水戸藩邸跡
下長者町烏丸西入る北側にある京都「水戸藩邸跡」の碑。水戸藩は徳川御三家の一つでありながら勤王の家風があり、「徳川宗家と朝廷の間に争いがあれば朝廷に味方せよ」という意味の家訓があったといわれている。水戸藩が親天皇であることはよく知られており、幕末の京都の町人の間でも水戸藩は人気があったという。孝明天皇が江戸を経ず水戸徳川家に直接「攘夷と日米修好通商条約破棄、公武合体のための号令を発することを許す勅書」(戊午の密勅)を渡し、それが露見して安政の大獄が発生。これに怒った水戸脱藩浪士が桜田門外の変を起こすなど、水戸徳川家は幕末の騒乱の一方の主役となった。密勅はここ水戸藩邸に届けられ、水戸へと運ばれたという。
水戸藩は将軍補佐という形で江戸常勤を命じられており、家から将軍を出すことは許されないとされていたが、水戸藩主・徳川斉昭の七男・七郎麿が御三卿の一つである一橋家の養子となり、のちに徳川慶喜として将軍に就いた。これにより皮肉なことに御三家から将軍を輩出できなかったのは、一番の大藩であり御三家筆頭である尾張徳川氏だけとなった。
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