同志社墓地・新島八重の墓
新島襄の墓の北隣にある新島八重の墓。揮毫は徳富蘇峰によるものだが、八重の墓では苗字は新嶋という字になっている。敢えて変えたのか、それとも新島襄の墓も倒壊する以前は新嶋襄で、再建する際に新島に変わったのか。とにかく今は字体が違うのは確かである。
新島八重(山本八重)は、会津の生まれ。砲術師範の山本権八の娘であり、幼時より西洋砲術に興味を示したようである。但馬出石藩出身で、会津の藩校である日新館の師範であった川崎尚之助と結婚する。
会津戦争の際は、鶴ヶ城に籠城し、スペンサー銃を手に奮戦。新政府軍に打撃を与えたとされる。体躯はがっしりしており、怪力の持ち主で、石垣の石を蹴り落として鉄砲狭間を作り、敵を狙い打ちしたという話も伝わる。
しかし鶴ヶ城は開城。会津藩は降伏。八重は「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影」という和歌を城壁に櫛で刻みつけたという。
川崎尚之助との離縁であるが、原因ははっきりとはわからないようである。
会津藩降伏後は米沢で暮らすが、死んだと思っていた兄の山本覚馬が生きていると知り、兄のいる京都に一家で移住する。
日本初の女性のための学校・女紅場(丸太町橋西詰め。九条家河原町邸跡)の権舎長(舎監長)となり、この頃に、兄の覚馬の知り合いであった新島襄と出会い、結婚することになる。女紅場は追われたが、襄と共に、同志社の発展に尽力する。同志社女学校の設立にも寄与した。
しかし、女傑ともいうべき性格が災いしたのか、襄が他界すると八重は同志社の関係者と上手に関係を築くことが出来ず、同志社からは距離を置き、看護師となる。看護学校での教育にも携わり、この功績が認められて勲六等宝冠章を授与される。民間の女性に対する受勲は八重が第一号だとされている。
戦場や学校設立のための華々しい活躍もあったが、気難しい性格だったようで、よく対人関係でトラブルを起こしており、余り人から好かれるタイプではなかったようである。それでも八重の葬儀には多くの人が参列し、盛大に執り行われた。
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