カテゴリー「シベリウス」の95件の記事

2022年12月 4日 (日)

コンサートの記(817) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 「交響曲No.1」@兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール

2022年11月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサート「交響曲№1」を聴く。

「作曲家が最初に作曲した交響曲の中で最も完成度が高いのは誰のものか?」という話題がたまにネット上で話題になることがあるが、今回はその「完成度の高い交響曲」の最右翼候補であるシベリウスの交響曲第1番とブラームスの交響曲第1番が並ぶという意欲的なプログラムである。

今日のコンサートマスターは須山暢大。フォアシュピーラー(アシスタント・コンサートマスター)には客演の川又明日香が入る。KOBELCO大ホールを本拠地としている兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)からは、6月まで在籍していたオーボエの上品綾香や、トランペットのガイルス彩乃(ハーフではなく、東京都交響楽団のトロンボーン奏者であるザッカリー・ガイルスの奥さん)らが客演として参加する。なお、大フィル首席コントラバス奏者のサイモン・ポレジャノフはPACオーケストラの出身であり、今度兵庫県立芸術文化センターで凱旋となるリサイタルを行う予定だそうである。


後にショスタコーヴィチと共に「ベートーヴェン以降最大のシンフォニスト」と呼ばれることになるジャン・シベリウスの最初の交響曲は彼が33歳の時に初演された。ティンパニのロールの上にクラリネットが孤独なモノローグをつぶやき、やがて弦の響きが巨大なうねりとなって広がっていく。

現在の日本においてシベリウス演奏の大家とも言える存在である尾高忠明。札幌交響楽団と「シベリウス交響曲全集」を完成させており、極めて高い水準を示していたが、今日も大フィルから澄んだ涼しげな音色を引き出す。
スケールの大きさ、寂寥感などの表出にも長けており、ティンパニの強打も印象的である。木管楽器のくっきりとした響きなどもシベリウスの優れた肖像を描き出す。


ブラームスの交響曲第1番は、おそらく交響曲第1番の中では最も有名な作品であり、個人的にもコンサートで最も多く接した楽曲である。
20代前半で交響曲の着想を得たブラームスであるが、慎重に慎重を重ね、43歳の時に交響曲第1版を完成させた。実に20年以上の歳月を掛けている(上には上がいて、バラキレフは交響曲第1番を完成させるのに30年以上の歳月を要した)。その間に別の交響曲の着想も得ていたが、結局、交響曲として完成させることが出来ず、他のジャンルの曲に転用している。

尾高は冒頭の悲劇性を強調せず、流れの良い音楽を築く。その後に音楽は白熱して行くわけだが、尾高は熱よりもアンサンブルの構築を重視。「流麗」とも呼べる弦の響きが印象的である。
ロマンティシズムの表出に長けた第2楽章と第3楽章を経て第4楽章も流れの良い音像を浮かび上がらせる。ベートーヴェンの「第九」の歓喜の歌に似た主題も愉悦感たっぷりに弾かれ、幸福な雰囲気がホールを満たしていた。


最後に尾高忠明は、「やっとお招きいただきました。素晴らしいホールです。そしてお世辞ではなく素晴らしいお客さんです」と語り、「西宮北口という駅には初めて降りました。北口と付く駅の名前は珍しいと思います。待ち合わせ場所を聞いたら『西宮北口の南口で』と言われて」と語って客席から笑いを引き出していた。

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2022年10月 6日 (木)

コンサートの記(808) サー・サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団来日演奏会2022@フェニーチェ堺

2022年10月1日 フェニーチェ堺大ホールにて

午後4時から、フェニーチェ堺大ホールで、サー・サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団の来日演奏会に接する。コロナ禍以降、初めて接する海外オーケストラの来日演奏会である。

サー・サイモン・ラトルの実演に接するのは2度目。前回は1998年に東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”でのバーミンガム市交響楽団の来日演奏会で、ポディウム席(P席)で聴いている。メインはベートーヴェンの交響曲第5番、いわゆる「運命」であったが、前半の2曲がいずれも現代音楽であったため、客席はガラガラ。ラトルの指揮だというのに半分入っているのかどうかも怪しいという惨状で、日本人の現代音楽アレルギーが露わになった格好であった。
他の人が記した記録を参考にすると、コンサートが行われたのは1998年6月3日のことで、前半のプログラムは、武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」とバートウィスル「時の勝利」(日本初演)である。武満の「鳥は星形の庭に降りる」は超有名というほどではないものの比較的知られた楽曲だが、バートウィスルの曲の情報が不足していたため避けられたのかも知れない。当時はまだ今ほどネットが普及しておらず、YouTubeなどで音源を気軽に聴くなどということも出来なかった。

ベートーヴェンの交響曲第5番はとにかく面白い演奏だったが、それが「ピリオド・アプローチ」なるものによる演奏であったことを知るのはそれからしばらく経ってからである。

それから24年ぶりとなるラトル指揮の演奏会。今回は現在の手兵で祖国を代表するオーケストラのロンドン交響楽団との来日であるが、ラトルはすでにロンドン交響楽団を離れ、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任することが決定しており、ロンドン交響楽団の音楽監督としては最後の来日公演となる。
本来は、2020年にラトルとロンドン響の来日演奏会が行われる予定で、京都コンサートホールでの演奏曲目はマーラーの交響曲第2番「復活」に決まっていたが、コロナにより来日演奏会は全て流れた。

今回の来日ツアーでも京都コンサートホールでの演奏会は組まれており、メインはブルックナーの交響曲第7番(B=G.コールス校訂版) であるが、フェニーチェ堺ではシベリウスの交響曲第7番がプログラムに入っていたため、少し遠いが京都ではなく堺まで出掛けることにした。流石に両方聴く気にはなれない。

演奏曲目は、ベルリオーズの序曲「海賊」、武満徹の「ファンタズマ/カントスⅡ」(トロンボーン独奏:ピーター・ムーア)、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、シベリウスの交響曲第7番、バルトークのバレエ「中国の不思議な役人」組曲。

フランス、日本、フィンランド、ハンガリーと国際色豊かな曲目が並ぶ。

アメリカ式の現代配置による演奏だが、ティンパニは指揮者の正面ではなく舞台上手奥に配される。


ベルリオーズの序曲「海賊」。オーケストラのメカニック、アンサンブルの精度などは日本のオーケストラと五分五分といったところ、ホールの音響もあると思われるが音の厚みではむしろ勝っているほどで、日本のオーケストラの成長の著しさが確認出来るが、音色の多彩さや輝きなどは日本のオーケストラからは聞こえないものである。おそらく音に対する感覚が異なっているのだと思われるが、そうなると日本のオーケストラがもうワンランク上がることの困難さが想像出来てしまう。
フランス音楽らしい響きが出ているが、ジェントルでノーブルであるところがイギリスのオーケストラらしい。このジェントルなノーブルさはコンサートを通して聴かれ、ロンドン交響楽団ならではの個性となっている。よく「日本のオーケストラは個性がない」と言われることがあるが、こうした演奏に接すると「確かにそうかも知れない」と納得しそうになる。


武満徹の「ファンタズマ/カントスⅡ」。
武満徹が書いたトロンボーン協奏曲で、ロンドン交響楽団首席トロンボーン奏者のピーター・ムーアがソリストを務める。
夢の中で更に夢を見るような重層的な夢想の構図を持つ作品で、次第に光度を増し、彼方からまばゆい光が差し込むようなところで終わる。
まどろみながら歩き続けているような、武満らしい楽曲である。ピーター・ムーアのソロも良い。


ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。一昨日参加した「JUN'ICHI'S Cafe」で広上淳一が、「ラヴェルの書いた『ダフニスとクロエ』はディアギレフに気に入られなかった」という話をしていたが、「ラ・ヴァルス」もディアギレフのためのバレエ音楽として書かれながら採用されなかった曲である。
雲の上から俯瞰で見るという冒頭の描写力も高く、典雅な演奏が繰り広げられるが、フランスの指揮者やフランスのオーケストラによる演奏に比べると上品である。エスプリ・ゴーロワに当たる性質を有していない(大枠でそれに含まれるものもあるにはあるだろうが)ということも大きいだろう。


シベリウスの交響曲第7番。これを聴きたいがために堺まで出向いた曲目である。
ラトルはシベリウスを得意としており、バーミンガム市交響楽団とベルリン・フィルを指揮した二種類の「シベリウス交響曲全集」をリリースしているが、シベリウスの交響曲の中でも後期の作品の方がラトルに合っている。
武満やラヴェルとはまた違った幻想的なスタートを見せる。人間と自然とが完全に溶け合った、シベリウスならではの音楽が巧みに編まれていく。フルートのソロなども谷間の向こうから聞こえてくるような広がりと神秘性を宿している。
ロンドン交響楽団は、わずかに乳白色がかったような透明な響きをだし、このオーケストラの上品な個性がプラスに作用している。
金管がややリアルなのがこの曲には合っていないような気がしたが、それ以外は理想的なシベリウス演奏であった。


バルトークのバレエ「中国の不思議な役人」組曲。実はシベリウスの交響曲第7番と同じ年に書かれた作品なのであるが、シベリウスとは真逆の個性を放っている。猟奇的なストーリーを持つバレエの音楽であり、鋭く、キッチュでストラヴィスキーにも通じる作風だが、バルトークの作曲家としての高い実力が窺える作品と演奏である。
バルトークは20世紀を代表する作曲家として、今でも十分に高い評価を受けているが、今後更に評価が上がりそうな予感もする。


今日は最前列の席も販売されており、最前列に座った男性が「BRAVISSIMO(ブラヴィーッシモ。ブラヴォーの最上級)」と書かれた紙を広げ、ラトルは気に入ったようで、その男性と握手を交わす。
ラトルは、「皆さんお聴き下さりありがとうございました」と日本語で語り、最前列の男性を指して「ブラヴィーッシモ!」と言ってから、「フォーレの『パヴァーヌ』を演奏します」とやはり日本で語る。

そのフォーレの「パヴァーヌ」。繊細でエレガント。耳ではなく胸に直接染み込んでくるような嫋々とした演奏であった。

楽団員の多くがステージから去った後も拍手は鳴り止まず、ラトルが再登場して拍手が受ける。ラトルは客席に向かって投げキッスを送っていた。

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2022年7月22日 (金)

コンサートの記(790) 大友直人指揮京都市交響楽団第669回定期演奏会

2022年7月16日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第669回定期演奏会を聴く。指揮は、京都市交響楽団桂冠指揮者の大友直人。

曲目は、シベリウスの交響曲第6番とヴォーン・ウィリアムズの交響曲第2番「ロンドン交響曲」。大友は全編ノンタクトでの指揮を行った。


午後2時頃から大友直人によるプレトークがある。まずシベリウスに関しては、交響詩「フィンランディア」や交響曲第2番、あるいは最も演奏されるのはヴァイオリン協奏曲かも知れないが、最も得意としたのは交響曲の作曲であること、ただ第3番以降の交響曲はあまり演奏されないことなどを述べる。京都市交響楽団がシベリウスの交響曲第6番を演奏するのも久しぶり。大友自身も20年ほど前に京響を指揮して交響曲第6番を演奏したことがあるが、もうどんな演奏だったかも覚えていないという。

ヴォーン・ウィリアムズはシベリウス以上に演奏されない作曲家で、「作曲家のいない国」といわれたイギリスの出身であるが、イギリスが音楽的に不毛な国だったかというとそうではなく、ドイツ出身のヘンデルがイギリスに帰化していたり、モーツァルトやベートーヴェンもイギリスを訪れて影響を受けたりと、やはり大英帝国ということで、音楽の分野でも影響力は大きかったことを明かす。
また、シベリウスもヴォーン・ウィリアムズも同時代人であり、シベリウスの交響曲第6番もヴォーン・ウィリアムズのロンドン交響曲も静かに始まり静かに終わるという共通点を持つと語っていた。


今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの会田莉凡(あいだ・りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏である。ロンドン交響曲ではヴィオラ独奏が活躍するということで、ソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積(たなむら・まづみ)が全編に出演する。
ロンドン交響曲が演奏時間約50分という大作であるため、シベリウスの交響曲第6番に参加した管楽器の首席奏者はトロンボーンの岡本哲とホルンの垣本昌芳のみ。垣本はロンドン交響曲には参加しなかったため、全編に出た首席奏者は岡本哲のみであった。


シベリウスの交響曲第6番。大友は京響から神秘的で透明感溢れる音を引き出す。21世紀に入ってから力技の演奏も目立つ大友だが、この曲の演奏は丁寧で見通しが良くハイレベルである。第3楽章のラストや第4楽章では音が濁ることがあり、万全の出来とはいかなかったが、潤いと憂いと美と救済とそのほかあらゆるものを描き出した「神品」交響曲第6番の美質を巧みに浮かび上がらせた秀演となっていた。
先に書いたとおり、この曲では、管楽器に首席奏者が少なかったが、「首席だったらもっと」と思うパートがあったのは事実である。


ヴィーン・ウィリアムズのロンドン交響曲(交響曲第2番)。シベリウスの交響曲全集はフィンランド出身の指揮者が音楽界を席巻しているということもあり、リリースラッシュだが、イギリスの指揮者も台頭が目立つため、当然ながら母国の偉大な交響曲作曲家であるレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集を作成する人は多い。サー・アンドリュー・デイヴィスのように早くから世界的な知名度を築いた指揮者から、サー・マーク・エルダーのように日本では知名度はそれほど高くないが英国では尊敬を集めている実力派の指揮者まで、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集を作成しており、シベリウスやショスタコーヴィチにようにヴォーン・ウィリアムズも今後ブレイクが必至の作曲家となっている。なんだかんだで名指揮者が多い国の音楽は演奏される機会も多くなるし、多く聴かれることでファンも増えていく。
ドイツやフランスといったかつての音楽大国は、最近、指揮者が才能払底気味であり、比較的新しい時代の自国の作曲家の作品が思ったよりも演奏されないという現象も起きている。

イギリスの交響曲作曲家というとエルガーが有名であるが、彼は交響曲を3曲、完成したものに限ると2曲書いただけで、交響曲第2番は余り人気がない。一方、ヴィーン・ウィリアムズは9曲の交響曲を残しており、曲調もバラエティーに富んでいるということで、今後、日本でも取り上げられる回数が増えていくことだろう。

大友直人は元々、ヴォーン・ウィリアムズなどのイギリス音楽を得意としており、今回も引き締まった良い演奏を展開する。得意曲を振らせると、大友は若返ったように生き生きしている。

ロンドン交響曲は、大英帝国の首都時代のロンドンの様々な光景を描いたもので、趣としては同時代に作曲されたエルガーの交響曲第2番に近い。第1楽章では2台のハープがウエストミンスターの鐘(「キンコンカンコン」という学校のチャイムでよく使われる響き)を奏で、第4楽章の終盤でもウエストミンスターの鐘が1台のハープで奏でられて、幕開けと終幕の役割を担っている。活気に満ちていたり、異国情調溢れる場面があったりと、多彩な表情を持つ曲であり、師であるラヴェルからの影響も窺える。たまに雑然としたアンサンブルになるところもあったが、総体的には高く評価出来る演奏だと思う。大友の指揮も冴え、京響も力強い演奏で応えていた。

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2021年9月 7日 (火)

コンサートの記(741) 藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団第260回定期演奏会

2014年10月10日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、関西フィルハーモニー管弦楽団の第260回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は関西フィル首席指揮者の藤岡幸夫(ふじおか・さちお)。藤岡が毎年1曲ずつ取り組んでいる「シベリウス交響曲チクルス」の3年目、第3回である。

曲目は、ショパンのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:萩原麻未)、シベリウスの「レミンカイネンの帰郷」、シベリウスの交響曲第4番。


午後6時40分頃から藤岡幸夫によるプレトークがある。
藤岡はまず、ショパンのピアノ協奏曲第1番の独奏者である萩原麻未について語る。ジュネーヴ国際コンクールで日本人として初めて優勝した若手ピアニストであることを紹介。藤岡が、いずみホールで行われた萩原のピアノリサイタルを聴いて感激し、以後、東京などでは共演してきたが、関西フィルでやっと共演出来るという喜びを語った。

シベリウスの交響曲第4番についてだが、「今日、来ていただいてこういうことを言うのはどうかとも思うのですが、とっても取っつきにくい」曲だと述べる。藤岡はシベリウスのスペシャリストであるが、「私も若い頃はこの曲がさっぱりわからなかった」そうだ。シベリウスの交響曲第4番に関しては初演の際に曲を理解出来た者が客席に一人もいなかったという言い伝えが有名である。

「シベリウスは、酒や煙草を愛していて、特に大酒飲みであり、酔って乱闘を起こして牢屋に入れられたこともある」と語った後で、「一方で、非常に優しい細やかな人で、自然を愛していた」と続け、「そんな彼が病気になった。腫瘍が見つかり、良性で助かったが、再発の危険を医師から指摘され、酒も煙草も禁じられた」という。酒や煙草は繊細な性格であったシベリウスの自己防衛だったのかも知れない。「酒や煙草を禁じられたシベリウスはストレス発散の方法を日記を書くことに求め、そのため、その当時の心理状況がよくわかる」そうである。「発狂寸前までいった」らしい。シベリウス自身が「暗黒時代」と読んだ日々の中で交響曲第4番は生まれた。「無駄を徹底して削り、管弦楽法も高度なものを用いて、シベリウス本人も『無駄な音符は一つもない』と言ったほど。言っておきますが、交響曲第4番は大変な傑作であります。シベリウスが好きな人の中には『交響曲第4番がシベリウスの最高峰』とおっしゃる方も多くいます(「私=本保弘人」もその一人である)。この曲はいわばシベリウスの音楽がどこまでわかるかの試金石ともいうべきものです」と述べる。

藤岡は、「この曲の第3楽章はシベリウス自身の葬儀で演奏されました。私の師は渡邉暁雄というシベリウスの世界的権威でして、渡邉先生も『自分の葬儀にシベリウスの交響曲第4番の第3楽章を流してくれ』と仰っていましたが、渡邉先生が亡くなったときは、私もまだ若かったものですから実現しませんでした」と語った。

今日はJR西日本やダイキン工業から招待客が多く来ているようだが、クラシックを初めて聴く人にとってはシベリウスの交響曲第4番は手強すぎる。野球に例えると、16打席連続三球三振を食らうレベルである。

シベリウスの交響曲を理解するには、他のクラシックの楽曲を良く理解している必要があるが、それだけでは暗中模索になってしまう。ある程度年齢を重ねていることもシベリウスの交響曲を理解する上での必須条件である。また「ただ悲しみを知る者のみが」シベリウスの楽曲を十分に理解出来る。そういう意味ではシベリウスの交響曲がわからないということは皮肉ではなく幸せであるともいえる。


ショパンのピアノ協奏曲第1番。
ソリストの萩原麻未は広島市安佐南区出身。5歳でピアノを始め、広島音楽高等学校を卒業後、渡仏。パリ国立高等音楽院に入学し、修士課程を首席で卒業。2010年に第65回ジュネーヴ国際コンクール・ピアノ部門で優勝。年によっては優勝なしの2位が最高位ということがある同コンクールで8年ぶりの優勝者となった。それ以前にも第27回パルマドーロ国際コンクールにおいて、史上最年少の13歳で優勝している。

藤岡がベタホメしたので、かなり期待してしまったのだが、確かに良いピアニストである。音は透明感に溢れ、鍵盤を強打した時も音に角がなく、柔かである。ただ、これは時折力感を欠くという諸刃の剣にもなった。メカニックは完璧ではないものの高く、美音を生かした抒情的な味わいを生み出す術に長けており、緩徐楽章の方が良さそうだ、という第一印象を受けたが、やはり第2楽章が一番良かった。他の楽章では一本調子のところも散見される。まだ若いということである。ショパンよりもドビュッシーやラヴェルに向いていそうな予感がした。

藤岡がハードルを上げてしまったため、こちらの期待が大きくなりすぎてしまったが、それを差し引けば、十分に良いピアニストである。

藤岡指揮の関西フィルの伴奏であるが、萩原と息を合わせて思い切ったリタルダンドを行うなど巧みな演奏を聴かせる。今日もチェロを舞台前方に置くアメリカ式の現代配置での演奏であったが、アメリカ式の現代配置だとチェロの音がやや弱く感じられ、低音部が痩せて聞こえる。日本のオーケストラのほとんどがドイツ式の現代配置を採用しているのはドイツ音楽至上主義であった名残であるが、ドイツ式の配置を取ることでチェロの音の通りを良くし、結果として体力面では白人に勝てない日本人に合った配置となったのかも知れない。

演奏終了後、萩原はマイクを持って登場。自身が広島市安佐南区の出身であり、豪雨による大規模土砂崩れが安佐南区で起こったということに触れ、「私はその時、ヨーロッパにいて、テレビでそれを知ったのですが、私に何か出来ることはないかと思いまして」ということで、募金を呼びかける。途中休憩時にはステージ衣装である薄緑色のドレスで、終演後は私服で萩原は募金箱を持ってロビーに立った。私も少額ながら募金を行った。

萩原のアンコール演奏は、ショパンの夜想曲第2番。夜想曲の代名詞的存在である同曲であるが、萩原は左手の8分の12拍子の内、2、3、5、6、8、9、11、12拍目をアルペジオで奏でる。音が足されていたようにも感じたのだが、そこまではわからない。そのため、推進力にも富む夜想曲第2番の演奏となった。


シベリウスの「レミンカイネンの帰郷」。シベリウスがまだ若かった頃の楽曲である。シベリウスの楽曲は後期になればなるほど独自色を増し、他の誰にも似ていない孤高の作曲家となるが、「レミンカイネンの帰郷」を含む「レミンカイネン」組曲ではまだロマン派の影響が窺える。作風もドラマティックである。藤岡指揮の関西フィルも過不足のない適切な演奏を行っていた。


メインであるシベリウスの交響曲第4番。陰々滅々たる曲であるが、20世紀が生んだ交響曲としてはおそらくナンバーワンである。シベリウスの他の曲も、「モーツァルトの再来」ことショスタコーヴィチの交響曲群もここまでの境地には到達出来なかった。

シベリウスを得意とはしているものの、これまではスポーティーな感じであることが否めなかった藤岡の指揮であるが、この曲に関してはアナリーゼが完璧であることは勿論、この曲を指揮するのに必要な計算と自然体を高度な水準において止揚することに成功しており、耳だけでなく皮膚からも音楽が染み込むような痛切にしてヴィヴィッドな音楽を聴かせる。
関西フィルはそれほどパワフルなオーケストラではないが、今日は弦楽パートが熱演。管楽器もシベリウスを演奏するには十分な水準に達している。

絶望を音楽化した作品は、ベートーヴェンやチャイコフスキーも書いており、特にチャイコフスキーの後期3大交響曲は有名であるが、シベリウスはチャイコフスキーとは違い、絶望を完全に受けいれてしまっているだけに余計救いがない。

なお、第4楽章では、チューブラーベルズを使用。シベリウスの交響曲第4番を生で聴くのは3度目であるが、チューブラーベルズを用いた演奏を生で聴くのは初めてである。普通は鉄琴(グロッケンシュピール)が用いられる。シベリウスは「鐘(グロッケン)」とのみ記しており、グロッケンシュピールのことなのか、音程の取れる鐘であるチューブラーベルズのことなのか明記していない。
録音ではヘルベルト・ブロムシュテットやロリン・マゼールがチューブラーベルズを採用している。

チューブラーベルズ入りの演奏を生で聴くと、ベルリオーズの幻想交響曲の最終楽章で奏でられる鐘(これはチューブラーベルズではないが音は似ている)を連想してしまい、ちょっと異様な印象を受ける。明るい音であるため却って不気味なのだ。

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2021年6月 1日 (火)

コンサートの記(723) 広上淳一指揮 第5回京都市ジュニアオーケストラコンサート

2010年1月31日 京都コンサートホールにて

午後2時から京都コンサートホールで、第5回京都市ジュニアオーケストラコンサートを聴く。指揮は広上淳一。

曲目は、スッペの「軽騎兵」序曲、チャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」、シベリウスの交響曲第2番。


京都市ジュニアオーケストラは京都市在住・通学の10歳から22歳までの青少年を対象としたオーケストラで、オーディションを通過した約110名からなる。


スッペの「軽騎兵」序曲では、冒頭のトランペットが野放図に強かったり、弦がもたついたりということがあったが、全般的には整った演奏。

チャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」。京都市ジュニアオーケストラは良く言うと音に余計なものが付いていない、悪くいうと音の背後に何も感じさせないところがあって、そこが不満だが、華のある演奏にはなっていたと思う。


メインのシベリウスの交響曲第2番。この曲をやるには京都市ジュニアオーケストラは基礎体力が不足していることは否めない。だが、聴いているうちにそれは余り気にならなくなる。

広上淳一とシベリウスの相性は気になるところだが、曲が交響曲第2番ということもあってか、ドラマティックで見通しの良い演奏であった。シベリウスの他の交響曲も広上の指揮で聴いてみたくなる。


アンコールは、ルロイ・アンダーソンの「そりすべり」。楽しい演奏であった。

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2021年4月11日 (日)

コンサートの記(708) 大友直人指揮京都市交響楽団第523回定期演奏会

2009年4月18日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第523回定期演奏会を聴く。指揮は桂冠指揮者の大友直人。

ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲と、シベリウスの交響曲第2番というプログラムである。


ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲のソリストは、ジェニファー・ギルバート。父親はニューヨーク・フィルハーモニックのヴァイオリン奏者で現在は指揮者として活躍するマイケル・ギルバート、母親もやはりニューヨーク・フィルハーモニックのヴァイオリン奏者である建部洋子、兄は指揮者のアラン・ギルバートという音楽一家の出である。ジェニファーは現在、リヨン国立管弦楽団のコンサート・ミストレスを務めている。

ジェニファー・ギルバートのヴァイオリンは豊かで美しい音色が特徴。第一級のヴァイオリニストと見て良いだろう。

大友直人指揮の京響の演奏も充実していたが、金管がたまに安っぽい音を出すのが残念である。


シベリウスの交響曲第2番。大友は例によって力で押すが、シベリウスの本質を把握しているのか、力だけの演奏にはならない。第2楽章が押す一方の演奏になってしまったのは疑問だが、他の楽章ではオーケストラが鳴り渡り、トップを揃えた金管も輝かしかった。

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2021年4月 8日 (木)

コンサートの記(706) 「コバケン・ワールド in KYOTO」@ロームシアター京都メインホール 2021.4.4

2021年4月4日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「コバケン・ワールド in KYOTO」を聴く。指揮とお話を小林研一郎が受け持つコンサート。
本来は、今年の1月23日に行われるはずの公演だったのだが、東京も京都も緊急事態宣言下ということもあり、今日に順延となった。

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現在は桂冠名誉指揮者の称号を得ている小林研一郎と日本フィルハーモニー交響楽団のコンビによる演奏である。
「炎のコバケン」の名でも知られる小林研一郎は、京都市交響楽団の常任指揮者を務めていたことがあり、日フィルこと日本フィルハーモニー交響楽団もロームシアター京都が出来てからは毎年のように京都での公演を行っているが、親子コンサートなどが中心であり(来月5日の子どもの日にも、ロームシアター京都のサウスホールで、海老原光の指揮により「小学生からのクラシック・コンサート」を行う予定)、本格的な演奏会を行うのは今回が初めてとなる。コバケンと日フィルの顔合わせで京都公演を行うのは今回が初めてとなるようだ。

 

小林研一郎は、1940年生まれで、昨年卒寿を迎えた。福島県いわき市出身。東京藝術大学作曲科卒業後に同大指揮科を再受験。芸大は編入などを一切認めていないため、受験勉強をやり直して合格し、1年生から再スタートしている。その頃は指揮者コンクールの多くに25歳までと年齢制限があり、芸大指揮科卒業時には20代後半となっていた小林は年齢で引っかかったが、年齢制限が緩かったブダペスト国際指揮者コンクールに応募して第1位を獲得。その縁でハンガリーでの活動が増え、同国最高のポストであるハンガリー国立交響楽団(現・ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団)の音楽監督としても活躍。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者時代には、「プラハの春」音楽祭のオープニングである、スメタナの連作交響詩「我が祖国」の指揮も務めている。
日本では日本フィルハーモニー交響楽団と長年に渡ってパートナーを組み、首席指揮者、常任指揮者、音楽監督と肩書きを変え、2010年に名誉指揮者の称号を与えられている。1985年より京都市交響楽団常任指揮者を2年だけ務めた。最近はインスタグラムにはまっているようで、更新回数も多い。

日本フィルハーモニー交響楽団は、元々はフジサンケイグループの文化放送が創設したオーケストラであり、ドイツ本流の楽団を目指すNHK交響楽団に対抗する形でアメリカのオーケストラを範とするスタイルを採用。渡邉暁雄や小澤征爾をシェフとして、一時はN響と共に日本を代表する二大オーケストラと見なされていた時期もあったが、1972年にフジテレビと文化放送から一方的な資金打ち切りと解散を命じられる。この時、小澤征爾が日本芸術院賞受賞の際に昭和天皇に直訴を行い、右翼から睨まれるなど社会問題に発展している。結局、小澤とそれに従った楽団員が新日本フィルハーモニー交響楽団を創設し、残った日本フィルハーモニー交響楽団は「市民のためのオーケストラ」を標榜して、自主運営という形で再スタートを切った。
渡邉暁雄とは、世界初のステレオ録音による「シベリウス交響曲全集」と世界初のデジタル録音での「同全集」を作成するという快挙を成し遂げており、現在も首席指揮者にフィランド出身のピエタリ・インキネン(インキネンともシベリウス交響曲チクルスを行い、ライブ録音による全集がリリースされた)、客員首席指揮者にエストニア出身のネーメ・ヤルヴィ(ネーメともシベリウス交響曲チクルスを行っている)を頂くなど、シベリウスと北欧音楽の演奏に強さを発揮する。

そんな日フィルの京都における初の本格的な演奏会ということで、曲目には、グリーグの「ホルベルク組曲(ホルベアの時代から)」より第1曲“前奏曲”、グリーグのピアノ協奏曲イ短調(ピアノ独奏:田部京子)、グリーグの劇音楽「ペール・ギュント」より“朝”“オーゼの死”“アニトラの踊り”“山の魔王の宮殿にて”“ソルヴェイグの歌”、シベリウスの交響詩「フィンランディア」と北欧を代表する曲がずらりと並ぶ。初回ということで自分達の最も得意とする分野での勝負である。

今日のコンサートマスターは木野雅之(日本フィル・ソロ・コンサートマスター)、首席チェロが「ペール・ギュント」では活躍するということで、日本フィル・ソロ・チェロの菊池知也の名が無料パンフレットには記されている。

日本フィルは自主運営ということもあり、東京のオーケストラの中でも経済的基盤は弱い。今回のコロナ禍によって苦境に立っており、寄付を募っている。

 

グリーグの「ホルベルク組曲」より第1曲“前奏曲”は、指揮者なしでの演奏。弦楽合奏で演奏されることも多い曲だけに、整った仕上がりとなった。

その後、小林研一郎が登場。今日はマスクをしたままの指揮とトークである。「私が出遅れたというわけではありませんで、室内楽的な演奏を聴いて頂こう」というわけで指揮者なしでの演奏が行われたことを説明する。
その後で、コバケンさんは、京都市交響楽団常任指揮者時代の話を少しする。任期中に出雲路にある現在の練習場が出来たこと、また新しいホール(京都コンサートホール)を作る約束をしてくれたこと、京都会館第1ホールで行われた年末の第九コンサートの思い出などである。

 

田部京子を独奏に迎えてのグリーグのピアノ協奏曲イ短調。田部京子はこの曲を得意としており、私自身も田部が弾くグリーグの実演に接するのはおそらく3度目となるはずである。田部の独奏によるグリーグのピアノ協奏曲を初めて聴いた時も日本フィルとの共演で、東京芸術劇場コンサートホールでの演奏会だったと記憶している。

田部京子は、北海道室蘭市生まれ。東京藝術大学附属高校在学中に、日本音楽コンクールで優勝。ベルリン芸術大学に進み、数々のコンクールで優勝や入賞を重ねている。リリシズム溢れるピアノが持ち味で、グリーグなどの北欧作品の他に、シューマン、シューベルトを得意とし、シベリウスに影響を受けた作曲家である吉松隆の「プレアデス舞曲集」の初演者にも選ばれて、CDのリリースを続けている。

先に書いた通り、田部の弾くグリーグのピアノ協奏曲は何度も聴いているが、結晶化された透明度の高い音が最大の特徴である。国民楽派のグリーグの作品ということで、民族舞曲的側面を強調することも以前は多かったのだが、今回は控えめになっていた。
スケールも大きく、理想的な演奏が展開される。

今回は指揮台の前に譜面台は用意されておらず、小林は全曲暗譜での指揮となる。
ゲネラルパウゼを長めに取ったり、独特のタメの作り方などが個性的である。

田部のアンコール演奏は、シベリウスの「樹の組曲」より“樅の木”。田部はシャンドス・レーベルに「シベリウス ピアノ曲集」を録音しており、「樹の組曲」も含まれていて、現在ではナクソスのミュージック・ライブラリーでも聴くことが出来る。
透明感と憂いとロマンティシズムに溢れる曲と演奏であり、田部の長所が最大限に発揮されている。
シベリウスはヴァイオリンを自身の楽器とした作曲家で、ピアノも普通に弾けたがそれほど好んだわけではなく、残されたピアノ曲は全て依頼によって書かれたもので、自分から積極的に作曲したものはないとされる。ピアノ協奏曲やピアノ・ソナタなども手がけていない。ただ、こうした曲を聴くと、ピアノ曲ももっと聴かれても良いのではないかと思えてくる。

 

後半、グリーグの「ペール・ギュント」より。第1組曲に「ソルヴェイグの歌」(第2組曲に入っている)が足された形での演奏である。

演奏開始前に、小林はマイクを手にスピーチ。演奏だけではなく「ペール・ギュント」という作品のあらすじについても語りながら進めたいとのことで、出来れば1曲ごとに拍手をして欲しいと語る。

第1曲の「朝」は非常に有名な曲で、グリーグや「ペール・ギュント」に関する知識がない人でも一度は耳にしたことのある作品である。
この曲は、「モロッコ高原での朝について書かれたものですが、やはり作曲者の故郷の、氷が張った海に朝日が差し込むような、あるいは日本の光景でも良いのですが、そうしたものを思い浮かべて頂ければ」というようなことを語ってのスタートである。
ヘンリック・イプセンの「ペール・ギュント」は、レーゼドラマ(読む戯曲)として書かれたもので、イプセン自身は上演を念頭に置いていなかったのだが、「上演して欲しい」との要望を断り切れなくなり、ノルウェーを代表する作曲家になりつつあったグリーグの劇付随音楽ありならという条件の下で初演が行われ、一応の成功はしているが、その後はグリーグの曲ばかりが有名になっている。「ペール・ギュント」のテキストは、イプセン全集に収められていたり、単行本も出ていたりで、日本でも手に入れることは可能である。

「オーゼの死」について小林は、シンプルなメロディーで見事な効果を上げていることを褒め、「アニトラの踊り」の妖しさ、「山の魔王の宮殿にて」(3月で放送が終了した「ららら♪クラシック」のオープニングテーマであった)の毒についても語る。「ソルヴェイグの歌」は、ペール・ギュントの恋人であるソルヴェイグが、今どこにいるのか分からないペール・ギュントを思いながら歌う曲である。コバケンさんは、ペール・ギュントと共にソルヴェイグが死ぬ時の歌と説明していたが、厳密には誤りで、ペール・ギュントが息絶える時に歌われるのは「ソルヴェイグの子守歌」という別の歌で、ソルヴェイグ自身は死ぬことはない。

この曲でもゲネラルパウゼが長めに取られるなど、小林らしい個性が聴かれる。

 

シベリウスの交響詩「フィンランディア」の演奏前には、小林はステージ下手に置かれたピアノを弾きながら解説を行う。帝政ロシアの圧政のように響く冒頭は、小林の解釈によるとギロチンで処刑されるフィンランドの人々を描いたものだそうで、その後に悲しみのメロディーが流れ、やがて戦争が始まる。「フィンランド第2の国歌」として知られる部分を小林はテノールで歌った。

演奏も描写力に富んだもので、抒情美も見事であった。

 

アンコール演奏については、小林は、「よろしかったら2曲やらせて下さい」と先に言い、マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲と、ブラームスのハンガリー舞曲第5番が演奏される。
ブラームスのハンガリー舞曲第5番は、スローテンポで開始して一気に加速するというアゴーギクを用いた演奏で、ハンガリーのロマ音楽本来の個性を再現していた。

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2021年2月 6日 (土)

コンサートの記(692) 「京都・国際音楽学生フェスティバル2007」フィンランド&フランスDay

2007年5月28日 京都府立府民ホールアルティにて

午後6時30分から、京都府立府民ホールALTIで、「京都・国際音楽学生フェスティバル2007」フィンランド&フランスDayを聴く。全席自由、1000円均一の公演。チケットの安い公演は、「何か知らないけれど来てしまいました」という、マナーとは無縁の客が入ってきてしまうことが多いのだが、今日もそうした方がちらほら。

「京都・国際音楽学生フェスティバル」は、ALTIで毎年開かれており、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリアという音楽大国の学生を始めとする有名音楽院の学生が参加している。

今日は、フィンランドのシベリウス音楽院(シベリウス・アカデミー。旧ヘルシンキ音楽院)と、「のだめカンタービレ」でもおなじみ(?)フランスのパリ国立高等音楽院(コンセールヴァトワール・パリ)の選抜学生による室内楽をメインとした演奏会である。

プログラムは、まずシベリウス音楽院の学生によるシベリウスの弦楽四重奏曲「親愛なる声」が演奏され、次いでパリ国立高等音楽院の学生によるフォーレのチェロ・ソナタ第1番と「エレジー」。そして、シベリウス音楽院、パリ国立高等音楽院、京都市立芸術大学の学生による弦楽合奏で、ドビュッシーの「小組曲」より“小舟にて”と“バレエ”、そして「夜想曲」(管弦楽のための「夜想曲」ではなく、ピアノ曲の編曲。いずれも篠田聡史による弦楽合奏版編曲による演奏である)、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ(祝祭アンダンテ)」、「弦楽のためのプレスト」、1981年生まれの若き作曲家ハルティカイネン(シベリウス音楽院に在籍)の新作「ルーメン(光)」(世界初演)が演奏される。

いずれもコンクールなどで優秀な成績を修めている学生達だが、あくまで学生であり、こちらも名演は期待していない。


シベリウス音楽院の学生による弦楽四重奏曲「親愛なる声」。ファーストヴァイオリン、セカンドヴァイオリン、ヴィオラは女の子で、どういうわけか全員眼鏡をかけている。チェロだけ男の子。トーマス・ヨアキム・ヌニエス=ガルセ君という長い名前の男の子だ。
祖国の大作曲家シベリウスの作品とはいえ、「親愛なる声」は深い音楽であり、学生では表現できないのではないかと思う。案の定、曲の把握が徹底されていない演奏であった。単に音が鳴っているだけの箇所が多い。それでも第3楽章などは哀切で透明な音楽を再現することに成功していたように思う。
アンコールとして、コッコネンの弦楽四重奏曲第3番より第2楽章が演奏される。シャープな演奏であった。

パリ国立高等音楽院在籍の女性チェリスト、オレリアン・ブラウネールさんは、高い技術力を持ち、豊かな音色による淀みない歌を奏でる。なかなかの実力者と見た。
フォーレの2曲は、いずれも若さに似合わない奥行きのある演奏であり、アンコールの「白鳥」(サン=サーンス作曲)でも優雅な音楽を奏でた。ピアノのエマニュエル・クリスチャン君も煌めくような音色の持ち主であり、好演だった。

弦楽合奏。京都市立芸術大学からの出演者は全員女の子。ということで、ステージ上の男性メンバーは先ほど名前を出したトーマス君ただ1人である。
コンサートミストレスはシベリウス音楽院のシニ・マーリア・ヴァルタネンさん。
ドビュッシーの「小組曲」よりと「夜想曲」も良かったが、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」と「弦楽のためのプレスト」はより優れた演奏。時に勢いに流されそうにはなるが、若々しさ溢れる演奏に好感を持った。

「ルーメン(光)」のハルティカイネン氏は会場に来ており、演奏前に簡単な楽曲解説を行った。
現代音楽であるため奏者だけでの演奏は難しく、この曲だけミラノ・ヴェルディ音楽院在籍のアンドゥレーア・ラッファニーニ氏が指揮を務める。
「ルーメン(光)」は、ヴァイオリンがグラスハープのような音を奏でるなど、繊細な音のグラデーションを特徴とする。しかし、この手の曲は全て武満徹作品のように聞こえてしまうのは気のせいなのか。

アンコールはシベリウスの「カンツォネッタ」。これも若さがプラスに作用した好演であった。

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2020年9月19日 (土)

コンサートの記(655) 京都フィルハーモニー室内合奏団 「北欧の室内楽」@アートコンプレックス1928 2005.12.7

2005年12月7日 三条御幸町のアートコンプレックス1928にて

午後7時からアートコンプレックス1928で京都フィルハーモニー室内合奏団のメンバーによる室内楽演奏会、「北欧の室内楽」を聴く。
アートコンプレックスでコンサートを聴くのは久しぶり。前回はジャズの演奏会だったのでクラシック音楽を聴くのは自分でも意外だが初めてである。

京都フィルハーモニー室内合奏団(以下:京フィル)はアートコンプレックスで定期的に演奏会を行っていたのだが、これまではずっと平日の昼間に演奏会を開いていたのでなかなか聴きに行けなかった。客席は、京フィルの関係者とファン、北欧音楽ファン(私もここに入る)、室内楽ファンに大別されるようだ。あまり宣伝はしていなかったので、「よくわからないけれど何となく来てしまった」という人はいないようである。

楽団紹介パンフレットには、藤堂音楽賞受賞や京都新聞大賞文化学芸術賞受賞など受賞歴が書いてあるが、それがどういう音楽賞なのかよくは知らないため、感じるのは「頑張ってるんだねえ」ということだけ。
それよりも、「アーノンクールが初めて、そして今のところ唯一指揮した日本のオーケストラ」という売り文句を書いた方がずっとわかりやすいしアピール力もあると思うのだが(クラシックファンの中に、アーノンクールが京都に来たことを知らない人は何人かいるかも知れないが、アーノンクールという名前を知らない人はまずいないだろうし)、京フィルには「売らんかな」という姿勢はないようなので、こちらがどうこういっても仕方ない。


曲目はニールセン(デンマーク)の木管五重奏曲。シンディング(ノルウェー)の「セレナーデ」より第1番、第2番、第5番。グリーグ(ノルウェー)の「ソルヴェイグの子守歌」と「白鳥」。シベリウス(フィンランド)の弦楽四重奏曲「親愛なる声」。グリーグのみ室内楽ではなく歌曲である。


ニールセンの曲は不思議なメロディーと現代的な響きが特徴。クラリネットが普通は出さないような音を出す。技巧的にも難しいのがわかる。
しかしその割りには曲があまり面白くない。今日のアートコンプレックスの客席は平戸間であるため、暖房が下まで届かず寒かったのだが、にも関わらず居眠りしている人が続出。やはり曲に魅力がないのだろう。


シンディングの曲は二つのヴァイオリンとピアノによる三重奏という編成。
シンディングの音楽はどこまで行っても青空、といった風な明るさと、艶やかで優しく爽やかなメロディーが特徴だ。だが少なくとも今日聴いた音楽からは影がほとんど感じられない。
生前は人気作曲家であったというシンディング。しかし死後、急速に忘れ去られてしまう。あるいは影が不足していたことがその原因なのかも知れない。シベリウスの音楽が喜びの歌の背後に癒しがたい悲しみを湛えていたのとは好対照である。


グリーグの歌は、清澄なメロディー、温かな雰囲気、透き通るような悲しみが特徴。愛らしい歌曲である。歌ったのはソプラノの島崎政子。真っ赤なドレスが印象的であった。


ラストのシベリウスの弦楽四重奏曲「親愛なる声」は他の曲とは格が違う。弦楽四重奏曲ではあるが、スタイルは小編成による合奏曲に近い。先にも書いたがチャーミングで喜び溢れる歌の中に、悲しみや孤独が隠れている。私はそこに人生を感じてしまう。
視覚的にも格好良く、一斉合奏の部分は絵になっている。
ただシベリウスの音がしていたかというと、「ある程度は」と答えるしかない。シベリウスの音楽を聴かせるのは難しいのだと再確認する。

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2020年8月15日 (土)

コンサートの記(647) 三ツ橋敬子指揮 京都市交響楽団 みんなのコンサート2020「オーケストラの旅」@京都市北文化会館

2020年8月9日 北大路の京都市北文化会館にて

午後2時から、北大路にある京都市北文化会館で、京都市交響楽団 みんなのコンサート2020「オーケストラの旅」を聴く。指揮は日本を代表する女性指揮者の一人である三ツ橋敬子。

今日も第1ヴァイオリン4人、第2ヴァイオリン3人、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが2人ずつという室内オーケストラ編成での演奏。弦楽はワントップの配置である。木管楽器奏者の前には透明なアクリル板が置かれ、飛沫が弦楽器奏者の方に飛ばないよう配慮されている。

コンサートマスターは今日も泉原隆志だが、京響の出演メンバーは先週の「みんなのコンサート」とは大きく異なる。

 

上演時間約1時間、休憩なしのコンサート。曲目は、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲(ロシア)、ヴェルディの歌劇「アイーダ」より凱旋行進曲(イタリア)、オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」よりカンカン(フランス)、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲(オーストリア)、チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」から“行進曲”“こんぺい糖の踊り”“あし笛の踊り”“花のワルツ”(ロシア)。

世界各国のオペラやバレエの名曲を並べたプログラムだが、バロックから初期ロマン派までだった先週の「みんなのコンサート」と違い、比較的新しくて本来は大編成で演奏される曲が多いため室内オーケストラでそのままとはいかず、編曲を施したりカットした上での演奏となる。

京都市北文化会館は、京都市内の多目的ホールの中では比較的音が良い。

 

今日も指揮者も含めて全員が京響の黒いポロシャツを着ての登場となる。

 

三ツ橋敬子は、東京生まれ。幼い頃は医師に憧れていたが、早くから音楽の才能も示していた。東京藝術大学と大学院で指揮を学ぶ。大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮者である角田鋼亮は大学と大学院の指揮科同期である。その後、ウィーン国立音楽大学とイタリアのキジアーナ音楽院に学ぶという、昨今の日本人指揮者の王道路線を歩み、第10回アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで優勝。第9回アルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールでも入賞している。
身長151㎝と小柄なマエストラである。

 

グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲。木琴を足しての演奏である。勢いよく始まり、京響の美音が生きるが、やや中だるみの傾向あり。コンサート全体として緩徐部分が弱いという印象を受けた。

三ツ橋のマイクを手にしてのトーク。6歳から入場可であり、「小さなお友達」もいるため(コロナの影響で例年よりは少なめ)、三ツ橋はゆっくりと発音良く、「うたのおねえさん」的トークを行う。だが暑くてボーッとしたのか、オッフェンバックのことを「フランス生まれでドイツで活躍した」と真逆に紹介したり、幼いモーツァルトが求婚したマリー・アントワネットのことを「女王様」と言ってしまったりと、ちょっと頼りない。

 

ヴェルディの歌劇「アイーダ」より凱旋行進曲。
三ツ橋は、「次はイタリアです。イタリアってどういうイメージありますか? 小さいお友達はピザって知ってるよね? あと、サッカー、は最近弱いんですけど有名です」
三ツ橋はヴェネチア在住なので、イタリアには思い入れがあるようだ。
編成が小さいので迫力は出ないが、整った演奏を聴かせる。オペラの中に出てくる形そのままではなく、サッカーでサポーターが口ずさむことでも知られる有名な旋律を中心にしたカット版での演奏。

 

オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」よりカンカン。
三ツ橋は、「天国と地獄、どちらに行ってみたいですか? 天国に行ってみたいという方。結構いらっしゃいますね。では地獄に行ってみたいという方。シーン」
その後、「天国と地獄」のあらすじや「フレンチカンカン」の説明。そして昨日の右京ふれあい文化会館での同一演目の演奏会で、「CMでも使われています」と言ったものの、実は関西地方でそのCMが流れていないことを今朝知ったという話をする。カステラと言っていたため、「文明堂」のCMであることがわかる。私は関東の出身なので、子どもの頃によく目にした。全国区じゃなかったのか。トヨタのCMでも流れていたらしいが、そちらは知らない。

これも編成の都合上、迫力には欠けるが良く纏まっている。ただ、三ツ橋の演奏を聴くと大抵いつも「良く纏まっている」という印象は受けるもそこから先に行けないというもどかしさは感じる。

 

モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲。大阪フィルと大阪新音の合唱団を指揮した「レクイエム」の演奏も優れた出来であり、三ツ橋はモーツァルトは得意としているようである。この「フィガロの結婚」序曲も、「ウキウキ」と「ワクワク」に満ちている。

 

チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」から“行進曲”“こんぺい糖の踊り”“あし笛の踊り”“花のワルツ”。
三ツ橋は、“こんぺい糖の踊り”でチェレスタという楽器が活躍するのだが、チャイコフスキーは初演を衝撃的なものにするためチェレスタの存在を隠し続けたという話をする。今日はチェレスタはなく、鉄琴2台がチェレスタが受け持つ旋律を奏でる(メインの鉄琴を奏でるのは打楽器首席の中山航介)。
“あし笛の踊り”もフルートは3本ではなく単管での演奏。

神秘的な雰囲気や華やかなど、この曲の魅力が生きているが、室内オーケストラの演奏で聴くとチャイコフスキーのオーケストレーションの巧みさがより鮮やかになる。弦楽による音の受け渡しなど、視覚的にもとても面白い。

 

アンコール演奏は、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」。コロナ自粛が始まってから配信コンサートでよく耳にする曲目である。

三ツ橋はフィンランドの紹介を行う。子ども達に、「ムーミンって知ってるかな? ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソン(調べたところ、今日8月9日が誕生日に当たるようだ)がフィンランド人です(スウェーデン系フィンランド人であり、彼女自身はスウェーデン語を用いた)。サンタクロースもフィンランドから来ていたり。とても寒い国なんですが、シベリウスが書いた温かい音楽です。タイトルが覚えられなかったという方もいらっしゃるかも知れませんが、日本語では『祝祭アンダンテ』と言いましゅ。“言いましゅ”って言っちゃった」

室内オーケストラ編成でも演奏可能な「アンダンテ・フェスティーヴォ」。色彩を変えつつ、うねるような痛切な祈りに満ちた演奏であり、ラストでは「希望と未来への確信」が響く。やはりこうした時に聴くのに相応しい楽曲である。三ツ橋と京響の弦楽陣は小編成ながらスケールの大きな演奏を歌い上げた。

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