天智天皇山科陵
京都市山科区御陵上御廟野町にある天智天皇山科陵。地名の御陵(みささぎ)と京都市営地下鉄東西線御陵駅(みささぎえき)の由来にもなっている。
第38代天皇・天智帝。名は葛城(かずらき)皇子。中大兄皇子の名でも知られる。乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺。蘇我本宗家を滅ぼして権力を朝廷に戻すことに成功。一連の政策は「大化の改新」として有名である。中臣鎌足を右腕として辣腕を振るうが、朝鮮半島の百済からの要請で参戦した白村江の戦いで日本が新羅・唐連合軍に完膚なきまでの大敗を喫すると、防衛のため都を飛鳥から近江(大津京)に移し、また戦の首謀者としての責任を問われるの恐れたためか天皇に即位するべきところを回避。空位時代をもたらしてしまう。近江遷都と空位時代を招いたことに対する不満が貴族、民衆の両方から噴出。のちに起こる壬申の乱の火種になったとも言われる。
即位後の最大の功績は日本初の戸籍である「庚午年籍」を作成したこと。また日本初の水時計(漏刻)を作らせたことでも知られる。
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