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2013/12/17

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

吉良上野介義央。読みは、「きらこうずけのすけよしなか」とされてきたが、領地であった現在の愛知県西尾市吉良(旧愛知県吉良町)に残っていた文書の花押から「よしなか」ではなく、「よしひさ」と読むのが正しいのではないかと考えられ、近年のドラマや映画でも「よしひさ」とされることが多くなってきている。吉良氏は旗本であるが、足利源氏の流れを組む名門であり、主に朝廷と幕府との関係を取り持つ高家に任じられていた。高家には他に、室町幕府の三管領の一つである畠山氏、信長の家系で信長の弟・有楽斎を祖とする織田氏など名門が並ぶが、その中で吉良氏は高家筆頭であった。また上野介は嫡子のなかった出羽・米沢の上杉家に養子を出しており、上杉氏は出羽国主であったため名実共に出羽国父となっていた。
松の廊下事件の真相であるが、浅野内匠頭長矩が即日切腹となったため証言が少なく不明である。浅野内匠頭の縁者にやはり江戸城内で刃傷沙汰を起こした人物がいるため、浅野内匠頭は生来、カッとなりやすい性格であったのではないかともいわれる。

一方の、吉良上野介であるが、性格については余り良い評判は残っていない。領地である三河国吉良では名君とされているが、吉良家は旗本で江戸定府であるため、三河国吉良には一度行っただけであり、吉良の人々が吉良上野介の性格を知ることはなかったと思われる。

吉良は塩の産地であり、赤穂もまた同様に塩が名産品であるため、塩が原因で仲がこじれたという説がある一方で、浅野内匠頭が、最初に吉良上野介から朝廷からの使者のもてなしの儀礼を習い、再び朝廷からの使者をもてなす際に、吉良上野介が京に行っている間に勝手を知っているので無断でことを進めてしまった可能性が指摘されており、それが吉良の怒りを買ったという説もある。

浅野内匠頭が大名火消しとして活動していた頃に、江戸で大火があり、浅野内匠頭率いる赤穂藩士が吉良上野介の屋敷を取り壊したことがあった(赤穂四十七士の来ている段だら模様の羽織は火消しの時の装束である)。吉良はそれを根に持ったのではという説もある。

真相は不明であるが、やはり大名火消しは争いの元ということで、八代将軍・徳川吉宗は大名火消しを廃し、代わりに町火消しを創設している。

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