播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡
東京・両国にある吉良邸跡の立て札。浅野内匠頭長矩が江戸城本丸内松の廊下で吉良上野介義央に斬りかかるという刃傷事件が起こったのが元禄14年3月14日。吉良は隠居を申し出るが、当時の将軍・徳川綱吉から、隅田川の向こう、下総国にある本所に隠居するよう申し渡される。両国近辺はその後、江戸で一二を争うほどの繁華街として賑わうことになるのだが、本所はまだ周辺に何もないような僻地。呉服橋にあった吉良邸の周辺に屋敷を置く大名から「赤穂浪士に討ち入られたら当方も迷惑する」との上奏が多かったため、吉良を僻地に追いやったという説もある。また吉良家は足利源氏の血を引く名家で、新田源氏を名乗るものの祖先はよくわからないという徳川家にとっても目障りな存在であり、播州赤穂浅野家は芸州広島浅野家の分家であるため、赤穂浪士に討ち入らせることで、吉良家お取り潰しと芸州広島浅野本家への圧力という一挙両得を狙ったという説もある。
元禄15年12月14日、大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七名が本所の吉良邸に討ち入り、吉良の首を取って雪辱を果たした。
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