新日吉神宮 狛猿 吽像
江戸時代には新日吉神宮は今より東の太閤坦、かつての豊国社跡に至る道を塞ぐように建っていたことは先に述べた。徳川幕府が先の為政者である豊臣秀吉の威光を消すために豊国社を破却、新日吉神宮を移したのである。ところが新日吉神宮は豊臣秀吉を密かに祀り続けていた。今の新日吉神宮境内に豊国社(秀吉の最初の名字である「木下」にかけて樹下社とも呼ばれる)があるのもそれを裏付けている。
ところで、豊臣秀吉というと、主君である織田信長から「猿」というあだ名で呼ばれていたということになっているが、これは史実では全くない(信長は秀吉のことを「はげ鼠」などと呼んでいたという)。また秀吉の相貌が猿に似ていたという事実もない。また、秀吉の幼名は日吉丸であったとされるが、史書にそんなことが載っているはずもなく、これも後世の創作とされている。
新日吉神宮に秀吉が密かに祀られていたという事実、新日吉神宮では猿が神の使いとして崇められているということ、そして何故か秀吉の幼名が「日吉丸」であったされていること。これらの符合が全くの偶然であると見る方が不自然なように思われるのだが。
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