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2011/06/17

新選組壬生頓所・八木邸

新選組壬生頓所・八木邸

文久3年(1863)。徳川将軍家茂の上洛警護のために出羽庄内藩郷士・清河八郎の献策によって集められた200人以上の浪士(浪士組)が上洛。壬生村に宿営する。
しかし清河は朝廷に文を送って許可を得、浪士組を帝の軍隊とし、尊皇攘夷の先鋒とすることを新徳寺(新徳禅寺)で公にする。清河の独走であったため、浪士組は江戸に帰されることになるが、「将軍警護の役目を果たしていないとして」、近藤勇ら江戸・試衛館(試衛場)派 、芹沢鴨を首領とする水戸派、更に根岸友山派、個々に決断した殿内義男などが京都残留を決める(根岸友山派は直後に離脱。お目付役だったとされる殿内義男は四条大橋にて近藤勇、沖田総司らに暗殺された。殿内暗殺計画には近藤と芹沢の両方が荷担していたと見られ、試衛館派と水戸派が行動を共にした数少ない例である)。

壬生の八木家は朝倉氏の末裔で士分であった。当初八木邸は主に水戸派(精忠浪士組)の頓所として用いられたが、新選組の名を下賜された直後の文久3年9月18日(9月16日説もある)の芹沢鴨粛清後は近藤ら試衛館派の幹部志士が用いるようになる(水戸派はその後、野口健司の切腹により消滅する)。壬生の人々は浪士達の狼藉を怖れて、皆、壬生から逃げ出してしまったというが、八木家の当主・八木源之丞一家だけは士分で、朝倉氏の末裔という誇りから最後まで浪士達の面倒を見たという。
芹沢鴨が襲撃された時に寝ていた部屋(大広間)、芹沢が隣部屋に逃げ込んだ際に躓いて斬られるもとになったという文机(泥酔して寝ていた所を襲撃されたにも関わらず、芹沢は最初の一撃を交わして隣部屋に逃げ込んでいる。当日、沖田総司が殴られて怪我をしたことがわかっており、芹沢は沖田の剣を交わした可能性が高い)、芹沢襲撃の際に付けられたと思われる刀傷(誰のものかは不明)などが残る。
内部撮影不可。

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