高知城 板垣退助銅像
高知城追手門から少し上ったところにある板垣退助の銅像。土佐藩出身の板垣退助は上士であり、下士である坂本龍馬や白札である武市半平太よりも身分は上であった。最初は乾退助、のちに板垣退助と称する。公武合体派の多い土佐藩にあって、板垣は中岡慎太郎と並ぶ倒幕派であった。戊辰戦争で活躍。甲州勝沼の戦いを前に先祖である甲斐武田氏家臣板垣氏に復姓。大久保剛(大久保大和)こと近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破している。
維新後、参議となるが、征韓論を退けられて下野。以後は東京に愛国公党、高知に立志社を起こし、自由民権運動の旗頭となる。その後、自由党を結成し、党首に就任。
明治15年(1882)に遊説先の岐阜で天皇親政派の青年に短刀で刺される(岐阜事件)。この時、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという話は有名だが、これは後の創作である可能性が極めて高い。
帝国議会開設後は、自由党の党首として大臣職を歴任。特に第1次大隈重信内閣の時は、元々はライバルであった大隈の進歩党と自由党が組んで憲政党を興し、内務大臣を務めて大隈と二人合わせて隈板内閣と称された。
意外であるが、大物政治家でありながら一度も内閣総理大臣を務めたことはない。
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