カテゴリー「オペラ」の142件の記事

2026年3月 4日 (水)

コンサートの記(951) 京都市立芸術大学第179回定期演奏会大学院オペラ公演 ドニゼッティ 歌劇「愛の妙薬」 阪哲朗指揮

2026年2月19日 京都市立芸術大学・堀場信吉記念ホールにて

午後6時から、京都市立芸術大学崇仁新キャンパスの堀場信吉記念ホールで、京都市立芸術大学第179階定期演奏会大学院オペラ公演、ドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」を観る。指揮は京都市立芸術大学音楽学部作曲専攻出身で、京都市立芸術大学指揮専攻教授の阪哲朗。佐渡裕と共に、京都芸大出身指揮者の筆頭候補だが、佐渡もフルート専攻出身であり、指揮専攻からはこれといった指揮者が出ていない。指揮専攻から次から次へと逸材が登場する東京芸大や桐朋学園大、東京音大とは対照的である。オーケストラは京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団。合唱は京都市立芸術大学声楽科在学生が務める。
出演は、アディーナが4人体制で、北田実佳、石原のぞみ、伊吹日向子、碓井莉子。「愛の妙薬」には準ヒロイン的立場の人がいないので、当然ながらアディーナに出演者が集中する。ネモリーノに廣瀬響、ベルコーレに池田智樹、ドゥルカマーラに大西凌、ジャンネッタに松井偉乃里。他に大学院生4名、大学院研究生1名が出演する。
恋愛を題材にしたドタバタ劇だが、最後は恋愛に必要なのは妙薬ではない、という結末に至る、一種の人間讃歌である。

イタリアの作曲家によるイタリア語の歌劇だが、スペインのバスク地方が舞台となっている。イタリアの歌劇というと、この間触れた、ヴェリズモオペラも有名だが、「愛の妙薬」はオペラ・ブッファ(喜劇的オペラ)である。
関西では上演の機会が少なかった「愛の妙薬」だが、このところ3度立て続けに上演される。内容的には笑いが中途半端なので関西人には受けないかも知れない。

演出は、久恒秀典。ICUこと国際基督教大学で西洋音楽史を専攻した後、東宝演劇部を経て、イタリアに渡り、ボローニャ大学、ヴェネツィア大学文学部、マルチェロ音楽院オペラ科に学び、ヴェネト州立ゴルドーニ劇場演劇学校でディプロマ取得。
現在は、新国立劇場オペラ研修所、東京藝術大学、東京音楽大学、京都市立芸術大学などで教えている。

 

純朴な農夫のネモリーノは、教養ある農場主の美女アディーナに恋しているが、アディーナが読書などをたしなむのに対して、ネモリーノはおそらく文盲で、アディーナは高嶺の花であり、アプローチすら出来ない。
一方、軍曹のベルコーレが、アディーナに求婚。恋のレースにおいてリードする、と書きたいところだが、ネモリーノはアディーナの視界にすら入っていない。
そこへインチキ薬売りのドゥルカマーラ博士が登場。これを飲めば恋路が全て上手くいくという「愛の妙薬」をネモリーノに売りつける。ちなみに「愛の妙薬」の中身はボルドーワインで薬ですらない。ただボルドーワインは美味しそうである。
「恋の妙薬」は1日経たないと効き目が出ない。しかし、1日経つ前にネモリーノに不利な出来事が次々に起こり……

抽象的だが可愛らしいセットでの上演である。服装は、初演された時代に近いものを採用。

阪はいつもながらに活気に満ちた音楽を引き出す、と書きたいところだが、阪の要求に応えるには京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団は非力で、美しく纏めた音楽を奏でた。阪の個性を生かすためにはプロオーケストラ相手でないと難しいようだ。

京都市立芸術大学大学院声楽専攻の歌手達は、いずれも美声であり、セリフの内容を上手く把握した歌唱をしていたように思う。
オペラ歌手の動きには、定番と呼ぶべきものがあり、今回も歌手達はそれをなぞっていたが、これからもそうあり続けるのかどうか微妙なところである。ただオペラの演出を演劇の演出家が手掛けるケースが増えているが、外国語も分からなければ、背景の把握も同時代の他の芸術との絡みなどに関しても知識不足であるため、止めた方が良い。日本人がオペラ演出するのはそれほど難しいということである。

「愛の妙薬」というタイトルだが、最終的に「愛の妙薬」なんてなくてもハッピーエンドとなる。ひょっとしたら「愛の妙薬」が登場しなくても完成する話だったのかも知れない。そういう意味では、「愛の妙薬」というタイトルが「愛の妙薬」を否定する仕掛けになっているとも言える。

演技面だが、軍隊が登場する際に、ダラダラとした感じで、「この国、どこと戦争しても勝てないぞ」という感じなのがマイナス。女性の出演者が多いが、全員で同じ動きをするときに今ひとつ決まらず。ただ個々に動いているときはリアルで良かった。

京都市立芸術大学A棟ビルの3階にある堀場信吉記念ホール(長いので略称として、「ホリバホール」を使うことが増えるかも知れない)。入り口までは階段で行くのだが、照明がないため、ソワレ終演後は足下の段差が分からず危険だったが、思うことは皆同じであるため、誰かの提言で照明が取り付けられた。これで欠点はトイレの狭さだけということになる。急勾配のホールだけに、それが危険と感じる人はいるかも知れない。

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2026年3月 3日 (火)

コンサートの記(950) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXXⅠ ヴェルディ:歌劇「椿姫」 ディエゴ・マテウス指揮

2025年3月16日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後3時から、左京区岡﨑のロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩⅩⅠ ヴェルディ:歌劇「椿姫」を観る。

小澤征爾は亡くなったが、その志は若い人々へと受け継がれている。

今回も指揮者は、小澤征爾音楽塾首席指揮者のディエゴ・マテウス。演出は、デイヴィッド・ニースが手掛ける。小澤征爾には、創設者と共に永久音楽監督の称号が追贈されている。
小澤征爾音楽塾副塾長(実質的なトップ)には、チェリストの原田禎夫。アシスタント・ディレクターには、小澤征爾の娘である小澤征良(せいら)が就いている。

出演は、ニーナ・ミナシアン(ヴィオレッタ)、カン・ワン(アルフレード・ジェルモン)、クイン・ケルシー(ジョルジュ・ジェルモン)、メーガン・マリノ(フローラ)、牧野真由美(アンニーナ)、マーティン・バカリ(ガストン子爵)、井出壮志朗(ドゥフォール男爵)、町英和(ドビニー侯爵)、河野鉄平(こうの・てっぺい。医師グランヴィル)。
管弦楽は小澤征爾音楽塾オーケストラ。合唱は小澤征爾音楽塾合唱団。

原作小説・戯曲:アレクサンドル・デュマ・フィス。台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ。

 

ベネズエラの「エル・システマ」出身のディエゴ・マテウス。「エル・システマ」が輩出した有力指揮者としては、グスターボ・ドゥダメルに次いで二人目であり、単にドゥダメル一人に才能があったわけではなく、「エル・システマ」の有効性を示した人物でもある。「第二のドゥダメル」と呼ばれたこともあるが、最近はこの称号で呼ばれることは余りないようである。
小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトの演出の多くを手掛けているデイヴィッド・ニースは、メトロポリタン歌劇場の演出家として長年活躍してきた人物である。
ヴィオレッタを歌うニーナ・ミナシアンは、アルメニア出身。アルフレード役のカン・ワンは中国系オーストラリア人である。アルフレードの父親役のジョルジュを歌うクイン・ケルシーはハワイ出身。見た目から原住民系であると思われる。ハワイ大学マノア校で音楽を学び、卒業後に欧米で活躍している。
日本人キャストも全員出身校が異なり、バラエティーに富んだ人選となっている。

 

紗幕にパリの情景が描かれている。エッフェル塔、セーヌ川、ポン・ヌフ、ノートルダム大聖堂。おそらくこれらが一度に見える場所はないので架空のパリなのだろう。「椿姫」が初演された時には、エッフェル塔はまだなかったと思うが、パリらしさを演出するためなのでいいだろう。

前奏曲を、マテウスは極めて小さな音でスタートさせる。その後も繊細な表現が続くが、華やかさが徐々に増していく。小澤征爾音楽塾オーケストラは、日本、韓国、中国などで行われたオーディションで選ばれた若い音楽家による団体だが、よく訓練されていて、アンサンブルの精度も高い。このオペラではフルートが重要な場面で演奏されるのだが、マテウスはフルートを上手く浮かび上がらせていた。
「椿姫」の音楽は三拍子系のものが多いのも特徴である。最も有名な「乾杯の歌」も三拍子であるが、この曲はカラオケ(JOYSOUND)に入っていて歌うことが出来る。

前奏曲の途中で紗幕が透け、ヴィオレッタ達が立っているのが見える。
ヴィオレッタは高級娼婦である。大金を手に入れることが可能だが、結婚は許されていない。そのヴィオレッタがアルフレードという若者に恋をしたことから起こる一騒動と、若くしての病死を描いた悲劇である。
私は、2002年に京都芸術劇場春秋座で行われた京都造形芸術大学(当時)と京都市立芸術大学音楽学部との合同公演で初めて「椿姫」を観ており(あの頃は二校は仲が良かった)、その後も春秋座のオペラ、佐渡裕が指揮した神戸文化ホールでの上演を観たことがある。

近年は、象徴的な演出が行われることも多い「椿姫」だが、デイヴィッド・ニースの演出は奇をてらわないオーソドックスなもので、まず「演技で見せるのだ」という強い意志が感じられる。ヴィオレッタは不治の病に冒されている。通常は死因となる結核という解釈が取られるが、結核の割りには元気な描写があったり、隔離されたりなどの措置が取られていないため、結核にかかったのは死の直前で、不治の病は別のものなのかも知れないが、ヒントとなるものがないため、現状ではやはり結核とするのが無難なように思う。

歌手達の水準は高く、ロームシアター京都メインホールということで声もよく通り、オーケストラの音も美しく聞こえる。

装置や衣装を手掛けたのはロバート・パージオーラだが、フローラの屋敷の場では、壁も登場人物の衣装も真っ赤で統一。特に深い意味はない(吐血のイメージは込められていると思う)と思われるが、インパクトはある。その他の場面でも装置はお洒落である。

第3幕で瀕死のはずのヴィオレッタが朗々と歌うのが、「リアルでない」と言われることもあるが、内面の吐露なのでそんな指摘をしても仕方ない気もする。今回、ヴィオレッタを演じたニーナ・ミナシアンは、ベッドの上にアルフレードと並んで座った時に、何度か頭に手をやって具合が悪そうに見せるなど、リアルな演技を見せていた。

 

この上演もカーテンコールでの撮影は可となっており、SNSへのアップも許されていた。

なお、今回の公演を持って、ロームは小澤征爾音楽塾から撤退することを明らかにした。

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2026年2月 4日 (水)

コンサートの記(946) びわ湖ホール オペラへの招待 モーツァルト作曲「劇場支配人」&レオンカヴァッロ作曲「道化師」2026.1.24

2026年1月24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

大津へ。びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 モーツァルト作曲「劇場支配人」&レオンカヴァッロ作曲「道化師」を観る。

「道化師」は、京都国立博物館中庭特設会場で、吉田裕史(ひろふみ)指揮ボローニャ歌劇場フィルハーモニーによる大規模キャストによる野外公演を観たことがあるが、「劇場支配人」を観るのは初めて。「劇場支配人」序曲は、以前に「題名のない音楽会」のオープニング&エンディングに使われていた

キンボー・イシイ指揮日本センチュリー交響楽団の演奏(コンサートマスター:松浦奈々)。日本センチュリー交響楽団は、びわ湖ホール中ホールでのオペラ上演にたびたび呼ばれているが、中規模編成のオーケストラだけに中ホールの小さめのピットでも威力を発揮出来るからだろう。ただ日程によっては、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団や大阪交響楽団が入ったりもする。
大ホールでのオペラ上演は京都市交響楽団が受け持つことが多い。何と言っても隣町のオーケストラである。

キンボー・イシイは、本名を石井欽一といい、キンボーはヨーロッパでのニックネームである。ただ、欽一というと欽ちゃんこと萩本欽一のイメージが強いからかどうかは分からないが、師である小澤征爾から「お前はキンボーを名乗れ」と言われ、それを守っている。一時は、キンボー・イシイ=エトウと名乗っていたが、長いからか、いつの頃からかキンボー・イシイとなっている。
冗談みたいな名前の人だが、ヨーロッパを中心にオペラ指揮者として活動しており、ベルリン・コミッシェ・オーパーの首席カペルマイスターを経て、マクデブルク劇場音楽総監督、大阪交響楽団首席客演指揮者、ドイツ・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州立劇場音楽総監督などを歴任している。
ウィーン市立音楽院でヴァイオリンをバリリ四重奏団で知られるワルター・バリリに師事。ジュリアード音楽院でも当初はヴァイオリンを専攻していたが、怪我のために途中で指揮に転向。前述、小澤征爾やサイモン・ラトルに師事している。

演出と日本語台本を務めるのは、お馴染みの中村敬一。「ザ・スタッフ」所属ということで、岩田達宗とも同僚だった人である。国立(くにたち)音楽大学招聘教授、大阪音楽大学客員教授。沖縄県立芸術大学講師などを務めている。沖縄県人の多くは、クラシック音楽を聴く習慣がないと言われているが(古くからの民謡や伝統音楽と、アメリカ統治時代に入ったロックやジャズなどが盛んで、クラシックが根付く土壌自体が形成されなかった)、県立の芸術大学があり、砂川涼子などスター歌手も生まれているため、普及に期待が持たれている。

 

上演前に、中村敬一による解説がある。1時間ほどの短いオペラ2本で、いずれももう1本の中編オペラと併せて上演されることが多く、特に「道化師」は、イタリアのヴェリズモ(現実)と呼ばれたオペラであり、ヴェリズモオペラのもう1本の代表作であるマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」との組み合わせで上演されることが多いが、今回はそうではなく、「劇団」を巡る2本の物語としている。
モーツァルトの「劇場支配人」はタイトルとは裏腹に、劇場ではなくシェーンブルン宮殿の温室で上演するために作られた、どちらかというと余興に近いオペラである。オペラと書いたが、セリフを喋るだけの人も多く、アリアも少ないことから、ジャンル的には「魔笛」同様、ジングシュピールに分類される。セリフも歌詞もドイツ語だ。ヨーゼフ2世がドイツ語によるオペラ「ドイツ国民劇場」運動に力を入れており、サリエリがイタリア語のオペラ・ブッファを、モーツァルトがドイツ語のジングシュピールを書き、同日に続けて初演されている。サリエリが書いたオペラのタイトルは、「はじめに音楽、次ぎに言葉」である。1786年2月7日初演ということで、中村は「寒かったんじゃないか」と思ったそうだが、実際にシェーンブルン宮殿の温室行ってみたところ、温水が壁の向こうの管に常に流れているような施設で、暖かかったそうだ。両作品はヨーゼフ2世が義弟に当たるオランダ総督夫妻をもてなすための上演で、一般市民は会場にいなかったものと思われる。

「道化師」は、3人の作曲家にまつわる話があり、イタリアで行われた1幕物のオペラコンクールで、プッチーニが「妖精ヴィッリ」を送るも落選。しかしボーイトが高く評価して初演に漕ぎ着ける。初演時のピットに音楽院時代以来のプッチーニの友人であるマスカーニがコントラバス奏者として参加していたそうだが、上演は大成功。マスカーニは負けじと1幕物のオペラを書く。これが「カヴァレリア・ルスティカーナ」でコンクールで、当選を果たす。その上演の成功を目の当たりにしたレオンカヴァッロが書いた1幕物オペラが「道化師」である。コンクールには最終選考に残らず落選したが、コンクールの主催者が高く評価し、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮で行われた初演は大成功したが、レオンカヴァッロの成功作はこの1作だけとなったようである。作曲以外には台本作家、教育者として活躍した。レオンカヴァッロに刺激を与えたマスカーニもまたヒット作は「カヴァレリア・ルスティカーナ」1作に留まっているようだ。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」は実は原作を岩波文庫で読むことが出来るのだが、ごくごく短い物語であり、特にどうということもない作品である。オペラの方がずっと面白い。

 

歌劇(またはジングシュピール)「劇場支配人」。Wキャストで今日の出演は、脇阪法子(ヘルツ夫人)、高田瑞希(たかだ・みずき。ジルバークラング嬢)、古谷彰久(ふるや・あきひさ。フォーゲルザング)、林隆史(ブフ)、有ヶ谷友輝(ありがや・ともき。フランク)、佐貫遙斗(さぬき・はると。アイラー)、山田結香子(プファイル夫人)、岩石智華子(いわいし・ちかこ。クローネ夫人)、五島真澄(ヘルツ)、徳田あさひ(とくだ・あさひ。マドモアゼル・ルイーズ)。

まずは、現実の話。びわ湖ホールが今年の7月から改修工事に入るが、びわ湖ホール声楽アンサンブルはどこで活躍すればいいのかという話になって、滋賀県内を地方巡業と明かされるが、そこで劇場支配人のフランク(有ヶ谷友輝)が小さな劇団を作ろうとしていることを打ち明ける。それを知った人々が、「我こそが劇団に相応しい」と名乗り出てくるという芝居である。
初めの方はセリフだけという珍しい展開でもある。セリフは基本的に日本語で関西弁も混じるが、時折、ドイツ語が用いられる。
演技はオペラならではのもので、演劇的ではないが、演劇風の演技をしている人がいきなり歌い始めるのも差が激しすぎて妙なので、「オペラという架空世界の演技」として見るしかない。それはそれで楽しい。

今日が初日であるが、そのため緊張したのか、歌や振る舞いに堅さの見える人が何人かいる。今日のキャストは、1月26日にも出演する。平日のマチネーになるが、そちらの方が良い歌唱になりそうである。

出てくる人は皆、自身満々。「私より良い歌手はいない」と堂々と宣言し、「あなた程の人は他にはいない(「そこまで天狗な人はあなただけ」という当てつけ)」「あなたはいくらで契約したの?」「私より高いはずがない」というやり取りがある。
今回はフォーゲンザング夫人をマドモアゼル・ルイーズ(徳田あさひ)というバレリーナに変えて登場させているが、これは中村敬一が作り上げたキャラだそうだ。「びわ湖ホールの大規模改修期間における芸術家たちの活動ぶり」を示すためのキャラだそうだが、ジャンルの違うバレエで和らげようという意図もあったのだと思われる(元々のセリフは金に関する話ばかりでえげつないらしい)。
背景はいくつかのスクリーンを組み合わせたものだが、最後には一番大きなスクリーンにびわ湖ホール中ホールの客席が映り、これが遠い18世紀のことでなく今のびわ湖ホールの改修にも繋がっていることを示していた。なお、上野の東京文化会館も改修工事にはいることがセリフで告げられていた。
キンボー・イシイ指揮の日本センチュリー交響楽団はピリオド・アプローチを採用。古典様式を守った上で活気ある音楽を生んでいた。

 

レオンカヴァッロの歌劇「道化師」。出演は、福井敬(けい。カニオ)、船越亜弥(ネッダ)、西田昂平(こうへい。トニオ)、福西仁(じん。ペッペ)、大野光星(こうせい。シルヴィオ)。
「ヴェリズモ」と呼ばれるジャンルのオペラの代表作である。イタリア人は陽気で明るいイメージがあるが、こと芸術作品となるとシリアスな悲劇が好まれる傾向がある。

旅回りの芝居の一座に起こった悲劇である。殺害事件が観客の目の前で起こる(ギリシャ悲劇以来、悲惨なシーンは舞台裏で行われるのが慣習だった。ビゼーの歌劇「カルメン」の初演が失敗したのも、客の見えるところで殺害シーンが行われたからでもある。ちなみに歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」も殺害は舞台裏で起こることになっているが、舞台上で起こるようにした演出もある)。

まず、足が不自由な道化役のトニオの口上で始まる。ステージ上には人が多いが、それでも「群衆」と呼ぶには足りないので、歓声などはスピーカーから録音されたものを流す。
座長のカニオとネッダは夫婦だが、ネッダは男にもて、トニオに言い寄られたり(鞭でぶって返り討ちにする)、村の青年であるシルヴィオと駆け落ちの約束をしていたりする。ネッダとシルヴィオがベンチの上で抱き合っているところをカニオが目撃したことから全ての悲劇が始まる。カニオはネッダに相手の名前を言うよう迫るが、座員ペッペがなだめる。
開演が迫り、カニオは衣装を纏い、化粧をするが、ここで歌われるのが有名な「衣装を纏え」である。オペラの冒頭にもこの旋律は登場する。ケヴィン・コスナーの出世作である映画「アンタッチャブル」で、ロバート・デ・ニーロ演じるアル・カポネが劇場のボックス席でこのアリアを聴きながら感動の涙を流しているところへ、配下からの「暗殺成功」の報告を受けて、一転ほくそ笑むというシーンに使われていることでも知られている。
一座の芝居が始まる。劇中劇である。アルレッキーノ(男の道化役でトリックスターのこと。代表例は「フィガロの結婚」のフィガロ)はペッペ、コロンビーナ(女の道化役で恋の取り持ち役のこと。代表例は「フィガロの結婚」のスザンナ)はネッダが務める。
心理劇の妙味として、カニオはネッダが抱き合っていた相手の名前を言わないから刺したのではない。それなら実にありきたりだ。実際は、トニオが間に入ったことで目撃した逢瀬を思い出し、逆上してネッダを刺すことになる。能天気にも顔が割れているにも関わらず芝居を見に来ていたシルヴィオも刺す。そしてラストの「喜劇は終わりました」のセリフは本来はトニオが語って、始めと終わりを結ぶことになるが、今回はカニオが客席の方を向いて語る。ベートーヴェンの遺言と同じ意味を持つことになる。

キンボー・イシイの指揮姿は私が座っていた席からもよく見えたが、キビキビとしてエモーショナルなものであった。生み出される音もダイナミックであり、ラストでは心を揺すられる思いであった。
どこぞで、「テノール界のラスボス」とも呼ばれている福井敬の歌はダイナミックで感情の表出も豊かであった。ネッダをコケティッシュに演じた船越亜弥のこれまでのイメージを覆す歌と演技も良かった。

 

びわ湖ホール オペラへの招待は何度も見聞きしているが、今回は上位に来る出来であったように思う。

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2026年2月 1日 (日)

コンサートの記(945) 下野竜也指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第594回定期演奏会 バルトーク 歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)ほか

2026年1月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第594回定期演奏会を聴く。今日の指揮は下野竜也。大フィル指揮研究員として朝比奈隆の下で学んだ指揮者でもある。ちなみに朝比奈の指揮に接した第一印象は、「何を振ってるのか分からないし、それなのに凄い音が出ていて訳が分からない」だったそうである。
現在は、NHK交響楽団の正指揮者、札幌交響楽団の首席客演指揮者、広島ウインドオーケストラの音楽監督を務め、広島交響楽団から桂冠指揮者の称号を得ている。吹奏楽出身の指揮者だけに広島ウインドオーケストラの音楽監督として吹奏楽の普及にも励んでいるものと思われる。

曲目は、大栗裕(おおぐり・ひろし)の管弦楽のための「神話」、小山清茂の管弦楽のための鄙歌第2番、バルトークの歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式。全一幕。出演:宮本益光、石橋栄実、田中宗利)。

いつものドイツ式の現代配置。今日のコンサートマスターは崔文洙だが、最前列の席だったため、崔文洙の隣で誰が弾いているのか見えず。真っ正面のコントラバスと、ヴィオラ奏者達の背中を見ることになる。管楽器はトロンボーンがわずかに見えるだけ。ただ「青ひげ公の城」ではトロンボーンが高い台に上って吹いたため、よく見えていた。

 

大栗裕の管弦楽のための「神話」。「天岩戸」を題材にした作品である。大阪フィルハーモニー交響楽団のホルン奏者にして、大フィルのための作品も多く書いた大栗裕。下野竜也が大阪フィルを指揮してレコーディングデビューしたのも大栗裕作品であった。
大栗は大阪・船場の生まれ。天王寺商業学校(現・大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校)を卒業後、実家の小間物問屋を継ぐが、音楽を志し、旧東京交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)や日本交響楽団(現・NHK交響楽団)のホルン奏者として活躍。朝比奈に呼ばれ再び大阪へ。関西交響楽団時代の1955年に大フィルに入団し、1966年まで在籍。その後は作曲家として活躍している。
管弦楽のための「神話」は、天岩戸が閉じたところから始まり、どうやったら天照大神が出てくるのか神々が考えるところから始まる。太陽神である天照大神が引きこもってしまったため、この世は闇である。ちなみに天照大神は伊勢神宮(内宮)に祀られてからも、「一人で食事をするのが寂しい」ということで豊受大神を呼び寄せているため(伊勢神宮外宮)、「皇祖神なのにメンヘラ」と呼ばれていたりする。
とにかく鶏が鳴けば朝になったと思うだろうということで、トランペットが鶏の鳴き声を真似る。その後も引きこもりの天照大神だったが、天鈿女命が裸踊りを始め、神々がその滑稽さに笑い転げる(芸術・芸能の神である天鈿女命は大宮姫命と同一視されることがあるが、大宮姫命はどちらかというと文芸系の女神である)。一体何事かと岩戸を少し開けてみる天照大神。そこに鏡が差し出され、鏡を知らない天照大神は何が起こったのか戸惑う。そこへ天手力男命が岩戸を強引にこじ開けるというストーリーである。古事記の中でも特に有名な場面の一つであるため、知っている人も多いと思われる。ちなみに京都市の蹴上にある日向(ひむかい)大神宮には、いかにも「作りました」という感じの天岩戸があり、戸隠神社として天手力男命が祀られている(厄除けの神)。初めて見た時には笑ってしまうかも知れないが、面白いことは面白い。
今日のプログラム全般にいえることだが、土俗的な迫力があり、一種の野蛮な力強さが聴く者を惹きつける。下野も造形をきちんと測った上でだが、いつもより強烈なドライブを見せていた。

 

小山清茂の管弦楽のための鄙歌第2番。小山清茂も音大に学んだ人物ではない。長野師範学校(現・信州大学教育学部)在学中にピアノの音を聴いて魅せられ、独学で作曲をものにする。師範学校卒業後は長野や東京で教員として勤務していた。1946年に「管弦楽のための信濃囃子」が第14回音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)作曲部門で1位を獲得。1955年に教職を退いて作曲家として活動するようになっている。
鄙歌とあることからも分かるとおり、洗練とは真逆の古来から地方に残る生命力を音楽として昇華。力強い響きと「和」を感じさせる旋律を特徴とする。
「和讃」「たまほがい(上界と下界の魂のつどい)」「ウポポ(アイヌ語で室内で仕事をしたり儀式を行ったりするときに集団で歌う民謡)」「豊年踊り」の4部からなるが、今日は続けて演奏される。
やはり力強さが要求される曲であり、大フィルのパワーが生きている。大フィルも昔に比べると音に洗練度が増してきたが、こうした演奏も勿論可能である。

 

バルトークの歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式。全1幕)。大フィルは2013年に再開場したばかりのフェスティバルホールで、井上道義の指揮で、ハンガリー人の歌手2人を招いて「コンサートオペラ」として「青ひげ公の城」を上演している。
「青ひげ公の城」は、バルトークが完成させた唯一のオペラで、オペラ・ブッファとは異なる猟奇系オペラの代表作である。猟奇系オペラというジャンルはないが、挙げていくと、「ヴォツェック」、「ルル」、「サロメ」、「ねじの回転」などが含まれるだろう。「トゥーランドット」も場合によっては入るかも知れない。
青ひげ公は残忍な王で、数多の人を死へと導いている。「青ひげ公の城」の話が効果的に使われている映画として黒沢清の出世作である「CURE」が挙げられる。役所広司演じる刑事・高部の妻である文江(若くして亡くなった中川杏奈が演じている。中川杏奈という著名人は複数いるようだが、1965年生まれで演出家の栗山民也の奥さんだった人である)は精神を病んでいるのだが、それがかなり重いと分かる場面に「青ひげ公の城」の絵本が使われている。

出演は、宮本益光(ますみつ。青ひげ公)、石橋栄実(えみ。ユディット)、田中宗利(吟遊詩人)。
宮本益光は、バリトン歌手の他に、演出・構成、外国語オペラ詞の上演用日本語訳、執筆など幅広く活動しており、著書の名は、『職業、宮本益光』である。
大阪音楽大学教授としても知られる石橋栄実。澄んだ声を特徴とするソプラノだが、今日は役が役だけに痛切な声を聞かせる。
田中宗利は、劇団ひまわり所属の俳優。京都大学文学部哲学科卒。ピアノやチェロを習い、指揮者としても活動している。

下野、宮本、石橋の3人は、2023年に広島でも「青ひげ公の城」を上演している。

 

譜面の上に置かれた照明以外は光が絞られてスタート。吟遊詩人役の田中宗利が上手側から現れて、この話が昔々の語り継がれてきた物語であるということを告げる。
そして演奏開始。下野の巧みなリードに導かれて、豪快にしておどろおどろしい音楽が奏でられる。やはりこのオペラはオーケストラが強靱でないといけない。
青ひげ公の城にやって来た青ひげ公と、妻となったユディット。青ひげ公が残忍な王であるということはユディットも知っている。だが、ユディットは、家族と婚約者を捨てて青ひげ公の王妃になることに決めた。何故なのかは分からない。帰る場所をなくしたが、ユディットはかなり積極的である。青ひげ公に対して何度も「愛している」を口にする。あるいは帰る場所がないので青ひげ公にすがるしかないのかも知れないが。一方、青ひげ公の方は「愛してくれ」とは言うが、一度も「愛している」と口にすることはない。ユディットが「『愛してる』と言って」と迫っても、別の話をする。愛してなどいないのかも知れない。だとしたら正直だが。
一見、青ひげ公がユディットの行動を制しているように見えるのだが、実際にはそうやってユディットの非常に強い好奇心を引き寄せているようである。まんまと鍵を開けさせ、いくつもの部屋を見せ、最後の部屋へ。鍵を開けたのも多くの扉を開いたのもユディットの責任である。最後の部屋には朝の女と昼の女と夕方の女がいた。ユディットは夜の女となる。コンプリートである。
だが、どの部屋にも血痕があった。涙の湖にだけはなかったが、それは涙の湖だからか。とにかく殺さずに残忍な何かが起こっていたとしてもそれは知るよしもない。涙の湖が本当に涙の湖だとしたら、泣いたのは前にいた3人の女ということになる。会ったときには、たまたま普通の精神でいただけで、ユディットも3人の女同様、泣いて湖に涙を落とすことになるのだろうか。

夜の女になったと分かった時点で、ユディット役の石橋栄実は下手に向かって退場するという演出だったが、さて、どこに向かったのか。最後の部屋以外に行く当てはないが。

各部屋は色のついた照明によって表現される。

オペラではあるが、管弦楽に力強さが求められる。その点、馬力に関しては日本屈指のオーケストラである大阪フィルの力がプラスに働く。
独唱者2名の歌唱も優れており、独唱者を伴った管弦楽曲のような緻密な音楽を見事に再現してみせていた。

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2026年1月 2日 (金)

コンサートの記(938) 2025年度大阪音楽大学4年生 オペラ研究Ⅱ モーツァルト 歌劇「魔笛」

2025年12月25日 大阪府豊中市庄内の大阪音楽大学ミレニアムホールにて

午後5時から、大阪府豊中市庄内の大阪音楽大学第2キャンパスP棟ミレニアムホールで、2025年度大阪音楽大学4年生 オペラ研究Ⅱ モーツァルトの歌劇「魔笛」を観る。
授業公演であり、入場無料である(要予約)。昨年末は学生オーケストラによる「魔笛」の上演もあったようだが、今年はピアノ(連弾)、キーボード(三人まとめてピアノ演奏として紹介。關口康祐、竹村美和子、辻未帆)、フルート(早川奈那。大学4年)、バロックティンパニ(東寿樹。大学4年)という編成である。演出は昨年同様、中村敬一。ディクション指導:三々尻正、声楽指導は、石橋栄実(えみ)と晴雅彦(はれ・まさひこ)が受け持つ。指揮は瀬山智博。下手端の客席通路ステージ寄りに楽器を並べ、そこをピット代わりとしている

大阪音楽大学は特に声楽科において評価が高いが、在籍者も多い。男性は多くないが、女性が多いということで、一つの役を数人で演じ分けることになる。
「魔笛」というと、女性歌手からはパミーナ役の人気が高い。マンガ「のだめカンタービレ」おまけ的続編(オペラ編)でも、容姿は良くないが歌は上手く、実家が太いソプラノ歌手が自らがパミーナを演じる「魔笛」の上演を企画し、千秋真一が指揮を手掛けるという展開になっていた。「魔笛」の場合、夜の女王のアリア「復讐の心は炎と燃え」が最も印象的なアリアだが、高難度である上に、夜の女王は良い役とは言えない。三人の童子や三人の侍女も脇役である。それに比べればパミーナは出番も比較的多い。
ということで、パミーナはなんと5人体制(岸野羽衣、大島彩夢、宮本黎花、芝山聖玲南、田口華蓮)。パパゲーナ(吉田薫穂)、夜の女王(槇楓子)は1人ずつである。夜の女王は喉を痛めやすいので2日続けて歌えなかったりするが、公演は今日の1回だけなので問題なしである。三人の侍女も第二の侍女だけ2人体制である(三盃瑠奈子と長瀬いつき)。三人の少年も第二の少年は共にパミーナ役も歌う大島彩夢と岸野羽衣が入れ替わりで歌う。第1幕前半で第二の侍女を歌う三盃瑠奈子は、その後は第三の少年に回る。ということで、人気のある役とそうでない役がはっきりしていそうだ。
男性は、タミーノは野勢真稔が一人で歌うが、パパゲーノは、島羽槻と塚原波音で第1幕と第2幕を分ける。ザラストロは船本洸、モノスタトスに山澤奏仁。
その他の配役であるが、全部書くと時間が掛かりすぎるため、割愛とする。
合唱は、オペラ研究Ⅱの受講生が受け持つ。大学院生2年生から学部の1年生までいるが、4年生は全員役が付いているため、合唱には入っていない。

 

久しぶりの豊中市、久しぶりの庄内、久しぶりの大阪音楽大学、ザ・カレッジ・オペラハウスでなく、ミレニアムホールまで来たのは初めてである。
ミレニアムホールはその名の通り、西暦2000年に完成。9月の竣工である。外観も内装もどう見ても音楽ホールなのであるが、区分としては教室としているようである。P棟という校舎の一教室という位置づけである。「ミレニアムホール」も正式名称ではなく愛称としているようだ。

フリーメイスンの影響を受けているとされる「魔笛」(台本を書き、出演もしたシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメイスンの会員だった)。フリーメイスンでは、「3」が重要な数字とされ、序曲で3つの音が鳴らされる他、三拍子の曲も思いのほか多い。
ただフリーメイスンの思想を広めるための作品ではない。

今回は、字幕で、物語が始まる前のストーリーが語られる。世界は絶対的な王によって支配されており、幸せに満ちていたが、王が亡くなる直前に、後継者を夜の女王からザラストロに変えたことで、世界の均衡を揺らぐ。王はまた、夜の女王の娘であるパミーナを高く評価していたが、甘やかされすぎているため、彼女をザラストロの下に送ることにする。

タミーノが蛇に追いかけられている(客席通路を使った演出あり。客席通路を使った演出はその後も繰り返し行われる)。ステージに上がったタミーノは気絶するが、三人の侍女によって助けられる。その後、現れた鳥刺し男のパパゲーノは、「助けたのは俺だ」と嘘をつくが、三人の侍女によってとっちめられる。
タミーノは美しきパミーナの肖像を見て一目惚れ。パミーナが夜の女王の下からザラストロの神殿へとさらわれたと聞き、救出へと向かう。
RPGによく似ているといわれる筋書きで、宮本亞門は実際にRPG内での出来事として「魔笛」を演出している。

夜の女王から娘を誘拐したザラストロが悪役なのではないかと言われることもあるが、基本的には陰を受け持つ夜の女王より、陽を抱くザラストロの方が善として終わる。ザラストロの神殿には、モノスタトスという黒人の奴隷頭がいるのだが、今日は肌を黒く塗っての出演であった。黒人を演じる際、肌を黒く塗るのは良くないとされるようになって来ているが、結局の所、塗らないと黒人なのかどうか分からないのが現状であり、他に良い方法も見つからない(「黒人です」という札を下げたりしたら、余計に嘲笑的である)。
ザラストロの宮殿は異国調(ゾロアスター教由来である)であるが、黒人も雇って面倒を見ているようだ。悪いことをしたら77回の鞭打ちの刑に処されるようだが。ザラストロ自身は人種には余り関心を持っていないようである。

タミーノもパミーナも王子であり王女である。つまり世間のことは余り知らずに育ってしまっている。そこでタミーノはパパゲーノを共にイニシエーションを受け、深く広い世界を知ることになる。仏教の「二河白道」に似たシーンが出てくるが、「二河白道」はゾロアスター教由来とされるため、同じようなシチュエーションになるのだろう。
この作品の特徴として、すぐ死のうとする人が出てくることが挙げられる。パミーナもパパゲーノもちょっとのことで死のうとする。傍から見るとちょっとのことでも本人にとっては深刻なのだろうが、やはり大人の悩みではないように思う。口を利いてくれなくなった(実際は、タミーノは「沈黙のイニシエーション」と受けている最中で話すことが出来なかった)、孤独になった(多分、世界中に孤独な人は数億単位でいる)というだけで死ぬ死ぬ言うのは、「魔笛」が最後に行き着いた境地から見れば子どもなのだろう。
なお、多くの人と交流することで自殺願望が弱まることを「パパゲーノ効果」と呼び、NHKがパパゲーノのサイトを開いていて、自殺防止に努めている。

夜の女王や三人の侍女、モノスタトスらは、ザラストロによってやっつけられるのだが、今回は最後に勢揃いし、和解があったことが示される。以前、びわ湖ホールで、佐藤美晴の演出で観た「魔笛」は夜の女王や三人の侍女の亡骸をそのままにして神殿へと戻ろうとするザラストロを描き、ザラストロの残忍さを明らかにしていたが、では本当のところザラストロは善なのか悪なのか。答えとしては、そんな簡単に善悪二元論で捉えるべきではないというのが今のところの答えである。

ザラストロがいなかったら、タミーノとパミーナは真の意味では結びつかなかったかも知れないが、同時にそのために夜の女王らが犠牲になるのは仕方ないと思っているようだ。そもそも夜の女王はパミーナにザラストロ殺害を命じている。これまではともかくとしてこれ以降は毒親である。パミーナの前に障壁として立ちはだかったのは実母であった。
これまでのことは深くは分からない。しかし夜が終わり朝が来る。
夜の女王という存在はまだ何かを隠していそうだ。

そして「善」という概念も危うい。ヒトラーもスターリンも「善」として登場した。ロシアもウクライナもイスラエルもパレスチナも皆自分が「善」だと信じているはずだ。「善」のような絶対的なものはとにかく脆く危うい。心して掛からねばならない。

 

瀬山智博指揮のアンサンブルは少人数ながら活気に満ちた音楽を奏でる。特にバロックティンパニを採用したのが成功で、強打が豪奢であると同時に、どこか戦時色を帯びているように聞こえた。従来の柔らかい音のティンパニだったらそうした印象は受けなかっただろう。

演技面ではもう一つの人もいたが、歌唱は一定のレベルをクリアしている。ただ、これでオペラ歌手になれるというほど甘いものでもない。大学4年生の発表としてはなかなかだったということである。

艱難辛苦をくぐり抜けたタミーノとパミーナに対し、イニシエーションを途中で止めてしまったパパゲーノであるが、パパゲーナというピッタリの相手が見つかる。聖道門に対する易行門。
誰もが聖人になってしまっては、世界はもたない。パパゲーノとパパゲーナのように子どもを増やしてこそ人類は繁栄する。

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2025年12月31日 (水)

コンサートの記(937) びわ湖ホール プロデュースオペラ コルンゴルト作曲「死の都」 阪哲朗指揮京都市交響楽団ほか

2025年3月2日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

大津へ。午後2時から、びわ湖ホール大ホールで上演されるコルンゴルトの歌劇「死の都」を観るためだが、午前11時から、演出家の岩田達宗によるワークショップがあるというので、それも聴くために早めに家を出る。ワークショップの会場は大ホールで、自由席、先着順である。誰もが知っている有名オペラではないので、多くの人が押し寄せるということはなかったが(オペラ自体マイナーなので有名オペラでも多くの人は来ないかも知れないが)、それでも「知られざる傑作」としてある程度の知名度はある作品なので、まあまあの入りであった。

びわ湖ホールの館長である村田和彦からの挨拶とびわ湖ホールの四面舞台の紹介があり、その後、岩田達宗のトークとなる。今回の「死の都」は、「竹取物語」、「三文オペラ」同様、オペラ演出家の栗山昌良が演出を担当した歌劇作品の再現を目指して上演が行われるもので、岩田達宗は再演演出となっている。ただ岩田さんから直接伺った話や、びわ湖ホールのSNS記事によると、特別な演出はしないで、どちらかというと演技指導を行っているような印象を受ける。栗山昌良に師事した岩田達宗であるが、生前の栗山から「演出家が自分の色を出すんじゃない」と何度も言われていたそうで、それを考えると栗山が施した演出を再現するだけと考えるのが普通であろう。実際、自分のことを「演出補」と語っていた。
まず、歌劇「死の都」から。コルンゴルトが23歳の時に書いたオペラであり、初演からしばらくは大成功を収めていた作品である。原作はローデンバックの『死都ブリュージュ』。ただ、直訳すると『死 ブリュージュ』で、「これでは収まりが悪い」というので、『死都ブリュージュ』としたようである。「死の都」というも良いタイトルだが、ドイツ語のタイトルを直訳すると「死の町」で(歌詞には「死の町」という言葉が登場する)、ちょっと味気ないので、『死都ブリュージュ』から取って、「死の都」というタイトルになったようだ。今間違えて、「四宮(しのみや)」と打ってしまって直したのだが、四宮という駅は京阪京津線に存在する。
原作は、ベルギーの斜陽の街、ブリュージュ。ひきこもりの男性が愛する女性を殺害するというだけのもので少し味気ないので、台本作者のパウル・ショット(正体はコルンゴルトの父親のユリウス・コルンゴルト)とコルンゴルトは、幻想劇のような作品に仕上げている。今もある夢オチ。比較的評判の悪い手法だが、本格的な夢オチを行ったのは「死の都」が初めてだそうである。「全てが夢でした」という意味での夢オチのようなものはそれまでもあったが、ジークムント・フロイトの『夢分析』の影響を受けて、「夢には意味がある」とした上での夢オチを積極的に使ったのが「死の都」となるようだ。

栗山昌良は、1925年生まれ。ということで、生きていれば100歳になる年だったという。ということもあって、世代的にオーソドックスな演出家と評する向きもあり、栗山昌良本人もそう評価されることを喜んだというが、実際の作風はアヴァンギャルドで、表現主義をベースにしたものであった。「演出家は自分の色を出すな」とは言ったが、「死の都」冒頭の主人公の部屋に関する長いト書きは全く守られていない。ただこれも無視したのではなく、内容を抽出した結果だそうである。幕を上げて、第1幕第1場のセットを見せたのだが、指示とは全く別の部屋が目の前にある。
演技も写実を嫌い、二人の人物が向かい合って喋ることすら「写実だから」と嫌ったそうである。
稽古に関しては、「昭和の人は説明をしない」ということで、細かい指示は出さず、「もう一回、もう一回」を何度も繰り返していたそうだ。何が駄目なのかを聞いても答えはないそうである。現役の演出家としては岩松了が同じような演出を行っていると竹中直人が明かしたことがあり、高岡早紀が稽古場の隅で涙を拭っていたという話が思い起こされる。
さて、「死の都」であるが、1920年にハンブルクとケルンで同時初演されているが、その直前に第一次世界大戦があり、約3400万人が戦死。その約3分の2が兵士などではなく民間人であり、廃墟のようになった街が「死の都」に重なって見えたことは大きかったようだ。その後、第二次世界大戦では全世界で約Ⅰ億人が死亡。しかし、その後、ヨーロッパは戦争をしなくなった。しょっちゅう戦争を起こしており、イメージとは違って野蛮な場所であるヨーロッパであるが、80年以上戦争がないというのはヨーロッパ史上稀なことである(東欧などは含まない)。
「死の都」には有名アリアがあるが、それよりも第3幕のマリエッタのアリアを聴いてほしいとも語っていた。

 

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、現在のチェコのブルノ(モラヴィアの中心都市である)生まれのオーストリア=ハンガリー二重帝国出身の作曲家。幼少期から楽才を発揮し、ヴォルフガングというミドルネームから「モーツァルトの再来」と呼ばれ、マーラーなどにも激賞されている。しかし、ナチスが政権を取ると、彼の人生は暗転。ユダヤ系であったためアメリカの亡命したが、アメリカでは彼のクラシック音楽は受けず、生活のために映画音楽の作曲に進出。こちらでは好評を得た。オーストリアに帰る機会もあったが、前衛の時代に彼の作風は「時代遅れ」と見なされるようになっており、受け入れられることはなかった。映画音楽は当時は格下扱いであり、そのことも影響した。アメリカでも終生、クラシックの作曲家としては評価されず、アメリカに多い毒舌評論家から、「KORNGOLDは、ゴールドではなくてコーンだ」などと揶揄された。若き日の栄光を取り戻せないまま60歳で死去。
1990年代半ばに、アンドレ・プレヴィンやフランツ・ヴェルザー=メストといった有名指揮者がコルンゴルト作品をレコーディング。ようやくコルンゴルト再評価なるかと思われた直後にピアソラ・ブームが起こってしまい、コルンゴルトはどこかに飛んでしまった。運のない作曲家であるが、びわ湖ホールで「死の都」が上演されるのと同時に、九州ではコルンゴルト作品を集めたコンサートが行われており、今度こそは広まるかも知れない。

そんな中、「死の都」だけは知名度が高く、映像も数点出ている。
ちなみに、「死の都」の演奏会形式での日本初演は、1996年に井上道義指揮の京都市交響楽団が行っており、演出ありのオペラ形式での日本上演は、2014年に沼尻竜典指揮京都市交響楽団によってびわ湖ホール大ホールで行われており、この時の演出が栗山昌良である。

 

 

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール プロデュースオペラ コルンゴルト作曲「死の都」を観る。2014年にびわ湖ホール大ホールでオペラ形式での日本初演が行われた作品である。びわ湖ホールの芸術監督である阪哲朗指揮の京都市交響楽団(コンサートマスター:泉原隆志)の演奏。Wキャストで、今日の出演は、山本康寛(パウル)、木下美穂子(マリー/マリエッタ)、池内響(フランク)、山下牧子(ブリギッタ)、小川栞奈(おがわ・かんな。ユリエッテ)、秋元悠希(ルシエンヌ)、島影聖人(しまかげ・きよひと。ガストンの声/ヴィクトリン)、迎肇聡(むかい・ただとし。フリッツ)、与儀巧(よぎ・たくみ。アルベルト伯爵)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル。児童合唱は、大津児童合唱団。演出:栗山昌良、再演演出:岩田達宗。

舞台下手側がパウルの部屋。上手側が幻の教会(神殿)となっている。
パウルの部屋の奥にマリーの巨大な肖像画が掛けられている(木下美穂子をモデルにしたもの。昨日は昨日のマリー役である森谷真理をモデルにした絵だったようである)。
ブリギッタとフランツの二人の場面なのだが、絵の事柄に関するものなのに二人とも絵に背を向けて歌う。これが栗山流の写実でない歌い方のようだ。
ブリュージュに住むパウルは、妻のマリーを失ったのだが、友人のフランクには「マリーが戻ってくる」と語る。マリーを見かけたというのだが、それはマリーに似たマリエッタという踊り子であった。パウルは彼女が何者なのか分からないまま家に呼ぶ。
マリエッタがパウルの部屋を訪ねる。マリエッタはパウルがマリーという女性を自分の中に見ていることに気づき、部屋を後にする。やがてマリーの亡霊が現れる。

びわ湖ホール館長の村田和彦が、四面舞台の話をしていたが、第2幕では、その機構を生かし、これまでの舞台が奥に引っ込んで、下から新たなセットが現れる。三段になったヘアピンカーブである。ここでマリエッタの一座が余興のようなものを繰り広げる。
さて、いつからパウルが夢、または幻覚の世界に入っていったかであるが、第2幕ではブリギッタが「修道院に入る」と言って出て行くシーンがある。しかし現実にはブリギッタはパウルの屋敷で女中を続けており、この時点で夢であることは確かである。友人のフランクもマリエッタへの思いを語るのだが、これも夢か幻である。更にいうならその前にマリーの姿(幻覚)を見る場面がある、ということで、大半が夢の中での出来事となる。

絵空事が繰り広げられる訳だが、それこそが実はパウルの欲していたことであり、フランツはこのままではいけないとブリュージュを去るようパウルに告げるのだと思われる。「ブリュージュを離れられない」というパウルの真意は「マリーから離れられない」であり、街と一体化した「今の自分を離れられない」である。そこから出るのだ。

 

阪哲朗指揮の京都市交響楽団が輝かしくも重厚で、かつ瞬発力もある演奏を展開。プッチーニ(おそらくペンタトニックは使っていると思われる)やワーグナー、モーツァルトにリヒャルト・シュトラウスと、様々なオペラ作曲家に影響された響きや旋律が登場するが、いずれも「リアル」な音として鳴り響く。この場ではこの音が鳴らなくてはならないという、説得力に満ちた演奏だ。
退廃的でミステリアスで、それでいて魅力的という音楽である。1920年に初演された作品だが、世紀末的な彩りがあるのは、やはりフロイトの影響を受けているということもあるのだろうか。あるいは初の世界大戦が終わり、次の世界大戦前夜の荒廃した思い故だろうか。
阪の指揮する京都市交響楽団は、おそらく日本初演時の沼尻竜典指揮の時よりも妖艶な音を奏でているような気がした。

オペラ形式の初演も観ている「死の都」。記憶には余り残っていないが、コミカルな部分に関しても、初演時と同じなのかは不明である。

ラストでは、パウルはマリーへの未練を見せるが、今回の演出ではそれほど執着はなく去って行く(例えば、チェーホフの「かもめ」の主人公、トレープレフとは好対照である)。ブリギッタが一人残り、前方に置かれた燭台を手にし、また後ろに下がる。そして幕が下りる。このブリギッタの動きは台本にはなく(ブリギッタはフランツと共に退場することになっている)、オリジナルである。

 

演出家の岩田達宗さんとは、2幕と3幕の間に話をした。

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2025年11月10日 (月)

観劇感想精選(500) 森田剛主演「ヴォイツェック」(ジャック・ソーン版)

2025年10月25日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「ヴォイツェック」を観る。チフスのため23歳の若さで早逝した小説家、劇作家のゲオルク・ビューヒナーの未完にして代表作となる戯曲の上演。「ヴォイツェック」であるが、未完の上に原稿に通し番号などが振られていない状態で発見されたため、ビューヒナーがどこをどのようにどの順番で上演するつもりだったか今になっても分かっておらず、演出家が原稿の順番を選ぶため、同じ「ヴォイツェック」でも印象が大きく異なる。
ただ、アルバン・ベルクが作曲した歌劇「ヴォツェック」という、オペラ史上1、2を争うほどの傑作があり、このオペラが基準になるとは思われる。タイトルが「ヴォツェック」なのは、ベルクに送られた台本のタイトルに不備があり、「Woyzeck」であるべきところが「Wozzeck」となっていたためである。ヴォイツェックは実在の殺人犯であるため、ベルクはすぐにタイトルを変更しようとしたが、ゲオルク・ビューヒナーの「ヴォイツェック」と自身の歌劇「ヴォツェック」はもはや別物と考え、タイトルの変更を行わなかった。
ベルクの歌劇「ヴォツェック」の完成度が高いため、演劇の「ヴォイツェック」で満足の行く出来に持って行くことは至難の業である。

歌劇「ヴォツェック」は、東京・初台の新国立劇場オペラパレスで聴いている。今に至るまで唯一のオペラパレス体験である。指揮のギュンター・ノイホルトが優れた音像を生み出していたが、演出が余計なことをしまくったため、全く感動も納得も出来ないという残念な結果に終わっている。

ストレートプレーではなく。音楽劇とした「ヴォイツェク」は、大阪の京橋にあったシアターBRAVA!で、山本耕史のタイトルロールで観ており、そこそこ良い印象であった。
今回はストレートプレーでの上演であるが、ビューヒナーのテキストそのままではなく、ジャック・ソーンが翻案したテキストを使用しており、舞台を1981年の西ベルリンに変更。登場人物は、主にイギリス系とアイルランド系で、IRAが起こした闘争などを避けて、西ベルリンに渡っているという設定である。上演台本と演出は、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子が行っている。小川はプロデュース作品に演出家として参加するのは初となるようだ。

 

出演:森田剛、伊原六花、伊勢佳世、浜田信也、中上サツキ(なかがみ・さつき)、須藤瑞己(みずき)、冨家ノリマサ、栗原英雄。
冨家(ふけ)ノリマサの姿を見るのは久しぶりである。バブル期にはテレビによく出ていた気がするのだが。中上サツキは、「なかがみ」と読む苗字。中上姓の人物として、若くして亡くなった中上健次が有名であるが、彼の本姓は「なかうえ」と読む苗字である。ただ、「なかがみ・けんじ」はペンネームとしての読み方ではなく、中上自身、自分の苗字の読み方を終生勘違いしていたというのが本当のところのようである。中上は被差別部落出身を売りにしていたが、実際は被差別部落のそばの結構良い家出身だったりと、妙な話が多い。

中上健次の話は置くとして、「ヴォイツェック」である。タイトルロールを演じるのは森田剛だが、北アイルランドのベルファスト出身の「フランク」に設定が変わっている。妻のマリー(伊原六花)は、アイルランドの出身。この時点で上手く行きそうにない。
その他の登場人物では、医師(名前はマーティンとイギリス風だがドイツ人。栗原英雄)、東ドイツ市民(中上さつき)と東ドイツ市民とアパートの大家(須藤瑞己が二役で演じる)以外の全員がイギリス人という設定である。

イギリスとアイルランドは、大英帝国の時代はイギリスがアイルランドを飲み込む形で同じ国家であったが、アイルランドはケルト系が多く、第二次大戦後は独立。国教はカトリックである。ただ北部の一部はプロテスタントが多く、そのままイギリスに残り、イギリスの日本語による正式名称は、「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」となっている。だが、当然ながら、「アイルランド全島がアイルランドだ」考える人も多く、宗教紛争、それも命に関わるものが絶えない。
イギリスも元々はカトリックの国だったが、カトリックでは離婚が出来ないため、国王が離婚したいがためにプロテスタントに改宗し、国教(英国国教会)としている。
ここに宗教の壁の問題がある。

更に舞台となる1981年のドイツは東西に分断されている。ベルリン市は東西に分かれ、西ベルリンから西ドイツに渡るには、空路か東ドイツが運営する鉄道を利用するしかなかった。東ベルリンは東ドイツの首都だが、西ベルリンは西ドイツの首都ではなく、西ドイツの首都はベートーヴェンの生まれ故郷として知られる中規模都市、ボンに置かれた。
東ドイツは事実上、ソビエト連邦の属国である。
ただ、陸の孤島状態とはいえ、西ベルリンは西ドイツの文化の中心。東ベルリンとの繁栄の差は明らかで、東ドイツでは人権も制限されるため、東ベルリンから西ベルリンに移る人が後を絶たず、ある日突然、東ベルリン当局によってベルリンの壁が築かれた。
兵士であるヴォイツェックは、同僚のアンドリュース(浜田信也)と共に、ベルリンの壁を見張っている。元の「ヴォイツェック」では、赤い空の幻影をヴォイツェックが見ておびえる印象的なシーンがあるが、それは今回はない。代わりに東ベルリンの街を見続け、マリーと二人で、アパートの6階から寂れた東ベルリンの街を見るシーンもある。東ベルリンから西ベルリンに入ろうとして失敗した女性(中上サツキ)が、東ドイツの兵士(須藤瑞己)に連れ戻される場面もある。

アンドリューズは、医師の妻であるマギー(伊勢佳世)と不倫しており、更にマリーとも不倫しているようである。マリーは、男と寝てお金を貰っていることを、マギーにさも当たり前でもあるかのように話しており、歌劇「ヴォツェック」の貞操感に悩むマリーとは大きく異なる。19世紀から1981年に舞台が移っているので、感覚がまるで違うのである。19世紀には、姦通罪のある国も多く(日本も含まれる)、不倫は本当に犯罪だったのだが、1981年時点の西ドイツには姦通罪はない。カトリックには、「汝姦淫するなかれ」など、厳格な規律があるが、20世紀には宗教の力も落ちている。ただ、マリーは寄付を募っている。カトリックは、信者から寄付を集めるのだが、マリーはカトリックの教会のために寄付を集めているのである。マリーの主な仕事は子育てと寄付集めになる。カトリックは集まった寄付で立派な教会を建てたりする。一方、プロテスタントは、そもそもそうした金集めの制度を疑問視しているので、基本、寄付は募らない。京都市内にもキリスト教の教会は多いが、綺麗で立派なのがカトリックの教会、なんだかオンボロなのがプロテスタントの教会という見分け方がある。
イギリスからの移民とアイルランドからの移民とでは宗教が異なることが最大の問題であり、イギリス出身のジャック・ソーンも宗教の違いを重要なテーマとしている。

ヴォイツェクとマリーの間には赤子が一人おり、なぜか子育てを「携わる」という堅い言葉で呼んでいるのだが、マリーは赤子の性別についても嘘をつく。「女の子」とヴォイツェックには告げるが実際には男の子である。

「ヴォツェック」と言えば、ヴォツェックに金を与える代わりに人体実験を施し、やたらと偉そうに命令する医師との場面が有名なのだが、オペラとは異なり、医師の登場は余り早くない。ヴォイツェックには立ち小便をする癖があり、医師から「立ち小便を止めろと言っただろう!」と叱責される場面があるのだが、オペラの台本では、「下品だ」という理由で、「咳を止めろと言っただろう!」という無茶苦茶な要求に変わっている。止めるに止められない生理現象に口出しするところが頭のおかしさの強調にもなっているのだが、いくらなんでも「咳を止めろ」という人は余りいない。最晩年のショルティが、演奏開始直前に最前列で咳が止まらなくなった老人を「うるさい」と叱りつけたという話はあるけれども。
今回は「立ち小便」になっている。ヴォイツェックは4歳で孤児になり、12歳の時に母と永遠に別れ(ヴォイツェクの母親とその幻影は、伊勢佳世が二役もしくは三役で演じている)、満足な教育を受けていないため読み書きは出来ず、礼儀作法なども教わっていない。袋小路という感じの悲惨な設定である。医師に「頭がおかしい」と断言される場面もある。そういう医師もおかしく、ドイツ語が出来ないヴォイツェクに延々とドイツ語で話して屈辱を与える。
マナーが悪いから立ち小便をするのを禁じるというのではなく、与えた薬の効き目を知りたいので「無闇に小便をするな!」という意味で言っていることが時間が経つに連れて明らかになる。

マリーは西ベルリンを諦め、アイルランドに帰ることを決意。先にアイルランドに帰るが、その後にヴォイツェックにも来て貰うつもりだった。だがヴォイツェックはトラウマのあるアイルランドに行くつもりはない。IRAについては多くの作品で描かれているが、最近の作品としては、ケネス・ブラナー監督の「ベルファスト」などが詳しい。

最終的には、マリーの不貞に気付くヴォイツェックだったが、マリーは断固否定。しかしマリーを信じられないヴォイツェックは彼女を絞め殺し、銃で自殺する。

歌劇「ヴォツェック」のラストは、ヴォツェックとマリーの息子が、子どもたちの遊びの輪に加わろうとするも、殺人者の子どもなので入れて貰えず退場するという、救いのないものだが、今回はベルリンの壁を表していると思われる落書き(ヴォイツェックの息子が冒頭で書き殴った)のある壁の下に座り込んでいる。2025年からの視点で見れば、1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西両ドイツは併合。一時は旧西ドイツが旧東ドイツに経済面で足を引っ張られるものの回復。EUのリーダー格となり、GDPも日本を抜いて世界3位に浮上、というのは日本人としては悲しいが。
時代的には、ヴォイツェックの息子の未来は、ヴォイツェックよりは明るいと思われる。

森田剛は背が低いが、比較的背の高い俳優を何人も起用することで、見下された立場を表している。森田剛がタイトルロールに選ばれた一つの理由と考えられる。森田剛は演技のバリエーションは余り多く持っていない人で、5年前に観た「FORTUNE(フォーチュン)」の時と余り変わっていない気がするが、熱演ではあった。
マリー役の伊原六花。大阪府立登美丘高校の林キャプテンとして「バブリーダンス」のセンターを務めて注目された人だが、舞台で観るのは二度目。前回は安部公房原作の「友達」で、一番最初にセリフを発する役だったが、それほど良い役という訳でもなく、余り印象に残っていない。今回はナチュラルな演技で、熱演タイプの森田剛を上手く受け止めていたように思う。大阪出身なので、表に届いていた花も彼女宛のものだけだった。
この人は明るい性格だが、かなりの負けず嫌いだと思われるため、今後伸びそうである。NHK連続テレビ小説「ブギウギ」でも誰にも負けたくない女性・秋山美月を演じていたが、ある程度、伊原の性格に合わせた部分もあるのだろう。

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2025年10月12日 (日)

コンサートの記(925) びわ湖ホール オペラへの招待 レハール作曲「メリー・ウィドウ」 2025.7.20

2025年7月20日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 レハール作曲「メリー・ウィドウ」を観る。「メリー・ウィドウ」は18日に始まり、明日21日までダブルキャストで続く。演奏はびわ湖ホールの芸術監督である阪哲朗指揮の日本センチュリー交響楽団(コンサートマスター:塩貝みつる)。ソプラノのベテラン、並河寿美(なみかわ・ひさみ)を招き、比較的平均年齢の低いびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーがステージを彩る。

出演は、並河寿美、市川敏雅、高田瑞希(たかだ・みずき)、迎肇聡(むかい・ただとし)、奥本凱哉(おくもと・ときや)、島影聖人(しまかげ・きよひと)、大野光星(おおの・こうせい)、平欣史(たいら・よしふみ)、佐貫あさひ、五島真澄(男性)、山内由佳、竹内直紀。
合唱はびわ湖ホール声楽アンサンブル。ダンスに島津あいり、廣嶋梨月(ひろしま・りづき)、藤田あい。ダンスの3人は一般公募である。

 

オペレッタ(喜歌劇)を代表する作品であるレハールの「メリー・ウィドウ」。原作はフランス語で書かれた戯曲で、パリでの上演はさっぱりだったそうだが、その後、ドイツ語に訳されてウィーンでそれなりにヒット。その約40年後にオペレッタの人気脚本化であるヴィクトル・レオンが、レオ・シュタインと共同でこの本をオペレッタ用に直し、レハールに作曲を依頼して初演されている。

まずは阪哲朗指揮日本センチュリー交響楽団の、滑らかにして立体的、芳香の漂うような上品さと、がっしりとした力強さを兼ね備えた演奏が見事である。

ヒロインは、ハンナ・グラヴァリ(並河寿美)だが、準ヒロインともいうべきヴァランシエンヌ役で、若い高田瑞希が出演。沼尻竜典のオペラ「竹取物語」では大津での1公演だけだったが主役のかぐや姫を務め、クルト・ヴァイルの「三文オペラ」ではヒロインのポリーを好演。重要な役が続く。あるいはびわ湖ホール声楽アンサンブルとしてはヒロイン級として育てたいのかも知れない。今回はエピローグではほぼ主役であった。

ショスタコーヴィチが、このオペレッタから引用を行い、それに怒ったバルトークが管弦楽のための協奏曲で再引用したということが知られるが、ショスタコーヴィチが引用したのは、初めて「祖国」という言葉が出てくる歌詞である。架空の小国を舞台とした作品だが、そのため却って愛国心が掻き立てられるのか、「祖国」という言葉が出てくる歌詞は多い。

 

演出を担うのは、唐谷裕子(からたに・ゆうこ)。愛称は苗字由来の「からやん」のようだ。大阪音楽大学音楽部声楽専攻卒業。同音楽専攻科 声楽専攻[演出]第1期。演出を岩田達宗にも師事しているようだ。
唐谷は、プレトークに登場。「忘れてしまってはいけないから」と、「しっかり書いた台本」を手に、レハールの生い立ちや作曲家になったきっかけ、「メリー・ウィドウ」の簡単なストーリー紹介などを行う。
女性の色彩豊かな衣装が華やかな印象を与える演出だが、オペレッタということで、お客にも楽しんでもらおうと、拍手を入れる場なども設けていた。

 

緞帳が降り、一応本編が終わった後で、阪とセンチュリー響は、「メリー・ウィドウ」のハイライトを演奏。この間に着替える出演者がいるのである。
そして、緞帳が上がるとフレンチカンカンなどを含むバカ騒ぎ。そしてダニロ伯爵(迎肇聡)とハンナが寄りを戻すのであった。
その後、阪とオーケストラが、「メリー・ウィドウ・ワルツ」と「ハンナの歌」をオーケストラのみで奏で(この間にも着替える人がいる)、幕が上がると全ては丸く収まるのであった。

貫禄ある歌をうたうことも多い並河寿美だが、富豪の夫を4か月で亡くしたばかりで、金持ち故に皆が言い寄る未亡人も様になっている。

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2025年9月24日 (水)

コンサートの記(918) 「バロック・オペラ・エボリューション2025 濱田芳通&アントネッロの歌劇『オルフェオ』」

2025年2月16日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「バロック・オペラ・エボリューション2025 濱田芳通&アントネッロの歌劇『オルフェオ』」を観る。

現在、歌劇と呼ばれているジャンルの作品の中では最も古い人気作とされるモンテヴェルディの歌劇「オルフェオ」。バロック・オペラと銘打たれているが、厳密に言うとバロックよりも前の時代の作品である。ただ上演されることは多くはない。また1607年というかなり古い時代(日本では江戸時代が始まったばかり。イギリスではシェイクスピアがまだ存命中である)の作品であるため、現在の歌劇=オペラと同列に語ることは難しい。そもそもこの時代にはまだオペラという用語は存在していない。

歌劇「オルフェオ」以外にも、声楽作品の最高峰を競うと言われる「聖母マリアの夕べの祈り」などで知られるクラウディオ・モンテヴェルディ。ジュゼッペ・ヴェルディを上回る才能を誇ったともされる人である。譜面や記録が残っていないだけという可能性もあるが、モンテヴェルディより前の時代の人気イタリア人作曲家は存在しておらず、イタリア史上初の人気作曲家として偉大な才能であったことは間違いない。イギリス人のジョン・エリオット・ガーディナーがモンテヴェルディ合唱団とモンテヴェルディ管弦楽団を設立してモンテヴェルディ作品に人気向上に一役買ったが、現在、このコンビ(実際にはガーディナーは解雇されてもうコンビではないが)はパワハラ疑惑の渦中にあるのが残念である。

「オルフェオ」は有名なギリシャ神話を題材にしている。日本でも伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の黄泉比良坂の話に似ていることで知られている話である。また、一応、「天国」や「地獄」という言葉が歌詞に出てくるが、古代ギリシャにも日本の神道にも、あの世(「冥府」「冥界」「黄泉国」)というものがあるだけで、生前の行いによって天国か地獄かに分かれるという考え方はない。歌劇「オルフェオ」でも、神々の世界はあるが、あの世はあの世で、上や下や天国や地獄はないようである。

今回、上演を行うのは、濱田芳通率いるアントネッロという団体。アントネッロは1994年の結成で、バロック音楽やそれ以前の音楽をレパートリーの中心としている。今回も古楽器による演奏で、チェロは用いられず、ヴィオラ・ダ・ガンバが低弦を担う(形は似ているが、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェロは別種の楽器である)。ヴィオローネというヴィオラ・ダ・ガンバとコントラバスの中間のような楽器も使用される(ヴィオラ・ダ・ガンバとコントラバスは親戚とされる。この辺がややこしい)。ヴァイオリンやヴィオラはガット弦を張ったもの。コルネットも用いられるが、これも現在のコルネットとは形状が異なる。またこの時代は横笛よりも縦笛の方がメジャーで、リコーダーが活躍する。サクバットというトロンボーンの原型のような楽器が活躍するが、トロンボーン同様、宗教音楽でよく用いられた楽器である。オルガンやチェンバロも当然ながら演奏される。

指揮とコルネット、リコーダーなどを担当する濱田芳通は、東京音楽大学(当初は東洋音楽学校)の創設者の家系に繋がる人である。ただ東京音大には古楽系の専攻がないためか、桐朋学園大学の古楽器科に進み、スイスのバーゼル・スコラ・カントールムに留学。現在は初期オペラの上演などを数多く手掛けている。第7回ホテルオークラ賞、第53回サントリー音楽賞などを受賞。

出演は、坂下忠弘(バリトン。オルフェウス)、岡﨑陽香(おかざき・はるか。ソプラノ。エウリディーチェ)、中山美紀(ソプラノ。ムジカ/プロゼルピナ)、弥勒忠史(みろく・ただし。カウンターテナー。メッサジェーラ)、中嶋俊晴(カウンターテナー。スペランツァ)、松井永太郎(バス・バリトン。プルトーネ)、中嶋克彦(テノール。牧人)、新田荘人(にった・まさと。カウンターテナー。牧人/精霊)、田尻健(たじり・たけし。テノール。牧人/精霊)、今野沙知恵(ソプラノ。ニンファ)、目黒知史(めぐろ・ともふみ。バス。カロンテ)、近野桂介(牧人/精霊)、酒井雄一(アポロ)、田崎美香(たさき・みか。ニンファ)。
演出は中村敬一。

ゲートがあるだけのシンプルなセット。背後のスクリーンに様々な絵画が投影される。

この時代はまだ音楽が舞踊と強く結びついていた時代であり、また宗教音楽が盛んであった。つまりこの二つの要素が濃厚であり、組み合わされている。舞踊音楽のようにリズミカルであり、宗教音楽のように清らかな発声で歌われる。

台本も後の世紀になると削られてしまうような、状況説明の歌詞が多いが、なるべく多くの歌手に出番を作ろうという意図もあったのかも知れない。おそらく、ロマン派以降のオペラになると、「この人いらないだろ」とカットされてしまうような人が割と多く出てくる。

 

よく知られている話だが、あらすじを書くと、オルフェオ(オルフェウス。「オルフェウスの竪琴」という言葉で知られているように竪琴を持っている)がエウリディーチェと夫婦になるが、エウリディーチェは毒蛇に噛まれて命を落とす。エウリディーチェを諦められないオルフェオは冥府へ赴き、冥界の川の渡し守であるカロンテの妨害を眠りに陥れることで突破して、冥界の王であるプルトーネと王女のプロゼルピナを説得して、エウリディーチェを現世に連れ帰る許しを得るが、「決して振り向いてはならぬ」という約束を守れなかったため、エウリディーチェと引き離される。
その後は、このオペラ独自の展開で、オルフェオは父親のアポロに促されて天上世界へと向かうことになる。原作では実は悲惨なことになるのだが、この作品では一応はハッピーエンドということに変えられている。

ストーリー自体は易しいので何の問題もないのだが、「その場にはいるが特に何もしていないと思われる人」が多いので、演出には工夫がいる。そのままだと「この人達は何をしているんだ?」ということになるが、今回はこの時代の絵画に見られるようにポーズを取るなどして、くつろいでいるように見せている。視覚的に美しい演出だと思う。またオーケストラピット浅くし、階段で下りられるようにして、その階段を使った演出も効果的。メッサジェーラはオーケストラピットに降りた後で、今度は客席通路を泣きながら上って去って行った。また出演者が手拍子を行う場面では、ニンファの二人が階段の途中まで降りて客席にも手拍子を促すなど、一体感を生む演出が施されていた。
問題があるとすれば、冥府でのオルフェオとエウリディーチェの場面で、おそらくは歩いているはずのシーンなのだが、二人とも止まっているため、何をしたいのか、また何をしているのかよく分からないように見えてしまう。少しは動きが必要だったのではないか。

エウリディーチェはヒロインではあるが、出番は余り多くないため、実は美味しい役ではないようにも思う。

歌唱面は充実。カウンターテナーが3人もいるということが時代を物語っているが、カウンターテナーだからこそ生み出せるシーンであることが実際に観ていると看取出来る。
衣装も洒落ていて(衣装担当は東京衣装株式会社の村上まさあき)雰囲気の良い芝居に仕上がっていた。

この後にオペラと言われることになるジャンルは、神々の物語で、舞踊や宗教音楽と不即不離であり、状況を説明するだけの歌手がいた。ここからオペラは発展し、一部を除いて人間の物語となり、純音楽的になり、無駄が省かれていく。その過程を確認する上でも、意義深い上演であった。

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2025年6月 5日 (木)

これまでに観た映画より(387) ドキュメンタリー映画「私は、マリア・カラス」

2025年4月21日

ドキュメンタリー映画「私は、マリア・カラス」を観る。残されたカラスへのインタビュー映像や音声、カラスの歌唱シーンなどで彼女の人生を振り返る。フランスの制作で、言語は主に英語とフランス語が用いられている。トム・ヴォルフ監督作品。

カラスがスターになってからの映像が用いられているが、どちらかというと世紀のプリマドンナ、マリア・カラスよりも、人間、マリア・カラスに焦点が当てられている。そのためアリストテレス・オナシスとの恋愛はかなり重要視されている。歌手として成功したマリア・カラスであるが、オペラ歌手の演技の重要性を説く場面がある。ということは、それまでオペラ歌手は演技は余り重要視してこなかったことが分かるが、従来のクラシック音楽は職人気質で、きちんとした音楽学校を出ていなくても楽器が弾ければ良い、演技はおまけで歌がよければ良いという考えが一般的だった。オーケストラの団員と指揮者が喧嘩になることが多かったのも、一方は音楽学校や音楽大学で楽理からなにから収めている、一方は自己流でも何でも楽器は弾けるという知性軽視の傾向があったためである。オペラ歌手というと、今でもマフィアとのつながりなどが指摘されることがあるが、学究肌である必要はないという考えが普通。それに一石を投じたのがマリア・カラスだった。徹底した楽曲分析に裏付けられたドラマティックな歌唱は喝采を浴びた。
だが、カラスは見た目は強気な女性であったが、実際には精神的にも肉体的にも余り強い方ではなさそうだということが分かる。肉体を酷使した結果、十分に歌えなくなり、ローマ歌劇場での「ノルマ」は、第1幕終了と同時にキャンセル。アンダースタディー(カバーキャスト)などは用意していなかったようで(していても聴衆が満足したとは思えないが)公演が中止になる。「十分な体調でなければ歌えない」というカラスの完璧主義によるものだが、以後、「カラス=キャンセル」のイメージが出来てしまう。実際は、カラスがキャンセルする割合は低かったにも関わらずだ。夫のバティスタはマネージャーも務めたが余り有能とは言えなかったようだ。

そんな中、1957年にヴェネチアで出会ったのだが、ギリシャの海運王、アリストテレス・オナシスであった。優しく、少年のようなオナシスにカラスは癒やされるが、この「少年のような」部分というのは実は地雷だったのかも知れない。9年後、オナシスは、ジャクリーン・ケネディとの結婚を発表。時を同じくしてカラスは歌劇場から遠ざかるようになる。パゾリーニ監督の映画「王女メディア」に出演。カラスは次回作について聞かれて、出るかどうか分からないまでも「喜劇などにも出たい」などと話していたが、「王女メディア」が興行的に伸び悩んだため、映画の出演依頼はなく、これが最初で最後の映画出演になった。なお、「王女メディア」にはカラスが歌うシーンはない。

その後、オペラよりも負担の軽いリサイタルをジュゼッペ・ディ・ステファーノと世界各地で行う。東京のNHKホールでのカーテンコールの模様も収められている。当時の日本の聴衆は今と違ってかなり熱狂的である。
ディ・ステファーノとも恋仲だったと言われるカラスだが、オナシスが戻ってくる。この映画ではカラスはオナシスに甘えた弱い女という一面が描かれている。決して猛女という訳ではないのだ。

エンドロールに選ばれたのは、プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」から“ねえ、私のお父さん”。カラスの愛らしい一面を示す歌唱である。

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