京都霊山護国神社 高杉晋作・来嶋又兵衛の墓
京都霊山護国神社にある高杉晋作と来嶋又兵衛の墓。奇兵隊の創設者として名高い高杉晋作は、松下村塾に学び、西洋の兵法に通じる。松下村塾と上海遊学時代を通じて西洋の平等思想を知り、身分を問わずに組織された奇兵隊を生み出したという。なお、軍団に「隊」という名を用いたのは、奇兵隊が初めてであるといわれる。
上海が西欧諸国に狙われていることを知った高杉は攘夷へと傾いていった。
来嶋又兵衛は、京都における長州藩の反幕府・反会津の急進派の急先鋒。会津藩から京の支配権を奪おうとし、長州藩の慎重派から待ったがかかった。この時、来嶋に思い止まるよう説得したのが高杉晋作であった。高杉の説得も空しく、急進派は禁門の変にて敗北、来嶋又兵衛は蛤御門のそばにある椋の木の下で自刃した。
長州藩を征伐すべく、幕府軍は長州に攻め込む。第一次の長州征伐は長州方の降伏で終わるが、これを不服とし、藩内の親幕派を一掃したのが高杉晋作であった。高杉晋作は、第二次長州征伐の際には長州の海軍を率い、幕府軍を打ち破った。しかし肺結核を患った高杉は大政奉還を知ることなく、わずか27歳で世を去った。
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