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2011/07/09

山南敬助の墓

山南敬助の墓

新選組初代副長、のち総長の山南敬助(山南敬介、山南敬輔、山南啓介)。氏は藤原、諱は知信。仙台藩の剣術指南の家の生まれと称するが、仙台藩には山南という苗字の家臣は少なくとも上級武士にはいないそうで、下級武士か、あるいは山南というのは偽名とも考えられる。

山南は「やまなみ」とも「さんなん」とも読めるが、愛称が「さんなんさん」であった上に、三男三郎、三南三郎と書いた自筆が伝わっており、また「やまなみ」姓がほとんどいないのに対して「さんなん」姓は比較的多いことから、「さんなん」と読んだ可能性が高い。

仙台藩脱藩後、江戸に出て、剣は小野派一刀流もしくは北辰一刀流、あるいは両方の免許皆伝。一説に、山南が両方の剣術を収めていたことから信頼が高かったともいう。

江戸・試衛館(試衛場)で、近藤勇と対戦して敗れ、近藤の人柄に惚れて、試衛館の門人になったという。

教養も高く、新選組に対して批判的な西本願寺侍臣・西村兼文も「少しく時理の弁えある者」と称している(ただ、時期的に西村と山南が実際に顔を合わせていたのかは微妙である)。

人柄の良さで知られ、壬生の人々からも愛されたという。

しかし、文久3年7月に、大坂の岩城升屋で不逞浪士と戦った際に、山南の剣が激しく刃こぼれことがわかっており、この時、負傷した可能性が高く、池田屋事件にも参加していない(池田屋事件については、壬生屯所を守る役目だったという説もある)。その後、副長から総長に格上げになるが、これも十分に働けなくなった山南を気遣っての名誉職の可能性が高いとされる。

翌、元治元年、伊東甲子太郎が入隊。伊東の役職は総長より上の参謀であった。新選組の知恵袋であった山南であったが、教養は英語にも堪能な伊東の方が上。この事から山南は居場所を失うようになっていったという説がある。

池田屋事件で名を挙げた新選組は入隊者が増え、壬生の屯所が手狭になったこと、また、西本願寺が長州を布教の拠点の一つとしており、長州贔屓で長州志士の脱走を手助けしているという話があることからこれらの監視の目的も兼ねて、土方が西本願寺への屯所移転を計画。山南はこれに強行に反対したという。

翌、慶応元年2月23日、壬生屯所・前川邸にて、自刃。介錯は沖田総司が務めたという。屯所脱走や遊女・明里との色恋は有名だが、いずれも新選組三部作の作者である子母澤寛の創作の可能性が高く、隊を脱したから切腹したのではなく、実際は西本願寺への屯所移転反対のための諫死であった可能性が高いと思われる。しかし、山南の思いは届かず、新選組は西本願寺に屯所を移転することになる。

なお、山南の墓石に横には、河合耆三郎の名も記されており、河合が当初、光縁寺に葬られたことがわかっている。

元々、人気隊士の一人であった山南であるが、2004年の大河ドラマ「新選組!」で山南が丁寧に描かれ、山南(このときの読みは「やまなみ」)役の堺雅人の好演も相まって人気は更に上昇。2007年より、毎年、壬生にて山南忌が執り行われるようになった。

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