田中伊織(新見錦?)、野口健司、奥沢栄助らの墓
芹沢鴨・平山五郎の墓の横にある合祀塚。田中伊織、野口健司、奥沢栄助ら7名の隊士が祀られている。
さて、田中伊織なる人物であるが、西本願寺の侍臣・西村兼文の『新撰組始末記』によると田中伊織は壬生浪士組結成時から人物であるとされているが、他には田中伊織なる人物の名は見えず、また、命日が新選組局長(後に副長に降格)新見錦と同じであることから、田中伊織こそが新見錦の本名なのではないかという説がある。
新見錦(新見は「にいみ」と読むことが多いが最近は「しんみ」と読む場合もある。)。水戸の出である。清河八郎の浪士組に参加し、芹沢鴨らの京都残留に同意。芹沢鴨、近藤勇とともに初代局長となる。神道無念流免許皆伝と伝わるなど芹沢との共通点が多いが、芹沢と新見がいつ出会ったのかは不明である。小説やドラマでは芹沢の片腕のように描かれることが多いが、壬生に来てからは芹沢と行動を共にすることは少なく、一匹狼的な存在だったのではないかとも言われる。
壬生浪士組(精忠浪士組)結成後半年で副長に降格になるが理由は不明。悪行が多く、祇園の料亭・山緒(現所在地不明)で切腹させられたという。また悪行とあるが新見に関する記録や証言は少なく、それがどんなものなのかもわからないという謎の多い人物である。
また、新政府側の犠牲者のみが祀られているはずの京都霊山護国神社に、新選組隊士として、新見錦が唯一祀られていることから、最初から長州側の間者だったのではないかという説も根強い。
野口健司も、水戸の出。文久3年(1863年)9月に芹沢鴨ら水戸派が相次いで粛正される中、一人生き残るが、同じ年の12月に切腹させられ、新選組水戸派は壊滅した。切腹を命じられた原因は不明である。
奥沢栄助は、池田屋事件における新選組唯一の犠牲者として知られる(池田屋事件において手傷を負い、のちに死亡した隊士は2名いるが、いずれも池田屋事件の傷が元なのかどうかわかっていない)。
池田屋事件(元治元年=1864年、6月5日)の時、新選組の隊士は50名ほどしかいなかった。芹沢粛正以前は、芹沢、近藤等が隊士募集を積極的に行い、隊士は100名ほどいたといわれる。このことから、一般にいわれるように新選組は芹沢体制から近藤体制にスムーズに移行したわけではなく、隊士の半数は芹沢派で新選組から離れたことがわかる。また局中法度の「局ヲ脱スルヲ不許」の条文はこの時点ではなかったか、機能していなかったか、そもそも局中法度そのものが新選組三部作を書いた子母澤寛の創作である可能性も指摘される。
池田屋事件の際、隊士が半減していることに関して近藤はそれを認めず、「風邪が流行っていて隊士の半数が寝込んでいる」という苦しい言い訳をしている。
また、近藤は池田屋事件で新選組隊士に犠牲者はいないと報告しているが、奥沢が死んでいることからこれも嘘であることがわかっている。
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