カテゴリー「演劇私見」の13件の記事

2020年8月22日 (土)

KYOTO SAMURAI BOYSの活動無期限休止についてい

平安神宮に隣接する商業施設、十二十二の2階シアターで行われたいた「KYOTO SAMURAI BOYS」が5月31日を最後に無期限の活動休止となっているようです。その前に上演されていた秋元康プロデュースの公演「スシは別腹」も無期限活動休止としながら、結局は解散へと至ったことが思い起こされます。

「KYOTO SAMURAI BOYS」は、イケメンを集めたノンバーバルショーだったようで、その場合は若い女の子が十二十二に詰めかけるという光景が見かけられたはずですが、私の知る限り、公演が行われているということを知っている京都市民は圧倒的少数派であり、広報が機能していないようにも見受けられました。

ノンバーバルということで、「スシは別腹」同様、外国人観光客を客層として想定したいたように思われますが、新型コロナによりインバウンドが減ったから活動休止ということではなく、単純に不入りという理由で無期限休止となったのだと思われる。その場合、再開への希望は書かれていますが、実現に至らない可能性は極めて高いと思われます。

そもそも、京都にも平氏や足利幕府といった武家政権が君臨した時期があり、戦国時代の大名達も上洛を目指していましたが、そうした時代の武士達で主役となるのは、為政者、権力者、大名などであり、いわゆる一介の「侍」というイメージするのは江戸時代以降で、そうした侍が京都で活躍したのはほぼ幕末に限られます。ただ「KYOTO SAMURAI BOYS」に例えば歴女に人気の新選組的な要素があるかというと、ほぼないと思われます。そのため誰を対象にいた公演なのかがよくわからないことになっています。

https://www.samuraiboys-project.com/

 

| | コメント (0)

2019年1月10日 (木)

劇を観る上で

一番重要なのは、「わかろうとすること」です。勿論、作者は他人ですので、100%理解するのは困難かも知れません。ただ、わかりもしないのに論ずるということは困難です。そうした言葉は風が吹けば飛ぶような軽いものだったり、論点があさっての方向を向いたものだったりします。言葉にするに値しないものかも知れない。それだけは避けて欲しいのです。

劇を語るのは人生を語ることです。少なくともどう生きているかという指標を明らかにすることです。だからそのためには地図を持って歩いて下さい。人生の迷路の中で彷徨わないように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月25日 (火)

当たり前のことなのだが

論ずるには対象をきちんと把握していなけらばならない。ただ、大半の人はそれが出来ていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 1日 (土)

E

E1+E2/E3=E

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月30日 (金)

もう誰も

追いつこうと懸命に走っていた。
気がついたら前にもう誰もいない。
これからは絶対的で究極の孤独を抱えて、一人進むしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月19日 (金)

説明

「説明が多い」などといわれたことがありますが、「いくら説明しても内容がわからない馬鹿」にそんなことを言う資格なぞないということです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月16日 (月)

我々はアーサー・ミラーにすら

我々はアーサー・ミラーにすら追いついていない。そして差は開くばかりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月 3日 (土)

見せ掛ける技術

東京の演劇人と違い、我々は150キロのストレートを投げることは出来ないのです。130キロが関の山です。ただ150キロを出しても打たれるピッチャーと130キロでも抑えれる投手がいます。可能性として最も高いのは、130キロのストレートを150キロ超に見せ掛けることです。小手先の技術では駄目です。本質を掴んで揺り動かす必要があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年11月 7日 (月)

プロ・アマ

ロームシアター京都のオープンにより、東京の有名芸能人による京都での演劇公演が増えており、今後も増加傾向となることが予想される。
京都にもプロの劇団はあるが、プロの定義は東京とは異なり、「演劇一本で生活できる」という意味でのプロの人はほとんどいない。お金を貰っているという意味ではプロだが生活を考えるとアマということになる。もっとも東京でも「芝居だけで食っている人」は10人ほどといわれる世界である(CM出演や営業などは副業とされる)。ただ東京の有名プロ俳優は映像に出演さえ出来れば高額のギャラを貰うことが可能である。
 
観客として「俳優がプロではないから手加減して観る」ということは難しいと思われる。プロフェッショナルだろうがアマチュアだろうが演劇は演劇である。ただ東京の一流の人は伊達に一流なのではない。彼ら彼女たちは数千倍から数万倍の倍率を潜り抜けて「選ばれた人達」なのである。自分から手を挙げた人が大半である京都の演劇人とはそこが違うのだが、観客は同じ舞台俳優として見る。実力差など関係なしに。
 
これまでは京都で定期的に公演を行っている東京の演劇人は加藤健一事務所だけだった。ただ今後は京都でも一流芸能人による舞台公演が相当数行われることは確実である。
その場合、京都の演劇人が太刀打ち出来るのかどうか。少なくとも同じ土俵で戦うのは困難である(大阪でもメインの劇場である梅田芸術劇場メインホールやシアター・ドラマシティは東京の演劇人に独占されており、大阪の演劇人は芝居を打つことさえ出来ないのが現状である)。東京の演劇人にはない魅了を打ち出す必要があるのだが、困難であることは間違いない。白旗を揚げることなど出来ないのであるが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月11日 (月)

京都という孤島

 京都で相次いで小劇場が閉鎖する。いずれも稼働率ではなく所有者側の事情であるが、京都に近い将来、小劇場の危機が訪れるのはもうずっと以前から分かっていた。
 もう閉鎖してしまう劇場だから書いてしまうが、京都の小劇場のレベルは東京の1960年代のそれである。最初に京都の小劇場に行ったときの印象を正直に書くが、「何だこの前時代的施設は」である。
 正直、他の文化に触れている人が京都の小劇場文化に触れようとするには無理があった。お洒落でサービスの行き届いたアート施設に通い慣れている人が京都の小劇場に通うだろうか。答えは明白に「No.」である。
 京都には劇場文化がない。14年前に来たときからそれは気がついていた。そして困ったことに、「演劇で重要なのは劇場ではない」と本気で信じている演劇関係者がいたことだ。「想像力欠乏症」。この病名を彼らには布告したい。
 京都という文化的孤島にあって「まともな劇場がない」(これはロームシアター京都が出る前の大型文化施設にも共通したことであったが)、という状況から一歩でも早く抜け出す努力はすべきであった。しかし京都小演劇界は見事なまでの自閉ぶりを演じた。
 文化首都を標榜する街に住む人々の現状把握能力は以上に述べた通りである。私が京都に来たときには京都の演劇は東京に比べて20年遅れていた。そして東京の演劇は進歩している間に(幸い、進歩の速度は緩やかだったが)30年遅れになってしまった。
 「不十分な設備で頑張っているのが格好いい」。そういう意識は1960年代の東京のアングラ演劇にはあった。だが、今は21世紀である。「客を呼ぶためにはどうすればいいのか」と東京が練り続けてきたことを京都は放棄してきた。海の向こうにもっと素晴らしい場所があるのを知らずに、孤島の人々はままごとを繰り広げていたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧