こうもり」は即興的な演出が加えられるのが恒例であるが、今回もプッチーニの歌劇「トゥーランドット」より“誰も寝てはならぬ”がお遊び的に加わっていた。復讐される側のガブリエル・フォン・アイゼンシュタインが、モーツァルトの歌劇「魔笛」より夜の女王のアリア“復讐の心は炎と燃え”をハミングするシーンなどもあり、遊び心に溢れている。また要所要所で白人キャストに日本語を語らせるのも効果的であった。

バレエシーンの音楽にはヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と電光」を採用。日本人はどうしても体格では白人に劣るが、東京シティ・バレエ団のメンバーは迫力もまずまずで、花を添えていた。

フロッシュ役のイッセー尾形も得意とするコミカルな演技で客席の笑いを誘い、オペレッタを聴く楽しみに満ちた幸福な時間が過ぎていった。

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2022年3月18日 (金)

コンサートの記(767) 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー 舞台神聖祝典劇「パルジファル」

2022年3月6日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後1時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」を観る。ワーグナー最後の舞台音楽作品となっており、ワーグナー自身はバイロイト祝祭劇場以外での上演を認めなかった。

中世ドイツ詩人のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩「パルチヴァール」が現代語訳(当時)が出版されたのが1842年。ワーグナーはその3年後にこの本を手に入れているが、これを原作とした舞台神聖祝典劇という仰々しい名のオペラ作品として完成させるのは、1882年。40年近い歳月が流れている。

セミ・ステージ形式での演奏。指揮は沼尻竜典、演奏は京都市交響楽団(コンサートマスター:泉原隆志)。演出は伊香修吾。出演は、青山貴(アムフォルタス)、妻屋秀和(ティトゥレル)、斉木建詞(グルネマンツ)、福井敬(パルジファル)、友清崇(クリングゾル)、田崎尚美(クンドリ)、西村悟、的場正剛(ともに聖杯の騎士)、森季子(第1の小姓)、八木寿子(第2の小姓、アルトの声)、谷口耕平(第3の小姓)、古屋彰久(第4の小姓)、岩川亮子、佐藤路子、山際きみ佳、黒澤明子、谷村由美子、船越亜弥(以上、クリングゾルの魔法の乙女たち)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル。合唱はマスクを付けての歌唱である。

ステージ前方に白色のエプロンステージが設けられており、同じ色の椅子が並んでいる。出演者達はここで歌い、演技する。客席の1列目と2列目に客は入れておらず、プロンプターボックスの他にモニターが数台並んでいて、これで指揮を確認しながら歌うことになる。
ステージ後方には階段状の二重舞台が設けられており、短冊状の白色の壁が何本も立っていて、ここに映像などが投影される。
小道具は一切使用されず、槍なども背後の短冊状の壁に映像として映し出される。

びわ湖ホールで何度も印象的な演出を行っている伊香修吾だが、セミ・ステージ形式での上演ということで思い切った演出は出来なかったようで、複雑な工夫はしていない。


「パルジファル」に先だって、ワーグナーは当時傾倒していた仏教と輪廻転生をテーマにした「勝利者たち」という楽劇を書く予定であった。実現はしなかったが、「勝利者たち」のヒロインがその後に、「パルジファル」のクンドリの原型となっている。


ワーグナー最後のオペラとなった「パルジファル」であるが、何とも謎めいた作品となっている。聖杯伝説が基になっており、キリストが亡くなった時にその血を受けた聖杯と十字架上のキリストを刺したといわれる聖槍(「エヴァンゲリオン」シリーズでお馴染みのロンギヌスの槍である)が重要なモチーフとなっている。モンサルヴァートの城の王であるアムフォルタスは、キリストをなぞったような性質の人物であり、聖槍を受けて、その傷が治らないという状態は、危殆に瀕したキリスト教という当時の世相が反映されている。
中世には絶対的な権威を誇ったキリスト教であるが、19世紀も末になると無神論が台頭するなど、キリスト教の権威は失墜の一途を辿っていた。

「アムフォルタスの傷を治す」と予言された「苦しみを共に出来る聖なる愚か者」に当たる人物がパルジファルである。モンサルヴァートの森で白鳥を射落として取り押さえられた男こそパルジファルであるが、彼は自分の名前も、出自も何一つ知らないという奇妙な人物である。白鳥が神の化身であることは「ローエングリン」で描かれているが、パルジファルは特に理由もなく白鳥を射落としている。

「これこそ救済を行う聖なる愚か者なのではないか」と思い当たった騎士長のグルネマンツは、パルジファルに聖杯の儀式を見せる。だがパルジファルは儀式の意味を理解出来ず、グルネマンツによって城から追い出される。

モンサルヴァートの城にはクンドリという不思議な女性がいる。最初は聖槍によって傷つけられたアムフォルタスのために薬を手に入れたりしているのだが、クンドリにはもう一つの顔があり、第2幕では魔術師のクリングゾルに仕えてモンサルヴァートの騎士達の破滅を狙う魔女として登場する。クリングゾルも元々は騎士団に入ることを希望する青年だったのだが、先王ティトゥレルに拒絶され、妖術使いへと身を堕としていた。ただ妖術の力は確かなようであり、魔の園に迷い込んだパルジファルの正体を最初から見抜いている。第2幕ではクリングゾルに命じられたクンドリがパルジファルに言い寄って破滅させようとするのだが、逆にパルジファルは覚醒してしまい、アムフォルタスに共苦する。パルジファルはクリングゾルが放った聖槍を奪い、魔の園を後にする。
そして長くさすらった後で、モンサルヴァート城に戻り、救済者となる。最後の歌は、合唱によるもので「救済者に救済を!」という意味の言葉で終わる。


かなり複雑で不可解な進行を見せる劇であり、最後に歌われる「救済者」というのがイエス・キリストなのかパルジファルなのかもはっきり分かるようには書かれておらず、様々な説がある。

分かるのは、旧来のキリスト教に代わり、あるいはキリスト教を補助する形で新たなる信仰が生まれるということである。少なくとも誰もが疑いを持たずにキリストを信仰出来る時代は終わっている。新たなる何かが必要で、それを象徴するのがパルジファルである。最初は無垢で無知だったのに、突如目覚めて賢人となり、キリストの後を継ぐもの。それは何か。おそらく「音楽」が無関係ということはないだろう。この時代、音楽はすで文学や政治と絡むようになっており、ただの音楽ではなくなっている。
新たなる信仰の誕生、そこに音楽や芸術が関わってくるというのは、決して突飛な発想ではないように思う。
クンドリの原型が仏教を題材にしているということで、仏教がキリスト教を補完するという、おそらく正統的な形についても考えてみる。四門出遊前のゴータマ・シッダールタは、シャカ族の王子として何も知らぬよう育てられた。父王が聖者から「出家したらブッダになる」と預言され、国のことを考えた場合、王ではなくブッダになると困るので、世間を知らせぬようにとの措置だった。だが、四門出遊(ゴータマが王城の4つの門から出て、この世の現実を知るという出来事)により「生病老死」の「四苦」を知り、出家。「抜苦与楽(慈悲)」へと行き着く。そうしたゴータマからブッダになる過程をパルジファルが担い、イエスの化身ともいうべきアムフォルタスの苦を除く。ストーリーとしてはあり得なくもないが、木に竹を接ぐ感は否めない。当時のヨーロッパにおける仏教理解はかなりの誤解を含んでいたと思われる。


沼尻の音楽作りは、いつもながらのシャープでキレのあるもので、スケールをいたずらに拡げず、細部まで神経を通わせている。おどろおどろしさは余りないが、その方が彼らしい。

京都市交響楽団も音色に華があり、威力も十分であった。沸き続ける泉のように音に生命力がある。

歌手達も充実。動き自体は余り多くなかったが、その分、声の表情が豊かであり、神秘的なこの劇の雰囲気を的確に表現していた。

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2022年2月27日 (日)

コンサートの記(766) 池辺晋一郎作曲 新作オペラ「千姫」

2021年12月12日 アクリエひめじ大ホールにて

姫路へ。

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午後3時から、アクリエひめじ大ホールオープニングシリーズ公演:新作オペラ「千姫」を観る。池辺晋一郎の作曲。構想も池辺によるもので、池辺は姫路市の隣にある加古川市在住の作家、玉岡かおるに台本の作成を依頼したが、玉岡は、「小説家の私はシナリオでなく小説を書いて本に残すのが使命なのでは?」ということで、原作となる小説『姫君の賦~千姫流流』を執筆。それを平石耕一が台本に直すという過程を経た。
演出は、新作の演出を手掛けることも多い岩田達宗。出演は、小林沙羅(千姫)、古瀬まきを(おちょぼ)、矢野勇志(本多忠刻)、池内響(本多忠政)、井上美和(お熊)、小林峻(徳川秀忠)、尾崎比佐子(お江)、井上敏典(宮本武蔵)、近藤勇斗(宮本三木之助)、伊藤典芳(松坂の局)、奥村哲(坂崎出羽守)、山田直毅(桂庵)、林真衣(芥田四左衛門)、金岡伶奈(奥女中)。
子役が二人出演(松姫=東福門院和子と千姫の娘である勝姫の役。共に達者な演技を見せた)。刺客役という歌のない役で、河本健太郎と青山月乃が出演する。

二幕十九場からなる大作であるが、それぞれの場の名称は背面のスクリーンに投影される。

演奏は、田中祐子指揮の日本センチュリー交響楽団。注目の女性指揮者として人気を博していた田中祐子だが、更なる研鑽の必要を感じ、日本での仕事を徐々に減らしてパリに留学。その最中にコロナ禍に見舞われたが、日本での仕事も再開を始めており、今回久々の日本でのオペラ指揮である。

ストーリーも音楽も分かりやすいが、その分、「ここがクライマックス」という盛り上がりには少し欠ける印象は否めない。

徳川二代将軍秀忠と、浅井長政の三女である江の娘として生まれた千姫。夫となった豊臣秀頼と義母で伯母でもある茶々(淀殿)を生家である徳川家に殺された悲劇のヒロインとして有名であるが、その後に美男子として知られる本多忠刻と自ら望んで再婚。忠刻との間の娘である勝姫は江戸時代前期の三大名君の一人として知られる池田光政の正室となり、全国屈指の大大名である備前池田家の繁栄に貢献している。

そもそも千姫の弟は三代将軍家光、妹は後水尾天皇に嫁した東福門院和子(最初は「かずこ」で降嫁後は「まさこ」)、姪は奈良時代以来の女帝となる明正天皇という華麗この上ない血筋。忠刻の没後に江戸に戻ってからも大奥で権勢を振るうなど、恵まれた一生であり、親豊臣の人々からは余り好かれていなかったようである。そのために後世、「刑部姫と本多忠刻」や、千姫が夫二人に先立たれたショックから狂女になったとする「千姫御殿」といった怪談が生まれている(共に姫路での上演には相応しくないので、当然ながら登場しない)。千姫一人が幸福に過ごしたということを認めたくない人々がいたのだろう。実際には千姫は江戸に帰ってから狂女になったどころか、有名人の墓地が多いことでも知られる鎌倉の縁切り寺・東慶寺を再建するなど、女性のための施策も行っており、このオペラでも姫路時代の発案として登場する。

姫路と姫路城というのがこれまた危ういバランスの上にあり、西国将軍・池田輝政が現在まで聳えている五重の大天守などを築いているが、最初に姫路城に天守を築いたのは羽柴秀吉である。秀吉は毛利攻めのための山陽道の拠点として黒田官兵衛から本丸を譲り受け、居城としている。
一方で江戸期以降の姫路は江戸を手本とした街作りを行っており、城郭のみならず惣構えを渦を巻くような水堀で囲い、水運の便を図っている。渦郭式城郭と呼ばれるものだが、大規模な渦郭式城郭は日本には江戸城と姫路城しか存在しない。
豊臣と徳川の双方が息づいているということなのだが、それは千姫にも当てはまる。

舞台は大坂夏の陣、大坂城落城の場面から始まる。秀頼と淀殿の助命を父親である秀忠に請う千姫であったが(今回のオペラには家康は登場しない)受け容れられず、劫火に包まれる大坂城の姿が千姫のトラウマとなる。そのトラウマの火を消す水の役目を司るのが本多忠刻である。
池田輝政は現在の姫路城の礎を築いたが、外堀などは完成させることが出来なかった。惣構えを築き、播磨灘への水運を開いたのは本多忠刻であり、このことはこのオペラでも描かれている。
千姫の大坂城脱出というと、坂崎出羽守直盛との関係が有名で(「千姫事件」として知られる)、このオペラでもどう描かれるのか気になっていたのだが、千姫のトラウマと直結しているものの、余り深くは描かれていなかった。姫路での千姫のオペラということで、坂崎出羽守の話を大きくするとバランスを欠くためだと思われる。

千姫は名前だけはとにかく有名だが、実際に何をした人なのかは広く伝わっておらず、最初の夫と二番目の夫に先立たれた悲運の徳川の姫という印象だけが強い。もし仮に大坂の陣で秀頼や淀殿と運命を共にしていたら、あるいは宮本武蔵の養子である三木之助のように本多忠刻の後を追っていたら、悲劇の女性として更に名高かったかも知れない。祖母であるお市の方のように。だが、死んだとして、それで何かを成し得たと言えるのだろうか。

死んでいれば、坂崎出羽守の千姫事件や千姫御殿の物語で汚名を着ることもなかったかも知れない。死を美徳とするこの国にあっては尚更そうだ。だが彼女は生きた。人には知られなかったかも知れないが、生きて成すべきことを成した。名門に生まれたことで発生した義務を彼女は果たした。女が政治の道具でしかなかった時代、徳川と豊臣の政略結婚として大坂城に嫁ぎ、その後は徳川四天王の一人、忠勝系本多氏に入って、徳川の結束を高めた。だが、これらは親が決めたことであり(千姫が忠刻の妻になることを自ら望んだというのも事実であろうが)、その犠牲になったとしても「千姫可哀相」で終わってしまう。その後の彼女は徳川家や豊臣家でなく、彼女の運命を生きた。「千姫事件」や「千姫御殿」のようにドラマティックではないかも知れないが、真に美しい生き方だったと思う。
あるいは、「本当の美しさ」とは「ドラマティック」の中にはないのかも知れない。そう思わせてくれるオペラだった。

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2022年1月30日 (日)

コンサートの記(761) 沼尻竜典作曲・指揮 歌劇「竹取物語」2022@びわ湖ホール(セミ・ステージ形式)

2022年1月23日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

大津へ。琵琶湖岸から見る比叡山や比良山系、東の三上山などには霞やもやが掛かり、文人画のような趣がある。曇り空を反映した湖面も穏やかであり、カイツブリ以外に動くものは見受けられない。

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午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典作曲・指揮による歌劇「かぐや姫」を観る。オーケストラピットを囲む形でエプロンステージを設け、そこで歌手達が演じるセミ・ステージ形式での上演。オーケストラピットの後方には間口の広い階段状のステージがあり、合唱(びわ湖ホール声楽アンサンブル)が歌う。その背後にはスクリーンがあり、竹取翁の家や都の大内裏の絵、月などが投影される。

日本最古の物語とされる「竹取物語」を題材としたオペラ。沼尻が手掛けた台本は原典の流れに比較的忠実であるが、オペラ的な要素も当然ながら取り込んでいる。

演奏は日本センチュリー交響楽団。演出は栗山昌良。栗山が高齢ということで中村敬一が演出補として入っている。出演は、砂川涼子、迎肇聡(むかい・ただとし)、森季子(もり・ときこ)、松森治、谷口耕平、市川敏雅、平欣史、晴雅彦、美代開太、有本康人、八木寿子、久保田考揮(大津児童合唱団)ほか。

沼尻が作曲した音楽は、日本的な「よな抜き」も用いた調性音楽であるが、たまに不協和音なども加わる。かぐや姫に求婚した公達達が成果を発表する場では、アコーディオンを加えたシャンソン風のものが奏でられたり、派手なブロードウェイミュージカル風のナンバーが加わったり、ハナ肇とクレイジーキャッツ風のコミカルソングが出てきたりと多彩な表情を持つ。

竹取の翁(迎肇聡)が光る竹の中に赤子を見つける場面から始まり、媼(森季子)と共に娘として育てることに決め、名付けを住職に頼もうとする。
瞬く間に成長したかぐや姫(砂川涼子)に婿を取らせようとする翁と媼であるが、かぐや姫はずらりと揃った5人の公達達一人ひとりに難題を与える。おそらくこの場面でのかぐや姫の態度は、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」をなぞる形で書かれていると思われる。沼尻が2015年に書いたプログラムノートの「冷たい心を持ったかぐや姫」という文言からもそれは察せられる。求婚してくる者に同じ謎かけをし、答えられなかった者(全員であるが)の首を容赦なくはねたトゥーランドット姫。一方で、かぐや姫の場合は、無理難題を言うが、個別に、というところが特徴である。トゥーランドット姫のように1つの難題を与えて5人に競わせるという形でも一向に構わないと思われるのだが、そうしないところに私はかぐや姫の優しさを見る。原作の解釈も同様で良いと思われるのだが、1つの難題を与えて競わせると、当然ながら諍いが生じてしまう。場合によっては殺し合いなどに発展する可能性もある。かぐや姫は個別に難題を与えることでそれを避けたのではないか、と私はこれまでも思ってきた。

難題を与えたのは、そうすれば全員が諦めると思ったからと推察する。だが、実際は、かぐや姫を手に入れるために公達達は奮闘、転落して命を落としてしまう者も出る。そのことに対するかぐや姫の態度の記述は原作にはなかったと思われるが、今回のオペラでは落命する者が出たことにかぐや姫は激しく動揺する。

かぐや姫は、罪を犯して月から追放され、地球に「再生」という形でやってくるのだが、おそらく月に帰るための試練を与えられていたと思われる。「罪」については実は明かされることはないのだが、おそらくは「男と情を交わした」のだろうと推測される。月の住人には寿命がなく、永遠に生きることが出来るのだが、その場合は子孫を設ける必要がない。ということは異性と良い仲になる必要がないということであり、それを破った場合は「罪あり」とされるのではないかとの推理が成り立つ。そして地球に落とされたかぐや姫には懸想する男達を交わすというミッションが与えられているのではないだろうか。
ただそれ以上に、「月に戻る身なのだから、所帯を持った場合、夫を傷つけることになる」とわきまえての行動だったのではないかという気が私にはしている。よくある「かぐや姫=わがまま女説」は私は支持しない。帝の寵愛を受ける好機が訪れてもそれを固辞するのも私は同様の優しさであると捉えている。

そうして、ミッション遂行のために心を閉ざしていたかぐや姫が、帝と和歌のやり取りを重ねる内に地球への愛着を持っていく過程が歌われる。その経過は、ある意味「トゥーランドット」よりも鮮やかである。「去りがたいのに去らねばならない」というジレンマのドラマがあるが、それはこの世界への肯定にも繋がっている。


昨日は幸田浩子が歌ったかぐや姫を今日は砂川涼子が歌う。声の質自体は、個人的には幸田浩子の方が好みだが、砂川涼子のクリアな歌声もかぐや姫の一種の儚さを却って引き立たせていたように思う。狂言回しとコミックリリーフの役目を合わせ持った翁と媼を演じる迎肇聡と森季子の存在感も印象的。トゥーランドット姫のような衣装を纏った月よりの使者役の八木寿子の威厳ある佇まいも、月世界のトゥラーンドット姫的冷たさと、日本版トゥーランドット姫からきめ細かな心遣いが出来る女性へと変わったかぐや姫との対比を鮮やかに見せてくれる。

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2022年1月18日 (火)

コンサートの記(759) 佐渡裕指揮 オペラde神戸「椿姫」

2022年1月7日 神戸文化ホール大ホールにて

午後6時から、大倉山にある神戸文化ホール大ホールで、オペラde神戸「椿姫」を観る。「佐渡裕と神戸市民で創るオペラ」と銘打たれており、現在は神戸市内の御影に日本における自宅を構える佐渡裕の指揮で、神戸市民によるアマチュアの合唱団などを起用した上演が行われる。

最も人気のあるオペラ演目の一つであるヴェルディの「椿姫」。「オペラは筋書きが簡単」な例として挙げられる作品であり、今回の公演の無料パンフレットにも佐渡裕が、「素晴らしいオペラは大抵ストーリーが単純です」と挨拶文の冒頭に記している。

なお、「椿姫」のオペラの原題は「ラ・トラヴィアータ(La Traviata)」であるが、寅年の年始公演だから選ばれたという訳ではないと思われる。

高級娼婦であるヴィオレッタは、その美貌故にパトロンに恵まれ、教養面でも金銭面でも恵まれていたが、本当の愛を知らなかった。そこに現れたアルフレードという美青年。二人は瞬く間に恋に落ちるが、アルフレードの父親であるジェルモンが息子と高級娼婦との結婚に反対。泣く泣くアルフレードとの別れを決めるヴィオレッタであるが、すでに結核に冒されていた。別れの理由を知らないアルフレードはヴィオレッタをなじるが、彼女が余命いくばくもないと知り、ヴィオレッタの下に駆けつける。ジェルモンも許しを請いに現れるが、ヴィオレッタはそのまま命を落とす。

これが大体のあらすじであるが、よくありそうな話で、特段ドラマティックという訳ではない。ただこれに音楽が加わると、優れた芸術作品となる。理性よりも情に訴えかける作品である。
この時期のヴェルディは、「オペラは歌が主役」と考えており、歌手が歌っている時のオーケストラはシンプルな伴奏に徹している。一方、ドイツではワーグナーが声と管弦楽による一大交響詩として歌劇、更にそれを発展させた楽劇を発表するようになるが、ヴェルディも対抗意識を持ったのか、やはり声と管弦楽による重厚な作風へと転換していくことになる。

原作:アレクサンドル・デュマ=フィス。作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ。佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)による演奏。演出は井原広樹。プロデューサー:井上和世。
出演は、住吉恵理子(ヴィオレッタ)、西影星二(アルフレード)、油井宏隆(ジェルモン)、平瀬令子(フローラ)、清原邦仁(ガストン男爵)、青木耕平(ドビニー公爵)、下林一也(ドゥフォール男爵)、武久竜也(グランヴィル医師)、岸畑真由子(アンニーナ)、佐藤謙蔵(ジュゼッペ)。合唱はオペラde神戸合唱団。バレエ:貞松・浜田バレエ団。児童合唱:須磨ニュータウン少年少女合唱団。舞台装置:増田寿子。


前奏曲が始まると同時に幕が開き、白い服を着たヴィオレッタの幽霊(貞松・浜田バレエ団のダンサーである武用宜子が演じている)が横たわっているのが見える。周囲には生前のヴィオレッタと親しくしていた人がいるのだが、ヴィオレッタが目覚めても彼女の霊の存在に気付かない。自分が幽霊となってしまったことを悟ったヴィオレッタは孤独感に打ちのめされ、泣き崩れる。ラストシーンの続きを本来の幕開けの前にやる演出は、最近ではよく行われるが、悲劇ということで「死してなお孤独」という救いのないものになっている。

佐渡による音楽作りだが、以前に比べ艶や一種の色気のようなものが強く感じられるようになって来ている。若い頃はとにかく溌剌とした音楽性が売りだった佐渡裕だが、最近、西宮の兵庫県立芸術文化センターのホワイエで流れている映像を見ると顔も声もくたびれた感じで、日本と欧州の往復による疲労が溜まっているようである。ということで躍動感よりも丁寧に音を重ねることを重視しているのかも知れない。
内部が改装された神戸文化ホールは残響がオペラとしても不足がちなところがあったが、音の通りは良く、音楽を楽しむのに不足はない。神戸文化ホールは、1973年竣工ということで、東京・渋谷のNHKホールと同い年。NHKホールは現在、改装工事に入っており、同時期に出来た金沢歌劇座は数年後の閉鎖が決まっている。神戸も2025年を目標に新ホールを三宮地区に完成させる予定で、神戸文化ホールも一応廃止の方向性のようだが、詳しいことは決まっていないようである。

歌手達の水準も高く、タイトルロールということになる(劇中では「椿姫」とも「ラ・トラヴィアータ」とも呼ばれないが、「椿姫」というのが彼女のことであるのは確かである)ヴィオレッタを歌った住吉恵理子の可憐さと儚さは特に良かった。

ヴィオレッタのサロンや、同じく高級娼婦であるフローラのサロンはアイボリー系の色彩による豪華な壁が特徴であり、ヴィオレッタの別荘やヴィオレッタの寝室では真逆のダークトーンのセットが用いられて、対比が鮮やかであるが、ヴィオレッタが別荘の寝室で力尽きる直前に、黒い壁面が上方へと動いてキャットウォークへと消え、華麗な場面で用いられていたアイボリーの壁面が姿を現す。正直、演出意図が良く分からなかったのだが、ヴィオレッタが死の直前の夢の中で見た風景が、かつての華やかな世界だったということなのかも知れない。他の意図は思いつかない。その華やかな景色が、冒頭で示されたヴィオレッタの死後の孤独をより深くするようでもある。

「椿姫」ということで、サロンでの夜会のシーンが大勢の登場人物で彩られていたが、今後、コロナが生み出す状況如何によっては、またしばらくの間、こうした演出は難しくなるかも知れない。


カーテンコールでは、井上和世も着物姿で現れ、喝采を浴びていた。

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2021年11月10日 (水)

コンサートの記(751) オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」世界初演

2021年11月5日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて

午後7時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」(ソプラノ、ギター、電子音響のための。2021年委嘱・世界初演)を聴く。作曲は、足立智美(あだち・ともみ。男性)。出演は、太田真紀(ソプラノ)と山田岳(やまだ・がく。エレキギター、アコースティックギター、リュート)。この二人による委嘱である。演出は、あごうさとし。

テキスト生成用のAI(人工知能)であるGPT-2に、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の原文を始め、文献やWeb上の情報など数百年分のデータを入れて記述されたテキストを基に作曲されたオペラである。足立本人は敢えて「ロミオとジュリエット」の原文には触れないようにしたそうで、「おそらく、オペラ作曲家が原作を読まずに作曲した世界初のオペラでもあります」(無料パンフレットに記載された足立本人の文章より)とのことである。

英語上演(一部日本語あり)字幕なしということで、予約を入れた人に届いたメールには英語の原文と日本語訳が載ったPDFが添付されており、事前に読むことが推奨されている。テキストは当日に席の上に置かれたチラシの束の中にも入っている。

私は事前に2度読んで行ったが、AIは意味というものを理解することが出来ないということでハチャメチャなテキストになっている。「ロミオとジュリエット」の主筋は登場せず(別れの場だけ多少それらしかったりする)、突然、ゲームの話になったり(「ロミオとジュリエット」をビデオゲーム化したものがいくつもあって、その影響らしい)、「あんた誰?」という登場人物が何の予告もなしに出てきたり(「ロミオとジュリエット」の二次創作からの還元の可能性があるようだ)、矛盾だらけの文章が続いたりと、とにかく妙である。ただ、そんな妙な文章の中に、時折ふっと美しい一節が現れることがある。それまでの過程が奇妙なだけに、その美しさは際立つ。

中央から左右に開くタイプの黒い幕が開き、オペラ開始。ソプラノの太田真紀は中央に黒いドレスを纏って(正確に言うと、床に置かれた黒いドレスに潜り込んで)座り、ベールを被っている。顔は白塗りで、そのために真っ赤に口紅が引き立つ。山田岳は上手奥にいてギターを弾き始める。両手は血をイメージしたと思われる赤い塗料に染められている。

今日が世界初演の初日である。

9場からなるテキスト。上演時間は休憩時間15分を含めて約1時間20分である。
英語テキストなので聞き取れない部分も多いが、聞き取れたとしても意味は分からないので、そう変わらないと言えないこともない。

まずは第1場「ロミオ」は朗読から入り、第2場「ジュリエット」では、冒頭の「目をいつもよりちょっと大きく動かしてみましょう!」が日本語で語られる。
ボイスチェンジャーが使われたり、声が重なって聞こえるよう加工されたりする。

そんな中で第4場の「ジュリエットとサクラ」は純然とした朗読。太田真紀も情感たっぷりに読み上げるが、その実、文章の意味は通っていなかったりする。サクラなる人物が何者なのか良く分からないが、なぜか子どもが登場し(誰の子どもなのかも、サクラやジュリエットとの関係も不明)、街には当たり屋(?)がいて、裕也というこれまた謎の男が突如現れ、白人の男が黒いカーテンのようだと形容される(白人なのに黒とは如何?)。

第5場「カンティクル」も朗読だが、サクラと独立した彼女の腕との話になっており(「ロミオとジュリエット」からどうしてそんな話になったのかは不明。そもそもジュリエットはどこに行ったのだ?)、中上健次の初期の短編小説「愛のような」を連想させる。
ノーベル文学賞候補と言われながら若くして亡くなった中上健次。一週間後には私は中上健次の享年を超えることになる。

音楽的には、声が重層的になる部分がクイーンのアルバム「オペラの夜」を連想させたり、ラストの第9場「ジュリエット」では、山田岳の弾くリュートに乗せて、太田真紀がシェークスピアと同時代のイギリスの作曲家であるジョン・ダウランドを思わせるような叙情的な旋律を歌うなど(「A drop」のリフレインが印象的)、全体的にブリティッシュな印象を受けるのだが、実際には「イギリス」をどれほど意識していたのかは不明である。ただ、アフタートークで足立は第9場の音楽についてはやはりダウランドを意識したと語っていた。
エレキギターからアコースティックギター、リュートという時代に逆行した流れになっているのも面白い。

ジョン・ダウランドは、近年、再評価が進んでいる作曲家なので紹介しておく。シェークスピア(1564-1616)とほぼ同じ頃に生まれ(1563年説が最有力のようだ)、シェークスピアより10年長生きした作曲家で、オックスフォード大学で音楽を学んだリュートの名手であり、エリザベス女王の宮廷楽士になろうとするが、なぜか不合格となってしまい、やむなくヨーロッパ大陸に活躍の場を求めている。イタリア、ドイツ、デンマークなどで名声を得た後、1606年にイングランドに帰国し、1612年にようやくジェームズ1世の王宮にリュート奏者として仕官。シェークスピアは、その頃には引退間際であり、共に仕事をすることはなかった。同じ時代を生きながらすれ違った芸術家の代表格と言える。


テキストとしては、第7場「ジュリエット」における、「ロミオここにあり」「来たれ」が繰り返されるミニマルなものや、第8場「ロミオ」の「愛」と「死」と「肉体」の観念、第9場「ジュリエット」での「死」と「ひとしずく」の関係などが面白い。AIは意味というものを理解することは出来ないので、自動記述的に生み出されたものなのだが、理屈では捉えきれないが感覚的に飲み込むことの出来る何とも言えない愉悦がここには確かにある。

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2021年10月30日 (土)

コンサートの記(750) NISSAY OPERA 2021 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」日本語訳詞版上演@フェニーチェ堺

2021年10月23日 フェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、フェニーチェ堺大ホールで、NISSAY OPERA 2021 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。本業はバリトン歌手であるが、演出家、音楽学者、翻訳家など多分野で活躍し、『職業:宮本益光』という著作も出している才人、宮本益光の翻訳による日本語上演・字幕付きである。

指揮は園田隆一郎、演出は伊香修吾(いこう・しゅうご)という、今月上旬にびわ湖ホールでやはりプッチーニの歌劇「つばめ」を手掛けたコンビが続けての登場となる。演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団。フェニーチェ堺の最寄り駅は南海堺東駅であるが、大阪フィルが事務所を構える大阪フィルハーモニー会館の最寄り駅である南海天下茶屋駅から堺東までは各駅停車で7駅と近い。余談だが、大阪フィルハーモニー会館は、元々は南海の工場があった場所に建っており、南海の社長だったか重役だったかが、当時の大阪フィルの音楽監督だった朝比奈隆と京都帝国大学時代の友人だったという縁で建設が実現している。

出演は、迫田美帆(さこだ・みほ。ミミ)、岸浪愛学(きしなみ・あいがく。ロドルフォ)、冨平安希子(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、近藤圭(ショナール)、山田大智(やまだ・たいち。コッリーネ)、清水良一(ベノア)、三浦克次(アルチンドロ)、工藤翔陽(くどう・しょうよう。パルピニョール)。合唱は、C.ヴィレッジシンガーズ。

数あるオペラ作品の中でも屈指の人気を誇る「ラ・ボエーム」であるが、ボヘミアン(ボエーム)を描いているということもあって女性の出演者が少なく、対立のドラマが(見かけ上は)存在しないという特殊なオペラでもある。


今回の上演では、ミミが最初から舞台中央のソファベッドにおり、それを表すかのような第4幕の音楽が前奏として付けられているのが最大の特徴である。ミミはほぼ出ずっぱりである(ミミがこの部屋から出ることは一度もない。第1幕のラストでもドアの外までは出るが、階段を降りることはない。また本来の登場の場面も、ドアから入ってくるのではなくではなく、窓際に不意に立っているという設定になっている)が、他の出演者にミミの姿が見えないという場面が存在(特に最初の方は、ラ・ボエーム達がミミの姿に気づかないまま話が展開していく)しているため、リアルな女性ではないということが分かる。あの世へ行ったミミの回想のドラマというコンセプトらしいのだが、芸術家の卵達を描いた作品ということで、ミミを「ミューズ」と見立てたという解釈が一番面白いように思う。これなら単なる「視座」ではなく、「見守る女神」の視点となり、ミミの死が芸術家達の青春の終わりに繋がって、より効果的であり、私ならそうするが、中途半端なのを見ると(第4幕ではムゼッタも見えない存在として登場してしまう)そうでもないようである。ミミがずっといるからミミに焦点を当てたドラマになるということでもないため、それならばふいに現れては去って行くミミの儚さを強調した方が良いように思われる。あるとすれば、実はミミではなく、この部屋つまり彼らの青春の空間が主人公であり、ミミがその象徴としての役割を持つという可能性である。これならまあまあ面白いかも知れない。コロナ対策として取られた演出という面もあったようなのだが、6月の日生劇場の公演での評判を受けての堺公演でかなりの不入りということで、観客に受け入れられなかった可能性もある。

上演は基本的には全て室内で行われる。第2幕のカルチェ・ラタンの群衆の声は窓の外から聞こえ、第1幕でラ・ボエーム達が集っていた部屋(画家のマルチェッロが家主である)がそのままカフェ・モミュスに移行するというわけで、ムゼッタとアルチンドロは下手にある窓から屋内へ入って来て、ボエーム達も窓から退場する。リアルな演出でないため、これでも良いわけである。第3幕冒頭のアンフェール(インフェルノ)門の場面も屋外ではなく、部屋がそのまま移行して関税徴収所の内部として描かれる(舞台美術:二村周作)。

日本語による上演であるが、歌詞が日本語になったからといって聴き取りやすくなったということもなく(イタリア語に比べれば分かりやすい場面も多いが)やはり字幕に頼る場面も多かった。

フェニーチェ堺大ホールに来るのは二度目で、初のオペラ上演体験となるが、空間自体がそれほど大きくはないため(3階席の最前列で観たが、視界も良好である)、オペラには音響面でも「ジャストフィット」という印象である。オーケストラの音も通りやすく、歌声も聴きやすくて、声を張り上げても壁がびりつくということもない。歌手達の演技も上質だったように思う。

大阪フィルは、ドイツ音楽に特化した低音豊かな音が特徴だが、これがあたかもバリトンのカンタービレのように響き、こうしたイタリア音楽の再現も悪くない。園田隆一郎の音作りも「手慣れ」を感じさせつつ新鮮という理想的なものであった。

なかなか感動的な「ラ・ボエーム」であったが、演出が前衛と正統の中間であるため、どっちつかずの印象も受けてしまったのも確かである。

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2021年10月14日 (木)

コンサートの記(748) びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニ 歌劇「つばめ」2021.10.10

2021年10月10日 大津市の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニの歌劇「つばめ」を観る。園田隆一郎指揮大阪交響楽団の演奏。演出は伊香修吾。なお、園田と伊香は、今月下旬にフェニーチェ堺大ホールで日本語訳詞によるプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を上演する予定である(演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団)。
ダブルキャストで今日の出演は、中村恵理(マグダ)、熊谷綾乃(リゼット)、谷口耕平(ルッジェーロ)、宮城朝陽(プルニエ)、平欣史(ランバルド)、市川敏雅(ペリショー)、有本康人(ゴバン)、美代開太(クレビヨン)、山岸裕梨(イヴェット)、阿部奈緒(ビアンカ)、上木愛李(スージィ)ほか。原語(イタリア語)歌唱、日本語字幕付きでの上演。字幕担当は藪川直子。伊香修吾が字幕監修も行っている。

なお、東京ヤクルトスワローズにマジックナンバーが点灯しているが、「つばめ」ということで、舞台袖ではつば九郎の人形が見守っていることがSNSで紹介されていた。

上演開始前に、伊香修吾によるお話がある。注目の若手オペラ演出家である伊香修吾。東京大学経済学部を経て、同大学院経済学研究修士課程を修了するが、そのまま経済学やビジネス方面には進まず、英国ミドルセックス大学大学院舞台演出科修士課程を修了し、ザルツブルク音楽祭、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フォルクスオーパーなどで研鑽を積んだという比較的変わった経歴の持ち主である。びわ湖ホール オペラへの招待では、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の演出を手掛けている。

伊香は、まず「つばめ」が初演された時代の背景について、ココ・シャネルをモデルに語る。ココ・シャネル(「ココ」は愛称で、本名はガブリエル・シャネル)が、パリにサロンを開いたのが、今から丁度100年前の1921年のこと。シャネルのサロンには、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが出入りしていたという。
行商人の娘として生まれたシャネルは、12歳の時に母親を亡くし、父親はフランス中を旅していてそばにいられないということで教会が運営する孤児院に入れられ、そこで育つことになる。その後、22歳の時にキャバレーで歌手としてデビュー。この時代にはまだ歌手や女優というのは売春婦と同義語であり、シャネルも元将校の愛人となって、歌手として大成は出来なかったものの、後にデザイナーとして頭角を現していくことになる。シャネルだけが特別なのではなく、この時代は資産家の愛人となる以外に資金を得たり自立したりといった術はほとんどなく、今とは女性の存在価値自体が大きく異なっていた。これが「つばめ」が初演された時代のパリである。

「ラ・ボエーム」と背景が似ているといわれる「つばめ」であるが、シャネルの例からもわかる通り、この時代のフランスは女性の地位が著しく低く、貴族階級の生き残りや新興のブルジョワジーなどの良家や資産家に生まれなかった女性は、低賃金労働に従事せざるを得ず、それでも搾取の対象で、どれだけ働いても生活するのに十分な金銭を稼ぐことは到底無理であり、愛人として囲われたり、売春をして日銭を稼ぐしかなかった。その中で特に寵愛を得た者は高級娼婦(クルティザンヌ)となっていく。「椿姫」のヴィオレッタ(原作ではマルグリット)が特に有名だが、「つばめ」のヒロインであるマグダも銀行家のランバルドをパトロンとする高級娼婦である。

「つばめ」は、プッチーニの歌劇の中でも人気がある方ではなく、上演される機会も少ない。ということで伊香は、プッチーニが上演の機会に恵まれない「つばめ」のことを気に掛けながら亡くなったということを紹介してから、「これが『オペラへの招待』のみではなく『つばめ』への招待となるように」「皆様が『つばめ』のようにびわ湖ホールに舞い戻って来られますように」という話もしていた。タイトルとなっている「つばめ」は、マグダの性質を燕に重ねたものである。渡り鳥である燕は、遠く海を越えた場所へと飛び去っていくが、1年後に元の巣へと戻ってくることで知られている。

3幕からなる歌劇。第1幕はマグダのサロン、第2幕はブリエの店(ダンスホール)、第3幕は南仏コート・ダジュールが舞台となっている。今回の上演では舞台となる時代は、第二帝政期から1920年代に置き換えられている。

サロンの運営者であるマグダは、豪奢な生活を送っている。不満も述べるマグダだが、他の夫人からは、「貧乏していないから分からないのよ」とたしなめられる。マグダは少女時代に、ブリエの店(今もその名残はあるが、この頃のダンスホールはちゃんとした身分の人はほとんどいない場所である)で若い男性に一目惚れする。まだ男を知らなかったマグダは恐怖心を抱いて逃げてしまったため、この初恋は2時間しか持たなかったが、マグダはまたあの時のようなときめきを味わいたいと語る。
サロンに出入りする詩人のプルニエは、戯曲なども書いているようで、2時間のみの恋を題材にした作品を書こうと語ったりするのだが、手相も見られるようで、マグダの手相を見て、「運命に導かれ、つばめのように海を越え、愛を目指すだろう」(伊香修吾の訳)と診断する。そこにランバルドの旧友の息子であるルッジェーロがやって来る。パリは初めてのルッジェーロが「パリを観光するならまずどこに」と聞くと、プルニエは、「ブリオの店だ」と即答し……。

高級娼婦というのは、愛人の援助を受けて、場合によっては社会的な成功を収めることも可能だが、基本的に好きな男性と結婚することは出来ない。マグダも身分を隠したままルッジェーロと恋に落ちるが、身分故に最初から結婚に行き着くことは不可能であり、また元の場所へと戻っていく。その姿が「つばめ」に重ねられている。

「高級娼婦は好きな人と結婚出来ない」。このことは初演が行われた時代には常識であり、「当たり前のことが上演されている退屈なオペラ」と見られるのも必然であったように思う。悲恋でもなんでもなかった。ただ、身分違いの恋は、初演から100年を経た今現在では十分に悲恋の要素をはらんでいるように見受けられる。実際、「つばめ」の日本での上演は21世紀に入ってから大幅に増えているようだ。


伊香修吾は、常に紗幕が降りているという演出を採用。紗幕に様々な映像が投影され、モノクロの映画を観ているような気分を味わえる。実はこのことは説明的な要素だけでなく伏線ともなっていて、第2幕には、自転車に二人乗りしたルッジェーロとマグダがパリの名所(凱旋門、ノートルダム大聖堂、エッフェル塔など)を回るという、本来にはない場面が用意されているのだが、これが名画「ローマの休日」の名場面に重なって見える。おそらくかなり意識していると思われるのだが、「つばめ」にはもう一組、これまたオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」(原作はバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』)を連想させるカップルが登場する。詩人のプルニエと、マグダの女中であるリゼットで、プルニエはリゼットに詩人の恋人に相応しい行いをするように命じている。結果としてこのピグマリオンは失敗に終わるのだが、そこからの連想で「ローマの休日」へと繋げるアイデアが生まれたのかも知れない。これが当たっているのかどうかは分からないが、「ローマの休日」ならぬ「パリの休日」の場面は本当に微笑ましく(俗にいう「キュンキュンする」場面である)、第1幕で歌われる「ドレッタの美しい夢」そのものである。ちなみにドレッタというのはプルニエが書いた詩劇のヒロインのことである。

「つばめ」自体は知名度の高いオペラとはいえないが、「ドレッタの美しい夢(ドレッタの素晴らしい夢)」は、40代以上の方は聞き覚えはあると思われる。1990年頃だったと思うが、当時新進ソプラノであった中丸三千繪がこの曲を得意としており、テレビCMにも採用されていた。

評価の高いソプラノ、中村恵理の歌は本当に圧倒的。スケールといい、声の艶と輝きといい文句なしの歌唱である。

「つばめ」の登場するもう一組のカップルであるプルニエとリゼットは実はもっと注目されても良いように思われる。ピグマリオンに失敗して別れるかと思った二人なのだが、プルニエはそのままのリゼットを受け入れるのである。それまでには余り見られなかったタイプのキャラクターだ。プルニエという人物は、進歩的であると同時に一連の出来事の仕掛け人的立場であり、かなり魅力的である。

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2021年9月13日 (月)

配信公演 古瀬まきを主演 プーランク オペラ「人間の声(声)」YouTube配信アーカイブ視聴

2021年9月2日

YouTubeで、古瀬まきを主演によるプーランクのオペラ「人間の声(声)」を視聴。8月9日に上演と同時配信とが行われた公演で、終演後1ヶ月はアーカイブとして映像を観ることが出来る。
プーランクのオペラ「人間の声」は、ジャン・コクトーのテキストを用いたモノオペラ(一人で演じるオペラ)である。

コクトーの一人芝居「声」は、青山のスパイラルホールで、鈴木京香の主演、三谷幸喜の演出で観たことがあるのだが、鈴木京香、三谷幸喜共に陽性で健康的な表現を得意とする人であるためか、痛切さはほとんど感じられなかった。鈴木京香が高校時代に陸上部だったということで、そうした要素も入れて笑いに変えていたが、この作品には笑いの要素は夾雑物でしかないように思われる。

オーケストラ伴奏によるプーランクの「声」は、「近江の春びわ湖クラシック音楽祭」2019において、石橋栄実の主演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏、中村敬一の演出によるものを、びわ湖ホール大ホールでハーフステージ形式で聴いており(石橋栄実は体調不良で降板した砂川涼子の代役)、追い込まれた女の孤独が浮かび上がる優れた出来であったのを覚えている。

今回の上演は、コロナ感染拡大に配慮し、入場者20名と数を抑えて行われる公演で、關口康佑によるピアノ伴奏版と、歌い手だけでなく演奏者も一人きりの版での上演である。
字幕は、昨年11月に他界した藤野明子による日本語訳詞が用いられている。

なお、古瀬まきをは、2019年に行ったプーランクのオペラ「人間の声」を中心としたソプラノリサイタルで、第40回音楽クリティック・クラブ賞奨励賞を受賞している。


ジャン・コクトーのテキストによる一人芝居「人間の声(声)」が初演された1930年時点では、一人芝居はそれほどポピュラーなジャンルではなかった。一人語り形式のものは勿論あったが、朗読されることの方が多く、「声」のように語りではなくセリフのみで行われる一人芝居はほとんど例がなかった。「声」は、ある女性(名前不明)がある男(こちらも名前不明)と電話で話している状態を描いた作品である。当時はまだ電話は高級品で、一般にはそれほど普及しておらず、今と違って交換手を通じて望む相手に繋いで貰う必要があり、また混線があるなど、必ずしも便利な道具という訳ではなかった。この作品でも、混線や偶然起こった傍受などは女を焦らせ、苛立たせる。また今のようにワイヤレスではなく、電話機に伸びる電話線も、受話器と電話本体を繋ぐコードも長く、これがラストへと繋がっていく。

電話という当時はまだ新しい装置が、声は近くにあるが体は遠いという、当時としては奇妙なパースペクティブとアンバランスを招いている。また、犬の存在が、間接的かつ絶対的な男女の分け隔てを象徴する。

コクトーの原作では、女が外国語を話すシーンがある(オペラ版ではカットされている)。コクトーは「出演している女優が最も得意とする外国語を話すこと」としているのみで、何語を話すのが適切なのか指示はしていない。いずれにせよ、この女性がフランス語圏以外の外国籍で、出身身分もそれほど高くなく、経済的手段も能力もなんら持ち合わせていないことが分かってくる。当時のフランスは今よりもかなり差別が酷く、外国籍である程度年齢がいった女性が職に就ける可能性はまずない。あったとしても洗濯婦など最底辺の肉体労働で身も心もすり減らしていくだけだ。
そんな女が、5年間囲われていた男に捨てられた。女は睡眠薬自殺を図るのだが、命は取り留める。男からの電話に、女は「睡眠薬は飲んだが1錠だけだ」と嘘をつく……。

電話の向こうの男の声は聞こえないので、観る側が想像する必要がある。そのため、自由度が高いと同時に、内容を把握するのは困難で、100%想像するのはほぼ不可能である。観る者、聴く者に許されるのは、おおよその状況把握のみである。
ただ、オペラ「人間の声(声)」はプーランクが作曲した音楽によって、その場の空気や心理状態はある程度規定される。そういう意味では原作の一人芝居版よりもモノオペラ版の方が入りやすいかも知れない。

女にはマルトという女友達がいて(マルトというのはジャン・コクトーの実姉と同じファーストネームだが、どの程度関係があるのか、あるいは無関係なのかは不明。たまに「モルト=死」(この単語は劇中に登場する)に聞こえてゾッとするが、フランス人は多分間違えないだろう)、男と女が暮らしていた家の執事の名はジョゼフという。女が自殺未遂を図った際には、マルトが駆けつけ、マルトが医師を呼んだために女は助かっている。だが今はマルトは家に帰り、女は一人である。電話の向こうで男は、「マルトの下に身を寄せてはどうか」と提案しているようだが、女はそんな身勝手な真似は出来ないと断る。

男と女の甘い思い出が語られる際には、プーランクの音楽もロマンティックなものへと傾く。「パリのモーツァルト」の異名を取ったプーランク。甘い旋律を書かせると天下一品である。

男が新しい女と旅行に出ようとしているのは確実で、男が家から電話しているというのも交換手によって嘘であることが分かる。そして男は、かつて女と暮らしていた時に女にしてくれたのと同じ事を新しい女としようとしている。思い出が上書きされる。忘れ去られる。

女にとっては、おそらくは生活が出来なくなるということよりも、男が他の女のものになるということの方が耐えられない事実なのだと思われる。電話コードを体に巻き付け、男の声を体で感じながらの死は(ただし、今回の演出では死は明示されない)、単なる自殺というよりも男の声に抱かれた「空想の上での情死」を女が選んだことを仄かに伝えている。

明るすぎても暗すぎても良くないという、高度な演技が要求されるオペラであるが、古瀬まきをは過不足のない演技で、地球の外に放り出されたかのような女の孤独を炙り出していた。

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