法隆寺 桂昌院の文字
元禄7年(1694)のものである。松の廊下事件の7年前、赤穂浪士討ち入り事件の8年前に当たる。
徳川綱吉の母親である桂昌院。名は玉。八百屋の娘という話が有名であるが、本当の出自はよくわかっていない。「玉の輿」の由来ともされるがこちらも根拠に乏しいようである。桂昌院は仏教を厚く信仰しており、多くの寺院の再建に尽力している。
生類憐れみの令制定により「バカ殿」のイメージが強い徳川綱吉であるが、学問好きで儒教の知識などは第一級、大学頭である林家などトップレベルの儒学者をも上回る程であった。儒教を信奉しているだけあって孝行息子でもあり、母親である桂昌院に女性としては最高位に当たる従一位を贈るべく、高家筆頭である吉良上野介を京へ送り、朝廷との折衝に当たらせていた。これにより吉良は江戸に帰るのが遅くなり、朝廷からの使者接待のための準備は、以前にも経験のある浅野内匠頭がほぼ独断で行うことになった。江戸に戻った吉良と浅野の間で感情的なやり取りがあった可能性は高い。
江戸にやって来た朝廷からの使者を饗応しようという正にその時に松の廊下事件が起こる。従一位の話が流れるかも知れない事態に綱吉が激怒したことは間違いない。
結果的には、桂昌院は従一位を贈られている。
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